>>315 >反応が無用なものなので、ただ読んでいるばかりでありました。
そういうものなんですか。全然わかりませんでした。現時点では、一度わけがわからなく
なってしまった言語について、もう一度正面からぶつかるための足固めをしているような
感じです。「一度目はあえなく墜落」ってやつです。歯が立たなかった。でも、今度はもう
ちょっとましなアプローチができるかもしれないと思っています。
正直なところ、いくつか覚え書みたいなものは書いてみていますが、本当に難しいです。
言語が人を理解する上ですべての要であるかもしれないと思いつつ、この訳のわから
ない代物にどこからどう手をつけていいのやらと、途方に暮れとるというのが実態です。
今いろいろ気になることがほかにもあって少し気が散っていますので、まとまって本を
読んだり、ものを書いたりする時間があまりとれない状態ですが、また気を取り直して
チャレンジしてみます。
313にも書きましたが、かもめのコメントって結構僕の盲点みたいなところをパッと突いて
くるところがあって、それは本当にありがたいんです。それに、脳が活性化するみたいな
ところもあります。なので、今後ともよろしくお願いするだす。m(._.)m
続き
上に書いたものが言語万能視なら、それに抗うような形の可能性に向かっている
のが、ガテンコちゃんなのだった。
当人の心許なさや「じたばた」をよそに、ここんとこずっと興味津津な観察者で
いるんですが、でもいま、たとえば
>>304にある「言葉」が狭義のものなのかどうなのか、
わからなくなってるのでした。
狭義でないとしたら、そんな可能性はとてつもなく想像つかない!
狭義であるとしても想像はできないけど、わくわくできます。
(わたしの想像力はかなりみみっちい)
考え中さんの考え状態には、お休みしたり再開して集中したりとムラがある
ようですが、そういうのは突然変移が起こりそうでいいなあ、と思います。
突然変移とまではいかなくても、予想外の方向が開けたりとか。
身体活動や状況から乖離した思考は、つねに均された状態で予想の範囲を出そう
にない。いつでも対応できるような思考はその程度だから対応できるのだろう
なあ…
なので中断ちゅうはぞんぶんに中断して、別名ででも活躍してくださいw
お休みも含めての考え中、といえるとも思いますが。
>>319 ここでの「ぞんぶんに」というのは時間の長さを表すものではない、
ということはいわずもながでもないのだろうかどうだろうかわからないので
書いておこう。
>>319 ぎゃー、訂正。「突然変移」→「突然変異」。二度も・・・
僕が去年、「はじめまして」とカキコしてから、もうすぐ1年になるんですね。何だかまだ
半年ぐらいだとずっと思っていて、結局何カ月も「半年」と思い込んでいる内に、1年
たってしまったという冗談みたいな話。それにしても1年ですか……。
>>318 その辺をウロウロし過ぎたからかもしれないけれど、
>>304 を書いた時と、またちょっと、
見えるものが変わってきちゃっていて、「言葉の生態系」って奴を受け入れざるを得ないかなあ
という気分なのです。でも、例えそうだとしても、言葉の訪れによってヒトの身に起こったこと
についてもうちょっと釈然としたい気持ちは変わらずあるので、かもめちゃんのエールは心強い
ぞ。
広義の言葉を、何らかのやりとりと考えると、エネルギーの受け渡しをする光子や電子、分子
の形を変える酵素など、物質の形を保たせる力や、物質の形を変化させる媒体になり得るもの、
までも考えに含まざるを得ない気がして、そうすると、手段がなんであれ、抽象的なもののやり
とりを担うものは、狭義の言葉に分類できるかな、と。
うちの猫は、扉を開けて欲しい時、ガリガリやるんだけれど、扉を開けることができる猫が
一緒に住んでいたとして、その要求を聞き入れて、扉を開けてやるなんてことは無さそうですね。
でも、一緒に住んでいるのが類人猿だったら、要求を聞き入れて開けてやることもあるのかな?
その場合その行動の内実は?
発信者の知らない内実を受け手が理解する。ここに狭義の言葉は介在するかなあ?
