モーリス・メルロ=ポンティ

このエントリーをはてなブックマークに追加
1考える名無しさん
最近どうですか?
2考える名無しさん:03/07/30 01:29
とっくに死んだ
3考える名無しさん:03/07/30 01:29
このスレが大きく育ちますように・・
4考える名無しさん:03/07/30 01:31
メロンパンチ?
5考える名無しさん:03/07/30 01:33
メロンパンティ
6考える名無しさん:03/07/30 01:34
レヴィ ストロースと同い年
7考える名無しさん:03/07/30 01:46
「見えるものと見えないもの」読んだ人いる?面白い?
8考える名無しさん:03/07/30 13:40
>>7
夏休み中に読む予定です
9 :03/07/30 13:43
10考える名無しさん:03/07/30 15:43
>7
翻訳に25年!
11考える名無しさん:03/08/03 02:31
「メルロ=ポンティ大好き」みたいなタイトルのスレは落ちたのでしょうか?
12考える名無しさん:03/08/03 02:49
この夏はポンティがトレンド?

ポンティの簡単な説明を誰かお願い。
13考える名無しさん:03/08/03 02:56
現象学、実存主義の人。行動の構造、知覚の現象学、眼と精神、
見えるものと見えないもの、などしっかりした著作が多い。
サルトルのライバルみたいな人だった。

14考える名無しさん:03/08/03 13:29
哲学に興味のない彼女が「名前がかわいい★」っていってた。
「メルロ・ポンティ」
15 :03/08/03 14:34
メルロ・ポンティって何故か知らんが、糞マジメって言うイメージがある。
16考える名無しさん:03/08/03 14:55
>>14
で、そのあとその子にメルロの写真見せて絶句させてみろ
17考える名無しさん:03/08/04 07:35
   /⌒ヽ
  / ´_ゝ`)すいません、通りますよ・・・
  |    /
  | /| |
  // | |   舌かみましたがなにか
 U  .U 

18考える名無しさん:03/08/05 15:40
>>13
もっと詳しいのたのむ。
ポンティの業績ではなく思想を…
19考える名無しさん:03/08/05 23:48
テキトーなんだけど後期のイメージ
世界は存在の織り成す綾なのだ・・それは身体という生地で織られている
存在の交錯する只中に実存は屹立している。 ミタイナ・・・

いい加減な感想でスマヌが、マーヤーに近くなったような・・森羅万象というか
早くに死んでしまったが、生きていたら道元みたいなことを言ったのじゃ
ないかと思うよ。
20考える名無しさん:03/08/06 00:11
何歳で死んだの?
21考える名無しさん:03/08/06 00:19
40台後半位だったかな
22考える名無しさん:03/08/06 00:45
死因は?
23考える名無しさん:03/08/06 00:55
それがよくわからん・・「突然の死」なんて云われたりするからな〜
24考える名無しさん:03/08/06 05:31
木田元を読め
25考える名無しさん:03/08/06 12:23
メルロ=ポンチという日本語表記にすればよかったのに
26:03/08/06 12:40
まともなレスがつかないので本でも読みます。
だれかこのスレの削除依頼しておいて下さい。
27考える名無しさん:03/08/06 13:12
『構造と力』のせいで、ずっとポンティのことあなどってた。
28考える名無しさん:03/08/06 13:26
1のスレリードが悪いからまともなレスがつかない。
29あぽーん:03/08/06 14:37
あぽーん
30考える名無しさん:03/08/06 19:45
ポンティの概説書が多数出ているが
どれがわかりやすいのかね。
確か廣松も書いていたような…。

>>19
>世界は存在の織り成す綾なのだ・・それは身体という生地で織られている
>存在の交錯する只中に実存は屹立している。 ミタイナ・・・
世界=内=存在=身体ということでつか?


>>27
そのこころは…。

>>28
禿同
31考える名無しさん:03/08/06 20:05
>>29
禿同です
32考える名無しさん:03/08/07 08:21
>25
それだと2ちゃんでの呼び名は確実にチンポになってただろうな
33考える名無しさん:03/08/07 13:23
ドゥ・ヴァーレンの両義性の哲学読んだ人いる?
自分が読んだぽんてーの解説書はクワントのと木田元とかあるが・・・
ヴぁーれんのは訳書がなくて読めん。だったら原書読め!この厨房が!とか言われそうだが
原書ってきつくね?それとも皆さんは余裕なのかな・・・
ぅぅ哲ヲタ辞めよう
34考える名無しさん:03/08/07 15:28
>>33
ドゥ・ヴァーレンの「両義性の哲学」って
『行動の構造』の第2版によせた序文とは違うの?
それだったら『行動の構造』の訳書にも載ってるけど。

木田元の『メルロポンティの思想』は最近復刊されて
書店で見かけるけど、4200円の価値はありますか?
35考える名無しさん:03/08/07 20:51
「スーパー源氏」で『見えるものと見えないもの』が安いので4000円。
こっち買って読んだら?

おれは、お世話になってる先生の部屋からガメてきたのを、読み始めたとこです。
36考える名無しさん:03/08/08 08:42
市川浩はどうよ?
37考える名無しさん:03/08/08 09:01
>34
岩波現代文庫で木田元の本が2冊出てるから
そのうち『メルポンの思想』も岩波現代文庫で
出ると予想。待ってみては如何?
381:03/08/08 09:09
私のせいでこんなハクチなスレになってしまいました。
素直に謝ります。
すまんこです。

>>36
どうもこうも興味あるなら読んだら良いじゃないですか。
39考える名無しさん:03/08/08 09:14
>35
通報しました
401:03/08/08 11:08
>38
おい!お前人の名前騙るな!
俺が本物の1だ!
文句があるなら名前騙ったりしないで直接言え。
卑怯なことはするな!

>どうもこうも興味あるなら読んだら良いじゃないですか。

これは俺の1の書き込みに対する皮肉か?

>最近どうですか?

