形相学的還元とは、超越論的還元によって獲得した、
「現象するもの」を、本質において明示しようとする操作ですよね。多分。
その際、現象するもの、の何であるか、つまり「本質」とは、
理念的、普遍的な性格を持つ意味での本質なのでしょうか。
それとも、個別的、唯一存在的(?)な本質を示すものなのでしょうか。
また、「本質」を、「自由変更」を通して明確な直観を看取するという
本質直観においては、言語は如何様に関わっているのでしょうか。
人間が、「ただ、そこに在る」という存在を、言語の分節化を通して把握している
ならば、本質直観とはその存在の「ありのままさ」をそのまま受け取っている、
という事態を指すものなのですか?これは先ほどの疑問とも関わるのですが、
想像を介して「現象するもの」を操作するならば、
本質直観とは理念的、普遍的本質を把握する操作なのでしょうか。
>>2-5に続く
そもそも、超越論的現象野と、言語の関係がよく分かりません。
一般定立を判断停止したときに、言語の働きまでカッコに括られているのですか?
であれば、本質を想像変更によって取り出すという操作も不可能なのではないですか?
なぜなら、想像において、常に言語が関わっていると考えるからです。
言語が働いているならば、社会性としてのラング(て言うの?)の働きは
超越論的次元において、「不純物」とならないんですか??
だいたい、言語無しに「現象」もありえるんですか?
それって、禅をきわめた人とか、セザンヌみたいなすごい画家
しかできないような体験じゃないんですか?
こういう問いは無意味かもしれませんが、
超越論的還元って、どの程度アクチュアルなもんなんですか?
学門の方法論として、切り離して考えなければならないんですか?
4月からは大学の先生に聞けるのですが、どうもそれまで我慢できません。
こういうぶしつけな問いですが、御教授いただけませんか?
フッサールの邦訳や、解説本を読んでも、どうも分かりません。
混乱しているので変な重複の多い文章ですが、よろしくお願いします
3 :
考える名無しさん:03/03/27 19:05
これ去年の11月頃に聞いていたヤシいたな。そいつと同一だろ?おまえ。
5 :
考える名無しさん:03/03/27 19:14
>その際、、の何であるか、つまり「本質」とは、
>理念的、普遍的な性格を持つ意味での本質なのでしょうか。
>それとも、個別的、唯一存在的(?)な本質を示すものなのでしょうか。
「本質」とは定義上「理念的、普遍的な性格を持つ」。「現象するもの」
それ自体は「個別的、唯一存在的」であるから、「現象するもの」の本質は
言えても、 「個別的、唯一存在的な本質」というのはありえない。なぜなら、
本質が 「個別的、唯一存在的」であれば、個々の現象ごとに違った「本質」
があることになり、本質という言葉の意味が分からなくなるから。個々に異
なるような「本質」はもはや「本質」ではなく、現象そのものである。
6 :
考える名無しさん:03/03/27 19:15
>そもそも、超越論的現象野と、言語の関係がよく分かりません。
>一般定立を判断停止したときに、言語の働きまでカッコに括られているのですか?
>であれば、本質を想像変更によって取り出すという操作も不可能なのではないですか?
>なぜなら、想像において、常に言語が関わっていると考えるからです。
その通りです。メルロ=ポンティやデリダが現象への記号作用という媒介に着目しつづけたのはそうした言語の還元不可能な性質が残りつづけるからです。
>超越論的還元って、どの程度アクチュアルなもんなんですか?
>学門の方法論として、切り離して考えなければならないんですか?
