>>246 うーん、まぁ仕方ないとは思うけど
論争は哲学にとってとても意味があることだからね
論争は解釈を変えたら理論の競争さ
血なまぐさい生き残りの戦争、か
自らを切磋琢磨するオリンピック、か
俺は後者に解釈しているだけだね
その方が近代的だしね
俺は、議論を阻害するものは理論そのものではなく権威主義的な態度だと考える
そしてそのような権威主義が理論と合体すると「正当化主義」という一つの思考方法ができてしまうんだろうね
だから権威主義的な態度さえなければ議論はできると思うんだよね
俺自身そうあろうとしているつもりだし
>>247 別に独我論自体は問題ないと思うよ
問題は独我論が「自分が存在するということだけは確実だ」という思考をしているとどうしようもないということだね
「確実さ」てのは実は権威主義的要素をつくる
独我論は「わたしはわたしの意識の外に誰もいないと考える(誰かいると考えるのは間違っている)」という程度だからね
その理論自体は決して議論不可能なものとは考えない
もちろん、こちらも超越論的批判をするべきではないね
「お前はなんで俺と議論してるんだ?矛盾しているぞ」と言うべきではない
それは非論理的な批判だし、せっかくの議論の目をつぶすからやめた方がいい
バートリーの理論は
すべての理論には「正しい可能性」がある、というものなんだ
ちなみに「正しい可能性」=「間違っている可能性」となる
(「それは正しいかもしれないが間違っているということはない」という文章は不可能)
つまり「すべての理論は間違っている可能性がある」という意見になる
もちろん、この「すべて」にはこのバートリーの理論自身も含まれる
>>248 >だから権威主義的な態度さえなければ議論はできると思うんだよね
なるほど、たしかにこの点に関しては
さっきのスレでも以下のように批判されています。
>>翻訳でパラパラと眼を通す程度では絶対に理解できない次元があります。
>とか
>>草稿群の分量が普通でなく、これらの執拗な分析を手掛かりにしない限り
>>は、基本的理解さえ覚束ない
>とか
>>私の言葉遣いが奇異に聞こえるのならば、それは貴方が、晩年の
>>未公刊の草稿群に微塵も眼を通していないことに基づくのだと思われます。
>と、ハッタリをかまして、権威づける。それしか能がないからだ。
>あるいは現象学のエッセンスを1が掴んでないからだ。
>>251 まぁ議論不可能なものはない
「議論不可能」という言葉を言うやつは勝手に線引きをしているに過ぎん
もちろん俺も勝手に線引きをしている
じゃあ「議論可能か不可能か」について議論をしよう
バートリーはこの程度
もちろん、現実世界において議論を強制する必要はない
俺だってあまりにもひどいと思うと逃げるよ
このスレだって時々相手にしていない時があるのは見てのとおり
でもそれは俺自身がそうしているだけで理論上の問題ではない
そう考えている
あとは、逃げる時の一言はスマートに言うべきだね
恨みをこめたり馬鹿にしたりしちゃいけない
ショーだからね、舞台から降りるときほどかっこよく振舞いたいもんだ
これは個人的なことに過ぎんが
>その理論自体は決して議論不可能なものとは考えない
独我論という議論で論じる事も可能という事ですか。
>もちろん、この「すべて」にはこのバートリーの理論自身も含まれる
これはなかなか面白いですね。
何というか今日は内容が濃かった気がする。
>>254 >独我論という議論で論じる事も可能という事ですか。
うん、もちろん
なぜならば超越論的基礎付けは論理的ではないから
彼は「わたしが独我論を信じているからわたしは議論できない」と言うかもしれない
でもその論理は「超越論的基礎付け」と言って非論理的なんだ
だから議論できる
でもそのようなことも無視して沈黙されたら議論できない
でもそれは理論が原因ではないんだ
議論そのものを放棄するパフォーマティブな行為が問題であるだけで(東的だね)
議論や理論自体の問題ではない
俺が「自分の理論は正しいから議論しない」と言ったところで、それは俺の理論が議論不可能なことは意味しない
>>254 >>もちろん、この「すべて」にはこのバートリーの理論自身も含まれる
>これはなかなか面白いですね。
自己言及が許されないのはそれが正当化できないからなんだ
だから、最初から正当化を求めなければ自己言及をしても別にかまわないのさ
例えば、議論でバートリーの議論主義が勝っても、
それはバートリーが正しかったことを意味しないし、相手が間違っていたことを意味しない
でもバートリーら議論主義は、議論主義が「とりあえず間違えてなかったこと」は確認できる
だからそれを保持できる
議論をした上で議論主義を保持できないと考えたら捨ててしまえばいい
>なぜならば超越論的基礎付けは論理的ではないから
そうか、そういう風に解釈するんだな。
フッサールではこれが逆になるのか。
>議論そのものを放棄するパフォーマティブな行為が問題であるだけで(東的だね)
全然関係ないけど、前にこの東の真似して
議論を放棄したら怒られたというスレがあった。
>>258 >全然関係ないけど、前にこの東の真似して
>議論を放棄したら怒られたというスレがあった。
卒論の面接でってやつ?
