プロキシー制限にひっかかって、前スレも600番台で終わってしまいました。
三本目もよろしくお願いします。
酒木保という臨床心理学者が、「自閉症児には『そこ』という概念がない」という説を唱えていた。
別冊宝島のインタビューで読んだだけで、さわりしか知らないのだけれど、非常にインパクトが
あったし、経験と照らし合わせても納得するものがあった。
んで、我田引水して考えてみた。
「ここ」と「あそこ」はおたがいを対概念として、セットになって生まれてくる。けれど、「そこ」に関し
ては、易々と生まれてこない。「そこ」は「あそこ」の程度問題ではなく、「ここ」―「あそこ」ラインと
同じ次元には存在しない。「近いあそこ」でも「遠いここ」でもない。「そこ」は侵入と受容の境界で
あり、言わば「ここ」と「あそこ」の同一視から生まれるメタレベルの境位である。
この視野は、人称にそのままスライドできる。
「一人称」―「三人称」ラインと、「二人称」は次元がちがう。
「自人称」「対人称」「他人称」と書き換えれば、もっとはっきりする。
「一人称」と「三人称」が存在するとき、両者を同一視することによって、「二人称」が生まれるので
ある。
5 :
考える名無しさん:04/01/12 19:10
>1さんとは別の角度の変態ではありませんよね
=職業右翼。
7 :
考える名無しさん:04/01/12 19:17
>1さんがスケベなのはケツの角度の向け方ではないですよね
>微塵
うぃっす。新スレ、乙でし。
何かいろいろ来てますね。
ゆっくりやらせてもらいます。
9 :
考える名無しさん:04/01/12 21:30
>>9 どなたかが親切に立ててくれたスレがあるみたいで、そっちと重複してますね。
こういう場合はどうすればいいんでしょうかね。
ごめんなさい。あっちの1です。あっちの削除依頼だしてきます。
>>11 あ、どうもでつ。よろしくお願いします。
そんでもって、こっちもよろしくお願いします。
って、勝手にいろいろ言ってますが、これでいいですね>微塵
出してきました。失礼しました。
>>12 いいですw
>>13 お世話さまでした。気付きませんでしたょ、すでに立ってるのw
分岐点がある訳ですね。
新スレでこんにちは。
長文を控えてるつもりでも、そもそも基準が違うのですね・・・
>>3もすごく刺激されるんですが、何か書けるようになるにはまだまだ考えなくちゃいけないです。
で、前スレになってしまったんですが
>>698、
これ自体が「星系間スケール」による語りであるなあ、と思いながらまた個人に引き戻して、
ああ自分は共同体なんだと気づきました。
わたしはその一部で、その共同体のダイナミズムの推移を、やっぱり「リアルタイムで補足」
することがほとんどできていない。
共同体を構成する一つ一つの動きを制御することは、なおさらできていない。
ここでできていないことをしたいと望んでいるわけですが、それは、共同体を専制的に統治
したいわけではなくて、やはり、現状ではいくらなんでも死角が多すぎるから、せめて、より
クリアに見渡したい。
>>17 常に2つの面があると思います。それはほとんど区別などできませんが、でも明確に2つの
面です。一面では、僕たちは常に時代の子ですし、そうでしかあり得ません。どんなに努力
しても、僕たちは時代や社会を抜け出すことも、超越することもできないと思っています。
これは間違いないことと思ってきました。ですが、同じことにはもう一面があって、そういう
なかでも僕たちは、単に時代の子ではないということです。
人間が時代という場所の中でしか人間にならない以上、それでしかあり得ないのですが、
同時に、時代の中で人間になるわけですから、人間という存在が抱えている歴史を貫く
課題とでも言うべきものに(いい言葉ではない)取り組まなければならないということです。
これは、時代と場所を問わず、すべての人がぶつかる問題であって、これを避けて通れる
人はないいという考え方を僕はします。この面では、僕たちは普遍的な課題を常に与え
られていると思っています。それを何と呼ぼうと、確実にそれは僕たちをとらえ、そして
いつも問いかけてきていると思います。宗教も哲学も全然進歩しないというのは、そのせい
ではないかと思います。(言い過ぎかもしれません)人間の「本質」なんて変わらないけど、
その「本質」は時代の中にしか存在しないとでも言えばいいのかな。うまい言葉がありません。
>>18 あれ、読み直してチェックしようと思ったら、なぜか送信してしまった。
ちょっと舌足らずな言い方で申し訳ないです。まだ、きちんと言えません。
かもめさんのレスに対する的確なコメントになっていないよね……。
あっちの1さんもカキコしてくださいなー。
>>3を思いつきで書いて、だんだん不満になってきた。
往生際悪く補足ーw
「あそこ」にも「ここ」があることを認識することによって、「ここのここ」と「あそこのここ」との
あいだに「そこ」が成立する。
そのとき同時に、「ここ」が、「あそこ」にとっての「あそこ」であり、「あそこのここ」にとっての
「あそこのここ」であるという布置が会得される。
背中をかいてもらうときに、かゆみが癒される内面の感覚を参照しているにも関わらず、
私達は「ここここ!」と言わずに「そこそこ!」と言う。
自分の「ここ」が誰かの「あそこ」であると知ることが、「そこ」の領域を要請する。
訂正でなく補足でよかった。
人称にスライド、というのがたいへんなるほど!でありました。
>>3
「わたし」と「あなた」が話している場で、そこにはない第三者が「それ」と呼ばれることがある。
そのとき、指している対象が相手に既知が未知かで、「あれ」といったり「それ」といったりする。
一部の外国語と日本語とでは、この際の「それ」と「あれ」の使い方が違う。
たとえば日本人は、相手も知ってる人なら「あの人」、はじめて話題に出した相手の知らない人は
「その人」。
「あなた」にとってはじめてなものを「あなた」に委ねて、既知なものは共有する。
これが外国では逆らしい。
相手にとってはじめてなものは「わたし」が持ったままで、既知のものはそれぞれで持つ。
とこんなことを考えました。
>>24 ああ、それ、両方の態度にかわりばんこに感情移入してみると、気持ちいいね。
きれいな鏡像になっていて、絶妙な対抗反復セットだ。
あけおめ。ことよろ。
中道、瓦重構造。
境界線の設定はデジタルにしかできないヨン。
>>26 いらっさい。
そこをもうちょっと詳しく!w
>密らー
あめ。ころ。
デジ?
何で?
>>22 非常に面白い話なのだけど、考え出したら結構深くなってしまったのだけど、
今は言葉があまりまとまらない。ご無沙汰です。
なんつーか、微塵の説明はいまいちピンと来ません。後付っぽいというか。
「ここ」と「あそこ」が対概念ってのが、独り言(自省)を覚えてからの、
後付っぽいというか。
なんつーかオイラの感覚では「これ」「それ」「あれ」は、
「ストレート」「カーブ」「シュート」みたいな感じで、セットではあるけども、
「ストレート」−「カーブ」ラインに「シュート」は無いと言われても
はあ?って感じです。言語観が違うのかな?
それぞれ、身体的に教わった独立した投げ方って感じがする。
考えはじめると、「ソレって言うけどドレよ?」ってなって来て面倒くさそう。説明が。
>>29 後付であることは確かです。
なにへの後付かと言うと、自閉症児と接するときの態度です。
文字通り「自分を閉じている」かのように見える症児と、なにがしか「繋がった」とき
さっきまでなかった「そこ」が、二人のあいだに生まれた、という解釈が、とてもしっくりきた
ものですから。
んで、飛びついてみたとw
彼らの人称の使い方の奇妙さなども、一貫した視野で見える気がしたのです。
まだ、整理できていませんけど。
自閉症と言語及び指示の関係は以前から指摘されている問題なのですが、
これまで、それを自分で突っ込んで考えたことはありませんでした。しかし、
微塵の提起したことは、なにがしかのヒントを含んでいるようにも思えます。
指との関係で言うと、「これ」は直接指で触れられる範囲の対象、「あれ」は
それに反して遠くにあるものという対比ができそうですが、「それ」は何でしょう。
英語では、thereとovertherだっけ? 「それ」は、「これ」や「あれ」に含まれ
ていない何かを含んでいますでしょうか? まだよくわかりません。
発想の元ネタは酒木保氏であって、俺のオリジナルではありませんので、そこんとこよろしくw
酒木保の著書さがしてみよっかな。
>「それ」は、「これ」や「あれ」に含まれ ていない何かを含んでいますでしょうか?
その「含まれているもの」は、自分の内省からは、直接には抽出できなかったと思います。
「対幻想」やら「鏡像段階」やら「自閉症」やらにまつわる思考や体験から、徐々に「このへんが
キモかな?」という印象が胚胎していた、という感じです。
「それ」はたんに「近くのあれ」と解釈しても、使用上矛盾を呈するわけではありません。
永井均が「私」と<私>を使い分けるときとおなじような、「それ」と<それ>があるのだと思います。
言っても仕方がないようなちがい。
これじゃ話が進みませんので、なにかよいたとえ話を探してみます。
見つかってくれ!
これ→「こいつ」 あれ→「あいつ」 それ→「そいつ」
って変換するとなにか見えますか?
「それ(そいつ)を言っちゃあおしまいよ」は通じるけど
「あれ」、「これ」だといまいちピンと来ないかもです
「そいつ誰よ?」
「あいつ誰よ?」
を比較してみると、そのセリフが、
「そいつ誰よ?」=そいつにも聞こえる状況
「あいつ誰よ?」=あいつには聞こえない状況
という感じがします。
>>34 なるほろw
んで関連して思ったのがヒソヒソ話で耳打ちするときは
「あいつ誰よ?」をよくつかいますね♪w
36 :
考える名無しさん:04/01/18 00:15
>>3 で言うような「そこ」とは物質を指すことでなく
空間を指す言葉ゆえに概念にないと思われる。
つまり「そこ」に〈それ〉や〈あれ〉がある訳で「そこ」は重要でないのであろう。
そして「そこ」とは他者との認識共有に主に使われる為
自閉症などの孤立した世界に住む個人には、必要が無いのだと思われる。
37 :
考える名無しさん:04/01/18 00:19
>>36一部訂正
>そして「そこ」とは他者との認識共有に主に使われる為
↓
そして「そこ」とは他者との空間認識共有に主に使われる為
>>3 非常に面白い話ですね。
固有名と確定記述の問題に関係するでしょうか。
「距離」とは関係ないですか?
40 :
考える名無しさん:04/01/18 01:00
>>39 多分関係あるであろう。「ここ」は自分の世界内「そこ」「あそこ」は世界外。
自閉症の者は行きたくない事を表わす時、きっとあそこは嫌だ
やら、そこには行きたくないとは言わず、「嫌だ」「行きたくない」と表わすのではなかろうか。
つまり外の世界を認めない世界を持っているということなのではと。
自閉症に関してですが、自閉児・者が困難であるのは、他者との関係だと言われている。
この場合の困難は根本的にはどこにあるのかということで、いろいろな学説がありました。
今では認知障害説が主流のようですが、どこのどういう認知に障害があると自閉症になる
のかという問題は、実はまだ解けていないと思う。だが、乳幼児期から目が合わないとか
言われていて、その障害はかなり早期に発現していると見られまつ。そして、それの一つの
特徴として、指差しができない、わからないということがあるわけです。
前スレでこの話題は一度でたと思うが、この指さしができない、わからないということは、
実は動作と言葉を通じての人とのやりとりのある段階を意味していると考えられていて、
そこに何か問題があって、発達がそこで遅滞するのだというわけです。このことと、上の
「これ」「それ」「あれ」とは、間違いなく連続線上にある事柄のような気がするです。
これを空間認知の問題とかに直接持っていかないで、もう少しその周辺の話と関係づけて
いければ、何かが見えてくる可能性はあるかもしれませんでつね。
>>41 あっ、また共感の問題とかにぶつかりそう。堂々巡りになるのかな?
>>41 自閉症児が、「指差し」ができない、というか「指差し」に意義を見出さないのは、
「そばにいる誰かの内側からの視野」を想定することがないからだと思います。
これが、目が合わないことの原因でもあるでしょう。
他人の内面を、自分の内面に似たものとしてシミュレートしないゆえ、目を合わせることに意義も関心
も抱かない。関心がないから、確率的に「他人の目」という微小部分に視点が定まらず、たまさか目が
合っても、保つ動機がない、という感じですが、症児のなかには、意志的に「目を外そう」とする子もい
ます。この場合は、他者の内面に関する手がかりへの「検閲」があるのかもしれません。「侵犯」の予
感があるのでしょうか。「目と目」という径路が拒否されている。
ただ、関心がないように見えても、表面上拒んだまま、他者に対しての認識が、無意識裡にか蓄積し
いる場合もあるようです。
44 :
考える名無しさん:04/01/18 03:51
>>41>>43 同意する。実に面白い話だ。
構成力の欠如というのはどうであろう。対象の持つ特徴を一つの認識にまとめられず
個別化してしまう。人物の存在と人物が発する声は物と音に区別される。
つまりだ。目の前にいる人物も机もオモチャも、その者にとっては同じ物にしか見えないという事だ。
連係、連想が出来ない。「そこ」にある「それ」の組み立てが出来ず認識対象が一つしか行なわれないが為
という視点はいかがだろう。
45 :
考える名無しさん:04/01/18 04:06
「自閉症の子が他人に関心がない」とは思わないが・・・
「他者」という大きな把握に困難な面はあるのだろう。
「そこ」「それ」レベルは把握していると思う。
>>45 >「自閉症の子が他人に関心がない」とは思わないが・・・
どうしても言葉足らずになってしまいますが・・・・・・
対象としての他人を捉え、反応することはもちろんあります。
「他人の内面」を想定する機能が、阻害されているように思えるのです。
>「そこ」「それ」レベルは把握していると思う。
同意します。その上で、「そこ」、<それ>を言い分けてみたりしているのです。
>>44 面白い視点だと思いますが、一般論としては言えないと思うのです。
知能が高く、常人以上の構成力を持った症児もおりますから。
自閉症児は、連想力・空想力に乏しい傾向が確かにあると思いますが、ぼくの知っている
子供にシナリオを書く子がいました。
かれは「目を合わせない」「独特な人称の使い方」という自閉症の特徴は持っていましたが、
シナリオは実在の役者がキャスティングされ、ストーリーは理解しがたいにしても、たんなる
デタラメではない別種の一貫性を感じさせて、「自閉症児が書いたもの」というゲタを履かせ
なくても、正直すごくおもしろいのです。
ぼくがかたちだけまねして書いてみても、おもしろくならない。うらやましい構成力だと思いま
した。
>>47 「目が合わない」と「目を合わせない」とは全然違うことのように思いますが、しかしどちらも
実際にはあるようです。昔ノーベル賞を取ったティンバーゲンという人は、「目が合わない」と
いうことの意味を突っ込んで考えて自閉症を理解しようとしたようですが、「合わない」と
「合わせない」をともに成立させている何かが、「自閉症」というものの背景にあると仮定して、
それが
>「そばにいる誰かの内側からの視野」を想定することがないから
というのはわかる気がします。そこで、視野の共有は多分姿勢の共有であり、姿勢の共有の
背後を考えると、アフォーダンスといったものが見えてくるのかもしれない。最初から何かが
欠落しているから共有できないのか、あるいは共有できないから欠落するのか。この辺は
「目が合わない」、「目を合わせない」ということを考える上で重要なヒントかもしれません。
自閉症の治療という概念は、未だ明確には成立していません。何を治療すべきかがわかって
いないのだから、当たり前と言えば当たり前かな。ヒトが人と人との間で人になるとすれば、
自閉症はその「間」に問題があると言った人もいたように記憶しています。この間が見えない
ということが、現在の僕たちの置かれている共通の位置だろうか。
すみませんね、何が言いたいのかまたわからなくなってる。
>>48 といいながら、別のことを考えてしまった。
立場、視点の移動ということは、このスレのなかで一つの話題としてずっとあるんだけど、この
立場や視点の移動ということが自閉症の人にとっては困難だということがありそうです。
逆に言えば、この視点の移動というある意味観念的なメカニズムが前提としてあるわけで、
話題の「それ」も、まさにそれだし、That's it. かもしれない。
廣松を援用すれば、認知における対象の分肢構造と「主体」の分肢構造が「物象化」である
とすると、その物象化せざる相において、立場や視点の移動とは何かということだろうか。
それが、「間」かな? わからんことばっかり言ってもうしわけない。
続けさまで悪いが、「間」は脳内の何かと何かの「間」でもあるわけで、視点や立場の移動を
可能にしている脳の「社会」の問題なんだろうか。脳内における他人とは何かということが
問題なのか。
>>32 「それ」ってのは「君の『これ』」ですよね。
「ねえ、それ取って。」「ああ、これね。」
って会話で、それ→これに変換されてても、
「これじゃねーよ、それだっつってんだろ。」とは普通言わないですよね。
>永井均が「私」と<私>を使い分けるときとおなじような、「それ」と<それ>があるのだと思います。
俺もそう思った。
みんな自分用の<それ>と共用の「それ」を使い分けてる筈だよね、普通は。
自分<それ>→共「それ」→相手<これ>と変換されてるよね。
WIN→インターネットプロトコル→MAC みたいな。
これがWIN→MACだと開けなかったり、文字化けしたり。
自閉症って自閉してる訳ではなくて、開いているけど、
インターフェイスに互換性が無いって部分が有るのだと思うけど。
「共」の部分が無いか、有っても角度が普通じゃないか。「君の」とか「君と」とか。
CD-ROMをCDプレイヤーで再生したら、再生できたけど音しませんでした。
でもCD-ROM自体は壊れてるわけでも、空っぽでもないね。角度が違うだけで。
つーか、自分用の<・・・>から「・・・」に変換するのってエライめんどくさい。
PS2ってPS互換のモジュールがあって、ぶっちゃけPSチップが入ってるんだよね。たしか。
PS2チップがエミュレートしてる訳じゃなくて。
人間にもそういうモジュールがあるのかしらん。
>>48 同意である。先天性か後天性かという問題なのだろう。
自閉症的世界視野を具体化してみよう。パソコンをいじっている時、パソコン外はレンズのピントが合わないで
その他の対象は一体化する。その横にあるコーヒーカップがあった時、意識の何処にそれはあるか。
考え中氏がいうような間に置かれているのではないかと推測される。
思考からいつでも取出し可能な保留的認識の場という事であろう。
先天性的自閉症の世界視野の場合。これは「色」のような認識ではあるまいか。
パソコンはカラー。パソコン外はモノクロ。そしてコーヒーカップもモノクロなのである。
そこ、あそこが無い色を持つここだけを認識する、対象を複数に置けない思考ということだ。
これに対して後天性はピントを故意に合わそうとしない防衛本能的世界への拒否ではないかと思われる。
それらが両者とも微塵氏の言う奥行きを認識しない、出来ない
面だけの世界を作り出すのではなかろうか。
それと目合わすという行為は自然動物ではあまり行なわれない行為
であったかと記憶している。
>>43 「目を合わせない」って場合は、
「そばにいる誰かの内側からの視野」をむしろ過剰に想定するって事ではないの?
>>49 >立場や視点の移動ということが自閉症の人にとっては困難だということがありそうです。
移動が困難というか恒常性が保てないのでは?軸がとれないというか、軸が毎回変わる。
音痴の人は、音を上手く指すことが出来ないですよね。毎回変わるし。
本人は真似してるつもりだけど。
でもこの変わり方も全くのランダムではないと思うのだけど。
逆に常人は同じ軸しかとれない人だったりして。
夢の中の自分(の脳の状態)が自閉症の人と共する部分が多い気がする。
覚醒時との接点は少ないし、不条理だし、何よりあれだけの情報を
自作自演してるのが。
約束事が覚醒時と全く違うのだけれど、夢の中では不思議に思わない。
当然だと思ってる。意志はあるのに。
って、俺だけだろうか・・・?
>>52 >思考からいつでも取出し可能な保留的認識の場という事であろう。
思ってるほど自由には、取り出せないのじゃないかと思うけど。
ある決まった約束事にしたがってしか。
取り出せない物は気付かないから解らない。
パソコンやってる間中、コーヒーカップには一切意識が行かなくて、
翌日になって、何かのきっかけで出てくるなんて事もあると思う。
そのきっかけのスイッチは、呼吸のように半分は意識できて
もう半分は無意識みたいな。
サッカーの中田なんかは、足下のボールとパスする相手と同時に見れるそうですが、
(猛禽類みたい?)
そういう視野からみたら普通の人の視野も、動きの不自由な視野でしょうね。
>>54 >「目を合わせない」って場合は、
>「そばにいる誰かの内側からの視野」をむしろ過剰に想定するって事ではないの?
目を合わせようとしてくる人、というのは積極的な関心・注目を示しており、気配・動作が
症児に向かって組織され動員されています。
ことさらに大げさに表現してみましたが、注目されることは、しばしば自己の行為への介
入・中断につながるという経験知があって、「合わせてこようとする目」はその兆しとして
忌避されるのではないでしょうか。「殺気!」みたいに。
かれらは行動の恒常性・一貫性に非常にこだわりますから。
>約束事が覚醒時と全く違うのだけれど、夢の中では不思議に思わない。
>当然だと思ってる。意志はあるのに。
>って、俺だけだろうか・・・?
俺もです。注意力の水準が下がっているので、異常を異常と検出しないのですね。
>夢の中の自分(の脳の状態)が自閉症の人と共する部分が多い気がする。
>覚醒時との接点は少ないし、不条理だし、何よりあれだけの情報を
>自作自演してるのが。
症児のおきては強固であり、その侵犯に対しては鋭敏かつ融通がききません。
注意力の水準が下がっていて、おきての力じたいが弱っている夢の中の状況とは、あまり
似ていないと、ぼくは感じます。
>>49 前にも話したけど、
その「視点の移動」を、はじめて行った瞬間は、人生で、もっとも鮮烈な記憶です。
三歳後半か四歳前半と思う。
経験的にもタダゴトでない気がするあの手応え。
世界観が一気に、隅々まで連動しながら変貌した感動。
もしかするとあの瞬間に俺、自閉症治ったのかな?などと考えたりして。ちょっとマジで。
今にして思えば、
あれ以前・以後の差異を記憶していることが、考えるときに、とても役立ってる気がする。
>>58 前のその話って、何番のレスだっけ。そのときに詳しく書いてたらそっちを参照しますが
もし詳しく書いていないんだったら、ここでそのときのことを具体的に書いてもらえればと
思います。ちなみに、僕は今短期記憶力が悪くなっているので、ちょっと前のことは覚えて
いないことが多いのです。よろしく。
>>59 哲スレじゃなかったかな?どこだっけ?
