一般的には、「soul(魂)」とは「人の肉体に宿り,心の働きをつかさどると考えられているもの。霊魂。」
という意味ですが、ここでの「supersoul」とは私という存在のうち、「understanding(理解)」
できるものは私のうちのほんのわずかであり、そのほとんどが「understanding(理解)」外である。
この「understanding(理解)」外の私を「supersoul」と呼びます。
そして「supersoul」はこの世界の方向性の「Multiplex memory(多階層的記憶)」として考えられます。
第一階層 エントロピーの増大・・・・時間(正確には状態変化)
第二階層 自己組織化 (エントロピーの減少)・・・・物質構造
第三階層 進化・・・生命 (遺伝子)
第四階層 進歩・・・文化 (宗教、倫理学、哲学、科学...)
この「supersoul」を信じるよう!が、SUPERSOULISMです。
1 「knowledge(知識)」で、「understanding(理解)」できることは、ほんの一部だとしろう。
2 「understanding(理解)」は便利な道具であるが、「understanding(理解)」は「risk(危険)」を
「amplification(増幅)」させるため、うまく使いこなすことをしろう。
3 「understanding(理解)」でさえ「supersoul」が指向するものであり、この世界の意味をしるための
唯一の方法は、私の「supersoul」を信じることだとしろう。
4 私の「supersoul」を信じ、この世界と調和、この社会と協調しすることに私の存在意義があることをしろう
前スレのダイジェストは
>>2-30あたり
詳細内容、過去ログはこちら
SUPERSOULISM
http://members.tripod.co.jp/myselfism/
●無意識と有意識 〜パーソナル認識空間
平常時には感覚器官に絶えずある一定の情報量が流れ込んでくる。
私がこの情報を元に無意識下で現状認識を行っている。それは安全性を確保するという意味でもっとも重要である。
現状認識とは、流れ込む一定の情報量と記憶により、時間軸も含めた安全なパーソナル認識空間をつくり上げている。
そこには予測という未来図も存在する。近い未来は現在のただの単純な一次直線上にあり、
予測するのは大した問題ではない。
パーソナル認識空間は、あたかも記憶の砦のようなもので、入ってくる情報がそれに近ければ安心である。
その中から、記憶と異なる部分、興味のある部分、すなわち刺激される部分にファーカスをあわせるのが
有意識的行為である。
有意識的認識行為を表すものに集中力、意識を集中するという言葉がある。
集中に有意識の強弱であり、また持続性である。
有意識行為でさらにおもしろいのが私自身を有意識する行為である。
あっ!いまメール打ってる自分を有意識する。これが自意識の始まりだろう
また私には認識欲がある。特に通常時は有意識的認識を止めることはできない。
これは一種の刺激である。
この刺激への渇望はまさに根源的欲求である。私は有意識的対象がなければ空腹のように死んでしまうだろう。
これは生命の根源的な欲求なのだろう。刺激を求めてるようにできているとしかいえない。
テレビを見る行為は意図的に無意識の現状認識を突き抜けて有意識を刺激し、認識良くを満足させる。
外部からの刺激なく、内部で有意識を持続させるのには、持続力が必要である。
たとえば思考し問題を解くような場合など、その集中力の持続は難しい。
●感情 〜感情相対論
感情とは観念的な中でも比較的分かりやすい構造をもっている。
進化論的にも原始的なものだからだろう。簡単には古典物理学的である。
すなわち、感情の発生を物体のエネルギー式として考えてみる。
運動方程式を考えてみる。
変化のない生活は等速度運動状態である。
そこに外圧が発生し、それにより加速度が発生することにより力、ストレスが生まれ、
その力が感情のボタンをおすというような考えである。
ここで面白いのが、加速度されたあと、後に等速度運動にもどると、
速度は速くなっているにもかかわらず、それが再び変化のない生活にもどることである。
たとえば、あなたがPS2をプレゼントされた。
そこでの変化が加速度を産み、幸せになるが、しばらくするとPS2を所有していることが
あたりまえになると言うことである。