やり方が陰険で胸糞悪くなる。氏ね。
41考える名無しさん:03/08/08 12:13
痛い1だな・・・・
42考える名無しさん:03/08/09 01:07
まぁ、そういうな。ちなみに、私は1ではないぞ。

>>36
市川浩ってどうよっていわれても…どうよ。
43考える名無しさん:03/08/13 00:50
ageポン
44考える名無しさん:03/08/13 03:15
亡くなったのは1961年5月3日で、53歳(語呂合わせみたいだが)。
いわゆる心臓麻痺でした。

木田元の復刊本は、買ってもいいんじゃないでしょか。ちょっと厚いので
文庫にはならんでしょ。

ドゥ・ヴァーレンの「両義性の哲学」は、単行本。「行動の構造」の序文が
そのintroductionになってる(手は入ってるけれど)。でも、いまさらこれ
を原書で読まなくてもいいのではないでしょか?

45考える名無しさん:03/08/13 18:57
メルロポンティって日本語で読んでも分かる?
英語なら読めるので、英訳の方がいいかしら?
「仏語勉強しろ、ゴルァー」ってのはなしにしてくださいね…
46考える名無しさん:03/08/15 02:18
英訳は、正直なところあまりいいとは思えないのですが…。最近もあれこれと
出ていますが、それは見てないのでわかりませんけど、少なくとも主著に関し
ては、誤訳というか、抜けてたり、英語になってないんじゃないか、という
ところもある気がしますが…。

日本語は、それなりにいいと思いますけれど…。もっとも、メルロ=ポンティ
の語感とはちょっとずれてるかなあ? と思う箇所もないではないですが。
47考える名無しさん:03/08/15 02:18
http://bbs.galsoops.com/ph_bbs2/dbbs.php
原爆投下の日になんてやつらだ・・・
今日、乱交だってよ。ひでぇな。
48考える名無しさん:03/08/25 10:20
『知覚の現象学』の邦訳、みすずと法政大学出版とを
読み比べた人います? おれはみすずしか読んでないですが、
まあ、誤訳も少なく、訳文もこなれてて、いいと思いました。
法政の方はどうなのかなあ?
49考える名無しさん:03/09/01 12:02
ぽんち〜♪ ぽんち〜♪ ぽんち〜♪
めるろ〜♪
ハッ! ぽーんち〜♪

みんなでポンチーの歌をつくらう
50考える名無しさん:03/09/01 23:31
木田訳が最強
51考える名無しさん:03/09/02 11:57
>>50
名義だけじゃなくて、木田本人が訳してるの?
52考える名無しさん:03/09/02 14:12
木田の中の人もたいへんだな
53考える名無しさん:03/09/02 18:28
メルロ=ポンティの著書はどれもこれも結論部分が下らない。
例えば「Phenomenology of Perception」の結論部分は余りにも
馬鹿過ぎる。
曰く「we choose our world, and our world chooses us」
この馬鹿表現に感心はできても納得はできないのではないか?
又、納得したという人間がいれば、それは当人の独断と偏見が
特殊な解釈をでっち上げた結果の納得なのではないか?
メルロ=ポンティ自身は未完の遺作で過去作の内容を全面否定した
デタラメ人間なので、当人の書物を読むよりはJournal of the
British Society for Phenomenologyを購読したほうが遥かに
役に立つと思う。
54考える名無しさん:03/09/02 18:50
今時メルロ=ポンティの原典を丁寧に読む奴なんていないよ。
概略がわかっちゃえばもう結構、という扱いだよな。
55考える名無しさん:03/09/02 19:48
わろた
56考える名無しさん:03/09/03 01:12
>>53
メルポンは、結論じゃなくて、いかに新たな問いを建てるかという
思考のダイナミズムによって評価されるべき思想家だと思うな。
57考える名無しさん:03/09/03 03:25
>>56
気持ちとしては分からないわけではないけど
メルロ=ポンティの「前言撤回」を思考のダイナミズムと
言えるのかな?
あるいは、たとえ、あれが当人にとっては意味ある思考
ダイナニズムであっても、他人にとっては意味ある
ダイナニズムとは言えないように思う。
(もちろん、あらゆるダイナニズムはそれ自体で一つの
意味であるという話に反対するつもりはないが、今日に
おけるメルロ=ポンティの思考ダイナニズムは特に重要
とは思えない)
58姥捨て習慣見直し論者 ◇gtHyKr8wAA :03/09/03 03:31
ショがこーの給食におけるフルーツポンチは格別であった
59考える名無しさん:03/09/03 03:37
>>57
他人にとっては意味有るダイナミズムとはいえないということを、
おまえがいえるのか。ばかか。
60考える名無しさん:03/09/03 04:09
現象学は事象や世界の現出の現場に立ち会おうとする試みである。
知覚や意味創生の始原の場にあっては言葉は砕け散り自明性すら崩壊しかねない。
現象学的還元の困難性はまさしく、ここにあるのだが、メルローポンティは
この困難に立ち向かった果敢なる戦士といってよいだろう。
61考える名無しさん:03/09/03 04:51
>>59
他人にとっては意味無いダイナミズムとはいえないことを、
おまえがいえるのか。ばか。
62考える名無しさん:03/09/07 02:01
メルポンあげ
63考える名無しさん:03/09/07 02:04
下げ下げ
64考える名無しさん:03/09/07 13:36
>>53
>メルロ=ポンティ自身は未完の遺作で過去作の内容を全面否定した
>デタラメ人間なので、
こんな基準だと、ウィトゲンシュタインやハイデガーまで
デタラメ人間になっちゃうね。