もう関連ログの量が多くて・・・w
捜してみて、めっからなかったらまた書きますな。
遺伝的? あるいは
という設問は、とりあえず僕はしていません。そうではなくて、認知障害ということによって
何かわかった気になるのは待てということです。前にもいったかもしれませんが、認知障害は
認知障害であって、自閉症ではないということです。ある認知障害が自閉症の原因であると
いうことがわかれば、それは治療への道を指し示す可能性があり、歓迎したいのですが、
自閉症を説明するかわりに認知障害という別の枠組を示すだけではだめだろうと思うのです。
もし自閉症児に固有の認知障害があるとすれば、それは空間認知とかいった次元のことでは
ないのではないかというのが、僕の感じです。では、それはどんな認知障害なのかというと、
それは関係に関することであり、関係と僕らが言っていることのもっと奥にある、関係を成立
させている何か。それが、あえて言葉で言えば共感であったりするわけです。ですが、共感と
いうこともちょっとわからなくなっているので、これも宙づり。それが、上でいう「間(あいだ)」
というあいまいな表現になっているのです。
ピアジェの概念に「脱中心化」というのがあったと思います。微塵のいう「相対性理論」と同じ
なのかどうかはわかりませんが、ここにも視点の移動がからんでいるようです。これらは、皆
人と人との関係を原型として、それが自然界の認識のフレームワークへと展開したのでは
なかろうかという素朴な推測があります。商品経済とは何かという疑問ともからんでいます。
小さい頃、自宅の台所で居合わせた母と兄に「学校と駅とどっちが遠い?」と聞いたところ、
「どういう意味?」と聞き返されました。母や兄に何が分からないのか分からなくて、すごく
苦労した末に、「だったら、ここから学校までと、ここから駅までとではどっちが遠い?って
言わなきゃ。」と言われてすごくしょぼんとした印象がかなり強く残っています。
当時私には“遠さ”は“ここからあそこまで”というのが疑いも無く自明のことであり、
自宅の台所の母と兄とは当然“ここ”を共有していた。でも、彼らにはそれは自明のことでは
なかったし、“遠さ”は“あそこからあそこまで”と自分から切り離して考えることができる
ものだった。
覚えている一番古い会話で、一番古い世界の切り取り方に関する記憶です。または“そこ”
を知って世界から切り離された記憶です。
関係ないけれど、“ここ”を含む空間では、(私の観測上)時間と位置が分かれずに存在
しているね。
うーむ。
「学校と駅とどっちが遠い?」という問いには、暗黙に省略された「ここから」という起点が含ま
れていると思うのだが。
「ここから学校までと、ここから駅までとではどっちが遠い?」と言う人は、ちょっと変わって
いると思いませんか?母さん兄さん。
「学校と駅とどっちが長い?」とか言われたら、とまどうと思うが。
>>62 微塵に禿同です。どこからという起点を省略して話すのは、ごく一般的なスタイルで、それを
問い返す人は
珍しいというか、会ったことがないように思います。
それで思い出したのだが、小学校2、3年生のころに次のような問題にぶつかって、結局自分
の思い込みを思い知らされたことがあります。それはつぎのような場面でした。
町のある場所に斜めに走っている道路がありました。四角く区切られた街区の一つを、ある
角から対角線を通って反対側の角に抜けるバス通りでした。問題は、この斜めの道を通るのと
そこを通らないで角から、地図で言えば真下へ行き、次の角で90度曲がってバス通りの抜ける
角へ行くのと、どちらが近いかということでした。今ならもちろん対角線の方が短いということを
知っているのでまちがえないのですが、当時僕は斜めの道路を通る方が遠いと感じました。
年長の子供に、距離をはかってみようと言われて、地面に図を書いて調べたように記憶して
います。もちろん僕の負けでした。そのとき、僕はきつねにつままれたような変な気分になった
ことを覚えています。「え、なんで?」というわけです。
これの謎解きは簡単です。斜めの道は細くて見通しが悪いのです。それに対して、直角の道は
次の角が見えるのです。この次が見えるほど近くを足しても、先が見えない斜めの道よりは、
感覚的には近いと感じていたようです。しかし、感覚的実感(あるいは心理的距離)と実際の
距離とが食い違うことがあるというのは、当時の僕にとってはかなりの発見でした。
幼児の脳は、五歳までに二度、劇的な質的転換をします。二歳の誕生日に向かう時期に
言語機能に関するシステムのスイッチが入り、五歳ごろに、自己の観念が安定して、自伝
的記憶が組織されはじめます。
>>58で言及したぼく自身の体験は、後者の転換が少し早めに起こったために記憶に残った
のかもしれません。
ぼくは三歳時と五歳時に引越しをしているので、幼い頃の記憶にある程度時系列を当ては
めることができます。背景があきらかに違うからです。
>>58の経験は、三〜四歳時に住んでいた家の茶の間に、ひとりでいたときのことです。※
※ぼくはそのとき考え事をしていたのですが、直前までなにを考えていたのか、ぶっ飛んで
しまって憶えていません。
突如、ひとつの/たくさんの着想が、天から降ってきたのです。
言葉にしてみれば長くなりますが、一瞬の思いつきです。
「ぼくのなかにある<これ>とおなじものが、みんなのなかにもあって、みんなこんなふうに、な
かからせかいをみているんだ!ぼくのなかで、だれにもみえないたくさんのことがおこってい
るように、みんなみんなみんなのなかで、だれにもみえないたくさんのことがおこっている!」
これは、いままで思ったことのないサイズの考えでした。心のなかにこんな大きなものが入る、
そのことも驚きに拍車をかけました。
なにもかも、いっぺんに見え方が変わり、これから自分は、さっきまでとまったくちがった、あた
らしい世界を見ていくのだと感じました。
「ものすごいことをかんがえちゃった・・・・・・・すごいぞじぶん」
一気に拡大重層化した世界に興奮しながら、自分に陶酔していたのを憶えています。
「そしてぼくも、みんなからみたみんなのひとりなんだ」という一項を書き忘れた。
>>66 とても微塵らしいというか、すごいですね。そんなこと子供のころに考えたことなんか全く
なかったと思う。そういう意味での自覚というのは、多分その後もしたことがないというか、
自分の中で起きていることが、他人の中でも起きているということは、気がついたらそう
思っていたということですね。むしろ、そういう自分にとって「自明」だと思っていたことが、
必ずしもそうでないらしいということをもう少し大きくなって知り始めるという順序だったと
思います。同じ―違う―同じという考え方(感じ方)の間をジグザグに進んでいるという
感じかなぁ。うまく言えませんが、とにかく子供のときにそういう哲学的な考え方をしたと
いう記憶は全然ないです。
>>68 まったく正直に、幼い頃は自分は特別だと思っていました。
同輩たちはぜったいこんなこと考えてないと思ったし、みんなは友人の心を相手の内心から
見た視点で慮ることもないと思っていました。
昔は「心理」についての関心も共通了解も話題性も今よりずっと乏しくて、他人の内心に言及
する日常語彙が少なかった。もともとみんな、あまり口にしなかった。
それも手伝って、ぼくは上記の認識を引きずったまま、内心をうかつに態度で洩らす学童に
育ってしまい、たまーに、ズバッと見抜かれてはギク!としていましたw そういう経験から、女
の子のほうが成長早いなぁ・・・と実感したw 鋭いのはたいがい女の子だったから。
>>69 聞けば聞くほど、微塵という人の幼児期というのは、何かスペシャルな感じがしますね。
よく考えてみると、自分の幼児期のことなど、ほとんど覚えていないというのが本当の
ところです。特に小学校に入る以前のことなど、そのあたりに大きな転居を何度かして
いるので、反芻もあまりしていなこともあって、切れ切れのイメージとしてしか残って
いないです。しかも、このイメージが、本当の記憶なのか、それとも後年に形成された
ものなのかも、定かでないです。全体として、自分がどんな子供だったか、どんなことを
考えていたかといったことを思い出すのは極めて難しいです。小学校も3つの学校を
転々としたし、そういう意味では、何だか子供時代の記憶はとても乏しいような気も
します。
>>70 記憶は想起するたびに加工されてしまうおそれがありますが、半面、想起しないでいると、
うしなわれるか、不随意に変造されてしまいます。
子ども頃のぼくは、大人たちを見ていて、成熟とは人格と記憶を不可逆に変造する過程であ
ると確信していたので、習慣的に記憶を想起しながら、できるだけ当初の実感のまま保存しよ
うとする意志を持っていました。
「ああいう大人にはなりたくない!」ってやつですw
同時に、社会のなかで新奇でエキゾティックだった概念が、次第に日常性に定着し、あたかも
ずっと前からいたような顔で、大手を振って歩き出す様も、つぶさに見詰めてきた気がします。
私的なものであれ、公的なものであれ、記憶の変造、過去への加工ということに、とても警戒
心があったのです。
「子どもの頃が懐かしく思えてきたら堕落の徴候だ」というのが、内面のスローガンでした。
ちょっと、りきんでいたようですw
そういうわけで(どういうわけでw)
最初のスレの、163〜165あたりで書いた「物心ついた瞬間の記憶」は、まだ記憶変造への
警戒心が芽生えてない頃ですから、これは一次資料的な価値は薄いかもしれません。
そもそも「物心ついた瞬間の記憶」が、単一のものでなく複数の記憶の複合だと気付いたの
も、ずっと後年、アニー・ディラード『アメリカンチャイルドフッド』の「物心」についての一節を
読んだときだし。読んだ瞬間に加工されたのかもしれない。
ただ、幼少期の子供が最初の「概念」をつかみとっていくとき、個物より一般概念への向性を
持っているらしい、という報告と、「物心ついた瞬間の記憶」の複合性は、通じ合う気もします。
たとえば、乳幼児に十数枚の顔の画像を見せ、見慣れさせる。その後、いろいろな顔の画像
を提示してゆくと、記憶にある画像にとくに顕著な反応をする。その提示の中に、最初の十数
枚を合成して作った「平均的な顔」を混ぜておくと、それにもっとも強い関心を示すそうです。
複数の動物の画像を使って、同様の手順で「実在しない平均的な動物」を提示しても、やっぱ
り特段の注意を示すらしい。
>>74、記憶で書いて、我ながらアレ?と思ったので、調べなおしましたw スマソ
赤ん坊は十ヶ月。提示は二回に分けたりせず、五秒ずつの連続。初見の反応を調べる。
という方法でした。
つまり、赤ん坊は初見の対象のなかでも、一般性を窺わせる対象に特に強く反応する、そうです。
一連の微塵のレスを読んで、生の記憶を保持することの困難さということについて思う
ところがあります。25歳前後に、いろいろなことがあって、そのことを10年ほど後に想起
して整理しようと考えたことがあったんですが、どうしても記憶の辻褄が合わない部分が
あったんです。いくら考えてもわからないので、これは記憶がどこかでおかしくなっている
んだと思ったことがあります。そして、そこには明らかに何らかの「防衛」が働いている。
結局、そのときには整理はできませんでした。つまり、僕たちの記憶は、生の記憶である
と思っているものであっても、既に改変されてしまっているということがあり得るのだと
そのときに実感したんです。これが幼児期に及ぶと、夢と現実の区別がつかないような
状態になる。これは文字通りです。
ここ、そこ、あそこの話から、どんどんずれてきていますが、自分が幼児期に何を考えて
いたか、どのように感じていたかといったことを思い出せたら、もう少し実りのある話が
できるのになぁと……。ちょっと口惜しい。
>>63 64
現在の私は「学校と駅とどっちが遠い?」って聞かれたら、少なくとも「ここから?」
って尋ね返します。なぜなら、距離を考える時の起点が自分ではない見方に既に慣れて
いるので。
62では省いたのですが、私はその頃新しく仕入れた「どっちが遠い?」という言葉を
実際に試したくて、脈絡無くその質問だけを発したのです。それまでその場で何が話され
ていたのかは覚えていませんが。
勿論、例えば、友達の家でたこ焼きパーティーするのに、天カスを買い忘れたのに
気付き、「じゃあ、買ってくるから、準備始めててよ。で、○○屋と●●屋とどっちが
近いかなあ?」って時には、「どこから?」なんて聞く人はいないでしょうけれど。
この思い出から、母について思うとしたら、思いやりに欠けるということ。
兄は珍しい人です。当時も、今でも。
最近はそうでもなくなってきているのですが、ちょっと前まで、何度も繰り返して主張
していた様に、私にとっての言葉は記号以外のものではなかったのです。そしてそのルーツを
「遠さについての思い出」の中の「“そこ”と初めて出会った体験」と結び付けている。
微塵の視点の移動の体験とは全く逆方向に思えるんだけれど、そもそも何が方向付ける
のでしょうか。
私は高校卒業するまでずっと理系クラスにいて、浪人中に文転して文学部に入ったん
だけれども、最初の頃、新しい友人達との会話があまりにも困難で、そういうことが
あること自体にすごいカルチャーショックを受けたのでした。
文系型、理系型がある、と言いたい訳ではなくて、各々が親和性を感じる考え方の
カタチというのがあって、関心の方向が似ている人は、ある程度そのカタチが似ている
からか、話していてもしっくりくる感が大きいのですね。
>>78 文系・理系というカテゴライズは安易、と最近よく言われますが、わかりやすい分類である
ことは確かですよね。
理系にとっては「現在の知見」が重く、「そこに到るまでの来歴」は軽い。
それにくらべれば文系は、「古典・歴史」が重い。
文系の人は理系の人にくらべて、「私はいかにして現在の位置に到ったか?」ということに
自然な関心がある。理系の人がそれを考えるときは、なにか動機がいる。
という意味のことを、有栖川有栖が言っていたな。
もちろん、コントラストを強めた図式的な表現ですが。
>>78 >微塵の視点の移動の体験とは全く逆方向に思えるんだけれど、そもそも何が方向付ける
>のでしょうか。
「そこ」の定位の過程をはじめとして、間主観的な概念は常に内からと外からの双方向で
成立するのだと思います。
そして現状では語彙の不足であまり語られない、「内面」概念の個人個人の差異というか
自己同一性のバリエーションの問題があるように思うのです。
「ここ」とか「私」とか「自分」という語彙が指示するものの差異が、私的体験の私的な形式
どうしに、中間に翻訳を介すべき齟齬を作り出していると思う。
>>76 象徴的なエピソードだなぁと思うのは、
アメリカで心理学実験を兼ねた「支持政党調査(共和党か民主党か無党派か)」があって、
最初の調査から四年をおいておなじサンプルで二度目の調査をした。
二度目には「前回どのように答えたか?」という質問もあって、この間、支持政党が変わっ
た人のうち、前回から変わっていないと答えた人が91%(!)にのぼった、というもの。
人は、現状に引き寄せて、無意識に過去を一貫させようとするようです。
>>57 >俺もです。注意力の水準が下がっているので、異常を異常と検出しないのですね。
俺の場合は単純に注意力が下がっているというより、質が変わっている、シフトしている
と言う感じです。下がっている部分もあるし、逆に上がっている部分もある。
覚醒時に抑制的に働く部分が休んで、押さえられてた部分が顕在化してくるんだろうなぁ。
実際脳の部分的には覚醒時より活発に働いてるだろうし、目は高速運動してるだろうし。
法律が弱くなった結果、闇の掟が強まるみたいな。
ルビンの壺で、壺と顔のどちらに先に目がいくか、図と地の決め方は人それぞれ傾向性が
あると思うけど、
例えば起きてるときには、まず壺に目がいくのが、寝てるときにはまず顔にいく
みたいな拘り方のシフトみたいなのが有ると思う。物事に対しての関心の持ち方の
軸がずれるみたいな。偏執狂的に。
脳というのは全体が統一して働いてる訳ではなくて、各部分が好き勝手にスタンドプレー
してるのが結果的に、たまたま調和がとれてる様に見えてるだけなのだと思う。
AIに感情移入出来るにはどういう要素が必要なのかなと考えていて、
一昔前に流行った「たまごっち」を思い出した。
あの単純なプログラムがなぜあれほど、皆を虜にしたのかと思ったら、
「ほっとけなさ」というのが大事なのだと思う。
AIについての話とかを聞いていると、入力に対してどう判断してどう答えるか、
の方に目が向きがちだと思う。
たまごっちが画期的だったのは、ほっておくとぐれてしまったり、死んでしまったりと
入力しないということに対してどう答えるかが設定されてたことだと思う。
入力しない事が、無入力じゃなくて反入力として意味を持ってる。
「放置プレイ」が意味を持ち出す。
たったこれだけのことで、感情移入度は一気に跳ね上がると思う。
無というのはとっても有意味なのねん。
今朝の毎日新聞。
乳幼児にテレビやビデオを見せすぎると、人と目を合わせなかったり、
言葉に遅れが出たりするという。小児科学会の報告。
二歳ぐらいまでは控えた方がいいらしい。
そりゃそうだよな。テレビは目を合わせないし、会話もしないもんな。
テレビと目を合わせても意味がない。レスポンスは大事だね。
レスがないと言っても、テレビが応答しないのと、目の前の人が応答しないのと
では全く意味が違う。「無い」の意味が。
オイラは幼い頃は、テレビの向こう側の人からも当然コチラ側が見えてると思ってました。
違うと知った時は結構驚いたのを覚えています。
>>29で後付っぽいと書いた感覚がはっきりしてきた。出発点がちがうんだね。
オイラの感覚では、「そこ」から「ここ」や「あそこ」が生まれてきたノダ。
「あなたの世界」に含まれる「あなたとぼくの世界」から、
「ぼくの世界」がどんどんはみ出してきて、ぽっこり飛び出したのでした。
それは、世界の中に「敵」が生まれた瞬間かもしれない。
>>84 >オイラの感覚では、「そこ」から「ここ」や「あそこ」が生まれてきたノダ。
>「あなたの世界」に含まれる「あなたとぼくの世界」から、
>「ぼくの世界」がどんどんはみ出してきて、ぽっこり飛び出したのでした。
これはすごく示唆に富んだ言い方でみたい。指示と、それに根差す言語は
本来単に内発的なものではなくて、間主体的(intersubjective)に生成する
ものなのだから、個はそこから見ればあとから生まれる幻想のサブシステム
に過ぎないとも言えるようだ。ふむふむ、その方が妥当な気がします。
>>85 自分でフォローしておきます。
>指示と、それに根差す言語は
と言っているのは、言語のある一つの面を指しているのであって、
言語がすべて指示に根差すと言っているのではないということを
断っておきます。
ちょっとクオリアに絡んでわからんことを
結局ぐるぐる回るだけの疑問なんですが、例えば茂木さんたちの仕事がある程度進捗して
ニューラルネットワークとクオリアの対応関係が一応クリアになったと仮定します。その上で
まだ疑問が残るだろうと思うのです。我々が見ている「赤」とは、一体何なのか。それは脳が
見ている幻想に過ぎないと言ってしまっていいものなのか。それとも、それ以外の何もの
なのか、あるいは何でもないのか。これは不思議な感じがする問題です。もちろん、音だって
においだって、味だって同じ。甘い味って、そもそも何? 気持ちいいって、そもそも脳内麻薬
物質の作用だとして、それは何? わかりませんね〜。 宇宙は、自分のことをどう感じて
いるんでしょう。は〜、さっぱり、さっぱり。
>>87 これはちうの疑問への答えではないのですが・・・・・
深津絵里ってメジャーだけど地味ですよね。先日ふと眼にしたドラマに出ていて、名前が思い
出せませんでした。
名前にまつわるクオリアはあって、名前にまでは達しない。そのクオリアは「四文字で三文字目
が『え』という発音の漢字、ただし江でも恵でもない、そーゆー名前」、ということを伝えてくるクオ
リアであり、それ以外のなにものでもないクオリアなわけです。
結局、そうこうするうちに名前は思い出せたわけですが、「しかし、クオリアっておそろしく細分化
されとるよなー」と、しみじみ思いました。
「赤」「黄」「緑」「青」「橙」「紫」「茶」「白」「黒」と書き並べるより、実際の色彩の表象を示すほうが
はるかに差異を検出しやすいですよね。
意味や概念に勝手にまつわってくれるクオリアが、それらのあいだにある差異を強調してくれて
いる。クオリアがなければ、私達は類似の概念を混同しまくって、効率的に思考することはでき
ないでしょう。
クオリアは、生存に関わる知覚情報の効率的処理のために、鋭敏さと細分化を追究した媒体
である、とは言ってもいいでしょう。
私達が意識的に物に名前をつけるように、無意識が意味にクオリアをつける。ただ、名前とちが
い意味の変化にともないクオリアも並行的に変化する。そして、「名付け」は恣意的ですけれど、
「クオリア付け」は恣意的ではない。ある意味「必ずふさわしい名前がつく」みたいな仕方で付く。
しかし、身体や外界のモニタリングの媒体であるクオリアを、別のことに使えるようになった、とい
うことは、言語使用を可能にした「脳の自由度」とおなじ「自由度」だと思います。
大量の差異をあつかう必要が出てきたとき、いくつかの知覚を「同時」という場所に統合して
一挙性のもとに眺めるために「クオリア」と「世界観」が生まれ、そこに意味と概念という膨大
な差異の新世界が「言語」として訪れたとき、「言語」に対する言語のようにクオリアがあてが
われた、みたいなぁー、ことをー考えてみたりぃーw
言語の表象(音韻と文字の体系)は恣意的で、古典物理でいう絶対空間にあたるものがない。
名前の位置は、周囲との相対的な関係によって定まる。名前の指示する意味はいつも動いて
名前の同一性によって観測される。
けれどクオリアには絶対空間があって、ゆえに意味とともにクオリアが変化しても、位置を同定
できる。
いわゆる言語もクオリアも、言語的なはたらきなのですが、いわゆる言語は現代物理、クオリア
は相対性理論以前の古典物理としてコントラストを付けられると思います。
もう少し比喩で補足すれば、私達はクオリアの宇宙には知覚できるエーテルがあり、いわゆる
言語の宇宙にはエーテルがない。
「かたち」に鋭敏な人は、エーテルのなかでいわゆる言語を扱える。言わば言語とエーテルに
共感覚がある、みたいな。ゆえに「かたち」を扱うときは、古典物理的な明証性と不自由がとも
につきまとう。
「かたち」人種(というものがいるとしてw)が、故郷への回帰なのか、いわゆる言語の「異宇宙
への進出」なのかはわかりませんが(でもたぶん後者)。
故郷への回帰ではたぶんない、とは言ってみたものの、
「かたち」に触れているうちに時折り、対象が定かでない(かと言って対象がひとつでないことも確かな)、
苦痛なほどの懐かしさに囚われることがあります。
>>87 >宇宙は、自分のことをどう感じて いるんでしょう。は〜、さっぱり、さっぱり。
クオリアは宇宙が宇宙を内面化するための方法ですよね?
クオリアは内面を成立させる。
「今」という時点で駆動しているクオリアの全体が「私」です。
知覚の異変は「外部からの障害」ですが、クオリアの(文法の)異変は「人格の障害」に直結します。
>>95 >クオリアは宇宙が宇宙を内面化するための方法ですよね?
>クオリアは内面を成立させる。
こういうことをすらっと言えるのが微塵、うらやましいというか何というか。
でも、これは正しいと思う。
ほみられてしまった・・・・・
で、言語について補足しますがw 人間以前にも言語的な作用はあったわけで、言語の原生的
な機能の定義は「ある体系を別の体系の記号として使うこと」だと思っています。
>>97 イカの擬態や、ウミショウブの一発勝負のように、進化のプロセスで相互に無関係な要素が
組合わさって、一つの「合目的的」なシステムが構成されるという意味ですよね。それが、言語
とクオリアの関係としてもあらわれると……。目的というのは、後からの意味づけに過ぎない?
この辺、まだ不可知の何かがあって、理解を阻んでいるという感じがします。
>>89-
>>92 とてもわかりやすくかつ刺激的ですね。とくに、古典物理と現代物理の比喩が。
「この痛みは他人にはわからない」という言明が、痛みの定義を述べているにとどまらない
ような意味を帯びるのは、クオリアのエーテル性ゆえといえるかな、などと考えました。
そしてまた、その言明から私秘性を消し去るのが言語である、と。
>>98 合理性、合目性、って、古典物理の方と親しい思考法だと思います。
> 名前の位置は、周囲との相対的な関係によって定まる。名前の指示する意味はいつも動いて
> 名前の同一性によって観測される。
>>92 このような言語の「現代物理」的性格を把握したうえでも、どこかで知覚と言語の関係を
合目的にとらえる、ということでしょうか。
考え中さんが他のところに書いていた、「感覚と言語についての「合理主義」的な視点」
というのは。
下空けちゃった、ごめんなさい・・・
そして、先回りするような書き込み、お許しください〜>考え中さん
「言語一般」と「いわゆる(狭義の)言語」を言い分けようとして、いわゆるいわゆるとうるさい文章に
なっちまいました。
次から、連投します。
自分でも、またぐにゃぐにゃした状態なので、これからどうなることやら。とにかく
いきま〜す。
>>88-
>>90にレスを書いていて、自分のなかにある度し難い性癖に気づいた。性癖というよりも
嗜癖に近いか。それは、演繹への執着だ。僕はエレメントを求めている。これまで僕が思考の
基底に置いていたエレメントは、自己=他者の相におけるヒト、つまり人間だった。自己=他者
というのは、共感次元の人間のことである。共感を通じてしかヒトは人にはならない、これが
ずっと僕の思考を貫いている原理であった。これは、人のあり方の基底的な相が共同性に
あるという信念だと思う。これは、今流行りのエコロジー的な意味での共生とは違う。近代的個も、
また共同性の一つの形式に過ぎないという意味では、「孤独」も共同性のあり方として受けとめる
しかない。そのような構えをベースにして僕の思考は成立していた。
ところで、僕がフニャフニャっと腰砕けてしまったのは、感覚と言語の関係についての話からで
あった。それは、つまりそれ以前にあった感覚と言語についての「合理主義」的な視点が崩壊した
ためであったと今は考えておきたい。留保した言い方になっているのは、まだ確信がないからで
あるが、多分これまでの僕のその演繹嗜好も含めて、それが成り立っていた「原理」が揺るいだ
ということにあるのではないかと思っている。では、それに代わる演繹のためのエレメントはどこに
あるのか。そこが見えないのだ。
つづく
感覚と言語の関係が、少しも合理的でないこと、あるいはその癖極めて合理的な外見を有して
いることが、うまく頭の中でまとまっていない。多分これまでのエレメントに代わる新しい発見し
つつあるのだと考えたがっているのだが、これまでの思考とうまくかみ合わない。微塵と僕の
最大の差異は、合理性に対する理解の違いだと思う。現実的なものは合理的なものだという
ヘーゲル的な原理を徹底したいと考えている僕は、今、合理性ということについての基準を
変更しなければならなくなっているのだと思う。そして、そこで行き詰まっている。
プリゴジーヌは、散逸構造の変化は予想できないとする。結果から見て過程が合理的だという
ことが言えるだけだと。一面では、それは正しいと思う。他方では、それでは僕たちは指針を失う
と思っている。先に少し述べた水平と垂直の話は、これに対する僕なりの答えのつもりなのだ。
僕たちは、社会の変革について目的志向的に語ることは、結局は全体主義に至るということを
知っているはずだ。そのことを社会主義や共産主義の歴史、あるいはファシズムから学んだ
はずだ。しかし、一方で人が抱く目的のなかに何か貴重なものがあると僕は信じてきたし、
それだけが多分僕がこれまで生きてこられた唯一の理由だとも思っている。
答えは多分既に出ている。
とりあえず上げましたが、これではまだ何も言っていないに等しいと思う。
ただ、言語についての一連の微塵の話はわかるし、クオリアの話しも、言ったとおり
正しいと思う。これは、実は僕の長年の一つのテーマでもあって、散逸構造の思想と
出会ってから、頭のなかで「生命のスープw」ができあがるのを待っていたような節が
ある。うまくすれば単細胞生物の前駆体ぐらいは、ほの見えるかもしれないと、期待
しているだす。
>>106 違うな、とりあえず膜ぐらいは……でつねw
>>100 合理性というのは、言語が生物の進化の一つの合理的な到達点だという意味です。
これは、バックに当然進化論についてのロマンチックなイメージがあります。これに
対して、言語と感覚とが必ずしも合理的な理由で結びついたのではなく、相互に
無関係に存在していたシステムが、コノハムシの擬態のように、突然あるアフォーダンス
のなかで「目的合理性」を獲得したのだということが、僕のなかの何かを確実に破壊
したのです。そして、本当はその理解の方が、実は僕がかねてからぼんやりと思い
浮かべていた世界=自己理解に圧倒的に近いということです。この僕のなかに存在
する少なくとも2つの原理は、ほとんど不可分に絡み合っていて、なかなか解き
ほぐせないように思います。でも、かつて散逸構造というアイデアが僕のなかに何かを
呼び覚ました、その何かがようやく少しぼんやりと姿を見せ始めたような気がしない
でもない……、そんなすごく遠回りなお話です。
む、難しいっす。
頭はなんとか?着いていっても、言葉が着いて行かない。言葉は遅い。
マターリ追いかけていきますか。今、頭があまりまとめたがらない。
>>79 俺の場合、逆じゃないの?って気がする。文系と理系。
立ち位置が違うのか?裏返しに見てる?
