悪いね、何か書くとこないから自スレ建てた
これじゃピカと変わらんが、許せ
俺が一見主張が無いように思われてる気もするし、とりあえず自分の弁解も含む
そしてこのスレで俺がウィトに対して批判することが何を問題としているか
そして哲学から消えた「真理」という概念にどれほどの余地があるのかを考えようと思う
議論は大歓迎だが、50ぐらいまでは遠慮してほしい
なお、客観主義者からの意見、大歓迎
俺はまだ修士も獲得していない若輩者なのでおかしいところは指摘してくれ
最後に、このスレでは客観主義者を相手にしていると考え、そのような表現方法をとる
このスレでは私のルールに合わせてほしい
おめでとう!
しかしあいかわらず自己言及だなあ
議論は大歓迎だが、50ぐらいまでは遠慮してほしい
(・∀・)ニヤニヤ
さて、私が何を問題としたいのか、比喩ではあるが、次のような表現をしよう
私は「真理はある」と考えている
このような表現は昨今の哲学の流れにおいては消えてしまった
そしてこの問題を再度哲学の表舞台に上げること、それが私がやろうとしていることである
私は、哲学者は、すべての科学者も含めて、研究者であると考える
大学に在籍しながら自らの研究をしていない研究者を私は知らない、全ての自然科学、社会科学においても
その意味で、研究者は皆何かを探しているのである
そして哲学者は真理を探究する
このような意見には次のような批判がくる
「真理なんて無い、無いものを探す馬鹿」
このような言葉はこの板でもよく見かけるだろう
しかし、何かを探す人間は、それが無いから探すのである
もしあるならば探す必要はない、もしくは絶対に無いならば探すのは不毛である
どこにあるかも分からないことは探すことの必要条件である
それでも、私は「真理は絶対に無い」という言葉に着目したい
我々研究者は皆不毛なことをやっているのではないか、全ての学問はまるで無意味な言葉のかたまりではないのか
そう考えることは学者からは後ろ指を指される行為であろう
それでも、学問自体を恣意的に問題に挙げないことは学問の精神に反する
ウィトゲンシュタイン(以下ウィト)は「それを学問とは呼べない」と言うだろうが(学問が扱う範囲を超えているため)
わたしは、そのような行為は例え学問とは呼べなくとも研究する意味がほんの少しだけあることだと思う
わたしがこのスレをもって行おうとしている行為は、そのほんの少しの意味しかないものである
>「真理があるかないか」という問題
「真理があるかないか」という問題について、わたしは議論に参加することを遠慮してきた
というのも、この問題提起では、その問題の意図するところを正確に指摘できないであろうからである
わたしは、多くの客観主義者のこの手の問題に対する反論を見てきたが、どれも批判者を満足させるに値しないだろうと考える
というのも、「真理」や「ある」という言葉はその本人の意図するところに内容を変え、自らに反する全ての意見を無力化するであろうから
彼らの言葉は時に「あるかもしれない」と答え、時に「ないゆえに」と答えるが、それら異なる答えですら同じ答えを導くという意味で返答としては不十分であるだろう
わたしはこの問題の意図するところは「わたしが真理を求めるべきか否か」という倫理的な問題とほぼ等しいと考える
この手の世界に対する問題と自らの内面、倫理に対する問題は、問題の相対性とでも言うべき関係性を持っている
「真理を求めるべき」と考える者は「真理はある」と答え、「真理を求める意味は無い」と考える者は「真理はない」と答える
しかし、わたしはここでこの手の問題が擬似問題であると言おうとしているのではない
それは真性な問題である、この二種の問題はその意図するところにおいて等価だが、わたしは意味ある問題だと考える
というのも、わたしは倫理的問題ですら、哲学の扱う重要な問題に含まれると考えるからである
理屈は心理のパッケージである。
生きたいから生きてる。探求したいから探求する。
ほんとに好きな時は理屈などないものさ
さて少しだけ話題を変えよう
わたしは自らを特殊相対主義者と名乗ることがある
厳密に学問的定義に従えば、わたしは相対主義者ではなく合理主義者である
また、わたしは相対主義を激しく否定する
しかし、昨今の相対主義の流行、そして合理主義に対する誤解から、
合理主義者という名だけで時代遅れのレッテルを貼り、その論を見ない者が増えている
わたしは自らが誤解を受けると分かってその方法をとるほど純粋でもない
それゆえに、わたしは相対主義にとって心理的に受け入れやすい主張をしながら、合理主義的主張をすることが多々ある
今回もその方法のひとつとして、相対主義から出発しようと思う
わたしは徹底的な相対主義を主張することにする
これから行う吟味はその点を出発点にしている
>徹底的な相対主義
わたしはまず「全ては徹底的に相対的である」と主張してみる
つまり、「全ては相対的である」という主張である
このような意見はどのような結論を得るか
その結論は徹底的な混沌であり、この板のコテハン<しろうと>が「分裂病」と表現した状況である
当然である、すべてが相対的であるならば論理的な真も偽もない、(真と偽の意味するところの価値も相対的であると考えるため)
また、そのような言葉ですら「正しいかつ間違い」が生じる
それは完全なカオスである
「完全」という表現すら不適切だろう
しかしどこまでも混沌であるために、その表現もまた許されるだろう
これが徹底的な相対主義である
そして多くの者はそれを受け入れることができないであろう
わたしもまたその一人である
わたしは完全な混沌と呼べるような状況を受け入れられない
>続き
わたしはこのような状況(以下、完全混沌状況)を受け入れられない
もし、その理由を質問されたら次のように答えるだろう
A「わたしがそう考えなければならない理由が無いからである」
このような答えには次のような批判がくる
批判「きみが完全混沌状況以外を考えなければならない理由もまた無い」
この批判は正しい、しかし完全混沌状況においてはそれすら理由付けにもならないだろう
なぜならば完全混沌状況においては理由付けすら何の意味ももたないからである
しかし、わたしがそのような理由をつけたところで、わたしが完全混沌状況を拒否することを正当化することはできない
それはわたしが「理由を求める」という基準に立っているからであり恣意的である
つまり、わたしが完全混沌状況を拒否する理由は「わたしがそう考えるから」であり
これを倫理的に修正するならば(問題の相対性
>>5)
わたしがある言明を保持するのに理由を求めるのはそう信じるためである
つまり、私自身の決断であり、原理的には決して信仰の域を出ない
もし、唯一理由があるとするならば、他人の言葉をそのまま鵜呑みにするのではなく自分で理由を探すことで決めたいという一つの信念であり、
その意味で、わたしもまた実存主義者の一人である(わたしが実存主義を間違っていると言わないのはこのため)
ここでわたしが注意したいことは、完全混沌状況の存在可能性を否定することはできないということである
>この問題は哲学的にどのようになるか
わたしが上で挙げたような比喩は、表現としてはとても幼いが
しかし哲学的には「理性と信仰の問題」に関わってくるものである
わたしが理性が正しいと考えるのはそう信じるからでしかない
それ以外のいかなる理由であっても理性を正当化することはできない
理由を探すことがすでに理性的であるからである
しかし、理性的に考えた結果、わたしが信仰を選択することはありえるだろう
偉大な科学者でもあり哲学者でもあったパスカルのように
11 :
考える名無しさん:03/08/29 10:37
完全混沌状態を拒否する理由は、それ、すなわち完全混沌状態が
考えうるいかなるメリットも産まないから、とは言えないだろうか?
