●アリストテレス●

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202愚者
 能動理性について質問です。
これが思惟の契機だそうですね。
能動理性は、働かせようと念じることで働かせられるものではないのですよね。
(数学の問題を解こうと念じることによって数学の問題が解けないように?)
そしてまた、能動理性は永遠に滅しないそうですね。

 アリストテレスは、思惟を、
永遠の存在からの啓示のように考えていたと見てよいのでしょうか?

 (誤解があるとおもわれますので、あらかじめ謝っておきます。
  ごめんなさい。)
203考える名無しさん:04/05/05 15:36
アテネの聖火は永遠の存在からの啓示
204唯一ネ申又吉プネウマ ◆bc3X3SACRA :04/05/11 02:42
>>202
>能動理性は、働かせようと念じることで働かせられるものではないのですよね。
能動理性が、なぜ、いかにして働くかという問題である。現実に思考する、
その原理として能動理性というものが考察されたのであるから、原理の原理を
問うていることになる。『霊魂論』第三巻第五章のたとえで言うと光はなぜ光るか
という問題である。これについてはアリストテレスのテキストには明確な記述がなく
諸説あるところである。仮に念じることだけが能動理性の唯一の原因とすると、
念ずることなくとも現実に思考しうるという自明の経験に矛盾するだろう。
ただ原因の一つたることを妨げるものではない。

>数学の問題を解こうと念じることによって数学の問題が解けないように?
数学の問題が解けることが現実化するには、能動理性が働くほかに、作用を受ける
理性のうちにそのことが可能態として存在しなくてはならない。色が現実化する
には光のほかに可能態としての色が必要なように。光の原因がなくて色がないこと―つまり
光の原因がないと光がなく、よって色はない、ということは、光の原因があって
色がないことと矛盾しない。数学の問題を解こうと念じることによって、能動理性を
働かすことができても数学の問題が解けないことがあるのである。よってこの文章は
「能動理性は、働かせようと念じることで働かせられるものではない」というたとえ
として不適切である。かりに、たとえが然りとしても、結論が然らざることもあるから。

>そしてまた、能動理性は永遠に滅しないそうですね。
『霊魂論』第三巻第五章のとおり。能動理性は不死であり永遠である。

>アリストテレスは、思惟を、
>永遠の存在からの啓示のように考えていたと見てよいのでしょうか?
能動理性の本質にかかわる問題であるが、アリストテレスは明確に言及していない。
諸説あるところであり、先の問題と併せて、水地宗明『アリストテレス『デ・アニマ』注解』
四一二ページ(解説2 能動的知性のいろいろな解釈)参照。
205愚者:04/05/11 22:00
 >>204 唯一ネ申又吉プネウマさん

 本当にありがとうございます。ますます興味を持ちました。
 もちろん、教えていただいた文献も探しますが、それを見る前に、
たとえ的外れだとしても、思いを巡らせたことについて記してみたいと思います。