>>264 >このゲシュタルトにおける図と地という概念は、僕の中では
>どうしても平面図形のイメージがつきまとっていて
という事ですが、僕から見ても考え中はそんな感じがする。
大事なのは「図と地」の認識ではなくて、「図」と「地」の認識を切り替える
時にそれの「地」になっている「切り替える意識」の「認識」という気がする。
思考にもリズムがあって、淡々と同じリズムで思考する人と、リズムが変わる人
がいると思う。でも意識して変えるのは難しいと思う。
ルビンの壺で言えば、ただ見方が二通りあるだけでなく、黒地に白で壺を描いても
白地に黒で横顔を描いても、同じ「ルビンの壺」になる。
「出来上がり」を見ただけではどちらで描いたのか判らない。
デッサンの練習で、普通は白い地に「黒」で「影(陰)」を描き込んでいきますが、
逆に、黒地に「白」で「光」を描き込んでく方法があるそうです。
これは訓練しないと出来ないでしょうね。
(ちなみに今見ているモニターは「字」ではなく「地」を書いてますね。)
同じ思考のリズムで違う考えをひねり出すのではなくて、
思考のリズムを変えて同じ考えをひねり出してみるとか。
違う経路を通って同じ所へ行ってみる。
言って出来ることでもないと思うけど。
右手で左腕を握ったときに、触覚は普通は「右手で左腕を触ってる」感覚が優位
に働くと思いますが、意識すれば「左腕で右手を触ってる」に切り替えられると
思います。でも意識していないときでも、常に両方の触覚情報が同時に脳に送られ
続けていて、無意識を書き換えていると思う。
微塵の「新しい言葉」が生息範囲を拡大しようとして、
ガテンコの内で「古い言葉」の生態系を荒らし始めた感じがする。
今のところ、「新しい言葉」は領土拡大を狙ってて、
「古い言葉」はそれに抵抗して領土を死守しようとしてる感じ。
国境線では小競り合いが続いていて、領土は流動的。
今のところはどちらも共存は考えていないかも・・・。
停戦ラインは引けるかな?それとも他の道・・・。
虎視眈々と漁夫の利を狙ってる第三勢力もあったりなかったり・・・。
言葉の可能性は他の言葉の可能性を食い潰すかもなぁ。
生き物の生きていける場所は限られているものなのかもしれない・・・ね。
なんて言ってみる。
言語が知覚にもたらすものは、不変項の解体かもしれないと思う。前言語的な知覚は、
それ自体本能的な統合性を有していて、不変項の知覚は、感覚運動系が健常であれば
極めて高度に行われるのであって、ヒトの場合はそのシステムが言語によって解体されて
いると考えればいいのかもしれない。つまり、ハナイカの視覚は対象の形態や色彩を
直覚的にとらえ、即座に擬態することを可能にするほど高度に完成している。ヒトに
あっては、この本能的な感覚統合のプロセスが解体されていると理解すればよいの
ではないか。
この場合、「不変項」はふさわしい言葉ではないみたい。何か別の概念が必要だと
思えます。言語以前的な感覚の健全な機能とでもいうべきある統一性かな? よく
わからない。
しかし、この知覚の解体は、いわば理念化された不変項によって代位され、そのことに
よって、直覚的な高度な知覚を超える精密な近似を可能にしたと考えればいいわけで、
幾何学や数学はそのような人の営みと言えるのかも。もちろん自然に帰れは不可。
以上、単なる思いつき以上ではありませんが……。、
>>326 これとの関連で言うと、人の運動・感覚機能は、本来自然に有していたはずの統合への
アプローチという回路を持つようになりました。それがスポーツや格技、その他の活動の
形式ではないでしょうか。それは、あまりにも人間的な活動として位置づけられる。その
奥義とされるものは、自然との一体性の「回復」なのだろうか? そうではないようだ。
自然の高次の統合と位置づけられるべきなんでしょうね。
言語が社会的であるというのは二重の意味があるようです。言語は個人にとってはまず
外側からやってくる規範であるという側面があります。この規範は、社会の中で通用して
いる言語という意味で規範であると同時に、言語それ自身もまた規範的であります。この
両者は同じことを意味していないと思います。微塵が言うように、言語が一つの「自律」的な
システムでもあるということから考えれば、そのシステムは社会に内在しているようでも
あり、社会から「独立」してもいるように見えます。個々人にとっては、言語は社会に同化
するための学習しなければならない社会的規範の一種であると同時に、「道具」のように
自律性を持ったシステムでもあるという意味での一つの規範なのだろうと思います。微塵が
言う「径路」的な話は、この自律的な規範としての側面の話だという気がします。
>>326 >言語が知覚にもたらすものは、不変項の解体かもしれないと思う