>>85 「世界」との基本的な向き合い方って幼い内に決まっちゃうよなぁ。
って、かなり小さいうちから思ってた。環境で決まっちゃうなって。
幼いころは、世界がこっちを向いてくれてたし興味をもってくれてた。
自分も世界のほうを向いてたし、自分の興味に世界はなんでも応えてくれたな。
自分が最後にすがり付くのはそこ。はじめに、世界が味方だった記憶がある。
その記憶がなけりゃとても今まで生きてられないと思う。
それを体感できなかった人はきついだろうなと思う。
「俺がいるのって当り前じゃん」みたいなの。後から疑ったけど。
この辺は個人差がかなりでかいんじゃなかろうか。
「脳のなかの幽霊」でラマチャンが、クオリアはぶっちゃけ翻訳の問題って言ってましたね。
そりゃその通りだと思ったけど、それで解決するわけではなくて、それこそ言い換えただけで。
神経直結できれば、電気なまずのクオリアも感じれるって。それはまあわかる。
「カンガルー」みたいな誤訳があるだろうけど。
だとすると、コンピューターにもクオリアがあるといっても差し支えないかなと思う。
コンピューターがそれを感じてるかはまた別問題で、人間の神経とコンピューターが
接続できれば、それで感じた感覚はコンピューターのクオリア(の翻訳)。
物にだってクオリアあるかもしれないよねぇ。
「君の痛さ」以上にわかりっこないだろうけど。
>>108 言語を発生や進化の側面からみると、そこに合理性や目的性はみられないというのは、
合理や目的という概念がむしろ「いわゆる言語」によってもたらされたものであるからですよね。
「共感次元の人間」
>>104には、始原的、根本的なものとしての言語が備なわっていなければ
ならない、と考えてます。
これはもちろん、コミュニケーションには言葉が必要だ、ということではないです。
コミュニケーションが可能なためには、他人を、自分と同じように内面を持つものとして、あるいは
自分と同じように世界を見る者として捉えること、言い換えれば、自分が多の中の一だと知っている
ことが必要ですが、そうであるためのさらなる前提として、言語があるということです。
続く
(続き)
このように到達点ではなく始まりとしての言語に向き合うとき、
「感覚と言語についての「合理主義」的な視点が崩壊」ているわけですが、
だからといって、それまでの考え中さんの思考のベースが揺らぐはないし、
それどころかむしろ、それが改めて確認されることになっていると思うのです。
くどくどとしているわりには目新しいことは書いていないし、
「演繹のためのエレメント」を挙げることはとうていできません・・・
期待されてると思っているわけではないですけどw
>>112の改訂版
脱字が見逃せる範囲を超えたので、書き直し! 読まれる方は、こちらをお願いします。スミマセン
>>111 (続き)
このように到達点ではなく始まりとしての言語に向き合うとき、
「感覚と言語についての「合理主義」的な視点が崩壊」
>>104しているわけですが、
だからといって、それまでの考え中さんの思考のベースが揺らぐことはないし、
それどころかむしろ、その、共感を基礎に置く人間観が改めて確認されることになっている
と思うのです。
くどくどとしているわりには目新しいことは書いていないし、
「演繹のためのエレメント」を挙げることはとうていできません・・・
期待されてると思っているわけではないですけどw
進化がおもしろいのは、その素材が遺伝子の中に積み木のように前もって準備されている
ということなんですね。その個々のパーツが何の役に立つのかということはとりあえず関係
なくて、その組み合わせがアフォーダンスの中で合理的な機能を獲得する。この意味はまだ
全然わかりませんが、とりあえずそんなふうに生物は「合理的に」存在しているわけです。
共感は、そういった次元の素材とは意味が違うように思います。生物という形自体の中に
もともと共感は普遍的に見られるようです。そして、そのおおもとが散逸構造にあるという
ことから見ても、共感が遺伝子以前の、あるいは生命以前の自然界の相互作用をベースに
持つことは明らかなように思います。だから、共感は僕たちの日常的な経験とは別に、より
根源的な何かであることは確かだろうとは思っています。
ただし、その人間的な形態、形式については、今はうまく理解できないでいます。共感・共鳴
にはまだ我々の知らない姿があるように思います。ヒトが人間になるという意味は、実は
もっと深くて、僕たちが反人間的だと思っていることも、また極めて人間的なのだという逆説
的なレベルもあるんじゃないだろうかと思います。共感が持つ様々な姿を理解するには、
多分ヒューマニズムとは全く違う人間観を必要とするような気がするのです。
>>108 環境にすごく適した種が既に広く存在している場合、偶発的に現れた新種は滅びるか、隙間を
探すしかないのです。ウミショウブみたいに。または、環境自体が変わりつつあるときには、
既存の種にとって変わることも可能ですね。今の経済状況みたいに。
微塵種の生き残り戦略は、誰も見たことのない世界の提示かな、なんて、例えるには語彙少な
過ぎて申し訳ない。
>>92 クオリアは有機体ベースを持っている、言語は有機体ベースと共感覚を持ち得るが、そこから
離れて自由である。という言い換えは、どれぐらいピンときますか?
クオリアについては、今も全く五里霧中で、本当によくわかりません。
例えば痛みとは何でしょうか。赤い色って何でしょうか。甘さって何でしょうか。こんな
簡単なことがわからないのです。そして、その感覚は、なぜ脳の中の特定の場所に
あるのでしょうか。脳は本当に痛いのでしょうか。脳は本当に甘いのでしょうか。この
問題を僕は本当には納得できていません。神経とは何なんでしょう。神経の末端で
起きている化学変化や刺激への反応というのは、そもそも何なんでしょう。
味覚神経を聴覚の神経につなぐと、酢の味は「ボン」という音として知覚されるという
ことを、かつてどこかで読んだような気がします。共感覚は、僕たちの神経系のずれが
知覚に何をもたらすかを教えてくれています。
脳は感覚器官ではありません。ですから、脳は何も感じるはずがないのです。でも、
僕たちは脳ですべての感覚を味わっているわけで、この極端な矛盾を解く鍵が見え
ないのです。そもそもクオリアはどこからやってきたのか。神経以前にクオリアが
なければ、クオリアはそもそも存在し得ないように僕には思えます。これも共感と
同様に生命以前のところにそのベースがなければならないように、僕には思えます。
素人のたわごとに過ぎないとは思いますが。(とここまで書いたところで、ガテンコの
115を読んだ。「クオリアは有機体ベースをもっている(!)」とある。ちょっと説明して
もらえるとうれしい。
>>116 >>114を読まずに
>>115を書きました。
「クオリアは有機体ベースをもっている」は、
>>114の
>共感は、そういった次元の素材とは意味が違うように思います。・・・だから、共感は僕たちの
>日常的な経験とは別に、より根源的な何かであることは確かだろうとは思っています。
の矮小版です。私が「理解」できる範囲の共感、つまり、人間は同じ組成だからたぶん同じ感覚
を持っているだろうという、今のところ一般的に信頼されている推論です。
だから、考え中さんの疑問には1個も答えを出せないのですが、現時点でみんなとのズレがどれ
くらいあるのか、確認しておきたくて。
>>114 >>116 を読むと、考え中さんの欠落したピースを埋めるものではないですね。
もうちょっと考えさせてください。
>>114 進化に関係して、すごく面白い話があります。
動物は発生の段階で、二胚葉動物と三胚葉動物に分けられる。更に三胚葉動物は形態分類で
旧口動物と新口動物に分けられる。面白いのは、旧口動物にも新口動物にも、脳を持っている
ものと持っていないものがいる。つまり、動物が脳を獲得する以前に旧口動物と新口動物は
枝分かれしたのだけれども、枝分かれ後の進化と平行して、各々脳を獲得したらしいのです。
(旧口動物で脳を持っているものは昆虫、エビ、カニ、など。新口動物は人間など。)
この話からいくと、脳の発生はもともと用意されていたとも考えられるよね。
(でも、二胚葉動物ではどうだろうか?)
脳だけに限ったことではないのかもしれないけれど。
感じるとは何か。それこそが問題です。赤い光が網膜の中のある点を刺激して、そこから
あるインパルスが脳のある部分に到達すると、それを僕たちは赤いと感じる。この赤とは
何かということがわからないというのが、上で述べたことでした。では、ここで感じるとは
何か。ある変化を脳が起こしているということ、脳内のある種の変化が赤という感じその
ものなんです。なぜあの色なのかという問い以前に、ある脳の変化が色であるというのは、
脳が世界をそのようにセグメントしたということでしょうか。セグメントする前は何という問い
は無意味だと思いますが、微塵の言うところの細分化されたクオリアが、脳が、あるいは
生命が自分を知る形式なのだということであることは間違いなく、僕がここで「赤って何や
ねん」と駄々をこねていてもしようがないのだと思う。
では、このクオリアは何をベースに構成されたのでしょうか。ここでもまた、例のコノハムシ
が出てくる可能性がありますね。怖いw
>>118 「脳の発生はもともと用意されていた」
宇宙戦艦ヤマトの真田さんじゃないけれども、「こんなこともあろうかと」と準備されていた
と感じるような構造が、進化の中に一貫して存在し、繰り返し現れ、僕たちを幻惑して
くれますね。そこに「あらかじめ」存在していた「構造」は、「記号」という形で眠っていた
わけです。この「形態の発現」のアルゴリズム(?)が散逸構造とフラクタルなんですね。
自然界はもともと散逸構造そのものであり、あらゆる形態がフラクタルによって展開する
のだから遺伝子がそれを最初から前提しているのは当然だと。うーむ、そうなのか。
この最初のスレでも、クオリアとは何か、という問いを考え中さんは発してましたよね。
それは、内包的な定義を求めているのではなく、これだと提示することを求めているように
みえました。
わたしはクオリアとは、まさに「何か」といわれても「これだ」としかいえないもの、もしくは、
「何か」という問いに答えることができない当のものだとして、それですませていられるんです。
だから、考え中さんがどうしてその問いを持ち続けているのか、その問いと相関関係にある
他の問題意識が気になるのです。
>>114と
>>116を読んで思ったのは、クオリアについての問いは、共感に関する問題、詳しくは、
共感のベースとしての「遺伝子以前の、あるいは生命以前の自然界の相互作用」
>>114が何か
という問題と関わるようだ、ということです。
関わるというより、関わるような予感、気配が感じられている、といった方がいいですが。
といっても、「関わる」にもかなり程度問題がありますね…
前にも一度少し触れましたが、フラクタルを単なる目に見える形についての理論と
考えるからいけないのではないかと、コノハムシの話のときに思ったのです。形態
の形成と分化は、あらゆる次元を貫いているわけで、この構造は、自然が内部に
相互作用を持つ系として変化する際に、全局面を支配する形態規定の原理なのだ
と思ってみると、いかに普遍的な原理かが想像できようというものです。もちろん、
ここで言っているのは単なるイメージで、そんなものが現実的に存在しているか
どうかは知りませんが、「ニュートン」の最新号に「脳の形成」について書かれている
文章があって、そこには対流という形態形成のダイナミズムが触れられています。
当たらずといえども遠からずかな? と思います。
きょうは、頭がいろいろなところへ放浪します。何一つまとまりませんが、この間の
クオリアと言語の話から始まる一連の話題に刺激されて、やや暴走気味にあれ
これ考えてしまいますたw
>>117 > だから、考え中さんの疑問には1個も答えを出せないのですが、現時点でみんなとのズレがどれ
> くらいあるのか、確認しておきたくて。
どのように確認されたのか推しはかることはできないですが、
わたしは今、自分ズレてるよ、と感じているところですw
もちろん、
>>118は面白く読みました。
>>120に付け加えるようなレスはできませんよ。
>>121 クオリアを考えるときに忘れられないことは、それが唯一僕らに与えられた世界なのだと
いうことなんです。これが、単なるつまらない偶然の産物に過ぎず、そこに何の意味もない
などということは、全くあり得ないと思います。むしろ、そのあり方を知ることが、多分より
深くこの自然、宇宙を知ることに直結しているはずだという思いがあります。
きょうはもう眠いので、きょうの一連の自分自身のものを含むレスについて、明日以降また
ゆっくり考えてみます。でも、少しずつ、少しずつ、単なるぼやっとした霧のようだった頭の
中に、何やら形が見え始めて来たような……、本当にそうだといいな。
>>124 よくわかりました。
クオリアとは何かという問いを擬似問題として切り捨てたいのではないです。
少なくとも考え中さんに対して。
「意味」という言葉を使うなら、クオリアの意味は何かというよりそれが意味そのものだと
感じます。
それをつまらないということは、生死に関わることですね。(←ちょっと用法が違うかも)
クオリアが共感を可能にする土台である、とは誰も言ってませんが、
クオリアが逆接的に共感を誘っている、とわたしが言っています。
ちなみにこれは、自然科学的的なアプローチではまったくありません、念のため。
なので「共感」という言葉を自分なりに使ってますすみません。
>>125 クオリアと共感の関係については、これは考えたことがありませんでした。僕の中では
全く違う出所を持つ系列の異なる概念で、接点がなかったんですね。でも、よく考えて
みれば、むしろ関係ないと考える方が不自然かもしれません。ただ関係ないと考えて
いたわけではなくて、そういう問題そのものに思い至らなかったという、ある意味お粗末な
話です。クオリアを赤と考えたり、フラクタルを木の葉の形と考えるのは、多分ゆきがかり
上のことでしかなくて、きちんと考えれば、そんなものでないことは確かで、そのように
煮詰めていくと、関連が見えてくる可能性は十分ありそうです。少し考えてみます。
ありがとうございました。
>>126 >ちなみにこれは、自然科学的的なアプローチではまったくありません
これは、僕の中でも同じことです。本来日常的な共感について考えていたことが
ベースにあって、後日、自然科学的な概念と出会ったというのが真相ですから、
大した違いはありませんよw
>>121 -126
ああ、すごくすっきりしました。
>>108 の「合理性」に対して、「だって合理的だもん。」というのが私の
>>115 の内容でした。その後
>>114 を読み、他のレスも読み返して、考え中さんとの
捉え方のズレには気付いたのですが、近づき方が分からずに混乱していました。
ああ、なるほど。
昨夜、何だかいろいろなことをほとんど思いつき的に書きつらねてしまって、今朝になって
読み返してみて、これはなかなか大変だと改めて思っています。でも、以前にはうまく
つながっていなかった幾つかの概念が、何となくふさわしい場所に落ち着き始めたかなと
いう感じがします。その意味では、多少とも前進しつつあるような気もします。クオリアの
扱いだけは、相変わらず難しそうですが……。
どれだけうまくまとめられるかはわかりませんが、少し集中して考えて、概観を得たいと
思います。何となくいけるかなという感じかな (・_・)...ん?
ガテンコへ
僕たちが意味と言っているものは、実はすごく多様で、共通する単一の定義なんて
とてもできそうにもないと思っています。そこで、僕は「意味」という単語をなるべく使わない
ようにしています。そして、いろいろ考えているうちに僕たちが意味と読んでいるものの
中身がはっきりしてくればいいと思っています。
「それ、どういう意味?」と、日常会話にも出てきますが、この質問の内容も、文脈や
状況によって多様です。意味という言葉が実に多義的だということがわかります。だから、
意味という単語を使わないで意味を語ることができれば、それに越したことはないのでは
ないかと思ったりします。昔「意味の意味」という本を読んだような記憶が……
>>115 >クオリアは有機体ベースを持っている、言語は有機体ベースと共感覚を持ち得るが、そこから
>離れて自由である。という言い換えは、どれぐらいピンときますか?
すでに話が進んでいますが、素材の問題というより、素材も含めて地球環境というローカルな
ステージで知覚し経験をし造作されてきた私達の知見は、当然ながら偏向しています。
いまは無理な、もっと大きな視野で見れば、クオリアと言語の問題はだいぶ重なっていて普遍的
であり、素材の問題は重なりつつもよりローカルな次元のちがう問題に見えると思います。
ずっと「かたち」について言い募ってきましたが、たとえば「かたち」についての言及が充分な
量に達して体系が浮かび上がり、それが有用とみなされ、啓蒙・伝授・伝道が可能なレベルに
なれば、次第に共同化してくるでしょう。長い時間を経れば、共有体験として語り合うことができ
るクオリアが備わってくるはずです。
とある(まだ不分明な)知覚領域についての、細部細目への関心がクオリアへの入り口だと思
います。「見分けへの意志」とでも言いましょうか。この場合世界の側の「見分けられる意志」が
いわゆるアフォーダンスです。
ある意味、旧来の種が、種のレベルで体験し判断していた問題を、人間は個体ごとに体験し判
断する。古典的な種は、人間の個体が知性を使うときのように、知性を使うのでしょう。
人間の個人は、古典的な種なら小進化してしまうような体験をしつつ、人生を歩んでいる。言語
的な視野、情報的な価値基準からは、人間個人の死は種の滅亡に匹敵すると思います。たん
に量と質の問題として。
(念の為、補足。ぼくは人間中心の視野は持っていますが、人間中心主義は持っていません)
>>115 >微塵種の生き残り戦略は、誰も見たことのない世界の提示かな
うん。その戦略を採用しています。
自己が適応し得る世界を、みずから創造するという戦略でもありますね。
この戦略をとる類群は、死屍累々でしょうけれど。
仮に進化に目的があると想定して、その目的も多岐にわたることにして相対化してから、
たとえば人類を現状の先端とするような経路があるとすれば、それは
「連想しあう情報の空間的集積」を目差すような経路でしょう。
神経の文明史というものを空想してみれば、人脳は都市化段階にある神経と言えます。
都市内ではクオリアという都市固有の貨幣を介して意味が取引され、表象言語という商
隊が意味を載せて都市間交易をしています。
ピロピロっと書いておりますが、言えないことを言ってみようとして悪戦苦闘ちうw
137 :
オルファウス ◆vDn3MDiuZY :04/02/19 01:49
地獄の釜の蓋が近い
あげとこ
>>132 -135
すごくよく分かりました。
>>133 >>ある意味、旧来の種が、・・・
は、そう見るか!!と驚きの視点でした。なるほど、集団で暮らす昆虫なんかが、あたかも
個体のように振る舞うなあ、と度々感心していたけれど、私が「個体」と思う個体の出現は
実に最近のことなのか。
経路の効用が実感される体験で、ありがたいなあ。
それは同時に自分の使える言葉が少なすぎることを思い知らされることでもあるのですが。
>>135 の「連想しあう情報の空間的集積」を目差すような経路 を受け入れる事への最大
の障壁は実に個人であるなあと。結局先人の知恵に頼っているばかりの私でさえ「自分の
言葉」にこだわる。
だけれども、個や所属する集団の障壁をものともしないような集積、全ての歴史、全ての知、
全ての感じを自分のものと寸分変わりなく参照引用できるようになればすごいのだけれども。
そのとき個はどのように保たれるのだろう。個々の環境は必ず偏局するから、みんな一緒には
決してならないだろうけれど。
>>131 へのレスなのだけれど、きっと訳の分からないことを書きます。本当に手持ちの
言葉が少なすぎる。
突然意味の定義にこだわってみたのは、まったく考え中さんの書いているとおり、「意味」が
多義的すぎると感じたからです。(今までは全然気にならなかったのだけれど。)「意味」と
いう名前しか思いつかない何かを自分は確かに感じるのだけれど、それが何なのかさっぱり
分からない。でも、そこに近づいて行くためには、違う意味で使われている「意味」がすごく
邪魔。だから、現状において言葉で定義できる部分があれば定義しちゃって、どけてしまいた
かったのです。
ただ、それらも「意味」でくくられる意味には違いない。今のところ、意味のエッセンスを
発している一歩深い「意味」があるのかなあ、考え中さんの感じるフラクタルや散逸構造は
ここに属するのかなあと思っています。そして、もう一歩深い「意味」もあるのではないかと
予測しています。現実に感じる個々の意味は、「意味」のエッセンスで香り付けされている
ために意味たるのかなあと。
「意味」の使用を避けようという提案へのレスが「意味」だらけになっちゃった。
>>139 提案というわけではありませんw ただ、僕はこう考えていますということです。
ところで量子化学の話、とても納得です。ああいうことを高校の化学で教えて
いたら、僕も化学は嫌いにならなかったと思います。前にも言ったことがありますが、
学校で教えていることって、おいしいところを全部削ぎ落とした魚の骨みたいで、
おいしくない!!
>>138 >経路の効用が実感される体験で、ありがたいなあ。
あ、せっかく評価してくれてるのにゴメン。いつもの私的な専門用語として使うときは「径路」と
表記しています。慣用的な場合は経路。ここは脳内の「径路」ではなく進化の経路。
もちろんこのへんのこと考えるときには「径路」を活用していますが。
>>138 >「連想しあう情報の空間的集積」を目差すような経路を受け入れる事への最大の障壁は
>実に個人であるなあと。
言葉足らずでした。「集積」の単位は個人です。だから頭に「連想しあう」と付くのです。
種としての人類は、地球種としては珍しく、種的共感の重力から離れる方向への離脱速度を
得ようとしているのだと思います。
だから個体にとっては、常にアンビバレントな状況です。人類に安住できない人類として。
個体にとっては、ますます幸福になりにくい傾向が強まるでしょう。ただ種の基礎体力を削り過
ぎないように、揺り戻しがあるでしょうから、その揺り戻しの時代に生まれ合わせれば、たぶん
宗教あたりの領域に目新しい展開が見られ、個体にとって比較的幸福な時代になるかも。それ
はきっと後世に語り継がれる人気時代になるでしょう。ヨーロッパ史の中世や、日本史の戦国時
代みたいに。
>>141ってなんか「経路」じゃなく「径路」と書け!って言ってるみたいに聞こえるね。
そういう意味ではなく、
>>135でぼくが使った「経路」はふつーの意味ですと言いたかったのでした。
>>139 横レスーーーw
私達が読む辞書の上の意味は、「定まろう、固定しよう」としていますね。
対して頭の中の意味はいつも、変わり得る方向と連想可能性の系を背景に、変わろう、うつ
ろおうとしています。
生きた意味は常に多義的であって、意味の意味ともなればだいぶ非決定でしょう。
あらかじめ明証的な意味に、言葉があてがわれるのではなく、言語の重力が恒星や惑星を
形成するように意味を境界付けて、明証的な状態を構成する。
頭の中の意味は、量子論的にふるまうと言ってもいい。
言語によって観測可能になり、観測されるまでは波で、観測される度に粒になるのです。
粒にしないと定位できないし、んでも波のほうも表現したいと思えばこそ詩みたいなものが、
書かれたりもするのでしょう。
粒が性に合ってる人は理系に行って、どうも波に揺られちゃう人は文系に行く、とかw
>>109 >立ち位置が違うのか?裏返しに見てる?
あれは引用なんで、俺としてはなんとも言えんw
そういう見方ですっきりする人もいるみたいよ、ということでした。
クオリアであれ、意味であれ、言語であれ、背景にむっちゃ長い時間と大量の偶然を含んで
いますから、過不足なく起源に遡行するのは難しいですよね。
今から十万年も経てば、理系―文系を分水嶺にして、交配不能な二種の人類が成立してい
て、おたがいに一生懸命両種の起源について想いを馳せているかもしれない。
「いつごろから、どうして差別しあってきたのだろう、我々は・・・・・」などと苦悩しているかもしれ
ないw
>>141 >>143 えーっと、私が感謝したのは脳内の「径路」が増えたことについて。だから
>>138 経路→径路
に訂正。その他の経路は進化の経路で誤解はありません。
>>142 う、すごくよく分かったと書いてしまった。これからは分かったと思っても書かずにおこう。
でも、もう駄目だ。攻殻機動隊2が好きだって以前どこかで書きましたよね。もう今更イメージの
修正が効かない。ネット世代は自分が手にしている情報がバーチャルであることの不安を乗り越え
つつあるのかもしれない、とまで考えてしまった。(ネット世代でなくてもそうだったかも。)
よい。微塵とは分かれてこっちの可能性を追求する。そしてバーチャル・スターリンを目指す!!
>>148 >ネット世代は自分が手にしている情報がバーチャルであることの不安を乗り越え
>つつあるのかもしれない、とまで考えてしまった。
肉体だってバーチャルだからね。
んで、俺の言ってることは、ガテンコの見方と相反しないと思うよ。
トップダウンでかかるバイアスと、ボトムアップで抱く可能性は一致する必要ないから。
合格者全員が同じ参考書を使ってたら、その参考書は合格の役に立ったと思いがちだけど、
不合格者全員もその同じ参考書を使ってたとしたら、役には立たなかったのかもしれない。
歴史に二重盲検法するわけにもいかないし、進化って、どうしても合格者だけを過大評価
しやすいなぁと思う。
化石なんて、遺って我々の目に触れたヤツなんて超難関だな。
歴史の圧倒的多くは遺れなくて、そこにも真実はあるのだろうけど。
人間を指して「生物は進化する」と言うなら、それと同じくらいは
「生物は進化しない」とも言える。
三十数億年ずーっといまだにバクテリアやってるヤツもいるわけだし。
何故三十数億年もバクテリアで甘んじていられる?怠け者か?
「微生物→人間」の流れを進化と呼ぶのって、「種→木」じゃなくて、
「種→枝」の流れを成長と呼ぶみたいな。「受精卵→人」じゃなくて、
「受精卵→脳」みたいな。「全体→部分」。
今いる全ての生物同士の差違は遠い親戚同士の違いでしかなくて、兄弟同士の違いと
程度の差でしかないんだろうけど。
生命の発生元が一つだとしたら、だけど。
だから、
>>142 >種としての人類は、地球種としては珍しく、種的共感の重力から離れる方向への離脱速度を
>得ようとしているのだと思います。
に対しては、
その部分が強調して見えてしまうだけかな・・・と。
始めから全体→部分の流れに乗っちゃってる。
>>147 >今から十万年も経てば・・・
そういうことがあっても不思議ではないね。
ネアンデルタール人って、我々の祖先ではなくて、我々の祖先が滅ぼしたであろう
別種の人類なんだそうな。
ネイティブアメリカンなんかも危うく・・・。生物学的には同種だけど。
>>151 傾向の抽出としての、とりあえずの表現だよ。
造語と新奇な概念が多すぎると、文意が伝わりにくいから。「進化」なども価値付けのけはいを
脱色して読んでくだされ。
商品経済と個体化
個体化は商品経済とともにあったと思います。商品経済を疎外ととらえる
マルクス的な視点で歴史を見てはいないのですが、それでも商品経済とは
何かという問いは、どうしても消せません。排他的な共同体が出会う形式が、
戦争などであった時代から、長いときを経て共同体は解体されてきました。
最終的にヨーロッパの共同体を解体したのが資本であったということは間違い
ないと思うのですが、それによって商品経済(市場経済)が支配的になった
わけです。このことと近代の個体化は相即的な事柄であると思います。個と
共同体という2つの原理が相剋する近代社会のジグザグは、個人主義が
共同体の排他性の内面化に過ぎないところから来ていると、僕は考えて
きました。ですから、近代の超克というのは、問題としては「偽」であって、
個と共同体の二元論を本当に克服するとすれば、共同体由来の排他性を
基礎としない個を確立することが不可避だと思えるのです。ここにカウンター
システムの論理的な根拠があると僕は考えます。
本当の意味で個の問題を考えるときには、僕は共同性と個を対立した形で
考えたくないのです。ヒトが人間になるということの基礎を共同性に置くという
のは、そのような歴史認識に由来します。
>>153 うん。
微塵はそういう傾向が強くて、引力圏ギリギリのところにいるのかもしれない。
でもそれは、人間に限った事じゃなくて、とりたてて珍しいことではないと思う。
(地球に許される範囲で)最もバクテリアから離れたかったバクテリア(の一つ)
が我々だし。
魚から離れて、トカゲから離れて、獣から、サルから・・・伝統を守り続けて
ここまで来たけど、今までそうだったからと言ってこれからもそうとは言えない。
離れる香具師もいるだろうし、留まるのも、戻るのも。逝くのも。
三十億年留まり続けた香具師が三十一億年目に離れたくなるかもしれないし。
結局は環境に背中を押されてなのだろうけど。
ただ、離脱速度を得るまでの時間がどんどん短くなってるかも。
加速度が級数的に上がってる?
遺伝子組み替えなんて何万年、何億年単位だっただろうに・・・。
ところで生命の発生って根っこは一つなのだろうか?
数億年前に発生したり、数万年前、たった今、深海の底で・・・
ってことはないのだろうか?
生命の進化の「樹」は一株しかないの??
>>154 「お金」ってさー・・・上手く相対化できないよなー・・・。
カナーリ絶対的だと思う。勝てねぇ。絶対神。
「物の価値」を数値化したものなのだろうけど。
数値化って最強だよ。解り易すぎる。数数えられる香具師なら誰でも。
今じゃ物以外の全ての価値も金で測られる。
ちなみに曙のプライドは推定6億だって。
相対化するなら、「精神の価値」を数値化?