どんな呼び方をするのであれ、いっぱんに超越論的還元をしない哲学など
ないでしょう。哲学が「アクチュアル」でありつづけるかぎり、 超越論的
還元も「アクチュアル」でしょう。
したがって、哲学がそうであるように、 超越論的還元 を「学問の方法論」
として他の個別的な学問から切り離して考えなければならないのは当然で
しょう。実際には完全な分離は不可能であるとしても。
7 :
考える名無しさん:03/03/27 19:18
【結論】
1は、高校生にしてデリダ並みの慧眼
8 :
考える名無しさん:03/03/27 19:21
現象学は方言がキツすぎる
9 :
考える名無しさん:03/03/27 19:21
1はサールの『志向性』を読むと、フッサールのことがもっと分かるかもね。
そして両者を現前の形而上学の名のもとにデリダから一気に切ることができる、と。
10 :
考える名無しさん:03/03/27 19:31
本質をあういうふうに2種類にわけて考えんのは、井筒俊彦が詳しい
>>5の解答は正しいが、それは西欧形而上学の伝統から脱却し得ていない。
後期ハイデガーが現象学から東洋的本質を引きだしたことを考えれば、
1の「個別的、唯一存在論的」本質も、考慮に入れてもいいかもしれん
11 :
考える名無しさん:03/03/27 19:40
フッサール読んでて、「個別的、唯一存在論的」本質をいいたがる限り、フッサール
は読めないと思うけどな。
>>10は1なんでしょ。
12 :
考える名無しさん:03/03/27 19:45
なんで?メルロポンティも「存在」の多義性にこだわった哲学者じゃない?フッサール自身の第二の展開も、
普遍的本質の変移と相関してると思うぞ
13 :
考える名無しさん:03/03/27 19:46
ごめん
>>12は>>10。
それと、訂正は存在論的→存在的
14 :
考える名無しさん:03/03/27 19:48
>>3 あれは大学院生だろ(゚∀゚)
ド イ ツ 語 読 め な か っ た け ど な
1,5,10へ。
現象学は流行らない。やめとけ
16 :
考える名無しさん:03/03/27 19:52
1ははずしてはならないポイントをのっけからはずしているので、
入門書を落ち着いて読んだ方がいいと思われ。
>>17 ちょっとずるい言い方じゃない?
「はずしてはならないポイント」って何?
それを説明もしないでそういうことを言うのはどうかと。
19 :
考える名無しさん:03/03/27 20:32
1よ、早く出て来い。
君がいないと話が先に進まんよ。
君の疑問に答えるスレでしょ?
>>5 本質に関しては、今考え中ですのでお待ち下さい。
しかし、すごく分かり易い説明でした。
>>6 メルロ・ポンティの言語論を今読み返しましたが、結局、彼が
超越論的現象と言語の関わりを、どう乗り越えたのかよく分かりませんでした。
徹頭徹尾言語を間接的なものと見なす彼の論はよく分かりますが、
ソシュール言語学を受けて、言語を「語られた言語」と「語りつつある言語」
に区別する方法が、フッサール哲学とどのように関連しているのでしょう?
「語られた言語」が、言語の介入を退ける純粋思惟の幻想を作り出す一つの要因だ、
とは論じられておりますが、では純粋思惟を基盤とした現象学的方法を受け継いだ
メルロポンティーは、なぜその基盤を直接批判的に乗り越えずに、
ひたすら「語りつつある言葉」の創造性のみにこだわるのでしょうか。
(メルロポンティを、邦訳で飛ばし読みした僕が言える台詞ではありませんが、
断言口調の方が議論しやすいので・・・批判していただけば良いのですが)
まず、「語られた言葉」と、「語りつつある言葉」の峻別が、いまいち
はっきりとしません。語られた言葉を基礎に、逐一の変更と
創造によって新たな思惟を獲得するものが「語りつつある言葉」なのであれば、
一方で言語の間接性が主張されている以上、両者は明確に区別できないのではないでしょうか。
また、「語りつつある言葉」の創造性は、どの言語が新しいか、
という「創造性」の基準に照らし合わせる限り、
どうしても個人的にならざるを得ない、と考えます。
しかし、「新しさ」の基準とは、社会的、文化的状況に左右されるという
意味で
>>1で言ったような超越論的現象学の厳密さに反しますし、
同時に、メルロポンティの間主観性の文脈と、
「生き生きとした現在」の問題は、「新しさ」が事後承認的問題である限り、
両立しないものなのではないですか??