 いままで誰も証明したことのない予想を証明するためには、
最低限、それについての理論的蓄積を身につけたほうがよいとされる。
 そのような偉業を思い浮かべなくとも、ごく簡単な計算問題を解くためですら、
それに用いられる定理が念頭になければならない。
 そうだとすると、「可能態として存在するもの」の中には、
理論的蓄積や定理などの「記憶」が含まれているはずである。
(なぜ、なにかを憶えることができるかも謎である。
 何度も繰り返していることは、覚えることもある、
 ということが言えるに過ぎない。)
(哲学でも、理論的蓄積の勉強は、大切に決まってる!)
206唯一ネ申又吉プネウマ ◆bc3X3SACRA :04/05/12 06:14
 結論から言うと「理論的蓄積や定理」は可能態としてのものではなく、
能動理性を働かす原因であると考えられる。現実化した思考と
その可能態の対象は同一だからである。あることにつき「である」と
語られるものが現実態、「できる」と語られるものが可能態である。
現実化した思考は、『ニコマコス倫理学』第六巻において複数に
分類されている。証明や計算については、知識エピステメーと呼ばれる
ものであり、論証によって秩序づけられている。なお論証の定義
に付き『分析論後書』第一巻第二章参照。
 現実に知識を得るには、能動理性の働きと、可能態にある知識が
必要なのであるが、可能態にも二通りある。「子供が軍隊の統率者
であることができる」意味での可能態と、「成人においてそうする
ことができる」意味での可能態である(『霊魂論』第二巻第五章)。
後者の場合は、「外的なものが何か妨げない限り、そのひとが望め
ば知を行使できる」(『霊魂論』第二巻第五章)という意味であり、
ある意味で現実に知識を得ていると言うことができ、『霊魂論』
第二巻第一章において「第一次の現実態」とされている。この場合の
可能態にある知識が現実化したときは「思い出す」ということを
指すだろう。一方、前者の可能態が現実化することは「学習」や
「教授」や「発見」と呼ばれるだろう。この場合の可能態とは、
学習や教授ができる能力を指す。サルにはこの可能態はないだろうし、
一部の人間にも備わらないことがあるかもしれない。その明敏さも
問題となり、すばやく発見しうる人は「頭脳明敏」(『分析論後書』
第一巻第三十四章)と呼ばれる。
207唯一ネ申又吉プネウマ ◆bc3X3SACRA :04/05/12 06:15
 なお、何かを憶えることができるという謎については、後者の
可能態にかかわり、能動理性が働いたときに「思い出す」ことが
実現するが、それがなぜかは、能動理性がなぜ働くかという問題
であって、結局、>>204の問題に帰着する。
 証明や計算は、前者の可能態が備わっていることを前提として、
能動理性が働くことにより現実化する。知識が論証されたり探究
されたりする方法は『分析論』に詳しいが、これらについての知識が、
能動理性の原因の一つと考えることは、おおむね承認されると思われる。
論を同じくして、能動理性が「理論的蓄積や定理」によって働く
とすることも、経験的に見て妥当であると考えられる。
 ただ、原因の一つとしては正しいとしても、全体としては>>204にある
とおり諸説あるところであり、一概には言えないだろう。
208考える名無しさん:04/05/12 20:28
今道友信『アリストテレス』(講談社学術文庫、5月10日発売)
209愚者:04/05/13 00:06
 >>206-207 興味深く読ませて頂きました。重ねて、ありがとうございます。

 以下は劣化や改ざんを含むコピーに過ぎないかもしれませんが、記しておきます。

 「フェルマーの大定理」は現実態であり、
 「フェルマー予想」  は可能態である、
と言えるだろうか? でもこれは、証明されたから言える。
 予想が偽であることが示されたなら、予想は可能態ではなかったことになる。
 ちがうか……。「予想が偽である」ということが、可能態から現実態になった?
 いや、そもそも、想起することが可能態(第一次の現実態)から現実態への移行なのだから、
予想すらできない状態にあることが可能態なのか?

 こう言うべきだろうか。
 まず、予想を思いつくことが、ある現実態への移行であり、
予想を証明して定理にすることは、前者とは別の現実態への移行である、と。
 そして、現実態となった定理は、
別の予想を思いついたり、予想が定理に移行するために、能動知性が働く原因のひとつになる。
210唯一ネ申又吉プネウマ ◆bc3X3SACRA :04/05/13 04:45
>まず、予想を思いつくことが、ある現実態への移行であり
予想とは『分析論後書』第一巻二十三章に「臆断ドクサ」と呼ばれるものであって、
「知識エピステメー」が論証に基づくのに対し、これは論証に基づかない思考に属している。
臆断には、真なるものもあれば偽なるものもある。

>予想を証明して定理にすることは、前者とは別の現実態への移行である、と。
知識が現実化することである。予想を思いつくことは臆断の現実化である。

>そして、現実態となった定理は、
>別の予想を思いついたり、予想が定理に移行するために、能動知性が働く原因のひとつになる。
そういった解釈もありうる。
211唯一ネ申又吉プネウマ ◆bc3X3SACRA :04/05/13 04:56
『分析論後書』第一巻二十三章 → 『分析論後書』第一巻三十三章(訂正)
212愚者:04/05/15 00:17
 水地宗明『アリストテレス『デ・アニマ』注解』(解説2 能動的知性のいろいろな解釈)
 書店でざっと目を通しました。本当にいろいろな解釈があるものですね。
図書館に取り寄せてもらっているので、届いたら熟読します。