ふんふん。不変項の解体ってのはきっかけでしかなくて、
解体してるそばから、組み立てなおしてるヤツがすぐ隣にいたりして。
解体する速さと組み立て直す速さは必ずしも同じじゃなかったりして。
>>328 >言語が社会的であるというのは二重の意味があるようです。
二重の意味がある(見出せる)のは、それに限った事ではないとオラは思う。
考え中が「二重」の意味を見渡せる新たな視点を獲得したのではなかろうか。
でも、「二重」は「多重」の始まりでしかなかったりして・・・。
「二重丸」の内側の「丸」の意味だと思うのだけど、
「大きい輪ゴム」と「小さい輪ゴム」の二重丸と、
「大きいお皿」と「小さいお皿」の二重丸の違い・・・みたいな。
あるいは、丸の真ん中に棒を引いて二つに分けた図を、トポロジー的に
変形して、偏った二重丸にしてみるとか。ってゆかぶっちゃけ「相対」と「絶対」。
「社会的な言語」の一つには、「君と僕」で使う言語ってことだーね。
社会の中で使「われる」言語とか、君に聴か「される」言語かな。
「言うことをきかされる」ってのが、「従わされる」って意味になってるね。
嫌いな言葉だw
それと同時に「僕が僕に」使う「独り言」の言語があるのかしら。
それが僕の内に「社会」を写し取っていくのかな。
「僕」が「君」に話す言葉は同時に「僕」自身にも聴かせている。
自分で自分に「言うことをきかせる」から、自律的なのか。
でも、これは「僕は自律的だ」と同じくらいの意味だね。「僕は生きてる」とか。
結局、「僕」の二重性か。
「僕は生きてる」と「僕は生かされてる」の二重性とか。
>>329 >解体してるそばから、組み立てなおしてるヤツがすぐ隣にいたりして。
>解体する速さと組み立て直す速さは必ずしも同じじゃなかったりして。
この場合に不変項が妥当な概念でないかもしれないと感じていますが、この言語による
知覚の改変の過程が、「不変項」とギブソンさんによって名付けられたものを生成すると
考える方が妥当かもしれません。この生成のプロセスが、ヒトが人になるプロセスでもあり
言語化のプロセスでもあるわけです。
ヒトの乳幼児は、まず社会的には非言語的な存在として生まれます。これは、岸田秀の
いう「本能が壊れた」状態(というよりは、本能が未組織な状態かな?)ですが、そこから
活動―言語的に自らを組織化していくわけです。本能が言語化され、フェティッシュ化され、
フロイト的な多形倒錯の世界に入っていくことになるということでしょうか。
>二重の意味がある(見出せる)のは、それに限った事ではないとオラは思う。
>考え中が「二重」の意味を見渡せる新たな視点を獲得したのではなかろうか。
これはそうなんでしょうね。直接には微塵の生きている言語のパクリですが、言語が
社会的な生成物であるということの意味をもう一度考え直してみたいということです。
>>330 言語の自律性ということについては、社会や個々人の意思から「独立」しているという
意味で考えています。その中身は、具体的にはコミュニケーションのプロセスで変容
していくということだと思います。直接には、
>それと同時に「僕が僕に」使う「独り言」の言語があるのかしら。
>それが僕の内に「社会」を写し取っていくのかな。
>「僕」が「君」に話す言葉は同時に「僕」自身にも聴かせている。
>自分で自分に「言うことをきかせる」から、自律的なのか。
こんなことも間違いなく自律性の一つの根拠でしょうが、コントロール不可であると
いう意味で、僕たちの意思からは「独立」していると思います。
そして、一たん変容してしまったものには、人は不承不承でも従うとこになるのでしょう。
若い内は、言語の新規性や可塑性ということに人はとても敏感で、目の前で新しい
言語がつくられ、自らもそれに参与していることに喜びを覚えるもののようですが、
「大人」になると、その辺が変わってくるようですね。「日本語が壊れていく」とか言って
嘆くようになるのも、その一つかなw
>>331 >この言語による知覚の改変の過程が、「不変項」とギブソンさんによって名付け
>られたものを生成すると考える方が妥当かもしれません。
そんな感じかも。個人的な感じ方ですが。
学問的なレベルの話は難しくてデキナーイw
>>332 >言語の自律性ということについては、社会や個々人の意思から「独立」しているという
>意味で考えています。その中身は、具体的にはコミュニケーションのプロセスで変容
>していくということだと思います。
これは、なんというかな、「今となっては」ということだと思うのです。
以前は、言語を「切り離して」観れるだけの眼を持ち合わせていなかった。
解像度でもいいし、メモリの容量でもいいけど。
今となっては、「ああ、言語ってそういうものじゃん」って感じで、
ここで、もう一歩踏み込めば(踏み出せば?)
