701 :
考える名無しさん:03/09/14 17:15
舷側
>>全体的に徐々に学んできたと言えると思います。
なるほど、全体的にですか、こちらは全体を捉えるのが苦手でして、
個々の積み重ね積み重ねという感じです。その積み重ねも、
原則から生み出されたものなのでやっぱり原則ですねw
>>実は、「人の考えを知る」ということは、この世の中でも最も難しいことの一つではないかと思います。
自分と他人を比べることでまず、違いから相手を知ることができますけど、
原則に従うと、自分自身もひとつの価値観だったり可能性だったり・・・
物事の見かたが俯瞰したかのようなイメージがありますね。
「世界を知ることは自分を知ること」なんていいますけど、
その世界があったから出来上がった自分なので、
世界を知れば自分も他人もわかると・・・うーん、納得。
あ、
>>702の書き込みは689です・・・_| ̄|○
で、原則なんですが、原則には分類ができるのではないか?と考えています。
上の方でも、特許とかでてきたと思うんですが、原則の中の原則というか。
ビデオの話しで言えば・・・
DVDプレイヤーはで再生出来るのはDVDのディスクだけという人為的原則。
でも、「映像を再生し、テレビで見る」という行為的原則であれば、
DVDはひとつの要素となってVHS、レーザーディスクと同じ要素になります。
VHS→DVDとVHSの原則を破ったのはなんでだろうかと思うと・・・
根本的原則に従った技術革新と人の意志ではないかと。
つまり、根本的原則に従っていれば人の技術と意志で、
原則の中の原則は自由に作り出せるし、破ることもできるのではないかと。
原則を設定する自由と、原則から導かれるものを選ぶ自由。
あぁ、原則的発想!「全てはその人の自由なのである」
という感じで、いろいろな原則を分類できるのでは?と。
思ったことを書いてみます。
>702
>>>全体的に徐々に学んできたと言えると思います。
>なるほど、全体的にですか、こちらは全体を捉えるのが苦手でして、
>個々の積み重ね積み重ねという感じです。その積み重ねも、
>原則から生み出されたものなのでやっぱり原則ですねw
なるほどw
ところで、そういう全体的に捉える能力なども身につけていくことは可能だと思います。
自分の場合も初めはあやふやなものでした。
全体を捉えて理想の行動を目指そうとしても、どこかにぎこちないものがあったものです。
しかし今では完全にそういうものはなくなりましたね。
おそらく全てのものを全体的に捉えることはできると思います。
自分の中ではノウハウなんかも作っていきましたが、
それを目指していけば、自ずとそれらは手に入るものだと思います。
話は少し離れますが、自分の内に地球を想定したことがありますでしょうか?
あたかも自分が宇宙空間にいるようなイメージで。
それも、ただ地球儀をイメージするだけではないのです。
そこに本当に人々が暮らしている感覚になるのです。
何か物事を為すとき、そのくらいのレベルで考える必要があることも多いのです。
>703
>で、原則なんですが、原則には分類ができるのではないか?と考えています。
>上の方でも、特許とかでてきたと思うんですが、原則の中の原則というか。
>
>原則を設定する自由と、原則から導かれるものを選ぶ自由。
>あぁ、原則的発想!「全てはその人の自由なのである」
>
>という感じで、いろいろな原則を分類できるのでは?と。
なるほど、その通りだと思います。
様々に分類して、それぞれを細かくまとめていくことは、
多くの人が参考にすることのできる代物になるかもしれません。
後に「原則」が広まれば、そのような試みも自然と生まれるかもしれません。
とりあえず私の仕事はそのようなことをすることではありません。
少なくとも、それらは100人や1万人でできる代物ではないだろうからです。
全ての分野で、分かりやすい原則的な教科書を作ることも必要になってくるかもしれません。
また、私の経験から言えば、「原則」を分かった時点では、
まだ何も知らない状態だといっても過言ではないかもしれません。
最終的には、その思考は「原則」という一点に絞られてしまうものと思います。
全てのものが繋がって来るから、そう思えるようになるのだと思います(分からないかもしれませんが)。
そうなってしまうと、「原則」の分類の必要性は全く感じなくなってしまうものです。
「原則」さえ存在していないように思えてくるのです。
@o・ェ・)<今日はいい日だった?
