ヘーゲル 『精神現象学』を読む

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672考える名無しさん:2005/10/25(火) 07:26:39
区別なき区別の定立ってなに?
無限性の運動
無限性の常なる脈動って?
673marginal:2005/10/25(火) 23:34:08
>>672
無限性とはここで、一つのものが二重に分裂しその分裂を止揚して再統一を達成し
また分裂し…という繰り返しの運動です。また、二重に分裂するということは多様な現象を
生産することですが、これは無形の中に区別を定立することでもあります。しかしその
区別は本来、区別ではないものとして止揚されます。この一連の流れを区別なき
区別の定立と表現しています。脈動する(pulsieren)とはこのサイクルがまわり続ける
ことの喩えです。
674marginal:2005/10/25(火) 23:57:25
自己意識は次のような二部構成になっているが、A.の前に生命と欲望について
大分ページを割いているので、これをまずは一つの対象として読んで行こうと思う。

B 自己意識(Selbstbewusstsein)
W 自己確信の真理(Die Wahrheit der Gewissheitseiner selbst)

 A.自己意識の自立性と非自立性;主と奴
  (Selbstaendigkeit und Unselbstaendigkeit Des Selbstbewusstseins;
   Herrschaft und Knechtschaft)

 B.自己意識の自由;ストア主義、懐疑論、不幸な意識
  (Freiheit des Selbstbewusstseins;Stoizismus,Skeptizismus und
   das unglueckliche Bewusstsein

自己意識はとても面白いと思うし、独立して読むこともできるので、今から読みたい方が
いれば一緒に読みましょう。
675marginal:2005/10/26(水) 00:02:16
使っている訳本は主に、未知谷から出ている牧野紀之訳で、これは頁数を載せます。
平凡社ライブラリーから出ている樫山欽四郎訳は、段落数を載せます。樫山訳は
原文と段落が一致しています。
676考える名無しさん:2005/10/26(水) 00:37:04
樫山訳で参加します!!!
677marginal:2005/10/26(水) 00:50:24
>>676
気楽にやりましょう。
どういう風にやって行きたいですか?
678marginal:2005/10/26(水) 01:32:23
ここを生命と欲望論と仮に呼ぶ事にしたいが、ここに表題がないのは牧野氏によると、
丸々われわれの立場から書かれたものであり、意識の経験を省いているからだそうである。

またコジェーヴの例の著作の付録を参照すると、ここでの欲望の態度は「感覚の態度」に対応し、
承認を求める闘争の態度(A)は矛盾を経験する「知覚の態度」に対応し、自由の態度(B)は
内面が問題になる「悟性の態度」に対応すると見ている。

構造を簡単に確かめて見よう。自分はここは牧野氏の見出しに従いたい。  
  
第1段落 …… (一)対象意識と自己意識
第2段落 …… (ニ)自己意識の第一の形態=欲望
第3-6段落 …(三)欲望の対象である生命とその論理                             
第7-10段落 …(四)欲望としての自己意識の経験        
第11段落 …… (五)自己意識の顕在化
679考える名無しさん:2005/10/26(水) 08:54:26
マージナルよ、こつこつとだが、確実に進んでるな。
読ませてもらってるぜ。
680marginal:2005/10/29(土) 04:08:56
●第1段落(p.314-315)
 (一)対象意識と自己意識──関係そのものである自我(Ich)

これまで対象意識に自体(真なるもの)と確信されていた様々な対象は、対象を実際に
経験するにつれて、意識から隔離された自体ではなく、意識にとってのあり方に過ぎない
ことが明らかになった。

新たな確信が生じている。それは、意識こそが自分にとって真なるものであり、自分は
これと等しくかつ対象にもしている、という確信である。従って意識において区別が立て

られはするが、それはまた意識にとって区別されてはいないような形でなされる。これは、
我々のみならず当の意識にも自覚されている。

すなわち意識を概念とし、いま生成してきた意識を対象とすると、概念と対象は一致している。
また自体としての対象を概念とし、他(意識)に対しているという対象の本義に即して、対他的に
ある対象を対象とするならば、ここで自体は意識に他ならないから、同じく概念と対象が一致して
おり、自体存在と対他存在の一致も明らかになっている。

要するにここでは<自我が関係の内容であり、関係そのものなのである。(Ich ist der Inhalt
der Beziehung und das Beziehen selbst)>

※自体についての概念は現実の対象に出会い止揚される、言い換えれば第一の直接的な
  表象は経験の中で失われる、という文章が初めのほうにある。直接性はほんらい媒介され
  たものであるという「媒介された直接性」の思想は、「現前中心主義」(例えばデリダの
  「現前の形而上学」など)にとって示唆に富む、ということを今村仁司氏は指摘している。
  (今村仁司編『現代思想を読む事典』講談社現代新書、624頁、リプレゼンテイションの項)

