1 :
考える名無しさん :
自己とはなにか?
他者とはなにか?
適切な『問い』とはなにか?
2 :
考える名無しさん:03/12/07 20:06
2
3 :
考える名無しさん:03/12/07 20:10
>1さんは自己というチンコです。
他者とはマンコです。
適切な『挿入』とは>1さんなんですか?
フッサールやハイデガーは自己や他者をどのようにとらえていたの?
5 :
考える名無しさん:03/12/07 20:18
>>4 俺も聞きたい。
他者とはなにか、自己とは何かから始めないと混乱するかも
おまえら。
まず、漏れに「他者」の存在を確信させてくれ。
>>6 「おまえら」って呼びかけてる時点でもう他者を認めてるんじゃ?
と突っ込んでみるテスト。
>>7
はぁっ?
じゃあ、どう言うよ?
ってかねぇ、漏れの話し掛けた「他者」は、
「実在する誰か」の領域まで達していないんだよ。
あくまでも「漏れの観念中の誰か」への問いかけだ。
ったく・・・
漏れの妄想如きが生意気言うんじゃねぇよ!
よし、このスレ終わろう。
o
/  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ /
/ このスレは無事に /
/ 終了いたしました /
/ ありがとうございました /
/ /
/ モララーより /
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/
∧_∧ / /∧_∧
( ・∀・) / /(・∀・ )
( )つ ⊂( )
| | | | | |
(__)_) (_(__)
>>9 はぁ?君の妄想だからこそ生意気なのだよ! (・∀・)
自分と他人というのは「その瞬間行為している主体」と、「そうでないもの」
で分けてるのかと思ったり。たとえこのあと寝て、寝てる間に「自分」が
そっくり誰かにに移ったとしても、認識する側が主体、それ以外の
認識される側は客体。ショ氏の言う、因果律の形式に縛られるものが
たとえ自分の肉体であっても、それが直接自分とイコールにならないのと同じような感じで。
よし、このスレ終わろう。
o
/  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ /
/ このスレは無事に /
/ 終了いたしました /
/ ありがとうございました /
/ /
/ モララーより /
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∧_∧ / /∧_∧
( ・∀・) / /(・∀・ )
( )つ ⊂( )
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(__)_) (_(__)
13 :
考える名無しさん:03/12/08 00:11
>>11 阿呆。
そんなことは承知の上。
承知した上で、その不条理を嘆いているのではないか!
もう一度読め。少し自暴自棄的なニュアンスも匂わせてある。
14 :
考える名無しさん:03/12/08 00:37
またぴかぁ〜か。いい加減消えろ・・・
15 :
考える名無しさん:03/12/08 00:41
そもそも存在という概念はどう用いられているかから考えろヴォケ。
さっきから境界言うとるヴォケは、存在する/しないという概念の確実性なり妥当性なりはつゆ疑わないよなあえーこの大間抜け野郎!?
16 :
考える名無しさん:03/12/08 03:23
良スレアゲ!
17 :
考える名無しさん:03/12/08 06:21
みんな。
自己の他者性ってのを考えてみないか。
>>17 小一時間考えてみました。
でも恥ずかしいので今は書き込みません。
つか
>>18は何言ってんのか。もうバカかと思う。すげえ自意識過剰かと。それこそ小一時間…
つことで考えたこと書きこんどきます。すいませんがおじゃまさせて頂きました。
↓以下
自己の他者性とは言語のことであると思う。もしくは、〈言語そのもの〉と言っていい。
すなわち自己(我)における他者性(私)は、すべからく言語に還元できると考えることができるからだ。
その自己の行為が言語化である限り、自己という存在は、他者を求めるものであって、また他者を促すため
のものであると考えられるのである。
また他者性とは、以上の伝える〈行為〉としての言語の他にまた伝えられる〈知覚〉としての言語が
設定されると思う。それは自己を変容させるため、根元的には自己を正しく導くための認識として
言語が存在すると考えることもできる。
このようなことをふまえると、自己と他者の間にあるものはまさしく〈言語〉であり、自己における他者
とはすなわち、〈言語そのもの〉と考えられるのである。
例えば私はこの文を作るに辺り、このスレの空気というものをまず把握した。なぜなら他者に認められる
ことを念頭に置いているからである。またこの文を書いた私の理由とは、それによって他者に私の言葉を
認識させ、そこにおいて共通認識を狙たいと言う思われがあるからだ。
よってこの他者と自己の関係の中では、ある種の言葉の生成が必然となってしまうのではないか。
さてさらにこの自己と他者の間にある世界、言語空間は何によって構成されるのだろうか、
すなわちそれはモノとしての〈概念〉であると私は考える。
また自己(我)における他者性(私)である言葉との間にあるものは何か?