すなわち感情は、速度でなく、速度変化、加速度に依存するということである。
もうひとつの考えが位置エネルギーとしての考え方である。
位置エネルギーはある点とある点との間にある相対的なエネルギー差である。
たとえば、あなたがPS2を持っている。友達はPS1を持っている。
ここに「PSの新しいものが良い」という重力場、重力は加速度の一つであるが、
があればそこに感情が発生する。
しかしそれぞれにおいて、加速度の係り方は人によってそれぞれである。
PS2を買ってもらっても、PS2に興味がなければ、加速度は発生しない。
それを決めるのは価値観である。そして価値観とは、私の記憶に潜在する方向性である。
●思考 有意識点の内部反射論
たとえば私が他者に「ボケ!」と言われた場合を考えて見よう。
その情報は、五感を通り無意識認識空間を突き抜け、有意識へ到達する。
有意識は多階層的記憶との比較によりその価値を評価する。
その評価が速度変化量、加速度に相当し、ストレスが発生し、
多階層記憶を通して、腕をもちあげ他者をしばく。
ここで考えなければならないのが自己認識できる場合である。
さきほどのボケ反応には自己認識要素がない。直感的である。
自己認識とは有意識点の移動である。さきほどの場合、有意識点、意識を集中するポイントは
「ボケ」といった他者にしかない。
自己認識が可能な場合、他者から私内部へ有意識点が移る。
例えば他者が私の上司である記憶に移れば、そこに重力場が発生し、
新たな力が発生する。
これらの有意識点の移動は何度か起こる。
そしてプラスマイナスの結果、最後の力の方向にしながい、上司に頭を下げる。
これを有意識点の内部反射という
実は自己認識が出来ない犬でも有意識点の反射はおこなわれている。
刺激を与えたのが誰かによって反応が変わるのはそのためである。
これは有意識点が私内部に移る訳でなく、他者にある有意識点と記憶との反射である。
実際感情はこのようなキャッチボールである。
この反射が外部と内部でおかなわれる差はなんだろう。
簡単にいえば反射的と思慮的の違いである。
有意識点を内部に取りこむとは思慮することであり、記憶との反射速度が早くなるということかもしれない。
すなわち知能が向上するということだろう。
これは記憶容量の向上と比例関係にあるようにおもう
記憶容量が増加した結果、有意識点を内部に取り込み有意識点と記憶間の伝達速度
すなわち処理速度をあげる必要があったと考えられる。
また有意識能力の向上により、自分と環境との間の境界が明確になったことも考えられる。
そして特に他者認識が単にフィジカルな問題に対して自己認識は観念的問題となる
私の自己認識、特に観念的な問題を扱えるようになったのは言語想定記号化の影響が
おおきいようにおもう
●言語 〜言語想定記号化
言語の発生期限は生命が意図的に出す音だろう。水中において音を出しにくいことを
考えると陸上にあがった時点、両生類あたりだろうか
陸上において音を聞くことも生存に有利である。聴覚と音の発生は同時頃だろうか
その頃の音の使われ方は他者威嚇、同性へのアピールが考えられる。どちらにしても他者とのコミュニケーション手段である。
しかしそれがコミュニケーション手段として成立するためには音に記号化が行われないといけない。
威嚇でだした音が心地好く聞こえてはいけないのである。
すなわち言語にはその発生起源から記号化の要素が含まれていたことになる。
その後発生音は発声の形で種類が増えていく、そして人において爆発する。
この音による多彩な記号化を手に入れたときにおこったのがいままで、
記号化しえなかったものが記号化できるようになったことである。
いままでの視覚中心の認識は境界想定であるために見えることが前提であった。
それが新たに言語を用いることにより見えないものでも記号かしえるようになったのである。
たとえは悲しみという感情はあたっただろうか、悲しみとして記号化されたのは悲しみという言葉が生まれてからだ。
それは記号化されコミュニケーションすることが可能になった。
観念の発生である。猿は鏡に写った自分を自分と認識しえるらしい。
フィジカルな自分、境界想定記号化である。しかし言語のない猿には感情を認識しえないだろう。
悲しいだけである。悲しい自分を客観視しえない。
自分の感情を客観視する。心の発見、観念論の発生である。
しかしこれは私の内面を考える正しいアプローチだろうか?