 桑子敏雄『エネルゲイア』(ヌースについて)
 これも眺めてみました。手元にあるわけではないので心許ないのですが、
「永遠」を、時間の内にあるが滅ぶことはない、ではなくて、
時間の認識の前にある、と捉えているようでした。
 坂部恵『ヨーロッパ精神史入門』にある
ヌースが、インテレクトゥスをへて、悟性になったという主張を思い出しました。
 この本では、エピステーメーを、知識の内容ではなく、機能だと捉えているようでした。
黒田亘氏の「知識は人に宿る」が引用されていました。

 残念なことに、最寄の図書館では、
アリストテレス全集は、分析論を含む第1巻だけが欠けているようでした。

 今道友信『アリストテレス』(講談社学術文庫)購入しました。
私のような初心者のしそうな主張を、アンスコムがしているのに驚きました。198頁に

「アンスコムによると、例えば、その(分析論後書の)第一章のごときは、
 アリストテレスの名を冠ぶせられた書物の中で最も出来の悪いテキストである。
 そしてその最も大きな誤りは、
 真の認識とはその原因を知ることであり、事物の本姓を知ることである、
 としたことである。」

とあります。「経験によらない知識」と関係があるのでしょうか。

 山口義久『アリストテレス入門』(ちくま新書)購入しました。
213考える名無しさん:04/05/15 19:10
岩波文庫の「形而上学」を読み始めたんですけど
もうサッッッッパリわからないです。
4つの原因があってー今までの学者はこう考えてーというのは
なんとなくボンヤリわかったような気もするのですが
プラトンへの批判23ヶ条が…何言ってるんだろう?って感じで。
入門の本を読むと、少しは分かりやすくなるでしょうか?
214考える名無しさん:04/05/15 19:36
アリストテレス 形而上学
カント      純粋理性批判
ヘーゲル    精神現象学
ハイデガー   存在と時間


このあたりは有名な哲学書だけど、内容の難しさも哲学界屈指。
哲学の基礎訓練や適切な案内書は必須。
215考える名無しさん:04/05/15 21:50
はぁ〜そんなに難しい内容なんですかコレ。
プラトンがしゃーしゃーと読めたような気がして(気だけでしょうけど)
じゃあアリストテレス読んでみっかぁ、ってノリでした。
哲学の訓練、なんて全くやった事ないです…
とりあえず学校の図書館にあるらしい
「アリストテレス哲学入門 」 出隆著(岩波書店)
を借りてこようかと思います。これは読めるんでしょうか…
216考える名無しさん:04/05/15 22:22
『形而上学』は講義ノートの寄せ集めみたいなもんだから、
易しい巻もあれば難しい巻もある(そうだ)。
Ζ巻がいっちゃん難しい(と言われている)。
入門書だったら、アクリルの『哲学者アリストテレス』
というのが良い(らしい)。
217考える名無しさん:04/05/16 02:36
>>215

『形而上学』が文庫になってるからとりあえず最初に選ぶ、
という選択は、個人的にはあんまりお勧めしないかなぁ…。
別のものを読んでいて、それに飽きたら時々『形而上学』を
ひっくり返してみる、という読み方のほうがよいように思うけど。

何か個人的に抱え込んでるテーマがあって、
そのテーマの源流を探る、という読み方のほうが、
精神的な負担が少ないし、有意義なんじゃないのか。

生物学に興味があるなら、(読んでないけど)『動物誌』とか、
政治に興味があるなら(これまたまともに読んでないけど)
『二コマコス倫理学』と『政治学』とか…。時間論に興味があるなら、『自然学』とか。

他の人の意見も聞いてみてください。
218唯一ネ申又吉プネウマ ◆bc3X3SACRA :04/05/16 03:38
>>212
坂部恵『ヨーロッパ精神史入門』は品切れであったが、桑子敏雄『エネルゲイア』、
今道友信『アリストテレス』については入手できた。よく読んだ上で回答したい。

