ドゥルーズ『ベルクソニスム』を勝手に訳すスレ2

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197考える名無しさん:04/04/17 14:03
<a href=186 target=_blank>>>186</a>
198Gilles:04/04/17 19:43
いろいろ事情があってこのスレにもコメントできず、走る取的氏には悪いことした。

「訳者」氏、ご苦労様。「第三の規則」まで到達、おめでとう。

今、原書が手元にないので確かなことは言えないが、>>188【79】について2点だけ。

aspect は、時間ないし持続と対比した空間のことが問題になっているので、「外観」
というより「側面」ないし「観点」とすべきでは?

>>191
ある時間的あり方:原語が une maniere d'etre au temps だとすると、この etre au
temps は、ハイデガーのいう「世界内存在(In-der-Welt-sein)」のフランス語訳である
etre au monde を踏まえている可能性が高い。ドイツ語の前置詞 in ――世界内存在の
「内」と訳される前置詞――がフランス語では(dans などでなく)a になっている。

この関連を踏まえるなら、etre au temps は「時間内存在」ということになるだろう。
とすると、maniere も、ハイデガーのよく使う「様態(Modus)」を意識した語と考えて
いいかもしれない。「時間内存在の一様態」という感じか。

今後もほとんどコメントできないと思うけど、がんばってください。
199考える名無しさん:04/04/18 02:12
お!
Gilles氏も読んでくれているようだ。心強い。
実は俺「ベルクソンの哲学」を買ってきた。
なんで、わからなかったところなどを勝手に質問したりしても
いいだろうか?

まあとにかく俺も、早速読み進めることにしよう。
200考える名無しさん:04/04/19 10:32
>>194
たしかにそうですね。何で思い付かなかったんだろ…

>>198
詳しいコメントありがとうございます。
二つの点に関して、御指摘の通りと思います。

une maniere d'etre au temps のところに関しては etre au monde
というのも一応頭の片隅にはあったものの、
とりあえずは先ず、なるべく普通のフランス語として読む&訳す方が
いいのかなあ、と考えていました。
でも、ドゥルーズの(おそらく)言わんとする所を簡潔に伝えるには、
やっぱりハイデガー的な etre au monde の概念への仄めかしがすぐに分かる
ような訳し方──「時間内存在」──にしたほうが良さそうですね。

>>199
質問は歓迎ですが、私自身に的確な答えができるかどうかは、
あんまり自信がありません…
内容的に突っ込んだ質問だと、むしろドゥルーズ関係の別スレの方が
いいかと思いますが、でも最近はあんまり機能してないみたいですね。

あとそれから、時間の都合の関係で、修正を加えた訳文を掲げ直す
作業は省かせてください。ゴメンなさい。
その分、なるべく先に進むようにします。
201考える名無しさん:04/04/19 10:33
ということで本日の分です。

【81】第1章第28段落(原書24-25、邦訳26-27)の前半部分

 おそらくわれわれは、最も一般的な方法論的問題を解決する手段を
手にしている。プラトンも、〈分割の方法〉を作り上げようとした際にやはり、
一つの混合物を両半分に、もしくは幾つかの線に即して分割することを提案
していた。だが問題は挙げて、どのようにして良い半分を選ぶことができるか、
ということにあった。なぜわれわれの求めるものは、一方の側であって他方の側
ではないのだろうか? それゆえこうした[プラトン的な]分割に対しては、
これでは真の方法ではないという非難を寄せることができたのであって、
というのもこれには「媒概念(moyen terme)」が欠けていて、いまだに
インスピレーションに依存していたからである。

ベルクソニスムにおいてこの難点は消滅しているように思われる。
というのもベルクソンは、混合物を二つの傾向――その内の一方だけが、
時間の中で事物が変わって行く仕方を示すのだが――に即して分割すること
によって、実際にそれぞれのケースにおいて「良い側」、つまり本質の側を
選び出す手段を手にしているである。
202考える名無しさん:04/04/19 10:34
【82】第1章第28段落(原書24-25、邦訳26-27)の後半部分

