ヘーゲル 『精神現象学』を読む

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1marginal
無茶を承知で、精神現象学に挑戦します。非哲学科文系地方?流私大卒。
独検3級。レジュメの作り方は良くわかりません。

平凡社ライブラリー『精神現象学(上)(下)』を使います。
原文を参照するときは↓の7 bit versionを使います。

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スレを無駄にしないように頑張ります。

関連スレ
ヘーゲル研究者のみなさま!
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/philo/1013844825/
2marginal:03/11/23 12:29

■■■ 序論 ■■■

●第1節(p.16)
哲学的真理とはどのように述べられるべきか。

■本来、哲学的著作に序文は不必要である
・事柄(Sache)の性質(Natur)から言って適当ではない。

■哲学が成立する地平
・特殊なもの(Besondere)がその内に包まれる、普遍性(Allgemeinheit)という境位(Elemente)において、
 哲学は本質的に存在する。
・事柄そのもの(Sache selbst)は、そこ(普遍性=最終的な帰結=目的)で完全な本質となって表現される。
 
■哲学における真理の把握の仕方についての一般的理解への批判
・主張や断言のつなぎ合わせ、知見の寄せ集め、事実の列記などの方法では真理を把握することはできない
 (解剖学→死んだ体の身体各部の知見)。
・結果だけでなく、事柄そのものの実現の過程も本質的である。

※(自分の考え、感想、メモ等を書きます)事柄そのものとは何だろう?

(第1節要約終わり)
3考える名無しさん:03/11/23 12:29
よっ!まってました!!
4marginal:03/11/23 12:31

●第2節(p.17)
哲学的真理とはどのようなものか

■全体という生命を認識しなければならない
・例えば.....→つぼみ→花→果実→.....というサイクル全体が、有機的統一(全体という生命)。
・(つぼみという)形式=定在(Dasein)。
・それぞれの形式は相容れないものとして斥け合う(矛盾)。
・それら形式(契機)は、別の形式に否定され、また自らも別の形式に否定される、というように流動的な性質を持つ。
・有機的統一においては、争いあう形式も、全体を構成する契機という必然性を持つ。

■真理の認識を曇らせるもの
・現存の哲学体系の違いは、真理が前進する展開過程の契機である。
・思い込み(Meinung)が、対立を固定化させ、現存の哲学体系に賛否のいずれかしか見させない。
・補捉的意識(das auffassende Bewusstsein)は一面的な見方なので、争う契機に必然性を見ないし、矛盾を開放することができない。

※定在とはもやもやした存在が凝固したもの?ハイデガーの用語とは違うようだ。
  早速、矛盾という言葉が登場した。形式論理学的な意味で、矛盾という言葉を使っているようではないようだ。
  全体という生命という言葉で一気に核心を差し出された気がした。

(第2節要約終わり)
5考える名無しさん:03/11/23 12:47
ganbare!!
6marginal:03/11/23 13:49

●第3節(p.18)
事柄を把握するために

■事柄を把握する態度
・目的は、それだけでは生命の無い一般者(das unlebendige Allgemeine)である。
・目的を実現する過程を認識しなければ、事柄を認識し尽くせない。
・結果それのみで現実の全体ではない。そこに至った生成(Werden)過程と合わせて初めて全体である。
・事柄のもとに留まり、そこで自己を忘れるという態度。

■ある哲学的著作の目的と結果は、同時代の他の人々のそれとの差異を見ればよいという、通俗的認識への批判
・そのような態度は、事柄そのものを回避し、事柄のもとにいるよりはむしろ自分のもとにいる。
・差異(Versciedenheit)とは、事柄と事柄とを区分けする限界(Grenze)であり、事柄そのものには属していない。

■哲学における困難の度合い
・全体を評価する事<全体を把握する事<全体を評価、把握し、それらを統一したものを叙述(Darstellung)する事。

※相変わらず事柄が良くわからないが、客観全体を抽象化したものかな?

(第3節要約終わり)
7marginal:03/11/23 14:31
●第4節(p.20)
教養(Bildung)(自己形成)の始まり

■教養の第一は、実体的生命の直接態(Unmittelbarkeit des substantiellen Lebens)から抜け出すこと
・一般的な原則と見地について知見を得る。
・事柄一般(Sache uberhaupt)の思想に努力を傾け、それらに理由に基づいて賛成または反対できる。
・充実した内容を規定(区別)でき、判断し評価できるようにする。
・この始まりが事柄そのものの経験に導く。
・しかし概念把握ができるようになれば、知見や評価はそれぞれの契機を占める。

※実体的生命の直接態→主観と客観が哲学的に意識されてない、自己意識を持たない状態?
 事柄一般→あのもの、このものではないということなら、存在一般っていったら無茶かな?

(第4節要約終わり)
8marginal:03/11/23 15:00
●第5節(p.20)
ヘーゲルの企み

■哲学を学に高める時がきている
・フィロソフィー(愛知)を現実的な知へ→目的
・真理は、学の体系という形態として叙述されて、真に存在する。
・知が学となる内的必然性の説明は、哲学そのものの叙述以外には無い。

※「現実的」な知とは何か?ヘーゲル自身の用語の使い方に慣れるのは時間がかかりそうだ。

(第5節要約終わり)

9marginal:03/11/23 16:11
●第6節(p.21)
直観と概念把握

■現代の真理観の批判
・現代では、真理とは絶対者の直接知、直観、宗教、存在などと呼ばれるもののなかにあるとされる。
 しかし、真理とは概念把握されるものだ。
・真理の実存する境位=学的体系=概念←→直観

※ここはシェリング批判だそうだが、急に飛躍したように感じる。概念とか概念把握とか出てくるようになってきた。
 ここで使われる概念は普通の意味じゃないんだろうな。普通に使われる概念群を契機として持つメタ概念?とか想像してみる。
 諸概念をきっちり構築して初めてそれらを包括する概念が成立するみたいな感じ。で、概念把握とは、物事を概念として把握する
 のはもちろんのこと、その概念が、メタ概念の中でどの位置を占めるかわかってるという把握の仕方。
 まあ良くわからないので、そのうちもっとヒントが出てくるのを期待したい。
10marginal:03/11/23 17:19
●第7節(p.22)
自己意識的精神から現代のこうした状況を見ると・・・ロマン主義批判

■かつての精神
・現代の時代の精神はかつて、思想の境位において、実体的生命の直接態にあった。
 内的にも外的にも実在と和解しており、信仰の生活に満足し安心していた(中世か?)。

■現代の精神(近代)
・精神の自己自身への反省(Reflexion)。自己の自己自身への関係。自己意識。→実体喪失。
・喪失をも意識している。→自己の有限性を意識している。惨めな気持ち。

■喪失感を補い、存在の実体性と充実とを回復するために
・美しいもの、神聖なもの、永遠なもの、宗教、愛、信心、霊感、忘我
 →感情に訴える→区別の無い混沌とした意識。
・しかし哲学は、事柄の必然性とともに進み、精神についての知を得ることにより、
 実体を自己意識に高めなくてはならない。

※内容は当時のものだが、現代にもあてはまるような気がしてちょっと感動。
 精神、実体、自己の区別がつけづらい。実体を自己意識に高めるというのが
 まだ良くわからない。失われた主観と客観の統一を、神秘主義的な方法以外で
 目指すのだろうと、とりあえず理解しようか。

(第7節要約終わり)
11marginal:03/11/23 17:40
●第8節(p.23)
精神の失ったものは大きかった

■かつての精神
・「この」現在を越えて彼岸的現在に目を向けていた。

■現代の精神
・精神は地上に目を向けるようになった。あるがままの現在に経験という意識をもって対処し、
 意味を見つけられるようになった(啓蒙主義)。
・しかし、人の心は地上に硬く根を下ろしすぎ、精神の姿は貧弱になった。
 神的なものを少しでも感じようと必死になっている。

※ヘーゲルもけっこう詩的なことを書く。精神がいわゆる時代精神か個人の精神か
 わからない。ここでは区別する必要はないかな。

(第8節要約終わり)
12考える名無しさん:03/11/23 17:45
読書スレカコイイ!
頑張れ〜!
13marginal:03/11/23 17:51
●第9節(p.24)

・漠然とした神性に熱狂を求める人は勝手にすればよい。
 哲学は高揚(erbaulich)を自ら戒めなくてはならない。

※でもヘーゲルさん結構興奮気味な感じ。

(第9節要約終わり)
14marginal:03/11/23 18:42
●第10節(p.25)
大事なのは物事を規定すること(Bestimmtheit ,Horos)。

■精神の力と大きさ
・精神の力の大きさは、その外化(展開)の大きさに比例する。
・精神の深さは、その展開において自らを失うことにができるほどである。

■皮相な精神
・空しいひろがり→多様性に展開するが、それらをまとめる力が無い実体
・実質の無い深さ→ひろがり(多様性)を持たずただの力として存在する無展開の実体
・自己意識を包み隠し、悟性を放棄し、自らのうちにまどろんでいる。

※悟性が出てきた。これはヘーゲルにとっては、物事を固定し形式化する
 つまり無限定なものを限定し規定する能力だろう。
 辛いので、翻訳として世界の名著のヘーゲルも参考にすることにします。

(第10節要約終わり)
15marginal:03/11/23 19:03
●第11節(p.26)
現代は誕生の時代

■精神は運動する
・自己を形成する精神(der sich bildende Geist)は、いつも
 前進する運動を続けている。いまや質的飛躍の段階にある。
 
※新時代を待望するヘーゲルのペンが熱い。ナポレオンでも
 見たのだろうか?哲学的な意味でなぜ今が質的飛躍の段
 階なのか?それは著作を読んでくれという訳だな。
 
(第11節要約終わり)
16marginal:03/11/23 19:48
●第12節(p.26)
現実性を得るためには

■現実性と媒介性
・生まれたばかりの新しいものは、直接的で、その概念であるに過ぎず、現実性を持たない。
・その概念の諸契機が、新たに生成してきた意味において展開され、形態を与えられるという
 ことにおいて現実性が存立する。
・展開され媒介を経た概念は「自己に帰ってきた全体(in sich zurueckgegangene Ganze)」、
 「全体が生成し単一になった概念(der gewordne _einfache Begriff_ desselben)」と呼ばれる。
・この展開の過程が自己形成の道程である。

※ここでは契機が展開されるという媒介を経ることが、現実性の条件になってるようだ。
>>8の「現実的な」知とは学的体系において展開され自己に戻った知の全体、と理解できそうだ。
 でも自己に「戻る」ってどういうことだ?展開され尽くすと戻ったということか?

(第12節要約終わり)
17考える名無しさん:03/11/23 20:02
>>15
>ナポレオンでも見たのだろうか?
見たという話ですよ。
18marginal:03/11/23 20:09
●第13節(p.27)
全ての人に開かれた学

■悟性の重要性
・意識は新たに表れた全体は、まだ混沌として分かりにくい。
 →分かる人には分かるという秘教的所有物
・悟性による区別、規定
 →わかりやすさ、公開物
・悟性=思考、純粋自我一般(das reine Ich uberhaupt)
 →学と学的でない意識に共通
 →悟性を通じて理性的知に到達できる

※悟性の力で契機を規定し学的知への階段を作る。

(第13節要約終わり)
19marginal:03/11/23 21:40
●第14・15・16節(p.28−32)
形式主義批判

■直接理性的・神的であることを誇る人への批判
・彼らは広範囲の事、珍しい事、好奇心をそそる事などを思いのまま処理し、
 絶対理念に従属させ、学として充実させているように見える。
 →しかし彼らにおいては、一にして同じもの(ein und dasselbe)が、
  形態もなしに繰り返されるだけである。
  本来は、一にして同じものが自ずから自己を展開して多様な形態をとるべき。
・知る主観(wissenden Subjekte)がひとつの決まった形式を用意しておき、
 この動きの無い境位に材料を引き込み、ひとつの形式を当てはめるというやり方をしている。
 →単調な形式主義

■形式主義に対する批判
・区別や規定をそなえたものを解消し、現実性を欠いた一般理念にあらゆる価値を見ている。  
・絶対者のなかでは全ては同じである(闇夜には全ての牛が黒い、A=A)
 という知識ひとつで対抗しようとしている。

※これでもかというほどシェリング批判をしている。シェリングを読んだことが無いので
 この批判が当たってるかは分からないが、実体は動くのかという問題に関ってきそうな感じ。
 
(第14・15・16節要約終わり)
20marginal:03/11/24 08:49
●第17節(p.32)
実体(Substanz)を主体(Subjekt)としても考えてみよう。

・実体性(Substantialitaet)は、一般的なもの(das Allgemeine)oder知の直接性を、
 知にとっての存在oder知にとっての直接性としても、自らのうちに含んでいる。

※ヘーゲルにおけるoderは「すなわち」とか「言い換えれば」と理解することにしよう。
 知の働きにおいて実体は、対象としてはまず直接的なもの
 (展開されていない、力に留まる概念=可能態)として現れる、と理解しておく。
 実体を主体と捉えない思考は、以下の三つの様態を取り得る。

・スピノザ・・・神が唯一の実体→自己意識が埋没し維持されない。
・カント、フィヒテ・・・思考を思考として固定させる→区別の無い動かない実体性、単一性。
・シェリング・・・思考と実体の直接的な一致、知的直観→非現実な仕方でしか表現できない。

※実体と思考のどちらかを保障するというやり方では、実体を捉えることはできない。
 実体は意識も含んでいるから、という訳か?ではどうすればよいか?

・真なるもの(das Wahre)を実体としてだけでなく、まさに主体としても把捉し、表現することが要請されている。

※ヘーゲルの思想の内実がいよいよ開陳され始めた気がする。
 実体を主体として考えるということは、逆に主体を実体として考えることにもつながるんだろう。

(第17節要約終わり)
21marginal:03/11/24 09:53
●第18節(p.33) 3/1
主体(主観、意識)としての実体の構造

■生きた実体(Die lebendige Substanz)はどのように生き、動いているか。
     
・自己自身を定立する運動    =====   自己が他者となることを自己自身と媒介する働き
 (die Bewegung des Sich-selbst-setzens)   (die Vermittlung des Sich-anders-werdens mit sich selbst)
 
※意識において考えてみる。主体=意識は思考において、多様な対象を定立しうる。
 その対象は意識の運動の結果と考えれば、その対象も意識という同一物である。
 この意識の運動を駆動させる力は何か?
22marginal:03/11/24 09:55
●第18節(p.33) 3/2
主体(主観、意識)としての実体の構造

■生きた実体(Die lebendige Substanz)はどのように生き、動いているか。

・実体は主体としては純粋で単純な否定性である(Sie ist als Subjekt die reine _einfache Negativitaet_)

・否定性の作用→単純なものを二つに分割する働き = 対立的に二重化する働き
           (die Entzweiung des Einfachen) = (die entgegensetzende Verdopplung)
          →互いに没交渉なそれらの二つの項の差異と対立を否定する
           (die Negation dieser gleichgueltigen Verschiedenheit und ihres Gegensatzes ist)

※否定の力は単一な実体を分割し、その分割を否定する→否定の否定
 否定の否定をするとどうなるか。
23marginal:03/11/24 10:18
●第18節(p.33) 3/3
主体(主観、意識)としての実体の構造

■生きた実体(Die lebendige Substanz)はどのように生き、動いているか。

・自己を回復する相等性      ======   他にあることにおいて自己に還ってくる反省作用
 (diese sich _wiederherstellende_ Gleichheit)   (die Reflexion im Anderssein in sich selbst)

・真なるものは、根源的な統一(_urspruengliche_ Einheit)言い換えれば直接的な統一ではない。
 
※展開されたもの、媒介されたものである。以上をヘーゲルはこう表す。

・真なるものは自分自身の生成であり円環である。
 終わりを目的として前提する円環、終わりを始めに持つ円環である。
 そうした円環は、それが実現する過程と終わりによってのみ、現実的である。
 (Es ist das Werden seiner selbst, der Kreis, der sein Ende als seinen Zweck voraussetzt
 und zum Anfange hat, und nur durch die Ausfuehrung und sein Ende wirklich ist.)

※悟性を成立させる意識の働きが、否定性と言われた。
  実体は主体としては純粋で単純な否定性である。この言葉は興味深い。
  われわれが意識せずに使っている意識作用(否定する力、規定する力)は、実体が根拠になっていると言えるか?
  第18節は一応のまとめのようだ。

(第18節要約終わり)
24marginal:03/11/24 12:05
●第19節(p.33)
純粋な統一の性格

■即自的(an sich)と対自的(fuer sich)
・即自的・・・それ自体においてあること。自己との純粋な同一性、統一。抽象的な一般性。
 ←→自分に対してあること(fuer sich)
・純粋な統一には、疎外されて他のものであること、その疎外の克服、
 形式の自己運動(Selbstbewegung der Form)が欠けている。
 
■形式(Form)と実在(Wesen)
・実在は、直接的な実体としてばかりでなく、形式として展開されなくてはならない。
 これにより実在は、現実的なもの(Wirkliches)として把捉され表現されうる。
 →形式は実在と同様本質的である。

※本格的ではないが、即自的、対自的の用語が登場した。
  実体は形式という具体性を纏って初めて顕現しうるということか。
  形式(対自的)と実在(即自的)という対応関係は成り立つかな?

(第19節要約終わり)
25marginal:03/11/24 12:45
●第20節(p.34)
真なるものは全体である

・真なるものの様々な言い換え・・・結果、全体、現実的なもの、主体、絶対者(das Absolute)、自己生成(Sich-selbst-werden)
                     自己を展開することにより自己を完成する実在、始元(Der Anfang)、原理(das Prinzip)
                     (das durch seine Entwicklung sich vollendende Wesen)
                     ※始元、原理は展開されなければならない。

・他となること(ein Anderswerden)が取り戻される(zurueckgenommen)ことにおいて媒介(Vermittlung)が成り立つ。

・命題(Satz)さえも他となることを含む。

※真なるものは媒介されたものだということが、言葉を変えて繰り返し言われている。
 命題さえも他となることを含むというのは面白い。良くわからないが、命題は一般的には
 判断において結合?されると思ってたが、ヘーゲルにおいては主語から述語が展開されて
 出てくるっていう感じかな。

(第20節要約終わり)
26marginal:03/11/24 13:45
●第21節(p.35) 1/2
媒介と反省

■媒介は円環運動
・媒介の言い換え・・・自己を運動させながらも自己と等しいこと(die sich bewegende Sichselbstgleichheit)
             自己自身への反省(die Reflexion in sich selbst)
             対自的な自己の(を成立させる)契機(das Moment des fuersichseienden ich)
             純粋な否定性(die reine Negativitaet)
             単純な生成(das _einfache Werden_)

※単純な生成といってるのは、否定の否定の結果、再び単純な統一が生成される、と言いたいのだろう。単純→多様→単純

・自我言い換えれば生成一般は、媒介としては、その単純さのため、生成する直接態、直接的なものそのものでさえある。
 (Das Ich, oder das Werden ueberhaupt, dieses Vermitteln ist um seiner
 Einfachheit willen eben die werdende Unmittelbarkeit und das Unmittelbare selbst.)

※反省の無い直接的な自我(赤ん坊など)の意識は単純である。しかし反省を行い、哲学的理性を獲得すると、
  自我は再び直接的な統一を生成する、と理解しておく。

・生成ということはむしろ再び単純性に戻ってきていることにほjかならない。
27考える名無しさん:03/11/24 13:54
●第21節(p.35) 2/2
媒介と反省

■媒介を経た単純な意識−−理性

・理性は、

理性は自己において安らっている。
対立をそのままに、わきに追いやったままにせず、それと和解しているversoehntからである。
これが自己を知った(自己意識的な)自由(die selbstbewusste
Freiheitである
28marginal:03/11/24 13:55
>>27は書き込みミスです。
29marginal:03/11/24 14:05
●第21節(p.35) 2/2
媒介と反省

■媒介を経た単純な意識−−理性

・理性は、自己において安らっている。
 対立をそのままに、わきに追いやったままにせず、それと和解している(versoehnt)からである。
 これが反省の結果到達される、自己を知った(自己意識の)自由(die selbstbewusste Freiheit)である。

※媒介の運動が自我と関係付けられ、媒介→反省と言い換えられる。
  実在の側面から意識の側面へ視点が移され、理性が語られる。

(第21節要約終わり)
30marginal:03/11/24 16:12
●第22節(p.36)
ヘーゲルの目的観(第21節の言い直し)

・理性は目的に適った(合目的な)活動である。
 (die Vernunft das _zweckmaessige Tun_ ist)

・目的は、直接的なもの、静止しているもの(動かされないもの)でありながら、
 それ自身は(他を)動かすものである。
 
・動かす力は、対自的にあること、すなわち純粋な否定性である。
 不安定であること(Unruhe)が主体の特徴→運動

・始まり(der Anfang)が目的である。
 直接的な目的は純粋な現実性を自己のうちに持っている。

※へ0ゲルの循環的な叙述の仕方の根拠を言ってると思う。
 始元の直接性のうちに、結果が可能態として存在している。
 始元は媒介を経て初めて認識される。
 つねにすでに失われたものとしてしか認識されない。

(第22節要約終わり)
31考える名無しさん:03/11/24 19:37
『精神現象学』を読んでると、即自のジレンマに悶えつつ、徐々に、思考が
主体にも客体にも固定されない運動体になるのを感じるよね?
これが原典の力だよ。
32marginal:03/11/25 06:29
●第22節(p.36)
命題における運動

■絶対的なもののイメージ

・神は永遠なもの、世界の道徳的な秩序、愛であるなどと言われる。
→絶対的なものを主体として把握する(auffassen)ことは、それを表象(想像)する(vorstellen)ことではない。
※概念把握する(begreifen)ことが求められる。
 →概念(Begriff)

■命題における運動−−主語と述語

・述語において初めて、主語が何であるかが語られる。主語のみでは無内容。

・しかしこのような命題においては、主語は固定的な点(fester Punkt)にすぎない。
→その命題を知る者(命題を考える者)が、その点に述語をくっつける。外的。
 主体という概念が現実的にならず、そもそも不可能。

・述語が展開される運動が、主語そのものに属して初めて、内容が主体として叙述される。
→概念の現実性は自己運動にあるから。内的。

※ちょっと強引な理解の部分があるかも知れない。
 ヘーゲルは、命題としてこのように表現されること自体を否定しているわけではないと思う。
 運動がない命題を批判している。
 ヘーゲルの叙述スタイルを理解する参考になる。

(第22節終わり)
33marginal:03/11/25 06:31
あ、しまった。
>>32は●第23節(p.37)です。
34marginal:03/11/25 16:09
●第24節(p.39)
否定すること=展開すること=肯定すること

■媒介を経た知の姿
・哲学において原理原則(Grundsatz oder Prinzip)は、たとえそれが真(wahr)であっても、
 それだけでは偽(falsch)である。
 →知は学(Wissenscaft)=体系(System)として叙述されてのみ、本質的であるから。
 →原理原則は、未だ展開されていない始元にすぎないという欠陥を持つ。

■媒介における否定と肯定−−揚棄の素描
・欠陥に対する本質的な反駁の仕方
 →根本命題そのものの展開→根底的(gruendlich)←→断言や思い付きにより、外部からなされる→非根底的
 →その結果、根本命題そのものが、己の欠陥を補充する(Ergaenzung)ことになる。
・反駁は、その進行と結果の、否定的な側面と肯定的な側面の両面を意識せねばならない。
 →始元の直接性という一面的で否定的な状態を、肯定的に実現(展開)していく。

※ヘーゲルの周到さを見ることができるかもしれない。ヘーゲルの論理に従えば、
 仮に彼の哲学を否定する場合、ある言葉を一文だけ取り出して批判するということは、
 そもそも批判ではでない?(例えば、非難されることがある「理性的であるものこそが現実的であり、
 現実的であるものこそ理性的である」という言葉は、本当に理解された上で批判されているのか?)
 全体を包括すると主張するへーゲルにとっては、どのような批判も一面的である?
 ヘーゲルはだめだと言っても、それは単なる断言に過ぎない。
 ヘーゲル哲学を否定するためには、彼の哲学の内部に入るしかない。
 しかし内部に入れば、否定することは展開を助ける要素(契機)に過ぎなくなる。
 契機は必然的なのだろうが。
 
(第24節終わり)
35考える名無しさん:03/11/25 19:55
毒書スレ2位
36marginal:03/11/25 20:17
●第25節(p.40) 1/2
精神について

■精神という思想において、実体は主体として把握される
・Geist(mind,spirit,ghost)(ガイスト)
 →精神、ある時代などを代表する思想、気息・呼吸→生命、キリスト教における精霊、酒精(アルコール)
・実体が本質的に主体であるということは、絶対的なものを精神として表すという考えにおいて表明される。
・精神的なもののみが現実的である(Das Geistige allein ist das _Wirkliche_)。
・精神はもっとも崇高な概念。近代と宗教に属する概念。

■精神のあり方
・それ自身においてあるもの(An-sich-seiende)
 →即自的存在(An-sich-seiende)=実在(das Wesen)としての精神
・特定の関係の中に身を置き、規定されているもの(das sich_Verhaltende_ oder Bestimmte)
 =他としてあり、自分に対して(向かって)あるもの(das _Anderssein_ und _Fuer-sich-sein_)
 →対自的存在(Fuer-sich-sein)※=自己意識としての精神
      ↓(二つを総合して)
・自分の外にありながらも、自分自身のうちに留まっているもの(Ausser-sich-sein in sich selbst Bleibende)
 →即自的かつ対自的な存在(An-und-fuer-sich-sein)<=精神のあり方

(続く)
37marginal:03/11/25 23:23
●第25節(p.40) 2/2
精神について

■精神も運動体である
・精神もまた、新たに現れたものとしては、直接的→媒介の必要性
・精神自身が、自身を、自身の対象(Gegenstand、・・・に向かって立っているもの)
 として産出(erzeugen)する。その対象を揚棄(aufheben)し自身に還る。
 この運動により、精神自身が、自身を精神であると知る。
・自身を知った精神が到達する境位(エレメント)=純粋な概念(der reine Begriff)(※=絶対知)
 自身を知った精神=学=精神の現実態(※純粋な概念=学が叙述される地平)
※精神においては、「展開」でなく「産出」という言葉を使っているのが興味深い。
 まだその違いは分からない。

■「われわれ」とは誰か?
・精神的なものが即自かつ対自的だと知っているのは、初めはわれわれにとって(fuer uns)のことである。
 言い換えればそれ自体においてのことである。
※われわれとはヘーゲルのことか?だが「私にとって」とは書いてない。
 ヘーゲルと読者のことか?しかし読者はこの時点ではまだ何も知らない。
 無名性、複数性。精神の自己、主体、精神におけるわれ(われの集合体)と想像する。 

※実体(客観)=主体(主観)を成立させる場が精神。
 実体+主体の統一体(精神)が内容(現実?)を産出する。
 精神現象学がなぜ理性で終わりでなく、精神を叙述しなくてはならないか?理性が絶対的な知ではない。
 実体の意味が二つあるんじゃないか?実在としての実体、精神としての実体。
 事柄そのもの(Sache selbst)=精神?(>>2参照)。
 精神とは非常に豊穣な概念に思える。

(第25節終わり)
38考える名無しさん:03/11/26 01:50
>精神現象学がなぜ理性で終わりでなく、精神を叙述しなくてはならないか?
実体は主体だから。
39marginal:03/11/26 06:07
>>38
そうですね。
精神が現象することを叙述するのが目的のひとつなら、「意識-自己意識-理性」
の運動でさしあたり精神が登場するが、それだけでは十分ではない。
精神自身もその現れたばかりの形態では、まだ直接的だからと言う訳ですね。
精神が本質的に主体であることから、自己産出(Selbsterzeugen)と取り戻しの
運動が行われ、おそらくその運動の内実が精神の章で叙述されるんでしょうか。

間違えている所は是非指摘してください。分かりづらい所は質問してください。
自分なりに答える努力をします。ただ僕は哲学科で正式な教育を受けてはいな
いので隙があるでしょうから、詳しくは関連スレも活用して頂ければとおもいます。

ヘーゲル研究者のみなさま!
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/philo/1013844825/
40marginal:03/11/26 15:57
●第26節(p.41) 1/3
精神は学と自己意識の統一体

■学のエレメント
・哲学を始めるためには、意識が(純粋な概念の)エレメントにあることが前提
・エレメントの言い換え
  絶対的に他であるものの中に、純粋な自己を認識すること。
  (Das reine Selbsterkennen im absoluten Anderssein,)
  エーテルそのもの(Aether _als solcher_,)
  学の根拠と根底(der Grund und Boden der Wissenschaft)
  一般的なものにおける知(das _Wissen im Allgemeinen_.)
  変容した実在(die _verklaerte Wesenheit_)
  それ自身単純な直接性である反省
  (die Reflexion, die selbst einfach oder die Unmittelbarkeit ist)
  自己自身へと反省する存在(das Sein, das die Reflexion in sich selbst ist)
  
※イエスの姿が彼らの目の前で変わり(変容し)、顔は太陽のように輝き、
 服は光のように白くなった。(マタイ17.2)
※イエスの姿が彼らの前で変わり(変容し)、服は真っ白に輝き、
 この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。(マルコ9.2−3)
※変容・・・上の文だけ見ると、色がなくなり白くなるという現象。漂白。
 →具体性・多様性を揚棄した実在。透徹さ。

(続く)
41marginal:03/11/26 15:58
●第26節(p.41) 2/3
精神は学と自己意識の統一体

■学と自己意識の関係1
・学・・・個人に、このエレメントに至るはしご(精神現象学)を与える。
     意識の、自己自身のもとにあると思っているという確信においては、
     精神は喪失されている。
・個人の自己意識・・・絶対的な自立性(absolute Selbststaendigkeit)
             自分自身についての直接的な確実性
             (die _unmittelbare Gewissheit_ seiner selbst)
             無制約(非限定的)な存在(unbedingtes _Sein_)
             学のエレメントを遠い彼岸(eine jenseitige Ferne)と見る
             そこで意識は自己を持てないと思っている
             ↓
・学と意識は互いを他なるもの、真理の逆とみる。転倒。(das Verkehrte der Wahrheit)
※自己意識は、俺は俺だという同一性の絶対的な確信を持つが、そこには内容が無い。
※無制約な存在とは、形を持った内容を持たない意識の状態、という事を言いたいのだろう。

(続く)
42marginal:03/11/26 16:00
●第26節(p.41) 3/3
精神は学と自己意識の統一体

■学と自己意識の関係2
・自己意識は自己確実性に現実性の原理を持つ。学の外にいる。
 →意識にとって学は非現実的にみえる   
・現実性を欠いた学
 →精神的な実体(geistige Substanz)(内なるもの ein _Innres)(即自存在)
 →意識の、自己確実性というエレメントを自己に結びつける必要がある。
・現実的な学
 →精神(自己を外に現し対自的になったもの)
※精神は確実性と現実性が欲しい。
 対自的な精神になる為に、自己意識の、自己を知るという運動が欲しい。
※意識は、学の提供するはしごを道行くことにより、内容を獲得する。

※精神の喪失=主客の分裂?
※精神現象学の役割が、意識と学の関係において語られた。

(第26節終わり)
43marginal:03/11/26 16:02
●第27節(p.43)
知の旅

■精神のない直接的な知から、長い道程が始まる
・精神現象学の仕事
 →学そのものの生成、知の生成を叙述すること
・精神現象学において知がまずとる形態
 →直接的な精神(der _unmittelbare Geist_)、
   精神なきもの(das Geistlose)、
   感覚的な確信(das _sinnliche Bewusstsein_)
・ピストルを撃つように、絶対知から初めて他に無関心である立場とは違う(シェリング批判)。

※意識が精神現象学を通り抜けることを表す動詞にhindurcharbeitenを使っている。
(hindurch・・・を通って、貫いて)(arbeiten働く、労働する、活動する)
→精神現象学は、知の長い労働である。

(第27節終わり)
44marginal:03/11/27 10:38
●第28節(p.44)
精神現象学は教養の歴史

■意識は、精神現象学を通ることで、教養(自己形成)を成し遂げていく
・特殊的個人(Das besondre Individuum)(※直接的な意識)
     教養(契機)は、ひとつずつの規定として現れる。
    →ひとつの形式が支配的で、他はぼやけた輪郭。(※focus)
     自分の前にあるもの(形態)を獲得してゆく。
    →無機的自然(有機化されていない自然)(外的なもの)を取り込み、
     自分の所有にする。(※知を食べる)
・一般的個人(das allgemeine Individuum)(世界精神 der Weltgeist)※自己意識的な精神
     どの契機も具体的な形態となっている。
     教養(契機)は、精神によって脱ぎ捨てられた諸段階、獲得された所有としてならされている。
     精神にとって教養は、記憶の呼び起こしとして現れる。
・個人の成長の歴史=世界の教養の歴史   
      
※精神にとって意識の経験は、すでに起こったことの自己確認。
※未来の出来事を過去として書くこと。
  →意識(読者)にとっては未来だが、精神(ヘーゲル)にとっては過去
※予言の書き込まれた羊皮紙(ガルシア=マルケス『百年の孤独』)

(第28節終わり)
45marginal:03/11/27 22:12
●第29節(p.45)
学を構成する契機とはどのようなものか---個と全

■学の道程
・学の目標
     精神の所有になっているものが、自らの形態をもつに至る過程を叙述すること
     契機を自体存在から対自存在という自覚的な形式にすること
      →知が何であるかを精神自身が見通す(die Einsicht)(洞察する)こと
・われわれに課せられる忍耐と労苦
     どの契機にも足をとめ、そこに留まらねばならない
      →契機のどれもが必然的

■契機の性格
・各契機はそれ自身、個体的で全体的な形態(jedes ist selbst eine individuelle ganze Gestalt)
     各契機はそれぞれ他とは区別され個体的
     そのときどきの規定という固有性において、全体が考察される
 
※個体性への洞察は、必然的に全体性へと行き着かざるをえない。
   →個は、全体における連関において認識される。
※全体性の認識は、個体性の洞察が不可欠。
   →全体は、個体がいかにして成立しているかというそのさまにおいて、認識される。

(第29節終わり)
46marginal:03/11/28 07:27
●第30節(p.46)
表象(die Vorstellung)批判

■精神と知
・(抽象的な)精神の活動
     定在(現実の出来事)を実体に引き移す(揚棄する)。
      →個人の側が、定在の揚棄(das Aufheben des _Daseins_)をする必要はない。
     引き移された定在は、その表象、それとして(単に)知られたもの(die _Bekanntschaft_)としてある。
      →契機が自分のあるべき場所を、無自覚に占める。
・知の活動
     形式を表象すること、形式について知ることをやめ、概念的に把握する。

※精神は、即自的な段階においては、現実を抽象化(契機化)するという活動を無自覚に行っている。
  いいかえれば、世界史の運動において精神は、歴史における出来事を、契機(定在)として自己に引き移す。
  その契機は知の側から見ると、表象、見知ったものとしてある。
  思考は、契機を概念的に把握するように、意識を駆り立てる
※精神現象学の章立ては精神が行う。
※しっかり理解しているか心配。自分が分かるように理解した。

(第30節終わり)
47marginal:03/11/29 00:47
●第31節(p.47)
表象(die Vorstellung)批判(続き)---知ること(die _Bekanntschaft_)の批判

■よく知られているからといって、認識されているわけではない
・主観と客観、神、自然、悟性、感覚などの概念は、ろくな吟味なしに使われている。
    →自分のうちにその概念が表象できるか、他人にもそのようなものとして有名であるかが、
     妥当性の根拠になっている。
・(世間に)よく知られた、なじみの(bekannt)(famous)≠認識された(erkannt)(recognized)
・運動がない。固定的な点の表面(Oberflaeche)を行ったりきたりしているだけ。
    →表面的(皮相的)な移動(外的)※→非本質的な運動
 
※概念の、常識的な使用の仕方と、哲学的な使用の仕方は異なる。
(第31節終わり)
48ポール:03/11/29 00:55
すごい!完走目指してがんばれ!!
49考える名無しさん:03/11/29 01:02
カレー味のうんこはカレーなのかうんこなのか?
50考える名無しさん:03/11/29 01:14
>>49 うんこに決まってるじゃん。バカ?
51考える名無しさん:03/11/29 01:32
オナニーの邪魔はやめたまえ
52marginal:03/11/29 01:57
>>48
ありがとうございます。
ゆっくり一つづつやってるので、
先はどうなるのか分かりませんが・・・
53marginal:03/11/29 17:46
●第32節(p.48−50)
分析する(Das _Analysieren_)とはどういうことか?---悟性について(>>22参照)

■表象を分析すること
 ・表象の分析とは、それらが(単に)知られたものであるという形式を揚棄し、
  表象を、その根源的な諸要素(ihre urspruenglichen Elemente)へと
  分解し(auseinanderlegen)、契機にまで戻す、ということである。 
 ・根源的な諸要素とは
     固定し、静止した諸規定(feste und ruhende Bestimmungen)
     考えられたもの(_Gedanken_)
     分割されたもの(_Geschiedne_)
        →これらは非現実的なもの、しかし本質的な契機。運動のために必要だから。

※(通常の意味での)概念は、日常の意識において大抵、表象(イメージ)というヴェール
  をまとっている。ヴェールを剥ぎ取り、その向うを覗くのが学的意識。
※表象を諸要素に分割する働きは何か?

(続く)
54marginal:03/11/29 17:54
■悟性---否定的なものの魔力
 ・否定的なものの巨大な力(die ungeheure Macht des Negativen)の働きと性格
      その働きは、純粋な自我のエネルギー、思考のエネルギー
              (die Energie des Denkens, des reinen Ichs)
       →他との連関においてのみ現実的なものを、分離させ、孤立化させる。
         分離されたものは、それが固有に占めることになる場所(dasein)で、自由を得ることになる。
 ・あの非現実性(分離されてある状態)を死と呼ぶなら、死は最も恐ろしいものであり、
  死んだもの(das Tote)(分離されたもの)をしっかり捉えるには、最も大きな力を要する。
      
※「すべての規定は否定である」(スピノザ)
※否定(規定)作用と死について(上の文とは直接関係は無いかもしれない)
   →存在の連続性から、あるXを、他では「ない」ものとして切り出すこと。
   →名づけること→あるXをAと名づけることは、あるXを殺すこと。
              あるXを、Xそのものではないものとして、殺すこと。
                 →大量虐殺、大量破壊の上に成り立つ世界。存在の死累。名前という墓石。
※なぜ「否定の力」ではなく「否定的なものの力」と言うのか?
  否定的なもの=死ならば、否定の力は、死(否定的なもの)を根拠にしているということの暗示?

(続く)
55 :03/11/29 17:55
<血液型O型のいかがわしい特徴> ( なんでも気を許していると調子に乗ってつけこんでくるぞ! )
■その道の達人をコケにして安心しようとする。多数派のときだけやたら強気。才能ある人間を歪んだ目でしか見れない。
■場所が変わると手のひらを返すように態度が豹変する ( あの連中の中じゃヘコヘコさせられてきたが、うちに来たら見ていろ! 礼儀を教えてやる。 )
■読みが浅い。粘着に睨まれる事を言っておいて関係ない人に振り向けバックレようとする姑息さ ( どうせ>>1さんはヒッキーでしょ? / 関西人だってジサクジエンしてるぜ )
■早とちりが多く、誤爆と気付いても釈明できない。イイ人を装って忘れる ( そういう土地柄だったのさ )  他人の勘違いは許せない。
■話題と関係ない個人攻撃で場の空気を険悪にする。次第に自分から耐え切れなくなりあきれて話題をコロコロ変える。
■いつの間に恩を貸してるように振舞うが、自分のためであると見抜かれる。恥ずかしさをごまかすために大袈裟にキレるが相手がキレると今度はビビる。
■顔が見えない相手と喋っているのに毒舌かつ強気。面と向かったら人が言ったことにする ( 俺が言ったんじゃないけど、Kさんがあなたをアホかとバカかと… ヒヒ) ネット弁慶。
■無理な人の真似をしケチをつけ、批判される所には現れない。観察される側になると極度に焦る( 直接対決が苦手。言い返されにくい状況を計算する )
■自分が企んでいるのに相手を悪人に仕立て上げて餌食にする。わざと攻撃を誘って憎悪に酔いしれる。人の裏切りを許せないわりに自分の裏切りは覚えていない鈍感さ。
■人に相手されん事ばかりウジウジ繰り返して自分に課した目標から逃げる。あげくのはてに相手にわからない方法でキレる。
■半端な体験から集団的にばかり相手を気にする ( 君のような人はウチでは… / ○さんによく似てるから駄目だろうね / 背が高い奴はどいつも… )
56marginal:03/11/29 18:00
■死とともにあることが、主体を可能にする
 ・精神の生(das Leben des Geistes)とその力
       死(分割)に耐え、死の中で自分を維持する生が、精神の生である。
       精神の力は、否定的なものを直視し、そのもとに留まるということに存する。
 ・否定的なもののもとへの留まることは、否定的なものを存在に転じる魔法の力
   (Dieses Verweilen ist die Zauberkraft, die es in das Sein umkehrt)
       否定的なものを存在に変えるもの=主体                  
         →主体としての実体は、自ら直接性、抽象性を否定し、
           自分のエレメント(連関)において、規定されたものに定在を与える。
             →主体は自分の外に媒介を持つのではない。自分が媒介そのもの。
 ※自分が媒介そのもの=主体は、媒介の運動が行われる空洞としての場?
                 媒介の構造(分割と環帰)だけがある装置?
                 主体は媒介を駆り立てる力そのもの?その全部?