>メルロ=ポンティの「前言撤回」を思考のダイナミズム
ヘーゲルの「精神現象学」読んだことある?それと比較してみな
65考える名無しさん:03/09/07 20:36
66考える名無しさん:03/09/07 20:44
ヘーゲル最強
67考える名無しさん:03/09/07 21:06
ハイデもウィトも拡大解釈マンセーによって生き延びているだけ!
ほんとはもうかちはない。
68考える名無しさん:03/09/08 02:05
>ほんとはもうかちはない
拡小解釈です.全ての思想は
解釈によって受け継がれ,改変
されてきているので,基本的に
時代(社会が学問の)が求めている
ものに近い思想が生き延びます.
69考える名無しさん:03/09/08 02:06
いやぁ踏み切りってのはあれだね。
70考える名無しさん:03/09/08 02:10
哲学のホントの価値なんて何百年単位じゃないとわからんさ
71考える名無しさん:03/09/14 01:46
あげ
72考える名無しさん:03/09/15 02:17
まじめにやれ〜
ドゥルーズスレを見習え
73考える名無しさん:03/09/26 23:47
age
74考える名無しさん:03/09/26 23:54
sagi
75厨房 ◆TDFFzP5Uj. :03/09/26 23:59
どうも、新参者です
ここに僕と同じようなコテハン使ってる人います?
76厨房 ◆mG72eoscQI :03/09/27 02:03
私ですが,何か
77考える名無しさん:03/10/07 00:21
age
78考える名無しさん:03/10/07 00:30
メルロポンティのコレクション1は読んだが、
間身体性の『知の現象学』は読んでない。非常に興味深いんだが
読むのはもう少しあとだな
79考える名無しさん:03/10/15 23:44
木田氏によると「知覚の現象学」はカッシーラーの「シンボル形式の哲学」
の影響が大のよう。読み比べると、やっぱ似てるな。実験現象学のカッツ
の引用なんかカッシーラのコピーじゃねーかっていう感じ。色を扱ってる
ところだけど、おのれたちはどう思いまつか?
80おのれ 其の1:03/10/25 06:41
その上を 歩きたかった と おのれは 思います。
81考える名無しさん:03/11/04 23:49
『眼と精神』800円でゲトした
82e1:03/11/05 02:18
>79
ゴルドシュタインの丸写しだという説もありますね。
それと現象学の宿命だと思うんですよ、具体的なものに引きづられていくというのは。
当時の人間諸科学の成果は限られたものだったわけだし、情報量も少なかった
ので、どうしても同じ情報を共有してしまうという側面もあるでしょうし、
それをどう扱うかということさえ、すでにその情報自体に引きずられてしまうのですから。
83考える名無しさん:03/11/05 02:55
同じ具体に引きづられるのなら、ベルクソンの方が魅力的
84考える名無しさん:03/11/05 19:26
めるろくん元気かな・・・
85考える名無しさん:03/11/05 20:06
初めて読む人に最適な本は?
86考える名無しさん:03/11/05 20:09
モーレツ・メロン=パンティ
87考える名無しさん:03/11/07 04:02
>>85
講談社の現代思想シリーズ、鷲田のは?
最近廉価版出たし。
88考える名無しさん:03/11/07 04:12
めるろくんて? そういうコテの人がいるの?ポンティならとっくに
くたばってるし・・・。
89考える名無しさん:03/11/07 04:14
「世界内存在」を「身体」の観点から読み直しただけでしょう、この人は?
心理学とか美学の人たちが重宝してるだけのような気がしますが……。
どこがそんなにえらいんでしょうか?
誰か教えてください。
90考える名無しさん:03/11/07 04:59
フッサールの現象学を最も真面目に継承しようとした。
うまくいったかどうかは別問題。
91考える名無しさん:03/11/07 06:22
めるろ君はがんがってるよ
92考える名無しさん:03/11/12 19:27
「もの」に見られていると言える根拠はなんですか?
「肉」?
93校長が強盗:03/11/12 19:50
この事件は報道されていません。教育委員会も校長を処分しません。
 皆様の力でこの事件を広めてください。
被害者先生のサイト
 http://www.geocities.co.jp/NeverLand/8595/
 事件究明を求める署名サイト
 http://chiba_273.at.infoseek.co.jp/
   ∧_∧
  (  ^^ )< ひろめよう
94考える名無しさん:03/11/13 11:08
あややに見られているような気がするのは錯覚ですか事実ですか?
95考える名無しさん:03/11/14 23:28
ブッチャー・ザ・オントロジー
96考える名無しさん:03/11/15 00:30
メルロポンティを読む上で、経過していなくてはならない文献ってありますか?
やっぱりフッセルとかハイデガーとかは必須ですか?
97考える名無しさん:03/11/15 00:34
>>96
サルトル
98考える名無しさん:03/11/15 00:38
ヴァレリィ、ベルクソン
99考える名無しさん:03/11/15 00:39


     '´ ̄ ヽ
    | ///人 ゝ
    | ゝ ゚ -゚ノ |     フッサールでしょ
   ノ /.<T>スノ
   (w|_〉全〈 ゞつ
    りノ_||_>、
    //|_|_| ノ|
    ん l_ハ_<ノ
100考える名無しさん:03/11/15 00:40
マルクスも
101考える名無しさん:03/11/15 00:40
メーヌ・ド・糜爛って読んだことないなぁ。
読むべき?
102考える名無しさん:03/11/15 00:42
ゲシュタルト心理学、ピアジェ、ワロンなどの発達心理学
103考える名無しさん:03/11/15 00:55
ラカソ
10496:03/11/15 02:06
教科書的には、ポンティとかサルトルは、既存の自然主義哲学に絶望し、現象学に希望を見出したみたいな説明がなされているようですが。
さらにサルトルらはマルキシズムにはまって言ったようだけど、ポンティさんにそのイメージはなかったなぁ。
たまたま今、フッサールを読んでいる訳ですが。
まぁ理解不能ですが。要するに、意識が対象を判断する段に、判断する我々の意識の性質対象の判断に大きく影響してるとかいうことですよね。志向性云々というのは。
結局「先入見を排して物事を見てるつもりになっても、これこれこういうメカニズムで、偏見が入り込まざるを得なくなっているわけだから、注意しなさいよ」と彼(フッサールさん)は言いたいのでしょうか。
その辺の事を詳細に、かつ発展的に分析検討したのが、ポンティさんの業績なのですか?




