>>192 どうなんでしょうねぇ。積極的に「俺はニヒリストだ!」と公言するような
ニヒリズムに憧れる人を救うのは無理かもしれません。デカダンもしかり。
でも、その言葉のイメージに酔っているわけではなく、生き方そのものが
虚無的・頽廃的な志向を持つ人(消極的ニヒリズム・デカダン)には、
彼の著作を読んだら、そしてその上で彼がどういう生き方をしたかを知ったら、
相当な影響があるんじゃないかと思います。少なくとも、自分はそうでした。
>180
「表象、現象」等々類語は多々あるが、
これらの用語の意に共通するのは、
認識は主観の制約を受けており、
その限り「独我論」を免れ得ない、ということだろう。
この問題はデカルト以来哲学上のアポリアとなってしまったのだ。
それを「世界は私の表象である」というテーゼの下、
明確に対自化したのがショーペン氏だったのである。
>二酉殿
レスありがd♪
そういえば井筒俊彦の『意識の形而上学-大乗起信論』って持ってた筈なんだけど、
どっかに行っちゃって・・・。(^_^;)
>>192 一般的(哲学史的)には、それらの超克者が、"生命の力への意志"を見出したニーチェということになっているけど。
でもニーチェが本当にそのあたりを超克しているかどうかはあやしいかな?大のハッタリ屋でもあったし。
むしろショーペ氏の方が、峻厳な意志の貫徹が見られると思うのだ。ある意味で、仏教の"撥無"ってやつかな?
(ツァラトゥストラの中では、既に存在する者がさらに存在を求めるか!なんて、かつての師の思想を矮小化してあげつらってる。
ま、ツァラトゥストラお得意のボケツッコミとも読めるけど・・・。(^_^;))
>>203 ニーチェのショーペン解釈について詳しく。
205 :
考える名無しさん:03/10/24 07:23
ショーペンハウアーの「カント哲学批判」は読みました。因果律が悟性(カントの
感性)形式というのに非常に興味があるのですが、その論証がいまいちわかりませ
ん。「なぜ因果律は悟性(感性)の形式」なのか、教えてもらえませんか?
206 :
フォアシュテルング:03/10/24 10:59
因果律とは根拠律の一形態でショーペンハウエルでは「生成の根拠」にあたるもの
である。ひらたくいえば原因ー結果。つまりこの現象界は常に変化しているがなぜこの変化は
発生したかを問うのが因果律を求める、ということなのである。
そこで悟性だがこれは客観の直観を可能にするもので
つまり見るということ、それに形式をあたえる因果律は
悟性(脳)の働きによる、というふうな意味だ。
感官である目が逆さに写った像を正しい像に作り変えるような機能
そういう性質が悟性だとおもう、それによって対象が「わかる」。
また、2つの目で捉えられた像は本来ならひとつひとつの目玉に写った像が
重複して写るはずだろう、しかしそうならないのは悟性の働きなのである。
つまりこの段階ではわかるといても漫然とわかるのであって
理性のようなわかり方じゃないんだ。赤ん坊が母親の顔を認識できる、程度の
認識の性質を悟性と思えばいい。ショーペンハウエルはカントの煩雑な感性を
省略して悟性にまとめた。これは具体的なものを受け入れる。
その後これを抽象化するのが理性だ。理性は概念を必要とする。言葉を覚えるころが
理性の芽生える頃だ。
そういうわけで悟性は理屈や計算を抜きにその対象を認識する。
赤ん坊にもライオンにもあるものだ。
「わかる」ということはその「変化」を認識するということであり
それはすなわち因果律を掴んでいる、ということになる。
だから悟性の形式として因果律があるのだ。
現象を認識する場合、因果律の適用をしている、ということに
なるのだが、それを可能にしているような性質が悟性というわけだ。
だから脳といってしまえばそれまでだ、それは客観的な部所を言う場合のことであり
性質でいうならば悟性なのだ。
またショウペンハウエルは唯物論を否定するのであるから
それを脳に帰してしまうということはないのである。
207 :
考える名無しさん:03/10/24 16:09
概念と観念はどう違うの?
