哲学が不要な主な理由

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138考える名無しさん:03/09/15 09:20
そんなことわかっとるがな。その内容を定義せんかい。議論にならんやろうが
139考える名無しさん:03/09/15 10:22

         ∫ 人
          (;:.:.__) ∫ モワー
          (;;:::.:.__.;)
         (;;:_:.__〃⌒.)

140Sandalphon:03/09/15 18:00
>>138
それでは貴方に定義して戴きましょう。それが無理な相談なら、ここでの議論
は御破産でしょうね。私もこれ以上明確な定義は持ち合わせていないので。
141考える名無しさん:03/09/17 07:55
>>120

> これらの営み自体が、既に哲学と言いうる行為になってしまう

どうしてそう言いきれるのですか?

非常に勝手な解釈ですねw
142考える名無しさん:03/09/17 07:57
君、ひとりで哲学罵倒スレ挙げまくってるね。
なんで、そんなに必死なん?
143考える名無しさん:03/09/17 07:58
ハイハイ。
チコクスルゾ。。
144考える名無しさん:03/09/17 08:02
哲学に関連したことで何か
嫌なことでもあったのだろう。
お気の毒さまとしか言いようがないよ。
145考える名無しさん:03/09/17 08:10
>>144
都合のいい解釈だねw
146Sandalphon:03/09/17 15:52
>>135の「>>1の意図により近い」はなかったことにしてくれ。

>>136
>>138
偉そうなことを放言しておきながら、今度はただ黙って退散するのか。
貴方も哲学板のゴミの一人なのか。ムッとしたなら何とか言ってみろ。
147Sandalphon:03/09/17 20:26
つまりこういうことだな。

「哲学が学問であろうがなかろうが、私はそれを必要としている。」

しかし、「哲学は学問である」という命題は、一体何を意味しているのだろう?
148Sandalphon:03/09/17 23:57
誰も私を批判しないのか。それなら暇にあかせて勝手に逐一レスしてみよう。

>>1>>4
貴方の「偉大な頭脳」と「世間的評価」やらをここに示せ。でなければ
対話にならない。そして対話をする気が無いのなら無駄にスレを立てるな。

また、貴方が殊勝にも「主な」という留保をつけているのはなぜか。

>>5
「哲学は不要だという思想が哲学に蔓延している」とはどういう意味か。

>>6
それは大きな問題だと思う。私も基本的には哲学はその使命を有する者のみが
従事するべきものだと考えているが、かといってこれを世間のあらゆる個人的
趣味嗜好と同等視することには躊躇いがある。なぜだろうか。

>>8
貴方の意見は言葉足らずにして表現曖昧であり、明瞭さを著しく欠いている。
かような意見は公の対話においては不適切なものであり、黙殺されるのみだろう。

>>18
察するに貴方は相当の傑物なのだろう。見飽きたなどという感覚的言明で満足して
いないで、貴方の意見を表明されてはどうか。クソスレにうんざりしているのなら、
それを撃滅するために、クソどもに己の愚かさを悟らせることが最善の対処である。

>>30
「現在においては哲学でなく哲学者が不要」どういう意味か。
詳しく説明せよ。でなければ貴方も無用の発言者の一人である。
149初心者:03/09/18 00:04
途中からですが対応してみましょうか???
150Sandalphon:03/09/18 00:11
>>39
貴方は正真正銘の卑劣漢だ。>>33は稚拙ながらも己の意見を表明したのだから、
まだ見所がある。貴方はそれを高圧的に無根拠に悪し様に批評した。反省せよ。

>>40
貴方のレベルを拝見したい。

>>59
それでは哲学に固有な性格を考察する観点が欠落している。

>>61>>64
そういうのを思考停止という。もっと徹底的に考えてみよ。

>>89
社会不適合者でない哲学者もいるだろう。貴方が論じるべきなのは
彼らについてではないだろうか。
151Sandalphon:03/09/18 00:18
あまりにクソレスが続いているのでやる気が失せました。全体にみなさんは
論拠不十分です。いかに意見を表明することが尊いとはいえ、やはりそれなり
の水準は満たされているべきでしょう。このスレで行われてきたことは、
オバタリアンの井戸端会議に等しいと思われます。

>>149
お願いします。
152初心者:03/09/18 00:22
151のみ理解できましたw.哲学の何を対話しますか??決めてください.
153Sandalphon:03/09/18 00:38
>>152
私が議論したい問題は次の三つです。

