1 :
セイン=コミュ:
弁証法的に止揚しようとしないカキコは無視しましょう。
一国社会主義者は反革命なので無視しましょう。
以上守れる人はイデオロギー闘争を通じてお互いを高め合おう!
2 :
考える名無しさん:03/02/04 15:05
むつかしい
3 :
考える名無しさん:03/02/04 15:08
お互いを高め合おう・・・
そのまま天国まで逝っちゃって下さい。
史的唯物論研究
E.バリバール著
今村仁司訳
新評論, 1979
・・・
6 :
考える名無しさん:03/02/05 18:45
7 :
考える名無しさん :03/02/06 14:33
ドイツ・イデオロギー(マルクス)を読め(岩波文庫の最新版)
8 :
考える名無しさん:03/02/14 05:23
ヒロマチズム&塩見孝也=史的唯物マルクスノスタルオヤジ
11 :
考える名無しさん:03/02/17 11:49
マルクスと歴史の現実,はいい本ね。ひろまつ先生のね。
12 :
考える名無しさん:03/02/17 12:20
ようは物質的規定,
物の豊かさによって精神も規定される,といったことだと思う。
13 :
Kurihara:03/02/18 01:01
史的唯物論は完全に破綻しました。
現在では、誰も相手にしていない議論です。
なお、広松氏のマルクス解釈は、唯物論的というよりも、マッハ主義的な
経験論的観念論に近いと言えるでしょう。
14 :
Kuritorisu:03/02/18 07:59
いいだももいはるこ!いいだもも萌え萌え〜 ♪
>>13 何だ。ここもまたkuriharaかよ。オマエ、ウザイ! 消えろ!
17 :
世界@名無史さん:03/03/04 17:02
定期age
18 :
世界@名無史さん:03/03/04 17:04
>>13 別に破綻はしていないと思うが。
なお、広松がマッハ主義的であることには賛成。
「すべての学は畢竟歴史の学である」(マルクス)という言葉の通り、
マルクスの思考は歴史の弁証法に貫かれており、『資本論』の方法に
ついても、<人間社会に関する自然史>の立場で書いたと言っている。
かように、歴史とは弁証法的運動であり、すべては生成、反照、発展
の過程の中にあることを捉えるのは、歴史を哲学にそして哲学を歴史
に変えて実践への道を拓く、ミネルバの梟(歴史家)の使命でしょう。
20 :
考える名無しさん:03/03/07 05:45
マルクスなんか勉強してなんの役に立ちますか?
歴史生成のメカニズム(社会階層間の力学)を理解したところで現実は変わらない。
まあ戦国時代ファンがあの時の戦いはどうのこうのと語り合う程度のスレでしょう。
>>19 OFWさんお久しぶりです。最近は「可能性」スレでもほとんど御見か
けしないので、当方も哲板はあまりROMしなくなっていたのですが。
「可能性」スレで資本論の価値形態論について具体的に展開されていた
ように、史的唯物論についてもこのスレで議論を展開していただければ
と期待しています。
ところで、去年刊行された岩波文庫の広松編訳ドイツ・イデオロギーは
どのように評価されているのかお聞きしたいところです。
当方は長年合同出版の花崎訳新版ドイツ・イデオロギーを使用してきた
ので、広松編は確かに翻訳やテキストとしての復元構成という点では厳
密だと思いますが、逆にそのためにかえって読みづらい面もあるという
感想をもちますが、いかがでしょうか。
ついでに
社民党への入党手続きすませました。
>>21 >なんの役に立ちますか?