>>213
私も十五歳ぐらいのとき『形而上学』に目を通したが、難解すぎてさっぱりわからなかった。
のみならず、この書のために原典を読むのが怖くなってしまい、数年の間、原典を精読する
ことはなった。ただ、書棚においてある限り、見る機会はあると思うのであせる必要はない
と思う。
『形而上学』の主題は第六巻冒頭にあるように「諸存在の原理や原因」を求めることである。
身近な例を挙げると、物理学であれ、経済学であれ、すべての学問に共通する構成や方法
(たとえば言葉を使う)があると考えられ、この書ではこれについて探究している。そして
その根本に関わるという点において、この探究は美しく価値があるといえるだろう。これに
ついて、詳しくは『形而上学』第一巻第二章において述べられている。
以上の通りであるとすれば>>217氏の言うとおり、まず個別的な学問を学び、そのことを
念頭においてこの書を読むのがいいのではないかと思う。
219考える名無しさん:04/05/16 10:56
色々なアドバイスどうも有り難うございます。
確かにこの本を眺めててもあんまりどうしようもないみたいなので
他の本なり入門書を一回りしてから
何か思う事があればまた読んでみようかと思います。
220愚者:04/05/16 11:39
 >>212 ごめんなさい。訂正です。

(誤)経験によらない知識
(正)観察によらない知識
221217:04/05/16 19:47
>>218

唯一ネ申又吉プネウマ ◆bc3X3SACRA さん、
お詳しそうなのでひとつお伺いしたいことがあります。

Q:なぜ、日本ではギリシア自然学関連の文献を気軽に文庫で読めないのでしょうか?

『形而上学』を読んでいたときのことなんですが、今回の>>215さんのように
以前読んでいたときに、おれも「なにがなんだかぜんぜん、わからんぞ?」と思ってしまいました。
しかたなく注釈を見ると「これを詳しく知りたいなら、『自然学』『ティマイオス』
『生成消滅論』などなど参照してくれ!」と解説されています。
しかし、一般書店を巡っても、岩波文庫には入ってないし、
全集を買いたくても、アリストテレス全集は版元品切れでどこにも売ってない。
読みたければ、図書館で読むか、古書店で数万円を出して一セット買うしかありません。

しかたなく、あるときプレステ2を買うお金+αで(笑)、アリストテレス全集を買いました。
一生モノだと思って、清水の舞台から飛び降りちゃいました。さすがに分量が多すぎて、
読んだり読まなかったりですけど、「読みたくても読めないイライラ感」だけは無くなりましたよ。

英語だと無料でダウンロードできるけど、できたら、日本語で気軽に読みたい…
しかし読めない現状に、なんとなーくな不信感を覚えて、
「これ、なんで読めないんでしょう?」ととある場所で、ある人にたずねたところ
「以前聞いた話だが、自然学関連の文献は誤訳が多いから、文庫化できないんだよ…」
というギリシア語が読めない身としては、まったく確認できないことを言われたことあります。
でも、そこまでわかってるなら、誤訳を訂正した本を出すべきじゃないか?とも思う。

発刊してる岩波書店としては、「需要がない、商売として成り立たない」という理屈もあるだろうけど、
外から見る限りでは『形而上学』で大もうけできるほど儲かってるとは思えませんし、
しかも、プラトン全集が増刷されたときには、『ティマイオス』だけがまっさきに書棚から
消えてます。それほど多くはないが、ある程度の商業的な需要はあると思えるんですけどね。

何かご存知のことがあれば、教えてください。あるいはよろしければ、ご感想なりお願いします。
222考える名無しさん:04/05/16 19:55
岩波の哲学原典なんて大学・図書館の購入分+αしか売れんのが普通だろ。
500部売れればいい方。いま岩波は経営自体危ないそうだし。


そういえば、精神現象学も文庫化してほしいな…
223217:04/05/16 20:13
>>222

そっかなー?

『形而上学』は非常に有名な本だからかもしれないが、1998年の段階で36刷ですよ。
あるとき『自然学』に非常な感銘を受けた口だから、やや贔屓目に見ているからかもしれないが、
自然学関連の本を文庫にすればその三分の一くらいは売れそうな気がしますけど…。

それに、『形而上学』だけではほとんどチンプンカンプンじゃないですか(笑)。
概念をイメージ抜きで羅列しているだけというか、正直、何を言いたがってるのか、
あの本だけでは、さっぱりわからない。

わからないなりにも『自然学』『天体論(天について)』などを読んで、
当時の宇宙観などの具体的なイメージをちょっとでもつかんで
そのあとで『形而上学』をチラチラ読めば(眺めれば)、
アリストテレスが言いたがってることは、以前よりもなんとなくわかってくるけど、
しかし、自然学関連の本はお気軽には読めない、という現実はいかんともしがたい。