全然ちがうけども ニュアンス的にはビジョンに対して
ディス と ザッツ のちがい。
209 :
考える名無しさん:03/10/24 17:08
ショーペンハウアーの厭世思想はつまらん。
ヘーゲルに対する嫉妬は醜い限りだ。<丶`∀´>
210 :
考える名無しさん:03/10/24 17:29
ヘーゲルのいいところは?
211 :
考える名無しさん:03/10/24 17:32
ヘーゲルはコレラで死ぬし
ニーチェは発狂するし
ショーペンハウアーは健康的でいいよ
ヘーゲルはすごいよ
213 :
考える名無しさん:03/10/24 18:33
どう凄いの?
214 :
考える名無しさん:03/10/24 18:38
へーゲロは屁とゲロが上手いです。
215 :
考える名無しさん:03/10/24 18:38
へ〜
216 :
考える名無しさん:03/10/24 20:12
ヘーゲルは梅毒脳で麻痺している。
それを読む者に感染し認識を不能にする
217 :
考える名無しさん:03/10/24 20:16
あれ〜?
ヘーゲルってコレラじゃなくって
奥さんが感染したチフスが
ヘーゲルがクリニングスしたときに
感染してうっ死んじまったんじゃなかったけ?
218 :
考える名無しさん:03/10/24 20:18
ちがうよ
あのスケベ鼻が蓄膿症にかかって死んだって聞いたよ
219 :
考える名無しさん:03/10/24 20:20
>208
この概念、
これらの観念
って具合ですか
それならナルホロ
220 :
考える名無しさん:03/10/24 20:21
>208
この概念、
これらの観念
って具合ですか
それならナルホロ
>>204 若き頃心酔していたショーペンハウアーとの決別は、やはり生命の自己超越的な"力への意志"(一時期、力能意志って訳で呼んでた頃もあったな。)を、世界の生成原理に見出したからと思われる。
(それと絶縁した山師ワグナーがショーペに心酔したのも、込みで嫌気が差したところもあるだろうけど。論理というより心情で。)
ニーチェにとっては、盲目の生存意志によってただ"存在の次元"に固執するだけの本能的欲求(自己保存欲求)にとどまるショーペ氏のぬるい思想に不満を抱いたのだろうと思われる。
彼にとっては、存在を超えるダイナミックな生命力=欲望を、自己超越的な"力への意志"で世界の生成原理として描き出そうとしていたし。
ただし存在(オントロギーの次元)に苦の根源性があるのは間違いないのだから、ニーチェの批判はあまり当たっていないとも漏れとしては思う。
むしろショーペの方がより根源的な認識の深みをもっているかと。もっともニーチェは弱者救済には、ほとんど興味なかったからね・・・。
世界に倦む弱き人間は没落すべきだと。でも己が欲望をセルフコントロールできず脳梅で没落しちゃったのは、彼自身だった。
スピロヘータの盲目の生存意志に気づいていればねぇ・・・。(^_^;)
漏れとしては、ニーチェ-ショーペよりも、ショーペ-スピノザ(特にコナトゥス)の世界観の類縁性に興味があるんだけど。(^_^;)
222 :
考える名無しさん:03/10/25 01:59
意志を肯定したニーチェ、否定したショーペンハウアー、どちらが健全かと
いうとショーペンハウアーなんだよね。そこに人間の不思議があるね。現代
はニーチェの影響もあって、意志の肯定の時代。精神の病や犯罪の時代だね。
ショーペンハウアーから見ると、ニーチェでは「個体化された意志」と
「根源としての意志」がごっちゃになっていたということじゃない?