人間にとっての対象の効用(utility)ではなく、対象自体をあるがまま
にとらえようとする精神を理性と呼びます。理性(知性)を功利主義的
に扱うことの問題(歴史的帰結を含め)については、ホルクハイマー
『道具的理性批判』に詳しい。
>現実は変わらない。
現実は不断に変化している。それを動かすものは何か?と言う問いが
歴史科学の始まりです。
>あの時の戦いはどうのこうのと
歴史はまずできごとの(物質的および精神的)記憶として始まり、その
伝達記録として<書かれた(描かれた)歴史>が登場した。
歴史を読み物として楽しむことは、先人の所行から教訓を学ぶことと
同様、歴史に対する功利主義(実用主義)的態度と言えるでしょう。
「米百俵の精神だ。」(時代錯誤的な某首相)
>>22-23(電波狸さん)
お久しぶりです。
>「可能性」スレ
反応が少ないので、しばらく放置しています。
>史的唯物論についてもこのスレで議論
歴史は広大なテーマであり、なかなか大変(一生もの?)です。
マターリと行きしょう。
>広松編訳ドイツ・イデオロギー
あいにく未見ですが、機会があれば見てみます。
私は国民文庫(真下信一訳)でした(年代の違い?)。
花崎新版訳も一応持っており、かなり異動があるようですが、
エッセンスを掴むことが肝要とて、それほど細かい詮索はしていません。
いずれにせよ、<人類の独立宣言>のような深遠さは衝撃的でしたね。
>社民党への入党
何かと逆境の中で、原則を守ったご活躍を期待します。
26 :
Kurihara:03/03/08 21:56
>>21 >マルクスなんか勉強してなんの役に立ちますか?
何の役にも立たない。だから、こんなものは勉強するだけ
有害で、それより、色んな資格を身につけて、資本家に
気に入られる従順な社畜になることをオススメする。
少なくとも、そうしたほうが、食うには困らないから。
27 :
考える名無しさん:03/03/08 22:11
>24
>>なんの役に立ちますか?
> 人間にとっての対象の効用(utility)ではなく、対象自体をあるがまま
> にとらえようとする精神を理性と呼びます。理性(知性)を功利主義的
> に扱うことの問題(歴史的帰結を含め)については、ホルクハイマー
> 『道具的理性批判』に詳しい。
対象自体をあるがままにとらえるだけなら単なる動物だと思う。
対象の原因(=理由=理性)や効用(現在の対象の状態を原因とする帰結)を
十分把握してこそ人間でしょう。
まあ数学などはなんの役に立つかなんて考えずに純論理的に研究を進めたら
ものすごく役に立ったということもあるから学者は純粋に研究に没頭していれば
いいという考え方もありますが、これこれこんな風に役に立つということが
説明できなければ研究予算が降りないということもあるから、やっぱり哲学研究も
人間にとってこういう効用があるとはっきり説明できたほうがいいんじゃなかろうか。
28 :
考える名無しさん:03/03/08 22:24
>26
マルクスの価値もわからない人間は社畜にでもなれと?
あるいは革命教祖としてのマルクスに心酔したばかりに人生台無しにされた
という後悔も含まれるのかな?
革命は虚妄だったと結論は出たし、経済分析家としてのマルクスの方法は
一般化したし、もうマルクスの名前出す必要ないんじゃないか、と。
29 :
Kurihara:03/03/08 22:28
>>28 519 名前:金持ち名無しさん、貧乏名無しさん :03/03/08 20:54
>>512 残業する位仕事してないと、「自分は怠けてると思われるんじゃないか」
或いは「あいつはサボっている」という妙な心理が働くことがあるらしい。
だから付き合い残業とか、無駄にだらだらと仕事を長引かせてるだけなのに
当人は真剣にやってると思い込んでたりする現象が多いんだと。
で、それに最近の「能力主義」「業績主義」とかの“人事評価”が
加わるんで、悪くとられないように更に同調するそうな。
>>511 リストラ(再構築)が首切りにすり替る位だから、
ワークシェアリング(金・仕事・時間の分かち合い)も
単なる賃金抑制(労働者のパート化)に曲解されることを危惧します。
最近の“経営改革”も70年代の“減量経営”の焼き直しの臭いがするし。
520 名前:金持ち名無しさん、貧乏名無しさん :03/03/08 21:51
8時間労働も本来は「8時間以上の労働は人間生活に
悪影響を及ぼす可能性がある」という発想から生まれたもの。
24時間を3分割して、人間の生存に必要な時間を
食事・睡眠等生命維持、個人としての社会的・文化的活動、労働時間
の3バランスを考慮したところから成立している。
だが、日本社会では労働と社会的活動が一体化した「企業内活動=社会貢献」
の風土・慣習が長時間労働を当然視する発想につながっている。
30 :
Kurihara:03/03/08 22:33
>>28 511 名前:金持ち名無しさん、貧乏名無しさん :03/03/08 20:08