 A. 哲学はいかにして学術的研究として可能であるか。
 B. 哲学は要も不要もなく自己において現に行われているものとしてのみ存在する。
 C. 哲学の学問性を検討することが学問的なのであって、哲学が即ち学問であるのではない。

しかしこれらの命題自体、問題のある表現を多くはらんでいますね。暫定の域を
出ていません。私の方から、もっと詳しく議論を進める必要があるでしょう。
しかし残念ながら今日はこれ以上時間的な余裕がありません。失礼します。
154初心者:03/09/18 00:49
はあはあ.
一応レスしときます.
Aについてですが、哲学の定義を定めることは実際上ほぼ不可能なので、これについてはペンディングしときつつも、
「学術的研究」のほうは定義する必要があると思います.それをすることが、Aを問うための条件です.
Bですが、まじめに対応すると意味が解りません.具体的には、例えば「自己において」と「現に現れている」の関係が解りません.
Cですが、学問性を研究することが(1つの)学問であることと、その学問の研究対象であるもの(この場合は哲学)が
それ自体学問であることは両立可能です.ですから、「であって、」の導出関係がちょっと先入観に犯されているように
思われます.(もちろん哲学が学問でない可能性をこのことが排除するものではありませんが.)
また、Aの「学術的研究」とCの「学問」との関係を明瞭にしないことには、問いを問うことができません.

ご本人も「問題のある」と断っているので大丈夫だとは思いますが、
(他のこの対話をご覧になった方も含めて、)時間のあるときにでも
説明してください.
それでは.
155考える名無しさん:03/09/18 00:55
>>1 哲学という学問分野が対象とする領域がなくなりつつあるから・・ かな?
156考える名無しさん:03/09/18 01:51
「哲学という学問分野が対象とする領域」って具体的にどんな領域?
157Sandalphon:03/09/19 11:33
A 学術研究と学問は異なる。大学(厳密には大学に限らないが)で講ぜられ、公費で
研究される「研究」、これが学術研究である。しかしこの「研究」は、必ずしも学問と
呼び得るものとは限らない。実質茶番に等しいような「研究」も、それが上記の地位を
得ている場合には、学術研究なのである。この意味で、哲学は紛れのない学術研究で
ある。しかしそれが学問であるか否かという点は、なお検討を要するところである。

学問でない学術研究があると同様に、学術研究でない学問もある。自宅に蟄居して
ひたすらそれに打ち込み、その成果を世に問うこともなしに行い得るものが学問で
ある。しかしかような営みは、学術研究とは断じて呼び得ないものだろう。学問が
私的であることを許すのに対し、学術研究は公的なものでなければならないといえる。

学術研究の範例を挙げてみれば、それは法学、経済学、医学、物理学などである。
これらは、それに従事する者以外の人々にも寄与するところ大である。これらは一方
では、その本質において、やはり哲学同様、研究者の自己満足のために遂行される場合
がある(つまり、ただ社会や人体や物質世界を知り極めたいという動機から志される
という場合)。他方ではまた、当初から公的成果を念頭がおかれる場合もある。そして
そのいずれにせよ、結果としては、公的成果が研究者以外の人々に認めらるべきこと
になっている。それでは、哲学はどうか。それは哲学に従事する者以外の人々にとって、
何か寄与するところがあるのだろうか。ある、という哲学(研究)者も少なくないが、
反対勢力もなお有力である。こうした哲学が、なぜ学術研究の地位を与えられているのか。
158Sandalphon:03/09/19 11:36

現代日本の大学制度は、明治の西欧文化導入によって確立されたものを引き継いで
いる。すなわちその源泉は、中世ヨーロッパにおいて確立された大学制度である。
そこでは何が講ぜられ、また研究されていたか。法学、医学、神学が三大科目で
あった。哲学は当時、権威のない研究科目であったが、それでも一応は一般に専門
科目として設けられていた。つまりこの時点で哲学は学術研究の地位を得ていた。
明治の日本は、この制度をそっくりそのまま輸入したため、現代日本においても
そのまま哲学が学術研究の地位を得ているわけである(無論、そこに至るまでには
我が国の哲学研究者諸氏の尽力があったのだろうが。しかしその根底にあったもの
は、やはり西欧の大学制度を理想とする考えであろう)。かくして我々は、哲学の
学術性を考察するために、中世ヨーロッパの大学において哲学がいかにして学術
研究の地位を得たのかということ、これ考究の課題とすべきことになる。無論、
さらに歴史を遡って、ソクラテス以前のギリシア人の思惟(すなわち哲学の源泉)
と、アカデメイアおよびリュケイオン(それぞれ、プラトンとアリストテレスが
開いた教育・学問研究機関)における哲学の位置付けをも考察する必要があるだろう。

