──じゃあ、あなたのご意見では、一体何が必要なのです! あなたの話を聞いていると、我々は人類とその法則の外に置かれているようですな。とんでもない、歴史の論理が要求するのは…… ──そんな論理が何の役に立つんです? そんなもの、なくたって、やっていけますよ。 ──それはどういうわけだ? ──どうもこうもありませんよ、あなただってお腹が空いているとき、パンの一切れを口に入れるのに、おそらく論理なんか必要とされないでしょう。我々にとって、そんな抽象論が、何の役に立つんです? パーヴェル・ペトローヴィッチは両手をひとふりした。 ──そんなことを言われると、私はあなたという人間がわからなくなる。あなたはロシアの民衆を馬鹿にしている。 わかりませんね、どうしてプリンシープルを、原則を認めないでいられるのか。あなたは何によって行動しているんですか? ──伯父さん、前に言ったじゃありませんか、我々は権威を認めないんだって──とアルカーヂイが言葉をはさんだ。 ──我々は、有益だと認めたものによって行動するんです──とバザーロフは低い声で言った──今は否定が最も有益だから、それで我々は否定するんです。 ──何もかも? ──何もかも。
──なんですって? 芸術や詩ばかりではなく……さらに……言うのも恐ろしいことだ…… ──何もかも──言い表し難い落ち着きをもって、バザーロフは繰り返した。 パーヴェル・ペトローヴィッチは彼を見つめた。こういうことは予期していなかったのである。アルカーヂイは満足のあまり顔を赤らめた。 ──しかし、失礼ですが──とニコライ・ペトローヴィッチが言い出した──あなたはすべてを否定している、いや、もっと精確に言えば、すべてを破壊している…… しかし建設ということも必要でしょう。 ──それはもう我々の仕事じゃありません……まずはじめに、場所をきれいにしておかなくてはなりませんからね。 ──国民の多くがそれを要求しているんですよ──とアルカーヂイが面白く付け足した──我々はその要求を実行しなくてはならない。 我々には個人的エゴイズムの満足に浸っている権利なんかはないんです。」
ドストイェーフスキーの全作品を解く鍵とも評される彼の『地下室の手記(・・・韈 情蔡J・』(1864)をテキストとして、 ロシア・ニヒリズムを異なる角度から捉え直してみることにする。
「それよりも僕は、例の微妙極まる快楽を解することのない図太い連中のことを、冷静に話し続けることにしたい。 これらの諸君は、例えばある場合には、なるほど牡牛そこのけに、喉いっぱい吼えたてもしようし、それによって最高の栄誉に輝きもしようが、 前にも言ったように、不可能な事と見ればたちまち手をあげてしまうのである。不可能な事──すなわち石の壁というわけだ。 どんな石の壁と言われるのか? なに、知れたこと、自然法則とか、自然科学の結論とか、数学とかである。 例えば、人間の先祖は猿だという証明をつきつけられたら、四の五のいわずに、あっさりそれを認めるしかない、ということだ。 また君にとって、君自身の脂肪の一滴は、本質的には他人の脂肪の数十万滴よりも貴重なものであるはずだから、従って、いわゆる善行とか義務とかいった様々な妄想や偏見も、 結局のところはすべてそこに帰結するのだ、と証明されたら、やはりそのまま認める、ということだ。これはもうどうしようもない。だからこそ、二二が四は──数学なのだ。へたに反論してみたまえ。
「とんでもない」と、たちまちどやしつけられるだろう。 「反抗は無駄ですよ。なぜって、これは二二が四なんだから! 自然がいちいち君にお伺いを立てるものですか。 自然は、君の希望がどうだろうと、その法則が君の気に入ろうと入るまいと、知ったことじゃないんですよ。 君は、自然をあるがままに受け入れるべきで、当然、その結果もすべて認めるべきなんですな。壁は取りもなおさず壁なんだから……云々」 これはしたり、いったいその自然の法則だの二二が四だのは、さっぱり気にくわないというのに。無論、僕にはその壁を額でぶち抜くことはできないだろう。 もともと僕にはぶち抜くだけの力もないのだから。しかしだからといって僕は、そこに石の壁があり、僕には力が足りないというそれだけの理由から、 この壁と妥協したりすることはしないつもりだ。」