なんて考えてみたりするけど、なんか野暮だよね。
>>156 逆のような気がします。すべてを相対化するのが貨幣、カネでしょう。そのことによって
「絶対的」な位置を占めているわけで、我々が相対的な存在であることを受け入れて
いるうちは、貨幣はその位置を失うことはないわけで……
>>122 フラクタルってスケールが無いんだよね。ある部分を拡大してみても、
拡大する前と区別が付かない。相似だから。
基準となるスケールがないから微分できない。
顕微鏡でエレメントを探そうとする人は面食らうかも。
入れ子構造的な考え方は昔からあったのだろうけど、
「それでは説明になってない」と一蹴されちゃったんだろうなぁ。
分けよう、分けようとする人、スケールを変えようとする人には、
カウンター的な視点移動の機動力を与えてくれるかな。
。
。
。
マンガの描写で「集中線」てあるじゃないですか。「カタチ」の認識の時に、
意識にあの動きがあるんですよ。無意識に。オートマチックに。
それに対して、次のコマへ視点を誘ったり、隣のコマにはみ出したり、
コマとコマを繋ぐ捨てゴマだったり、そういう意識の動きの表現がありますよね。
そういう意識の動きの視覚化では日本のマンガはダントツだと思う。
マトリックスのブレッドタイムなんかはそれが解ってる。
意識の世界のマトリックスでやったからこそ、より意味がある。と思う。
上の段から下の段へスムーズに移動してくれるといいなぁ。
>>157 なるほど。そうとも見れる。
・・・と、言うべきか・・・。
うん。絶対そう。
もしくは、
否。絶対そうじゃない。
と、言うべきなのかw
数学最強?
>>157 もう一度少しマジレスすると、
>逆のような気がします。
逆と言うより、前を端折ってるんだね。
>すべてを相対化するのが貨幣
「全ての物同士を」ということだね。経済を始まりまで遡れば「物々交換」
になるのだろうから、物同士の相対化から始まって、天秤の軸として「カネ」
が生まれた。
で、俺が言った「お金が上手く相対化できない」ってのは、
その天秤ごと、更に大きな天秤に乗せるには反対側に何を乗せたらいいか。
で、なるほど相対化ってのは「交換可能」ってのがポイントなんだろうな。
物と精神が交換可能になれば・・・。その為の軸は?
ああ、でもそれってやっぱり野暮だなぁ・・・。絶対的に野暮だw。
「それを言っちゃぁお終いよ」とか、そういう奥ゆかしさは失われつつあるけどね。
うーむ。この辺とっくに通過済みの人から見れば、「何当たり前のこと言ってんだ」
とか、過去を振り返って目を細めたり、遠い目をしたりするんやろな。
「俺様」を軸に世界を相対化・・・これだな。
そして俺様は孤独の風に吹かれる。。。
>>145と
>>158ってカタチが似てません?
と思うのだけど。
158は個人的に、まだラフだけどかなりいいカタチ。
>>160 時間の天秤にかけると、その時々の貨幣価値が相対化されると思うけど、どうかな?
そうすると微分も可能かも。ある時々のその瞬間の貨幣価値の傾き。(現実に把握するには
関数が多すぎて無理かも。でも、指標程度には。時代の雰囲気程度には。バブルにいち早く
見切りをつけれる程度には。)
>>149 まだ読み違えていたみたい。クオリアを統合する自分の出現って言ったら、どれくらいピン
ときますか?
>>163 いいえ、読み違えているのはこっちではないかな。
>クオリアを統合する自分の出現
それは「他者のクオリアにまで影響力を持つ自己」ということですか?
それとも「多様なクオリアを内面で相互に翻訳できる、随意共感覚を備えた自己」?
>>158 フラクタルについての本って、ほとんど読んだことがない。多分1〜2冊パラパラと
見ただけだと思う。数式は要りませんが、フラクタルの思想について何かわかり
やすい本はありませんか。多次元フラクタルというのもありそうで、そうなると、
数学的には理解することは全くできないと思うんですが、それが具体的にどの
ようにこの世界の形をつくることに関係しているかということには興味があります。
木の葉やカニの甲羅や海岸線の形の話だけでは、ちょっと興味がかきたてられ
なかったのですが、ここでいろいろ形の話をしていると、ちょっとずつ想像力が
刺激されて、どこかにおもしろい本はないかなと思い始めました。
フラクタルでぐぐってあっちこっち見て歩いてたら、複雑系とフラクタルは同じものだという
趣旨の話があった。僕のなかではうまく結びついていません。これって、結局数学の話
なんだよね。そうなると、やっぱりそこをうまく理解できないとだめなのかな。今から数学
という話にはならないので、その辺うまく理解できるような本とか、サイトとかないかな。
>>162 時間を天秤とするのは、過去と未来(現在?)を交換可って事で、
「脱右肩上がり」程度に表面的には認識できますが、
感覚に染みついてる時間の神は交換不可の物差しで、手強いですね。俺には。
「若さ」と「老い」とか、「生」と「死」とか。
熱力学第二なんちゃらとか、エントロピーなんちゃらとか。
新皮質の意識を延髄レベルまで浸食させられれば・・・。悟れるかな?
物と精神の交換レートの一つは「クオリア問題」だと思う。
クオリアを持ったコンピューターが出来たら・・・終〜了〜みたいな。
「私」と「CPU+ハードディスク」は等価?みたいな。寒い。
>>165 俺もハッタリかましてるだけで、フラクタルについても専門的なことは全然
知らないし、あまり興味もないのですが。別に世界の全てを説明しようなんて
気もさらさらないし。
ただ私個人にとっての「フラクタル」で大事な点は一点につきます。
それは。。。
>>168 個人的な感想としてしか何も言えないのですが、フラクタルの意味は、多分僕たちが
感じているよりはずっと深く進化に関与しているように思えるのです。ものの形が
あらかじめ遺伝子のなかにひな型のように準備されているのではないと考えると、
形を形成するアルゴリズムのようなものが遺伝子情報に含まれていると考えるしか
ないわけで、フラクタルの意味はそれだと思うのです。進化と散逸構造のつながりは
僕の頭ではいま一つよくわかっていませんが、散逸構造とフラクタルがメダルの裏表
のような関係であるとすれば、これらは全部つながっていて、進化の「合理性」を
きちんと説明できるのではないかと思えるのです。もちろん、結果から見た合理性と
いう奴です。進化は予想できないということも、当然含まれています。
この間の微塵の進化に関する話は、この考え方と矛盾していないと思います。てゆうか
コノハムシ以来の微塵との対話と、散逸構造・フラクタルの話は並行して進んできた
と思うんですが、これは全然別のことではないなと改めて感じているわけです。しかし
各論に入ると数学になるので、ここはだれかわかる人がいればなぁと思います。実際
フラクタルについて解説してあるホームページを見ても、常に数式とセットなので、
わからんのよ。数学って何だよ、ガテンコあたりに説明してもらえればうれしいなw
ついでに非線型台数についても∩( ・ω・)∩
この辺に関してなぜこだわっているかというと、実は「目的論」との関わりがあるからです。
ヘーゲルには、胚は潜勢態としての概念であるという考え方があって、概念の実現という
考え方をするわけです。これは、表現型についての素朴な観念論だと思いますが、結果
的合理性という考え方を適用すれば、これは簡単に言い換えができそうです。同時に、
これはギリシャ哲学以来の合理性についての考え方を揺るがすものでもあると思えます。
ヘーゲル哲学は生命を一つの範型としていると思われるので、そこをさっぱりと換骨奪胎
できるといいなと思っているわけです。
合理を字義どおりに読んで、「理に合わせる」ことだとすれば、なんで理に合わせるのかというと
想起の組織化のためだと思います。
「記憶」という制度が確立して、「想い出す」径路がいったん形成されれば、それ逆行することもで
きる。その「反対からたどる想起」を効率化するのが「目的」の目的でしょう。
その「目的」の径路を逆にたどれば、「未来から意図的に想い出されるときの、現在や過去」という
想定も可能になり、時系列は組織的奥行きを得ていきます。
未来は未定であるために、対象としては(現在・過去よりは)広大ですから、目的という文脈によっ
て、これから訪れる情報に対して、あらかじめ重み付けの配分をしておく必要がるのだと思います。
>>172 これは以前にも書いていたことですね。この限りでは全く異議ありません。そのとおり
じゃないかな。合理性とか目的という観念が、自然発生的にはもっと大きな観念である
ということが問題なのだと思います。そして、それは僕たちの日常の隅々にまで入り
込んでいると思います。ましてや、僕は長い間哲学的諸観念をこねくり回してきたので、
あっちこっちでその影響を受けていて、ぐるぐる巻きになっているような気がします。
コノハムシショックをもっともっと広く深く自分自身に徹底する必要があると思うのでつw
言語と脳と感覚の関係についても同じことだし、遺伝子と表現型の関係なんて、以前は
全く理解不能でした。形というものの持っている不思議を理解する術がなかったのです。
そこから考えれば、ヒントに過ぎないとは言え、今はいくぶんましになってきたんじゃない
だろうかかと、自分では思っています。合理性や目的論そのものが間違っているという
ことではなくて、実は説明のつかないところを何とか説明しようとするあまり、拡張的に
既存の観念を適用してしまうというところに錯誤があるんだと思います。
社会や歴史あるいは人間の社会的な営み全般について、合理的に説明したいという
欲求があっても、それを実現するための適当な手段がないために、そのような錯誤は
起きてしまうのだということになるのかもしれません。
>>164 >「多様なクオリアを内面で相互に翻訳できる、随意共感覚を備えた自己」
は「多数のクオリアを互いに関係付け、内面の世界像の中に結び、また既に関係付けられている
一群のクオリアを想起させてイメージ像を結ぶこともできる自己」と言い換えることはできます
か?
その自己の出現が「連想しあう情報の空間的集積」を目差す経路の途中にあった、という方向に
理解しているのですが。
>>169 フラクタルもカオスも、ある関数から出力された値を再度その関数に入力することを繰り返す、
フィードバック・ループがとる値の数列のパターンなんだそうです。
繰り返すと周期的または周期的に近い振る舞いをする関数が、フラクタル、カオスの元で、同一
の関数の中の定数が特定のある値より小さければフィードバックした値の数列は規則性を持つし、
その値より大きければその数列は混沌としてしまうのですって。
参考にしたのは「メタマジックゲーム」D.R.ホフスタッター著、白揚社です。
この本分厚すぎて、買ったはいいけれどほとんど読んでない。この項目もこれから詳しく読んで
みるところです。
非線形式は私も以前からわかりたいなあと思ってはいるのだけれど、残念ながら達成していませ
ん。できればそのうち、おいおい。
>>174 ほおほお。何だか少し突っ込んで聞いていきたい気がしますね。線型代数というのは、
微分積分とどの程度違うことなんでしょうか。そして、線型と非線形というのは、乗り越え
られないほどの差異のあるものなのでしょうか。コンピュータができたことによって、非
線型代数の計算ができるようになってきて、散逸構造の理論が生まれたという話をどこ
かで読んだ気がしますが、それは計算が複雑で大変だというだけで、根本的には線型
代数と大差ないのだということを意味するのでしょうか? この辺、よくわかりません。
えへへ、まず訂正。
>>169 繰り返しから生まれる規則性→フラクタル図形になると思いこんで
いました。このやり方では、フラクタルにはなりません。
そうではなくて、散逸構造になってしまう方、の特別なパターンのものの中に、自己相似構造
をもつものがあるんだって。
非線形数学は数学初心者用の参考書なんかあり得ないから、解説読んでも最初からわけ分から
ないのです。根気よく計算すれば値を出せるらしいのですが、予測は不可能(だからカオス)
みたいです。
またよく分からないままで書いているので、はっきりしたことができたらまた書きます。
>>174 「その自己の出現が『連想しあう情報の空間的集積』を目差す経路の途中にあ」ることは確か
だと思いますが、引用された表現はまだ実現されていない将来像のつもりでした。
>>178 経路の途中にあった、はまずい書き方でした。まだ「自己」の出現と言語の出現の関わりが上手
くイメージできなくて、そこを飛ばしつつ文に仕上げようと、かなり四苦八苦したのですが、誤
魔化すのって難しいな。
カオス面白い!
「カオス−新しい科学をつくる」J・グリック 新潮文庫
以前読み通したのかな、そうだとしても面白さがちゃんと分かっていなかったようです。
>>174 に書いたのは、カオスの生まれる原理のエッセンスみたいなもので、数学者である
ホフスタッターさんは、単純なものが推測不可能なほどの複雑さを生み出すことに惹かれ
ているみたいです。だけど他にもいろいろな面白さがカオスにはあるのでした。
混沌=カオス、ではなくて、複雑系のとる振る舞いがカオスということです。
3つ以上の変数を含む系は複雑系で、その変数たちがお互いに及ぼしあう影響を考えるとき、
その変化の様子は2つの変数からなる系のように線形では表せない、つまり非線形なのだそ
うです。値がとびとびに出てくるので、予測がつけれない、近似値をいったりきたりして、
落ち着く先を手探りするしかないのだそうです。
それで、近似値をいったりきたりする計算をコンピューターにガンガンやらせると、一見
出鱈目に現れると思える点が、不思議な規則性をもって複雑な図形(例えば、どのスケール
で切り取っても不規則さの度合いが同じであるフラクタル図形)を描き出すのだそうです。
もっといろいろ面白い性質をもっているのだけれど、長くなるのでやめます。
>>155 で、この瞬間に深海で新たな生命の樹が芽生えている可能性はないのだろうかと
いう問いがありましたね。エントロピー増大の法則で世の中が均一状態に向かおうとす
る中、なかなか生命の誕生の場になるほど濃い場所は現れないと思える。でも、エント
ロピーが支配していると思えるような散逸的に見える現象の多くが、実は複雑系の
ふるまいとして説明つくようだったら、案外世の中はまだまだ濃いのかも。
そして、新種も生まれているかも。
>>179 言語の対象化のはたらきによって、「自己」を対象として捉えることができるようになったのだと
思います。
つまり自己と「自己」とのあいだに距離が生まれたわけです。
>>180 『カオス』おもしろいよねー。読みでがあるしw
あれはメンジャースポンジが載ってるから、私的に特別な本です。
メンジャースポンジには血縁者みたいな親しみを感じる。
文字以外のもので書かれた「世界の名前」のように思える。
体積のない立体、というところが、心みたいでもあり。
>>181 定義上矛盾する表現になると思いますが・・・・と断ってw
言語以前にも意識以前にも、生命システムの中で、情報の処理効率のために「記号」は使われ
ていたでしょう。
知覚情報は、古典的な生物においては意識を介さずに処理されていたでしょうが、「記号的作用」
が対象化されたときに「記号的表象」となって、クオリアが立ち上がりました。記号と「記号」の距
離が、クオリアのディスプレイであり意識の余地です。
その後、多様なクオリアを統合的に処理するために、同期の指標としての「現在」と「世界観」が
生まれる。高等哺乳類はここまでです。
人間と言語の登場によって、恣意的な記号の付与が可能になり、「すべて」さえ対象化できるよう
になりました。つまり存在しない視点、自己の外、あるいは世界の外からの超越論的な視点を持
つことが可能になった。いわゆる形而上に立つこと、メタフィジックな視点の獲得です。
このとき始めて、
自己を含んだ世界を見詰める「自己」と、
「自己」を見詰める『自己』が可能になったのだと思います。
記号の恣意性と、形而上の視野が可能にすることは、メタファーであり、シミュレーションです。こ
れが知性にとっての自由な新天地であったことは、想像に難くありません。
あ、すみません、183の二行目の「記号」は、「」をはずしてください。
とかなんとか細かいことを言い始めると、結局ぜんぶ書き直しだな。ここは妥協や!w
>>180 >そして、新種も生まれているかも。
生命のタネは地球原産ではないような気も。地球環境で自然に生まれて無事育つの、非常に
無理っぽい気がしてならん。
「これじゃあ生まれるよねぇ、生命」と言いたくなる環境がどこかにあって、地球生命は渡来種
だと考えたほうが、ぶっちゃけ気が楽なわたくしですw
「カウフマン 生命と宇宙を語る」という本を最近買いました。ときどき拾い読みしてます。
前のはちょっと難しくて途中でとまっていますが、これは何とか読めそうな。それにしても、
数学の話がいっぱい出てきます。大学は文学部だから、僕の数学知識は高校でストップ
してるし、おまけにほとんど忘れている。前にも書いたと思うけど、数学は嫌いだった。
おもしろかったのは微積だけ。そのときは授業が楽しかった記憶がある。でも、本当に
おぼえてないんよ。プリゴジンの「混沌から秩序へ」というのも、拾い読み中。集中力が
なく、なかなか進めない。ほかにも微塵に勧められて買った本(永井とか)もあるし、
もちろん「幽霊」やらアフォーダンスも「脳の社会」も山積み。大変w
散逸構造を初めて知ったのは80年代のことですから、20年になる。もう少しちゃんと理解
したいと思い続けて今日に至りました。まだわからないことだらけ。形態形成についても、
あれからだいぶ進んだんじゃなかろうかと思って、少しぐぐってみたけど、これまたよく
わからない。新しいことを勉強するのは、年齢的にもうつらいんだけど、頑張らなくっちゃ。
ガテンコも、今さら複雑系に突っ込むのは大変だと思いますが、もしよろしければ、いろいろ
教えてください。プリゴジンなどはどうでしょう。エリッヒ・ヤンツとかもありますね。
まじに、寝なくちゃ。
>>187 プリゴジンの著書は、「混沌からの秩序」でした。
津田一郎の『カオス的脳観』、新しい本じゃないけど、考え中のニーズに(ある程度)応える本
ではないかなー。だいぶ硬いけど。証明不能のことも、信念で言ってくれるところが津田一郎
のいいところ。“背中に羽根のある研究者”みたいな。
すすめてばかりでスマソw
ちょっと引用してみるる。
―カオス力学系においては、“得られたもので駆動する”という奇妙な論理が成立する。言いか
えれば、カオス力学系においては、運動方程式を解いて得られたカオスの複雑さと同等の複雑
さをもつ初期条件を与えねばならないことになる。(中略)
我々は、カオス力学系を目の前にしたとき、適当な初期条件を与えて計算機で方程式を解く。
(中略)このような“いいかげんな”初期条件では、正しいカオス解をトレースできない、ということ
である。一方、現実的には、我々はこのような“いいかげんな”初期条件しか与えることができな
いという事実は、我々が計算機で得るカオス軌道は、真の軌道の影ですらない、ということを示
している。もしも正しいカオスを得たいなら、運動方程式を解いて得られるすべての正しい情報を
あらかじめ知っておいて、その情報を初期条件にコードすることで運動方程式を解かねばならな
い。このような状況は、運動方程式がカオスを生成するときにはじめて出現する。カオスが存在
しないなら、初期条件は運動法則と独立に与えても解の確からしさは全く変化しない。
(『カオス的脳観』p58)
ここはまだ脳の話じゃないけど、カオスの不確定性が、自己言及に関わることがよくわかります。
あと、科学者は生来の体性感覚で「カオス派」と「非カオス派」の二種に別れ、このニ部族は
たがいに相容れない、だとか、津田一郎自身の独特の表現で語られた「物心ついた記憶」と
か、本題の脳以外の話もおもしろいです。
あ、読み返してたらすごくおもしろいことが書いてあったw 引用しちゃえ!
膨張宇宙の中では、時間の後に位置する世界にいる住人が常により分離された世界にいる
ことになる。このことは、宇宙定数を我々は未来になればなるほど、細かい桁まで知ることに
なるということを意味する。これは観測技術の向上とは関係のないレベルの話である。むしろ
宇宙定数自身の時間発展に関係する。観測技術が全く同じだとして、過去の宇宙に住んでい
た人は、我々よりも粗っぽい数値しか認識できなかったであろう。これと関連して、現在、無理
数と考えられている数は過去の宇宙においては、有理数だった可能性がある。もっと過去には
整数であったろう。現在、計算不能であると考えられている数も過去の宇宙では計算可能であ
ったろう。実数の存在は宇宙の膨張によって認識可能になったのだと考えることができるよう
に思われる。すると、計算不可能数であるカオスは、遠い過去の宇宙では存在しなかったこと
になるのではないか。カオスは宇宙の進化と共に我々の前に現れたのではないだろうか。
(『カオス的脳観』 p153)
>>192 微塵の好きそうな話ですね。宇宙定数自身が発展するという話は初耳ですが、
そんなもんなんですか? よくわかりません。カオスが宇宙の進化とともに現れた
というのは、妙にそそる言い回しではありますが、生命がカオスの縁に現れる
ものだとすると、生命もまたそのような意味での宇宙の進化の産物なのだと?
それにしても、数十億年単位のスケールで考える話なんでしょうね。頭がパンク
しそう!
>>193 俺もよくわかりませんw 津田一郎は日本の第一人者ですからトンデモではなく実のある夢だと
思いますけどw
>>194 そう言えば、津田一郎という人の名前すら知りませんでしたw
ざっとぐぐってみると、何冊かおもしろそうな本がありました。検討します。
脳と散逸構造の関係に関しては、間違いなく何かあるだろうとは推測しますが、
僕の中では今のところ全く結びついていません。最近書いた形のことに関しては
「ニュートン」の記事は読みましたが、脳の働きや構造、あるいはその内部の
処理系と散逸構造との関係については、実際全く読んでも考えてもきませんでした。
そういう手がかりになるのなら、少し手をつけてみてもいいかな。どっちにしても、
えらく大変そうだなというのが今の感想です。数十億年とか……。
今までの話とはちょっと角度を変えて散逸構造について少しだけ語ってみます。
実のところ、あれがどう役に立つのかということは、僕には全然わかっていません。
もちろん、数学的な部分を全然理解できていないのだから、役に立つ立たない以前に、
まず理解しろよということがありますが、それとは別に感じることがあります。それは、
圧倒的な解放感とでも言うべきもので、かつて廣松やマルクスに感じた以上の、
何とも言えない気持ちよさがあるんです。理解してないのに、何でそんなことが
言えるのかという突っ込みには、あえて返す言葉もありませんが、最初に僕が知った
一連の思考は、純粋理論としての散逸構造論ではなくて、実験的な自然科学の
分野の知識が、散逸構造によってどのように変化し、どのような見え方が創生される
のかといったものでした。僕はこれに感動したのです。かなり激しく快感を感じました。
(脳内麻薬!)この僕の感じ方は、もちろん僕個人のもので、それが普遍的なもので
あると主張する気はないのですが、この感じ方は、物事を理解するということに
ついての僕の考え方とぴったりくるものだったのです。それは、人の営みとは、自然の
内部に入り込んでいくことだというものでした。だから、その当時相当興奮しました。
しかし、その理論が自然科学の理論であったために、残念ながら理解できない部分が
ほとんどだということで、長い間放置するしかありませんでした。
去年読んだ「複雑系」は、その意味で本当に久しぶりに読んだそっち系の本でした。
僕が放置している20年の間に、アメリカではどんなことが起きていたのかということを
教えてくれたわけです。僕は自然科学者でもないし、科学ジャーナリストでもないから、
これらの知識や思考がどのように今後展開していくのかということに純粋に個人的な
興味は持っていますが、例えば今僕が考えているような問題とどこでどう結びつくのか
ということは、全くわかりません。ただ、僕の中ではこれらの問題は別の問題ではない
という非理論的な確信があったりします。微塵ふうに言えば、僕の中ではこれらの
問題は同じ形をしているのだと多分思います。だから、わからないなりに僕はこれを
勉強し続けるんだろうと思っています。
>>190を身近な手触りに引き寄せてみます。
このスレに書かれているような文、どれでもいいけど任意の一文を理解しようとするとき、まず
冒頭の一語から読み始める。その一語、つづく一語一語は「やがて文全体の意味を特定する
ため」にとりあえず意味を特定しなから読み進むわけですが、一語の意味を特定するために
は「文全体の意味」を前提にしなければなりません。
つまり読み始めるためには読み終わっている必要がある。
じっさいは、語義も文意もたがいにかまいあいながら、手に手を取り合って「最終的な文意」に
着地するわけですが、私達は思想や哲学などの射程と時間的スパンの長い営みをするときに
もおなじようにします。とりあえずの文脈から、細部に「未決定なりの決定」をくだしつつ文意・文
脈が鮮明になっていってくれるのを待つ。
コントラストを付けてみれば、「細部を集めていけば、じきに全体が浮かび上がってくるべえ」と
のんべんだらりとやっているのが私の性に合っているとすると、考え中は「あらかじめ全体を想
定しておかないと、細部の処理が非効率で手応えがないべー」と感じるのかな?などと思って
みたり。
>>197 >あらかじめ全体を想定しておかないと、細部の処理が非効率で手応えがないべー」と
>感じるのかな?などと思ってみたり。
そういう感じではないですね。全体が見えていないときは、細部への志向性そのものが
不安定で、気持ちが乗らないていう感じ。もともとの全体の感覚が混沌としているようで、
そういう状態の自分が好きではない。その場限りの対応に終始して、一貫性がない。
細部の差異に目を奪われると、そこに巻き込まれてしまって、それにかまけてしまう。
目先の利害に振り回されやすい。もともと全体が混沌としているのは、明らかに育ちの
せいだと思っていますが、ガキのころから、対象変革的な視点が持てないと、コミット
できないというたちのようです。小学校低学年のころから、そんなことを感じていた記憶が
あります。
>>198 そういえば、全体が見えていないと、自分に倫理感が欠落したり、周囲の一人一人が
理解できないという感覚にとらわれて身動きがとれなかったり、すごく不自由な感じに
なるのです。倫理感が欠落しているというよりは、育ちの中で持った倫理感が変なの
だと思うけど、周囲の社会との強調に困難さを感じます。これは、日常生活でのお話。
>>191 >科学者は生来の体性感覚で「カオス派」と「非カオス派」の二種に別れ、このニ部族は
>たがいに相容れない
これよくわかるな。俺と考え方似てるかも。
でも、多分もう少し踏み込むなら、非カオス派は閉鎖系で「相容れない」けど、
カオス派は解放系で、「相容れたり容れなかったり」だと思う。
>>192 ちょうど、線形代数の話が出たところで、線形空間を過去に遡ってみて、
整数空間とか自然数空間とかについて考えて楽しんでた所だったのれす。
整数次元では割り算は掛け算に置き換えられないし、自然数次元では引き算は
足し算に置き換えられない。掛け算の操作の線形性もなんか微妙。
割り算は割り切れたり割り切れなかったりかなり妖しいな。
a÷X=Y あまりZ として整数3次元を取ってみたら面白い形になりそうとか。
自然数→整数→実数と広がっていくときの、意識の動き、つじつま合わせの
カタチが面白い。言葉で説明しにくいけど。
>微塵
「カオス的脳観」を入手しますた。これから読みます。ざっと見てみたら、
おもしろそうな本です。でも、難しそう。脳にたどり着くのにどれだけ時間が
かかるか予想できませんが、少しずつでも読み進んでみます。どもですた。
大事なこと!
