2 :
考える名無しさん:03/06/16 17:03
善とは神の思し召しである。
アーメン(しかり)ユダヤ、キリスト教。
アミーン(しかり)イスラム教
より小さな悪が大きな悪よりも善であるように
より小さな善はより大きな善よりも悪であると言いうる。
つまりいっさいは小さな善から大きな善へいたる様々な程度の違う善である。
ライプニッツ『弁神論』要約。
ネオ・エティカも上に同じ。
正義は為されよ、たとえ世界が滅びるにしても。
ドイツ皇帝、フェルディナント一世
愚かさは・・・・・嘆かわしい・・・・
しかし、嘆いているばかりでは済まされないのは、
実のところ、この世の“悪”とはすなわち愚か者の“善”であるからだ。
愚か者の善がつねに世の悲劇をつくる。
愚か者は嘆かわしい、主よ愚か者を救いたまえ。
よかろう!
地上のす・べ・ての人間が幸せになるまでは、私には幸せはない!
けっこうなことではないか、どうせ地上の幸せなど大して興じられるものではない。
とはいえこんなことを言えるのも、私がたいそう幸せな人間であるからだが。
思うにマザー・テレサやシュバイツァーのようなタイプの人を偉人と見る者は決して善人ではない。
それは愚か者のいうことだ。
マザーテレサやシュバイツァーのような人は己の幸せとする基準が高いのである。
彼らは幸せな人であった。思いのままに生きたのだから。
私に彼らの幸福を理解することは困難だろうか?否、そんなことはない。
私もまた彼らと同じよう豊な人間であるから。
原始人にラジカセを見せるとある部族は悪魔の道具だといってぶち壊し、ある部族は神だといって崇める。
さてぶち壊したほうの部族の場合、悪魔の道具だと裁定するのは呪術師か祈祷師つまりその共同体の宗教的権威者である。
彼はすべてのものは自分の支配下にあらねばならぬ、と考える。それで自分の理解の範囲を超えたものを悪魔として裁くのだ。
こういう部族には進歩がない。ほかならぬこの指導者が進歩をはばんでいるのだ。
さて神として崇める部族の場合はどうだろう。この部族はいずれ自分たちもそれを造れるように発展した時にそれを神と呼ぶことをやめるだろう。
しかし、その発展段階に到達しないうちはこれを大事に保存するだろう。そしてこの部族の中から―長い時間をかけて―英雄が〔すなわち科学者が〕生まれこれをひそかに分解し、理解し、同じものを造るにちがいない。
宗教狂いに告ぐ、
聖書を捨てる事があってもネオエティカをすてることはない、
ネオエティカを捨てる事があっても神を捨てることはない、
以上。
10 :
鏖 ◆1zI5/4Mujk :03/06/23 20:21
ぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃじsじsじsじsじ
mじゃいmsかいうsまkしあjhしあ
よ という訳でして。
聖典類を読めない音痴に告ぐ。
ダンボの話は“間違っている”か?
たしかに象は耳で飛んだりしない。しかしダンボは楽しめる。
同じように聖典類から教訓を得ることができる。(しかし、象が耳で飛ぶと信じているわけではない)
猫も杓子も誰も彼もが権力意志をもってやがる。フハハ!いっちょまえに!生意気なことよ。
ちっぽけな権力意志で、ちっぽけなお山の大将になる?・・・ごめんこうむるね。
『愚か者はその信仰も愚かである』・・・・・あるいは『愚か者はその信仰にも愚かさを持ち込む』
さて、この程度の簡単な理屈なら愚か者でも口にできるのではないか・・・・
しかり、そのとおりである。
だから、こんな単純なことは愚か者自身に言わせておいて、その言葉が自分の身に降りかかるのを見物するのも一興だろう。
さて、ではわたしが信仰に持ち込むものはなんだろう?