 ※主体が主体として成立するのは(自分を自分として意識するのは)、死を意識する
   ことでなされるのではないか?直接的じったいてき実体的生命(自然的なあり方、
   赤ん坊など)のあり方においては、意識はきっと自分を意識することはない。
   実在的対象、自然、母との一体感。しかし突然、母なる自然が脅威の対象に変わる
   (大洪水−ノアの箱舟)。死の脅威による意識へのインパクト。意識の分裂。これが
   意識の自覚的運動(または意識と対象の分離)を可能にする場を開く。こうして、
   意識は満足を達成する原始的な欲求を引き延ばし、将来に備え蓄え(時間の観念)、
   生活を組織するようになる。つまり、死が意識の内面を切り開くのではないか。
   そういうわけでヘーゲルは主体について叙述する際に、突然、「死」という一見ロマン的?
   な概念を持ち出してきたんでは、と想像した。
 ※難しかった。想像的な理解が多いかもしれない。
   
(第32節終わり)
57marginal:03/11/30 07:16

(通常の)実体←------------------→主体
 (実在、客観、即自)       (意識、主観、対自)

---------------------------------------------------------------
           
             精神(真の実体)
(意識と実在のキアスム<現実>、主観と客観の統一、即自的かつ対自的)
58marginal:03/11/30 08:14

 実体←----→主体
(実体)     (実体)

実体(精神としての)の自己分裂(意識と実在への)。
意識と実体の対立は、実体自身(精神)の自己との対立に他ならない。
意識と実体の背後には、それぞれ同じ実体がある。

実体外の働き(意識の働き)であると思われるものは、本来は、
実体(精神)自身の働きである。

実体は、自分が自己内を明らかにするという働きにより、実体(精神)が現象する。
実体の、実体自身による、光の中での、自己の開示。
自分の内部を観ること、観想。
思弁哲学の正当性。
(Speculation, Speklation, teoria, speculatio)

59marginal:03/11/30 08:22
【訂正】
  実体は、自分が自己内を明らかにするという働きにより、実体(精神)が現象する。
→実体自身が、自身の内部を明らかにするという働き(運動)により、実体(精神)が現象する。

以上はメモ。
60marginal:03/11/30 14:59
●第33節(p.50−51)
固定したものを流動化すること―――(死んだ)石に息(生命)を吹き込むこと

■教養(学習)の二つのあり方
 ・古代における学習
     自分が出会うあらゆるものを哲学することにより自己を試し、一般性へと自己を高める。
       →自然的意識は本質的に自己を鍛え上げる(教養を完成させる)。
         (die eigentliche Durchbildung des natuerlichen Bewusstseins)
       ※(durchbilden 細部まで完全に作り上げる;鍛え上げる)
     ※実在や観念を抽象し、概念を創る。思考も哲学的に鍛えられる。
 ・近代における学習
     (先哲のおかげで)一般的なもの(概念)が、すでに内なるものとして出来上がっている。
     それを表面に出してくる(Hervortreiben des Innern)。

■現在すべき仕事
 ・表象を諸契機に還元し(固定し)、自己意識の所有にするということだけでは、教養の完成ではない。
  固定した諸規定(契機)を揚棄することにより、一般的なものを現実化し精神化する(begeistern)
  ことが必要。(※否定の否定)
       →固定した、考えられたもの(諸規定)を流動化すること(in Fluessigkeit zu bringen)。
        ※流動化=精神化・現実化=諸規定を相互に関連付けること。
 ・現在は、感覚的な個人を純化し、思考し思考される実体にすることよりむしろ、
  実体を主体にすること(流動化すること)が必要。          
       
(続く)
61marginal:03/11/30 15:02

■流動化のために
 ・感覚的な諸規定がある場=無力な抽象的直接性、すなわち存在そのもの
  思想の諸規定がある場=自我、否定的なものの力、純粋な現実性
 ・思考(純粋な思考、この内的な直接性 das reine Denken, diese innere _Unmittelbarkeit_
  =直接的で感覚的な意識)が諸規定を流動化させるには
     自分自身についての確実性を断念する(abstrahieren)。(捨て去るのではない)
     自分を契機にすぎないと認識する。
     自分自身を定立する際の固定したものを揚棄する
     (das _Fixe_ ihres Sich-selbst-setzens aufgibt)
     ※主語を固定した点とは考えない。
       命題同士の連関において、自己がどんどん流れていく。
 ・固定したものとは
     意識と対象(実在)というときの固定性。
     純粋な思考のエレメントにおいて、区別されたものが、そのようなものとして定立されるという固定性。

※前節で表象を要素に分解することが語られた。
  それは、要素をそれとして固定したものにすることでもある。
  さらにその固定性を否定して、運動にしなくてはならない。
  現実性は相互連関の媒介において(?)成立するからである。
  固定性は運動の足がかりとして必要。

(第33節終わり)
62marginal:03/11/30 15:08
【訂正】
  固定性は運動の足がかりとして必要。
→規定性は運動の足がかりとして必要。

すいません。
63marginal:03/11/30 17:46
●第34・35節(p.51−52)
運動における偶然と必然

■概念の必然的な運動
 ・不完全な意識
     偶然的に出会う対象や関係について、行き当たりばったりにもてあそぶ。
 ・完全な意識
     概念の運動により意識の世界全体は、その必然性の中へ包まれる。
     (dieser Weg wird durch die Bewegung des Begriffs die vollstaendige Weltlichkeit
      des Bewusstseins in ihrer Notwendigkeit umfassen)
     →内容の必然的な連関
       必然的で完全な生成(ein notwendiges und vollstaendiges Werden)
       有機的な全体
     →学の本性
 ・この道程(精神現象学)の叙述が学の最初の部分を構成する。

※ある規定性の否定は、それを他と関連付けること。
  概念的な関連付けの運動は必然的。
第一の否定(規定)、第二の否定(固定性の廃棄)→必然的な有機的連関の生成
  このような運動が学の本性。

(第34・35節終わり)
64marginal:03/11/30 17:58
ようやく序論(Vorrede)の半分まで来た。
ヘーゲルの使う概念は、即自的、対自的、絶対的、
哲学的、日常的な使い方が入り混じって、とても難しい。
>>31が即自のジレンマと呼んだものは、
こういったことも関わっているだろうか。
65考える名無しさん:03/11/30 22:39
がんばりますな
66考える名無しさん:03/12/01 04:03
牧野訳のほうがわかりいいんでないの。
しかし、大変な努力だ。
俺なんぞ金子訳のを2週間でほりだしたもんな。
67marginal:03/12/01 05:05
>>66
これ↓のことでしょうか。

Amazon.co.jp: 本: 精神現象学
ttp://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/489642039X/mgarden-22/249-7862424-4091529

今、所有してるのは樫山欽四郎訳(平凡社ライブラリー)、
長谷川宏訳(作品社)、山本信訳(世界の名著)です。
序論は、この中で山本訳が自分にしっくりくるのが分かってきましたので、
今ではそちらを参考にすることが多くなってきました。
しかしページ数は平凡社ライブラリーです。
金子訳も欲しいですが、自分にとって高価すぎます。
田舎の図書館にあるだろうか・・・。
牧野訳はよさそうなので、経済情況をみて購入を検討します。
68考える名無しさん:03/12/01 11:31
69考える名無しさん:03/12/01 11:35
70marginal:03/12/01 17:35
●第36節(p.52−53)
意識は経験によって変わらざるを得ない―――意識の経験の学

  ・意識は二つの側面を持つ
      <知ること(※志向性?)>
      <対象性>
        →精神が意識において諸契機として展開されるとき、
         知と対象性の対立がそれらに付きまとう。
        →知と対象の対立は、意識の諸形態として現れる。
         (※(対象)意識-自己意識-理性)
  
  ・意識の経験の学(※精神現象学)
      実体とその運動が、意識の対象として、どのようにあるかの考察。
  
  ・意識の経験を精神の側から見ると・・・
      直接的な精神が自己を疎外し、意識において自己を取り戻す。
      この媒介により、現実的なもの、真理として意識の所有となり、
      そう表明される。この一連の運動が「経験」と呼ばれる。
  
  ・上の運動を、簡潔に言い換えると・・・
       →精神自身が他のものになる。(=自己が自己の対象になる。)
       →この他であることを揚棄する。(=自己への環帰。)
       →現実的な精神
  
※意識における知と対象の運動=経験。
  意識が経験を積む(教養を積む)ことは、
  図らずも精神自身が自己を回復することでもある。

(第36節終わり)
71考える名無しさん:03/12/01 18:31
金子訳は早稲田の古書街で上下一万以内でゲットできる。
牧野訳は内容からすると安いと思う。
72marginal:03/12/01 18:48
>>71
情報ありがとうございます。
そういえばネット古書店がありましたね。
経済的にずいぶん先のことになるでしょうが、
そのときにあれば、購入するつもりがあります。
まずは牧野訳を手に入れることにします。
73marginal:03/12/01 21:34
●第37節(p.53−54)
実体の自己との不等―――実体論的差異

■ズレが運動を推進する(※クリナーメン?)
  ・意識とその対象(実体)の不等性(Ungleichheit)
                 =区別(Unterschied)
                 =<否定的なもの>一般(das_ Negative_ ueberhaupt)
                 =魂(Seele)
                 =動かすもの(das Bewegende)
                 =空虚(Leere)
                 =自己(Selbst)
               →不等性=運動を生じさせるもの
  ・自我の対象との不等(Ungleichheit des Ichs zum Gegenstande)
   →実体の自分自身との不等(Ungleichheit der Substanz zu sich selbst)
  ・実体に対して、実体の外で行われるかのように見える活動は、実体固有の活動であり、
   実体が本質的に主体であることを示している。
   (Was ausser ihr vorzugehen, eine Taetigkeit gegen sie zu sein scheint, ist ihr eigenes Tun,
    und sie zeigt sich wesentlich Subjekt zu sein.)

(続く)
74marginal:03/12/01 21:36

■実体の主体化が完遂されること→精神現象学の完結
  ・そこは・・・
      存在は絶対的に媒介されている
      知のエレメント
      知の単純性
      知と存在の対立の克服
      内容の差異があるだけ
      (諸概念が)有機的な連関へ組織されていく運動(論理学=思弁哲学)が行われる場

>>57>>58参照。
※実体の自己との不等、この実体論的差異とでも呼べるかも
  しれない思想が、今まで読んだ中での核になる思想だと思える。
※実体に不等をもたらすのは、意識をもつ人間。
  充実した実体に亀裂を入れる、人間という無、空虚。
  空虚が亀裂を生み、原初の統一を回復しようという衝動が
  亀裂をずらしていく。運動。

(第37節終わり)
75marginal:03/12/02 17:00
●第38・39節(p.54−57)
なぜ、ただちに学から始めないのか―――真なるものと偽なるもの

■真なるものと偽なるもの
  ・日常的意識の疑問
       学こそが<真なるもの>ならば、精神現象学は<偽なるもの>、
       誤りでさえあるもの、つまり否定的なものではないのか。
       なんのために偽なるものにかかずらう必要があるのか。
    →学は精神現象学を(一見)否定するものであるかように見える
      (かもしれないが、そうではない)。

(続く)
76marginal:03/12/02 17:11

■偽としての否定的なもの一般(Negativen als _Falschem_ ueberhaupt)とは、どのようなものか
  ・日常的意識は、真なるものと偽なるものは、固有の実在を備えた、
   固定的なものと考えられている。
  ・しかし偽や悪は、それぞれそれ自体で「なにか」として「存在する」ものではない。
   一般的なもの(概念)である。
  ・知における否定的なものの働きをみれば、それらの性質がわかる
       ある対象についての知が偽であるということは、
       知とその実体が不等であるということ。
         →不等=区別すること一般(本質的な契機)→生成した同一性(真理)
           =>区別(偽)があるからこそ同一性(真)がある
  ・不等性は真なるもののなかで、否定的なもの、自己として存在している。
   (さらに言えば)実体はそれ自身が本質的に否定的なものである。
  ・悪魔は、悪という一般的なものが主体化したもの。


(続く)
77marginal:03/12/02 17:19

■注意しなくてはならないこと
  ・「偽なるもの」が(そのままそのようなものとして)、真なるものの契機であるとか、
   それを構成する要素であるなどとは「言えない」。
   →偽なるものが真理の契機であるとき、それは(単に)偽なるものとして
     そうなのではないから。
      →両者が互いに他であることが揚棄されているところ(統一)では、
       それはそれとして固定されていず、したがって表現されているものの意味が、
       そのままの意味でのみ考えられているわけでもないから。
       (主観と客観、有限と無限、存在と思考といった表現についても同じ。)
  ・こういう(二元的な)表現は、それらが統一の外にあることを表す。

※精神現象学と学の関係を、偽なるものと真なるものとみれば、学こそが真理なのだから、
  精神現象学はそもそも必要なのかという疑問が生じるかもしれない。
  それは、真なるものと偽なるものの関係のあり方をみることで説明される。
  知と対象の関係において真と偽は、不等性→区別→同一性(統一)という運動を生じさせる。
  この統一においては、真は純粋な真としてのみあるのではなく、偽もそう。
  真は偽を介してこそ真、偽はそうした必然的なものとして真の側面を得ている(?)から。
  要するに互いに純粋なものとして存立するのではない。
  統一においては、したがって表現されていることだけを見て、一義的に捉えてはならない。
※純粋な民族という考えは成立するか。ヨーロッパにおけるユダヤ人。

(第38・39節終わり)
78marginal:03/12/02 18:10

以上で序論におけるヘーゲルの思想がほとんど語られたと思う。
以下は主に、ヘーゲルの概念把握する思考と、他のさまざまな態度
(歴史的真理、数学的真理、形式主義など)との差異が批判的に語られる。
だから、一回で今までより多くの段落を要約できることになると思う。

しかし困難がある。
論理学の反省(照)規定を理解していなければ分からない箇所がある。
ヘーゲルの自然哲学の理解が必要になる箇所もある。

だが後半を捨て去るのは惜しいほどの内容が語られているのも事実。
概念の性質についての謎めいたことがらを、
しかし重要なものに違いないと思わせる仕方で語っている。
誤解を恐れずに言えば、概念の神秘主義的な側面が表現されていると思う。
これらの重要な示唆を飛ばすのはもったいない。

要するに、自分にとって後半は、理解がより不完全にならざるを得ない部分がある。
79marginal:03/12/03 17:15
●第40−52節(p.57−71)
独断主義の考えに反駁する

■外的な認識
  ・独断主義(Dogmatismus)(40)
      独断主義は思い込み(Meinung)である。
        →真なるものは固定的な、または直接的に知られる命題において存立する、という思い込み。

  ・歴史学的認識(41)
      (ヘーゲル的意味で)偶然的で恣意的な内容、すなわち必然性のない諸規定を問題にする。
      書物の参照、比較などは自己意識の運動なしにはありえない。(この運動が消されている。)

(続く)
80marginal:03/12/03 17:30

  ・数学的認識(42−45・48)
      数学における洞察は外的。
      証明という本質的なものは、結果においては消失している。
        →証明は、結果そのものの契機であるという意義と本性を得ていない。
        →作図の必然性が見られない。強制的。外的な合目的性。     
        →数学的証明の運動は外的。認識のための手段にすぎない。

      本質(内)と現象(外)の関係を捉えず、仮象する契機(定在)を外的に扱う。
      仮象にすぎない契機を、外面の皮相・表層において関係させあうにすぎない。
        ※影絵。光源が本質。影だけを見ればそれは仮象。
         光源と影の関係(反省(照)規定)を自覚すると現象。
         反省(照)諸規定=同一性・区別・矛盾など
         (※この辺は自己流であいまい。カント他と大(小)論理学を勉強しなくてはならない。)
        
      数学の目的すなわち概念であるのは「量(Groesse)」。※論理学参照
      数学は無概念な量的関係を原理とし、死んだ空間(toten Raum)、
      死んだ一(tote Eins)を素材にしている。
        →日常的意識との類似性。
         目の前にある固定した存在。
         好奇心(Neugierde)→書物の序論なども似たようなもの。
         瞬間という感覚(die Empfindung des Augenblicks)。
   
   ※西欧におけるテクネーの問題。数量化すること。全てが計算可能と見ること。
     農産物加工と殲滅の方法。対象化=前に-立てること(Vor-stellen)。
     世界を像として征服すること(ハイデガー『世界像の時代』)。
 
(続く)
81marginal:03/12/03 17:45

  ・形式主義(50−52)
      カントが三重性(Triplizitaet)を再発見し、後に絶対的な意義にまで高められた。
      だが、まだ死んでいて概念的に把握されていない。
      この形式が生命の無い図式と化してしまうと、学の組織は単なる一覧表になる。
      (※学の組織=エンチクロぺディー;論理学・自然哲学・精神哲学)
      
      何かある形態について、図式から持ってきたひとつの規定を述語として語るだけ。
      類推と公式の適用が構成(Konstruktion)と呼ばれている。
       →医療における形式的な診療判断。
         自然哲学における、静止的な感覚的事物への、関係の無理強い。

      例えば二色しか持たない画家(一覧表、レッテル)
       →ひとつの色しか用いない絶対的画法に行き着く。絶対者の空虚。純粋な同一性。
       →そこには区別がない。あらゆる反省を退けているから。死んだ悟性。外的な認識。

      しかし三重性は、図式的にせよ、人々の心情に強く訴えかけた。精神に対してではないが。
      形式が一般的なもの、規定的なものへと仕上げられていった。
      (※三重性は規定された。次はこの固定性を廃棄しなくてはならない。)

(続く)
82marginal:03/12/03 19:03

■内的な認識
  ・哲学的認識(42)
      「定在の生成」と「本質の生成」、言いかえれば「事がらの内的本性の生成」は異なる。
      しかし哲学的認識は両者の生成を含み、さらに両者の運動を一致させている。
        →実体(※本質)が内的に存立すること、すなわち実体(※本質)の生成とは、
         (Das innre Entstehen oder das Werden der Substanz)
         それが外的なもの(das Aeussere)、定在、
         対他存在(Sein fuer anderes)に移行する(現象する)ことである。
        →他方、定在の生成とは、本質の中へ自己を取り戻すこと
         (Sich-zuruecknehmen ins Wesen)である。

      こうした運動は二重化という過程であり、すなわち全体が生成することである。
      この運動は、両者が他方を同時に措定する運動である。
      それゆえ両者はそれぞれ他方の側面を自分に備えることになる。
      つまり、両者が協同して全体をつくるのである。
      この全体において両者は自分自身を解消し、全体の契機となる。
         (Die Bewegung ist so der gedoppelte Prozess und Werden des Ganzen,
         dass zugleich ein jedes das andre setzt und jedes darum auch beide
         als zwei Ansichten an ihm hat; sie zusammen machen dadurch das Ganze,
         dass sie sich selbst aufloesen und zu seinen Momenten machen.)
       ※本質(実体)と現象(定在)の相互運動が全体(精神)を生成する。論理学参照。

 (続く)
83marginal:03/12/03 22:45

  ・バッカスの祭り(47)
      バッカス・・・・・・ローマ神話の酒の神。ギリシャ神話のディオニュソスに当たる。

      哲学のエレメントと内容は、現実的なもの、自分自身を定立するもの(sich selbst Setzende)、
      自分の内で生きているもの(in sich Lebende)、つまり自分の概念において定在しているもの
      (das Dasein in seinem Begriffe)である。この現実的なものは、自ら自分の契機を産出し、
      遍歴する過程であり、この運動全体は肯定的なもの(das Positive)とその真理を構成する。

      真なるものは熱狂的な陶酔(der bacchantische Taumel)(バッカスの祭り)のようなものである。
      その乱舞は、全体として透明で単純な静止である。
      ※あらゆる固定した契機を酔わせ(固定性を廃棄し)、流動化(精神化)する。
      ※加速が極限に達すると静止して見える?

      現象とは生成と消滅であるが、この生成と消滅そのものは生成も消滅もしない。
      それ自体として存在し、真理の生命の現実性と運動を構成している。
      
      この運動の全体が静止したものとして捉えられた場合は、区別された特殊な定在は、
      内面化されたもの(記憶されたもの)として貯蔵される。その定在は自分自身についての知であるが、
      またこの知はただちに定在でもある。

   ※内面化→記憶(Erinnerung)。aufbewahren(保存する、貯蔵する)(store, preserve)。
     カーニバル→カニバリズム。知の謝肉祭。知が食べ、食べられること。
     食べることによる内面化→他との同一化。ダリ『秋の人肉食い』。ヘーゲルにおける熱狂的側面?

(続く)
84 :03/12/04 07:48
NO WAR EMERGENCY DEMONSTRATION Vol.3
■自衛隊イラク派兵反対■
12.22 Mon.@ MILK ¥2,500- with 1D  21:00 to Midnight

DJs: 大貫憲章(LONDON NITE), ぎゅうぞう(電撃ネットワーク)
高木完, KWAZZ"PUMP"YOKOYAMA, 須永辰緒(Sunaga t Experience)
大川毅(SKA FRAMES),, FORCE OF NATURE, UDON(BASS OF BASS)
竹花英二(JAZZ BROTHERS), AZUSA(tg-electronic), フランキー(Tripster)
MC ZINGI(東京仁義一家), SGROOVE SMOOVE(4DJs RECORDS)
M-DIDDY and MARTIN KINOO(MACK DADDY), MANABU(GAUNA)
KABAYANG & E.D.A.(bal), TATSUYA(東風), LAZY SAKU(EAT)
AKEEM(realmad HECTIC), ZENLAROCK, TAKECi(EAT)
hico, KEERA & 彩加, IKKYUU, Takamori K(Auditory Sculpture)
KATCHIN(LONDON NITE), U-ICHI(LONDON NITE)他
LIVE: KANI BASS, ザマギ(イセネエヒヒネエ), MELLOW YELLOW
INDEMORAL(走馬党), 姫(DJ HONDA PRODUCTION)他
VJ: REAL ROCK DESIGN他  協賛: 風magazine, Collider, plus81
賛同: 4DJs RECORDS,梅川良満, クボタタケシ, ビビアン佐藤,TERU(AG)
RED(RECON), MANO(HIDE & SEEK)
Art work: NGAP  Host: YUTA MAN

・出演者、賛同者は以降大幅に増える見込みです。
・宣伝、会場経費を除いた売り上げは全額イラク侵略被害救済支援
 に寄せられます。全出演者はノーギャラです。
85marginal:03/12/04 18:06
■時間と空間
  ・空間について(45)
     数学の対象は空間と時間。空間は概念がそこに自分の区別を書き込む場所。
     しかし区別は運動せず生命が無い。そこは空虚で死んだエレメントだから。
     本質的区別(Unterschieden des Wesens)、本質的な対立・不等性、対立するものの
     [もう一歩の]対立するものへの移行という運動が無い。
     知の質的で(qualitativ)内在的な(immanente)自己運動に至らない。
     数学は量を原理とし、知の進行は相等性(Gleichheit)(※イコール)に沿って進む。
     空間を諸次元(Dimension)に分割し、結合するのは概念。

  ・時間について(46)
     時間を本来の時間として扱わない。一として扱う(※時間の流れを断ち切り、
     ひとつにまとめ上げ、なんらかの対象的なものとすること?)。
     したがって生のあの絶対的な不安定さ、絶対的に区別すること、を捉えることはできない。
     時間とは概念それ自身の姿であり、否定性であるから。
    ※概念=時間=否定性。概念は空間的でなく、時間的。
     何かとても大事なことが語られていそう。

 ※哲学的認識と形式的な認識の違いが主に語られた。形式的な思考は、
   事柄の現象した(仮象した?)面をその活動領域にしている。その成り立ちはかえりみない。

(第40−52節終わり)
86考える名無しさん:03/12/05 03:26
がんばれ〜
87marginal:03/12/05 17:14
●第53節(p.71−73)
対象の生命、概念の生命

■二重の運動
  ・>>82で言われた二重の運動を、ひとつの全体的な視点から言い直す。
     a.他になり、他に内在する内容になる。(※本質→定在)
     b.この展開されたもの、内容を自分に取り戻す。(※定在→本質)
        =自分を規定されたものへ単純化し、ひとつの契機にする。

  ・上の運動において否定性はどのように働いているか。
     a.自分自身を区別し、具体的な存在を定立する働き。
     b.規定された単純なものを生成する働き。
       ※規定された単純なもの=全体の連関に座を占めた契機

(続く)
88marginal:03/12/05 17:19

■概念把握するための態度
  ・学は概念それ自身の生命によってのみ組織される。

  ・学的認識に要求される態度。(>>6参照)
     1.対象の生命に自己をゆだねること。
     2.対象の内的必然性を自覚し、それを言い表すこと。
         →対象の中へ自己を深く沈めること。
       ※自分を忘れること=対象の生命に自己をゆだねること=自己を対象に投入すること
         内的必然性=概念同士の必然的な連関の運動=概念の生命
         言い表すこと→叙述の必要性。真なるものも実現されなければ現実的ではない。

  ・対象に没入しているときは、全体への見通しを忘れる。全体は反省の後に見出されるから。
   豊かな内容の中で反省は失われるが、上のような認識を経ることで、
   自己は単純な全体として立ち現れ、全体を展望することができるようになる。
   このような運動を経ずに全体を展望すると称する認識は、一覧表を作る悟性的認識。

 ※対象の中に沈潜し、自己を忘れることの意味のひとつは、
   対象的世界の向うに概念(質とか量とか)の世界を透かし観ること、と受け取った。
   世界の骨子としての論理学の体系。してみるとヘーゲルはある種の構造主義者とも呼べるかも知れない。
 ※ヘーゲルの観ていた世界を想像するとぞっとすることもある。
   具体的で多様な事がらを扱うときの色とりどりの世界。
   しかし他方で、その多様性を揚棄した、無色透明な、概念だけの冷徹な世界。

(第53節終わり)
89marginal:03/12/05 17:47
>>82訂正】

→実体(※本質)が内的に存立すること、すなわち実体(※本質)の生成とは、
 (Das innre Entstehen oder das Werden der Substanz)
 それが外的なもの(das Aeussere)、定在、
 対他存在(Sein fuer anderes)に移行する(現象する)ことである。
 
               ↓

→実体(※本質)の内的な発生、すなわち実体の生成
 (Das innre Entstehen oder das Werden der Substanz)とは、
 それが、外的なもの(das Aeussere)、定在(das Dasein)、対他存在(Sein fuer anderes)
 へ移行(※現象)することと不可分である。

何度もすいません。





90marginal:03/12/05 20:13
【メモ】

自己を忘れ、概念を含むあらゆる対象に身を委ねるということはきっと、
自己の固定性を捨て、自己を流動化することでもあるだろう。
そしてその流動化とは、広い意味での転移の渦に身を曝すことでもあるのかもしれない。
そこでは、言葉もまた物として転移の対象になる。
こうして概念に生命が吹き込まれる。
91marginal:03/12/05 23:22
●第54節(p.73−75)
定在の運動―――同一性の成立と崩壊

■抽象的な同一性は崩壊せざるを得ない
  ・同一性はどのように成り立つか。
      定在のもつ規定性は<質(Qualitaet)>と呼ばれる。(※以下含め論理学参照)
      或るもの(定在)が他と区別されるのは、この質による。
      他との連関からある定在を区別し、抽象するのは思考の働きである。
      つまり、ある定在がそれとして同一的に存立するのは、思考がそれを他から抽象するからである。
      よって「定在は本質的に思考されたもの」、さらに「存在は思考である」とも言われる。
      こうして定在の同一性が存立する。この自己同一性がその定在の実体である、という言い方もされる。

  ・この同一性もまた概念の運動を免れない。
      定在が抽象されてある状態は、その本質からも抽象されてあることでもある。
      そこから自己(定在)の自己(本質)との不等の運動が始まる。
      定在と本質の関係は同一性―区別―矛盾と進む。
      矛盾を推し進められ同一性はついに崩壊し、その根拠(内面=本質)を開く。
      この運動は定在が自己へ帰る、と表現される。
      それは、より高次の自己を生成することでもある。
      こうして定在は全体の一契機におさまる。    
      要するに定在は、没落して初めて自己の本質を知ることになる。
      以上の運動は、実体がそれ自身において主体であることに他ならない。
      「あらゆる内容がそれぞれ自分の内に反省する」のは、まさに実体が主体だからである。
      
(続く)
92marginal:03/12/05 23:25

■知の詭計
  ・知は、内容がそれ自身の内面に変えるのを眺める。
      知は、内容に内在する自己として運動を推進するが、
      そのように働いてないように見せかけ、自分に帰ってもいる。

 ※この節は論理学に多くを負っている。反省諸規定、質、定在、或るものなど。
 ※「存在は思考である」ということは、存在するものは思考されたものである、ということだと思う。
   何らかの思考の媒介なしに、或るものを何かとしては認識できない。
   思考を介さないとは直接的であるということだが、直接的なものは現実的ではない。
   これは繰り返し述べられていたことだ。
   
(第54節終わり)
93marginal:03/12/06 11:31
牧野訳を手に入れました。自分にとってとても良いです。
感動的ですらあります。難しいことに変わりはありませんが・・・。
94marginal:03/12/06 15:16
●第55節(p.75−76)
定在の本性―――自己運動と形式

■規定された単純なもの
  ・定在の自己同一性は否定性である。自己意識の空虚な自己同一性が
   否定性と言われていたのと同じである。否定性は運動をもたらす力であった。
   したがって、定在が解体する運動に向かうのは外からの力によらず、自己運動である。

  ・また、定在が自己同一なのは、質としてだった。これは「規定された単純性」と表される。
   単純性は、ヘーゲルの言葉遣いからして、一般的なものとも言われると思う。
   一般的なものは古代ではヌース(Nus)→イデア、エイドスなどと言われてきた。
   言い換えれば、それは規定された一般性、種(Art)(※つまり形式)である。

(続く)
95marginal:03/12/06 15:21

■理性的な悟性
  ・悟性とは否定し、規定する力だが、もうひとつの性格を持っている。
   理性的な側面である。悟性の規定する働きは、推し進めると内面を生成する。
   生成するものである限りで、悟性は理性的である。

  ※この節は理解しきれなかった。
  ※要は、質という規定性が一般的であることと、本質との関係から、
    定在は形式としてもある、ということを言いたいんじゃないかと想像した。
    いずれにせよ、論理学の知識が必要だと痛感。

(第55節終わり)
96marginal:03/12/06 17:08
●第56・57節(p.76−78)
思弁哲学―――概念の音楽

■あるものがその存在において概念である、とはどういうことか
  ・あるものが、その内面において概念であるということが、「論理的必然性」を成立させる。
   だから、それ自身において概念である内容が自己に帰る運動は、必然的である。
   その運動は、自分を論理的な形式(自己の本質態)へ高めることでもある。

   また、この論理的必然性は「有機的全体の理性的なもの、リズム」と言われる。
   学は内容と不可分であり、その運動のリズムを自分で決めていくのである。

   しかしここで言われていることは、先取りして言ってるに過ぎず、単なる断言である。
   論理学において実践されるものだ。
   つまり、この論理的必然性は思弁的なものである。

※概念の論理的で必然的な連関と、音楽の関連性に注目したい。

(第56・57節終わり)
97考える名無しさん:03/12/06 18:04
すごい・・・。何も意見いえませんけど、頑張ってください!!
98marginal:03/12/06 18:23
>>97
ありがとうございます。
ヘーゲルの思想を妄想に堕しているのではないか、
という戒めのためにも何でも意見して欲しいですが、
それに正しく答えられるかどうかは正直難しいという
のも事実です。ヘーゲルの使う言葉が多義的で、
自分のような半可通には議論しずらい、ということも
ありますし、そもそも指導的な役割をする人が
いないのも問題でしょう。自分としてはしかし、
それにもかかわらず、叱咤やアドバイスを希望
したいと思いますね。
99marginal:03/12/06 18:39
ヘーゲルを読んでると口調が微妙に変になってきますね。
その他の哲学書でもそうかもしれませんが。
100考える名無しさん:03/12/06 19:45
最近こういった読書スレが増えて板の雰囲気が少しよくなった。
ガンガレ!!
101考える名無しさん:03/12/06 20:20
確かに読書スレ増えたよね。
やっぱ世界の名著読破スレが発火点になったのか?
>>1
超頑張れ!
102濱田 直人:03/12/07 09:28
 Yahoo!eグループにて「吉本隆明を語る」と題して、新しく
グループを作りました。
是非、お立ちよりください。
ヘーゲル・柄谷行人大歓迎です。

http://www.egroups.co.jp/group/yosimoto-ryumei
103marginal:03/12/07 15:33
●第58・59・60節(p.78−82)
日常的意識にとって、学的意識への転換は苦痛なこと

■学を研究するのに大切なこと
  ・概念に注意を集中するという苦労を引き受けること。たとえば即自存在、
   対自存在、自己同一性などの単純な規定に注意を集中すること。

 ※自己確実性をいったん断念し(括弧に入れる?)、自己(という自由)を対象
   に投入し、対象の諸規定に注意を傾け、そのリズムに身を任せる。
    →対象の自己運動を眺めるための準備。
 ※自己意識からではなく、対象意識から運動が始まる。

(続く)
104marginal:03/12/07 15:35

■日常的意識
  ・表象的思考・・・素材の中に埋没している偶然的意識(質量的思考)
              →自覚することは苦痛
  ・形式的思考・・・多弁を弄して文句をつける(raesonieren)思考
              →内容を単に否定して済ましている。うぬぼれ。
                対象を主観的に自己に引き入れ、無に帰する。
                空虚な自己。虚しさ。

※対象とともにあっても、それが表象的である限り、運動になりえない。
  イメージの世界。ヘーゲルにとって対象に内在するということは、シュール
  リアリズムのようなものではないのだろう。
※ヘーゲルは対象(内容)の自己という言い方をすることがあるが、対象の
  自己とは、さしあたり、投入された意識の自己という意味だと思う。
  自己というものが、ヘーゲルの思想の到達点から見て何であるかということ
  はまた別問題だけど。

(続く)
105marginal:03/12/07 15:44

■学的意識
  ・概念把握的思考・・・否定的なものは、主観的に内容に貼り付けられる(外的な
                否定・規定)のではなく、内容とともにあり、ともに運動を
                形成する。運動の全体としての結果は肯定的なものだから、
                否定的なものも肯定性を持つ。

 ※対象の二重螺旋的な運動。無形の内容を否定力によって有形に規定することが、
   意識の主観的な仕事ではなく、対象自ら行うことだということは、奇妙にみえる。
   ヘーゲルは、常人が及ばないほどの集中力をもって対象に沈潜し、対象と自己
   を一致させていたのだろうか。ヘーゲルに限らず、それが、哲学者が哲学者といわ
   れる所以のひとつなんだろうと思う。

(続く)
106marginal:03/12/08 17:45

■命題における運動―――主語(主体)と述語(実体)
  ・形式的的思考・・・静止的主語に、内容が偶然的な述語として外部(の主体=書き手)
              から主観的に付与される。言い換えれば、主語が固定的な地盤・基底
              として支え、それに述語が結び付けられる。

  ・表象的思考・・・表象的思考は、なんらかの思弁的な命題を読もうとすると、命題の
             進行において述語に至り反撃(Gegenstoss)を受け、述語の重力(Schwere)
             で自由に運動できないと知ることになる。
              ※好き勝手に振舞うことができないと知る。

  ・概念把握的思考・・・主語自らが運動して述語の規定を自分に取り入れる。
                固定的な基盤は揺らぎ、この揺らぎの運動自体が
                概念把握的思考の対象になる。

 ※命題における主語と述語を主体と実体(内容・規定)と捉える。
   主体と実体は「である」(精神)において出会い、そこで統一される。
 ※運動それ自体をどう把握し、叙述するか。運動を規定性に細分化(微分?)し、
   それらの連関を規定性の崩壊と生成として表す。
 ※ヘーゲルの思想における特徴のひとつは、現実を流動的なもの、運動として捉え、
   それをどう叙述するか、ということにもあると思う。さらに、現実を運動として捕らえることは、
   時間というものをどう捉えるか、ということにも関わってくるのではないか。
 ※思想の特徴は叙述スタイルに現れざるをえない(なくてはならない)。
   内容は、それに見合った形式を持つ。内容と形式。

(第58・59・60節終わり)
107marginal:03/12/09 17:27
●第61・62節(p.82−84)
思弁的命題―――拍節、アクセント、リズム(>>96参照)

■思弁的命題は主語と述語の区別を破壊する(61)
  ・リズムは拍節(Metrum)にアクセントをつけることで生まれる。
   拍節とアクセントとの「たゆたう中間(Mitte)と両者の合一(Vereinigung)」から、
   リズムが生じる。ここでリズムは主語と述語の調和(Harmonie)でもある。
   主体は実体に落ち入り(fallen)、統一され、アクセントは次第に消えていく(verklingen)。
  ・概念的統一=リズム

  ※拍節をアクセント(否定)により区切り、強弱をつける。
      →主語(主体)と述語(実体)(思弁的命題の形式)。=>リズム、調和(統一)
  ※区別を破壊するとは、単に否定し捨て去るのではなく、統一(調和)させること。
  ※分かりにくかった。

(続く)
108marginal:03/12/09 17:40

■思弁的命題をどう読むか(62)
  ・述語は主語の本質である。同じだが、述語は主語の本質を表現している。
   最初の主語は述語のなかで消え去り、読み手は困るが、述語において
   次の主語を見出す。こうして内容へと潜行していく。
  ・思弁的命題の例:神は存在である。現実的なものは普遍的なものである。

 ※ヘーゲルの文章を読む際の注意が語られた。特に論理学の。
 ※前節のメモでは、主語と述語の両者が歩み寄って統一するというニュアンス
   で書いたが、この節を読むと、「落ちる(fallen)」という表現から、必ずしもそ
   うでもないようだ。方向性については、運動するのは主体なのだから、
   主語の方から歩み寄るというのは確かに理解できる。実体の中に「落ちる」
   という否定的な印象については、>>88で言われた、豊かな内容の中では一度
   自己を失わざるをえない、ということに関わっているのではないかと思う。
   ただ、統一において、主体は実体の中に「消え去る」のではないだろう。
   消えるのはあくまで両者を区別するアクセントである。
  
(第61・62節終わり)
109marginal:03/12/09 17:46
>>108訂正】

前節のメモ → >>106
110marginal:03/12/09 18:10
ここで>>1のリンク先の原文は終わっている。しかしまだ内容がある。
なぜかと思って少し調べてみると、精神現象学には、生存中に発行
された版と死後に発行された版があって、後者にはヘーゲル自身の
加筆がしてあるそうです。序論にだけだと思いますが。あいまいです。
そう思って読むと確かに温度差があるし、内容も著作の大衆への受容
のされ方などを扱っている。

序文(Vorrede)の残りのの原文は↓を参照します。
www.gutenberg2000.de/autoren/hegel.htm
(PROJECT GUTENBERGの別サイトみたいです。こちらは序文は全部あります。)

緒論(Einleitung)からは同じく1のサイト先のものを使います。
今までの連続性があるので。
111marginal:03/12/10 19:53
●第63−66節(p.84−88)
私は、自分の著作が理解されにくいのを承知している

■哲学書が分かりにくいとされるはなぜか(63・64)
  ・命題をみると、主語と述語が普通の関係をとっていると考えるから
     →思弁的命題は、日常の思い込みを破壊する
     →思弁的命題はplastisch(具体的、具象的、立体的、造形的、可塑性のある)である。

(続く)
112marginal:03/12/10 20:02

■叙述の必要性―――思弁的=弁証法的(65・66)
  ・真なるものは命題により「表現」されるべき。真なるものは主体。主体の運動は弁証法的。
   つまり、自己自身を産出し、展開し、自己へ帰る歩み。これは、概念が自分の内へ帰る
   運動とも言われる。よって真なるものは、命題そのものの弁証法的運動により叙述されな
   くてはならない。この運動だけが<現実的に>思弁的なものであり、この運動を言い表す
   ことが思弁的叙述である。弁証法こそが哲学的証明である。
  ※主体としての実体の運動=概念の自己内環帰=弁証法的運動=思弁的なもの

  ・弁証法的連関の構成要素としての命題を、それだけ取り出してみれば、その一つ一つは
   弁証法的か?弁証法的である。この運動が行われるエレメントは純粋な概念であり、主体
   の思想が貫徹されているからである。

 ※エレメントが概念であるという言い方の意味は、思考が表象的でないことと、概念のみで叙述
   されるということだと思う。他に論理学における概念論の意義があるが、ここでは扱えない。
 ※ヘーゲルにとって概念とは、通常の意味の他に、自己内環帰する弁証法的な運動であり、
   つまり徹底的に主体的なんだろう。
 ※例えば存在という概念を考えたとき、芋づる式に他の膨大な数の概念が背景にあることが
   想定され、これらの概念の必然的連関を介して(主体的に歩んで)初めて、存在という概念
   が現実的になる。概念がキャラクターを備えているかのようである。

(第63−66節終わり)
113marginal:03/12/11 00:25
●第67−70節(p.88−92)
健康な常識(gesunde Menschenverstand)批判―――哲学とは何か

■哲学するということ(67・68)
  ・哲学するということを真剣な仕事(ernsthaftes Geschafte)にしなくてはならない。
   理性を持っているからといって、ただちに哲学することができ、評価できると思い
   込んでいる人が多いが、そうではない。靴作りの道具があっても、すぐに靴が作
   れるわけではないのと同じである。

  ・なんらかの知識や学問において真理とされるものも、哲学なしには生命も、精神も、
   真理も持ち得ない(※生きたものになり得ない?)。

  ・哲学には精神の長く厳しい形成過程が必要だと常識は知らなくてはならない。
   常識には努力が必要だ。

  ・自然のままで哲学すること(ein naturliches Philosophieren)は、直感的で詩作的思考
   (ein anschauendes und poetisches Denken)であり、想像力と思想のまずい混合物である。

  ※苦労を避けては哲学しえないことを語っている。
  ※人生観(論)なら誰でもそれなりに語れるが、それを哲学と称しがちな風潮にも関わると思う。

(続く)
114marginal:03/12/11 00:26

■学に至る王道(69・70)
  ・自然的な哲学的思考は、心の無垢(Unschuld des Herzens)や良心の純粋さ
   (Reinheit des Gewissens)を心の内に持っており、他の人々もそうだと言うが、
   哲学はこの内なるもの、感情を表現しなくてはならない。

  ・感情的であることにとどまることは、動物的であること、反人間的であることである。

  ・人間の本性とは、他との合意へ突き進むことである。それにおいてのみ意識の
   一致が成り立つ。

  ・一面的なものに対しては、同時にその反対が含まれることを指摘しうるが、
   それについては詭弁や夢想などと非難される。だがそれは当の意識が混乱
   しているにすぎない。

  ・学への王道は概念の労働のほかになく、概念のみが知の一般性を生み出しうる。
   一般的な知とは理性本来の形式に成長した真理であり、すべての自己意識的な
   理性の所有となる知である。

 ※人間の本性を他との一致と観るヘーゲルの弁は感動的ですらあるが、あるいは
   果たして楽観的にすぎるのだろうか。

(第67−70節終わり
115marginal:03/12/11 20:24
●第71・72節(p.92−95)
私の著作が理解されるには時間が要るだろう

  ・概念の自己運動により学の体系を叙述するというやり方は、今は受け入れられそうにない
   が、アリストテレスやプラトンの『パルメニデス』が正当に評価されたように、時が満ちれば
   私の著作も公衆に浸透してゆくだろう。批評家は不理解の責めを著者に帰すが、公衆は
   自分の能力が十分でないと好意的にとってくれる。理解されるには時間が必要なのだ。
   現在は精神の一般性がより強くなっている。個人は身の丈を考えなくてはならない。
   精神の仕事のためには、個人は自分を忘れる必要があるのである。

  ※ヘーゲルの哲学は確かプロイセン国家のお墨付きとされ、ベルリン時代にはヘーゲル学派
   が形成されるまでになったそうだが、ヘーゲル自身は自分の哲学が本当に理解されている
   と思っていただろうか。

(第71・72節終わり)
116marginal:03/12/11 20:25
以上で序論(Vorrede)は終わりです。
117marginal:03/12/11 21:59
読み返すと誤字脱字が多いし、誤解を与えかねないまずい表現も散見されます。
すべての要約を改善することができると思います。読んで怪しいなと思うところは、
私が不理解を誤魔化しているか、明らかに間違っているか、表現がまずいためです。
118marginal:03/12/11 23:50
内容については、この序論は精神現象学の序論とし
て書かれていますが、それを越えてヘーゲル哲学へ
の導入の役割も果たしているかと思えます。あまり
親切でないですが。序論について自分なりに思う
ことをまとめるとこうです。

あらゆるものが自分と不等であり流動的である(世界がずらされる)。
それが主体であることである。直接性を止揚し自己に帰る弁証法的運動が
その特徴である。自己に帰ったものは現実的であり、自己意識的である。
運動の原動力、不等をもたらす力は、すべてを否定する死の力を自分に転移
させ行使する、人間という無である。それは実体(精神)自身が自己のうちに
無を含んでいることでもある。実体が主体としてそのような運動を経、自身に
帰着したときそれは精神である。精神自身もまた弁証法的に運動する。
自己意識的になった精神は学の組織が展開される概念のエレメントである。
精神現象学はそこへ意識をもたらす行程である。意識がそこで教養を積む
ことは、精神という全体を生成することでもある。
ヘーゲルの企図のひとつは世界を全体として精神化すること、精神として再興
することではないか。言うなればそれは、動脈硬化を解消し、世界の血管に精神
という血液を隅々にめぐらせることであり、透明で生き生きとした共同性を成立
させることなのではないかと思う。

これから翻訳は樫山訳、長谷川訳、牧野訳を参考にします。
個人的に牧野訳が一番分かりやすいので主に牧野訳を参考
にすることになると思いますが、ページ数は樫山訳を引き続き
載せます。一番入手しやすいと思うからです。段落も忠実に
対応しています。しかし、要望があれば上の三つのうちなら
変更可能です。ほとんど私ひとりが書き込んでいますが、
むろん意見・議論など自由です。要約したい方も歓迎します。
ゆっくりでもひと段落ずつ、うまずたゆまず、読み通すことを
目的にしましょう。
119考える名無しさん:03/12/12 00:04
頑張ってますね。
でも、あまり反応がないということは、
やはりこの板で精神現象学を読んでる人は少ないのでしょうね。
僕も(興味はありますが)読んでませんが・・。
120marginal:03/12/12 00:29
>>119
そのようですね。
まあ、一人でも気張らずにぼつぼつやっていきます。
121考える名無しさん:03/12/12 09:13
ずっとromってます 要約もおもしろいし 何よりmarginalさんの
姿勢に好感持ってます 何か書けるほどヘーゲル読んでないので、
romに戻りますが がんばってくらはい とてもいいスレだと思います
122marginal:03/12/12 23:51
緒論(Einleitung)は全17段落で構成されている。
精神現象学への実質的な序論であり、>>70
意識の経験を詳述している。
123marginal:03/12/13 00:50
■■■ 緒論(Einleitung) ■■■

●第1節(p.100−102)
認識作用は手段か?

■表象的意識の考える認識作用
  ・真に存在するものを現実的に認識するために、まず認識作用の吟味を始める。
   誤らないようにと。そして、この作用を絶対者を捕らえる@道具(Werkzeug)(能動的)
   や絶対者がそこを通して現れるA媒体(Medium)(受動的)と考える。
   認識作用は真理の光を屈折させると考える。
   しかし、認識作用とは真理を触れさせる光線自身なのである。
   つまりこの意識は絶対者と認識を分けるGrenze(境界、限界、制限)があると確信している。

                          道具・・・能動的(自発性)→悟性?
  ※表象の立場→認識=手段(Mittel)―|
                          媒体・・・受動的(受容性)→直観?