ドストイェーフスキーは言う。 「人間は思慮の浅い役立たずの動物であって、ちょうど将棋さしと同じように、目的に達する経緯だけを好み、目的そのものはどうでもいいように見える。 いや、誰が知ろう(誰にも保証はできない)、もしかしたら、人類がこの地上において目指している一切の目的もまた、目的達成のためのプロセス、 言い換えれば、生そのものの中にこそ含まれているのであって、目的それ自体の中には存在していないのかも知れない。」
既存の諸価値を否定するという行為の中に意味や価値を見出すニヒリストの本質をドストイェーフスキーは見抜いている。 また、既存の諸価値の否定は「筋の通ったこと」である以上理性的行為であるわけだが、その理性について 「理性の推論や算術によって保証された人間の正常な、真の利益に逆らわないことが、本当にいつも人間にとって有利であり、 全人類にとって犯すべからざる法則であるなどと、どうして諸君はそれほどまで確信しておられるのか?」と述べ、
「いったい理性は利害の判断を誤ることはないのか? ひょっとして、人間が愛するのは、平穏無事だけではないかもしれないではないか? 人間が苦痛をも同程度に愛することだって、ありうるわけだ。いや、人間が時として、恐ろしい程苦痛を愛し、夢中にさえなることがあるのも、紛れもなく事実である。」 と続け、
「いや、諸君、問題が一覧表だの、算術だのというところまで行ってしまって、二二が四だけが幅を利かすようになったら、 もう自分の意志も何もないじゃないか?二かける二は、僕の意志なんかなくたって、やはり四だ。自分の意志がそんなものであってたまるものか!」 と、理性による法則の支配に抗するために人間の持つ自由意志を俎上に載せることによって理性と対決させ、それゆえに
「僕は、そこに石の壁があり、僕には力が足りない、というそれだけの理由から、この壁と妥協したりすることはしない」という結論が導かれるのである。
ああ
ニーチェがショーペンハウアーの主著である『意志と表象としての世界(Die Welt als Wille und Vorstellung)』(1819)に接したのは、 1865年の秋、古本屋においてである。彼はその書物との出会いの感慨を次のように述べている。「下宿へ帰ると私はこの貴重な獲物を手にして ソファーの片隅にもたれかかり、精力的で陰気なかの天才の魔力のなすがままに翻弄され始めた。どの行もどの行も、諦念と否認と断念とを呼ぶ行ばかりであった。 それは、私に世界と私自身の情緒とを恐ろしく壮大に映し出してくれる一個の鏡にも似ていた。そこでは、すべての利害得失を離れてじっと見つめる太陽のごとき芸術の眼が私を見つめていた。」
こうした形で、ニーチェの一生の思想形成に陰に陽に影響を及ぼし続けたショーペンハウアーとニーチェとの出会いが始まるのである。 ショーペンハウアーのニーチェに対する影響の大きさは、『反時代的考察』第3篇「教育者としてのショーペンハウアー」では次のように語られている。 「私はショーペンハウアーの読者であるが、第1ページを読んだ後で、すべてのページを読み通し、いやしくも彼の語った言葉ならどの言葉にも耳を傾けるだろうことを明確に知る類の読者の一人である。 彼に対する私の信頼は直ちに出現したし、今も9年前と同じである。私の心をわかりやすく、しかしぶしつけに、愚かしく表現すれば、私はまるで彼が私のために書いたかのように彼を理解した。」
ここに、同じく生の哲学者としてのショーペンハウアーに対するニーチェの並々ならぬ共鳴と理解がある。 それでは何故に、そしてどこにニーチェはショーペンハウアーに共鳴し、理解の程を示したのであろうか。 ニーチェの思想を深く理解するためには、この考察は不可欠のものと言えるだろう。ここでは、ショーペンハウアーのペシミズム思想を中心に、彼の哲学を探っていく。 ショーペンハウアーのペシミズムについて論ずる際に注意しなければならないことは、ショーペンハウアーはその主著の中で ペシミズムという言葉を一度も使用しておらず、生涯の中でも自らをペシミストと主張したこともないことである。 ペシミズムは通常厭世主義と翻訳されるが、pessimismはラテン語ではpessim-に最悪という意味を有しており、 ショーペンハウアーも人間には根拠を持たない「盲目的な生存意志(blinder Wille zum Leben)」が根底にあり、 常に満たされぬ欲望を追うために人生は苦痛となるため、世界は可能な中で最も悪い世界であることを主たる思想とする点で、 彼の思想をペシミズムと呼ぶことは認められると考える。そのため私はショーペンハウアーのペシミズムについて、 主著である『意志と表象としての世界』に沿いながら、その内容を以下に考察していくが、 その際に、彼の哲学に強い影響を与えたインド哲学の視点も交えて論じることにしたい。