※関係としての自我という表現は、『死に至る病』のよく知られた冒頭を思い起こさせる。
681marginal:2005/10/29(土) 08:03:27
●第2段落(p.315-318)
 (ニ)自己意識の第一の形態=欲望──区別と統一の統一

我々は自己意識と共に真理の故郷(das einheimische Reich der Wahrheit)に歩み入っている。
この自己意識がさしあたりいかなる形態を取るかが考察される。

先行形態の意識の諸対象はいまや自己意識の契機になっている。諸契機の自立性は消失してはいる
のだが、そもそも自己意識はそれら他在から自己に還帰したものであり、対象の自立性を介して成立
する運動である。

だがそれら諸契機は止揚されたものであり、自己にすぎないという側面がある。ところがそうなると
自己意識は「自我は自我である」という運動なき同語反復に陥ってしまう。つまり他在を介すること
ができず、自己意識を維持できない。

ここで問題になるのは、他を他たらしめる対象意識の区別の側面と、他がほんらい自己であるという
自己意識の統一の側面である。要するに根本的な統一としての自己意識には、区別を立てる対象的
な側面と、もはや自己意識ではないような無内容な統一という二つの側面がある。この二つの側面の
統一をいかに解決すればよいのか。

自己意識のこの二つの側面から、自己意識は二つの対象を持つことが明らかになる。すなわち否定的
で感性的な物と、自己自身である。我々が歩み来ている地点から見れば、区別された諸対象はもはや
自立していない否定的な性格を帯びた現象的な感性界(感覚的確信と知覚における対象)であり、
これに対して自己意識は<欲望一般(Begierde ueberhaupt)>として振舞う。自己意識はこの対立を
止揚することで、自己が自己に等しいということを経験的に証し立てるのである。

※感覚的確信、知覚、悟性と来るに従って意識は理論的?になっていくように思われるのに、ここで
  欲望という感性的なものが出てくるのは唐突に感じる。
682marginal:2005/10/29(土) 10:41:13
純粋に統一作用としてある限りでの自己意識は、ひたすらに自分以外の他を取り込み一体となることを求める。
欲望の化け物みたいで、ちょっとおそろしいものがある。現実的には「食べる」という行為なのだろうが、食べられ
ないものはどうするのか。この欲望はどこで抵抗を受けるのかということについては、もう一人の自己意識を持つ
人間に対したときなのだろう。

それにしても、「食べる」という行為の謎を自分は問題意識として持っていたい。日常繰り返される他人との食事に
はある謎がある。それは突き詰めればキリストのパンとワインの謎であり、多である我々がなぜ一となることができ
るのかという問題、すなわちあの霊的な身体、神秘的身体のことである。


683考える名無しさん:2005/10/30(日) 09:57:47
125 名前:考える名無しさん :2005/10/28(金) 18:41:19
ヘーゲルはガウスたちがケレスを探してるときに、8番目の惑星なんてあるわけないだろう。バカが。ガッハッハッハ
って感じだったらしいね。どうも7という数字に何か必然性があると思い込んでたらしい。
このエピソードで俺の頭の中のヘーゲルは消えました。
684考える名無しさん:2005/10/31(月) 10:48:15
まあギリシア哲学をまったく勉強してないバカのいう台詞だな。
685marginal:2005/11/03(木) 18:13:25
●第3-6段落(p.318-325)
(三)欲望の対象である生命とその論理──流動体としての生命

★自己意識と生命の対立
  ・自己意識は対象との統一を自覚してはいるが、自己意識に区別されたものとして立てられた限りでの
   対象は、自己意識と同じく自己内環帰するものであり、「生命(Leben)」と呼ばれるあり方をする。
  
  ・自己意識は対象を直ちに否定できるものと思っているが、自己意識と対象の両者の自立性が生じてい
   る今、自己意識は現実に対象を否定しようとする時、その自立性を経験する。
686marginal:2005/11/03(木) 18:15:31
★過程としての生命と生きたものとしての生命
  ・生命の規定には大きく二つある。
    1)無限性、普遍的な流動性(die allgemeine Fluessigkeit)→ 本質であり実体
    2)自立した諸区別項 →1)において初めて成立するもの

