Reading A Treatise of Human Nature

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1サンダル
このスレではヒュームの『人間本性論』第一巻を扱います。

私の手元にあるのは OXFORD UNIVERSITY PRESS から出ている
"A Treatise of Human Nature" という書物ですが、これには
校訂者による30ページ程度の概説がついています。今回はまず、
本論を理解するための手引きとして、これを全文和訳します。

本論に直接向けられたものを含めて、質問、異論、意見等は
適宜表明して下さい。こちらから教えを請うこともあるでしょう。
2【人間本性論】:03/11/22 22:35
『人性論』の出版から二世紀半の間、ヒュームはしばしば、お決まりとさえいえるほど、
破壊的な懐疑論者だと解釈されてきた。つまり、その主な業績としては、ロックと
バークリーの経験主義が、その論理的帰結をとれば、原因、客体(objects)、
恒久的自我(enduring selves)、人間的自由、客観的価値(objctive value)などの
実在(reality)を否定するということを示し、それどころか、こうした過激な懐疑的帰結を
喜んでいたという、そういう哲学者であると見なされてきた。われわれは、この誤った
解釈がいかにして生じたかを理解することができる。ヒュームは時にみずからを
懐疑論者と称したが、その際、懐疑論者というものは、彼の時代の或る参考業績が
評したように、何事についても実在的ないし正確な認識は一切存在せず、われわれは
「すべてを疑い、信じないようにせねばならない」のだ、と主張する人々のことだと
解された。ヒューム独自の懐疑論の発想は、これよりはるかに穏健である。
彼はとりわけ次のように主張した。すなわち、懐疑論者たちが疑うべきだと主張した物事も、
その多くは、われわれの本性がわれわれをしてそれを信じることを不可能ならしめて
いるのだ、と。
3【人間本性論】:03/11/22 22:36
このように、ヒュームの穏健さは明白だったのであるが、にもかわらず、
なぜ彼の同時代人や多くの後世の読者はそこを見落としたのか。それはおそらく、
ヒュームの懐疑が宗教的な事柄についても向けられていたからであろう。
『人性論』が宗教問題についてあからさまに論じた箇所は、そう多くはないのだが、
それは宗教的教義のうち、まさに人々が最も好む部分を攻撃し(たとえば魂の非物質性
(the immateriality of the soul)である。1.4.5.17-21〔第1巻第4部第5節第17〜21段落〕をみよ)、
また哲学問題の解明を企てるにあたり、宗教的原理や神の慈悲深い性格などに訴えないという、
当時としては型破りな方式をもってした。後年の彼のいくつかの著作(たとえば
『人間知性に関する探究』『宗教の自然的歴史』『自然的宗教に関する対話』)においては、
宗教的信念の多くの重要な側面に対するヒュームの懐疑は公然たるものである。
結果的に、彼の同時代人の多くは、彼を危険な無信仰者だとして非難し、彼のあらゆる
哲学を本質的に破壊的なものとして特徴づけるように動機づけられた。こうした消極的な
評価は、その後、いまなお多くの者がそうであるように、ヒュームを注意深く読むことに
失敗した人々によって、繰り返されてきた。
4【人間本性論】:03/11/22 22:38
 ヒュームは単なる破壊的懐疑論者である、という積年の見解を説明するいかなる仮説を
立てるにせよ、『人性論』の本文がこの見解を支持していない。この著作の副題は、それが
「実験的な推論手法を道徳的主題へ導入する試み」であることを語っている。緒論の第一段落で
ヒュームはこう言う。実験的な推論手法を <自然> 哲学(natural philosophy)に適用することは重要な
積極的成果を生み出した、と。ついで彼はこう言う。自分は『人性論』によって、哲学の他部門、
すなわち <道徳> 哲学(moral philosophy)のために、これと似た積極的な貢献をしたい、と。
ここにおいて、われわれの課題は、一方ではヒュームがみずからを一種の穏健な懐疑論者だと
見ていたことを認めつつも、彼の積極的貢献を理解することである。
5【人間本性論】:03/11/22 22:40
 まず、ヒュームを <ポスト懐疑論> の哲学者として理解することが有益である。つまり、
ヒュームは自分の哲学研究の成果として、マルブランシュ、ロック、ベイル、バークリー
といった有力な哲学者たちが、既にもう、伝統的形而上学と認識論を手段として懐疑的結論を
導出してしまった、ということを確信したのである。哲学は物事の実在的本性や関係について
信頼できる説明をわれわれに与えることができない、ということを最初に主張したのは、
これらヒューム以前の哲学者なのである。17世紀後半のデカルト主義哲学者の筆頭たる
マルブランシュは、自然のうちに真なる原因はなにもないということ、われわれの自然的能力は
物質世界の存在を立証できないということ、またわれわれは、われわれの自身については、
自然についてる知るよりも余程わずかなことしか知り得ないということ、などを主張した。
ロックとその後続は、物質的であれ非物質的であれ、実体についてのわれわれの認識は、
漠然とした <それが何でないかということを私が知るところの何物か> に還元される、と結論した。
ベイルは、空間と時間についての考えられるすべての理論とすべての哲学体系は相容れない、と主張した。
バークリーは物質的対象の存在を否定した。加えて、ホッブス、マンデヴィルおよびその他は、
実在的な道徳的識別の存在を否定した。なるほど、これらの主張のうちのいくつかは、宗教的傾倒
によって緩和されはした。たとえばマルブランシュは、神の活動がわれわれが自然的因果と解する
ところのものを説明するのであり、また物質世界は神という啓示された言葉によって立証されるのだ、
という仮説を立てた。しかし、ヒュームの先人たちが、意図してであれそうでなかれ、われわれの
最も根本的な信念の <哲学的> 基盤についても、深く懐疑的だったということは、やはり事実である。
6【人間本性論】:03/11/22 22:44
 ヒュームはポスト懐疑論の哲学者であるという主張は、彼がいくつかの重要な点においても
懐疑的でなかった、ということではない。彼は明らかに、次のことを強く信じていた。
すなわち、人間の認識は範囲と深さの両方において制限されており、また哲学的主張は
誤謬と言い訳にまみれている、ということである。しかし、彼はこの分かり切った論点を
立証する必要がまったくなかった。ヒュームは、しばしば暗黙的であった先人たちの懐疑論を、
十分に察していたので、彼の結論はこうなった。すなわち、哲学に残された最も重要な仕事、
そして実際、おそらく唯一妥当な残された仕事は、懐疑論の大勝利を所与としてなお、
われわれはいかにして、知的生活と道徳的生活の両方を含めて、われわれの生活を続ける
ことができるか、ということを示すことである、と。彼の先人たちは、人間は空間、因果関係、
外部存在、精神、道徳的識別、などの真の本性について確かで正しい認識を得るのだ、
という主張を、徹底して信じなかった。ヒュームが緒論で評したように、平俗な人々でさえ、
哲学的企てがうまく行っていないということ、また「最も些細な問題」が論争の主題になり、
「最も重大な問題」についてはなにも確かな結論に達しそうにないということ、を知っていた。
過去の哲学は、それへの熱狂が過剰であることがあからさまな、不良品の問題を作り出そうと
していたに過ぎない。手法における変革こそが、他のあらゆる学が依存し得るような、或る新しい、
理にかなった基礎を――新しい人間本性学と共に――われわれに与えてくれるのである。
ヒュームはそう主張する。
7サンダル:03/11/22 23:01
【要約】

『人性論』の出版以来、「ヒュームは単に破壊的な懐疑論者である」という
謬見がはびこってきており、いまなお根強い。この謬見の由来は、
彼の議論の無神論的な性格であって、決して彼の議論の本質ではない。
注意深く『人性論』を読み、彼の議論の本質を理解すれば、それが
決して単なる破壊的懐疑論ではないということが分かるだろう。

ヒュームはいわば「ポスト懐疑論」の哲学者である。彼は、前の世代の
哲学者たちによって <哲学的> 懐疑論は一応の完成に達した、と考える。
そこで、ヒュームが目指したことは、しばしば誤解されているように、
懐疑をさらに推し進めることではなく、それを再検討することによって、
その反駁不可能な部分はそれとして認め、他方、不当な懐疑は
これを訂正する、ということであった。

ヒュームは当代の哲学界の論争状況を不毛なものと見る。
いまや哲学者たちは方針を切り替えるべきなのであり、
そしてその指針となるべきものが、彼の提唱する
「人間本性学」にほかならない。
8考える名無しさん:03/11/22 23:03
まじ?
9考える名無しさん:03/11/22 23:07
お帰り  >サンダル
10サンダル:03/11/22 23:19
別の版でも、翻訳でもいいですから、できればテキストを読んだ上で
発言して下さい。もちろん、一番望ましいのは、私が訳しているこの
概説を一緒に読んで下さることですが。

このスレの趣旨は、ヒューム哲学に関する知識も学習意欲も
ない人にそれを分かり易く解説することではありません。
素人が輪読によって相互に理解を正確ならしめること、
また識者の教えを請うこと、それがこのスレの趣旨です。
11考える名無しさん:03/11/22 23:22
世界の名著の妙訳「人性論」では駄目ですか?
岩波版は手に入らないのですが。
12考える名無しさん:03/11/22 23:40
13サンダル:03/11/22 23:41
>>11

