世界の名著を読破したいのです

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498考える名無しさん
>>497
というか、必要性の問題なんじゃないかい

日本で、西欧の思想書(まあ、思想書にかぎらんが)が大々的に翻訳された時期は、
明治二・三〇年代(ただし「翻案」というか抄訳というかダイジェストっぽいもの)、
大正デモクラシー期、第二次大戦後、とある
岩波でも西田幾多郎やら田辺元やらは翻訳なんぞやらずに、弟子の天野貞佑、山内得立、河野与一らにやらせるかたちをとった
つまり師匠は原語で読解し、弟子は翻訳で啓蒙する、という分業になっていた
したがって、翻訳・啓蒙担当の連中は必然的に哲学「学者」・哲学「史家」にならざるを得なかった
戦後は新興出版社(筑摩、河出、中公、みすず等)も精力を注いだから叢書に近い形態が複数現れた
主なものが、他でもない中公『世界の名著』、河出『世界の大思想』、筑摩『世界文学大系』『世界古典文学全集』など
これらに囲まれて育った我々は恵まれているかも知れないが、これらを訳し続けてきた世代に比べてどうみても劣っている
もちろん訳し続けてきた世代も訳すニーズなど感じなかった世代に比べて劣っている
こうやって一世代ごとに我々は衰えてゆく(魯迅)

ちなみに、桑木厳翼やら波多野精一やら旧世代でも訳業が遺っている人もいるけどね、
むしろ彼らには西周・福沢諭吉ら本来の啓蒙家と翻訳家の中間世代のような位置づけが妥当なんじゃないかな