@o・ェ・)<!! すみません…
708 :
考える名無しさん:03/09/16 00:54
<血液型O型のいかがわしい特徴>( すべて許していると調子にのってつけこんでくるぞ!! )
■その道の達人をコケにして安心しようとする。多数対少数のときだけやたら強気。才能ある人間を歪んだ目でしか見れない。
■場所が変わると手のひらを返すように態度が豹変する ( あの連中の中じゃヘコヘコさせられてきたが、うちに来たら見ていろ! 礼儀を教えてやるぜ。 )
■読みが浅い。粘着に睨まれる事を言っておきながら関係ない人に振り向けようとする ( どうせ>>1さんはヒッキーでしょ? / 大阪人だってジサクジエンしてるぜ )
■早とちりが多く、誤爆と気付いても釈明できない。イイ人を装って忘れる ( そういう土地柄だったのさ ) そのわりに人の勘違いは許せない。
■話題と関係ない個人攻撃で場の空気を陰険にする。次第に耐え切れなくなりあきれて話題をコロコロ変える。
■恩を貸してるように振舞うが、自分のためであるということを見抜かれる。それに気付いて恥ずかしさをごまかすために大袈裟にキレる。相手がキレると今度はビビる。
■似たもの同士でしか共感できないわりに人気者ぶる。
■顔が見えない相手に対しては毒舌かつ強気。面と向かった相手にはやたら弱気で人が言ったことにする ( 俺が言ったんじゃないんだけど、Aさんがあなたをアホかとバカかと… ヒヒ )
■無理な人の真似を勝手にしておいてケチだけつけ、批判される所には現れない。自分が観察される側になると極度に焦る
■自分が企んでいるのに相手を悪人に仕立て上げ、己の為に餌食にする。攻撃を誘って自分の憎悪に酔いしれる。人の裏切りを許せないわりに自分の裏切りは覚えていない鈍感さ。
■世間に通用しないような事ばかり繰り返して自分に課した目標から逃げる。あげくに人のせいにして相手にわからない方法でキレる。
■半端な人生経験により集団的にばかり相手を気にする ( 君のような人はウチでは… / ○さんによく似てるから駄目だろうね… )
709 :
考える名無しさん:03/09/18 08:04
貧にして怨むことなきは難く、
富みて驕ることなきは易し。
醜(しこ)めしくして嫉むことなきは難く、
美(い)しくして驕ることなきは易し。
無智にして屈することなきは難く、
賢くしくして驕ることなきは易し。
記念カキコ
711 :
RYO ◆PQt5QGscr2 :03/09/20 22:59
原則が崩れる事ってないんですか?
713 :
考える名無しさん:03/09/21 04:07
ベーター崩壊
714 :
考える名無しさん:03/09/21 04:08
アルファ崩壊
ガンマ線大嫌い
>712
>原則が崩れる事ってないんですか?
原則が崩れる(成り立たなくなる)ことは考え難いです。
崩れたら、その時にまた考えればいいのではないか?というのも一つの考えだと思います。
少なくとも原則は、宇宙が誕生してから今現在まで、
それが成り立たなくなった場所・瞬間などは、微塵も存在してはいないと思われます。
原子さえ存在していなかった時代にも原則は成り立っていたものと思われますし、
重力場が乱れる現象なども、原則の範囲内の現象であると思われます(遠い世界の話をしているようですが)。
地球人が関わることのできる範囲では、当然の如く全てが原則の範囲内の出来事だと思われます。
とにかく、矛盾のある因果が誕生してしまうこと(原則が崩れること)は、
相当に考え難いことだと思われます。
ところで、関係なく独り言を言いますが、、、
ふぅ。
やっとここらで一息ついたというところでしょうか。
原則に対してそれなりの評価は得られたのではないかと思います。
ここらで、新たな角度から「原則」について語ってみようと思います。
実は、「原則」などというのは、本当はどうでも良い代物だとも言える。
いくらでも原則を破ってしまって構わなく、好き勝手にそれを考えてしまって構わない。
全く無視してしまっても良いだろう。
また、このスレで語ってきたようなことを現実世界で語ることは、今のところは非常識である。
少なくとも、「原則」に反発する人間に語ろうとするのは愚かなこととしか言いようがない。
実のところ「原則論」とは、ただの「作り物の世界」であるとも言える。
ある意味全てがフィクションなのだ。
しかしフィクションとしてだが確実に存在している。
そのフィクションが人伝えに伝えられることは確認できた。
また、そのフィクションは全てにおいて、矛盾のない論理が一貫して貫かれている。
その論理のよりどころとなるものが「原則」であるということなのだ。
上のことは、これまでの話と矛盾しているように聞こえただろうか?
どういう事なのかと言えば、「作り物の世界(原則的な世界)」は、
「現実世界(人類が生きているこの世の中)」を包含しているということなのだ。
ある意味、「現実世界」の理想論が「作り物の世界」ということなのである。
しかし「作り物の世界」を知り、
それを「現実世界」に当てはめて実際に有効利用できてしまうところが世紀の大発見なのである!w
実を言えば、全く同じ事が数学という世界にも当てはめることができる。
数学というものも人間が勝手に創り上げた産物に過ぎないのである。
ただそれが有効に利用できることを経験的に知っているだけであり、
多くの人間が、数学が絶対的に利用できるものだと思い込んでいるだけなのである。
「数学」は人類の「作り物」にすぎないのである。
「原則」についても全く同じなのだと私は言いたい。
私は今まで、原則的な世界を構築するのに労していたということなのだ。
その材料は現実世界から拾ってきたものなのである。
もっともこれについては、今だからそう言えることなのである。
Q.あなたは「原則論」を知っているのだろうか?