『形而上学』って本は、一般書では有名な最初の一行を引用されるネタ本として使われているように、
ともすれば、妙な権威付け的な使われ方しかされない本になってる。非常に残念だと思うな。
224唯一ネ申又吉プネウマ ◆bc3X3SACRA :04/05/17 05:00
>>212
 結論を言うと、能動理性の解釈について、とくに思惟ヌースの外延をめぐって、
桑子教授やその他の注釈家と見解の相違が見られたので、自説を述べた上で、
これらについて論駁することとしたい。
 まず思惟ヌースの定義から論述したい。アリストテレスは『ニコマコス倫理学』
第六巻において知性的徳を探究するため魂の分析を行っている。第二章に
「魂において、実践や知性認識をつかさどる部分に三あり、感覚、思惟ヌース、欲求が」
とあり、ここにおける思惟を「広義の思惟」と定義する。次に第三章に
「魂がそれによって、肯定とか否定とかの仕方で真を認識するところ・・・五つ・・・
すなわち、技術、知識エピステメー、知慮、知恵、思惟ヌース」とあり、ここにおける思惟を
「狭義の思惟」と定義する。
 次に、『霊魂論』第三巻第五章における「思惟ヌース」ないし「能動理性ヌース ポイエティコス」が
広義の思惟についてのものであると考えるので、その理由を述べたい。
『霊魂論』第三巻第三章において「思惟することには一方では表象のはたらきが属する
と考えられ、他方では判断が属する」とし、第三章において表象が、第四章ないし
第六章において判断が属する思惟について扱われている。これは、第四章に
「私が思惟と言うのは、魂がそれによって思考したり判断したりするところのものである」
とあり、第六章が真や偽を主題としていることを根拠とする。しかして
この判断が属する思惟は『ニコマコス倫理学』第六巻第三章に「魂がそれによって、
肯定とか否定とかの仕方で真を認識するところのもの」とされているものに他ならない。
されば、この思惟ないし能動理性が、狭義の思惟たることはないだろう。
また『霊魂論』第三巻第十章に「表象のはたらきを伴わなければ、欲求する能力は成立しない」
とあることにかんがみれば、表象のはたらきが属する思惟は欲求に分類すべきであろう。
『霊魂論』における魂の能力の分類は『ニコマコス倫理学』第六巻第二章冒頭の
三分法にしたがっているといえるだろう。すると広義の思惟は、判断が属する思惟である
と言えるだろう。そして判断が属する思惟が、『霊魂論』第三巻第五章における
思惟なのであった。これが第一の理由である。
225唯一ネ申又吉プネウマ ◆bc3X3SACRA :04/05/17 05:01
 第二の理由は以下の通りである。もし能動理性が狭義の思惟についてのものである
とするならば、知識エピステメーや技術、臆見ドクサなどが能動理性の働きから欠落することになる。
しかしこれらの原理が何かは「魂」であるとする以外に『霊魂論』に見出すことはできない。
しかし、「魂」が原理であるとするだけならば能動理性に比して扱いが軽すぎないだろうか。
『霊魂論』第三巻第四章冒頭に「いかにして思惟の活動が成立するのかを考察しなくてはならない」
とある以上、たとえば推理する能力が思惟と別の能力であるとすると、
それがいかにして成立するかを考察せねば、統一的な美しさを欠くことになるであろう。
しかるに、そのような考察は見られないのである。『霊魂論』第二巻第三章に
「共通の説明規定を探究するのは、そのような個別的な説明規定を無視して顧みないならば、
馬鹿げたことである」とあり、第一巻第一章に「定義のうちで、それに基づいて
付帯する事象の認識にいたるということもなく、またそればかりか付帯する事象について
推測することさえ容易でないというような定義は、すべて、問答技術上のこととして、
また空虚に述べられていることは明らかである」とある。また、技術については
『形而上学』第七巻第七章に、「心のうちにあるそれの形相」から「思惟を続けて・・・行動しうる点」に
達する過程であるとされ、知識と論点を同じくする。臆見の原理についても『霊魂論』には
特別の説明がなく、能動理性の働きであるとするのが平易である。
 如上の見地に立って、以下について検討したい。
226唯一ネ申又吉プネウマ ◆bc3X3SACRA :04/05/17 05:02
>坂部恵『ヨーロッパ精神史入門』にある
>ヌースが、インテレクトゥスをへて、悟性になったという主張を思い出しました。
 さて、この関連で『霊魂論』に注釈を与えたもののうちで特に有名なトマス・アクィナスの
知性インテルレクトゥスと能動知性インテルレクトゥス アゲンスに対する理解を検討してみたい。なお引用はすべて
『神学大全』第一部より行った。魂の知性的把握の部分には知性インテルレクトゥスintellectusと
理性ratioがあり、理性は推理するratiocinari部分である(第八三問題第四項主文)。
これに対し、知性は存在者ensを対象とする(第七九問題第二項主文)。
能動知性インテルレクトゥス アゲンスintellectus agensはかかる知性に立脚する存在である。
具体的には、形相に関して質料的制約を取り除く抽象の働きである(第七九問題第三項主文)とした。
これがアリストテレスの言う能動理性と同一であるかはさておいて、近代以降の悟性につながっていった
とすることも可能であると思われる。またトマスによると、能動知性の光によって
出生のときより即時に第一の原理が認識される(第一一七問題第一項主文)とされている。
ここに言う能動知性はアリストテレスの言う狭義の思惟の働きに類似している。
 以上より案ずるに、トマスにおける知性ないし能動知性は存在者を中心に語られており、
推理の現実化は能動知性とは無縁であると考えられる。存在者を中心に考えることは、
ある面において美しい様相を呈することがあるかもしれないが、アリストテレスの解釈
としては首肯しがたい。推理も含めた現実のすべての思惟の原理が能動理性である
と考えられるからである。しかし、このような解釈はトマス以外の注釈家にも多く見られる。
私はこのような解釈はアリストテレスの考え方に整合しないものと考える。
227唯一ネ申又吉プネウマ ◆bc3X3SACRA :04/05/17 05:05
>桑子敏雄『エネルゲイア』(ヌースについて)
>この本では、エピステーメーを、知識の内容ではなく、機能だと捉えているようでした。
 桑子教授もトマスと同じく、能動理性を、広義の思惟の現実態であるとは解していない
ようである。また、エピステーメーとヌース(狭義の思惟)を別の能力とするのも、
トマスの知性と理性の分離に似ている。さらに、感覚とエピステーメーとエパゴーゲーないし
ヌースが明確に区分されている。このことは『エネルゲイア』六五頁によると、学問は
「普遍的なものにかかわる能力」と「個別的感覚対象にかかわる能力」との違いによって
理解できるからであるとする。これについては私も異議がない。しかし、作用を
蒙ることのないヌースが狭義の思惟であるとする点は、私の考えと異なる。
思惟を論ずるうえで『霊魂論』は『分析論』に一切言及していないのである。