歓迎します。あなたが真面目に付き合ってくださるなら、
この概説の翻訳作業と平行して、われわれで順番に
ヒュームの議論をまとめを行ってみましょうか?
オーソドックスな「ネット読書会」というわけです。

私はただの素人ですから、用心なさらずに。では。
14サンダル:03/11/22 23:43
あと、さいわい私の手元には法政大学出版局の全文訳が
ありますから、抄訳しか手に入らない方々の疑問に
ここで解答を示唆することができるかも知れません。
1511:03/11/23 00:02
>>13
ありがとうございます。
妙訳なら短いのでとりあえず読んでみます。
私は全くの素人ですので、しばらくは皆さんの進行を見てから
機会があれば参加してみたいと思います。
16q1nu&:03/11/23 12:13
なんか、今迄の事から考えると観客すら君の自演に思えてくる。
17考える名無しさん:03/11/23 13:59
なんか、あれだよなあ。
フッサール、ハイデガー、ラカン、シェリング、ヒュームとかさあ。
だいたい嗜好がわかったよ。
俺の興味ないものばかり。
大陸合理系はどうなの?
俺はスピノザとかはいいこと言ってると思うんだけど。
ライプニッツも面白い。
フランスのラ・メトリとかも。「人間機械論」ってやつ。
ギリシア哲学までどうこうはないけど
現代思想はかったるい。
大陸合理系で一発やってくれよ>サンダル。
18考える名無しさん:03/11/23 14:04
あんたさあ、以前にもこういうマジメなスレ立てて長続きしたこと
ないじゃん。
下品に煽られてネタに走るか、レスがつかなくて飽きて放置。
19考える名無しさん:03/11/23 14:14
なんならヤフーの掲示板でトピック立てたら?
西洋哲学のとこはトピック作成できる空きがあるし。
ここはごった煮システムだからよ。
マジメにやろうとしても錯覚させてネタ扱いするのが主旨
だからな。
20考える名無しさん:03/11/23 14:21
じゃあみんなでヤフーに行こう。
2CHはもういいや。
21考える名無しさん:03/11/23 14:25
俺はさ、今こういう2chのような掲示板できちんと人物特定できる
システムのサイトを企画中。哲学をカテゴリーメインにおきたいね。
もう2chはいいよ。
22考える名無しさん:03/11/23 14:30
とりあえずヤフーへ

いざいざ
23考える名無しさん:03/11/23 14:50
すっごいわがまま君ばっか。
24考える名無しさん:03/11/23 15:11
ええ、わがままですけど。
わがままに振舞わなければ愛はないですけど。
遠慮がちなチンポが勃起をしないように。
遠慮がちなマンコが濡れないように。
愛を探し求める行為は我侭ですよ。
哲人が美少年の勃起したチンポをしごくように。
25考える名無しさん:03/11/23 15:16
ぶっちゃけウザイから帰っていいよ  >24
26考える名無しさん:03/11/23 15:21
我侭に舞う己が存在し、我侭を批判する23が存在し、
己の脳内精子は23の脳内子宮を直撃す。
23が男だったとしても、潜在子宮を間接侵入。
23の娘の子宮を間接攻撃。
それは新人類、ニュータイプ。
乳を持つオスチンポ、雄がコオイムシのように
父乳で育つホモ・サピエンスも遠くない。
27考える名無しさん:03/11/23 15:25
帰っていいよも好きの内股。>25
28q1nu6:03/11/23 16:51
悪い、少し言い過ぎたかもな。
29サンダル:03/11/24 19:05
前回の訂正:

>>2 下から二行目
「信じることを不可能ならしめている」⇒「信じないことを不可能ならしめている」

つまり、ヒューム以前の徹底的懐疑論は、まるですべての物事について
懐疑が妥当に成立するかのように論じていたわけですが、ヒュームによれば
これは勘違いであり、本当は、我々は多くの物事を本質的懐疑し得ないのだ、
ということです。言い換えれば、ヒュームの懐疑論は「穏健」です。
30サンダル:03/11/24 19:10
マルブランシュや the immateriality of the soul の個所はあれではあまりに
好い加減ですが、当座において押さえるべきところは>>7で押さえられて
いると思うので、先に進みます。

原文のイタリックによる強調は 《 》 で表します。
31考える名無しさん:03/11/24 19:11
とにかくこの本はくだらなかった。
32【経験的方法と人間本性学】:03/11/24 19:11
 ヒュームは提議する。道徳哲学[*1]は、我々がその焦点を変えることによってのみ、
無益な議論を越えることができるのだ、と。現在議論されている個々の問題、つまり
形而上学や倫理学や政治学など、これらに直接取りかかるかわりに、我々はまず
「人間本性学」に、すなわち、他のあらゆる部門(あるいは学[*2])が依拠しうるような
一個の学問的部門に、注意を集中させるべきである。これは次のことを意味する。
すなわち、我々は、こうした他の諸々の研究領域で争われている諸問題に決着を
つけようと企てる前に、まず「人間知性の限界と力を徹底的に熟知する」べきだと
いうこと、また我々は「我々が用いる諸々の観念と、我々が推論をする際に行う
活動とについて、その本性を説明する」べきだということ、これである。我々は、
人間精神の能力と活動を知り、それを理解したときにのみ、その他の主題についても、
それについてどんな妥当な理解が期待できるか、ということを知り得るのである。
33【経験的方法と人間本性学】:03/11/24 19:12
 ヒュームはまた提議する。近年の自然哲学における成功は、我々がこの基礎的な
人間本性学の開発という難業をいかにして進行させるか、ということについて、或る
重要な糸口を与えてくれたのだ、と。17世紀の初めに、フランシス・ベーコンは主張した。
自然哲学は実際に観察を行い、さらにもし、自然が理解さるべきものであるなら、
それを試験しなければならないのだ、と。のちの自然哲学達は、まさにこのやり方で
自然に接近した――彼らはヒュームの時代に《経験的方法》と呼ばれたものを開発した
――のであり、結果として、大きな進歩をもたらしたようであった。ヒュームは幾人かの
偉大な経験主義自然哲学者、例えばボイルとニュートンについて学び、彼らの仕事に
感銘を受けた。経験的方法が自然哲学において大きな成果を収めたということを考慮すると、
彼にとって次のことは自明に思われた。すなわち、我々は、新しい人間本性学を開発
するために、これ同じ方法を用いるべきだ、ということである。「我々がこの学自体に
与え得る唯一の確固たる基礎は、経験と観察の上に置かれなければならない」のである。
34【経験的方法と人間本性学】:03/11/24 19:14
 しかしながら、ヒュームは、この新しい学には二つの制限があることを認めていた。
第一に、それは、新しい自然哲学と同様、その範囲において制限されている。
新しい学のどちらも、経験を超越することは望めない。なるほど、我々は観察から
一般化を行うことは望めるが、しかし、これらの一般化が観察可能なものを越えた
何か高次の実在を我々に知らせる、ということは望めない。これが意味するのは、
道徳哲学において我々は、精神が《いかに》働くのか、また範囲と能力のうちにある
活動はなにか、ということを指摘することが望める、ということである。「実験[*3]を
最大限に調べあげ、あらゆる結果を最も単純かつ最小の原因から説明すること」
によって、我々は我々の新しい学を、可能な限り基礎的で包括的なものとして、
試作することができる。しかし我々は、いわば舞台裏に入ることは望めない[*4]
のであり、また人間の本性と精神は《なぜ》かく在るのか、ということを暴露することも
できないのである。ヒュームが事を要約してみせたとおり、我々は、「経験を超えて」
人間本性の究極的な原的特性を暴露したのだと言い張る「おこがましく奇想天外な」
理論などは、これを拒否しなければならない。
35【経験的方法と人間本性学】:03/11/24 19:16
 加えて、我々は、道徳哲学と自然哲学との相違を認めなければならない。後者は
しばしば、現在の我々が研究室の実験と呼ぶところのものを実行することができる。
ヒュームが評したように、それは「故意に、前もった熟慮をもって、また起こり得る
すべての個別の困難と関連しつつ自分自身を満たすような方法に従って」、実験を
行うことができるのである。道徳哲学においては、我々はより受動的にならざるを得ない、
とヒュームは言う。我々はこの学において、「人間生活の注意深い観察」という手段
によって実験を行い、さらにそれを、「人々が交際、関心、自己の快楽などおいて
どのように振舞うかということに即して、世界の日常的な成り行きの中で現れるままに
受け取る」のでなければならない。しかしながら、こうした制限があるにもかかわらず、
我々は「或る一つの学、すなわち、人間を理解することを旨とする他のどの学に比べても、
確実性において決して劣ってはおらず、また有用性においてははるかに優れているという、
そのような学を打ち立てること」が望める。ヒュームの先人達は、意図的にであれそうで
なかれ、彼らが行った懐疑論によって、我々の認識の限界と、我々という存在者自体の
限界とを、示してしまった。ヒュームは、こうした限界を認めたうえで、『人性論』において、
或る新種の哲学、すなわち経験に基づく人間本性学を、はっきりと述べるのである。
36サンダル:03/11/24 19:18
*1