Q.それを利用したいときには利用できるのだろうか?
今までの内容を総括すると、上の2つの質問に凝縮される(してみた)。
(その質問の意図が理解できれば、もはや言うことは何もないのだが。。)
まだまだ原則から個別に考えて、全体を見るという感じです。
全体からみる見方も訓練していくかなw
>自分の内に地球を想定したことがありますでしょうか?
>あたかも自分が宇宙空間にいるようなイメージで。
宇宙の外にいる自分というのもイメージしていました。
ただ、当時は宇宙遊泳気分で脳内遊泳ですかね・・・
その影響か、物事をみる視点を自由に変える発想は持っていたので、
コロコロ言うことが変わる奴と人に思われていたかもしれませんw
>とりあえず私の仕事はそのようなことをすることではありません。
>少なくとも、それらは100人や1万人でできる代物ではないだろうからです。
一万人!すごいですね。ピラミッドでも作るのですか?w
それこそ一人一人なんか見てたらきりがないですね。
>また、私の経験から言えば、「原則」を分かった時点では、
>まだ何も知らない状態だといっても過言ではないかもしれません。
知識としてどんな世界にも縦の限界がある事を知っただけで、
その世界を知ったわけでもなく、成したわけでもないと。
野球界、建築業界、携帯業界、パソコン業界など横の世界は限りがない。
人の数だけ世界があるわけで・・・すべてを知りようがない気がw
ただ、原則を知っていれば原則から派生する世界達を効率よく知れる。
わたすも独り言を・・・
原則とは人を成す時のどのようなものなのだろうか。
原則を知り使いこなす人はいつも正しいようにみえて、
人間味にかけるのではないか?と思った。
先人の知恵を借りてきて・・・
人を表現する「心技体」、さらに心を表現する「知情意」。
簡単に、知=考えて 情=感じて 意=動くとすると、
原則というのは知の限界を示すものではないかと。
原則を知っていて、自分の感情は原則的に計れたとしても、
相手の感情は、感じなければ計りも出来ない。
原則を知っていて、自分が動かなければ何も変らない。
何も変らなければ相手だって動かしようがない。
>719
>宇宙の外にいる自分というのもイメージしていました。
>ただ、当時は宇宙遊泳気分で脳内遊泳ですかね・・・
>その影響か、物事をみる視点を自由に変える発想は持っていたので、
>コロコロ言うことが変わる奴と人に思われていたかもしれませんw
私も同じようなことはできますが、
宇宙遊泳に、視点を自由に切り替えられる人ですか、、なかなかいませんよね。w
>知識としてどんな世界にも縦の限界がある事を知っただけで、
>その世界を知ったわけでもなく、成したわけでもないと。
>野球界、建築業界、携帯業界、パソコン業界など横の世界は限りがない。
>人の数だけ世界があるわけで・・・すべてを知りようがない気がw
>ただ、原則を知っていれば原則から派生する世界達を効率よく知れる。
もちろん全ての世界を知りようはない。
ただ、全ての世界に共通する「それ」を知ることはできるだろう。
また、一人の人が持つ世界は1つというわけではない。
また別に、2人の人が出会った場合には、また違った世界(文化)が生まれる。
この世の中にある世界の数は、果てしがないのかもしれない。
>719
>>とりあえず私の仕事はそのようなことをすることではありません。
>>少なくとも、それらは100人や1万人でできる代物ではないだろうからです。
>一万人!すごいですね。ピラミッドでも作るのですか?w
>それこそ一人一人なんか見てたらきりがないですね。
ふふふ。
仮にも世の中が原則的な動きに変わっていくとしたら、
それは地球上に住む人間の多くが自律的に行動をする必要があります。
そのことは、すでに私のコントロール外のことです。
一人一人など見ていられるはずがありません。
実は、何故「原則」を私の中から外へ出すことを思い付いたのかと言えば、ここにその理由があるのです。
また、思い付いた段階では、まだ「原則」は私とは独立させられない状態であったと思います。
今は「原則」から独立して、私は自由に動ける状態だとも言えると思います。
それ故に「原則」を自由に操れるのです。
もしかしたら、その到達点はこの境地にあるのかもしれません。
ところで「原則」を外へ出さざるを得なかった理由ですが、
前にも書きましたが、私は巨大な組織をコントロールするための術を考えていたのです。
小さな組織であれば、自らが組織全体を見渡すことによって、それなりにコントロールできます。
普段自分自身が物事を為すように、自分自身を組織に置き換えて考えれば良いだけです。
しかし組織が巨大化してしまうと、どうしてもそういうわけにはいかなくなるのです。
一人一人に目が行き届くはずもありませんし、