当然でしょう
そんなものは独断による押し付けと何らかわらないからね
東も正当化主義だよ、だから正当化を求めた末にパフォーマティブな行為をせざるをえないと言うんだろうね
先生が求める態度はむしろ逆だと思う
自分の理論の欠点を認めた上で「なお研究したい」という意欲を見せた方が評価がいいと思われ
正当化主義が正当化を求めた末に
パフォーマティブな行為をせざるをえないと言うのは、
ある意味では独我論が他者によっては通用しないという事なのかもね。
今日だけで130レスもしてる。
>>260 ごめん、ちと意味をつかめてないかも。。。
他者によっては・・・、という言葉と前文から察するに
独我論を超越論的批判で迎え撃つ者には沈黙せざるをえないということかな?
うん、そうかもしれない
でも、それを信仰のように言うだけでは良い議論はできないと思うよ
自分の理論、もしくは競合する理論と両立不可能な言明を指摘することが議論だからね
例えば独我論と両立不可能になりそうな事例として俺は「エネルギー保存の法則」を提出したし
逆にいえば対象を前提として置くことへの両立不可能な事例が欲しい
また、「他者を前提として置くことは不確実だ」という批判をするならば
何か確実な言明、もしくは確実なものを指摘せねばならない
でも、確実な言明をすることは正当化主義に陥る
するとパフォーマティブな行為をすることになる
「不確実だ」という意見は議論には使えないと俺は考える
>>261 いいことさ
対話こそ哲学の真髄だよ
一人で黙々とやると難解な文章になる
こうやって常に他者と対話することこそ考えを洗練させ平易な表現を身に付ける最良の方法と俺は考える
もっとも独我論者の耳に入るかどうかは分からないけど
でも、もっと自由に議論をしてもいいはずだよ
2ちゃんでは特にね
だって間違えたらコテを変えたり、キャラを変えればいいんだから
ここでは「間違えたらいけない」と考えるような邪魔なアイデンティティーはない
そう考えればずっと気楽に議論できるさ
すいません、即席で理論を組み立ててるもので。
なんとなくだけど、議論のやり方をどう考えているのかが
分かりました。
265 :
考える名無しさん:03/09/01 15:43
よく「フッサールは独我論だ」と非難する奴いるけど、
独我論が「この世界はわしの世界で、わし以外誰もいない」
って意味なら違うんじゃない?
たんに、フッサールの理論では他者の存在を説明できませんよ、
ってだけなんじゃない?
>>264 一応、反基礎付け主義には分類される
両立不可能な言明を指摘し合い、それに対する弁解をし合い、・・・が、ずっと続いていく、という形
使用するのは最小論理のみ、
「確実でない」「正当化できない」「証明できない」などの言葉は使用しちゃダメ
方法としてのルールはこうなってくるかな
難しいのは「問題の共有」の方で、この問題を扱うとしろうとや◎のような意見になってくる
でも、解釈を特定する必要はないし一致させる必要もないと思う
思いつく限りの解釈を挙げ、消去法で消して残ったものと考えればいい
もし絞り込めないなら質問すればいい、それだけだね
>たんに、フッサールの理論では他者の存在を説明できませんよ、
>ってだけなんじゃない?
どうなんだろう、他者の存在が説明できない事は
どういったメリット・デメリットをもたらすのかが
よく分からない。
>>267 >どうなんだろう、他者の存在が説明できない事は
>どういったメリット・デメリットをもたらすのかが
>よく分からない。
客観主義者からの有名な批判ね
他者の存在を説明できないと、自分の知識の由来が自分自身ということになる
でも多くの論理学や数学の知識ですら自分の脳がつくりだしたと考えるのはちとむずいでしょ
「俺ってそんなに天才?」ってことになるわけだからね
相対性理論を考えたのはアインシュタイン
でもアインシュタインは俺の脳内の現象
んじゃ相対性理論をつくったのは・・・俺??みたいな感じ
>でも多くの論理学や数学の知識ですら自分の脳がつくりだしたと考えるのはちとむずいでしょ
これをどう処理するかで、客観主義や独我論の立場をとるか
変わってくるという事なのか。
そういや、兄って客観主義に批判的なの?