10596:03/11/15 02:08
○我々の意識の性質が対象の判断に

なんか荒らしてるみたいですいません。

106考える名無しさん:03/11/15 02:40
ポンティさんはマルクス主義から離れていくよ。
107考える名無しさん:03/11/15 03:57
そして構造主義に近づいていくよ。
108考える名無しさん:03/11/15 14:29
カール・ポパーはどうですか?
友人がすごいって言うんですが。。
109考える名無しさん:03/11/15 15:00
>>102
ヴァルフガング・ケーラー『類人猿の知恵試験』を読んでみたけど、純粋に面白かった。
チンパンジーのやることが笑える。

F.J.J.ボイテンディクの『人間と動物』は、
ぱらぱら見た感じは『行動の構造』のコピーみたいな感じかも。
110考える名無しさん:03/11/15 15:00
111考える名無しさん:03/11/16 02:38
>>108
社会科学者受けがいいだけ。
112考える名無しさん:03/11/16 17:08
モノが私を見ているっていうのはマジですか?レトリックですか?
113考える名無しさん:03/11/16 18:19
思考実験です
114考える名無しさん:03/11/16 18:32
どちらでも無いってことですか?もう少し詳細キボンヌ。
115考える名無しさん:03/11/16 18:38
>>114
マジとレトリックのどっちかしか選択肢がないと思っているなら
哲学はあまり向いていない
116考える名無しさん:03/11/17 18:28
>>116
いじわる言っちゃいけませんよ。
117考える名無しさん:03/11/17 18:54
>>116
けれど、
一義性のない言語使用=即メタファーという考え方は哲学を殺す。
メルロ=ポンティがセザンヌを参照するのも、
単なる芸術好きと混同されかねない。
118考える名無しさん:03/11/17 18:54
「思考実験」は問いに対する答えとして適切ですか?
119考える名無しさん:03/11/17 18:57
>>118
きみが答えなよ
120考える名無しさん:03/11/18 13:10
a
121ら@:03/12/03 03:43
可逆性の哲学という触れ込みの後期メルロ・ポンティの作品を読み始めたら
すぐに飽きてしまった。要するに主観‐客観関係について手を変え品を変え同工異曲的に
ダラダラと言い換えているに過ぎないように見える。
野性的な存在、前科学的な経験についての記述が重要だというが、その記述は何に役立つのか?
要するに現象学という体裁を取った自分語りに過ぎないのではないか。
後年の探究は、晩年のヤスパースもそうであったような、ただの記述に過ぎないのではないのか。
122考える名無しさん:03/12/03 03:54
らげ?
123ら@:03/12/03 04:04
何か文句あるか?
124考える名無しさん:03/12/03 04:20
あるわけないじゃん
125考える名無しさん:03/12/05 21:33
シュザンヌ・メルロ=ポンティ夫人って誰?
奥さんいたの?
126考える名無しさん:03/12/05 23:02
>>92
便宜的に主客二元論にひきづられた表現を使えば、
「もの」に見られていなければ、「わたし」も「もの」を見ることができないから。
127考える名無しさん:03/12/08 01:57
>>126
なんで「モノ」が見ることができるの?
鉛筆に視力があるのか?
他者をモノに投影したのか?
詳しく教えてほしぃ。
128考える名無しさん:03/12/08 02:01
>>126
物神論
129考える名無しさん:03/12/08 04:18
世界と私は同じ肉でできてるから
130考える名無しさん:03/12/08 04:21
>>127
前人格的な「もの」(他者)に「見られている」という反省的意識において「私」
なる主観は成り立つのであり、それがあってはじめて「私」は外部の「もの」を
見ることができる。つまり、私が何かを見ることには、つねに何ものかから見られている
という前提がもともと含まれているわけだ。
これをもっとも厳密に説明したのが、ラカンの鏡像段階論。
これくらいの説明で勘弁してくれ。
131考える名無しさん:03/12/08 04:40
こうしてまた貴重な一日はまた終わっていく
132考える名無しさん:03/12/08 12:00
自己解釈能としての現存在を可視性に適用しているだけ・・・ではないのか?
133127:03/12/08 20:07
レスありがとうございました。問題がまた生じてしまいました。

@ものに「見られること」は,あくまでも主観成立の「前提」なんですね。
 主観が成立した後では,「見られている」という感覚は,他者の視線を
 感じる以外には,生じてこないのではないか。

Aものに「見られている」という感覚はどうやってしょうじるの?
ものに見られるから主観が成立することはわかるけど,
そのときの「もの」はどうやって認識できたの?
つまり,主観成立以前に「もの」は認識できないのですか?という質問です。

>>132
あの,もう少し分かりやすい説明をお願いいたします。
134考える名無しさん:03/12/08 20:54
サルトルの「まなざし」とポンティのは違うよね?
135考える名無しさん:03/12/08 20:55
アンドレ○シャンの詩だな。
136考える名無しさん:03/12/09 12:59
>>132
それ倒錯。

可視性の分析から現存在の構造を限定付けるという方向。
137考える名無しさん:03/12/10 02:46
>>133
主観の成立以前には「もの」を認識したり、何ものかに「見られている」といったことは
言えないではないか、という質問ですね。
経験的にはその通りです。「もの」「を見る」「私」というような関係性はそれが理解される
ときには一挙に与えられている、としか言い様がありません。
ただその仕組みを解明するためには、事態の成立の論理的順序に訴えることができます。
数学の証明が無時間的な成立を示さなければならないように、ここでの主観的意識の成立と
いった哲学的問題も、そういうものとして理解しなければなりません。
したがって、ものが先に見るか、私が先に見るか、というような問題ではないのです。
138127:03/12/11 01:54
>>137
どーもありがとうございます。よくわかりました。
では問題は「見るー見られる」と一体に捉えられていた現象が
どうやって「見る」-「見られる」という図式に移行していくか,
というところにあるのでしょうかね。

それから,生得的な知覚カテゴリーは,説明の中にはいってくるので
しょうか。赤ちゃんははじめから人間の顔には敏感に反応するとか。
139考える名無しさん:03/12/11 08:27
9-12ヶ月くらいで、他者の注意をモニタリングできるようになりますね。
Tomasello(1995)はそれがJames(1890)の経験的自己の本質だと言ってます。
ちょうどLacan(1949講演/1966)の鏡像段階の時期に重なっています。