ヒュームの時代、哲学は二つの部門を持っていました。一つは自然哲学
natural philosophy で、これはおよそ現代の物質科学ないし自然科学に相当する
内容を含みます。そしてもう一つが、道徳哲学 moral philosophy です。
これは、人間と人間的活動に焦点を当てたもので、そこに含まれる題目は、
通常哲学の核だと考えられているもの(例えば認識論、形而上学、倫理学)、
さらにまた、政治学、社会学、経済学、美学、宗教学などでした。

*2

「学」は science の訳語です。現代の我々の感覚では、「科学」というと専ら
「自然科学」を指すものと受け取るのが通例ですが、ヒュームの文脈では、
「科学」とは自然科学と人文科学をともに含めた意味で論じられています。
よって、誤解を防ぐために、「科学」としないで単に「学」としたわけです。

*3

「実験」は experiment の訳語ですが、注意が必要です。18世紀において、
experiment という言葉は必ずしも「実験室で行われる実験」
「十分な条件制御の下に実施される実験」を意味せず、
observation 観察、 experience 経験などと互換的な意味で用いられるのが
通例でした。ヒュームが「人間を観察すること」がすなわち「実験」だと言ったり、
「経験的」だと言ったりする背景には、この事情があります。
37サンダル:03/11/24 19:19
*4

「舞台裏に入ることは望めない」(we cannot hope to get behind the scenes)
とは次のような意味に解されます。世界の一連の現象を一種の劇とみなした場合、
我々はその劇の舞台裏に入って「種を明かす」(世界の現象をその原理から解明する)
ことはできません。我々はあくまで観客であり、我々はただ、演じられている劇そのもの
(原理なるものに関わりなく、ともかく成立している現実の事態、現にかく在る世界の姿)
を観察し得るのみです。言い換えれば、劇が「なぜ」そのように行われてということは、
観客たる我々の預かり知らぬところであり、我々が知ることができるのは、劇が「どのように」
行われているかということだけです。それが我々の経験の限界というものです。
結局、我々は、あらゆる場合において、経験的観察に基づいた省察を行わねばなりません。
以上が、ヒュームが「経験的方法」を自分の哲学の基礎に置くと殊更に宣言する所以です。
38【第一巻:知性について】:03/11/24 19:21
『人性論』の第一巻は四つの部に分かれる。第一部でヒュームは、彼の哲学を
構成する基礎、すなわち彼が「要素」と呼ぶものを記述する。第二部は、
我々の空間と時間についての観念に焦点を当てる。第三部は、認識、蓋然性、
ヒュームが「事実問題 matter of fact 」と呼ぶもの、そしてまた、我々の因果と
必然性についての観念、などを論じる。第四部は広範な項目を扱う。
すなわち、理性、外的対象の存在、古今の形而上学、魂あるいは精神の本性、
人格的同一性、多種の懐疑論などである。
39サンダル:03/11/24 19:36
>>15

分かりました。気が向いたら何でも発言して下さい。

>>17

チンポ太郎はライプニッツにはかなり詳しく言及していた
はずですよ。「チンポ哲学再来」スレの最後の方で。

>>21

期待しています。運営に成功した暁には是非知らせて下さい。
40サンダル:03/11/24 19:39
>>31

どのような意味で下らないと思ったのか、詳しく教えて下さい。
41考える名無しさん:03/11/24 19:41
良スレ。
お忙しいと思いますが、地道に息の長いスレを目指してください  >サンダルさん
42【第一部:心的世界の諸要素】:03/11/27 16:56
 近代哲学者の多くは、心の直接的対象は常に心的ないしは心にとって内的な何物か
であると信じていた。一面では、この見解はなにも驚くべきものではない。愛や苦しみは
内的で主観的なのか、それとも外的で客観的なのか、という選択が仮にあるとすれば、
それらは外的で客観的である、と主張する人は稀であろう。他面では、この見解はややこしく
常識に反したものである。私は木を見ている、と私が考えるとき、私はこの木があたかも
外的で客観的であるかのように考え、行動する。この木がなにか内的なものだとか、
私の心の内部の或る観念の像に過ぎないなどとは私は思わない。ところが、これらの
哲学者は、心の直接的対象は常に心にとって内的な何物かであると言う。彼らの見解に
よれば、どんな場合であれ、我々が自分は外的対象を見ていると考えるとき、我々の心の
直接的対象はその外的な対象の心的表象なのである。例えば、私は木を見ている、と
私が考えるとき、実際は私はただその木の心的表象を経験しているに過ぎない。
43【第一部:心的世界の諸要素】:03/11/27 16:58
 これらの哲学者は概して、普通の人々はあたかも自分が外的な対称ないし出来事を直に
知っているかのように振舞い、語るのだ、と考えていた。また概してこうも考えていた。
普通の人々はあたかも外的な対象ないし出来事が存在するかのように振舞い、語るのだ、と。
論題は、普通の人々が自分が知っていると考えるところのもの、または彼らが実在的
ないしは外的だと考えるところのもの、などに関わっているのではないし、外的対象の
存在の否定という論題と同等なのでもない。論題はむしろ、心はいかに働くか、ということに
関わるのである。これらの哲学者達は、互いに細部に関して多くの見解の不一致がありは
したものの、世界を知覚し認識するという経験を思慮深く分析することによって、次のことを
確信した。すなわち、普通の人々が自分が木やその他の外的対象を経験すること関して
何を信じていようと、心が対象を認知するのは心的表象を通じてのみだということ、これである。
この心的表象を、彼らは概して《観念》と呼んだ。
44【第一部:心的世界の諸要素】:03/11/27 17:01
 ヒュームは彼らと異なった語彙を用いるが、心の直接的対象に関するこの見解は
受け容れた。彼は「心にとって実際に現前するものは、その知覚ないし印象と観念
だけである」と言う(1.2.6.7)。それどころか、心、その作用、および心が作用させたり
生み出したりする心的諸要素は、『人性論』における彼の中心的関心でさえある。
とはいえ、『人性論』のヒュームが心を越えた世界にまったく興味を持たなかったという
ことではない。実際、彼はしばしば、まるで自分の関心が外的世界であるかのように言う。
しかし、彼が外的世界へ接近する仕方は裏返しである。つまり、もし外的世界が感覚を
通じて心に影響を与えるとするなら、それはいかにして行われるのか、ということについて、
彼はまったく解明の労を払わなかった。むしろ彼は、『人性論』第一巻で、彼の先人達が
説明に失敗した何物かを解明しようとした、あるいはそもそも、その何ものかは解明の
必要があるものだということを解明しようとした。彼は、我々人間、すなわちその精神は
心的なもの以外の何者にも出会わないといわれる存在者が、どのようにして外的で
非心的な世界の存在を信じるようになるのか、ということを解明する。言い換えれば、
彼が解明しようとするのは、なぜ普通の人々――哲学的主張をろくに聞いたことが
ない人々――が、まさに空間や原因や対象などが外的で客観的であるかのように考え、
語るのか、ということである。

 この奇抜な企ては、まず『人性論』第一巻第一部で、ヒュームが探究の主題として
選んだ「精神世界」の「諸要素」(1.1.6.7)を概観することから開始される。彼は《知覚》
と《関係》という要素に焦点を当てた。そしてこれらの要素が、『人性論』に見られる
すべての哲学的解明の基礎的特長となっている。
45サンダル:03/11/27 17:01
以上で導入的な話は終わりです。
次回から具体的にヒューム独自の哲学理論を見ていきます。
46考える名無しさん:03/11/27 17:09
(・∀・)
47q1ou&:03/11/27 17:24
もう、Kriharaでいってもいいんじゃないの。
48Kurihara:03/11/27 17:26
じゃ、そうします。
49q1nu&:03/11/27 17:28
あと、蝉寝るも貴方かな?
50Kurihara:03/11/27 17:31
あれは斉藤環氏であって、私ではないです。
51q1nu&:03/11/27 17:34
斉藤さんですか、どうも。
では失礼しました。
52考える名無しさん:03/11/27 20:07
ちんぼ太郎って飲食店の従業員やってるんでしょ。
53考える名無しさん:03/11/27 20:16
ちんぽの磯辺焼き
54f:03/11/28 00:19
>>44
>彼は、我々人間、すなわちその精神は
>心的なもの以外の何者にも出会わないといわれる存在者が、どのようにして外的で
>非心的な世界の存在を信じるようになるのか、ということを解明する。

現象学みたいですね。
フッサールは、デカルトほどヒュームに関して触れていないように思えますが、
彼らが解明しようと目指した地点は似たような場所なのでしょうか?
55Kurihara:03/12/05 14:31
>>54

デカルトとの比較はともかく、フッサールはヒュームについて重要な言及を
行っていたはずです。具体的には『危機書』や『イデーンT』の「あとがき」
(みすず書房の訳書に収録されている)を参照して下さい。

フッサールが目指した場は「超越論的主観性」でしょう。
フッサールの場合、これによって外部存在(実在的世界)の信念が
説明されます。一方、ヒュームは別に何らかの「地点」や「場所」
の解明を目論んでいたわけではないでしょう。少なくとも現時点では、
彼はそういう表現を用いておりません。