224 :
考える名無しさん:03/10/25 08:05
>>206 返答ありがとうございます。悟性が何か?とか、因果性が何か?というのは
わかります。ショーペンハウアーの主張(因果性が悟性のア・プリオリな形
式)というのもわかります。ただその論証が真か偽かがわからないのです。
真であればこれは凄いことです。わたしがショーペンハウアーを支持するの
も50%はそこにあります。動物が因果律を認識しているのは明らかですね。
225 :
フォアシュテルング:03/10/25 10:01
論証というのが真か偽かというのは彼がプラトンからデカルト、スピノザ、ロック、ヒューム、
そして最後にカントと自分の前にいた哲学者の考えていた根拠律について徹底的に検証しています。
それを読むのが一番なのですが、説得力があり他者がまた説明することが不可能のような
、だから真であればというのは読んだ人に判断してもらうしかありません。
だってそれが真であるという哲学者がそれぞれいるわけですから、だれがそれを
判定するのでしょう?変ないいかたですが、まず真である、という信頼から哲学者と付き合う
ことになるではないでしょうか。多数決でもないし・・・
説得力、納得力、誠実さ、そういうものしかないような気がします。
彼は真理しか愛さなかった。かれは自分のために哲学した。
いや自分のためでもなかった。真理の為に哲学した。
そういう気持ちにさせる唯一の哲学者だと思います。
226 :
考える名無しさん:03/10/25 10:13
>>225 因果律が悟性の形式ならば、当然物自体の世界が仮定されるのですが、
物自体は因果律に規定されてないわけですね。これは本当でしょうか?
227 :
フォアシュテルング:03/10/25 12:05
因果律も時間も空間も、現象にのみ関係してくるものであり
物自体にまでおよびません。
ということになっているのですから、とうぜんそういうことだと思います。
カントもそう言っています。カントにならってショウペンハウエルも
物自体は絶対に認識不可能としています。
認識不可能とは、認識の限界、境界、を定めたということです。
ここまでは認識そのものの可能性によって認識できる、認識できない
という認識能力そのもののおよぶところを。
認識では把握できないもの、を、物自体と考えていいと思います。
それは認識主観の外側の話であって
しかしこの自分自身も客観の一部であり、世界に根ざしている。
ということから外に物自体を求めなくても
自分自身の内側に物自体はあるはずだ。
ということで人間の内側への道があると
探していって、やがてそれが「意志」であることがわかります。
これは認識とは違った方式で意識といえばいいのか
とにかく意志自身がこの意志を自覚する、
というふうなことでこの内側にある意志は
外側にある大宇宙の意志と内側にある小宇宙は
同じものだと、ま、発見するのです。
それは呼吸のようなもので、まさにそのとおりだという気がするのですが
それは太古のウパニシャドにすでにある考えで
つまり梵我一如、ブラフマン=アートマンなわけです。
「火の鳥」を見ていた時思ったのですが
ショウペンハウエルの意志は手塚治虫のコスモゾーンとまったく同じですね。
とにかく因果律というのは認識だけに関係があるもので
物自体という本質には関与しないものであるということ
だから認識以外で把捉っする以外にない。
座禅じゃないけど瞑想し感じるしかないのでしょう。
228 :
考える名無しさん:03/10/25 12:40
>>227 どうもありがとうございます。ショーペンハウアーの哲学を支持している人
がいて、おおいに心強いです。
229 :
考える名無しさん:03/10/26 11:18
悟性(感性)の形式ということの、ショーペンハウアーの論証の真偽ばかり
でなく、そこで論じられることもよくわからないこともありますね。ショー
ペンハウアーの言ってることが正しいという希望はまだあるわけですね。
230 :
考える名無しさん:03/10/26 12:58
感性、悟性、理性、観念、実在、固体化の原理、意志の否定、
物自体、イデア、主観、客観、直観、無意識、精神、心、魂、認識、
それらの区別をするのがほんと難しい。
むずかしいけどしらないうちにその概念をしようしている。
これがまた不思議ですね。
定義はいいからいったい我々はどういう考えでどういう気持ちで
それを使いこなしているのでしょうか。
概念使用の現状、現実をたくさんの人に聞いてみれば
そこに共通する感情なり思い入れがみつかるかもね。
定義はもうたくさん。
日本人は,感想を感性の表現として評価の対象とする.
英米人は,理想を理性の表現として評価の対象とする.
感想は現在構文の内容であり,理想は未来構文の内容である.
これら二者の内容は,次元の違った考えなので噛み合うことがない.
東は東,西は西.
You can read more at
http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
232 :
考える名無しさん:03/10/26 16:34
それで結局、東洋と西洋はどっちが優秀だとお考えなのでしょうか
233 :
考える名無しさん:03/10/26 16:57
南洋
234 :
考える名無しさん:03/10/26 19:39
なるほど、気がつかなかった。
じゃ僕は北洋。
僕の名前はキンボー
僕の名前はタマボー
ふたりあわせて
キンタマだー
きみとぼくとでキンタマだ
大きなものから
小さなものまで
朝まではたらく
キンボー!