  ・「生命」からこれらを捉え直すと
    2)の自立した区別項は実体との連続性・流動性を認めず、普遍者に解消されず非有機的自然から
    離れて、それを食い尽くすこと(Aufzehren)で自己を保つのだと主張する。まさにそのことにより、
    ばらばらで静止した諸区別項は<過程としての生命(Leben als Prozess)>となる。逆から見ると、
    1)の普遍的流動性は自体存在であり、対自的な(自立した)諸区別項の他者である。これらがその
    媒体を食い尽くすことにより、流動性は<生きたものとしての生命(Leben als Lebendiges)>になる。

  ・区別された個体は普遍者を犠牲にして自己を維持し、自分自身との統一の感情を得るのだが、まさしく
   そのことにより、実体との対立は止揚される。つまりここで自分自身との統一と感じられたものは、諸
   区別項との流動性であり、全てを一つに解消すること(die allgemeine Aufloesung)である。 
687marginal:2005/11/03(木) 18:17:45
★全体としての生命
  ・生命の単一な実体は多様な区別を生み出すとともに、それらの解消でもある。自立性と過程は統一されて
   おり、生命はそれら抽象態のいずれかというあり方をしているのではない。要するにこれら全体的な円環が
   生命を構成するのである。
   
※第4段落で無限性と時間の関連が述べられているが、どう考えてよいか分らない。流動的という共通点以外何か
  あるのだろうか。空間の充実した諸形態を持つ時間、という言い方も分らない。
 
※ここは、バタイユの存在の連続性と非連続性という言葉を思い起こさせる(『エロティシズム』)。もちろん、
  ヘーゲルの「生命」とバタイユの「存在」を直ちに同置はできないが。記憶が不確かだが、バタイユでは死が
  存在の連続性を成し遂げるものではなかっただろうか。ここでは実際に食べることが他との連続性を喚起する
  ものだが、われわれは他を食べる存在であるとともに、また時間や死に食べられる存在でもある、というのは
  あまりに散文的か。
688marginal:2005/11/17(木) 00:19:55
ハイデガー『ヘーゲル『精神現象学』』(藤田正勝、アルフレド・グッツオーニ訳、創文社)
を読んだ。自己意識の途中までの読解で全部ではなく少し残念だったが、教えられるところが
多くさすがだと思った。気になったところを自分なりに再構成しつつ簡単に書いておきたい。

ハイデガーは精神現象学には西洋哲学の on(存在)の問題が方向として取り集められている
ことを述べている。 形而上学の歴史は次のようにまとめられる。

 ・古代(ソクラテス以前) … onto-logisch
 ・プラトン、アリストテレス … onto-theo-logisch
(・キリスト教神学      … theo-ego-logisch)
 ・デカルト          … ego-logish

つまり、on の問いは全体として onto-theo-ego-logisch(存在-神-自我-論的) である。
この連関がヘーゲルにおいて、絶対者が精神であるという表現に示されている。すなわち、

 精神は知であり、 logos である。精神は自我であり、 ego である。精神は神であり、theos
 である。精神は現実性であり、有るものそのものであり、 on である。
                        (252頁、logos、theos、onはそれぞれギリシャ文字)
689marginal:2005/11/17(木) 00:22:28
したがって、生命という無限性としての「存在」は、次の三点から捉え直されうる(277-285頁参照)。

 ・onto-logisch … 他在(Anders-sein)における自己同一性
 ・ego-logisch … 自我=自我としての内的区別
 ・theo-logisch … 絶対的な概念としての精神

ハイデガーによると、第4段落で私が理解できなかった時間と空間についての一見奇妙文章は、
イエナの自然哲学での考察の圧縮された表現である。ヘーゲルの時間と空間の問題は自分とし
てはまだ理解できていない。結局分からなかったが、得られるものがあった。ここの読みに関して、
ヘーゲルとハイデガーの微妙であるが決定的な差異が語られていたのである。原文はこうだ。

Das _Wesen_ ist die Unendlichkeit als das_Aufgehobensein_ aller Unterschiede, die reine
achsendrehende Bewegung, die Ruhe ihrer selbst als absolut unruhigen Unendlichkeit;
die _Selbststaendigkeit_ selbst, in welcher die Unterschiede der Bewegung aufgeloest sind;
das einfache Wesen der Zeit, das in dieser Sichselbstgleichheit die gediegene Gestalt des
Raumes hat.