問うことで大切なのは、正しく問うことです。
フッサールとヒュームの類似性が確認されたからといって、
いきなり「地点」「場所」というところへ話を持って行くのは
性急だと思われます。われわれは、個々の論点について、
両者の主張を正確に理解していくほかはないでしょう。
56Kurihara:03/12/05 14:40
われわれは、ヒュームは心の直接的対象は常に心的または心にとって内的な何物か
であると確信している、ということを既に見た。デカルトからロックとバークリー
に到るまでの哲学者たちは、この心的存在物を典型的に“観念”[ideas]と呼んだ。
ヒュームはこの言葉遣いを改定する。彼の語彙では“知覚”[perceptions]が
思考の直接的対象である。しかし知覚には基本的に型の異なった二つのものがある。
すなわち“印象”[impressions]と“観念”である。

印象は「感覚[sensations]、情念[passions]、情動[emotions]のすべて」
を含む。初学者は概ねこれを、印象の「ぼやけた像」である観念に比べてより大きな
活力[force]と活気[vivacity]をもって心に入るもの、と考えればよい。
ヒュームは初め、知覚の二類型の相違は単に実際に経験しているものとその経験の
事後の想起との相違である、と言うが(1.1.1.1)、のちにこの特殊な相違は
およそ絶対的ではないことが分かる。観念は時に印象と同じほど力強く活発になりうる
のである(たとえば1.3.5をみよ)。
57【知覚】:03/12/05 14:43
ヒュームはまた、印象と観念は単純[simple]か複合的[complex]かの
どちらかだと言う。単純知覚、たとえば特定の色や味の知覚は「どんな区分
[distinction]も分離[separation]も許容しない」。これらの知覚は
基礎的で分析不可能である。これに対して、複合知覚、たとえばパリの印象や
観念は、それを構成する諸部分に分析[analyzed]または分割[divided]
されうる。そこでヒュームはこう主張する。印象と観念との真に根本的な相違
とは、後者が前者に因果的に依存する[causally dependent]ことである、と。
「人間本性学における第一原理は、すべての単純観念が、間接的にであれ
直接的にであれ、それに対応する[correspondent]〔類似する
[resembling]〕印象に由来することである」と彼は言う。この重要な結論は
二つの事実によって支持される。第一に、単純印象と単純観念は規則的に諸々の
類似的な組において見出される。つまり、典型的な実情として、各単純印象
(たとえば針の一刺しの痛み)ごとにそれに後続する或る類似的な単純観念
(この痛みの記憶)が存在している。そのような「恒常的随伴」
[constant conjunction]は、ヒュームに、類似的知覚〔印象と観念〕
の間の関係は密接なものであることを確信させた。第二に、或る単純印象を
与えられたものとして経験できない者はその現象〔印象が現前すること〕
の観念を形成できない。パイナップルを食べたことがない(パイナップルの
印象を持ったことがない)者はその果物の味の観念を形成できないし、他方、
特定の感官を欠く者はそれが関わるところの性質(色、味、匂いなど)の
観念を形成できない(1.1.1.2-12)。
58【知覚】:03/12/05 14:45
印象と観念についてのこの考察によって、ヒュームは近代哲学における一つの
主要問題に対して沈着に取り組むことができた。すなわち、空間と時間、原因、
実体といった根本概念の、および「存在の始まりはすべて原因を持たなければ
ならない」といった原理の源泉に関する問題である。そこで問われたのは、
これらの概念と原理は生得的なのか、それとも学習によって得られるのか、
ということである。人間の心は、経験に先立って、何らかの仕方で、宗教的、
形而上的、道徳的、あるいは数学的な重要な概念とともに与えられるので
あろうか、それともわれわれはこれらの概念を経験を通じて開発するので
あろうか。それらは生得的だと言う人々に反対して、ロックは生得的な観念
ないしは原理は存在しないと主張し、続けてまた、われわれの観念と原理は
すべて経験によって生み出され得るのだから、生得観念の仮説は不要である、
と主張した。この点について、ヒュームは部分的にはロックに同意する。
彼は、われわれの根本的な哲学的概念(たとえば空間、時間、原因、実体など)
は経験の産物であり、生得的ではない、ということに同意する。しかし
ヒュームは、これらの観念の起源についてロックが行った説明にはおよそ
満足しない。このゆえに、『人性論』は、ロックその他が説得的な説明を
与えることに失敗した、とヒュームが見るところの、いくつかの根本観念の
起源についての説明を含んでいる。すなわち、空間と時間、必然的結合
または因果力、外的対象、自我または人格的同一性、美徳と悪徳および
正義と不正義など、これらの観念の起源についてである。これらの観念を
詳細に分析することが、『人性論』において中核的に重要なことである。
59【知覚】:03/12/05 14:47
ヒュームは『人性論』第一巻第一部第二節において、簡潔だが重要な「主題の
区分」に着手するが、そのさい彼は、印象にもまた二種のものがあること、
すなわち“感覚の印象”[impressions of sensation]と“反省の印象”
[impressions of reflection]があることを指摘する。彼が言うには、
感覚の印象は「知られない原因から心の内に独自に」生起する。これが、
この印象の起源について『人性論』が語るほぼすべてである。ヒュームが
“感覚の印象”について、それどころか“感覚”について語るという事実を、
われわれは誤解してはならない。感覚がどのように生ずるかということ、
また感覚の原因は何であるかということは、彼自身が明言する通り、ヒュ
ームの関心事ではないのである。彼は道徳哲学者である。「感覚の吟味は、
道徳哲学者よりも、むしろ解剖学者や自然哲学者に属することであり、
したがって当面は追求されるべきことではない。」この「当面は」というのは、
『人性論』においては、という意味である。『人性論』の仕事は知覚論を
全く含まない。つまり、外的対象(仮にそのようなものが存在するとして)
がわれわれの感官を触発し、それによって感覚の印象と呼ばれるものの
原因となるのは、どのようにしてか、ということについて、『人性論』は
何ら説明を求めてはいないし、あるいは、外的または物質的な世界の存在
ないしは非存在を証明するという、そのような意図も全くないのである。
他方、われわれが恒久的な外的対象の存在を“信じる”ようになるのは、
どのようにしてか、ということについては、重要かつ長大な議論(とりわけ
1.4.2をみよ)があるが、しかし、ヒュームにとって重要なことは、この
問題はあくまで〔外界が存在するか否かということとは〕異質なものとして
認知されねばならない、ということである。
60【知覚】:03/12/05 14:50
ヒュームは反省の印象を“二次印象”[secondary impressions]と呼び、
それを感覚の印象から、あるいはそれをもって経験が始まるところの“原始
印象”[original impressions]から区別する。これは、感覚の印象が
反省の印象より以上の重要性を有するということではなく、ただ後者の印象が
「大部分において観念に由来する」ことを強調しているだけである。われわれは
熱や冷、渇きや餓えといった原始印象、つまりわれわれに快や苦を与えるような
印象を感じる。そののち、われわれはこの印象について観念を形成し、そして
この観念が新たな異なった二次印象を生起させる。たとえば、昨日冷え切った
風のなかを歩いているときに感じた激しい顔面の痛み――私はその観念を持って
いるわけである――を想起する。この痛みの観念は、反感を、すなわち
そのような風に再び面することは避けたいという強烈な気持ちを生起させる。
この新しい感じ[feeling]、すなわち反感という感じが、反省の印象である。

ヒュームは次いで、二次印象自体が摸写されることがある、と言う。二次印
象が摸写されると、われわれは反省の観念を、すなわち“二次観念”
[secondary ideas]と呼ばれるものを持つ。この種の観念がさらなる感じ
を生じさせると、これが“三次印象”[tertiary impressions]となり、
そして代わってこれは“三次観念”[tertiary impressions]に摸写
される、と予想される。この結果についてのヒュームの議論は、ただ遠方の
可能性を照射しているだけのように見えるかもしれないが、実際は、彼が
その起源へと遡る要の観念(たとえば、美徳と悪徳の観念)は、三次観念
までである。ヒュームによれば、それらは経験から生じ、しかも感覚の
印象とは重要な隔たりがあるのである。
61Kurihara:03/12/05 14:54
原始印象→原始観念→二次印象→二次観念→三次印象→三次観念→……

原始知覚:現前の知覚
二次知覚:現前の知覚の反省による知覚
三次以降の知覚:反省の知覚の反省による知覚

よって三次知覚までのみを問題にすれば十分です。

ヒュームとフッサールの関係については、再度詳しく報告します。
62Kurihara:03/12/07 15:01
>>54-55

説教臭い言い方で失礼しましたが、要するにあなたの質問の要諦は、
外的対象の存在の信念について、ヒュームとフッサールはそれぞれ
どのような仕方で説明しようとしたのか、ということでしょう。

ヒュームについては、現時点では確かなことは言えません。
外的対象が論究されるのは後の第四部第二節においてです。

他方フッサールについてですが、私はほぼ無学に等しいため、これも
好い加減なことを言うわけにはいきません。ただ、当面の参考として
『イデーンT』の「あとがき」から重要と思われる箇所を引用します。