さらに、これも無意味な問いなのかもしれませんが、
言語の間接性を主張するならば、
いったい、なぜ彼は「言語の哲学的作用」を、言語によって記述し得るのですか?
そして、彼の「知覚の現象学」のどの部分が「語りつつある言葉」なのでしょうか。
彼の言語論は、生き生きとしたコミュニケーションを志向しながらも、
現象学的方法と、「論文」という形を取っているために、
矛盾をまぬがれていないように思われます。
これは全く素人の意見ですが、最終的にこれらはどうすれば解決されるのでしょう。
デリダについては、入門書程度の知識しかないので、よく読んでみます。
「グラマトロジーについて」でしょうか?
それと、後期フッサールの言語論についても無理解なので、
(というか、難解すぎて手に負えない)頑張ってみます。
メルロ・ポンティは知覚の現象学の中で、
「フッサールにおける本質は、
現実の経験の、生気に満ちたいろいろな関連を全部一緒に
連れ戻してきたような経験だ。」
と、述べています。
これは、後期フッサールの日常性の現象学を受け継いだ論であるのでしょう。
そして、僕もフッサールの「現象」とは、そういった生き生きとした、
「個別的、唯一存在的」なものと考えます。
>>5 >本質が 「個別的、唯一存在的」であれば、個々の現象ごとに違った「本質」
>があることになり、本質という言葉の意味が分からなくなるから。個々に異
>なるような「本質」はもはや「本質」ではなく、現象そのものである。
ここにおいては、「本質」の語義にとらわれるよりも、
むしろフッサールに関して、「本質」なるものがどのように
変移していったかを考えるべきではないでしょうか。
「現象そのものへ」は、日常性、感覚性を超越したイデアのようなものを
志向するのでしょうか。それとも、生気に溢れた、まさに
「個々に異なるようなもの」が、瞬間に変化していくものを示す標語でしょうか。
僕には、最終的にフッサールが、後者を目指した気がしてなりません。
事象が、その事象にふさわしく自己を現してくる、その方法において、
判断中止しなければならないのは、言語の分節化機能であり、それによる
抽象化、形相化ではないですか?たとえ、言語の完全な還元が不可能にしろ、
目指されるべきは抽象的、普遍的本質ではないはずです。
僕の(短絡な)考えでは、フッサールは、言語以前の次元で、
現象の生き生きとした現れ方を模索したかったのではないでしょうか。
例えば、よく引き合いに出される例ですが、「嘔吐」のロカンタンが、
根っこを目の前にして、吐いちゃう場面がありますよね。
あのときロカンタンに迫ったような「存在」が、僕の言う後者の本質なのです。
ロカンタンが「根」という言葉でマロニエの端っこを分節化し、
文化的・社会的背景に根ざした抽象化によって根っこを認識したならば、
それはただの根っこに過ぎなかったはずです。
では、
>>6さんが言う「本質」は、
この例からすれば、僕たちが日常的に見、そして通り過ぎる
根っこから、本質直観によって看取された「本質」であるはずです。
それは、
通常、僕たちが通り過ぎてしまう根っこのあり方でもなく、
ロカンタンが嘔吐したような個別的存在を露わにした根っこのあり方でもなく、
一体どういうものなのでしょうか。
いや、僕は
>>5を誤読しましたね。
5さんはあくまで僕の言葉の上での話をしているのであって、
現象そのものの本質に関する考えを、僕が取り違えました。
「本質」という言葉に関しては、僕はフッサール自身、
かなり曖昧に使っていると思います。邦訳での話ですけど。
>>23-24 については、
>>5-6への返答というよりも、
僕自身の単独の意見カキコと考えて欲しいです。
26 :
考える名無しさん:03/03/27 23:31
どの大学に入学???