つまり、その選択状況は対称的ではないのだ。
もし科学という人がいれば、分裂病患者と診断されるだろう
もし哲学という人がいれば鬱病院患者と診断されるだろう
もし生命という人がいれば健全と診断されるだろう
>徹底的な相対主義でないならば
わたしは今、徹底的な相対主義を私自身の手によって捨てた
しかし、わたしは未だ相対主義者を主張したい
ならば、わたしは多くの基準なり概念の中で、何らかは「相対的ではない」と主張せねばならない
もし、すべてが相対的であるならば、それは徹底的な相対主義に逆戻りするからである
それは私自身が理性によって理性を捨てるという結果を意味するだろう
さて、ここでわたしは次のように結論を言おう
「真理は相対的ではない」
このような結論は多くの者にとってあまりに飛躍していると思われるだろう
その理由を訊かれるならば、わたしの答えは次のようなものになる
A「『真理』以外のいかなるものも『相対的でない』と考える理由が無いからである」
14 :
考える名無しさん:03/08/29 10:44
完全混沌状態を拒否するのは、メリットがないという極めて
具体的かつ経済的な動機から、なのである。
論理学っつなにげにもしろいなあ。
なにも産まないとしても、色んな言語が作り出されて組合せて科学ゲームみたい
>15
俺の専攻は論理学ではない
そう思ってるところがピカのミスだ
経済性。わしといっしや。
そして経済性の追究は生命欲求へ還元される
>真理の概念
さて、ここでわたしが「真理」と呼んだものはもはや実体はどうでもいい
相対的なものを排除した残りカスを便宜的に「真理」と呼んでいるだけである
さて、ここでわたしは多くの意見を吟味せねばならない
ある概念が相対的であるか否かについて
わたしが知る限りでは「確実性」そして「有用性」が哲学界で流行しているように思える
そして「確実性」が相対的かどうかを吟味することにしよう
邪魔してすみませんね。続きをどうぞ。
>17
理由をつけている時点で恣意的なんだよ
とりあえず黙ってろ議論は50レスを超えてから
なんで恣意的存在であることに気付かないかなあ。
人間主義の語ひゅうだよ
>なぜわたしがウィトゲンシュタインを問題とするのか
それはこの「確実性」の問題に非常に関わってくるからである
もし確実性が相対的でないならば真理は相対的である
もし確実性が相対的ならば真理が相対的であると考える理由は無い
(余談、どうでもいい話)
この確実性の問題についてはウィトの死が非常に惜しまれる
彼ほどの天才であるならば、この確実性の問題に結論を出すことができたであろう
そして自ら『論理哲学論考』を捨て去ったことだろう
しかし彼自身、死の間際まで研究に明け暮れたことは彼もまた偉大な学者の一人だったということである
この「確実性」の相対性が意味するところはこうである
何か確実なものがある→「確実性」は相対的ではない
何も確実なものがない→「確実性」は相対的でないと考える理由は無い
このような意見からは「確実性は相対的である」と考えるわたしは、ウィトととても近い答えを持っているようにも見えるだろう
しかし、それは大きく異なる
ここで重要なものは「確実なものが何か一つでもあるのか」という点である
もし確実なことが一つでもあるならばそれは「確実性の相対性」を覆すものとなる
すなわち「確実なものは何一つない」という言葉も確実であってはならないのである(「確実性の相対性」を主張するならば)
もしウィトが独我論から「何も確実に語ることができない」という結論を確実に語ることができたとしたら
それは「確実性」が一つの意味を生み出したという意味で「確実性の相対性」を覆すものとなる
わたしがウィトにおいて否定しているものはその発言の内容ではない
ウィトの方法論なのである
そしてウィトもまたその点に気づかず、不確実なものを確実と扱ったのである
だんだんはいつものパラノイヤチックになってきたな
ええと、前言をひるがえすようですが、完全混沌状態にも
メリットが考えうるかも知れないです。このことは、のちに
展開します。
>この問題が意味するところ
これは近代で言えばデカルトの問題と合致するだろう
デカルトは超越論的基礎付けで悪魔の存在を乗り切った
わたしはデカルトの出した結論は正しかったと考える
しかし、コギトもまた確実ではないのである(「われ思うゆえにわれあり、と思うゆえにわれあり・・・」という言葉)
デカルトは「明晰さ」などの言葉を使用したが、
当時において論理の研究が進んでいたならば、デカルトはこの問題にはっきりとケリをつけていたであろう
そしてそれはヒュームの問題の解決の糸口となったであろうに
確実性の問題を終えて、わたしの出した結論はこうである
「何も確実なものは無い、ゆえに、正しさだけはあるとわたしは考えざるをえない」
逆に言えば、「何か確実なものがあるのならば、わたしは『正しさはない』と考える」ということである
よくわかりません。
やや間延びしたが、わたしがウィトを問題視する意味を理解していただけたと思う
もしウィトが自らの哲学(明晰に語ること、→、確実に語ること)に成功しているならば
合理主義を含めてすべての学者は不毛という結論となるだろう
わたしの知る合理主義者のほとんどはウィトを相手にしないが(当然だろう)
わたしは、
>>2のような反省を含めて合理主義者はもっとウィトを相手にしてよいと考える
なお、合理主義者が確実に語ることに成功しないと考える理由は次のようなものである
もし何らかの確実な語りに成功したならば
独断 →「これは確実だ」と勝手に決め付ける
無限後退 →どこまでも理由が順次後退していく
循環 →ループさせたりトートロジーにすることで逃避する
これら3つのどれかになると考えるからである
>28
どこが分からないか指摘してくれたら説明する
よくわかりません
26,27で言われた、確実なものと正しさの関係が、です。
確実なものが何もないとどうして「正しさだけはある」という
結論になるのでしょうか?
楽しみなスレだけど、ピカを相手にするのは止めて欲しいなぁ。荒れるだけだから。 >兄ヤン
そろそろ落ちますので、回答は遅くなってもかまいません。
では、また。
さて、このような結論を得て、わたしは次のように言うことができるだろう
「確実性が相対的であるのだから、もはや確実性を求める必要が無い」
このような言葉はもちろん自然主義的誤謬を含む
しかし
>>5を思い出してほしい
存在言明は当為言明と関われるのである
何かを決めるにあたり理由を求める立場に立つならば、確実性を求める理由は何も無い
それは不毛であるのだから
確実性が相対的でないと考える理由はないにも関わらず、確実性を探し求める行為はわたしには受け入れられない
ここでわたしは、およそほとんどの人には受け入れられない結論を言おう
すなわち、すべての正当化を求める言明、もしくは正当化を前提とした言明は無意味なのである
(正確に言えばほとんど意味が無い、少しだけ意味がある、失敗しているということが判明するという意味で)
>32
>確実なものが何もないとどうして「正しさだけはある」という
>結論になるのでしょうか?
「正しさ」でなくともいいけど、「正しさを含んだ何らか」で相対的でないものがあるということ
別に何を挙げてもいいけど、多分、正しさ以外は全部相対的と言えるよ
ここで他のものを相手にしないのは、「確実性」さえ打倒すれば他のものはほとんど消えるからさ
つまりわたしは、「厳密さ」「確実さ」といった概念はまるで意味が無いものであり
そんなものを相手にしている奴らは水たまりで魚釣りをするような行為だと言ってるわけさ
そしてこれは、ウィトにおいても言える
ウィトが求めたものは「純粋な混じりっ気の一切ない対象の記述」だった
でも、このようなものを求めている時点で、その者は権威主義的思考に陥ってるのさ
権威主義を鼻で笑う連中はウィトを相手にしない
でも俺は「もしかしたらそのような権威があるかもしれない」と考えてウィトに付き合うわけさ
そしてウィトが失敗したのを確認して「やっぱ権威主義は成功しないんだな」と自分の立場を改めるのをやめるのさ
とりあえず、ここまでで第一段階は終了
お疲れです、兄。
ミュンヒハウゼンのトリレンマの話出してきて、
バートリーでも支持するつもり?
>40
あ、バレた?
つーかバートリーそのまんまだよ
>40
それと知ってるだろうけどトリレンマを提出したのはハンス・アルバートだよ
批判的理性論考はまだ手に入れてないけど
突っ込みどころまんさいだけどやめときます
兄、がんばれ
ちなみに、バートリーの意見は2ちゃんにはとても合ってると思う
それとバートリーの意見はあくまでほとんど意味が無いということを分かった上で押さえるといいと思う
俺がバートリーを出すのはピカが「議論できない」という発言をするからだよ
ある意味、兄って人が悪いなぁ
ぴかぁを、コテンコテンに議論でやりこめるか、しっぽを巻いて逃げ出すかの
二者選択に追い込むわけだから。完全決着を望んでるね。
見てる分にはおもしろいけど。
>45
一応、「議論できるかどうか」という議論で、ピカが「議論できない」という意見で勝つ可能性がある
あとはうまく理由をつけて議論を成立させないとかかな
俺だって毎日書き込めるわけじゃないからね、ずっと議論できるわけじゃない
ネズミをいたぶる猫のような・・
>47
「いえいえ、こっちがネズミですよ」と答えるのがバートリー的
たしかにトムとジェリー的関係だなあ
まあ、誰がどう見てもぴかぁに勝ち目はないんだから、
余り虐めないであげてよ。こないだなんか、ぴかぁの
取り乱しぶりは見てらんなかったよ。 >兄
>50
了解した
別にそれほどいじめてるつもりでもないんだけどね
バートリーで探したが、あまりサイトに載ってない。
>52
まぁ特に意味は無い
バートリーの意見は基本的に無意味、参考にすらならない
だから、「もっとも価値少なき主張」と言ったでしょ
バートリーの主張は、議論のアナーキズム
議論するのに特にルールはない
好き勝手に議論をふっかけろ
それだけ
バートリーの主張はアリ一匹殺せないんだよ
単純に、ウィトを裏返したと考えてもいい
沈黙するしかない→好きにしゃべれ
何回か読んだんだけど、
>>22から俺はついていけない。
ついでに言うと、本物のアナーキズムだから
「議論できない」という主張も、「議論はこうあるべきだ」という主張も自由に議論できる
しろうとのために長文書いたの嫉妬してるんだ。
では兄のためにも書いてあげよう
>56
なんで確実性が問題となるのかというと
確実なものが一つでもあると「確実なもの」と「不確実なもの」に線引きができるでよ
すると「不確実なものは語るべきではない」という意見が成立するでしょ
んで「不確実なものは語るべきではない」という意見と「不確実なものを語ってもよい」という意見の二つが成立するけど
これら二つはともに不確実だから、議論不可能になってしまう
>>59 ありがとう、しかし俺には理解力が及ばないようだ。
ちょっと反論とか組み立てて良い?
でも、バートリーの意見もまるで無意味なわけでもない
じゃあそれで議論がどれぐらい成立するかについて
俺は「なぜ人を殺してはいけないのか」スレとかで時々議論に参加して実験してみたりする
意外と失敗しないよ
62 :
考える名無しさん:03/08/29 12:43
83 :兄 :03/08/26 05:41
自由の本質は平等さ
平等の本質は自由だ
あーこういう文章ってウィトは相手にしないんだろうなー
昼飯の時刻だな、どっかに食いに言ったか?
自由と平等って普通は両立しないだろ
66 :
考える名無しさん:03/08/29 13:13
test
67 :
◎ ◆lk7eU.5KwI :03/08/29 13:15
言語伝達の確実性について
わたしが言語のルールで言ったことは以下のことである。
・言語というツールのルールよりコミュニケーションしたい欲求が先にある。
・このために言語における論理性は言語のある一面でしかない。
・言語は人の内的能力を開拓するのに役立った。
・このために言語とは矢をいることににている。矢は矢そのものを届けるだけでなく、相手のどこに当たり、どのように反応するかを期待して射られる。
書き込み禁止食らってた
69 :
考える名無しさん:03/08/29 13:16
良スレですね。
同時に帰ってきた。
>>60 いいよ、どうぞ、議論は自由に、反論も自由に、ってこった
>>62 面どいからスレでも検索して、連続投稿できん状況だ
それとあのスレで以前いた名無しのカントマニアは俺だ
>>64 書き込み禁止食らった
かちゅーしゃ落とすのに苦労した
すまん、今日はもう落ちるつもり
>>65 不平等な自由を君は「自由」と呼ぶかい?
不自由な(拘束されている)平等を君は「平等」と呼ぶかい?