まず、超越論的主観性ないし超越論的自我の概要は次の通りです。

「世界は“私にとって”存在し、かつ世界は内容的にもそれが“私にとって存在する
姿においてある”ものなのだが、ただしそうであるというのも、ひとえにただ、世界は、
私自身の純粋な生のうちから、意味および確証されうる妥当を獲得してくるからこそ
であり、またその私自身の純粋な生のうちで開示されてゆく他人たちの生のうちから、
意味及び確証されうる妥当を獲得してくるからこそである。このように絶対的に定立
された固有本質の場としての私、換言すれば、諸々の純粋な現象学的所与の、そして
それらの所与の不可分の統一の、果てしなく開かれた領野としての私こそは、「超越論
的自我」にほかならないのである。右で絶対定立と言ったが、その意味はこうである。
すなわち、私は世界を、もはやあらかじめ「与えられた」ものとして、或いは“端的に
存在するといった姿で妥当する”ものとして、所有するのではなく、逆に今からのちは、
私が所有するのは、それのみが唯一的に与えられているところの(私の新たな態度に基
づいて与えられているところの)私の自我であり、この私の自我は、ひたすら純粋に、
それ自身において存在しそれ自身において世界経験を為し確証作用を為す等々といった
ごとき自我として、あるものだということ、これである。」(強調は引用者による)
63Kurihara:03/12/07 15:03
「実在的世界および何らかの考えられうる実在的世界一般の存在様式の、現象学的な
意味解明の成果によれば、ひとえに超越論的主観性のみが、絶対的存在という存在意味
を持つのであり、ひとえに超越論的主観性のみが「非相対的」であり(すなわち、ただ
自分自身にのみ関係し・それとのみ相関的であり)、一方これに反して、実在的世界は、
なるほど存在しはするが、しかし、超越論的主観性へと本質的に関係づけられた相対性を
持つのであり、それというのもすなわち、実在的世界は、超越論的主観性の志向的意味
形成体としてのみ、その存在するものとしてのおのれの意味を持ちうるからである。」

「“「私にとって存在する世界」”(そしてさらにはまた“「われわれにとって存在
する世界」”)という、この全般的現象こそは、現象学者が、おのれの新しい理論的関心の
領野となすものであり、つまりは、新種の理論的経験と経験的探究との領野たらしめるもの
なのである。現象学者は、首尾一貫して採られる現象学的態度のうちで呈示されてくるもの
としての、「純粋諸現象」によって、導かれ、こうして、存在するものの、無限の、それ
自身において完結し、絶対的に独立した王国が開かれてくるのを見るのである。この王国
こそはすなわち、純粋もしくは超越論的主観性の王国にほかならない。この王国においては、
以前自然的態度において現象学者にとって接近しえた世界的出来事はすべて、それに対応
する純粋もしくは超越論的諸現象によって取って代わられることになる。そしてこの純粋
もしくは超越論的諸現象こそは、ほかでもない、そのうちでこそ、現象学者にとって
“世界的なものが端的に「存在し」、つまりは存在するものとして、そして場合によっては
確証せられたものとして、妥当するゆえんのもの”なのである。」
64Kurihara:03/12/07 15:05
さらに決定的なのは、

「あらゆる意味付与と存在確証との根源的な場所である「超越論的主観性」」

といった表現です。

「妥当」はヒュームにおける「信念」に相当すると言えるでしょう。さしあたり、
われわれが現に存在する実在的世界(物質的世界)として信じているところのもの
とは、実は、超越論的主観性が志向的に意味を形成することによって(構成される?)
超越論的諸現象である、と言えそうです。

ところで、「私にとって」という表現に注意するべきです。これはヒュームが注意
を促がすところと同じです。ヒュームは物質的世界 the material world それ自体の
存在・非存在を問題にするのではなく、“われわれにとって外的に存在するものとして
現れているところの”「物質的世界」を問題にするのです。これまで繰り返し強調
されてきた通り、この区別を弁えることが肝要です。

また、「世界を端的に存在するといった姿で妥当するものとして所有する」のは
常識人の態度ですが、ヒュームはこの事実をそれとして認めつつ、しかし自らにも
それをよしとしているわけでは決してありません。そういうのは学問的怠惰であって、
彼が強く戒めるところです。そんなことでは、百学の基礎たる人性学の成立は見込め
ないのであり、ひいては道徳哲学すなわち人間の営みに関する学問全般も徒労に甘んじ
続けねばならないだろう、というのが彼の(『人性論』での)主張です。だからこそ、
彼は“哲学者として”己の“想像力”を酷使して、常識人の態度すなわち自然的経験的
態度(前現象学的態度)の“意味”(隠れた前提)を厳密に追求します。
65Kurihara:03/12/07 15:08
自然的・経験的立場について。

「われわれは、ごく自然な立場から出発するであろう。つまり、“われわれの
向こう側に存しているような世界”から、かつまた、心理学的経験において提示
されるような自我意識から、出発するであろう。そして自然的立場の持つ本質的
な諸前提を発き出すであろう。」

この「われわれの向こう側に存している世界」とは、ヒュームの言う「われわれ
にとって外的な世界」(が存在するという信念)にほかならないでしょう。

フッサールは本書の中の少なからぬ箇所で、現象学的態度への態度変更は、
必然的に、ごく当たり前の自然的な natürlich (natural)態度を出発点
としなければならない、と強調しています。このように、探究の出発点において、
両者のするところの宣言は酷似しています。
66Kurihara:03/12/07 15:10
最後に観念論と実在論の問題について。

「現象学的観念論は、“実在的世界の現実的存在”などを“否定したりするものでは
ない”。……現象学的観念論の唯一の課題と作業は、“この世界の意味を解明すること”
にあり、正確に言えば、“この世界が万人にとって現実的に存在するものとして妥当し
かつ現実的な権利をもって妥当しているゆえんの、ほかならぬその意味を、解明すること”
にあるのである。世界が存在するということ、世界が、絶えず“全般的な合致〔調和〕”
へと合流してゆく連続的な経験において、“存在する全体宇宙として”与えられている
ということ、このことは、“完全に疑いを容れない”。けれども、生と実証的学とを支える
この不可疑牲を理解し、その不可疑性の正当性の根拠を解明することは、これはこれでまた
全く別種の事柄であろう。」

実在的世界の現実的存在を否定せず、「完全に疑いを容れない」とする立場は
ヒュームと一緒です(バークリーは否定する?)。また最後の一文にも彼らの
立場の類似性が現れています。

結局、ヒュームは観念論者なのか、実在論者なのか、それともフッサールの言う
「現象学的観念論者」なのか、という問題が生じて来ます。これは大きな問い
であるため、いずれ主題化して論じましょう。
せっかく書くならもっとおもしろく書いて
68Kurihara:03/12/07 15:11
本文に戻ります。
69【関係】:03/12/07 15:15
ヒュームはまた諸関係も二種に区別する。すなわち自然的関係と哲学的関係である。
“類似”、“隣接”、“因果”という三つの“自然的”関係が、事実上、自然な連想
〔連合〕の三つの形式ないしは原理である。たとえばわれわれは、一枚の肖像画
を見ると、それが描かれた人物に“類似している”ことから、ごく自然に(つまり思わず)
その当の人物について考えるに到るであろう。われわれが家の中へ通じる扉について
考えると、それに“隣接する”扉の枠と壁の観念が思わず心の内に生じるであろう。
われわれは、或る特定の“結果”(窓の外を見ると、空は晴れ渡っているのに視界に
入るものすべてが水浸しで湿っている、という光景)を知覚すると、その結果の“原因”
(先程までの雨)について考えるはずである。この各々の事例において、“連想させる
性質”があると言える。それが、一方の観念が“他方を自然に導き入れる”という
仕方で、二つの観念を結合させるのである(1.1.4.1; 1.1.5.1)。
70【関係】:03/12/07 15:17
ヒュームは『人性論』の中で、これら三つの原理は諸観念の間に「統合または
結束」を生み出し、さらにあたかもそれが、物理的対象を互いに繋ぐ重力や
磁力といった力に似た或る何らかの力によって、自然に連想させられているかの
ように思わせる、と言う(1.1.4.6)。『要約』の中では、そのような自然に
現れる諸連想は人性学において極めて重要な地位を占めると思われる、なぜなら、
厳密に言って、それらは「宇宙の諸部分を繋ぐ、あるいはわれわれを己にとっ
て外的な任意の人物や対象と結合させる、唯一の繋がりであり、……それらは
まことに“われわれにとって”宇宙の接合剤【*1】であって、心の作用はすべて、
大部分において、それらに依存しなければならないからである」と言う。
また彼は、自分を一人の革新者と見なさせるものが何かあるとすれば、それは
自分が「観念連合の原理」を使用にもたらしたことである、と言う。人間の想像力は、
諸観念を、ほぼ望むとおりの組み合わせに作り上げようとして、それらを自由に
結合ないしは分離させることができる、と彼は指摘する。とはいえ、この想像力の
自由は次の事実によって制限されている。すなわち、「特定の諸観念の間には
或る隠れた絆または統合があって、それが心をしてそれらの諸観念をより頻繁に
結合させ、一方の観念に、その現れている姿に基づいて、他方を導き入れさせる」
【*2】という事実である。
71【関係】:03/12/07 15:19
たった今見たように、ヒュームは、われわれには任意の二つの観念を自発的かつ
恣意的に一緒に配置して、さらにそれらがどのような点で関係しているかを問う
能力がある、ということに気づいている。こうしたことを行うとき、われわれは
「“哲学的”関係の観念」を生み出す。ヒュームによれば、そのような関係には
七つのものがある。たとえば、以前には共に比較されることが全くなかった二つの
主題を考えてみよ。すなわち、 Wiwaxia (見たところ絶滅した海洋生命体)
とあなたの個人的な借金とについて考えてみよ。われわれはこれらの主題の観念に
ついて、それらが(1)互いに“類似して”いるか、または(2)“同一”であるか、
(3)“反対”であるか、または(4)“隣接〔連続〕して”いるかどうかを問うことが
できる。また、それらが(5)“量の比率”または(6)“何らかの質の度合い”という
点で、どのように関係しているのかを問うことができる。そしてさらに、 Wiwaxia の
絶滅が事実上あなたの借金の(7)“原因”または“結果”であるかどうかを問うこと
さえできる(1.1.5)。たまたま、特にこの組の比較は比較された諸主題に有意味な
知見をもたらしそうにないけれども、しかし次のことが示されてはいる。すなわち、
われわれが、以前には共に考えられたことが全くないものを含めて、任意の主題
ないしは観念の間に、可能的な関係を自由に探究しようとするとき、その範囲が
どれほどまでに及ぶか、ということである。こうした比較を“哲学的関係”と
呼ぶことでヒュームが言わんとしていたのは、おそらく、こうした想像的な
比較こそが哲学的企てを構成するする重要な要素である【*3】、ということ
であろう(1.1.3.4; 1.1.5)。
72考える名無しさん:03/12/07 15:20
エラー
もう少し落ち着いて書き込みしてください
73Kurihara:03/12/07 15:22
*1