少なくともこの日本をどう動かそうかと考えても途方に暮れてしまうだけなのです。
全てに共通する物の仕組みかもしれませんが、
おそらく組織を良くするためには外側からの力(政治など)だけでは不可能です。
内側からの力(内部の人間の動き)も必須です。
結局、神様が政治の方法を教えてくれても理想形にはならないのです。
一人一人によって部分部分を整えられなければ、全体的にも理想の構造にはならないのです。
パズルを作るときにも、分かる部分から作って行くと思います。
例えば、何かのオブジェを先に作っていって、最後に隙間の難しい部分(背景など)を埋めていくのです。
ある意味、それと似たような話です。
内側(パーツ)が決まっていなければ、全体もすっきり決められないのです。
実際には分かる部分から進めていくのだと思いますが、それが原則的な手順となるのだと思います。
余計な話が入ってしまいましたが、
単純な話、自分が物事を為すときに用いている方法論(原則)を、
その組織自体に浸透させてしまえば良いだろうということです。
全ての人間が原則を利用できるなら、何も強力な指揮者がいる必要はないのです。
それぞれの部分は勝手に理想形(原則的)になっていくのです。
私は経験的に、原則を用いれば理想的な行動ができることを知っていました。
そのことを思い付いたとき、あらゆる事にも当てはまるかどうかも考え、調べてみました。
おそらくその理論は正しいだろうと思います。
少なくとも私の周りでは実証されている(原則をちょくに伝えているのではないが)。
1人の人間のプロジェクトのみならず、1つの組織のプロジェクトのみならず、
1つの国家の運営のみならず、おそらく世界レベルで考えてもそれは成り立つであろうと。
つまり、「原則」を少しずつでも伝えようとしていく。
それによって少しずつ各々のレベルが上がっていくのだろうと。
そのように考えているうちに、本当に実際に実証できないだろうか?と思うようになってきた。
おそらく、原則的に世の中が動くようになる日は必ず来るだろうと思う。
時間はかかるだろうが、それほど無理難題なことではない。
それ故に私はこのようなスレでカキコをしているのである。
それほど影響がなかったにしても、その労力は無駄にはならないだろうと。
やはり最終的には、地球を眺めてみれば、一つの組織のように動いているようになるのである。
「原則」というものが世の中に浸透すれば、いやがおうにもそうなってしまうのだ。
ある意味、原則という「見えざる手」によって、そう最適化されてしまうのである。
私はそうなることを確信している。
いや、少なくとも原則的にはそのようになる運命なのである。
今の現状では、まだ非常に混沌とした世の中であると言っても良い状態であると思われる。
どちらにしても「原則」が本当に利用できるモノであるのなら、
必ず最後には世の中に浸透するハメになるだろうと、私は考えている。
>720
>わたすも独り言を・・・
それについて思ったことを・・・
>原則を知り使いこなす人はいつも正しいようにみえて、
>人間味にかけるのではないか?と思った。
いや、そんなことはないと思う(何を持って人間味とするかにもよるが)。
確かに物を為すときには淡々となるのかもしれない。
しかしそれ以外の部分では、
それなりにものを感じ取っているはずである。
美しいものには美しいと感じ、素晴らしいものには素晴らしいと感じることができる。
ものの醍醐味を堪能することは、人間味が十分あることなのではないのだろうか。
>原則というのは知の限界を示すものではないかと。
原則は知の限界。ある意味それは真実だろう。
少なくとも原則を超えることはできないのだから。
>720
>原則を知っていて、自分の感情は原則的に計れたとしても、
>相手の感情は、感じなければ計りも出来ない。
>原則を知っていて、自分が動かなければ何も変らない。
>何も変らなければ相手だって動かしようがない。
なるほど。
話は変わるかもしれませんが、私なりに人を動かすことについて述べます。
基本的に私は、人はその人の自由であると考えています。
何かを強制させることはありません。
相手を動かすことはどういうことなのかと言えば、
相手にとって原則的に有益になるものを示してあげるのです。
それによって相手を誘導するように考えるのです。
それに乗ってくるようであれば、どんどん有益なものへと誘導する。
また、それに乗らないようでは、それによっては相手を動かせないということになるのです。
どちらにしても、相手の自主性に任せることを前提とするのが原則です。
727 :
考える名無しさん:03/09/23 00:44
>相手を誘導するように考えるのです。
いつも新宿西口でそう考えながら行動していますっ(゜▽゜)ノ
728 :
考える名無しさん:03/09/23 00:50
君ら馬鹿だろ?
