生命って何ですか?

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198ぴかぁ〜:03/12/12 11:48
俺哲学原理主義者が日常言語?から生命について否定できない説をつくるですか
なかなかおもしろいですが
言語射的ゲームから考えると

日常言語はあやふやである
俺はどこに向い矢をいるかあやふやである
また俺がマトになる場合俺というマトはあやふやである

前途多難ですね
199144:03/12/12 11:55
つーか

>俺哲学原理主義ですか

ってなんだよ?「俺」が余計でしょうが。やっぱり分かってないのか?
まあ、ついてても良いよ。唯我論みたいなもんだからね、結局は。微妙に違うんだが。

基本は「無知の知」とcogito ergo sumだよ。まあ言いたいことはいっぱいあるだろうが、
これを否定できた哲学者は一人もいません。あなた方のあらゆる反論を予想して敢えてこう言います。

正確に言えば、これこそ正に「極論」なんだよ。真理とか真理じゃないとか、正しいとか正しくないとかの話じゃない。
ここを否定したら、生きている意味がなくなるのさ。意味の無いことを論じても仕方ないだろ?

だから、極論。そして出発点。おわかり?俺の言う「定義」もそういうこと。
極論。つまり否定はいくらでもできるが、そこを否定したら何も意味が無くなるもののこと。
OK?ぴかぁ〜君。俺の言説に対する絶対的な自信と明証性はここから来てるのさ。
200考える名無しさん:03/12/12 12:02
ぴかぁ〜 はコミュニケーションの勉強を汁
201ぴかぁ〜:03/12/12 12:11
あなたはまったくもっておもしろいです

デカルトの認識論や独我論に対するわたしの考えは
私が生きているということです
生きているから思えるのであり、また生きるとは思考のみでない
生存は世界との関係性でしか成り立たない
故に私は世界の部分でしかないというものです
202144:03/12/12 12:15
もっと説明しようか。いや〜こんな話するの滅多にないよ。ついてるね。ぴかぁ〜君。

まず、「無知の知」。これはとっても簡単。検証不能なことは、正しいとか正しくないとか考えない。
例えば、君は何度も「宇宙は原子で構成されている」とか言ったよね?つーか見たことあるの?原子。
それから、「モナド」かも知れないよ?認識の問題かもよ?

それから、cogito ergo sum だけどこれはちょっと分かりにくいかもね?
「我思うゆえに我あり」じゃないよ?それだとつっこみどころ有りすぎだからね?

ハイデガーの解釈に近いけど、もうちょっと主体があやふや。要は、
「目の前に何かが立ち現れていることを否定できない」だろ?ってこと。誰の目の前かね?
そこで「無知の知」。わかんないから置いとく。とりあえず目の前。この場合の目も便宜的なものだよ。
新しい言葉でも作る?いえいえ、そこはDon't think, but feelってことで。このfeelもあやふや〜。
まあ、言葉にすれば嘘に染まるっていうしね。言わぬが華だよ。そんなの。

ここが、敢えて言おう、哲学の立脚点だと。つーかみんなそうなんじゃないの?言わないだけで。

これで分かったろ?俺がなんで日常言語で極論を作るのが哲学って言ったか。
203ぴかぁ〜:03/12/12 12:17
だから私そのものでなく
相対的でも世界との関係性としての私が
重要なのです
204ぴかぁ〜:03/12/12 12:21
故に生命について科学が有用なら
それとの相対化で自分の考えを立脚する必要があるのですね
205ぴかぁ〜:03/12/12 12:28
充分ではないが過去の哲学との相対化できてるじゃないですか
このように生命についてもかんがえればいいのですよ
ただ生命については哲学の中より科学の中に対象物が多いのですから
少しは科学の勉強をしなさい
206144:03/12/12 12:29
まあ、もうちょっと聞きなよ。

まあ別にそれでもいいんだけどね〜。でもそんなの仮象かもしんないじゃん。
さらに、関係性の中で考えてもさ、答えの出ないものばかりだろ?

本当に真であるものなんかそれこそ、言語ゲームの問題になっちゃう。
そこで、俺の言う「極論」の話になるんだね。

自分が日常使っている言語で、つまり日本語で考えた時に、ああ、そうか。だから対話なのか。
いちゃもんの付けようの無い屁理屈を暫定真理とする。ま、あるいは「定義」な?