それは人によって違うのだろうか。何だか人生相談のようですが、そうではなくて、
人が生きていく上での核心の部分というのは、実はそんなに違わないということ。
しかし、そのことを万人にわかるように伝えることは、それを単に理解することより
ずっと難しくて、方便ではないが、相手の立場を本当に理解した上で、相手に理解
できるようにきちんと伝えるって、大変だ。
言い換えれば、多分核心の部分を自分なりにつかむことはそれほど難しくない。
しかし、それを他者に伝えることは、極めて困難である。あるいはむしろ、他者に
伝えることの本質が、それを通じて自分を理解することにあるとすれば、本当の
核心の理解は、他者とのコミュニケーションの中にしかないのだということかも
しれない。(妙にヘーゲル的だ)
小さい本なので「カオス的脳観」は、大分読み進みますた。まだ全体の感想は
書けませんが、少し刺激を受けているようです。カオスにベースがあるっていう
のはおもしろいと思う。数式を飛ばして読んでいるので、細部がどこまで理解
できているのやら、心もとないですが、記憶の話やら、解釈の話やら、すんなり
頭に入ってくるのはうれしいです。
読み終えたら、また何か書きます。
てなことを言いながら、昨夜寝る前に読んでしまいました。
読み終えて、頭の中が少しすっきりしたかな。あの本に書いてあることが理解できて
すっきりしたというよりも、読みながらあっちこっちの連想が動いて、そっちの方が
効果がでかかったようです。でも、まだ頭の中がまとまったというわけではなくて、
この間宙づりになっているいくつかの問題が少しつながってきたかもしれないという
ことです。それはおもしろいことなので、この人の本をもっと読みたいと。また直接
書かれていたことではないんだけれども、感覚について少し考えてみようと思いました。
脳内のカオスは、その後どうなったんでしょう。かなりの年月がたっていますから、
いくつかの分野では目覚ましい進展が見られたのではないかとちょっと期待して
います。というわけで、感想というほどのものはまだ書けなくて、起き抜けの印象
をそのまま書いてしまいました。amazonへ行こうっと(^0^*
おもしろい本ではありました。ありがとうございました。>微塵
>>198-199 > そういう感じではないですね。
わたしの読みでは、続く考え中さんの文章を読むと、「そういう感じですね」
なのではないかと思えたのですがまあそれはいいとして、自分も、全体がみえ
ないままのんびりしていることができない質なので、
> 宇宙定数自身の時間発展
>>190 なんて言われるだけで、うわ!と反応します。嬉し楽しくなるんですけどね。
>>205 そうなのかな。自分ではわかりません。ぐらぐらしている自分の立場や考え方が嫌だと
思っているだけですね、きっと。
「カオス的脳観」を読んだおかげかな、頭が動き出してきたような感じ。中断していた
「生態学的視覚論」を読み始めました。そして読みながら感じていることは、何かが
欠けているということです。アフォーダンスも不変項もそれなりにわかるし、大事なことを
言っているとは思うんですが、何かが決定的に欠けている。それが何かということは、
まだ明示的には言えませんが、クオリア―フラクタル―カオスあたりの知見が、もしか
したらこの辺を埋めることになるのかなとか思ったり……。でもまだ全然わかりません。
ついでに「心理学板」の「アフォーダンススレ」の存在を知って、きょう読める分だけ
読みました。なかなかおもしろい議論がなされていたようですが、今は開店休業状態
みたいですね。やっぱ、アフォーダンスは難しいみたい。みんな苦労してる! そんで
もって、なかなか実のある議論ができないみたい。
ついでに、ここの前スレから読み直してました。多くの問題が、提出されたままで宙づりに
なっていますね。いずれ何とかしたいなと、本当に思います。まだすぐに何とかなるとは
思っていませんが、近い内に少しずつ話を戻していけたらと思っています。
>>204 自分もみんなの話題の流れに引っ張られて、ひさびさに掘り出して読み返したら、以前読んだ
ときよりおもしろかったです>『カオス的脳観』
対話しているうちに、自分になかで醗酵するものがあったのだろう。
そういう意味ではみんなにありがとう。
目のことを考える。
目に見えているものは、どこに見えているかというと、目の外に見えている。
近くのものは近くに、遠くのものは遠くに。このことを理解するのが意外に
難しい。目の外にスクリーンがあるわけではないから、この見えているもの
は、投影されているのではない。また、遠くにあるわけだから、網膜に映った
像を見ているわけではない。見ているのは自分だし、そのプロセスは、場所
的には目−脳で見ているに相違ない。この見ているというのが問題なんだ
ろうな。このシステムをきちんと理解すると、多分自分とは何かという問いの
答えに一歩近づくような気がする。「不変項」にも近づくと思う。これは一体
何の問題なんだろう。生態物理学?
これだけかよっ!
じっさい眼は前方から瞳孔に飛び込んできて網膜に当たった光しか見てないわけですよね。
明るく見える部屋の中でも、横を通った光なんかは全然見てないっつーか見えない。「光に横
顔はない」という言い方をしますね。ほんとうは暗闇の中にいるようなものです。
瞳孔に向かって直進してくる狭くてちょっぴりの光から、明るい周囲が見事に逆算されてしまう。
俺は「包囲光配列」が、視覚像を空間的に整序するのに充分な手ががりを、もともと持ってる
ところがすごいと感じます。
これは、写真が「実際<視える>ものの二次元的な写像」に、<見えて>しまうことがすごい、とい
う実感でもあります。
基本的に網膜は通過点としての役割を果たしているんでしょうね。網膜は実は鏡のような
役割を果たしているような気がします。鏡の中に僕たちは「虚像」を見ているのですが、
その意味では僕たちが見ている世界も、間違いなく「虚像」だろうと思います。しかし、
それが、僕たちが世界を光でとらえる唯一の正しい方法だという意味で、「実像」であると
いうことなのでしょうか。ここでは「虚」と「実」の二元論は崩れている感じがします。(全部
思いつきだけで書いてるから、深い意味なんかありませんがw)
「ダイナミックな脳−カオス的解釈」(津田一郎)という本を買い求めて、読み始めました。
これは一昨年に刊行されたもので、ざっとみたところ、「カオス的脳観」での理解が
より深まっているようです。対談形式で書き下ろされた本で、「カオス的脳観」で触れ
られていたことが、一層具体的になっている感じがします。相変わらず何を言っている
のかわからないところも多いですが、おもしろいところもいろいろありそう。また、読み
終えたら何か書きます。こういう本って、ざっと読んだだけでは本当はだめなんだろうね。
きちんとメモでもとりながら、きちんと理解しながら進まないとだめなんだろうけど、
どうもそういう読み方ができないのです。クマッた揉んだ。
ついでにもう1冊買ったんだけど、こっちは読めるかどうかわからない数学系の本なので
もし読めたらそれについても何か書くかもしれません。いつになるかわかりませんが。
しかし、これはむしろガテンコ向きかもしれないな。
>>209 空気中では、気体の分子が光を散乱させるから、
自分の回り全てが鏡で埋め尽くされてるようなモンだよ。暗闇どころじゃないよ。
無限のミラーハウス。
だから、お空も青く見える。太陽光の青色成分だけを写す鏡。
宇宙では鏡の数が極端に減るから、(太陽からの光量は遮るモノがなくてむしろ増える
はずなのに)真っ暗に見えるね。言うとおり暗闇の中にいるようなモンだ。
後、瞳孔が狭いなんてのは、単に人間スケールでの話だべ。
むしろ、瞳孔は光が多くなりすぎないようにあるわけだし。
目に入ってきた光のエネルギーが特殊な皮膚(網膜)の表面をくすぐってるってことだね。
そのくすぐり具合を感じて悶えるのが視覚野。
>>213 あれは、視線が対象に触れてモノが視えるという日常的描像を変更できんかな、という観点で
やってみた表現でした。
混沌とした散乱光の局所的な受容から、前面半球域にある無数の対象の輪郭を、きっちり切
り取ってみせる脳内のシステムは手が込んでるなぁ、という、内面に比重をおいた驚きです。
「ダイナミックな脳」を一応読みますた。
引用開始
ものとしての脳の適切な言語は、レベルによって、ゲノムであったり、タンパクであったり、
電気パルスや電位であったりするだろう。また、事としての心の適切な言語は、自然言語
の部分集合かもしれない。
しかし、私たちはこの二つを分離したものとは捉えず、ある種の統一体として捉えたいのだ。
そのための適切な言語は何かという問題だ。生理学的用語は認知現象に対して説明力を
持っているとは考えられない。一方、心理学的用語は生理学的現象に対して予測力を持た
ない。
私たちは脳と心を記述する第三の言語を望んでいるのだ。(p.74)
引用終わり
ここのところが「ダイナミックな脳」の核心的な部分の一つですね。そして、この第三の言語
として〈カオス言語〉を提唱しているようです。パチンと当たっているところがあるように思え
ます。
昔々、この辺のことを考えて、「波」を「仮定」していたことがありますが、この辺は変換が
簡単にできるということではなくて、ここにカオスを持ってくるところが全く新しいということで
しょうか。全体を理解しているとは言えないので、とりあえずここだけ……。
とりあえず、概念的にでも何でもいいから少しは数学をつかまないと、
カントールコードとか言われても全然わからんし、やっぱつらいっす。
津田氏が構想するカオス言語がどういうものかはわからないけれど、既存の自然言語ももと
よりカオスを基盤として成立し挙動していると思います。
現状において、言語の持っているカオス的可能性が十全に駆動していないのは、言語じたい
よりも発信・受容する人間側の態勢の問題でしょう。
言葉では言えないことはありふれていますが、言葉でしか言えないことの可能性は遠大であ
り、まだまだ未開だと思います。
荘子、レイモンド・スマリヤン、サミュエル・レイ・ディレーニイ、金子千佳あたりにカオス的言語
使用の萌芽ないしは可能性を感じます。
>>217 「カオス言語」は僕もよくわかりません。でも、自然言語でもなく、生理学的用語でもなく
カオス的に説明するというのですから、まさに数学的かつ「解釈学的」に説明するのでは
ないでしょうか。というよりも、この本全体がその試みの一つなんでしょう。現象としての
カオスは何となくわかるんだけど、一歩突っ込もうとすると、数学的諸概念がすべて
躓きの石となります。微塵にとってカオスとはどんなもの?
荘子はわかりますが、あとの人は名前も知りませんw これらの人に何か共通することは
ありますか? 後でぐぐってみますが。
「カオス派」と「非カオス派」の続き。
「非カオス→カオス」派と「非カオス」派
「非カオス→カオス→「非カオス→カオス」→・・・」派と「非カオス」派
みたいな感じ。
一例として。
>>218 ぐぐってきました。なかなか多彩な顔ぶれで、本当に僕は何も知らないということを
改めて感じますた。読む予定の本がどんどんふえて、しかも読む時間をとれないと
いうジレンマに身悶えながら、今日は寝ます。
>微塵にとってカオスとはどんなもの?
「類似」と「模倣」の物理的基盤だとイメージしています。
「自己同一」と「自己逸脱」とのあいだに「自己模倣」という程度問題を生成するからくり。
知性が十全に働くときには、退屈と動機の喪失が避けられないので、理解することが常に
理解したことの外部を析出して、目的が尽きることと、自分を理解し切ることを回避する(常
に成功するとは限りませんが)、そいうはたらきにも寄与していると思います。
擬人化して言えば、「やり慣れたことの中に、今までやったことのないことを適度に織り交ぜ
る意志」だと思います。だから進化の推力のひとつでもあるでしょう。
しかしカオス(混沌)って、的確な命名じゃないよなあ。
>>218 >これらの人に何か共通することはありますか? 後でぐぐってみますが。
なるべくちがう傾向を代表するキャラを並べようと思ったので、あの四人にはほとんど共通する
ところがありません。
荘子とスマリヤンはタオイストという共通項がありますが。
スマリヤンは数理論理学者で哲学者でタオイスト、という非常に縄張りの広い人物です。文系、
理系双方の「理屈っぽい話が好きな人」のアイドル的存在w
ディレーニイは詩人になるかミュージシャンになるか数学者になるか迷った末にSF作家なんぞ
になってしまった天才肌で、綿密に択び抜かれた多義的な叙法・語法によって、一冊の小説が
視点を変えて読み返すごとに、まったく別のストーリーを浮かび上がらせるという、まことにご
苦労様な書き方をする人です。
金子千佳は、「かたち」に直接触れて動かしてくる、“外からの指”みたいな詩を書く詩人。
あー、そー言えば微塵にコノハムシの話のソースを聞こうと思ってたんだっけ。
ググってみてもはっきりしないし。
>>223 誰だか知らないけど、ありがとう。
今のところ、あまり信憑性の有る話ではないのかな。
考古学は特に怪しいからなぁ・・・。
>>224 そ、そうなんですか、それは……。でも、ソース不明というのはちと困った話ですね。
コノハムシの一件以来、僕の中で何かが崩れて、その崩壊はずっと続いています。
大崩壊ですね。どこまで崩れるのやら。これがガセだとしたら、僕はどうしたら
いいんだろう。
>>209 >これは、写真が「実際<視える>ものの二次元的な写像」に、<見えて>しまうことがすごい、とい
>う実感でもあります。
「写真が本物のように見える」のは、環境の中でそう訓練してきてるからで、
逆に「そう見ない」訓練をしてきてないからだと思う。
鏡を見るとき普通は、焦点が鏡の向こうに合って、鏡の向こうの(有るはずのない)空間を見る。
人間は意識すれば鏡の表面を見ることも出来る。
ネコや鳥も鏡を空間として認識してると思います。
そう見れるとも言えるし、そうしか見れないとも言える。
鏡や光が変わる訳ではない。
日本人にはアメリカ人は同じ様な顔をして見分けが付きにくいが、
アメリカ人には日本人が同じように見える。訓練すれば見分けられるように
なってくる。
写真一つでも見方はいろいろあって、個体差は想像以上に大きいのではないかと思う。
写真を二次元として見ないで、中に入り込んじゃう人って結構いるよね。割と普通に。
>俺は「包囲光配列」が、視覚像を空間的に整序するのに充分な手ががりを、もともと持ってる
>ところがすごいと感じます。
充分な手掛かりどころか、我々が気付けるのは手掛かりの内のほんの極わずかでしょ。
世界は人間よりデカイってことでしょ?
紫外線や赤外線も目に届いてる筈だけど気付けないし。
でも、人間の中にも気付ける個体がいるのでは?とは思う。ヘビとか虫みたいな。
そういう訓練法もあるかもしれん。
>>226 見えの個人差の問題は、実は大三元さんの言うように結構激しいのではないかと
思っています。では、その個人差は何を意味しているのか。このことはあまり考えて
こなかったんだけれども、人の資質の差というのは、この辺の問題と絡んでいるの
かもしれないとやっと思い始めています。だからこそ、協働に意味があるのだという
言い方もできるわけですが。
で、
>>74 を見てみると、
始めは「同じ」か「違う」しかないんだよな。
そこから始まって「同じ」のなかにどれだけの「違う」を見いだしていくか、
「違う」の中にどれだけの「同じ」を見いだしていくか、ってことだと思う。
「似てる」の幅。
>>229 名前忘れたんだけど、プロ野球の往年の名投手で牽制球の名人と言われた人
がいて、その人は自分の耳が見えると言っとったらしい。どんな視野だ?
>では、その個人差は何を意味しているのか
ぶっちゃけ、育ってきた環境ってヤツでしょう。
遺伝子というのも、過去の環境の残した足跡、慣性力のようなモンだと思ふ。
まあ、私の思ってる「光」とか「環境」とかがあればの話ですけど。
>だからこそ、協働に意味があるのだという
まったくです。
>>224>>225 俺が見たのは、科学のトピックスを集めた科学解説書です。コピペを見たわけではない。
変にトンがったやつじゃなく、ふつーの穏当な知識を集めた本。
さて、うちにそういうのいっぱいあるから、現物探してみます。
しかし、ほんとに都市伝説っぽく流布してるねw
>>226>>229 すんごくいっぱいある情報のなかから、使い勝手のよさそうなところを切り出しているわけだから、
個人差の出る余地はたっぷりあるでしょうね。
「ピアノ殺人」に走っちゃうような人は、天性可聴帯域が高いともいうし。
友人のナンパ師は、「女がこっちに気があるときはにおいでわかる」と言っておった。
恋人が浮気したときも、勘ではなくわかるとのこと。これはにおいだけではないようだが、
「チェックポイントを女には知られたくないから、口外するな」と言われております。だから秘密w
しかしヤツの知覚世界は、俺とはちがうw
網膜が光の通過点だと
>>210で言いました。この言い方は、言いたいことをうまく
伝えられていません。もう少し書いてみます。
通過点だというのは、鏡とのアナロジーです。鏡の中の像は虚像ですが、しかし鏡の
向こうにあります。そこに見えているわけです。そのことを否定する必要はないのです。
しかし、光が見せるものが人の対象のすべてでない以上、それは鏡像でしかないと
いうことも事実です。これを敷衍すると、僕たちが目で見ている像は、外に見えている
像です。そして、それ以上でもそれ以下でもないと考えておきましょう。鏡面に像がある
のではありません。鏡面の向こうにあるのです。像としては、鏡像も実像も等価だと
思います。網膜もこれと同じような役割を果たしているのではないかということです。
だから、通過点です。言いたいことは伝わったでしょうか。そして鏡像が虚像であるように
、視覚像もすべて虚像なのだということです。
しかし、僕たちが視覚像としてしか世界を見ることができないとすれば、それは僕たちに
とっての世界の真の姿です。それ以外に像はないからです。
>>234 鏡像には実像と同様のアフォーダンスがありますよね。
動物には容易ではありませんが、人間は鏡像にあるアフォーダンスを“鏡像である”という
理解によって括弧にいれて、適切に応用できる。鏡に引用された「アフォーダンス」として。
実像も虚像であり、しかし真の姿であるという理解は、
括弧に入れる、ということさえ括弧に入れることができる、
ということでもある。
「 『 』 」みたいな。
>それ以外に像はないからです。
などと言うことができるのも、それ以外の像があるからこそではないでしょうか?
根底的にそれ以外の像がないときは、「それ以外の像はない」という着想じたいが不能と
思われるのですが。
もう一つの問題。
脳は世界を構成しているのか? それとも世界が脳を構成しているのか?
ギブソンさんの考え方は後者ですね。脳は、世界から孤立した閉鎖系ではない。
発生的に見ても、一貫してこの地球という環境の中で存続し得る開放系としてのみ、
生命は存在しています。遺伝子の発生が地球外であったとしても、生命は、その
地球上に生存し得る系としてのみ、現実的な存在です。そして、この開放系としての
生命体は、エネルギーを散逸することによってのみ存続することができる運動体です。
環境と生命体の関係では、圧倒的に環境が優位で、生命体は環境の一部です。
そのようなものとして、自己という生命体を含む環境の全体を、何と呼べばいいのか。
それが自然でしょうか。
感覚は、そのような生命体が環境と相互作用する一つの形式だと考えればいいわけで、
トータルに見た環境内相互作用のエレメントでしかないと考えられます。そして、同様に
環境内相互作用の一つである生命は、自然という巨大なシステムが自らの内部に産出
したエレメントであると考えられます。ですから、その生命と環境の相互作用は、最初から
自然そのものの内包する活動の形式に過ぎません。それが、細胞膜という「境界」に
よって隔てられ、相対的に自律的なプロセスを内部に抱えた生命体は、しかし、細胞膜と
いう「境界」によって内と外に分かたれているわけではなくて、「境界」は、それを通じて
行き交う自然の流れの通過点に過ぎないと考えられます。人の個体性もその延長線
上にあるもので、人の体という器は、決して個体の内と外を分けているわけではないと
考えることができますね。
>>235 >>それ以外に像はないからです。
>などと言うことができるのも、それ以外の像があるからこそではないでしょうか?
これはそのとおりだと思います。だからこそ、僕は
>僕たちが視覚像としてしか世界を見ることができないとすれば
という限定的な言い方を敢えてしました。これは言外に「他の像」を含み、前提しています。
てゆうか、書きながらそう考えていました。これは、感覚というものが身体という一つの
トータルな系であり、運動―行動においてのみ、その全体が理解されるという当たり前の
考え方を僕がずっとしているからです。「運動一元論」と前に僕が言ったのは、こういう
含みも当然ありました。視覚像が虚像であると言えるのは、当然視覚像を含む全体が
あるからで、そのことを捨象して視覚を取り上げているので、こういう書き方になって
しまっています。ですから、微塵の疑問は全く妥当なものだと思います。
>>236 内部と外部の境界は、内部の都合で方便として設定されたものでしょう。
内部からの視点を択べば境界はしっかり存在するし、全体的な視野を択べば存在しません。
なにを説明したいのか、なにを目的にするのかで、なにが真理であるかは左右されると思います。
「脳が世界を構成する」と言わないと説明できないこと。
「世界が脳を構成する」と言わないと説明できないこと。
「どっちも『構成』なんてしてない」と言わないと説明できないこと。
それぞれにあると思います。
>>237 えーと、235は、考え中が237のように考えているであろうことを、前提としてのコメントです。
つまり、脳内で以下のように書き換えた上でのコメント。
「しかし、僕たちが、(それがなんであれ)あるひとつの世界像としてしか世界を見ることが
できないとすれば、それは僕たちに とっての世界の真の姿です。
それ以外に像はないからです」
>>238 視点のとり方によっては、そのように言うこともできるでしょうね。
間違いではないと思います。
現時点で僕が言いたいのは、とりあえず個体の内部という視点を相対化しよう
ということです。感覚を内と外という2分法で考えると間違えそうだということから
始まった思考で、脳のやっている仕事を「内部」という視点から一度解き放って
みようという試みの初歩的なスケッチです。僕たちが見、感じている世界は、
生理学的には脳の中のできごとだとされていますが、とりあえずその前提を
外して感覚を考えてみようということです。
その上で、個体がどのように理解されるのかを、吟味したいということです。
結論はまだ何も持っていません。大ざっぱな見通しが欲しいのです。
>>239 なるほど。それならよくわかります。
ここで言っている像は、もちろん感覚的な像のことです。そして、視覚をその一部とする
感覚の全体が対応する対象を持っています。これらの感覚が一つの感覚であるという
仮定を持ってはいますが、それは決して厳密な意味での単一感覚という意味では
ありません。そして、それはまだ僕にはよくわからないところです。人、あるいは生命が
いろいろなものの寄せ集めであるということから言っても、単一ということを簡単には
言えないということはぼんやりと感じています。でも、そこまで。
ここから先は、例えば視覚なら視覚、触覚なら触覚をもう少し詰めてみて、人の感覚の
あり方についてある程度明確な理解が得られないと進めないような気がしています。
ギブソンさんの考え方を自分の中で整理しようとしているということだと思います。まだ
不変項やら直接知覚やらにはほど遠い状態ですが……。
>>240 えー、ぶっちゃけたところ、個体の内部という視点はけっこう相対化できているのでは
ないでしょうか?>うちら
問題は、内外二分法を脱すると、説明の点で不便で困るのですね。
ダブルスタンダードがいいと思う私でした。
内部に面従腹背っつーかw
ただ、内外の境界を捨象してなお節約的な表現が見つかれば、それに越したことはないですね。
それは考え方の発見というより、習慣の地道な変更というかたちになるように思います。
じっさいピンと来にくいだけで、理屈はギブスン(アフォーダンス)でとりあえず充分とも言える。
>>242 ギブソンさんの考え方はすこしずつわかってきたのだけど、あのままでは
人に説明できないし、自分でもあまりうまく理解できていないという感じが
ずっと残っています。もう少しスカッと言いたい、あるいはしたいということ
かな。まだ人の言葉でしかないという感覚もあります。
ぼくは「個体の内部という視点」を、すげー発明だ!と思っています。
おかげで世界観というものを持つことができて、いろんなことを考えられる。
ぼくは内と外の因習をやわらげたいとき、
世界の側を「内部」とおいて、精神を「外部」とみる視点に立ってみることがあります。
つまり「包囲光配列」のように、精神が世界を取り囲んでいる状態として。
もうひとつヴァリエーションとして、「世界が精神を知覚している、それが意識」という配位で
みること。
そしてもうひとつ、意識を空間じたいの性質と見做して、空間は意識に満ちており、脳はそれ
を知覚する器官であるという認識に立つこと。
それぞれになかなか有望な世界観を醸し出してくれて、重宝していますw
>>244 それらはみんなありですね。そういうことをぼんやりと考えていることもよくあります。
そういう考え方は、どれも好きです。そういう視点を、具体的な日常的な場面で、
普通の言葉として表現することができるといいなと思います。そして、それを周りの
人たちと共有できたらどれだけ楽しいだろうと想像します。僕にとっては、日常が
一番硬くて難しい世界です。押しても引いてもびくともしない!