27 :
考える名無しさん:03/03/27 23:36
>>26 大学院生だと思われます。しかも、25は過ぎたとみた・・・・・・・
28 :
考える名無しさん:03/03/27 23:39
本当に学部に新入学するなら、哲学科なんか辞めとけ。理系にしておけ。就職あっちのほうがイイから。
29 :
考える名無しさん:03/03/27 23:40
30 :
考える名無しさん:03/03/27 23:43
31 :
考える名無しさん:03/03/27 23:58
>>24 その例からすれば、そういった本質はフッサールに求めることはできないと思うよ。
フッサールによれば、遡行的問いかけによって前述定的、前反省的、前言語的な生
きられた経験を探究するしかない、ということにるのでは?
ここで示されるのは意味の生成であっても、ナマの経験の現前ではないと思うけど。
32 :
考える名無しさん:03/03/28 00:00
33 :
考える名無しさん:03/03/28 01:00
1は哲学よりも神秘主義思想の方が性に合っていそうだな。
無媒介的なエクスタシーへの憧れで目が曇っているチミにはっきり言って哲学は無理。
34 :
考える名無しさん:03/03/28 01:02
>>33 言い過ぎ。
とりあえずヘーゲルのカント批判でも読んでみたら多少は視野が広がるかとおもわれ
35 :
考える名無しさん:03/03/28 01:05
1にフッサールを理解させられる人間はいないと思うよ。
なぜなら1本人が理解しようとしていないから。
ポンティに関しても同様(フッサールより相性は良さそうだが)
サルトルに対してはなにか感じるものはあったんだろうな。
でも1は基本的に神秘思想に惹かれているのは透けて見えるだろ。
そしてそれが哲学的思考を妨げている。
それにしても33に速攻でレスがあったのにはビクーリ。
それもこのスレを予め押さえていたかのようなレス。
人いないかとオモタヨーw。
>>31 ちょっと今文献を読み直しているので待って下さい。
>>33-37 >>1からを読んでくれれば分かると思いますが、
僕は、フッサールの志向した「本質」なるものが、
最終的にその「神秘的」なものではないか、と質問したわけです。
その上で、超越論的還元の、神秘哲学に対する不可能を言いました。
言語の介入という事態を通して。
>>5さんの言葉を借りれば、言語の還元不可能性です。
で、このスレでメルロポンティやデリダがそれを乗り越えようとした、
ということを学んだので、その方法論を考えようと思っているわけです。
僕の出発点は、まず現象学的還元の完全な純粋さに躓いたことであって、
自身が神秘哲学を志向しているわけではありません。
存在そのものへの帰一を神秘主義と定義するならば、
僕がそれに惹かれているという指摘は当たっているかもしれません。
サルトルや東洋哲学にしっくりくる、というのもそうかも。
しかし、「事象そのものへ」という標語自体、いわゆる「神秘主義」
と深く関わっているのではないですか?その可否は別として、
現象学を考える場合、存在そのものへの方法を神秘主義と一蹴してしまい、
「哲学」なるものと隔絶させてしまうことは、思考を妨げること以外の、
何ものでもないように思われます。
後期ハイデガーなどを意味も分からず読んでいると、
精密な西欧哲学的思考とともに、そういう神秘的なものを感じます。
↑どこかで聞いたようなことをぬかしましたが、
要は、個人的見解として、現象学を学ぶときには「神秘思想」も範疇に含めた
幅広い態度が有意義になると思うんですよ。重複文章すいません。
>>34 ヘーゲルのカント批判とは、この際どういう意味を持つんですかね?