顔状のものに反応するのは、生後数日以降みたいです(Johnson & Morton,1991)。
特定の顔に反応するには数ヶ月要するそうですが。
140考える名無しさん:03/12/12 01:00
鏡がない文化でも鏡像段階はあるのですか?
141考える名無しさん:03/12/12 01:48
>>140
「鏡がない文化」なんてあるのか
142考える名無しさん:03/12/12 02:22
動物に育てられたらその動物の身体図式になるのかな
143考える名無しさん:03/12/12 08:03
>>140
水鏡がある
144考える名無しさん:03/12/12 17:42
水面を鏡として利用できる環境が整っていても,
そのように利用しない人々もいるのではないの?
いずれにせよ,「自分の姿を実際に見る」という体験
がない文化もあるでしょう。
145考える名無しさん:03/12/12 19:08
>>144
推測だけで適当なことを言ってはいけない
146考える名無しさん:03/12/13 01:53
>>145
盲目の人はどうやって自己像を把握するのか答えてみろ
147145でないけど:03/12/13 06:19
>>146
触覚
148145:03/12/13 07:18
>>146
身体感覚と分節言語があれば自己意識は生まれる。
直接「視る」ことだけが自己像を把握する方途ではない
>>146
言語じゃない?自我が覚醒してからの。
150考える名無しさん:03/12/13 11:54
W A T E R
151考える名無しさん:03/12/13 17:41
necessaries
152考える名無しさん:03/12/13 19:04
>>148
メルロ=ポンティは視覚コントロールの重要性を主張してた。
というかラカンを引いているので鏡像段階論そのまんまなんだが。

身体像の知覚は視覚に限ったものではないが、
鏡像段階のポイントは、現実的な「寸断された身体」と、
視覚イメージで捉えられる「ひとまとまりの身体」の対でしょ。
人間の感覚のなかで「ひとまとまりの身体」を奪回できるのは、
視覚モダリティしかないよね。

鏡像段階の時期は言葉を聞いても分節する能力ないはず。

>>149
ここでは、自我が覚醒する条件が自己像の把握では。

でたらめ言ってたらすまそ。
153考える名無しさん:03/12/13 19:15
鏡像段階って人間にしかないの?
154考える名無しさん:03/12/13 23:36
おぬしら他者の存在を忘れるでないぞ
155考える名無しさん:03/12/14 00:09
ンな簡単に忘れられるなら現象学の限界を突破してるっつの。
156考える名無しさん:03/12/14 21:00
マジレス。
俺、指導教授から「鏡のない文化に対して盲目なメルロポンティは
研究に値しない」って言われたぞ。
因みに、奴はフランス近代哲学を専門としているのだが。

実力のなかった(今もだが)俺は、怖気づいて研究職を諦めて実業家になった。
誰か、このあたりを分かりやすく説明しておくれ。
教えて君ですまん。
でも、自分なりに整理できたら、書き込ませていただきます。
157考える名無しさん:03/12/14 21:03
他のうちに自己像をみる
158考える名無しさん:03/12/14 21:05
>>156
しかし研究される側の人間が,研究する側の人間にここまで言われるのって
おもしろい現象ですね。じゃあお前はどうなんだと・・・
159考える名無しさん:03/12/14 23:12
>>156
要は自己の身体像の知覚ができればよいわけだから、
同種個体(たいていは母親?)が存在するなら、鏡はかならずしも必要ないと聞きました。

ただそうなると、盲人はどうなるんだ、という点は気になるんですけど……
視覚の優位性はポイントみたいなんで。
160考える名無しさん:03/12/14 23:37
よく言えば洗練されてるという事なんだけど
悪く言うとキザだよね
鏡の無い文化だと毎朝落胆しなくていいから、さぞかしメルロがポンティでしょう
161考える名無しさん:03/12/15 05:16
>>156
その先生はデカルトマンセーなんじゃ?
ポンティは、デカルト批判してるし
162考える名無しさん:03/12/18 01:28
>>161
ポンティはデカルトの身心二元論を
両義性に変えただけですか?
163考える名無しさん:03/12/18 01:51
>>162
そういう早わかりで充分かもな、君なら。
164考える名無しさん:03/12/18 01:58
哲学は結果じゃなくて童貞が重要
165考える名無しさん:03/12/18 02:11
>>164
じゃあお前哲学に向いてるな☆
166考える名無しさん:03/12/18 03:33
メルロ万歳!
167考える名無しさん:03/12/18 04:54
始原の知覚の問題は、日常的意識の解体によって部分対象にのめり込むことだ。
「木を見て森を見ず」ということだ。
168考える名無しさん:03/12/18 11:30
知覚には頽落ってコトバは使わないのかな
169考える名無しさん:03/12/18 11:52
>>168
ハイデガーは案外常識人だからね。
そういう病人めいた事態に興味がないと見た。
170考える名無しさん:03/12/23 16:17
>>146
>>152
>>156
>>159
心理学板で質問したところ、丁寧に教えていただきました。

視覚によって寸断された身体のまとめが不可能な場合は、
身体感覚が母の欲望と一致することで、
まとまった身体のイメージが形成されるようです。
171考える名無しさん:03/12/23 23:51


256 名前:108 :03/12/23 12:30
>249
胸像段階はイメージによって、「寸断された身体」がある種のまとまりを得られること、
そしてそれに付随する歓喜を表現している。視覚イメージだけでなく、筋感覚・内臓感覚等の
身体感覚に母の欲望と符合する(「そこは手よ、足よ」と呼びかける)なら、
同様に胸像段階を通過できる。
172考える名無しさん:03/12/24 00:36
メ。。。。メルモちゃん。。w
173考える名無しさん:03/12/31 04:55
保守
174考える名無しさん:04/01/11 03:57
活気が無いね。でも落とすのももったいない。
175考える名無しさん:04/01/21 20:56
保守
176考える名無しさん:04/02/01 13:31
ほしゅ。
177考える名無しさん:04/02/02 14:25
この人スポーツカーに乗ってたんだっけ?
178考える名無しさん:04/02/16 19:01
保守っとこう
179考える名無しさん:04/02/20 01:33
>>156
遅レスだが、その先生知ったかだね。いいかげんな講義してるのおw
鏡っていうのは、幼児の自己認知や他者認知の発達段階を測るための
リトマス試験紙のようなものだよ。
「鏡のない文化に対して盲目」なんて…
そんなこといったら、ワロンやラカンはどうなんの