言語って、「今となっては、『ああ、言語ってそういうものじゃん』って感じ」
に「成るモノ」だと思う。
まだ、そう成ってない人にとっては「そうではない」
「これからそう成るかもしれない(し、ならないかもしれない)」モノ。
ここにも二重性ね。
「君の言葉」と「僕の言葉」の間に、「君と僕の言葉」を見出せるようになれば、
そこで、ふと「地」に意識を切り替えれば(これがなかなかに難しい、こういう時
「てゆーか」を発動させると便利)、
「君のでも僕のでもない言葉」を見いだす事が出来ると思う。
「君の言葉」と「僕の言葉」(コミュニケーション)から分かれ生まれたとも言えるし、
始めから在ったとも言える。「図」が先か「地」が先か。みたいな。
「独立」を宣言すれば「独立国」なのか、他国に承認されて初めて「独立国」なのか・・・
「自己組織化」っていう概念を「出来上がった形」で受け取ってしまった人は、
「自己組織化」を体感できないよなぁと思う。
>>332 制御できなくても、何かしらこちらが能動的になれるようであるところが、小憎たらしいところ
ですね。
変化を与えることができても、こちらの意図とは違うものになっていったりして。
> そして、一たん変容してしまったものには、人は不承不承でも従うとこになるのでしょう。
「不承」という自覚があるならまだいいなあ、と思います。
そのときは気づかず、あとからわかればまだいいほう、という変化がありますよね。
「自明のものごと」というレベルの変化、考え方ものの見方の基礎の変化で、気づくと
あれまー、となります。
こういう変化を察知できて、さらにはこちらから変化を与えられれば、すごいなあ。
>>333 > 言語って、「今となっては、『ああ、言語ってそういうものじゃん』って感じ」
> に「成るモノ」だと思う。
「成る」は「気づくようになる」で主体は人間だと読めるんですが、もちろん主客の関係なんて
相対的ですよねw でもそのように読んでみたいw
なんだか、「そうか、子どもも一個の独立した他人だったんだ」と気づく親、を連想してしまいました。
そして、自分で思いついたこの喩えの危険性を少なくするために手を加えると、
この場合の他人とは文字通り他人で、もしかしてよそから来た子? ていうかそもそも子どもじゃない?
という気づく、となるのでした。ならなかったりして。
test
>>309 言葉ってのは決して甘いだけのモノではないと思うんだよね。
人を生かすことも、殺すことも出来るモノだと思う。
脳に働きかける力ってのは侮れないと思う。
言語の可能性をどこまでも追求するのもいいけど、それはもしかしたら、
言語依存症、言語ジャンキーへの道かもしれない。その危険性は挙げておく
べきだと思う。征くなら覚悟が必要な道だと思う。
率直な感想として、微塵側の言語の世界は常軌を逸してると思う。凄いと思う。
覚悟のない者が興味本位で安易に踏み込むべき世界ではないと個人的には思う。
語るべきでない言葉ってのもあると思うし。
空海が真言を密教にしたのもアブナイからだろうし。
と、思ったことを言っておこう。
>>336 >なんだか、「そうか、子どもも一個の独立した他人だったんだ」と気づく親、を連想してしまいました
うん。親子の関係は想定して書きました。
言葉と(人)の関係を、自律している(していく)モノとの関係として捉えてる訳だから。
>「成る」は「気づくようになる」で主体は人間だと読めるんですが、もちろん主客の関係なんて
>相対的ですよねw でもそのように読んでみたいw
「言葉」を「子供」に(あるいは親に)置き換えて読んで貰えれば分かりやすいと思う。
親は「子供ってそういうモノじゃん」って「気付くように成る」だろうし、
子供は「気付かせるように成る」のだと思う。
親は親に成っていくモンなんじゃろな、でも、成りにくい時代なんじゃろな。
思うが多すぎw
>>338 ほとんど異論ないなぁw
ぼくは常軌を逸してると思います。
だから「こっちへおいでよ」とは誘わない。
ただ、ここからしか見えないことがきっとあると思うから、訊かれたことには張り切って答えますw
見えないものを「隠されたもの」と考えると「オカルト」の世界になりますねw
見えないものを探究するというのは、前のA=B+CからいけばCの世界を見ようとする
ことに該当すると思うのですが、いきなりCの世界に飛び込むとやばいという話ですね。
今、現象学の入門書を読んでいます。これは直接には見えないものの話ではなくて、
見える世界の成り立ちをありのままの形で把握しようとする哲学だと思うんですが、
結局はBの世界をきちんとつかむことを通じて、それとの連接関係の中で境界領域を
推測し埋めていくという作業、つまりジグソーパズルを地道に進める以外に早道はない
と考えるべきなんでしょう。そこにうまくヒットすれば、世界の見えががらっと変わると
いうことも起こり得ると思いますし、
時々僕が先祖返りのように世界の「唯物論」的な基礎を確認したくなるのも、足場が
崩れることを恐れているからだと思います。Cの世界は、間違いなく広大で深遠なので、
そこに無鉄砲に突っ込んでいくことはあまりにも危険がいっぱいで、、確実な手がかり
なしにはできないことだと思います。それへの手がかりが言語の成り立ちにあることは
間違いなくて、そう考えればやはり言語の世界に入り込んでいく以外に手はないという
ことになります。
それにしても、僕はCの周囲ではなく言語の回りをぐるぐる回っていますね。一向に言語
そのものに食いついていけないです。いま一つ具合がよろしくないという感覚が残って
います。何だかな〜。
現象学スレを読んでいたら、おすすめの中に「これが現象学だ」(何、この変なタイトル。
本屋で見たら買ってなかったよ。)というのがあって、買い求めて読みました。これが、
意外におもしろかった。竹田青嗣のものよりもずっとおもしろかった。著者は谷徹という
人で講談社現代新書。あっちこっちで僕の問題意識と引っかかるし、おまけに今まで
読んだどんな現象学関係の本よりも内容がすっきりしているように思った。というわけで、
めったに本をすすめない僕が読んでいない皆さんにおすすめ。これはイイ!