原語は the cement of the universe です。ここで言う universe とは、直接的には、
天文的概念としての「宇宙」のことではなく、「普遍的な」「全体的な」領域を指します。
先にヒュームの哲学の要は知覚と“関係”だと言われましたが、それはこの点に関係が
あります。つまり、後に判然とすることですが、ヒュームの問題は、われわれの個別の
諸知覚が“いかにして”全体としての連関を構成し、世界=普遍的領域の存在信念を
成立させるのか、というところにあります。だから諸々の観念を結合させる“関係”
が重要だと言われます。

したがって、「宇宙の接合剤」とは、より詳しく言えば、「宇宙と宇宙とを接合させる」
ものではなく、「宇宙における諸事象(という表現は不適切かも知れませんが)を互いに
関連づけ、全体として(信念上の)宇宙を存立させる」ものを意味すると解されます。
74Kurihara:03/12/07 15:25
*2

諸々の観念の中には結合しやすいものとそうでないものがあって、その法則
がわれわれの想像力の作用をある程度において支配する、ということです。

例えば、ある日仕事から帰ってきたら自宅が全焼していた、という場面を考えます。
いま、@目の前の自宅の焼け跡、A一面に立ち込める石油の匂い、B焼け跡を
徘徊している野良猫という三つの事態が知覚され、印象が生起し、そのそれぞれに
ついて観念が形成されたとします。このとき、われわれは即座に@とAを結び
つけて考えるでしょう。つまり「誰かが石油を撒いて放火した」と「思わず」
考えます(大雑把に言ってAが@の原因とされます)。さらにこの「誰か」の
観念は、自分の家族の観念ではなく、例えば「自分に恨みを抱いていたあの人物」
の観念と「自然に」結合します(言い換えれば、前者が後者を心ないしは思考に
導き入れる、あるいは、前者から後者が連想される)。ところで、仮にこの人物が
「昔は親友であったが或る事件を契機に著しい不仲になった」という人物だと
すると、ここでこの人物の観念は、親交の日々の記憶(観念)とではなく、
「或る事件」の記憶(観念)と、これまた「自然に」結合します。さて、
以上において、@〜B以外の観念を思考に導き入れたものこそは観念連合の
原理にほかなりません。また、気がついてみると、Bの観念は@およびAの
観念とおよそ結合することがありませんでした。端的に言って、当座において、
野良猫などはどうでもいいわけです。こうして、われわれの「自然な」心の
作用は、観念連合の原理に支配されています。
75Kurihara:03/12/07 15:28
ところが、Bが@およびAと全く無関係かと言うと、そうではありません。
いくぶん「不自然な」仕方ですが、Bを@の原因と見なすこともできます。
例えば、近所の空き地で焚き火が行われていて、そこから件の野良猫が火の
ついた木片をくわえてここまで持って来て、それが家に引火した、という推論が
可能です。そしてこういう推論を可能にするものが、想像力にほかなりません。
同様に「誰か」を家族の一員と考えることも、想像力により十分可能となります。

とはいえ、想像力自体もやはり観念連合の原理に支配されています。野良猫の
観念と焚き火の観念は「自然に」しかるべくして結びついたものだと言えます。
ここで注意すべきは、@とBという一見して無関係なものを(「不自然な」想像力
によって)結びつけたものは、これまた自然な連想という観念連合の原理だ
ということです。結局、われわれの推論は、それが「自然」であろうが「不自然」
すなわち“想像的”であろうが、あらゆる場面においてこの観念連合の諸原理に
支配されていると言えます。「心の作用はすべて、大部分において、それらに
依存しなければならない」わけです。この原理の本性については後の第三部で
詳しい議論が展開されます。

しかし、重要なことは、「自然」と「不自然」(=想像的=哲学的)とは、
いずれも“人間の自然的本性” Human Nature だということです。
76Kurihara:03/12/07 15:29
*3

ヒュームの哲学について「想像力」の概念を正しく理解することが肝要だ、
というのは、複数の研究書で共通して説かれているところです。
77Kurihara:03/12/07 15:30
今後の進行を予告しておきます。

人間本性論
 経験的方法と人間本性学
第一巻:知性について
 第一部:心的世界の諸要素
  知覚
  関係
  抽象観念
 第二部:空間と時間の観念
 第三部:知識、蓋然性、信念および因果律
  関係の再考
  因果律の関係
  原因と因果推論
  経験と信念
  自然の斉一性に対する信念
  必然的結合の観念
 第四部:懐疑論の形態
  外的対象
  恒久的自我と人格的同一性
  第一巻の結論 
78考える名無しさん:03/12/07 15:32
野良猫の放火だろうな。
79Kurihara:03/12/07 15:34
>>67

面白いと何かいいことがありますか。
80考える名無しさん:03/12/07 17:19
ヒュームをやるのは、脱カント・柄谷と関係がある?
81考える名無しさん:03/12/07 23:52
>>kuriharaさん
 ウィトゲンシュタインの論理哲学論考を読むスレを始めましたので,興味があれば
 参加して貰えませんでしょうか?
82【抽象観念】:03/12/09 12:19
ヒュームは彼の哲学の諸要素の概観を締め括るにあたり、抽象的または一般的な観念、
すなわちただ諸々の個体を表象するのではなく、ものの種を表象する〔種として諸々の
ものを代表する〕〔と言われる〕観念を考察する。この問題について彼ははっきりと
ジョージ・バークリーの説を受け容れる(1.1.7.1をみよ)。この説によれば、抽象
観念は次のようなものではない。すなわち、根本的に不確定的であり、そのゆえにまた、
それが例示すると言われる諸々のものから成る集合のあらゆる要素について等しく
表象的であることによって、一般的な表象を行う(ものの種を表象する)、といった
ごときものではない。反対にバークリーは、観念はすべて明確または確定的であると
主張した(そしてヒュームはこれに同意する)。したがって、たとえば、或る三角形の
抽象観念〔三角形の抽象観念が表象する或る三角形の観念〕は、なにか極めて不明確で
不確定的であるために、なるほど一つの三角形ではあるが、正三角形、二等辺三角形、
不等辺三角形のいずれでもない、といったごときものではありえない。反対に、或る
三角形の抽象観念は、単純に、あらゆる諸々の三角形〔の観念〕を無差別に参照する
“三角形”という語に結びつけられた、三本の直線で結ばれた何らかの特定的で確定的な
平面図形の観念なのである。犬の抽象観念は、何らかの特定の犬(ローバー、スポット、
トトなど)の観念から成るものであり、この特定観念は“犬”という語に結びついていて、
そしてこの語〔一般名辞〕によってあらゆる諸々の犬〔の観念〕が引照されるのである。
その他の場合にも事情は同じである。
83Kurihara:03/12/09 12:30
語(言語)と観念(知覚)が区別されます。観念はすべて特定的であり、諸々の
もの一般を一度に表象する観念というものはあり得ない。諸々の特定観念を一度に
指し示す(参照する)(≠表象する) refer to ものは、観念ではあり得ず、語である。
いわゆる抽象観念とは、実は観念ではなくて語なのである。
84Kurihara:03/12/09 12:52
だから、>>82で「三角形の抽象観念が表象する」と補足したのは、
かえって誤解を招きそうです。抽象的な表象作用などは行われません。

>>81 これですね。参加します。

Reading:Tractatus Logico-Philosophicus
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/philo/1070797578/
85Kurihara:03/12/09 15:39
>>80

カントをやるにもヒュームをよりよく理解する必要が
あると思いますので、ヒュームを読んでいるわけです。
脱カント=柄谷というわけではないのです。
86考える名無しさん:03/12/11 20:07
馬鹿げた事は好い加減止めにして、当面の間は名無しでやることにする。
>>48>>50>>85は私ではない。

>>83で「抽象観念とは語である」と言ったが、これも曖昧でよくない。
犬の抽象観念なるものが仮にあるとすれば、それは「犬の抽象観念」と言語的に
表現されざるを得ない。なぜなら、観念が表象する対象はすべて特定的だから
(その根拠については原典で長大な議論があるがここでは省略する)、抽象的な
対象というものはあり得ず、他方、抽象観念の表象する対象がすべて特定的である
としても、心の能力は有限であるから、それらのすべてが一度に表象されることは
あり得ない。したがって、抽象観念が対象を表象するということは、いずれにせよ
不可能なのである。言い換えれば、対象を表象するものは、すべて特定観念である。

