哲学の定義とは何か? これは延々とくり返されてきたテーマです。 皆さんのお持ちの哲学関連書には、『哲学とは○○である!』 という専門家による定義が載ってることが、少なくないですね。 ここは、哲学者もしくは哲学研究者もしくは哲学愛好家 などの専門家による『哲学の定義』を紹介するスレです。 素人の2chねらの見解よりは意義があると思います。 『専門家による定義』 これこそ不毛な議論に終止符を打つ可能性を秘めています。 皆さんの「紹介」を期待する次第です。 『哲学とは○○である!』
>『専門家による定義』 >これこそ不毛な議論に終止符を打つ可能性を秘めています。 > >皆さんの「紹介」を期待する次第です。 問い1 この文章の問題点を指摘しなさい。配点20
3 :
考える名無しさん :03/08/10 03:26
4 :
考える名無しさん :03/08/10 03:28
>>2 答え:専門家によって定義が違う点。
でもそれがいいんじゃん。もともと定義なんてあやふやなもの。
素人ちゃねらーの定義より、専門家の定義の方が遥かに含蓄があります!
5 :
考える名無しさん :03/08/10 03:30
>>4 にもそれなりに含蓄がある―――と言ってみるtest!
6 :
考える名無しさん :03/08/10 03:31
>>3 いいっす! そんな感じっす!
そいうのの積み重ねで、何かが見えてくることを期待してます!
それ、ウィトゲンシュタインですね。
>>6 いや、ぼく自身が創った言葉です。ホントに。
8 :
ライヘンバッハ :03/08/10 03:41
哲学とは科学的明解さに欠ける詩の傑作である。
9 :
考える名無しさん :03/08/10 03:43
10 :
考える名無しさん :03/08/10 03:43
>>7 マジ!? すげえ! 超一級の哲学者かも。。。
あっ。そういえば、
>>8 さんみたく、誰が言ったか併記してもらえると便利ですね。
12 :
考える名無しさん :03/08/10 03:48
直截で確信のある答えを妨げるものがあると知ったとき、 私たちは哲学の研究を始めているのです。 というのも、哲学とは、このような問題を難しくする全てのものを探り、 私たちの日常観念のもとにあるすべての漠然さと混乱を知った上で、 日常生活においても、科学においてさえも、犯す不注意や独断を避けて、 批判的にこのような究極的な問題に答える企てにすぎないからです。 (バートランド・ラッセル『哲学入門』)
15 :
考える名無しさん :03/08/10 03:52
>>12 芸術家?? 新しい???
だーっ! ってかウィトゲンシュタインでしょ? 素直に白状しなされ。
16 :
考える名無しさん :03/08/10 03:55
>>14 かっちょいい! グッジョブ!
でも酔っぱらってると、意味が理解できないよおおおっ!
>>15 ウィトゲンシュタイン
って誰?
「人間は考える葦である」という言葉くらいしか、ぼくに哲学的な意味性は無い。
19 :
考える名無しさん :03/08/10 04:01
>>17 新芸術家さん
それはパスカルという人が昔言った言葉のような気が・・・。
>>19 哲学が探求した結果は「普遍的功利性」を獲得します。
それはすべての社会活動(芸術に及ぶ。――たとえ『無意識』でもね。
22 :
考える名無しさん :03/08/10 04:14
>>21 深けえ…。
ゴメン。でもオレちょっち酔っぱらってるから・・・。
でもなるべく、誰か専門家の言う定義を紹介してね?。
「芸術家」って『専門家』じゃないのかな? ――もうなるだけ書きません。ごめんね、スレ違いでしたかもね。
>>23 いやいや、楽しかったっす。
スレ違いでも、また何か書いてくださいね。
25 :
考える名無しさん :03/08/10 16:39
良スレになると思います。 私も一日に一人分ぐらい書き込んでいきたいと思います。
26 :
考える名無しさん :03/08/10 23:19
竹田青嗣 『自分を知るための哲学入門』のまえがきより 哲学とはなにか。(略) 1.ものごとを自分で考える技術である。 2.困ったとき、苦しいときに役に立つ。 3.世界の何であるかを理解する方法ではなく 自分が何であるかを了解する技術である。
27 :
タカコ(偽者) :03/08/10 23:22
哲学とはなにかものごとを自分で考える技術である=真理ゲト!
28 :
考える名無しさん :03/08/10 23:27
>>27 1−2次方程式の解の公式を自分で考える。
2−受験すべき大学はどこかを自分で考える。
3−ローマ帝国滅亡の原因を自分で考える。
これら1〜3は哲学でしょうか?
29 :
考える名無しさん :03/08/10 23:28
>>28 理屈で「言葉遊び」として考えれば哲学ですけど、答えだしたり
行動しちゃったらもう哲学じゃないです。
30 :
考える名無しさん :03/08/10 23:31
>>29 ほう。
行動を前提としないであれこれ考えてれば、それはなんでも哲学なのですね?
31 :
考える名無しさん :03/08/10 23:32
いやーそれは(まるでにちゃんねるみたいに)みなさんの良識にかかってますですw
32 :
考える名無しさん :03/08/10 23:34
次週に登場して仮面ライダーと戦うのはどんな怪人だろうか、そんな 考えも哲学なのですね?
>>32 それは哲学じゃないみたい。
だって来週になればわかることでしょ。
34 :
考える名無しさん :03/08/10 23:38
>>32 例
「やつらなんなんだよーう、ゆるせませーん萌えビーム!!!」×
「次週のカイジンはおそらく存在の絶対性をわたし自身の個別性と対応させるだろう。
わたしは「彼の存在性」と、その個別的謀略性を、意識的に破壊すべきであろう 」◎
どうでしょうか?
正直、哲学者の定義以外のレスイラネ。
36 :
考える名無しさん :03/08/10 23:40
>>35 君の夏休みの課題は図書館で哲学者による哲学の定義を調べて
ここにアップすることだ。2学期に成長した君に出会えることを
楽しみにしているよ。では
38 :
考える名無しさん :03/08/10 23:42
>>33 ほう。
それならば、資本主義社会の未来を考える行為も
全く哲学とは縁のない行為なのだね?
>>36-37 あーウソウソ、冗談です。夏休みの宿題ならもういっぱい出てるから勘弁して。
40 :
考える名無しさん :03/08/10 23:47
夏宙ゲトー!
41 :
考える名無しさん :03/08/10 23:48
頼むから、哲学者による「哲学の定義」を真面目に書いてくれ。みんな。
42 :
考える名無しさん :03/08/10 23:49
そんなことしたヤツ、いないんじゃない?もしかして・・・
43 :
考える名無しさん :03/08/10 23:53
竹田青嗣 『自分を知るための哲学入門』のまえがきより 哲学とはなにか。(略) 1.ものごとを自分で考える技術である。 2.困ったとき、苦しいときに役に立つ。 3.世界の何であるかを理解する方法ではなく 自分が何であるかを了解する技術である。
44 :
考える名無しさん :03/08/10 23:55
哲学とはものごとを自分で考えること。理屈っぽく、しかも高尚に。
45 :
考える名無しさん :03/08/10 23:56
哲学とは『真』を探求すること。出来る限り厳密に、しかも「丁寧」に。
46 :
考える名無しさん :03/08/10 23:57
>>44 my哲学はいらないので、誰か哲学者の言葉を紹介してください。
47 :
考える名無しさん :03/08/10 23:59
>>46 つまり「創造した」哲学的言葉ではダメで、
「過去に創造された」哲学的言葉ってこと?
48 :
考える名無しさん :03/08/11 00:04
>>47 そんなに難しく考える必要はありません。
1さんが提案したように、
皆さんが持っている哲学関連書に載っている、
哲学者などの専門家が言う「哲学の定義」を挙げてください。
49 :
アリストテレス :03/08/11 00:08
・・・すなわち、ソフィアと名づけられるものは、第一の原因や原理を対象とするものである というのが、すべての人々の考えているところであるというにある。 だから、さきにも述べ たように、経験家もただ単になんらかの感覚を持っているだけの者と比べればいっそう多く 知恵ある者であり、だが、この経験家よりも技術家の方が、また職人よりも棟梁のほうが、 そして制作的・生産的な知よりも観照的・理論的な知の方が、いっそう多く知恵があると 考えられるのである。 さて、以上によって、ソフィアがある何らかの原因や原理を対象とする学であることは 明らかである。
50 :
アリストテレス :03/08/11 00:08
存在を存在として研究し、またこれに自体的に属するものどもを研究する 一つの学がある。 この学は、いわゆる部分的諸学のうちのいずれとも同じ ものではない。・・・・さて、我々が原理を尋ね最高の原因を求めているからには、 明らかにそれはあるフュシス(自然・実在)の原因として、それ自体で存在する ものであらねばならない。
51 :
考える名無しさん :03/08/11 00:12
>>49 >>50 いいねえ。そんな感じ。
でも、もちっと簡潔に述べてくれないと、誰も読まないかもよ。
>>51 充分簡潔で、簡潔すぎでよく分からん位だと思うが?
こんなのあるよ「哲学の定義」じゃないけど 「哲学における定義」について 「哲学においては、我々は数学の真似をして最初に定義を立てる ようなことをしてはならない。しかし単なる試みとしてやってみ るというだけならそれもよい。(中略)哲学においては、精確で 明晰な定義というものは、これから自分の仕事を始めねばならな いというのではなくて、むしろそこで仕事を終結せねばならない のである。これに反して数学においては、我々は定義よりも前に はおよそ概念をまったく持ち合われていない。概念は定義によっ て初めて与えられるのである。それだから数学は常に定義から始 めねばならないし、また実際にも定義からはじめられるのである。」 カント『純粋理性批判』岩波文庫(下)31頁。 より善い定義を求めて哲学者による様々な定義を検討しようという このスレの試みはよい。ただし決定的な定義に辿り着ける望みはほ とんどない。しかしその試みはカント的に言えば我々に課せられて いる。だからこのスレには存在意義があり、一方では「哲学ってな によ」みたいなスレが乱立するのは仕方ないということにもなる。
54 :
考える名無しさん :03/08/11 00:30
>>53 >ただし決定的な定義に辿り着ける望みはほとんどない。
いや、別に辿り着こうとか思ってないだろ。みんな。
哲学者は真理を求めるのではなく、 人間へと変形された世界の姿を求めるのである。 すなわち、彼は、自己意識によって 世界を理解しようとつとめるのである。 彼は同化を得ようとつとめる。 換言すれば、何かあることを擬人的に ただしく解釈したとき、彼は満足するのである。 ちょうど、占星術師が、世界を個々の個人に 奉仕しているものと見なすのと同じように、 哲学者は、世界を人間と見なすのである。 (ニーチェ『哲学者に関する著作のための準備草稿』 哲学じゃなくて哲学者についてたくさん書いてるうちのいっこ)
56 :
考える名無しさん :03/08/11 00:41
>>55 ニーチェって自分が哲学者だったっていう自覚は無かったのかな?