要するに、直観は方法となる、あるいはむしろ、方法は直接的なもの
(l'immediat)と和解し合う。直観は持続そのものではない。むしろ直観とは、
われわれが自分自身の持続から脱け出ようとする運動、われわれが自分自身の
持続を用いて自分の上位もしくは下位にある(au-dessus ou au-dessous de nous)
他の[様々な]持続の存在を直接的に肯定し認識しようとする運動である。
「唯一われわれの述べる方法によってのみ、観念論と実在論の双方を超出すること
ができるのだし、われわれよりも劣った対象や優れた対象――とはいえまた
ある意味ではこれらはわれわれに内在するのだが――の存在を肯定することが
できる。…[このようにして]望むだけの多くの数の持続が、互いにきわめて
大きな差異をはらむものとして見出されるのである」(PM, 1416-7, 206-8)。
(ただし「劣った」と「優れた」という言葉を誤解してはならない。これらは
本性的差異を指しているのである。)

もし方法としての直観がなければ、持続は単なる心理的経験にとどまることだろう。
また逆に、もし直観が持続と一致することがなければ、直観は先述の諸規則に
対応するプログラム――真なる諸問題や真正の本性的差異を規定すること――を
実現できないことだろう。
203考える名無しさん:04/04/19 10:34
【81】&【82】へのコメント

@冒頭に出てくる「プラトン的な分割の方法」(たしか『ソフィスト』に
出てくる話だったか?)については、ドゥルーズはいろいろな所で論じていますが、
うろ覚えで言うと、『差異と反復』での議論が一番詳しかったように思います。
ということで、詳しくはそちらを見ていただければ、と思います。

A「上位もしくは下位にある」持続、それから「劣った」&「優れた」について。
>>143【69】の箇所で「非人間的なものや超人間的なもの」について述べられて
いた部分も御覧ください。
この辺りの話は、後の第5章で大きく展開されることになりますが、
ドゥルーズのこのベルクソン論が、「ベルクソンをニーチェ化した」という非難を
招くことになる、言わば「問題含み」の部分と言えるようです。

ということで、以上、本日の分でした。
204考える名無しさん:04/04/19 18:08
乙カレー
205考える名無しさん:04/04/19 18:44
参考になります。
206考える名無しさん:04/04/20 20:59
【83】第1章第29段落(原書25-26、邦訳27-28)の前半部分

 そこで、偽の問題という錯覚(l'illusion des faux problemes)に
立ち戻ることにしよう。この錯覚はどこから来るのだろうか? またこれは
いかなる意味で不可避なのだろうか?

[この問題との関連で]ベルクソンが問題視するのは、[第一に]欲求(besoins)、
行動、社会の次元(l'ordre)――この次元は事物の中からわれわれの関心を
引き付けるものだけを引き留めておくようにわれわれを導く――であり、
[第二に]知性の次元――これは空間との本性的な親和性を持つ――、
[第三に]一般観念の次元――この次元は本性的差異を再び覆い隠そう
とする――である。

あるいはむしろ、一般観念といっても多様なものがあり、それら相互の間にも
本性的な差異がある。中には、生物における客観的な類似性に根ざしたものも
あれば、無生物における客観的同一性に根ざしたものも、また最後に、
作り上げられた対象(les objets fabriques)における主観的要求(exigence)
に根ざしたものもある。だがわれわれはすぐさま、全ての一般観念の一般観念を
形成して、諸々の本性的差異をこの一般的なエレメント
(cet element de generalite)の内に溶かし込んでしまう(PM, 1298-1303, 56-64;
『思想と動くもの』岩波文庫 pp. 84-90)。
「われわれは、様々な質的差異を支える空間の同質性の内に、それらの差異を
溶かし込む」(EC, 679, 217;『創造的進化』岩波文庫 p.258)。
207考える名無しさん:04/04/20 21:00
【84】第1章第29段落(原書25-26、邦訳27-28)の後半部分