ところで、言語的に表現された抽象観念は、例えば the idea of dog と表されるが、
ここで dog という語を除去するとどうなるか。その時、かつて抽象観念と呼ばれて
いたところのものは the idea of と呼ばれることになり、もはやそれが何を表象して
いるのか分からなくなる。

まとめると、抽象観念の本性(本質)とは、言語的に表現されることであり、
それが表象すると言われる対象一般に関する抽象名辞(≠固有名・指示代名詞)
である、と言えよう。以上は、私の個人的意見。
87考える名無しさん:03/12/11 20:14
目の前に一匹の犬がいる場合、その犬の観念、すなわち「この犬の観念」
the idea of this dog は、「これの観念」 the idea of this と言い換え
られる。この場合、この特定観念にとって、語は本質的ではない。
88考える名無しさん:03/12/11 21:31
わけわかんねーな。Kuriharaであることは、間違ってないわけ?
89考える名無しさん:03/12/12 18:56
>kuriharaさん
私は哲板の中でもkuriharaさんの書きこみは読むべきものとして読んでおります。
簡単に言えば読者です。
>当面の間は名無しでやることにする。
そう言わずに,名前ありで書いて欲しいです。トリップを付けるのはどうでしょうか?
90Kurihara ◆DL6xKyOq9k :03/12/13 18:11
 ヒュームは心に登場するものを知覚、初めて心に現れる生き生きとした近くを印象、知覚が
記憶・創造において再現されてたものが観念であるとする。印象と観念の違いは勢いないし
活気の程度の違いであり、この両者の間には対応がある。しかしこの対応は無制限には生じない。
我々は対応する印象のない観念を持ちうるし、観念として記憶されない印象を持ちうる。そこで
ヒュームは近くを単純なものと複雑なものに分け(ロックの単純/複合観念)、それによって
彼の第一原理、「単純観念はすべて単純印象に由来し、その写しである」た導かれる。
 またヒュームは「想像力」を重要なものだと考える。想像力は分離・結合の能力を生み出す。
想像力は観念間に相違を見出すとそれらを分離することができる。言い換えれば「異なる知覚は
区別可能であり、区別可能な知覚は想像力によって分離できる」のである。また想像力は自由に
観念を組み合わせて様々な複雑観念を作ることができる。しかしそこには規則性、ある観念が
別の観念を自然に導くような性質が存在する。心がある観念から別の観念へ移りように
仕向けるのは、観念冠の類示、字空間的接近、および因果関係である。ヒュームはこの
「観念連合」を、ニュートン物理学で言う一種の引力にたとえている。
91フランシス・ハチスン:03/12/16 22:13
>>90
77の今後の進行予定について意見を言わせてくれ。
第一部終わったら、第二部の空間・時間の部分を飛ばして
いきなり第3部やろうよ。
それでもじゅうぶんにヒュームの理論哲学は理解できるよ。
921 ◆NgMoRFoVWU :03/12/24 13:43
>>88

>>48>>50>>85>>90のKuriharaは私(>>1)ではなく、その他のKuriharaは
この私だ。また、私がこの名を名乗ったのはこのスレに限られる。

なぜ>>48に応じてKuriharaを名乗ったかと言うと、@それまでの名前が気に
入らなかったから。というのは、あの名を名乗っていたころの自分の言動が不快
だから。AKuriharaがどう反応するか、見てみたかったから。>>89氏の「読むべき
ものとして」というのがどういう意味か分からないが(あるいは>>1個人のことを
言っているともとれるが)、個人的には、Kuriharaの言動は、哲学知識の紹介と
「漫才」という二面を持ち、前者はそれなりに信用に価するし、後者はそれなりに
楽しめるものだと捉えている。どちらに重点が置かれるにせよ、Kuriharaがどう
反応するかということは、興味深かった。B当初私はKuriharaの名に恥じぬだけ
の内容を書いて、住人らにはあたかも従来のKuriharaが新たな一面を見せたかの
ように思わせる気でいた。それが何となく皆にとっても面白いことであるかの
ように思っていた。

@の改名という欲求は、別の形で満足させることにし、Aは軽薄な好奇心に過ぎ
なかったと反省し、Bは、己の無能を痛感するにつけ、どうせ無様な事になるの
は目に見えていると悟り、また、そもそも面白くも何ともないことだと気がついた。

以上の次第で>>86の発言を行った。
931 ◆NgMoRFoVWU :03/12/24 13:48
>>90

簡潔にまとまっていて分かり易いので、続行を希望します。
941 ◆NgMoRFoVWU :03/12/24 13:49
抽象観念について考えた成果を報告しようと思う。そこで、「石とは何か」
という抽象的な問いに、ヒュームの議論を参照しつつ答えてみたい。

問うことは、それが有意味な言葉を用いた問いである限り、一種の心的作用
であるが、どんな場合であれ、心の直接的対象は印象または観念であり、こ
の問いにおいて私の心に現れている石は(感覚の)印象ではないのだから、
それは観念である。すなわち、私は石の抽象観念を思念している。ところで、
抽象観念とは何らかの特定観念であるから、私はこの問いにおいて、私がこ
れまでに出合った(経験した)何らかの特定の石の観念を思念しているわけ
である。そうすると、「石」とは、私がこれまでに経験した数多の対象のう
ち、私が「石」と名指した諸対象の各々の観念なのではないか。

そうではない。語の意味は観念ではない。以下にその説明を試みる。
951 ◆NgMoRFoVWU :03/12/24 13:51
三つの問いを区別しよう。「石とは何か」「この石は何か」「なぜこれは石
なのか」という三つの問いである。第二の問いから答えよう、答は単純であ
る、この石はこれである。そこで私はさらに問うだろう、「これは何なのか」
と。この問いに対して「これは石である」と答えることは無意味である。問
われているのは「石と呼ばれるこのものは何なのか」ということだからであ
る。より正確に言えば、問われているのは「これは石と呼ばれているが、そ
れはともかくとして、これは何なのか」ということである。つまり、「この
石は何か」という問いは、「石とは何か」という問いとは本質的に無関係で
ある。

「石とは何か」という問いから出発して、問う者は、諸々の特定観念を思念
するに至るのである。ここでもし「石とはこれらである」という答を与える
なら、さらに問わねばならないだろう、「これは何なのか」「これは何なの
か」「これは何なのか」……、と。しかし、これらの問いは「石とは何か」
という問いとは無関係なのである。以上から、「石とはこれらである」とい
う答は、「石とは何か」という問いの答としては不適切だと言える。
961 ◆NgMoRFoVWU :03/12/24 13:52
「石とは何か」という問いに答があるとすれば、それは、「この問いにおい
て私の心にこれらが現れたという事実」に留まろう。それではこの事実はど
のようにして起こったのか。それは、私が「石」という語でもって諸対象を
一般的に指示するという、私の習慣、語の習慣的使用による。言い換えれば、
「石とは何か」という問いにおいて、これらの現れた“物”が答なのではな
い。これらの物が現れたという“事”が答なのである。
971 ◆NgMoRFoVWU :03/12/24 13:53
誤った推論はこうである。「ここにこれがある。これは石と呼ばれている。
これが石と呼ばれるということは、これに石の本質が何らかの形で属してい
るに違いない。よって問わん、これは何なのか、と。」しかしこの最後の問
いは、もはや「石とは何か」ということを問うてはいないのである。語の意
味はその語が指示する対象にあるのではない。語の意味とは指示そのもので
ある。
981 ◆NgMoRFoVWU :03/12/24 13:53
これが石だからわれわれはこれを石と呼ぶのではなく、われわれがこれを石
と呼ぶからこれは石なのである。私はこれが石だからこれを石と呼ぶ。皆々
様がこれを石と呼ぶから私はこれを石と呼ぶのであり、私にとってこれは石
である。
991 ◆NgMoRFoVWU :03/12/24 13:54
最後に、「なぜこれは石なのか」つまり「なぜこれは石であるのか」という
問いは、「なぜこれは石と呼ばれるか」ということを問うているに過ぎない
(「なぜこの石はあるのか」「なぜこのものが存在するのか」と問うなら話
は別である)。そしてこの問いは、「石とは何か」という問いとはまた別の
問いである。それはわれわれの習慣の根拠を問うている。つまり、意味の根
拠を問う問い、生の事実の根拠を問う問いである。
100100 ◆NgMoRFoVWU :03/12/24 13:56
語の意味の根拠を問う必要はないのかもしれない。われわれが様々な語を
“有意味に”使用している、という現実だけで沢山ではないのだろうか。
語の意味を問う哲学者は偽者なのではないか。それはただ彼が他者との言語
的関係に馴染めないというだけのことではないのか。これは、私は自身に
ついての反省であるが。哲学者は、語の意味を問うのではなく――つまり
「……とは何か?」「……とは何か?」と矢鱈に言葉を発するのではなく
――、存在を問うのではないか。こう言ってよければ、哲学者が問うべき
なのは、本質存在ではなく事実存在なのではないか。“本質”ではなく
“事実”が肝腎なのではないか。この「逆転」にこそ、ひとは気づくべき
ではないだろうか。