必要なところを直訳すれば、本質は…無限性であり、…この自己同一性において空間の充実した形態を
持つ時間の単純な本質である、となる。樫山訳では「時間の単純な実在」(211頁)である。牧野訳では
「単純な本質としての時間」(320頁)となっており読み方が違う。長谷川訳では「それ[生命の本質]は、
時間のなかで自己同一の単一な存在を保ちつつ、空間のなかに確固たる形をとって位置を占める。」
(123頁)となっている。
690marginal:2005/11/17(木) 00:23:52
無限性は時間の本質なのか、時間という本質なのか、時間の中にあるのか。これをいま判断するのは自分
の力に余るので、さしあたり直訳のまま理解しておきたい。ハイデガーはヘーゲルにおける存在と時間の
関係をこう述べる。

 無限性としての有のこの有-自我-神-論的概念の光のなかで時間は自己を有の一つの現象として示す。(285頁)

時間。ここで時間は存在(無限性)の現象である。ハイデガーによれば、ヘーゲルにとって、存在が
時間の本質である。ヘーゲルに、精神現象学は時間を殺す試みであり、存在(精神)の充溢が
時間に溢れるとき歴史が始まる、というような意味の文章がどこかにあったような記憶がある。

ところがハイデガーにとっては逆であり、時間が存在の本質である。両者で存在の理解の仕方が異なる
のである。根拠はハイデガーの著作に当たらなければならない。ある方向が示されている。

 つまり否定的な形で言えば、時──すなわちロゴス<logos>ではないということである。(196頁)
691marginal:2005/11/17(木) 00:26:24
形而上学を構成する onto-theo-ego-logisch の連環の根底にあるのは logisch すなわち logos
であった。ハイデガーはロゴスではなくクロノスをそこに置く。ただしロゴスではないからといって
神秘的であるのではないとハイデガーは言う。まずは on とlogos の関係をはっきり捉えなくては
ならないのである。

要するにハイデガーにとって on の問題の取り扱いは本質的にはもはやオントロギーではなく、
オントクロニー<Ontochronie>(197頁)すなわち『存在と時間』の道となる。
692marginal:2005/11/21(月) 06:09:06
>>687
>空間の充実した諸形態を持つ時間、という言い方も分らない。
これは原文をきちんと確認してない事による初歩的な誤読だった。馬鹿だ。
「空間の充実した諸形態を持つ」は「単純な本質」にかかるので、あえて言えば、
[生命の]本質は…無限性であり、…この自己同一性において空間の充実した形態を
持つ単純な本質であり、時間の単純な本質である、とでもなろうか。
693marginal:2005/11/21(月) 22:55:05
●第7-10段落(p.325-328)
(四)欲望としての自己意識の経験──自己意識の満足

★生命の二重化
 ・次の二つははもはや別の統一である。
   1)最初の直接的な統一 … 単なる存在(※感覚的確信におけるような)
   2)形態化と過程を含む反省した統一 … 普遍的な統一 = <単一な類(die einfache Gattung)>

 ・この普遍的な統一の中で、生命は生命とは異なるもの(ein Anderes)を指し示している(verweisen)。
  それは意識であり、意識が生命を普遍的な統一、類として知る。
 
 ・しかし、類を意識し、自身も類であると「自覚する」別の生命は自己意識である。ただしこの自己意識は
  まずは単一な本質としてあるにすぎず、自分を純粋な自我として対象にするにすぎない。
694marginal:2005/11/21(月) 22:55:54
★否定的な本質としての欲望
 ・単一な自我が類・単一の普遍者である。そこではいかなる区別もない。単一な自我は区別を否定する
  <否定的な本質(negatives Wesen)>だからである。

 ・したがって自己意識が自己を確信するのも、自分に対して自立した生命としてある他者を否定、止揚
  することによってである。換言すれば、他者が無であるという確信を、真にそうであるように実現する
  ことによってである。つまり自己意識は欲望である。
695marginal:2005/11/21(月) 22:57:34
★自己意識の満足のかたち
 ・しかし、欲望の満足による自己確信は他者の止揚によって得られる為、確信は対象に依存している。
  しかも対象は自立的なものなので、自己意識はこの否定的な関係によっては対象を止揚できない。
  それゆえ自己意識は対象と欲望を再び産み出す。自己意識とは別のものがそこにはあり、それが欲望
  の本質である。(※ここは良くわからない。自分が生きながら生命全体は否定できない事を思った。)
 
 ・とはいえ自己意識もまた自立したものであり、対象は止揚されなくてはならない。では、自己意識が
  満足を得られるのはいかなる対象においてであるか? それは、自分自身の否定を自身において実行
  するような対象においてである。そのような、自己否定しながらも自立的である対象は意識である。
  
 ・別な様に言えば、欲望の対象として絶対的な否定がなされるのは、普遍的で自立した自然である。
  それは類そのものであり、自己意識である。だから、自己意識は他の自己意識においてのみ満足を
  得る。
696marginal:2005/11/21(月) 22:59:51
※生命から類、類から自己意識を導き出し、それが満足を得るのは他の自己意識においてである。
  満足も動物的なものから人間的なものになり、欲望もまたそのようにあるように見える。