タマボー!
天気よほー!
何度も言われていることだがショウペンハウエルは
思想と行為を分けて生きることを実践していたところが
すばらしい。
これはぜひ見習いたいものだ。
236 :
考える名無しさん:03/10/28 19:40
そうそう知行合一なんて出来っこないんだから。
それにそんな哲学者がいたらお目にかかりたいもんだ。
哲学に行為の要求をしてはいけない。
ショウペン氏がいうように
哲学はなにも約束はできない、なにも指示しない。
彼はなにものからも独立していたからこそ自由なんだ。
妻の心配も子供の心配も孫の心配もしなかった。
そのうえまったくの無職だった。
だから信用できるんだ。
237 :
考える名無しさん:03/10/28 22:33
ちょっとひねくれてるが正直な人だったんだろう。
238 :
考える名無しさん:03/10/29 04:39
無職だったから信用できるというのはうなずける。ひねくれているというのは
、彼の書いたものを読むとそんな感じはするが、晩年まで世間から認められな
かったから感じるのだろう。社会に認められなくてもやった仕事、だから信用
できるとも言える。
239 :
フォアシュテルング :03/10/29 11:35
名声というものに超然としていた点で、アルトゥール・ショウペンハウアーは、
ついには彼自身その堂に列することになる一連の思想家たちの大多数と比べても
、人後に落ちることはなかった。
-ーーーーーーマックス・ホルクハイマー ―ーーーーーーー
>>236 >そうそう知行合一なんて出来っこないんだから。
>それにそんな哲学者がいたらお目にかかりたいもんだ。
漏れが知る限り自分の思想を体現した哲学者はエミール.M.シオランかな?
(フランスで高名な文学賞送ろうとしたら、頑なに固辞したらしいというエピソードあり。
ショーペ氏だったらタキシードで駆けつけてたとは思うけど。スピーチで「漏れの底力見たか、ヘーゲル?」なんてアジったりして。(^_^;))
ちなみにシオランの『生誕の災厄』って、ショーペ氏の思想のエッセンスに近い気がする。
彼のスタイルはポエジーが強いので、それをして哲学者と見るか、作家と見るかは意見が分かれるとは思うけど・・・。
(そういえば、スーザン・ソンタグは『ラディカルな意志のスタイル』の中でシオラン叩いてたそうだけど未読。ご存知の方教えてちょ。)
241 :
フォアシュテルング:03/10/29 23:36
どんな思想なのですか、興味あるなあ
シオランは、論証を積み重ねて真理に到達するタイプの思想家ではなく、ニーチェのように直感的洞察に基づく警句で
真理を照らし出すタイプの思想家であると思う。
だからその思想のコアを明確に取り出すのはひどく難しいのだけど、ひとつは徹底したブッディストのように、西洋の生めよ増えよの"存在の絶対的肯定"を
全面的に否定=批判している。人間存在を"地上に広かった癌"と呼んでる位だし。
今ひとつは、そうした世界観を基礎付けるヨーロッパの思考のすべてを容赦なく撃っている。
(従ってその思索は体系ではなく、短い警句を積み重ねることによってヨーロッパの重々しい一義的な体系の不健全性を揺るがそうとしている。
あらゆるところにはりめぐらされた再生産装置に独り戦いをいどんでいる。もちろんどちらが勝ちを収めるのかは火を見るより明らかだけど・・・。)
シオランは、論理的に理解するより、感覚的な鋭い洞察によって理解するタイプの思想家であると漏れは思うのである。
そしてその哀しみは、限りなく深い。ショーペ氏がそれでも人は救済されなければならないと思っていたとするなら、
シオランはその救済の道を自ら焼き払って孤独な戦いを挑んでいるような気がする。
そういう訳で『生誕の災厄』は実にオススメですよ。
243 :
フォアシュテルング:03/10/31 00:38
>救済の道を自ら焼き払って孤独な戦いを挑んでいる
というところがミステリアスで面白そうですね。
売ってるかな、近くの書店探してみよう
ありがとうございます
>>240 242
俺もシオランは好きだな。もちろんショーぺンハウアーも好きだし。
シオランの著作はかなり持ってる。
シオランもショーぺ先生の本は耽読していたみたいだよ。
「涙と聖者」で「ショーぺンハウアーの思想に触れると小躍りしたくなる」
みたいなこと言ってたし。
それにしても、シオランみたいなマイナーな思想家の本が極東の島国(日本)で
ほとんど翻訳されているっていう事実を考えると、やっぱりみんな一度は
ペシミズムに惹かれるんだなって思うよ。
そうそう、ホルストマンの「人間怪物論」では、シオランは現代に甦った
ショーぺンハウアーだなんて言われているw
246 :
考える名無しさん:03/11/02 21:39
ショーペンハウアーとショーペンハウエルって両方正しいよな?
