青木孝平『コミュニタリアニズムへ』

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561具体的適用(中学生のいじめ世界)
 具体的なものに適用して考えてみるといい。
 内藤朝雄「学校リベラリスト宣言」(in 宮台真司・藤井誠二・内藤朝雄『学校が自由になる日』雲母書房)より。
 「中学生たちのノリをめぐる身分関係は、きわめて厳格です。たとえば、いじめ被害者が楽しそうに微笑んでいるのを偶然見かけただけで、
いじめグループが憎しみでいっぱいになる、といったケースがよくあります。この場合彼らは、まるで不正をおかした者に対するかのように「ゆるせない!」と憤激します。
 みんなの感情共振的なノリの秩序の中で、誰がどのくらい存在感をもってよいか、楽しげに存在してよいか、
幸福そうに笑ってよいか、といった身分が厳格に定まっています。だから、いじめ被害者が楽しそうに微笑んで「よい」わけがありません。
中学生の自治的な世界の内部では、いじめ被害者が幸福そうに振る舞うことは、「われわれ」の共生に対する、いわば「態度罪」あるいは「表情罪」にあたります。
 彼らの秩序がノリの秩序であればあるほど、そのノリや「こころ」のありかたの配分をめぐる身分関係は峻厳苛烈なものになります。
その場その場のみんなのノリに気を配り、そのノリに即した自分の位置(身の程)をわきまえなければなりません。この微妙な線引きを少しでも誤ると、ムカツクとかジコチュウ(自己中心的)とか言われます。(中略)
 さらに突っ込んで、彼らの現実感覚にとってそもそも「人間とは何か」という問題を考察してみましょう。というのは彼らは時に人間の尊厳を、時には生命さえ、
当たり前のように軽視するからです。自分たちがいじめていた「友達」が自殺や自殺未遂をしたと知らされて、クラスのみんなが拍手喝采して大はしゃぎする、
といった出来事は学校でよく起こります。(中略)
 (続く)