729 :
考える名無しさん:03/09/23 00:51
淫獣です( ゜Д゜)y─~~
730 :
考える名無しさん:03/09/27 19:47
age
>730
>age
ageて頂いてありがとうございます。
さて、これからどうしたものでしょうか。
もう一度確認しておくと、
ここに書いてあることで「原則」についてどういうものかはそれなりに分かると思います。
原則の趣旨が分かれば、後は本人次第で「原則」という世界を個人的に構築していくことは可能だと思います。
つまり私が書いたものは、「原則」から派生したものの全てではなく、
そういうもの(原則)を提案しただけです(今のところ、私はすべてに通じると考えています)。
「原則」を知れば、後は個人が世の中から原則的な要素を探り出して進めるものと思います。
「原則的な世界観」や「原則像(物の仕組み)」を己の内に構築してしまえば、
後はどんなジャンルに対しても、その原則的な仕組みと比較しながら(利用して)進めることができるのです。
くどいようですが、単純な話、
全てに共通する原則的要素・世界観を確立させることができれば(原則があるとした場合)、
未知な物(それも原則的要素から成っている)にもその確立させたものを利用することができるということです。
ところで、世の中にはまだ無数の問題が残っているはずです。
しかし世の中が原則的に動き出せば、自動的に解決できる問題であるはずです。
また、一人一人の行動範囲にある問題は、一人分しかないと思います。
逆に言えば、一人でできることはあまりないとも言えるということです。
原則が広まっていけば、後は寝ているだけで世の中は良くなっていくのです。
「果報は寝て待て」でしたっけ。w
それで広めることについてなのですが、どうしたものでしょう。
とりあえずネットで検索すれば引っかかることは確認できました。
人伝えに伝えることも確認できたので、
「原則」についての情報の最低限のものは、ひとまずクリアはできていると思います。
ここらで私が個人的にできることは大体終わったのではないかと思います(後でまとめようとは思いますが)。
2ちゃんに強制的に広めることは、今のところは中断することにしました。
一人で勝手にやっていくのは得策ではないと思ったからです。
そのうち「原則」に飽き始めた人の多くがこのスレに来るようになれば、
「そろそろ広める時期じゃなかろうか?」と、自然とそういう雰囲気になるのではないかとも思います。
世の中には「原則」が分からん人間が多すぎて、じれったくなってくるからです。w
「原則」が使えるかどうかで、それだけ実利的な差ができてしまうということです。
それに加え、「原則」が分かっている人物を正しく理解するためには、「原則」を知ることが不可欠なのです。
究極的にそれぞれが本当の幸福を得るためには、やはり世の中が原則的に動き出す必要があるのです。
そしてまた、そのための原動力の源は、ここにある可能性があるのです。
また、2ちゃんに広まれば、それなりに世の中の標準に一歩近づくのではないかと思います。
願わくば1年以内に。
もしかすれば数ヶ月後にもそうなるかもしれませんが、
その日が来ることを私個人としては待ち望みにしています。
また、例え身近な人にでさえも、様々な理由から「原則」を伝えることができないことも十分にあり得ます。
その場合は、世の中に「原則」が知れ渡らない限りは身近な人にも伝えることはできないのです。
こんな悲しいことがあっても良いのでしょうか。
私は「原則」を広めざるを得ない状況でもあるのです。
これだけ遠回りをしなければ伝えられないとは、正に原則的な筋道であると嘆いています。w
しかしあと数年後には!と、思っています。
ところで他の道としてはですが、
やはりどちらにしても飛ばすことができないのは、書籍化することではないかと思います。
「原則」を完全に記すことができれば、必然的に売れていくのではないかとも思います。
ゆくゆくは世界に向けて出版することになり、出版社は儲かりそうですね。
少なくとも書籍化できなければ、世の中の常識として確立したとは言えません。
遅かれ早かれ、出版社にとっては義務であるというのが原則的でしょうか。
もっとも「原則」そのものには著作権がないので、私と関係なく出版してもらっても構いません。
「原則」が世の中に出回る日を、私個人としましては心待ちにしています。
青臭い言い方をすれば、少年時代のあの頃に戻ったような気分でしょうか!!w
もしもこれらが本当だとするならば、コイツは実はものすごい革命なんじゃ!?、と。
これまた個人的な話ですが、
たまたまとある宗教の人達と出会ったことがあるのですが、
とても暖かい人達で、なかなか感動してしまったことを覚えています。
もしかすると、宗教とは関係なくそのような世界に近づいていくのではないかとも期待しています。
今の世の中は、忙しくてピリピリしている人が多そうな気もします。
もっと余裕のある生活が過ごせればいいのではないかと思いますが、
直接そのようなことはなかなか言えないですよね。。
ところで、これまでに書き込んできたことで、
ここに現れている「1」という人物は如何なる様に映っているのだろうか?