>>505 まあ、日本の場合、労働基準法などザル法みたいなものだし、
サービス残業バリバリやって、一人一人が労働マシーンと化して、
法規の枠を飛び越えて労働効率を最大限に上げることで
経済規模を拡大し続けてきたわけだからねぇ。
労働基準法を厳格化して、自然とワークシェアの導入という方向を促せば
当然ながら生産効率の低下は招くし、
それが広まれば経済(国力)は緩やかな衰退の方向を辿るだろうけど、
「真っ当な成熟した社会=生活大国」の実現を本気で目指すならば、
そうした縮小均衡の方向性も是としていく以外にはないんじゃないのかなぁ
と思いますが。
31 :
Kurihara:03/03/08 22:34
>>28 512 名前:金持ち名無しさん、貧乏名無しさん :03/03/08 20:18
サービス残業を皆が止めれば
失業問題も多少は解決するんじゃないかな。
しかし日本の労働者って根性無いな。
デモでもやれよ。
513 名前:金持ち名無しさん、貧乏名無しさん :03/03/08 20:22
日本のリーマンの社蓄精神というのは何とかならないのかねぇ。
32 :
Kurihara:03/03/08 22:35
>>28 433 :OFW :03/03/07 21:47
>>432(429さん)
>「客観」「主観」の定義は何ですか?
例1:誰かが「そこに幽霊がいる!」と言って指差した所を見て、柳の
木が揺れているだけだったとした場合、私は
「それはあなたの主観的な思い込み(錯覚)で、客観的には幽霊
は実在しない。」と答えるでしょう。
例2:誰かが「世界中の人は皆幸福である。」と言った場合、私は
「それはあなたの主観的な意見に過ぎず、客観的な根拠がない。」
と答えるでしょう。
上記の例は、日常的にも良く使われるもので、それほど難解かな?
>「客観自体とその認識とは異なる」の意味は?
たとえば、目の前のコップを見て「ここにコップがある。」と言う場合、
コップ自体とその認識(この場合知覚)は異なるでしょう。何故なら、
コップの見え方としては常にこちら側の面しか現れないが、コップ自体
は背面をもつ3次元の物体であるから。そのことは多数決で決められた
わけでもなく、客観的な対象として生活者も取り扱うコップ自体では?
33 :
Kurihara:03/03/08 22:37
>>28 「心底、疲れ果てた。発作的に電車に飛び込むかもしれない」。連合が2月10日から
1週間、全国で実施したサービス残業の電話相談で、計998件の相談が寄せられた
ことが6日、分かった。自殺まで口にする悲痛な訴えや、退職させたいとの家族からの
相談もあり、サービス残業の深刻な実態が浮き彫りになった。
30代の男性は、毎月の残業時間は約100時間で、この2年間、残業代が支払われる
のは35−60時間。「時給が下がってもいいからすべての残業代を申告させてほしい」
と訴えた。
会社の犯罪的行為を訴える相談も相次いだ。20代男性は「毎月100時間を超えるが
支払われるのは5%から20%。記録が残っておらず上司が改ざんしているらしい」。別の
30代男性も「予算の割り当てがあり、課長が上限を指示している」と訴えた。労働基準
監督署の立ち入り調査の際、上司から口裏合わせを頼まれた男性もいた。
労働組合が歯止めになっていない例も。40代男性は人員削減の影響で20日間連続で
出勤し、残業も月230時間に上ったが「労組に相談しても我慢してくれと言われるだけ」
と嘆いた。
本人以外からは「就寝中に夫がうなされ、このままだと夫が壊れてしまう」(30代男性の妻)。
「妻が無給で会議に呼び出され商品の配達をさせられた」(30代女性パートの夫)との相談
があった。
相談が多かったのは東京(171件)、愛知(76件)、北海道(57件)、神奈川(56件)、福岡
(54件)の順だった。
引用元
http://www.zakzak.co.jp/top/t-2003_03/3t2003030610.html
34 :
Kurihara:03/03/08 22:40
>>28 431 :OFW :03/03/07 04:48
>>425(虚無大使さん)
>多次元や虚数
<次元>は空間の属性の一つであり、運動の自由度を言います。経験的
世界(実在空間)の自由度が3であることは論理的(概念的)に証明
できず、空間とはアプリオリな(経験に拠らない)純粋直観であるとは
カントの言ですが、そのことはむしろ逆に、経験的・身体的な世界の
抽象として思考が形成されていることを示していると言える。つまり、
純粋数学や多次元空間とて実在に起源をもち、その延長された規定性だ
ということです。虚の数とは実現しない数ということであり、事物の
imaginary part(潜在性)を表現する。また、多次元空間とは事物の
外化しない内部運動を表現する座標系(運動の尺度)かと。
>>429 (横レス失礼)
>不特定多数人の五感で共通に知覚できれば、「客観」「実在」となる。
それでは、批判相手と同じ主観主義になってしまうが?