57 :
考える名無しさん :03/08/11 00:42
詩は同じことを何度も言う。
少なくともその意味で
>>55 は「詩的」だ。
>>56 哲学者、芸術家についての考察が趣旨のようなので、
距離をおいてる感じはあるけど、別の部分に、
「あらゆる人間は、芸術的、哲学的、学問的等々なのである」ともある。
内容については、断片的な草稿であること、 形式については、俺が勝手に改行や1行開けをしたことが、 詩的に見える理由だと思う。
62 :
考える名無しさん :03/08/11 01:00
あらゆる人間は「芸術」的なのである ――――――考える名無しさん
また哲学じゃなくて哲学者についてだけど面白いんで。 グラウコン 「・・・(略)・・・実情はといえば、哲学を志して、 若いときに教養の仕上げのつもりでそれに触れた上で、 足を洗うことをせずに、必要以上に長い間哲学に時を費やした人たちは、 その大多数が、まったくのろくでなしとまでは言わぬとしても、 正常な人間からは程遠い者になってしまう。・・・(略)・・・」 ・・・(略)・・・ ソクラテス 「・・・(略)・・・そのことの原因は、哲学的な仕事に携わっていると 自称している者たちにある。 ・・・(略)・・・ というのは、ほかならぬ<自称哲学者>たちのことを 念頭において言っているのだ。・・・(略)・・・」 ・・・(略)・・・
ソクラテス 「それなら次のように言えば、われわれは<哲学者>を 適切に弁護することになるのではあるまいか。 心底から学ぶことを好む者は、真実在に向かって 熱心に努力するように生まれついた者であって、 一般にあると思われている雑多な個々の事物のうえにとどまって ぐずぐずしているようなことはない。 ・・・(略)・・・ それぞれのものの本質にしっかりと触れるまでは、 ひたすら突き進み、勢いを鈍らせず、恋情をやめることがないのだ。 彼は、魂のその部分によって、真の実在に接して交わり、 <知性>と<真実>とを産んだ上で、<知識>を得て、 真の<生>を生き、育まれてゆく。 その時初めて、彼の海の苦しみはやむのである」 (プラトン『国家』) とりあえず夏休みの課題はコレで許してよ。
>>37 俺が書いたんだからサ、アンタも書いてよネ。
これからも書くけどサ。
66 :
考える名無しさん :03/08/11 03:02
なるべく現代日本の哲学者か哲学研究者の言葉を挙げる方が、 分かりやすいと思うな。
>>37 では
「「哲学とは知識の最高の統一である」……
別な言葉で言えば哲学は
die Wissenschaft der Wissenschaften<諸学の学>である。」
西田幾多郎の『哲学概論』岩波書店 より
「統一」っていうのポイントかな。
69 :
考える名無しさん :03/08/11 04:50
永井均 『これがニーチェだ』 序文より 哲学は主張ではない。 それは徹頭徹尾、問いであり、問いの空間の設定であり、 その空間をめぐる探究である。 だから、哲学における主張は、それが切り開いた空間の内部に、 必ずその主張に対する否定の可能性を宿しているし、 問いの空間の設定それ自体もまた、 その空間自体を位置づける更なる対立空間を暗に設定してしまっている。 哲学に関しては、一切の外的な基準による批判は無効である。 その哲学それ自体 −しかもその最良の部分− だけが、 おのれ自身を否定できる力を持つ。
72 :
考える名無しさん :03/08/11 05:36
>>69 うーむ、含蓄のある定義だ。
「哲学」を「2chでの議論」と読み換えることも可能だね。
>>67 西田にかかれば哲学だろうが音楽だろうが全てが純粋経験だけどな
大学の哲学概論の授業などでは、最初の時間に、哲学とは何かという講釈が ひとくさりおこなわれるのが慣わしになっております。これでもう学生諸君は ウンザリしてしまいます。 私事にわたりますが、私は哲学概説や哲学史の授業を担当していた当時、 哲学とは何ぞやという定義から始める伝統的な哲学講義を物笑いにして済ま せるのが常でした。 それが、どうでしょう? この本では哲学とは何ぞやという話から始めようという 風情です。 しかし、私としては、勿論、普通の流儀に従おうというのではありません。 哲学とは何であるか、十全な定義や説明をあらかじめ与えておくことなど不可能です。 『新哲学入門』緒論 冒頭文
75 :
考える名無しさん :03/08/11 06:42
放置推奨?
76 :
考える名無しさん :03/08/11 10:07
>十全な定義や説明をあらかじめ与えておくことなど不可能です。 ならそれが定義なんだろ。廣松くん。
77 :
考える名無しさん :03/08/11 20:43
78 :
考える名無しさん :03/08/11 20:44
ねずみ講・・・・?
80 :
考える名無しさん :03/08/11 20:53
82 :
考える名無しさん :03/08/11 21:33
こちらはそれほど大きくはないですけれど 柔らかくて揉み心地のよさそうなオッパイの持ち主です。 上のお口と下のお口をフルに使っての4Pシーンは見所満載! オマンコの奥深くに突き立てられていくチンチンが気持ちよさそうです。
84 :
考える名無しさん :03/08/12 22:30
哲学的真理は、私がそれでもって生きるところの真理であって、 単に思惟するのみのものではない。 それは私が確信して実現する真理であって、 単に知るのみのものではない。 私はその真理について思想の可能性のみによってではなく、 さらにその実現によっても確信するのである。 哲学的真理は、この真理を提示し展開する交わりにおける 連帯性の意識である。 それゆえ真の哲学は、共同体においてのみ現存しうることになる。 哲学者が交わりを喪失していることは、 彼の思惟が不真実であることの標識となる。 偉大なる哲学者の畏敬の念を起こさせる孤独は 彼らが自ら欲した孤独ではないのであり、 彼らの思想は交わりに対するひとつの異常なる努力であり、 彼らは交わりを、当てにならない予想や代用物におけるものではなく 本来的な交わりとして意欲している。 (ヤスパース『哲学』)
85 :
名無し@おめが :03/08/12 22:48
哲学とは…自己満足である。
>>84 ヤスパースか…。渋いねぇ。おたくほんとに渋いねぇ。
87 :
考える名無しさん :03/08/13 22:40
人類一般とは本来、発生的にも社会的にも結合された
多くの人間性からなる人間存在のことであるが、
人間が理性的存在(理性的動物)であるとすれば、
それはその全人間性が理性的人間性である限りにおいてのみ
そうなのである。
すなわち、ただ潜在的に理性へ向けられているにすぎないか、
あるいはすでに自己自身に達して明確な自覚を持ち、
いまや本質必然的に人間生成を意識的にみちびいている
エンテレキー(※)へとはっきり向けられているかの差はあるにしても、
理性的人間たる限りにおいてのみそうなのである。
それゆえ、哲学すなわち学問とは、人間性そのものに
「生得的」で普遍的な理性が開示されていく歴史運動だといってよい。
(エトムント・フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』)
※エンテレキー・・・合目的的運動力。
>>1 何かが見えてきたか?何か見えてきたら中間報告しろ!
>>87 >
>>1 >何かが見えてきたか?何か見えてきたら中間報告しろ!
とりあえず今まで出たのを列挙してみます。
>>8 ランヘンバッハ
>>14 ラッセル
>>26 竹田青嗣
>>49-50 アリストテレス
>>53 カント
>>55 ニーチェ
>>63-64 プラトン
>>67 西田幾多郎
>>69 永井均
>>74 廣松渉
>>84 ヤスパース
>>87 フッサール
…けっこう出ましたね。すんません。私にはまだ見えてこないっす。
というか、何か統一された見解が見えてくるかも、という期待は、
どんどん遠ざかっていく気がするのですが。
まあ、私の文章読解の力量が不足してるだけかもしれませんが。
でも「私」じゃなくても、「このスレを見てる誰か」が何か見えてきたならば、
私はそれで良いと思うのです。
つまりこのスレは、「私」すなわち「1」のものではない、というか。
つまり公共空間というか。そんなつもりで立てたんで。
なので誰でもいいので何か見えてきた人がいたら、ぜひ教えて欲しいですね。
ああ長文すまん。ではまた再開しませう。↓
村上春樹(の文章より) 「どんな髭剃りにも、哲学がある」
ハムレット「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」
91 :
考える名無しさん :03/08/14 04:28
中島義道 『哲学の教科書』 講談社 より (全てを引用していたらきりがないので、表題だけ。 細かい議論は本を読んでください。) <哲学とは何でないか> 哲学は思想ではない 哲学は文学ではない 哲学は芸術ではない 哲学は人生論ではない 哲学は宗教ではない 哲学は科学ではない
92 :
考える名無しさん :03/08/14 04:42
考えることが哲学だ
93 :
考える名無しさん :03/08/14 04:44
>>92 いやだからさ、my哲学はいらないんだって。1の提案を見てみ。
哲学とは心のオナニーだ
95 :
考える名無しさん :03/08/14 12:47
哲学はメガネである。
96 :
考える名無しさん :03/08/14 12:57
哲学は、文芸評論のひとつに過ぎない。 哲学を、専門諸科学のように特定の共有された問題が存在しそれを共同で解決 しようとする営みのことだととらえるのは、擬似問題に支配されている証拠だ。 ローティーの哲学の定義はこんな感じ
おいおい、マジで自分の矛盾に気がついていない
>>1 はアホか
><哲学とは何でないか>
哲学は思想ではない
哲学は文学ではない
哲学は芸術ではない
哲学は人生論ではない
哲学は宗教ではない
哲学は科学ではない
んじゃ「哲学は哲学である(考えることが哲学だ)」以上、
何が言えるっていうんだヴォケ!アタマ冷やせ似非哲学者
オメーは言葉のレトリックに自己陶酔したいだけなんだよ、はっきり言って。
: ごめんね。すこし言い過ぎたかしら お詫びに ―――――――――― ↓哲学的修辞法祭り開催 ―――――――――
99 :
考える名無しさん :03/08/14 22:31
>>97 コラコラ、
なにかを定義するときには、述語の中に主語の概念を含んではいけない、
っていうアリストテレスの命題を知らないのか?
今の哲板に一番必要なスレかもしれませんね、このスレ。。
>>99 「主語の概念
とは、『私は』と言わず、『我々は』と言え。
ということですが――何か?
>>97 その、哲学は○○ではない、って羅列は、
>>91 さんによる中島義道の引用ですよね?
私はそれに対して同意も反論も、何もしてないですが。
あなたが何をおっしゃりたいのか、さっぱり分かりません。
私が何か、特別な言葉のレトリックを使ったこと、ありましたっけ?
じゃあ、別にいいです。スレッドをどしどし繁栄させて頂戴。
全体的に考察した場合、人間文化は、人間の漸次的な自己解放の過程 として記述することができる。 言語、芸術、宗教、科学は、この過程におけるさまざまの側面である。 それらのすべての側面において、人間は、新たな力を発見し、これを試みる ――それは、彼自身の世界、「理想的」世界を築き上げる力である。 哲学は、この理想的世界における基本的統一性の探求を断念することはできない。 しかし、哲学は、この統一性を単純性と混同しない。 哲学は、人間の様々な力の間の緊張と摩擦、強烈な対立と深刻な闘争を見逃さない。 これらは異なった方向に向かうものであり、異なった原理に向かうものである。 しかし、このように多様であり、相違があることは、不和と不協和を示すものではない。 あらゆるこれらの機能は、互いに補完し完全ならしめるのである。 いずれも新たな限界を開き、人間の新たな側面を我々に示すものである。 不協和は、それ自身との協和のうちにある。 反対物は互いに排斥しあうものでなく相互に依存しあうものである ――それは「音弓と竪琴の場合における如き反対における調和」である。 (カッシーラ『人間――シンボルを操るもの――』) ぶっちゃけ、これも定義ではないけどネ。 キルケゴールでイイのが見けらんなかったんで、 誰かかわりにたのむ。
>>105 とても面白い文章だと思うので、
もうすこしたくさんつくって、「知の機関紙」に投稿してみたら?