ショーペンハウアーは『意志と表象としての世界』において、カントが感性の形式とした時間と空間及び悟性の形式とした因果律によって成立する世界を「表象の世界」とし、 時間や空間や因果律すなわち広く理由律の支配しない世界を「物自体の世界」として、「世界」をカントに従って現象界と物自体の二種類に区別するのであるが、 しかしショーペンハウアーにとっては現象界はカントと異なり純粋理性の世界ではなく虚妄の世界と考えられ、他方物自体の世界は実践理性の世界ではなく、 「第一巻で我々は世界を単なる表象(bloァe Vorstellung)として、主観に対する客観(Objekt f殲 ein Subjekt)として展示した。第二巻で我々はその世界をもう一つの側面から考察し、 この世界は意志(Wille)であるということを見出した。表象である以外にこの世界がさらに何であるかと言えば、それにあたるのはただこの意志のみである。以上のことが明らかとなった」と述べるように、 端的に生きんとする盲目的意志の世界であると考えられている。
つまりショーペンハウアーにとっては世界の真相は生きんとする盲目的意志であるとされる。 それは、「意志というものは、純粋にそれ自体として考察するなら、認識のない(erkenntnislos)、 盲目的で(blinder)、とどまることのない切迫(unaufhaltsamer Drang)であるに過ぎない」ものである。 意志を世界の根拠においたショーペンハウアーにとって、哲学的認識は二次的なものとされる。 「人間はまずある事物を欲し、その結果としてそれをよいと呼ぶのではなく、まずある事物をよいと認識し、 その結果としてそれを欲するということになる。私の根本見解の全体に従えば、とりもなおさず こうしたことは皆真実の関わり合いを転倒したものなのである。意志こそ第一のもの、 根源的なもの(Der Wille ist das Erste und Urspr殤gliche)であり、認識は単に付け加えられたものであって、 意志の現象の道具としてこの現象の一部であるに過ぎない。
こういうわけであるから、どんな人間でも、今彼がそれであるものになったのは彼の意志によってであり、 彼の性格こそ根源的なのである。彼の本質の土台をなすのは意欲であるからである」。 それゆえにこの意志は盲目的であることに加えて満足することを知らない意志である。 「意志は、その現象の最低の段階から最高の段階に至るまで、あらゆる段階において窮極の目標や目的をまったく欠いており、 常に努力している。努力することは意志のたった一つの本質であり、この本質にとっては、 どんな目標に対してもそれで終わりとなることはないからである。この努力はそういうわけでどうしても最終の満足を得ることができず、 阻止されて引き止められることがあるだけであるが、それ自体としては無限に進んでいく。」 意志が最終の満足を求めて、しかも満足させられることがないとすれば、この意志は無限の満足を求めながらも、無限の不満足をかこちつつ、無限に進んでいく他はない。
従ってショーペンハウアーは続けて述べる。「これらの現象は絶えまない苦しみの直中にあり、永続する幸福を持たないということを見て取る。 なぜならば、あらゆる努力は欠乏から、おのれの置かれた状態に対する不満から発生するものであり、それが満たされない限りは苦しみとなるからである。 とはいえ、どんな満足でも永続はせず、むしろ絶えず新しい努力の出発点となるに過ぎない。努力というものは至る所で多様な形で阻止され、 至る所で競い合う。我々はこのことがわかっている。それゆえその限りにおいて努力を常に苦しみと見なしている。努力にはいかなる窮極の目標もない以上、 苦しみにも限度や目標はないのである。」こうして意志は盲目的に満足を覚えるが、満足は叶えられない。万一叶えられるとすれば意志は消滅する他はないであろう。 ここに意志の持つ矛盾があるのである。こうして矛盾する意志は苦悩する意志となる。ここにおいてショーペンハウアーのペシミズムが登場することになるのだが、 苦悩する意志は苦悩よりの脱却を求め、苦悩する意志からの解脱を求めて東洋思想、特にヴェーダーンタ哲学や仏教思想への傾斜を次第に深めていくのである。