悲しみという言語化。わしはこれは生命の唯物論思考の延長線上でしかないとおもう。
境界想定記号化の一種である。私の感情のなにもつたえていない。
例えば私の身内を失ったとして、悲しみと記号化されたところで私の悲しみの何が客観視されたというのだろう。
それならば抽象的な詩や歌や絵のほうがどれだけ本質を伝えていることか
ひとは本質的に唯物論的生命の子孫であり、観念論を語りえないのである。
観念には無理からでも科学で近づくのが正しい姿であり、もっといえは芸術を指向すべきである
しかし言語が次ぎに文字につながることを考えればその影響ははかりしれない。
文字は記録に繋がり私の幼稚な記録能力を補完し人類を新たなステージに導いたのだから
●観念論への未来像
ではどのようにすれば、観念についてより適切に認識できるのだろうか。
その方法は二つ考えられる。
まず、現在の人の唯物論的思考偏向をそのまま使う方法である。
現在鉱物の種類は何種類あるんだろう?
鉄系だけでも合金やなんやかんらで千種類ぐらいあるんだろうか。
鉱物博士は全部記憶しているんだろうし、ハンドブックをみればわかる。
例えば、同じように悲しみというものを千種類に分類し、それぞれに名前をつけ記号化する。
そうすると悲しみ専門の博士がでてくるわけだ。幸せ、心など全部そのようにすると
今よりは少しは客観的に観念論が議論される。
とりあえず人の感性を千種類の悲しみを認識できるまでにしないといけないわけだが、
音の認識にしても絶対音感をもっている人がいるわけだし、
がんばればなんとかなるかような気がしないでもしないが、いかがか?
もう一つの方法が、人の唯物的思考を越える方法である。
これは人であるわしには想像しにくいが、たとえば悲しんでいる人の悲しみを
そのまま他者伝達可能にする。テレパシーのようなもの?
そしてそれを客観視する思考能力を身につけるような感じか?
どっちにしろ進化を待つしかないのかもしれない。
1000万年先には可能なんのかもしれない。
そのときに知的生命体がいる生き延びている可能性は保証できないが。
●進化論的言語写像理論
ヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」にSUPERSOULISM的要素が見出せる。
過去の人である彼と対比することは心苦しくもあるが、SUPERSOULISMにて彼の説明を補足、訂正してみよう。
論理哲学論考、
1 言語と世界は切り離すことができない世界そのものが言語
2 写像理論
・ 私たちが言語化しているもの(命題)はすべて像をもっているのであり、それはこの世界の
論理空間の組み合わせをそのまま表している。
・ 「神の存在」「人生の意味」など、現実の像としてはありえない。(正しく言語化できない)
観察不可能な事象については、意味のある命題をつくることができない。
・ だがしかし表明しえぬものが存在する。それはみずからを示す。
それは神秘なものである。
生命は本質的に唯物論者である。その基本的認識方法は、空間認識を中心とする。
それは生き残るために重要な要素、「周囲の警戒」、「食物の認識」である。
いわゆる「境界想定、記号化」である。そして言語もこの唯物的思考の延長線上で発達した。
それは「言語想定、記号化である。」
すなわち「言語が世界は切り離すことができない」とは、この私の認識が唯物論的偏向によるもの
空間認識を中心とする認識をとっているためである。
その後、彼自身も見とめているが、これは明らかに間違いである。「私たちが言語化している
もの(命題)はすべて像をもっているのであり、それはこの世界の論理空間の組み合わせを
そのまま表している。」
言語は当然、形あるものを記号化しようとする試みが中心になるが、本質的には、動物の
鳴き声などからもわかるように、唯物論的思考で観念を表そうとする試みである。
「「神の存在」「人生の意味」など、現実の像としてはありえない。(正しく言語化できない)
観察不可能な事象については、意味のある命題をつくることができない。」のではなく、
そのような観念的、抽象的概念を記号化しようとする試みが言語であり、
無理やり唯物論的思考を導入しているために、曖昧であたり,意味のない命題であったりするので
ある。
「だがしかし表明しえぬものが存在する。それはみずからを示す。それは神秘なものである。」
この神秘なものというのが、supersoulを表現しようとしているのだろうが、
現在は唯物論的アプローチ、科学で発達で、わからないという輪郭が迷惑になりつつある。
すなわち生命は生き残るために唯物的思考を発達させ、人はそれを言語による観念へ
展開したわけであるが、それはアナログに近づくデジタル化であり、その分解能が人間の
思考能力の限界からあまりに荒く、言葉では実像に近づき得ないということである。
ではヴィトゲンシュタインに敬意を払い、これを進化論的写像理論と名づけよう。
>>1 乙〜!。。。。
いいえどういたしまして。。。
12 :
考える名無しさん:03/07/12 14:30
ソウルのスーパーは、木曜日が特売日
という理解でよろしいか?