といってみるtests
>>107 新カント派の超大物。
邦訳されている著作も多い。
>>107 カッシーラは新カント派の哲学者で、
『シンボル形式の哲学』というのが有名。
『人間』よりそっちから探した方がよかったかもネ。。。
『シンボル形式の哲学』訳者あとがきを参考に書くと、
カントの「コペルニクス的転回」を精神の形態作用の
あらゆる方向にあてはめ、
「理性批判」を「文化批判」にまで展開して、
「精神の表現形式についての一般理論」
を確立しようとした人。らしい。。。以上
>>106 それって、ぴかぁ〜さんの立てたスレのこと?
このスレとぴかぁ〜さんのやろうとしてることって、
けっこう対極的な感じがするケド。
感じがするケド、 「反対物は互いに排斥しあうものでなく相互に依存しあうものである」
112 :
考える名無しさん :03/08/15 20:17
また山崎か
sage
114 :
考える名無しさん :03/08/15 23:28
知性は、生命進化によって造成されたものとして、 私たちの動向を照らし、私たちが事物に働きかける用意をし、 与えられた情況に対して、今後そこに起こりうる出来事の 利不利を予見することを、その本質機能とする。 そこで知性は、ある状況の中から既知に似たものを本能的に分離する。 「同は同を生む」という自分の原理が適用できるように、同一物を求める。 これが、常識による未来の予見ということの要点なのである。 科学は、この操作をぎりぎりの程度まで精密にし的確にするけれども、 その本質的な性格を変えはしない。 日常の知識と同じことで、科学は、事物における繰り返しの相面しか引きとめない。 全体が創始的な場合には、科学はそれを分析して、 ほぼ過去の再現となるような要素ないし相面まで行けばよいとする。 科学の手に負えるのは、繰り返すとみなされたもの、 すなわち、持続の影響を免れることがたてまえとなっているものばかりである。 ひとつの歴史の次々の瞬間に含まれていて、 還元や後戻りの不可能を思い浮かべるためには、 思考の基本的欲求にそって出来た科学の習慣と手を切り、 精神に無理をして、知性の自然な坂を逆にのぼらなければならない。 ところで、ここにこそ哲学の役目はある。 (ベルクソン『創造的進化』) まだまだやめねぇぞ。
115 :
考える名無しさん :03/08/16 00:24
>>114 もしかして
ヤスパースとかフッサールとかカッシーラとか
引用してるのってみんな貴兄?
たくさん蔵書があるんだのう。
116 :
考える名無しさん :03/08/16 00:29
ああ、一番初めに出てきた可変MAね。 それはメッサーラ、と。
兄貴いうな!俺に課せられた課題だ! ラッセル、ニーチェ、プラトンも俺だったりする。。。 本はそんなに多くない。
118 :
考える名無しさん :03/08/16 22:54
哲学は独自なものを備えていて、 いかなるものをも既知のものとして前提することはなく、 すべてのものが哲学にとっては同じ程度に未知であり、問題である。 もろもろの現象の関係のみならず、現象そのものも問題であり、 いや、ほかの諸科学がすべてをそれに還元して満足している 根拠の原理それ自体さえ問題である。 哲学にあっては、根拠の原理に還元したところで、 実は何も得るところがないわけであろう。 (根拠の原理の)系列のある項は、哲学から見れば、 ほか項のと同様に未知であり、 さらに、そのような連関のあり方そのものももまた、 哲学にとっては、連関によって結合されたものと同様に、問題であり、 その上、結合されたもの自体が、この結果が示されたあとも再び、 示されない以前と同様に問題なのである。 なぜならば、すでに述べたように、科学が前提とし、自らの根拠におき、 さらにまた、説明の玄海として設定しているものこそが哲学の本来の問題であり、 したがってその限りでいえば、 科学の終わるところ、そこに哲学が始まるのだといってよいからである。 (ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』)
玄海→限界 分かるだろうケド、一応訂正。。。
ついでに、
>>64 も訂正。
海の苦しみ→産みの苦しみ
べつに、海ずきじゃないのに。。。
121 :
考える名無しさん :03/08/17 10:28
>>101 違うよ。
独学も良いけど、ちゃんと大学の哲学概論の授業に出たほうが良いよ
一瞬、ドイツ語で読んでるのか思った
123 :
考える名無しさん :03/08/17 23:47
これ(※)に対して哲学は、 非本来的な規定を考察するのでなく、 本質的規定である限りでの規定を考察する。 哲学の場となり、内容となるのは、 抽象的なもの、すなわち、非現実的なものではなく、 現実的なもの、自己自身を措定するもの、自己自身のうちで生きるもの、 すなわち、自らの概念のうちにある定在である。 現実的なものは過程であり、 この過程は自らその契機を生み出し、経歴し、 そして、この運動の全体が、 肯定的なものとその真理とをなすのである。 だから、この運動は否定的なものをも、 同じように自らのうちに含んでいる。 つまり、捨象さるべきものと考えられうる場合には、 偽と呼ばれるかもしれないようなものを含んでいる。 消えていくものは、むしろ本質的なものとさえ考えられるべきであって、 真から切断され、どこか分からないが、真の外に置かれるべきものという、 固定した規定のうちにあるものと考えられるべきではない。 現象は生成消滅であるが、 生成消滅は、それ自身では生成も消滅もしないで、それ自体に存在し、 真理の生命の現実、および、運動を形成しているようなものである。 (ヘーゲル『精神現象学』) ※これ・・・数学が、量と相対性による「生命なき抽象性の原理」であること いちいちageるとウザイか?
>>123 ウザくはないけど、日本人哲学者のも紹介してくれ。
やっぱ洋書は翻訳がいまいちな場合があるし。
>>124 わかった。しばらくのあいだ日本人のにする。
126 :
考える名無しさん :03/08/18 01:53
なにがが見えてきたが、まだ言葉にできない。
へ〜
ガム住人 やっちゃったね し〜らね 君 罰あたるよ。
129 :
考える名無しさん :03/08/19 00:28
それなら哲学はどこにあるか。 教団になく、教科書注釈書になく、敢えて言うなら、銑鉄たちの著作の中にさえ、 それを開く鍵穴の奥深く匿されて、私たちが知りたいと希う哲学はどこにあるのか。 ――哲学は、いまここにある。 哲学という言葉など知りもしない私たちが、人生に直に対面しているそこにある。 いつも初めてこの世に目覚め出たような驚きと当惑のあるところなら どこにでも必ず、哲学は発生している。 この試みは、私たちの心が共有するそうした無垢の感受性への、 絶対的な信頼によるものだ。 そしてともにそこへと立ち還ることを、いざなうのだ。 ・・・(略)・・・ 哲学は学問である以前に、ひとりひとりの感受性である。 居ることを、在ることを、この世の事象の一切合財を、 「不思議」と感受する気持ちのないところには、 先哲たちの言葉は決して根付くことができない。 したがって哲学は、原理的に教説かされえないが、 誤解をおそれずにいえば、むしろ奥義の伝授に似たものになってくる。 信仰ではない、逆だ。 それは書き言葉を信用せず、生涯一行も書かなかったソクラテスが、 相手の力量を見て自在に語りを変えたというそのことだ。 (池田晶子『考える人 口伝西洋哲学史』) 池田晶子けっこう好きですがなにか?
教団になく→教壇になく 訂正します。なんかいやな間違えだな。。。
131 :
考える名無しさん :03/08/19 00:33
良スレだからageでやって欲しい
あ、もういっこあった。 訂正)銑鉄たちの→先哲たちの
sage
私たちは、物事の根本にあるものを十分によく反省する暇もないまま、 世間で通用している出来合いの、手垢のついたものの見方に流され、 あるいはそれに汚染されていることにも気づかずに、慣れっこになったまま、 ただ平安無事を願って、大勢に順応して漫然と暮らしていることが多い。 私たちは、世間に流布している、一見自明とも思えるしきたりやものの見方、 考え方や習慣の中に、どっぷり使って、世間に流されながら生きている。 それも当然であり、そのようにしないと、 世の中から落伍してしまう危険がすぐに忍び寄ってくるからである。 けれども、私たちは、時に、この日常の生活の営みを一瞬停止して、 私たちがかかわっている事柄や問題の根本を、反省しなおして、 自分で本当に納得することのできるその事柄の基本や本質をつかみ、 しっかりとした確信を得て生きたいと思うことがあるのではなかろうか。 自分で確信の持てる知見を形成できないとき、 私たちは、拠り所を失い、不安に襲われるであろう。 私たちは、いかに日常漫然と平穏無事に生きながらも、 慌しい無反省の生活に流されたままであるとき、 自分が奈辺に立ち、いずこから来、いずこへ向かうのかも分からないその状況に、 一瞬、突如として不安を覚え、根無し草のような自分の存在に、 恐怖と驚愕の念さえ感受するであろう。 それが「哲学」の始まりである。 哲学はこうした不安と驚きと懐疑の中から生ずる、 物事の根本的な本質洞察つまり真理把握に対する希求であり、 真の知、確かな知見の獲得、そうした確信と信念への要求なのである。 (渡邊二郎『芸術の哲学』) ほんじゃsageだ。
哲学がたえず自己を問い、のりこえていきながら、 しかも一個の独自の精神伝統を形づくっているとすれば、 それはやはり、哲学がロゴスあるいは理性を中心に、 もしくは、それらをめぐって、展開してきたことにあるだろう。 <ロゴスを働かせること>(レゲイン)つまり、われわれをとりまく現実のうちから、 多様な事物を<集め>、<比量し>、<秩序立て>、 そうすることを通して普遍的なものを、あるいは、より高次の統一を目指すことが、 哲学的思考、あるいは考察の核心にあるからである。 ところが、このように言うことが、すでに、 哲学を狭く合理主義的な物とだけみなす誤解を生むもとになるように、 そこにはいくつかのパラドクスあるいは陥穽がある。 まず第一には、哲学的思考がそのようなものとして意味を十分持ちうるためには、 哲学的思考において、集め、比量し、秩序立て・・・する事物は、 できるだけ多様なものでなければならないということがある。 また第二に、それらの事物は、 できるだけ集め、比量し、秩序立てにくいものでなければならない、ということがある。 つまり、哲学的思考は、そのような多様なものを、 集め、比量し、秩序立てにくいものを回避したり無視したりしないで直視し、 そこから出発しなければならない。 (中村雄二郎『感性の覚醒』) もういっちょ。二郎つながり。 ほんとは池田晶子の前に打ち込んだケド、なんかつまんないから没にしたやつ。 もったいねぇからカキコんどく。
歴史的文献的研究は学究としての活動ではあるが、 それだけでは哲学すること(philosophieren)にはならない。 哲学をするには、自分の問題を捉えること、 現実の世界の根源的様相に目を開くこと、 苦労して自分で denken すること、それが必要である。 歴史を研究しながらも、自分の反省、自分の思惟を持たなければならない。 哲学の歴史的な研究は、思惟の訓練や準備以外の何者でもない。 かつてフッサールは私に、 歴史的な研究をやりすぎると研究態度が受動的になる。 自分で思惟することが失われる恐れがある。 と言ったことがある。 哲学に権威はない。 権威に満足し安住するのは非哲学的なことである。 もちろん、流行を気にするのも間違いである。 いずれにせよ、歴史的研究をする場合、 すなおに理解するのみでなく、批判できるところまで進まねばならない。 (三宅剛一『哲学概論』)
137 :
考える名無しさん :03/08/20 21:15
ぜひageでやってホスィ
なんかパッとしないんだよね。 俺が拾ってくるところが偏ってるのかも知れないけど、 なんかインパクトがないというか、かいててあんまり面白くないというか・・・。 もっと奇抜な、刺激的なのってないかなぁ。 日本人のギブアップしていい?早くも、ネタ切れくさい。 ってか、誰か書け!いや、書いてください。おねがいします。
書きたいが、いまオレのプロバイダのODNからは書き込めない・・・。 ケータイからじゃ、キツイ。