ある特定の人だけの自由は他の人の不自由を示唆する
ある不自由はその不自由を与える者と受ける者の格差を示唆する
フランスでは「自由」と呼ぶ言葉をドイツでは「平等」と呼ぶ
みたいな格言があった
裏表の関係なのさ
>>67 そして、その期待が裏切られてはじめて効果をもつ
期待通りならば言葉をかける意味もない
72 :
◎ ◆lk7eU.5KwI :03/08/29 13:24
これらの事が示しているのは言語の主観性である。
欲求を満たすために期待する者同士の会話、期待は往々にして自己満足的であり、私と兄の会話はそのものに見える。
では確実性はどこに存在するのか
>兄
平等であれば自由ではなく、自由であれば平等ではないが、当たり前だろ?
前者は共産主義であり、後者は資本主義の理念だよ
ひとつ、書こうと思って書き忘れたことを追加
客観主義者にとって「真理がある」に対する批判として
「それがあるかないか不確実だ」という批判がある
この批判に客観主義者は馬鹿正直に答えすぎている
これは批判者が自らの論理を自覚していないのである
批判者は、[「それがあるかないか不確実だ」ゆえに「真理があると考える理由がない」]
と主張しているのではない
批判者は、[「それがあるかないか不確実だ」また、この言明は確実である、ゆえに、「真理があると考える理由がない」]と主張しているのである
論理的には、
[「『それがあるかないか不確実だ』また『確実な言明はある』、ゆえに、あるかないか不確実な真理をあると考える理由がない」]
と批判しているのである
客観主義者が馬鹿正直に批判に答えても批判者が納得しないのは
批判者自身が自らの批判の論理構成を理解していないのである
そしてこれを理解した上で回答をするならば、我々は真理があると考えるじゅうぶんな理由があるのである
前者と後者をアウフヘーベンしたのが、修正資本主義、21世紀に通用するであろう現代社会。
中国やアメリカは順調に頂点に近づいているが、日本は最近、片側にゆがみ始めている。
76 :
◎ ◆lk7eU.5KwI :03/08/29 13:33
そしてここに来て論理が登場する。より伝達の確実性を上げる試みが論理である。
矢をいるのでは無く、相手に期待せず、矢そのものを交換しあうことによる伝達行為である。
そしてこのような言語の限定された使用法は本当に確実性を産むのだろうか
>>73 資本主義と共産主義はそのような考え方ではないよ
「自由」と「平等」は裏表の関係
ちなみに俺は共産主義を強く非難するよ
それは、このバートリーの理論を使用することで強く非難できると考えている
つまり共産主義は正当化主義的なんだよ
資本主義は非正当化主義的なんだよ
だから共産主義は体制を変化できずにいずれ折れる
資本主義は状況に応じて可変的に対応できる
修正資本主義なんてだいぶ共産主義の影響があるだろ
対して修正共産主義は不可能なんだよ
共産主義の理念が修正不可能なもの(絶対的なもの)を目指して成立しているからなんだ
78 :
◎ ◆lk7eU.5KwI :03/08/29 13:37
これは可能である。なぜなら数学という言語伝達が実証しているというのが
論理学の初心信念であったわけだが、こぞんじのとおり見事に失敗したのである。
>77
裏腹の関係では無いでしょう
自由競争を放置してたら不平等社会が到来しますよ。
>76
>ピカ
だから君は盲信なのさ
確実さは決して累積しないよ
君も論理を信仰している
論理は信仰しちゃいけないのさ
論理は逆向きにかけるんだよ
論理的なものは無意味なんだよ
論理の形式に当てはめれば何か出るとか考えているならば、それは誤謬だ
論理は何も語らないということ、だから、論理そのものには意味はないんだよ
君は科学の実験をするときにビーカーをそんなに信頼するのかい?
違うだろ、自分の脳で考えるだろ?ビーカーはあくまで分かりやすくするための
道具なんだよ
論理も道具なんだよ
>80
こんな回答をすることになるとは思わなかったが
その自由競争は機会は平等ではないのですか?
>不平等な自由を君は「自由」と呼ぶかい?
つか自由とは不平等という概念を内包しているのだよ
どこまでも不平等に成長していこうという事ですよ、資本主義とは。
社会主義とはその不平等を是正しようという試みでしょう?
共産主義はその極端
84 :
◎ ◆lk7eU.5KwI :03/08/29 13:46
なぜ失敗したのか、それも早々に。
その後数学でさえ不完全であることがゲーテルにより証明されたということもあるが、
本質は言語から心的作用を排除し、論理のみを取り出すことができなかったということであろう。
それが期待であれ、満足であれ主観性無しに言語は存在しえないということである。
この兄の論はしろうとの論と対立するか否かが問題かもね。
>83
わたしは、資本主義や共産主義を目的論的に見ようとは思いません
わたしはマルクスの資本論を読んだことはありますが(1,2巻だけ)
共産主義はそのような平等への独断から生じたと考えることはできません
少なくともマルクスの道徳的怒りはわたしにはじゅうぶん共感できるものです
彼の共産主義の理論には大きい欠点があると考えますが
>85
多分、対立しないんじゃないかな
しろうとはあれで全然ウィト的じゃない
議論しながら、ちょっと悪いことしてるなという罪悪感があったよ
>84
ゲーデルを失敗と考えている時点でお前は論理を信仰しているんだよ
バートリーの立場だとゲーデルが成功になるんだよ
89 :
考える名無しさん:03/08/29 13:52
マルクスの共産主義哲学はユダヤ帝国を復活させるための方便だろう。
労働者を奴隷戦士に仕立て上げて
90 :
◎ ◆lk7eU.5KwI :03/08/29 13:53
だからといって論理学が死んだわけでわない。
なぜならそれでも論理は有効であるからだ。
言語伝達の確実性を上げる道具として。
しかしこれは哲学というより科学的な探求スタンスであり、言語の研究である。
>90
何度も言うが、論理は何も語ってない
また確実さは累積しない
ウィト『論理哲学論考』を読め
6、361ぐらいから蓋然性について論理的でないことを言ってるがあれは正しいぞ
お前にはヒュームの問題がまず必要だな
>>87 それは目的が同じだからだろうと思う。
言語分析という点から言って共通点が多い。
93 :
◎ ◆lk7eU.5KwI :03/08/29 14:00
それでも現在の論理学は混迷している。
他方で認知科学として論理でなく言語そのものの構造、コミュニケーションの構造が解明されつつなかで、
言語の限定された論理のみを、科学的スタンスで扱う論理学の存在意義は危うくなりつつある。
それは哲学全般の科学指向にもあてはまることではあるのだが
>>92 そうなのかな・・・・
別に俺は言語分析てわけでもないんだけどね
>298
大勢いるだろうけど、責任のある発言者はちと言いにくい
逆は言いやすい
不確実な言明でなければ責任は生じないだろうね
つまり不確実な言明をしない人間の発言は無責任てことだ
96 :
◎ ◆lk7eU.5KwI :03/08/29 14:09
では論理の確実性の話にもどろう。
ここでわたしと兄の議論を例にしてみよう。
二人とも言っていることある程度の論理性はあるとする、自然主義、人間主義の誤ひゅうはあるとしても。
何故話が噛み合わないのか。
>96
問題を共有してないからだろ
これぐらい、しろうとでも理解してたぞ
「でも」ってところは修正ね
彼は俺より頭がいいのに
つい尊大な態度をとっちゃった
いくつか気になる点があるんだが、
上手く反論としてまとまらない。
もう少し議論を見せてもらうとしましょう。
100 :
◎ ◆lk7eU.5KwI :03/08/29 14:23
これは共有認識の欠如であろう。単純には異なる言語で議論するものを想像すればよい。
ここで残る共有性は感情のようなもののみである。
しかし実は論理性の大きな問題が隠されている。
では異なる言語は論理的に翻訳されればいいのかということである。
>100
異なる言語の議論の論点となるのは論理でもルールでもない
「同じ」記号だよ >デリダ
103 :
◎ ◆lk7eU.5KwI :03/08/29 14:34
ここに言語が人の内面性の開拓を行うことが問題になるのである。
たとえば兄の内面は兄が獲得してきた言語により開拓させられたものであり、兄が発言する言語は兄の内面そのものを反映しているのである。
すなわち言語は論理という単独で存在するのではなく、兄の内面と切り離すことが困難なのであり、
私が兄の内面的偏向を理解せずには、より確実に兄の言語を理解しえないのである。
悪いな、もう落ちるね
翻訳の不確定性とかあったな
>ピカ
俺の主張をおぼえてる?