・・・
おつかれさん・・・
・・・
・・・
あほ・・・
こんな長い文、どうせ誰もよまねぇよ。。。
今日はえらいやけだな・・・
哲学とは
曖昧に言語記号されたあたかも実体があるような対象を
内部認識と記憶との間でキャッチボールする行為であり、
その本質は内部で刺激を作り出し、認識欲求を満足させる
生理現象である。
これは生命生存に必要な実体による状況認識と他者認識が高度化したために、
増大した認識欲求を、満足させるための生まれた一種の遊戯である。
その遊戯から生まれた科学は、道具としての利便性から
生命生存のために重要視され、残った現在の哲学は
さらに遊技化を深めているのが現状である。
「哲学」という悪魔とは、増大した認識欲求、すなわち
刺激への欲求のことである。
よってみんなのゴルフをすることと哲学をすることは
その目的において本質的には変わらないのである。
こんな感じかな。
科学 唯物論的唯物論
哲学 観念論的唯物論
芸術 観念論
唯物論は、野性的
観念論は、知性的
ってこと。
___
/ \ ________
/ ∧ ∧ \ /
| ・ ・ | < ・・・今日は結構優しいな・・・
| )●( | \________
\ ー ノ
\____/
/ \
| \ ____
| \ \ // //
| \ \ // //
| \ \ // //
| \ ○―――――)
| | ̄ ̄ ̄ ̄匚 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
幸せになる方法はたったひとつしかない。
私は幸せであると信じることである。
信じられる私。
それは神でも親でも科学でもいいが、
現代においては言語想定記号化された「supersoul」しかないだろう
幸せな毎日はお嫌いですか?
理解するとは、ある情報に対し、内部に有意識点を移し反射をくりかえし
思慮した結果に満足した状態のようだ。
理解とは征服欲である。これは生命の指向である空間の切り取りと
所有という記号化そのものを表している。
23 :
考える名無しさん:03/07/12 14:46
これは僕のハイデガー理解に近い考えですね。
>ネオ・クラムボン
ってか、きみ誰?
>これは僕のハイデガー理解に近い考えですね。
これってどれ?
芸術を愛していないヤツの哲学だけは信じるな。
哲学は芸術的才能がない奴がする半端な行為ですよ。
真の芸術家は神に選ばれし人。
あとは、科学でも、哲学でもしてせせって、
下働きしろってことさ。
わしは選ばれなかったわけさ。
とりあえず、コピペ終了しました。
あまりに膨大になり、わし自身がついていけなくなっている
今日この頃。。。
どうせこんな長い文章読むヤツいねぇよ。
どうせ理解できるヤツもいねぇよ。。。
28 :
考える名無しさん:03/07/12 14:54
一見反目しあうようなヴィトゲンシュタインとハイデガーが
接近してしまう、というのは結構よくあります。
29 :
考える名無しさん:03/07/12 14:58
根悪暗無煩
30 :
ぴかぁ〜 ◆lk7eU.5KwI :03/07/12 15:45
このように考えると無意識の最重要性は継続の監視のように思う
32 :
ぴかぁ〜 ◆lk7eU.5KwI :03/07/12 15:51
では信じるとはなんだろう
33 :
胡雨 ◆XqrQAy2Hxg :03/07/12 15:59
34 :
ぴかぁ〜 ◆lk7eU.5KwI :03/07/12 16:02
思考を有意識点の内部反射と考え、情報から理解するまでの時間をu時間とすると、たとえば他者からの攻撃への私の反応はこのu時間との関係になる
35 :
ぴかぁ〜 ◆lk7eU.5KwI :03/07/12 16:08
信じるとはまったく不思議な行為である。自己判断の放棄であり、安易な予測行為でもある
36 :
ぴかぁ〜 ◆lk7eU.5KwI :03/07/12 16:17
しかし私は信じることなく生きられない。わしはいまステーキをくっているわけだかこれも食べても安心のもとになりたっている
37 :
胡雨 ◆XqrQAy2Hxg :03/07/12 16:18
俺は今、燕の巣スープ飲んでるよ
38 :
ぴかぁ〜 ◆lk7eU.5KwI :03/07/12 16:21
信じることは無意識、疑いことは有意識という図式がみえる。
39 :
ぴかぁ〜 ◆lk7eU.5KwI :03/07/12 16:24
当然、有意識的信頼も無意識的疑いあるだろうが、安心と危険の生命における重要度を表しているようだ
わ こう かねもっちっち
41 :
ぴかぁ〜 ◆lk7eU.5KwI :03/07/12 16:32