それ以上の価値付けは実践哲学や倫理学、その他の諸学問や、芸術にお願いしよう、と。
これが哲学の本来あるべき姿なんだよ〜。

肯定的な捉え方でしょ?哲学の。まさに哲学の復権。
207144:03/12/12 12:30
だから、君の考えには「無知の知」が抜けてるんだよ。
それじゃ哲学とはいえないね〜。
208144:03/12/12 12:32
相対的っていう言葉自体が価値に過ぎないんだよ〜。
君が間違ってるとしたらそこだね。
209144:03/12/12 12:36
なんで君がそこまで絶対的に、世界の存在を確信できるのか、ホントにわかんない。
一回何にも無い世界のこと考えてみたら?

つーか、なんでこんな厨房みたいな話になってるんだ?これだから、非哲学野郎には困ったもんだぜ。
210ぴかぁ〜:03/12/12 12:38
>>206
なるほどこの論法はよくわかりました

なるほどね
しかしこれを最初に説明しないと
言語の矢はまったくマトはずれに飛びまくりですよ
211144:03/12/12 12:43
>>210
ていうか、そんなの哲学やってる人だったら意識せずに出来てることなんだYO。

それより、どうして君は他人の言説を無批判に引用できたりするの?
ちゃんと検証した?実験なんて嘘ばっかりなんだよ?ロジック「だけ」を使うのが哲学ってことは分かってもらえたかな?
212ぴかぁ〜:03/12/12 12:44
それは世界が相対的でしかないからですよ

私たちは存在認識でしか世界を認識できないんです

ならばその相対的な唯物を在ると考えてなにが悪いのか
ただたえず相対的位置は確認しつづける必要はありますが
213考える名無しさん:03/12/12 12:49
最初は、またぴかぁ〜が馬鹿いってるよ・・とか思ったけど
これだけ続くと、144がいいように釣られてるだけのような気がしてきた

君たち相性ぴったりなんだね

214ぴかぁ〜:03/12/12 12:51
当たり前ですか
そこがあなたのマトが見えにくいところですね
当たり前の使い方ととことん疑いという論法がパラドクスになっている
それはたぶん哲学の問題でなくあなた自身のの問題ではないでしょうか
自己言及ですが
215144:03/12/12 12:51
まあ、別にそれでいいけどさ。でも哲学の役割については分かってもらえたかな?
216ぴかぁ〜:03/12/12 12:58
なんとなくしかし生理的には受け入れがたいですね
私の広義の哲学とは、はわかってもらえましなか?
217144:03/12/12 13:00
当たり前、っていうのは哲学の作り出した極論のことだよ。
日常言語だって数式化できるんでしょ?組み合わせを辿れば、できあがった
言説は、ほぼ真理に近い屁理屈だと思うよ。

そろそろ定義の話にもどって良いかな?
218144:03/12/12 13:03
君の言う「広義の哲学」は「文学」のことだね。ただどうしても哲学って名前を使いたいならしょうがないけど?
ややこしくない?どうして哲学って名前にしたいの?
219ぴかぁ〜:03/12/12 13:32
相対主義の極論はすべての哲学は文学であるですが
原理主義的哲学である命題にはどのようなものがありますか?
220144:03/12/12 22:22
わかった。言葉の問題だな。お互いの哲学が指す対象が異なっていると、そういうわけだね?

君は相対主義や、プラグマティズムさらには生物学といった「価値」も哲学に含めるわけだ。
何度も言うがそんなものを哲学として認めるのは論理的におかしい。

なぜなら「価値」を対象として論ずる学問が「価値」であってはならないからだ。

哲学は「知的誠実性」だよ?噛み砕いて言えば、懐疑論に陥らないすれすれのぎりぎりの所まで、
その問いの答えが真であるかどうか、つまり矛盾の無い極論であるかどうかを問い続けるのが哲学。

相対主義は価値観でしかないから、価値観が「知的誠実性」を論じるなど不可能。
なぜなら、相対主義自体が哲学によって、論理性を正当化されているから。

これで答えてるかな?
221ぴかぁ〜:03/12/12 23:49
いや、疑い尽くした結果、俺哲学原理主義的に認められた命題の例を
具体的にいくつか教えてください
ということです
222144:03/12/13 00:03
だから「俺」は抜かせよ。けんか売ってるのか、君は?
まあ、良い。じゃあ、いくつか挙げようか。スレ違いだからここでは突っ込むなよ。

まず、一つ目。「死んだ後のことは、死んだこと無いので分からない。」
二つ目。「愛とは、他者を思う気持ちのこと」
三つ目。「勇気とは変革の意志」
四つ目。「正義とは正当化の作用」
五つ目。「三つの直線を合わせた三角形の内側の三つの角を合わせると二つの直角をあわせたものと等しくなる。」