自分としては、あまり客観的にみたいとは思わない。
本当のところは分からないが、原則的な人物として振る舞っていたものは多い。
それは、今でもここに書いている以上は仕方のないことなのだ。
しかしここに書き込んでいるということを踏まえると、それなりに本当の自分なのかもしれない。
ただ言いたかったことは、普段の自分とはかけ離れているということである。
しかしサンプルとして、
「1」という架空の人物像があることによって、「原則」の理解は進むだろう。
ところで本当の個人的に、これらのことをどう思っているのかと言えば、
ある意味、自分でも「原則」というものが訳分からんものであるような気はする。
いや、少なくともそれに夢中になっていた時期があったのは確かである。確信もしていた。
今では、それがどうしたということにはあまり関心がなくなってしまったのだ。
今は特に何もしなくても満足なのだが(仕事をしなければ暮らせないが)、
やはり原則という「伝家の宝刀」が使えると有利である。それに私はまだ若い。
個人的な野望に向けて動いているところでもある。
しかし、これと言った欲望のためにするわけではないのだ。
今の世の中、すでに物質的には十分満足なのだと私は思う。
私自身は、普段「原則」とは無縁とも言える生活をしている。
ここでの活動は、今となっては普段の私とは切り離して考えている。
広まった後にも、私が広めたことはほとんど言わないであろう。
少なくとも今の状態で知られても、変人扱いされてしまうだけである。
しかしどこかでこうも思っている。
仮にも「それ(原則)」が本当だった場合、世の中のスタンダードになったときには、
世の中からお呼びがかかり、私の生きているうちにノーベル賞なんかを頂ければ、それもまた面白い人生かと思う。
「原則」が標準になった世界であれば、表に出てありのままの自分を出してみたい気もする。
その様な日が訪れない限りは、私はどこかにすっきりしないものを抱えたままなのかもしれない。
さすがにこれらを理解しきれる人間は滅多にいないだろう。
私自身が筋を通そうとすると、そのようになる。
「原則」は曖昧なまま終わる物なのだろうか?
それとも、ハッキリと決着がつくものなのであろうか?
また、人類は共通認識を持つことは可能なのだろうか?
認識できる点からすると、決着のつくものであると思われるわけだが、
そうだとすると、この様な考えに到るのである
(実際にはそれほど深刻には考えていなく、空想も混じっているが)。
直にこのスレも倉庫に入ってしまうだろう。
名残としてこの板に続編としてスレを立てておきたいと思う。
そのスレからは、私はあまりカキコすることなく、
これ関係の話題を語る場になれば良いかと思う。
実際にはどうなるかは分からないが。
738 :
考える名無しさん:03/10/04 14:16
原則は正しい而して私は正しい。だと。幸福の科学だね。
>737
>単純明快矛盾の無い科学との事
なるほど、面白い情報ありがとうございました。
(独り言ですが、
こういうものが世の中には多いから、「原則」が怪しまれるのだろう。
しかし怪しむだけの人は「原則」の意味が分かっていないだけなのだろう。)
他にも面白そうなものや、役に立ちそうなものがあれば紹介してください。
通りすがりの人も、何かありましたらお願いします。w
せっかく書いていたので、カキコしてみます。
しかしながら、ここから先の話は作り話的な要素も含まれているかもしれません。
実を言えば、「原則」以上に単純なものはないとも言える。
「物事全てが原則という一点から派生する」というのが、原則的な考え方である。
すなわち「原則があれば〜」というのは、ある意味創作したものになるということでもある。
しかしそれらを知ることによって、原則的な発想をより知ることはできるかもしれない。
つまりは「原則」を知ったのであれば、各自が独自に考えるべきなのである。
また、「原則」は全ての真実に繋がっている。人によっては過酷な部分もあるのだ。
そういう発言であった場合には、作り話というつもりでいれば良いかと思う。
また、これらの発言にケチを付けたい人もいるだろう。
彼らには、「原則」そのものを知っているのかどうか?と問いたい。
全ては「原則」によってのみに、通じることが可能なのである。
「原則」が分かっていない人間には、このスレの発言は宇宙人の発言にも思えることであろう。
「原則」を分かっている人間にとっては、笑ってしまう話である。
もっともどんな意見であろうが、意見をしてもらえることはありがたいことでもある。
(つまらない話であるのは私も承知しているところではある。少しでも何かを残しておこうという思いもある。)
では、作り話では意味がないのでは?と思う人もいるだろうか。
しかし、意味がないわけではない。
「原則」というルールを基に作られた発言であれば、容易に原則的に読み取ることが可能である。
共に共通の世界を感じているという事実が重要なのである。
すでに「原則」というものが全ての橋渡しをすることが分かっているのなら、その作り話は不要でもある。
ところでしつこいようだが、私の思っていることを一つ。
「原則」というものは、とてつもなく深いものであり、非常に汎用性の高いものであると言える。
逆に言えば、それだけ自然界には類似した要素が多いということである。
恐ろしいまでに意外だが、原則的に納得できる現象なども実際に多い。
あくまで予想でしかないのだが、私が知っている「原則」の効用は6〜8割方なのではないかとも思う。
しかしながら、信じられないくらいに多くの人間が「原則」を知らないのだ。
この世の中の現象は、それ自体が途方もない芸術なのだと言えるだろう。
あなたは世の中のどれだけを知っているのだろうか?
そしてそれは、本当に知っているのだろうか?