すなわち私は無意識的に信じ、有意識的に疑い傾向があるということである。
ぴかぁ〜 ◆lk7eU.5KwI様、新スレおめでとうございます。
21世紀はぴかぁ〜 ◆lk7eU.5KwI様の世紀と呼ばれる日が
訪れることを確信して止みません。
私にぴかぁ〜 ◆lk7eU.5KwI様のお考えが全て理解できる
はずもありませんが、
>「supersoul」とは私という存在のうち、
>「understanding(理解)」 できるものは
>私のうちのほんのわずかであり、そのほとんどが
>「understanding(理解)」外である。
という言葉を読むととても勇気づけられます。
ぴかぁ〜 ◆lk7eU.5KwI 様に栄えあれ。
43 :
ぴかぁ〜 ◆lk7eU.5KwI :03/07/12 16:35
私は無意識的には神を信じ、私を信じ、他者を信じ、世界を信じている。そうだね、みんな
44 :
胡雨 ◆XqrQAy2Hxg :03/07/12 16:37
>>42 やっぱ彼奴は機嫌取りだ 名前の通り!!!
45 :
ぴかぁ〜 ◆lk7eU.5KwI :03/07/12 16:37
しかしいざ、有意識点がファーカスすると、疑う。
こらこら こう君 いけませんよ
誰のふぁんでもいいでしょう
47 :
ぴかぁ〜 ◆lk7eU.5KwI :03/07/12 16:39
これはまさに生命生存的な反射行動だろう。
49 :
ぴかぁ〜 ◆lk7eU.5KwI :03/07/12 16:45
疑うという行為は生存にもとずいたssoulな行為である。しかしそれは信頼という空間の中で行われる行為である。
50 :
ぴかぁ〜 ◆lk7eU.5KwI :03/07/12 16:49
有意識点を内部に移動できないときの私は空間的認識できるものだけを疑いえたが、言語を手に入れ内部への移動が可能になると観念を疑うことが可能になった。私、幸福、心、意識etc
「私」という言葉。
このスレでの話者を指す「私」=「ぴかぁ〜サマ」
一般的「私」=X
その多義性の戯れ。
わたしのsupersoul:ぴかぁ〜サマのsupersoul/xのsupersoul
鈍重な私のsoulがぴかぁ〜サマのsoulと
共振する日は訪れるのだろうか?
52 :
ぴかぁ〜 ◆lk7eU.5KwI :03/07/12 16:58
私=一人称全般、わし=ぴかぁ〜#pk
54 :
ぴかぁ〜 ◆lk7eU.5KwI :03/07/12 17:04
有意識的信頼が難しいのは、生命として拒むからである。しかし無意識には信頼する。これを意識的信頼パラドクスと呼ぶ
myselfismはワシズムではないということですね。
「私/わし」という用語の厳格な使い分けに
気が付かなかった私は愚かでした。
ご説明感謝いたします。
56 :
ぴかぁ〜 ◆lk7eU.5KwI :03/07/12 17:07
私は無意識下で強い信頼欲求による安心を欲し、有意識下で疑うことを強制されている。
57 :
ぴかぁ〜 ◆lk7eU.5KwI :03/07/12 17:12
私はこの有意識的疑いの壁を破られたときに、信頼する。
58 :
ぴかぁ〜 ◆lk7eU.5KwI :03/07/12 17:13
これが悪用されるのが洗脳だろう
59 :
ぴかぁ〜 ◆lk7eU.5KwI :03/07/12 17:20
愛とはこのような有意識的疑いの壁を越えた状態をいうのだろう。人におけるsexとはこの壁を破ることのメタファーとしての意味があるような気がする。
60 :
ぴかぁ〜 ◆lk7eU.5KwI :03/07/12 17:22
では人類史上もっとも有意識的信頼に成功した神の構造とはどのようなものだろうか? つづく
62 :
考える名無しさん:03/07/12 17:56
信じる・疑う=有意識点の着地地点が相対した位置に存在する
思考のドリブル運動
哲学とは
現象としては、
言語によりあたかも実体化された観念を私内部でにおいて
有認識点と記憶との間でキャッチボールを繰り返す行為である。
またその本質としては、
生命は有意識情報を懐疑するという特性を利用して、
私内部で刺激を作り出し、認識欲求を満足させるものである。
これは生命生存に必要な実体による状況認識と他者認識が高度化したために、
増大した認識欲求を、満足させるための生まれた一種の自慰である。
しかしその一部である科学は、生命生存のために利便性の高い道具として利用されている。
よってみんなのゴルフをすることと哲学をすることは
その目的において本質的には変わらないのである。
私は以下に空しい存在だ。。。
イカレコレ状態やん。。。
くそうぅ〜supersoulめ。。。
がんがれ関西人!
