わ こう かねもっちっち
41 :
ぴかぁ〜 ◆lk7eU.5KwI :03/07/12 16:32
すなわち私は無意識的に信じ、有意識的に疑い傾向があるということである。
ぴかぁ〜 ◆lk7eU.5KwI様、新スレおめでとうございます。
21世紀はぴかぁ〜 ◆lk7eU.5KwI様の世紀と呼ばれる日が
訪れることを確信して止みません。
私にぴかぁ〜 ◆lk7eU.5KwI様のお考えが全て理解できる
はずもありませんが、
>「supersoul」とは私という存在のうち、
>「understanding(理解)」 できるものは
>私のうちのほんのわずかであり、そのほとんどが
>「understanding(理解)」外である。
という言葉を読むととても勇気づけられます。
ぴかぁ〜 ◆lk7eU.5KwI 様に栄えあれ。
43 :
ぴかぁ〜 ◆lk7eU.5KwI :03/07/12 16:35
私は無意識的には神を信じ、私を信じ、他者を信じ、世界を信じている。そうだね、みんな
44 :
胡雨 ◆XqrQAy2Hxg :03/07/12 16:37
>>42 やっぱ彼奴は機嫌取りだ 名前の通り!!!
45 :
ぴかぁ〜 ◆lk7eU.5KwI :03/07/12 16:37
しかしいざ、有意識点がファーカスすると、疑う。
こらこら こう君 いけませんよ
誰のふぁんでもいいでしょう
47 :
ぴかぁ〜 ◆lk7eU.5KwI :03/07/12 16:39
これはまさに生命生存的な反射行動だろう。
49 :
ぴかぁ〜 ◆lk7eU.5KwI :03/07/12 16:45
疑うという行為は生存にもとずいたssoulな行為である。しかしそれは信頼という空間の中で行われる行為である。
50 :
ぴかぁ〜 ◆lk7eU.5KwI :03/07/12 16:49
有意識点を内部に移動できないときの私は空間的認識できるものだけを疑いえたが、言語を手に入れ内部への移動が可能になると観念を疑うことが可能になった。私、幸福、心、意識etc
「私」という言葉。
このスレでの話者を指す「私」=「ぴかぁ〜サマ」
一般的「私」=X
その多義性の戯れ。
わたしのsupersoul:ぴかぁ〜サマのsupersoul/xのsupersoul
鈍重な私のsoulがぴかぁ〜サマのsoulと
共振する日は訪れるのだろうか?
52 :
ぴかぁ〜 ◆lk7eU.5KwI :03/07/12 16:58
私=一人称全般、わし=ぴかぁ〜#pk
54 :
ぴかぁ〜 ◆lk7eU.5KwI :03/07/12 17:04
有意識的信頼が難しいのは、生命として拒むからである。しかし無意識には信頼する。これを意識的信頼パラドクスと呼ぶ
myselfismはワシズムではないということですね。
「私/わし」という用語の厳格な使い分けに
気が付かなかった私は愚かでした。
ご説明感謝いたします。
56 :
ぴかぁ〜 ◆lk7eU.5KwI :03/07/12 17:07
私は無意識下で強い信頼欲求による安心を欲し、有意識下で疑うことを強制されている。
57 :
ぴかぁ〜 ◆lk7eU.5KwI :03/07/12 17:12
私はこの有意識的疑いの壁を破られたときに、信頼する。
58 :
ぴかぁ〜 ◆lk7eU.5KwI :03/07/12 17:13
これが悪用されるのが洗脳だろう
59 :
ぴかぁ〜 ◆lk7eU.5KwI :03/07/12 17:20
愛とはこのような有意識的疑いの壁を越えた状態をいうのだろう。人におけるsexとはこの壁を破ることのメタファーとしての意味があるような気がする。
60 :
ぴかぁ〜 ◆lk7eU.5KwI :03/07/12 17:22
では人類史上もっとも有意識的信頼に成功した神の構造とはどのようなものだろうか? つづく
62 :
考える名無しさん:03/07/12 17:56
信じる・疑う=有意識点の着地地点が相対した位置に存在する
思考のドリブル運動
哲学とは
現象としては、
言語によりあたかも実体化された観念を私内部でにおいて
有認識点と記憶との間でキャッチボールを繰り返す行為である。
またその本質としては、
生命は有意識情報を懐疑するという特性を利用して、
私内部で刺激を作り出し、認識欲求を満足させるものである。
これは生命生存に必要な実体による状況認識と他者認識が高度化したために、
増大した認識欲求を、満足させるための生まれた一種の自慰である。
しかしその一部である科学は、生命生存のために利便性の高い道具として利用されている。
よってみんなのゴルフをすることと哲学をすることは
その目的において本質的には変わらないのである。
私は以下に空しい存在だ。。。
イカレコレ状態やん。。。
くそうぅ〜supersoulめ。。。
がんがれ関西人!