それは現象すなわちコトとしての〈観念〉であると思う。
そしてさらに「自己における他者性」とは括弧で補足している通り
「我(いわゆる自我)における私」と置き換えられるのである。
そして私はこのような自己と他者にの関係性の全体を指して広義としての客観と呼ぶことができる。
また他者における自己存在への気づきとはすなわち主観の発見である。
−以上
ということで失礼させていただきやした。
19 単なるトートロ自慰
他者の認識があって自己
自己があって他者がある お前の物は俺の物俺の物は俺の物。
他者の承認の経験
sage進行で行きましょう。
地下でマターリ
憐れむこと、同情することは相手に対する侮辱か?
見下すことになるのか?
私はそうは思いません。
憐れむこと、同情することは、そう簡単には侮辱とはならないはずです。
しかしそこには、何らかの決意をもって接することが必要だと思われます。
むしろ憐れむこと、同情することは、安易に感傷、または感情的な“状態”と
結びつけてはいけないと思います。不幸について泣いてしまうことを、我々は
憐れむことと同じくしていないはずです。本来ならば。
その精神が、どのような位置づけになるのかは私にはわからないですが
その精神を一時も裏切らないように生きていくことが、おそらく正しい生き方
なのだと私は思います。しかし主観はそんなことお構いなしのようです。
その主観の眼は深刻です。その他者に頭の中で注意している以上、
どのように振る舞っても、その偽善という呪縛からは逃れられないのですから。
しかし、まあもしそれが侮辱だろうが、見下していようがその行いを正しいと
思えたのなら、そんなことはどうでもいいと思います。その行為がすんでしまってから、
言えることではありますけど、一つの行為ですべてを求めることはかなり横柄な態度で
しょう。その点を戒め、また個別に問題に該当するところは反省し、我々などは、
まだまだ愚かであることを自認し、たくましい、健全な精神を養っていくべきではない
かと思うのです。
ちょっと恐れ多いことを言ってしまいましたが、しかしこれは当たり前の心ですよね?
難しく考えたり、面白いと思って奇異な発言をあえて目指したりする必要はないと思います。
当たり前のことをいちおう述べてみました。
どうぞよろしくお願いします。
>>24 は私の主張です。
いやいや全然哲学っぽくない意見ですね。
そう思いましたらどうぞスルーしてください。
またーりと行きませう。
自意識の奴隷=人類
この世界は自意識過剰さに満ち溢れている
文学・音楽・あらゆる文化的なものが
それを自覚せず垂れ流す恥知らずども
28 :
考える名無しさん:04/01/13 11:17
どうすればいい?この世界を救うには。東京にテロか?