フッサールの超越論的学問は、カントの純粋自我の発想から多大な
影響を受けているんですよね、確か。
自己同一性をめぐる、時間の問題もカントの思考と共通しているようです。
ヘーゲルについては加藤尚武先生の本をななめ読みした程度なんですけど、
もしかしたらこういう新カント派からの影響を考慮した場合、
彼のカント批判はフッサールを学ぶ場合に意味を持ってくるんでしょうか。
具体的に指摘していただけると嬉しいです。
>>26 特定されかねないので何も言えませんが、
とりあえずセンターがぼろくそで、前期日程落ちちゃいました。
>>28 理系はたとえ入りたくても入れませんねー
数3とってませんし。
今月末に下宿に引っ越すので、あと数日で一段落つけなければいけません。
何しろ、ADSLをひくのにかなり苦労しそうですから。
>>31 >その例からすれば、そういった本質はフッサールに求めることはできないと思うよ。
この指摘は、現象学的還元を考える際、僕がその方法の外側に立って
疑問を呈したことに対するもの、ですね?
つまり、「世界が在る」といった存在への確信は、
それ以上遡行して考えることが出来ないという意味で、必然的明証性であり、
これに逆らって「ありのままの存在」本質を問うということは、
つまり語り得ぬことを語っているのだ、ということか。
しかし、フッサールは晩年、この明証の構図を、どうやら「地平」とか
「世界」とかいう概念によって捉え直そうとしたように思えます。
(はっきり言って、ここらになるとフッサールが何を書いてるのかさっぱりですが)
>ここで示されるのは意味の生成であっても、ナマの経験の現前ではないと思うけど。
ここでの「意味」は、言語的な事態を指し示すものではなく、
同一性をめぐって全てが現象学的領域において記号となって現れた、
という事態を指す、広義の「意味」のことですね。
そう考えればまさにその通りで、現れるもの、ノエマは必然的に「意味」で
しかないわけです。「ナマ」云々は、先ほどの語り得ぬ領域なのでしょうか。
今、後期フッサールについて勉強しているので、また報告します。
「日常性」とやらの現象学の方法が、上の質問にどのように答えるものなのかが
今のところ目下の疑問なので、また指摘・批判あればよろしくお願いします。
今のところ、目下は同義反復ですね。
まずい文章で恥ずかしいです
45 :
考える名無しさん:03/03/28 04:12
高校時代がしりたい>
ソフィアタンでハァハァしてまつた
ソフィアタン・・・アア・・・デ・・・デルヨ~~~デル~~~〜!!
47 :
考える名無しさん:03/03/28 04:31
47 ちょっとやめてください!!
正助かな。阪大合格したか。
50 :
考える名無しさん:03/03/28 09:58
>>41 ヘーゲルの『エンチクロペディア』のカント批判なんかがこの場合まさに読むべき
ものなんだけど、まず第一に、フッサールはこの本を所有してて、書き込みもちょっとあった、らしい。
第二に、デリダが自分のフッサール批判はヘーゲルのカント批判と平行的な部分があると述べている。
具体的に言えば物自体や無限をめぐる問題。まあこの辺はヘーゲル解説書なら絶対にとりあげるところなので
ヘーゲル自身にあたらなくてもいいと思う。
ついでにもう一つ言っとくとフッサールはエックハルトに共感を寄せていた。
この辺の事をテーマにした論文が『媒体性の現象学』の中に入ってた記憶があるけど
誰のか忘れちゃった。今手元にないし。
まあ適当に調べてくれ。
>>49 一体、どういう書き込みから判断されたんですか?