>言語によりあたかも実体化された観念を私内部でにおいて
>有認識点と記憶との間でキャッチボールを繰り返す行為である。
これけっこう好きです。
●信頼と懐疑 〜意識的信頼パラドクス
信じるとはまったく不思議な行為である。自己判断の放棄であり、安易な予測行為でもある
しかし私は信じることなく生きられない。信頼の中で生きている。
たとえば、食事をするとは、それが食べても大丈夫という信頼のもとになりたっているし、
イスに座るときでさえ、それが座ってもつぶれないとうの信頼ももとになりたっている。
しかし私は、食事のたびに、イスに座るたびに、そのようなことを有意識しない。
これは無意識下で行われる信頼確認である。
>>2●無意識と有意識で、無意識は安心なパーソナル認識空間を監視しているといった。
すなわち、私は無意識で信頼し、有意識で懐疑する構造を持っている。
当然、有意識的信頼も無意識的懐疑あるだろうが、基本的な構造として、
生命生存における安心と危険の重要度を表している。
私は無意識的では、神を信じ、私を信じ、他者を信じ、世界を信じている。
しかしいざ、対象が有意識にファーカスされると、懐疑する。
これはまさに生命生存的な反射行動だろう。
たとえば潔癖性で神経質な人がいるか、彼らはなんらかの理由で、
通常無意識下である環境認識が有意識下する傾向になる。
たとえば通常、食事するときの食器を有意識することがあるだろうか。
大きな環境変化がなければ(例えば外国に行くなど)、無意識下で認識される境域であり、
信頼される。しかし神経質な彼らは、それが脅迫観念的に有意識してします。
有意識には疑う特性があるために、この食器が安全であるかとということが
気になって仕方がなくなる。
精神分析医でもなく、一部の人がなぜこのような性向になるのはまでは
しらないが。。。
このように私は無意識下で強い信頼欲求による安心を欲しているにも関わらず、
有意識下で懐疑することを強いられている。
これを意識的信頼パラドクスと呼ぶ。
そして、私はこの有意識的懐疑の壁を破られたときに、無意識下への強い信頼へと移る。
愛とはこのような有意識的疑いの壁を越えた状態をいうのだろう。
人におけるsexとはこの壁を破ることのメタファーとしての意味があるような気がする。
そしてこの信頼構造が悪用され、強制的に有意識の懐疑の壁をやぶり、無意識下へ情報を送る行為が、
洗脳といわれるものでろう。
では人類史上もっとも有意識的信頼に成功した神の構造とはどのようなものだろうか? つづく
こんな長い文、誰もよまへんわ。。。
自分という読者がいる限りあなたは書き続けるほかないのですよ。
(*O*)じゃあ、なんでワードパットだけで満足せえへんの?
寂しいから
チミらがいくらヤサグレっぽく、有意識で疑ってるフリをしても、
チミらが無意識に、愛に飢え、神を信じ、私を信じ、他者を信じ、世界を信じている子羊であるとことは、
する〜っと、ぬめぇ〜とお見通しだぞぉ!
さあさあ、白状しなさい!