※生命が生命とは別のもの、つまり意識を指し示すというが、意識は生命とは異なるものなのだろうか。
  イポリットもまたそれについて述べている。少し長いが引用しておきたい。
 
  生命一般は、まさしく、自己意識の <他なるもの> である。この対立は、具体的にはなにを意味する
  のか。自己意識としてのわたくしが、わたくしに対立するものとしてみいだすもの(対象 Gegenstand)
  が、生命であり、生命は、いかんともしがたく他なるものであるとともに、自分と同一なるものでも
  あるのである。若いころの論文において、ヘーゲルは、アブラハムの意識の特徴を論じて、反省が
  いかに最初の直接的な統一をやぶるかをしめしている。アブラハムは、自分自身から自分を分離する。
  かれの生命(すなわち、生命一般)は、かれには、かれ自身とは別なるものとしてあらわれる。ところ
  が、この生命には、かれにもっとも近いものでもある。生命は、もっとも親密であるとともに、もっとも
  遠いものなのである。(……)しかし、反省としての自己意識は生命との断絶をあらわしており、この
  断絶のいっさいの悲劇は、不幸なる意識によって体験されることになる。(イポリット前掲書、213-214頁)
  
 飛躍するかもしれないが、自己意識が自己意識として極点に達するとき、生命は最も近しいものである
 にも関わらず、別のもの、無関心な(gleichgueltig)ものとして、どうでもいいものとなる。そのような者に
 とって、他者は生命なき「単なる物質(Materie)」(『キリスト教の…』26頁)であり、統一を求めるならば、
 それは「死の上にのみ漂うもの」(同頁)となる。
697marginal:2005/11/22(火) 21:46:38
弁証法をその動的なあり方と具体的な内容を損わず要約するにはどうしたらよいか、
ずっと悩んでいる。図式的に単純化した教科書的なヘーゲルはつまらない。かといって
その面白さを記述しようとすれば、ヘーゲルの文章のほとんどそのままの引き写しに
なってしまう。…だから…で、…が…になる、とそのまま受け入れて、批判精神が
骨抜きにされてしまう怖さがある。

だがまずは確かにヘーゲルの言うように豊かな内容の中で自己を失い、追思考
(Nachdenken)する事が求められるというのは分る。ハイデガーも精神現象学の
ゼミナールの中で、弁証法の一文一文に文句を挟むのではなく、まずは全体を
読まなくてはならず、そして終わりが始まりなのだからもう一度読む、つまり
精神現象学は二度読まれなくてはならないという事をどこかで言っていた。

思いつくのは、ヘーゲルの論理学を吸収した上で、精神現象学のそれぞれの
場面を要約する際、そこにどのような論理が使われているかを批判的に明らかに
する事、さらにはその中で有効なものを精神現象学では扱われていない別の
場面に適用して(マルクスやフランスの思想家たちがしたように?)新たな視野を
開くことだが、これは荷が重すぎる。

アドルノも要約そのものに付きまとう暴力的な単純化を非難したと聞く。矛盾して
いるが、暴力的ではない要約、単純化ではない内容の豊かさを損わない要約の
仕方はないものか。大学の原典購読でも、ある程度担当したところを読み訳し
内容をまとめるという修行が行われていると思うが、どのようにやっているの
だろう。
698marginal:2005/11/24(木) 05:08:48
●第11-12段落(p.329-330)
(五)自己意識の顕在化──まとめ

・次の三つの契機の中で自己意識の概念が完成している
  1)純粋で区別されていない自我が自己意識の最初の直接的な対象である。
  2)しかしこの直接性は自立的な対象の止揚に媒介されている。つまり
    自我は欲望であり、それを満足させる事で自己意識は自己に反省し、
    自己確信は真理になる。
  3)この反省は実は二重の反省であり、自己意識の二重化である。自己
    意識の対象は生きた自己意識である。
      
・一つの自己意識に一つの自己意識が対している。
   このあり方にして初めて、自己意識は成立し、自己意識がその他在において
   自分自身の統一を自覚する。(※他人の中に自己を見る。)また、そこで初め
   て対象が自我であると共に対象である。
  
・<精神の概念(最初の現れ)> が我々にとって現前している。
   精神とは絶対的な実体である。そこでは、
     完全な自由の中で対立したものが自立しながらも統一されている。
     つまり様々な自己意識が独立しながらも統一されている。
     すなわち「我々である我(Ich)、我である我々」ということ。
699marginal:2005/11/24(木) 05:12:23
※自己意識は、単に生きた個体を自己の欲望の対象にするならは、かえって欲望と
  その対象を再生産するばかりで、無限連鎖は止まらない。欲望は他の自己意識に
  おいで初めて満足を見出す。他者の中で自分が他者の自己否定の強制力として働き、
  しかも否定されながらも他者は自立したものであるため、満足に持続性がある。