本文中にもちらっと出てくるんですが、アフォーダンスの考え方と重なる部分が少なく
ないと思う。僕にとってはちょうどいいタイミングで、とてもよい本でした。今後の議論を
進めるのに役に立ちそう。
>>343 目次を見てみましたが、おもしろそうですね。
まず思ったのは、同じ新書に似たようなタイトルの本が・・・w だったりしますが。
余談的に本の話ですが、いい本に出会えると幸運を感じますよね。
わたしのここ半年くらいの大ヒットは、『論理哲学論考を読む』野矢茂樹でございました。
そして先日、『生態学的知覚論』が古本で手に入ってしまった・・・
弱気に読みはじめたいと思います。
>>344 「これが……だ」というのは、講談社現代新書の書名のパターンの一つなのかな。
筆者はこの書名にやや抵抗があったのではないかと思われるのですが、編集に
押し切られたのかもw
読み終わって大して時間がたっていないので、まだ僕の中ではこなれていない
ような感じですが、そのうちこれに関連して何か書けると思います。「不変項」とかw
「不変項」?
「これが現象学だ」の中にさいころの話が出てきます。これを網膜像として考えれば、
「平行四辺形」や「台形」の集まりということになるのでしょうが、僕たちはそもそも
そのように知覚していないと思います。感覚を分割して、それらの幾何学図形に
還元するのは、二次的な作業だと思います。僕たちは、まず動くことを通じて世界を
知覚します。その中でさいころは最初から立体だし、「立方体」に近いものとして
知覚しています。もちろん「立方体」も二次的な抽象概念だと思います。つまり、
僕たちは最初から立体としてのさいころを知覚しているわけです。この対象のあり方を
ある面から抽出したのが「不変項」かもしれません。不変項以前に、僕たちの知覚は
さいころを知覚しているわけで、この知覚のあり方は、現象学によってもまだうまく
説明されていないような気がします。生態学的知覚論でも同じことではないかと。
ちょっと別の言い方をすると、現象学も生態学的知覚論も間違いなく同じことを見ている
のだと思います。しかし見ている視点が違う。同時に、双方とも同じ何かを見落として
いるのではないか。これは言い過ぎかもしれませんが、そんな感じがします。
知覚のベースは身体だという考え方があります。僕も多分そうだと思っています。
アフォーダンス理論も現象学も、ともにそういう考え方が基礎にあると思います。身体の
活動を通じて僕たちは世界を甘受しています。それを丸ごとありのままに理解することが
できればいいわけで……w
↑甘受→感受
>>346 >これを網膜像として考えれば、
>「平行四辺形」や「台形」の集まりということになるのでしょうが、
網膜像を見るにはやはり網膜を通さなければいけないわけで、
すでに入れ子構造になってますね。
>僕たちはそもそもそのように知覚していないと思います。
「そもそもの知覚」ってのが何を言わんとしているのか良く分からない。
「僕たち」と言うけれど、他人の知覚を、他人の知覚のまま感じることは
不可能ですよね。
(それでも、ある程度同じには感じられることもあるとは思うけど)
>僕たちは、まず動くことを通じて世界を知覚します。
「知覚」も運動の一部でしかないし、「思考」もそうだと思う。
筋肉細胞か神経細胞かの違いでしかないと思う。五感もそれぞれ独立してるわけではないし。
>その中でさいころは最初から立体だし、「立方体」に近いものとして
>知覚しています。もちろん「立方体」も二次的な抽象概念だと思います。
これも良く分からない。考え中個人の知覚なのだろうか?
「最初から立体」ってのは物心ついた時の事?