実のところ、「原則」のみを知った時点では、
世の中のことは全く分かっていないと言っても過言ではないと私は思う。
私自身は「原則」が分かった時点で、何でも分かっていると思っていたのだが、今から考えれば甘かった。
「原則」の影響力の大きさを知る由もなく、世の中を知っていたわけでもなかった。
今ではこれ以上求めても、それ以上格段には知るまでに到らないところまでは到達したのではと
(パレートの法則的に言うなら、80%の効率的な部分を得ることはできた)。
しかし分かったことは、自分はあまりにも世の中を分かっていないということである。
分かったと思っていることは、原則的に言う世の中の基本部分と、
原則の一般的な性質ということになるのだろう。
とにかく言えることは、求めていけば行くほど「原則」はそれに答えてくれるということだ。
もしも何かのジャンルで「原則」を求めて突き進むのであれば、時間はかかるが必然的に第一人者になれるだろう。
もっとも、自分が賢い人間であると自認している必要はある(加えて言えば、賢くなろうと思えば誰もがなれる)。
そうでなければ世の中の罠(常識)にハマってしまう。
賢い人間であれば、如何なる状況であろうがそれを打破するための策を練るのである。
自分以外のものにうまくいかない原因を押しつけることは決してない。
何故なら、思い込みではなく心底自分は何でもできると考えているからなのだ。
うまくいかない原因を押しつけた時点で負けを認めたようなものなのである。
できないことはあり得ない。それが駄目でも次の策を練り直すのである。
また、そのような人は自分で全てをやるくらいの精神を持ちつつ、
他人や自分以外のものを最大効率で用いる精神も併せ持っている。
全ては一つの目的(ビジョンであり、それ自体が構造を持つこともある)のために資源を向かわせてしまうのだ。
しかし、得られる方針があまりにも常識とはかけ離れていることもある。
そしてまた言えることは、それによって簡単に名声やGoldが手に入るとは限らない。
もしくは、常識的な基準で短期的に見た場合には、不利にしかならない場合もあるかもしれない。
得られるものが、自己満足に過ぎないことも考えられるのだ。
しかし、それによって成果が表立って現れた場合には、それなりの利益を得ることが可能だろう。
全てはその人間の判断によって決められるべきことなのである。
また、なんども言うが本当に賢い人間でなければリスクを負うことはできない。
「賢い人間」とは、自分で賢い人間であると自認している人物のことである。
ただ「原則」が分かっているだけの場合は、もう一度考え直す必要がある。
そうでなければ痛い思いをすることになる可能性は高くなる。
失敗を周りのせいにする可能性のある場合は、大人しくしておくのが無難である。
賢い人間であれば、失敗する可能性とそのリスクとを秤にかけることができるのだ。
あらゆるものを同時に秤にかけることが可能である。バランス感覚にも優れていなければならない。
その秤は単純だが、階層構造を持つこともある。
究極的に言えば、如何なる場合に置いても無数にある選択肢を秤にかけ、
連続的に最適な手段を選び続けられる自信がなくてはならない。
また、勘違いしてもらわないために一つだけ追加しておく。
仮に囲碁などで神の一手が常に指せるのか?と言われたら、今の私には到底無理である。
しかし言えることは、「神の一手が指せる状態」に近づくための最適な道を探り進んで行けるということだ。
相当の時間がかかることだろう。
話はそれるが、人間には神の一手を指すことはできないという可能性もある。
少なくとも神の一手が指せるのであれば、例えば、今の囲碁のルールは変わっているはずである。
神の一手が指せる人間同士の対決では、対局する前からその勝敗はすでに決まっているわけなのだ。
「神の一手」と「次の最適な一手」との違いは分かっただろうか。
我々がするべき事は、最適な一手を選び続けることなのである。
その一手である行動とは、実際的にはあらゆる行動に万化する。
「原則」を知らない人間には、その一貫性を見抜くことは難しいことでもある。
>738
なるほど。
私の言う「原則」は分かっていないようですね。
言うならば、「原則」は究極の科学でしょうか。
この世の中にある全ての科学・事実は「原則」に基づいている。
加えて「原則」は実学でもある。
「原則」は、真に「幸福の科学」であるとも言えるでしょう。
(「幸福の科学」という言葉は、世の中には虚勢が多いのであまり良い言葉としては通らないと思いますが。)
私は「そういうものがあると見なせる」と、考えているだけである。
それが本当なのか間違いなのかは分かってはいない。
少なくとも言えることは、現時点で「原則」というものを考えている人間は
この世の中にはほとんどいないということである(パーセンテージは低い)。
多くの人間は、そのようなことは微塵も考えていないのだろう。
まさか自分の住んでいる世界にそれが反映されていようとは夢にも思わないのだ。
だからといって、みなが「原則を考えるべきである」とは私は思っていない。
考えたいと思う人間だけが考えればいいのである。
しかし誰かがそれを気づかせてあげることがあっても良いと思う。
>738
原則を用いるならこうなるだろう。
「正しい」とかなんだという考え方は、あまり原則的ではない。