ひとは、哲学は世界の事実を説明すべきであると言うであろう。 しかし、それではこの世界において真の事実とは何であろうか。 真の事実とは、常に内的な何かである。 たとえば、勝ちいくさの事実とは、個々の攻撃や砲撃などではなく、 あるいはまた、その事柄について単に外面的に知覚されうるようなものでもない。 真の、本来の事実は、ただ司令官の精神のうちに存するのである。 また、ある書物の、なまの、単に外面的な事実とは、 ここに文字と語があい並び、あい継いで並んでいるということである。 しかし、この書物における真の事実は、 その書物を理解する者のみが知りうるのである。 単に外面的に見れば、精神の豊かさに満ち深く考えられた作品も、 浅薄で全く無意味無思想な作品となんら異なることはない。 それゆえ、単に外面的なものにとどまっている人は、 精神的な豊かさに満ちた書物における真の事実を全く知らない。
この例からしても、あらゆる研究において純真な真の事実を究明することが、 何ものにもまして最も重要なことであるが、 また同時に、もっとも困難なことであるということが分かるであろう。 とくに自然の個々の現象において、 多くのことが謎に満ちたものと、我々に思われる原因も、 我々がいまだかつて真実の事実を知るにいたっていないということに存するのである。 しかし、自然における事実の究明は自然科学者の仕事であり、 歴史における事実の究明は歴史研究者の仕事であるから、 哲学の仕事に属するのは、世界というものの大きな事実であり、 それゆえに、哲学は世界知という名を持つのである。 しかし、哲学は世界以上の大きな内容を持っているのであるから、 世界知というこの名は、その一面に対して当てはまるにすぎないけれども。 (シェリング『哲学的経験論の叙述 哲学入門より』)
今まで書き込んできて分かったこと 「哲学とは」は、だいたい、前書きや序論にある。
143 :
考える名無しさん :03/08/22 01:48
>>142 初めに定義しておかないと、議論の本質を見失うからね。
ところでageでお願いしたいな。良スレだし。
144 :
考える名無しさん :03/08/22 01:51
145 :
考える名無しさん :03/08/23 01:07
哲学全体は一本の木のようなものであり、 その根は、形而上学であり、 その幹は、自然学であり、 この幹から出ている枝葉は、諸々の学問であり、 これらは、三つの主要な学問、 すなわち、医学と機械学と道徳に帰着します。 ここにいう道徳は、最も高いもっとも完全な道徳であって、 ほかの諸学の全き知識を前提し、知恵の最終段階であります。 ところが、木の実が摘みとられるのは、 木の根からでも幹からでもなく、枝の先からだけであるように、 哲学の主要な効用も、 最後にいたって始めて学びうる諸部分の効用にかかっているのであります。 (デカルト『哲学の原理』著者から仏訳者に宛てた手紙)
146 :
考える名無しさん :03/08/23 03:32
>>145 『事典 哲学の木』で永井均が序文で、
そのデカルトの木の比喩について、
「今日ではほとんど妥当性をもたないだろう。」って書いてて、
それに替わる哲学の木の絵が描いてあって、おもしろいよ。
147 :
考える名無しさん :03/08/23 03:35
>>146 どんな木か言葉で書いてくれるとうれしいです。
ぼっき
149 :
考える名無しさん :03/08/23 03:44
150 :
考える名無しさん :03/08/23 04:01
定義じゃないけど、俺の好きなニーチェの言葉 今日専門的学問は隆盛をきわめており、おのれのなすところについて 何らの疚しさをも感じていないがごとくである。 しかるに、今日の哲学がしだいに落ち込んだ現状は いわば哲学の残滓ともいうべきものであるが これは人にたとえ嘲笑と憐憫でないまでも不信と不満を喚び起こすに足る。 哲学は「認識論」にまで引き下げられた。
まだ 起きていたのか さっさと寝たらどうだい? おニーチェん?
152 :
考える名無しさん :03/08/23 04:09
なに喋ってんだ シュバルツかお前は
154 :
考える名無しさん :03/08/23 04:12
ふりーどりひ? ドリーちゃんなら かろうじて知っているんだが
156 :
考える名無しさん :03/08/23 04:16
そうか 科学の力ってすげえ・・・
158 :
考える名無しさん :03/08/23 04:22
かい、まじでスレ汚しはやめて欲しい。汚したいならスレを選べ。
ははははは 嵐はスレを選ばない
160 :
考える名無しさん :03/08/23 04:27
君たちが僕を笑わせてくれたら ここにはもう書き込まないよ
かいはうんこ会長かい?
ここの人は寝てしまったみたいだね とりあえず かい って書いてあったからえらいね〜 というわけで23はホモスレへボッシュート
掛詞うまいだろう?
>>147 『事典 哲学の木』序文より
デカルトは哲学を一本の木に譬えた。
「その根は形而上学、幹は自然学…」といった立派な一本の木である。
だが、この意味での木の比喩は、
今日ではほとんど妥当性をもたないだろう。
木があるとしても、それは各人各様の木だけであろう。
しかも、ちょっとした小枝にすぎないと思えたものが、
じつは知らぬまに別の大地から養分を吸い上げている
異種の根だったりするような、
そういう木であるはずである。
166 :
考える名無しさん :03/08/24 00:26
君自身を注視せよ、 君の目を取り囲むすべてのものから転じて、君の内面に向けよ ――これが哲学を学ぶものに対してなす第一の要求である。 問題は君の外部にあるものではなく、ただ君自身なのである。 ほんのわずかばかりの観察をしても、 誰でも自己の意識の種々の直接的な諸規定―― これを我々は表象とも呼びうるが――相互の間に、 著しい相違のあることに気づくだろう。 ・・・(略)・・・ 要するに我々は、我々の表象のあるものは、自由の感情に伴われており、 他のものは、必然性の感情に伴われている、 と言うことができる。 自由に依存する表象がなぜ他のようにではなく まさにそのように規定されているのか、という問いは当然生じえない。 ・・・(略)・・・ しかし、必然性の感情に伴われた表象の体系の根拠、 およびこの必然性の感情そのものの根拠が何であるかということは、 たしかに、考察に値する問いである。 この問いに答えることは哲学の課題であり、 私の考えでは、この課題を解く学問こそ哲学に他ならない。 必然性の感情に伴われた表象の体系は、 内的ならびに外的な経験と称される。 それゆえ哲学は――他の言葉で言えば―― あらゆる経験の根拠を示さなければならないのである。 (フィヒテ『知識学への第一序論』)
167 :
考える名無しさん :03/08/24 00:44
>>146 ありがと。
ハイデガーの『形而上学とは何か』の序論が、
デカルトの「哲学の木」の話につなげて書いてあったんで、
あしたそれ書き込もうか?
と思ったけど、長いし、哲学じゃなくて形而上学だからやめとく。
>>167 木の絵は事典の表紙に描いてあるから、書店で見てみ。
169 :
考える名無しさん :03/08/24 23:03
正気も節制も大切なものではあるが、 しかし、私たちは思慮分別のあまり、 哲学のエロースを消してしまってはならないであろう。 分別くさく人間のすることはもう知れきっているように言うのも、 愛智者のことではあるまい。 自分の狭い経験から誇張的に絶望を語り、 深刻そうなしかめっ面をすることも、哲学とは関係ない。 愛智はもっと愚かに、甘く甘いものである。 なぜなら、それはエロースだからである。 私たちは希哲学の立場に立って、 真善美なるものに、素朴で熱烈な愛を捧げなければならない。 そうするとき、私たちの魂には翼が生え、私たちを彼方へと駆り立てるであろう。 このような翼の生えるときは、ちょうどまた歯が生えるときと同じように、 私たちは「熱っぽく、うずくものを感じ、いらいらする」ことを避けられないであろう。 それは愛の苦しみである。 この苦しみは、愛するものを見ることなしには、決して癒されない。 そしてこの渇望が、私たちを狂気にするともいえる。 哲学のエロースは、私たちをもの狂わしくし、 「規則にはまったことや、体裁のよいこと」を軽蔑させるであろう。 私たちはそれらを踏み越えて、ダイモーンの導くままに、 ただ高く高くのぼっていこうとする。
170 :
考える名無しさん :03/08/24 23:03
しかしながら、あらゆるエロースと狂気とが、すべて正気と節制に優越するのではない。 それぞれの狂気とエロースに対して、それのまた節制があるということもできるであろう。 ヘーゲルは必ずしもカントの上位にあるのではない。 哲学はエロースであるけれども、それは幾重にも知性に結ばれている愛智なのである。 かくて私たちは、むしろカントにかえり、デカルトにかえり、ソクラテスにかえらなければならぬものを、 いつも自己自身のうちに感じている。 しかしまた、そのソクラテスのうちにも、デカルトのうちにも、カントのうちにも、 その節度の外に出て行かねばならないような、何らかの動向がいろいろに見られるのではないか。 すなわち、愛智のうちには、突進と抑制があるといわなければならない。 その限りにおいて、哲学というものは、決して安定した概念ではないのである。 私たちはやがてその事実を見るであろう。 しかしまた、そこに哲学の生命が認められるのかもしれない。 (田中美知太郎『哲学初歩』) ※文中の鍵カッコはヘーゲル『歴史哲学講義』からの引用部分。
171 :
考える名無しさん :03/08/24 23:04
>>168 見てきた。
木というよりもニューロンっぽい、と思った。
173 :
考える名無しさん :03/08/24 23:27
>>172 あんまり詳しくは知らないけど、
プラトンやアリストテレスなどのギリシャ哲学の専門家だったはず。
174 :
考える名無しさん :03/08/24 23:32
ってか、主にプラトンかな。
175 :
考える名無しさん :03/08/25 22:26
光に触れること、目を開く行為、単純な感覚作用のきらめき、 それらは、見たところ無関係で、問いに対する答えのように分節化していない。 光は照らし出し、自然に了解される。 光とは了解という事実そのものなのだ。 ところが、私たちと世界とのこの自然な相関の内部に、 ある種の二重化によってひとつの問いが、 このきらめきを前にしての驚きというかたちで表明される。 プラトンが哲学の発端に置いた驚きは、 自然のものと可知的なものを前にしての驚きである。 驚くべきものとは、光の可知性そのものである。 光は夜に裏打ちされているのだ。 驚きは自然よりもさらにいっそう自然な何らかの次元について生じるのではなく、 ひとえに可知的なものそれ自体を前にして生じる。
176 :
考える名無しさん :03/08/25 22:26
可知的なものの異様さは、 そういってよければ、それが可知的であるということそれ自体に、 いいかえれば、何がしかの実存があるというそのことに由来している。 存在の問いとは、存在みずからの異様さを体験することなのだ。 「存在とは何か」という存在をめぐる問いが、決して答えを持たなかったのはそのためだ。 存在には答えが無い。 この答えが求められるべき方向というものはまったく考えることができない。 問いそのものが、存在との関係の発現なのだ。 存在は、本質的になじみの無い異様なもので、私たちに突き当たる。 私たちは夜のような息苦しいその抱擁に見舞われるが、存在は答えない。 存在とは、存在するという禍なのだ。 哲学が存在をめぐる問いであるなら、哲学はすでにして存在の引き受け手である。 そして哲学がこの問い以上のものだとすれば、それは哲学が、問いに答えることではなく、 この問いを克服することを可能にしてくれるからである。 そして存在をめぐる問い以上のものがあるとすれば、それは真理ではなく善である。 (レヴィナス『実存から実存者へ』)
177 :
考える名無しさん :03/08/25 22:35
哲学ってほうんとうにどういう意味なんですか。 いくつかの意味で使われているのは間違いないのですが。 1.まず学問としての「哲学」 2.この板で哲学といって行っている「哲学」 3.哲学的だな、というときの「哲学」 4.格言を指すような、〜の哲学というときに使う「哲学」 4についてはわかりますが、1〜3について、哲学という言葉の意味を教えてください。
178 :
考える名無しさん :03/08/26 00:44
>>177 それに答えるのは、とても難しい。
だからこのスレでは試みとして、
哲学の専門家とされる人々が言うところの「哲学」
を紹介しているわけだが。
その中で、あなたにとってしっくりくる言説はなかっただろうか。
例えば「芸術」という言葉も、似た立場だと思う。
「芸術」とは何か?