客観自体とその認識とは異なると。
36 :
Kurihara:03/03/08 22:49
>>28 441 名前:金持ち名無しさん、貧乏名無しさん :03/03/08 22:17
私は毎日毎日12時間から15時間働いて、年収一千万円取っていますが
過労死寸前です 時間の余裕のある生活で、年収百万円の方が幸せだと
思うよ。
442 名前:金持ち名無しさん、貧乏名無しさん :03/03/08 22:21
芦ノ湖でバスのフライ定食食べたことあるが、
まずくはないけどやっぱり海水魚の方が美味い。
443 名前:金持ち名無しさん、貧乏名無しさん :03/03/08 22:23
>>441 生きているうちに今の仕事をやめたらどうですか?
死んだら、溜め込んだ金すらも使えませんよ。
444 名前:金持ち名無しさん、貧乏名無しさん :03/03/08 22:30
>>443 そりゃちょっと極端では?
年収700万くらいに落として、もう少しゆとりのある
生活をしてみては? ま、会社がそれを許せばなんだろーけど。
445 名前: :03/03/08 22:31
きちがいのように景気が悪くなって来ている。
37 :
考える名無しさん:03/03/08 23:30
>>24 >>現実は変わらない。
> 現実は不断に変化している。それを動かすものは何か?と言う問いが
> 歴史科学の始まりです。
歴史を動かすものは経済だ。階級闘争だ。生産力だ。技術だ。メディアだ。
もう十分答え出てるよ。
日本人が外国の思想を無条件に受け入れるのは今まで一度も征服されたことがないからだ、
という最近の柄谷説には感動したけどね。でもべつに知らないなら知らないでよかった程度の話だ。
もう人類の進歩のためこれだけは絶対オサエておかねばならない知識というのはないんじゃないか。
つまり趣味としての哲学は今後もつづくだろう。
しかし全人類を導く宗教としての哲学はすでに終わってる(ていうか最初からなかった)。
38 :
考える名無しさん:03/03/09 21:41
まさに共産趣味
(^^)
>>25(自己レス)
>>広松編訳ドイツ・イデオロギー
と言うことで、早速購入。
一見して、いかにも廣松氏らしいこだわりを感じるが、確かに読みづらい。
研究者向けの資料といった感じで、一般読者向けの文庫本にはやや不適切
かと。本文は、最終浄書稿のみでマルクスとエンゲルスの執筆分担を識別
する程度にして、残りの、ドラフト時点での抹消部分や注釈部分は巻末
に回す方がベターだったかと。
しかし忠実な復元を見ると、改めて『ド・イデ』はエンゲルスが書いて、
マルクスが補ったということが良く分かり、両者の力点の置き方の違い
も見えて、とても面白い。テキスト内容はさておき、訳書自体が優れた
ドキュメント(歴史記録)になっていると言えます。
古今東西の書物の中でも、『ド・イデ』は人類にとって重要度において
トップクラスであるのは間違いなし、と再確認できた次第。
・・・以上、取りあえずの感想デシタ。
>>37 >人類の進歩のためこれだけは絶対オサエておかねばならない知識
上で述べたのは歴史の科学についてであり、<人類の進歩>といった
歴史観(歴史の哲学)の問題とは区別される。
特に<進歩主義史観>という歴史観は18世紀啓蒙主義由来のブルジョア
思想であり、その「野蛮から文明へ」という歴史解釈は既に古びている。
たとえば、資本主義は文明化ではなく、野蛮の温存化であることは、
20世紀のファシズム経験や最近の“文明の衝突”でも明白でしょう。
「自由の祖国をテロから防衛するために、野蛮な人間を爆撃せよ!」??