またここで興味深いことは、現代に至って神学が学術性の権威を失った理由である。

参考図書として、次のものが精読されるべきだろう。
『純粋理性批判』『ヨーロッパ諸学問の危機と超越論的現象学』
159Sandalphon:03/09/19 11:41
ま、存在的な考察に終止していますな。Cについて簡単に述べると、要するにここで
問題にされているのは、初心者氏が指摘された通り、「哲学は学問であるか否か」
という問題でしょう。この問いの本質は、「哲学」と「学問」の正体を究めること
だと言えます。これは一大問題でありますね。だから、Cは取りあえず放棄します。

Bについてはまた後ほど。
160八つぁんサービス受付中:03/09/19 12:24
896 名前:あるコテハン :03/09/18 12:38
ジエンで自分を持ち上げるのはさすがに飽きたので、有料でもいいから
プロの持ち上げ屋のサービスを2ちゃんねるで始めてほしい。

このサービスをと名づけよう。
哲学書読んだことないクライアントに対しては「か〜、ご隠居にゃかなわねーなー。
惚れ惚れとする実存だねー、なにか深いロジカル・ハイを体験なすったに違げーねー」
なんて調子で持ち上げてくれるんだw


161Sandalphon:03/09/19 19:16
自分は自分の議論がコテンパンに批判されることを恐れている。自分は哲学の知識も
才能も無に近いのだから、偉そうな口調を使えたものではない。>>135など傲慢不遜
も好いところだ。本来ならば、「この問いは自分の手に余る。どなたか、学識のある
方は、明晰な回答を提示して頂けまいか。」と、教えを請うべきところなのに。

>>157-158で、自分は哲学の学術性を論じるにあたり、重要と思われる論点を提示
してみせた。しかるに自分は、これらの論点について、知識も意見も有している訳
ではないのである。カントもフッサールも読んではいない。ギリシア哲学について
も実のところ無知である。だから、私がこの場で求めているのは、これらの論点に
ついて識者から教えを授かることである。何方か、明瞭な回答を為し得る方はいない
だろうか。

哲学板の現況を鑑みるに、それなりに気概のあるコテハンは少なからずいるようだ。
しかし問題だと思うのは、各自が各自のスレを持って、他のコテハンと没交渉に、
名無しの雑魚を相手に議論をしていることである。ここには独断的の嫌いがある。
何が言いたいのか? コテハンは、コテハンを相手に議論をするべきなのだ。
他のコテハンを恐れて、自分のスレに引き篭もっている者は、この中にいないだ
ろうか? いや、何を隠そう、自分がその最たるものなのだ。そんなことじゃあ
いけない。こんな辺鄙なスレで囀っていないで、猛者のいるスレへ突撃しなければ!

というわけで、つわものぞろいのスレがあれば是非紹介して頂きたい。自分で探す
の面倒なので。勿論このスレの議論に対する意見も募集中です。稲妻のような意見を。
162考える名無しさん:03/09/19 19:21
>囀っていないで
これ何て読むの?
163Sandalphon:03/09/19 19:24
失礼。「さえずって」つまり軟弱な小鳥みたいに、大したことのない
弁論をちまちまと述べていることの形容ですね。
164考える名無しさん:03/09/19 19:45
>>Sandalphon

か〜、ご隠居にゃかなわねーなー。
惚れ惚れとする実存だねー、なにか深いロジカル・ハイを体験なすったに違げーねー
165初心者:03/09/20 23:30
拝見致しました.
Cについては「放棄」と159で述べられているので、そうします.
Aについてですが、「学術的」のイミはだいたい解りました.
そのうえで多少申し上げます.
事実上哲学は学術的であるが、公共性という観点から見ると、
現在の身分は適切であるのか、という風に纏めさせていただきます.
この点についてはわたくし自身時々フッと気になることもありますが、
明確な応答をすることができませんし、この論点自体は(「存在的」とご自身述べているように)
特に哲学的な問題だとは感じません.というのも、これは実感としましては、
他の人文系大学院についてもいえることで、たとえば、文学の研究を学術的なものとして
することは適切であるのか、という懸念を表明することができるからです.
いずれにせよ、(あえてあなたの表現に対応させて言うならば)
「存在論的な」問いを立てて、「哲学が学問なのか」「あるいは哲学が学問であるとは
どーいうイミなのか」とあなたが放棄した問いをやはり問うべきでしょう.
(少なくともわたくしはその問いには興味があります、切実なイミでもw.)