(第1節終わり)
124marginal:03/12/13 22:37
●第2・3節(p.102−103)
区別することがむしろ真理を遠ざける

■誤るかもしれないという怖れをこそ吟味すべきだ
  ・表象の立場はある前提をしている
      @認識作用を手段とみること。
      Aわれわれ自身と認識作用の区別。
      B絶対者が一方の側にあり、他方に認識作用がそれ自身であるという区別。

  ・認識作用を、真なる絶対者の外にあるにもかかわらず、真で実在的なものだと考えている。
   つまり、絶対者のみが真であり、真なるもののみが絶対的であるのに、区別を前提
   すると、絶対者という絶対的真理が一方であり、他方で別の真理をつかむ認識作用が
   あることになってしまう。これら区別は、誤りはしないかという怖れに基づいている。                         
  ※概念把握的思考(学的意識)は、意識が知らずに前提することをまず吟味する。
  ※認識作用について持つ通常の考え方を批判しつつ、自分の立場を明らかにしようとしている。

(第2・3節終わり)
125考える名無しさん:03/12/14 10:27
哲学は不幸な奴らが手を出す
「不幸とは」「死とは」「神様は」
人生に行き詰まるからこそ
126考える名無しさん:03/12/15 06:36
おれもずっとロムってます

がんがれ
127marginal:03/12/15 19:57
●第4節(p.103−106)
現象する知の叙述(Darstellung des erscheinenden Wissens)

■真は非真を排除しない
  ・以上のような考えを、真でないからといって捨て去ってしまってはいけない。
   学が現象するとき、その過程において、非真は学が現れつつある形態として
   真なるものでもあるから。つまり学は他なるものと並んで現れる(sie _neben anderem_ auftritt)。
   学はこの仮象から自由にならなくてはならないが、仮象し尽くすことなくしては学の現象は
   ありえないのである。

  ・この現象する知(過程)を叙述しなくてはならないのであって、単なる断言ですましてはならない。
   たとえば他を無視する立場(シェリング)、さらなる真への予感に訴える(フィヒテ)など。
   というのも、断言とは根拠なしでその「力」に訴えることだが、断言においては真も非真も
   同じ力を持つからである。
                        
 ※学の立場から見て誤りであるような考えも、真の一形態である。真なる知へ至るには、
  そのような仮象を経なくてはならない。

(第4節終わり)
128考える名無しさん:03/12/16 16:30
romしてます。

わたしの場合は、(ドイツ語はぜんぜんダメなんですが)
序論は時代的背景を織り交ぜながら方法の要諦を匂わせている感じなので、
そんなにタイヘンじゃなかったのですが、緒論の知と対象のところとか、
知覚から悟性のところで、樫山訳だけで読みすすめるのに詰まりました。
そこで牧野訳や金子訳も買ったんですが、牧野訳が(訳者の説教部分を除けば)
こなれていてわかりやすかったです。その後で樫山訳に戻りました。
そうして行きつ戻りつしているうちになんとかわかった感じがするといったところです。

緒論のレジュメを終えられるころまでに、いちど感想など書きこんでみたいです。
何かしらの励みにでもしていただければ幸いです。がんばってください。
129marginal:03/12/16 17:45
みなさんどうも。
130marginal:03/12/16 20:21
●第5節(p.106)
知の現象形態―――魂の道におかれた駅

 ・叙述は現象する知のみを対象にするが、現象する知の固有の形態を一つ一つ辿り、
  叙述しなくてはならない。

 ・現象する知の過程(行程)とは・・・
     真なる知へと突き進む自然的意識の道
     (der Weg des natuerlichen Bewusstseins, das zum wahren Wissen dringt)
     現象する知の諸形態の系列という魂の道
     (der Weg der Seele, welche die Reihe ihrer Gestaltungen)
     魂の本性によって自分に定められた駅
     (durch ihre Natur ihr vorgesteckter Stationen)

 ・魂は自身を経験し尽くすことによって、自分がなんであるかについての知識を得る。   
  このように魂が自身を遍歴することが、魂を精神に純化する。

 ※意識は一足飛びに行くのではなく、一歩一歩進む。叙述もそれに従う。
   例えば対象意識を経験し尽くしたからといって、ただちに絶対知に至ることはできない。
 ※魂という言葉で何を言い表しているのか。
   魂=否定性を想起すれば、魂とは「間」とも言えるだろうか。
   意識と対象の間、意識と意識の間、対象と対象の間、実体と実体の間。
  
(第5節終わり)
131考える名無しさん:03/12/17 07:08
スレ違いかもしれませんがコジェーヴの本をどうなんでしょうか?
ヘーゲル読解入門に最適ですか?
132 :03/12/17 17:17
本好きちゃんねるにもどうぞ

http://jbbs.shitaraba.com/movie/1973/
133marginal:03/12/17 21:49
●第6節(p.106-108)
現象する意識の全範囲に向かう懐疑論
(Der sich auf den ganzen Umfang des erscheinenden Bewusstseins richtende Skeptizismus)

  ・真理を吟味するとは、あらゆるものを疑うことでもある。
   だからこの道は懐疑の道(der Weg des _Zweifels_)である。 
   しかしこの道は絶望の道(der Weg der Verzweiflung)でもある。
   というのも、この道を行くことによって、自分が思い込んでいた真理は
   真理ではないと思い知らされ、絶望させられるからである。
   したがって、自然的意識にとってこの道は否定的な意義を持つ。
   つまり、自然的意識は自己を実在的な知と思い込んでいるが、
   さしあたりつかまれているこの概念を実現してゆくことは、自分自身を喪失することになる。
   要するに、懐疑の道は絶望の道なのである。懐疑は現象するものすべてに向かう。
 
  ・懐疑するに際して、自分にしか従わないという決意があるが、
   決意を持つだけでは十分ではない。決意を実行に移さなくてはならない。

 ※自然的意識は自分こそが真理であると思い込んでいるが、そうではないと知り絶望し、
   ではあれこそが真理であると確信するが、それにも絶望し、という困難な行程を経なければ
   学的意識に到達できない。
 ※ヘーゲルは、精神の概念を自分で掴むまでに、幾度も絶望した経験があったのかもしれない。

(第6節終わり)
134marginal:03/12/17 22:51
>>131
その著作は私も持っています。
全部読んではいませんが、拾い読みでも教えられることが多いです。
しかし、きちんと読んでいないので確かなことは言えません。
すいません。

↓に参考になるレスがあるかもしれません。
ヘーゲル研究者のみなさま!
ttp://academy2.2ch.net/test/read.cgi/philo/1013844825/
135ukki~:03/12/17 23:59
なんか懐かしいような・・・。
むか〜し読んでたような・・・。また読むかな・・・。
136marginal:03/12/18 22:37
●第7節(p.108-109)
どのように進行するか―――否定の機能

■現象する連関の必然性
  ・真でない意識の諸形態が網羅されて初めて、真なる意識に到達できる。
   連関の必然性と進行の必然性がその完全性を保障する。
   懐疑の運動が進行をもたらす。しかし通常の懐疑ではいけない。

■懐疑論批判
  ・通常の懐疑の運動は結果に純粋な無しか見ない。
   新しいものが現れても、空虚な深淵(Abgrund)に投げ込んで終わる。
   自然的な懐疑の運動は無や空虚へ抽象をするだけで、単に否定的な運動に終わる。
   この意識は一面的であるが、しかしこの無をこそよく考えなくてはならない。
   そうすれば懐疑の運動が一面的でないことが分るはずだ。

■規定された否定
  ・結果における無はこう捉えられる。
      <そこから帰結したものの>無(das Nichts _dessen_ , _woraus es resultiert_)
      そこから由来したものの無(das Nichts dessen, woraus es herkoemmt)
   この場合の無は、規定された無であり内容を持っているのである。(※無は「何かの」無である。)
   懐疑の運動における否定も<規定された>否定(_bestimmte_ Negation)と捉えられる。(※限定的な否定?)
   規定された否定において新たな形式が生じる。
   否定の中で移行がなされている。

 ※規定された無とはどういうものか。台紙に形を書く。それをくり抜く。中の台紙は無くなるが形はある。
   こうイメージされるだろうか。
 ※規定された否定において新たな形式が生じるとは理解しづらい。
   後述されるのかもしれないが、止揚の機能も想起しておきたい。
 ※絶望を無と捉えれば、進行は空虚の深淵に没落することが不可避であるとも言えると思う。

(第7節終わり)
137marginal:03/12/18 22:58
【メモ】

自然的な意識は自覚的に懐疑の運動を行うわけではないだろう。
なにやらわけが分らず絶望するばかりだ。実はその運動において
高次の意識になっていることもあるが、当の意識は自覚できない。
だから懐疑の本来の機能は学的意識、絶対知、われわれから
見て初めて分ることだ。
ではなぜ自然的意識が知らずにも懐疑の運動をし、進行するか
といえば、この意識自身も潜在的には実体(精神)であり、この
全体性が自己を回復しようと意識にせまるからではないだろうか。
138marginal:03/12/20 23:44
●第8節(p.109-110)
真理―――理性の暴力

■意識の運動には目標がある
  ・どこに目標(Ziel, Goal)を定めるか
      知がこれ以上自分を越えて出る必要がないところ=知が自分自身を見出すところ
       (※→知が自己に環帰し、自己意識的になるところ)
      概念が対象に一致し、対象が概念に一致するところ
   ここに至るまで運動は止まらない。なぜ運動し止まらないか。 
   そのために、真理が自然的な意識にとってどういうものか、みてみよう。

■真理の胎動としての不安
  ・自然的意識にとって真理は怖れや不安を感じさせる。
   真理が現状に満足を与えず、安寧を打ち破るからである。
   真理は暴力的でもあるのだ。
   意識にこうした圧力をかけるのは何か。理性である。
   意識が潜在的に理性であることが、意識を運動させ、
   このままではいけないと不安を与えもするのである。
   ところで、現状に満足している状態を制限されている状態とも言える。
   よって、意識が運動するとは制限を越えることでもある。

(続く)
139marginal:03/12/20 23:45
■意識は制限を越えて運動してゆく
  ・なぜ制限を乗り越えることができるか。
   制限とは意識自身が設定したものに他ならないからである。   
   制限を感じることは、意識のうちに見知らぬ彼岸を見出すことでもあり、
   乗り越えの始まりでもある。意識のこのような性格をヘーゲルは
   <意識は自分自身にとって自分の概念である>という命題で言い表している。

 ※「概念が対象に一致し、対象が概念に一致するところ」とは、
   前者は主観的な知が実在の対象を正しく言い表していること(?)、
   後者は対象とその本質との一致、といいうるのではないかと思うが、難しい。
   例えば小論理学(岩波文庫(下)p.145)に次の文章が見える。
   「これに反して、真理 〔真実態〕 とは、対象の自分自身との、すなわちその概念との一致である。」
   ヘーゲルにおける「概念」の思想はまだ謎だ。
 ※>>137での「実体(精神)」はこの場合「理性」に直したほうがいい。

(第8節終わり)
140marginal :03/12/20 23:48
ヘーゲルなんてたいしたことないよーーー
ぼくのほうがかしこいもんねーーー

消えろ僕チャン
141marginal:03/12/22 17:50
【メモ】

概念は静的でなく、自己へ還る弁証法的な運動をするものだった。
それにはまず、自己が自己に留まらず、制限を越えて他に移行
しなくてはならない。
意識もまた、対象意識から、自己意識、理性へと、自己の内部
(見知らぬ他=彼岸)に超出してゆく運動であると言えるだろう。
この点で意識は概念と同じ性質を持つことが分る。
意識の運動は、自分の概念=自己の本質態、つまり理性を目的とする。
理性が引き起こし手引きするこの運動は、したがって自分が自分に
帰着する運動でもある。
こういうことから、<意識は自分自身にとって自分の概念である>
という命題は、意識の本性と同時に弁証法の円環構造も表していると思う。
142marginal:03/12/24 04:32
●第9-13節(p.111-115)
尺度(Massstab)をめぐる問題―――意識の構造

■意識は尺度を持つか?(9)
  ・進行の必然性を実現(叙述)するにはどうしたらよいか、という問題を次にみてみよう。
   この叙述はこう考えられる。
      ・学と現象する知との関係
      ・認識の実在性(Realitaet des Erkennens)の吟味と研究

  ・ここで問題がある。吟味とは現象知と尺度を照らし合わせ、それが真であるかを
   確かめることだが、意識はその尺度を自分で持っているのかどうかという問題である。
   というのもここで尺度とは、本質(Wesen)・自体(An-sich)すなわち学(Wissenschaft)
   のことだから。つまり、意識にとって学は進行の成果として獲得されるはずなのに、
   そこへ至るための必要としてあらかじめ要求されてしまうということである。
   これを考えるために、まず意識における知と真の関係をはっきりさせよう。

(続く)
143marginal:03/12/24 04:35
■意識における二つの側面(10・11)
  ・意識における知と真の関係は、意識の持つ関係と区別の働きから説明される。
   われわれからみて意識の構造はこう言い表される。
      ・<意識は、或るものへ関係すると同時に、それを自分から区別する>
      ・(換言すると)或るものが、意識に向かって存在する。
       (es ist etwas _fuer dasselbe_)

  ・この構造には二つの側面がある。関係と区別という側面である。
      ・関係=== 或るものの、意識に向かっての存在 →知   
      ・関係の外= 或るものの、それ自体としての存在 →真理
       (他と関係している在り様から、それ自体であるという在り様を区別する。)

  ・こうして、知の真理を研究することはその自体を探ることだということが分る。
   しかしここでもまた問題が生じる。今みたことは、あくまでわれわれによる洞察
   なのだから、この自体は、われわれにとっての自体であることになってしまう
   という問題である。こうなると尺度はわれわれが持つにすぎず、当の意識は
   われわれの尺度を承認しなくともよいということになってしまう。
   ところがこの問題は仮象である。どういうことか次にみてみよう。

(続く)
144marginal:03/12/24 06:30
■意識は尺度を自分で持っている(12)
  ・われわれは、意識にわれわれの尺度を持ち込んだり、介入する必要はない。
   <意識は自分の尺度を自分に備えて持っている>からである。
   それは知(現象)と真(自体)、それらを区別することが意識の中にあることも意味する。
   したがって吟味とは<意識が自分を自分自身と比較すること>である。

  ・吟味とは<概念が対象に一致し、対象が概念に一致する>ことを探ることでもある。   
      ・概念と対象の一致 → 概念(知)、対象(本質=真)     
      ・対象と概念の一致 → 対象(他に向かってあるさま=知)、概念(本質=自体)
        → 概念(知・真)、対象(真・知)
       ※→ 真なるもの(概念・対象)
   ヘーゲルはこう述べる。<概念と対象、あるいは対他存在と自体存在
   (Fuer-ein-anderes- und An-sich-selbst-sein)がわれわれの研究する知自身に属している> 
   <意識が自分を自分自身と比較すること>ができるのはこのためである。
   ※概念と対象、対他存在と自体存在はそれぞれ同じものの両面を表している。
     真なるものは意識において、二つの側面をともなって現れる。
    
  ・しかしここで注意しておきたいことは、意識が尺度とするものは、自己の内部で
   自体すなわち真なるものと「意識が表明するもの」だということである。
   だがその前に、知と対象の運動、意識の真なる在り方についてみることにしたい。
   その過程で、ここで注意したことが尺度自身の吟味の問題となると思うからである。

(続く)
145marginal:03/12/24 06:36
>>144訂正】
その過程で、ここで注意したことが尺度自身の吟味の問題となると思うからである。
                    ↓
その過程で、ここで注意したことが尺度自身の吟味の問題として関わると思うからである。
146考える名無しさん:03/12/24 07:20
竹田けしいね
147marginal:03/12/24 11:52
■知の吟味は尺度の吟味でもある(13)
  ・われわれは意識の運動に介入しない。意識が自分で吟味するからである。
   われわれは意識の運動を眺める(zusehen)だけである。
   意識の運動は関係と区別という二つの作用に基づく。これが知と真を区別する。
   意識の自己吟味・比較はこれらが意識に属しているから可能だった。
   このような意識の構造を、ヘーゲルは端的に以下の命題で表す。
      ・<意識は自分にとって真なるものであるものの意識であり、それについての自分の知の意識である>
      ・<意識は一方で対象の意識であり、他方で自分自身の意識である>
        →対象意識と自己意識を意識すること(※理性)によって比較が成立する。

  ・対象意識が対象に関係し、自己意識がその関係から自己を引き離し、
   対象についての知を確保する。そして理性が知と自体を比較する。
   こう言えるかもしれない。
   ところでしかし、この自体は意識にとって、永続的に吟味の尺度
   足りうる自体として、はじめから客観的に存続しているのか。
   そのために、比較が一致しない場合を考えてみよう。

(続く)
148marginal:03/12/24 11:53
  ・不一致が結果したとき、知を対象に合わせなければならないと普通
   考えられるだろう。しかし知を変えようとすると、あることが起きる。
   知にとっての対象も変わるのである。というのは、知は対象の知で
   あり、対象は知に属しているからである。(※知と対象は同じものの両面である)
   
  ・対象が変わるということは、自体が変わるということでもある(?)。
   不変の自体と考えられていたものが変わってしまうということは、
   自体がそもそも自体ではなかったということだ。 
   意識が自体だと思い込み、そう表明もしていたそもそもの自体は
   <意識にとっての>自体にすぎなかったのである。
   つまり、知が変わるとき、対象と同時に吟味の尺度も変わる。
   要するに、吟味は知の吟味であると同時に、尺度(自体)の吟味
   でもあるのだ。

 ※このあたりは意識の経験の内実を説明しているところで、とても重要なところだ。
   しかし自分にとってとても難しくもある。もっとうまい説明の仕方があると思う。
  
(●第9-13節終わり)
149考える名無しさん:03/12/24 16:24
あげ
150marginal:03/12/27 07:50
●第14-17節(p.115-119)
経験は本質的に弁証法的である―――意識の経験の学

■自体の変化としての経験(14)
  ・意識は或るものを知り、この対象を真なる自体と思い込む。
   しかしこの自体は意識にとっての自体にすぎないことが判明する。
   ここに二つの対象があることになる。
      a.最初の自体
      b.この自体の意識にとってのあり方

  ・しかしbの自体は一見こう見えるだろう。
      ・意識の自分自身への反省=最初の自体についての知の表象されたあり方
   つまりbは意識におけるaの知にすぎず、結局一つの対象しかないように見えるかもしれない。

  ・しかし反省という自覚の作用は、対象を変えるのである。
   こうしてbが意識の新しい対象となる。ところでbはaを否定した成果である。
   ここにaからbへの、否定における移行が成立している。
   この運動がヘーゲルの言う「経験(Erfahrung, Experience)」である。
   
  ・以上のことをヘーゲルはこう述べる。
   <意識が自分自身において、意識の知についても対象についても行う
     こうした弁証法的運動は、そこから意識にとって新しい真なる対象が
     生じる限りで、経験と呼ばれるものと本質的に同じものである。>

(続く)
151marginal:03/12/27 07:56
■日常的経験と哲学的経験(15)
  ・このような経験は日常的な経験と異なるだろうか。同じである。
   日常的意識にはみえず、学的意識にはみえていることが違いを仮象させている。
   日常的意識にみえないのは意識の背後で起こっている運動である。
   
  ・経験の運動とは、第一の対象の知、すなわち最初の自体の意識にとってのあり方が
   第二の対象になり、それにともない意識も第一のものとは異なるものを自体とする
   新たな形態が登場するという懐疑の運動である。
   日常的意識にとってこの運動は、外的・偶然的になされる(ようにみえる)。
   (※気づいたら新たな対象と関係している。)
   学的意識は、こうした意識の背後で行われる生成の必然的な運動の形式をみるのである。
   意識にとっては対象が結果として現れるにすぎない。が、内容を経験する。

■意識のExistenzとしてのあり方―――絶対知(16・17)
  ・こうした弁証法的運動が叙述・進行を必然的にしている。
   われわれからすると、その形式の必然性により、学への道自身がすでに学となっていると分る。
   その内容が意識の経験の学である。

  ・意識が自分自身について経験することで、「意識の体系全体」、「精神の真理の国全体」が現れる。
   しかしそれらは<意識にとって>のあり様で現れる。
   意識もまた、全体の諸契機が意識にとってあるとき、さまざまな形態をとる。 

  ・進行の到達点において、意識はその真なるExistenz(存在、実存)となっている。
   そこでは、他としての異質なものとともにある、という仮象の在り方を止める。
   現象は本質に一致し、叙述は精神の本来の学(※論理学)の立場に一致する。
   意識自身がこうした自分の本質を捉えることによって、意識は絶対知そのものの性質を示す。
   
 ※「経験」はBaillieの英訳ではExperienceのようだが、体験(Erlebnis, Experience)ではない。
   経験が意識に新たな考え、新たなものが生じることを含意するからということもある思う。
 ※弁証法的経験とは、意識の見知らぬもの(自体)を切り開き、自分のものにしてゆく運動でもあるだろう。
  
(第14-17節終わり)
152marginal:03/12/27 07:57
以上で緒論(Einleitung)は終わりです。
153考える名無しさん:03/12/27 08:18


ついに緒論(Einleitung)読了か
                    ∧_∧
             ∧_∧  (´<_`  ) 流石だよなmarginal
             ( ´_ゝ`) /   ⌒i  
            /   \     | |  つーか、いつも楽しみにしてます。
            /    / ̄ ̄ ̄ ̄/ |  ありがとう。
          __(__ニつ/  FMV  / .| .|____
              \/____/ (u ⊃

   
154marginal:03/12/28 04:41
【緒論(Einleitung)のまとめ】

緒論はヘーゲルの認識論と真理観が叙述されていると思う。
理解しきれていない部分もあるが、緒論で思い浮かぶことを
自分なりにまとめてみたい。

真理はすでにわれわれのもとにある。われわれは認識においてすでに真理に触れている。
それが「意識にとって」ある姿であれ、そうである。だから意識は真理と自分を区別し、
真理から自己を引き離そうとする必要は無く、またそもそもそういう状態に自らを制限
したままで満足もしない。意識は本質的に運動であり、理性だからである。
区別と制限は不必要だろうか?しかし区別と制限があるからこそ移行の運動も可能である。
また、意識に関係している側面から自体を区別するためにも必要な作用でもある。
関係と区別を駆使し、吟味を司るのは理性である。これは意識にとって明示的・自覚的
ではないが、理性は意識の本質態として意識の背後で働いている。

真理の意識にとってある姿は、その自体に一致しなければならない。ここへ至る運動が
意識の経験の学である。それは懐疑の運動である。そこに働く否定の本質的な役割が
移行を可能にする。「規定された(限定的な)否定」がそれである。これにより懐疑は
対象を全的に無にするのではなく、無を元の対象の限定的な無として捉え、これにおいて
新たな対象へ移行させる運動である。
つまり真理と思い込んでいた自体が意識にとっての自体にすぎなかったことが反省的に
自覚され、今度はその意識にとっての自体が対象になる。それに応じて尺度としての自体
も変更され、意識の形態も変化するのである。これが新たなものを生成する経験である。

意識の経験の行程は決して平坦で楽な道行きではない。意識は根底的に不安に貫かれ
ており、その一歩一歩は絶望を深める歩みである。冷徹な理性の唱道者としてのヘーゲル
というイメージとは異なる一面をここに見ることができるかもしれない。
実存主義的なヘーゲルである。

ここで説明された方法論が精神現象学全体に徹底されて
いるかは分らないが、意識の本性としてこのような面を
持つことをヘーゲルが考えていたことは確かだろう。
155へーげりあん:03/12/28 16:16
ようやく一区切りつきましたね。お疲れ様です。
まともにヘーゲルを読んだこともないのに、ヘーゲルを
簡単に跳び越えていけると勘違いしている(哲学科)学生が多いなかでの
marginalさんの試み、いつも好意的に拝見させて頂いております。
大変でしょうが、これからも「概念の労苦」を実践してください。


156marginal:03/12/28 19:31
みなさんありがとうございます。
157marginal:03/12/29 05:04
【「魂(Seele)」についてのメモ】

Seele ゼーレ(Soul); 心、精神; 魂、霊魂

<魂は、自分を隅々まで経験することによって精神へ純化される>(第5節)
魂は自分を経験する。精神は魂が純化されたものである。しかしこうも言っている。
<意識の自分についての経験は、自分の内に精神の真理の国全体を含む>(第16節)
経験するのは意識なのかSeeleなのか。だがそもそもSeeleは意識と同じものではないのか。
それとも異なるのだろうか。ここでヘーゲルの言う「Seele」とは何だろうか。

手がかりをエンチクロぺディー(以下「エンチ」)の「精神哲学」にみる事ができると思う。
エンチは「論理学」・「自然哲学」・「精神哲学」の体系である。
精神哲学は「主観的精神」・「客観的精神」・「絶対的精神」に分節される。
さらに主観的精神は「Seele(魂・心)」・「意識」・「精神」に分かれる。
エンチでは、あることがらが概念として「どのように真なる姿であるか」
とともに、「どこに位置するか」も本質的な課題である。真理において概念は、
それに相応しい必然的な場所を占めるはずだからである。
主観的精神の構成を見ると、Seeleは意識の前に置かれている。
すなわちSeeleとは前-意識的な何かである。他方、意識はSeeleが止揚された成果である。
同じだが、意識はSeeleを止揚された存在として自分のうちに保持している。

(続く)
158marginal:03/12/29 05:07
したがって経験するのは意識でもあり魂でもある。端的に言って同じものであるが、
止揚において区別されてもいる。しかしなぜSeeleという言葉を使用したかの説明
にはなっていない。エンチをみてみよう。Seeleもまた三つに規定されている。
「自然的なSeele」・「感じるSeele」・「現実的なSeele」である。けれども、
それ全体としては果たして何か。「意識」だろうか。ヘーゲルはこうも言っている。

  「しかしこのなお抽象的な規定においては心は単に精神の睡眠にすぎない、
   いいかえれば可能性の方からみてすべてのものであるところのアリストテレスの
   受動的なヌース(nous)である。」 (「精神哲学(上)」p.68 岩波文庫)
 
Seeleは意識より低次であるが、他方で遡行的にまさに精神として、ある側面で何か
意識より高次なものでさえあるとは言えないだろうか。こういうことからヘーゲルが
第5節でSeeleという言葉を使用したのは、想像に過ぎないが、経験の概念をより
根源から規定したかったことによるのではないかと思う。
第16節では、「意識の」経験の学の方法論をまとめとして説明するために、Seele
を使わなかったのだろう。

ところで随伴的に生じる問題がある。精神とはアリストテレスが捉えたヌースであると
ヘーゲルは言っているようにみえる。それならヘーゲルは精神ではなくヌースという
概念をそのまま使えばよかったはずだ。だがそうではなかった。そこにはきっと精神と
ヌースを隔てる分水嶺あるはずである。それは何かという問題である。
しかしそれについては後回しにせざるをえない。
159marginal:03/12/29 05:21
【付言】

<魂は、自分を隅々まで経験することによって精神へ純化される>
<意識の自分についての経験は、自分の内に精神の真理の国全体を含む>
この二つの命題はこう言い換えられないだろうか。
<意識が自分のすべてを経験することによって、自己が含む(保持する)魂が精神に純化されてゆく>
160marginal:03/12/30 18:43
『精神現象学』の本論に入る。「意識」の部門は次の三つである。

I. 感覚的確信、あるいは「これ」と「思い込み」
  (Die sinnliche Gewissheit; oder das Diese und das Meinen)
II. 知覚、あるいは物と錯覚
  (Die Wahrnehmung; oder das Ding, und die Taeuschung)
III. 力と悟性、現象と超感覚的世界
  (Kraft und Verstand, Erscheinung und uebersinnliche Welt)
  
「I. 感覚的確信」の章は全21段落で構成されている。
161marginal:04/01/03 23:43
そろそろ続きをやろうと思います。
なまった頭をまず覚まさねばなりませんので、
時間が空くと思いますが、へばらない限り続けます。
あと、本論の要約の仕方についてアドバイスも募ります。
一端上げさせてください。
162marginal:04/01/07 01:42
■■■ I. 感覚的確信 ■■■

●第1-3節(p.122-124)
われわれからみた感覚的確信―――「直接的なもの」とは何か

■直接的なものをいかに相手にするか(1)
 ・われわれの最初の対象
     ・直接的な知
     ・直接的なものの知、すなわち存在しているものの知
      (_Wissen_ des _Unmittelbaren_ oder _Seienden_)
      ※自分についての知ではない。

 ・われわれに求められる態度
     ・直接的に、すなわち受容的に(aufnehmend)振舞うこと
     ・受容的とは、現れるものに変更を加えないこと、
      把握から概念を遠ざけておくこと 

(続く)
163marginal:04/01/07 01:43
■感覚的確信の見かけと実際(2)
 ・感覚的確信はこう思われる
     ・最も豊かな認識、無限な豊かさを持った認識
     ・空間と時間に関して、外へ行っても内へ分割して行っても無限。
     ・最も真なるもの。対象から何も取り去らず、そのままの全体を捉えるから。
     
 ・実際の感覚的確信
     ・最も抽象的で貧しいもの
     ・感覚的確信が真理と思っているのは「存在」・「純粋な自我」
       →自我も対象も純粋な「これ」
        「多様な関係が内在している物」ではない 
     ・感覚的確信の真理=物が「存在する」という単純な直接性  
                   純粋な「これ」としての自我
     ・個別(純粋な自我=これ)が個別(純粋な存在者=これ)を知るという関係

(続く)
164考える名無しさん:04/01/07 01:44
     ┌───―───┐
     |  じ      し|
     |   ゃ  人   ょ|
     |  な  生  ぼ|
     |  い      ん|
     |   か        と |
  ショボーン    オシイ…   す|ショボボーン
  ∧_Λ   ∧_,∧  る|∧_∧
 ( ´・ω・)   (´・ω・`) の|(・ω・` )
 (つ旦と)   ( ∩ ∩ ) も|O旦と )
 と_)_)───────┘(_(_ろ
165marginal:04/01/07 01:45
■感覚的確信は無媒介ではない(3)
 ・感覚的確信における主な区別
     ・自我としての「この人」と対象としての「このもの」
       →この確信においては、相互に直接的(無媒介)であるだけでなく同時に媒介されてもいる。
     ・自我は他すなわち物によってこの確信を持つ。
      物も他すなわち自我によって確信される。
      この媒介において確信が成り立っている。   

 ※知の行程にとって感覚的確信は始まりであり、目標地点でもある。
   したがってここで言われていることは、絶対知のありようの一面でもある。
   すなわち絶対知は、あるもの全体をそのまま受容的に把握する最も豊かな認識である。
   「存在」を相手にする認識であり、論理学のエレメントである。
   論理学は「存在(Sein)」から始まる。
  
(第1-3節終わり)
166考える名無しさん:04/01/09 19:23
感覚的確信は最も豊かな認識、無限な豊かさを持った認識「だが」、実際は
最も抽象的で貧しいもので、有るということだけしか言わない。

有るということだけしか言わない感覚的確信は直接的(無媒介)「だが」、
同時に媒介されてもいる。

第1-3節のごちゃごちゃした展開を大雑把にまとめるとこんな感じでいい?
167marginal:04/01/09 20:07
>>166
いいのではないでしょうか。付けたすことができるとすれば、これでどうでしょう。

感覚的確信は最も豊かな認識、無限な豊かさを持った認識だと「意識は思い込んでいる」が、
「われわれからみれば」、意識に初めて現れた現段階では、感覚的確信の実際は
有るということだけしか言わない最も抽象的で貧しいものであると分る。

【メモ】
第1-3節ではわれわれの見方(自体・真理)をすでに述べてしまっているが、
これらの洞察はあくまでわれわれのものであり、また展開されておらず断言にすぎない。
だから次節からは、実際に意識がこの確信を経験していくことにより、
感覚的確信の真理が当の意識に明らかになる、その運動が叙述される。





168考える名無しさん:04/01/10 00:53
>>167
単なるヴァリエイションでなく視点の水準の違いということですか。

>【メモ】
特に第3節のヘーゲルの論理の進め方はかなりいい加減という印象だったけど
そういうことですか。
何回読んでも分からない時は見切りをつけて先に進むっす。
169考える名無しさん:04/01/10 01:09
概念が対象をも含んだ実在でありうるかどうか、対象の像を含んではいるが
どこまでいっても対象とは異なるもんじゃないだろうか?
170marginal:04/01/10 01:28
>>168
私一人では時間がかかりますので、
要約したいときはどうぞおっしゃって下さい。

>>169
当然出てくる疑問だと私も思います。私はまだ
ヘーゲルの「概念」とは何か、「概念」と言う言葉で
何を言おうとしているのかはっきりとしません。

私は最近この板にきたのですが、ここではヘーゲル
に関してはマルクススレのOFWさんが詳しいようですね。
機会があればOFWさんに聞かれるのもいいかもしれません。
171constellation:04/01/10 03:17
私はこのあたりで「もまた」で引っかかった。

「神は死んだ」という言葉が、「精神現象学」で出てくる。これはニーチェを先取りしている。「良心」もハイデガーより百年も前に出てくる。なんだかんだ言ってヘーゲル以後の人間は、釈迦の両手の中を右往左往する孫悟空のようなものだ。

「意識」「自己意識」…「絶対知」まで行ったら、当然次は「大論理学」を頼む。
172marginal:04/01/10 05:25
●第4-11節(p.124-129)
感覚的確信についての意識の経験(1)―――対象の側面

■意識の最初の思い込み(4・5)
 ・対象=単純で直接的な存在者、本質
  自我=他に拠って存在するもの、媒介されたもの、非本質的なもの
       対象があることによってのみ対象を知る知
       あることもないこともありうる知

 ※感覚的確信はまず対象を真とみなす。自分が個別的に確信しているもの
  こそが真である。しかしこの対象そのものの本性を見なくてはならない。

(続く)
173marginal:04/01/10 05:29
■対象の実際―――「このもの」とは何か(6-9)
 ・意識は個別的な対象を「このもの」として確信する。
     「このもの」はすでに純粋ではない。二つのあり方が付きまとっている。
     「今」と「ここ」である。
 
 ・「今」とは何か。
     今は「否定的なもの一般」、「媒介されたもの」、「普遍的なもの(ein Allgemeines)」
     として持続している。すなわち「今」は昼ではない、夜ではないというように他の否定
     により媒介されている。「ない」によって維持される否定的なもの。昼や夜でありながら
     同時にそれらではないもの、夜や昼などの特殊に無関心な(gleichgueltig)もの
     =単純なもの、普遍的なもの。
 
 ・「ここ」とは何か。
     「ここ」も「今」と同様に木であり家でもありながら同時にそれらではない、というように
     否定によって維持される単純なもの、普遍的なものである。
 
 ・言語の本性
     人は感覚的に確信している個別的なことを、「そのまま」言い表すことはできない。
     言語はそもそも普遍的だから。感覚的で個別的な思い込みを言語に移すと、
     個別性は霧消せざるをえない。
 
 ※対象のあり方をみても言語をみても普遍である。従って個別的な対象を
   真とみなしていた確信は修正を迫られる。

(続く)
174marginal:04/01/10 05:39
■最初の思い込みの崩壊―――対象から自我へ(10-11)
 ・明らかになったこと
     ・感覚的確信の対象の真のあり方は普遍であること。
     ・この確信は「純粋な存在」を本質とするが、これは本質的に否定・媒介により
      成立していること。すなわち本来「存在」は純粋でなく媒介されたものであり、
      従って感覚的確信における「純粋な存在」は、そのように抽象され規定された
      一面的なもの。 

 ・知と対象の関係の逆転
     ・「個別的な」対象を真とする意識の思い込みは維持されえなくなる。
      しかし意識は個別性を生き延びさせようとして、最初の思い込みを逆転してみる。

     ・対象=非本質的、自我=本質
       →対象は「私の」対象である、自我が対象を知るからこそ対象が存在するのだ、
         という思い込みに意識は移行する。ただしこの確信は根本的に対象を真とみる
         のは変わらない。そもそも対象意識だから。
       ※対象の個別性を「私」の個別性として救い、「私の思い込み」の内で
         その個別性を維持しようとする。
 
 ※自我はまず感覚的・個別的に「このもの」として確信する対象に全面的に
  依存する。自我は対象を介してのみ存在しうる。しかし個別的ではなく
  普遍的なものが感覚的確信の真理である。そこで意識は自分の内へ引き返し
  私性において対象の個別性を維持しようとする。対象は自我を介してのみ
  存在しうる、これが次に経験される。

 ※言語の普遍性について述べていることは興味深い。自分が発見した大事な
   ことを他人に言ったりすると、何か気の抜けたものになってしまうという体験は、
   こういったことにも基づくのではないかと思う。

(第4-11節終わり)
175考える名無しさん:04/01/10 09:11
マルクススレのカキコでこのスレ知りました。
継続的な努力に敬意を表します。
漏れはヘーゲル用語に無知なので
長谷川訳でないと何が書いてあるのか全然わからんというレベルです。

序文については、(先に書かれた)緒論と理論的立場の
違いというか変更があるようで、
どっちを重視するかでこの本の評価が変わってくるようです。

竹田青ジが精神現象学について長編の評論書いてるので
竹田信者にも本体を読んでほしいところですな。
176考える名無しさん:04/01/10 21:44
あんさん(marginal)は、まず全体を読んでから部分を要約しているの?
それとも全体を読まずに最初から順番に要約しているの?
dotch?
177marginal:04/01/10 21:57
>>176
最初に全体を流し読みします。そこで節のまとまりが
見えればそのように要約します。その際翻訳の目次や
見出しの付け方などに多くを負っています。見通しが
もてないときや、余裕の無いときは一節ずつ要約します。
ですので節のまとめ方厳密ではありません。
各人の読みのたたき台にでもなれば良いと思っています。
178考える名無しさん:04/01/11 06:17
>177
I see.
ところでなぜヘーゲル?
なぜ大論理学でなくて精神減少額?
現代においてヘーゲル図機なんて珍しい
179marginal:04/01/11 06:55
>>178
学生の頃、面白い講義を受けたのがきっかけです。
興味が再発してきました。ある記憶の供養もあります。
大論理学はとっつきにくかったからです。
自分のことはあまり語りたくないのでこれくらいでご勘弁を。
180考える名無しさん:04/01/11 07:41
いかなる時代においてもヘーゲル研究者はリスペクト対象です。
性欲をもてあます。(*´Д`;)ハアハアmarginalサン ガンバッテ
181考える名無しさん:04/01/11 08:53
カントやヘーゲルの内観を、最近の認知科学?的観点から読むと面白い。
流し読み、というよりスキップ読みなんですが。特に原語で読むと本当に腑に落ちる。
内観のキレからいうと、カントが上のような気がしますが、やはり体系的なヘーゲルが魅力。

182考える名無しさん:04/01/11 10:26
>>179
「自分のことはあまり語りたくないのでこれくらいでご勘弁を」
気に入った
君は出世するよ
出世できなかっても私が面倒を見よう
183考える名無しさん:04/01/11 10:30
>>181
おっと、すかしちまった
原語で読めるなんてすごいねぇ
出版された翻訳で読んでも「このおっさんは何の話をしとるんだ」とおもうのに
184考える名無しさん:04/01/11 11:51
>>183
確かに。ほんとに、ちんぷんかんぷん。
私のD語はうん十年まえの理系大学時代、飛び飛び、興味のところ参照の程度。
ひとつ言えるのは、漢字への誤訳が原因?たとえば、「absolut」は「絶対的な」。 
soluteはご承知のように、溶ける、解ける、融ける。 ab- は、否定、取り消し、〜からの分離、の接頭語。
ヘーゲルは、分かれていたものを一つに纏めてそのため自立できるような状態を指して使っている
ように思えます。
一方、漢字の「絶」は、白川静先生の象形文字由来の解釈では、織機にかけた
織りかけの糸群を切断する形だそうで、D語原義の一つに纏めるというベクトルと
逆方向の、切ってばらばらにする、ないしは切り離してしまう方向の意で
直感的に取ってしまいます。なにか、ヘーゲルの理解のキーポイントになるような
そんなに多くない基本語が、漢字訳より、原語(またはその語源)のほうが文脈
にもしっくりなじむように思います。
 D語で全文を読んでいらっしゃるMargさんがうらやましい。
185考える名無しさん:04/01/11 12:23
というより、No.181でいいたかったことは、ヘーゲルの内観は、認知科学のこれからの時代、おおいに
役に立つ、それをいいたかった。現象学はもっとも興味があるのに手が回らずぜんぜん読んでいません。
Margさんよろしく。できれば原語が添えてある語をもう少し増やしていただくと有難いです。
186考える名無しさん:04/01/11 12:30
認知科学ってなんどぅああああああ
187考える名無しさん:04/01/11 12:36
>>186
お願い、ググッてちょう。それから「認知革命」も。ほんとにごめん。
188ねこゆき:04/01/11 13:06
>>166です。このスレも大盛況なのでこれからはおれもコテハンでいきますです。
緻密なまとめはMarginalさん以上のものはなかなか考えられないから、オレは
それを頼りに読んで、読解で個人的にてこずったり気になった部分だけカキコミ
しようかなと。
189考える名無しさん:04/01/11 13:15
今日は4-5節とその前後の関わりだけ。後は明日。
「確信のなかに在る通りの形式」(樫山訳)に従って、「実例」Beispielsが「傍らにた
わむれる」。この諸実例のたわむれは媒介的ということからして、一方的な視点によ
って「区別」されたわけではなく、「確信のなかに在る通りの形式で受け取らなければ
ならない」。
以上から、真の有り様を反省的に追求するのではなく(何であるべきか?と問わず)、
有る通りの対象を考察すべきという立場(このものは何か?)が言われる(5節終わり
から6節最初)、

なんかさ、オレは区別がちゃんと区別できなないかも。
「区別はお前が区別するものではない」という突っ込みはなしね。
190ねこゆき:04/01/11 13:16
あ、>>189はオレ
191考える名無しさん:04/01/12 00:23
>>189
もう少し分かりやすく言ってくれ代々木
192考える名無しさん:04/01/12 11:42
marginal寝るな!
寝たら死ぬぞ!
193marginal:04/01/12 12:16
●第12-13節(p.129-130)
感覚的確信についての意識の経験(2)―――自我の側面

■「私(Ich, I)」の弁証法(12・13)
 ・感覚的確信は、真と思い込んでいる個別的な対象を「私・自我」の個別性において維持しようとする。
  どのように維持するか。
  
 ・「私」が「このもの」の個別性を保つのは、特に「私が見るという直接性(Unmitteibarkeit meines Sehens)」
  においてである。「私」が堅持(festhalten)するから「今・ここ」があり「このもの」がある。
  (※「この私」が「今ここで」これを見ているのだから「これ」は存在する。)
  しかしこの「個別的な私」も「今・ここ」と同様の弁証法を経験する。  

 ・「私」は「ここ」として木を見る。しかし他方で(※他人の?自分の?)「私」は「ここ」として家を見る。
  両者の「私」の確信は同様の効力を持つ。だから(一つの)「私」が「家」を見ると同時に「木」を見る
  ということになる。これは本来成立しないはずだ。個別的な私は一つのものを見ているはずだから。
  従って両者の(個別的な)「私」は互いに消失する(die eine verschwindet aber in der anderen)。
  
(続く)
194marginal:04/01/12 12:16
 ・しかしこの経験において残るものがある。「普遍的なものとしての私(Ich, als Allgemeines)」である。
  これは木や家という具体的なものを見るのでない。「単純な見ること(ein einfaches Sehen)」である。
  普遍的な今・ここと同様、具体的なもの(木を見る・家を見るなど)に無関心なものであり、
  具体的なことの否定=媒介によって自己を保つものである。

 ・「私」という言葉についても同様だ。人は「私」と言う言葉で「この私」という個別的なものを
  思い込んでいるが、「私」という言葉は「全ての私」に妥当しているのである。
  人が思い込んでいる個別的なものをそれとして言葉で表すのは不可能だ。
  
※感覚的確信は自我の側に引き返し、対象の個別性を維持しようと思ったが、成功しない。
 そもそも言語を使う人間は、個別的な私をも言い表せないから。
 次節からはいよいよ感覚的確信の全体としてのあり方が経験され、知覚への道が開かれる。 

※「普遍的な私」という言葉になじめない。カントの「統覚」みたいなものだろうか。
  ヘーゲルにとっては、言語によって表されるものが全てで、表されえないものは存在しない
  (とみなされる)のだろうか。
 
(第12-13節終わり)
195ねこゆき:04/01/12 19:26
>>173(marginalさん )、および>>191
>「今」とは何か。
これは、『「今とは何か」という問いの弁証法』
とした方がいいかも
(「ここ」も同様に)
>■対象の実際
という形で既に対象を設定しているわけだし、その後のmarginalさんのまと
めの内容は「このもの自身」ではなく「このものが自分でもっている弁証法」
の経験(経験という言葉は12節から取ってきた)になってるわけだけど、「今」
という表記だとこの「実際」は「このもの自身」のことだと勘違いされやすい
し、そうなると話は逆方向に逝っちゃう。
196marginal:04/01/12 20:16
>>195
大まかに言って、「このもの自身」とそれに付きまとう実例
(私・このもの、今・ここ、それらの弁証法)を区別して記述せよ、
ということですね。気を付けます。
197考える名無しさん:04/01/13 02:02
「私は」と発語したとき、「私」という言葉は生きているが、「自我一般」というような
普遍抽象的な捉え方になると、すでに生きた感じがしませんね。ヘーゲルの感覚は逆なんだろうけど。
198ねこゆき:04/01/13 21:29
>>196
marginalさんは当たり前のようにヘーゲルの論理に馴染んでるようですが、
普通はそうはいかないです。
オレは話が移動したり逆転したりというところを意識的に自分に言い聞か
せながらじゃないと全然読めないですよ。
で、ちょっとそのへん整理してみたけど。