180179:04/02/20 01:42
>>159
>同種個体(たいていは母親?)が存在するなら、鏡はかならずしも必要ないと聞きました。
そのとおり。広松渉は他人が「他者鏡」として機能するからいいといっていた。

>ただそうなると、盲人はどうなるんだ、という点は気になるんですけど……
>視覚の優位性はポイントみたいなんで。
後期はむしろ触覚を優位におこうとしていた。触覚モデルで視覚を説明しようと
していた。触覚なら、触れる−触れられるという関係が直接的だから、自己認知の
発達の話もしやすかったんだろうね。触れている自分に触れることはできるけど、
見ている自分(の眼)を見ることはできないからね。
181179:04/02/20 01:57
例えば、後期の『眼と精神』で画家アンドレ・マルシャンの
「森の中で絵を描いているうちに樹木に見られているように感じ始めた」
という体験を引用しているね。これは、視覚というものを触覚モデル
で考えようとしているからのように思われる。
 つまり、物に触れることは必然的にその物に触れられることを含むけど
(物に触れられずにそれに触れることはできない)、
そのことから、物を見ることはその物に見られることを含むかどうかと
いうことを考えようとしたようだ。それができれば、触覚モデルで
視覚を説明できるからだ。
 それを説明するために、遺構『見えるものと見えないもの』では
可逆性(転換可能性)という概念を導入してきたのだろうとも思える。
182考える名無しさん:04/02/20 03:56
見る見られるという関係は、
見る漏れと見られるパソコンのスクリーンにも当てはまりますか?
183考える名無しさん:04/02/20 04:20
>>182
もちろん当てはまる。
184考える名無しさん:04/02/20 16:20
メルロ=ポンティの価値がわからない哲学研究者は愚鈍としか言いようが無い
185考える名無しさん:04/02/20 17:01
メルロの最後っ屁(VI)は大変なものだな。
実まで出てると言おうか。
186考える名無しさん:04/02/20 17:10
始祖のフッサールが視覚偏重の現象学者だからな
187考える名無しさん:04/02/20 17:15
その見方は見当違いな気がする。
188考える名無しさん:04/02/20 17:17
なんで?
フッサールの遺産を受け継いだんだから
メルポンが視覚を重視するのは
189考える名無しさん:04/02/20 17:20
疲れるに決まってるだろ?
190考える名無しさん:04/02/20 17:21
知覚において視覚を重視する際のスタンスの取り方が両者で全く違っているように見えるから。
特にメルは「見えるものと見えないもの」と言っても、
触覚(二重感覚)の話がかなり効いてるから
191考える名無しさん:04/02/20 17:51
根源的経験を脱構築しちゃったデリダのフッサール批判はそのままメルポソに当てはまる。
192考える名無しさん:04/02/20 18:01
それも乱暴な見方だな。
俺は支持できない。
193考える名無しさん:04/02/20 18:10
お肉は差延すら包摂する。
他姓もドロドロに消化して、
だけどその都度未消化に終わる。
194考える名無しさん:04/02/20 18:17
現象学を現象学たらしめている基本はアポファイネスタイ・タ・ファインメナノナで、
そんなものがあると前提すること自体イタイ。
195考える名無しさん:04/02/20 18:20
ハイデガーは視覚偏重という感じがしない
196考える名無しさん:04/02/20 18:25
メルロ=ポンティのドグマなきマルクス主義というのはいい人っぽい。
197考える名無しさん:04/02/20 19:01
アルチュセールがメルポンのことを生きているときから死んでた。呼ばわりしてた。
アルチュセール酷い!
198考える名無しさん:04/02/20 19:04
ポルシェに乗ったり、ブルジョアっぽい振る舞いが目立つから?
マルクス主義被れの知識人から評判良くないよな。
199考える名無しさん:04/02/20 19:07
「己を示すものを、
それがそれ自身の方から現れてくる通りに、
それ自身の方から見えるようにすること」
200考える名無しさん:04/02/20 19:12
>>199
ハイデガーのスレに貼ってこい
スレ違いだ、バカモノ
201考える名無しさん:04/02/20 19:18
200は現象学を知らんらしい
202考える名無しさん:04/02/20 19:31
フッサールにおける現象学の定義って
どんなんだったっけ?一言で。
203考える名無しさん:04/02/20 19:32
フッサール「事象そのものへ!」
204159:04/02/20 20:16
>>179-181
「大人から見た子ども」でラカンを取りあげる際に、
視覚による自己像の把握について、身体の奪回の重要性について触れていますよね。
寸断された現実的な身体と視覚によって捉えられた身体とのズレが大事なんだと思いますが、
触覚経験で、そのようなことは起きるのでしょうか。

このことは、単に自己認知という観点では必要ないかもしれませんが、
自己認知や自我の“発達”という観点では、必要ではないかと。
205考える名無しさん:04/02/20 23:58
>>201
現象学のスレじゃなくて、メルロのスレだから
おわかり?
206考える名無しさん:04/02/21 07:08
現象学抜きでメルポンは語れない
207179:04/02/21 16:23
>>204 レスども
「自己認知という観点」と「自己認知や自我の“発達”という観点」の
違いがよく分からないので、的はずれなレスになるかも知れませんが…

ラカンでは、幼児は鏡像によって初めて自己の全体像を獲得する
(ただしそれは自己の外部に)、ということでしたね。
これが、そしてそれ以後(つまり、全体的ではあるが外的な自己像獲得以後)
の観点が、あなたのいう「発達という観点」なのでしょうか。