さて、158で参考図書として挙げられていた『純理』と『危機書』ですが、
Aについてのおもしろい(そして説得的な)意見としては、
一昨年の<若手>で発表した戸田山先生の論文(?)が参考になると思います.

とりあえず、では.
166考える名無しさん:03/09/21 03:33
あげ
167考える名無しさん:03/09/21 11:48
ダメです糞レスにてsageてください。

哲学が無ければ人間は猿ですよ。
168Sandalphon:03/09/22 10:09
>>165
ごもっともです。また貴方の簡潔な文章をみるにつけても、
己の力量不足を感じざるを得ません。

申し訳ないのですが、私にはこれ以上独力で議論を進める力はありません。
改めて、問われるべき問いを整理してみると、次のようになるでしょう。

1.哲学の”正体”(=本質)とは何か
2.学問とは何か
3.哲学が学問であることの意味ないし意義は何か

この実質的内容に触れる前に、Bについて述べておきます。要するに私があの
「意味不明」な命題で言わんとしていることは、哲学とは各人にとって各人なり
の営みなのであって、それを「客観的に」明証に定義することは難しい、というあり
ふれた見解にほかなりません。一応それぞれの表現について解説しますと、「要も不要
もなく」というのは、哲学は他から必要性を教えられて行うものではないこと(つまり
生来の、したがって唯一真正の哲学者にあっては自然に遂行されるに至るものである
こと)を、「自己において」というのは、まあ言葉通りですが、哲学は自己と密接に
関係して行われるべきものであることを、「現にいまここに」というのは、ハイデガー
のいわゆる現存在 Dasein のにおける「現」 "da" を踏まえて、哲学とは我々が
常に(既に?)行っているところのまさにその営みであること、をそれぞれ意味して
います。もっとも、いずれも思いつきで書いただけの表現ではあります。ハイデガー
も生半可な読み方しかしておりません。

4.要も不要もなく
5.自己において
6.現にいまここに
169Sandalphon:03/09/22 10:10
Aに戻りますが、このBを踏まえてみれば、哲学とは各人にとって各人なりのものなの
であるから、哲学について定義を与えるためには、単純に己が哲学と考えるところの
ものが何であるかを陳述すればよいことになります。歴史と伝統がどうのこうの言って
いないで、単刀直入に定義してみるべきなのです。そして、私が哲学者であるなら、
私はまさにその営みを現に遂行しているはずなのですから、そういう定義は可能な
はずです。したがって、これに躊躇し続けることは、結局、私の理論的破綻の証明
にほかなりません。しかしながら、私は現時点では、1、2の問いについて明確な
解答を提示し得ません。無論、私もこれらの問いについて日々考えてはおりますが、
その思索の成果はいまだ結実していません。そして、私がこの場で表明しようと思う
のは、拙いなりにも体裁の整った意見のみであります。体裁も整わない意見を表明
し合って、それこそ幾多の問題を整除しながら、議論を進めて行くという営み、これは
この場では(私の力量不足にもより)手に余ります。ですから、要するに、私は
これ以上は沈黙を選択します。

最後に、今一度「存在的な」問いを整理しておきます。

7.中世ヨーロッパの大学制度において哲学が学術研究の地位を獲得した経緯(哲学の学術性の卑近の源泉)
8.アカデメイア、リュケイオンにおける哲学の地位(哲学の学術性の源泉)
9.ソクラテス以前のギリシア人の思惟(哲学の源泉)
10.『純理』『危機書』における哲学と学問の定義

当面の課題としては、己自身の思索を重ねるとともに、前記二書と御紹介のあった
論文を精読し、理解に努めるべきでしょう。その結果、報告すべきものが見つかれば、
再度登場しようかと思います。

なんとも情けない結末になりましたが、これにて。
170Sandalphon:03/09/22 10:20
6.を訂正

「現に(いまここに)行われている」
171考える名無しさん:03/09/22 11:17
不可欠の知の前提であるからして「学科」になじまない。
172考える名無しさん:03/09/22 11:38
ようは哲学は、全ての学問を超えるメタ学問というわけですね。そりゃ、他の学問なんかと一緒にされたくないですね。納得納得。
173:03/09/22 12:26
>>172
なぜ、包括的な意をもつ学問を他の学問と同じように扱ってはいけないのですか?
174考える名無しさん:03/09/22 17:04
密かに>>61はキング