意味ある言明は、その言明と両立しない言明の指摘によって成立すると俺は言ったんだよ
>103
>より確実に兄の言語を理解しえないのである。
お前がやることはまず他人の文章を読むことだな
俺の意見がどれだけの異端さをもってるかお前はまだ理解してないだろ
何で今更、確実に理解しようとするかねぇ
105 :
◎ ◆lk7eU.5KwI :03/08/29 14:39
これはある種極論もいている。
たとえは兄が私に朝十時に駅前で待ち合わせといった場合、兄の内面性を考慮する必要があるだろうか
兄は時間にルーズでいつも三十分遅れてくることもあるが
>どれだけの異端さをもってるか
ここが俺には理解できないところが何とも悔しいね。
107 :
◎ ◆lk7eU.5KwI :03/08/29 14:52
ただ哲学的命題はある種信念であり、内的個性であり、思想なのであり、
言語は単なる論理的テキストの交換のみで成り立たせれのは困難なのである。
そして兄とわたしはお互いコミュニケーション欲の満足により会話をしているのであり、
二人の意見はなにであり、なにか議論することがあるのかという地点にも到達してないのである。
>106
「何も確実ではない」と言っている
そして「確実さを求めるべきではない」と言っている
確実さを捨てた哲学者は俺の知る限りとても少ない
bye
110 :
考える名無しさん:03/08/29 15:04
確実さを捨てた哲学者とは、芸術家である。
111 :
◎ ◆lk7eU.5KwI :03/08/29 15:10
ここからは単なる感想
わたしもある程度の期間、兄とコミュニケーションして来たわけだが、兄のいる矢はあまりに大きな期待を乗せ過ぎるきらいがある。
それは論理的であっても主観的なのである。
たとえばしろうと比較すると彼の場合、期待が小さい。より論理的であり客間的であるが、それはコミュニケーション欲が小さいとも取られる恐れがあるが。
では兄、この投稿を読み、論理的に客観的にわしと議論したい内容をのべよ
それとも自分の意見を、そして兄自身をわしに理解してほしいだけなのかね
最近わしはエリート官僚コースから落ちこぼれぎみで、暇が多くなってきた。
兄スレのために一肌脱いでもええで。
異端であることは百も承知であるか、ここでは異端でも世間ではわしの考えの方がふつうであることに
ここでのわしの存在意義はあり、良コテがわしと議論したがらい理由なんだね。
そこにあえて挑む兄の意図がわからん。
みんなのように自分の枠にこもり、わしがきたらわかってないなあという方が賢いわけだが
自分の枠だけだと退屈でそのうちここを卒業するこては別にして
官僚というのは因果な商売で、最初はわしも理想に燃えておった。
しかし気づかないうちにどんどん泥沼にはまり込んでいって、気づいた時には
わしは泥亀やんか(w
ところが2ちゃんねるにきて目が覚めた。
ここでなら理論のために死ねるってな。
まあ理論家の宿命みたいなのを感じたわけや。
116 :
考える名無しさん:03/08/29 16:01
2ちゃんねるに官僚が出入りしていたとは。。。汗
2ちゃんねるおそるべし。。。
>>110 言うと思ったよ
ただ逆なだけさ、正しさを捨てて確実さを追う哲学者は多いというのに
しかし確実さを捨てる彼らこそ科学主義者なのさ
>>111 一応、俺は客観主義に属するんだが
>>112 それじゃ、いくつかの議題の提出
哲学的問題
「確実な言明は存在するか」
「世界は完全な混沌か完全に決定しているかそれ以外か」
「未来の予測はどこまで可能なのか」
「一般常識が科学を正しいと考える根拠はどこにあるのか」
「自然主義的誤謬とはどこに問題があるのか」
「事実と価値の関係はどのようなものか」
ジョーク
「無限はあるのかないのか、あるとしたらどのようなものか」
「道徳的規則と道徳の関係について」
「招待講師を火かき棒で脅すことは道徳的規則の例に入るか」
その他
「人を殺してはいけないか、そうでないか」
「死刑の是非」
「資本主義と共産主義、どのような違いがあり、どちらの社会を求めるべきか」
「民主主義にはどのような論理が働いているか」
「理系の学問に対して文系の学問が非科学的と理解される原因はどこにあるか」
「この板にID表示を強制するべきか否か」
問題を提示できれば、どのような議論でもいいよ
118 :
考える名無しさん:03/08/29 16:06
ああ、俺はw大だけど敷居が高いスレだな(鬱
>114
自分とは違う意見の者と議論することが意味あることだからさ
俺は同性愛者ではないんでね
>118
敷居は高くない
好きなように疑問に思って好きなように批判してOK
敷居はないも同然だと思うのだが
121 :
考える名無しさん:03/08/29 16:12
代替わりしつつ分裂増殖するぴかぁ〜。
おまいらプラナリアか?
122 :
考える名無しさん:03/08/29 16:19
>>◎さん
「理論家の宿命」
国選で 弁護士などは いかがでしょうか?
司法の場に、◎さんの ような方が居られれば 理想的ですね
勿論 理想は あくまでも 理想ですが
貧乏人 の 力にはなれる と 思ったりなんか しちゃいます
実際 の あの場 の 現実は ハッキリ言いまして、知りませんが
もし それが 可能な事ならば 素晴らしいな と・・・
ついでに書いとこう
一般人が科学を正しいと考える根拠は
それが確実だからでも確からしいからでも有用だからでも権力をもっているからでもなく
間違っていると考えにくいからなんだよ(正しいと考えているから)
そしてこの板で理系がやってきて哲学を非難する理由は
理系の学問は「真理」を問題にしているにも関わらず、哲学では真理を問題にしないことが多いからだよ
かなり挑発的な文章を書いてしまったな
ちと次の書き込みに間があくね
3日後になるかな
124 :
考える名無しさん:03/08/29 16:31
このスレをHP化して保存し、自由公開してください。
>>118 早稲田の学生さんか、ってやぼな質問か。
大学は関係ない!
大事なのは哲学の心や。情熱や。
知識なんてなんぼのもんや!
>>122 やんやわしへのレスやったんかいな・・・
わしも官僚のはしくれで専門領域での法解釈を支配している身とはいえ、
弁護士はまた違うからな。
弁護士といえば、なんであいつらあんなにも金が好きなんやろ。
まあ、官僚もなんであんなに権力がすきなんじゃと突っ込まれる前に、
ちょっと落ちるわ。
なんや、わしがおらん間にえらいわしが増殖しとるがな
128 :
考える名無しさん:03/08/30 16:03
>>84 > 数学でさえ不完全であることがゲーテルにより証明された
全域にわたる無矛盾性が原理的には証明できない
ということを証明しただけ
実際に不完全であることを示したわけではない
>>128 そのとおり、論理にパラドクスがあることを示したわけではない
そして論理にパラドクスがあるならば、私は理性を捨てねばならない(それが理性的判断である)
ピカが論理が自身の無矛盾性を証明できなかったことを「不完全」と言うのは
ピカにとって「証明されること」が完全であり、「証明されないこと」が不完全であるということ
そして完全でなければまるで意味がないことだとピカが考えているということだ
さて、問題を整理したのちに、第二段階へと行こう
私はこのスレで50までに展開した形而上学、(特にこれは形而上学の中でもさらに形而上の部類に入るだろうが)
これにおいて「矛盾は偽である」というテーゼを提出した
第一テーゼ「矛盾は偽である」
そして第二テーゼにおいて、わたしはタルスキの対応説を吟味したい
お久しぶり、兄。
>対応説における真理
対応説とは「真理とは言明と対象との一致である」と表現できる真理観である
わたしはカントに多くの敬意を持つ人間の一人としてカントの対応説真理観を支持する者の一人である
しかし、わたしはこの対応説の言葉から多くの誤解が生まれたことを感じる
ウィトゲンシュタインなどは「対象との一致」を考え抜いた結果、あまりにも無意味な袋小路の思考に入り込んだようなものである
わたしはウィトの信念は評価する、もっとも彼の信念以外を評価できないということだが、
わたしは、彼はビーカーに移した対象のメモリとの一致に囚われて、ひたすらビーカーを眺める人物像というイメージしかない
それもすべてこの対応説真理観の表現が誤解を招く原因となったと考える
その原因の一つに「真理」という言葉があるだろう
わたしは「真理」という言葉を使用するのを好ましくは思わない
それは主観主義者、客観主義者、多くの立場をとる人間にとって多くの解釈を生み出してしまうだろう
それは議論を行うにあたり、障害の要因となりうる
わたしは「真理」について語る一番の方法は、「偽」について語ることだと考える
ゆえに、わたしは対応説真理観を次のように焼きなおす
第二テーゼ「対象と一致していないものは偽である」
補足テーゼ「真とは偽でないものである」
この問題は補足テーゼにおいて排中律を使用しているが、それについて次に触れることにしよう
>131
久々、意外とレスがついてなくてちょっぴりさみしい
議論できないと面白くない
まー俺もそんな暇ないしこれから忙しくなるから、丁度いいと言えば丁度いいが
>わたしは、彼はビーカーに移した対象のメモリとの一致に囚われて、
>ひたすらビーカーを眺める人物像というイメージしかない
後期の言語ゲームの事ですかな?
>>134 いや、前期ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』で行おうとした行為
基本的に、俺はウィトはその内容に問わず、前期の方法が何の成功もしてないという立場になる
注:成功とは、「語れる」「語れない」ではなく、そのような解答を出すことにも失敗しているということ
ウィト自身が自分で「(自分の業績に)意味がある」と説明しているが、それすら成功していないと俺は言ってることになる
>前期の方法が何の成功もしてないという立場になる
俺全然知らんのだけど、
前期は本人が失敗を認めている本だったよね。
このスタンスに対する自分の立場は明瞭です
ウィトが何か意味あることを語ってるならば、ウィトは明晰ではない語りをしており
ウィトが明晰な語りをしているならば、ウィトは意味あることを語ることはできない
というもの
ウィトの態度を論理学的表現に翻訳すると
ウィトは
「論理が間違っているならば、それは論理で表現できない(語れない)ー@
ゆえに論理が正しい理由は明晰に語ることができないーA
ゆえに、論理が正しいことは明晰だーB」
と言っているようなもの
この態度で直観主義を保持し、形式主義をしないのだから、わたしにはウィトは独断以外のなにものとも映らない
(なお、わたしがここで批判しているのはBである)
なるほどねぇー。
>兄
お久しぶりです。
>>136 多分、その失敗の認め方とも違う失敗という捉え方だと思うよ
後期を批判する前に前期を批判する意味はあるでしょ
それと、ウィトは死ぬ直前に喉頭ガンを患いながらある研究をしていた
その研究に答えを出せてればウィトは前期も後期も捨てたんじゃないかな
これは俺がそう勝手に思っていることだけどね
あれ?兄と弟は別人だったのか。
>138
お久しー
どうもこの手の話題は好かれないみたいだね
>140
ちゃうよ!
別にどうでもいいよ
コテなんて好きにつけたらいい
>「論理が間違っているならば、それは論理で表現できない(語れない)ー@
>ゆえに論理が正しい理由は明晰に語ることができないーA
>ゆえに、論理が正しいことは明晰だーB」
ふーん、はじめて分かった気がしてきた。
>それと、ウィトは死ぬ直前に喉頭ガンを患いながらある研究をしていた
>その研究に答えを出せてればウィトは前期も後期も捨てたんじゃないかな
>これは俺がそう勝手に思っていることだけどね
確実性の問題か何かですか?