生後間もない赤ん坊の時の視覚はぼんやりとした明暗の違いしか分からないらしいし。
母親の顔の明暗だけ拾った絵に反応するらしいよね。
俺個人としては、立体の(に限らず)視覚的な知覚は年代と共に変化してます。
でもそれが分かるようになってきたのは、ある程度大人になってからだな。
極論を言えば「同じ知覚」は二度として起こらないと思います。ハード自体書き換わるから。
遺伝による資質というのも大きいのだろうけど、環境による訓練も大きいと思う。
読めるけど書けない漢字ってありますよね。読むことは迷わずに出来るのに、
書こうと思うとどうにも思い出せない。認識というのはとても曖昧だと思います。
「立体を立体だと認識出来ている」ということも同じ様なもので曖昧だと思います。
書く訓練をした「漢字」と読む訓練しかしていない「漢字」では、
見え方も違うと思います。知覚は行動(運動)とは「切り離せない」ですね。
これが分かってくれば、空間の知覚が三次元から四次元に移れると思う。
>身体の活動を通じて僕たちは世界を甘受しています。それを丸ごとありのままに理解することが
>できればいいわけで……w
それを理解するには、いくら本を読んでもダメでしょうw体を動かさないとw
中国拳法とか、ヨガとかにはある程度そういう訓練法が体系化されてるのだろうと思う。
けど、危険な部分もあるだろうね。オカルトとの区別が難しい。
>>348 知覚の差異という問題は確実にあるわけで、そこに三角形や円といった観念が
「普遍性」を持つと考えられてきた根拠もあるような気もします。しかし、ここで
言いたいのはそういうことではありません。僕たちが(というときに想定している
のはこれを読んでいる人です)さいころを見ると立体に見えるわけで、平行四辺形
や台形が寄り集まったものには見えないという話で、これは「これが現象学だ」の
中に書かれていた例の一つです。「立方体」に見えるというのも言い方としては
乱暴ですが、厳密な話をしているわけではないので、まあ堪えてくださいw
平面図形ではなく、立体的なものとして見えているということを言いたいわけです。
個体発生の過程ではどのように知覚が展開してきたのかということは別の問題と
してあると思いますが、現時点では大人の知覚について話をしています。知覚が
どのように形成されるのかというのは、発達心理学や発生的認識論のような話も
含めて大変難しい問題だとは思うのですが、そこはちょっとまだ……。
>>349 結局は身体の問題になるというのは間違いないと思います。ただ、それだけ言うと
「行」の問題に還元されてしまうので、それは避けたいです。行もまた言語に媒介
されているわけで、そこに言語化された人の知覚と行為の問題もあると思って
います。この辺はおっしゃるとおりヨーガなどの話にもなると思いますが、具体的には
何も知りませんので、とりあえず保留ですw 「気」とか「波動」とか「オーラ」とか、
いろいろあるようですが、僕にはどれもまだ理解できませんので、お話にならないと
思います。
>>350 >平面図形ではなく、立体的なものとして見えているということを言いたいわけですか?
立体感、奥行き感みたいなことを言っているのですね。
網膜像という平面(というより球面だけど)を介しているにもかかわらず、ということですか。
脳内で「立体」に構成してるわけですね。反復学習により脳が「立体だ」と思いこむのだと思う。
一つには両眼視差による立体感があるでしょうけど、片目で見ても、立体は立体に見えますね。
ブラウン管やスクリーンに写った像でも立体的に感じている。絵でも。
割と始めから例えば「サイコロは立体であるはずだ」と決めつけて見てると思う。過去の経験から。
サイコロでも真っ正面から見ればただの正方形にしか見えないですね。真っ正面からみた立方体と
正方形の区別は付かないと思う。或いは半球面と球の違いとか。これらは、自分が動くか対象を
動かすかして視点を変えてみない限り、区別が付かない。
偵察衛星から見た建物とかも、限りなく平面的になりますね。角度差が(少)ないから。
自分が動き回る、相手を動かすという行動と視覚をリンクさせて学習した経験がないと
空間認識が出来ないというのは、動物実験でも確認されてますよね。アメリカで部屋に閉じこめられて
育った少女が、動くブランコや転がるボールに全く反応しないってのテレビでやってたな。
「幾つかの違った角度から見た像を一つにまとめて構成する」訓練をつまないと立体的な知覚は出来ない。
無意識の知覚は既に空間と時間を相対化していますね。
ピカソがやったのはまさにそれなわけで。
例えばある人の顔をその人の顔と認識するには正面、横顔、後ろから、上から下から、
時間をかけてぐるりと回ってみなければちゃんと立体として認識できないわけで、
それを脳が(というか体が)ひとまとめに構成して認識してる。無意識に。
これを意識し始めると見え方が変わってきますね。フレーミングが空間の切り取り方
だけでなく、時間の切り取り方の問題にもなってくる。時間も多面的になってくる。
ふと、脳の中のホムンクルスの顔の部分が上下ひっくり返ってるのは、
網膜像が上下ひっくり返ってることと関係あるのかな?と思った。
関係ないけど、テレビでマギー審司が、手に持ったビーフジャーキーを手をパッと開いた
瞬間に消す手品(指の甲に貼り付けてるだけだけど)を、犬の前で見せたら、