今起ころうとしている戦争は史的唯物論では
どういう解釈になるんだ?
>>42 >今起ころうとしている戦争
一般に戦争とは国家間の全面的な武力衝突を言うが、その生起は多くの
条件に媒介されている。歴史家は過去の戦争について、それが不可避で
あったかと問うが、現在および未来の戦争については語らない。
しかし「今起ころうとしている」戦争は「既に起こりつつある」戦争で
あり、「かって起こった」他の戦争と同一の本質をもつ限り、科学の
対象となり得る。科学的対象は戦争一般(戦争の本質)であり、歴史家
はまず戦争の本質を明らかにすべきである。それは現象としての戦争を
超えて平和時にまで及ぶ戦争の根拠を言い、「国家は常に戦争状態に
ある」という国家の本質に根ざす事態である。階級ある所国家あり。
>どういう解釈になるんだ?
何らかの歴史的事象を“解釈”するとは、当事者や隠れた第三者の主観
的な意図を理解することであるが、科学的な“説明”とは異なる。
歴史の客観的説明とは、多くの事件例から一般的な法則を抽出し、その
法則を歴史の原理(動かすもの)から導くこと。その限り、権力者と
いえども単なる舞台回しの一人に過ぎず、戦争は法則(運命)として
常に襲ってくるだろう。現実に働く我々が歴史を作っていることを知ら
ない限り。
戦争じゃなくて圧倒的戦力差を見せつけるデモンストレーションだと思われ
45 :
考える名無しさん:03/03/19 06:35
>>42 数日内に起こるアメリカとイラクの間の戦争なら、石油利権を巡る
アメリカの手の込んだ自作自演戦争という見方が大勢
か。まあ、哲学板で聞くより、ニュース速報板プラスやタリ板で聞いたほうが、
事情通にも出会えると思うがね。哲学板有志の回答が
>>43なら、
単にはぐらかされたようなものだろう。
46 :
考える名無しさん:03/03/19 06:42
OFWって、日頃の鬱憤をマルクス理論を吐くことで
解消している社畜なんだろ?
47 :
考える名無しさん:03/03/19 08:10
>>45 600 名前:考える名無しさん :03/03/19 07:10
ブッシュ政権は政府というよりまるで企業のよう。
今回の戦争もビジネスのため。
ブッシュ政権主要閣僚経歴
ブッシュ大統領 石油企業アルプスト・エネルギー創設、石油企業ハーケン重役
チェイニー副大統領 石油企業ハリバートン会長兼最高経営責任者、国防長官(湾岸戦争時)
(チェイニー夫人) 軍需企業ロッキード・マーチン重役
ラムズフェルド国防長官 ロッキード・マーチンのシンクタンク・ランド゛コーポ゜レーション理事長*、国防長官(フォード゛政権時)
パウエル国務長官 統合参謀本部議長(湾岸戦争時)
アーミテージ国務副長官 軍人出身/国防次官補(レーガン政権時)
エバンズ商務長官 石油企業トム・ブラウン社長
ライス国家安全保障担当補佐官 石油企業シェブロン重役
イングランド海軍長官 軍需企業ゼネラル・ダイナミクス副社長
ロッシュ空軍長官 軍需企業ノースロップ・グラマン副社長
ホワイト陸軍長官 退役軍人/エンロン・エネルギー・サービス副会長
>>45 このスレで聞いた私が馬鹿だったようですね。まあ、
史的唯物論の無力さを知れただけでも、いいですがね(ワラ
49 :
考える名無しさん:03/03/19 09:05
1のセイン=コミュは、結局、OFWの釣り師だってことで
いいわけ?