お酒呑んで寝ませう
保守
31 :
考える名無しさん:04/02/23 04:22
他者を見ずとも、自己は養成されるものだよ。
存在というものが自己を構築する。
自己と他者は対立概念ではない。
他者は自己の一部であり
そして世界の一部なんだ。
32 :
考える名無しさん:04/02/23 08:26
>>31 他者を見ずに自己を作り上げていくプロセスを、
具体的に教えてちょ。
他者とは、つまり自己同一性の発見。そういう意味では自己の一部と見ることができる。
しかし思い通りにならないから世界の一部ということになる。
つまり他者というものはそういう二重の定義を所有することになる。
また他者というものは客観の媒質でもある。もし、私が私であると解らなかったらどうやって世界を
認識するのだろうか? この私という存在、つまり記憶が最初の他者となる。
記憶は他者ではないね? 言うまでもなく自己の一部であり、自己そのものである。
はい、できあがり。
もっと、わかりやすく言うとね。他人が自転車に乗れるのを見たからと言って、
自分も乗れるようになるわけではない。自分自身でそれを体得する必要があるって言うこと。
もうまんぞくした? 他者なくとも自己は養成されるでしょ。
久しぶりに実家に帰ったらもらいもののボジョレーが残ってたので
ホットワインにしますた。体がぽかぽかしてきたです。
うは。誤爆ごめんたい。
ついでなんで気になった事を。
>>33 他者なくとも自己は養成される、ということなんですが、幼児期においては
必ずしもそうはいえないと思うです。ここでの「自己」は、多分一般に言われる
人間としての自意識だと読んだんですが、、そのように理性をもった自意識
を指すなら、アマラとカマラ、ビクトールなどの例はどうなっちゃうんでしょう。
また、
>また他者というものは客観の媒質でもある。もし、私が私であると解らなかったらどうやって世界を
>認識するのだろうか? この私という存在、つまり記憶が最初の他者となる。
とあるんですが、私が私であるとわからない状態というのを具体的に想定すると
記憶喪失になっている状態だと思うです。なのに、>この私という存在、つまり記憶が最初の他者となる
とつながる理由がいまいちわからんです。
自分がアルコールのせいでぼんやりしていることを差し引いても、
全体的に話が飛躍していると思うです。できればもう少し詳しく説明していただきたいでつ。
37 :
考える名無しさん:04/03/05 03:05
>私が私であるとわからない状態というのを具体的に想定すると
>記憶喪失になっている状態だと思うです
赤ん坊は記憶喪失なのか。
38 :
考える名無しさん:04/03/05 03:09
>>33 哲学的っぽく適当なこと抜かしてるだけにしか見えん。
なんで他者が自己同一性の発見か説明してみ。
>>37 この場合の「記憶」は長期記憶を想定していますが、そうした記憶があるようには観察されないです。
認識したものをとどめて置けるだけの能力の発達が未熟なためだと思うです。
自己が形成されるために必要な、自己同一性はこの長期記憶の有無によると思うのですがいかがでしょう?
40 :
考える名無しさん:04/03/05 03:15
>>39 長期記憶(記憶の一貫性)があることは、自己同一性と論理的に
結びつくわけではない。ちょっと病的に聞こえるかもしれないが。
41 :
考える名無しさん:04/03/05 03:19
>>39 いくつか問題提起をするから、それで勘弁してくれ。
・記憶の一貫性が、自分の外見(と仮にしておく)と
結び付けられていることは、自己同一性の要件ではないか
・私(仮に太郎)を、太郎と規定する現実は自己同一性の要件ではないか
もし要件であるなら、記憶の同一性イコール自己同一性とはいえないことになる。
>>41 わーい。問題提起大歓迎ですー(´∇`)
>>40 長期記憶=自己同一と直接的には結びつかない、てことですか?
自己同一性の形成には
>>41さまの挙げておられるような種種の要因があるってことでしょうか。
だとしたら非常に同意です。
上記の要因についてもすこしかんがえてみますね(`・ω・´) ムフー
>>36 おっとずいぶん前に、名無しで書き込んだレスにレスがつていると思ったら二酉氏でしたか。
よろしくです。
>全体的に話が飛躍していると思うです。できればもう少し詳しく説明していただきたいでつ。
了解です。うーんじゃあまず『自己の獲得』について『自転車に乗る』で再度表現してみましょう。
例えば自転車に乗れない人が自転車に乗れるようになったら、
それは自転車に乗れる自己を獲得したと言えるでしょう。
乗れる−A
乗れない−B
この差はむしろ絶対的なので、自己の獲得を表現するには理解しやすいと思います。
乗れるようになった、つまりcould(できるの過去形)=自己の獲得となりますね。
さて“can”というのはどういうことを内部に持つか自転車に乗ることで表現してみましょう。
一人で、 −@
足をつかずに自転車に乗り −A
操縦し、 −B
安全に運転し、 −C
また交通ルールも守れる状態で、 −D
ニケツもできて −E
坂道を足をつかずに上ることができて、−F
ウイリーもできて・・・ −G
さてあなたならどこまでを自転車に乗れるといいますか?