犬は餌を投げたと思って必死に廻りを探し出すのが面白かった。
臭いで気付きそうなもんだと思ったのに、犬も視覚で騙されるんだな。賢いw
>>351 人でも動物でも、身体を使って動くことが前提ですべてが成り立っていると思われます。
その意味では、発達と学習というプロセスをへて外界を知覚するのだということは、その
とおりだと思います。形の知覚も、単に静止した対象を知覚するのではなくて、常に動的な
関係の中での知覚として成り立っていると思います。そして間違いなくそのように感覚は
できていると考えます。例えば正方形の紙が机の上に置いてあるとして、それを直観的に
正方形と見る能力は、一面では生得的な能力であると思います。生得的ではあるが、
運動を通じての発達・学習によって獲得される能力なのだろうと思います。正方形という
言い方よりも、真四角と言った方がいいのかな。正方形というのは抽象的な観念ですから。
真四角も同じようなものですが、経験的に得られた真四角という観念と、正方形とは違う
ような気がします。抽象度の差でしょうか。
何が言いたいかというと、真四角にしても、「立方体」にしても、それはまず観念以前?に
「不変項」として知覚されているだろうということです。この場合に「不変項」という言葉が
適切かどうかはちょっと自信がありませんが。
>>346 現象学もたぶんアフォーダンス理論も、ありのままを記述しようとするものですよね。
ありのままっていうのはここでは、最大公約数的な世界の見えのことですが。
それを記述するとは、たとえば、わたしたちにあるはずしがたい「バイアス」を、それが
「真の」見えを妨げるからとかなんとかいって退けようとしたりしないで、
ただそれがどのようなものかを記述するということです。
それでも、何か「見落としている」といいたくなることもありますね。
それに、そういう記述的態度ではなくて、たとえば不変項なら、それを必然的なもの
ではなく可能的なものとして扱おうという態度もありまして、このスレはそっちの
傾向できていると思います。
自明的なそれに自覚的になってみる。無重力で長い時間を過ごしたら不変項は変わるぞ、とか。
機械タンのスレに物理屋さんが来て、これまでと全く違った局面が開けました。機械タンが、
この危機にどう対処するかで、機械スレの未来は決まるでしょうね。それとも、何事も
なかったように「超ひも理論」に基づく機械的唯物論がまた主張され続けるのでしょうか。
かもめちゃんのおかげで迷子にならずに済みました。ありがとう。
>>355 まだ、物理屋さんの登場のあたりしか読んでいないのですが、物理屋さんは機械タンとは対立
していないし、別に対立しようがないと思うのだけれど、まだ読んでない部分で、どちらかと
いえば自分側の人間である物理屋さんに何を血迷ったか機械タンが論陣を張るのかしら?
私個人としては、あそこに登場する方々の中で、どなたが哲学に精通しているのかの方に興味が
あるなあ。哲学の知識が少ないから、誰が哲学的な立場で真剣に議論しようとしている人なのか、
さっぱりわからなくて…。
では、続きを読んできま〜す。
続き読みました。機械タンがわからなくなったよ。何に固執しているんだろう?
でも、おかげでようやく分かったことがあります。科学は観測できないものは扱っていないから、
その導き出す結果をもってきて、こんなに上手く説明できているのだから科学の手法によって観測
できないものは存在しないって言うのが本末転倒なのだね。
だから、例え機械タンが現時点で最も上手く説明できていると判断される仮説をそこで採用され
ている解釈に忠実に引用できる能力を備えており、それで自論を補強していたとしても、同じこと
だよね。
自分が「ん?」って思う自然科学者の世界観や脳観には、すぐに「観念的な嗜好混ざってんじゃ
ん」って思うくせに、自分が好きな唯物論に基づく決定論を特別扱いしていたな。
そう思うと哲板に来ている限り、物理屋さんの物理屋さんとしての正しい姿勢につっこみが入る
のも、わからんでもないですね。物理屋さんは、怪しい知識が堂々と飛び交っているのを目にして、
黙っていられなくなって正しにきただけだから、そんなとこつっこまれても困惑するだけだろうけど。
機械タンは、本気で議論する気は最初からないんでしょうね。自説を議論と無関係に
展開するだけで、突っ込まれたときは反論するけれども、その内容がいつもとんちん
かん。機械タンがらみで有意義な議論が展開されているのを見た記憶がない。
むしろ、機械タン寝てから後におもしろい話になったことが何度もあるわけで、それを
期待している面もあります。それにしても、現在の展開はひど過ぎますね。機械タンが
なぜああまでしてスレに執着しているのか理解できません。レクリエーションなの?
>>355 機械スレ、グダグダですなw
>機械タンが、この危機にどう対処するかで、機械スレの未来は決まるでしょうね。
ノンノン。
全ては始めから決定されてるのよん。
>>358 「機械タンは狂言回しがやりたいのかなぁ」と、始めの頃は思ってたけど、
どーもマジっぽい?最近はよくわからんw
自演厨が多すぎて、どれがオリジナル機械だかわからんw
あっちゅー間に次スレに移行しちゃったね。でも、機械タンではない人が立てたみたい。
こんな事態を許すのか、機械?!どうする機械!ここで踏ん張れなければ今まで頑張った
意味が無いぞ機械!