>>45 (横レスかな)
>哲学板で聞くより
その通り、板違いでしょう。歴史の唯物論は評論家の世間話ではない。
たとえば「戦争はビジネスである。」とは一部の死の商人や
“軍事評論家”には妥当しても、兵士や戦場の住民には妥当しない。
況やそれは戦争の真実を突いていない言明であり、それで自らの思考
を停止させることは、戦争に関する誤ったブルジョア的表象を受動的
に再生産するだけのこと。
既に世界が本質的な戦場であり、敵か味方か以外の第三者(傍観者)
など存立し得ない。それが歴史的現在であり、資本主義は現実に死滅
しつつある。
・・・或いは、某独裁者を指しているかのような言葉
「一度目は悲劇、2度目は喜劇。」
(マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』)
>>50 誤:ルイ・ボナパルト
正:ナポレオン・ボナパルト
>>46 >社畜なんだろ?
で、あなたは?(ディレイドチャット風に)
>>48(42さん)
>史的唯物論の無力さを知れただけでも
それは速断過ぎるのではないかな。
「無力」とは何に対してなのかな。
何を、あなたは求めて来たのかな。
生まれ、育ち、老い、やがて死ぬだろうあなたは。
54 :
考える名無しさん:03/03/21 06:21
>何を、あなたは求めて来たのかな。
生まれ、育ち、老い、やがて死ぬだろうあなたは。
うわ、青臭いね。晒しあげ。
55 :
考える名無しさん:03/03/21 06:25
>資本主義は現実に死滅 しつつある。
証拠は?
56 :
考える名無しさん:03/03/21 06:29
共産主義は不滅だから
さて、二日酔いも抜けたとて・・・。
「すなわち、人間たちが自然発生的な社会の内にある限り、したがって
特殊な利害と共通の利害との分裂が実存する限り、したがって活動が
自由意志的ではなく自然発生的に分掌されている限り、人間自身の行為
が人間にとって疎遠な、対抗的な威力となり、人間がそれを支配するの
ではなく、この威力の方が人間を圧服する、ということである。」
(『ドイツ・イデオロギー』[17](廣松渉編訳、岩波文庫p.66)但し、
執筆段階での抹消部分は省略。)
「まさしく、特殊的利害と共同的利害とのこの矛盾から、共同的利害は
国家として、現実の個別的利害ならびに全体的利害から切り離された
自立的な姿をとる。」(同上[17]エンゲルス追補(p.67))
と洞察されながら、二つの幻想的実体、貨幣(経済的)と国家(政治的)
は未だに絶対的な力として、人間の活動および観念を支配している。
しかしながら、生産諸力の発展に伴う諸個人間の(物質的・精神的)交通
の緊密化は、関係性の転回の現実的条件をますます増大させている。
歴史の唯物論は、ありもしない妄想から、現実的な知に戻るだけのこと。
age
(^^)
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
62 :
考える名無しさん :03/04/24 11:02
唯物史観=タダモノ史観
>>62 エンゲルス&マルクスによる要約は以下の通り。
「この歴史観は、それゆえ次のことに基づいている。すなわち、現実的な
生産過程を、それも直接的な生の物質的な生産から出発して、展開する
こと、そしてこの生産様式と連関しながらこれによって創出された交通
形態を、したがって市民社会を、そのさまざまな段階において、そして
市民社会を、それの国家としての営為においても叙述すること、ならび
にまた、宗教、哲学、道徳、等々、意識のさまざまな理論的創作物と
形態のすべてを、市民社会から説明し、そしてそれらのものの生成過程
をそれらから跡付けること、―そうすれば当然、そこではまた事象が
その全体性において(そしてそれゆえにまた、これらさまざまな側面
相互間の交互作用も)叙述されうる。」
(『ドイツ・イデオロギー』[24](廣松渉編訳、岩波文庫p.86-87))
>>63(つづき)
「この歴史観は、観念論的な歴史観のように各時代の内に一つのカテゴリー
を探し求めることはせず、絶えず現実的な歴史の地盤にとどまり、実践を
理念から説明するのではなく、理念的構成物を物質的な実践から説明する。」
(同上、p.87)
たとえば、<自由・民主主義の発展>という表象から歴史を説明するのは
観念論的な転倒であること。
「歴史においてはどの段階にあっても、ある物質的な成果、各世代に先行
世代から伝授される生産諸力の一総体、歴史的に創造された対自然ならび
に諸個人相互間の一関係が見出される。生産諸力・諸資本・環境の一総和、
これは、なるほど一面では新しい世代によって変容させられるが、他面
では当の世代に対してそれ固有の生活諸条件を指定し、この世代に一定
の発展、特殊な一性格を付与する。−こうして、人間が環境を作るのと
同様、環境が人間を作るのである。」(同上、p.88-89)
65 :
考える名無しさん:03/04/26 11:20
史、つまり諸事象の精神的把握と、唯物というのは始めから矛盾してないですか?