牧師じゃないぞ。
175考える名無しさん:03/09/22 17:09
湘南爆走族が載ってた雑誌か。
176考える名無しさん:03/09/22 17:10
脳の病気だから
177考える名無しさん:03/09/22 17:24
ああ、劇団四季でロングランやってるやつか。
178初心者:03/09/23 00:38
168,9について.
拝見致しました.だいたいのお気持ちは十分分かりましたが、
主張となると(残念なことですが)ほとんど成立していないと
言わざるを得ません.
いちいち挙げることは(ほとんど無意味なので)致しませんが、Heideggerのdaは「非本来的」な状態(?)の分析においても(受動的に)作用しているものなので、「哲学すること」の比喩として捉えるのは好意的に見ても不適切です.
また「10」で述べられてることと、哲学することの「個人性」(とでも
言うべき考え方)との間に架け橋が見つかりません.もし哲学することが「個人性」に依拠するならば、それは「哲学の源泉」を探すこととどのくらい
関係があるのでしょうか?(別例としては:我々は自分の(あなたが言うようにdaしてるのであるならば)日常生活の営みと
古事記以来の「日本史」との間にどのような連関を見いだせばいいのでしょうか??)
それにもし個人の陳述によって「単純に」哲学が定義できるのであれば、
なぜ我々は同じ哲学という(なまえでよばれている)ものをしていると言えるのでしょうか??
あるいはこう問うてみてもいいかもしれません.なぜ我々は「私の哲学」と言わずにただ単に「哲学」というのでしょうか?
つまりもし私の哲学を問うているならば、そもそもそれは他者との議論によって定義していくことが困難な代物でしょうし、
反論を原理的に阻害するものになっています.ですから、単純に個人の見解を述べることは哲学とは関係ありません.
(↑厳しい言い方ですがホントウのことです.)
さいごに、まとまっていないと人と対話できないというのは気分としては
分かりますが、哲学する態度としては良くないかも知れません.
プラトン初期対話編を読んでソクラテスの態度を学ばれることをお勧めします.
(ソクラテスはプラトンが書いていることに常に注意を払っていてください!)
以上です.
179考える名無しさん:03/09/23 00:48
メタメタ学問というわけです
180考える名無しさん:03/09/23 00:49
>>179
なにそれ
181初心者:03/09/23 00:53
179へ.
そーいうことになっちゃうのかもしれませんね・・・.
でもこれってもっと実感に沿った感じなんで抵抗はあるんですよ〜☆
だから、メタメタという表現は(適切でも)避けたいですね.
どなたか代案あるかたいたら発案してください☆
182Sandalphon:03/09/23 11:53
>>178

>da
復習および再考します。

>個人性
私は、哲学の個人性を重点的に考えるべきだという立場ではありますが、同時に非
個人的なもの、すなわち無数の他者によって成立しているものにも注意を払うべき
だと考えています。(この他者的な何物かを「歴史性」と呼ぶことは、不適切でし
ょうか。)なぜなら、個人の成立は、他者的な何物かによってこそ可能だからです。
振り返ってみると、>>169での「哲学の定義は個人的定義で事足りる」という主張
は、明らかに一面的であり、言葉足らずなものでした。ここでの貴方の指摘を受け
て、さらに考えを深める必要があるでしょう。無論、これは私の課題です。

>歴史と日常の関係
唐突な論理ではありますが、私の根本的な考えは次の通りです。すなわち、

 個人的なものを熟思することは非個人的なものへの思惟へとつながっている。
 なぜなら、我々は本質的に「個的な」存在ではないのだから。
 非個人的なものとは、歴史にほかならない。歴史とはすなわち言葉である。
 我々がまずもって行うべきことは、古典の精読である。

しかし第一、私はハイデガーの「日常性」をよく理解していないので、ここでの
用語の選択は的外れかもしれません。

>ソクラテスの精神
プラトン対話篇に見える自由溌剌とした対話は、双方が聡明であるからこそ成立して
いると思われます。テアイテトスとアテナイの一市民との間でさえ、実りある対話が
交わされ得るかどうかは、大いに怪しいところです。とはいえ、ソクラテス的対話精神
を身に付けよという指摘は参考にさせて頂きます。