私が唯物論に基づく決定論に傾倒するのは、自分の実感に一番しっくりくるからです。
自分の正体が物質ではない自由意志だと悟れたなら、なんでこんな不自由な肉体などに
しがみついていようか。世界のほんの一部のこんなに狭い幅に調節されて安定した系だと
思えるのに、違う見方ができる人にはそこに何が見えているのだろう?
機械スレをそれなりに読んできた者としては、機械タンの論法のいい加減さは
それなりに理解していたんだけれども、かといって彼の確信犯的レトリックを
食い破れる者がいなかったということも事実で、それが機械タンスレが存続
してきた理由だと思う。今回の件は、機械タンの側に明らかなミスがあって、
ああいう展開になりましたが、ミスっていなければ、大した問題ではなかった
ようにも思えます。やっと気づいて方向転換を図ろうとしているようですが、
成功するかどうか。
>>361 >かといって彼の確信犯的レトリックを
>食い破れる者がいなかったということも事実で、
「事実」と言うのはどうかなぁ?客観的(間主観的)には食い破られまくりだと思うけど。
>それが機械タンスレが存続してきた理由だと思う。
「食い破れる者」ってのが、機械タソを納得させるなりへこませるなりして、
「もう続けなくていいや」って思わせる事の出来る者の事なら、その通りだと思うけどw
「確信犯的レトリック」が「信仰の告白」のことなら、誰も食い破れないだろうね。
機械スレが続く理由
1.機械タン自身が止めないから。
(1対多数であそこまで頑張るのは凄い。打たれ強い。)
2.凄い勢いでレスが付くから。
2−1.機械タンのキャラが面白いから、いじりたい。
(それこそ、こんな所で「機械評」が出てくるぐらい)
2−2.機械タンの蒔いた餌(テーマ)が、多くの人が食いつかずには
いられない性質を持ったものだから。
(「信仰」に関わってるよね)
3.決定されてるから。
(運命・・・)
>>360 >私が唯物論に基づく決定論に傾倒するのは、自分の実感に一番しっくりくるからです。
「自分の実感」に「しっくりくる」ってゆう理由が素直でいいなぁ。説得力がある。
全てが決定されてるのなら、傾倒するかしないかも、しっくりくるか否かも、
これからもしっくりし続けるか否かも(ry
>自分の正体が物質ではない自由意志だと悟れたなら、なんでこんな不自由な肉体などに
>しがみついていようか。
「ガテンコ」は「物」なの?
「(不本意ながらも)不自由な体にしがみついている(物ではない)何モノか」
=「ガテンコ(の正体の少なくとも一部)」
と、言っているようにも聞こえるよ。
息を吐く度に、「CO2という物質」は俺の体から離れていくらしいけど、
「俺が離れていく〜」とは思わないな。どうやら、それには「俺」がしがみついてるとは
俺は思ってないらしい。
自分が自分の体だと思っている「モノ」を構成している物質なんて絶えず入れ替わってるらしい。
俺は俺が「物」だとは思ってない、つーか思いたくない。
欠かせない「一部」だとは思ってるけど。今のところ。
>「確信犯的レトリック」が「信仰の告白」のことなら、誰も食い破れないだろうね。
これだね。ここのところが微妙に疑わしい気がするのです、どこまで本気なのかな
というところがw
>>363 例えば、音は「物」から生まれて、「物」を伝わって、「物」のかたちで私に届くでしょ。
音は「物」そのものではないけれど、「物」の性質上生まれてきているものだよね。
それとか、単体のエネルギーというのは無い。高低差があるところに、エネルギーがある。
エネルギー自体はなんなんだか本当はよく分からないけれど、ある。
例えば、意識が物と全く別の組成だとしたら(ところでその場合の意識って単一の何かだと
考えている人が多いのか、何かの複合体だと考えられているのか、どっちなんだろう?)どう
いった手段で交感しているのだろうか?なんでまた結びついているのだろうか?(という疑問が
自由意志←意思が肉体に留まっているのだとしたら、自らしがみついているくらいしか理由を
思いつかないのだけれど、もし私がそうだったならそんな選択は絶対にしないという
>>360の
記述になりました。)
私は、物すげい!っていつも驚嘆しているからね、物の状態の複雑な絡み合いから、意識が
編み上げられてる、って考えにちっとも違和を感じないんだ。
その、「物の状態の複雑な絡み合い」って具体的になんだよ、どの部分でどういう仕組みで
起こってるんだよって言われると、答えられないんだけれど。どの部分で起こっているのかは、
近いうちに解明されると信じています。この考えが本当だったら勿論特定可能なはずだからね。
そして「ガテンコ」を形造っているのは、勿論一個一個の物質でもあるけれど、それ以上に
それぞれの物質が持つ性質だと思っています。だから自分が自分の体だと思っている「モノ」
を構成する常に新旧交代していく物質が、そのつどだけどいつも私。