(6−9節)対象という本質の傍らに「今」「ここ」という実例がたわむれた。

(10−11節)先の「今」「ここ」という実例のたわむれを通して、始めは実例
だった自我は逆転して本質(思いこみ)になった。

(12−13節)自我の本質(思いこみ)の傍らに「私」という実例がたわむれた
(6−9節の経験を自我において反復)
199marginal:04/01/14 02:58
次まで少し時間が空きそうです。
ヘーゲルに関するサイトへのリンクを張ります。
他にご存知でしたら教えて下さると助かります。

自主ゼミのヘーゲル研究会で『精神現象学』(長谷川訳)
の要約をなされています。
Welcome to T. Shioda's Homepage
www.waseda.jp/sem-shioda01/

『大論理学』の読書ノートを作成されています。
ORION
www.sanynet.ne.jp/~norio-n/

ヘーゲルの著作の英訳などがあります。
Readings in Modern Philosophy
www.class.uidaho.edu/mickelsen/readings.htm

MIA Hegel Resource from Andy Blunden
www.marxists.org/reference/archive/hegel/index.htm

ヘーゲルの体系を視覚的にまとめています(ドイツ語)。
hegel : hegel-system
//hegel-system.com/index.htm
200marginal:04/01/14 03:03
>>198
>意識的に自分に言い聞かせながら
私も同じですよ。足りないところは
どうぞ補完してください。
201考える名無しさん:04/01/14 13:02
それはそうとあんさん(marginal)の思想の根幹は何なのよ
相対主義?絶対主義?
実存主義?あるいは他のもの?
202marginal:04/01/16 01:32
●第14-16節(p.130-132)
感覚的確信についての意識の経験(3-1)―――この確信の全体

■われわれからみた全体的な感覚的確信
 ・意識はどうするか。(14)
     ・感覚的確信は「私(Ich)が思い込む(meinen)」ことにより「個別的な」対象・自我、
      直接性を維持しようとした。しかしともに非本質的なもの(Unwesentliches)であり、
      そのようなものは存続しない。意識は対象でも自我でも本質・直接性を保てない。

     ・そこで意識は次に「感覚的確信の全体(Ganze)」を本質とし、これにおいて直接性を堅持
      しようとする。その為、この全体からはどのような区別も締め出されることになる。
      それが感覚的確信全体としてのあり方となる。

 ・感覚的確信全体のあり方(15)
     ・従ってこの純粋な直接態(全体としての確信)は以下のようにある。
       ・<自我と対象の間に本質と非本質という区別が一切なされない自己同一的な関係であり、
         それゆえこの関係へ一般的にいかなる区別も入り込めない。>          
        (sich selbst gleichbleibende Beziehung, die zwischen dem Ich und dem Gegenstande
          keinen Unterschied der Wesentlichkeit und Unwesentlichkeit macht, und in die daher
         auch ueberhaupt kein Unterschied eindringen kann)
       ・私は<純粋な見つめること(reines Anschauen)>であり<一つの直接的な関係を堅持する>。
     
 ・自我は今は昼、ここは木などという「一つの関係」を思い込みのうちで維持する。
  他の私が何を思い込もうとそれらには関わらない。一つの関係を他と比較したりしない。
 
 ※感覚的確信の全体は、直接性を確保するために、一つの関係に自閉する。
  しかしこうなると意識の運動は止まってしまう。どうしたらよいか。

(続く)  
203marginal:04/01/16 01:36
 ・自我へわれわれがのりうつって(16)
     ・われわれ自身が一つの関係に自閉する自我へと歩いていって(hinzutreten)、
      この全体における直接性の真実を自我に示して(zeigen, show,point)やらねばならない。
      その為われわれは、この確実に知りつつある自我(Ich, welches das gewiss Wissende ist)
      と同じものにならなければならない。

 ※自閉した自我にわれわれ自身が出向いて行ってそれにのりうつり、当の自我に直接的な
   ものの真実を示してやることになる。先に意識の経験した直接的な「今・ここ」の弁証法の
   全体的な真実がわれわれの観点からまとめられ――それが同時に意識の経験にもなる、
   われわれ=当の自我になっているから――以下で叙述される。

 ※ここですでに、眺めるだけでよいというわれわれの態度は崩れているように見えるが、どうか。
   自閉していても潜在的な理性(われわれ)が運動を推進させると考えればよいだろうか。
204marginal:04/01/16 01:38
(第14-16節終わり)
205marginal:04/01/16 01:54
>>201
さしあたりヘーゲルを通じて養っていこうと思います。
206marginal:04/01/17 10:01
●第17-19節(p.132-134)
感覚的確信についての意識の経験(3-2)―――この確信の全体

■「今」の真実(17・18)
 ・「今」を「示す(zeigen)」行為
    ・われわれが自我に「今」そのものを示そうとする。この自我は直接的なものを真と
     思い込み堅持している。しかし今は常に「過ぎ去ったもの」としか示されない。
     「今」は直接的なものすなわちそれとしてそのままには示されえないのである。
  
 ・ここから分ること
    この行為にあるのは以下の経過(Verlauf ,Course)、<運動(Bewegung ,Movement,Process)>
    1)私は「今」を示し真理とするがそれを否定する。それは過ぎ去ったものだから。
    2)私は第二の真理として「今」は「過ぎ去ったもの・否定されたもの」と主張する。
    3)しかし第二の真理をも否定し最初の真理へと還る。過ぎ去ったものは存在しないから。

 ・これを形式的に言い直すと
    ・「このもの(Dieses)」の定立(setzen)される。だがむしろこれは「他者(Anderes)」の定立
      =「このもの」の否定である。そしてこの「他者」の否定により最初のものに還る。

(続く)
207marginal:04/01/17 10:06
 ・媒介という運動   
    ・「最初のもの」(直接的なもの)は「最初のものに還ったもの」(媒介されたもの)と同じではない。
     後者は<自己に還った(反省した)もの(_ein in sich Reflektiertes_)>、
     <他者の中にあっても存続する単純なもの(_Einfaches_, welches im Anderssein bleibt, was es ist )>である。  
    ※否定の否定の運動=より高次な自己を生成する自己内環帰、自覚

 ・「今」を「示す」行為から明らかになったこと    
    ・真の「今」=絶対的に多くの今である今(ein Itzt, welches absolut viele Itzt ist)
            今の数多性(Vielheit)をまとめた(zusammenfassen)結果(Resultat)
            普遍的なもの(Allgemeines)
    
 ※思い起こされること。ヘーゲル論理学は 存在論 - 本質論 - 概念論 と分かれている。
   <存在(Sein)- 本質(Wesen)- 概念(Begriff)>という連関は何を意味するか。
   文法の観点から考えてみたい。ドイツ語で「ある(sein ,be)」という動詞は sein - war - gewesen と変化する。
   すなわちこの場合、本質(Wesen)とは「あったもの」である。そしてそのように把握(begreifen)され、
   意識の内に保持されたものが「概念(Begiff)」ではないだろうか。
   (在る今 - 在った今 - これらが全体として把握・概念化された今)

(続く)
208marginal:04/01/17 10:11
■「ここ」の真実(19)
 ・「ここ」を「示す」行為から分ること
    ・「ここ」も「今」と同じく、その他者(上・下、右・左)を否定・媒介することで存続する。 
     「ここ」を「点(Punkt)」として考えても同じである。    
    
    ・真の「ここ」=多くのここの単純な複合体(eine einfache Komplexion vieler Hier)            
             否定的なここ(ein _negatives Dieses_)       
             普遍的なもの(Allgemeines)

 ※全体としての感覚的確信は区別を締め出し直接性を堅持しようとした。そのような本質として存続しうるか、
   われわれ自身が自我に示してやった。「今・ここ」が直接的でありうるかが示された。それは成立しない。
   この過程により意識は感覚的確信の真実を経験した。この確信は、直接的で個別的なものではなく、
   多くの他を自己に否定・媒介的に含む普遍的なものを相手にしていたのである。
 
 ※以下では意識の経験した感覚的なものの真実がわれわれによりまとめられ、意識の経験において新たに
   生成したものが確認される。それが知覚の対象になる。
 
(第17-19節終わり)
209marginal:04/01/17 10:20
>>208訂正】
    ・真の「ここ」=多くのここの単純な複合体(eine einfache Komplexion vieler Hier)            
             否定的なここ(ein _negatives Dieses_)       
             普遍的なもの(Allgemeines)
                 ↓
    ・真の「ここ」=多くのここの単純な複合体(eine einfache Komplexion vieler Hier)                
             普遍的なもの(Allgemeines)
210考える名無しさん:04/01/17 11:19
>>208
まさにそのようにして腑に落ちていました。Verstand(悟性)、Existenz(実存)、
Wirklichkeit(現実性)、Erscheinung(現象)、Urteil(判断)、、、、、、。そして各文での文脈。
Wesenに限らず、何か、ゼンテツもふくめて、特に「動詞」由来の「語源」にまでさかのぼって脳への作用として
読むと特にわかりやすいみたいです。
この雰囲気を何とか翻訳できると素晴らしいですね。
211考える名無しさん:04/01/17 11:22
訂正、>>208でなく、>>204 の※部。
212考える名無しさん:04/01/17 11:24
最訂正、>>204でなく。>>207。ごめんなさい。
213marginal:04/01/17 11:37
>>210
そうですね。ヘーゲルは或る言葉の本来の機能に遡って思考を
進めているようですね。しかしそれが日常的用法と齟齬をきたして
分りづらいと言われる原因にもなっているかもしれません。
ゼンテツとはなんでしょう?
214marginal:04/01/17 12:05
ちょっと誤解を与えかねない表現でした。

しかしそれが日常的用法と齟齬をきたして
分りづらいと言われる原因になっているの
かもしれませんが、ヘーゲルの考えを把握
するには、確かに語源の探求なしにはなされ
えないのだと思います。
215考える名無しさん:04/01/17 12:31
>>213
ab-とか、ver-、durch-などの分離ゼンテツ、ご承知のように、ドイツ語には、verstehen(understand)などの合成語
が英語に比べて多いようですが、構成要素のそれぞれについて「語源」にまでさかのぼって、動詞的に脳への作用、
脳からの作用と、認知的に見ていくと、この飛びぬけた天才によってもたらされた脳内の自己観察・観測(内観)の
結果は本当に示唆に富むものです。
216考える名無しさん:04/01/17 12:40
>>214
もちろん、漢字を悪用した日本人にとってだけでしょうが。ドイツ人は子供の時から
原語は刷り込まれておりこの限りではないと思います。
217考える名無しさん:04/01/17 13:38
ゼンテツ=前綴
218ねこゆき:04/01/17 20:56
14節から19節のmarginalさんのまとめ凄いと思いました。特に各節の※が。
本文読んでもわからないことがらの回答、あるいは解決の糸口、ひっかかり
が、ちゃんと※に書いてあるんですねw
で、「われわれ」というのがなんかよくわからない。
>>202 (marginalさん)の※
>ここですでに、眺めるだけでよいというわれわれの態度は崩れているよう
>に見えるが、どうか。
ここが一番気になる問題。で、どうなんでしょうか?
オレ的には崩れた感じがしないです。
というのも、「われわれは時間または空間の同一点に入り込んで、それを自
分で示さなければならない」(16節)とヘーゲルは言ってるけど、入り込むも
何も「われわれ」といった段階で既に思い込まれたものがスタート地点のな
るのでは?作用点みたいな。
現に18・19節がそんな感じになっていると思う。
媒介という運動は「今が一つの結果であることを、…言い表す」(18節)わ
けですから。
そもそも感覚としての意識の経験のくせになんでこんなに盛りだくさんな
んだ?という気分はあるです。
カントとかなり勝手は違いますよね。
219marginal:04/01/18 09:45
>>218
まず「われわれ」について思うことを書きます。
・「われわれ」の役割
  『精神現象学』の本論での「われわれ」とは、日常的な意味ではなくまさに
  学的な意味で特別の役割を負っていると思います。ですから<意識にとって
  (fuer Bewusstsein)>と<われわれにとって(fuer uns)>は区別される
  べきものです。一般的に、「意識」は小説の主人公、「われわれ」はいわゆる
  神の視点を持つ者としての著者とも言いうると思います。すなわちわれわれとは、
  意識がこれから経験すること・真理をすでに知っている者=学的意識・絶対知
  として、進行の台本を持っている舞台の狂言回しともいいうるかもしれません。

・叙述における「われわれ」
   叙述は形式的には次のように進行すると思います。
    1)即自的(an sich)
    2)対自的(fuer sich)
    3)即かつ対自的(an und fuer sich)
   1)未展開の潜勢態としての真理=「われわれ」の断言にすぎない真理、無意識的
   2)展開・弁証法=「意識」の経験、自覚の過程
   3)自己に還った全体としての真理=意識に自覚された真理のわれわれによるまとめ(?)

・「われわれ」の複数性
   これは絶対知の本性からも考えうると思います。
   絶対知は精神が媒介を経て自己意識的になったものだと思います。
   精神とは魂の成長した姿です。魂が精神になると言うことは、先取り気味ですが
   一つは「社会性の獲得」も意味すると思います。つまり端的に言って
   「社会性を帯びた魂」(の集合体?)が精神の一側面だと思います。
   そして、絶対知は精神が自己を余す所なく自覚したものですから、
   絶対知は優れて社会的・複数的でありえます。
    
以上はしかしながら現段階での手持ちの知識からの勝手な推測で、
間違い・当てはまらない所などが当然ありえます。
220marginal:04/01/18 09:55
>>218
疑問についてですが、
>「われわれ」といった段階で
これは自我が言ったのでしょうか?われわれが言ったのでしょうか?
私には後者に思えます。

>「今が一つの結果であることを、…言い表す」(18節)
ここで「言い表している」のは確かに自我だと思えますが、それは
われわれが入り込んでいわば自我を操ってのことだと思います。
ここの自我は直接性を固持するものだから、「言い表す」ことは
このままではできないはずだと思うからです。
ですから私はやはり「われわれの行為」が自我に介入しており、
眺めるだけという態度は崩れているように見えます。

>カントとかなり勝手は違いますよね。
『純粋理性批判』は通読していず、参考書程度のしかも怪しい知識しか持ちえ
ていませんが、ヘーゲルは「時間・空間」も純粋ではありえない、すなわちこれ
だけ媒介されているのだと言いたいのかも知れませんね。

私の勝手な読解でもありますから疑問に的中していないかもしれませんが
こう思っています。考えが異なっていても良いと思っています。
各人の読みの参考になればよいですから。
221marginal:04/01/18 11:04
【メモ】
「全体としての確信」の部分の叙述はわれわれに多くを負っているが、
意識にとってはここでどういう事態が起きたのか。
それは「到来」ということに近いのかもしれない。
またこれは、先に経験していた「今・ここ」の弁証法が、なぜまた繰り
返されるのか、二度目に経験されるものは最初の経験より精密に
なっているのはなぜかということにも関わると思う。

意識にとって以前の経験は忘却されその結果のみが現れるが、
この経験はいわば無になるのではなく、無意識的理性(われわれ)
に保存・熟成され、それが必要に応じて、意識にとってはそれが
どこからか到来するという仕方で繰り返され、経験されたのではないか。
(簡単に言うと、意識はここではこの考えが必要なのだと
無意識的理性にせっつかれた。)うまく説明できていないが。

日常的には、何とはなしに何度も経験している同じような
出来事の意味が、ある時突然明らかになるということがある。
これは、諸経験が無意識的理性に保存されて、その理性が
勝手にその意味を考え、その考えが全体的な意味へと成熟し、
飽和状態(?)に耐えられなくなり、意識にのぼる・到来する
ということかもしれない。
222Gilles:04/01/19 01:14
marginal さん、はじめまして。

『精神現象学』は初めのほうを読んだことしかありませんが、最近marginalさんのレジュメを参考にしながら、ときどき
読み返しています。「感覚的確信」の章はヘーゲルの思考法の舞台裏が見えるような気にさせられます。

特に、ねこゆきさんも触れられている点で、

>>202
> ※ここですでに、眺めるだけでよいというわれわれの態度は崩れているように見えるが、どうか。
> 自閉していても潜在的な理性(われわれ)が運動を推進させると考えればよいだろうか。

この点、昔から気になっています。

たしかに、「われわれ」とは「意識がこれから経験すること・真理をすでに知っている者=学的意識・絶対知」であり、「進
行の台本を持っている舞台の狂言回し」と言えなくもありません。そう考えると、ヘーゲルの突拍子もない「論理」展開に
対していくぶん気楽に付き合えるようになります。

ただ、だとすると、『精神現象学』という本は最初からわかっている結論を面白おかしくドラマ仕立てにしてみせた、回りく
どい演出だったという話になりかねません。(極端な言い方ですが)
223Gilles:04/01/19 01:15
少なくとも、今問題となっている感覚的確信の章について言えば、ヘーゲルはそれなりに説明を出しているように思うの
です。

感覚的確信は、それ自身にとって見れば、「最も豊かな認識」として現れるのでした( >>163 )。しかし、>>220 で指摘さ
れているとおり、あまりにも直接的であるため、仮にそれが「無限の豊かさ」をもつ認識であってもその豊かさがどのよう
なものであるかを「言い表す」ことができないのです。かろうじて口を開けば、「ここ」にすべてがあり、「今」にすべてがあ
り、「これ」がすべてである、というような「貧しい」表現にしかならない。

実はすでに、「言い表す」ことを要求している時点で「眺めるだけ」という態度は部分的に放棄されています。しかし、そう
いう批判に対してヘーゲルなら、「言い表す」ことなしには「眺める」ことだって無理なのだ、と応ずるでしょう。彼が、「今」
とか「ここ」とかいう言語によるによる言表可能性(その総まとめが「私」だと思うのですが)をテコにして議論するとき、単
に相手をこちらの土俵に引っ張りだす策略だけではなく、何とかして相手を理解しようという彼の決意を見ておく必要が
あると思うのです。ロゴス(言語)が理性と論理の別名であり、この書が現象学(Phaenomeno-logie)と名づけられている
かぎり、言語から撤退するわけにはいかないのです。
224Gilles:04/01/19 01:15
さて、私の理解では、このような言表可能性を手がかりにして得られた次のような経験が、「私(意識)」と「われわれ」の
橋渡しをしている――少なくともヘーゲルの言い分では――と思うのです。

>>194
> ・しかしこの経験において残るものがある。「普遍的なものとしての私(Ich, als Allgemeines)」である。
(...)
> ・「私」という言葉についても同様だ。人は「私」と言う言葉で「この私」という個別的なものを
> 思い込んでいるが、「私」という言葉は「全ての私」に妥当しているのである。

もしそれが「全ての私」に妥当するならば、「われわれ」に妥当しないわけにはいきません。その意味で言うと、

>>203
> その為われわれは、この確実に知りつつある自我(Ich, welches das gewiss Wissende ist)
> と同じものにならなければならない。
>
> ※自閉した自我にわれわれ自身が出向いて行ってそれにのりうつり、当の自我に直接的な
> ものの真実を示してやることになる。

「われわれ」が「自我(私)」と「同じものになる」以上、「自我にわれわれ自身が出向いて行ってそれにのりうつ」るだけでなく、
逆方向のプロセスも同時に進行している(「私」が「われわれ」の中に這入り込んで来る)と考えなければなりません。自我は
自閉しているわけではなく、せいぜい自閉していると思い込んでいるに過ぎないのです。(このことの帰結は後の「自己意識」
の章で展開されることになります)
225marginal:04/01/19 06:27
>>222-234
運動を追考するとき、「双方向的な」視点を忘れてはならない、
と受け取りました。

>>219の表現は、確かに理性の「狡知」の側面が強調されすぎて
いたかもしれません。ヘーゲルの論理を必ずしもそれだけに収斂
させて済ましてよいとは、私も思いません。実際に読んで行くことで、
通俗的ではないへーゲル像を自分に確立していければよいと思って
います。大げさですが。

>相手を理解しようという彼の決意

ヘーゲル哲学の一側面は、他者をいかに理解(否定・内面化・
概念化)するかにかかっている、ということを思いました。
してみると意識の諸形態の叙述は、ヘーゲルが他者をいかに
理解したか、他者との格闘の結果を披瀝していると言えるかも
しれないと思いました。
226ねこゆき:04/01/19 17:33
>>221(marginalさん)
>「全体としての確信」の部分の叙述はわれわれに多くを負っているが、意識
>にとってはここでどういう事態が起きたのか
ここなんです。
>>223でGillesさんが
>実はすでに、「言い表す」ことを要求している時点で「眺めるだけ」とい
>う態度は部分的に放棄されています。しかし、そういう批判に対してヘーゲ
>ルなら、「言い表す」ことなしには「眺める」ことだって無理なのだ、と
>応ずるでしょう。
といいましたが、オレ自身「言い表す」ことなしには「眺める」ことは無理
なのではと思ったです。
>>202の舌足らずのレスで言いたかったのはそのことです。
しかし今思えばオレはそれをヘーゲル的に理解したのではなかったですね。
そのことは、marginalさんが>>218で整理してくれた内容と、Gillesさんが
>>224で整理してくれた内容でわかりました。
今回「われわれ」を巡ってmarginalさんとGillesさんが展開した議論を十分
理解できたとはいえないけど、この議論に関しては今後継続的に必要な問題
意識として持つことができました。
227marginal:04/01/19 18:02
●第20-21節(p.134-138)
われわれによる感覚的確信のまとめ―――感覚的なものとは何か

■感覚的なものを真とする見解への批判
 ・以上から明らかになったこと
    ・感覚的確信はその運動・経験の単純なGeshichte(歴史、出来事)。
    ・自然的意識はこの確信の真実へ到達しそれを経験する。
     ただし経験の運動は意識にとっては常に「始めから」行われる。
     意識は結果をいつも忘却するから。

 ・結果を経験すれば次のように言えないはずだ。実際に経験されたのは「このもの」
  が「普遍的なもの」だったということだから。
    ・外的な物――「この」もの・「感覚的な」ものとしての――の実在性・存在が
     意識にとって絶対的な真理を持つ。
     (die Realitaet oder das Sein von aeussern Dingen als _diesen_, oder
      sinnlichen, habe absolute Wahrheit fuer das Bewusstsein)

 ・それでもなおこのような自分の経験したことと反対のことを言う人はいる。
  そういう人はまず実践的に体験し学ぶために、知恵の最下級の学校に送り返されなくては
  ならない。すなわち<ケレスとバッカスの古代エレウシスの密儀>へと。そこで、
  飲食という対象を無にする行為から、感覚的対象の意味を考えるべきだ。
  ※ケレス‥‥ギリシャ神話のデーメーテール(豊穣神、大地母神)に当たる。

(続く)
228marginal:04/01/19 18:03
■「言葉を言い表す」ということ
 ・「言い表す」ということも考慮されねばならないのだが‥‥
    ・感覚的確信は普遍的なものを言表したにすぎない。言い換えれば、そこでは
     あらゆるものが区別されていることではなく、あらゆるもののが等しいことが言われている。
     (und damit viel mehr seine _Gleichheit_ mit allem, als die Unterschiedenheit ausgesprochen.)
    
    ・「言う」ということは、思い込みをただちに転倒させ他のものに変え、
     そのものを決して言葉にさせないという神的な本性を持つ。
     (Will ich aber dem Sprechen, welches die goettliche Natur hat,
      die Meinung unmittelbar zu verkehren, zu etwas anderem zu machen,
      und so sie gar nicht _zum Worte kommen_ zu lassen,)
        
    ・言葉で言い表せないものと呼ばれるものは、非真、非理性的なもの、単に思い
     込まれたものに他ならない。
     (was das Unaussprechliche genannt wird, nichts anderes ist,
      als das Unwahre, Unvernuenftige, bloss Gemeinte.)  

(続く)
229marginal:04/01/19 18:07
■<知覚>としての意識
 ・私は感覚的確信の真実を経験した。それは以下のものだった。
    ・普遍的なもの(ein Allgemeines)
    ・他のここを含んだ一つのここ(ein Hier anderer Hier)
    ・多くのここの単純な統合体(ein _einfaches Zusammen vieler Hier_)

 ・このように、私は在るものを直接的なものでなく真にあるように(媒介されたものとして)
  取り上げるようになった。ここで私は<知覚>している(wahrnehmen)ことになる。
  (※ wahr-nehmen → 真に-捉える)

 ※若い頃にヘーゲル、ヘルダーリン、シェリングは友人だった。
   ヘーゲルはまさに『エレウシス』と題する長詩をヘルダーリンに送っている。
   ヘルダーリンには届かなかったようだが。エレウシスの密儀に参加した者は、
   そこで見聞きしたことを口外することを禁じられたそうだ。言葉ではその深い意味を
   表すことはできないし、そもそも説明する必要もないからという訳で。これらから分るのは、
   詩人ヘルダーリンのメンタリティーとの親和性と彼らにおけるギリシャの重要さであると思う。
   彼らの合言葉が『ヘン・カイ・パン(一にして全)』だったことからもうかがえる。
   (速水敬二『ヘーゲルの修行遍歴時代』筑摩書房 p.318−329を参考にした。)
  
 ※感覚的確信は知覚になっている。だがこれも現れたばかりの段階では直接的であるから、
   具体的に展開されいかに媒介されているかを見なくてはならない。その過程で知覚も
   また変容してゆく。次章ではこの知覚の真実が探求されることになる。
  
(第20-21節終わり)

以上で「I. 感覚的確信」の章は終わりです。
230marginal:04/01/19 18:30
私が時間や余力がなかったり、消耗して全てに
きちんとしたレスが返せなかったりしますが、
全て参考にしています。
長文の割に私のレスが‥‥と思われたかも
しれませんが、Gillesさんもありがとうございます。
231marginal:04/01/20 18:48
【感覚的確信のまとめ】

形式的な構成として大体こう捉えうる。
1)即自的 …… 第1-3節(p.122-124)われわれからみた感覚的確信
2)対自的 …… 第4-19節(p.124-134)意識の経験
           ・第4-11節 (p.124-129)意識の経験(1)―――対象の側面
           ・第12-13節(p.129-130)意識の経験(2)―――自我の側面
           ・第14-19節(p.130-134)意識の経験(3)―――感覚的確信全体 
3)即かつ対自的 …… 第20-21節(p.134-138)われわれによる感覚的確信のまとめ
  
内容について自分なりに。
意識としての最も自然的な意識は外的な実在を感覚的に確信し、
あるがままに受け入れる受動的な意識だ。意識と実在に区別は
無く、直接的な関係を保っていると思い込んでいる。根拠の力
は単なる思い込みによる。

しかし思い込みは自分の内でしか効力を持たない。思い込みは
それ自体としては表されえないから。自分の感じる「痛み」を
全く同じに他者と共有することはできないだろう。言語は個別
ではなく普遍を表すから。だから、感覚的に確信する個別的な
「これ(もの・今・私)」も言い表しえない。それを救おうと
意識は動くが、その軌跡が感覚的確信の媒介性を裏付けている。

結局、意識は個別的な自己に自閉しても、言語という普遍への
通路がすでに開かれている。それは、意識はすでに言語に媒介
されているということでもある。従って、少なくとも意識においては、
そもそも始めから純粋な直接性はありえなかったのである。  
232marginal:04/01/20 19:11
>>231訂正】
「これ(もの・今・私)」 → 「これ(もの・今・ここ・私)」
233marginal:04/01/20 19:28
次から「知覚」に入ります。まず下読みしますので、
2・3日あるいはそれ以上空きます。

それなりの全体的なまとめは私がやっていますが、
皆さんのまとめも知ることができれば嬉しく思います。
部分についての見解などでもかまいません。この章に
限らず、緒論・序論におけるものでも当然かまいません。
234ねこゆき:04/01/20 19:53
>>231
驚異的なまとめだと思います。
すごいです。
235考える名無しさん:04/01/20 23:01
236考える名無しさん:04/01/21 00:13
悟性による社会認識の過程とはいかなるものですか?
237考える名無しさん:04/01/21 00:16
age
このスレ応援してます。公式ガイドにも渋く乗ってましたね。
あなたが一番価値が有ると思いますよ。がんばってください。
239236:04/01/21 01:00
236です。本当に厨な質問ですみません。
あした試験があるんです!でも、まったくわからないんです。
授業出てない私が悪いのですが、、、
240考える名無しさん:04/01/21 01:18
582 :1 ◆Y3w......w :04/01/13 06:38
(´Д`;)ハアハアは掌からイチモツから、無数に延びるシルバーエナメルを連想させる銀色の鞭がにょい棒の如く
マスターベーコンどもに襲いかかる!
ビシッバシバシバシバシバシバシッッ!!!!!!!!
男「ぐおーーーーーーーーーーっ!」
一瞬でマスターベーションに明け暮れていた男は突然の攻撃にその場にのたうち回る!
鉄平「ふぁっ・・・ふぁぁぁぁーーーーーー・・・!!」
気持ち良さそうにリリアを見つめながら自分のチンポを握る鉄平。(´Д`;)ハアハアはそのリーダー格の男に
ネタ委を定めシルバーエナメルを放つ!
(´Д`;)ハアハア「おまい許さないでつ!!」
シルバーエナメルがぐんぐんと延び、リリアのすぐ横にいる鉄平に襲いかかる!!
鉄平「ほっ・・・ほっ・・・ほっ・・・ん?なんだ!?」
凄い勢いで迫るシルバーエナメルに気付いた鉄平。だが時既に遅し!シルバーエナメルが鉄平の無防備な急所
目がけて深々と突き刺さる!!ガッシーーーーーーーン!!
(´Д`;)ハアハア「ハァハァ・・・」
完全に標的を捉えたはずなのに鉄平はその場に倒れずピンピンしている。そして鉄平の手元を良く見ると白いフンドシ
の先端を両の手に持ち、垂直に延ばし、真縦に延びたフンドシでエナメルの猛攻を受け止めていたのだ。
鉄平「あぁぁぁぁぁぁ!!イキそうだったのに!!お前許さん!!ぎぐっふぁ!」
鉄平はオナニーを邪魔された怒りに燃え、フンドシをぐるぐると回転させる!!
(´Д`;)ハアハア「望むところでつ!!」
地上最強の両雄の変態が相見える歴史的瞬間は皮肉にも敵対して始まった。
241考える名無しさん:04/01/21 01:33
勃起age
242考える名無しさん:04/01/21 02:04
age
243考える名無しさん:04/01/21 02:06
578 :1 ◆Y3w......w :04/01/12 09:19
その頃(´Д`;)ハアハアは暖かいミロをゲットしリリアのいる幕張めっせへと帰宅していた。
(´Д`;)ハアハア「ん?何か男汁のニオイがしまつね・・・嫌な臭いでつ。」
(´Д`;)ハアハアは入り口を開けると多量の男のフェロモンを感じ取り凄く嫌な気分になる。
男臭は世界で一番嫌い、だがこの時はまだ(´Д`;)ハアハアはその臭いなど気のせいと思っていた・・・
そしてリリアの待つ小部屋の前まで両手に暖かいミロ二つを持ち到着する。
(´Д`;)ハアハア「リリアターン!今帰りま・・・!!!!!!!!!」
(´Д`;)ハアハアは異様な光景に目を奪われる!ベーコンに大量のマスタードを塗りたくった全裸の男約100名が
リリアタンを取り囲み視姦し、チンポ片手にマスターベーションしてるのだから!
鉄平「マスターーーー!ハァハァ・・・」
男「ベイコンッ!アァァァァ・・・」
リリア「キャァァァァァー!」
(´Д`;)ハアハアは一瞬呆然としていたがリリアタンの悲鳴で我に返り憤怒する!
(´Д`;)ハアハア「もまいら!!リリアタンは僕のモノなんでつ!!!!!!!!!」
鉄平「あっ・・・あぁーーーー!」
リーダー格の男らしき者が今にもイキそうな顔をしている!(´Д`;)ハアハアは完全に怒り鉄平に襲いかかる!
(´Д`;)ハアハア「許さないでつよ!」
244考える名無しさん:04/01/21 05:03
age
245考える名無しさん:04/01/21 20:45
全部終わるまで、後どのくらいかかるんだ?
246考える名無しさん:04/01/21 22:29
ワラタ(w
ハアハアの次の小説Uぷ汁
247Gilles:04/01/22 02:13
>>230
> 長文の割に私のレスが‥‥と思われたかも
> しれませんが、Gillesさんもありがとうございます。

とんでもないです。まとめをする一方でほぼ必ずレスもつけてるのですごいと思ってます。

もう一つ、ちょっと今詳しく説明する余裕がないし、そこまでしなくてもいいかと思うのですが、
「感覚的確信(sinnliche Gewissheit)」の議論は、どうやらヤコービなどを念頭においていた節が
あります(というようなことは訳本のどこかで解説されているのではないかと思いますが)。

『エンツュクロペディー』のいわゆる「小論理学」の予備概念のところで形而上学(ライプニッツ・
ヴォルフ学派)、経験論−批判主義(カント)、そして直接知(das reine Wissen)という表題でヤ
コービをとりあげ、批判しています。これが時代順になっていて、ヘーゲルの時代の直前まで来て
いることに注意しておいてよいでしょう。感覚的確信と直接知ということで名前は若干違うのです
が、批判の内容はかなり似ています。それから、いわゆる『大論理学』の、たしかヘーゲルの死後
直後に出た「有論」の第2版でも同じ批判が繰り返されていて、かなり手厳しいものになっています。
(第1版はどうだったのか確かめてません)

「感覚的確信」の議論を補足する意味で、「小論理学」の予備概念を見返すのもよいかもしれません。
248考える名無しさん:04/01/22 02:18
sine
249考える名無しさん:04/01/23 22:00
「Gewissheit」は確信と訳されてますが、信ずるほうより、確実のほうに
ウエイトがありますね。つまり「感覚的確実性」ということになるでしょうか。
250marginal:04/01/24 08:02
感覚的確信において生成した新たなもの、媒介された普遍的なものを詳しくみる
ことで、同一の物に「一」と「多」が同時に属することが明らかになってくる。
意識と対象において知覚がこれをいかに扱うかがこの章で示される。
「II. 知覚、あるいは物と錯覚」の章は全21段落で構成される。
牧野訳を参考に形式的な構成を暫定的に以下のように捉えておく。
(この章からページ数を牧野訳にしてみます。樫山訳は段落が原文と対応している
ので節の提示だけでよいかなと思うからです。長谷川訳を使っている人にはすいません。)

1)即自的 … 第1-6節(p.225-234)われわれからみた知覚
           ・第1節(p.225-226)  導入
           ・第2-5節(p.227-232) 知覚の対象
           ・第6節(p.233-234)  知覚の主体
2)対自的 … 第7-18節(p.235-249)知覚の経験
           ・第7-8節(p.235-239)  知覚の経験(1)           
           ・第9-12節(p.239-243) 知覚の経験(2)
           ・第13-18節(p.244-249)知覚の経験(3)
3)即かつ対自的 … 第19-21節(p.249-254)知覚全体のまとめ
251考える名無しさん:04/01/24 18:09
a
252考える名無しさん:04/01/24 18:16
>>249さんがおっしゃるように、Gewissheit(英訳Certainty/A.V.Miller精神現象学、すなわち事後確率の問題) は本来「知(wissen)」に由来する語。
すでに知っているため確かなこと。
「確信」なる訳は「信、glauben、belief」由来の語。「信」は、精神現象ではもっと上位のElement(境位、奇天烈な誤訳)に属する語。
「信―知」は対概念ゆえ、一種のカテゴリーミステイク?
 
また、>>229での解析は感覚Elementでのこと、猫が犬を認知してとっさに逃げるような動物的認知のアナロジーに近いのでは? 
Allgemeinesは「共通(gemeinsam)なものすべて」。Zusammenは「寄せ集め(sammeln、gather、together)、纏め上げ」。
いずれも前頭葉に向かう視覚・聴覚など各種センサ群(カントの外官)の上向神経伝送路とその処理系や、内官などを想定すると
ヘーゲルは当たり前のことを言っているようにも思う(意識の問題は別途ですが)。
もっと上位の「思考element」で意味を持つと思われる「普遍」や「統合」と訳すから読みにくくなるのでは。この思考elementでは
上下左右の双方向性神経叢がありこの訳は無理がない。
Alg.やZusm.なる語は、感覚・思考なる上・下両elementでこのように区別せざるを得ない両方の日本語訳を、汎用的にそれら一個で含んでいて、それだけ抽象的。
子供のときからこの語で育つ西欧系に比べて、日本人の思考力、論理力、の無さは宿命的。
ただし、marginalさんのご努力に水を差すつもりは毛頭ありません。ヘーゲル事典(弘文堂)によって正確?に訳すとmargさんのようになるのは止むを得ないです。認識はまず「理解過程(Verstand、悟性?)」での、日本式ぶつ切りの特化解釈から出発せざるを得ない。
素人の荒しの近い書き込みで申し訳ないポ。
253考える名無しさん:04/01/24 18:20
あげるな。
狙われるから。
254考える名無しさん:04/01/24 18:22
hai
255marginal:04/01/24 19:06
■■■ II. 知覚 ■■■

●第1節(p.225-226)
われわれからみた知覚(1)―――導入部

■知覚の原理
 ・感覚的確信の過程を経て意識は知覚になっている。知覚の主体と対象は普遍的なものだ。
  われわれにとって知覚の原理(Prinzip)が発生(entstehen)していると分る。
  知覚の原理は普遍性(Allgemeinheit)。われわれはその観点から考察する。
  
 ・ここで主体と対象は以下のようなあり方をしている。
    ・知覚 … 指示の運動(die Bewegung des Aufzeigens)
    ・対象 … 指示の運動を単一にまとめたもの(dieselbe Bewegung, als Einfaches)
          =諸規定の区別と展開をまとめたもの

 ・知覚における本質と非本質の区別は一見するとこうだ。
    ・本質 … 原理としての普遍
    ・非本質 … 知覚するもの、知覚されるもの
  だが実際は知覚するもの、知覚されるものも本質的だ。両者とも普遍的なものだから。

(続く)
256marginal:04/01/24 19:09
 ・しかし知覚は主体と対象のどちらか一方を本質とし、他方を非本質とする。
  知覚は両者を相互に対立したものとして関係させるから。従ってこうだ。
    ・対象 … 本質。主体に関わらずあるから。
    ・主体 … 非本質。有りも無くもありうる不安定なものだから。
 
 ※知覚の本質として普遍性という原理が発生した。原理の確認で十分という訳でなく、
   原理を展開せねばならない。>>25>>34参照。
   原理が発生する際に、主体と対象もともに生じている。この対立が展開の運動を担う。
   両者とも普遍だから実質は普遍の原理の運動でもある(?)。
  
 ※知覚の章は議論が錯綜して自分にとってとても分りにくいものとなっている。
   一文ごとに流れが急転する。弁証法が加速している(?)ように感じる。
   読み終えるのに時間がかかりそうだ。
 
(第1節終わり)
257考える名無しさん:04/01/24 19:23
読むに耐えない悪文。ごめんなさい。
258marginal:04/01/24 19:28
>>249>>252
「sinnliche」を「感覚的」とするか「感性的」とするかの問題もあるようです(牧野訳 p.223-224から)。
259考える名無しさん:04/01/24 22:23
mergさんの通り「感覚的」でよいのでは。「意識」(前記252で別途とした)は、認知科学では神経叢全体の創発(emergence)で発現するといっているようです。
「感覚記憶上の知」―「online、realtimeのセンサー知」の両者の相互関係をモメントとする同時的な神経興奮が、感覚過程での「意識」の実体?
感性は、感覚過程も内包するかもしれませんが、より上位の表象(Vorstellung)をも含むもっと広い過程では?
260考える名無しさん:04/01/25 00:02
お名前を誤記し、大変失礼致しました。
261ねこゆき:04/01/25 13:44
第1節の展開の骨組みはこんな感じかな?
@知覚の本質としての普遍性という原理の生成
Aそれと同時に2つの契機(知覚―対象)の生成
Bそれと同時に2つの契機(知覚―対象)がそれぞれ離脱。
C知覚―対象は2つの関係するもの(区別されるもの)という点で非本質的。
Dしかし、知覚、対象はそれぞれ「それ自身」で一般的ゆえに本質的
EあらためてCの関係を対立関係と見ることで関係するものでありながら本質、非
本質を割り振る
F知覚する働きにかかわらず対象は有るから、本質的なものに対象が、非本質的な
ものに知覚する働きが割り振られる。

全体的に入れ子のような展開になっている。
後半だけをさらに整理して、この節でのヘーゲルの到達ポイントを絞りたい。
「われわれにとって」は、知覚、対象はそれぞれが一般的ゆえに本質的と見ることができる。
しかし知覚、対象を関係として見るときは非本質的だ。
しかしその関係を対立関係と見ることで対象の方を本質的なものとみなせるんだ、と。
262 ◆3JOy.G4Xzs :04/01/25 17:24
263あぼーん:あぼーん
あぼーん
264考える名無しさん:04/01/27 08:56
marginalさん、お体は大丈夫ですか。次をお願いいたしますよ。
いろいろ申しましたが、たとえば、クワインによる、観察文以外の「翻訳の不確定性(岩波、哲学・思想事典)」。我々が皆潜在的に承知していることを言っています。
marginalさんの翻訳は、我々がヘーゲルの「理解」に到達するための最短の「翻訳文=作業仮説」を提供してくださっております。
265考える名無しさん:04/01/27 09:13
>>264で言い方が足りなかったかも。クワインは「ことばと対象」の哲学的考察から「翻訳文の不確定性(原意からのずれ)」は不可避と結論しています。
要は、いかに原意に迫れるかは絶対的な基準はなくいずれにしても相対的ということ。
何かしたいヒトでそれに関しての翻訳文を必要とするときはその文を一つの作業仮説と見立てて、どれだけその人に役立つかだと思います。その点で、maerginalさんの翻訳は
ヒトを最もよく「考えさせてくれる」ということなんです、すくなくとも私にとっては。
266marginal:04/01/27 18:48
●第2-5節(p.227-232)
われわれからみた知覚(2)―――知覚の対象

■知覚の対象、性質と媒体(2・3)
 ・止揚は否定(Negieren)と保存(Aufbewahren)という二重の機能を持つから、
  「このもの」はこう止揚(Aufheben)されている。
  個別的(直接的・感覚的)なもの → 普遍的なもの ⇒ 性質(普遍的な直接性)(※特殊?)

 ・「媒介された普遍」の媒介性が表出する(ausdruecken)と、このものは
  <多くの性質を持つ物(das Ding von vielen Eigenschaften)>である。知覚はこれを扱う。
  知覚は<否定、区別、多様性(Mannigfaltigkeit)>を本質とする。
   
 ・性質について考えよう。性質は何かの性質としては本来<区別され規定された性質>であるため、
  一つではなく、相互に否定的な<多くの性質>がある。それら諸性質を自己に含み、存立の基盤
  となっているのは、単純な普遍である媒体(Medium)である。

(続く)
267☆キキ+キ゚Д゚ ◆qpmo.OOqAo :04/01/27 18:49
またかああああああ


落ち着けえええええええ



ガキどもおおおおおおおおおおおおお
268marginal:04/01/27 18:50
■肯定的な普遍としての媒体  
 ・性質は何かの性質と捉えられる前の規定としては(?)、互いに無関心な自己関係である。
  それぞれ自分だけで(fuer sich)あり、他者(他の規定、媒体)から自由である。

 ・他方の普遍としての媒体も自己関係であり、規定から自由である。
  規定と媒体は区別され、互いに自由な自己関係としてある。
  
 ・諸規定は互いに触れ合うことなしに浸透(durchdringen)し合っている。しかし諸規定が
  互いに無関心で自由でいられるのは、その実、媒体に関与することによっている。 
 
 ・例として「塩」の場合を考えよう。塩は「白い」、「辛い」、「立方体」などという諸性質を持つ。
  諸性質は「もまた(auch)」というあり方により、互いに自由で侵犯し合わない。
  ここで「もまた」が媒体であり、諸性質を統合する<物性(Dingheit)>である。
  ※塩は「白」であり、同時に「辛く」もまたある。「もまた」という「かすがい」により「多」が支えられる。

(続く)
269marginal:04/01/27 18:53
■否定的な普遍としての媒体(4)
 ・ところでしかし、性質が何かの性質であるのは、ほんらい他の性質と相互対立的に関係する限りでのはずだ。
  だがこの相互対立の関係においては、諸性質は媒体の単純な統一の内に共存し得ない。
  ※それぞれの性質が互いに他を否定し合い、自分だけがあると自己主張する。
  
 ・従って諸性質は、「区別された性質」すなわち「他者を否定し排除する(ausschliessen)もの」としては
  媒体の外にあることになる。このとき媒体は「一(Eins)」、「排他的な統一(ausschliessende Einheit)」である。
  ※諸性質が他を否定し合うと統一が成立しないため、媒体は諸性質を自己から締め出し、
    自分だけで統一を保とうとする。

 ・「一」は他者(諸性質)を否定することで成り立つ。自己関係であり、自分だけである。
  この否定の契機により物性は物として規定される。「もまた」という反対のあり方から自由である。
  ※「多」を排除することで「一」が成り立つ。

(続く)
270marginal:04/01/27 19:03
■全体としての対象(5)
 ・以上見た契機の展開を全体的に捉えよう。
  α)無関心な受動的普遍、多くの性質・物質を存立させる基盤としての「もまた」(※「多」の側面)
  β)対立した諸性質の相互排除、単純なものとしての否定=「一」
  γ)α)とβ)の関係(※多と一の関係)、すなわち多くの性質自身(die vielen _Eigenschaften_ selbst)
    であり、無関心な基盤へ関係し多様な区別へ拡がる否定。
    ※「一」と「多」の統一を多くの性質自身においてみるということ?
 