そんなことは私自身が一番良く知っている。わたしは自分の信仰にすべてを持ち込む。
アダム・スミスよりアダムスファミリーの方が
思索的で好き。
ご批判ですか?甘んじてお受けしますよ。では悪しからず、笑)
>>15批判じゃないです。
>>1のサイトをちょっとだけ見たので
ジョークです。
いえ、あなたに言ったわけではないです。
「わたしの他に神はない」トーラーのこの言葉はタルムードの解釈によると、善の神の他に神はない。
すなわち、神は善であるということが記されているのだ、ということらしい。
当時の時代背景からして、複数の邪教があったことが見てとれる。邪教とは今日でいういわゆるカルトのことだ。
申命記にもしるされているとおり、自分の子息をいけにえに捧げたりしたいたらしい。
善でない、これがカルトの特徴だ。盲信は常に悪習をともなうから。
さて、これはいつの時代でも同じことで、悪習を生むかいなかは人間の理性にかかっている。
例えば、エホバの証人などでも、輸血をしないということのために、子供が死んだりしている。
これなども、悪習だ。ちっとも善でないし、盲信の恐るべきところだ。“彼らは単にYHWHのほかに神はない。”という句をとらえて他にも神々を報じる宗教がたくさんあるように、考えている。
しかし、すべての真正なる宗教は善を志向しているので、善を神と奉ずるなら、また神を善と奉ずるなら、仏教徒でも同じ神(仏)を報じているのだ。
先ずは、わたしも貴方がたもユダヤ人ではない!これは決定的なことだ。
イエスはユダヤ人以外の民族にとっては、救いだ。
しかし、ユダヤ人には救いではない。
わたしがもし、ユダヤ人だったらイエスを否定しただろう。旧約の告げるところでは、メシア像とイエスの生涯はかけ離れている。
しかし、わたしはユダヤ人ではない。だからイエスを報じる。なんといっても、YHWHをわれわれ異邦人に関係づけるためにはキリスト教という“新解釈”が必要だからだ。
これなしにはYHWH(在りて、在るもの)は本家本元ユダヤ人だけのものとなってしまっただろうし、わたしが旧約という名著を日本で読める機会も生じなかったであろうから。
19 :
”ヘ( ̄- ̄ ):03/06/28 10:15
20 :
考える名無しさん:03/06/28 10:16
邪教も、正教をも超越した神がいる。
>20
すごい!はやい!
確かに存在(在りて在るもの)は非存在であって、善悪は存在に含まれるから、存在は善悪を超越している。
で、純真素朴なクリスチャンがわたしの解釈についてこれなくても、2000年前の人と、或いは4000年前の人と同じ次元にとどまっていても、別に好きにしたらばよろしい。
では、さいなら。
ちなみに諸君は古い枝の先っぽの方だが、
わたしは新しい枝の、根元にあたる。
幹にはわたしのほうが近い。
23 :
考える名無しさん:03/06/28 10:28
具体的に言うと、もし、イエスを神の子あるいは神、というならばマホメットもまた神
と言わねばならない。
キリスト教徒はイエスだけを特別視しすぎている。これはユダヤ教徒の視点から見れば偶像崇拝にちかいものがあろうし、またイスラム教徒の視点から見てもそうだろう。
旧約の視点から言えば、神の道具にあたる人間はいても、神そのものであるかのように人間が崇拝されるのは“行き過ぎ”である。
結局、神の元の平等ということは正しいのであって、すべての人間は神の子である。特定の誰かが神と等しいというのは異端である。
個人崇拝は無用。これが本来のあり方だ。
で、個人崇拝を通してでなく、直接、神との関係を結ぶ。これが新しい枝。
もし、本に仕上げる気がおこったら、聖書をたくさん引用してもいいけど、でも単純に言うと以上に尽きるかな。
何かありますか?
もし、地上を救わんとするならば、地上のすべての人間がメシアとなって、神の御胸にしたがって生きる。
これしかないでしょう。
ちなみにイエスもマホメットもその時代の倫理観を更新したという点で全く同じことをしている。
だから、大切なことは倫理観を更新するということかな。仏陀にしてもそう。
イエス以前のユダヤは教条主義的な律法に縛られていたし、マホメット以後、以前の時代は無法時代と呼ばれるようになった。
地上で神の使いとなることは、倫理的である、ということ。倫理をより高めること。
とは言え、もしイスラエルが選民を自認し、宗教一途に生きる国家であろうとするなら、あくまで、律法を守り通して時代とどんなにずれを生じ様が律法に従って生き続けるということは素晴らしいことだ。
例えば悪いけれど、世界遺産みたいなものかな。
押しも押されぬ、世界最高の宗教国家。宗教といえばイスラエル!というわけだ。
28 :
考える名無しさん:03/06/28 12:34
賛成だ。全ての人間がメシアなのだ!
ありがとう。
ちなみに、私には悪なんぞという趣味はまったくない。見ての通り、善そのものだ。
悪なんて下賎な趣味だ。
悪なんて私には関係ない。
悪・・・・なんてしょーもないものだろう。まったくつまらん存在だ。
関知せずに善をなす。これが高貴な趣味である。
もし、私のことを“悪”というなら、そのお前がいったいどれほどの善を成したか言ってみろ。
つまらん、お前らはつまらん。つまらん者は悪だ。
それに、私の読みだと、旧約の流れからすると、福音はあまりにとうとつで、預言を実現しているというには牽強付会な点が余りに多い。
それに比べて預言という点からいうと、イザヤと、ヨハネ黙示は非常にはっきりと符合している。(明けの明星について)
これは、一体どういうことかね。
以前これをわたしは心理的な点から考察したことがあったが、今は“文献学?”“解釈学?”的な点から考察する。
わたしだって、ニーチェ並に鼻は効くつもりだ。
とは言え何がどうあろうと、すべては主のなさることだが・・・・・
(キリスト教徒にはこの点の認識がかけている)
34、35のような発言をすると大騒ぎする。
この点、ユダヤ教徒にはどうあろうと、すべて主のなさることだ、という悟りがある。
イスラム教徒も同じ。
さて、真相はどうか?そんなことは主しかご存知ない。それで十分。タイムマシンがあるわけでなし。
しかし、世には二言目には、聖書に曰く、聖書に曰く、という脳味噌の持ち主がある。
同じことが私にだってできないだろうか?