  しかし他の自己意識もまた自己意識である。自分も同じく欲望の対象として他者に
  否定される危険がある。他者を否定しえても欲望の満足は永遠なものではないはず
  だと思う。そこに闘争の必然がある。自己意識は他者との油断のおけない闘いの場
  であり、その関係性も瞬時に転変しかねない危うさを秘めている。しかしそれが「精神」
  への転換点である。
700考える名無しさん:2005/11/24(木) 07:01:40
2年もやってるのか!凄い!
701考える名無しさん:2005/11/24(木) 16:14:27
タイトル並べてるだけ・・・・・
702考える名無しさん:2005/11/24(木) 21:28:19
>>701
はあ?
703marginal:2005/11/25(金) 23:42:59
●生命と欲望論のまとめ

少し自由にまとめてみたい。

対象意識の真実は自己意識であった。対象意識は自己意識へと止揚さ
れている。止揚とは周知のように、否定したものを上げつつ保存する
機能である。先行したものは後続の中で否定されながらも契機として
漏らさず貯蔵されている。

否定されたものは完全に死んだものなのか。そうではない。それは
新たなものの中で痕跡として効果を発揮する。但しヘーゲルにとって
はもはや恐れる事のない、自己の制御内に囲い込んだままではあるが。

つまり、自己意識の中で対象意識が作用する時、それは自己意識と
対象の分裂をもたらす。自己へ帰るには他を介さなくてはならない
のだから、それは必然的に作用する。

対象は無限性という全体性を経験した後では、もはや個別のものでは
ない。それは感性的な現象界全体である。そこから意識性を除けば、
それは「生命」と呼ばれる全体である。
704marginal:2005/11/25(金) 23:45:42

生命の実体は流動性・連続性であるが、そのままでは非現実的である。
実体は個別の生物に現象する。両者の統一はここで飲食の行為に代表
されている。

すなわち、個体は生物を食べることで生命の過程に組み込まれ、生命
の流動性は食べられることで実際に生きたものとしての個体性を獲得する。
生命は個体化とその解消の運動である。存在レベルでの統一がこれである。

自己意識もまた肉体を持つ生命であり、欲望を持つ動物である。個体
化された生命は全体の生命に引き寄せられる。自己意識は生命を食べる
事で自己に取り入れ、それとの連続性の中で己を失う。満足と融即の
感情が湧き上がるが、それは一時的なものである。動物的な欲望は
悪無限に陥らざるをえない。

自己意識は肉体として生命であると共に、自分が生命という類であると
自覚する意識的存在である。そこで、存在レベルでの統一の他に、意識
レベルでの統一が模索されなくてはならない。そこでこそ初めて自己意識
は、持続的で真に人間的すなわち意識的な満足を得られ、自己を真に
確信する事ができるだろう。
705考える名無しさん:2005/11/26(土) 10:51:58
>>683
数学や自然観察や実証科学を軽蔑して
思弁や既知の観念を盲信しすぎたのが
ヘーゲル自然哲学の致命的欠陥だったね
706marginal:2005/11/26(土) 13:36:57
「軽蔑」していたと言われると、その気持ちも大変良く分りますが、少し擁護したい
気もありますね。大事だからこそ自然哲学や精神現象学の理性章でそれらを取り上げた
とも言える訳ですし。内容の正誤はひとまず別にしても。

数学的思考などは精神現象学の序論 Vorrede で批判されてますが、自分の練り上げた
弁証法的思考を強く打ち出したいとの思いが強かったのかもしれません。Vorrede は
その名前とは裏腹に本文を書き上げた後に書かれたもののようですから、その興奮も
あいまって気負いもあったのかも知れません。

そうでした、時代が違いましたね。『惑星の軌道』は1801年、『精神現象学』は1807年
の事でした。すいません。
707marginal:2005/11/26(土) 13:37:22

1968年初版の、中埜肇『ヘーゲル―理性と現実』(中公新書)で著者はこう言っています。
 
  このことをもって自然哲学に対する哲学の決定的な敗北であると考え、したがって
 ヘーゲルのこの論文はその敗北の記録文書に外ならないから、これは彼の学問的履歴
 における拭うべからざる汚点だと言う人もいる。確かにヘーゲルの哲学は、その完成
 した体系においても、自然を対象とした場合に不器用であることはだれしも認めなけ
 ればならないであろう。そしてその不器用さの良い例がこの論文であると考えること
 もできるであろう。弁証法という武器は、歴史と社会を対象にした時に最も鋭利で
 あると私も考える。(65-66頁)