 ※物は、諸性質が前面に押し出された「多」の側面と、単一体としての物という「一」の側面を持つ。
   「一」とみれば、諸性質は相互排除し統一を阻害するものとして締め出される。
   「多」とみれば、諸性質は「もまた(純粋な普遍)」によって発現する。

 ※「肯定的な普遍としての媒体」の所では、諸規定は互いに関わらないから
   何かの性質とはなっていないと思うのだが、そこで「塩」の例を出すので分りにくく感じた。
  
 ※集団の考察に役立てることはできないか。典型的なイメージだが「多」をアメリカと考えると、
   個人は互いに無関心で自分の事だけを考えるが、自由・民主主義などの理念に支えられて国家が成立している。
   「一」を全体主義と考えると、一人のカリスマ的個人が国家を掌握し、大衆は相互監視状態に置かれ
   収容所へ送られ排除される。まあ、強引だが。
 
(第2-5節終わり)
271constellation:04/01/28 12:28
全部要約し終えるまでにはスレッド一つじゃ足りないみたいだな
272ねこゆき:04/01/28 20:52
>>269(marginalさん)
最初の部分
>ところでしかし、性質が何かの性質であるのは、
なんですが、「なにかの性質」は一定の(bestimmte)性質でいいですか?
一定の性質が互いに区別される限り、対立したものとして存在するものだ
ということで。
そうすれば、「肯定的な普遍としての媒介」における一定とはいえない性質
(自分自身にだけ関係するもの)から、「否定的な普遍としての媒介」への
切り替わりを押さえやすいような。
ヘーゲルの話が移動するたびに、神経がピリピリしてしまう。
273marginal:04/01/28 22:00
>>272
>「なにかの性質」は一定の(bestimmte)性質でいいですか?
はい。考えてることも近いと思います。私は次のように取ったので。

或る性質が特定の性質として規定・区別されるのは、
それ以外の性質を否定することを介して初めて成立する。
(「白」は「辛さ」でも「立方体」でも「…」でもないもの。)
だから具体的な諸性質は、それぞれがそれぞれに対して
否定的・対立的な関係にある。

肯定的媒体 … 自己関係
否定的媒体 … 相互関係(否定的・対立的な)
274考える名無しさん:04/01/28 22:38
このあたりで「媒体」とは「媒介するもの、関係を取り持つもの」かとは思いますが
要するに何なのでしょう?「塩」の例でDingheit・物性=モノであること、としますと
現代的に考えれば、塩の物理・化学的構造ということにでもなるのでしょうか?
275サイババア ◇zehtm8UG4Q:04/01/28 22:39
          ,,r'ソ''     ''`ヽ
         //'   /~∃~¨ヽ、
         /:/'',,...⊂二 ̄    |`-.,_
        /y' ー=⊂二∩_____ノ   ̄`''-.,
       /;:l    ,      ̄ヽ       `'-.,
      ヘ''r'    /o._..o、    \        \  サイババア♪                  
      (ノレ   /,,______,,ヽ    |\        \                       
      /ヘノ`l  : (''"Y"''');'   /ノ:|\        ヽ
      ソ/彡ノ、   `ー=-'.    /《川/ \,__     |
     彡丿彡/ゝ   --    /巛|          ノ
     彡'彡ノ彡ノ| `ー--- '' /;;巛ミミ        /
     彡ノ彡丿/|      彡ノ彡ミミヽ       /
     ./ /      ~~~  ~        \    /
     l |                    `''- ノ
     l/                      /
サイババアを崇拝するスレッド
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/philo/1075290507/
276ねこゆき:04/01/29 21:47
>>273
ビミョーな問題、言い回しでしたが、オレが少しズレた感じで理解したようです。
これは間違いでした。marginalさんの解釈が正しいです。ありがとうございます。
marginalさんは>>270の※で言っていたんですね。
>※「肯定的な普遍としての媒体」の所では、諸規定は互いに関わらないから
>何かの性質とはなっていないと思うのだが、そこで「塩」の例を出すので分
>りにくく感じた。
そうなんですよ。
こういうところで塩の単一なここの話が出てくるから勘違いするですよ。

ところで、緒論を読んでなかったので、あいまを見て少しずつmarginalさんの
まとめを頼りに読んでるんですが、もっと早い時期に読むべきでした。
277marginal:04/01/29 23:59
>>274
正直具体的に何かは分りません。あえて言うなら「ここ=一定の場所=部分的な空間」でしょうか。
これも何かおかしいですが。当時の自然哲学の風潮に手がかりがあるかもしれませんね。
化学方面からも考えれば視野が広くなって良いですが、私はその方面は全くの素人で…
278考える名無しさん:04/01/30 14:39
>>274>>277
Medium(≠Vermittlung),たとえば、Na原子とCl原子の結合を媒介する「電子」。
電子はあらゆる化学結合の媒体(もちろん電子もさらに素粒子の複合結合体)。
とにかく、諸性質を一つの物としてまとまって知覚させるため、binder、糊、の
ような「物」を想定した凄さ。当時「水」なども想定していたようです(ヘーゲル
事典、弘文社(S4)、「媒介」参照)。
279考える名無しさん:04/01/30 14:50
もちろん1個の電子でなく、1個のNaCl結晶の格子内部で全体に規則的に配置されてこれをその1個としての結晶
たらしめている電子群? 化学結合は弁証法のカタマリみたい?
280考える名無しさん:04/01/30 15:08
電子の前に「全結晶の占める空間内に規則的に配置された」を挿入。
なお、細かいことを言い出すときりが無いですが、NaClの化学結合は
「イオン」結合で、電子の、両原子での過不足が媒介する静電的索引力に
によりますので電子は間接の媒体。文字通り電子が、両原子の糊の役目をするのは
「共有結合」。電子eは,A,B両原子の中間に位置し、A-e,B-eの結合が
同一電子に対して成立するので文字通りのMediumです。くどくなってゴメン。
281考える名無しさん:04/01/30 15:13
再再訂正、279最下行の「電子群?」の前に挿入。
282考える名無しさん:04/01/30 18:21
278でのmediumとしての「水」とは。食塩水溶液からの結晶の析出など考えていたかも。
283考える名無しさん:04/01/30 18:26
セメントの家が夏暑いのは、セメントに結晶水があるため。
284marginal:04/02/01 15:16
●第6節(p.233-234)
われわれからみた知覚(3)―――知覚の主体

■知覚する主体にとっての真理の基準(Kriterium)
 ・意識は以上のような物を対象にする限り知覚するものであり、純粋に受容的に振舞う。
     対象 … 真、普遍的なもの、自分自身に等しいもの(sich selbst Gleiche)
     意識 … 可変的なもの(Veraenderliche)、非本質的なもの

 ・意識はその不確かさから対象を間違って捉え、錯覚するということが起こりうる。
  つまり意識は自分が錯覚する(Taeuschung)可能性があると自覚している。
  
 ・知覚の主体は<自分自身に等しいこと(Sichselbstgleichheit)>(※自己同一性?)
  という基準に照らして対象を捉える。
  
 ・対象は、それ自身に等しいものとみられているから、知覚と対象の比較において
  不等性(Ungleichheit)(※差異)が生じるなら、その原因は知覚のほうにあるとされる。
  
 ※ここはまとめづらかった。この章を読み終えてから読み返そうと思う。
  要は物はほんらい矛盾的な存在としてある、しかし知覚は自己同一性を
  基準とするから矛盾を捉えられず、そのあり方を間違いとし、自分に
  その責めを負わす、ということではないか。
  
(第6節終わり)
285marginal:04/02/01 17:36
仮に2ちゃんねるが閉鎖してもせっかくなので続けたいと思いますので、
今の状態が維持できる、またはもっとよい状態になりうるどこか良い
掲示板があればアドバイスを下さいませ。
学問的な雰囲気があってかつ人が多いところが理想ですが…
286marginal:04/02/01 19:34
閉鎖は嘘かもしれないし本当でも時期尚早かもしれませんが一応。
ざっと以下が見つけられましたが、他にあるでしょうか。また、どこが良いと思われますか?
一人で読むより多いほうが良いと実感しましたので、仮に閉鎖されたときは、
興味がある方は決まったところを覗いて見てくださいませ。

megabbs
ttp://www.megabbs.com/

ZetaBBS.ORG
ttp://zetabbs.org/indexz.html

いちごびびえす
ttp://www.ichigobbs.net/
287marginal:04/02/01 19:41
化学方面の知識、面白く読みました。
288考える名無しさん:04/02/03 03:39
読書会スレまとめです。よろしく。
http://luzifer.hp.infoseek.co.jp/index.html

いちおう読書会スレ全部に投稿するので、
マルチっぽくなってすみません。
289ねこゆき:04/02/03 17:49
>>284
自分自身に等しい対象をそのようなものとしてつかむ意識は、しかしその対象
とは異なる。
このような関係性において対象と意識を比べて不等性があった場合は…
こういうことかな?

自己自身に等しいとか自己相等性とかという場合その自己って対象なのか意識
なのかわかりにくい。

>>285
うわさのようだけど、それはともかく、marginalさんのまとめは最終的にはひと
つの作品としてサイトで公開してほしい。
290marginal:04/02/03 18:27
次節からは「知覚の経験」に入ります。どういう構成か分かりにくいですが、
少しでも読みやすくするために、コジェーヴ『ヘーゲル読解入門』(国文社)の
「付録 『精神現象学』の構造」(p.427)も参考にして暫定的に細分化してみます。

2)対自的 … 第7-18節(p.235-249)知覚の経験
           ・第7-8節(p.235-239)知覚の経験(1)運動全体         
                  ・第7節 …… 知覚の円環運動
                  ・第8節 …… われわれのまとめ
           
           ・第9-12節(p.239-243)知覚の経験(2)矛盾の展開
                  ・第9節 ……………媒体としての自我と統一としての物
                  ・第10-11節 …… 統一としての自我と媒体としての物
                  ・第12節 ………… 統一と媒体としての物     
            
           ・第13-18節(p.244-249)知覚の経験(3)自己に還った全体?
                  ・第13-15節 …… 全体としての知覚
                  ・第16-18節 …… われわれのまとめ

こうみると、対自の運動においても弁証法的運動が貫かれているのが見て取れるかと思います。
291marginal:04/02/03 23:06
>>289
サイトについてはちょっと気が早いような。そもそも全部読めるかわからないです
ネットについては無知ですし、これ以上恥を晒すのは控えたい気もします。直したいところが多いです。
ともあれ一緒に読んでいる人がいるというのは心強いです。ありがとうございます。
不定期でしかもいつ止めることになるかわかりませんが、そのときはすいません。
292考える名無しさん:04/02/04 16:14
                             / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
          ,へ                  /             \  ,ハ百
         \ \              /                  ヽ ム.只
         /へ/)             l::::                  ::::|
    ∧_∧∩  )(             . |:::::    (●)     (●)  :::::| =夫=_
    (#´〜`)7   (  !      ____ |::::::ノ'""ゝ.\___/   :::::::| フi三iヽ
   ゚ .冂つム゚_」   Y       (_   ____)    ':; \/    ::::::::ノ  '─'
  ゜ ム_」」」」ゝ   人    ___) (__∠__   \
   (,_,,ノ `ー´   (  ';   (__________)   ~':;,,.
   ,' . / .'     ヽ (_        ,,;::'~            ~':::;;,,,_
  / / '        \ヽ.  __,,,,-‐''"~     ∧_∧   ( ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄)
   '0      __,,..l⊂Z_).⊃!         ∬・∀・∬   ̄ ̄ ̄ ̄) (二二二二二......  0
  0Π0- ‐‐'''""   |;;:.:. ヮ . .:::;|        ,べヽy〃へ  ( ̄ ̄ ̄             0Π0
  HΠH       ∩.∧_∧∩    ∧∧/  :| 'ツ' |  ヽ  ̄λ_λ ̄ ̄ ̄ ̄ ∧∧ ̄ HΠH
 EEE       (◎´∵`◎)   (*・_・). o |=デ=! o |  (0´く`0)ヮ    [`Д´] EEE
  |l|lil|ili|        瓜ゞッ=Lく   ,くリ=ッ=[ゝ.__」「「「「L_.」  厂〉=ッ冂づ ヌ Oヮ⊂[]ヨ  |l|lil|ili|
,,.<卅卅ゝ.__.,.,.,___.__.,.,.,(__)ヾZ)'_.,.,_じ(ノルハ)Jつ」」」」」⊂ソ.,_.,_.(入ム]つつ.__,L!__. (_」つ.,<卅卅ゝ
293marginal:04/02/05 02:19
●第7-8節(p.235-239)
知覚の経験(1)―――運動全体

■知覚の円環運動(7)
 ・知覚としての主体は矛盾的な対象を真にあるように捉えようとする。
  その試行錯誤は対象を以下のように捉える円環運動である。 

  1)純粋な一者(_rein Einer_)
      しかし普遍的な性質を自身に備えている。→ 個別性の止揚

  2)共同態一般(eine _Gemeinschaft_ ueberhaupt)
      しかし性質は他と対立的に規定された排他的なもの。
        → 他との共同態=連続性(Kontinuitaet)の否定
       ※ここで他とは、自分の属する一者における他の性質の意味のほかに、
         他の一者(における性質)という意味もある?   
       
  3)排他的一者(ausschliessendes Eins)(※否定的媒体)
      しかし分離された一者に互いを触発しない無関心な多くの性質がある。

  4)普遍的な共同的媒体(ein allgemeines _gemeinschaftliches Medium_)(※否定的かつ肯定的媒体?)
      この中で性質はそれぞれ自立(fuer sich)しながらも他を排斥する規定されたものとしてある。
      しかし知覚されるのは媒体でなく個別的な性質である。

  5)個別的な性質それ自身(die _einzelne Eigenschaft_ fuer sich)
      しかしこれは純粋な自己関係で、特定の性質ではない。

  6)感覚的存在一般(_sinnliches Sein_ ueberhaupt)(※感覚的確信の対象)
      しかしこれは私の思い込みである。→ 知覚の対象へ

(続く)
294marginal:04/02/05 02:26
■われわれのまとめ(8)
 ・以上からわかること
    ・知覚は対象を問題としていたが、その運動がいつの間にか意識に帰着する。
      → 知覚の運動は、自己への反省・還帰。
    ・知覚の運動は対象を変えるが、それは自分のせいだと知っており、
     対象を純粋に保とうとする。

・意識が自己に押し戻されるということの意味
   ・1)非真理は意識に属することの自覚。
    2)自覚による非真理の止揚(修正)の可能。
    
・知覚する意識の特徴
   ・自分が単に知覚するだけでなく、自己内反省(Reflexion in sich)するものだと知っており、
    単なる把握から反省を区別する。

 ※対象を真に捉えようとする知覚の運動はまず、知覚と感覚的確信の円環をなす。
   意識は感覚的確信の思い込み(自己)に押しに戻されることで、運動全体の問題に自覚的になる(?)。
   自覚的になるということは、対象の運動から自己に反省する(押し戻される)ことでもある(?)。
   対象を真とみるのは変わらない。

 ※この自覚が円環運動の契機を反省的に――ということは意識と対象の関係において――捉えることを促す。
   次節からは問題の所在が明確化されつつ円環を辿り、それらが展開される。
  
 ※主観的な解釈がより多くなってきました。難しいです…。
    
(第7-8節終わり)
295ねこゆき:04/02/07 16:07
7-8節は特に難しかった。
7節の小刻みな弁証法的展開は形的にはわかりやすいが中身は捉えにくい。
特に中半(>>293の4)がちょっとピンとこない。
とりあえず、個別的な性質は「性質」でないから、対象の性質は感覚的存在一般だという行き着いた地点だけ押さえればいいか…

それより問題は8節
このたびの対象の矛盾をたどる意識の経験では、意識に帰着して自己内反省するわけで、なんか真偽の尺度みたいなのに逢着するみたいな。
これは感覚的確信の意識の経験のとき、知と対象を逆転させて、自我を本質、対象を非本質とした段階に相当するのかな?
ただあの時は、対象の個別性を維持できなくて感覚的確信全体へと移ったけど、今回の知覚の経験では感覚的確信も保持してるから複雑なのかな?

今にして思えば、感覚的確信についての意識の経験における弁証法はまだわかりやすいのかもしれない。
296考える名無しさん:04/02/11 23:46
Hegelのいう「意識」には、感覚的意識や自己意識などいろいろあるようですが、
共通的に「意識」というとき、この語でどんなことを指しているのか、彼の理解を
数行で表現するならどういうことになるでしょうか。
297考える名無しさん:04/02/12 04:44
意識とは自己と対象との関係を打ち立てている生命の力能である。
298考える名無しさん:04/02/12 05:02
そうすると、動物一般の意識のことだな?
299考える名無しさん:04/02/12 08:03
そこで意識の統一的な意味を語ってしまったら、ただの神学になりませんか?
300考える名無しさん:04/02/12 09:18
エンチュクロペディの「第一部主観的精神」のうちのBで「B 精神の
現象学 意識」と、意識を、わざわざ、精神現象の副題にしている位で
す。>>299、確かにHglは神学、でも一方具体の人。>>297>>298、「自己と対象」
という意識のモメントを、特にこの「モメント」という関係に注目して
具体的に数行で表現するとどうなるのかな、というようなことを考えて
いますがはっきりしません。
301考える名無しさん:04/02/12 09:21
「モメント」は、勿論、弁証法でいう「モメント、契機」のつもりです。
302考える名無しさん:04/02/12 14:46
現象学って一言でいうと直感が正しいってこと?
303constellation:04/02/12 20:42
>>302
まあ、そういうことでいい。
現象学は要するにもっとも普遍的なものは、最も具体的なものだ
という主張だ。俺の解釈では。

でもヘーゲルの現象学と現代哲学の現象学は意味が違うよよ
ほぼ百八十度違うと言ってもいい
304marginal:04/02/12 20:51
●第9-12節(p.239-243)
知覚の経験(2)―――矛盾の展開

■媒体としての自我と統一としての物(9)
 ・知覚の意識は物をまず「一(_Eines_ )」と捉え、これを真とする。
  多様な性質が現れるが、これは意識に由来し、多様性は意識に属するとする。 → 感覚、知覚(Gefuehl ,feeling)
  
 ・自我 = (多様な性質が相互無関心に存立する)普遍的媒体(das _allgemeine Medium_)
    物 = 「一」という自己同等態(Sichselbstgleichheit)

(続く)
305marginal:04/02/12 20:54
■統一としての自我と媒体としての物(10−11)
 ・しかし意識が引き受ける多様な性質は本来、互いに無関係でなく規定されたものだ。
  また、物が「一」であるのも、他の物と排他的に対立することによるはずだ。
 
 ・しかし物は、「一」という規定のみをもってしては、他の物と対立的に関係できない。
  他のあらゆるものも「一」だから。
  つまり、「一」であるとは<自分自身へと関係すること(Auf-sich-selbst-beziehen)>だから、
  これは全てに妥当してしまい(普遍的)、そこには区別がない。
  
 ・したがってそもそも物自身がそれ自体で規定を持っている。
  (Die Dinge selbst also sind _an und fuer sich bestimmte_)
  物は、他から区別されるために、固有の性質を自身に備えている。
  
 ・物  = 普遍的媒体(もまた)
  自我 = 物の自己同等性(をになう働き)
 
 ・自我は「〜のかぎりでは(_Insofern_)」を用いて物の「一」を成立させる。
 (多様な性質を持つ塩は、白であるかぎりで一であり、立方体であるかぎりで一である。)
 
 ・このとき性質は、自由な素・質料・素材(freie Materie)と考えられている。     
  したがって物は素の集合であり、単にそれらの素を包括する表面(Oberflaeche ,surface)
  とされることで、真の「もまた」へ高められている。

(続く)
306marginal:04/02/12 20:59
■統一と媒体としての物(12)
 ・意識は、自分と物に一と多を交互に(abwechslungsweise)振り分けた。
  この比較により意識が経験したこと。
   
     ・把捉は、ただ把捉することと、自分へ還帰(反省)するという多様性を持つこと。
      (_Verschiedenheit des Auffassens_ und _des In-sich-zurueckgehens_ an ihm hat)     
    
     ・真なるもの自身である物が、二重の仕方で現れること。
      (dass vielmehr das Wahre selbst, das Ding, sich auf diese gedoppelte Weise zeigt)
    
     ・物は対立した真理を自分自身に備えていること。
 
 ※意識が前に経験した知覚の円環運動は、感覚的確信に押し戻されるというどこかおかしいものだった。
   そこで意識は自分に原因があるのではないかと、その運動に対象だけでなく自分も契機として入れてみた。
   一と多を対象と自分に振り分けていくことで、物自身が二重のあり方をするのだと意識するようになった。
   (いいかげんな書き方ですいません。)
 
 ※難しいので自分に分りそうなところだけ書きました。
 
(第9-12節終わり)
307marginal:04/02/12 21:01
>>303
ヘーゲルの現象学は、「精神がいかに現象するかについての学」ですよね。
308考える名無しさん:04/02/12 22:54
フッサールの現象学とヘーゲルのそれは全く異なるが、フッサール系の現象学を
やってるうちに、ヘーゲルに近づく人も少なくない。
309考える名無しさん:04/02/12 23:42
真なるもの自体、つまり「モノ」は、しばしばそれ自身をこのような二重の仕方で示すのである。
310考える名無しさん:04/02/12 23:53
ヘーゲルは「思い込み」から「一般的」な確信に移っていくように見えるが
それが「天動説」とか、その時代に「一般的」な「迷信」とかでないとどうして
云えようか?
311考える名無しさん:04/02/13 00:00
何となく読んでいると見過ごすが、「このもの」とか言ってるのは要するに
「これ」なんだよ。「いま」、「ここ」と対比して考える必要がある。
312constellation:04/02/13 02:17
>>307
うん、そう。僕がヘーゲルと現象学を反対のものだと言ったのは
サルトルの「存在と無」、その「フッセール、ヘーゲル、ハイデガー」の章で
サルトルが、「精神現象学」は「私」という主体を忘れた思想だと指摘し、
現象学と対置していたところからきている。
 僕自身もヘーゲルは普遍を最重要視した思想家だと思っている。それに対し現象学の主張は、「普遍は具体から演繹される」というものであると僕は考えている。だからヘーゲルと現象学は対極のものであると書き込んだのささ。

別の板ですごい恐いお兄さんに煽られて今意気消沈。
このスレに来て気分転換。
313constellation:04/02/13 02:28
あれ!?今考えると302の人が言っていたのはフッサールらの現象学ではなくて
精神現象学のことかな?
だとすると俺は完全に反対のことを言ったことになるな
このスレで現象学と言えば精神現象学に決まってるわな。
スマソ。。・゚・(ノД`)・゚・。
314302:04/02/13 10:48
>>313
いや。デリダの解説本を読んでたらフッサールとハイデガー現象学への言及があって
その大まかな解説を読んだら現象学というのは直感が正しいということなのかと
思ったのです。
現代の現象学と正反対とかそこまでの知識はないです。勉強になりました。
315考える名無しさん:04/02/13 11:38
Hglで「精神現象 nearly equal 意識」とするなら(>>300)、現哲の「現象」と大差ないのでは?
両者の究極の差は那辺にありや。?
316考える名無しさん:04/02/13 11:42
補足:「意識 nearly equal 主体」として。
317考える名無しさん:04/02/14 15:17
>>310
an sich の思い込み(迷信でもOK?)から、a & f sich の確信に行く途中
でfur sich を経由しているのでは?
318考える名無しさん:04/02/14 15:20
他のスレでやれ。
319考える名無しさん:04/02/14 15:24
>>317
もっとお母さんみたいに言ってくれ。
320ねこゆき:04/02/14 19:45
9−10節
一である物が多様な性質を持つという矛盾は、多様な性質は意識の側で生じたとすることで、矛盾を回避するとともに、
物の「一」性と真理を確保できた。(9節>>304)
しかし──(10節)、この「しかし」からがわかりにくい。原典のままだと「普遍的媒体」を意識として読むところだ。
「しかし」、多様な性質は、普遍的媒体としての物の中に有り、規定されている。これを新たに吟味する。
というのも
>物は、「一」という規定のみをもってしては、他の物と対立的に関係できない。(>>305)
から。
第一に、物はそれ自身に有る(物は真である)
それゆえ、一定の性質は自分自身において有る。
しかし、一定の性質は、諸性質が区別されているからこそある。(物性的規定?)
つまり、諸性質は、物性的同一性の中に有りながら、それ自身である。
ここで、物は真であるということは、物は普遍的媒体であるという形で捉えなおされる。

超難しい。ヤバイかも。まっいいか。後日続きをやりながら見直す。
321考える名無しさん:04/02/14 20:28
「物が真である」というのは自己同一すなわち、A=A的な意味だろうけども
ヘーゲルは当然これを超えていくわけだよね。
322ねこゆき:04/02/15 18:27
第11節
物が普遍的媒体になることで、それまで普遍的媒体であった意識に対立的契機が現れる。
物の「もまた」は、独立した諸々の性質の存立にかかわる統一にとどまる。
そこで意識は、これらの性質を意識において統一すべく(物の自己同等性をになうべく)、「限りにおいて」を持ち込む。

12節(>>306)
これまで、意識の経験というのは、意識と対象を契機とした螺旋的なジグザグ運動みたいな感じだったけど、それが12節に至って構造みたいなのに煮詰まった感じかな。
323marginal:04/02/27 03:30
●第13-15節(p.244-247)
知覚の経験(3)―――物の没落

知覚はここに至って、運動全体を意識するようになる。そこに働いている論理は対自と対他であった。
対自と対他は物においていかに働いているか。「一」と「多(もまた)」が同時に物自身に属していると
知覚は思うようになったが、論理としての対自と対他はどうなのか。知覚は対自と対他を二つの物に
振り分けて考えてみる。そうしていまだ物の「一」を延命させようとする。
 ※内容を十分に経験すると形式が見えてくる?

「一」であるとは区別がないということでもある。しかし対自と対他を二つの物に振り分けることで、実は
一つの物自身に区別が帰属するということが明らかになる。これらを二つの物に振り分けるということは、
それらの間での対立関係の樹立でもある。そこにおいて物は「本質的な」属性(ロックの第一性質?、
延長、運動・静止など)と「非本質的な」属性(第二性質?、色、味など)の区別を自身に持っていることになる。

物は「一」であるといままでの意識は思い込んでいた。しかし物は他と関係するものである。
他と関係するということは「一」であるという自立性(Selbstaendigkeit)の否定である。
こうして一である物の本性を探っていくことで、知覚はついに物自身の没落を経験する。
 ※崩壊、没落する;zugrunde gehen。zugrunde には基礎、根拠;Grund という言葉が見える。
   zu は to、gehen は go。したがって没落することはその根拠に至るということでもある。

※さしあたり物の根拠になっているのは、後に出てくる「力(Kraft)」のことだろうかと思う。
  意識にとって対象は<これ → 物 → 力>となり、悟性で力動的な世界観を持ち、力の戯れの原因は
  意識の内面であり、そうして自己意識へと、ということだろうか。
※規定、性質、属性の違いがはっきりつかめない。
※とりあえず投げないためにこういう書き方になりました。
324考える名無しさん:04/02/27 05:17
>>323
おお、久しぶりではないか
いままでどうして短大
325marginal:04/02/28 04:32
>>320
ホントに難しいですよね。
この「知覚」章でやめてしまう人も多いんじゃないかと思いました。
悟性の終わりごろから自己意識の章はとても面白そうな気がするので
少なくともそこまではなんとか持ちこたえたいですね。
>>324
書き込む勇気があまり出ませんでした。
326じゆん ◆DxrYYrrJjQ :04/03/05 02:18
『精神』とは

せいしん 1 【精神】                [インフォシーク:大辞林]より
(1)人間の心。心のはたらき。
(2)物事に対する心の持ち方。気構え。気力。
(3)物事の最も根本的な意義。真の目的。理念。
(4)〔哲〕〔英 spirit; (ドイツ) Geist; (フランス) esprit〕
(ア)(物質・肉体に対して)心・意識・霊魂など。
(イ)心の本質・本体。感覚や情念などのはたらきとは異なる高次の普遍的性質をもち、
理性・理念・意志・愛などの主体となる一方、非個人的な実体として世界の秩序やその
形而上学的原理ともされる。


突然ですいません。
えーと楽しく読ませて頂いております。いちおう勝手に精神の意味を調べてみました。
ところでみなさんは『精神』の意味をどのような意味で使っていますか?
もし失礼でなければ教えてください。
あと、いちおうヘーゲルの『精神現象学』(平凡社ライブラリー刊)は買ったはいいけれど
全然読んでません。低レベルですいません。もしここは面白いって言う箇所があったら是非教えて
頂きたいのですが、、、(その部分だけは絶対に読もうかと思いますんで(笑))
よろしくお願いします。
327じゆん ◆DxrYYrrJjQ :04/03/05 02:23
とりあえずアゲ
328レテ。:04/03/05 03:48
>>326
とりあえずヘーゲルは(4)のイの意味で使ってるんじゃないか。
たぶんそうとも言えると思う。
329あぼーん:あぼーん
あぼーん
330考える名無しさん:04/03/07 13:34
長谷川宏訳(作品社)を買おうと思ってたけど、このスレがあるから
樫山欽四郎訳(平凡社ライブラリー)も買うことにしました。ブックオフで
安かったし。カントの三批判書を今読んでいるので、それが終わったら
読み始めます。がんばってくださいね。
331ねこゆき:04/03/08 20:22
第12-15節。
物を普遍的媒体とした後、逆に意識を普遍的媒体とし、今度はその全体を意識は比較するようになる。
それは意識と物がそれぞれ二重の仕方で現れることに気づくことだ──意識の経験──
しかし13節での物の「二重の存在」の記述は物の側からの記述に見える。
意識の対象を運動全体と設定した上で、物の側から…?
>対自と対他は物においていかに働いているか。(>>323
というmarginalさんの問いをそんな方向で受け止めた。
それで、意識は物に帰するわけだが「一」と「もまた」を同時に一つの物に帰せられないから複数の物に帰することにする。
ここから「物はそのために他の物と対立はするけれども、その対立に在りながら、自分だけで自分を支えることになっている」(15節)と
いう「物の本質的性格」──物をすべての他の物から区別する規定態──に至る。
しかし対立という関係は残る。というかこの関係が物の自立性を否定する。
このようにして物の二重性から始まっても物に帰すれば結果的に自立性を保てない。
これが「物は自らの本質的性質によって没落する」ということ。

一見marginalさんのまとめを反復してるようだけど、俺自身勘違いしているような気がする。
それはそれとして、個人的目標として大枠の流れの線が完全に断ち切れないように読み進めることができればいいなと思います。
中休みの間ぽつぽつと前のところをやり直していたらヘーゲルの論法に嫌気がさしたけど、その成果が出たのか、ヘーゲルから離れた
一般的なところで自分が少しだけ冴えるようになっている気がしたw
332彗星:04/03/13 12:19
こんなんあったよ。

米「新帝国主義」と文明の衝突の帰趨
http://www.asahi-net.or.jp/~EW7K-STU/bei-sinteikokusyugi-bunmeinosyoutotu-kisuu.htm
333marginal:04/03/14 09:38
●第16-18節(p.248-249)
知覚の経験(3)―――われわれのまとめ

物の一性は、二重の「〜のかぎりでは(Insofern)」を導入することにより、維持されていた(第14節)。
 1)対自存在と対他存在を分ける「〜のかぎりでは(Insofern)」。
 2)「本質的な」規定と「非本質的な」規定を分ける「〜のかぎりでは(Insofern)」。
しかし、これらの区別の固定性は廃棄される。

1)について。
 物はまず対自存在(Fuersichsein)だった。純粋な対自存在は自分自身にのみ関係するものであるはずだ。
 自分にしか関係しないということは、あらゆる他者の絶対的否定(absolute Negation alles Andersseins)である。
 従って対自存在は、自分自身にのみ関係する絶対的否定、すなわち否定の自己関係でもある。
 ところで否定の自己関係 = 自分を否定することは、自分を止揚することでもある。そしてそれは、他者の内に
 自分の本質を持つということでもある。要するに、純粋な対自存在でさえ他者の存在がどうしてもつきまとう(?)。
  ※対自存在の自立性の否定を異なる言い方で説明している? 自己の止揚のところは疎外のことを言っている?

(続く)
334marginal:04/03/14 09:40
2)について。
 何らかの物である以上、この場合の対自存在は「本質的」な規定(?)(延長など)を持つ。
 さらに、「非本質的」な多様性(感覚器官に知覚される性質)をも持つ。
 しかし、ここでの本質的・非本質的という区別は言葉の上だけのことである。
 非本質的なものであれ、それが「必然的」であるならば、非本質的ではないからである。

こうした事柄によってヘーゲルが言いたいのは、物は一方の観点の反対を自分に備えているということである。
つまり、物は矛盾的なあり方の統一体であり、そのようなあり方においては、本質的とされた対自存在、
非本質的とされた対他存在の両規定のいずれも、非本質的な契機にすぎないということである。

※ヘーゲルは、抽象的(一面的)な同一性に差異を見出し、それを区別 → 対立 → 矛盾へと際立たせ、
  抽象的な同一性を崩壊させる。そして見えなかった根拠を浮き上がらせ、それについての新たな同一性が
  立てられる。小論理学の反省諸規定のあたりを眺めていると、こういう論法を用いているのではないかと思う。
  総合だけでなく、いたるところにズレを見出していくのもヘーゲルの思想の特徴だと思う。
335marginal:04/03/14 10:20
>>326
ヘーゲルの「精神」は、意識をも含んだ実体概念のことだと私は今のところ思っています。

自己意識の章、特に主と奴の弁証法は有名ですね。実際に読んでみると自分なりの
考えが浮かぶかもしれません。加藤尚武編 『ヘーゲル「精神現象学」入門 [新版] 』
(有斐閣選書)などを一読されて、面白そうな箇所を読んでみるというやり方もあるかと思います。

>>326>>330
私は主に樫山訳、牧野訳、山本訳(世界の名著)を参考にして読み進めてきましたが、
樫山訳は原文を見ないとちょっと分り辛いんじゃないかと思うところがあるように感じました。
自分にとっては牧野訳がしっくりきています。

>>331
部分的な解釈に留まっていると、全体の流れを見失いがちになりますね。
なんとか反映できるようにしたいのですが…。
336marginal:04/03/14 17:22
●第19-21節(p.249-254)
知覚全体のまとめ―――無制約の絶対的普遍

知覚における対象は、感覚的存在が止揚された普遍的なものだ。よってこの普遍は、感覚(感性?)
により制約された(bedingt)ものである。感覚により制約された普遍的存在、それが物である。

物の探究において、常識は抽象力をもてあそび、「〜のかぎりでは」や観点による違い等を持ち出して
区別を固定したりあれこれもてあそぶ。しかし抽象の本性は区別の固定だけでなく統合にも向かうものだ。
常識は最も豊かであると思っているところでいつも最も貧しい。

今までの考察でわかったのは、対自存在と対他存在が本質的に一つの物において統一されているということだ。
それは、同一の物に相互に対立したものが同時に属しているということでもある。つまり、物が矛盾したあり方を
しているということだ。

ここに現れているのは<無制約の絶対的普遍(die unbedingte absolute Allgemeinheit)>である。
つまり、物に制約されない普遍である。これが悟性の対象になる。

※bedingt(条件付の、制限された) は bedingen(取り決める、約定する)の過去分詞。
  be-dingen には Ding(物、物体)の語が見える。或る事柄の本来のあり方を探ることが概念把握的思考の
  特徴の一つだと思うが、それは言葉においても実践されているようだ。
337marginal:04/03/14 17:32
【訂正】
bedingen(取り決める、約定する) → bedingen(引き起こす、条件となる、取り決める)
【付け足し】
unbedingt の un- は反対概念を作る。

以上で「II. 知覚」の章は一応終わりです。
338考える名無しさん:04/03/14 19:49
他人に理解しづらい特異な言葉使い(創作言語)で
奇妙な考えを長々と陳述するのは
ある種の精神病によく見られる症状ですな。

典型的で雄大とさえいえる一症例
として歴史には残るだろうが、結局のところ
ヘーゲルの書き残したものは寝言以上のものではない。



339constellation:04/03/16 20:32
>>338
では例えばヘーゲルの「大論理学」に関して、どの辺が寝言なのか、
具体的に言ってくれ
340考える名無しさん:04/03/17 04:25
>>338
ヘーゲルの精神にたどり着けなかった人の、それこそ寝言だよ。
341考える名無しさん:04/03/18 03:10
>>335
金子訳がいいと聞いたんですがどうですかね?
342考える名無しさん:04/03/20 09:32
ヘーゲルの精神
343考える名無しさん:04/04/01 20:52
つづきは まだ ?
344考える名無しさん:04/04/02 15:37
頭のわるい人間の行動に雑音がともなうこと。
頭のわるい人間は理にかなった動きがとれず
無意味な付帯音(雑音)をともなうことが多い。
歩くときにやたら大きな靴音をたてるあほ。
しゃべるときに
えー、あー、おー、などの耳障りな母音をひきずるバカ。
しかもこういうバカがヘーゲル哲学をしゃべっていたりする。
じぶんのしゃべりがどれほど耳障りな雑音で汚れているか
自覚さえ出来ないバカが、ヘーゲル哲学をどういうレベルで
理解できているのか、はなはだ疑問。センスのない人間が
研究活動に加わるのは大きな迷惑だ。
345考える名無しさん:04/04/02 15:41
そうだね。
346考える名無しさん:04/04/02 15:44
あ〜、な〜るほど! 略してアナル。
347考える名無しさん:04/04/02 15:46
そうだね。
348考える名無しさん:04/04/02 15:47
>>347
迷惑だよ。
349考える名無しさん:04/04/02 15:48
>>347
研究活動に加わるのは大きな迷惑だ!
350考える名無しさん:04/04/02 15:49
そうだね。
351考える名無しさん:04/04/02 15:51
確かに、そうだね。
352考える名無しさん:04/04/02 16:19
>>351
迷惑だよ。
353考える名無しさん:04/04/02 16:20
確かに、そうだね。
354考える名無しさん:04/04/02 16:22
研究活動に加わるのは大きな迷惑だ!
355考える名無しさん:04/04/02 16:24
>>354
迷惑だよ。
356考える名無しさん:04/04/02 16:26
自作自演、ウザイ。
357考える名無しさん:04/04/02 16:45
そうだね。
358考える名無しさん:04/04/02 16:50
研究活動に加わるのは大きな迷惑だ!
359考える名無しさん:04/04/02 16:51
そうかな?
360考える名無しさん:04/04/02 16:53
自作自演、ウザイ。
361考える名無しさん:04/04/02 16:56
議論が沸騰しているようでたいへんけっこうだが、門外漢には
いまひとつ要点がのみこめません。なにが問題になっているのでしょうか?
362考える名無しさん:04/04/02 17:14
研究活動に加わるのは大きな迷惑だ!
363考える名無しさん:04/04/07 16:49
marginal さん、こんにちは。
凄いスレですね、ここは。
『精神現象学』の訳本は牧野訳が一番読みやすくて好きです。
ただ、牧野氏の訳は、金子武蔵の膨大な訳注を前提にしているところが多いので、
金子訳の注(注その一、その二)を参照しながら読むと、いいのではないかと思います。
金子訳そのものは、がちがちの硬い日本語ですが、膨大な訳注はほんと凄いです。
ヘーゲルの叙述の歴史的背景、当時の文化的土壌など、丹念に調べ上げていて、
日本の文献解釈学者の真骨頂を実感します。
ともあれ、頑張ってください。このスレ読むの、楽しみですよ。
364箜間桐孤 ◆TIGERSM8e. :04/04/09 22:38

く((レ゚ -゚ノァ∩<1よ 頑張れ  ここは金成の良スレだぞ
365考える名無しさん:04/04/20 02:54
保守
366考える名無しさん:04/04/26 01:52
ヘーゲルって身長何センチ?
367考える名無しさん:04/05/02 09:56
金子武蔵訳「精神の現象学」について伺いたいのですが、
岩波のヘーゲル全集に収録されている訳と、岩波の単行本
で出版されている訳とでは、注釈の量等に違いがあるので
しょうか?さらに以文社版との違いは?ご教授頂ければ幸
いです。
368考える名無しさん:04/05/02 17:51
自分の性欲を
常識が要求するレベルで制御できるほどの
知力の持ち主は日本人にはほとんどいない。
たとえば成人男性の7割以上が痴漢行為をした経験をもつなどと
聞かされると、こんな連中を人間扱いすべきかどうか考えてしまう。
道端で性行為に及ぶ犬どもとさほど変わらないレベルのやつらが
日本男性の7割以上を占めているのだから。
自分の周りにいるやつらを無闇に人間扱いするのは
大きなまちがいだと早く気づけ。

369ここの板壊れてます:04/05/02 18:09
頭のわるい人間の行動に雑音がともなうこと。
頭のわるい人間は理にかなった動きがとれず
無意味な付帯音(雑音)をともなうことが多い。
たとえば
歩くときにやたら大きな靴音をたてるあほ。
しゃべるときに
えー、あー、おー、などの耳障りな母音をひきずるバカ。
しかもこういうバカがヘーゲル哲学をしゃべっていたりする。
じぶんのしゃべりがどれほど耳障りな雑音で汚れているか
自覚さえ出来ないバカが、ヘーゲル哲学をどういうレベルで
理解できているのか、はなはだ疑問だ。
センスのない人間が研究活動に加わるのは大きな迷惑だ。
370考える名無しさん:04/05/02 18:37
>>336 「bedingen、制約する」は、大論理学の反省論では、Ding=物、にひっかけて、「物化する、実在化する」と言うニュアンス(「制約する」の逆のベクトル、発出方向のニュアンス)でも使われているようです。
形で
371佐伯:04/05/07 21:48
今日から読み始めます。長谷川宏訳を使います。今日は序文だけ。
5/17読了予定。よーいスタート!
372佐伯:04/05/07 23:55
「絶対の相においては一切が同じになる、というこの形式知を、区別と充実を備えた、いや、充実を
模索し希求する認識に対置し、絶対なるものは、よく聞くいい草を使えば、すべての牛が黒く見える夜なのだ、
といいはなつのは、おのれの認識力の欠如を無邪気にさらけだしたものというしかない。」

有名なシェリング批判ですね。ちょっとQK
373考える名無しさん:04/05/08 00:22
>>371
何がしたいのか良くわからないけど、引用は作法に従ったほうがいいよ。
374考える名無しさん:04/05/08 00:25
うるちゃいよ。
375佐伯:04/05/08 00:35
>>373
なんだお前?意味不明w
376佐伯:04/05/11 00:55
序論まで読んだ。合わせてこのスレの122ページまで読んだ。

いやーマージナルさんはよくまとめてますね。俺なんて二日で片付けたこともあって
よくわからないところはバンバン飛ばしてます。何回か書かれてるとおり、用語法が
よくわからないですね。俺は論理学も知らなければヘーゲルも初めてだしw。
読みやすいという評判の長谷川訳を使ってますが、ちょっと不安。樫山訳も欲しいところです。
377考える名無しさん:04/05/18 07:46
くそスレあげんな
378考える名無しさん:04/05/18 14:49
↑おまえだろw
379考える名無しさん:04/05/18 20:16
↑自己言及のパラドクス
380marginal:04/05/29 16:04
【知覚のまとめ】

知覚は<多くの性質からなる物>を対象とする。日常的には、物はたいてい単一体として扱われるだろう。
しかし「性質」という観念が意識されると、その側面からは物は多であるとも考えられうる。同一のモノに
相反する規定が属することができるのだろうか。

生成したばかりの知覚は、できないはずだと考える。知覚の持つ正しさの基準は<(或るものが)
自分自身と等しいこと(Sichselbstgleichheit)>だから。これに従えば、物は一ならば一、多ならば多で
なくてはならないはずだ。

知覚は観点の違いなどを持ち出し、それを固定して物の同一性を維持しようとするが、成功しない。
それどころか同一性を維持しようと思考を動かしていくことで、ついには物は矛盾したありかたをしている
のだと思い知らされる。

感覚(感性)に引き留められている、知覚という意識はこれを扱うことはできない。感覚(感性)に縛られない
普遍とはどのようなあり方をしているのか。これが次章、悟性のさしあたりの課題となる。

知覚が知ったのは、日常そうであるように物は静かにそれだけであるように知覚されても、その実そこには
他との関係がすでに前提されていたこと、すなわち関係といういわば広大な地平が開けたこと、そして
この関係の網の目を動かしていた思考の論理は、対自存在と対他存在という二つのあり方だということ、
こうまとめられうるのではないかと思う。

してみると日常的にみえている物の姿は、そのような関係の網から意識が知らずにそれとして抽象した結果
と言えるだろうか。持ち出された観点について、これは関係の動きを先鋭化し固定化した産物だった、とは
言えると思う。

381marginal:04/05/29 16:43
悟性はおそらく関係の運動を力と捉える。両力の戯れ、現象を介して、内なるもの(感覚を超えるもの)が導出される。
悟性は現象を介して内なるものと推理連結することになる。対象意識だったはずの意識がいかに内面へと向かうか。
それには現象という概念がキーになる。現象概念の見解の違いにカントとの分岐点の一つがあるかもしれない。

V.力と悟性、現象と超感覚的世界は、全34段落で構成されている。今までと比べて非常に長いこともあって
構成の成り立ちはよく分らないので後にまわしたい。また、この章は全体として即自・対自・即かつ対自という形式を
とっているか分らない。まずは、とりあえず最初の10段落を一まとめにして見ていきたい。しかしそれも1段落ずつ
見ていくことになると思う。一度あげさせてください。
382marginal:04/05/29 16:52
>>381
訂正;内なるもの(感覚を超えるもの) → 内なるもの
383考える名無しさん:04/05/30 14:52
死んだら?
384marginal:04/05/31 18:30
●第1・2段落(p.256-258)
悟性章全体のan sich?