[とはいえ]たしかにこれらの理由はどれもまだ、われわれの[置かれている]条件
とは不可分の心理的なものである。われわれはもっと深い理由を考慮してみなければ
ならない。
というのも、たとえ同質の空間という観念の内には、われわれを実在(la realite)
から隔てるような一種の詭計や記号(une sorte d'artifice ou de symbole)が
含意されているのだとしても、それでもやはり、物質や延長が実在するもの
(des realites)だということ、それら自体が空間の次元を予示している
(prefigurent)ということ、には変りはないのである。錯覚というのはつまり、
空間は単にわれわれの本性の内にその基礎を持つというのではなく、
諸事物の本性の内に基礎を持っているのである。物質とは実のところ、
諸事物が相互の間でも、またわれわれに対しても、程度の差異しか示さないような
「側面(cote)」である。

経験はわれわれに混合物を与えるのだが、ところでこの混合物という状態は、
本性的に異なる諸要素をただ単に一つにするというのではなく、
むしろ次のような仕方でそれらを一つにすることに存している。つまり、
混合物においては[もはや]、[その混合物を要素として]構成している
諸々の本性的差異が 把 握 で き な く なるわけである。要するに、
一つの視点があり、またそれに加えて、本性的差異がもはや現わ出ることができない
ような諸事物の状態が存在する。真なるものの 逆 行 的 運 動 
(mouvement retrograde)は、単に真なるもの に 関 す る(sur) 錯覚
というだけではなく、真なるものそれ自体に 属 し て い る。
ベルクソンは「宗教」という混合物を静的宗教と動的宗教という二つの方向に
分割しつつ、次のように付言する。すなわち、ある特定の視点に身を置く
ことによって、「実際には(reellement)根本的な本性的差異があるところに、
一連の推移や程度の差異のようなものが認められることになるだろう」
(MR, 1156, 225;世界の名著『ベルクソン』p.432)、と。
208考える名無しさん:04/04/20 21:00
【83】&【84】へのコメント

この段落は、正直な所、よく分からない箇所がイパーイあります。
きちんとベルクソンのテキストを参照すればいいのですが、
あんまり時間が無かったので、とりあえず「訳してみるテスト」という状態です。

訳語のことについてだけ幾つか加えておくと、
「錯覚 illusion」は、前スレ等では「幻想」という訳になっていた
ように思います。
別に深い意味があるわけではないのですが、何となく個人的な好みで
「錯覚」としてみました。

それから、【84】に出てくる「側面(cote)」というのは、
以前に【77】【78】【81】などで「側」と訳してあったのと
同じ語です。

ということで、今日のベルクソニスムでした。
209考える名無しさん:04/04/21 01:17
おつかれ!
210考える名無しさん:04/04/21 11:29
まいどどうも。

【85】第1章第30段落(原書26-28、邦訳28-29)の前半部分

 したがって、錯覚は単にわれわれの本性に由来するばかりではなく、
われわれが住まっている世界にも、われわれに先ず最初に現われる
〈存在[者]の側面(cote de l'etre)〉にも由来している。
ベルクソンはその著作活動の始めから終りまで、ある一定の仕方で進展を
遂げていった。そうした進展の主要な二つの点は次の通りである。
[第一に]ベルクソンにとって持続はしだいに、心理的経験には還元不可能なものと
見られて、[むしろ]事物の可変的(variable)な本質となり、複合的な存在論
(une ontologie complexe)の主題を与えることになる。だが[第二に]他方では、
これと同時に、ベルクソンにとって空間はしだいに、この心理的実在からわれわれを
隔てるフィクションには還元不可能なものと考えられ、空間もまた存在の内に
その基礎を持ち、その[=存在の]二つの斜面の一方、二つの方向の一方を表現する
ものだとされることになる。