むろん、伝統的に「芸術」だとされてきたものだろう。
しかし、その伝統を超えた新しい「芸術」が生まれ得るのは、
なぜだろうか?
やはりそこには、『何か』があったのだ。
ではその『何か』とは何か?
・・・・それを言語化できればなあ。
4,003 哲学的なことがらについてかかれてきた命題や問いのほとんどは、 誤っているのではなく、ナンセンスなのである。それゆえ、この種の 問いに答えを与えることなどおよそ不可能であり、われわれはただそ れがナンセンスであると確かめることしかできない。哲学者たちの発 するほとんどの問いと命題は、われわれが自分の言語の論理を理解し ていないことに基づいている。 (それらは、善と美はおおむね同一であるのか」といった問いと同類 である。) そしてもっとも深遠な問題が実はいささかも問題ではなかったとい うことは驚くべきことではない。 4,0031 全ての哲学は「言語批判」である。(もちろんマウトナーの言う意 味においてではないが。)ラッセルの功績は、命題の見かけ上の論理 形式が必ずしもその実際の論理形式になっていないことを示した点に ある。 ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』野矢茂樹訳、岩波文庫
4,11 真な命題の総体が自然科学の全体(あるいは諸科学の総体)である。 4,111 哲学は自然科学ではない。 (「哲学」という語は、自然科学と同レベルのものを意味するのではなく、 自然科学の上にある、あるいは下にあるものを意味するのでなければならな い。) 4,112 哲学の目的は思考の論理的明晰化である。 哲学は学説ではなく、活動である。 哲学の仕事の本質は解明することにある。 哲学の成果は「哲学的命題」ではない。諸命題の明確化である。 思考は、そのままではいわば不透明でぼやけている。哲学はそれを明晰に し、限界をはっきりさせねばならない。 4,1121 他の自然科学に比して心理学がより哲学に近い訳ではない 認識論は心理学の哲学である。 記号言語に関する私の研究は、哲学者たちが論理の哲学にとってきわめて 本質的とみなしていた思考過程の研究に相当するものとなってはいないか。 彼らはほとんどの場合いたずらに非本質的な心理学研究にまきこまれていた にすぎない。私の方法にも、同様の危険がある。 4,1122 他の自然科学の仮説に比してダーウィンの理論がより哲学と関係するとい うことはない。 ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』野矢茂樹訳、岩波文庫
4,113 哲学は自然科学の議論可能な領域を限界づける。 4,114 哲学は思考可能なものを境界づけ、それによって思考不可能なものを境界 づけねばならない。 哲学は思考可能なものを通して内側から思考不可能なものを限界づけねば ならない。 4,115 哲学は、語りうるものを明晰に描写することによって、語り得ぬものを指 ししめそうとするだろう。 4,116 およそ考えられうることはすべて明晰に考えられうる。言い表わしうるこ とはすべて明晰に言い表わしうる。 ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』野矢茂樹訳、岩波文庫
182 :
考える名無しさん :03/08/26 01:16
不可視的で純粋な真理への到達を自身の肉体から離れて得ようとする 行為
6,53 語りうること以外は何も語らぬこと。自然科学の命題以外はーーそれゆえ 哲学とは関係ないこと以外はーー何も語らぬこと。そして誰か形而上学的な ことを語ろうとするひとがいれば、そのたびに、あなたはその命題のこれこ れの記号にいかなる意味も与えていないと指摘する。これが、本来の正しい 哲学の方法に他ならない。この方法はそのひとを満足させないだろう。ーー 彼は哲学を教えられている気がしないだろうーーしかし、これこそが、唯一 厳格に正しい方法なのである。 ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』野矢茂樹訳、岩波文庫
184 :
とりあえず目次 :03/08/26 01:49
185 :
とりあえず目次 :03/08/26 01:50
186 :
考える名無しさん :03/08/26 01:52
良スレ
187 :
考える名無しさん :03/08/26 01:55
>>185 すげぇ読書家ですね。
ところであなたは、どの主張に一番共感しますか?
自意識過剰ながら、俺が面白いと思った哲学の定義を挙げていい? 「私は哲学を次のようなものとは考えていない」と言って一論文ぐらいを書いたやつ
189 :
考える名無しさん :03/08/26 02:06
>>187 ちょっとまて。当然、俺が全部書いたんじゃないよ。
俺が書いた中でいうと、田中美知太郎のがカッチョイイなぁ、と思う。
なんか陶酔できる。
>ヴィトゲンシュタインの人
乙です。
>兄
あげれ!
190 :
狂った日記 :03/08/26 02:12
>189 次回ね 俺今、ネット喫茶だから、 でもクソ長いよ、だって、哲学でないものをひたすら挙げるんだから
192 :
考える名無しさん :03/08/26 02:24
>>191 楽しみにしてる。
あんまり長かったら、かいつまんででいいっす。
193 :
考える名無しさん :03/08/26 02:39
ハイデガー御大のお出ましです。 哲学とは現存在の解釈学つまり実存の分析論から出発する 普遍的な現象学的存在論にほかならない
194 :
考える名無しさん :03/08/26 02:42
195 :
考える名無しさん :03/08/26 02:47
「存在の意味を問う」のが「真正な」課題ってことでね
196 :
考える名無しさん :03/08/26 02:49
197 :
考える名無しさん :03/08/26 02:51
ガダマー読んだ事ある人いたらお願いします。 もういいかげん寝ます。
198 :
考える名無しさん :03/08/26 03:19
>>195 所謂自然科学の領域とはシンクロしないって事ですね。
199 :
考える名無しさん :03/08/27 01:25
>>193 第7節と、最後の第83節との二箇所にあったんで、
第83節の方だけ、俺にも書かせてくれ。
200 :
考える名無しさん :03/08/27 01:25
目標は存在問題一般の仕上げなのである。 実存の分析論は、それ自身としては、 存在一般についてあらかじめ明瞭にされた理念から発する光を、まず必要とする。 このことは、序論において言表されたあの命題が、 あらゆる哲学的探求の基準として堅持される場合には特に肝要である。 すなわち、哲学は、現存在の解釈学から出発する普遍的な現象学的存在論であって、 現存在の解釈学は、実存の分析論として、すべての哲学的な問いの導きの糸の末端を、 それらの問いが発現し、そこへと打ち返すところへ、結び付けておくのである、 というのがその命題なのである。 もちろんこのテーゼも、ドグマとみなされてはならないのであって、かえって次のような、 まだ「包み隠されている」原則的な問題の定式化だとみなされる必要がある。 すなわち、 存在論は存在論的に基礎づけられうるのか、 それとも、存在論はそのためにも何らかの存在的な基礎を必要とするのか、 そして、どのような存在者がこの基礎付けの機能を引き受けなければならないのか、 という問いがそれである。 実存する現存在の存在と、現存在にふさわしくない存在(たとえば実在性)との区別のように、 きわめて明白に思われるものでも、やはり存在論的な問題性の出発点に過ぎないのであって、 哲学がそれに甘んじうるものではない。 (第83節)
んじゃ俺も引用 さてここで、しばしば哲学にとって特徴的であると見なされているものの、 わたくしには決して満足できない、哲学とその諸活動にかんする9つの見解をリストにしてみよう。 この節に対しては、「わたくしは哲学をどのように見ていないか」というタイトルをつけておきたい。 第一に、哲学の課題は、誤解(言語パズル)の解消ではない。 もっとも、そのような解消が、しばしば必要な予備作業となることはあるが。 第二に、わたくしは、哲学を芸術作品とか、あきれるほど独創的な世界像とか、機知に富んでいるが尋常ではない世界記述の画廊だとは思わない。 哲学をそのように理解することは、偉大な哲学者たちに対してまったく不当なことであると思う。 偉大な哲学者たちは、純粋に審美的な目標を追求していたのではなかった。 彼らは、才気に富んだ体系の構築者になろうとしたのでもなかった。 彼らはむしろ、偉大な科学者のように、なんといっても真理の探求者だった。 彼らは真性な問題を現実に解こうとしたのである。 わたくしは、偉大な哲学の歴史を、本質的に真理探求史の一部であると見ており、 また美しさは科学においてと同じく、哲学においても重大な意味をもつことは認めるが、哲学の歴史を純粋に審美的に判断することは拒否する。 わたくしは、知的な大胆さには大いに賛成である。 知的な臆病者でありながら、なおかつ真理の探求者であるというわけにはいかない、 真理を探求する者よ、あえて賢明であれ。 真理の探求者は、思考の領域においては敢然として革命家にならなければならない。
第三に、わたくしは、哲学体系の歴史を、あらゆる可能な理念が試され尽くし、真理がおそらくは副産物としてしか現れてこないような知的な構築物の歴史とは見ていない。 過去の本当に偉大な哲学者たちは、自らの体系がおそらく見事なものであっても、 真理へ向かういかなる一歩も記述していないと確信したならば、必ずやその体系を捨て去るに違いないと思う。 そして、この点をただの一瞬でも疑ったなら、われわれは彼らに対して不正を働いたことになるだろう。 (中略) 第四に、わたくしは、哲学を概念や語や言語の明確化、分析、あるいは「解明」の試みであるとは見ていない。 概念や言葉は、命題や仮定や理論を表現するための単なる道具に過ぎない。 概念や言葉は、それ自体としては真でも偽でもありえない。 それらはたんに、ものごとを記述したり、基礎づけたりする人間の言語に奉仕するだけである。 われわれの目的は、意味を分析することではなく、興味深くて意義深い真理、つまり真なる理論を探求することである。 第五に、わたくしは、哲学を賢明さを示す手段とは見ていない。 第六に、わたくしは、哲学を知的治療、つまり人々を哲学的な混乱から開放する活動であるとは思わない。
第七に、わたくしは、哲学とはものごとを精微に、あるいはより厳密に表現しようとする努力であるとは考えない。 精微さや厳密さは、それ自体ではなんら知的な価値ではない。 われわれは決して、直面している問題が要求するよりも、さらに精微でもっと厳密であろうなどとは試みるべきではない。 第八に、それゆえわたくしは、哲学を近い将来か遠い将来に現れてくるかもしれない問題解決のための基礎や概念的枠組みを提供する努力であるとは考えない。 (中略) 第九に、わたくしは、哲学を時代精神の表現とは理解していない。 (中略) もちろん、科学におけるように、哲学にも流行はある。 しかし真剣に真理を探究する者は、流行に追随せず、むしろ流行を疑い、それと闘うことさえあるだろう。 おしまい♪
204 :
考える名無しさん :03/08/27 15:22
誰?