私も確かに自然に弁証法を適用して「科学」だというのは付いて行けません。ヘーゲル
の学 Wissen-shaft は訳しづらい語ですが、知のシャフト、一つの原理に貫かれた連なり
といったような意味もたぶんにあって(牧野氏は確か「百科事典」と訳していたような)
サイエンスと訳されるとそちらが抜けてしまいます。
 
今はヘーゲルの自然哲学の研究も進んでいるようですから、研究者の言葉を聴きたい所
ですね。加藤尚武教授がどこかで何か言っていたと思いますが、ちょっと今わからない
です。
708marginal:2005/11/26(土) 13:37:44

ともあれ私もヘーゲルの思弁性は全く否定しません。ですが、フロイトの思弁性も思い
起こされ、思弁性が学ぶことのない無価値なものだとは私は思えないのです。

N・O・ブラウンは精神分析を「神秘主義の伝統の後継者」(『エロスとタナトス』314頁)
と規定しています。いま論証抜きで述べますが、神秘主義はベーメ、グノーシス、ロマン派
などを通じてヘーゲルにも強く関わるものです。

神秘主義といういう言葉は胡散臭いですが、一と多を考える際に視野に入れて置きたく、
「似非科学」と言われればそれまでなのですが、要はヘーゲルとフロイトの可能性は私に
とってとても魅力的なんです。脱線しました。

まとめますと私が言うのもなんですが、『惑星の軌道』論文はヘーゲルの勇み足だと思い
ますし、自然哲学関連ははあまり読む気になりません。ただ、705さんや684さんも多分そう
だと勝手に思い込んでますが、私はヘーゲルの悪いところだけでなく(でも「阿呆の画廊」は
さすがに言いすぎだと思います)、良いところを見たいと常々思っているということでした。
709marginal:2005/11/26(土) 13:50:52
ああ、『惑星の軌道』論文は数の神秘主義で考えられたものだから
弁証法とは関係ないのかな。やはり良くわからないことは書かないほうが
よかったです。
710marginal:2005/11/27(日) 23:28:14
「A.自己意識の自立性と非自立性;主と奴」は全19段落で構成されている。

1-8段落 … 承認の概念
9-12段落 … 生死を賭けた闘争
13-15段落 … 主の真実
16-19段落 … 奴の真実
711marginal:2005/11/27(日) 23:58:53
失礼。
1-8段落(p.331-335) … 承認の概念
9-12段落(p.335-341) … 生死を賭けた闘争
13-15段落(p.342-345)… 主の真実
16-19段落(p.346-350)… 奴の真実
712marginal:2005/11/28(月) 08:01:02
>>707自己レス
>牧野氏は確か「百科事典」と訳していたような
牧野氏はWissenshaftの意味を把握した上で「科学」と訳していました。
百科事典は「エンチクロペディー」の訳でした。しかも事典ではなく、辞典でした。
申し訳ありません。
713marginal:2005/11/28(月) 08:04:49
>>712つまり正しくは
エンチクロペディー → 『哲学の百科辞典』
714marginal:2005/11/30(水) 04:27:36

      無限性としての自我=自我
              ↓
           自己意識(前-統一、潜在)
       ┌────┴────┐
       ↓         .    │
      生命         .    ↓   
       ↓          自己意識
      自己意識        .  │
       └────┬────┘
               ↓
             精神(再-統一、顕在)
715marginal:2005/12/04(日) 14:14:20
●第1-8段落(p.331-335)
承認の概念──自己意識の戯れ

・承認の概念
  自己意識は <承認されたもの ein Anerkanntes > である限りで、そこに精神的な
   geistig 統一が成立する。形式的には次の二つが承認の概念を構成する。つまり、

   1)自己意識の二重化 Verdopplung における統一
   2)自己意識において実現している無限性

  1)は多面的な区別の設定、2)は区別された規定が直ちに自身と反対になる事も
  意味する。無限性により統一は静的ではない。承認の運動はいかなるものか。
716marginal:2005/12/04(日) 14:19:20

・一方から見た形式的な承認の運動
 
  α)自己意識Aと別の自己意識Bが向かい合っている。A(Bから始めても同じ)は
     <自己の外に出ている ausser sich gekommen >。運動には二重の意味がある。
   