すごいなー ビビッタ
実は、京大志望だったんですがセンターで受けられなくて、
(バンザイシステム泣きまくり)
しかも前期で落ちたというのが阪大なんですね。
いやー、情けないですねー
>>50 『エンチクロペディア』ですね。読んでみます。
>>43の、絶対的明証性からさらに遡行した領域というのが、
カントの物自体の議論とどこか共通している、と思っていましたが、
ヘーゲルとの関連は無理解でした。ご指摘ありがとうございます。
無限をめぐる問題について。レヴィナスを読むときに一度
カントを紐解きましたが、フッサールの問題と絡めたことはありませんでした。
僕はフッサールの根本問題である、時間についてよく考えたことがないので、
これが理解を妨げている要因かもしれません。
フッサールがカントの神話的、とも言える超越論的概念構成や、
デカルトの心理主義的すり替えから脱却するために切り拓いた道が、
おそらく生活世界の概念なのでしょう。
この概念と相関的な超越論的主観性が目指すところは、
カントのテーマである客観性の基礎とも深く関わっているような気がします。
エックハルトも、「媒体性の現象学」も、はじめて目にしました。
大学の図書館で調べてみます。
フッサールあまり知らないので恐縮ですが、
>>1 >理念的、普遍的な性格を持つ意味での本質なのでしょうか。
>それとも、個別的、唯一存在的(?)な本質を示すものなのでしょうか。
>本質直観とは理念的、普遍的本質を把握する操作なのでしょうか。
どちらの場合もあります。例えば「時間」の本質は普遍的で「東京都」の
本質は個別的という感じです。
>本質直観においては、言語は如何様に関わっているのでしょうか。
本質直観に対応する言語が連想されることがあります。
>>2 >一般定立を判断停止したときに、言語の働きまでカッコに括られているのですか?
そうなりますね。
>なぜなら、想像において、常に言語が関わっていると考えるからです。
それは何故でしょうか。
超越論的還元についてのいい例があります。言語を知らないあかちゃんが
超越論的還元によって言語を身につけることです。これを考えてみては?
>>52 >どちらの場合もあります。例えば「時間」の本質は普遍的で「東京都」の
>本質は個別的という感じです。
僕は、超越論的還元において明示される現象の「本質」を考えているわけですが、
超越論的現象野に現れる現象と、「時間」とは、根本的に次元を異にするのでは?
むしろ、そういう還元や、モノの「あらわれ」を可能にするようなものが、
「時間」であるはずです。もちろん、
>>52はあくまで例えでしょうが、
こういう区別は重要ではないでしょうか。
また、「東京都」の本質こそ、まさに抽象的、言語的本質ではないですか。
これは僕の言葉足らずですが、存在そのもの、言語分割以前の、
「モノのありのまま」が、自らを開示してくるような事態が、
「個別的、唯一存在的」本質である、つもりです。
>本質直観に対応する言語が連想されることがあります。
直観によって看取された本質を、果たして言語によって記述しうるものでしょうか。
その本質が、言語以前の存在の開示であれば、なおさら記述不可能でしょう。
この記述不可能性を検討することを、今考えなければならないのではないですか?
>>53 >>なぜなら、想像において、常に言語が関わっていると考えるからです。
想像においてなされる変容とは、
「形式化」や、「類化」であるそうです。
こうした操作は、言語による存在の分節なくして不可能ではないでしょうか。
「机」とはこのようなものだ、という認識は、
すべからく「机」に対する言語的記述と不可分でしょう。
>>54 >超越論的還元についてのいい例があります。言語を知らないあかちゃんが
>超越論的還元によって言語を身につけることです。これを考えてみては?
すごく面白い問題提起だと思います。
しかし、赤ちゃんが「超越論的還元によって言語を身につける」とはどういうことでしょうか。
これは、言語を知らない以上、全ては純粋な意味での超越論的現象野において
あらわれる、ということでしょうか。
僕が思うに、赤ちゃんの言語学習は、身体的な次元にある気がします。
ちょうどピアジェとラカンの本を買っていたので、それを読んでみます。
ポンティの「行動の構造」「知覚の現象学」にもヒントがありそうですね。
57 :
考える名無しさん:03/03/28 13:23
幼児の認知ならラカンやピアジェより発達心理学や認知心理学の本読みなさい。
58 :
考える名無しさん:03/03/28 14:05
ピアジェなんてモロ、ヨーロッパ的発達観に支配されてるだろ。
59 :
考える名無しさん:03/03/28 14:11
このやりとり、なんだこりゃあ ↓
49 名前:考える名無しさん :03/03/28 09:30
正助かな。阪大合格したか。
51 名前:1 :03/03/28 11:35
>>49 一体、どういう書き込みから判断されたんですか?