247 :
考える名無しさん:03/11/02 23:31
248 :
考える名無しさん:03/11/03 10:20
生活についてのアホリズムから
低俗なことについて
苦情を言ったりするな
人が何と言おうと
低俗さは力強いからである (ゲーテ)
249 :
考える名無しさん:03/11/03 10:26
哲学2chから
よけいなお世話だ(うばすて)
250 :
考える名無しさん:03/11/03 10:32
ほ ん と に 今 時 の 中 高 生 は 身 の 程 を 知 ら ん
251 :
考える名無しさん:03/11/03 10:33
よけいなお世話だ
252 :
考える名無しさん:03/11/03 10:35
自 分 の バ カ さ は 隠 す も ん だ
253 :
考える名無しさん:03/11/03 10:37
236 :考える名無しさん :03/10/28 19:40
そうそう知行合一なんて出来っこないんだから。
それにそんな哲学者がいたらお目にかかりたいもんだ。
哲学に行為の要求をしてはいけない。
ショウペン氏がいうように
哲学はなにも約束はできない、なにも指示しない。
彼はなにものからも独立していたからこそ自由なんだ。
妻の心配も子供の心配も孫の心配もしなかった。
そのうえまったくの無職だった。
だから信用できるんだ。
逆説を言ったつもりかもしれんが・・・、馬鹿にしか見えんな。
だいたい哲学することは行為じゃないのかね。足元弱すぎ。
ショーペンハウアー本人から馬鹿にされそうなコメントだ。
254 :
考える名無しさん:03/11/03 10:40
口 を 閉 じ て さ え い れ ば
自 分 の ア ホ が
誰 に も 知 ら れ な い の だ
255 :
考える名無しさん:03/11/03 11:11
256 :
考える名無しさん:03/11/03 11:23
哲学することが行為だと思っている馬鹿はサーカスにでもいけばいい。
哲学は性行為はしない。
性認識をするのだ。
程度の低い馬鹿が集まる掲示板で逆説言う必要はない。
馬鹿は初めから脳味噌が逆に逆に捩れている。
哲学に足腰の強さ弱さは関係ない。
う〜ん、ほんとうに脳が曇っている奴もいるんだな。
257 :
考える名無しさん:03/11/03 11:34
哲学者は性行為をします。
258 :
考える名無しさん:03/11/03 11:37
259 :
考える名無しさん:03/11/03 11:37
哲学は性行為はしない
恥ずかしいので、首吊って死にます。
261 :
考える名無しさん:03/11/03 12:52
死にたくても死ぬな。
自殺の権利はある。
だが意志の否定はもっと素晴らしいぞ
262 :
考える名無しさん:03/11/03 12:54
哲学者は相撲取りじゃねえぞ。
263 :
考える名無しさん:03/11/03 13:29
>>256 ><哲学すること>が行為だと思っている馬鹿はサーカスにでもいけばいい。
><哲学>は性行為はしない。
・・・は・・・白痴?
>う〜ん、ほんとうに脳が曇っている奴もいるんだな。
>>256が・・・?
<相撲すること>が行為だと思っている馬鹿はサーカスにでもいけばいい。
<相撲>は性行為はしない。
<科学すること>が行為だと思っている馬鹿はサーカスにでもいけばいい。
<科学>は性行為はしない。
<レスすること>が行為だと思っている馬鹿はサーカスにでもいけばいい。
<レス>は性行為はしない。
>>256はまさに「馬鹿は初めから脳味噌が逆に逆に捩れている」典型例と言えよう。
265 :
考える名無しさん:03/11/03 13:42
266 :
考える名無しさん:03/11/03 13:43
いやあ、読めば読むほど面白いな、
>>256は。
マジですべってるところが素晴らしい。
しかも哲学を語って。最高。天然記念物。
骨頑張る
268 :
考える名無しさん:03/11/03 13:45
腹痛えーーーーーーーー
さらしage!!!!!!!!!!!!!!