この苦悩する意志からの解脱は、ショーペンハウアーにとっては意志の否定という形で遂行される。 その場合、彼は西洋哲学よりむしろインド哲学を手掛かりとする。それは、彼によれば、 「我々が生への意志の否定と呼んだものが太古のサンスクリット語のもろもろの作品の中では、 キリスト教教会や西洋の世界で起こり得たよりもさらに遥かに展開され、多面的に言い表され、 より生き生きと叙述されているのを見出す」から。こうしてショーペンハウアーは、 苦悩する生への意志の否定を通して解脱に達した心境を次のように語る。 「ここで我々に姿を示しているのは、休むことのない切迫でも衝動でもない。 望みから恐れへ、喜びから悲しみへと絶え間なく移りゆくことでもない。 決して満足することもなければ死滅することもない希望、すなわち意欲する人間の人生の夢をなす希望でもない。 ここで姿を示しているのは、あのあらゆる理性よりも高い平安、まったく海のように静かな心情、 深い安らぎ、ゆるぎのない確信と晴朗さである。」この心境は脱我して涅槃寂静に達した心境であろう。
また無の問題に対しては、「我々は無(Nichts)を回避することさえしてはならないのである。インド人たちは神話や意義を持たない言葉によって、 例えば梵天(Brahm)への帰入とか仏教徒たちの涅槃(Nirwana der Buddhisten)とかによって無を回避するのであるが。我々はむしろ自由に告白する。 意志の全面的な廃棄の後に残っているものは、ただ意志で満ちあふれている人々にとっては、この我々の実在的な世界こそ、その太陽と銀河のすべてを含めて──無である」と無の実相について述べている。
彼の世界観は単なる否定、すなわちニーチェが『意志と表象としての世界』に最初に接した時の読後感である「諦念と否認と断念」に終始しているように受け取れる。 この否定をさらに否定し、生への肯定と意志の肯定を奉じてディオニュソス的に一切に対する絶対肯定を主張するニーチェが後になってショーペンハウアーを批判する点はここにある。
そこでニーチェは『道徳の系譜』でショーペンハウアーを次のように批判する。 「私にとって問題なのは、道徳の価値(der Werth der Moral)であった。 ──これについて私はほとんど独りで、私の偉大な師であるショーペンハウアーと対決しなければならなかった。 そのためあの書、あの書の情熱と密かな抗言は、目前にある人を相手にするように彼に対して向けられたのである(あの書も一つの「論駁書(die Streitschrift)」であったからだ)。 特に問題なのは「非利己的なもの(das Unegoistische)」の価値、すなわち同情(das Mitleid)、自己否定(die Selbstverleugnung)、 自己犠牲の本能(Selbstopferungs-Instinkt)の価値であったが、これらの本能こそはショーペンハウアーが実に長い間にわたって美化し、神聖化し、 彼岸化したもので、その結果ついにそれが彼にとって「価値そのもの(Werthe an sich)」として残るにいたったのであって、 これを根拠として彼は生に対し、また自己自身に対し否と言った(Nein sagte)のだ。だが他ならぬこれらの本能に対してこそ、 私の内から発するいよいよもって根本的な猜疑が、いよいよ深く掘り下げる懐疑が抗言したのだ!」
「ショーペンハウアーが犯した意志の根本的誤解(あたかも、欲望、本能、衝動が、意志の持つ本質的なものであるごとき)は典型的である。 すなわち、意志の価値も低減して見損なうにいたったのである。同じく意欲に対する憎悪。もはや意欲しないことのうちに、 「目標も意図もない主観存在(Subjektsein ohne Ziel und Absicht)」のうちに(「意志から解放された純粋主観(reines willensfreies Subjekt)」のうちに)何か高きものを、 いや高きものそのものの、価値に満ちたものを認めようとする試み。倦怠ないしは意志の弱さの大症候。 なぜなら意志とは、そもそも本来的には、主人として欲望を取り扱い、それに方向と限度を指示するものであったからである」と、ショーペンハウアーが意志の価値を低減して考え、 ついに意志否定の立場に陥ったことを批判するのである。