ここにみなさんが展開しているのは、精神的、観念的な言葉以外のなにものでもないと思いますが。
とかゆうとマッハ主義とかゆって終わりですか?
67 :
考える名無しさん:03/04/26 11:27
>>1 信者以外は無視しろってことですね。これも当然無視。
つまり、エールの好感スレですね。あるいは戒律の確認スレか。
体系外の批判は許さない。
自然に帰れ !
「 おかえり 」
「 ただいま 」
「 いってきます 」
「 いってらっしゃい 」
「 ああ、今日の仕事は辛かった、あとは焼酎を あおるだけ 」
「 おやすみ 」
これが、現実
>>65 >諸事象の精神的把握と、唯物というのは始めから矛盾してないですか?
歴史観と歴史自体とは区別すべきでしょう。唯物論とは精神に対する
自然の先在性を主張する立場であり、唯物論的な歴史観では、歴史認識
に先だって歴史があった(始めに自然的行為ありき)と考える。
>マッハ主義とかゆって終わりですか?
マッハは、カントが「物自体は認識できない」と主張したのに対して、
さらに「物自体は存在しない」と主張した物理学者にして素人哲学者。
歴史に関するマッハ主義とは如何なるものか知らず。
>>67 (横レスながら)
>体系外の批判は許さない。
んなことはないでしょう。
>>1はギャラリーを集めるための掴みかと。
>>68 >自然に帰れ !
>これが、現実
「従来の歴史観はすべて、歴史のこの現実的な土台をまったく顧慮せずに
放置するか、あるいは歴史的経過と何の連関もない瑣末事としてこの
土台を考察するだけであった。そのため、歴史はいつもその外部にある
基準に則って書かざるをえず、現実的な生の生産は非歴史的なものと
して、他方、歴史的なものは普段の生活から乖離した超‐世俗的なもの
として、現れる。人間の対自然関係は、こうして歴史から締め出され、
その結果、自然と歴史との対立なるものが創出される。だから、従来の
歴史観は、歴史の内に、政治的なドタバタ劇しか、また宗教的ならびに
総じて理論的な抗争しか、見ることができず、とりわけ歴史上の各時代
ごとに、その時代の幻想を分かち持たざるをえなかった。」
(『ドイツ・イデオロギー』[25](廣松渉編訳、岩波文庫p.89‐90)
71 :
考える名無しさん:03/04/29 04:16
>物自体は存在しない
これは存在しないの「存在」の意味を明らかにしなければ結論は
出せません。マッハの真意は以下のどちらにあったのですか。
認識に先行する外在的な要因をを否定する命題として、
「物自体は存在しない」としたなら、確かにマッハの発言は誤り
であることになりますが(わからない、が正しい解答だから)、
物自体が個物として認識に先行して確定的にあるという
命題を否定する意味であれば、マッハの命題は正しいことになります。
物自体が存在しないのではなく、存在しないものを都合、物自体と
呼ぶのだ。
>>71 マッハはスレのテーマとは殆んど無関係だが、行きがかり上少しだけ脱線。
>認識に先行する外在的な要因を否定
マッハ曰く
「色、音、熱、圧、空間、時間等々は、多岐多様な仕方で結合しあって
おり、さまざまな気分や感情や意志がそれに結びついている。この綾
織物から、相対的に固定的・恒常的なものが立現れてきて、記憶に
刻まれ、言語で表現される。(中略)そして、物体と呼ばれる。」
(マッハ『感覚の分析』(須藤/廣松訳、法政大学出版会)p.4)
認識(この場合知覚)に先行する要因として心理的・内在的な感覚要素
だけが挙げられており、物理的・外在的な要因は否定されていますね。
>>71(つづき)
