169 :
考える名無しさん:
正気も節制も大切なものではあるが、
しかし、私たちは思慮分別のあまり、
哲学のエロースを消してしまってはならないであろう。
分別くさく人間のすることはもう知れきっているように言うのも、
愛智者のことではあるまい。
自分の狭い経験から誇張的に絶望を語り、
深刻そうなしかめっ面をすることも、哲学とは関係ない。
愛智はもっと愚かに、甘く甘いものである。
なぜなら、それはエロースだからである。
私たちは希哲学の立場に立って、
真善美なるものに、素朴で熱烈な愛を捧げなければならない。
そうするとき、私たちの魂には翼が生え、私たちを彼方へと駆り立てるであろう。
このような翼の生えるときは、ちょうどまた歯が生えるときと同じように、
私たちは「熱っぽく、うずくものを感じ、いらいらする」ことを避けられないであろう。
それは愛の苦しみである。
この苦しみは、愛するものを見ることなしには、決して癒されない。
そしてこの渇望が、私たちを狂気にするともいえる。
哲学のエロースは、私たちをもの狂わしくし、
「規則にはまったことや、体裁のよいこと」を軽蔑させるであろう。
私たちはそれらを踏み越えて、ダイモーンの導くままに、
ただ高く高くのぼっていこうとする。
170 :
考える名無しさん:03/08/24 23:03
しかしながら、あらゆるエロースと狂気とが、すべて正気と節制に優越するのではない。
それぞれの狂気とエロースに対して、それのまた節制があるということもできるであろう。
ヘーゲルは必ずしもカントの上位にあるのではない。
哲学はエロースであるけれども、それは幾重にも知性に結ばれている愛智なのである。
かくて私たちは、むしろカントにかえり、デカルトにかえり、ソクラテスにかえらなければならぬものを、
いつも自己自身のうちに感じている。
しかしまた、そのソクラテスのうちにも、デカルトのうちにも、カントのうちにも、
その節度の外に出て行かねばならないような、何らかの動向がいろいろに見られるのではないか。
すなわち、愛智のうちには、突進と抑制があるといわなければならない。
その限りにおいて、哲学というものは、決して安定した概念ではないのである。
私たちはやがてその事実を見るであろう。
しかしまた、そこに哲学の生命が認められるのかもしれない。
(田中美知太郎『哲学初歩』)
※文中の鍵カッコはヘーゲル『歴史哲学講義』からの引用部分。