>黒田亘氏の「知識は人に宿る」が引用されていました。
 私見では、知識は能動理性によって現実化すると考えるので、これは正しいと思う。
能動理性は論証する能力を含むもである。

>「永遠」を、時間の内にあるが滅ぶことはない、ではなくて、
 『霊魂論』第三巻第五章の最後の部分(430a19-25)に対する注釈をもって、
能動理性の本質と「永遠」について解釈しようと考えたが、今日のところは
少し上記の部分で頭を使いすぎたようなので、これについては数日まってほしい。
228唯一ネ申又吉プネウマ ◆bc3X3SACRA :04/05/17 05:06
>「アンスコムによると、例えば、その(分析論後書の)第一章のごときは、
> アリストテレスの名を冠ぶせられた書物の中で最も出来の悪いテキストである。
> そしてその最も大きな誤りは、
> 真の認識とはその原因を知ることであり、事物の本姓を知ることである、
> としたことである。」
>とあります。「観察によらない知識」と関係があるのでしょうか。
 今道教授の『アリストテレス』には出典が記されていないので、なんともいえない
ところである。私は近代以降の哲学には甚だ疎いので、「観察によらない知識」
についても述べることができない。よければ教えてもらえないだろうか。アリストテレスの
テキストから何かを答えることができるかもしれない。
229考える名無しさん:04/05/17 08:50
ハゲストエロス
230愚者:04/05/18 00:49
 >>228
>私は近代以降の哲学には甚だ疎いので、「観察によらない知識」についても述べることができない。
>よければ教えてもらえないだろうか。
>アリストテレスのテキストから何かを答えることができるかもしれない。