あと、俺はウィトに対してとても批判的だけど
俺の目的は「同じルールを共有していないと議論できない」という神話を否定するところにある
俺はこの神話を「ウィト神話」と名づけることにしよう
>あと、俺はウィトに対してとても批判的だけど
>俺の目的は「同じルールを共有していないと議論できない」という神話を否定するところにある
>俺はこの神話を「ウィト神話」と名づけることにしよう
この場合のルールって何?
>>143 >確実性の問題か何かですか?
そう「確実性の問題」
ウィトは「ここに二本の手があることをわたしは知っているか」と名づけたけど
この問題に答えを出したら、ウィトは自分の立場を捨てたんじゃないかと思うのよ
勝手にだけれども
>>145 ウィト研究者は「論理」という表現をしているけど
俺はそれを「論理」と呼ぶことはできない
「同じ公理系」という表現をすると理解しやすいかな?
>>146 いちご姫とかは詳しいんだろうな、そういうのは読み込んでそうな予感。
>「ここに二本の手があることをわたしは知っているか」
これはこの二本の手がある事がどれ程確実かという事なんでしょうか?
>>148 >これはこの二本の手がある事がどれ程確実かという事なんでしょうか?
俺がまるで理解できないことは、「確実さ」に度合いがあるという考え方だよ
AならばB
BならばC
CならばD
・・・
YならばZとは限らない
と
AならばZとは限らない
にどう違いがあるのか分からない
違う公理系を選択するなら、推論規則なんかも違って来ないの?
そしたら議論は成立するんでしょうか?
素人考えでスマンのですが。
>>150 推論に規則はない
あるとしたら、それはその公理系をもつ団体が勝手に決めたものだ
>「確実さ」に度合いがあるという考え方だよ
面白いな、これが論考も言語ゲームも捨てられる程の問題だったのか。
>>151 なるほど。。。
そこまでラディカルに。
>>152 >面白いな、これが論考も言語ゲームも捨てられる程の問題だったのか。
そうだよ、だって何も確実ではないんだから
すべては不確実なんだよ
だいたい、俺はこのスレで「確実さの相対性」を主張している
確実さの度合い、というものは個々人が勝手にそう思う概念で、理由付けとして信頼に値するものではない
>>153 自分がラディカルとも思わんけどね
でも論理を学んだ者ならば当然の意見だと思うよ
>>154 そういう事ならば、真理の復権というのは
確実さの相対性と対峙するものになりませんか?
「確からしい」なんて言葉はインチキ哲学者が使う「真理」という言葉よりもひどいよ
そんな言葉を振り回して安心していられる精神が分からん
そんならまだ「真理がある」と言ったほうが幾分かマシだ
>>156 >そういう事ならば、真理の復権というのは
>確実さの相対性と対峙するものになりませんか?
うん?どういうこと?
だから俺は、「確実さが相対的でないならば、真理はない」と主張しているのだが・・・
>「確実さが相対的でないならば、真理はない」
難しいな、もう少し詳細に言ってみると、
つまり確実さが相対的で無いならば、
独断的になり、真理ではない事と同義だという事ですか?
ま、この手の問題はだ
「なぜ君はエッフェル塔から飛び降りないのか?」という質問が必ずくる
俺は自分が答える前に質問したいのだ
「なぜおまえは、エッフェル塔から飛び降りたら死ぬのが確実ではないと、エッフェル塔から飛び降りてしまうのだ?」
そうすると、対話や議論の成立基盤はどこにあると考えるんですか?
>>159 いんや、それは難しく考えすぎ
俺はまず理由を多くつける気はない
徹底的な相対主義者になることにする
でも徹底的な相対主義者は受け入れられない
だから何かは相対的でない
もし、確実性が相対的でないならば、それ以外が相対的でないと考える必要はない
ゆえに、確実性が相対的でないならば、「真理」は相対的ではないと考える必要はない
>>161 二通りの答え方が生じる
第一段階、つまりバートリー的な形而上学的段階に立つならば、
a論理の使用(意味的矛盾を許容しない)
だけが唯一の規範だろうねぇ
>もし、確実性が相対的でないならば、それ以外が相対的でないと考える必要はない
>ゆえに、確実性が相対的でないならば、「真理」は相対的ではないと考える必要はない
確実性と真理は区別されていますね、
確実性が主観によるものとすると、この区別は理解できるんですが。
>>164 >確実性と真理は区別されていますね、
>確実性が主観によるものとすると、この区別は理解できるんですが。
確実性は主観によるものでしょ
客観的確実さなんてないし
別に「確実さ」という言葉を「真理」という表現にしてもさほど変わらんと思うよ
どっちにしろ累積しないから
(ちなみに俺は「真理」という名は便宜的に与えているに過ぎない)
「確実性が相対的でないならば、
「真理」は相対的ではないと考える必要「すら」はない」
という事なんでしょうか?
>>166 >「確実性が相対的でないならば、
>「真理」は相対的ではないと考える必要「すら」はない」
>という事なんでしょうか?
ようわからん
「必要がない」ではなぜダメなの?
俺は出発点として「真理はない」と考える相対主義から出発しただけだよ
>>167 すいません、忘れて下さい。
ただの勘違いだったのかもしれません。
エッフェル塔から飛び降りても死ぬことがなく怪我もしないと経験的に
知れば、みんなエッフェル塔から飛び降りて遊ぶよ。
>>168 まー好きにやればいいさ
ちと俺の尊敬する哲学者から引用していいかな?
つまり俺が言いたいことは次のようなこと
でも、この人の文章は詩的だから論理的に翻訳しようとしているだけ
>多くの権威主義的な問いがそうであるように、知識の源泉についての問いは由来の問いでもあります。
>この問いは、知識はその血統によって正当化されうると信じているために、知識の起源を問うのです。
>このような問いの根底にある(時として無意識の)形而上学的な理念は、
>人種的に純粋な知識、混ぜものの一切ない知識という理念です。
>つまり最高の権威、望むらくは神自身に由来し、そのために固有の高貴な権威をそなえている知識という理念です。
>(中略)
>そのような純粋で混ぜもののない、誤ることのない源泉など存在しないし、
>起源と純粋さへの問いを妥当性と真理への問いと混同してはならないと確信するからです。
>>169 そうだな、何か知ってるやつは好きにそうしてくれ
できれば扇動しないでくれるとありがたいがな
起源と純粋さへの問いを
妥当性と真理への問いと混同してはならない
エッフェル塔から飛び降りろ!
>>173 この手の意見は死ぬほどきいたよ
なんで俺はエッフェル塔から飛び降りなくちゃいけないんだよ
俺は「エッフェル塔から飛び降りても死なない」と考えなくちゃいけないのか?
違うだろ
確実性は排中律を必要としないだろ
排中律を使用したいなら「真理」と呼べばいい
エッフェル塔から飛び降りろ=死ね
ということでしょ
・ある理論の「正しさ」「確からしさ」「有用性」(面倒なのでそれらをひっくるめて「良さ」と表現する)は累積するか
たとえば、この板に現れる科学信者でも「科学は再現性がある」という主張をする
「再現性があることは理論の良さを少しでも増大するか」
わたしはないと考える
例えば、自然発生説の実験は実に多くの回数を重ねたものだ
何度も何度も同じ実験を行った
それがたった一回のコルクで栓をした実験に勝ると考えるのはわたしには受け入れることができない
そしてここに科学の言う「再現性」は厳密には「再現性」とは異なるものであることが分かる
科学は「再現性」が高いことがその良さを示しているのではない
同じ実験の再現には何の意味もない
多種多様な実験を行っていることが再現性の条件である
つまり科学の言う「再現性」とは多種多様な状況における再現性である
これはどのような意味をもつのか
>>175 俺はそう考えるね、
でもみながそう考えねばならない理由はない
難しいなー、俺にはついて行けない。
ぴかぁ〜との議論で俺は兄が、
・議論の重要性
・アナーキズムによる議論の公平
を主張していると思ったが、今はよく分からない。
だいたい、この手の話はウィトも論理哲学論考で触れている
6・36311
あすも太陽はのぼるであろう、
ということは、一つの仮説である。
すなわち、太陽がのぼるかどうかということを、私たちは知っているとは言えない。
6・37
何か別なことが生起したからというので、もう一つのことが生起しなくてはならない、というような強制はありえない。
あるものは論理学的な必然性のみ。
6・371
すべての現代世界観の底には、いわゆる自然法則が自然現象を説明している、という錯覚がひそむ。
>何か別なことが生起したからというので、もう一つのことが生起しなくてはならない、というような強制はありえない。
>あるものは論理学的な必然性のみ。
ここが自然科学と区別される論理学の役割という事ですか。
>太陽がのぼるかどうかということを、私たちは知っているとは言えない
どう考えても知ってるだろ
>>178 >・議論の重要性
>・アナーキズムによる議論の公平
まぁ両方合ってると言えば合ってる(俺の主張)
でも上は下の論の上に成立している
アナーキズムだから「議論できない」「俺はえらい、おまえは馬鹿」という意見も言っていい
そして「俺とお前は議論できない」「同じルールを共有しないと議論できない」とも言っていい
でも俺がそれに従う理由はない
俺は「同じルールを共有しなくとも議論できる」と主張して
「議論できるかどうか」について議論しようとすることができる
議論主義は「同じ思想同士の間でのみ議論するのは良くない、違う思想同士で議論しよう」というもの
でも議論主義の欠点は議論主義の内部においてのみ議論したことなんだ
そこで、「議論主義そのものを議論にかけることができないか」という発想から生まれたのがバートリー
一見アナーキズム的だけど、主張そのものは決してアナーキズムではない
だってアナーキズム(無政府主義)なら「政府を立てよう、アナーキズムをやめよう」と言ったっていいんだから
>>180 わたしは、自然科学においても同じだと考えています
それはわたしの解釈に過ぎませんが、
その解釈が通る限り、自然科学のみを特別扱いする必要をわたしは感じません
>>181 そうだな、知っている
それは確実ではないが、知っている
で?