>>243 考え中の考えていることはとても遠大だわなー
日一日の歩みはおたがいノロイですけど、この一年で進んできた距離はけっこーなものだとも思われ
>>245 ぼくは、それぞれ本気なので、かなり実感を伴っています。
日常は、びくともしています。
年季が入っていますからw
言語に関しては、言語が棲む「形而上生態系」とでもいうような背景を視ています。
世界についても言語についても、ぼくはしばしば著しく擬人化した表現をしますが、それは
方便ではなく、生命どうしとして接しているからです。
ペットに話しかけて、「この子はわたしの言っていることが分かるんですよ」なんて言う人と
おんなじw
>>246 >この一年で進んできた距離はけっこーなものだとも思われ
うーん、そう思いたいですね。でも、今でもときどき何もかも投げ出したくなります。何が
何だかわからなくなるから。自分が本当にくだらないことを考えているんじゃないか
と思えて腐ってくることもあります。もっとすっきりしたいのです。せめて、自分の感覚
については、理屈としてではなくて、自明のものとしてポンと人前に放り出せる程度
には理解したいのです。
一つ考えているのは、「生態学的視覚論」で言っていることを、何とか日常語に
置きかえて、誰にでもわかるような形にできないのかということがあります。あれは、
なかなか読めない本です。普通の人が読んで理解できる程度にパラフレーズできない
ものかとマジに思います。学者という生き物も度し難いものです! でも、そういう人
達の営為には本当に感謝しているんですがw
昔、現実をよーく噛んでやわらかくなってきた頃、まだ少ない語彙で、こんなふうに考えました。
「現実は、幻想の中の現世界チャンピオンに過ぎない。そしてきっと、史上最強のチャンピオンというわけでもない」
>>249 学術として展開する以前に、日常性における蓄積が不足していると思うのです。
ギブスンをパラフレーズする前に、今ある日常をパラフレーズすることが先決だと思います。
アフォーダンスによって解釈されるべき日常性が、まだ充分に言及されていない。
ちがう視野からの、描写・たとえ話・世間話・用語の蓄積が必要な段階だと思うのです。
>>249 >でも、今でもときどき何もかも投げ出したくなります。何が 何だかわからなくなるから。
それは俺もよくありますw
>自分が本当にくだらないことを考えているんじゃないか と思えて腐ってくることもあります。
こっちはいっぺんもないです。
>>251 あっ、もう2時半だ。寝ます。でも、きょうはおもしろい話ができてよかった。
また、ゆっくり話しませう。
僕はまだぼんやりとしか周りが見えていないようです。もう少しクリアに
なってくれば、やや突っ込んだ話もできると思うのですが、うすぼんやり
しているから、表面的な話に終わってしまうという感じがします。まだ微塵
の鋭い言葉に対応できるだけの容量がないような感じかも。ゆっくり
やりましょう。ではまた。
おやすみん♪
現在このスレは、考え中の問題意識を中心軸に進行していると思いますので、
どうか腐らないで支えていただきたい。
>まだ微塵 の鋭い言葉に対応できるだけの容量がないような感じかも。
いやいや、こっちに考え中の問題意識に対応できる容量がないわけだが。
がんばります。
考え中……、考え中……、考え中……
何しろもうちょっとスカッとしたいという気持ちは変わらないのですが、その手がかりを
どこにもとめるかというところで、とりあえずは躓いた感覚のところかなと。言語と感覚の
関係を解発→相関というプロセスの中で相互に拘束しつつ展開する本来自律的なサブ
システムと見ればいいわけですよね。
一方で図と地という問題があります。これは大三元さんの提起している「分ける」働きの
原型でもあると思います。僕たちのこの感覚の対象を分ける働きは、一個二重のもので
あると考えられます。
まず、我々の感覚は変革的なものです。それは、身体的な活動を通じて変化するもので
あり、そのようなものとして現実的な対象です。人間以外の生物も、これはみんな持って
いる対象性だろうと考えられます。
他方、それは言語の分節によって展開する観念的な対象です。言語がもたらす分節は、
前者の活動の対象性とは異なったものであり、前者は唯物論が立脚する対象性であり、
後者は観念論が立脚する対象性であると考えられるかもしれません。この二重の対象
性は、言語によって発生したと考えていいと思えます。実際にはこの両者は分かち難く
絡んでいて、僕たちの活動を媒介していると思います。
かなり乱暴な話のような気がするので、もう少し考えます。
うすぼんやりはまだまだ続きますが、少し前に進めそうな気がしてきた。言語と感覚の
活動の関係がちょっとだけ見えてきたかもしれない。まだ書けないけど、準備中。今は
仕事がとても忙しいので集中的に考えたり書いたりできないのだけど、来週あたり
少し書けたらいいな。
>>257 言語と感覚の活動×
言語と感覚と活動○
>>234 実像と虚像の境界が揺らぎ始めるよね。
「ミル」事の抽象化に成功したというか。「ミル」の「カタチ(の一つ)」を掴んだというか。
「内」と「外」で鏡対称のカタチのイメージが出来る。
これが有る程度実感出来れば、「焦点(ピント)」の束縛が緩むと思うのです。
物体の表面(鏡面)の「奥」をミルのが「アリ」になる訳ですから。当然「手前」も。
例えば「空」を見ている時のピントはどこにあるのか?屋外にいるなら、目の前の空間に目を
移して見ても、空の一部を見ているとも言える。
ピンぼけの写真も、世界の像の有り様の一つになる。
「外界」で言えば、ピント合わせの動きが目の筋肉の収縮だったり、あるいはカメラのレンズ
のリングの調節だったり。それに対応して「内界」で「意識」のピント合わせの動きが感じら
れると思うのです。ファインダーを覗きながらピントを調節するときに視覚のクオリアが
「もわーっ」と変化するときに通る経路というか。輪郭がもわーっと融けていくときの。
始めは、「外界」によって動かされている意識(通らされている路)に気付いて意識すれば、
繰り返している内に段々と通りやすくなってくるというか。
そうして手に入れた抽象化された動きは視覚以外にも応用できる。
しかも、それ自体が「境界」を超える動きだから、都合がいい。使いやすい。
「フラクタル」はそういう意識の動きを意識させてくれるのに、かなり役立ちました。
フラクタル自体が境界のカタチについての事で、そういう目で見させられるし、
「外の世界」のカタチを「内の世界」に持ってくる時の「自己言及」の動きというか。
その機動力を与えてくれる。
「止まって見えてたモノが実は動いてた」と気付いたときに、
「じゃあ、止まって見えてるモノを動いてるように見てみよう」という動き、みたいな。
必死に「鏡面」だけを見ていてそれが「ミエル」だと思っていたのに、ふと奥に焦点を移して
みたらアラ・・・、みたいな。
フラクタルってカタチが閉じてないんだな。
>>233 フェロモンか?フェロモンなのか?
微塵君の知覚世界もかなり普通と違っていると思うのですが。
そういえば、何時だったか「蓮画像」が流行ったとき。その画像を見たら二、三日
頭に焼き付いて、事あることに頭に浮かんできた。微塵が共感覚のことを「スクリーン
セーバーの様に」と言っていたのを思い出して、「こんな感じかなぁ」とか思いながら
脳内蓮画像を見てた。意図して消すことは出来ないんだけど、いじることはできるのよ。
実をほじくり出したりしてw。二、三日で飽きたけど。
でも、飽きずにいつまで居続けられたら、うっとおしいなぁ。
トラウマになってる人もいると思うので言わないでいたんだけど、言っちゃいました。
>>252 >>自分が本当にくだらないことを考えているんじゃないか と思えて腐ってくることもあります。
>こっちはいっぺんもないです
言い切っちゃうところが凄いなぁ。
>>261 >フェロモンか?フェロモンなのか?
そいつの経験数はハンパではないので、女体については“職人”の域に到達していると思う。
においだけでなく、すさまじく繊細なセンサを連動させてます。
「そげなところが変化するんかい!」みたいな。
狙った女は絶対逃さない悪魔ですw
好みがかぶってないのが、俺としては幸運w マジでw
蓮画像は、「なんでこれが、こんなに認知的インパクトがあるのか!」という不思議。
どんな仮説を立てても不思議。
あんなに公共的な威力があるんだから、思わず理屈を捏ねたくなるんだけど、「理屈じゃない
系だなーこれは」と無意識が言うw
>言い切っちゃうところが凄いなぁ。
少なくとも本人は、退屈することがない、というくらいの意味だよん♪
思考すること、それ自体が大好きなんだろうと思います>俺w
おー、下がっとる下がっとる。アゲ
少し書いてみますた。
256でも図と地ということを少し取り上げました。ゲシュタルと心理学でいう図と地です。
うんと前にも言いましたが、このゲシュタルトにおける図と地という概念は、僕の中では
どうしても平面図形のイメージがつきまとっていて、それをアフォーダンスという言葉に
言い換えて、立体的なダイナミックな知覚について語ることができるかというと、そうでも
ないような気がする。こういうときに僕が浮かべているイメージは、例えば職人さんが
手仕事で細かい細工物をつくっているところとか、あるいはもっと大きな道具で作業を
しているところとか、自転車に乗っている自分とか、そんなところです。これらは間違い
なくアフォーダンスでもありますが、知覚という点では、少し違う要素があるような気が
するのです。
なぜこういうことにこだわっているかというと、その源は、一つには以前に述べた僕の
以前からの言語観があるからです。それは、対象的な活動の対象と観念的に交換可能だ
というものでした。あとは、マルクスの「実践的唯物論」です。認識が正しいかどうかは、
認識の問題ではなくて、実践の問題だということです。これがヘーゲルの弁証法の唯物論
的換骨奪胎であるということはよく言われていることです。しかし、これらは別に僕独自の
視点というわけではありません。
これによって、僕の知覚の理解は対象変革的な活動性というところに視点が置かれて
います。この場面では、ゲシュタルトもアフォーダンスもちょっと違うかなという感じがある
のです。では、ここにどういう概念がふさわしいかというと、まだ思いつきません。
ここに言語が介在します。この活動の対象性が有しているまとまりと言語の対象性は全く
同じではありません。というか、例えば自転車は僕たちがそれに乗って走るという活動的
対象性を持っています。だから、僕たちにとっての自転車は、単に知覚の対象としての
自転車ではなくて、それに乗るという僕たちの活動と切り離しては、自転車としての知覚は
成立しないと考えていいと思います。ここには、言語の対象性と、知覚の対象性の差異が
現われていると思います。
続き
活動の対象性としての知覚と、言語的対象性としての知覚は同じものではない。これが、
以前にG-A-Wとか言っていたときに僕が行き詰まった一つの原因だと思います。人の
活動の対象性としての知覚は、単なる感覚的知覚の一例ではなくて、逆に人の感覚――
というよりも生物の感覚は、このような身体活動的な対象に向けて本来組織化されている
と考えていいはずです。このような基礎の上に僕たちの感覚は成り立っているということ
です。もちろん、この活動の総体を世界にアフォードされていると考えても、何も問題は
ありません。
しかし、他方ではこの対象は言語によって切り刻まれてもいるのです。それは、もちろん
多数の部品から成り立っているという意味で切り刻まれていると考えてもいいのですが、
それ以前に、僕たちの知覚は対象の一体性と同時に、それが多様なサブシステム、
あるいは多くの部分から成り立ってることも知覚します。この対象の分割的知覚は、言語
的な知覚システムとパラレルであると思います。自転車の部品をつくり、それを組み立てて
自転車という一つの形をつくり出すことの前提には、僕たちの知覚が対象を要素に分解
するということがあるのであって、その逆ではないと思います。
さらに続き
ここで重要なことは、言語抜きにはこの分割的知覚は成立していないだろうということを
理解することだと思います。生物に共通する活動的知覚の対象性は、同時に人間的に
分割されている知覚でもあるという二重性を持っているということです。この対象の分割と
いう特性は、もちろん前言語的には人間以外の生物にも存在するだろうし、それを言語的
対象性の萌芽だと考えることもできると思いますが、図と地が入れ子になっているような
複雑な人間的な知覚は、直接的に言語的だと思えるのです。これが、昨年行き詰まった
感覚と言語の関係についての、僕が考えた当面の一つの答です。
ここでもう一つ問題があります。この知覚の分割は、言語によって可能となっているが、
この分割は単に個体的なプロセスではないということ。言語が人と人の間に成立する
ということは、知覚の分割もまた人と人との間に成立する関係だということです。知覚の
成立が言語的なものであるということは、知覚そのものが人と人との関係を通じてもたら
されるものであり、そのようなものとしてヒトは人になったのだろうということです。
とりあえず、ここまで書きました。あくまで自分のなかの問題を解決するために書いたもの
なので、僕以外の人にどの程度意味があることなのかはわかりません。これが、昨年来
持ち越してきた問題の解決になっているのかどうかも、よくわかっていません。よろしく。
参考になるかどうか分かりませんが、最近私に起こった転回に至る前段階に材料収集の試みと
して実験的に行っていたことが、ちょうどG-A-Wに関わる事だったので、書いてみます。
まず、私が自分のモノの見方を「ものの見方のひとつ」と見ることができる視点を手に入れた
時、ホワイトボードが出現しました。それは自由に言葉を書き付けることができる領域なのです
が、私は書くような言葉を持っていませんでした。
私は自由に使える言葉を手に入れるために、微塵のまねっこをすることにしました。いきなり
同じことをやろうというのは無謀なので、自分にできることから。具体的には、ランダムに思い
浮かべたものを、クオリアに分解する。どうやって分解するかというと、クオリアを内側から
順々に触っていく。思い浮かべたものに含まれたクオリアに触れると、「あ、そこそこっ!」て
反応するのですぐに分かるのです。つまり「何かを思い浮かべる」という作業をすごく自覚的に
トレースしてみたのです。
次に、逆にランダムにクオリアに触れて、そのクオリア群を外廓にした「かたち」を作って
みました。外の世界との結びつきを断ち切って、でたらめなものを思い浮かべてみたのです。
さて、このでたらめな「かたち」を言葉に翻訳することができればそれは自由な言葉になり得る
かもしれないと思ったのですが、私が言葉自体に与えている大きな制約からどうしても抜け出せ
ないので、どうしても言葉では「かたち」を上手くトレースできない。
まあ、あせっても仕方が無いとそれについては放置しておいたところ、ある朝勝手にエウレカ
されてホワイトボードはそれ自体が動的な言葉の総体になってしまったのですが。
材料は確かにそろっていたとはいえ、勝手に組み上がるには、抜けていたパーツは大きすぎた
と思うのだけれど。
そして思ったこと。言葉=狭義の言葉です。
言葉の振る舞いを制限するのは、自ら硬化した言葉それ自体である。何故、硬化したか
というと、その方が考える際に時間が短縮されるから。あと、記憶を上手に引き出せるから。
あと、もちろん他の人に通じるように。
つまり、言葉を実践的な道具として使用している間に、言葉は自らの使われ方を選びとって
きた。他の道具達が使われることによって、不具合を自己申告し、より特化、洗練されていく
のと同様に。そしてそれはずっと先人から引き継がれてきたものであるので、先人が出会って
きた場面場面に適応した用法を含んでいる。
でも、元々言葉はいろんなふるまいができるのだから、その性質も上手く使って、言葉が
なければ出会えなかった発想達を探しに行くのは楽しいではないかと。
あ、やっぱり
>>267 なしっ!!
モデルが単純すぎて、考え中さんの問題意識と重なってない。
えっと、知覚と、クオリアと、言葉の収まる位置について注目した問題意識だったのですが、
ランダムに採用したクオリア群にアフォーダンスは無いかも。
問題意識は重なっていなくないです。思い起こせば、僕が考えることを一時停止した
ころの考え方は、
>>267に似ていなくもない。むしろよく似ていると言うべきでしょう。
当時のことは幾度か書いていますので改めて細かくは書きませんが、プリゴジン
とかヤンツとかを読んでいたのはこのころで、ゆらぎとか自己組織化という言葉を
ぼんやりと思い浮かべながら、それまでの思考の枠組みが風化していくのを待とう
と思ったのでした。ただ、明確にそれを自覚していたわけではなくて、むしろ、時の
流れに身を任せたというのが本当かもしれませんが、一方では「自己組織化」という
ことを意識していたということも、また事実です。淡い期待みたいなものかな。
その結果として、今ここでこんなことをしているわけです。
なぜ風化という方法をとったかというと、そこまで自分がたどってきた思考の過程を
否定できなかったからです。直観的に何か違うとは思っていても、長い時間をかけて
積み重ねてきた思考の筋道を全部なきものにすることなどできるはずもありません。
だから、そういういい加減なやり方を採用するしかなかったのだと、今は思います。
今僕にぼんやり見えている何かは、まだ明確な姿を見せていません。ただ、今まで
考えたこともない、全く異なった構成になってきていると思います。これが、最終的に
どんな姿になるのかということは、今は具体的にはもちろん予想もできません。去年
からぐちゃぐちゃとひねくり回してきたいろいろな観念や考え方が、何だかおもしろ
そうな具合に結びついてきたかなぁと、その程度の段階です。
昨日、考え中さんが以前書いていた、カウフマンさんの本をパラパラッと立ち読みしてみました
が、そこにも自己組織化のことが書かれていましたね。わたしはまた、あまり厳密に抽出されてし
まうと、それだけじゃねーだろ!とも思ってしまうひねくれ者なのですが。興味深い本ですが、今
はちょっと読めないです。分厚くて難しそうだから。
ランダムに採用したクオリア群でも、やっぱりアフォーダンスあるかも。完全に未知なものは思い
浮かべられないはずだから。でも、奇蹟的な組み合わせでなければ、役には立たないでしょうね。
>>267 これはとても参考になります! すげえ!
何のための参考なんだって、自分で突っ込みを入れたりしつつ。
参考になるようでありたいというか。
ガテンコちゃんに最近起こった転回って、わたしも、
「ガテンコちゃんが書いたのではなかったらデムパだと判断してたかも」っていうくらい、
劇的です。
ガテンコちゃんが、言語について、
>>268のようなことを書くということを見ても、
すごい転回だと思うのです。
今までもそうだったけど、語り得る体験、感覚、内実があるのが素直に羨ましい。
>>270 表向き受動的な能動性ですね。受身であることを積極的に利用するというか。
場合によってはそのような態度を採れるというのはいいなあと思います。
> なぜ風化という方法をとったかというと、そこまで自分がたどってきた思考の過程を
> 否定できなかったからです。
こんな風に自分の考えに距離を持てるのって、賢明だけど、じっさいにはそう
簡単にできることではないと思います。
少なくともわたしにとってはそうで、いつも、「気がついたら変わってた」ですw
読み返してみると、脱線してしまっている気がする。どう進めば脱線しなかった
のかはわからないけど、するっと本筋からそれてしまっている気がする。
言っていることは、大筋でこれまでの議論から逸脱しているとは思えないけど、
そして、ぼくなりにこれまで結びつかなかったところが結びついて、整理できた
という気はするのだけど、読んでいて随所に違和感を感じる。この違和感の
正体はまだわからないし、簡単にわかるとも思えない。つまり、まだまだなのだ
と思う。もう少し考えてみます。
>>270 二行目、読点が抜けていました。
> 場合によってはそのような態度を採れるというのは、いいなあと思います。
に訂正。
抜けちゃうと、「場合によっては」がどこにかかるのかで意味合いが変わって困ります。
あ、「は」が要らないのか。
>>264から続けた3本については、書いていることは多分常識的なことを述べているだけで、
取り立てて新しいことはなかったと思います。だから、理解しづらいということはないと思い
たいのですが、少し考えて注釈を書きます。
述べたことは大体3つあったと思います。まず、知覚の対象が運動の対象であるという
基底的な事柄です。この知覚の対象、あるいは知覚そのものが、人の活動と一体のもの
として考えられるという点が、強調したい点です。これは、ギブソンさんが知覚を対象及び
感覚そのものが運動している状態と考えているということを、運動という点に重点を移動して
述べただけとも言えますが、この差異は僕にとっては結構重要なんです。ゲシュタルト
心理学における図と地への分節から、アフォーダンスにおけるその立体的・動的な展開
という議論はあくまで知覚の話であって、僕はこれを全体としての身体の活動と対象の
運動の相関性の中で一体的にとらえておきたいと思っているからです。これは、前から
言っている運動一元論の要請から来ています。
そして、このレベルで見られた運動―知覚は人間以外の「動物」にも共通するものであると
考えられます。この共通性は、後に人間の知覚の独自性を理解するための基礎となるもの
なので、大事なことだと思います。
次に、このようなものとしての知覚は、他方で言語と結びついています。論理的に言うならば、
言語的に分節するからこそ、人の知覚は他の生物の知覚とは異なったものとなるということ
です。言語と知覚が結びついたことによって、運動―知覚は違った性質を受けとることに
なります。そして、僕の以前の理解では、この二重性がうまく結びつかないというところに
いらだちがありましたし、かもめさんの疑問であったもう一つの客観世界と「前言語的」な
運動―知覚世界との違いも析出することができなかったわけです。この言語的分節が、人の
知覚の分節の独自性であるとすれば、このことから次に知覚の社会性ということが出てくる
わけです。
簡単にまとめると、僕が
>>264以降の3本で言いたかったことは、以上のことに尽きます。
>>272 でもね、ショックも大きいです。いわゆる心象風景が実在するなんて、思ってもみなかった
半生だったもの。読み落としてきたものの量を想像すると、クラクラしてしまいます。
>>277 少し前に出ていた、内部と外部の境界の認識の問題とも繋がってくるのですが、知覚のする
自分と知覚の対象、つまり主体と客体とは、自然史におけるどの時点で分離したのでしょうか?
対象を知覚することは、生物個体の内部で物理的な変化が起きることですね。その変化をその
個体がどう認識するかが結構キモのような気がするのです。
考え中さんも以前バクテリアの感覚について考えておられましたよね。原始的な生物が自分の
動作に伴って世界が動作するのを感知したとして、果たしてそれを自分の動作による変化と捉え
るか、世界側の変化だと思うか、そもそも自分と世界を区別するなんて思いもよらないか。
刺激の受容=個体内部で起こる物理的変化、を加工する神経系の機構がまだ備わっていない
原始的な生物は、その変化にただ身をまかせる=外部からの刺激に対する物理的に然るべき反応
しかとり得ないでしょう。何かを感じているとすれば、ただ変化をぼんやりと感じているだけで
そのぼんやりと感じられる世界にはまだ境界線は無いのでしょう。
こういったことを考えるとき、モデル化したものを観察して予測するのですが、例えその観察
の角度を様々にとったとしても、結局自分の思いつく限りの考え方しかできませんね。他の誰か
の見方を仮採用してみることはできても、それについても自分の理解できる限りの理解しかでき
ない。新しい材料を得ることを心がけ、考える、考える、考える、考える、考える、ってやって
いくしかないのかなあ?
>>278 ×知覚のする自分
○知覚する自分
世界(自然)と自分を不可分と見る見方にも、段階があるように思えるのです。
上記の原始的な生物の例では、不可分というより未だ分かれていませんが、例えば
>>236 で考え中さんが考えていることとは、同列には扱えませんね。
そして、運動−知覚、言語−知覚にも同様に段階があるように思います。それについて
は、ちょっと前に「意味ってなんだろ?」って言い出していた頃から、少しも進展をみて
はいないのですが。
でも、私が、考え中さんの考えている方向を今ひとつ飲み込めきれないのはそこなのか
なあ。言語の軽やかな振る舞いは認められるようになっても、それ以外の「何かを決めて
いく言語の性質」については、未だ五里霧中(
>>268 で書いた言葉が硬化していく過程の
考え。根拠無く思いつきで書いてるなあ!)って感じなので。
まず僕が考えている方向ということについて。
今僕が考えている方向というのは、明確な戦略があるわけではありません。唯一はっきり
しているのは、僕たちがそこに拘束されている何か明確にすることです。以前、僕は言語
自体が僕たちを拘束しているのだという自覚はほとんどありませんでした。今とりあえず
明らかにしたいのは、僕たちの被拘束性と僕が考えてきたものを、言語との関係でとらえ
直したいということなのです。
僕は、スレでもずっと話題になってきた「見え方」の差異を、我々の対人関係のあり方を
規定している重要な要素だと考えてきました。この「見え方」の差異を人に強いているものを
明らかにしたいと考えて、それに対する一つの答が、僕の場合は「共感」の「分裂」もしくは
「抑圧」ということでした。この時点で、僕は言語というものを主題に考えたことすらなく、
取り扱う方法も視点も全く持っていなかったと言っていいでしょう。だから、
>>227は、
これまで一緒に取り扱うことが全くできなかったものを、とりあえず一連のつながりの中で
取り扱うことができるようになったのではないかと思っているという、現在の到達点としては、
そこまでのことなのです。ですから、これは結論などでは全くなくて、単なる出発点に過ぎない
と思っています。
行動―知覚―言語というのは、それぞれイコールで結ばれているわけではなくて、一つ一つ
別のことですから、それぞれ別個に考察されなければいけないことだと思います。しかし、
言語が人間的知覚や行動を「解発」したのだということを考えれば、この言語そのものに
ついてしっかり考えることができなければならないことは明らかです。その意味で、僕は
ようやく言語そのものについて考える足場を得たような気がしています。
以上のことから、感覚のあり方についてももう一度考え直すことになると思います。
ガテンコの言う世界と自分の不可分性の段階性については、全くそのとおりだと思い
ますし、運動―知覚、言語―知覚ついても同じだと思います。これについては多分
これから勉強することになるんだろうと思います。
言語が対象として少しずつ見えてきたというところで、一つわかったことを書いてみます。
言語が人の知覚―運動のあり方を深く規定しているのだとすれば、この言語のあり方を
理解することは、知覚―運動の新しい理解をもたらす可能性があるということです。
微塵がこのスレで言い続けていることは、なかなか僕には理解しづらいところがあったん
ですが、こう考えれば違った角度から見えてくるということです。
言語がそのように根底から僕たちのあり方を規定している何かだとすると、そのあり方の
変容は、微塵の言うとおり、まさに僕たちのあり方を変えていく鍵になるということだと思う
のです。言語は、僕たちにとって「客観的な対象」であるという言い方も理解できるように
思います。そして、それらは感覚―運動的な客観性とは異なる、しかもそれを深く規定して
いる別の客観性だということになると思います。これで、このスレのタイトルとやっと結び
ついたかもしれないw
>>281 最後の段落をちょっと変更します。
言語がそのように根底から僕たちのあり方を規定している何かだとすると、言語の変容は、
微塵の言うとおり、まさに僕たちのあり方を変えていく鍵になるということだと思うのです。
言語は、僕たちにとって「客観的な対象」であるという言い方も理解できるように 思います。
そして、それらは感覚―運動的な客観性とは異なる、しかもそれを深く規定している別の
客観性だということになると思います。
これで、このスレのタイトルとやっと結びついたかもしれないw
宇宙に出たメダカがその後どうなったのだろうと以前言いましたが、最近テレビでその
後日談を見たので紹介します。
メダカも宇宙酔いするそうです。ですが、中には酔わないメダカもいるそうで、そのメダカ
が酔わない理由は、バランス感覚を三半規管に依存していない、というよりも目がいい
んだそうです。三半規管がおかしくなっても、視覚よってそれを補うので、酔わないでいる
ことができる。
今、そういうメダカを選抜して宇宙に強いメダカを養成して、その遺伝子を食用の魚に
導入することを考えているそうです。そうすれば、将来宇宙空間での魚の飼育が可能に
なるということのようですw
>>268 >そして思ったこと。言葉=狭義の言葉です。
「言葉」の焦点をぼやけさせるのに成功したんじゃないのかな。解像度上がったっしょ。
今まで固定されていた「言葉」の焦点距離の奥や手前にも「言葉(コトバ)」が拡がってる
事に初めて気付いた、みたいな。
今まで観てたのはスカスカの世界だったみたいな。
解像度が上がると世界が拡がって、「形」と「カタチ」の隔たりがますます
大きくなるジレンマ。
「焦点」という言葉の焦点も「狭義の焦点」から拡げて。
これが解ってくると、「定義」というのがいかに無理を押し通していて、
だからこそ意義のあるやり方なんだというのが実感できると思う。
そしたら、「時間」の焦点をぼやけさせてみる。「今」あるいは「現在」ってのは、
どこからどこまでなのか?「現在」と「過去」の境界は?
人の意識にとって「現在」は0コンマ何秒だったり、ゼロ秒だったり、数分、数日、年
臨機応変にとても巧妙なテキトーさで絶えず焦点(というか非写界深度)が動いていると思う。
「過去」は「広義の現在」に含まれているかもしれない。
カタチが時間方向にも拡がりだす・・・。
ピカソが何を表現したかったのかが少しは解った気になれる・・・かも。
境界なんてピント合わせ一つで変わっちゃうよね。
>>284 解像度、上がったのかなぁ・・・?
今まで、世界はすごくカッチリしていたのが、なんかふにゃふにゃになっちゃって、すごく
心もとないのです。こんなんで、どうすりゃいいんだよって感じ。んで、「今後焦点合わせて
みたいと思う?思わない?」という探るような質問になったのでした。
でも、そのカッチリ感を西洋的な知恵の結実に結びつけるなら、慣れればふにゃふにゃのま
までも大丈夫ってことなのだろうか?
勿論、今までだって全ての知りたいことを分かるわけにはいかなかったのだけれど。
時間はねえ、よくわからない。時間はこの世界の本質的な構成要素とされているけれど、
定量の変化を観測する以外に、実感のしようがない。時間の流れが逆だったら、人生は墓場か
ら始まってお母さんのお腹に入って終わるのもあり、って話を以前読んで以来、「過去の記憶
を続々思い出していっている現在の自分」のシュミレーションを時々やってみるのだけれど。
「時間の方向」以外にも拡がったりもするのだろうか?物理法則がまったく異なる世界にお
ける時間の姿は?焦点ぼけないよう…!こういう時に、あるいは…の出動を要請してみればい
いのだろうか?
ああ、そうか。球のような時間とか、じんわり沁み出すような時間とか、鋭角を持つ時間
とか、いろいろやってみりゃあいいんだ。馴染みが深いもの同士は意外になじみ易いなあ。
象の時間、ねずみの時間ってありましたね。足先の時間、ミトコンドリアの時間はどだろ?