     1)Aは自己を喪失している。Aは自己を他者の実在 Wesen として見出すからである。
       (※自分が意識しているから他者が存在する?)
     2)それによりAは他者を止揚している。というのもAは他者を実在 Wesenとして見て
       いるのではなく、他者の中に自分自身を見ているからである。
  
  β)Aは自己の他在 sein Anderssein を止揚して取り戻さねばならない。
   
     1)Aは自立した他者を止揚して、自分こそが実在であると確信せねばならない。
     2)だがこれによりAは自分自身を否定することになる。というのもこの他者は
       A自身だからである。
       
  γ)Aの行う一つの止揚は二重の自己内環帰である。
    
     1)AはBの止揚により自分自身を取り戻し、自己が自己と等しくなる。
     2)同時にそれはBにおけるAの否定でもあるから、Bを釈放する entlassen ことで
       あり、Bは自己を取り戻す。
717marginal:2005/12/04(日) 14:21:09

・承認の運動の意味

  自己意識の行為の運動は二重の意味を持つ。すなわち、自己意識の行為は
  1)<自己に対して> 行われると共に2)<他者に対して> 行われるものである。

  また、その行為は1)<一者の行為 das Tun des Einen > であるだけでなく、
  それと不可分に2)<他者の行為 das Tun des Anderen > でもある。
  
  つまり、一方だけの行為は役に立たず unnuetz 、承認は両自己意識によって
  しか実現されえない。

  というのも、他者であるBがかつての欲望の対象とは異なり、Aと同じく自己
  完結した自立した自己意識だからなのだが、この場合、以下のことが生じている。
  
   Aは、自分が行うことをBも同じように行わない限り、Bに何もできない。つまり、
   各自己意識が自分の行うことを行うのは、他者が同じことを行う限りでのことに
   過ぎない。その為、各自己意識は他者に要求することを自分自身で行う。結果、
   各自己意識は自分が行うことと同じことを他者が行うのを見る。
718marginal:2005/12/04(日) 14:23:34

・両力の戯れとしての自己意識の行為

  両自己意識の運動は、悟性で見た「両力の戯れ」の意識におけるものである。承認が
  成立しているとき、両極である自己意識はこの運動全体を自覚している。
  
  (われわれから見れば?)中項 Mitte は(根本的な)自己意識(※「精神」?)である。
  それが両極に分裂する。両極は規定を交換すると共に他に移行する。
  
  力の場合とは異なり、今の場合は両極は自己意識だから、他でありながら自立した自己
  であることができる。両極は互いに自己の外に出ており、自立した他の中で対自である
  ことによってのみ対自でいられることを自覚している。
  
  従って(意識にとっては?)各極がその他にとっての中項 Mitte であり、互いに他を介して
  自己と推理連結する。

  要するに <両極は互いに他を承認しているものとして、互いに承認し合っている。
  Sie _anerkennen_ sich als _gegenseitig sich anerkennend_.>
719marginal:2005/12/04(日) 14:28:15

・われわれの対象

  承認の純粋な概念、すなわち自己意識の統一における二重化の概念、そして自己意識
  自身がその過程をいかに意識するかが考察される。初めは自己意識の不等性の側面、
  一方は承認される者、他方は承認する者として現れる側面が呈示される。
  
 ※ここは自分には簡単なようでいて、その内在的な連環を詳しく確認しようとすると良く
   わからなくなる。承認の概念はイエナの『精神哲学』の方が詳しいらしいので、そちらも
   確認すべきだが時間がない。
  
 ※確信は本質的に「自己否定的な確信」とでもいうべきものであり、他者と共にその内に
   存する自己をも否定することである。他者にとっては自分自身の否定であると共に自己の
   解放でもある。確信はむしろ自己否定を伴い相手を承認するものでもある。
  
   確信がそもそもそのような構造をしていると互いに知っていれば、闘争の前に互いに
   自己否定が行われ、互いに承認されている状態が成立する。それは自分と同じことを
   他者も行う、鏡の戯れである。
 
 ※独我的な二つの自己意識の地平の融合が目指されている。
720考える名無しさん:2005/12/04(日) 14:45:11
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      .,ノー‐‐'''''" ゙7'ー    :| ::   _―‐ 、,,_,,----..     ゙) ゙; ⌒`i::゙ヾ、___,,!
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          _/," :::/     '、  ゙l; : ゙ー 、,,_____,,....‐''´, ノ         '、` _ ̄,⊃
       _,,=='´ "::::,'     / \ ゙l;:      ,,_;,ノ \         ヾヽ ':;ヽ
      ,と二_  ,ノ     /   /`''-、`'ー--─'"-ヽ、  ヽ
721考える名無しさん
ヘーゲルってどこを切っても同じこと言ってるな。