すごいなー ビビッタ
実は、京大志望だったんですがセンターで受けられなくて、
(バンザイシステム泣きまくり)
しかも前期で落ちたというのが阪大なんですね。
いやー、情けないですねー
60 :
考える名無しさん:03/03/28 14:20
正助は二年ほど前、阿修羅を泣かしたコテハン
一部で人気(w
61 :
考える名無しさん:03/03/28 14:32
>>51 待ったましたといわんばかりのおしゃべり。
62 :
考える名無しさん:03/03/28 14:35
ピアジェって、どっちかいえば従来の発達観からぬけだそうとした人じゃない?ピアジェの弟子の論文読んだことある?
誰だそれ
64 :
考える名無しさん:03/03/28 14:49
発達心理学というのは、発達過程を分解してそれを学習過程に還元する
ことでしょ。
そういった類は多かれ少なかれピアジェの影響下にあるんじゃないの?
65 :
考える名無しさん:03/03/28 14:51
49=51
>>64 ラカンと西欧形而上学の知の枠組みの関係はどうよ
67 :
考える名無しさん:03/03/28 15:03
私達IQ低いでしょ。
だからみんなで発達という信仰をぶちやぶりましょう。
IQが高いとか低いなんて発達信仰の価値観。
IQの彼岸で超人の価値観を獲得するのよ!
お?キャハ?今覚醒しましたわ。キャハキャハキャハ(^v^)
68 :
考える名無しさん:03/03/28 15:08
>>67
正助かな。阪大合格したか。
>>68 落ちたんだろ(ww
漏れ?漏れは京大(藁藁藁
70 :
考える名無しさん:03/03/28 16:13
>>23 >事象が、その事象にふさわしく自己を現してくる、その方法において、
>判断中止しなければならないのは、言語の分節化機能であり、それによる
>抽象化、形相化ではないですか?たとえ、言語の完全な還元が不可能にしろ、
>目指されるべきは抽象的、普遍的本質ではないはずです。
フッサールの企図をこのように要約するのは正しいのですが、「言語の完全
な還元が不可能」というところに徹底してこだわったのがデリダ。
というのもデリダがつぶさに論証したのは 「言語の分節化機能」を「判断中
止」しようとするフッサールの企てが、おのれの企てを徹底させればさせる
ほど 「言語の完全な還元が不可能」であることをみずから露呈してしまうと
いう、そのような運動だからです。フッサールの企てが不完全だったから失
敗したのではなく、むしろ企ての遂行の完全な厳密性こそが、その厳密さゆ
えにかえっておのれの企てのネガとして 「言語の還元不可能性」を必然的に
浮き彫りにせざるをえない、そうした奇妙な運動がある。
デリダの書物については(『グラマトロジー』よりも)『声と現象』『幾何
学の起源』にとりくんでみてください。
71 :
考える名無しさん:03/03/28 18:16
>>66 浅田彰の構造主義のリミットとしてのラカンでいいよ。
72 :
考える名無しさん:03/03/29 04:04
1はラカンを読んで頭を抱えておる途中です
セクースさせることです
>>55 >こういう区別は重要ではないでしょうか。
重要かもしれないけれど、関係あるのかな。
>また、「東京都」の本質こそ、まさに抽象的、言語的本質ではないですか。
東京都は固有名詞なので抽象的といわれても。
76 :
考える名無しさん:03/03/29 18:06
だからその「固有名詞」がなんで個別的存在になる?
というか、セクースってなに(゚Д゚;)
77 :
考える名無しさん:03/03/29 18:33
78 :
考える名無しさん:03/03/29 20:12
あちょー、現象学は難しいからやめとけ
80 :
考える名無しさん:03/03/30 02:42
1は引っ越しますた
81 :
考える名無しさん:03/03/30 19:39
あげ
82 :
考える名無しさん:03/04/01 22:36
1ってチンポ太郎とか研究者とか名乗ってた人じゃないの
フッサール関係だし
(^^)
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
無理
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