考古学の時間の扱い方に着目してみるのも面白いかもしれないです。それぞれの学者が、
それぞれに時間軸を採用して、食い違うのがしょっちゅうなのですよね。みんな、時間の
順番に並べたがってるのは一緒なのに。
きょうは頭がちょっと疲れている。
アンプが壊れた。ヤマハの古いアンプで、10年以上使ったものなのだが、補修部品も
ないわけで、買い換えた。DENONのアンプ。まだ結線して少し音を出しただけだけど、
何だか今までのアンプより刺激的な音がしなくて、いいかもしんない。
立川まで行ったんだけど、試聴ができなかったので、どんな音だかさっぱりわからない
まま買ってきた。2chではDENONは何だか評判が悪いんだけど、昔DENONのアンプを
使っていたことがあって、そのときは大層気に入っていたから、今回もエイヤっと買い。
安いアンプだからそんなに期待してませんが、今までよりもましな音で音楽が聞けたら
いいなぁと…。
↑
ううむ、スレどころか板違いですね。無自覚的誤爆というべきか。スマソ。
>>288 板違いついでに
きのうから音出ししてますが、だんだんよくなっているみたい。かなりいいかも!
まだ2日目ですから、多分まだ結構硬い音が出ていると思うけど、ときどき
ドキッとするような音がでます。何だかいい音になりそうな予感。cdもLPレコード
もカセットも片っ端から聞き直しそう。家の中でいい音楽が流れているときは、
とても幸せな気分になります。僕のいい音の基準は、聞いてて楽しい、これに
尽きるので、結構安上がりなオーディオ好きです。もちろんモー娘。なども聞きます。
結婚前のユーミンのCDも、かなり好きな音の入っているCDなので、楽しみ!!
>>285 見なきゃいけないモンじゃないし、見たからどうだってモンでもないし、
見えることが必ずしも良いことって訳でもないし・・・。
「見なかったことにしておこう・・・パタン」ってのもアリだと思う。
「世界はスッゲー広い」って事だけ知ってりゃ充分な気もする。
だけど・・・ね・・・ほんとになんの因果か・・・人間ってのは。
今ままでのカッチリ世界は、内側がカッチリで外側はふにゃふにゃの不思議な箱に入れて
しまっておくとイイ感じかも。カッチリ世界から見るとふにゃふにゃ世界が箱の中。
>>268 俺の中でも「言葉」の意味は普通に狭義で使ってますね。微塵みたいに広い世界じゃない。
「狭義の言葉」から「広義の言葉」に目が移ったのなら、言葉のカタチは
「言葉」→「『狭義の言葉』→『広義の言葉』」→
「『言葉』→『[狭義の言葉]→[広義の言葉]』」→・・・
例えばこんな感じの年輪。まだ二次元だけど。
>言葉の振る舞いを制限するのは、自ら硬化した言葉それ自体である。何故、硬化したか
>というと、その方が考える際に時間が短縮されるから
とするならば・・・、遙か昔に硬化した、時間の短縮された「ちょっ速」の言葉が、
脳の奥に埋もれてるかもしれないんじゃないの?サルの言葉、爬虫類の言葉、etc・・・。
人の言葉からすると速すぎて、早すぎて、気付かない言葉。
前に微塵と「無意識と意識のタイムラグ」の話をしたのだけれど、その時に俺は
「速い意識と遅い意識のタイムラグ」だと言った。学者さんが「無意識」としてしまう
「ちょっ速の意識」をスポーツ選手なんかは意識化できると思う。体と会話できる。
意識と無意識が(より)繋がっていると思う。
(進化してない、分化してないだけという話も・・・。)
科学的には意識の座は「脳」にあることになってるみたいですが。
脳内の血流や脳波の変化で、脳の活性状態もリアルタイムで観察できるように
なってきたみたいですけど。
仮に、脳の活性している場所が「意識の座」だとするなら、外界を観る意識の
角度も「物理的にも」ころころリアルタイムに変わっていると言えるかも。
私は「意識の座」はそんなに単純じゃないと思ってるけど。
>>言語の、汎用性の高い骨格部分は、きっとまるごと完成された状態で(人類を)訪れ
たのだと思います。どこからかは知らないけどw
微塵からもらったメールの中のこの文がすごく気になっています。今まではどうにもとっつけ
なかった着想ですが、言語の機能がそれまでの生物の流れから生まれるには突然すぎるという
ことが実感できれば、そう思うことも可能かもと思えるまでにはなった。でもまだよく分から
ない。
>>微塵
言語の、汎用性の高い骨格部分、て、どの範囲を考えていますか?
微塵は「径路」という実感をもって、汎用性の高い骨格部分をそういうものとして認識でき
ているのかもしれないけれど、私はやっぱりまだ、言葉を使って考えると、地図を眺めるよう
になってしまうのです。だから、言葉同士の中に、実感として差が無い。
格助詞も方向性がありますよね。そして、自然の中にあたり前には無いみたい。
接続詞や副詞とどんな位置づけになっていますか?既に以前教えてくれてたら、すみませんが、
もう一回。
>>292 原始的な生物もセンサーと神経と遺伝子をもって情報をあつかっています。
分類上の「個体」という枠組を少し離れて見れば、生物のいる世界は、おぼろーに神経で繋が
っていて、空気も水も空間も時間も、神経媒体と捉えることができる。
神経が近接して群れをなして、共同体を形成したのが脳です。
どうしてこういう話を持ってきたのかというと、言語を「訪れたもの」と言うとき、言語的な機能と目
されるものすべてを携えてやってきのではないからです。
格助詞や、基礎的な論理記号(の機能)、「すこし」「もっと」「ぜんぶ」などの量化機能と量の比較
などは、生命のはじまりから働いていると思います。
質を量に還元して単純化するというのは、少量の神経系がその容量内でおこなう基本的な知的戦
略で、生物はなべて「種の科学」を持っていると言ってよい。「種の科学」の中に棲んでいる、とった
ところでしょうか。
つづく
うるせー馬鹿
↑最終行「といったところでしょうか」ですw 言わんでもわかるわな。
「種の科学」は、統一された体系で平面的です。そこから出ることはできません。言語がやって
きたとき可能になったのは、ある体系と別の体系の同一化です。
同一化できるということは、対象から距離をとれるということです。言語以前は、対象としてあら
われるものは「種の科学」によって限定されていましたが、言語によって、デフォルト以外のモ
ノも、ひいては「種の科学」じたいも対象化できるようになった。
言語の汎用的な骨格部分というのは、論理記号のふるまい、主語述語目的語というユニット性
(とユニットのタイプ)、それに時制です。ごく凡庸な捉え方ですw
こんなものは、機能からすれば言語以前からあった。問題は、言語が「空(から)の体系」として
おとずれたということです。
言語に対象を恣意的に代入してゆくと、自然に体系性(全体性)のなかではたらきはじめるとい
うこと。これは反面、言語が外部であることによって、恣意的な対象化が可能になった、というこ
とでもあります。
つづく
言語の根幹が文化でも技術でもないことは、クレオール言語の完成過程にみることができると
思います。
ふたつの異言語文化圏がせめぎあうときしばしば、商事・貿易・交渉などのために、双方の言語
を折衷した混血の言語が形成されます。これは人為的ゆえ文法的にも不格好でぎくしゃくした言
語なのですが、およそ一世代で結構の整った言語として完成します。つまり、その言葉が話され
る環境で育った子供たちが成熟するまでに、その子供たちが成長とともに完成させてしまい、大
人たちは子供たちから学ぶわけです。
齢のちかい兄弟や双子が、おたがいのあいだだけで通用する言語を作り上げてしまったり、耳が
聞こえない子供たちの集団がオリジナルの手話を創作してしまうことなども、言語じしんの意志を
感じさせる事例だと思ふw
接続詞や副詞を、ことさらに強く言語的なものとして言挙げするのは、これらがとくに、言語以後
の広い空間のなかでこそ「水を得た魚」「空を得た鳥」となるからです。
類人猿に言語を教え込む試みの限界は、かれらがたとえ仮に、径路言語を習得したとしても、飛
び立つ空間がないことによるでしょう。
ぼくは感情や本能に対して、友達に言うようなニュアンスで「馬鹿だなぁ」と思うことがあります
が、言語は「賢いなぁ」と感心することが多い。
言語の限界として言挙げされることがらはむしろ、人類じしんの限界だと思います。
言語は人類より器が大きいと思いますし、私達はこの言語のもとで、まだもっと賢くなれる余
地があると思える。
誰か、「言語って、どうしてこんなに馬鹿なんだ。もうちょっとこの辺をこうしてほしい!」と思っ
ていることがあったら、教えてください。
きっと、あたらしいことを考えるネタになると思うので。
言語を神格化しているわけでも信仰しているわけでも万能視しているわけでもありません、言
語の限界にぶち当たるとしても、それはまだ先のことだなあと思う。
言語の表現力には限界があって体験を生のまま移し変えることはできませんが、それは言語
が離れたところにあるゆえであって、言語の表現力がしばしば体験に匹敵するなら、それは言
語としては使えないでしょう。
そうか、そうか。
私は最初、「考える時言葉を使っていない」と書いていたように、自分を眺める機能を獲得した
後に、狭義の言葉がいろんなところに貼り付いたと思っていました。
今も、貼り付くのも言葉の性質のひとつで、でもいったん貼り付いた言葉を自由に剥がすことが
できるという気付きが、身体と運動を統合する、逆に言うと身体と運動から離れられない意識を
更新する有力な手段となる言葉本来の性質を解放するのだ、と思っていました。
だからその辺をもう少し微塵に沿って整理してみれば、納得するか、まだ疑問が残るかのどちら
かだな。
試しに、私の考えの中でそのとき貼り付いたのが言葉以外のものであったなら、ヒトの意識活動
や文明はどんなものになっていたか、考えてみます。
それ、考えることは何を生み出すわけでもないけれど。以前から数学の体系がこの世界から派生
しない(むしろその体系からこの世界が派生する)形で実在すると確信している数学者の感じ方が
不思議でした。微塵はそういう体系も言葉のもたらしたものと言っているし、私もそう思います。
だからといって、言葉が私たちに見せる世界をもとに遡及していける程、言葉のことをよく知って
いる訳ではないのです。まだ、魅力的な機能の域を出られない。
私達が必然的に言葉を獲得したのだとは思ってはいません。言葉である以外の可能性もあったに
違いない。でも、そのときは今の私達ではなかった。
何故こんなに奇妙にしっくりくるのか、っていうのは世界の全てについて思っています。
それ以上に、すげぇ!言葉!ってのは、機会があるならたぶんまだこれから。
なんか、やってみてすぐに降参したい気分になってきたんだけれど、でも、行けるところまで
行ってみます。
脳は、変化を察知する仕組みです。その察知ということも、また変化の形で行われます。でも
それを変化だと捉えられるのは、今のところヒトだけみたいで。どういうことかというと、類人
猿の行動にも、過去に体験した自分の変化を現在の自分の中で再現していると見受けられるもの
はある。でも、それは無自覚な想起で、時間は絶対自分より先には進まない。
人間は過去に体験した自分の変化を、前方に投擲することができるようになった。世界から
受け取る刺激全てからでなくて、そのほんの一部から世界を再構成できるようになったため。
“未来”という概念は言葉以降のものだと思われるので、それは実際の世界(実際だと思い込
んでいる世界)の中に現れる気配なのではなかったか。
気配の出現に、思わずヒトは指をさしたりしたのだろう。
あ、なんか、自分がここまで抗うわけがわかってきちゃった。
私は経験的に、今、一個の有機体としての自分が外部から受け取る刺激による変化が、いっとう
お気に入りなようです。過去にも未来にも材料はあるかもしれないけれど、今、今、今、今、今
を眺めるのが面白くて好きなんだ。
自分の機能をまだ上手に活用しきれないから、外部が垂れ流しにもたらす刺激のシャワーに対
する嗜好が未だに支配権を握っているのです。たぶん。どうしても、それでも言葉は限るものっ
て思ってしまう。
昨夜、機械タンが同じようなこと(言葉は限るものってこと)を書いていたなあ。
ああ、微塵の「伝えたいものは文体」の意味がわかってきた気がする。もうわかってきた気に
はなっていたのだけれど、なるほど、わかるってことはいろんな方向から何度でもやってくるの
ですね。
>>302 のつづき。
自分が「気配」を再構成する際、また、仲間に再構成させることを試みる際、自由にそれらを
起こすには、きっかけが実際の世界からは離れた「抽象的」なものである必要がある。しかも、
容量をあまりとらないものがよい。
例えばそれが身振り手振りでも、手刀で繰り出す振動でも、皮膚から発する化学物質でも、な
んであろうと、言葉になってしまうなあ。ただ、今使っている言葉にくらべて使い勝手がいいと
はかぎらないけれど。応用とか、記録のし易さとか。
でもそれだけでは、それだけのものではない「言葉の体系」がなんであるのかよく分かりませ
ん。それに、本当に自分たちの内部を起源とすることは不可能なのでしょうか。
まだ諦めません。「気配」の再構成が言葉とは別の可能性によって発展する仮説をきっと考え
出します。
>>303 「今」だって、脳のお約束に従って、「推移がおなじ口径のチューブから絞り出されて」くるよう
に、整えられたものです。
ぼくの脳が、これが「今」だよ、と、ぼくにだけ教えてくれる。ぼくの脳は、他の人には教えない
し、他の人の脳もぼくには教えてくれない。
おなじ時代に生まれ、おなじ時間を共有しているように見える人たちも、じっさいいまぼくが「今」
だと思っているいまを「今」だと思っているとは限りません。
いまぼくの眼の前にいる人が、おなじ「今」を生きている、ということを保証する理屈はどこにもな
い。つーか、そうでないからこそ、観測できないのだろうし、だからこそ「今」の形式がいま私達が
感じ取るような、ごくプライベートな表象をとる他ないのだろう。
>>304 現行の言葉とは別の可能性もたくさんあると思うぞー。諦めるなー。
>>305 うん。だから、今を加工するのも好き。なんの役にも立たないけどね。
視覚と背後の音を混ぜて気持ち悪くなったりとか、触覚と視覚の統合をやめてみたりとか、
触覚のループを加速増幅させるとか。ドラッグいらずです。
>>306 ヤル気をみせる書き込みをしておけば微塵が代行してくれるかと甘い期待もしていたのに。
>>308 こっちの水が甘いことは俺ががんがって説明するから、そっちの水の甘さはそっちでおながいしますw
>>299 人類の言語とその他の生き物の言語に開きがあるとしたら、
人類の言語と微塵の言語にも随分と開きがあるなぁ・・・と思う。
「微塵以前」「微塵以後」みたいな。
俺はそこまで言語に執着しないなぁ。
言語に有る可能性なんて他の何物にも有る可能性と変わらんと思うし。
言葉で腹は膨れないし。キリがないし。ヤバイし。
独り言は特にヤバイと思う。
あぁ、ヤバイってのも、他の物でもそうか。
>>310 それは言える。
しかし言葉でしか膨れない腹もあるしなぁw
独り言に近いレスをしていたら「その話をもっと聞かせてくれ」と言われて「んだらば」と立てた
このスレも、思わぬ展開になってしまった。
いまだに独り言ですが、おつきあいしてくださっている方々にはありがとうを言いたい。
私的には得難いリハビリになりました。
膨らんでいた腹がだいぶへこんだかもw
>>281 >微塵がこのスレで言い続けていることは、なかなか僕には理解しづらいところがあったんですが、
と言われる俺は考え中の言い続けていることが理解しづらいですw
その点かもめは万遍ないな。賢さと愚かさがよい配合になっているのでしょう(いい意味で)。
貴重なネゴシエーターだと思います。
>>312 そうですね。カモメちんのレスは、何度も僕をインスパイアしてくれたし、わからない
ところを指摘してもらったりして、僕にとってもとてもありがたいものです。
(^_^)/お〜〜〜い!
わたしはほとんど、書かれたものに解説をつけるように反応するばかりであって、
考え中さんの、
>>264以降の総括的な、あるいは「序」的な書き込みはそのような
反応が無用なものなので、ただ読んでいるばかりでありました。
「わからないところ」があんまりないわけですw
ちょっと、仕事をとられた解説者の気分。とか言ったら、何が解説者だわけわからん、
という突っ込みの声が聞こえそうですが、まあそんなところです。
…考え中さんがときどき持ち出す語で「わからなさ」がただようのは、「散逸構造」。
あと、ヘーゲルw
>>299 言語の馬鹿さというか、足りなさを感じるのはまさに「言語は限るもの」
>>299、
と感じることがあるからなんですが、しかし、それは「人類じしんの限界」なんだ、
とこれを微塵さんがいうと、説得力がありすぎる…
限界を内側から押し拡げるという実践を示しているから。
そして何も挙げられなくなり、むしろそこから、言語万能視の方へいってしまい
そうになります。
「賢くなる余地がある」というときの「賢さ」は「この言語のもとで」のもので
あって、そこを超えて「賢くなる」ことは原理的にありえない?とか。
はじめから賢い生き物のもとに言語はやってきたでしょうか。
この場合の賢さって想像つかないけれど、それは想像力の足りなさですよね。
>>315 >反応が無用なものなので、ただ読んでいるばかりでありました。
そういうものなんですか。全然わかりませんでした。現時点では、一度わけがわからなく
なってしまった言語について、もう一度正面からぶつかるための足固めをしているような
感じです。「一度目はあえなく墜落」ってやつです。歯が立たなかった。でも、今度はもう
ちょっとましなアプローチができるかもしれないと思っています。
正直なところ、いくつか覚え書みたいなものは書いてみていますが、本当に難しいです。
言語が人を理解する上ですべての要であるかもしれないと思いつつ、この訳のわから
ない代物にどこからどう手をつけていいのやらと、途方に暮れとるというのが実態です。
今いろいろ気になることがほかにもあって少し気が散っていますので、まとまって本を
読んだり、ものを書いたりする時間があまりとれない状態ですが、また気を取り直して
チャレンジしてみます。
313にも書きましたが、かもめのコメントって結構僕の盲点みたいなところをパッと突いて
くるところがあって、それは本当にありがたいんです。それに、脳が活性化するみたいな
ところもあります。なので、今後ともよろしくお願いするだす。m(._.)m
続き
上に書いたものが言語万能視なら、それに抗うような形の可能性に向かっている
のが、ガテンコちゃんなのだった。
当人の心許なさや「じたばた」をよそに、ここんとこずっと興味津津な観察者で
いるんですが、でもいま、たとえば
>>304にある「言葉」が狭義のものなのかどうなのか、
わからなくなってるのでした。
狭義でないとしたら、そんな可能性はとてつもなく想像つかない!
狭義であるとしても想像はできないけど、わくわくできます。
(わたしの想像力はかなりみみっちい)
考え中さんの考え状態には、お休みしたり再開して集中したりとムラがある
ようですが、そういうのは突然変移が起こりそうでいいなあ、と思います。
突然変移とまではいかなくても、予想外の方向が開けたりとか。
身体活動や状況から乖離した思考は、つねに均された状態で予想の範囲を出そう
にない。いつでも対応できるような思考はその程度だから対応できるのだろう
なあ…
なので中断ちゅうはぞんぶんに中断して、別名ででも活躍してくださいw
お休みも含めての考え中、といえるとも思いますが。
>>319 ここでの「ぞんぶんに」というのは時間の長さを表すものではない、
ということはいわずもながでもないのだろうかどうだろうかわからないので
書いておこう。
>>319 ぎゃー、訂正。「突然変移」→「突然変異」。二度も・・・
僕が去年、「はじめまして」とカキコしてから、もうすぐ1年になるんですね。何だかまだ
半年ぐらいだとずっと思っていて、結局何カ月も「半年」と思い込んでいる内に、1年
たってしまったという冗談みたいな話。それにしても1年ですか……。
>>318 その辺をウロウロし過ぎたからかもしれないけれど、
>>304 を書いた時と、またちょっと、
見えるものが変わってきちゃっていて、「言葉の生態系」って奴を受け入れざるを得ないかなあ
という気分なのです。でも、例えそうだとしても、言葉の訪れによってヒトの身に起こったこと
についてもうちょっと釈然としたい気持ちは変わらずあるので、かもめちゃんのエールは心強い
ぞ。
広義の言葉を、何らかのやりとりと考えると、エネルギーの受け渡しをする光子や電子、分子
の形を変える酵素など、物質の形を保たせる力や、物質の形を変化させる媒体になり得るもの、
までも考えに含まざるを得ない気がして、そうすると、手段がなんであれ、抽象的なもののやり
とりを担うものは、狭義の言葉に分類できるかな、と。
うちの猫は、扉を開けて欲しい時、ガリガリやるんだけれど、扉を開けることができる猫が
一緒に住んでいたとして、その要求を聞き入れて、扉を開けてやるなんてことは無さそうですね。
でも、一緒に住んでいるのが類人猿だったら、要求を聞き入れて開けてやることもあるのかな?
その場合その行動の内実は?
発信者の知らない内実を受け手が理解する。ここに狭義の言葉は介在するかなあ?
>>264 >このゲシュタルトにおける図と地という概念は、僕の中では
>どうしても平面図形のイメージがつきまとっていて
という事ですが、僕から見ても考え中はそんな感じがする。
大事なのは「図と地」の認識ではなくて、「図」と「地」の認識を切り替える
時にそれの「地」になっている「切り替える意識」の「認識」という気がする。
思考にもリズムがあって、淡々と同じリズムで思考する人と、リズムが変わる人
がいると思う。でも意識して変えるのは難しいと思う。
ルビンの壺で言えば、ただ見方が二通りあるだけでなく、黒地に白で壺を描いても
白地に黒で横顔を描いても、同じ「ルビンの壺」になる。
「出来上がり」を見ただけではどちらで描いたのか判らない。
デッサンの練習で、普通は白い地に「黒」で「影(陰)」を描き込んでいきますが、
逆に、黒地に「白」で「光」を描き込んでく方法があるそうです。
これは訓練しないと出来ないでしょうね。
(ちなみに今見ているモニターは「字」ではなく「地」を書いてますね。)
同じ思考のリズムで違う考えをひねり出すのではなくて、
思考のリズムを変えて同じ考えをひねり出してみるとか。
違う経路を通って同じ所へ行ってみる。
言って出来ることでもないと思うけど。
右手で左腕を握ったときに、触覚は普通は「右手で左腕を触ってる」感覚が優位
に働くと思いますが、意識すれば「左腕で右手を触ってる」に切り替えられると
思います。でも意識していないときでも、常に両方の触覚情報が同時に脳に送られ
続けていて、無意識を書き換えていると思う。
微塵の「新しい言葉」が生息範囲を拡大しようとして、
ガテンコの内で「古い言葉」の生態系を荒らし始めた感じがする。
今のところ、「新しい言葉」は領土拡大を狙ってて、
「古い言葉」はそれに抵抗して領土を死守しようとしてる感じ。
国境線では小競り合いが続いていて、領土は流動的。
今のところはどちらも共存は考えていないかも・・・。
停戦ラインは引けるかな?それとも他の道・・・。
虎視眈々と漁夫の利を狙ってる第三勢力もあったりなかったり・・・。
言葉の可能性は他の言葉の可能性を食い潰すかもなぁ。
生き物の生きていける場所は限られているものなのかもしれない・・・ね。
なんて言ってみる。
言語が知覚にもたらすものは、不変項の解体かもしれないと思う。前言語的な知覚は、
それ自体本能的な統合性を有していて、不変項の知覚は、感覚運動系が健常であれば
極めて高度に行われるのであって、ヒトの場合はそのシステムが言語によって解体されて
いると考えればいいのかもしれない。つまり、ハナイカの視覚は対象の形態や色彩を
直覚的にとらえ、即座に擬態することを可能にするほど高度に完成している。ヒトに
あっては、この本能的な感覚統合のプロセスが解体されていると理解すればよいの
ではないか。
この場合、「不変項」はふさわしい言葉ではないみたい。何か別の概念が必要だと
思えます。言語以前的な感覚の健全な機能とでもいうべきある統一性かな? よく
わからない。
しかし、この知覚の解体は、いわば理念化された不変項によって代位され、そのことに
よって、直覚的な高度な知覚を超える精密な近似を可能にしたと考えればいいわけで、
幾何学や数学はそのような人の営みと言えるのかも。もちろん自然に帰れは不可。
以上、単なる思いつき以上ではありませんが……。、
>>326 これとの関連で言うと、人の運動・感覚機能は、本来自然に有していたはずの統合への
アプローチという回路を持つようになりました。それがスポーツや格技、その他の活動の
形式ではないでしょうか。それは、あまりにも人間的な活動として位置づけられる。その
奥義とされるものは、自然との一体性の「回復」なのだろうか? そうではないようだ。
自然の高次の統合と位置づけられるべきなんでしょうね。
言語が社会的であるというのは二重の意味があるようです。言語は個人にとってはまず
外側からやってくる規範であるという側面があります。この規範は、社会の中で通用して
いる言語という意味で規範であると同時に、言語それ自身もまた規範的であります。この
両者は同じことを意味していないと思います。微塵が言うように、言語が一つの「自律」的な
システムでもあるということから考えれば、そのシステムは社会に内在しているようでも
あり、社会から「独立」してもいるように見えます。個々人にとっては、言語は社会に同化
するための学習しなければならない社会的規範の一種であると同時に、「道具」のように
自律性を持ったシステムでもあるという意味での一つの規範なのだろうと思います。微塵が
言う「径路」的な話は、この自律的な規範としての側面の話だという気がします。
>>326 >言語が知覚にもたらすものは、不変項の解体かもしれないと思う
ふんふん。不変項の解体ってのはきっかけでしかなくて、
解体してるそばから、組み立てなおしてるヤツがすぐ隣にいたりして。
解体する速さと組み立て直す速さは必ずしも同じじゃなかったりして。
>>328 >言語が社会的であるというのは二重の意味があるようです。
二重の意味がある(見出せる)のは、それに限った事ではないとオラは思う。
考え中が「二重」の意味を見渡せる新たな視点を獲得したのではなかろうか。
でも、「二重」は「多重」の始まりでしかなかったりして・・・。
「二重丸」の内側の「丸」の意味だと思うのだけど、
「大きい輪ゴム」と「小さい輪ゴム」の二重丸と、
「大きいお皿」と「小さいお皿」の二重丸の違い・・・みたいな。
あるいは、丸の真ん中に棒を引いて二つに分けた図を、トポロジー的に
変形して、偏った二重丸にしてみるとか。ってゆかぶっちゃけ「相対」と「絶対」。
「社会的な言語」の一つには、「君と僕」で使う言語ってことだーね。
社会の中で使「われる」言語とか、君に聴か「される」言語かな。
「言うことをきかされる」ってのが、「従わされる」って意味になってるね。
嫌いな言葉だw
それと同時に「僕が僕に」使う「独り言」の言語があるのかしら。
それが僕の内に「社会」を写し取っていくのかな。
「僕」が「君」に話す言葉は同時に「僕」自身にも聴かせている。
自分で自分に「言うことをきかせる」から、自律的なのか。
でも、これは「僕は自律的だ」と同じくらいの意味だね。「僕は生きてる」とか。
結局、「僕」の二重性か。
「僕は生きてる」と「僕は生かされてる」の二重性とか。
>>329 >解体してるそばから、組み立てなおしてるヤツがすぐ隣にいたりして。
>解体する速さと組み立て直す速さは必ずしも同じじゃなかったりして。
この場合に不変項が妥当な概念でないかもしれないと感じていますが、この言語による
知覚の改変の過程が、「不変項」とギブソンさんによって名付けられたものを生成すると
考える方が妥当かもしれません。この生成のプロセスが、ヒトが人になるプロセスでもあり
言語化のプロセスでもあるわけです。
ヒトの乳幼児は、まず社会的には非言語的な存在として生まれます。これは、岸田秀の
いう「本能が壊れた」状態(というよりは、本能が未組織な状態かな?)ですが、そこから
活動―言語的に自らを組織化していくわけです。本能が言語化され、フェティッシュ化され、
フロイト的な多形倒錯の世界に入っていくことになるということでしょうか。
>二重の意味がある(見出せる)のは、それに限った事ではないとオラは思う。
>考え中が「二重」の意味を見渡せる新たな視点を獲得したのではなかろうか。
これはそうなんでしょうね。直接には微塵の生きている言語のパクリですが、言語が
社会的な生成物であるということの意味をもう一度考え直してみたいということです。
>>330 言語の自律性ということについては、社会や個々人の意思から「独立」しているという
意味で考えています。その中身は、具体的にはコミュニケーションのプロセスで変容
していくということだと思います。直接には、
>それと同時に「僕が僕に」使う「独り言」の言語があるのかしら。
>それが僕の内に「社会」を写し取っていくのかな。
>「僕」が「君」に話す言葉は同時に「僕」自身にも聴かせている。
>自分で自分に「言うことをきかせる」から、自律的なのか。
こんなことも間違いなく自律性の一つの根拠でしょうが、コントロール不可であると
いう意味で、僕たちの意思からは「独立」していると思います。
そして、一たん変容してしまったものには、人は不承不承でも従うとこになるのでしょう。
若い内は、言語の新規性や可塑性ということに人はとても敏感で、目の前で新しい
言語がつくられ、自らもそれに参与していることに喜びを覚えるもののようですが、
「大人」になると、その辺が変わってくるようですね。「日本語が壊れていく」とか言って
嘆くようになるのも、その一つかなw
>>331 >この言語による知覚の改変の過程が、「不変項」とギブソンさんによって名付け
>られたものを生成すると考える方が妥当かもしれません。
そんな感じかも。個人的な感じ方ですが。
学問的なレベルの話は難しくてデキナーイw
>>332 >言語の自律性ということについては、社会や個々人の意思から「独立」しているという
>意味で考えています。その中身は、具体的にはコミュニケーションのプロセスで変容
>していくということだと思います。
これは、なんというかな、「今となっては」ということだと思うのです。
以前は、言語を「切り離して」観れるだけの眼を持ち合わせていなかった。
解像度でもいいし、メモリの容量でもいいけど。
今となっては、「ああ、言語ってそういうものじゃん」って感じで、
ここで、もう一歩踏み込めば(踏み出せば?)