>「議論主義そのものを議論にかけることができないか」という発想から生まれたのがバートリー
分かったような気がします。ただ、この議論は凄く込み入っていますね。
ある結論が成立するには反対の結論も必要で、必ずその結論をくつがえす余地が
存在する、そしてこの余地に突っ込んで議論をアナーキズムに誘うのが、
今回のぴかぁ〜斬りの手法と考えていいんでしょうか?
187 :
考える名無しさん:03/09/01 12:28
>>184
俺は確実なものとして知ってるよん
>>185 >>184の続き?
ならば「確実さ」に変わる概念が必要だ
「正しさ」でいいだろ
「エッフェル塔から飛び降りたら死ぬ」は確実ではないが正しい
その理由はなぜか?
「エッフェル塔から飛び降りても死なない」もまた確実ではないが、
ある人がエッフェル塔から飛び降りて死んだならば(「死なない」ではない)、
その事実は「エッフェル塔から飛び降りても死なない」という言明と矛盾する
ゆえに、矛盾を回避するために何らかの理由を導入せねばならない
「その時間のみ」「その人のみ」「風向き」「地面の度合い」・・・
それらの理由でわたしが満足に思える理由がないことが(条件を変えても死んでいるならば)、
わたしが「エッフェル塔から飛び降りても死なない」という言明が間違っていると考える理由である
そしてこれが、科学における多種多様な再現性が意味するものだとわたしは考える
>それらの理由でわたしが満足に思える理由がないことが(条件を変えても死んでいるならば)、
>わたしが「エッフェル塔から飛び降りても死なない」という言明が間違っていると考える理由である
間違って理解しているかもしれないが、この辺りが面白い。
>>186 ピカ斬りのポイントは
ピカの意見は「お前の意見は独断だ、俺の意見も独断だ、ゆえに議論できない」(意見P)という意見になるはず
これが「独断でない領域」を設定していて、なおかつ、その意見Pは独断でない領域から語られていなければならない
これが可能なのかどうか、ということが
「独断的でない領域の設定が独断ではないのか」という問い
これは俺がこのスレの
>>8に関ってくるんだけど
理性的な判断自体が理性の独断(論理が無矛盾であることを正当化できない)
つまり「何らかの正当化はできない」(意見N)
ただし意見Nも正当化できない
この立場に立つことで、俺自身が意見Nを保持することができる
この意見Nを否定するには
証明方法
「論理が無矛盾であることを証明する」
「論理にパラドクスがあることを証明する」
議論
「論理を使用した議論において議論を放棄するように説得される」
「論理を使用した議論において運命論が正しいと説得される」
こんなとこかな、ちと本の力を借りた、他にも例はあるけどとりあえずこんなもん
>>189 平易な表現にすると、どの事例でも死んでいるというだけだけどね
専門知識を使った議論は難しいな。
俺はなんとなくでしか理解してないよ。
193 :
考える名無しさん:03/09/01 12:50
>>188 >確実ではないが正しいその理由
の説明になってないよ。
>という言明が間違っている。
ゆえに
>「エッフェル塔から飛び降りたら死ぬ」は確実ではないが正しい
てどゆこと?
エッフェル塔から塔をだんだん低くして最後には自分ん家の小屋まで
高さを低くした時、「正さ」の変わり目はあんた言えるの?
まー「正しい」という言葉には一種の魔力があるわけさ
だからこのような言葉はできるだけやめた方がいい
「間違ってる」という言葉にはそのような魔力は少ない
(厳密に考えると、真偽は相対的だからそうでもないんだけどね)
だから「間違ってる」を考えた方が議論しやすい、というだけ
ちなみに俺は条件において「エッフェル塔から飛び降りても死なない」を保持しなかったけど
別に矛盾をきっちり回避していれば保持してもいいんだよ
その上で飛び降りてもいい
意見を統一する必要はない
>>193 そりゃ、どうしようもない意見だな
君は正しいね、だからどっか行け
>>192 難しいのは言葉だけの問題でもないと思う
ウィトが「語りえない」言った領域にも口を出しているから、理解は難しい
俺自身も理解にかなりてこずった
記号などを使って整理すると分かりやすい(隠喩を用いずに理解するのは難しいと思われ)
ちなみに主張自体はほとんど意味がないし、すべての意見を殺せない(何も間違ってはいない)となるから
下手に語ると白い目で見られる
>エッフェル塔から塔をだんだん低くして最後には自分ん家の小屋まで
>高さを低くした時、「正さ」の変わり目はあんた言えるの?
これも面白い問題なのでは?
>>197 もうちょっと問題をきっちりしないとね
現実にやると科学の領域になると思うけど・・
体重別で高さと致死率のグラフをつくることになるだろうけど、俺はそんな面倒なことはしたくない
それ以前に、自然法則が主観と独立して存在すると考えているのが何とも
自然法則は人間が自然に押し付けるものだよ
だから「真理」も人間が世界に押し付けているのさ
?
だからさー、例えば2階建ての建物から飛び降りて、死んだやつもいれば
死なないやつもいる場合、それは矛盾かよw
>>199 「二階建ての建物から飛び降りたら死ぬ」という言明は
「二階建ての建物から飛び降りたある人は死んだ」という言明と矛盾するでしょ
>>200 間違えた
「二階建ての建物から飛び降りたある人は死んだ」という言明と矛盾するでしょ
↓
「二階建ての建物から飛び降りたある人は死ななかった」という言明と矛盾するでしょ
兄と俺の理解というのは、
かなり違うものなんだろうな。
普遍言明が特殊言明を含まないのは論理的ではない
俺は最低限の論理を使用しているだけだが・・・
>>202 かもしれん
だが重要なことは理解の一致ではないし、答えの一致ではない
問題の一致だ
同じ問題を共有し、議論することさ
理解を促進させる一番の手段は議論だ、それが俺の持論さ
要は事実としては確実でないが、
論理としては正しいという事ですか。
>だが重要なことは理解の一致ではないし、答えの一致ではない
>問題の一致だ
なんとなくいい格言だ。
207 :
考える名無しさん:03/09/01 13:12
論理は事実を含まない。
「すべての人は死ぬ」(普遍言明)→ならば(含む)→「ある人は死ぬ」(特殊言明)
「ある人は死なない」と「すべての人は死ぬ」は矛盾するでしょ
>>200 それなら「正さ」の基準は?
どういう場合1さんは「間違っている」「正しい」と言えるのか?
>エッフェル塔から塔をだんだん低くして最後には自分ん家の小屋まで
>高さを低くした時、「正さ」の変わり目はあんた言えるの?
を含めて回答をば
あと
「二階建ての建物から飛び降りたら死ぬ」という言明は「正しい」のか
「間違っている」のか?
>>207 ほいよ
A⊃B、ならば、A∧¬B=F、でしょ
記号は変換がウザいからこれっきりにしてよ
212 :
考える名無しさん:03/09/01 13:19
>>210 原則的に正しいが、
例外的に間違っている。
213 :
考える名無しさん:03/09/01 13:21
>>211 要するに論理を信用しているんですね。
公理は絶えず更新されていくというのに。
>>209 >それなら「正さ」の基準は?
解答は二種
論理的にはない、個々人の好き勝手にやればよい
俺個人は対応説真理観を提出する、つまり「対象と一致していないものは偽」
理由は「悪魔が騙している」と俺は信じることはできないから
なお、どちらも一致しているならば
その判断基準は信仰に一番遠いものになる
具体的には
a問題解決の度合い
b問題を移行させてない
c有効性に欠けない
d優越性を示す
e単純である
f芳醇である
g粗末でない
など
俺が一番大事にするのはg
>>213 俺の提出した論理が間違っているならば、俺は修道院に入るよ
俺の提出した論理を具体的に表現しようか
俺の身体における足は全て俺の足だ
もし俺の足でないならば、それは俺の身体ではない
これだけだよ
ごめん、俺の提出した論理式は間違ってるや
ちと面倒だから勘弁
>>214 「二階建ての建物から飛び降りたら死ぬ」という言明は「正しい」のか
「間違っている」のか?
>>218 どっちでもいいよ
結論よりは中身がほしい
ちなみに、中身とは両立不可能な言明の指摘になる
ある言明が正しいかどうかを吟味するときには、それと両立不可能な言明が何かを思考する必要がある
で、どのような言明が両立不可能なの?
蛇足だが、俺が説を展開するとたぶん兄はブチ切れると予想する。
だいたい、そんな粗末な言明をもってくるのをやめて
「自分で自分のひげをそることができない村の、ひげをそることができる髭剃り士は、自分のひげをそることができるかできないか」
この質問の方がずっとセンスがあると思うのだが
223 :
安心しろ!!:03/09/01 13:39
>哲学板もレベルが下がりましたね。私は悲しい。
けっこう前から馬鹿ばっかだろ。
昔はレベル高かったというヤシがいるけど、こういう昔から居続ける
ヤシは全然進歩しないまま今も2ちゃんねるに居座っているわけだ。
こういうヤシがここを抜き差しならないハクチ板にしているのだろう。
しかしここでひとつの可能性が示される。
匿名掲示板だから個人の成長は全く問題にならない。
それは「2ちゃんねるに居る限り、一生お前はハクチのままでいいん
だよ。」というハクチの解放的意義を示している。
2ちゃんねらーは発達神話への否定を身をもって生きているのである。
>>221 かもしれんね、でも今よりはブチ切れんよ
俺は怒っても議論を放棄しないつもりだ
言いたかったら言えばいいし、そうでないなら言わなくてもいい
自説を展開しなくても批判自体には意味があるよ、
ただし、それが正当化の領域から語られていないならばね
>>222 自己言及のパラドクス?
>>224 そうだなあ、俺が言うとたぶん論理の話題からズレるな。
226 :
考える名無しさん:03/09/01 13:47
明日太陽が昇ることを誰も知り得ない。
ただ、それが妥当であるというだけだ。
何もかも妥当でしかないのである。
「妥当」こそ正しい。
227 :
考える名無しさん:03/09/01 13:48
>>225 >自己言及のパラドクス?