己が「正しい」と思い込んでいても、結果が伴わなければ意味がない。
己が「正しい」と思い込んでいても、己にとって日常に不快な事実が多くあるようでは意味がないのだ。
少なくとも私はそう考えている。
「原則」が正しかろうが、間違っていようがどうでも良いのだ。
「正しいのかどうか」というのは、本来どうでも良い(原則的)。
全てがうまく行けば、それで全て良し。誰もが幸福になれればそれで全てが良いのだ。
しかしそれは決して甘いことではない。
原則的な基準で見て、良くなければならないのだ。
妥協は許されない(妥協が原則的に必要な時もあるが)。
しかし、原則が分かっていればそれが一番楽でもある。
苦労は必ず報われるのである。
しかも「苦労」を苦労とは思わなくなる。
全ての行動が、目的に近づくことになることを分かっているからなのだ。
本当に役に立つ考え方を求めて行こうと考えるのが原則的でもある。
批判ばかりしているようでは原則からは遠いのだ。
意識は評論家ではなく、実行者(プレイヤー)なのである(もちろん評論も重要である)。
実行する者こそが真の実力を備えていなければならない。
「本当の実力」という言葉を聞いて感情的に否定的な態度になったのであれば、
その人は本当の実力を知らないのである。どこかで妬みを持っているのだ。
口で「あーだこーだ」言っていても何も始まらない。
行動しなければ世界は変わらないのである。
何故に多くの人間が苛立ち、つまらない日々を過ごしている(そういう人もいる)のかと言えば、
自分の行いが、思った通りに世界に反映されないからである。
やってもうまくいかない。成果がなかなか上がらない。・・・etc
また、この世界は自分の思ったとおりの世界ではないからなのである。
理解できないものが数多く存在する。なんであれはこうじゃないのか!(怒)と。
こうだろうとただ思い込んでいるだけで、本当にそういう世界であると知っているわけではないのだ。
結果として、正しいと思い込んでいた認識が過っていた為に、知らずに不快になっていたのである。
ましてや、自分の世界を他人に押しつける人間まで存在する始末である。
私もさんざん苦労させられてはいた。今は「原則」によって吹っ切れてもいるが。
また、「原則」を受け付けない最大の原因は「妬み」にあるのだろう。
「原則が使えれば、すべてがうまくいく。」
人生経験のない人・どうしようもなく困っている人、そういう人には飛びつきたくなるような話でも、
中には、感情的にそういうものがあって欲しくないと思っている人が多いのも確かなのだ。
また逆に言えば、力がなくとも「原則」に頼ることで、己以上の自信を勝手に得る人もいることだろう。
やっていることが原則に則したことであれば、それも悪くはないだろう。
原則的に困る事態と言えば、
自分が正しいと思い込み、それを周りにも推し進めている人である。
その通りにやらなければ、その人によって作られたペナルティを課されてしまう場合である。
その人は、自分を正しいと自分に思い込ませることによって、自分自身を救っているのである。
原則的に見れば、被害者であるとも言える(それ故「原則」を直接伝えることはできないのである)。
私の言う「原則」はその限りではない。
少なくとも「原則」を無視したところで、私があなたをどうすることもできない。
原則に従う必要は全くないのだ。あなたは自由なのである。
ただ原則的に言えば、全ての行動に対する結果は、知らずのうちに原則によって作られているのである。
それが「原則」なのだ。
また別の話になるが、
原則的な世界に移行するためには、多少の犠牲を払う必要はあるだろう。
しかし、今の世界では至る所で無駄な労力が使われている。
それに比べたら大したことはない。
また、その犠牲というのは原則的に必要なものでもある。
行動するためにはエネルギーが必要になるのと同じ事である。
当たり前とも言えるが、
原則的でないものを原則的に持って行くには、多少の摩擦は生じてしまうのである。
このスレを読んで不快に思う人も少なくないはずである。
そういうところにも犠牲が現れているのである。
私が手っ取り早く世の中に「原則」を広めようとしないのも、
徐々にそういう環境を作っていかなければ、それだけ多くの摩擦が生じてしまうからなのだ。
仮にも多くの人が「原則」を知るようになれば、
私一人が叫んでいる状況とは違う環境になることは確かだと思われる。
全く同じ「原則」を広める場合にも、信用度が変わってくるのである。
つまり、今の世の中はまだ完全に(人類が)原則的であるわけではないことの一つの証拠でもある。
・・・
語り口がとある教団のとある教祖に似ていたんで、煽ってみた。んで、
妬みが多いのは、優秀なまま楽したい人が多いからだろうね。
才能のせいにして伝えなきゃよい。こういう無意識者多いよ。
安楽のために成長を牛耳る支配といったところかな。
誰かが成長しだすとどぎまぎするタイプ。自分の犬に
成長をかませたりしてる。
現自身が最高であるために他人を苦労させる太鼓腹だね。
なるべく詰まらんことを気にさせて忙しくさせときゃいいんだ。(一部女性)
正しさに関しては自分とはねじれの位置にあるということにしてるよ。
この全文。仮定ということで御願いね。
>>749 正しさってのは何かの物事を判断する誰かの主観にすぎないからねぇ。。。
ねじれの位置ってのがどういう位置なんだろう?よくわからん。