つまり、ニーチェは、始めはショーペンハウアーに大変感動したのではあったが、 後ではショーペンハウアーが意志否定の立場を押し進めるに従って、意志肯定の立場から、 後ではショーペンハウアーの立場とは逆の立場に立って、彼を否定するに至ったのである。
ニーチェにとって「ニヒリズム(Nihilismus)」とは何であったか。それは「最高の諸価値が無価値になり(Dass die obersten Werthe sich entwerthen)」、 「目標(das Ziel)」や「“なぜ”への答え(die Antwort auf das “Warum”)」が「欠けている(fehlen)」状態であると規定される。そのために、こうしたニヒリズムを 極端にまで推し進めた「ニヒリズムの極限形式(die extremste Form des Nihilismus)」は、「無(すなわち、無意味なもの)が永遠に!(das Nichts ( das “Sinnlose”) ewig!)」ということであり、 「あるがままの生存は、意味も目標もなく、しかしそれでいて不可避的に回帰しつつ、無に終わることもないもの。 つまり、“永劫回帰”(das Dasein, so wie es ist, ohne Sinn und Ziel, aber unvermeidlich wiederkehrend, ohne ein Finale inユs Nichts: “die ewige Wiederkehr”)」ということだとされる。
ニヒリズムとは、「生存が意味を持たない(Demnach hat Dasein keinen Sinn)」という意識であり、 「“無駄”というパトスがニヒリストのパトスなのである(das Pathos des“Umsonst”ist das Nihilisten-Pathos)」。 こうしたニーチェの記述から鑑みて、目標や価値といった意味が無力となり、永遠に無意味が続くと意識されることが ニヒリズムの問題現象として考えられているということが理解できる。つまり、あるがままの生存とはまさに あるがままに存在しているのであって、さらに論究すれば、生成する世界はまさに生成しつつあって、無に終わることなく、 不可避的に回帰する永劫回帰を行っているのである。ただそれに、目標や価値、何故や意味といった究極的な理由や 根拠やロゴスが欠如しているという意識がニヒリズムなのである。
「心理状態としてのニヒリズム(Der Nihilismus als phychologischer Zustand)」が発生してくる場合は三点存在するとニーチェは指摘する。 第一は、「我々がすべての生起のうちに、その中にはない“意味”を探し求めたとき」である。 これは、「すべての生起における道徳的最高基準の“実現”、道徳的世界秩序、ないしは存在者たちの交わりにおける愛や調和の増大、ないしは普遍的な幸福状態への接近」といった考え方が、 「ある何ものかが過程自身を通じて達成されるべき」であるが、「生成でもっては何ものも目指されてはおらず、 何ものも達成されないということが明らか」となり、「生成のいわゆる目的に関する幻滅」 を味わうことにより、ニヒリズムの心理状態に陥るのである。 第二に、「すべての生起のうちに、またすべての生起の下に、ある全体性が、ある体系化が、ある組織化すらが置きすえられたとき」 であるとし、そのために、「驚嘆や畏敬を渇望する魂はある最高の支配・統治形態という総体的な考えに酔い耽る」結果、 「人間はおのれより無限に卓越している全体者に相関し依存しているという深い感情に浸り、神の一様態となる」のだが、 「そうした一般なるものは存在しない」ことが明らかとなり、ニヒリズムの心理状態に陥るとされる。
この二つのニヒリズムの心理状態は、生成の中では何の意味も目的も達成されず、 またそうした生成の根底にも何らかの大きな統一性は存在していないという、 「生成と消滅の流れの中におかれた人間の卑小性や偶然性に対立したもの」の 意識から生じたものと言えよう。