>202 修正、「第六に、〜」の後に(中略)があります。 (中略)は全部それぞれの代表的な哲学者への批判となるのでカットしました。
>204 ばーとりーの師匠
207 :
ビッグバン宇宙論は完全に間違っていた!宇宙は無限である! :03/08/27 18:53
科学者よ、恥を知れ!!! ビッグバン宇宙論は完全に間違いだった! 科学の原則を無視した、デタラメのインチキ理論だったのだ。 そして、そのビッグバン宇宙論の世界的な浸透は アメリカ、ユダヤ・キリスト教勢力による世界支配のための思想戦略なのだ! また、ビッグバン宇宙論の思想によって戦争が起こり、 貧富の差がひらき、終末的な絶望感が世界に蔓延しているのだ。 ビッグバン宇宙論は世界の平和を揺るがす、悪の元凶となっているのだ。 ビッグバン宇宙論とは、 「宇宙は『無』からビッグバン(大爆発)によって誕生した」という理論である。 この理論は、ユダヤ・キリスト教の創造神話(神が天地を創造した)そのものである。 ビッグバン宇宙論の実態は、科学理論ではなく宗教思想なのである。 『無』は文字通り、存在するものではない。だから、 『無』は科学的に証明できるものではない。 そして、『無からの誕生』も科学で証明できるものではないのだ。 だから、ビッグバン宇宙論が仮説である可能性は、0%なのだ。 ビッグバン論は完全に間違いであり、宇宙は時間も空間も無限なのである。 ビッグバン宇宙論が科学の正統であるという思想を、世界中の人々に 浸透させる戦略が成功したことにより、ユダヤ・キリスト教勢力の 世界における優位性が確立されていったのだ。(20世紀に) そして、その思想的支配の最たるものが、アメリカやイギリスによる イラク戦争なのだ。 ビッグバン宇宙論の浸透により、世界中に終末思想(世界の終わり)が蔓延してしまっている。 そのことにより、自己中心的、せつな的、短絡的な考え方が社会に広がっている。 科学的に間違っているビッグバン宇宙論から脱却しなければならない。 そして、宇宙は無限だということを理解しなければならない。 人間は本当の宇宙観、世界観を構築し、新しい時代に進んでいかなければならないのだ。 ビッグバン宇宙論が世界を支配している限り、平和な世界にはならないのだ。 そのことを科学者は重く受けとめるべきである。 平和のために!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
208 :
考える名無しさん :03/08/28 00:08
>兄 ばーとりーの師匠って誰なの? ペアノ、フレーゲ、ムーア、ホワイトヘッド こんなかにいる?
209 :
考える名無しさん :03/08/28 00:18
今日はお休みします。1日ぐらいいいだろ。。。
211 :
考える名無しさん :03/08/28 23:23
哲学の本質には、並々ならぬ変動性が見られた。 常に新しい課題の提出。さまざまの文化状態への適応。 それは、ある問題を価値あるものとしてとらえ、そして再びそれを捨てる。 認識のある段階では、問題は解きうるものと見られ、 後では、それを説きえないものとして見捨てる。 とはいえ我々は、どの哲学においても、全般性へのまた基定への同一の傾向が、 与えられた世界の全体に向かう同一の精神の方向が、働いているのを見てきた。 また、哲学においては、この全体の核心を突き止めようとする形而上学的傾向が、 その知識の普遍妥当性の実証主義的要求と常に戦っている。 この二つのことが、哲学の本質に属するとともに、 哲学を直接類縁関係のある諸々の文化領域から区別するあの二つの側面である。 哲学は、特殊科学と異なって、世界と人生の謎そのものの解決を求める。 また、芸術や宗教と違って、哲学はこの解決を普遍妥当的な仕方で与えようとする。 というのは、上述の歴史的事態からの主要な結果は次のことなのである。 一つの首尾一貫した、それ自身で纏っている歴史的連関が、 世界と人生の大きな謎を普遍妥当的に解こうと企てたギリシャ人の形而上学的世界認識から、 現代の最も徹底した実証主義者あるいは現代の懐疑論者にまで及んでいる。
212 :
考える名無しさん :03/08/28 23:23
哲学の中で生まれるものはすべて、どのようにかしてこの出発点によって、 それの根本問題によって規定されている。 人間の精神が、世界と人生の謎に対して、いかなる態度をとりうるかという、 その全ての可能性が歴進される。 この歴史的連関の中では、どの哲学的立場の業績も、与えられた諸条件のもとでの、 あるひとつの可能性の現実化である。 各々のものは全て哲学の本質のある一つの特徴を表現するとともに、 それが負わされている制限によって、かの目的論的連関を指示している。 というのは、それが一つの部分として制約されているのであって、 全体の真理は全体にあるからだ。 この複雑な歴史的事態は、哲学が社会という目的連関の中での、 哲学に固有な業績によって規定されて一機能であるということから明らかになる。 哲学がその一つ一つの立場においてこの機能をいかに果たすかは、 社会という全体に対する関係によって、また同時に、 時代、所、生活関係、人格、などによって違う文化の状況によって制約されている。 それだから、哲学は、ある一定の対象とか、ある一定の方法とかによって、 固定した限定を与えられることに堪えるものではない。 (ディルタイ『哲学の本質』)
213 :
考える名無しさん :03/08/29 01:00
東洋思想には「哲学とは」みたいなものない? 「哲学」と入ってないだろうケド。
214 :
考える名無しさん :03/08/29 01:00
と入ってない → とは言ってない
215 :
考える名無しさん :03/08/29 23:56
哲学の場合、スコラ的方法と機械的方法との間にどんな中間の道をとるべきか、 あるいはもっとよく言えば、どんな意味において、両者いずれにも真理性があることになるんだろうか。 我々がもしこのことを洞察しうると、哲学者たちのあの致命的な争いは終結するであろう。 この争いは最近、学派や大学だけでなく、教会や国家をも困らせている。 機械的にものを考える人たちは、 スコラ学者が生活にとって有用な事物について無知な人であるとして軽蔑する。 スコラ学信奉者たちは、機械的なものを宗教の敵として憎んでいる。 私の率直に認めるところであるが、両方の側の人々は限界を踏み越えているし、 相手側を弾劾する言明が、あえて哲学者によって行われたようなこともたくさんある。 これは当然だと私は思っている。 なるほど、あらゆるものはその本性上からいえば、明晰かつ判明な仕方で説明されうるようになっているし、 神は、もし仮に欲するなら、我々の知性に対してあらゆるものを公開することができるであろう。 また物体の動力因は、その物体の諸部分の働きが把握されて始めて、十分な理解を受けることになろう。 こうして我々は、その諸部分の組織を扱うことなしには、物体的現象の説明をなんら期待することはできない。 しかし、だからといってこれらのことから、 物体において認識しうるものは物質的、機械的なものだけだということが出てくるのでは決してない。 それからまた、物質のうちに見出されるのは延長だけということも出てこない。 なぜなら、物体の錯綜した属性は、判明な属性に還元されうるけれども、 我々は判明な属性に二種類あることを知っていなければならないからである。 一は、数学から導き出されるもの、 他は、形而上学から導き出されたものである。 数学から出てくるものは、量、形、位置、「位置の変化」であり、 形而上学から出てくるのは、存続、持続、能動、受動、作用の目的、作用者の感覚などである。 (ライプニッツ「学問的精神について」)
216 :
考える名無しさん :03/08/30 04:40
このスレ難しすぎて人が集まらないね。
ところで
>>215 さん、多分ほとんどの紹介があなただと思うんですが、
なんかすげえ蔵書じゃないっすか? しかも入門書じゃなく原書ばかり。
ご専門とかあるんでしょうか?
217 :
考える名無しさん :03/08/30 17:11
>>216 原書じゃないです。
好きでちょこちょこ読んでるだけなんで、専門はないけど、
実存主義とか現象学みたいなのが好きです。
今日もお休みします。というか、8月も終わりなんで、
俺も哲学書から毎日拾ってくるの終わりにします。
気が向いたら書くケド。
そのうち、自分の書いた部分のまとめでも書こうかと思います。
これも気が向いたらだけど。
218 :
考える名無しさん :03/08/30 17:11
あと、誰が残ってるかな?
219 :
考える名無しさん :03/08/30 17:13
ふたり
220 :
考える名無しさん :03/08/30 17:16
キルケゴール、ガダマー、
永井均『<子ども>のための哲学』12頁〜13頁より抜粋 哲学といえば、たいていのひとは、ソクラテスやプラトンからデカルト、 カントをへて、ハイデガー、ウィトゲンシュタインにいたる哲学史上の人物 を思い浮かべるようだ。そして、哲学を学ぶとは、そういうひとたちの書い たものを読んで、理解することだと思っているひとが多い。しかし、そうい うやり方で、哲学の神髄に触れることは、絶対にできない。 哲学というものは、最初の第一歩から、つまり哲学なんてぜんぜん知らな いうちから、何のお手本もなしに、自分ひとりではじめるのでなければ、け っしてはじめることができないものなのだ。哲学の勉強をしてしまったら、 もう遅いのだ。勉強は哲学の大敵である。 ぼくが読者の方々に伝授したいやりかたは、とてもかんたんなものだ。大 人になるまえに抱き、大人になるにつれて忘れてしまいがちな疑問の数々を、 つまり子どものときに抱く素朴な疑問の数々を、自分自身がほんとうに納得 がいくまで、決して手放さないこと、これだけである。
永井均『<子ども>のための哲学』16頁〜25頁より抜粋 大人になるとは、ある種の問いが問いでなくなることなのである。だから、 それを問い続けるひとは、大人になってもまだ<子ども>だ。そして、その 意味で<子ども>であるということは、そのまま、哲学をしている、という ことなのである。 子どもの哲学の根本問題は、存在である。 青年の哲学の根本課題は、人生である。 大人の哲学の最重要課題は、世の中のしくみをどうしたらよいか、にある。 老人の哲学の究極主題は、死であり、そして無である。 青年の哲学、大人の哲学、老人の哲学は、それぞれ、文学、思想、宗教で 代用できるが、子どもの哲学には代用がきかない。子どもの哲学こそが最も 哲学らしい哲学である理由はそこにある。そこにこそ、何ものにもとらわれ ない純粋な疑問と純粋な思考の原型があるからだ。
223 :
ナポレオン・ヒル :03/08/30 20:14
時は金なり
224 :
考える名無しさん :03/09/01 02:05
>>223 アメリカ独立宣言を起草したベンジャミン・フランクリンの格言だそうです。
225 :
考える名無しさん :03/09/04 00:59
真理の追求だね。 あらゆる学問の内、一番広い意味でのね。
226 :
考える名無しさん :03/09/13 16:36
227 :
考える名無しさん :03/09/15 02:01
>>225 お題目だけに終わる思い込み。
まぁ知らぬが仏なんだろう。
>>2 哲学の定義が決まっていないのだから、
どういう人が哲学者あるいは専門家であるのか、
どうやって判別してるのかの基準が明文化されていない。
また、もし確固たる「哲学の定義」が生み出したなら、
このスレッドの議論を進める意味がなくなる。
議論が何も生み出さないなら毛は生えない。
でも面白かったよ。
229 :
考える名無しさん :03/09/21 19:00
「いわゆる哲学者」「いわゆる哲学専門家」というふうに、 「いわゆる」を頭につければいいんじゃない?
230 :
考える名無しさん :03/09/21 19:15
まだ、永井を哲学者だと思いこんでいる奴がいるのか。 お目出てーな。
別に普遍的真理の探求でいいと思うけど。。 それ以外になんかあんの?
232 :
考える名無しさん :03/10/09 21:24
227 :考える名無しさん :03/09/15 02:01
>>225 お題目だけに終わる思い込み。
まぁ知らぬが仏なんだろう。
これまでの暫定的な定義をまとめてください。
234 :
考える名無しさん :03/10/27 23:03
誰か書いてよ!