(ただ適当に分けてみただけなんで気軽にどうぞ)
おそらく該当するのは@ABのみじゃないでしょうか?
ようはそういうことです。他者の介在する要素は自己の獲得において一切関係ないのです。
自転車をお父さんに買ってもらうとか。お父さんに教えてもらうというのはまた関係ないです。
私は親父に自転車を買ってもらいましたが、一人で覚えましたよ。この前小学生と正面衝突を
しましたから安全に運転しているかと言うといえないし。交通ルールは一人で覚えましたよ。
また
>他者なくとも自己は養成される、ということなんですが、幼児期においては
>必ずしもそうはいえないと思うです。
ということで幼少期にはとくに他者を意識しないものだと思います。
幼児は【世界】と【他者】の区別がまだまだ不明瞭なのです。
また生まれたばかりの赤子は世界と他者の区別すらついていないのです。
つまり最初の段階では、【他者】が【他者】であるための自己同一性を確認できないのです。
ですから幼児は言葉や礼儀や遊び方を他者としてではなく、すべて世界として認識するの
です。彼らはそれこそ闇雲に、意味を考えずに分け隔てなくなんでも覚えるのです。
ですから、あなたの言っている視点は保護者の視点であって子供の視点ではないと思います。
少なくとも自己の同一性の発見は本来は幼児期よりもずっと後、思春期を過ぎて徐々に見出され
人間として成熟したときにそれが確認されるのではないでしょうか?
少なくとも私はそうでしたけど。私は自分が人間であると自覚するのに15年くらいかかりましたよ。
(なぜか知らんけど自分はずっと人間でないと思っていた。無根拠に、よくわからんのだが)
>私が私であるとわからない状態というのを具体的に想定すると
>記憶喪失になっている状態だと思うです。
えーと、その想定は誤りでございます。記憶喪失の定義を二つに分けたとして、
脳機能(海馬)の機能欠如。それとテンパっている状態の二つがありますが、
まあ具体的にいって私が言っているのはテンパっている状態なのだと理解してください。
突然目が覚めたら、男風呂に布団を敷いて寝ていた。
そんな想定をあなたがしてみてください。
どうして男風呂にいるのか?
なぜ風呂場に布団が敷いてあるのか?
寝る前は自分は一体何をしていたのか? (すいません、お馬鹿な想定で)
どうしていいかわからんでしょう。そのとき、いっしゅん自分が誰なのか疑いませんか。
いや自分は『何』であるかを考えるのではないですか。(誰なのかではなくね)
そのように考えるのではないでしょうか? それこそ本能的に。
えと「どっきりカメラ」という過去のテレビ番組は私は非常に哲学的だと思います。
あれに引っかかった人はリアルで自分とはなにと問いかけているわけですからね。
逆に脳機能障害の人はそのように問いかけることすらしません。(メメントをごらんになりましたか)
そういう自己矛盾をまったく抱かないものなんです。古典的な意味での記憶喪失のセオリーは
基本的に誤っているということです。自分が誰であるか探ろうとする設定そのものが実は嘘なんです。
あと別にね私はヒトラーがどうとか、言っているわけではないんです。
他者の不在による自己決定は危険である。より確固とした自己を獲得せねばならない。
そういうニュアンスのことはね。自己内部のシステムで語るよりも、他者前提の理念を想定した
空間で語る方がよいと思います。その中で、理念による法システム化を具体的に狙うべきでしょう。
いちおう最後に私は『他者』を『世界』であり『私』であると言う二重の定義、
すなわち拡大解釈しております。そこら辺の不備はどうか見過ごしてくださいな。
ところでホットワインという飲料はおいしいんですか?(悪酔いしそうだなあ)
二酉氏が悪酔いせんことをお祈りします。w
事故と単車
49 :
☆キキ+キ゚Д゚♪ ◆ooOooooopo :
なるほどな