ベルクソンによれば、絶体者(l'Absolu)には、形而上学によって洞察される精神と、
科学によって認識される物質という、二つの 側 面 がある(注37)。
ただし厳密に言えば、科学は決して、単にその成功や有効性だけを支えとするような
記号的(symbolique)分野でも相対的認識でもない。科学は存在論(l'ontologie)
に属するのであり、存在論を形作る両半分の内の一半である。
絶対者は差異であるが、差異には、程度の差異と本性的差異という二つの貌がある。
それゆえに、われわれが諸事物の間に単純な程度の差異を把握するとき、
われわれが科学そのものに導かれて世界をこの見地から見て取るときでさえ、
やはりわれわれは一つの絶対者の内にある(「現代の物理学は、われわれが
[見出す]質的な区別の背後に、数の差異(differences de nombre)をますます
明らかにしている…」)(PM, 1300, 61;『思想と動くもの』岩波文庫 p.87)。
211考える名無しさん:04/04/21 11:30
【86】第1章第30段落(原書26-28、邦訳28-29)の後半部分

とはいえこれも一つの錯覚である。ただし、これが錯覚であるのはあくまでも、
われわれが一方の実在的な光景(le paysage reel du premier)をもう一方(autre)
の斜面に投影する限りでのことである。もしこの錯覚が抑圧できるとすれば、
それはこのもう一方の斜面、すなわち持続という斜面の働きによってである。
持続はわれわれに、空間の内に――また物質や延長の内には既に――現われている
ような〈割合(proportion)の差異〉と 最 終 審 級 に お い て 
対 応 す る ような本性的差異を与えてくれるのである。

(注37)PM, 1278 sq., 34 sq.;『思想と動くもの』岩波文庫 p.55 以下を参照。
(また 1335, 104;岩波文庫 p.144 ――知性が「その際に絶体者の[二つの側面の
内の]一面に触れるのは、ちょうど、われわれの意識がそのもう一つの面に触れる
のと同様である…」。)
212考える名無しさん:04/04/21 11:31
【85】&【86】について

コメントと言うよりも単なる私自身の疑問なのですが、それは【86】の最初から
二番目の文に関してです。いちおう原文を掲げてみるとこんな具合です。

Mais c'est seulement une illusion dans la mesure ou nous projetons sur
l'autre versant le paysage reel du premier.

ここでいきなり出てくる peysage というのも(意味として)どうもよく分からず、
premier の使い方も(文法的に)よく分かりません(ってダメじゃん)。

ちなみにこの【86】では、「投影 projeter」や「抑圧 refouler」、
「審級 instance」といった精神分析用語が多用されているので、
もしかすると paysage du premier というのは「原光景」といったような
意味で使われているのかとも思いましたが、
ラプランシュ&ポンタリスの辞典を見ると、「原光景」というのは
フランス語では scene originaire もしくは scene primitive という
言い方をするようです。

誰か御存知の方がいたらお教え下さい。
213考える名無しさん:04/04/21 11:40
この掲示板に私や他の教員、学生に対する誹謗中傷を書き込んでいる者に警
告します。
483の書き込みはその前後および過去の掲示板から私のことを指していること
は十分断定できると思われます。また、622では実名での記載であり、明らか
な名誉毀損です。もし、一週間以内に名乗り出て謝らなければ法的な手段に訴
えます。2ちゃんねるは裁判に負けてからIPをとっていますから、おそらく裁
判所で会えると思います。
君のような人が生命科学部に関係していることは恥ずかしいかぎりです。私も
このような書き込みはしたくありませんが、今後、被害を広げないために必要
であると判断しました。 
東京薬科大学
生命科学部
教授 多賀谷光男
[email protected]
214考える名無しさん:04/04/21 11:58
sage進行でヨロ>>all
215考える名無しさん:04/04/21 13:26
変なコピペキタ━━(・∀・)━━ !!!!
つか下らないからヤメレ
216考える名無しさん:04/04/21 14:42
>>212
だめじゃん
と言いつつおれにも解らね
217考える名無しさん:04/04/21 19:14
この前の【86】までで、第三の規則に関する節は終りです。
そして節が変わって、次の一段落でいよいよこの第1章全体のしめくくりに
なります。


【87】第1章第31段落(原書28、邦訳29-30)