他にもいっぱいあるよ?どんなのが良い?
223ぴかぁ〜:03/12/13 00:08
それと、知的誠実?
これはまさに価値観ですよ
相対主義は、ぎりぎり、誠実などという価値観になんの意味があるのか
すべては懐疑論に落ちますよね
と言うことです
だから哲学はしょせん文学だという極論まで行き着くのです
そしてプラグマティクスはこれではすべての意味がなくなる、なら生命としての価値観、有用性を真としようという考えです
224144:03/12/13 00:11
だから、
>知的誠実

じゃなくて、知的誠実「性」って言ってるでしょうが。
「相対主義」は価値でも「相対性」は概念でしょうが。

そのくらいの区別は付けられるようにしようぜ。日本語嫌いなの?
225ぴかぁ〜:03/12/13 00:12
>>223
わかりました
つっこまないです
いや、すごいですね
226144:03/12/13 00:21
あと、最近の俺の興味は「萌え」とは何か?なんだが、どうもこれが難しい。
まあ、スレ違いだから無視して良いよ。
227:03/12/13 00:40
「「生命の定義」って何ですか?」の定義って何ですか?
228144:03/12/13 00:44
>>227
過去スレ嫁、と言いたい所だが、既に膨大な量になってるしな、もう一回説明しよう。
定義とは「決め事」の事です。だから「「生命の定義」って何ですか?」の定義は、
「生命とは何か」という決め事を決めようという事です。

お分かり?
229ぴかぁ〜:03/12/13 01:01
俺?哲学原理主義についてなんとなくわかってきました。
命題に対して、とことん疑い続けて、
懐疑論に陥らない「すれすれのぎりぎり」の所で寸止めする。
そこに知的な誠実性を求める考えですね。

これはデカルトの我故に我ありに至る過程を
様々な命題に展開するような感じでしょうか。
230ぴかぁ〜:03/12/13 01:08
あとたとえば「死んだ後のことは、死んだこと無いので分からない。」
「愛とは、他者を思う気持ちのこと」と聞くと、
往々にして、だからなに?なんの意味があるの?
と思ってしまいがちですが
哲学たるものは、ただ疑い続けていくことのみを
追求すべきであり、「価値」を求めるのは邪道である。
それが知的な誠実性であり、まさに哲学であるべき姿である。
と言うことですね。
231考える名無しさん:03/12/13 01:08
観念的な話になると どうしても デカルトに行き着いて
最終的に めんどくさくなって コギト・・に 結論づけてしまいます
229 こう言う事では当然ないですよね? 
232144:03/12/13 01:09
>>229
うん。まあ、そうかな?ただ、その場合は立脚点が重要になるよね?
それこそ、デカルトが当代の価値観を一応の立脚点にしたみたいに。
だから、cgito ergo sum が一応の立脚点になるわけ。そこ否定しても
生きてる意味自体がなくなっちゃうからね。

そんで、もう一つ重要なのは「死んだことが無いから云々」で書いたみたいに、
検証が不能なことは、その際、考慮入れないって訳。

これが、「俺」のじゃなくて、まさに哲学の立脚点。つーか皆、無意識の内にそうしてることを
敢えて言うだけだけどね。

ただ、人の思考を左右する「価値」を論じる時には可能な限り

>懐疑論に陥らない「すれすれのぎりぎり」の所で寸止めする。

それが、知的誠実「性」。哲学を殺した、ニーチェも認める考えだよ(w
233ぴかぁ〜:03/12/13 01:10
すいません。もう一度まとめます。

俺?哲学原理主義とは、
命題に対して、とことん疑い続けて、
懐疑論に陥らない「すれすれのぎりぎり」の所で寸止めする。
その結果について、だからなに?なんの意味があるの?
と疑ってはいけない。
哲学たるものは、ただ疑い続けていくことのみを
追求すべきであり、「価値」を求めるのは邪道である。
それが知的な誠実性であり、まさに哲学のあるべき姿である。
234考える名無しさん:03/12/13 01:11
見上げてごらん 夜の星を
小さな星の 小さな光が
ささやかな幸せを うたってる

見上げてごらん 夜の星を
ボクらのように 名もない星が
ささやかな幸せを 祈ってる

手をつなご ボクと
おいかけよう 夢を
二人なら 苦しくなんか ないさ

見上げてごらん 夜の星を
小さな星の 小さな光が
ささやかな幸せを うたってる

見上げてごらん 夜の星を
ボクらのように 名もない星が
ささやかな幸せを 祈ってる
235ぴかぁ〜:03/12/13 01:16
>>232
デカルトの「我思う故に我あり」というのは、
近代哲学の認識論の原点を提示したという意味で
偉大な認識であると言われていますね。
しかしよく言われる批判は、
我とは何であり、思うとは何であるか
なにも提示していないとても自己満足的な認識でしかないと言われます。