ボーボボのヒトは頑張ってるよ。 ごめん、読むだけで、正直疲れた。
つまり、人間はそうした生成に委ねられた以上、「実践的に」「苦悩」や「禍害」を避け難く、 こうして人間は「おのれを人間として軽蔑する」ようになり、また「理論的に」も、自分は絶対的に 価値あるものを知らず、最も重要なものに関する「十全な認識」を持っていないという認識に対する絶望を抱き、 こうしたところから、先のニヒリズムは生じると言い得るであろう。その結果、ついに第三に、 人間は、この「生成の全世界」の「彼岸」に「逃げ道」を求めて、その彼岸にこそ「真の世界」が存すると思い込むようになり、 こうして「形而上学的世界」を定立するようになるのである。
しかし、そうした彼岸的な真の世界を想定したのは、生成に耐えられない「できそこないの者たち」のルサンチマンという心理的欲求からに過ぎず、 人間はそうした形而上学的世界を定立する権利などを持っていないことが暴露されるやいなや、ニヒリズムの第三の「最後の形式」が生じてくるのである。 すなわち、「神に、また本質的に道徳的な秩序に寄せる信仰」が崩れたとき、そこに「無目的性や無意味性へ寄せる信仰」が最も強い形で「心理学的」に 「必然的」に生じてくるわけである。
換言すれば、ニヒリズムとは、心理状態としては、この第三の最後の形式において最も徹底した形で現れるわけであって、 ニヒリズムの極限形式は、「あらゆる信仰」「あらゆる真だと思うこと」が「必然的に偽」とされ、その理由として、 「真の世界はまったく存在しない」からであることが「洞察」されるときに生ずるのであり、「真理」は存在せず、 「実在性」「物自体」は存在しないことが見抜かれるときに生じるのである。ニーチェにとってとりわけ問題であったのは、 ニヒリズムの中でもこのような極限形式のニヒリズムであり、徹底したニヒリズムであった。
ニーチェは、このようなニヒリズムの到来の必然性を洞察した。 それはすなわち、そのような真なる世界から行う価値の付与が崩壊し、 没落せざるを得ないことの必然性の洞察に繋がる。そのためニーチェは、 「これまでの諸価値の価値転換をすることなしに、ニヒリズムを回避しようという試み」のような 「不完全なニヒリズム」を拒否し、すべてを「凋落する」にまかせて、旧来「醜いもの」とされたものをさえ 「理想化」する「完全なニヒリスト」たろうとする。それは、「ニヒリズムそのものをすでにおのれのうちで極限まで生き抜いた」 「最初の完全なニヒリスト」たろうとすることであり、だからこそニヒリズムの極限形式を一身に引き受けて、 単なる「受動的ニヒリズム」を排して「能動的ニヒリズム」を生き抜こうとすることに繋がっていく。 つまり、受動的ニヒリズムは「攻撃することのない疲れたニヒリズム」であって、「これまでの目標や価値が不適合になり、信仰されなくなって」、 価値や目標が解体し、そこで精神は「疲れ」「憔悴し」ているという「精神の威力の衰退と後退としてのニヒリズム」である。
これに対し能動的ニヒリズムは、「精神の上昇した威力のしるしとしてのニヒリズム」であって、単に「無駄!」を「観想」したり 「一切は没落に値すると信じる」だけでなく、「手を下し」「徹底的に滅ぼす」「強い精神と意志の状態」であって、それは「破壊の強力な力」となって現れ、 旧来の一切の意味づけや価値や真理が無意味化されていかざるを得ない事態を積極的に暴露し、しかもそうしたものの「仮象性」と「嘘の必然性」を自ら承認しつつも、 おのれ自身は「没落していくことなしに」「力」に溢れてその中に立とうとするニヒリズムなのである。それは単なる「ペシミズム」ではなく、ペシミズムは「ニヒリズムの先行形式」であり、 ペシミズムは「問題」ではなく「徴候」に過ぎず、それは「ニヒリズムによって置き換えられなければならない」。「衰退」としての「軟弱化」したペシミズムを超え、 「強さとしてのペシミズム」を「その論理のエネルギー」によって推し進めていけば、「ペシミズムの論理」は「最後にはニヒリズムに行き着き」、ペシミズムの極限形式が「本来的ニヒリズム」に到り着く。