269 :
考える名無しさん:03/11/03 13:58
>>256 えーと私256さんじゃないですけど、ていうかネタもと235です。
代わりに言ってもいいですか、というかちょっとおもろかった。
私の考える思想と行為の区別を言っておきます。
思想、これは思うだけのこと
行為、それ以外の活動のこと
つまりその境界をちゃんと分けていたと言うことです。
そして思ったことを信じることが哲学だと思います。
それは行為に影響を与えます。
知行合一なんて言葉は私知らなかったけど
ああいいね、と思ったけど、そうかなともちょっと思いました。
この辺りの誤解ですね。
ちなみに書くことは行為だと思います。
氏の言葉に私は思ったことをそのまま書かれているとは思いませんでした。
信念のみが書かれているように感じました。
つまり彼の言葉には思ったこと、そのものについては一つも
明らかにされていないと私は思います。
しかし言葉を信じられるのは他人の信念のみを人は信じるからだと思います。
ちょっと恥ずかしいですが名乗っておきます
じゆんでございました。
271 :
考える名無しさん:03/11/03 15:26
書くことは行為だよね。
書くためだけの目的でなにも考えないような2チャンネルの
奴らのような連中は書くという行為だけの連中で
なにも認識していない、頭がからっぽ
ということなんじゃないかな
じゅんちゃんというと昔ブラザーにいた?
272 :
味由性快尿道:03/11/03 15:40
外界へ出た痔はとても寒そう。ぼくはそっと痔を内界へ差し戻す
273 :
考える名無しさん:03/11/03 15:41
「愚者と語る者は、眠っている者と語ることになる。眠りから覚めると、その人は
《何だって?》とたずねてくる。」 イエズス・シーラハ
274 :
考える名無しさん:03/11/03 15:42
「剽軽な言葉も、愚者の耳では眠っている。」
ハムレット
>>271 えーそうですとも私は他人を信用しませんので。
ちなみにブラザーってなんですの?
ブラザーミシンで頑張って販売してた。
277 :
考える名無しさん:03/11/03 20:00
普通に日本語の使い方がおかしいってことに気づけよ・・・
>>270
2chでは 合法です。
279 :
考える名無しさん:03/11/03 20:13
>>236 哲学者じゃなくてソフィストの中になら、知行合一を目指した人も
たくさんいると思いますよ。ディオゲネスとかエピクロスとか。
中国思想の方も孔子とか、「やっぱり実践が伴ってないと」って感じですし。
いつから思想と実践を切り離すようになったんでしょうね。
知的財産だけでは生活できなくなったからでしょうか。
281 :
考える名無しさん:03/11/03 20:38
日本語の使い方が正しくてもおかしくても合法なのに、
>>277に向かって合法と言う事に何か意味があるのか。
教えろ。馬鹿の
>>278-279よ。
282 :
考える名無しさん:03/11/03 20:40
ここの連中の80%は哲学の解説書みたいなものしか読んでいない。
戯言はいいからなにか主著を読め。
そしてそのなかからものを言え。
ついでに一番大事な自分の思想を語れ。
ショウペンおじさんも言っている。
みずからかんがえる、こと。
>>245 シオランファンいてうれしいっス。ちなみに『涙と聖者』未読ながら持ってます。
やぱショーペ先生にシンパシィ感じてたんですね。なんか納得。
あと高邁なる精神の所有者に"まず塊より始めよ"ってツッコミ入れたくなるのは、漏れだけ?