235 :
考える名無しさん :03/10/27 23:07
「悪魔の証明」
236 :
考える名無しさん :03/11/25 20:00
哲学
237 :
考える名無しさん :03/11/26 12:32
期待アゲ。
238 :
考える名無しさん :03/11/26 12:35
ワラワラ
239 :
考える名無しさん :03/12/09 20:32
さて、この辺りでこの問いに立ち戻ろうか。 age
あけましておめでとう。
241 :
考える名無しさん :04/01/27 00:50
おめでとう。
ありがとう。ひさしぶり!
ケッコウ、俺の人選って偏ってたよね。。。
おぉ、こんな良スレがあったとは。 少し引き継ごう。
哲学(PHILOSOPHIE) ほとんどすべての善が、 またほとんど全ての欲望がむなしいと考えることによって、 失望や屈辱に対して自らに警戒をうながす魂の按排である。 哲学者がめざしているのは、 自然的で自分に嘘をつかないものだけを感じとることである。 哲学者の欠点は、非難する傾向が強いこと、 そして懐疑をとくに好むことだ。 (アラン『定義集』神谷幹夫訳、岩波文庫) アランは哲学者かと言われると、やや微妙だが。
哲学者は、 おのれを世界や歴史に結びつけている真理の絆を よりよく体験するためだとしても、 まず〈反省〉によって世界や歴史から身を引き離すわけですが、 その反省の果てに彼の見出すものは、 自己や絶対知の深淵ではなく、むしろ世界の新しいイメージと、 その世界に他人とともに植えつけられている自己自身なのです。 (中略) 哲学者とは、目ざめそして話す人間のことであり、 そして人間は暗黙裡に哲学のパラドクスを含んでいます。 なぜなら、完全に人間となるためには、 人間は、人間より少し以上のものであり、 また人間より少し以下のものでなければならないからです。 (メルロ=ポンティ「哲学をたたえて」の結論部 『眼と精神』より、みすず書房) もう一つ燃料投下。
哲学が何であるかは、誰もすでに何等か知っている。 もし全く知らないならば、ひとは哲学を求めることもしないだろう。 或る意味においてすべての人間は哲学者である。 言い換えると、哲学は現実の中から生れる。 そしてそこが哲学の元来の出発点であり、哲学は現実から出立するのである。 哲学が現実から出立するということは、 何か現実というものを彼方に置いて、 それについて研究するということではない。 現実は我々に対してあるというよりも、その中に我々があるのである。 我々はそこに生まれ、そこで働き、そこで考え、そこに死ぬる、そこが現実である。 我々に対してあるものは哲学の言葉で対象と呼ばれている。 現実は対象であるよりもむしろ我々がそこに立っている足場であり、基底である。 或いは一層正確にいうと、現実が対象としてではなく 基底として問題になってくるというのが哲学に固有なことである。 科学は現実を対象的に考察する。 しかるに現実が足下から揺ぎ出すのを覚えるとき、 基底の危機というものから哲学は生れてくる。 哲学は現実について考えるのではなく現実から考えるのである。
(中略を挟んで、
>>247 の続き)
哲学的探求の初めにおいて現実はもとより全く知られていないのではない。
全く知られていないものは、問題になることもできぬ、
問題になるというには既に何等か知られているのでなければならぬ。
しかしそこにはまた何か知られていないものがあるのでなければならぬ、
全く知られているものには問題はない筈だからである。
かようにして知っていると共に知っていないところから探求は始まるのである。
哲学者は全知者と無知者の中間である、とプラトンはいった。
全く知らない者は哲学しないであろう、
全く知っている者も哲学しないであろう、
哲学は無知と全知との中間であり、無知から知への運動である。
不完全性から完全性へのこの運動は愛と呼ばれた。
哲学は、それにあたるギリシャ語の「フィロソフィア」という言葉が
意味するように、知識の愛である。
それは知識の所有であるよりも所有への行程であり、
従って哲学をすることを措いて哲学はないのである。
(三木清『哲学入門』の冒頭、岩波全集版
仮名遣いは勝手に現代のものに直したが、スマソ)
…激しく疲れた。 よく続けてきたな、こんなスレ。 藻前ら、スゲーよ
おまけ。 鉄 ガク (篠原資明、出典忘れた)
哲学は邪にはじまり縦縞に終わる すべては明日の為に
哲学は科学や数学とは違います。 科学とは違って、哲学の頼りとなるのは、実験や観察ではなく、思考だけです。 数学と違って、哲学には形式的な証明方法がありません。 問いを立て、議論し、考えを吟味し、 それらに対して加えられるかもしれない反論を思い描き、 私たちの概念は本当に有効なのかを考えてみること。 哲学はまさにこういった仕方で行なわれるのです。 私たちはみんな、日々、非常に一般的な観念を用いているのですが、 そうした観念について、とりたてて考えてみることはありません。 ところが、哲学が主に関心を寄せているのは、 この観念を問い直し、理解することなのです。 (中略) 私たちは、時間、数、知識、言語、正しいことと不正なことといった観念を、 たいていの場合、当たり前のものと考えていますし、 またそう考えなければ生活していけないでしょう。 しかし、哲学は、こういった事柄そのものを調べるのです。 その目的は、世界や私たち自身についての理解をちょっと深めることです。 それが簡単ではないということは、だれの目にも明らかでしょう。 あなたが調べようとする観念が基本的なものであればあるほど、 数少ない道具であなたは作業しなければなりません。 あなたが前提としたり、当然だと考えることが許されるものはあまりないのです。 ですから哲学というのはいくぶんめまいのする活動ですし、 長い間その結果が疑問にさらされないでいることもほとんどありません。 (トーマス・ネーゲル『哲学ってどんなこと?−とっても短い哲学入門−』 昭和堂、「はじめに」より) 分析哲学ネーゲルの、愛らしい入門書より。 (ただ、装丁がしょぼいせいで、イマイチ入門書っぽくない)
253 :
考える名無しさん :04/01/28 13:53
哲学はマジックミラーで出来た箱のようなものだ 哲学者は箱の中から外を見ているが 外の人には中の人が見えないし、知らない また、箱は自ら移動できないので 箱から見た景色はあまり変わらない 哲学者はこれを「不変の真理」と呼ぶ 外の人が箱の位置を少しずらすと 中の人は「今、世界のパラダイムが変わった」 と大騒ぎする
254 :
考える名無しさん :04/01/28 18:17
宇宙たる何らかを言葉という道具で説明する学問。 説明すべき要素は宇宙たる何らか全てであるが その中で人間基準の道具である言葉の活動可能な範囲で 説明する学問。 byおれ
255 :
考える名無しさん :04/01/28 18:19
哲学=苦悩
>>243 氏ほか諸氏が戻ってくるまで、保守。
哲学する(philosopher)こととは、事物の理由を与えること、
少なくともそれを探求することである。
何故なら、事物を見て、見たところを報告するだけなら、歴史家にすぎない。
事物の比例関係、量、数値を計算し測定する時は、数学者である。
しかし、事物を存在せしめている理由、さらに事物を他でもなく
現にあるようにあらしめている理由を発見しようと心を決めた人が、
本来の意味での哲学者である。
そうだとすれば、ヴォルフ氏が哲学に与えている定義は、
この学問を特徴づけるものを全部、簡潔に包括していると思われる。
彼によれば、哲学は可能な限りでの可能なものの学である。
それは一つの学である。
なぜならそれはその主張するところを証明するからである。
それは可能なものの学である。
なぜならそれの目的は、現に起こっているすべての事物
――その反対が起こることも可能だっただろう――において、
存在しているすべてのこと、および、
存在しうるすべてのことの理由を与えることだからである。
(中略)
この定義は、現在、過去、未来を包含し、
またすべての普遍的観念や抽象物のごとき、かつて存在したこともなく、
いつか存在することもないであろうようなものをも包含している。
このような学問こそ真の百科全書的知識であって、
すべてがそれにつながり、すべてがそれに依存する。
(中略を挟んで、
>>256 の続き)
哲学の対象は、われわれの認識一般のそれと同じであり、
この対象がこの学問の自然な区分をつくるのである。
それは結局のところ、三つの主要なもの、神、魂、および物質である。
これら三つの対象に哲学の三主要部門が対応する。
第一部門は自然神学、神に関する可能なものの学、である。
神に関する可能なものとは、人が神において、および神によって思惟しうるものである。
(中略)
第二部門は魂に関する可能なものにかかわる心理学である。
第三部門は物体に関する可能なものにかかわる物理学である。
(ディドロ「哲学」、ディドロ・ダランベール編『百科全書』、岩波文庫より)
258 :
サイババア ◆zehtm8UG4Q :04/01/28 21:07
ギリシャ哲学は3つの科学に分類することができる。 それぞれ、物理学(Physics) 倫理(ethics) それから理論(logic)。 これはこの学問の本質であって、おそらくこの分類を基に加えられたものを 除いて、この3つの分類に加えられるべきものはない。 (中略) すべての理性的な知識は、物質と物体として考えられているもの、あるいは 正当に一つとして熟考された理解と理性の形、そしてそれに付随した、不変的な 法則のことだ。 物質哲学(material philosophy:物質とそれが従う法則を扱う 学問)は2つの分類があり、自然の法則を扱うのを Physics, 自由の法則を扱う のをEthics と分類する。 Physics は自然哲学、ethicsは倫理哲学ともいう。 (Immanuel Kant- Groundwork of the Metaphysic of Morals) H. J. Paton翻訳をおれ翻訳。ややこしかったら須磨祖。
うほほーーい!
>>245 >243氏ほか諸氏が戻ってくるまで、保守。
俺はネタ切れっす。。。
最近ぜんぜん本読んでないし。。。
>>266 おかえり。
そしたら、漏れ、ヒマみつけてぼちぼち進めていくわ。
もちろん、追加した定義に対してコメントも歓迎。
おもしろいモン読んだら、そんとき追加してくれぃ。
ちなみに、漏れは
>>252 のネーゲルの定義が、
非常に考え抜かれていて、
しかも、子供にも分かるように書かれてて好きだ。
哲学の定義にも、こうしてみると何通りかある。
(もちろん、全部関連するけど)
1)考える「対象」で定義する
2)考える「方法」で定義する
3)考える「動機・目的」で定義する
4)他の学問との関係で定義する
5)哲学内部の区分をすることで定義する
6)哲学者について記述することで定義する
などなど。
>>267 約束はできないけど、出来るだけやってはみたい。
俺は、続けたと言っても、2、3週間だよ。
>>37 のおかげで、元来の意地っ張りと、へそ曲がりがちょっと顔出したな。
存在と時間や精神現象学の読書会スレやらポールさんやらのように
何ヶ月にもわたって続けるのは俺には無理だな。。。
逃げグセあるし。。。
結構定義もでたことだし、目次も便利だし、 そろそろこの定義たちを批判的に議論してみない? 読んで理解するだけでは、おれたちが哲学してることにならないじゃん?
271 :
考える名無しさん :04/01/30 17:27
↑この馬鹿がいいこと言った!!
272 :
☆キキ+キ゚Д゚♪ ◆qpmo.OOqAo :04/01/30 17:31
哲板最強のカリスマ・☆キキ+キ゚Д゚♪が満を持して再登場!
物事に表面上の美しさを求めるな、
深く掘り下げれば真実が見えてくる、、、
そんな☆キキ+キ゚Д゚♪の哲学HPはココ↓ (キキキの即興ピアノ演奏あり!)
http://www.geocities.co.jp/HeartLand/8862/ 僕の哲学は、学問ではない。
人間が生きていく中、背負うべき道徳なのだ。(HPより抜粋)
孤独を越え、闇から光を見出した☆キキ+キ゚Д゚♪だからこそ言える!
もう何も迷う事は無い、、、
☆キキ+キ゚Д゚♪に触れ、明日への一歩を踏み出すのだ!