これにも通ずることですが、俺?哲学原理主義について
相対主義者として関西漫才風につっこませていただくと、
「懐疑論に陥らない「すれすれのぎりぎり」って、
それ、おまえのさじ加減一つやん!」
ということになるでしょうか。
236144:03/12/13 01:20
>>231

つーかさ。ウィトも言ってるじゃん。「真理」を語ることは出来ないって。
言説化した時点で、反証の余地が発生してしまうのが言葉の性質だからね。

それでもなお、哲学が社会に寄与する為には「とりあえず、反論することの難しい究極の屁理屈」
を考えることが哲学の役割なのさ。

コギト・・・もそうだよ?だって、本当にア・プリオリなものなんてあると思う?
でもさ、コギト・・・はそこを否定したら生きてる意味のなくなる「究極の屁理屈」なんだよ。

真理は語られえない、という真理を発見した時点で、つまり言語の正当性が消失した時点で
哲学は学問の王者の座から引きずり下ろされたのさ。

そんなの、ギリシャ時代に既にそうだったんだけどね。せいぜい子供じみた言葉遊びで他人を黙らせるくらいしか、
使い道がないのさ。本当の意味での哲学はね。

でも、それって、他の価値の強度を高める上では最高のツールじゃない?
これからの哲学は、そういう風に使うべきなんだよ。

あたらしい、大きな変革が人類に訪れるまではね。もう始まってるかな?
237考える名無しさん:03/12/13 01:21
>>1細胞の塊だよ
238144:03/12/13 01:22
>>235
だから「無知の知」とワンセットで捉えるべきなのさ。実は同じ事を言ってるしね。
この二つは。
239227:03/12/13 01:23
228分かりません。今見てる字は絵ですか意志ですか?フォントは標準ですかよく見ると変じゃないですか?変な場合それを読めますか推測で判断するしかないですか?みたいな質問したかったんです。これを書いてるのは生命ですか機械ですか?時間ですか指ですか?
240ぴかぁ〜:03/12/13 01:27
>>236
「究極の屁理屈」、なかなかいい言葉です。
本質はあなたも相対主義者なのですね。
それを懐疑論に陥らない「すれすれのぎりぎり」で寸止めする。
それはとても自己満足で、価値のない行為かも知れない。
しかしそのような心意気が知的誠実性と呼ぶ美学である。
哲学とは価値観などという俗的なものに流されず、
そのような美意識をもっておこなうべきである。ということですね。
241144:03/12/13 01:35
>哲学たるものは、ただ疑い続けていくことのみを
>追求すべきであり、「価値」を求めるのは邪道である。
>それが知的な誠実性であり、まさに哲学のあるべき姿である。

ただね。じつはこれの方が邪道だったりするのさ。やっぱり哲学は価値を作らなきゃ
やっていけないんだよ。人をコケにするだけじゃ嫌われちゃうだろ?

だから、「究極の屁理屈を形成すること」と「価値の創出」は実は二つでワンセット。
哲学のライトサイドとダークサイドなのさ。どっちがどっちとは言わないけどね。

歴史上、哲学者達の言説に突っ込み所がたくさんあるのは、実は彼らも同じことをしていたからなんだね。

ただ、ここまでのことを前提にしないと、哲学的議論は成立しない。
そのことが言いたかったのさ。もちろん哲板でも意識せずにやってるひとはいるんだけどね。

まあ、そういうこと。俺は、もういいかな?そろそろ宿題やらなきゃ。
実は中学生なんすよ、俺。
242144:03/12/13 01:40
>本質はあなたも相対主義者なのですね。

どっちが本質かは重要じゃないし、俺は相対主義者じゃないよ。
前も言ったけど、相対性とは分けて考えようね。

相対主義者ってのは人に相対化を強要する人のことさ。

それじゃあ。また。
243ぴかぁ〜:03/12/13 01:40
>まあ、そういうこと。俺は、もういいかな?そろそろ宿題やらなきゃ。
>実は中学生なんすよ、俺。

がんばってください。

244考える名無しさん:03/12/13 12:48
144は「文学」を馬鹿にしすぎ
気にくわない立脚点をすぐさま放り込むためのゴミ箱になっている
哲学原理主義者の悪い癖だ
245考える名無しさん:04/01/18 14:48
hosu
246考える名無しさん:04/01/25 07:08
hosyu
247考える名無しさん
何言ってんだよ?
DNAをタンパク質が囲んでいりゃ生命体だよ。
そんな事も分かんねぇのかよ?