>>283 そういうツッコミが知性を高めるとは思えないが
167 :考える名無しさん :03/10/21 11:44
異常性欲のババア=カオルの
「個体化原理丸だしです(^_^;)」
の恥ずかしさにはとうてい及ばないがナw
286 :
考える名無しさん:03/11/04 15:19
固体化の原理をもっとよくわかっている人間が言え
287 :
考える名無しさん:03/11/04 15:19
そうだ貴様固体化の原理を説明しろ
288 :
考える名無しさん:03/11/04 16:33
>>287 ある大学で教授が女生徒Aに、
「適当な条件下で、大きさが通常の6倍になる体の器官を挙げてください。
その時の条件も言って下さい」と質問をした。
指名された女生徒Aは、顔を真っ赤にしながら冷ややかに
「これは適切な質問ではありません。この件は学校に告発します。」
と答えた。
しかし教授は平然としたまま、別の生徒に同じ質問を繰り返した。
次の女生徒Bは落ち着いて答えた。
「目の中の瞳です。暗いと大きくなります」
「正解です。それからAさんには言いたいことが3つあります」と教授は続ける。
「1つ、授業は真面目に聞きなさい」
「2つ、6倍になるなんて思っていたらいつの日か本当にがっかりする日が来ます」
289 :
考える名無しさん:03/11/04 17:57
なんのことやらわからん
説明能力なしじゃ
やり直せ
>>288 言いたいこと3つなのに2つしかないで?
291 :
フォアシュテルング:03/11/05 17:17
脳の対極にあるものが生殖器であるから、
認識の対極にあるものが意志であるから、
意志の肯定を象徴する部所が性器であるから、
意志の否定の可能性の部所として脳があるのであるが、
それゆえ認識こそが意志の否定を可能にするのである、
から、
認識と意志は戦うのである。
脳すなわち認識の場所であるところは救済を意味する。
これはキリストにあたるところで、
対極の生殖器という意志のもっとも強烈に現れている部分はアダムを意味する。
つまり生の肯定をもっとも象徴する部分だ。
生と死は正反対のものではなく、
生はすでに死に帰属している。
死は意志の否定ではありえない、自殺も同じく、強烈な生の肯定を表している。
生の否定とは生きながらに生を否定することであり、
それは涅槃の境地のようなものである。
日々の再生産つまり栄養の摂取つまり食事はインプットは、
再生産なのであるがこれを二乗したものが生殖である。
ぎゃくに日々の肛門から排泄されるものの二乗が死である。
どういうことかといえば日々われわれは排泄しているが、
最後には自分自身そのものも糞として排泄してしまうことになるからだ。
また再生産のほうは、日々の再生産のうえに時が来れば人は自分のコピーを
再生産する、つまり子供を産むからだ。
それはすべて生殖行為という生の肯定によってなされるのであるから、
人はふたたびこの苦しい現世に舞い戻るということになるのだ。
そこからの脱出、解脱を意志の否定と呼ぶのである。
アダムはこの生の肯定の代表者だ、つまり原罪とはそういう意味であり、
そこから人類を救済した人がキリストなのである。
つまりキリストによって生は書き換えられた。
キリストによって原罪は贖われたのだ。
そういうことがショウペンハウエルの本には書かれている。
292 :
考える名無しさん:03/11/06 11:06
哲学は宗教に到る。
293 :
フォアシュテルング:03/11/06 19:16
宗教は容器に入れた水を欲しがり
哲学は水そのものを求めている。
つまり真理に混ぜ物をしたのが宗教で
哲学はそういう余分なものはいらない。
真理そのものを求めるのである。
というふうな意味のことをショウペンハウエルは言っている。
294 :
考える名無しさん:03/11/06 23:59
宗教は酒だろ?とくにキリスト教は。
生の否定と仏教哲学で言う悟りは違うのだろうか
296 :
考える名無しさん:03/11/07 01:24
厭世?
っぷぷぷぷぷぷぷ
297 :
考える名無しさん:03/11/07 10:44
厭世ときくと屁が出る馬鹿がいる
健康的だな。
ショウペンハウエルの主著がなかなか見つからん……
>>295 諦観と生の否定は違うような気がするでつ。
諦観は、まず自分があってこそな感じ。自分があるということから出発して
物事を見るような感じがします。東洋的な現象学というか、自分がイメージするのは
そんな感じ。って印象でものごとをかたっては駄目ですね(汗
>>298 買うとしたら見つからないかもだけど、図書館とかにないですかね?
一章ずつちまちま読むのもなかなか良いもんだと思うです。
300ゲゲゲゲットー!!