っていっても、白状は有意識行為であり、
有意識的にはヤサグレになるようにプログラムされてるわけだし、
まいったなあ。。。
世界を信じてるってのは多分その通りだと思うけど
他人の信念体系を押し付けられるのが嫌で
ぴかぁ〜みたいに自分の体系を構築したくなるんじゃないの?
で、ここでかたられる体系がぴかぁ〜にとって
どれほど切実であっても他人にとっては基本的には
どうでもいいことなんで黙殺されても仕方ない。
76 :
考える名無しさん:03/07/12 19:10
プッ
チミらを信じさせるためには、
女を裸にするようなものか。。。
やさしく、安心感をあたえ、甘えた言葉をくりかえし、
頬がほてってきたら、こっちのもんやなあ。
さあ、ダアリィ〜ん、うっふん、あっはん、いっひん、
そのお堅い制服を抜いてこちらにいらっしゃぁ〜い、
いいことして、あ・げ・る♪
プッといわれるときずつく。それを回復するために
自分とプッといった人を包む体系を仮構したくなる。
それで回復をもたらす体系が哲学にあるんじゃないかと
思って哲学に引き付けられるのかな?
>世界を信じてるってのは多分その通りだと思うけど
>他人の信念体系を押し付けられるのが嫌で
>ぴかぁ〜みたいに自分の体系を構築したくなるんじゃないの?
>で、ここでかたられる体系がぴかぁ〜にとって
>どれほど切実であっても他人にとっては基本的には
>どうでもいいことなんで黙殺されても仕方ない。
いやというか、信じないようにsupersoulが命じているんだよ。
信じることも、信じないことも、supersoulismであるという、
多重構造になっているんだよ。
>プッといわれるときずつく。それを回復するために
>自分とプッといった人を包む体系を仮構したくなる。
>それで回復をもたらす体系が哲学にあるんじゃないかと
>思って哲学に引き付けられるのかな?
まさにsupersoulの意のままだね。
soulはsupersoulの部分だから
soulとsupersoulの対立は見せ掛けの対立で
soulはお釈迦様の手のひらの上の孫悟空みないなもの
ということ?
さあ、SUPERSOULISMの定義を書き換える時が来たようだ。
「理解(understanding)」は「supersoul」と対峙させるには
あまりに稚拙すぎた。
なにものも「supersoul」に対峙し得ない。
よってSUPERSOULISMは「supersoul」を信じるということではなく、
「supersoul」をうまく活用する主義ということに転換したいと思うが、
一同の意見はどうかな?
「理解、懐疑、知識」はsupersoulの部分だから
「理解、懐疑、知識」とsupersoulの対立は見せ掛けの対立で
「理解、懐疑、知識」はお釈迦様の手のひらの上の孫悟空みないなもの
ということ。
NEWSUPERSOULISM
私はこの世界の方向性の「Multiplex memory(多階層的記憶)」として考えられます。
第一階層 エントロピーの増大・・・・時間(正確には状態変化)
第二階層 自己組織化 (エントロピーの減少)・・・・物質構造
第三階層 進化・・・生命 (遺伝子)
第四階層 進歩・・・文化 (宗教、倫理学、哲学、科学...)
そのうち、後天的な記憶、「knowledge(知識)」以外の先天的記憶を「supersoul」と呼びます。
そしてこの「supersoul」を正しく理解し有効に活用しようというのが、NEWSUPERSOULISMです。
1 この世界と正しく対峙するためには、私の「supersoul」への理解を深めることが重要であることをしろう。
2 「supersoul」への理解を深めることにより、この世界と調和、この社会と協調しすることの
重要性がわかることをしろう。
3 「supersoul」は、無意識下で「confidence(信頼)」し、有意識下で「doubt(懐疑)」する
特性があることをしろう。
4 「knowledge(知識)」は、有意識下で「doubt(懐疑)」することにより構築されたものであるが、
それだけで理解できることは、ほんの一部だとしろう。
5 「knowledge(知識)」はあくまで便利な道具であるが、「risk(危険)」を「amplification(増幅)」
させるため、うまく使いこなすことをしろう。
すいません、新しくなっちゃいました。。。
新スレつくらねば。。。
さよなら、いままでの私。。。静かに静かに沈めてください。。。
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