言語って、「今となっては、『ああ、言語ってそういうものじゃん』って感じ」
に「成るモノ」だと思う。
まだ、そう成ってない人にとっては「そうではない」
「これからそう成るかもしれない(し、ならないかもしれない)」モノ。
ここにも二重性ね。
「君の言葉」と「僕の言葉」の間に、「君と僕の言葉」を見出せるようになれば、
そこで、ふと「地」に意識を切り替えれば(これがなかなかに難しい、こういう時
「てゆーか」を発動させると便利)、
「君のでも僕のでもない言葉」を見いだす事が出来ると思う。
「君の言葉」と「僕の言葉」(コミュニケーション)から分かれ生まれたとも言えるし、
始めから在ったとも言える。「図」が先か「地」が先か。みたいな。
「独立」を宣言すれば「独立国」なのか、他国に承認されて初めて「独立国」なのか・・・
「自己組織化」っていう概念を「出来上がった形」で受け取ってしまった人は、
「自己組織化」を体感できないよなぁと思う。
>>332 制御できなくても、何かしらこちらが能動的になれるようであるところが、小憎たらしいところ
ですね。
変化を与えることができても、こちらの意図とは違うものになっていったりして。
> そして、一たん変容してしまったものには、人は不承不承でも従うとこになるのでしょう。
「不承」という自覚があるならまだいいなあ、と思います。
そのときは気づかず、あとからわかればまだいいほう、という変化がありますよね。
「自明のものごと」というレベルの変化、考え方ものの見方の基礎の変化で、気づくと
あれまー、となります。
こういう変化を察知できて、さらにはこちらから変化を与えられれば、すごいなあ。
>>333 > 言語って、「今となっては、『ああ、言語ってそういうものじゃん』って感じ」
> に「成るモノ」だと思う。
「成る」は「気づくようになる」で主体は人間だと読めるんですが、もちろん主客の関係なんて
相対的ですよねw でもそのように読んでみたいw
なんだか、「そうか、子どもも一個の独立した他人だったんだ」と気づく親、を連想してしまいました。
そして、自分で思いついたこの喩えの危険性を少なくするために手を加えると、
この場合の他人とは文字通り他人で、もしかしてよそから来た子? ていうかそもそも子どもじゃない?
という気づく、となるのでした。ならなかったりして。
test
>>309 言葉ってのは決して甘いだけのモノではないと思うんだよね。
人を生かすことも、殺すことも出来るモノだと思う。
脳に働きかける力ってのは侮れないと思う。
言語の可能性をどこまでも追求するのもいいけど、それはもしかしたら、
言語依存症、言語ジャンキーへの道かもしれない。その危険性は挙げておく
べきだと思う。征くなら覚悟が必要な道だと思う。
率直な感想として、微塵側の言語の世界は常軌を逸してると思う。凄いと思う。
覚悟のない者が興味本位で安易に踏み込むべき世界ではないと個人的には思う。
語るべきでない言葉ってのもあると思うし。
空海が真言を密教にしたのもアブナイからだろうし。
と、思ったことを言っておこう。
>>336 >なんだか、「そうか、子どもも一個の独立した他人だったんだ」と気づく親、を連想してしまいました
うん。親子の関係は想定して書きました。
言葉と(人)の関係を、自律している(していく)モノとの関係として捉えてる訳だから。
>「成る」は「気づくようになる」で主体は人間だと読めるんですが、もちろん主客の関係なんて
>相対的ですよねw でもそのように読んでみたいw
「言葉」を「子供」に(あるいは親に)置き換えて読んで貰えれば分かりやすいと思う。
親は「子供ってそういうモノじゃん」って「気付くように成る」だろうし、
子供は「気付かせるように成る」のだと思う。
親は親に成っていくモンなんじゃろな、でも、成りにくい時代なんじゃろな。
思うが多すぎw
>>338 ほとんど異論ないなぁw
ぼくは常軌を逸してると思います。
だから「こっちへおいでよ」とは誘わない。
ただ、ここからしか見えないことがきっとあると思うから、訊かれたことには張り切って答えますw
見えないものを「隠されたもの」と考えると「オカルト」の世界になりますねw
見えないものを探究するというのは、前のA=B+CからいけばCの世界を見ようとする
ことに該当すると思うのですが、いきなりCの世界に飛び込むとやばいという話ですね。
今、現象学の入門書を読んでいます。これは直接には見えないものの話ではなくて、
見える世界の成り立ちをありのままの形で把握しようとする哲学だと思うんですが、
結局はBの世界をきちんとつかむことを通じて、それとの連接関係の中で境界領域を
推測し埋めていくという作業、つまりジグソーパズルを地道に進める以外に早道はない
と考えるべきなんでしょう。そこにうまくヒットすれば、世界の見えががらっと変わると
いうことも起こり得ると思いますし、
時々僕が先祖返りのように世界の「唯物論」的な基礎を確認したくなるのも、足場が
崩れることを恐れているからだと思います。Cの世界は、間違いなく広大で深遠なので、
そこに無鉄砲に突っ込んでいくことはあまりにも危険がいっぱいで、、確実な手がかり
なしにはできないことだと思います。それへの手がかりが言語の成り立ちにあることは
間違いなくて、そう考えればやはり言語の世界に入り込んでいく以外に手はないという
ことになります。
それにしても、僕はCの周囲ではなく言語の回りをぐるぐる回っていますね。一向に言語
そのものに食いついていけないです。いま一つ具合がよろしくないという感覚が残って
います。何だかな〜。
現象学スレを読んでいたら、おすすめの中に「これが現象学だ」(何、この変なタイトル。
本屋で見たら買ってなかったよ。)というのがあって、買い求めて読みました。これが、
意外におもしろかった。竹田青嗣のものよりもずっとおもしろかった。著者は谷徹という
人で講談社現代新書。あっちこっちで僕の問題意識と引っかかるし、おまけに今まで
読んだどんな現象学関係の本よりも内容がすっきりしているように思った。というわけで、
めったに本をすすめない僕が読んでいない皆さんにおすすめ。これはイイ!
本文中にもちらっと出てくるんですが、アフォーダンスの考え方と重なる部分が少なく
ないと思う。僕にとってはちょうどいいタイミングで、とてもよい本でした。今後の議論を
進めるのに役に立ちそう。
>>343 目次を見てみましたが、おもしろそうですね。
まず思ったのは、同じ新書に似たようなタイトルの本が・・・w だったりしますが。
余談的に本の話ですが、いい本に出会えると幸運を感じますよね。
わたしのここ半年くらいの大ヒットは、『論理哲学論考を読む』野矢茂樹でございました。
そして先日、『生態学的知覚論』が古本で手に入ってしまった・・・
弱気に読みはじめたいと思います。
>>344 「これが……だ」というのは、講談社現代新書の書名のパターンの一つなのかな。
筆者はこの書名にやや抵抗があったのではないかと思われるのですが、編集に
押し切られたのかもw
読み終わって大して時間がたっていないので、まだ僕の中ではこなれていない
ような感じですが、そのうちこれに関連して何か書けると思います。「不変項」とかw
「不変項」?
「これが現象学だ」の中にさいころの話が出てきます。これを網膜像として考えれば、
「平行四辺形」や「台形」の集まりということになるのでしょうが、僕たちはそもそも
そのように知覚していないと思います。感覚を分割して、それらの幾何学図形に
還元するのは、二次的な作業だと思います。僕たちは、まず動くことを通じて世界を
知覚します。その中でさいころは最初から立体だし、「立方体」に近いものとして
知覚しています。もちろん「立方体」も二次的な抽象概念だと思います。つまり、
僕たちは最初から立体としてのさいころを知覚しているわけです。この対象のあり方を
ある面から抽出したのが「不変項」かもしれません。不変項以前に、僕たちの知覚は
さいころを知覚しているわけで、この知覚のあり方は、現象学によってもまだうまく
説明されていないような気がします。生態学的知覚論でも同じことではないかと。
ちょっと別の言い方をすると、現象学も生態学的知覚論も間違いなく同じことを見ている
のだと思います。しかし見ている視点が違う。同時に、双方とも同じ何かを見落として
いるのではないか。これは言い過ぎかもしれませんが、そんな感じがします。
知覚のベースは身体だという考え方があります。僕も多分そうだと思っています。
アフォーダンス理論も現象学も、ともにそういう考え方が基礎にあると思います。身体の
活動を通じて僕たちは世界を甘受しています。それを丸ごとありのままに理解することが
できればいいわけで……w
↑甘受→感受
>>346 >これを網膜像として考えれば、
>「平行四辺形」や「台形」の集まりということになるのでしょうが、
網膜像を見るにはやはり網膜を通さなければいけないわけで、
すでに入れ子構造になってますね。
>僕たちはそもそもそのように知覚していないと思います。
「そもそもの知覚」ってのが何を言わんとしているのか良く分からない。
「僕たち」と言うけれど、他人の知覚を、他人の知覚のまま感じることは
不可能ですよね。
(それでも、ある程度同じには感じられることもあるとは思うけど)
>僕たちは、まず動くことを通じて世界を知覚します。
「知覚」も運動の一部でしかないし、「思考」もそうだと思う。
筋肉細胞か神経細胞かの違いでしかないと思う。五感もそれぞれ独立してるわけではないし。
>その中でさいころは最初から立体だし、「立方体」に近いものとして
>知覚しています。もちろん「立方体」も二次的な抽象概念だと思います。
これも良く分からない。考え中個人の知覚なのだろうか?
「最初から立体」ってのは物心ついた時の事?
生後間もない赤ん坊の時の視覚はぼんやりとした明暗の違いしか分からないらしいし。
母親の顔の明暗だけ拾った絵に反応するらしいよね。
俺個人としては、立体の(に限らず)視覚的な知覚は年代と共に変化してます。
でもそれが分かるようになってきたのは、ある程度大人になってからだな。
極論を言えば「同じ知覚」は二度として起こらないと思います。ハード自体書き換わるから。
遺伝による資質というのも大きいのだろうけど、環境による訓練も大きいと思う。
読めるけど書けない漢字ってありますよね。読むことは迷わずに出来るのに、
書こうと思うとどうにも思い出せない。認識というのはとても曖昧だと思います。
「立体を立体だと認識出来ている」ということも同じ様なもので曖昧だと思います。
書く訓練をした「漢字」と読む訓練しかしていない「漢字」では、
見え方も違うと思います。知覚は行動(運動)とは「切り離せない」ですね。
これが分かってくれば、空間の知覚が三次元から四次元に移れると思う。
>身体の活動を通じて僕たちは世界を甘受しています。それを丸ごとありのままに理解することが
>できればいいわけで……w
それを理解するには、いくら本を読んでもダメでしょうw体を動かさないとw
中国拳法とか、ヨガとかにはある程度そういう訓練法が体系化されてるのだろうと思う。
けど、危険な部分もあるだろうね。オカルトとの区別が難しい。
>>348 知覚の差異という問題は確実にあるわけで、そこに三角形や円といった観念が
「普遍性」を持つと考えられてきた根拠もあるような気もします。しかし、ここで
言いたいのはそういうことではありません。僕たちが(というときに想定している
のはこれを読んでいる人です)さいころを見ると立体に見えるわけで、平行四辺形
や台形が寄り集まったものには見えないという話で、これは「これが現象学だ」の
中に書かれていた例の一つです。「立方体」に見えるというのも言い方としては
乱暴ですが、厳密な話をしているわけではないので、まあ堪えてくださいw
平面図形ではなく、立体的なものとして見えているということを言いたいわけです。
個体発生の過程ではどのように知覚が展開してきたのかということは別の問題と
してあると思いますが、現時点では大人の知覚について話をしています。知覚が
どのように形成されるのかというのは、発達心理学や発生的認識論のような話も
含めて大変難しい問題だとは思うのですが、そこはちょっとまだ……。
>>349 結局は身体の問題になるというのは間違いないと思います。ただ、それだけ言うと
「行」の問題に還元されてしまうので、それは避けたいです。行もまた言語に媒介
されているわけで、そこに言語化された人の知覚と行為の問題もあると思って
います。この辺はおっしゃるとおりヨーガなどの話にもなると思いますが、具体的には
何も知りませんので、とりあえず保留ですw 「気」とか「波動」とか「オーラ」とか、
いろいろあるようですが、僕にはどれもまだ理解できませんので、お話にならないと
思います。
>>350 >平面図形ではなく、立体的なものとして見えているということを言いたいわけですか?
立体感、奥行き感みたいなことを言っているのですね。
網膜像という平面(というより球面だけど)を介しているにもかかわらず、ということですか。
脳内で「立体」に構成してるわけですね。反復学習により脳が「立体だ」と思いこむのだと思う。
一つには両眼視差による立体感があるでしょうけど、片目で見ても、立体は立体に見えますね。
ブラウン管やスクリーンに写った像でも立体的に感じている。絵でも。
割と始めから例えば「サイコロは立体であるはずだ」と決めつけて見てると思う。過去の経験から。
サイコロでも真っ正面から見ればただの正方形にしか見えないですね。真っ正面からみた立方体と
正方形の区別は付かないと思う。或いは半球面と球の違いとか。これらは、自分が動くか対象を
動かすかして視点を変えてみない限り、区別が付かない。
偵察衛星から見た建物とかも、限りなく平面的になりますね。角度差が(少)ないから。
自分が動き回る、相手を動かすという行動と視覚をリンクさせて学習した経験がないと
空間認識が出来ないというのは、動物実験でも確認されてますよね。アメリカで部屋に閉じこめられて
育った少女が、動くブランコや転がるボールに全く反応しないってのテレビでやってたな。
「幾つかの違った角度から見た像を一つにまとめて構成する」訓練をつまないと立体的な知覚は出来ない。
無意識の知覚は既に空間と時間を相対化していますね。
ピカソがやったのはまさにそれなわけで。
例えばある人の顔をその人の顔と認識するには正面、横顔、後ろから、上から下から、
時間をかけてぐるりと回ってみなければちゃんと立体として認識できないわけで、
それを脳が(というか体が)ひとまとめに構成して認識してる。無意識に。
これを意識し始めると見え方が変わってきますね。フレーミングが空間の切り取り方
だけでなく、時間の切り取り方の問題にもなってくる。時間も多面的になってくる。
ふと、脳の中のホムンクルスの顔の部分が上下ひっくり返ってるのは、
網膜像が上下ひっくり返ってることと関係あるのかな?と思った。
関係ないけど、テレビでマギー審司が、手に持ったビーフジャーキーを手をパッと開いた
瞬間に消す手品(指の甲に貼り付けてるだけだけど)を、犬の前で見せたら、
犬は餌を投げたと思って必死に廻りを探し出すのが面白かった。
臭いで気付きそうなもんだと思ったのに、犬も視覚で騙されるんだな。賢いw
>>351 人でも動物でも、身体を使って動くことが前提ですべてが成り立っていると思われます。
その意味では、発達と学習というプロセスをへて外界を知覚するのだということは、その
とおりだと思います。形の知覚も、単に静止した対象を知覚するのではなくて、常に動的な
関係の中での知覚として成り立っていると思います。そして間違いなくそのように感覚は
できていると考えます。例えば正方形の紙が机の上に置いてあるとして、それを直観的に
正方形と見る能力は、一面では生得的な能力であると思います。生得的ではあるが、
運動を通じての発達・学習によって獲得される能力なのだろうと思います。正方形という
言い方よりも、真四角と言った方がいいのかな。正方形というのは抽象的な観念ですから。
真四角も同じようなものですが、経験的に得られた真四角という観念と、正方形とは違う
ような気がします。抽象度の差でしょうか。
何が言いたいかというと、真四角にしても、「立方体」にしても、それはまず観念以前?に
「不変項」として知覚されているだろうということです。この場合に「不変項」という言葉が
適切かどうかはちょっと自信がありませんが。
>>346 現象学もたぶんアフォーダンス理論も、ありのままを記述しようとするものですよね。
ありのままっていうのはここでは、最大公約数的な世界の見えのことですが。
それを記述するとは、たとえば、わたしたちにあるはずしがたい「バイアス」を、それが
「真の」見えを妨げるからとかなんとかいって退けようとしたりしないで、
ただそれがどのようなものかを記述するということです。
それでも、何か「見落としている」といいたくなることもありますね。
それに、そういう記述的態度ではなくて、たとえば不変項なら、それを必然的なもの
ではなく可能的なものとして扱おうという態度もありまして、このスレはそっちの
傾向できていると思います。
自明的なそれに自覚的になってみる。無重力で長い時間を過ごしたら不変項は変わるぞ、とか。
機械タンのスレに物理屋さんが来て、これまでと全く違った局面が開けました。機械タンが、
この危機にどう対処するかで、機械スレの未来は決まるでしょうね。それとも、何事も
なかったように「超ひも理論」に基づく機械的唯物論がまた主張され続けるのでしょうか。
かもめちゃんのおかげで迷子にならずに済みました。ありがとう。
>>355 まだ、物理屋さんの登場のあたりしか読んでいないのですが、物理屋さんは機械タンとは対立
していないし、別に対立しようがないと思うのだけれど、まだ読んでない部分で、どちらかと
いえば自分側の人間である物理屋さんに何を血迷ったか機械タンが論陣を張るのかしら?
私個人としては、あそこに登場する方々の中で、どなたが哲学に精通しているのかの方に興味が
あるなあ。哲学の知識が少ないから、誰が哲学的な立場で真剣に議論しようとしている人なのか、
さっぱりわからなくて…。
では、続きを読んできま〜す。
続き読みました。機械タンがわからなくなったよ。何に固執しているんだろう?
でも、おかげでようやく分かったことがあります。科学は観測できないものは扱っていないから、
その導き出す結果をもってきて、こんなに上手く説明できているのだから科学の手法によって観測
できないものは存在しないって言うのが本末転倒なのだね。
だから、例え機械タンが現時点で最も上手く説明できていると判断される仮説をそこで採用され
ている解釈に忠実に引用できる能力を備えており、それで自論を補強していたとしても、同じこと
だよね。
自分が「ん?」って思う自然科学者の世界観や脳観には、すぐに「観念的な嗜好混ざってんじゃ
ん」って思うくせに、自分が好きな唯物論に基づく決定論を特別扱いしていたな。
そう思うと哲板に来ている限り、物理屋さんの物理屋さんとしての正しい姿勢につっこみが入る
のも、わからんでもないですね。物理屋さんは、怪しい知識が堂々と飛び交っているのを目にして、
黙っていられなくなって正しにきただけだから、そんなとこつっこまれても困惑するだけだろうけど。
機械タンは、本気で議論する気は最初からないんでしょうね。自説を議論と無関係に
展開するだけで、突っ込まれたときは反論するけれども、その内容がいつもとんちん
かん。機械タンがらみで有意義な議論が展開されているのを見た記憶がない。
むしろ、機械タン寝てから後におもしろい話になったことが何度もあるわけで、それを
期待している面もあります。それにしても、現在の展開はひど過ぎますね。機械タンが
なぜああまでしてスレに執着しているのか理解できません。レクリエーションなの?
>>355 機械スレ、グダグダですなw
>機械タンが、この危機にどう対処するかで、機械スレの未来は決まるでしょうね。
ノンノン。
全ては始めから決定されてるのよん。
>>358 「機械タンは狂言回しがやりたいのかなぁ」と、始めの頃は思ってたけど、
どーもマジっぽい?最近はよくわからんw
自演厨が多すぎて、どれがオリジナル機械だかわからんw
あっちゅー間に次スレに移行しちゃったね。でも、機械タンではない人が立てたみたい。
こんな事態を許すのか、機械?!どうする機械!ここで踏ん張れなければ今まで頑張った
意味が無いぞ機械!
私が唯物論に基づく決定論に傾倒するのは、自分の実感に一番しっくりくるからです。
自分の正体が物質ではない自由意志だと悟れたなら、なんでこんな不自由な肉体などに
しがみついていようか。世界のほんの一部のこんなに狭い幅に調節されて安定した系だと
思えるのに、違う見方ができる人にはそこに何が見えているのだろう?
機械スレをそれなりに読んできた者としては、機械タンの論法のいい加減さは
それなりに理解していたんだけれども、かといって彼の確信犯的レトリックを
食い破れる者がいなかったということも事実で、それが機械タンスレが存続
してきた理由だと思う。今回の件は、機械タンの側に明らかなミスがあって、
ああいう展開になりましたが、ミスっていなければ、大した問題ではなかった
ようにも思えます。やっと気づいて方向転換を図ろうとしているようですが、
成功するかどうか。
>>361 >かといって彼の確信犯的レトリックを
>食い破れる者がいなかったということも事実で、
「事実」と言うのはどうかなぁ?客観的(間主観的)には食い破られまくりだと思うけど。
>それが機械タンスレが存続してきた理由だと思う。
「食い破れる者」ってのが、機械タソを納得させるなりへこませるなりして、
「もう続けなくていいや」って思わせる事の出来る者の事なら、その通りだと思うけどw
「確信犯的レトリック」が「信仰の告白」のことなら、誰も食い破れないだろうね。
機械スレが続く理由
1.機械タン自身が止めないから。
(1対多数であそこまで頑張るのは凄い。打たれ強い。)
2.凄い勢いでレスが付くから。
2−1.機械タンのキャラが面白いから、いじりたい。
(それこそ、こんな所で「機械評」が出てくるぐらい)
2−2.機械タンの蒔いた餌(テーマ)が、多くの人が食いつかずには
いられない性質を持ったものだから。
(「信仰」に関わってるよね)
3.決定されてるから。
(運命・・・)
>>360 >私が唯物論に基づく決定論に傾倒するのは、自分の実感に一番しっくりくるからです。
「自分の実感」に「しっくりくる」ってゆう理由が素直でいいなぁ。説得力がある。
全てが決定されてるのなら、傾倒するかしないかも、しっくりくるか否かも、
これからもしっくりし続けるか否かも(ry
>自分の正体が物質ではない自由意志だと悟れたなら、なんでこんな不自由な肉体などに
>しがみついていようか。
「ガテンコ」は「物」なの?
「(不本意ながらも)不自由な体にしがみついている(物ではない)何モノか」
=「ガテンコ(の正体の少なくとも一部)」
と、言っているようにも聞こえるよ。
息を吐く度に、「CO2という物質」は俺の体から離れていくらしいけど、
「俺が離れていく〜」とは思わないな。どうやら、それには「俺」がしがみついてるとは
俺は思ってないらしい。
自分が自分の体だと思っている「モノ」を構成している物質なんて絶えず入れ替わってるらしい。
俺は俺が「物」だとは思ってない、つーか思いたくない。
欠かせない「一部」だとは思ってるけど。今のところ。
>「確信犯的レトリック」が「信仰の告白」のことなら、誰も食い破れないだろうね。
これだね。ここのところが微妙に疑わしい気がするのです、どこまで本気なのかな
というところがw
>>363 例えば、音は「物」から生まれて、「物」を伝わって、「物」のかたちで私に届くでしょ。
音は「物」そのものではないけれど、「物」の性質上生まれてきているものだよね。
それとか、単体のエネルギーというのは無い。高低差があるところに、エネルギーがある。
エネルギー自体はなんなんだか本当はよく分からないけれど、ある。
例えば、意識が物と全く別の組成だとしたら(ところでその場合の意識って単一の何かだと
考えている人が多いのか、何かの複合体だと考えられているのか、どっちなんだろう?)どう
いった手段で交感しているのだろうか?なんでまた結びついているのだろうか?(という疑問が
自由意志←意思が肉体に留まっているのだとしたら、自らしがみついているくらいしか理由を
思いつかないのだけれど、もし私がそうだったならそんな選択は絶対にしないという
>>360の
記述になりました。)
私は、物すげい!っていつも驚嘆しているからね、物の状態の複雑な絡み合いから、意識が
編み上げられてる、って考えにちっとも違和を感じないんだ。
その、「物の状態の複雑な絡み合い」って具体的になんだよ、どの部分でどういう仕組みで
起こってるんだよって言われると、答えられないんだけれど。どの部分で起こっているのかは、
近いうちに解明されると信じています。この考えが本当だったら勿論特定可能なはずだからね。
そして「ガテンコ」を形造っているのは、勿論一個一個の物質でもあるけれど、それ以上に
それぞれの物質が持つ性質だと思っています。だから自分が自分の体だと思っている「モノ」
を構成する常に新旧交代していく物質が、そのつどだけどいつも私。