あるいは、哲学者に任務があるとすれば、それは、言葉を誤った使用から
解き放つことではないだろうか。われわれが日常的に抱いている「有意味」
という信念は、実は誤っているかも知れないということだ。
101100 ◆NgMoRFoVWU :03/12/24 13:57
ところで、習慣の根拠 why ではなく原因 how を問うならば、何かの答は
与えられるかもしれない。そしてこの習慣の原因については『人性論』
第三部の議論を参照するのがいいだろう。
102【第二部 空間と時間の観念】:03/12/24 14:01
表立って述べられてはいないが、『人性論』第一巻第二部の目標は、空間と時間の観念、
すなわち世界に遍く浸透する二つの特徴だと暗に信じられているものの観念を、我々は
いかにして持つようになるのか、ということを説明することである。ヒュームの注意が
向けられる最も重要な焦点は、空間と時間について我々が抱く“観念”であり、空間と
時間そのものではない、ということに注意せよ。

一面から見ると、我々が抱く空間と時間の観念に関するヒュームの見解は理解し難い
ものである。哲学者たちは遥か昔に空間と時間の本性について議論を始め、この議論を
十八世紀初頭まで、そしてさらにその後の時代まで続けてきた。このゆえに、なるほど
ヒュームが空間と時間の“観念”に焦点を当て、その意味でこの積年の論争の焦点を
変えたのだとはいえ、やはり彼も先達、とりわけピエール・ベイルから大いに学ぶところ
があったのである。ベイルは己の堅固な哲学的懐疑論を保持する中で、もし空間が実在
するならば、それは(1)数学的点、(2)微小で分割不可能な物理的原子、(3)微小で無限
分割可能な粒子、のいずれかに由来して成り立つのでなければならない、と主張した。
これらの可能性のそれぞれに反対して、ベイルは決定的で犯し難いと自任する異論を
提出した。空間は、数学的点、物理的原子、粒子のいずれによっても成り立たない、
と彼は主張する。したがって、空間は実在しない。
103考える名無しさん:03/12/24 14:02
イックシ!
104【第二部:空間と時間の観念】:03/12/24 14:03
ヒュームはこの空間そのものの実在に関する懐疑的行き詰まりを回避する。我々が
空間について観念を持つということに納得した上で、彼は我々がいかにしてその観念
を持つようになるのかを説明しようとする。彼が既に結論したところでは、観念は
すべて印象(感覚ないしは感じ)に由来するのだから、どの印象または諸印象がこの
空間の観念を生起させるのか、と問うのが筋である。この問題に答える中で、彼は
ベイルと空間自体に関する論争とに手掛かりを得ているように見える。少なくとも、
ヒュームは、我々の空間の観念が分割不可能な物理的原子または無限分割可能な粒子の
単純印象に由来するということはあり得ない、と主張する。我々はこれら二種のものの
単純印象を持つことはないし、持てもしない。だが我々は諸々の有色または触知可能な
数学的点の配列の合成印象は確かに持つのであり、この経験が我々に空間の観念を与える
のに十分である。このことが可能な理由は、こうした経験は我々に或る特定の空間の
観念を与え、一方、空間一般の観念、すなわち説明が求められている空間の抽象観念は、
バークリーが述べた類の抽象観念だからである。空間の観念は“空間”という一般名辞に
結びついた或る特定の空間の観念にほかならず、この仕方ですべての可能な空間を表す
ことができるのである。
105【第二部:空間と時間の観念】:03/12/24 14:06
第二の観点から見ると、空間と時間の観念に関するヒュームの結論はより容易に理解
されるであろう。『人性論』第一巻第一部で彼は、「単純観念はすべて、間接的にで
あれ直接的にであれ、それに対応する印象に由来する」と結論した。この原理を認める
ならば、彼は時間と空間の観念が究極的に感覚の印象に由来することを示す必要がある。
仮に空間と時間の単純印象が存在するならば、これは比較的楽な仕事であったろう。
その場合、空間の観念は単に空間の印象の写しにほかならず、時間の観念は単に時間の
印象の写しにほかならなかったであろう。しかしながら、ヒュームは空間または時間
について単純印象は存在しないということに納得しているのであり、ここからして
彼はどの印象がこれらの観念を生起させるのかを決定しなければならない(1.2.3.1-7)。
106【第二部:空間と時間の観念】:03/12/24 14:07
ここでヒュームをロックに比べることが有益であろう。ロックは、生得観念は
存在しないということに納得した上で、我々はいかにして空間の観念を含めた
あらゆる観念を持つようになるのか、ということの説明を試みた。空間についての
彼の説明を、我々は“加法的”説明と呼んでよかろう。つまり、ロックの想定では、
我々は延長の諸部分の単純印象(ヒュームの用語でいえば)を持ち、そして反射的に
それらを結合させる。そうすることによって(単純印象を単純印象に加えることに
よって)我々は長さの観念を生み出し、遂には延長一般の観念を生み出すのである。
ヒュームは、明示的には言及しないものの、この説を否認する。彼は物理的対象
(例えば最小可視点)について我々が抱く最も単純な印象が、実際に、感知可能
(つまり、有色または触知可能であることによって感覚され得る)でありながら
かつ延長せず分割不可能なものの印象である、ということの経験的証拠を要求する。
視覚の単純印象は存在するが、それらが延長せざる点の印象であるとすれば、それら
から単に加法的な過程によっては次元、延長、空間の観念は生み出されえない。他方、
視覚は確かに、何らかの仕方で配列されたこれら複数の点の印象を我々にもたらす。
黒地を背景として、延長せず明るく色づいた複数の点の配列または塊が見えている、
という場面を想像せよ。こうした塊現象(ヒュームはこれを現象の一様式だという)
が特定空間の観念の起源なのである。
107【第二部:空間と時間の観念】:03/12/24 14:09
あなたが今見ている机はこれと同種の経験、すなわち、何らかの仕方で配列された
延長せず有色である諸点についての無数の印象の経験を生み出すことができる。
「延長の観念はこうした有色諸点とその現象の仕方にほかならない」とヒュームは
いう。有色諸点の配列、つまりそれらの“現象様式”は、その他の合成印象が
――それ自体で一般名辞に結びついた観念に写されることによって――それと
類似する印象の完全な組を表象するのとちょうど同じ仕方で、「延長を表象する
合成印象」なのである。あるいは言い換えれば、ヒュームが説明しようとする
空間の観念は空間一般の観念である。観念はすべて特定的または確定的である
ということを認めれば、空間一般の観念は特定的または確定的だということになる。
それはちょうど、或る特定の三角形または犬の観念がすべての可能な三角形または
犬(の知覚)を表象し得るよう出来ていたように、一つの特定観念がそれに
類似したすべての知覚を表象するという仕方で、(a)或る単一の合成印象を写し、
(b)或る一般名辞(“空間”または“延長”)に結びついている、という観念
なのである(1.2.3.1-5,15)。
108【第二部:空間と時間の観念】:03/12/24 14:10
我々の時間の観念も、適度な修正を経て同じ仕方で説明される。「可視的で触知
可能な諸対象の配列から空間の観念を受けとるのと同じように、我々は観念と
印象の継起から時間の観念を形成する。」我々は時間の単純印象を持たない、
それゆえにまたそのような印象を写すことによって時間の観念を形成することも
できない。だが我々は、それにもかかわらず、特定の時間経験――特定の知覚継起
――の観念を形成することができ、そしてここから時間の一般観念または抽象観念
を形成することができる。ヒュームが言うには、この抽象観念は、他のあらゆる
抽象観念と同様、想像力において、一般的指示機能をもつ名辞(この場合は“時間”)
に結びついた「確定的な量と質についての特定の個別観念」によって、表象される
のである(1.2.3.6-7)。

『人性論』第一巻第二部におけるヒュームの結論は、実質上、空間と時間に関する
積年の形而上学的難題には触れていない。あるいはそれは、空間に関するベイルの
過激な懐疑的結論を直接覆してもいない。この点では、ヒュームの結論はこれら
彼以前の議論を回避しているように見える。私の意見をいえば、これこそが、彼が
自らの結論にそうであるよう意図したことである。彼はこうした哲学的な沼地を
意図的に避けたのである。「対象の真の本性と作用に関する議論に入っていく」
よりもむしろ「対象の“現象”」に焦点を当てた彼は、空間と時間について我々が
抱く“観念”の起源と本性に説明を施すという、より賢明な目標を持っていた
のである(1.2.5.25-6)。
109100 ◆NgMoRFoVWU :03/12/24 14:19
「現象」と訳しているのは appearrance であって、 phenomenon ではありません。

次回から第三部に入ります。

110考える名無しさん:03/12/24 14:45
>>109
>appearrance

スペル違うけど
111考える名無しさん:03/12/24 16:00
>>92
やっぱりチンポ太郎なの?
112考える名無しさん:03/12/24 16:13
>>111=チンポ太郎
113ポール:03/12/30 00:41
上げときます
114考える名無しさん:04/01/08 15:51
サンダルはもう哲板に来てない?
115考える名無しさん:04/01/30 00:15
保守
116考える名無しさん:04/03/10 03:12
保守
117考える名無しさん:04/03/18 15:38
保守
118考える名無しさん
保守
あげてみる