・今までのまとめと注意
  知覚で扱われた二項対立する規定は<無制約的普遍>へとまとめられた。
  これを固定したものと考えてはいけない。そうすると、他方に何か別の固定した項が
  立つことになり、両者とも非本質となるから。
 
・われわれの認識
  この無制約的普遍は今のところ「対象」としてある。この概念(潜勢態?)をまだ<概念>
  (直接性を止揚して媒介を経た全体として自覚されたものという意味?)として捉えていないから。
  だから生成した結果としての対象の内に「自己」を見ることができていない。(※<内なるもの>の
  登場のことを言っている?)意識の側での反省と対象の側での反省は、実は一つの反省の運動。
  (※反省(還帰):外に出て自分に戻る運動)
 
※第二段落は第一段落への敷衍とみることにする。ヘーゲルの文章の難しさの一つは、
  ときに最初に出会う文章がこれからなされるはずの考察の結果を多く含み、
  それがしばしば難解な断言として述べられてしまうことにもあると感じる。
  だから読み手は判断・解釈を留保して読み進まねばならないことがある。
  読んでいる部分とan sichを行ったり来たりしなくてはならない。
385marginal:04/05/31 19:51
第3段落(p.258-259)
無制約的普遍が帰結したことの意味

1)否定面・肯定面
  ・否定的・抽象的側面 …… 意識が一面的な諸概念(規定の事?)を否定(捨象・放棄)した。
  ・肯定的側面 …… 対自存在・対他存在の統一の定立 → 絶対的な対立が同一の本質として定立された。
2)形式が内容となること
  ・対自存在・対他存在は単なる形式にすぎないのではなく、それら自身が無制約的普遍の内容である。  
3)内容が普遍的であること
  ・あらゆる内容が無制約的普遍に還帰する。どんな内容も独立してあるか他に向かってあるかであるが、
   そのあり方自体がその内容だから。
386marginal:04/05/31 19:53
第4段落(p.259-260)
無制約的普遍を成立させる契機

・意識にとっては形式と内容の区別がある       
      <内容>                          <形式>
  多くの自立する物質の普遍的媒体 ………………… 対他存在、物の自立性の解消、受動性
  それらの自立性を根絶する自己へ還った一者 …… 対自存在
・契機のあり方
  ばらばら(auseinanderliegen)にあるのでではない。
  本質である無制約的普遍の中で自己止揚的である。
  すなわち両者の相互移行(das Uebergehen derselben ineinander)が行われている。
387考える名無しさん:04/05/31 20:02
marginalさん頑張れ!!!
388marginal:04/06/01 19:23
【メモ】                               

知覚―対象                                       一者(Eins) …………………… 内容
 └┬┘                                          | 
  運動→帰結(Resultaet)                           ┌ 対自存在(Fuer-sich-sein) ……… 形式
       |         . .                        |  ↑         ↑|
     無制約的普遍(das unbedingt Allgemeine) … 統一(Einheit)―┤  |(絶対的対立)||(相互移行)
                         ..                 |  ↓         |↓
                           ..               └ 対他存在(Fuer-ein-Anderes-sein)
                                               |
                                              媒体(Medium)
389考える名無しさん:04/06/01 20:58
>>388
つーかこんなところに貼るなよ
自分のノートに書いてろ
390marginal:04/06/04 21:42
●第5段落(p.260-264)
力―――還帰と外化

・力(Kraft)と呼ばれる運動
                     ┌ 力の外化(Aeusserung)… 多、自立した諸物質の展開(Ausbreitung)     
   運動としての力全体(統一)―┤  ↑↓ 
                     └ 自己内に押し戻された力(die in sich zurueckgedraengte Kraft)
                        = 本来の力(die eigentliche Kraft)… 一、諸物質の消滅した姿(das Verschwundensein)  

・1) 自己内に押し戻された力は外化する。
 2) ただし力の外へではなく力自身の内での外化(In-sich-selbst-sein Aeusserung)。
・両契機が統一されているとわれわれは見るが、「悟性」は区別されているとみる。
・区別があるとみえるのは力が対他的にある証し。つまりいまだ対象としてあるということ。
・ほんらい統一されているものでも、両契機の自立性がなくては統一もできず、
 従って力自身もないことになる(自立性、区別の必要性)。
・統一は、自立した両項・極(Extreme)にとっては<中項・中間(Mitte)>として現れ、
 不断に両項へ分裂する。
・力の運動で帰結するのは、<非対象的なもの(Ungegenstaendliches)>あるいは
 <物の内なるもの(_Innres_ der Dinge)>としての無制約的普遍。
 
※前半は、媒体と諸物質の統一が、<有孔態(Porositaet)・止揚された存在>と言われ、
  そこにおいては諸物質は互いに重なりあい浸透しあっていても侵し合いはしないという
  矛盾したあり方をしているということしか分からなかった。
※第3段落からここまでは力の概念(力とはさしあたりこういうものだ)を説明したものだろう。
391marginal:04/06/04 22:01
金子訳は、学生のときこれをめくってみて、膨大な注に、理解するにはこれだけ
知っておかなくてはならないのかと、気が遠くなった思い出があります。
しかし当然いずれ手に入れなくてはならないものだと思っています。
392marginal:04/06/05 19:08
●第6・7段落(p.264-266)
力―――誘発者と被誘発者

★内容面からみた区別(一と多)
 ・一 → 多
  悟性は両項を固定したものとし、力を一者と考えると、媒体をその他者とする
  (一者と媒体を外面的な関係とみる)。
  力の外化を、この他者が一者に歩み寄り<誘発する(sollizitieren)>と考える。
 ・多 → 一
  力は外化したものとも考えられる。しかし力は本質的には一者だから、その外化は止揚される。
  悟性は、媒体にその他者である一者が歩み寄り、還帰するように誘発すると考える。

★形式面からみた区別(誘発者と被誘発者)
 ・誘発者(das Sollizitierende)← 交替(Abwechslung)→ 被誘発者(das Sollizitierte)
 ・誘発者は、誘発するように誘発されることにより、誘発者である。

★わかること
 ・力自身は本質的に一者であるが必然的に自己外化するもの。
   → 誘発する他者は実は自分自身。
 ・外化と還帰の運動においては、これら両側面は<消え去り行く契機(verschwindendes Moment)>。
   → 自立した両項は同一の概念が分裂したもの。

※一者 → 対自存在 → 被誘発者、媒体 → 対他存在 → 誘発者へと普遍性が高められていき、
  互いの規定性と段階が交替され流動化されていく。
※力自身も媒介されている。
※「概念」という言葉は相変わらず多義的に使われている。ここでは二契機を生み出す
  統一という意味か? よくわからない。
393考える名無しさん:04/06/05 19:37
つかこんなのおぼえてどうするの?
俺みたいに芸術やってる人間は
ファンタシーとかでパクれるけどさ
394marginal:04/06/05 19:39
※被誘発者は、(自分が)誘発されるように(他者を)誘発することにより、被誘発者である。
395ぴかぁ〜:04/06/05 19:39
役には立たないかもね。
396考える名無しさん:04/06/05 21:35
「痴人の戯言」(byラッセル)
397marginal:04/06/06 18:26
第8・9段落(p.267-269)
力―――両力の戯れ

・両力の戯れ(Das Spiel der beiden Kraefte)
  1)両力が対立して規定されること
    → 区別による自立性の必要
  2)対立して初めて互いに規定が対自的に存在すること
    → 相手を前提することで自分自身であること
  3)規定性が(すでに)ただちに絶対的に交替されていること
    → <移行>の運動がなければ規定の自立性もないこと
    
・力の運動の概念への洞察の仕上げ
 (Vervollstaendigung der Einsicht in den Begriff dieser Bewegung)
  1)内容上の区別 … 押し戻された力(一)⇔ 諸物質の媒体 … <われわれ>にとってみえる区別
  2)形式上の区別 … 被誘発者(受動的)⇔ 誘発者(能動的) … <われわれ>+<悟性>にとってみえる区別(?)
  3)両契機は消失する契機
  4)内容と形式の区別の消失
    ※3・4はさしあたりわれわれにとってわかることだが、意識は運動することでいずれ経験する。
 
※自立性は移行の運動がなくては生まれない。しかし自立したものがなければ運動もない(?)。
※自立した意識は、実は前提的に他者を措定する反省を行っているが、これは<an sich>になされるので
  通常は気づかず、自立し固定した項だけが存立しているように意識にはみえている。
398marginal:04/06/06 18:37
自立し固定した項だけが存立しているように → 自立し固定した項がそれだけで存立しているように
399佐伯:04/06/08 23:24
放送大学「ヘーゲルを読む(03)」が精神現象学に入りましたね。
400marginal:04/06/09 19:40
>>399
高山守さんが講義を担当されているみたいですね。ちょっと調べてみると、
ヘーゲルにおける「無」と「全体」をテーマの一つにしておられる方のように見えました。
(違っていたらすいません。)

『精神現象学』の序論(Vorrede)(>>22)に次のようにあります。この言葉は今でも気になっています。
<実体は主体としては純粋で単純な否定性である(Sie ist als Subjekt die reine _einfache Negativitaet_)>

実体を仮に全体と考えれば、実体(全体)は無なのでしょうか。もしそうであればそれはどういうことなのか、
主体との関連でどう捉えればよいのか、論理学において純粋存在=無といわれ、現象学はこのエレメント
(純粋存在=無)へ至るはしごであったこと、閉じた全体・開いた全体(?)...etc.
見当違いかもしれませんが、これらが未だばらばらに頭の片隅に転がっています。
放送大学は見られないので、気が向いたときに何か教えてくだされば助かります。
401marginal:04/06/09 19:57
【メモ】

誘発する他者が自分自ということ、力の戯れにおける規定性の移行
(転移という言葉がどうしても思い浮かぶ)周辺について。

精神分析の考えに(誰のかは失念しましたが)自分の不快な感情を何か
他に投影してそれを攻撃するとか、外部から攻撃してくるように感じら
れる何か他のものは、自分が投射したこと(?)などという考えがあった
かと思いますが、これに強引に関連させれば、ヘーゲルの思弁(speculation)
あるいは概念把握的思考は、自分が何をどのように先立って投射しているか
について自覚的であろうとする思考であると言えるかもしれないと思いました。
402考える名無しさん:04/06/09 20:05
教養によって積極的に疎外が始まるという話は
想像界→象徴界という流れに似ていると思った。
ジジェクは読んだことないけどラカンとヘーゲルをどう結び付けているのだろう?
403考える名無しさん:04/06/09 20:46
ラカンなんて支離滅裂なだけで、ヘーゲルに失礼だよ。
404考える名無しさん:04/06/09 21:15
ラカンはコジェーヴのヘーゲル講義にも出てたし、ヘーゲリアンとまではいかなくても
影響を受けていることは確か。エクリは確かに難解だけど、支離滅裂具合は精神現象学もいい勝負w
405考える名無しさん:04/06/09 21:49
ヘーゲルは自分が何を言っているか分ってたと思う。(ペテンな部分も自覚していたと思う)
が、ラカンは木村鷹太郎レベルとしか思えない。
406考える名無しさん:04/06/09 21:55
ラカンのヘーゲル的な部分は駄目(オイディプス周り)、
カント的な部分は良い(想像界、象徴界、現実界)と、
適当なことをいってみる。ヘーゲルが駄目って訳じゃ、
もちろんないけど、コジェーヴ経由の俗流ヘーゲルは駄目。
407考える名無しさん:04/06/09 21:59
ラカン的に云って、我々に見えている世界は何ですか?
408考える名無しさん:04/06/09 22:59
想像界、象徴界、現実界がカント的? ま、柄谷行人はそれぞれ感性、悟性、理性
なんてこじつけてるけどw ヘーゲルなんて俗流にでもしないと使い物になんないYO!
409考える名無しさん:04/06/09 23:05
>>408
カント的なんて誰か言ってる?良く見たほうが良いよ。
410考える名無しさん:04/06/09 23:15
>>408
坂部恵も似たようなことを言ってるでしょう。
411考える名無しさん:04/06/09 23:31
>>409
>カント的な部分は良い(想像界、象徴界、現実界)

眼科に行くことをオススメしますw
412考える名無しさん:04/06/09 23:53
カント 物自体⇔現実界 ラカン
の対応はあるがあとは、対応しないね。
柄谷の対応のさせかたはデタラメだよ。
413考える名無しさん:04/06/10 01:00
感性、悟性、理性に対応しているのはフロイトのエス、自我、超自我ですね。
想像界、象徴界、現実界をカントで言うと超越論的仮象、現象、物自体です。

スレから完全にズレてきた。すまそ
414考える名無しさん:04/06/12 04:06
w
415marginal:04/06/12 15:30
●第10段落(p.269-271)
力―――まとめ

1)力の概念(潜勢態)は両力へ二重化されることにより<現実的(wirklich)>になる。
   <現実的になる>とはここでは外化のこと。外化においても力の概念は本質として維持されている。
  
2)両力はそれ自身のみで成立しているのではない。
   二重化されるとは、まず極(固定した実体的なもの)として立てられること。それらは自分自身のみ
   では存立しえない。相互に相手を措定することによって自分自身だから。それはむしろ、自分は相手に
   よって措定されている(ein reines _Gesetztsein durch ein Anderes_)こと。それ自身の消失が起きている。
    
3)両極は、それらの中間(Mitte)・接触点(Beruehrung)の中でのみ、それら自身である。
   両極が中間に性質(規定?)を送ったり、中間が規定を両極に分配する(verteilen)のではない。
   中間において、不断に規定をすでに交替しあっている。それらはその中で自分自身となるが、しかし、
   自分であることがただちに自分であることをやめている。

4)こうした運動を経て帰結する力の統一は、<概念としての概念>というあり方をしている。
   力の現実化がむしろ、両契機とその運動の「支え」を失わせ、<区別なき統一(eine ununterschiedene Einheit)>
   への落下を引き起こす。ここに至り、力を<観念・考えられたもの(Gedanke)>と考えていることになる。
   この統一が<概念としての概念>と言われる(?)。
416marginal:04/06/12 15:57
※<概念としての概念>が何を言い表しているか、ここでのみ理解するのは難しいが、次のように思う。
  概念(an sich)から二項へと現実化し(fuer sich)、それらの相互運動により没落し、概念に帰着する
  (an und fuer sich)というこの運動全体が、<概念としての概念>という表現されているのではないか。
  概念 → 二極分裂(現実) → 概念としての概念(分裂と還帰の運動をするものとしての概念)(考えられたもの)。

※通常は<an sich>としての概念、例えば<Aそのもの>が第一にあるのではなく、極として現実化している
  <+A>と<-A>のいずれかが意識にのぼっている。どちらかのみ見えているというのは一面的であり、
  各自はその反対の否定を介してのみ自分自身であることが理解されれば、<+>あるいは<->としての
  あり方が崩壊し、それらの前提であった<Aそのもの>が主題化され、――ということは同時に<Aそのもの>に
  還帰することでもある―― <Aそのもの>がなければ<+A>と<-A>もないのだと事後的に理解される。

※要するに現実的に始元として第一にあるのは<+A>と<-A>のいずれかであり、迂回を通じて真の始元
  <Aそのもの>が浮き上がってくる。始元は迂回を経なければ捉えられないため、始元そのものをそのまま
  そのものとして捉えることは出来ない。すなわち迂回を経たものは真の始元そのものではありえない。が、
  始元はこのようにしてしか捉えられない。説明しづらいが、こんなことを思う。
417考える名無しさん:04/06/12 21:49
418考える名無しさん:04/06/13 05:51
                  
419marginal:04/06/19 04:08
【メモ】
構造を簡単に確かめておきたい。

第1-2段落 … 悟性章への導入と展望
第3-5段落 … 力の概念  ┐                              
第6-9段落 … 力の運動  ├─ 「力」について
第10段落 …… 力のまとめ ┘

次は、第11段落から第25段落までをひとまとめにして読んでいくことにしたい。
現象、法則、説明などの概念を用いて無限性の導出へと向かうことになる。
まとまりや見出しは主に牧野訳を参考にしています(完全に同じではありません)。
420佐伯:04/06/19 22:54
読了。予定より一ヶ月も長くかかった。
なんかもう、最後のほうってノリがポエムみたいだった。
次、ギリシャ芸術あたりの話がおもしろかったんで、次、美学講義読んでみよっと。
421marginal:04/06/21 19:57
●第11-14段落(p.272-275)
われわれの考察と展望―――悟性 - 現象 - 超感覚的世界

★普遍の違い
 ・先の無制約的普遍 = 直接的なもの、実体的にある押し戻された力、悟性の概念
 ・第二の無制約的普遍 = 力の本質・真なるあり方
                = an und fuer sichに現れている(darstellen)もの
                = 感性的・対象的なあり方の否定されたあり方
                = 物の<内なるもの>、概念としての概念と同一の内なるもの

★中項としての両力の戯れ         
 ・第二の普遍・物の真なる本質(内なるもの)は意識にとって直接的にあるのではない。
  悟性は両力の戯れという中項を介して内なるものと間接的に関係している。   
   → 中項を介して悟性は<物の真なる背後(Hinter-grund:後ろの-根拠)>を覗いている。

★現象としての両力の戯れ        
 ・両力の戯れ = (互いに消えゆくものとしての)力の展開されたあり方(das entwickelte _Sein_ der Kraft) 
          = 現象(Erscheinung)
 ・現象 = 仮象の全体(ein _Ganzes_ des Scheins)
 ・仮象(Schein) = それ自身においてただちに(unmittelbar)非存在(Nichtsein)であるもの
422marginal:04/06/21 20:02
★現象界・感覚界を超えた世界としての内なるもの
 ・内なるもの = 超感覚的世界、恒存的な彼岸(das bleibende _Jenseits_)、
           自体存在、理性の不完全な(最初の)現れ、
           真理がその本質を持つ純粋なエレメント   
 ・内なるものは意識の概念(潜勢態?)であるが、悟性はこれをまだ対象的に捉えている。
  だから内なるものはいまは極としてある。
  
★考察すべき対象
 ・<悟性 - 現象 - 物の内なるもの>という推理(Schluss)の関係

※<概念としての概念>をどう考えたらよいかいまいちはっきりしない。根源的統一が対立に
  分裂しまた統一に還帰する運動をするものとしての概念と一応捉えたが、
  何か見落としているような気がしてならない。
 
※これは、意識の側の反省と対象の側の反省が実は同一の反省であるということ(>>384)にも
  関わってくる気がする。対象の側の反省とは例えば当然テレキネシスのようなものではないと思う。
  思考する際、意識が主語になったり、何らかの対象が主語となったりするが、後者のような場合の
  ことを言っているのではないか。
 
※超感覚的世界・内なるものが<彼岸>と言いかえられていることはとても興味深い。
  一般に彼岸といわれるものは、確かに内面の投影と考えられなくもないから。
  民俗学の豊かなコンテクスト(境・坂など)につながりそうな気がする。
423考える名無しさん:04/06/22 12:23
424marginal:04/06/23 01:38
後者のような場合のこと → 後者のような場合における運動
425考える名無しさん:04/06/27 21:12
だれか1200文字以内(90%以上)で感想書いてください(´・ω:;.:...
レポートの課(ry
426考える名無しさん:04/07/12 23:10
427考える名無しさん:04/07/20 01:43
 
428考える名無しさん:04/07/21 16:41
ag
429考える名無しさん:04/07/21 16:51
キキキw
430考える名無しさん:04/07/24 20:46
すばらしいスレですね。
自分は今長谷川訳で読んでいます。
原語で読めるのは羨ましい限りです。頑張ってください!
431考える名無しさん:04/07/25 11:07
おれもそんな人のことをいつも羨ましかったり、嫉ましかったりしてる。
劇の題名は忘れたけど、昔、風間杜夫が演じてたセリフを思い出した。
「原語で読んで初めて判ったよ。カントの純粋理性批判って、
 純粋に理性を批判することだったんだ。やっぱ、カント(or哲学書?)は
原語で読まなくっちゃ。」
まったく自信ないけど、そんな感じのセリフだったような、違うような。
43218男:04/07/25 11:20
その風間って人、なんか誤読でないですか?
433考える名無しさん:04/07/25 12:32
>>431
コピペ?
434考える名無しさん:04/07/25 19:04
その劇って、もしかしたらだけんども、つかこうへいの作品でないかえ。
カザマモリオ扮する帝国陸軍の将校が、たどり着いた南島の離島で何で
だろー、なんとあのカント普及の迷作「純粋理性批判」、それもドイツ
語本を持ってる、って設定のつかこうへいの喜劇。
間違ってたらそういっとくれ。
432さんのおっしゃるとおり誤読でしゅ。そしてこいつが誤読だって
のを知ってる観客だけが笑いを得る、つかこうへいの喜劇だと思い
ましゅが、431さん、当たりだったらスレちょうでー。
43518男:04/07/25 20:58
>>434

「純粋に理性を」じゃのうてあえてゆーなら「純粋な理性を」かとおもた
436考える名無しさん:04/07/25 22:05
「純粋な理性を」←そのままやんけw

あとmarginalは原語で読んでるわけではないっしょ
437考える名無しさん:04/07/25 23:23
>>436

まぁ「あえてゆーなら」やからなぁ
43818男:04/07/26 08:31
>>436

俺435やが、「「純粋な理性を」←そのままやんけw」といってるの

それこそまさにカントが批判したもんだぜ。
理性は純粋なものと436さんは思ってるけどそれをカントは批判したんで

「純粋と思われてる理性ですら仮象する」ゃらゃら。

って生意気いってごめんしゃい。哲学板って何歳くらいの人がきてるんだ?
439考える名無しさん:04/07/26 10:10
der reinen vernunftだから「純粋な理性」じゃないの?
純粋理性に仮象はないし。そんなもの持てないというのならそうだけど。
440考える名無しさん:04/07/29 12:14
ところで、『精神現象学』はもう読了したわけ?
441考える名無しさん:04/07/29 16:25
んー
とね
明日ぐらいに
届くの
長谷川訳
442考える名無しさん:04/07/29 19:46
何にするの長谷川訳で?
443考える名無しさん:04/07/31 22:50
えー
別にするすると読めるらすぃーし

別段研究とかするわけじゃないし
いいじゃん!
駄目ぇ〜?
444考える名無しさん:04/07/31 23:34
ええんでねーか、それで。
かの吉本センセも、「何年か前に、長谷川宏さんがヘーゲルの「精神
現象学」をやさしい言葉の訳で出しはじめたりして、僕もこれはわか
りやすいやと思って読んできて.....」(別冊Niche@)と白状しとる。
読みやすい訳はほんと読みやすいげに、使わにゃそんそん。
445佐伯:04/08/03 16:03
長谷川訳で読んだけど、わかりにくいものはわかりにくい。
どーせなら解説が山ほどついた岩波全集版のほうがよかったかとちょい後悔。
までも漏れもヘーゲル研究してるわけでもないし別にいいか。長谷川氏の講談社メチエ(確か)から
出てる解説本とあわせて読むといいかもYO
446考える名無しさん:04/08/03 16:25
そうよ、よく言ってくれた。長谷川本でもわかりにくいものはわかりにくいのさ。
オレの能力云々の突っ込みはなしだぜ。
447考える名無しさん:04/08/21 14:37
まあ、時間と金銭に余裕があったら比較して読むのも一興。
オレは時間的余裕はぎょうさんあるが、金銭も根気もガッツも今ひとつ、
ふたつ無いで、やっとらんがね。
448       ↑:04/08/21 20:26
          無職なのでありんすか?
449考える名無しさん:04/08/21 23:10
精神現象学は長谷川訳が一番だと思うよ。人倫って言われても分からないが、
長谷川訳の共同体と言い換えられれば分かりやすい。(間違いではないし)
あと、精神現象学を曲がりなりにも理解したいなら、金子武蔵「ヘーゲルの精神現象学」
ちくま学芸文庫刊は併読すべき。金子が高校教師あてに精神現象学を解説したもので、
はっきりいって、かなり理解できるようになるし、面白さも伝わる。
450考える名無しさん:04/08/21 23:48
17 名前:考える名無しさん :02/11/18 23:04
長谷川訳を持ち上げるやつの特徴(以下、思いついた点を思いつくままに記す)。

・過去に他の訳(金子訳、樫山訳など)で読めずにコンプレックスをもっている
・専門的に確立した訳語であっても、自分が知らない特殊な言葉遣いは即「難解」と信じ込む。
・ドイツ語が読めないし、読もうともしないから、分かりやすければそれいいと思ってしまう。
・日本語のヘーゲル研究の歴史は知らないから、どうでもよいと思っている。
・要するに素人だが、長谷川訳を盾にヘーゲルのしったかぶりをしたい。
・長谷川訳がどういうものか知らずに頑張って定価で買い、熱心に読み始めてしまったので、
そのことを否定されたくないため、いまさら後にひけず、必死で弁護している。

私自身は(初心者への導入という役割もあるので)長谷川訳を頭ごなしに否定する気はないが、
だからといって「革命家」などと言って持ち上げているやつの気がしれない。
読みたいひとは読めばいいが、自分の論文で援用しようとはゆめゆめ思わない。
要するに、そういう類の訳。

http://mimizun.com:81/2chlog/philo/academy.2ch.net/philo/kako/1037/10375/1037575410.html
451考える名無しさん:04/08/22 01:01
>>450
つまらん。
452考える名無しさん:04/08/22 07:51
>>450うふっw

>自分の論文で〜

論文書かねーし
453考える名無しさん:04/08/22 11:50
長谷川訳を専門家の研究書で使うやつはいない。
間口を広げ、ヘーゲルへの関心を引いたんだから長谷川訳は偉大だ。
専門家とか翻訳の歴史とかいうカタイやつは原典のドイツ語を読めばいい。
原典を超えた翻訳はないからな。別の意義をもつ翻訳ならあるが(鴎外のゲーテ訳など)
454考える名無しさん:04/08/22 12:04
>>453
馬鹿か。原典で読めばいいんだったら初めから翻訳する必要がなくなるだろう? 俺は素人受けがいいからといって長谷川訳を持ち上げる香具師の気がしれん。
455考える名無しさん:04/08/22 12:11
であれば450の「ドイツ語が読めないし、読もうともしないから、
分かりやすければそれいいと思ってしまう」というのは長谷川派批判
としては不正確だな。
また俺は専門家受けがいいからといって金子訳を持ち上げる香具師の
気がしれん。・・・とも言いうるな。実際、脚注がうるさいし。

456考える名無しさん:04/08/22 12:18
脚注はないよりあった方がいいと思うが。
読むか読まないかは読み手の問題。

とはいえ俺は平凡社ライブラリーの樫山訳がいいと思う。
素直で正確な訳だし、廉価だ。この訳で十分読める。
457考える名無しさん:04/08/22 13:39
翻訳にこだわる馬鹿
458考える名無しさん:04/08/22 13:42
>>457
まともな翻訳ができるようになってから言え
459考える名無しさん:04/08/22 17:08
学術的な論文書くのに翻訳どれが良くてどれがダメかとか論じてる時点でゴミだよな。
一流研究論文は確実に原典読めてないとダメだ。
よって翻訳は初心者向けを重視すべきだろう(それのみではないにせよ)。
よって長谷川訳はエライってことになる。
(無論、スタンダードを確立した金子訳も別次元でエライってことになる)
460考える名無しさん:04/08/22 17:16
つうか長谷川訳は翻訳以前の問題だろ。
誤訳とか訳し落としとか恣意的な訳をしているんだから。
以前『理想』誌上で徹底的に叩かれていたが。

461考える名無しさん:04/08/24 12:20
「己の意識の絶対化」ってすげー思想だよな
2chでのゴタゴタ(意見の相違、対立、矛盾)も意識に現れる諸現象に過ぎないのに
お前らなんでそんなに必死なんだ?
ほんとにヘーゲルとか読んだのか?
462考える名無しさん:04/08/24 12:52
そういやどっかのスレで「分裂症者の時間や空間の観念は正常人とは違って居て例えば自分が目の前を飛ぶ蠅の軌道を操っているという錯覚に陥っている」と言うレスがあったが、
ゲーテはメフィストフェレスに「自分の意識が太陽の軌道を操っている」のだと自惚れて居る観念論者を『ファウスト』の中でからかわせて居たな。

463もれには教養が無いよ!見てわかると思ゆが:04/08/24 18:41
うそ〜んこぴ〜ん!!!
ゲーテて観念論者をからかったりすんのか!!!!!!!!

ゲーテ事態がヤバイ奴て思ってたケド
464ファウスト君:04/08/24 20:14
>463
教養の無い個の段階から始まって教養の道に踏み出し精神が全体性(客観性)を獲得する為の導となる書がヘーゲルの『精神現象学』ですよ。私はそう理解しています。
465考える名無しさん:04/08/24 21:34
で、464さんのお薦めの翻訳者はどなたかな?
466考える名無しさん:04/08/24 22:06
>>459
哲学の論文って、まともな審査基準がありうるのだろうか?
467考える名無しさん:04/08/24 22:34
お邪魔します、ヘーゲルの「歴史哲学序論」を戦前に
訳した今田竹千代をどなたかご存知の方おられませんか?
祖父の従兄弟にあたるらしいのですが直接知っているもの達が
皆、故人となった今、調べるよすががなく彼が大叔父にあたる
親戚の長老達が血脈に目覚めたのか今のうちにいろいろ調べておきたいと
希望しております、どなたかご存知の方あれば情報を頂きたく
書き込みました、宜しくお願いします。
468考える名無しさん:04/08/27 01:22
>>467
調べなければ解らない(自力で調べる事はできない)
この関係だったら血がつながっていたとしても完全に他人だろ。
こんな事調べてどうするの?何かくだらない商売でも始めるの?イミワカンネ
469考える名無しさん:04/08/27 17:04
467です、老人達のノスタルジーですよ、彼と従兄弟であった
親達から話に聞いてる叔父さん(戦時中は生誕地である私どもの
田舎に疎開していたので子供と親戚のおじさんといった関係で
接触はあったものの)いつごろ亡くなったのか知りたかった
だけです、お騒がせしました。
470世界@名無史さん:04/08/28 08:28
ところで、精神現象学って、話の展開が実際の歴史と対応してんの?
長谷川宏訳読んだから解説少なくてわからん。
それは単に俺の妄想?
471考える名無しさん:04/08/28 20:41
「俺の妄想」ではありません。もうソウなっているのです。
472考える名無しさん:04/08/29 18:18
473Gilles ◆4q1bQpUupQ :04/08/30 01:52
>>467
人間形成の原理 : 幼稚園から大学まで
今田竹千代, 小柳和幸共著
<ニンゲン ケイセイ ノ ゲンリ : ヨウチエン カラ ダイガク マデ>.
-- (BN04311256)
東京 : 理想社, 1968.11 245p ; 22cm
著者標目:
今田, 竹千代(1901-1995)<イマダ, タケチヨ> ;
小柳, 和幸<コヤナギ, カズユキ>

(http://webcat.nii.ac.jp/ による)
474ぴかぁ〜:04/08/30 02:00
ふぅ〜
475考える名無しさん:04/08/30 10:27
へえ〜。
476考える名無しさん:04/08/30 16:40
ほお〜
477ぴかぁ〜:04/08/30 22:23
へぇー
478考える名無しさん:04/08/30 23:30
473様ありがとうございます。
479ぴかぁ〜:04/08/30 23:32
ほおー
480考える名無しさん:04/08/31 19:49
うんにゃ。
481考える名無しさん:04/09/01 11:16
ぐじゅ
482考える名無しさん:04/09/01 20:09
プースー
483考える名無しさん:04/09/14 05:05:54
ヘーゲル (Georg Wilhelm Friedrich Hegel)1770年〜1831年【ドイツの哲学者】
シュツットガルトに生まれ、1788〜93チュービンゲン大で哲学と神学を学ぶ。
 ヘルダーリン・シェリングとは同窓の友人。1801イエナ大講、’08ニュルンベルグのギムナジウム校長。
’16ハイデルベルグ大、’18ベルリン大教授。フランス革命のうちに理想的自由社会の到来を見出し、
恐怖政治出現後主観主義的態度を反省し、徹底した客観的観念論を展開、近代ヨーロッパ最大の哲学者となる。
ヘーゲルの主著は「精神現象学」「歴史哲学」などであるが、彼によれば世界は唯一絶対なる理性の発現であって、
世界をもって理性の壮大なる殿堂とみなし、世界の歴史は絶対精神の弁証法的発展過程にほかならないとし、
古代より現代に至る世界歴史は、自由精神の自覚と発展の過程であると論じた。精神の完成形態を、市民社会を
止揚した近代国家に見出し、現実的にはプロイセン国家を肯定することに至った。
また、弁証法を方法論の基礎としたので、発展および運動という様相を説明しうることになり、その哲学は著しく
動的なものとなり、近代歴史哲学の体系を樹立したが、カント以来のドイツ哲学の潮流は、ここにおいて発展の
極に達して行きずまりをきたした。
著作「精神現象学」1807、「大論理学」’12〜’16、「エンチクロペディ」’17、「法の哲学」’21。

外国人名辞典より。
484考える名無しさん:04/09/14 17:17:16
zum Beispiel...

"Wenn der Wissenschaft diese Forderung, als ihr Probierstein, auf dem
sie schlechthin nicht aushalten koennte, vorgelegt wird, ein sogenanntes
dieses Ding, oder einen diesen Menschen, zu deduzieren, konstruieren, a
priori zu finden oder wie man dies ausdruecken will, so ist billig, dass
die Forderung sage, welches dieses Ding oder welchen diesen Ich sie
meine; aber dies zu sagen ist unmoeglich."
(Suhrkamp Taschenbuch s.87 z.9)

「いわゆる「このもの」や「この一人の人間」を演繹せよ、構成せよ、アプリオ
リに(先験的に)見いだせ、といったようなことがいわれるとき、その要求は、
学問にはとうてい耐えられない試金石なのだ、といった言い草があるが、問いか
えしたいのは、要求する人自身が”この”ものとか”この”自我というときなに
をかんがえているのか、である。が、それをいうのは不可能なのだ。」
(長谷川訳71頁9行目から)

  この訳などを見る限り確かに精確とはいえませんが、やっぱり発想には驚くべき
  ものがあるように思います。いわゆるKomentareとして読むと、得るものも多の
  では。わたしも訳に挑戦してみましたが、日本語としても翻訳としてもいまいち
  すっきりしません。誤訳などございましたら、ご教示ください。

「いわゆる「このモノ」、や「このひとりのニンゲン」の、演繹、構成、ア・プ
リオリな抽出等々、その他なんとでも言いようのありそうな要求が、試金石とし
て学問の前に提出されるとき――学問はその試金石に耐え得ないとされるが――、
実のところこの要求は、それがどの「”この”モノ」、や「”この”ワタシ」の
ことを念頭においているかを”言っている”にすぎない。しかしこれを言うこと
は不可能なのだ。」
485考える名無しさん:04/09/16 14:36:16
で、樫山訳は如何に?
486考える名無しさん:04/09/27 09:45:45
ほんじゃ、三浦和夫訳はどうなんよ?
487考える名無しさん:04/10/02 12:23:38
三浦さん訳の「精神の現象学序論」が早稲田の古本屋で¥1,100で
出てましたが、"買い"でしょうか?
488考える名無しさん:04/10/02 12:26:57
樫山訳+原書で十分ですよ。
489考える名無しさん:04/10/02 18:30:02
やっぱそうですよね。
でも、原書は堪忍して欲しいです。
あっと、487です。
488さん、ありがとうございました。
490考える名無しさん:04/10/02 18:40:22
1K以下に値切る!
491考える名無しさん:04/10/23 23:41:25
あげ
492考える名無しさん:04/11/01 00:18:00
ほう
493marginal:04/11/06 01:25:43
●第15-16段落(p.276-279)
内なるものと現象―――現象のみの世界

★内なるものをどう捉えればよいか
 ・悟性は内なるものをさしあたり次のように捉える。
    ・内なるもの = 純粋な彼岸(reines Jenseits)
             = 空虚(leer)
             = 現象の無(das Nichts der Erscheinung)
             = 単なる普遍(das einfache Allgemeine)
  空虚なのはそこにまだ自分自身を見出していないから。
  物自体が認識されえないのは当然。

 ・空虚を前にしてとる二つの道がある。。
    ・カント … 真でないと分っているものを真とみなす、すなわち現象にすがる
          (sich an die Erscheinung zu halten)。
    ・ロマン主義者 … 意識自身が生み出した夢想や現象で空虚を満たす。

※ここは自分としてはあまり書くことができない。物自体についてよく勉強していないから。
  ただ「現象にすがる」というのがちょっと引っかかる。カントは物自体の世界(叡智界)を
  自由の原因として積極的に利用したと思ったのだけど…。
494marginal:04/11/06 01:30:23
★われわれの捉え方
 ・内なるものは現象から生成したものだ。現象こそが内なるものを媒介する。
  つまり現象が超感覚的彼岸の本質である。現象が内なるものを充たしている内容である。
  超感覚的なものとは<現象としての現象(die _Erscheinung_ als _Erscheinung_)>である。
 
 ・現象としての現象とは通常考えられているような直接的で感覚的な世界のことではない。
  止揚された世界、内なるものとして立てられた世界のことである。
  
※内なるものも独立自存し無媒介にあるのではない。他に本質を持ち、それに媒介されたものだ。
  ということは、内なるものを第一と考えるべきではなく、むしろそれを生じさせる現象の方が
  第一のもので、内なるものは二次的である。ここである種の転倒が起きているように見える。
 
※内なるものも現象するものである。とすれば現象の背後は存在しないと言い切ってよいのだろうか?
495marginal:04/11/06 01:34:12
>>494訂正
内なるものも現象するものである。→内なるものも現象したものである。
496考える名無しさん:04/11/06 01:41:22
ここでの現象は、本質的特徴を把握されたところの現象なのであり、雑多、偶有的なものは
すでに排除されている。把握された例えば法則性が現象の本質なのであり、この把握は内にあるとしても
本質だ在る法則性は現象においてこの把握を媒介しているのである。
497考える名無しさん:04/11/06 11:07:50
よっ、marginal待ってたよ。
498考える名無しさん:04/11/06 11:59:38
ほんと、久しぶりです。
で、続けるんでしょ、marginalさん。
期待してます。
499考える名無しさん:04/11/06 16:02:05
おいおい、marginalよ、珍しいじゃんかよ。
ほんじゃ、お手並み拝見と行くかな。
500考える名無しさん:04/11/06 19:33:22
500getなんてしませんよ
501考える名無しさん:04/11/06 20:27:26
おお、このスレ続いてたんですね。
当方、長谷川訳を断続的に何とか半分ぐらいまで読んだのですが・・・・
で、素人的質問で恐縮なんですが、皆さん原書は何をお使いですか(全集版の
コピーですか)?