 私のような愚者の思いつきに誠実に応えて頂いて、感謝の言葉もありません。
御謙遜なさってますが、私の示せる程度のことなど既にご存知であるかもしれません。
でも、やれるだけやってみます。

《 「観察によらない知識」は、
 G・E・M・アンスコム『インテンション』において述べられている概念である。
 彼女は、この概念を用いて、「意思(意図的)行為 (intentionai action)」の判定基準とした。
  自分がいま「何」をしているのか、また「なぜ」そうしているのかと人に問われて、
 即座に、観察によらずに答えられる場合、それは彼の意思(意図的)行為だ、というのである。
 (黒田亘『行為と規範』頸草書房--@ 12〜13頁の要約。)》
そして、
《さきに援用した「観察による知識」と「観察によらない知識」の区別も、
 主として「原因」と「理由」の対比を念頭に置いて設定されていた。(@ 52頁)》
いいかえれば、
《意図的行為は、「なぜ?」という問いに
 原因によってではなく理由をもって答えうる行為である
 (門脇俊介『現代哲学』産業図書 177頁)》 
しかし、
《アリストテレスは、行為に関する推論も論証科学の推論と基本的には同型であって、
 同じ推論規則に従うべきものだ、と述べている。(@ 35頁)》

 アンスコムは、意図的行為の説明に、原因ではなく理由(観察によらない知識)を用いているので、
真の認識を原因を知ることだとした点を、非難しているのかな、と思ったのです。
231唯一ネ申又吉プネウマ ◆bc3X3SACRA :04/05/24 03:01
返答が遅れて申し訳ない。先週は所用があって時間が取れなかった。

>>221
>Q:なぜ、日本ではギリシア自然学関連の文献を気軽に文庫で読めないのでしょうか?
 私も出版事情には詳しくないが、やはり人気がないことに原因があると思う。
 岩波文庫について言うと、全集の『自然学』は、訳文自体においては水準を満たしている
と思うが、マルクス主義の立場からの解説など、現在からみると古くなっている部分があり、
このままでは文庫化しにくいうえ、出博士はすでに死去しており、岩崎教授もすでに高齢
(大正十年生)のため不備の補正も難しい状況なので、出るとすれば新訳だろう。
 次に出るものが何かは編集部に問い合わせるのが一番とは思うが、岩波文庫における
西洋哲学の出版方針は一般に、著名な書物を数ヶ月に一冊のペースで出すというものなので、
アリストテレスのように体系的であって全集が特に必要と思われる哲学者の場合は、
つらいものがあるように思われる。そういう意味では、もうすこし読者の視点がほしいと思うが、
営利上、仕方のない部分もやはりあると思う。
232唯一ネ申又吉プネウマ ◆bc3X3SACRA :04/05/24 03:02
>>230
>アンスコムによると、例えば、その(分析論後書の)第一章のごときは、
 この出典はアンスコム他『哲学の三人』勁草書房の六頁であった。なお「第一章」とあるのは、
正しくは「第一巻」である。『分析論後書』の主題は知識エピステメーであって、アリストテレスは
第一巻第二章において論証による知識を真の意味での知識であるとする。アンスコム教授は、
前掲書において、これを批判するに、第一巻第五章の例をもってした。すなわち、二等辺三角形と
不等辺三角形のそれぞれにおいて内角の和が二直角であることが証明されても、三角形の
内角の和が二直角であることを真の意味で知っているとはいえない、というアリストテレスの主張を
批判している。厳しい批判ではあって即答はできないが、体系的な知識に美しさを感じる私としては
アリストテレスの主張のほうに味方したいところではある。
 アンスコム『インテンション』は難解な本だが、主題は行為と意志であろう。アリストテレス
にあっては知識エピステメーと異なり知慮フロネシスとよばれる魂の部分についての考察ということになる。
なお知慮とは『ニコマコス倫理学』第六巻第五章に「人間的な諸般の善に関しての、ことわりがあって
その真を失わない実践可能の状態」と定義されている。
>アリストテレスは、行為に関する推論も論証科学の推論と基本的には同型であって、
>同じ推論規則に従うべきものだ、と述べている
 このとおりであって、アンスコム教授は『インテンション』一〇九頁において「『実践的三段論法』は
アリストテレスが発見したもののうちで最も優れたものの一つである」としている。ただ、よく読んだ
わけではないので、詳しいことは今のところわからない。
 結論としては知識エピステメーのあり方についての批判であって、行為についてのものではないといえるだろう。
233考える名無しさん:04/05/24 03:54
これはすごいレスだね。勉強になるな〜。
234考える名無しさん:04/05/25 15:02
>>231
唯一ネ申又吉プネウマ ◆bc3X3SACRA さんへ