そう、批判するにしてもこれぐらいのセンスは欲しいんだよ
俺は議論は基本的にショーだと思ってるからさ
情けない姿をさらすのはね女の前だけにしたい
>そうだなあ、俺が言うとたぶん論理の話題からズレるな。
別にかまわんよ
俺が論理の話題にしているのは、それが分かりやすいと考えているから
別に俺はどのような議題でも議論は可能だと考えているし
「なぜ人をころしてはならないのか」スレとかで書き込んだりもする
議論では論理を使用することは必要だけど論理に縛られる必要もない
ただ自分の言明が何と両立不可能かを指摘するだけで事足りる
フッサールスレからの引用ですが、どう思われますか?
論証的 diskursiv というのはカント哲学の用語の一つです。
それだからこのことを念頭に置いて、先験的なものと経験的なものとの
感染を認めないカントの立場を想定していると思ったのです。
フッサールの「可逆性」の概念はここに密接に絡んで来ますから。
それに、貴方は「論証」という意味を単に「論理学の諸法則に矛盾しない
議論」と捉えているようですが、貴方は哲学の命題が論理学に規制される
という前提を何の疑いもなく行使していますよね。現象学者はそんな
自然的態度の思考には逆に慣れていないんです。それでなんでこの
文脈でいきなり「論証」などという言葉が現れるだろう、
理念的対象の超越論的構成が問題になっている時に、論理学の法則なんて
問題外に決まってるじゃないか、と思ったわけです。
おもしろい意見だね >229
>>229 その言葉を使用した人間は論理に対して間違ったイメージを持っている
論理をルールか何か
Aを導入したらBが出てくるようなブラックボックスか何かと思っているのだろう
それは違う
論理てのは「表には裏がある」「全体には部分がある」こういった程度のものだ
だから論理の諸法則に規制されないということは
「表には裏がない」「全体には部分がない」と言うに等しい
もちろん、それが間違ってない可能性はある
わたしが独断的に矛盾は間違っていると考えており、わたしが独断的に論理は無矛盾だと考えているだけである
しかし、論理を使用せずして議論が可能とはわたしには思えない
その言葉を語った者はその言葉を使用することにおいて何を言いたかったのだろうか
>226の言う通りだ。
真理を見出すとき、われわれは証明をしなければならない。
(証明をしなければ、誰もそれを真理だとわかってくれない)
また、証明できたことを証明しなければならない。
なぜなら、証明できたかどうか、誰にもわからないのであり、
証明できたことを証明してこそ、証明できたことになるのである。
しかし、「証明できたことを証明できた」ことを証明しなければならない
このようにして、結局無限に続くのであり、
証明できたことを証明するのは不可能で、
最終的に、証明自体が意味をなさない(証明できたか誰もわからないのだから)
ことになる。
以上をもって、不可知論こそ妥当なのであり、
明日太陽がのぼることは真理ではなく、経験からくる妥当性なのである
しかし、哲学版って、くだらんスレッドがおおいな・・
>>229 肯定的に解釈するならば
その批判の矛先の相手が、論理を理解もせずに、
「論証」「論証」とか「論理」とか言ったんじゃないの?
これは研究者(○○○太郎=女?)が言ってる事なんだけど、
こんな事を言っておいて何故クワインに移行したのかが、
よく分からない。単純に言説だけ見れば前者から後者への
移行はありないのだけど。
>>232 君のレスの9割は正しいことを認めよう
しかし一箇所だけに批判を述べる
>明日太陽がのぼることは真理ではなく、経験からくる妥当性なのである
それは経験からくる妥当性ではない
それは「経験に反するものは間違っている」と考える理性からくる妥当性なのである
つまり人間理性、わたしの脳に由来する
>>234 分かりませんね・・・
ちなみにクワインは意見の手厳しさから誤解されがちだけど、
言ってる内容は俺や
>>232にかなり近い
>>237 まず最初に言うと、
俺はフッサールの現象学にはかなり批判的、多分激しく攻撃すると思う
その最初の50レスがどのような意図で言ったかだね
研究者の言うように、50のレスを肯定的にも否定的にも解釈できる
1証明できていないものは意味がない
2論証を怠った独断、そんなんで思考を止めてタコツボに入ってていいんか
という二通りの解釈が可能だよね
だから研究者は「論証」という言葉に質問したんだと思う
どっちの解釈なのかを訊ねたかったのではないかと思われ
で解釈1なら、そもそも何も証明できないのに、その証明することを押し付ける時点で独断的
解釈2なら、とても鋭い指摘だけど、それを伝えるのにちと失敗したということかな
続く
でも68で
>カント流の超越論的な議論だろうが、論理的に誤謬の無い議論だろうが、
>説得力のある回答が期待されているのは明らかだろう。
>こんな返答ばかりしてるから、哲学を学んでいるものに対する偏見が生み出されるのではないだろうか。
という言葉を見ると、おそらくは解釈2の方が妥当だろう
つまり「フッサールは適当に言葉を濁して思考することをやめてごまかしているだけ」という批判
この批判も的を射ているし
研究者の80、81の態度は俺からするととても問題となる
自分の研究のためにタコツボに入るというのは議論をしないということだからね
彼がそのような態度をとったことで俺はフッサールへの敬意が少し減少したよ
240 :
考える名無しさん:03/09/01 14:32
兄の言うことはすべて正しい
>まず最初に言うと、
>俺はフッサールの現象学にはかなり批判的、多分激しく攻撃すると思う
やっぱりそうか、その傾向が一般的にあるね。
ちなみに俺は、このフッサールの研究にはまるで興味をもてない
「対象があるかないか」を思考することにはまるで意味がないと考えるから
フッサールの現象学には次のような批判をする
科学では「エネルギー保存の法則」がある
だから仮に対象が千差万別に変化するならば、それは科学理論とは反するだろう
また、フッサールの理論もまた確実ではない
その二点さえ合致するなら、俺とフッサールは多分もう問題を共有しない
>>241 俺に?
うん、あるよ
でも、そこにはほんの少し意義がある
なぜならば、もし確実な言明があるならば俺は自分の理論を捨てなきゃならないから
俺がフッサールを批判するのはフッサールが正しいかもしれないからさ
>彼がそのような態度をとったことで俺はフッサールへの敬意が少し減少したよ
うーん、ここはたぶんあいつの嫌味な性格も入っているから
フッサール単独の評価としてはまた別のものになるのではないでしょうか。
それから記憶違いでなければ、ウィト→現象学→クワインと移行した筈ですし。
>>244 >うーん、ここはたぶんあいつの嫌味な性格も入っているから
>フッサール単独の評価としてはまた別のものになるのではないでしょうか。
もちろん分かってるさ
ただ、そのような権威主義的な傾向は哲学にとって毒だと思うんだよね
それこそ「無意味」という言葉をかけられて排斥を受ける要因となるんじゃないかな
俺は哲学が好きだからそうなってほしくない
>>243 いや、兄だけというのではなくて
学問的な分野みたいなものの相性みたいなものがあるかなと。
独我論が問題なのかな、
一応現象学にもそれらを間主観的に考える
という視点もないではないのですが。
>>246 うーん、まぁ仕方ないとは思うけど
論争は哲学にとってとても意味があることだからね
論争は解釈を変えたら理論の競争さ
血なまぐさい生き残りの戦争、か
自らを切磋琢磨するオリンピック、か
俺は後者に解釈しているだけだね
その方が近代的だしね
俺は、議論を阻害するものは理論そのものではなく権威主義的な態度だと考える
そしてそのような権威主義が理論と合体すると「正当化主義」という一つの思考方法ができてしまうんだろうね
だから権威主義的な態度さえなければ議論はできると思うんだよね
俺自身そうあろうとしているつもりだし
>>247 別に独我論自体は問題ないと思うよ
問題は独我論が「自分が存在するということだけは確実だ」という思考をしているとどうしようもないということだね
「確実さ」てのは実は権威主義的要素をつくる
独我論は「わたしはわたしの意識の外に誰もいないと考える(誰かいると考えるのは間違っている)」という程度だからね
その理論自体は決して議論不可能なものとは考えない
もちろん、こちらも超越論的批判をするべきではないね
「お前はなんで俺と議論してるんだ?矛盾しているぞ」と言うべきではない
それは非論理的な批判だし、せっかくの議論の目をつぶすからやめた方がいい
バートリーの理論は
すべての理論には「正しい可能性」がある、というものなんだ
ちなみに「正しい可能性」=「間違っている可能性」となる
(「それは正しいかもしれないが間違っているということはない」という文章は不可能)
つまり「すべての理論は間違っている可能性がある」という意見になる
もちろん、この「すべて」にはこのバートリーの理論自身も含まれる
>>248 >だから権威主義的な態度さえなければ議論はできると思うんだよね
なるほど、たしかにこの点に関しては
さっきのスレでも以下のように批判されています。
>>翻訳でパラパラと眼を通す程度では絶対に理解できない次元があります。
>とか
>>草稿群の分量が普通でなく、これらの執拗な分析を手掛かりにしない限り
>>は、基本的理解さえ覚束ない
>とか
>>私の言葉遣いが奇異に聞こえるのならば、それは貴方が、晩年の
>>未公刊の草稿群に微塵も眼を通していないことに基づくのだと思われます。
>と、ハッタリをかまして、権威づける。それしか能がないからだ。
>あるいは現象学のエッセンスを1が掴んでないからだ。
>>251 まぁ議論不可能なものはない
「議論不可能」という言葉を言うやつは勝手に線引きをしているに過ぎん
もちろん俺も勝手に線引きをしている
じゃあ「議論可能か不可能か」について議論をしよう
バートリーはこの程度
もちろん、現実世界において議論を強制する必要はない
俺だってあまりにもひどいと思うと逃げるよ
このスレだって時々相手にしていない時があるのは見てのとおり
でもそれは俺自身がそうしているだけで理論上の問題ではない
そう考えている
あとは、逃げる時の一言はスマートに言うべきだね
恨みをこめたり馬鹿にしたりしちゃいけない
ショーだからね、舞台から降りるときほどかっこよく振舞いたいもんだ
これは個人的なことに過ぎんが
>その理論自体は決して議論不可能なものとは考えない
独我論という議論で論じる事も可能という事ですか。
>もちろん、この「すべて」にはこのバートリーの理論自身も含まれる
これはなかなか面白いですね。
何というか今日は内容が濃かった気がする。
>>254 >独我論という議論で論じる事も可能という事ですか。
うん、もちろん
なぜならば超越論的基礎付けは論理的ではないから
彼は「わたしが独我論を信じているからわたしは議論できない」と言うかもしれない
でもその論理は「超越論的基礎付け」と言って非論理的なんだ
だから議論できる
でもそのようなことも無視して沈黙されたら議論できない
でもそれは理論が原因ではないんだ
議論そのものを放棄するパフォーマティブな行為が問題であるだけで(東的だね)
議論や理論自体の問題ではない
俺が「自分の理論は正しいから議論しない」と言ったところで、それは俺の理論が議論不可能なことは意味しない
>>254 >>もちろん、この「すべて」にはこのバートリーの理論自身も含まれる
>これはなかなか面白いですね。
自己言及が許されないのはそれが正当化できないからなんだ
だから、最初から正当化を求めなければ自己言及をしても別にかまわないのさ
例えば、議論でバートリーの議論主義が勝っても、
それはバートリーが正しかったことを意味しないし、相手が間違っていたことを意味しない
でもバートリーら議論主義は、議論主義が「とりあえず間違えてなかったこと」は確認できる
だからそれを保持できる
議論をした上で議論主義を保持できないと考えたら捨ててしまえばいい
>なぜならば超越論的基礎付けは論理的ではないから
そうか、そういう風に解釈するんだな。
フッサールではこれが逆になるのか。
>議論そのものを放棄するパフォーマティブな行為が問題であるだけで(東的だね)
全然関係ないけど、前にこの東の真似して
議論を放棄したら怒られたというスレがあった。
>>258 >全然関係ないけど、前にこの東の真似して
>議論を放棄したら怒られたというスレがあった。
卒論の面接でってやつ?