そうだとすると、ラカンの関心の中心は自己像獲得以後にあったということは
できるでしょう。(初期のラカンは獲得以前にも関心をもっていたようですが)

ただ、なぜ鏡を見て自己の全体像だと理解できるのかということを
考えると、それ以前に何らかの形で自己の全体性が先取りされていた
と考えることができるでしょう。その際、視覚も部分的には関わって
きますが、中心になるのは触覚ではないかと思います。そして、そこに
メルロ=ポンティの関心の中心があったのだと思います。

まとめると、ラカンの関心の中心は鏡像理解以後の自己の発達で、
メルロ=ポンティの関心の中心は鏡像理解以前だったと考えることが
できるのではないでしょうか。
208考える名無しさん:04/02/21 17:47
キネステーゼ!!!
209159:04/02/21 23:57
>>207
わかりやすいレスありがとうございます。

マイケル・トマセロ(1995)が、9-12箇月ごろに自己の始まりを措定しています。
証拠は視覚的共同注意でした。
他者が何かを見ているのに気づくことができるというものです。
もちろん、自分自身が見られているということを含めて。
これは、鏡像段階と関係があると考えられますか?
210179:04/02/22 13:29
>>209
マイケル・トマセロなど、最近の研究はフォローしてませんでした。
ありがとうございました。

それはこういうことでしょうかね?
*「他者が何かを見ているのに気づくことができる」→「他者は見ることができる
 存在(=主体)であることに気づく」→他者認知の成立
これがさらに進んで、
*「自分が他者に見られていることに気づく」→「自分が見られうる存在(=客体)
 であることに気づく」→自己認知の(部分的)成立?

 さて、自分の鏡像を理解するためには、自分が「見られうる存在である」とこが
理解されていないといけないわけですが、自分で自分の顔を直接見てそれを確かめる
ことはできません。
 そこで、自分が他者に見られうるということを通してそれを理解しないと
いけないのでしょう。そしてそのためには、他者の眼差しの存在に気づいていないと
いけない、ということでしょうか
211159:04/02/22 20:00
>>210
>それはこういうことでしょうかね?
そうです。
トマセロでは、他者の視線の先は、幼児以外の何かであることも、幼児自身であることもありました。
他者の意図・注意の検知が自己認知の始まりであると考えています。
ここから、鏡像は原初的には他者像であるということがいえると思います。

あと、参考ということで……。

動物で自己鏡像認知を試す実験がいくつも行われています。
霊長類でいうと、サル(類人猿(ape)を除く霊長類をサル(monkey)と呼びます)は
鏡による自己認知はできないが、類人猿はできるというものでした
(いくつか問題はあるので、断言できるわけではありませんが)。

鏡像における随伴性(自分が動けばそれに対応して鏡像も動く)は、
サルでは訓練しないと認識できませんが、類人猿では自発的に認識できるようになります。
サルでは鏡像に対する社会的な反応は見られますが、自己志向的な反応には進みません。
これは、随伴性が理解できないことと関係があるかもしれないと思います。
鏡に映ったサルが他者像であることはわかっていても、
それが自分だとはわかっていないことになりますが、
これは、それは鏡にイモが映っていても、
それがこちらにイモがあることのシグナルでしかない、ということと似ていると思うからです。

では、チンパンジーなどの類人猿では、どこまで自己認知が可能なのでしょうか。
この点はメルロ=ポンティもラカンも考察していなかったと思います。
当時は不可能だと考えられていました。
たしかケーラーがどこかでネガティヴな結果か出ていた(?)。
212159:04/02/22 20:01
あげ

動物奇想天外にチンプが出ていますね。
213179:04/02/25 00:50
>>211(>>169)さん、レスども!
勉強になりました

>では、チンパンジーなどの類人猿では、どこまで自己認知が可能なのでしょうか。
これは興味深いですね。実験方法を工夫すれば、なんとかできるような気もしますが…
214考える名無しさん:04/02/25 00:58
>>211
あまり関係ないかもしれませんが、
うちのイヌは臆病で、どんなよそのイヌをみてもすぐに吠えます。
で、鏡に映った自分の姿はじっと見つめていますが、
その鏡に他のイヌの写真を映してみせると、吠えます。
これって、鏡に映る自分を認知していることにはなりませんかね?
215179:04/02/25 01:42
>>214さん
う〜ん、難しいですね。じつはものすごい発見かも? 従来はイヌは
鏡像が自己のものだとは理解できないはずなんですが…(敵か仲間か)

でも、この可能性はないですか? そのイヌはブチであるとして、
親などもブチで、鏡像を親か近親者と勘違いしてるとか…?
(つまり、自分の近親者と似てる→自分の仲間…) どうでしょうか?
216179:04/02/25 08:20
・215の補足
例えば、番のインコは、片方が死んだとき、鏡像をその死んだ
インコだと思って、それにずっと寄り添っているということが
あるようです。
217214:04/02/26 01:37
>>215
僕もよくわかりませんが。
ちなみにうちのリリちゃんは、雄のポメラニアンです。
218考える名無しさん:04/03/04 14:23
メルポンにとって「聴覚」はどういう位置づけなんでしょうか?
219考える名無しさん:04/03/09 05:15
院試が終わったら(今年の夏)、邦訳使ってですが、『行動の構造』を読んでみます。
専攻は哲学じゃないし、フランス語読めないので、邦訳になるのですが。
せっかくなので、最近の比較行動科学や比較認知科学の成果も、できるかぎり見てみたいです。

ざっと見たかぎり、チンパンジーの説明にアカゲザル(ニホンザルの仲間)のデータを持ち込んでいるので、
今の比較認知の立場からは、とんでもないレヴューだと思うのですが。
シンボルの能力に対して行動的な観点から見るには、ぜひ読み直したかったので。

わからなかったら、質問させていただきます。

……保守ついでに妄想を述べたまで。
220考える名無しさん:04/03/09 12:10
>>219
今読めばいいじゃん
ていうか、2ちゃんで半年後の話をされても覚えている香具師はほとんどいない
コテハンならともかく。