旧来の「キリスト教的有神論」を生んだのと同じ「理想という絶対物」に取りつかれて、 ただそれを人格的実在性に代えて「盲目的意志」とだけ見たショーペンハウアー的なペシミスティックな ニヒリズムをも超え出ていき、その理想を破壊して新しい生存条件を拓いてそこへ移行しようとするのである。 「存在よりも非存在をよりよい」とするペシミスティックな「ニヒリズムの運動」は「病気」であり 「生理的デカダンスの表現」に過ぎない。生成の激動に耐えられない弱者のデカダンスが、 様々な虚構の真理を捏造してそれにしがみつき、種々の迷妄を生み出す。こうしたニヒリズムは 「デカダンスの原因ではなく、デカダンスから生まれる論理に過ぎない」。 そうしたものの虚妄を見抜き、能動的ニヒリズムとしてこれらを破壊し、様々な旧来の価値や意味、 真理や道徳が逆転されなければならないニヒリズムの到来の必然性を徹底化していくところに、 真正のニヒリズムは成り立つ。ニヒリズムは「我々の大いなる価値や理想を極限まで考え抜かれた論理」であり、 これを真直ぐに引き継いでいこうとするところに能動的ニヒリズムは成立するのである。
強健さを称える彼とっては、無力さは耐えがたかったのではないかと推察します。 だから安易な同情を戒めたのではないかと。 底抜けに優しく復讐意志に満ちていたであろう、彼自身の戒律だったのでは・・
助けられないという事実を誤魔化す為に同情して助けたふりになっているということですよね。 そして、何故それを禁止したのかと言うと、淘汰や人間の多様性の妨げになるから、ということでしょうか。 ――で、ツァラトゥストラは一般人なら同情するところで、羞恥して顔を背けましたが。
【困窮は自身にも起こりうるのであるから、】 その恐怖から眼をそらすためにも同情という防衛機制は駆動する。 ここにツァラトゥストラは、羞恥して顔を背けたのでしょう。
ただ、それだけじゃないってことは、 ニーチェさんについて学んでいく上でも何かあるかもしれないし、 いわゆる純粋に神をただ信じるということや、 この世の全てのことが自らに起こることを、然りと言って認めること、 そして、私と向き合ったときに大事でしょうね。
それだけじゃないから
天使主義というものがある。この主義の人たちは、あの世では天使であるが 地上に降りたときに、堕天使となって悪魔の行為を行う。 私は、そういう堕天使を殺す悪魔に、バケモノになりたいと思っていたこともあった。 でもお互いただの人間だ。軽蔑するためではなく、憎むにしかない。 憎しみは自分の中にある。 他人との相違を感じながらも好きだったものがある。相違は自分が起こしていたら。 嫌いなものまで愛せるかもしれない。ごめんね、ニーチェさん、ズレたこと言って。 人生いろいろ、人それぞれさ。どこで折り合いをつけるかなんか関係ない。 私に可能性があるなら、アイツにだってある。難しいね。それだけの気もする。
失礼しました。願わくば、このスレの最初の方の流れでいってください。
>>131 の【】は微妙だけど、気にしないでください。
そして私は考えた。神は死んだ。超人は曖昧であったり、理解できない存在で あってはならない。 円谷のウルトラマンやシーゲル&シュスターのスーパーマンを、超人と定義し ても一向にかまわないわけです。 あとは梯子と、一つ一つの横木が必要になってくるわけです。
忘れていたスレがいつの間にか…… ここまで(TдT) アリガトウ
どういたしまして
,r-'"´ ⌒`´⌒`ヽ、 / `ヽ、 / `、 ./ '! ! '! i } ! 、/'"i ト、 i、 ,i' i i' `゙=:、,,゙゙、!ヽ、 、ヽ、、ヽ、 ノ 'i ! セ9):,";'-‐;ー;ニ;、´ ,! ノ i,! `゙"´..:: :. ゙ '(9ノ` ,!,/ i;... ,;::: :;,:..`゙"´ ..;;リ 俺がageないとこんなスレは落ちてしまうんだ! !;.. , '‐、_,:、)、::::.. ..::,;ノ }、. `ニ:、,__,,、_、゙`; ::;/ 間違いない! ___,r-ノ i, `゙''ー‐'゙´` ,,:イ! ( ヽ、,_ _,:r '" !)ヽ、 \ ゙"´ ,/´ ``ヽ、 `ヽ、____,:r '"´ `゙`ヽ、 `ヽ、
143 :
考える名無しさん :
04/02/18 01:13 上のほうのニヒリズムの論文はどこかのサイトのコピペ?