>言語によりあたかも実体化された観念を私内部でにおいて
>有認識点と記憶との間でキャッチボールを繰り返す行為である。
これけっこう好きです。
●信頼と懐疑 〜意識的信頼パラドクス
信じるとはまったく不思議な行為である。自己判断の放棄であり、安易な予測行為でもある
しかし私は信じることなく生きられない。信頼の中で生きている。
たとえば、食事をするとは、それが食べても大丈夫という信頼のもとになりたっているし、
イスに座るときでさえ、それが座ってもつぶれないとうの信頼ももとになりたっている。
しかし私は、食事のたびに、イスに座るたびに、そのようなことを有意識しない。
これは無意識下で行われる信頼確認である。
>>2●無意識と有意識で、無意識は安心なパーソナル認識空間を監視しているといった。
すなわち、私は無意識で信頼し、有意識で懐疑する構造を持っている。
当然、有意識的信頼も無意識的懐疑あるだろうが、基本的な構造として、
生命生存における安心と危険の重要度を表している。
私は無意識的では、神を信じ、私を信じ、他者を信じ、世界を信じている。
しかしいざ、対象が有意識にファーカスされると、懐疑する。
これはまさに生命生存的な反射行動だろう。
たとえば潔癖性で神経質な人がいるか、彼らはなんらかの理由で、
通常無意識下である環境認識が有意識下する傾向になる。
たとえば通常、食事するときの食器を有意識することがあるだろうか。
大きな環境変化がなければ(例えば外国に行くなど)、無意識下で認識される境域であり、
信頼される。しかし神経質な彼らは、それが脅迫観念的に有意識してします。
有意識には疑う特性があるために、この食器が安全であるかとということが
気になって仕方がなくなる。
精神分析医でもなく、一部の人がなぜこのような性向になるのはまでは
しらないが。。。
このように私は無意識下で強い信頼欲求による安心を欲しているにも関わらず、
有意識下で懐疑することを強いられている。
これを意識的信頼パラドクスと呼ぶ。
そして、私はこの有意識的懐疑の壁を破られたときに、無意識下への強い信頼へと移る。
愛とはこのような有意識的疑いの壁を越えた状態をいうのだろう。
人におけるsexとはこの壁を破ることのメタファーとしての意味があるような気がする。
そしてこの信頼構造が悪用され、強制的に有意識の懐疑の壁をやぶり、無意識下へ情報を送る行為が、
洗脳といわれるものでろう。
では人類史上もっとも有意識的信頼に成功した神の構造とはどのようなものだろうか? つづく
こんな長い文、誰もよまへんわ。。。
自分という読者がいる限りあなたは書き続けるほかないのですよ。
(*O*)じゃあ、なんでワードパットだけで満足せえへんの?
寂しいから
チミらがいくらヤサグレっぽく、有意識で疑ってるフリをしても、
チミらが無意識に、愛に飢え、神を信じ、私を信じ、他者を信じ、世界を信じている子羊であるとことは、
する〜っと、ぬめぇ〜とお見通しだぞぉ!
さあさあ、白状しなさい!
っていっても、白状は有意識行為であり、
有意識的にはヤサグレになるようにプログラムされてるわけだし、
まいったなあ。。。
世界を信じてるってのは多分その通りだと思うけど
他人の信念体系を押し付けられるのが嫌で
ぴかぁ〜みたいに自分の体系を構築したくなるんじゃないの?