すでに出来上がってる書籍に対してオンデマンド出版を採用するなら、
版元にはリスクがほとんどありません。
儲からない書籍ならリスクヘッジが出来ればいい、という考え方はなりたつはず。
どんな形であれ継続的に書籍を読者に届く形を維持することこそ、
岩波書店のような他が出せない書籍を扱える老舗版元の義務だとも思います。

・・・まさか、あの時代のあとがきが文庫化への障害になっているとは(?)。
確かに、あのあとがきを読んだときには違和感がありました。関係ないじゃんか、と。
日本国内の共産アレルギーってのは、予想以上に根深いものがあるのでしょうか。

長年の疑問の片翼だけは解消したような気がします。どうもありがとうございました。
235唯一ネ申又吉プネウマ ◆bc3X3SACRA :04/05/26 01:19
>>234
>すでに出来上がってる書籍に対してオンデマンド出版を採用するなら
 これは、実現する可能性もある。ただ今の技術では価格は若干高めになってしまうだろう。
数年ごとに重版する場合と比べることになる。

>まさか、あの時代のあとがきが文庫化への障害になっているとは
 これは、そのまま出すのであれば、おざなりな印象を与えるということである。
文庫化されないのは主に岩波文庫の編集方針による。体系的に叙述するなら以下の通りである
236唯一ネ申又吉プネウマ ◆bc3X3SACRA :04/05/26 01:32
 すべて会社は生産要素たる労働力・資本が限られているため、何を生産するかの選択を
迫られている。これは目的との適合によって決定される。会社とは法律上、営利を目的とする
社団法人と定義され、会社の目的は営利であるということになるが、実際には、特に非公開
企業にあっては、むしろ営利が手段となる場合もあることから、目的は実質的に把握しなければ
ならない。厳密には難しいところであるが、素描的に語ることが許されるなら(すべての学
において同様の厳密さを求めることは不適当である)、一応、「すぐれた知的財産を
次の世代へ手渡していく」(http://www.iwanami.co.jp/company/index.html)にあるといえる
だろう。すべての活動はこの目的に適合することを意図しているだろう。具体的な方法は、
各局で活動を分掌することによって実現するというものであり、出版の選択は編集局に属し、
各部において一定の編集方針のもとに出版の選択が行われる。岩波文庫の編集方針は
「読書子に寄す」にあるように「万人の必読すべき真に古典的価値ある書」を刊行するという
いわゆる教養主義的なもので、網羅的なものではない。しかして、この編集方針は先の岩波書店全体の
目的に合致すると考えられる。網羅的な企画は予約出版を中心にしてようやく採算が取れるもの
であって、岩波文庫のように、廉価で駅の書店であっても手にすることができるようにするといった
ことは、教養主義的な企画に比して需要との関係上、優先順位の低い事柄に属すると考えられるからである。
 この方針によってアリストテレスの文庫化について見ると、「万人の必読すべき真に古典的価値ある書」
に該当するか否かによって決せられることになる。『自然学』も候補ではあると思うが、『形而上学』
の基礎に『自然学』や『オルガノン』があるといった点での選択ではないだろう。最近の文庫化の
状況を見ても『詩学』『弁論術』『動物誌』等、それ自体で完結したものが文庫化されており、
理論的には難のある選択である。
237愚者:04/05/26 02:03
 >>232 唯一ネ申又吉プネウマさん

 度々、ありがとうございます。 
 『哲学の三人』が図書館に届きました。
しかし、『インテンション』が一週間たっても届きません。
また、行方不明ってやつでしょうか。悲しい……。