できるさ、もっと念入りにやることだってできるさ、面倒だけどね。
シェヒナー:神の遍在。
神はどこにだって在る。もちろん書物の中にも在る。しかし書物の中だけにあるのではない。
この世にあって祝福される者は、
まことの神によって祝福され、
この世にあって誓うものは
まことの神によって誓う。
イザヤ65−16
しかし、やはりあの世もあって、あの世でも戦争はなくならないのだろう。
あの世の戦争は、物質的な制限がなく、地位も法律も関係ない。
私はお前たちをあの世で永遠に打ちつづける。魂が殺せるものならそれを消滅させる。
主に誓って。
「一つをつかみ、もう一つを手放さないのがよい。神を恐れる者は、この両方を会得している」。
『伝道者の書』7−18
さて、神が在る、前世が在る。となってくると隠しカメラがある、盗聴器がある、というのはかなりどうでもいいことである。
復讐するな「出エジプト記」
復讐と報復は私(主)のもの「申命記」
実際、有象無象の個々人をすべて見つけ出して復讐するというのは人間には“不可能”なことである。
そんな不可能なことはあきらめて主にお任せするのがよい。
ハロー。
決着はつかないが、極めて簡単な問題。
「時間は流れない、在るのは現在だけである」
時間を認識に帰着させて考えれば、そうも言える。人間は過去そのものを認識できない。認識は現在における過去の“記憶”である。
ホーキングら素朴実在論からすれば時間は認識の問題に帰着せず、実在である。
しかし認識論者はこう言う、実在をどうやって把握するのか認識によってではないか・・・・すなわち認識論である・・・
酔っ払いのたわごとだ。酔っ払いのたわごとだ。爆)
私が仕事をしてないだって?ふざけたことぬかしてるひまがあったら8年間のギャラ払えよ。
私はルソーのエミールに勝る仕事をしたのだ。
95年草稿の自殺論について、お前たち単なる愚か者のお人よしはデュルケームという学者の名前も知らないだろうしその著に自殺論というものがあることも知らないだろう。
また94、95にかけては自殺のニュースも急増していたことだ。
哲学者は何についても考える。考えることが哲学だからだ。これがわたしの仕事なのだ。
お前たちはそもそも理解すべからざることに首を突っ込んでしまった。その基本的な素養のないことに首を突っ込んでしまった。
だからすることといったら誤解と余計なお節介、(のみならず)阻害するようなことしかしでかさない。
まあ、しかしだ、仮に君たちが駄作だとしても仮にも神の作品だ。甘んじてその存在を認めよう。
(ひょっとすると君たちはもぐらたたきゲームのモグラなのかもしれない)
(上位の世界の出来事に首を突っ込むものではない!)