 それゆえ直観は、これら三つ(もしくは[補足的規則を加えた]五つ)の規則
を備えた一つの方法をみごとに形作っている。
これは本質的に、問 題 化 (problematisante)し(偽の問題の批判と真の問題
の案出)、差 異 化 し(切り分けと交叉)、時 間 化 する(持続の観点から
考える)方法である。

しかし、どのように直観は持続を前提しているのか、また逆に、どのように直観は
持続に――存在と認識の視点から――新たな拡がり(extension)を与えるのか、
これを明らかにするという課題がまだ残っている。
218考える名無しさん:04/04/21 19:15
【87】へのコメント

・「切り分けと交叉」
原語では decoupages et recoupements です。【73】も参照ください。

・「直観は持続を前提している…」→【77】
219考える名無しさん:04/04/21 19:16
これで何とか第1章の終りまで辿り着けました。
このまま次の章まで続けていければいいのですが、
私の方は、残念ながら時間的にちょとキビシイ感じなので、
続行できるかどうか分かりません。

誰か次に引き継いで下さる方がいれば、
私としてはここらあたりでそろそろ身を引いて
バックレることにしようかなあとも考えてます。
220考える名無しさん:04/04/21 22:57
訳してる人バックレで

============== 終 了 ===============













ってマズイっしょ
221考える名無しさん:04/04/22 05:04
( ^Д^){気にすんな
222考える名無しさん:04/04/22 05:54
あヴぉわ〜るって何? えーとるって宇宙に満ちてるあれ?

私が自信を持って後を引き継ぎます。
223考える名無しさん:04/04/22 10:17
存在と所有
224考える名無しさん:04/04/23 16:40
存在と(´・ω・`)ショボーン
225考える名無しさん:04/04/23 21:42
だれか続けれー
226考える名無しさん:04/04/23 21:45


================ 終 了 ================
227考える名無しさん:04/04/23 21:48
終わるなっつの
228考える名無しさん:04/04/23 21:56
存在と終了
229考える名無しさん:04/04/24 00:11
持続しまつ
230考える名無しさん:04/04/24 00:52
おフランス語できる香具師はもうこの板には残ってないと思われ
231考える名無しさん:04/04/24 01:08
とりあえず訳者さんは1章終わったんだ。
まずはお疲れと言っておこう。
ありがとさん。
232考える名無しさん:04/04/24 01:14
仏語検定5級のピエっぺに期待
233考える名無しさん:04/04/24 01:28
5級w
234考える名無しさん:04/04/24 01:32
哲学板を代表する名スレも終了か
235考える名無しさん:04/04/24 01:45
もうだめぽ
236考える名無しさん:04/04/24 01:52
やっぱりかなりの人が見ていたんだね。
つーかもう遅いよ。みんなで盛り上げないと。
終わったあとにわいわい騒ぐなんてみっともない。
237考える名無しさん:04/04/24 02:16
>>233
初代の1だって、仏語5級だぞ
238考える名無しさん:04/04/24 13:08
フランシ語できる神降臨しる
239考える名無しさん:04/04/24 21:48
もう氏ぬし
240考える名無しさん:04/04/29 11:03
保守 age
241考える名無しさん:04/04/30 15:20
ふ〜ん ドゥルちゃんだけじゃなくてベルク損もデムパなんだね
ニーチェとかディルタイとか、生の哲学のやつってみんなデムパなの?
242考える名無しさん:04/04/30 20:18
実際ベルクソンが電波だとしても、ドゥルーズのベルクソンで電波だと決め付けられるベルクソン悲しいものだな。
ディルタイ、ジンメルは電波だとは思わん。
243考える名無しさん:04/05/14 21:11
Jacques Derrida, "I'll have to wander alone"

http://www.usc.edu/dept/comp-lit/tympanum/1/derrida.html
244考える名無しさん:04/05/14 22:10
追悼文だっけ。
245考える名無しさん:04/05/15 01:25
ドゥルーズなんてベルグソンよりはるかにメチャクチャだろう。
246考える名無しさん
ttp://d.hatena.ne.jp/nonabelian/20031022#p1
ここの人は割と数学に詳しそうだけど、ドゥルーズよりもガタリを評価してる。