このような事実を組み合わせて考えて、現時点では無理でも、将来には何が実現できるのかを考えてみる。
当たり前の話だが、人間の「脳」や「体」も、原子で作られている構造物だ。
『脳(原始的には神経的なもの全て(ソフトウエアとハードウエアのハイブリッド))』と、
『免疫反応(物質的(ハードウエア的)に「自己」以外を遮断する)』の、
2種類の生体内システムが『認識』の正体だと考えて行くと、
その構造物が創出する、『認識』を、人間→猫→クラゲ→単細胞生物→ウイルス、と、
順番に単純なものへと辿っていった場合、どこまでが「認識」機能が有ると言えるのか?
単細胞生物は、明らかに「認識」能力は有ると言える。
ウイルスまで行くと、ほとんど単なる化学反応しか無いのだが、
単細胞生物と比較した場合、根源的な差は無いはずだ。
ということは、結局、人間の『認識能力』も、単に複雑度合いが高いというだけのではないだろうか。
分子や原子から考えると、
無機物と有機物(生物)との「差」は、「複雑さの度合いと、組織だって居るかどうか」だけだと考えられるはずだ。
ではなぜ、哲学は、しばしば、「認識」や「観測者」や「自我」などに執着して思考するのだろうか?
と、言うところで、明日以降は、時間軸的な話と、
「いわゆる文化と呼ばれているもの」のソフトウエア(逆にハードウエア)的側面と、
ネットワーク理論を、自分なりに書きたい。ですどすだす。