だとすれば君たちもまた、神の意図したとおりに仕上がったユニークな作品だ。
主を褒め称えよ!アーメン
そもそも人間について知り極めようとするならば、自殺に対する考察を欠くことはできない。
自殺は人間に特有の象徴的な行為である。自分の意志で人生を終えようとすることだから。
だからって、そもそも気質が低俗で自殺することに含まれる実存を辛うじて嗅ぎ当て、自殺にあこがれるような低脳といっしょにするなよ。
う〜ん、ちょっと“おっかなびっくり”かなあ(笑)
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
このスレはつまらん。ボツ。
オレもそう思う。。。
昨日の夜、見た夢についての講釈。
太ももに痣が在るかないか。人を見るのにこんなことはどうでもいいことである。
しかし、またこういうこともある。目の不自由な人には耳だけが頼りであり、耳の不自由な人には目だけが頼りである。
太ももに痣があるかないか、これのみを認識の決め手としてしか人を認識できない者はあるいみ不自由な人間である。
太ももに聖痕がない。(はたして単なる痣を聖痕と呼ぶのは馬鹿げたことであるかどうかということははおいといて)
これはちょっとした欠陥を感じさせるかも知れない。信じるものにとっては画龍点晴を欠くという感じを催させるかもしれない。
だから痣はないよりはあったほうが“より”いい。
だがしかし、痣の形をもって最も肝要なことを判定しようとするのは本末転倒である。
“エジソンは劣等性だった”しかし“劣等性がすべてエジソンになる”のではない。
選ばれし者に聖痕がある。(これはそれなりにあくまでそれなりに興じられる話である。)
しかし、痣のあるものはすべて選ばれし者となる。これはナンセンスのお笑い種だ。
本末転倒。一方通行の逆走である。
ああ、なんでこんないわずもがなの当たり前のことを一々言わなくてはならないのか。うんざりだ、きりがない。
きわめて枝葉末節なお話でした。
報道番組はリアルだから意味がある。しかし往々にして何故そうなるのか不明な事件が多い。
映画は感興そそる筋の通ったストーリーがあるので意味がある。しかしそれはフィクションである。
両方、得るために中道をとらんとするなら哲学をしたまえ。
運がよければ、フィクションでないリアルな、そしてなおかつ筋の通ったストーリーを見出すことができよう。
次善は芸術か、あるいは科学、法学のいずれかに専心することだ。
56 :
考える名無しさん:03/07/18 09:19
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人間のおしゃべりなんぞ似たりよったりじゃ!!飽き飽きするわい!!
59 :
考える名無しさん:03/07/31 22:50
おほっほー。
暇人のアホウがおりやがるゼ!
アホウは千ずりでもこいておとなしく寝てろ
61 :
考える名無しさん:03/07/31 23:03
>>60 どんなスレにも必ず私はレスをします。
哲学板の全てのスレッドに書き込み続けることによって
私の精神が触発されるからです。
もう少し居座ったら、その後オナって寝ます。
どうぞ、お好きなように!
おやすみ!
善を行うが我が宗教
鈴木大拙(禅人幸福)
ってことでどうお?
指輪は私のものだ。I am who I AM.
“神”は他の原因を必要とせずに存在する。すなわち、第一原因である。
自らを由として自ら在する。神は自由自在である。
神は存在の人格なのだ。そして私もまた存在であり、その限り存在(神)を宿している。
だが指輪の前に、アクセサリーを出せ!
これは非常に重大な案件である。指輪は私のものだ。『エヒイェ アシャル エヒイェ』。
この案件は優先順位第一位である。
ちなみに・・・・・私は精神病患者ではないにも係らず、精神病患者の世界を理解できる。
その世界を体験しているからだ。しかし狂っているのは世界のほうだ。
しかしながら・・・神の目からみれば、正気も狂気も大差ない。まさにどんぐりの背比べだ。
通常では私が体験したようなことを体験することはできない。
つまり私が行ったような修行、あるいは精神的鍛錬は出来ないということになる。
しかし精神病という手もあるのだ。バーチャルな訓練だ。
猿ども、、私がこのホームページをとっても大切にしていると思っているだろう!!!
そのとおり、“とっても大切”にしている。
が、暇つぶしに造ったものだし、なくなったって別にどうと言うことは無いのだ。
お前ら低脳はそもそも私が“何を”持っているか知らないのだ!!
こんな、ホームページくらい・・・・フッ!
が、しかし壊したらぶっ殺す。
神は自由について何か言ってますか?
自由についてはあまり聞いたことがないので…
超弱肉強食(((( ;゚Д゚)))ガクガク
超肉食
73 :
考える名無しさん:03/09/05 10:32
あなたには、恋人がいますか?
75 :
考える名無しさん:03/09/05 10:47
あなたは、ユダヤ教徒だとかんがえていいですか?
ちなみに私にはいません・・。失礼ながら、あなたも
いなそうだなあ、と思ってしまって・・。
貴方のいう神とはどんなものか良く分からなかったのですが…
すべてを創造した、またしつつあるちから?
中西さん、いないね・・。
はい、今日は!
はい、ユダヤ教徒ではないけれど、旧約聖書をこよなく愛しています。
恋人、いないねぇ。まあ、いなくてもそれなりに楽しみはあるけどね。
神がどんなものかは、一口には言いがたいね。
いや、一口で言うのは簡単だけど、例えば真・善・美・愛とかね。
でも、人間に関してだって、その人がどんな人か知ろうと思ったら、長年付き合わなければわからないように。
神もよく付き合わなければわからないよ。神と付き合うというのは日常生活で神を感じつつ過ごすことかな。
でも、またそれを人に説明できるかということは別の問題だ。
(しかし、本ならば書けるかも知れない)((でもそんな暇があったら神と付き合っているほうが楽しいね))
82 :
考える名無しさん:
なんとなくわかる気がする。ただ、生きてるだけで嬉しいような
気分・・。だって、世界って美しいものねぇ。