院試がんがれ。
221考える名無しさん:04/03/09 12:34
>>220
レスくれる人がいるとは思わなかった。ありがとう。
実質的に理転だから、院試今からやらないとキツイ。
222考える名無しさん:04/03/09 12:51
>>219
理転してメルロ=ポンティ読むのか。
すごいな。がんがれ。
223考える名無しさん:04/03/09 12:58
東大科学史で村田につこうとしているのでは?
224考える名無しさん:04/03/09 23:28
>>223
やることは文系。
ただ、大学の組織上、その院が理系だから。
試験科目は理系の問題がほとんど。
225t:04/03/10 00:57
>>218 遅レススマソ
「もろもろの感覚は物の構造にみずからを開くことによって互いに交流し合う。
われわれはガラスの硬さともろさを見るのであり、それが透明な音と共に割れる
ときには、この音も目に見えるガラスよって担われるのだ。われわれにははがねの
弾性や灼熱したはがねが引き延ばせること、カンナの刃の硬さ、カンナくずの柔らか
さが見えるのである。…」(『知覚の現象学』(諸感官の交流)(みすず第2巻40頁)

 メルロ=ポンティは「共感覚」といわれる現象を範型としてこの問題を考えている。
すなわち、視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚は体験世界においてはバラバラな感覚なのでは
なく、それゆえ別々の物として取り出すことができるものではない。むしろ、それらは、
おのおのの独自性を保ちつつも、不可分に交流した形で与えられている、ということ。

後期では「諸感覚の転換可能性(可逆性)」という言葉で論じられるが、事象的には
同じ事態を指している。
226考える名無しさん:04/03/13 09:04
明日はモーリス・メルロ=ポンティの誕生日です。
227考える名無しさん:04/03/13 09:06
>>226
3へぇ
228考える名無しさん:04/03/14 02:33
ハッピバースデーage
229考える名無しさん:04/03/14 02:40
メルポンは木を見て森を見ずになった。サルトルにもハイデガーにも追いついてない。
悪いが・・・学術的ではあったね。
230考える名無しさん:04/03/14 03:23
サルトルだぁ〜?
231考える名無しさん:04/03/14 11:13
サルトルってか…

( ´_ゝ`)フーン 
232考える名無しさん:04/03/14 11:23
メルロ・ポンティは、サルトルやハイデガを追いかけているわけじゃな
いだろ? そうだったら、「追いついていない」というのは馬鹿げてい
るんじゃないかい?
233☆キキ+キ゚Д゚♪ ◆ooOooooopo :04/03/14 11:37


なるほど、、、
234考える名無しさん:04/03/14 21:32
ハイデガは追いかけてたような気がする…

まあ、でもメルポンは独自の存在論を確立しようと
したようだが…
235考える名無しさん:04/03/14 21:35
つまり穏健なシェリング。
236考える名無しさん:04/03/15 23:41
そういえば、前のレスで、メルポンは鏡のない文化を排除してる、
ってのがあったけど、
 デリダのエクリチュール主義を、文字をもたない民族への
差別だ、というDQNはまだいないね。まあ、DQNなりにデリダは
そう容易くないと思っているからなのだろうか……)...。oO(´-`)
237考える名無しさん:04/03/29 11:41
保守
238考える名無しさん:04/03/31 22:56
原生動物(単細胞)のミドリムシは眼点という光を感じる細胞内器官を持っている。
これについてポンティは何か言及している?
239考える名無しさん:04/04/10 01:02
>>218
>>225
でもやっぱりメルロの現象学は視覚寄りなのは否定できないんじゃないかな。

音楽・聴覚についての現象学ならデュフレンヌがいろいろ書いてたような。
240考える名無しさん:04/04/10 12:06
視覚とイメージの区別ができてねーじゃん、メルロ。
241考える名無しさん:04/04/12 00:48
>>239
それは、たんにメルロが絵画好きだからそんな印象がつきまとうんじゃないかな?
確かに『眼と精神』、「セザンヌの懐疑」は重要文献だが。
まあ、聴覚については、確かに弱いと思うな。

>>240
そこで言ってるイメージってなに? ベルクソンのイマージュ?
242考える名無しさん:04/04/16 12:50
アンリ君のほうがおもしろいし、わかりやすい。(わかりやすくもないけど・・・)
なんでアンリ君って人気ないの?
243考える名無しさん:04/04/16 13:35
現象学は凡庸学者でも参加できる「運動」だから。
ベルクソンの哲学は一般化しにくい。
244考える名無しさん:04/04/25 10:40
245考える名無しさん:04/04/25 16:50
可逆性・肉・キアスム(交叉配列) についても述べてみたら?
メルロ=ポンティの哲学の中心的なタームでしょう。  
246考える名無しさん:04/04/25 20:20
「物自体=意志」説に近いような・・・
247考える名無しさん:04/05/03 06:43
めるぽん
248考える名無しさん:04/05/12 23:59
めるぽんage
249考える名無しさん:04/05/13 01:40
アンリはミシェルのほうだろ?
250考える名無しさん:04/05/14 17:54
最近著作がでたけど、
ベルンハルト・ヴァルデンフェルス
はどうですか?
251考える名無しさん:04/05/15 13:16
現象学で身体論やってる香具師ってどうも信用できねーよ
252考える名無しさん:04/05/15 22:06
>>251
どうして?
253考える名無しさん:04/05/15 22:21
>>250
先月東大に来たのに、哲学板では誰も一言も触れていない。

淋しすぎる。
254考える名無しさん:04/05/15 23:19
>>252
なんか流行(しかも流行遅れ)でやってるだけって感じ。
レヴィナスぐらいは読もうよ、と。
255考える名無しさん:04/05/16 03:07
>>254

レヴィナス(たとえば)の持つ視点を現象学の身体論が欠くということだけを理由として、
身体論がまるっきりダメと考えてしまうのはいかがなものか。
それは、自分が良いと思う視点以外に重きを置く思想すべてに対して、
とりあえず不信の眼で見ようという、かなり狭い見方では?
256考える名無しさん
現象学の身体論の研究者なら、レヴィナス
くらいは読んでいるだろ。