実は以前に法哲学(中央公論版)を読んだ時には、Suhrkamp版(Werke7)を時
折参照したので、これだとサイズ・値段も手頃ですし、今回もSuhrkamp版を購
入しようとしたら(在庫切れか絶版?)入手困難なようです。
当方は、哲学も素人ですし、ドイツ語読解力も大昔の学生時代の能力が退化し
た状況ですが、前レスでもどなたか指摘してたように、翻訳に全面依存でなく
原書も脇に置いて参照することも必要と思ってます(法哲学の時も覗き見程度
でしたが結構参考になりました)。
というわけで、全集も数種類出てる(!?)ようですし、その辺りの事情も含め
てどなたか御教示下さればと存じます。
502marginal:04/11/07 03:49:26
>>501
私も詳しくありませんがSuhrkamp版が一般に普及しているようですね。
私は>>1のサイトのものを使っています。学生のときに途中までコピー
しておいたSuhrkamp版(WERK3)を見ることもあります。>>1のものは
少なくともSuhrkamp版ではないと思います。

答えそのものではありませんが、ざっとググったところ以下が多少参考になるかもしれません。
講義録新資料にもとづくヘーゲル像の刷新
ttp://www.hss.shizuoka.ac.jp/shakai/ningen/matsuda/hegel-01.html
Sou.Ogura's Homepage: HEGEL und die Familie
ttp://www.f4.dion.ne.jp/~so.o/
ヘーゲル関係資料→ヘーゲル「法(権利)の哲学」に関する第1次資料
503考える名無しさん:04/11/07 14:21:01
>>502
marginalさん、レスサンクスです。
>>1の原書版を早速「お気に入り」に追加しました。
ただ、やはりコンパクトで便利なSuhrkamp版は、手元に置いておきたいので、
暇があったら古本屋あたりを探索してみます。

また講義録の編纂状況に関する情報の所在についても、御教示下さり有り難う
ございます。
長谷川氏の『法哲学講義』が出た頃、書店でチョット覗いて見て、従来版と構
成が大きく異なるのにアレ!?と思った記憶はあるのですが・・・それきりでし
た。
記載のHPをごく簡単に通覧した限りでは、現在のヘーゲル研究の最前線は、ど
うやらテキストの内容解釈→思想の再構成という点よりも、テキスト(講義録
)自体の形成(編集)過程や成立が異なる複数のテキスト間での表現等の比較
検討といった、厳密な文献学的研究に重点が置かれているとの感想をもちまし
た。
前掲の長谷川氏の翻訳書は、確か1824/25年の最後の講義録をベースにしてたと
記憶してますが、それ以前にも多くの講義録があり一部は翻訳が出てることも
知りました。
因みにamazonで見たらSuhrkampからも来年早々1821/22年のが出るそうな。
確かに「講義録新資料にもとづくヘーゲル像の刷新」という時代の到来なのか
もしれません。
504marginal:04/11/09 02:36:47
●第17-18段落(p.279-282)
超感覚的―――法則を透視すること

★力の法則
  ・現象について悟性は否定面しか見えていない。
     否定面 … 現象は自体ではない。
     肯定面 … 現象は内なるものを充たす。
   だが悟性は現象を介して内なるものに関係することで肯定面を知る。
   
  ・空虚に見えるとはいえ、当面の真理はやはり単一な内なるものであるはずだ。
   それは>>415でみられる運動の帰結だった。その運動を自ら辿ることで悟性は
   力の法則(das _Gesetz der Kraft_)を見出す。

  ・両力の戯れ → 区別の崩壊 → 統一
                     = 普遍的な区別(der _Unterschied als allgemeiner_)
                     = 力の法則
505marginal:04/11/09 02:51:12
★法則の国   
  ・現象は、内なるもののあるいは悟性の単純性に関係することにより、単純な区別になる。
   内なるものはこの単純で自己同一な区別を含んでいる。区別を生じさせる「否定」は
   普遍の本質的契機である。すなわちこの普遍は否定に媒介されている。

  ・普遍的区別は法則に表現される。法則は<定まりなき現象の静止像
   (dem _bestaendigen_ Bilde der unsteten Erscheinung)>である。
   超感覚的世界は<諸法則の静止した国(ein _ruhiges Reich von Gesetzen_)>である。
   
※理解を助けるために、イポリット『ヘーゲル精神現象学の生成と構造(上)』(岩波書店)168頁から。

   変転する現象のなかで、またその現象の諸契機がたえず交替するなかで、かわらずに
   存続しているものは、まさしく区別にほかならないが、しかし、その区別は、思想のなかに
   うけいれられて普遍的となった区別であり、換言すれば現象の法則のことである。だから、
   普遍的なるものはもはや現象の彼岸の空無ではない。それは、自分自身のうちに区別すなわち
   媒介をもっている。この普遍的なるもののなかの区別とは、自己同一となった区別であり
   現象の単純なる反映である。この区別が表現されるのは、「つねに不安定な現象の安定した像」
   としての法則においてである。だから、超感覚的なる世界は、もろもろの法則の静かなる王国
   なのである。

※現象が内なるもの=悟性に反照し法則に純化される、現象が否定により内面に刻み込まれ法則化
  されるなどとイメージした。
506考える名無しさん:04/11/09 02:56:21
悟性も弁証法的に発展するということですな。
つまり>504の始めの悟性と後の悟性は同じ悟性でありながら既に違うと。
507考える名無しさん:04/11/09 07:34:44
まぁ、精神現象学講読はそれぞれやりゃいいとして。
まぁ、アウフヘーベンが否定=保存ということは基本だとして。

推論レベルで弁証法的に発展しても、歴史も存在も人間も
弁証法的に発展しないという。

つまり、ヘーゲルは思弁的であったのであり、思弁性の研究としての
機能するが、現実的ではない。
理性的なものは現実的、現実的なものは理性的
ではないからこそ、ヘーゲルを読もう、というそういうことだ。

もっとも、カント、ハイデガーからもういちどヘーゲルに
立ち返ったりすると、けっこうヘーゲルがいちばん、把握している
ことがらもあるということ、みたいね。
508考える名無しさん:04/11/09 07:38:05
ヘーゲル=生命論ということで、
自然法則=ロゴスということを前提にしたヘーゲル主義はアホ。
そしてまた自然/人為という例の概念対立に戻るだけ。
動物化するヘーゲル主義とか恥ずかしすぎ。
たんに、「われわれにとっては」という視点から事象を見下ろしたい
だけ、というのも馬鹿すぎ。
自然の生成と言葉の生成とは違うのであって、けっして同一視できな
いし、だからといって、これを異なるふたつの、相矛盾する生成とみなして、
だからこそ止揚とかいうのも、それじたいが生起する、言葉をエスペラント
語化しすぎ。だから、哲学するにあたってのことばは、なにに拠っている
んだという。
けっきょく、悟性能力によるにすぎない数学的・論理構文的・形式的な
ことばであれ、われわれを超えたロゴスによることばの運動という意味で
のことばであれ、じぶんが哲学するにあたってのことばは、エスペラント
化されているのであって、要するに哲学は、哲学している当事者を棚上げ
可能にしている。実は、自然観察するように、事象観察者になってしまう
というのが、ヘーゲルにかぎらず、哲学の罠。むろん、自然観察から先へと
進まざるを得ないはずなのに、「哲学者」となるとそこにとどまってしまう。
あの、自然といっても、physisからnaturaへの歴史があるってことは、
前提で。
509考える名無しさん:04/11/09 07:39:36
marginalさん、つづけてください。
510考える名無しさん:04/11/09 09:34:43
ここは「精神現象学を読む」スレだから、ドイツ観念論について語りたい、
またはそれを通して自分の考えを語りたい人は、別途スレでも立てた
方がいいんじゃないの?読むことは解釈に変わりないとか言う人もいるらしいけど
やっぱり全然別物だよ。
511考える名無しさん:04/11/09 10:02:25
ヘーゲル単独スレって今ないの?
512考える名無しさん:04/11/09 10:09:47
>>511
ヘーゲル研究者のみなさま!
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/philo/1013844825/
513考える名無しさん:04/11/09 10:26:49
504.505の引用、まとめだけで、論理学万歳、分析哲学、形式論理で哲学とか
思っている連中は、総破産じゃないか。よいね。
読むことはたえず解釈である、ってのは、正しいけれども、
ヘーゲルに沿って読むということね。だが、ヘーゲル研究者のやりかたで
はこれといってなにも出てこないな。
514このスレと同名の新刊:04/11/09 14:09:04
ヘーゲル『精神現象学』を読む
Sekaishiso seminar

著者/訳者名
寄川条路/著

出版社名
世界思想社 (ISBN:4-7907-1091-2)

発行年月
2004年11月

サイズ
136P 19cm

販売価格
1,365円(税込)
http://esbooks.yahoo.co.jp/books/detail?accd=31443429
515考える名無しさん:04/11/10 11:39:55

1,365円とは安いが、中身も易いのかい?
516考える名無しさん:04/11/10 11:54:03

買ってみましょう。
517考える名無しさん:04/11/10 18:56:32

立ち読みでも感じはつかめるよな。
518marginal:04/11/10 21:41:59
ヘーゲルの初期神学論集である『キリスト教の精神とその運命』をかつて途中まで読んだことがある。
これは、神の発生とそれによる影響がいかなる変遷をたどったかを、ユダヤ教とキリストを主題に論じた
魅力的な論集である。

厳しい自然を前にしてノアは観念により自然を支配しようとした。ニムロデは権力によりその支配を
現実に人と自然に行使した。アブラハムは一切から離反し間接的に神を通じてのみ世界と関係した。
敵対関係と不信が彼らの宗教の内に恒久的に維持された。支配-被支配の関係が本質だ。

ユダヤ教はヘーゲルによりカントになぞらえられる。律法により内面を支配-被支配関係に分裂した
ままにしようとすること。ヘーゲルはイエスの愛という感情をそれに対置した。しかしイエスは律法を
単に廃棄するのではない。成就(プレロマ)(充たす)ために来たのである。

断絶関係に愛の蜜を流し込み充たすこと。愛による運命の和解。しかしイエス亡き後、教団は形骸化・
権威化しイエスの感情は喪失してしまった。
519marginal:04/11/10 21:43:29
いま思い出せることをまとめると以上のようになる。そのなかに以下の文章がある。
  
   たとえ感覚的には何らの形もとらないにせよ、不可視の客体を信仰し礼拝するには、やはり
  その方向なり、当の客体を内蔵する境域なりが与えられなくてはならなかった。そこでモーセは、
  このようなものとして、幕屋の――のちには神殿の――至聖所をしつらえたのである。のちに
  〔ローマの将軍〕ポンペイウスは、ユダヤ人の祈りの中心にあたるこの神殿の内奥に近づき、
  そこにその国民精神の根源――この卓抜な民族を力づけている魂の中核――を見とどけたい
  と思い、この民族の信仰の本体でありその畏敬が捧げられる意味深きものをひと目みたいと
  思って、その秘密の場所に立ち入ったのであったが、意義深きものはおろか、そこは何一つない
  空ろな空間でしかなかった。彼としてはさぞかし奇異の念にうたれたことであったろう。

                   ヘーゲル『キリスト教の精神とその運命』(平凡社ライブラリー)34頁。

ヴェール(幕)があればその向うに何かがあると思う。だがヴェールを剥ぎ取ってみれば向うは空虚だった。
それもそのはず信仰の対象は内面にあるからであった。ヴェールの向うには自分を映した鏡があったと
でも言うべきか。要するにこの場合、ヴェールが聖性・禁忌性を生じさせていたのである。
現象というヴェールの向うに悟性という内面があるのと同じことではないか。
520marginal:04/11/11 00:32:11
訂正です。すいません。
>>518愛による運命の和解 → 愛による運命との和解
>>518空ろな空間 → 虚ろな空間
521考える名無しさん:04/11/11 02:55:30
>>514

単なる最低のレジュメです。
522考える名無しさん:04/11/11 19:35:45
やっぱな、安いと思ったぜ。
523考える名無しさん:04/11/11 21:36:54
同志ニキータ・セルゲーエビッチ・フルシチョフのスレはここか。
524考える名無しさん:04/11/11 21:38:39
あっ!へー出る!
525考える名無しさん:04/11/12 18:11:20
初期ヘーゲルスレッドになったの?
526考える名無しさん:04/11/12 19:10:48
いいえ、なりかかっているのです。
極めてxxxxな傾向であります。
527考える名無しさん:04/11/12 22:14:28
えーと、井戸傍会議は別スレでお願いします。
528考える名無しさん:04/11/12 23:35:40
読み続けるなら。
ヘーゲル研究者ご用達とまで行かなくても、せめて、金子武蔵を超えなきゃ。
支配的な研究者の影響下ばかりが増殖すればいい、というわけではないはず。

だいいち、ヘーゲル主義にかんしては、たとえば流動性の境地だけで、
ヘーゲル主義というわけにはいかないだろう。自分は思弁的であるから、
ヘーゲルっぽいんだ、とかは、詭弁にすぎない。こんにちヘーゲル批判
は避けられないが、ヘーゲルの思弁は、たんなる思弁では済まないから、
ヘーゲルの読みはいまとてもたいへんだ。むしろ、思弁的ではないひと
がヘーゲル読みに長けている。むろん、一定の水準はあるけどさ。

研究となると、ほかの哲学者研究でもそうだが、そのひとの問題意識の経緯
を辿って初期論稿に行くのはまぁいい。だが、前期と後期をわけて、対立
させるとか、異なる問題圏だと言ってしまうのはおかしい。どう変遷したか
であって、ということだ。 
(ドイツ観念論スレッドではないけど)
初期ヘーゲルの『キリスト教の精神とその運命』は、マルクス、エンゲルス
を通って、吉本の『マチウ書試論』まで影響を与えたよね? こんにち、
ヘーゲルを読むというのは、どういうスタンスで読んだらいいのか、わかり
にくい。とりあえず、勉強しといて損はないよ、みたいなことしか言えない。

『キリスト教の精神とその運命』の最近出た翻訳版の、西研の解説文は
アホだからな。「ヘーゲル大人のなりかた」の自己弁護はともかく、
解説に西を選んだのは間違いだろう。
529考える名無しさん:04/11/12 23:52:10
>519
ヴェールを取り去る、覆いを取り去るというのは、ent-deckenという語
の分解などを踏まえての、ハイデガー、デリダへの連接でしょ。
ただし、ハイデガー、デリダは「聖性・禁忌性」とは言わないだろうね。
それこそ、ユダヤ-キリスト教だから。まぁ、ヘーゲルを読むということ
だから、参照程度でいいだろう。
もうひとつ参照することになるのはデリダ経由の精神分析だ。ヴェールを
取り去って、母親の陰部を見てはいけない、というやつ。だからそこでいう
禁忌性とは、近親相姦の禁止の起源あたりまで、視野がひろがりをもって
いる。

以上をふまえていうと、
現象はヴェールだと言い得るだろうか? 現象はそれじたい、ファイネスタイで
あって、「存在」である。存在するとは、現象する、ということである。現象は
仮象ではない、とカントは言っていた。だから、いいなおせば、存在するとは、
現象するというばかりではないが、現象するとは、存在する、ということである。
だからこそ、「己の存在に即して己をあらわにする」というふうに、ハイデガーは
存在の意味を考えていたのではないだろうか? 現象の向こう側には、悟性や、先
験的統覚、表象する働きがあるのだろうか? それでは主観性に閉じられてしまわ
ないだろうか? 現象の本質は、存在である。存在の本質は、根源的なるものである
が、それを悟性と言いうるだろうか? あるいは万物を映し出す鏡と対面すること
として規定できるであろうか?
530考える名無しさん:04/11/12 23:53:24
デリダは「禁忌」と言うかな。意味がずれるが。
531考える名無しさん:04/11/13 00:08:29
つまり、ヘーゲルが世界の存在(世界があること)をどう考えていたか、
ということだ。それが「世界観念」として語られているなら、ヘーゲル
哲学はただの思弁的哲学と変わらない。
カントが『純粋理性批判』第一版と第二版のあいだで、明らかに悟性の
強化へと向かっていること、ヘーゲルが第二版に寄り添っていることを
嘆いてみせたのはハイデガーであった。ハイデガーの『ヘーゲルの経験
概念』は、精神現象学に顕著であり、また初期晩年を問わず、ヘーゲルが、
主観が万象を征服する哲学を意志していたということを指摘し読んでいる
のにほかならない。主観は万象を征服できないのであり、万象という概念
も正確ではない。世界、自然、宇宙の中心に、人間を置くことはできない
ということだ。このように、ハイデガー経由のカント−ヘーゲルの連続性
は、われわれを自然に誘う。自然と存在とのあいだに断絶を生じさせたく
ないからだ。だが、自然と存在とのあいだに断絶がある/ないということ
ではなしに、そうして抽出された自然もまた、われわれの観念ではない
だろうか? それゆえ、どこまでも、自然そのもの(あるいは考え方に
よっては生命そのもの)が物自体としてとどまってしまう。ハイデガーが
ヘーゲルを「形而上学」に押しやったように、われわれがハイデガーを
「形而上学」へと押しやってよい時はすでに到来しているかのようだ。
むろん、わたくしたちは同じ罠、二の轍を踏まないように、彼らの著作
を読んでおくことにこしたことはないだろう。
532marginal:04/11/13 01:32:10
>>528>>529>>531
私のヘーゲルを読む動機はごく個人的なものです。
まとめを読めば分りますが到底研究と言えるものではありません。
実はまだ金子訳も買っていません。ちくま学芸文庫の解説本は持っています。
哲学をきちんと学んでこなかった、そしてもはや学生ではない私は、なによりも
まず読んで内容を味わいたいのです。その過程で通俗的でないヘーゲル像を
知ることができたなら幸いなことだ、という位に考えています。

『キリスト教の精神とその運命』を出したのは、悟性を読んでいて、
上の場面と似てるなあと思い出したのと、面白い本だという気持ちを
伝えたかったからです。

「聖性・禁忌性」は、とりあえず『キリスト教の…』の上の場面に限って、
宗教について出した言葉です。現代思想系のタームについてですが、
これは私自身詳しくありませんので、あくまで示唆にとどまるものです。
無責任ですいません。その周辺の問題を突っ込んで頂けたり、展開して
いただけるととても面白いです。
533marginal:04/11/13 01:34:15
ヴェールの「向うに」悟性が「ある」という表現が誤解を与えてしまったのかも
しれませんが、ここでヘーゲルの言いたいことは、例えば悟性は<現象>の向うを
覗くつもりで、そこで反転してしまうということではないかと思いましたが
(剥ぎ取れないヴェール)、さて…

私自身、ヘーゲルを絶対的観念論で、なんらの抵抗なしで読むか(こう読むと
苦労しない)迷いながら読んでいるところです。ヘーゲルにとって手に触れる物は
どうなのか? 感覚的確信章などを思い起こせば、物は時間のなかで滅んでなく
なってまう、だからヘーゲルは確か無時間である叡智界に全てを統一しておきたい
などとつらつら考えます。

ヘーゲルが人間中心主義というのはそうですね。ハイデガーはそれと対決するために
人間を、存在がそこで問われ開示される<da-sein>として構築しなおしたんでしたか。

いずれにせよ私が語れるのはこのくらいのレベルです。
534marginal:04/11/13 05:40:14
>>533自己レス
>ここでヘーゲルの言いたいことは、例えば悟性は<現象>の向うを
>覗くつもりで、そこで反転してしまうということではないかと思いましたが
>(剥ぎ取れないヴェール)

これはヘーゲルの真意としてはおかしいかもしれない。物(現象)の抵抗性を
残そうとしてこう書いてみたのだけれど。

物自体を可想体とも呼ぶことを考慮すると、現象のヴェールの向こうに悟性(内面)が
あると表現しても許されるような気もする。物自体は悟性(内面)による抽象の帰結と考え
られなくもないから。それを現象の向こうにあるとみるか、反転して意識にあるとみるか。

あるいは言い方が違うだけで同じ事態を言い得ているのかもしれない。
カントを読んでないのも問題だろう。しかし、どうやら混乱したようだ…
535考える名無しさん:04/11/15 12:56:38
あっはー。
536考える名無しさん:04/11/15 13:21:18
何、あっはーって?
537考える名無しさん:04/11/15 13:34:54
おい、頼むから糞スレはもっと続けてくれ。
538考える名無しさん:04/11/23 11:20:27
ヘーゲルって7が特別な意味持っている数字だと思ってたんだってね。
唯の馬鹿なんじゃないのwwやたら難しい文章書くのも馬鹿隠しだったり
して。
539考える名無しさん:04/11/23 11:59:58
>>535-538
まっくろくろすけみたい。(クスクス
540考える名無しさん:04/11/23 13:42:39
ピンポーン♪
正解でーす。
読んでてすっごーくおもしろいでせう?
541考える名無しさん:04/11/23 17:00:36
ま、真性馬鹿だったら538程度の文章力しかねーだろがな。
542考える名無しさん:04/11/24 23:35:25
>>541轍ヲタ乙。
543考える名無しさん:04/11/25 09:10:56

またまた、出現しちゃったよ。このシト魯鈍ですね。
544考える名無しさん:04/11/27 17:47:16
もういいよ。
お楽しみは他スレで頼むぜ、な。
545考える名無しさん:04/12/05 00:19:47
脱線しまくり
546marginal:04/12/05 03:28:14
すいません。忙しくて次はいつになるか分りません。
読みたくても読めない状況になってしまいました。

忙しくなる前に並行してノーマン・O・ブラウンNO『エロスとタナトス』
という本を途中まで読んでたのですが、ヘーゲルの名前がところどころに
出てきてびっくりしました。

ブラウンの考えでは、
エロスとタナトスは統合(愛、肯定)と分析(死、否定)でもあります。
神経症が文化を生み出します。マルクス的な人間の解放を目指すには、
抑圧を昇華させるのか、あるいは別の方法があるのか(『ラヴズ・ボディ』)。

「ヘーゲルに必要なことは、精神分析学における抑圧と無意識の教義と参照した
再公式化である。」
「また一方では、精神分析学が、フロイトのなしえなかった精神分析学の時間の
理論を確立する意図を持つならば、ヘーゲルの否定と時間の関係についての
教義は絶対必要なものである。」
共に、N・O・ブラウン『エロスとタナトス』(秋山さと子訳、竹内書店、1970)、112頁。

ヘーゲル的主体は、どこか彼岸から来るような、命令し管理する超自我を、それは
おまえ自身なんだよ、と自己の分裂を統合することを目指してるとも思います。
しかし、主体は完全な主体たりえないのだとフロイトは言った。このある意味正反対の
思想の共通性と発展性を探りたい。

自分はフロイト(精神分析)、ヘーゲル、ブラウン(マルクス?)の方向が今、
魅力的におもえます。また時間が出来たら悟性をよんでいき、この線も探って
みたいと思っています。
547考える名無しさん:04/12/05 05:45:31
ニーチェによってコテンパにされたヘーゲルを読む意味ってあんの?
548考える名無しさん:04/12/05 06:17:40
印象なのだが、ニーチェは否定内容を含んだ主張だろう。
ある主張があっても、単なる否定か、規範への否定であるなら、
乖離してる事を示すのだから、別個の話となるのだと思われる。
どこら辺がコテンパンなのだ?
549marginal:04/12/05 08:43:21
ニーチェの批判をよく知らずに言ってすいませんが、もしそうなら「図式的」というヘーゲル像は、
ヘーゲルをとらえそこなっているのではないでしょうか。
ヘーゲルにおいては、その図式がどう動いてるか、いわば「動くことそのもの」を考えよう
としているのではないかとも思っています。大雑把ですが。では仕事に行ってきます。
550marginal:04/12/05 08:44:56
>>549訂正
図式がどう動いてるか、 → 図式がどう動いてるかのみならず、 
551marginal:04/12/05 08:52:18
あ、規範の問題ですか。後でニーチェをよんでみます。では。
552考える名無しさん:04/12/08 09:49:32
ニーチェがヘーゲルを仮想敵にしてるというのは
ポストモダンのニーチェ解釈から出てきたもんで、
ニーチェ自身はヘーゲルを直接槍玉にあげてガチンコ勝負はしてない。
竹田青ジみたいに、ニーチェとヘーゲルの良心論は相通ずると
言う者もいるし。
ニーチェの主張を整理すると
1 自然主義への固執。物自体は思弁では克服できない
2 新カント主義的な事実と価値の分離論
3 新実証主義的な関係一元論
の継ぎはぎかと思うが、1以外はヘーゲル自身にも読みこめる要素だし。
分析的に論点抽出すること自体が、ニーチェの流儀には反するんだろうが。
彼は読み物として面白いわけだからね。
哲学風ハッタリ師。哲学と文学の合いの子。
コテンパンになんかしてないが、おちょくってはいるかもしれない。
553考える名無しさん:04/12/08 18:47:28
うん、カウンターの心配が無いジャブを出してるわな。
554考える名無しさん:04/12/08 18:50:47
「ヘーゲル『大論理学』を読む」っていうスレ誰か立てないかな。
岩波のヘーゲル全集にしか含まれてないから、薄いのにめちゃ高いしで
やっぱ無理か。それにカントの3批判がよく分ってないと厳しそうだし。
555考える名無しさん:04/12/08 19:38:05
薄いのに大論理学とはこれいかに。
556考える名無しさん:04/12/08 20:20:20
>>555
商売になる値段つけるために、4分冊にしたとしか思えないなあ
という意味で「薄い」といいました。
1部(有論)、2部(本質論)、3部(概念論)とある、有論に関しては
二冊に分ける必要があったのかと小一時間(r
せっかくヘーゲルが”3”という数字に拘ったっていうのに。

ところでヘーゲルの哲学と素数の関連性を研究してる研究者とか
いるんでしょうか?もしいれば、例えトンでもだとしても
読んでみたかったり。
557考える名無しさん:04/12/09 11:31:49
>>554
以文社の寺沢恒信訳もあるよ。こっちは全3巻。
岩波は増刷のときに旧字体を直してほしかった。
558考える名無しさん:04/12/11 17:59:49
岩波は例の"顧問団"の連中、11人のほとんどが75歳以上、が旧字体
の変更を許さんのよね。
559考える名無しさん:04/12/11 22:25:25
既出かもしれんけど、ヘーゲル精神現象学の訳で一番いい訳者はやっぱり
金子武蔵なの?長谷川宏はダメかな?基本的な質問でごめん。
560考える名無しさん:04/12/11 22:45:01
牧野紀之訳か金子武蔵訳あたりかな、このスレで評判がいいのは。
金子武蔵訳のは膨大な注がついているので参考書がわりになる。膨大すぎるけど。
牧野紀之訳は金子武蔵訳をふまえて、若干読みやすい日本語と適度な注になってる。

樫山欽四郎訳は意訳がほとんどないが、かえってそこが好きだって人もいる。
ただし注がほとんどついてないので、初心者が参考書無しで読むのはきついかも。
原書と一緒に読む人向け?
561考える名無しさん:04/12/12 17:57:20
世界の名著44ヘーゲル(藤野渉・赤沢正俊訳)はどうなのかな?
562考える名無しさん:04/12/13 00:11:17
>>561
それは序文しか入ってないので、駄目よ
563考える名無しさん:04/12/13 05:15:02
訳で悩む時間があるなら、さっさと金子訳買ってきて読み始めればいいじゃん。
訳書の質を問うたところで、知識は一つも増えやしませんよ。
564考える名無しさん:04/12/13 10:03:04
でも初心者にとって訳の吟味は重要。
クソ訳つかまされて、訳が悪いせいで理解不可能になる
ことはよくあるからな。でも「精神現象学」だったら
金子訳か樫山訳でOK
565考える名無しさん:04/12/13 10:43:26
卒論や研究論文で使うなら担当教授センセのお指図の訳書が必要だろがよ、
テメッチの趣味で読むんなら、神保町で一番安価で入手できるやつが一番
だろが。
評判の悪い長谷川訳でも、まさかクソをシロとは訳してあんめーが。
ただ、長谷川訳じゃ在来訳本で使ってる定番訳語が無いってのが
なんともツライとこだが、そいつが「誰にでも解かる長谷川ヘーゲル」
の手品のタネって訳だ。
そいつを押さえておきゃーいんじゃねーのか。
つーことで、金子でも樫山も長谷川でもモチOKよ。
566考える名無しさん:04/12/13 11:27:04
ヘーゲル研究業界では、現象学と大論理学は岩波全集版、
法哲は世界の名著がスタンダードのようだよ。
長谷川訳の評価は、浅田彰みたいに否定的なのもいれば、
加藤尚武のように従来の訳より正確という人もいる。
研究者の本音としては、長谷川訳は直訳から離れてるから
訳から原語を類推しにくくて不便ってことらしい。
そういうこと気にしなくていい趣味の人なら、
長谷川訳でいいんではないかと思いますが。
567考える名無しさん:04/12/13 11:47:11

566さん、納得です。
さんくすそーまっち、です。
568考える名無しさん:04/12/13 14:24:44
加藤尚武は長谷川訳評価してるのか。
論文に引用する人は他の訳も参照するようにすればばいいだけで
長谷川訳で問題ないと俺も思う。
それにあの本が税抜き4800円はお値打ち。
569考える名無しさん:04/12/13 16:09:21
559ですが参考になりました。ありがとうございます。
570考える名無しさん:04/12/13 22:16:38
プラトンもニーチェもハイデガーも中身がすごいんじゃなくて
たまたま残った!!!!という反古典主義の友人がいます。

ハイデガー解釈学的現象学とかは学者がいってるだけ。
解釈は人によってさまざま!!いかに自分の個性をいかした読み方ができるか、
それが大事!!ってか彼はハイデガー読まずに言うんだけどね。

こんなあなたのまわりにも友人いませんか?
571考える名無しさん:04/12/13 23:10:07
哲学板自体に初めて来たものです
正直言って、大変に

  感動 & 感心した!!

どーでもいい書き込みには完全スルーという姿勢も
なかなか実行できない場合が多いのに、すばらしい!!

邪魔してすみませんROMに戻ります。
572考える名無しさん:04/12/25 11:29:03
sage
573考える名無しさん:05/01/02 08:51:46
571さんよ、この閑散さにも感動したんか?
574考える名無しさん:05/01/02 14:54:52
ヘーゲル用語事典って使えるんですか?誰か教えてください。
575考える名無しさん:05/01/03 14:33:02
 なかなかよいよ。
576考える名無しさん:05/01/03 19:21:34
じゃあ樫山訳を使ってヘーゲル用語事典を参考にしながら読んでみようかな。
577考える名無しさん:05/01/03 21:29:07
がんがれ
578考える名無しさん:05/01/04 11:31:12
昨年の暮、って言っても10日前だが、早稲田の社会学関連の
ほとんどの古書店にはヘーゲル用語辞典があったな。これには
ビックリした。
一番安いので980円で、即買っちまった。
各ページには必ず鉛筆での書き込みが若干あるが、それでも
トクした感じだ。
579考える名無しさん:05/01/04 11:47:48
おお、ワテも早稲田で美本のヘゲ用語辞典1400円で
年末にゲットしましたがな。
何で急に、それもこんなに安くなったんかな?
早稲田の古本屋街でだけの現象かいな?
580考える名無しさん:05/01/04 13:22:53
ゼミで一緒に研究してたのが一斉に売りに来たのか?
581考える名無しさん:05/01/04 16:45:37
582考える名無しさん:05/01/05 11:29:15
早稲田の古本屋って正月何日頃から開店なんでしょうか。
是非ともその安い用語辞典を買いたいと思ってますので。
583考える名無しさん:05/01/07 18:10:49
んなことよりもだなあ、ヘーゲルを語れや。
584考える名無しさん:05/01/08 15:22:33
そんでもだな、安価なヘゲ関連本を書いたって気持ちは
判ってやりゃーいいじゃんかよ。
585考える名無しさん:05/01/08 16:33:59
ここはチラシの裏じゃねえんだよ
586考える名無しさん:05/01/13 14:52:55
なんだなー、ヘーゲリアン諸子は冬眠中かい?
587考える名無しさん:05/01/15 12:32:58
>>578-579
早稲田のどっかの先生が、授業の教科書として指定したんじゃないの?
んで、学生がみんな売り払って…
588考える名無しさん:05/01/23 11:10:37
age
589考える名無しさん:05/01/31 09:10:37
margがんがれ
あんたすげえよ
590考える名無しさん:05/02/14 04:29:29
ヘーゲルとスピノザって精神を実体化しているよね。
ヘーゲルの宗教観誰か教えて。
591考える名無しさん:05/02/14 09:01:38
で、590は今までに読んだヘーゲル本を列記しろや。
話はそれからだぜ。
592考える名無しさん:05/02/15 14:29:44
このスレタイと同じタイトルの本を大学の先生が書いてて、
それを講義で使ってました。
593考える名無しさん:05/03/01 13:05:58
ミネルバのフクロウは黄昏に飛び立つ
すべては最後に明らかになる
594考える名無しさん:05/03/01 14:23:25
ミネルバのフクロウは黄昏になってはじてめ飛び立つ

595考える名無しさん:05/03/01 18:27:04
夜逃げみたい
596考える名無しさん:05/03/01 21:57:04
関連スレ:

【復刊】哲学入門:ヘーゲル著[3/16]
http://etc3.2ch.net/test/read.cgi/ticketplus/1109637460/
597考える名無しさん:05/03/02 03:54:55
長崎新聞にヘーゲル読書会の記事がありました
598考える名無しさん:05/03/02 06:08:31
>>597
詳細キボンヌ
599考える名無しさん:05/03/02 22:39:00
準備OK
600考える名無しさん:05/03/02 23:49:53
600
601考える名無しさん:05/03/03 13:15:14
>>594
日本ではなかなか飛び立たないな。
もうわんさか飛び回っててもおかしくないと思うが
602考える名無しさん:05/03/03 14:00:26
>>598
「ヘーゲルを読む会」のことだよ。
ttp://www33.ocn.ne.jp/~hegellesen/

「東京の外資系企業に勤めるOL、名取望さんは、一昨年その集まりに初めて
参加して「間違えたところに来てしまった」と思ったという。ある記事で知った
「ヘーゲルを読む会」。ヘーゲルを原書で読むことの難しさもさることながら、
会を構成する4、50歳代のおじさんたちの独特の雰囲気に、「引きました」。
・・・会場は東京・池袋の文化施設の一室。・・・午後6時、十人ほどが集まると、
ろくにあいさつもなく輪読は始まる。割り当てられた部分をまずドイツ語で朗読し、
訳していく。関係代名詞の係り方をめぐり、独特の言い回しの真意をめぐり、
あるいはヘーゲルの思索の前提である19世紀ヨーロッパの時代状況をめぐり、
進行はしばしば滞る。・・・読書会が終わると、飲み会がある。「今日、行く?」とも
聞かない完全な自由参加。名取さんはその席で、少しずつおじさんたちの「正体」
を知る。自宅には哲学書がずらりと並ぶという団体職員。精神を病んだ兄と二人
で暮らす古書店主。東大を1年で辞め、しばらう肉体労働をしていたという、今は
マイホームパパの公務員・・・。・・・およそ今っぽい営みではない。ある意味で
「閉じて」いる。だがそこには、静かに閉じることの豊かさがある。真剣にヘーゲル
を読み続けているという自負だけを共有し、だからこそ互いの人生を認め合う
ことができる。
 「いつ辞めようか」。名取さんが探っていた退会の時期は、延期され続けている。」
(長崎新聞2005年2月1日)
603考える名無しさん:05/03/03 19:48:44
輪読ってヤツか…(;´Д`)ハァハァ
604考える名無しさん:05/03/03 21:56:42
輪姦じゃなくってよかったね。
605考える名無しさん:05/03/04 17:49:49
ヘーゲルです。
ミネルバのフクロウが飛びません!
ヘーゲルです。
606      ↑:05/03/04 18:03:23
   じゃあさあ
     おまえバッキーの「大惨事うんこ大戦 かさあ
     VOD?のさあ 「糞イジメ レズ便器
     についてさあ
     調べてレポしてくんない?
607考える名無しさん:05/03/04 23:37:20
コジェーヴはどうでっか?
608考える名無しさん:05/03/06 14:17:18
そんじゃーさ、Shopping Bag Ladyはどうよ?
609考える名無しさん:05/03/07 10:53:51

オレにゃーわかんねーな。
610考える名無しさん:05/03/12 23:30:27
ミネルヴァってなんかえろいな
611考える名無しさん:05/03/19 21:37:52
62 名前:KARL ◆gjHKPQSQ [] 投稿日:01/12/05 01:23
マルクスが弁証法をひきついだ大家ヘーゲルは数学を馬鹿にしてたようです。
一つの問題に対していくつものとき方がある。数学好きは別解を見つけたりすると
たいてい喜ぶと思いますけど、ヘーゲルにとってはそれが数学のダメなところなん
だそうです。

63 名前:132人目の素数さん[sage] 投稿日:01/12/05 03:52
「へーゲルはヴァカ」 byショウペンハウエル

64 名前:132人目の素数さん[] 投稿日:01/12/06 10:58
ヘーゲルはガウスたちがケレスを探してるときに、8番目の惑星なんてあるわけないだろう。バカが。ガッハッハッハ
って感じだったらしいね。どうも7という数字に何か必然性があると思い込んでたらしい。
このエピソードで俺の頭の中のヘーゲルは消えました。

数学板住人の御言葉。
612考える名無しさん:05/03/19 23:20:05
ヘーゲルの数学的知識はコーシーが出てくる少し前の時代のものとしてはけっこう
いけてるというのが定説なんだが・・・
ヘーゲルの目的論的思考も理解せずに「惑星軌道論」を数字神秘主義の書として
読んでも不毛なんだが・・・
613考える名無しさん:2005/03/22(火) 21:17:23
少なくともヘーゲルはカントよりは数学出来たんじゃねーのー
614考える名無しさん:2005/03/27(日) 00:46:00
>>613
カントは既にヘーゲル批判をやってると思う

ところで、エリック・エリクソンって、あんなのヘーゲルじゃん

615ローカルルール審議中:2005/04/17(日) 01:18:09
age進行
616ローカルルール審議中:2005/04/17(日) 01:27:29
数学板のアホ相手にしてもしょうがねーだろw
だいたい『精神現象学』見ただけでヘーゲルが数学苦手なの分かるだろw
数学板住人ならバーワイズでも語れよw
617ローカルルール審議中:2005/04/17(日) 01:39:03
ヘーゲルの毒を飲み干した者だけが哲学する権利を得るらしい。
それがスタートラインなんだって。
618ローカルルール審議中:2005/04/17(日) 11:32:24
>>616それ認めちゃっていいの?ヘーゲルなんかやるの
尚更馬鹿な行為だと言ってるようなもんだが。
619ローカルルール審議中:2005/04/17(日) 12:07:49
ソカ厨?
620marginal:2005/04/29(金) 03:27:13
例によって段落を大まかに分けてみます。

第1-2段落 … 悟性章への導入と展望
第3-5段落 … 力の概念  ┐                              
第6-9段落 … 力の運動  ├─ 「力」について
第10段落 …… 力のまとめ ┘

第11-14段落 … 内なるものと現象についてのわれわれの考察と展望
第15-16段落 … 現象   ┐
第17-18段落 … 法則T  ├─「法則」について
第19-22段落 … 法則U  |
第23-25段落 … 説明   ┘

第26-29段落 … 無限性 ──「無限性」について

第30-34段落 … われわれによる悟性章のまとめ
621考える名無しさん:2005/04/29(金) 18:42:11
よぉ、marginal久しぶり。
連休中にもかかわらずご苦労さんです。
622りーまん:2005/04/30(土) 00:50:17
私も学生の時に読むのをやめた「精神現象学」を読み始めました。
文庫だと通勤電車でも読めるので・・・

けっこう面白い
623考える名無しさん:2005/04/30(土) 22:49:49
えッ、通勤電車の中で読んでのか、ほんたふにか?
すッゲー、つーか、嘘だろーつか。
624りーまん:2005/05/01(日) 23:25:57
やばい・・・
「力と悟性」で挫折しそうです・・・

625考える名無しさん:2005/05/02(月) 18:57:10
理解の及ばない箇所は無視してさ、先に進むんだよ。
正攻法かどうかは判んないけどね。
先輩にそんな風に教わって幾星霜ですけど。
626考える名無しさん:2005/05/11(水) 22:55:01
虚し。
627りーまん:2005/05/11(水) 23:50:49
人相術まで進みました。
がんばれ自分!
628考える名無しさん:2005/05/25(水) 03:44:33
mm
629marginal:2005/05/25(水) 22:43:57
●第19-22段落(p.282-290)
法則―――その概念と存在

★法則の欠陥と概念

・現象の多様性にともない幾つも法則がある。悟性にとっては普遍的な統一が真なるものだ。
 そのため悟性は複数の法則を一つにまとめようとする。例えば物体の落下の法則と
 天体の運動の法則を万有引力の法則というように。

・万有引力の法則は<法則そのものの概念(Begriff des Gesetzes selbst)>である。
 否定的に言えば、個別の規定を失い表面的であり現実の合法則性を表明しているにすぎない。

   (本質・内面)    (現象・感性)
    法則の概念 ⇔ 個々の諸法則

・万有引力の法則においても二物体という区別がある。概念の性質上(絶対的な単一性)、
 これら区別項も内面に還帰する。

    法則の概念 ⇔ 二つの規定性

・二種類の法則がある。
    1)個々の諸法則 → 自立した契機
    2)概念としての法則 → 先述した(>>415)、概念としての「力」といってもよいもの
630marginal:2005/05/25(水) 22:46:40
★概念、存在、所有すること

・力の性質を電気の場合で説明すると。
     力  → 電気自身     ⇒ 概念
     区別 → +電気・−電気 ⇒ 存在  
 電気自身は+電気・−電気へ二重化する性質を「持つ(haben)」という外面的関係。
 電気の概念は電気の存在に無関心(gleichgueltig)。 

・重力の場合は、時間・空間に分割される必然性はあるが、部分相互間の必然性はない。
 (電気は逆)ということは重力は元からそれらに分割されたものと考えられているということ
 だから、分割の必然性は見かけのもの。

・法則の必然性は空語(ein leeres Wort)。
 
※法則にはヘーゲルの求める必然性はないということ、法則も前に見た概念の運動に巻き込ま
  れること位しか分らなかった。(牧野訳、290p注2を参照願いたい。)
※このあたりはヘーゲルの因果律批判にもなっているらしいが、詳しくは分らない。この辺、
  基礎がないので辛い。
   東京大学文学部・大学院人文社会系研究科
   ヘーゲルの真理論 −ヘーゲル倫理思想に於ける因果論批判の意味− 下城 一
   ttp://www.l.u-tokyo.ac.jp/cgi-bin/thesis.cgi?mode=2&id=111
※法則の概念と存在の区別、これをもっと突き詰めて、概念と存在、思考と実在、所有あたりで
  なにか考えられそうな気がする。
631考える名無しさん:2005/06/05(日) 00:17:34
特集『ヘーゲル』(78年12月臨増)
ジャン・イポリット『ヘーゲルの「現象学」と精神分析』(田中昭光訳)
特集『ヘーゲルと現代』(73年12月号)
J・イポリット『言語と論理−ヘーゲルの論理学に関する試論−』
イポリット 市倉 宏祐 訳 ヘーゲル精神現象学の生成と構造 全2巻
イポリット『マルクスとヘーゲル』宇津木正/田口英治訳、法政大学出版局
イポリット 渡辺義雄訳 論理と実存(ヘーゲル論理学試論) 朝日出版社
イポリット ヘーゲル歴史哲学序説 朝日出版社
632考える名無しさん:2005/06/05(日) 00:31:38
>>630
法則は精密ですが概念は厳密というのが理想です。厳密とは正しく射当てる
(言い当てる)ことを意味します。
633考える名無しさん:2005/07/02(土) 14:59:17
GANBARE
634考える名無しさん:2005/07/16(土) 23:44:30
>>631
イポリット復刊希望age
635考える名無しさん:2005/08/17(水) 01:34:19
marginal 応援age
636考える名無しさん:2005/09/08(木) 23:14:37
marginal氏,りーまん氏がんばってくれ。
637考える名無しさん:2005/09/09(金) 08:27:00
なにを、どう頑張るよ?
638考える名無しさん:2005/09/10(土) 14:30:08

我々は「法則」なる和製漢字の意味につられ勝ちでは?

彼に云う「現象の法則」とは、「現象」に置かれた(Gesetz≠gesetze)、またはそこに見え隠れする再現性(一定性)を意味しているのでは?