当然でしょう
そんなものは独断による押し付けと何らかわらないからね
東も正当化主義だよ、だから正当化を求めた末にパフォーマティブな行為をせざるをえないと言うんだろうね
先生が求める態度はむしろ逆だと思う
自分の理論の欠点を認めた上で「なお研究したい」という意欲を見せた方が評価がいいと思われ
正当化主義が正当化を求めた末に
パフォーマティブな行為をせざるをえないと言うのは、
ある意味では独我論が他者によっては通用しないという事なのかもね。
今日だけで130レスもしてる。
>>260 ごめん、ちと意味をつかめてないかも。。。
他者によっては・・・、という言葉と前文から察するに
独我論を超越論的批判で迎え撃つ者には沈黙せざるをえないということかな?
うん、そうかもしれない
でも、それを信仰のように言うだけでは良い議論はできないと思うよ
自分の理論、もしくは競合する理論と両立不可能な言明を指摘することが議論だからね
例えば独我論と両立不可能になりそうな事例として俺は「エネルギー保存の法則」を提出したし
逆にいえば対象を前提として置くことへの両立不可能な事例が欲しい
また、「他者を前提として置くことは不確実だ」という批判をするならば
何か確実な言明、もしくは確実なものを指摘せねばならない
でも、確実な言明をすることは正当化主義に陥る
するとパフォーマティブな行為をすることになる
「不確実だ」という意見は議論には使えないと俺は考える
>>261 いいことさ
対話こそ哲学の真髄だよ
一人で黙々とやると難解な文章になる
こうやって常に他者と対話することこそ考えを洗練させ平易な表現を身に付ける最良の方法と俺は考える
もっとも独我論者の耳に入るかどうかは分からないけど
でも、もっと自由に議論をしてもいいはずだよ
2ちゃんでは特にね
だって間違えたらコテを変えたり、キャラを変えればいいんだから
ここでは「間違えたらいけない」と考えるような邪魔なアイデンティティーはない
そう考えればずっと気楽に議論できるさ
すいません、即席で理論を組み立ててるもので。
なんとなくだけど、議論のやり方をどう考えているのかが
分かりました。
265 :
考える名無しさん:03/09/01 15:43
よく「フッサールは独我論だ」と非難する奴いるけど、
独我論が「この世界はわしの世界で、わし以外誰もいない」
って意味なら違うんじゃない?
たんに、フッサールの理論では他者の存在を説明できませんよ、
ってだけなんじゃない?
>>264 一応、反基礎付け主義には分類される
両立不可能な言明を指摘し合い、それに対する弁解をし合い、・・・が、ずっと続いていく、という形
使用するのは最小論理のみ、
「確実でない」「正当化できない」「証明できない」などの言葉は使用しちゃダメ
方法としてのルールはこうなってくるかな
難しいのは「問題の共有」の方で、この問題を扱うとしろうとや◎のような意見になってくる
でも、解釈を特定する必要はないし一致させる必要もないと思う
思いつく限りの解釈を挙げ、消去法で消して残ったものと考えればいい
もし絞り込めないなら質問すればいい、それだけだね
>たんに、フッサールの理論では他者の存在を説明できませんよ、
>ってだけなんじゃない?
どうなんだろう、他者の存在が説明できない事は
どういったメリット・デメリットをもたらすのかが
よく分からない。
>>267 >どうなんだろう、他者の存在が説明できない事は
>どういったメリット・デメリットをもたらすのかが
>よく分からない。
客観主義者からの有名な批判ね
他者の存在を説明できないと、自分の知識の由来が自分自身ということになる
でも多くの論理学や数学の知識ですら自分の脳がつくりだしたと考えるのはちとむずいでしょ
「俺ってそんなに天才?」ってことになるわけだからね
相対性理論を考えたのはアインシュタイン
でもアインシュタインは俺の脳内の現象
んじゃ相対性理論をつくったのは・・・俺??みたいな感じ
>でも多くの論理学や数学の知識ですら自分の脳がつくりだしたと考えるのはちとむずいでしょ
これをどう処理するかで、客観主義や独我論の立場をとるか
変わってくるという事なのか。
そういや、兄って客観主義に批判的なの?
271 :
考える名無しさん:03/09/01 16:01
単純に客観主義、独我論で分けてるけど、
純粋な独我論者なんて誰もいないんじゃない?
その存在しない立場を否定して、それで、一見独我論者に見える
人たちを論破したというのはおかしくない?
>>269 いや、独我論は単純に確実さを求めたがゆえに独我論に陥ることがほとんど
だから「他人がいるのは不確実だ」と言う
出発点が正当化主義だからね
対して、客観主義はもとから確実さを求めないからね、前提を必要としない
わざわざ他者を設定しない理由はない、むしろ知識の由来が全部自分と考えることになるからとても独我論にはなれない
確実さを求めないにも関わらず、あえて独我論を支持する人は稀有だろうね
>>270 >そういや、兄って客観主義に批判的なの?
もちろん、客観主義もまた不確実だからね
確実なものがあるなら当然保持できないよ
それから、対象が個人の認識如何で不条理に変わるなら(エネルギー保存の法則が間違ってるなら)
同じく保持できないかな
あとは完全な運命論を証明されるか
完全な混沌、つまり論理にパラドクスが含まれることが判明するとか
いろいろあるかな
>>271 俺の立場だといかなる理論も論破できないんだって
275 :
考える名無しさん:03/09/01 16:07
>だから「他人がいるのは不確実だ」と言う
誰がそんなこと言ったの?少なくともフッサールは言ってないよね?
>>275 >だから「他人がいるのは不確実だ」と言う
そうだな、語りゃしない、
まーフッサールのいいところは「君の目の前のコーヒーカップについて言及できる」というところだからな
一般的な独我論者さ、イギリス、ケンブリジ大学の誰だっけ、ラッセルと同時期のやつは
やたら議論する独我論者だったな
あえて独我論から出発するのと、独我論者はまったく違うと思うんだが
議論が込み入ったものになってきた。
>>277 いいんじゃん、あえて独我論から出発しようが何だろうが
別に一度も独我論が間違っているとは言ってないんだし
>>278 議論てほどのもんじゃない
好きにやろう
兄のそのやり方って、デリダとは全然関係ない?
>>281 多分ない
俺自身が『存在論的郵便的』ぐらいしか読んでないというのもあるけど
(解説書レベルで挫折した・・)
自分自身ではデリダと解釈学論争をしたガダマーに近いと感じている
郵便的不安達という名前だったかな?
そういう東の本があったけど、存在論的郵便的とは随分違うみたいだね。
それで存在論的郵便的は読めそうにないです。
>>283 どっちにしろ、あの手の本はうさんくさいしろものだと俺は思ってるからね
読むのも練習のうちかな
自分が間違ってると思う本を読むほうがいいからね
すると知の地平が拡大する、これがガダマー的な意見
まぁ自分が受け入れられない意見ほど自分の成長に生かせるのさ
もっとも、生かすも殺すもその人しだいか
知の教科書デリダという手も。
>まぁ自分が受け入れられない意見ほど自分の成長に生かせるのさ
そういうところはあるなぁ、ここ数年は特にそれを感じてるよ。
>>285 そだな、デリダを読むかな、とりあえずは今扱ってるのはウィトかな
あとは何を読もうかな
論理学系統で行くんかい?
今日は本当にご苦労様でした・・・
290 :
考える名無しさん:03/09/16 22:42
兄ちゃま萌え
>>兄氏
こんにちは、はじめまして。
私はPhiloAletheaと名づけた真理追究を行っているものです。
久しぶりに哲学板を覗いてみたら、楽しそうなスレッドがあったのでこれから読ませて頂きます。
294 :
考える名無しさん:03/10/29 00:16
最近兄ヤンこないねぇ
hoshuhoshu
296 :
考える名無しさん:04/01/12 07:13
>「確からしい」なんて言葉はインチキ哲学者が使う「真理」という言葉よりもひどいよ
>そんな言葉を振り回して安心していられる精神が分からん
おお、これわかりますね。すごく共感します。って遅レスですが。
保守
297 :
考える名無しさん:
hosyu