以上。
183考える名無しさん:03/09/23 12:12
     __,,  从爻ミミ
  ,,-''''"|  /゙、 ミミメミ彡|lおめでとーございまあすう        ,,-──ヽ、
-''"彡ミ/ ̄''/l .ノ ヽミミミ彡|                   /二‐,'''ヽミミ刈゙ヽ
、彡ミミ/''‐-' |ヽ、  ヽミ  ミl                   L|ヽ/_ /"''‐、ミミ爻リヽ、 ,,,,,,
彡ミ|-、 /|-'.ミ/   〉ミ  |l                    >ヽ-、_=ノヾ、ミミ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;
彡ミ|  ノ、_ノ_,,/   ミ ミl                    ヽ-‐'''\__,,,,-'ミ;;;;;;;;;;;;''''''"
彡ミ\,,ノ、,,,/    ミミ ミ                       ゙"''ゝミ,;;;;;;;;''''
三ミ/_ノ      |ミミ |                         ,,;;;;;;;;;'"
三二ソ'" _    |ミミ |        __-、  _   _,,,,_  ,,,;;;;;;;;;;;;;''"
ミ三|-'''''""ミミヽ-‐''''"""'''ヽ、  ,,--''""ミ,--、ミ/ 。__゙ヽ,'"ミミミ\;;;;;;;;;;;;;;‐'
ミ  |ミミ'''"""ミミ二゙、ミ川川ミミ゙ヽ、ミ,‐、ミミ、 <フ /ヘl‐ヘlミミ,,,,;;;;;;;;;;;;;;;;‐''  
ミ  /       ミ    ゙''ミ‐ミミゝ,| ヘヽミ、‐''" />  (>,,;;;;;;;;;;;;;;;;;;''"
 /               ミ彡l|〉フ |ミミ、 ./>_ ,,,,,(>;;;;‐'''''''
彡                三川ヽ-,ノミミ )|'"'''''''''''''''''''"          ・←>>629
ミ,,ノ彡川ヽ,,,,,  ,,,   ,,,-:::'''" .三ミ 彡ミ彡ノ |ゝ;;;;;;;;;;;;,,,,,,,,
彡メメ彡川ミ二彡|l  '''''''"    彡彡ヽミ/ ヽゝ  |''''''‐;;;;;;;;;;;,,,,,, 
184考える名無しさん:03/09/23 12:32
>>178
>古事記以来の「日本史」との間にどのような連関を見いだせばいいのでしょうか

なんか知らないけど塾の先生が「邪馬台国の場所がどこであっても、国家形成は中国朝鮮
情勢と密接な関連があったし、記紀もその関連で考えなければだめだ」なんてこと夏期講
習でいってるのを聴いて感動した。
当時の知識人がいかに深く中国を研究し活用しようとしていたか、その成果が記紀なんだ
ってさ。
古代日本史といえども極東情勢抜きには語れないということなんだろうね。
185考える名無しさん:03/09/23 13:13
記紀は当時輸入された讖緯思想(古代中国の予言説)にのっとって年代をさかのぼって
記述したものだから、縄文時代に農耕社会の神武天皇が即位するようなおマヌケなこと
になるが、古代史の中の政治学としては面白い。
186考える名無しさん:03/09/23 13:27
要するに古事記は日本固有の歴史どころか、中国仕込みの政治的フィクション
だったということですね。
187初心者
182へ.
こーいう対話はいいですね.
だんだん伝わっていく感じがいいですw.
し、か、し、です.
「個人の成立は、他者的な何物かによってこそ可能だからです」や
「個人的なものを熟思することは非個人的なものへの思惟へとつながっている。
 なぜなら、我々は本質的に「個的な」存在ではないのだから」
といった発言は、いかがなものでしょうか??
というのも、上記の発言は獲得されるべき成果であって、これを前提にして何かを語るべきものではないはずです.
現代思想や社会学etc.では許される前提ですが、こと哲学においては、これこそがまさに問題なのです.
(失礼な言い方なのかも知れませんが、)そのあたりにあなたの発言の「不用意さ」を感じてしまいます.
あなたの直観として、上記発言を確保するような哲学理論を目指すことは妥当だと思いますが、
でも、前提にしてはいけません.ご注意ください.

最後に:10月から「学校」が始まりますので、お返事できなくなりますが
お話しできて良かったです.ではでは.