で、ここでかたられる体系がぴかぁ〜にとって
どれほど切実であっても他人にとっては基本的には
どうでもいいことなんで黙殺されても仕方ない。
76 :
考える名無しさん:03/07/12 19:10
プッ
チミらを信じさせるためには、
女を裸にするようなものか。。。
やさしく、安心感をあたえ、甘えた言葉をくりかえし、
頬がほてってきたら、こっちのもんやなあ。
さあ、ダアリィ〜ん、うっふん、あっはん、いっひん、
そのお堅い制服を抜いてこちらにいらっしゃぁ〜い、
いいことして、あ・げ・る♪
プッといわれるときずつく。それを回復するために
自分とプッといった人を包む体系を仮構したくなる。
それで回復をもたらす体系が哲学にあるんじゃないかと
思って哲学に引き付けられるのかな?
>世界を信じてるってのは多分その通りだと思うけど
>他人の信念体系を押し付けられるのが嫌で
>ぴかぁ〜みたいに自分の体系を構築したくなるんじゃないの?
>で、ここでかたられる体系がぴかぁ〜にとって
>どれほど切実であっても他人にとっては基本的には
>どうでもいいことなんで黙殺されても仕方ない。
いやというか、信じないようにsupersoulが命じているんだよ。
信じることも、信じないことも、supersoulismであるという、
多重構造になっているんだよ。
>プッといわれるときずつく。それを回復するために
>自分とプッといった人を包む体系を仮構したくなる。
>それで回復をもたらす体系が哲学にあるんじゃないかと
>思って哲学に引き付けられるのかな?
まさにsupersoulの意のままだね。
soulはsupersoulの部分だから
soulとsupersoulの対立は見せ掛けの対立で
soulはお釈迦様の手のひらの上の孫悟空みないなもの
ということ?
さあ、SUPERSOULISMの定義を書き換える時が来たようだ。
「理解(understanding)」は「supersoul」と対峙させるには
あまりに稚拙すぎた。
なにものも「supersoul」に対峙し得ない。
よってSUPERSOULISMは「supersoul」を信じるということではなく、
「supersoul」をうまく活用する主義ということに転換したいと思うが、
一同の意見はどうかな?
「理解、懐疑、知識」はsupersoulの部分だから
「理解、懐疑、知識」とsupersoulの対立は見せ掛けの対立で
「理解、懐疑、知識」はお釈迦様の手のひらの上の孫悟空みないなもの
ということ。
NEWSUPERSOULISM
私はこの世界の方向性の「Multiplex memory(多階層的記憶)」として考えられます。
第一階層 エントロピーの増大・・・・時間(正確には状態変化)
第二階層 自己組織化 (エントロピーの減少)・・・・物質構造
第三階層 進化・・・生命 (遺伝子)
第四階層 進歩・・・文化 (宗教、倫理学、哲学、科学...)
そのうち、後天的な記憶、「knowledge(知識)」以外の先天的記憶を「supersoul」と呼びます。
そしてこの「supersoul」を正しく理解し有効に活用しようというのが、NEWSUPERSOULISMです。
1 この世界と正しく対峙するためには、私の「supersoul」への理解を深めることが重要であることをしろう。
2 「supersoul」への理解を深めることにより、この世界と調和、この社会と協調しすることの
重要性がわかることをしろう。
3 「supersoul」は、無意識下で「confidence(信頼)」し、有意識下で「doubt(懐疑)」する
特性があることをしろう。
4 「knowledge(知識)」は、有意識下で「doubt(懐疑)」することにより構築されたものであるが、
それだけで理解できることは、ほんの一部だとしろう。
5 「knowledge(知識)」はあくまで便利な道具であるが、「risk(危険)」を「amplification(増幅)」
させるため、うまく使いこなすことをしろう。
すいません、新しくなっちゃいました。。。
新スレつくらねば。。。
さよなら、いままでの私。。。静かに静かに沈めてください。。。
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