952 :
考える名無しさん:2005/10/07(金) 11:25:01
滝村さんの恣意的引用は吉本ジイサンも批判してたよね。
吉本が批判しているというのは、どこででしょうか。分かったら教えて下さい。
とにかく、最近の滝村の言動は国家の必然性を強調するあまり、一部の国家主義的、国権主義的、排外的な発想に根拠を与えているかのような感じがします。
かつての滝村の国家論は何よりもその止揚を目的としていたのに、そのたがが外れてしまって、国家って大切なんだぜ、国家は結局乗り越えられないんだぜ、みたいに一種居直りに近い所に転落しているように思えます。
954 :
考える名無しさん:2005/10/07(金) 12:25:26
950=952=953
自作自演ばればれ(w
955 :
考える名無しさん:2005/10/08(土) 16:47:53
952氏の自慰サンの滝村さんへの引用批判って、
定期的に刊行されてる吉本隆明の何とか資料集の
中に載ってるやつじゃないんか?
推測ですが、滝村と三浦の不和の原因は、滝村が認識の科学性の根拠として主張する「ヘーゲル・マルクス的な学的方法論」とやらにあるのではと思います。三浦から見れば、これは認識の絶対的真理性を主張する観念論に見えたのではと思います。
滝村は、悪しき体系病にかかっています。自分の体系を完結するために、その最後のピリオドとして無理なマルクス批判をでっち上げたのではと言う気がします。
彼は、いまや自分の原理を元に、国家を乗り越えようとするあらゆる試みを幻想だと否定してまわっていますが、これではかつてプロシアを真理の顕現としたヘーゲルと大差ないでしょう。
これは、吉本とも対立する所ですね。
吉本さんが滝村さんに触れたのはこれまで三回だけ。
三回とも激賞で批判はなし。
『吉本隆明が語る戦後55年』第四巻(三交社)
『情況へ』(宝島社)
『遺書』(ハルキ文庫)
一番新しい『吉本隆明が語る戦後55年』第四巻(三交社)から引用
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滝村さんには、具体的でなければいくら原理的に言ってもしょうがないという考えがどこかにあって、
それで明治維新の政治過程を丁寧につかまえ、そこから国家とはなにかを逆に原理的な国家論の中に
組み入れていくという作業をきちっとやっています。
でも、滝村さんのように緻密で具体的なものを目指すのは不得手で、僕はそんなことはしたくないとという気持ちもあって、
そんなときに、フーコーの『言葉と物』を読んで、これでマルクス主義系統とは違った形で国家論をやれるとおもったわけです。
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吉本さんは、滝村さんのコースは自分には「不得手」という言葉で、滝村さんとの「畑」の違いを言ってるから、
相互批判し合うような関係ではないと思ってるよ。
畑違いはそうでしょうけど、吉本は国家を開いていくということを言ってるでしょ。それは、滝村に言わせれば原理的に無意味だということになるんじゃないですか。
それに、「体系」というものをどう捉えるかは「畑」に関係ないと思います。「閉じた体系」を否定する、体系というものは一度作ったら壊さなければならないと吉本は言ってます。
こういう考え方は、とても重要だと思います。吉本は滝村を批判したことがあるのかは、私も具体的には知りませんが。
959 :
考える名無しさん:2005/10/10(月) 00:21:59
どっちみち経済活動は国家をなしくずしにしていくのであろうが、
行き着く先はユートピアでもなかろう。
>959 もちろん、そうです。ですから、良くも悪くも未来は開かれているということです。
滝村は一種の先験的な「原理主義に陥っているように思います。
滝村は、レーニンの認識論に対する三浦の批判などもきちんと読んだことがないのじゃないかという気がします。
>956
> 彼は、いまや自分の原理を元に、国家を乗り越えようとするあらゆる試みを幻想だと否定してまわっていますが、これではかつてプロシアを真理の顕現としたヘーゲルと大差ないでしょう。
へーソウナンダ
962 :
考える名無しさん:2005/10/12(水) 18:56:12
>どっちみち経済活動は国家をなしくずしにしていくのであろうが、
この手の発想には「マルクス主義国家論」の頃に滝村の批判がある。
滝村読者さんは国家を即物的に捉えてるんじゃないの?
滝村には共同体-即-国家とか広義の国家ってのがあるんだからさ。
宗教の残滓としてある国家、滝村曰く歴史上消えたことのない民族-即-国家、
表面上仲が良くても利害が対立したら即暴力機構に転化するような共同体、
単なる経済機構としてあるのではない国家、の重みをもっと怖れなさいよ、ということでしょ。
それは吉本もずっと強調していることだよ。じゃなかったら「共同幻想論」なんて書かないよ。
そういった意味での国家はなしくずしになるどころか、
原理やらナショやら美しい日本語やらハンチントンやらが大流行りじゃないの。
>国家って大切なんだぜ、国家は結局乗り越えられないんだぜ
大切だなんて思っちゃいないんじゃないの、別に。後半は上と同様。
>「体系」というものをどう捉えるかは「畑」に関係ないと思います。
大ありだよ。「自然科学」になろうとした、
あるいは表面だけなぞった諸学芸の悲惨さは今では明白じゃないの。
むしろ逆なんだよ。「畑」によって「体系」とは何かを考えなければいけない。
人間を扱う学が科学=真理の名のもとに支配を確立しようとしたのは、
フーコーはじめたくさん批判があるでしょう。
「畑」を無視した粗雑な抽象や陳腐な精神論が濫造されすぎたんじゃないっすか。
ついでに。
>どっちみち経済活動は国家をなしくずしにしていくのであろうが、
>959 もちろん、そうです。
962さんが言ってる通り、こういう発想は滝村-吉本ラインで共通してる批判の対象ですよ。
総じて、滝村が国家を巡るタームで言おうとしてることを理解していないように思えるんですが。
また吉本の仕事の意味を。
965 :
考える名無しさん:2005/11/11(金) 13:28:19
なお、「国家論大綱」は未完に終わることが確定している
966 :
考える名無しさん:2005/11/22(火) 23:42:55
あげ
967 :
考える名無しさん:2005/11/23(水) 12:23:41
三浦つとむが実際に研究しないで評論ばかりしていてもダメだ、と言っていたが、つい最近自然科学で未確定の分野を勉強してこのことを痛感した。
たしかに滝村が批判する俗流エンゲルスというのはある意味で正しいと思うのだが、長年学問に携わったものならではの箴言がある。
彼の三浦批判は批判に値するからだ、ということだろう。
彼の観念的な自己分裂という概念は実はとても重要なんだということがわかってきた。
自分で何かを研究すると彼らの偉大さと限界は少しわかる気がしてきている。
968 :
考える名無しさん:2005/11/23(水) 15:48:35
>>967 >彼の観念的な自己分裂という概念
この文脈だと「彼」は滝村を指すことになるよ。
全体的に何が言いたいのか分からないね。
969 :
967:2005/11/23(水) 18:20:02
あっ、そうとしか読めないな、悪い。
あなたが指摘した文章の「彼」は三浦つとむのこと。
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