我々が漢字の「法則」で捉える意味は、「法則の概念」にあらずや。
639考える名無しさん:2005/09/10(土) 15:08:51
偽善スレ
640考える名無しさん:2005/09/14(水) 22:57:50
翻訳で有名なH先生に「ヘーゲルは宗教としか思えません」といってみたのですが、
先生は、にこにこして、「そんなことはありません」とおっしゃいました。
641考える名無しさん:2005/09/15(木) 12:51:53
>>640
長谷川?
642考える名無しさん:2005/09/16(金) 14:19:51
おそらくスケベーなセンセとちゃうか。
643考える名無しさん:2005/09/17(土) 19:20:26
もっとも、スケベーでないセンセってちょっといないよね。
644考える名無しさん:2005/09/17(土) 20:52:38
ヘーゲルってスピノザよりも評価されてるのか?
645考える名無しさん:2005/09/18(日) 09:36:29
勿論、だろ?
646考える名無しさん:2005/09/18(日) 19:46:35
スピノザ>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>ヘーゲル
647考える名無しさん:2005/09/24(土) 12:18:53
>>641
そうです。おそまきながら。
648考える名無しさん:2005/09/25(日) 18:46:40
岩波でもどこの出版社でもいいから金子武蔵訳の精神現象学を文庫で出してくれ頼むから
649考える名無しさん:2005/09/28(水) 07:44:30
ドイツ語勉強した方が早い。
650考える名無しさん:2005/09/29(木) 19:25:10
そこまでの意欲は無いから樫山欽四郎板で我慢するとしよう
651marginal:2005/10/18(火) 06:53:04
●第23-25段落(p.291-296)
同名のもの―――区別なき区別

★説明の主観性
  区別(法則)は内なる区別だが、説明する悟性の言表は悟性自身の必然性であり、
  事柄自身に即してないので、区別は事柄自身のものではない。(例:電気力の説明)

★同語反復としての<説明>
  「説明」は悟性の側の同語反復運動である。だが、この運動には<絶対的交替>がある。
  すなわち、区別が立てられるが、それは区別ではないので止揚される、という運動である。
  
  そしてこれは、現象界でのみ認められた両力の戯れという交替の運動が、内なるものへと
  入り込んでいる、という事だ。しかし意識はまずはこれを悟性の側の出来事と見る。

★第二法則としての<同名のもの>
  ところで悟性の概念としての概念と物の内なるものは同じものだから、悟性は実際には
  次のように意識するようになる。区別なき区別の発生、<同名のもの(Gleichnamige)>が
  自分を自分自身から突き放すが、それらは同じもの故、互いに引き合い止揚されるという事、
  これは現象自身の法則である。
  
  これは第二法則と呼ばれる。第一法則は自己同一に留まる静的なものだが、第二法則は
  運動を取り入れたものであり、不等性の自己同等性、無常性の恒常性である。
  
※ここで現象とは両力の戯れであった。その運動は単純な統一へと崩壊し、悟性は法則をつかむ。
  力は概念となっている(?)。複雑さの中に単純な法則を見出した悟性は、それを説明し言い表す
  ことで、ある運動が生じる。同名のものが分裂するが、それらは同じものなので止揚されるという
  運動である。これはヘーゲルの思想の運動原理の主要の一つに見え、一言で言えば「区別なき
  区別」の定立である。
652考える名無しさん:2005/10/18(火) 09:02:36
おお!!!
653考える名無しさん:2005/10/18(火) 11:37:41
がんがれ!
654marginal:2005/10/19(水) 06:56:48
●第26-29段落(p.297-303)
転倒した世界―――無限性

★現象の完成
  ・等しいものが自己に不等になり、不等なものが自己に等しくなる、この規定を通じて初めて
   区別が内的(※悟性のみならず自体における)区別として、事柄自身に即したものになる。
  
  ・第一の超感覚的世界 … 知覚された世界を法則化することで、普遍的なエレメントへと高めた。
   第二の超感覚的世界 … 知覚世界にある交替と変化の原理を取り入れた、第一の世界の
                  <転倒した世界(die verkehrte Welt)>。
                  ここで内なるものは現象として完成した。
655marginal:2005/10/19(水) 06:58:33
★転倒という事態を通してみた様々な出来事
  ・例1:甘い−辛い、黒い−白い、北極−南極、酸素極−水素極
   例2:第一の世界の(※自然的な?)掟に従えば、敵への復讐は傷つけられた個人に満足をもたらす。
      しかし第二の世界の(※内面的な?)掟に従えば、相手の実在の否定は自己破壊に転倒する。
   例3:刑罰について言えば、第一の世界においてそれは人間を侮辱し滅ぼすものだが、第二の世界に
      おいては、その人に名誉をもたらす恩寵に変わる。
   
  ・内なるものと現象という立場に戻ってしまって、次のような二種の現実が自立的に極としてあるように
   見えるかもしれないが、そうではない。
      第一の世界 … 外的、現象、対他、犯罪、    刑罰
      第二の世界 … 内的、自体、対自、善(の意図)、恩寵
  
  ・二種の現実が存立する訳ではないことを先の事柄に即してみてみよう。
      例1:一方は感覚的に知覚されるものであるが、他方の転倒した自体的世界もまた、
         感覚的に表象されるもの(ein sinnlich Vorgestelltes)なので、一つの現実に属する。
  
      例3:犯罪の意図としての自体存在は、現実的でなく「可能的なもの」と言われるかもしれないが、
         犯罪の転倒したものは内容から見れば意図ではなく、現実の刑罰なのである。また、現実の
         刑罰の転倒したものとは、刑罰の活動が止み、法律を破る個人の活動もなくなる状態である。
656marginal:2005/10/19(水) 06:59:56
★無限性の導出
  ・表象的に、二つの極の間の出来事として転倒を考えてはいけない。あくまで純粋に、同名のものの
   「論理」として、ということは自分自身の中での対立、矛盾を、思考において把握しなくてはならない。
  
  ・具体的には、内的区別を考える際に、対立した二項のそれぞれを選択的に「二つあるうちの一つ」と
   考えてはいけない。それでは、自立している事を言っているにすぎず、対立の関係を取らない。
   実際、対立したものはその有り様からしてもともと、他者を自分自身の身に備えてしまっているのである。
   
  ・すなわち一つの統一した世界があるにすぎず、第二の転倒した世界は第一の世界を包んで(uebergreifen)
   おり、自分自身の身に備えている。つまり転倒とは言っても、何か他からの転倒という事ではなく、
   自分自身の転倒なのである。
    
  ・このように考えることにより、第二の世界は内なる(自体における)区別、すなわち事柄自身の区別であり、
   その論理的な運動を<無限性(Unendlichkeit)>として捉えていることになる。
657marginal:2005/10/19(水) 07:03:56
※現象を法則化することを介して、物の内面(自体)への突破と超感覚的世界の裂開が同時に起こる。
  超感覚的世界(叡智界)は物の内なるもの(自体)と同じものなので、区別(法則)は事柄自身の内なる区別でもある。
  静的だった超感覚的世界に運動が持ち込まれることは、現象的な要素が入り込んでいるということであり、
  最終的にはこういうことである。
 
   かれが主張していることは、感覚的現象界と叡智的世界という二つの世界が存在しているのではなくて、
   叡智的世界が「現象としての現象」なのであるということである。
   (イポリット『ヘーゲル精神現象学の生成と構造(上)』(岩波書店)180頁)
  
  叡智界もまた自ら現れてくるものとして現象なのであり、すなわち一つの世界しか存在しない。
658考える名無しさん:2005/10/19(水) 08:57:01
マージナルさんよ、いいね、いい感じだよ。
659純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/10/20(木) 02:22:01
>>658
自作自演ですよ
660純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/10/20(木) 02:24:53
こことハイデガースレは自演ですからね
661marginal:2005/10/22(土) 05:41:43
●第30-34段落(p.304-312)
われわれによる悟性章のまとめ──自己意識(Selbstbewusstsein)の生成

★無限性の運動
・無限性を把握することで、法則自身に必然性が備わり、現象のあらゆる契機が内なるものへと
 引き上げられた(aufgenommen)。

・無限性の論理は力の運動としてすでに現れていた。
  α)自己同等者は同一者でありながらも自己を二分し突き放すものである。(根源的統一)
  β)二項相互間、またそれらと同一者の間の外的で必然性なしの区別の段階(電気力、重力)。(分裂)
  γ)区別ではない区別、同名のものの区別、内なる区別。(統一の回復)    

・分裂と統一の回復は自己止揚の運動である。
    同一性とは何かと何かが等しいということだが、それにはまず何かと何かに分かれるという分裂が
    前提としてなくてはならない。ところが通常考えられる場合の自己同等者は、等しいという一面のみを
    抽象したものにすぎない。したがって自己同等者が分裂するという事は、この抽象性の止揚でもあり、
    またそれは自己内での出来事である。
  
・無限性の内に住まい、それである全て
    単一な無限性すなわち絶対的な概念は、生命の単一な本質(das einfache Wesen)、世界の魂(die Seele
    der Welt)、普遍的な血(das allgemeine Blut)などと呼ばれる。それは、いたる所に偏在し、あらゆる
    区別であるとともにその止揚であり、自己内で脈動し振動しながらも、自らは動かない自己同一なものである。
    意識はいまやこれを対象にする。
662marginal:2005/10/22(土) 05:45:26
★自己意識の生成
・無限性を対象にする意識は自己意識である。そしてそれはどういうことか。

    意識にとって: 現象という中項(ヴェール)を介して内なるもの・超感覚的なものを覗き見、連結する。
             意識にとって、「説明」において意識は自己対話としているにすぎず、自分自身に関わっ
             ているにすぎなかった。二世界論においても意識は無限を概念的に捉えられず、実態的に
             二極化してしまった。しかし、無限性が意識にとって現れた姿であったとしても意識の
             対象になるとき、意識は自己意識になっている。

    我々にとって: ヴェールが引き上げられ中項が消え去り、内なるものが内なるものを見るという事態が
             現れている。内なるもののなかで意識は自分自身を経験している。私が私を私自身
             から区別するが、その区別は区別されていないと私に自覚される。自己意識こそが
             対象意識の真理である。物についての意識が可能なのは、もともとそれが自己意識
             だからである。
663marginal:2005/10/22(土) 05:50:32
※他を知ることは、自分がどのように他を他たらしめているかについて知ることであり、つまりは自分を知ること、
 自己の知である。対象に向き合いながら、反省的にその知が自己に還ってくるのは、そもそも自己が自己に
 向き合っているから、自己意識だからである。悟性は対象を知ることにおいて自分自身と向き合っており、
 知が知に向き合っている。要するに、統一があってはじめて分裂が可能であり、分裂があってこそ統一もまた
 可能である。
 
 意識は他なるものを経験する。経験が成り立つためには、カントを緩用すれば、経験の対象を成り立たせる
 条件が必要だ。対象の条件の知は自己の知である(?)。(イポリット前掲書189頁参照)
 言い換えれば、根底的な主観性の拡がりが客観性の条件である(?)。しかし主観性は他なるものを介したのち
 浮き上がってくるものである。
 
 ところで人間は肉体として物であり、自然としての統一の方が根源的ではないか。だがすでに人間は意識を
 持ち、自然から逸脱している。自然としての統一を選んだ場合、意識をどのように扱えばよいか。
 
 ヘーゲルは主観性としての統一を選んだのだろうか。ただし主観といっても他なるもの・客観・物の存在を
 排除した主観ではなく、他に徹底して媒介された主観である。物は意識と交わるのかという一見馬鹿馬鹿
 しい問題もここにはあるのだろうが、ただそこに、ヘーゲルを絶対的観念論の一言で捨て去ってしまってよい
 のだろうかという疑問がある。ヘーゲルもまたヴェールの間、境界の両側で揺れ動いている。
 (とても怪しい不安の多いまとめ。)
664marginal:2005/10/22(土) 10:08:28
>>663
法則の事が抜けていた。法則を捉えることに主観と客観が交わる手がかりがあるような気がする。
665考える名無しさん:2005/10/22(土) 12:17:51
乙!
666考える名無しさん:2005/10/22(土) 13:11:55
おちカレー
667考える名無しさん:2005/10/24(月) 19:14:34
>>661-662
これ目次か何か?
668考える名無しさん:2005/10/24(月) 23:23:39
669marginal:2005/10/25(火) 07:12:26
●悟性章のまとめ

知覚において意識は感性の軛に捕らわれていたため、一と多の矛盾の中で膠着状態に陥った。
物が矛盾的なあり方をしている事は明らかになったのだが、その状態を生み出した「対自存在」と
「対他存在」というあり方の運動とその内実を叙述しなくてはならない。しかも統一的にである。
極を固定化したままでは感性から逃れられないからだ。

そのためにヘーゲルは「力」という視点から出来事を捉えることを要求する。力という統一的な視点を
設定することで、物から現象全体への視野の拡がりが可能となる。力の外化と押し戻しの還流の運動は
誘発者と被誘発者の相互運動へと高められ、この運動は「両力の戯れ」として現象の表現となる。

力の運動で帰結するのは、非対象的なもの、物の内なるものとしての無制約的普遍である。ここに、
内なるもの-現象-悟性という推理連結の関係が成立する。両力の戯れは統一へと崩落し、悟性は法則を
掴み、静止した法則の国が現れる。これは感性を超えた世界であるが、この世界は現実の交替と変化の
原理を欠いている不完全なものだ。
670marginal:2005/10/25(火) 07:14:01
悟性は法則を説明する。それは同語反復的な運動にすぎないが、そこには同じもの(同名のもの)が
分裂し再統一するという運動が潜んでいる。ところで、超感覚的世界と自体は現象の法則化を介して
一致しているので、法則は叡智界にのみあるのではなく、自体におけるもの、物の側のものでもある。
したがって同名のものの運動は物の側の運動でもある。ここで超感覚的世界は運動を獲得したものに
なっている。それは運動を欠いた第一の世界の転倒した世界である。

これら二つの超感覚的世界の統一が問題になる。転倒すること、反対になることは、一方から他方への
出来事ではない。一つのものがそれ自身において反対になるということである。運動を備えているのは
第二の世界である。だから、第二の世界が第一の世界を包んでいると表象的にも表現されうる。
671marginal:2005/10/25(火) 07:17:31
こうして、自体と現象の統一、叡智界と現象界の統一、ということはすなわち意識と対象との一致
が成立しているのだろうか? 

以上を通して見られるのは、同名のものの分裂と再統一の論理が様々な場面で駆使されていること
である。それは、多様な区別を生みながらもそれを止揚している区別なき区別の定立、無限性の運動
である。知覚をダブルバインドに追い込み石化させた矛盾はついに融解し、無限性の常なる脈動へと
止揚されたのである。

無限性の存在の確信があるからこそヘーゲルは悟性章の冒頭あたりで、意識の側での反省と対象の
側での反省は、実は一つの反省の運動である、と言うことができたのであり、言い換えれば「自己意識」
への絶対的な信頼とその威力が意識章全体を裏側で支えた力であり、原動力であったと言えるのでは
ないだろうか。
672考える名無しさん:2005/10/25(火) 07:26:39
区別なき区別の定立ってなに?
無限性の運動
無限性の常なる脈動って?
673marginal:2005/10/25(火) 23:34:08
>>672
無限性とはここで、一つのものが二重に分裂しその分裂を止揚して再統一を達成し
また分裂し…という繰り返しの運動です。また、二重に分裂するということは多様な現象を
生産することですが、これは無形の中に区別を定立することでもあります。しかしその
区別は本来、区別ではないものとして止揚されます。この一連の流れを区別なき
区別の定立と表現しています。脈動する(pulsieren)とはこのサイクルがまわり続ける
ことの喩えです。
674marginal:2005/10/25(火) 23:57:25
自己意識は次のような二部構成になっているが、A.の前に生命と欲望について
大分ページを割いているので、これをまずは一つの対象として読んで行こうと思う。

B 自己意識(Selbstbewusstsein)
W 自己確信の真理(Die Wahrheit der Gewissheitseiner selbst)

 A.自己意識の自立性と非自立性;主と奴
  (Selbstaendigkeit und Unselbstaendigkeit Des Selbstbewusstseins;
   Herrschaft und Knechtschaft)

 B.自己意識の自由;ストア主義、懐疑論、不幸な意識
  (Freiheit des Selbstbewusstseins;Stoizismus,Skeptizismus und
   das unglueckliche Bewusstsein

自己意識はとても面白いと思うし、独立して読むこともできるので、今から読みたい方が
いれば一緒に読みましょう。
675marginal:2005/10/26(水) 00:02:16
使っている訳本は主に、未知谷から出ている牧野紀之訳で、これは頁数を載せます。
平凡社ライブラリーから出ている樫山欽四郎訳は、段落数を載せます。樫山訳は
原文と段落が一致しています。
676考える名無しさん:2005/10/26(水) 00:37:04
樫山訳で参加します!!!
677marginal:2005/10/26(水) 00:50:24
>>676
気楽にやりましょう。
どういう風にやって行きたいですか?
678marginal:2005/10/26(水) 01:32:23
ここを生命と欲望論と仮に呼ぶ事にしたいが、ここに表題がないのは牧野氏によると、
丸々われわれの立場から書かれたものであり、意識の経験を省いているからだそうである。

またコジェーヴの例の著作の付録を参照すると、ここでの欲望の態度は「感覚の態度」に対応し、
承認を求める闘争の態度(A)は矛盾を経験する「知覚の態度」に対応し、自由の態度(B)は
内面が問題になる「悟性の態度」に対応すると見ている。

構造を簡単に確かめて見よう。自分はここは牧野氏の見出しに従いたい。  
  
第1段落 …… (一)対象意識と自己意識
第2段落 …… (ニ)自己意識の第一の形態=欲望
第3-6段落 …(三)欲望の対象である生命とその論理                             
第7-10段落 …(四)欲望としての自己意識の経験        
第11段落 …… (五)自己意識の顕在化
679考える名無しさん:2005/10/26(水) 08:54:26
マージナルよ、こつこつとだが、確実に進んでるな。
読ませてもらってるぜ。
680marginal:2005/10/29(土) 04:08:56
●第1段落(p.314-315)
 (一)対象意識と自己意識──関係そのものである自我(Ich)

これまで対象意識に自体(真なるもの)と確信されていた様々な対象は、対象を実際に
経験するにつれて、意識から隔離された自体ではなく、意識にとってのあり方に過ぎない
ことが明らかになった。

新たな確信が生じている。それは、意識こそが自分にとって真なるものであり、自分は
これと等しくかつ対象にもしている、という確信である。従って意識において区別が立て

られはするが、それはまた意識にとって区別されてはいないような形でなされる。これは、
我々のみならず当の意識にも自覚されている。

すなわち意識を概念とし、いま生成してきた意識を対象とすると、概念と対象は一致している。
また自体としての対象を概念とし、他(意識)に対しているという対象の本義に即して、対他的に
ある対象を対象とするならば、ここで自体は意識に他ならないから、同じく概念と対象が一致して
おり、自体存在と対他存在の一致も明らかになっている。

要するにここでは<自我が関係の内容であり、関係そのものなのである。(Ich ist der Inhalt
der Beziehung und das Beziehen selbst)>

※自体についての概念は現実の対象に出会い止揚される、言い換えれば第一の直接的な
  表象は経験の中で失われる、という文章が初めのほうにある。直接性はほんらい媒介され
  たものであるという「媒介された直接性」の思想は、「現前中心主義」(例えばデリダの
  「現前の形而上学」など)にとって示唆に富む、ということを今村仁司氏は指摘している。
  (今村仁司編『現代思想を読む事典』講談社現代新書、624頁、リプレゼンテイションの項)

※関係としての自我という表現は、『死に至る病』のよく知られた冒頭を思い起こさせる。
681marginal:2005/10/29(土) 08:03:27
●第2段落(p.315-318)
 (ニ)自己意識の第一の形態=欲望──区別と統一の統一

我々は自己意識と共に真理の故郷(das einheimische Reich der Wahrheit)に歩み入っている。
この自己意識がさしあたりいかなる形態を取るかが考察される。

先行形態の意識の諸対象はいまや自己意識の契機になっている。諸契機の自立性は消失してはいる
のだが、そもそも自己意識はそれら他在から自己に還帰したものであり、対象の自立性を介して成立
する運動である。

だがそれら諸契機は止揚されたものであり、自己にすぎないという側面がある。ところがそうなると
自己意識は「自我は自我である」という運動なき同語反復に陥ってしまう。つまり他在を介すること
ができず、自己意識を維持できない。

ここで問題になるのは、他を他たらしめる対象意識の区別の側面と、他がほんらい自己であるという
自己意識の統一の側面である。要するに根本的な統一としての自己意識には、区別を立てる対象的
な側面と、もはや自己意識ではないような無内容な統一という二つの側面がある。この二つの側面の
統一をいかに解決すればよいのか。

自己意識のこの二つの側面から、自己意識は二つの対象を持つことが明らかになる。すなわち否定的
で感性的な物と、自己自身である。我々が歩み来ている地点から見れば、区別された諸対象はもはや
自立していない否定的な性格を帯びた現象的な感性界(感覚的確信と知覚における対象)であり、
これに対して自己意識は<欲望一般(Begierde ueberhaupt)>として振舞う。自己意識はこの対立を
止揚することで、自己が自己に等しいということを経験的に証し立てるのである。

※感覚的確信、知覚、悟性と来るに従って意識は理論的?になっていくように思われるのに、ここで
  欲望という感性的なものが出てくるのは唐突に感じる。
682marginal:2005/10/29(土) 10:41:13
純粋に統一作用としてある限りでの自己意識は、ひたすらに自分以外の他を取り込み一体となることを求める。
欲望の化け物みたいで、ちょっとおそろしいものがある。現実的には「食べる」という行為なのだろうが、食べられ
ないものはどうするのか。この欲望はどこで抵抗を受けるのかということについては、もう一人の自己意識を持つ
人間に対したときなのだろう。

それにしても、「食べる」という行為の謎を自分は問題意識として持っていたい。日常繰り返される他人との食事に
はある謎がある。それは突き詰めればキリストのパンとワインの謎であり、多である我々がなぜ一となることができ
るのかという問題、すなわちあの霊的な身体、神秘的身体のことである。


683考える名無しさん:2005/10/30(日) 09:57:47
125 名前:考える名無しさん :2005/10/28(金) 18:41:19
ヘーゲルはガウスたちがケレスを探してるときに、8番目の惑星なんてあるわけないだろう。バカが。ガッハッハッハ
って感じだったらしいね。どうも7という数字に何か必然性があると思い込んでたらしい。
このエピソードで俺の頭の中のヘーゲルは消えました。
684考える名無しさん:2005/10/31(月) 10:48:15
まあギリシア哲学をまったく勉強してないバカのいう台詞だな。
685marginal:2005/11/03(木) 18:13:25
●第3-6段落(p.318-325)
(三)欲望の対象である生命とその論理──流動体としての生命

★自己意識と生命の対立
  ・自己意識は対象との統一を自覚してはいるが、自己意識に区別されたものとして立てられた限りでの
   対象は、自己意識と同じく自己内環帰するものであり、「生命(Leben)」と呼ばれるあり方をする。
  
  ・自己意識は対象を直ちに否定できるものと思っているが、自己意識と対象の両者の自立性が生じてい
   る今、自己意識は現実に対象を否定しようとする時、その自立性を経験する。
686marginal:2005/11/03(木) 18:15:31
★過程としての生命と生きたものとしての生命
  ・生命の規定には大きく二つある。
    1)無限性、普遍的な流動性(die allgemeine Fluessigkeit)→ 本質であり実体
    2)自立した諸区別項 →1)において初めて成立するもの

  ・「生命」からこれらを捉え直すと
    2)の自立した区別項は実体との連続性・流動性を認めず、普遍者に解消されず非有機的自然から
    離れて、それを食い尽くすこと(Aufzehren)で自己を保つのだと主張する。まさにそのことにより、
    ばらばらで静止した諸区別項は<過程としての生命(Leben als Prozess)>となる。逆から見ると、
    1)の普遍的流動性は自体存在であり、対自的な(自立した)諸区別項の他者である。これらがその
    媒体を食い尽くすことにより、流動性は<生きたものとしての生命(Leben als Lebendiges)>になる。

  ・区別された個体は普遍者を犠牲にして自己を維持し、自分自身との統一の感情を得るのだが、まさしく
   そのことにより、実体との対立は止揚される。つまりここで自分自身との統一と感じられたものは、諸
   区別項との流動性であり、全てを一つに解消すること(die allgemeine Aufloesung)である。 
687marginal:2005/11/03(木) 18:17:45
★全体としての生命
  ・生命の単一な実体は多様な区別を生み出すとともに、それらの解消でもある。自立性と過程は統一されて
   おり、生命はそれら抽象態のいずれかというあり方をしているのではない。要するにこれら全体的な円環が
   生命を構成するのである。
   
※第4段落で無限性と時間の関連が述べられているが、どう考えてよいか分らない。流動的という共通点以外何か
  あるのだろうか。空間の充実した諸形態を持つ時間、という言い方も分らない。
 
※ここは、バタイユの存在の連続性と非連続性という言葉を思い起こさせる(『エロティシズム』)。もちろん、
  ヘーゲルの「生命」とバタイユの「存在」を直ちに同置はできないが。記憶が不確かだが、バタイユでは死が
  存在の連続性を成し遂げるものではなかっただろうか。ここでは実際に食べることが他との連続性を喚起する
  ものだが、われわれは他を食べる存在であるとともに、また時間や死に食べられる存在でもある、というのは
  あまりに散文的か。
688marginal:2005/11/17(木) 00:19:55
ハイデガー『ヘーゲル『精神現象学』』(藤田正勝、アルフレド・グッツオーニ訳、創文社)
を読んだ。自己意識の途中までの読解で全部ではなく少し残念だったが、教えられるところが
多くさすがだと思った。気になったところを自分なりに再構成しつつ簡単に書いておきたい。

ハイデガーは精神現象学には西洋哲学の on(存在)の問題が方向として取り集められている
ことを述べている。 形而上学の歴史は次のようにまとめられる。

 ・古代(ソクラテス以前) … onto-logisch
 ・プラトン、アリストテレス … onto-theo-logisch
(・キリスト教神学      … theo-ego-logisch)
 ・デカルト          … ego-logish

つまり、on の問いは全体として onto-theo-ego-logisch(存在-神-自我-論的) である。
この連関がヘーゲルにおいて、絶対者が精神であるという表現に示されている。すなわち、

 精神は知であり、 logos である。精神は自我であり、 ego である。精神は神であり、theos
 である。精神は現実性であり、有るものそのものであり、 on である。
                        (252頁、logos、theos、onはそれぞれギリシャ文字)
689marginal:2005/11/17(木) 00:22:28
したがって、生命という無限性としての「存在」は、次の三点から捉え直されうる(277-285頁参照)。

 ・onto-logisch … 他在(Anders-sein)における自己同一性
 ・ego-logisch … 自我=自我としての内的区別
 ・theo-logisch … 絶対的な概念としての精神

ハイデガーによると、第4段落で私が理解できなかった時間と空間についての一見奇妙文章は、
イエナの自然哲学での考察の圧縮された表現である。ヘーゲルの時間と空間の問題は自分とし
てはまだ理解できていない。結局分からなかったが、得られるものがあった。ここの読みに関して、
ヘーゲルとハイデガーの微妙であるが決定的な差異が語られていたのである。原文はこうだ。

Das _Wesen_ ist die Unendlichkeit als das_Aufgehobensein_ aller Unterschiede, die reine
achsendrehende Bewegung, die Ruhe ihrer selbst als absolut unruhigen Unendlichkeit;
die _Selbststaendigkeit_ selbst, in welcher die Unterschiede der Bewegung aufgeloest sind;
das einfache Wesen der Zeit, das in dieser Sichselbstgleichheit die gediegene Gestalt des
Raumes hat.

必要なところを直訳すれば、本質は…無限性であり、…この自己同一性において空間の充実した形態を
持つ時間の単純な本質である、となる。樫山訳では「時間の単純な実在」(211頁)である。牧野訳では
「単純な本質としての時間」(320頁)となっており読み方が違う。長谷川訳では「それ[生命の本質]は、
時間のなかで自己同一の単一な存在を保ちつつ、空間のなかに確固たる形をとって位置を占める。」
(123頁)となっている。
690marginal:2005/11/17(木) 00:23:52
無限性は時間の本質なのか、時間という本質なのか、時間の中にあるのか。これをいま判断するのは自分
の力に余るので、さしあたり直訳のまま理解しておきたい。ハイデガーはヘーゲルにおける存在と時間の
関係をこう述べる。

 無限性としての有のこの有-自我-神-論的概念の光のなかで時間は自己を有の一つの現象として示す。(285頁)

時間。ここで時間は存在(無限性)の現象である。ハイデガーによれば、ヘーゲルにとって、存在が
時間の本質である。ヘーゲルに、精神現象学は時間を殺す試みであり、存在(精神)の充溢が
時間に溢れるとき歴史が始まる、というような意味の文章がどこかにあったような記憶がある。

ところがハイデガーにとっては逆であり、時間が存在の本質である。両者で存在の理解の仕方が異なる
のである。根拠はハイデガーの著作に当たらなければならない。ある方向が示されている。

 つまり否定的な形で言えば、時──すなわちロゴス<logos>ではないということである。(196頁)
691marginal:2005/11/17(木) 00:26:24
形而上学を構成する onto-theo-ego-logisch の連環の根底にあるのは logisch すなわち logos
であった。ハイデガーはロゴスではなくクロノスをそこに置く。ただしロゴスではないからといって
神秘的であるのではないとハイデガーは言う。まずは on とlogos の関係をはっきり捉えなくては
ならないのである。

要するにハイデガーにとって on の問題の取り扱いは本質的にはもはやオントロギーではなく、
オントクロニー<Ontochronie>(197頁)すなわち『存在と時間』の道となる。
692marginal:2005/11/21(月) 06:09:06
>>687
>空間の充実した諸形態を持つ時間、という言い方も分らない。
これは原文をきちんと確認してない事による初歩的な誤読だった。馬鹿だ。
「空間の充実した諸形態を持つ」は「単純な本質」にかかるので、あえて言えば、
[生命の]本質は…無限性であり、…この自己同一性において空間の充実した形態を
持つ単純な本質であり、時間の単純な本質である、とでもなろうか。
693marginal:2005/11/21(月) 22:55:05
●第7-10段落(p.325-328)
(四)欲望としての自己意識の経験──自己意識の満足

★生命の二重化
 ・次の二つははもはや別の統一である。
   1)最初の直接的な統一 … 単なる存在(※感覚的確信におけるような)
   2)形態化と過程を含む反省した統一 … 普遍的な統一 = <単一な類(die einfache Gattung)>

 ・この普遍的な統一の中で、生命は生命とは異なるもの(ein Anderes)を指し示している(verweisen)。
  それは意識であり、意識が生命を普遍的な統一、類として知る。
 
 ・しかし、類を意識し、自身も類であると「自覚する」別の生命は自己意識である。ただしこの自己意識は
  まずは単一な本質としてあるにすぎず、自分を純粋な自我として対象にするにすぎない。
694marginal:2005/11/21(月) 22:55:54
★否定的な本質としての欲望
 ・単一な自我が類・単一の普遍者である。そこではいかなる区別もない。単一な自我は区別を否定する
  <否定的な本質(negatives Wesen)>だからである。

 ・したがって自己意識が自己を確信するのも、自分に対して自立した生命としてある他者を否定、止揚
  することによってである。換言すれば、他者が無であるという確信を、真にそうであるように実現する
  ことによってである。つまり自己意識は欲望である。
695marginal:2005/11/21(月) 22:57:34
★自己意識の満足のかたち
 ・しかし、欲望の満足による自己確信は他者の止揚によって得られる為、確信は対象に依存している。
  しかも対象は自立的なものなので、自己意識はこの否定的な関係によっては対象を止揚できない。
  それゆえ自己意識は対象と欲望を再び産み出す。自己意識とは別のものがそこにはあり、それが欲望
  の本質である。(※ここは良くわからない。自分が生きながら生命全体は否定できない事を思った。)
 
 ・とはいえ自己意識もまた自立したものであり、対象は止揚されなくてはならない。では、自己意識が
  満足を得られるのはいかなる対象においてであるか? それは、自分自身の否定を自身において実行
  するような対象においてである。そのような、自己否定しながらも自立的である対象は意識である。
  
 ・別な様に言えば、欲望の対象として絶対的な否定がなされるのは、普遍的で自立した自然である。
  それは類そのものであり、自己意識である。だから、自己意識は他の自己意識においてのみ満足を
  得る。
696marginal:2005/11/21(月) 22:59:51
※生命から類、類から自己意識を導き出し、それが満足を得るのは他の自己意識においてである。
  満足も動物的なものから人間的なものになり、欲望もまたそのようにあるように見える。

※生命が生命とは別のもの、つまり意識を指し示すというが、意識は生命とは異なるものなのだろうか。
  イポリットもまたそれについて述べている。少し長いが引用しておきたい。
 
  生命一般は、まさしく、自己意識の <他なるもの> である。この対立は、具体的にはなにを意味する
  のか。自己意識としてのわたくしが、わたくしに対立するものとしてみいだすもの(対象 Gegenstand)
  が、生命であり、生命は、いかんともしがたく他なるものであるとともに、自分と同一なるものでも
  あるのである。若いころの論文において、ヘーゲルは、アブラハムの意識の特徴を論じて、反省が
  いかに最初の直接的な統一をやぶるかをしめしている。アブラハムは、自分自身から自分を分離する。
  かれの生命(すなわち、生命一般)は、かれには、かれ自身とは別なるものとしてあらわれる。ところ
  が、この生命には、かれにもっとも近いものでもある。生命は、もっとも親密であるとともに、もっとも
  遠いものなのである。(……)しかし、反省としての自己意識は生命との断絶をあらわしており、この
  断絶のいっさいの悲劇は、不幸なる意識によって体験されることになる。(イポリット前掲書、213-214頁)
  
 飛躍するかもしれないが、自己意識が自己意識として極点に達するとき、生命は最も近しいものである
 にも関わらず、別のもの、無関心な(gleichgueltig)ものとして、どうでもいいものとなる。そのような者に
 とって、他者は生命なき「単なる物質(Materie)」(『キリスト教の…』26頁)であり、統一を求めるならば、
 それは「死の上にのみ漂うもの」(同頁)となる。
697marginal:2005/11/22(火) 21:46:38
弁証法をその動的なあり方と具体的な内容を損わず要約するにはどうしたらよいか、
ずっと悩んでいる。図式的に単純化した教科書的なヘーゲルはつまらない。かといって
その面白さを記述しようとすれば、ヘーゲルの文章のほとんどそのままの引き写しに
なってしまう。…だから…で、…が…になる、とそのまま受け入れて、批判精神が
骨抜きにされてしまう怖さがある。

だがまずは確かにヘーゲルの言うように豊かな内容の中で自己を失い、追思考
(Nachdenken)する事が求められるというのは分る。ハイデガーも精神現象学の
ゼミナールの中で、弁証法の一文一文に文句を挟むのではなく、まずは全体を
読まなくてはならず、そして終わりが始まりなのだからもう一度読む、つまり
精神現象学は二度読まれなくてはならないという事をどこかで言っていた。

思いつくのは、ヘーゲルの論理学を吸収した上で、精神現象学のそれぞれの
場面を要約する際、そこにどのような論理が使われているかを批判的に明らかに
する事、さらにはその中で有効なものを精神現象学では扱われていない別の
場面に適用して(マルクスやフランスの思想家たちがしたように?)新たな視野を
開くことだが、これは荷が重すぎる。

アドルノも要約そのものに付きまとう暴力的な単純化を非難したと聞く。矛盾して
いるが、暴力的ではない要約、単純化ではない内容の豊かさを損わない要約の
仕方はないものか。大学の原典購読でも、ある程度担当したところを読み訳し
内容をまとめるという修行が行われていると思うが、どのようにやっているの
だろう。
698marginal:2005/11/24(木) 05:08:48
●第11-12段落(p.329-330)
(五)自己意識の顕在化──まとめ

・次の三つの契機の中で自己意識の概念が完成している
  1)純粋で区別されていない自我が自己意識の最初の直接的な対象である。
  2)しかしこの直接性は自立的な対象の止揚に媒介されている。つまり
    自我は欲望であり、それを満足させる事で自己意識は自己に反省し、
    自己確信は真理になる。
  3)この反省は実は二重の反省であり、自己意識の二重化である。自己
    意識の対象は生きた自己意識である。
      
・一つの自己意識に一つの自己意識が対している。
   このあり方にして初めて、自己意識は成立し、自己意識がその他在において
   自分自身の統一を自覚する。(※他人の中に自己を見る。)また、そこで初め
   て対象が自我であると共に対象である。
  
・<精神の概念(最初の現れ)> が我々にとって現前している。
   精神とは絶対的な実体である。そこでは、
     完全な自由の中で対立したものが自立しながらも統一されている。
     つまり様々な自己意識が独立しながらも統一されている。
     すなわち「我々である我(Ich)、我である我々」ということ。
699marginal:2005/11/24(木) 05:12:23
※自己意識は、単に生きた個体を自己の欲望の対象にするならは、かえって欲望と
  その対象を再生産するばかりで、無限連鎖は止まらない。欲望は他の自己意識に
  おいで初めて満足を見出す。他者の中で自分が他者の自己否定の強制力として働き、
  しかも否定されながらも他者は自立したものであるため、満足に持続性がある。

  しかし他の自己意識もまた自己意識である。自分も同じく欲望の対象として他者に
  否定される危険がある。他者を否定しえても欲望の満足は永遠なものではないはず
  だと思う。そこに闘争の必然がある。自己意識は他者との油断のおけない闘いの場
  であり、その関係性も瞬時に転変しかねない危うさを秘めている。しかしそれが「精神」
  への転換点である。
700考える名無しさん:2005/11/24(木) 07:01:40
2年もやってるのか!凄い!
701考える名無しさん:2005/11/24(木) 16:14:27
タイトル並べてるだけ・・・・・
702考える名無しさん:2005/11/24(木) 21:28:19
>>701
はあ?
703marginal:2005/11/25(金) 23:42:59
●生命と欲望論のまとめ

少し自由にまとめてみたい。

対象意識の真実は自己意識であった。対象意識は自己意識へと止揚さ
れている。止揚とは周知のように、否定したものを上げつつ保存する
機能である。先行したものは後続の中で否定されながらも契機として
漏らさず貯蔵されている。

否定されたものは完全に死んだものなのか。そうではない。それは
新たなものの中で痕跡として効果を発揮する。但しヘーゲルにとって
はもはや恐れる事のない、自己の制御内に囲い込んだままではあるが。

つまり、自己意識の中で対象意識が作用する時、それは自己意識と
対象の分裂をもたらす。自己へ帰るには他を介さなくてはならない
のだから、それは必然的に作用する。

対象は無限性という全体性を経験した後では、もはや個別のものでは
ない。それは感性的な現象界全体である。そこから意識性を除けば、
それは「生命」と呼ばれる全体である。
704marginal:2005/11/25(金) 23:45:42

生命の実体は流動性・連続性であるが、そのままでは非現実的である。
実体は個別の生物に現象する。両者の統一はここで飲食の行為に代表
されている。

すなわち、個体は生物を食べることで生命の過程に組み込まれ、生命
の流動性は食べられることで実際に生きたものとしての個体性を獲得する。
生命は個体化とその解消の運動である。存在レベルでの統一がこれである。

自己意識もまた肉体を持つ生命であり、欲望を持つ動物である。個体
化された生命は全体の生命に引き寄せられる。自己意識は生命を食べる
事で自己に取り入れ、それとの連続性の中で己を失う。満足と融即の
感情が湧き上がるが、それは一時的なものである。動物的な欲望は
悪無限に陥らざるをえない。

自己意識は肉体として生命であると共に、自分が生命という類であると
自覚する意識的存在である。そこで、存在レベルでの統一の他に、意識
レベルでの統一が模索されなくてはならない。そこでこそ初めて自己意識
は、持続的で真に人間的すなわち意識的な満足を得られ、自己を真に
確信する事ができるだろう。
705考える名無しさん:2005/11/26(土) 10:51:58
>>683
数学や自然観察や実証科学を軽蔑して
思弁や既知の観念を盲信しすぎたのが
ヘーゲル自然哲学の致命的欠陥だったね
706marginal:2005/11/26(土) 13:36:57
「軽蔑」していたと言われると、その気持ちも大変良く分りますが、少し擁護したい
気もありますね。大事だからこそ自然哲学や精神現象学の理性章でそれらを取り上げた
とも言える訳ですし。内容の正誤はひとまず別にしても。

数学的思考などは精神現象学の序論 Vorrede で批判されてますが、自分の練り上げた
弁証法的思考を強く打ち出したいとの思いが強かったのかもしれません。Vorrede は
その名前とは裏腹に本文を書き上げた後に書かれたもののようですから、その興奮も
あいまって気負いもあったのかも知れません。

そうでした、時代が違いましたね。『惑星の軌道』は1801年、『精神現象学』は1807年
の事でした。すいません。
707marginal:2005/11/26(土) 13:37:22

1968年初版の、中埜肇『ヘーゲル―理性と現実』(中公新書)で著者はこう言っています。
 
  このことをもって自然哲学に対する哲学の決定的な敗北であると考え、したがって
 ヘーゲルのこの論文はその敗北の記録文書に外ならないから、これは彼の学問的履歴
 における拭うべからざる汚点だと言う人もいる。確かにヘーゲルの哲学は、その完成
 した体系においても、自然を対象とした場合に不器用であることはだれしも認めなけ
 ればならないであろう。そしてその不器用さの良い例がこの論文であると考えること
 もできるであろう。弁証法という武器は、歴史と社会を対象にした時に最も鋭利で
 あると私も考える。(65-66頁)

私も確かに自然に弁証法を適用して「科学」だというのは付いて行けません。ヘーゲル
の学 Wissen-shaft は訳しづらい語ですが、知のシャフト、一つの原理に貫かれた連なり
といったような意味もたぶんにあって(牧野氏は確か「百科事典」と訳していたような)
サイエンスと訳されるとそちらが抜けてしまいます。
 
今はヘーゲルの自然哲学の研究も進んでいるようですから、研究者の言葉を聴きたい所
ですね。加藤尚武教授がどこかで何か言っていたと思いますが、ちょっと今わからない
です。
708marginal:2005/11/26(土) 13:37:44

ともあれ私もヘーゲルの思弁性は全く否定しません。ですが、フロイトの思弁性も思い
起こされ、思弁性が学ぶことのない無価値なものだとは私は思えないのです。

N・O・ブラウンは精神分析を「神秘主義の伝統の後継者」(『エロスとタナトス』314頁)
と規定しています。いま論証抜きで述べますが、神秘主義はベーメ、グノーシス、ロマン派
などを通じてヘーゲルにも強く関わるものです。

神秘主義といういう言葉は胡散臭いですが、一と多を考える際に視野に入れて置きたく、
「似非科学」と言われればそれまでなのですが、要はヘーゲルとフロイトの可能性は私に
とってとても魅力的なんです。脱線しました。

まとめますと私が言うのもなんですが、『惑星の軌道』論文はヘーゲルの勇み足だと思い
ますし、自然哲学関連ははあまり読む気になりません。ただ、705さんや684さんも多分そう
だと勝手に思い込んでますが、私はヘーゲルの悪いところだけでなく(でも「阿呆の画廊」は
さすがに言いすぎだと思います)、良いところを見たいと常々思っているということでした。
709marginal:2005/11/26(土) 13:50:52
ああ、『惑星の軌道』論文は数の神秘主義で考えられたものだから
弁証法とは関係ないのかな。やはり良くわからないことは書かないほうが
よかったです。
710marginal:2005/11/27(日) 23:28:14
「A.自己意識の自立性と非自立性;主と奴」は全19段落で構成されている。

1-8段落 … 承認の概念
9-12段落 … 生死を賭けた闘争
13-15段落 … 主の真実
16-19段落 … 奴の真実
711marginal:2005/11/27(日) 23:58:53
失礼。
1-8段落(p.331-335) … 承認の概念
9-12段落(p.335-341) … 生死を賭けた闘争
13-15段落(p.342-345)… 主の真実
16-19段落(p.346-350)… 奴の真実
712marginal:2005/11/28(月) 08:01:02
>>707自己レス
>牧野氏は確か「百科事典」と訳していたような
牧野氏はWissenshaftの意味を把握した上で「科学」と訳していました。
百科事典は「エンチクロペディー」の訳でした。しかも事典ではなく、辞典でした。
申し訳ありません。
713marginal:2005/11/28(月) 08:04:49
>>712つまり正しくは
エンチクロペディー → 『哲学の百科辞典』
714marginal:2005/11/30(水) 04:27:36

      無限性としての自我=自我
              ↓
           自己意識(前-統一、潜在)
       ┌────┴────┐
       ↓         .    │
      生命         .    ↓   
       ↓          自己意識
      自己意識        .  │
       └────┬────┘
               ↓
             精神(再-統一、顕在)
715marginal:2005/12/04(日) 14:14:20
●第1-8段落(p.331-335)
承認の概念──自己意識の戯れ

・承認の概念
  自己意識は <承認されたもの ein Anerkanntes > である限りで、そこに精神的な
   geistig 統一が成立する。形式的には次の二つが承認の概念を構成する。つまり、

   1)自己意識の二重化 Verdopplung における統一
   2)自己意識において実現している無限性

  1)は多面的な区別の設定、2)は区別された規定が直ちに自身と反対になる事も
  意味する。無限性により統一は静的ではない。承認の運動はいかなるものか。
716marginal:2005/12/04(日) 14:19:20

・一方から見た形式的な承認の運動
 
  α)自己意識Aと別の自己意識Bが向かい合っている。A(Bから始めても同じ)は
     <自己の外に出ている ausser sich gekommen >。運動には二重の意味がある。
   
     1)Aは自己を喪失している。Aは自己を他者の実在 Wesen として見出すからである。
       (※自分が意識しているから他者が存在する?)
     2)それによりAは他者を止揚している。というのもAは他者を実在 Wesenとして見て
       いるのではなく、他者の中に自分自身を見ているからである。
  
  β)Aは自己の他在 sein Anderssein を止揚して取り戻さねばならない。
   
     1)Aは自立した他者を止揚して、自分こそが実在であると確信せねばならない。
     2)だがこれによりAは自分自身を否定することになる。というのもこの他者は
       A自身だからである。
       
  γ)Aの行う一つの止揚は二重の自己内環帰である。
    
     1)AはBの止揚により自分自身を取り戻し、自己が自己と等しくなる。
     2)同時にそれはBにおけるAの否定でもあるから、Bを釈放する entlassen ことで
       あり、Bは自己を取り戻す。
717marginal:2005/12/04(日) 14:21:09

・承認の運動の意味

  自己意識の行為の運動は二重の意味を持つ。すなわち、自己意識の行為は
  1)<自己に対して> 行われると共に2)<他者に対して> 行われるものである。

  また、その行為は1)<一者の行為 das Tun des Einen > であるだけでなく、
  それと不可分に2)<他者の行為 das Tun des Anderen > でもある。
  
  つまり、一方だけの行為は役に立たず unnuetz 、承認は両自己意識によって
  しか実現されえない。

  というのも、他者であるBがかつての欲望の対象とは異なり、Aと同じく自己
  完結した自立した自己意識だからなのだが、この場合、以下のことが生じている。
  
   Aは、自分が行うことをBも同じように行わない限り、Bに何もできない。つまり、
   各自己意識が自分の行うことを行うのは、他者が同じことを行う限りでのことに
   過ぎない。その為、各自己意識は他者に要求することを自分自身で行う。結果、
   各自己意識は自分が行うことと同じことを他者が行うのを見る。
718marginal:2005/12/04(日) 14:23:34

・両力の戯れとしての自己意識の行為

  両自己意識の運動は、悟性で見た「両力の戯れ」の意識におけるものである。承認が
  成立しているとき、両極である自己意識はこの運動全体を自覚している。
  
  (われわれから見れば?)中項 Mitte は(根本的な)自己意識(※「精神」?)である。
  それが両極に分裂する。両極は規定を交換すると共に他に移行する。
  
  力の場合とは異なり、今の場合は両極は自己意識だから、他でありながら自立した自己
  であることができる。両極は互いに自己の外に出ており、自立した他の中で対自である
  ことによってのみ対自でいられることを自覚している。
  
  従って(意識にとっては?)各極がその他にとっての中項 Mitte であり、互いに他を介して
  自己と推理連結する。

  要するに <両極は互いに他を承認しているものとして、互いに承認し合っている。
  Sie _anerkennen_ sich als _gegenseitig sich anerkennend_.>
719marginal:2005/12/04(日) 14:28:15

・われわれの対象

  承認の純粋な概念、すなわち自己意識の統一における二重化の概念、そして自己意識
  自身がその過程をいかに意識するかが考察される。初めは自己意識の不等性の側面、
  一方は承認される者、他方は承認する者として現れる側面が呈示される。
  
 ※ここは自分には簡単なようでいて、その内在的な連環を詳しく確認しようとすると良く
   わからなくなる。承認の概念はイエナの『精神哲学』の方が詳しいらしいので、そちらも
   確認すべきだが時間がない。
  
 ※確信は本質的に「自己否定的な確信」とでもいうべきものであり、他者と共にその内に
   存する自己をも否定することである。他者にとっては自分自身の否定であると共に自己の
   解放でもある。確信はむしろ自己否定を伴い相手を承認するものでもある。
  
   確信がそもそもそのような構造をしていると互いに知っていれば、闘争の前に互いに
   自己否定が行われ、互いに承認されている状態が成立する。それは自分と同じことを
   他者も行う、鏡の戯れである。
 
 ※独我的な二つの自己意識の地平の融合が目指されている。
720考える名無しさん:2005/12/04(日) 14:45:11
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          _/," :::/     '、  ゙l; : ゙ー 、,,_____,,....‐''´, ノ         '、` _ ̄,⊃
       _,,=='´ "::::,'     / \ ゙l;:      ,,_;,ノ \         ヾヽ ':;ヽ
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721考える名無しさん
ヘーゲルってどこを切っても同じこと言ってるな。