273 :
考える名無しさん :04/01/31 15:42
>>1 哲学を定義してどうすんだ? 次は算数の定義か?
274 :
考える名無しさん :04/01/31 21:37
>273 定義をすると、物事がはっきりするのだ【・∀・】 どこの板にも「哲学って何よ?」という質問が混在してるから ここで「哲学はこうらしいよ」っていうスレがあるのは役に立つよ。
>>274 同意。そう思ってこのスレに参加した
淡々と書き写し、考える素材を作るスレがあってもいいと思う
(それを通して哲学の定義を確定することを目指す、のではなく)
といいつつ、
>>270 のいうとおり
「挙げられた定義について、批判的に議論する」
こともしてみたいのだが
挙げられた一つ一つの定義(これはあくまで、
ある一人の思想家による一つの定義に過ぎない)を
丹念に読み返すと、考えさせられること多し
何故、この人はこう定義したのか、
何故、この人は哲学をほかと比較したのか、
何故、この人は哲学を区分したのか などなど
でも、さしあたって、もう少し続けてみよう
そこから私は、哲学という、すでに体系的学問としてでき上がったものと、 哲学するというわれわれの精神の運動とを第一に区別してお話したいのであります。 体系的学問としての哲学は、 一般特殊科学とはちがって、 たえず進歩を積み重ねていくようなものではなく、 したがって多くの人の共同研究で、 一般的な組織が作られるというようなことでもなく、 個々の哲学者の人間としての資質や達成と強く結びついた体系として、 つまりカントの哲学とかヘーゲルの哲学とかいうような はっきりした性格をもった形として存在するものではありますが、 とにかくそれは一つの学問の世界であって、 その学問の世界に入るためには、他の学問の世界に入るのと同じように、 いっそう基礎的な学問の準備も必要であれば、 その学問の世界特有な専門語にも習熟しなければならないのであります。
(
>>276 の続き)
しかし哲学する――哲学的にものを考えるということは、
もっと日常生活と結びついたことであって、その場は至るところにある。
何かの時に人は、自分はいったい何のためにこの世に生きているのだろうか、
と考えるようなことがある。
また親子の間でも友達同士の間でも、何かの気持のこじれから
お互いの間がうまくゆかなくなったような場合、
人間の心というものの正体とは一体何だろう、
というようなことを考えることがある。
また現実の社会に実際生きてきた体験から、政治の仕組や経済の動きについて
いろいろなことを考えさせられることがある。
そういうふうにして、自然にいろいろ考えさせられる場合、
それをもっと押しつめてみたい、という思いに駆られることがある。
そういう時、人はいつでも、自分で知らずに哲学しているのであります。
(谷川徹三『哲学案内』、講談社学術文庫
「一、哲学と哲学すること」より)
>276 定義をもう少し出し続けたいという245さんに異論はないんだけれど、 「哲学はたえず進歩を積み重ねていくようなものではない」 というのにチョトマテーイ、したい…。 カントの哲学にしたって、カントが一人でいきなり思いついたものではないんじゃない? カントの哲学は、Humeに対する批評やデカルトの理論にたいする検証などから、 生まれたもので、批評や検証を経て、やはり理論は洗練されうるもの。 少しずつ理論は進歩しているものだと思う。 パッと見ただけは答えを明確に示すことができないから、そう思うのではないかな。 電流の流れ方だって、昔は逆に考えられていたのだし、そこで「一般特殊科学(?)」と 区別する必要はないんじゃないかなぁ…。 とりあえず、さげ。
>>278 おぅ、レスサンクス
一つ断っておくと、他の人はどうか分からんのだが、
>>276-277 の谷川氏の定義も含めて、漏れが引用した
定義は、必ずしも漏れ自身が賛同しているわけではないので
谷川氏のいう一般特殊科学(言われてみると、イビツな
表現だなぁ)とは、一般的な個別科学(物理学、化学、
心理学、経済学などなど)を指しているのだが、
哲学にもそれと同様の「発展性」があるのは、その通りだと思う
特に現在でも分析哲学なんかは、そうした傾向は顕著
(で、
>>278 では触れられていないけど、一般特殊科学と
同様、直線的な発展をブチ切るパラダイム・シフトが
起こるのも、やっぱり似ている)
そう考えると、哲学と一般特殊科学とを分けているのは
谷川氏の記すような「質」の差ではなく、
実際は「程度」の差だと考えるのが穏当だと思ふ
哲学をばかにすることこそ、真に哲学することである。(4) 哲学者たちには280の最高善。(74-2) 真の善の探求。 普通の人々は善を、財産や外的な幸福や少なくとも気ばらしのうちに置く。 哲学者たちは、すべてそれらのもののむなしさを示し、彼らの置きうる場所に善を置いた。(462) 哲学者たち。 われわれは自分を外部に投げやる事物に満たされている。 われわれの本能は、自分の幸福を自分の外に求めなければならないことを感じさせる。 われわれの情念は、その対象が現れてそれを刺激しないときですら、われわれを外部へ押しやる。 外部の対象はまた、われわれがそれを考えていないときですら、 それみずからわれわれを誘い、われわれを呼びだす。 そういうわけで、哲学者たちが、「君たち自身に帰れ。 君たちはそこで君たちの善を見いだすであろう」と言ったところで、無益である。 人は彼らを信じない。彼らを信じるのは、最もむなしい愚かな人々である。(463) (パスカル『パンセ』、中公クラシックスより 末尾の番号はブランシュヴィック版の断章番号)
>>280 一つ訂正。最後の断章番号(誤)463→(正)464
ほかにもいくつか哲学・哲学者について書かれた断章があるが、
とりあえず、宗教・神絡みではない断章だけ引用
(パスカルの意図を、思いっきり裏切ってしまうけど)
>279 もちろん理解してますよ。 いろいろな定義を垂れ流しにして、それを考察するのも 面白いですからね。 「一般特殊科学」と哲学を分けようとするのは理解できます。 ただ、アインシュタインが相対性理論を導き出したその中には やはり哲学のような、順序だてた理論の発達があったと 思うのです。 僕が思うには、自然科学で証明されたことは、「実証」されうる けれども、哲学の証明は「実証されえない」という違いだと 思うんです。
哲学が人文学や自然科学と区別されるのは、 その主観的な問題によるものというよりは、その方式によるためだ。 哲学者は、自分が真理であると証明しようとする説をたて、 それをもとに、一般的には自分の理論をサポートし、 他の人間の理論を批判しようとする。 そしてその理論は特殊な形式を持っている。 哲学者の提示する理論の根拠は、すくなくともほとんど、 数学的な根拠とは違ったもので、それは普通、正式な 実演(formal demonstration)によって構成されていない。 また、それはどの記述科学(descriptive science)とも 似ていない。 哲学的な理論は、観察によって審議されるものではなく、 これらは中立的なある特定の事実関係に基づいたものだ。 A. J. Ayer:The Problem of Knowledge(Penguin books)より。 第一章を抜粋、おれ翻訳。よみにくかったら須磨祖。
風邪ひいちまって、数日2chから離れていた
(なんて健全なんだ!!)
>>283 一つ気になったのだが、formal demonstrationは
「形式的証明」程度でいいのではないだろうか?
いや、エイヤー読んでないから確たる自信はないのだが、
数学を念頭におくなら、そっちの方が意味がはっきりするのだが
>285 おだいじにー。 formal demonstration=形式的証明。 うん、そっちのほうがいいね。 最近日本語感覚がおかしいので脳内変換できたらツッコミよろ。
>>285 サンクス さて、一つ追加。サルトルっす
『哲学雑誌』
――哲学でない真の人間科学というものはありえないということを一応認めるとして、
その人間科学は哲学の全領域を極め尽くすでしょうか?
サルトル
――わたしは哲学の領域は人間だと考えています。言いかえれば、
[哲学においては]他のどんな問題も人間との関係によってしか考察されえない、と。
形而上学であれ現象学であれどの場合にも、人間との関係によってしか、
世界のなかの人間との関係によってしか問題はたてられえないのです。
哲学の場合、世界に関するいっさいのことは、人間がいる世界、
したがって必然的に、世界のなかにいる人間との関係において人間がいる世界なのです。
哲学の領域は人間が境界になっている、
これは人間科学がそれ自体で哲学たりうるということを意味するものなのか?
人間科学が到達しようとする人間は、哲学が到達しようとする人間と同じものなのか?
以上のような形で私は問題を立てたいと思う。わたしが努めて示したいのは、
何よりも方法というものが研究する現実に変化を惹き起こすということ、
あるいはこう言った方がよければ、人間科学の人間は客体であり、
哲学の人間は主体としての客体であるということです。
(サルトル「人間科学について」、『哲学・言語論集』人文書院の冒頭より)
これは、『哲学雑誌』編集部とサルトルとの対談形式。
人間科学といって念頭にあるのは、構造主義が始まった頃の人類学や精神分析学など。
たしかガイシュツで「定義はだいたいその本の最初の辺りにある」 というコメントがあった。それは実際その通り。 論述上では、哲学の定義が、その本の「前提」となって記されている。 しかし、いろんな定義を読んでいて思うのだが、 その定義とは実際には、その人がそれまで考えつづけてきた思想が 一点に凝集した「結果」なんだと、つくづく感じる。
288 :
考える名無しさん :04/03/25 19:23
最近、哲学ってなによスレがめだったので、age
289 :
考える名無しさん :04/04/13 01:15
ほしゅ
290 :
考える名無しさん :04/04/22 11:44
そもそも、どうして「定義」が必要なんですか?
291 :
考える名無しさん :04/05/11 01:35
哲=えらい人が 学=まなぶ
292 :
考える名無しさん :04/05/11 04:29
哲学ねぇ 考える事を学ぶじゃないのかね?いや何と無く 同じ事を繰り返し議論しても議論している人間やその感情はその時々に違う その時々にその議題に対して考えることで「考える」と言う事を体験的に学ぶのでは無いだろうか だから完璧な結論をもとめると言う形で結論を出さない事が最も重要だと思ったり それは同時に疑問を疑問の形で持続させると言う事 戦争はいけない事か→YES 日本の学生に聞けば大概の者はそう答えるだろう しかし「何故いけないのか」を自分で考えてYESと答える人間が何人居るだろう? 自分で考えずにYESという人間はNOと教えられればNOと答えるのだ あえて「戦争はいけない事だ」と言う側によっている事を自覚しつつ言うならば それが危険であるが故に考えることを促す「疑問」と言う物が存在し続けなければなら無いのでは無いだろうか 上記の例の様に思うゆえに疑問は存在し続ける必要があり 同時にそこにこそ哲学の意味があるのでは無いかと思う
293 :
考える名無しさん :04/05/14 17:35
哲学:大学の哲学教師には、理解も想像も想像もできぬものかな。
294 :
考える名無しさん :04/05/25 17:03
そうかな?(ppp
295 :
考える名無しさん :
04/05/28 06:35 ラッセル前にも出てたけど、もう一つ。 ちょっと長いかもしれんが原文挙げてみる。 Russell, Bertrand (History of Western Philosophy, Introduction) Philosophy, as I shall understand the word, is something intermediate between theology and science. Like theology, it consists of speculations on matters as to which definite knowledge has, so far, been unascertainable; but like science, it appeals to human reason rather than to authority, whether that of traditiion or that of revelation. All definite knowledge -- so I should contend -- belongs to science; all dogma as to what surpasses definite knowledge belongs to theology. But between theology and science there is a No Man's Land, exposed to attack from both sides; this No Man's Land is philosophy. 要は、神学と科学の中間領域が哲学って言ってる。 西洋哲学史、原文も読み易いね。