271 :
考える名無しさん:03/09/01 16:01
単純に客観主義、独我論で分けてるけど、
純粋な独我論者なんて誰もいないんじゃない?
その存在しない立場を否定して、それで、一見独我論者に見える
人たちを論破したというのはおかしくない?
>>269 いや、独我論は単純に確実さを求めたがゆえに独我論に陥ることがほとんど
だから「他人がいるのは不確実だ」と言う
出発点が正当化主義だからね
対して、客観主義はもとから確実さを求めないからね、前提を必要としない
わざわざ他者を設定しない理由はない、むしろ知識の由来が全部自分と考えることになるからとても独我論にはなれない
確実さを求めないにも関わらず、あえて独我論を支持する人は稀有だろうね
>>270 >そういや、兄って客観主義に批判的なの?
もちろん、客観主義もまた不確実だからね
確実なものがあるなら当然保持できないよ
それから、対象が個人の認識如何で不条理に変わるなら(エネルギー保存の法則が間違ってるなら)
同じく保持できないかな
あとは完全な運命論を証明されるか
完全な混沌、つまり論理にパラドクスが含まれることが判明するとか
いろいろあるかな
>>271 俺の立場だといかなる理論も論破できないんだって
275 :
考える名無しさん:03/09/01 16:07
>だから「他人がいるのは不確実だ」と言う
誰がそんなこと言ったの?少なくともフッサールは言ってないよね?
>>275 >だから「他人がいるのは不確実だ」と言う
そうだな、語りゃしない、
まーフッサールのいいところは「君の目の前のコーヒーカップについて言及できる」というところだからな
一般的な独我論者さ、イギリス、ケンブリジ大学の誰だっけ、ラッセルと同時期のやつは
やたら議論する独我論者だったな
あえて独我論から出発するのと、独我論者はまったく違うと思うんだが
議論が込み入ったものになってきた。
>>277 いいんじゃん、あえて独我論から出発しようが何だろうが
別に一度も独我論が間違っているとは言ってないんだし
>>278 議論てほどのもんじゃない
好きにやろう
兄のそのやり方って、デリダとは全然関係ない?
>>281 多分ない
俺自身が『存在論的郵便的』ぐらいしか読んでないというのもあるけど
(解説書レベルで挫折した・・)
自分自身ではデリダと解釈学論争をしたガダマーに近いと感じている
郵便的不安達という名前だったかな?
そういう東の本があったけど、存在論的郵便的とは随分違うみたいだね。
それで存在論的郵便的は読めそうにないです。
>>283 どっちにしろ、あの手の本はうさんくさいしろものだと俺は思ってるからね
読むのも練習のうちかな
自分が間違ってると思う本を読むほうがいいからね
すると知の地平が拡大する、これがガダマー的な意見
まぁ自分が受け入れられない意見ほど自分の成長に生かせるのさ
もっとも、生かすも殺すもその人しだいか
知の教科書デリダという手も。
>まぁ自分が受け入れられない意見ほど自分の成長に生かせるのさ
そういうところはあるなぁ、ここ数年は特にそれを感じてるよ。
>>285 そだな、デリダを読むかな、とりあえずは今扱ってるのはウィトかな
あとは何を読もうかな
論理学系統で行くんかい?
今日は本当にご苦労様でした・・・
290 :
考える名無しさん:03/09/16 22:42
兄ちゃま萌え
>>兄氏
こんにちは、はじめまして。
私はPhiloAletheaと名づけた真理追究を行っているものです。
久しぶりに哲学板を覗いてみたら、楽しそうなスレッドがあったのでこれから読ませて頂きます。
294 :
考える名無しさん:03/10/29 00:16
最近兄ヤンこないねぇ
hoshuhoshu
296 :
考える名無しさん:04/01/12 07:13
>「確からしい」なんて言葉はインチキ哲学者が使う「真理」という言葉よりもひどいよ
>そんな言葉を振り回して安心していられる精神が分からん
おお、これわかりますね。すごく共感します。って遅レスですが。
保守
297 :
考える名無しさん:
hosyu