>物自体が個物として認識に先行して確定的にあるという命題を否定
「あれこれの構成分が脱落しても目立った変化をしない漠然とした像は、
一見、何かしらそれ自体で存在するもののようにみえる。(中略)
こうして、極く自然のなりゆきで、初めは畏敬されたが後には奇怪だ
とされるようになった(それの「現象」とは別な、不可知な)物自体
の哲学思想が成立する。」(同上、p.7)
「通俗の思考法や話術では、現実に仮象を対立させるのが常である。鉛筆
を空中で見ると真直ぐに見える。ところが、この鉛筆を斜めにして水中
に突込むと曲って見える。この場合、人びとは次のように言う。鉛筆
は曲って見えるが、実際には真直ぐである、と。(中略)こういう場合
に、仮象を云々することは唯実用的な意味をもつにすぎず、学問的には
無意味である。世界は果たして現実に存在するのか、それともわれわれ
は世界を夢想しているにすぎないのか、という屡々立てられる問題も、
これまた、何ら学問的な意味を持たない。」(同上、p.10)
物自体のみならず、世界の現実性・確定性すら否定されていますね。
75 :
考える名無しさん:03/04/30 21:10
ものじたい【物自体】
〔哲〕〔(ドイツ) Ding an sich〕
カント哲学の中心概念。経験的認識の対象であ
る現象としての物ではなく、現象の起源として
主観とは独立にある物そのもの。物自体は認識
できず、ただ思惟されるだけのものであるが、
超越論的自由はそれにおいてこそ可能となる。
三省堂提供「大辞林 第二版」より
76 :
考える名無しさん:03/05/02 15:32
>>69 OFWさん、親切なご返答ありがとう。
>歴史観と歴史自体とは区別すべきでしょう。唯物論とは精神に対する
自然の先在性を主張する立場であり、唯物論的な歴史観では、歴史認識
に先だって歴史があった(始めに自然的行為ありき)と考える。
よく分かりました。つまり諸現象の生成転変を唯物な歴史と考えるわけですね。
しかし、たとえ自然に存在し唯物な歴史が生成していることを仮に認め、
歴史観と歴史自体を分けたとしても、人々が論じられるのは歴史観だけですよね。
歴史自体はだれも論じられない。つまり 歴史自体の現象がたとえ唯一無二だとしても、
それを観る、読む人の時代、環境、信仰などによって 歴史観は一定しないからです。
例えば、コロンブスは新大陸を発見した。これは西洋人には事実かもしれないが、
ネイティヴ・アメリカンには、黒船来襲みたいなもんでしょ。
また、歴史記述する時点で、どんなに客観的に記述したとしても、
取捨選択という解釈が入ることは否定できないでしょう。
つまり、たとえ 唯物な歴史があるとしても、
言語的に分析してその極一部を切り取ってくるわけですから、
唯物史など語りえないのではないですか?
>>76(65さん)
>歴史自体はだれも論じられない。
個々の歴史的実在を離れて大文字の歴史などないという意味なら、その
通りですが、歴史学者は歴史観ではなく歴史を論じ、考古学者は先史時代
の人間史を論じ、生物学者は生命(有機体)の歴史を論じていますね?
>時代、環境、信仰などによって 歴史観は一定しないからです。
時代により異なる歴史観の存在は、まさに歴史観自体が時代の反映である
(歴史観の歴史性)という事実を示すものでしょう。
>コロンブスは新大陸を発見した。
コロンブスは住み慣れた西洋から遠く離れた彼方にまで航海し、そこに
未知の大陸を見出し、そこに住む人々と遭遇した。その事実は、大陸に
既に住んでいた人々にとっては<コロンブスとの遭遇>という歴史的な
事件であった。そこには、二つの事実があるのではなく、一つの出会い
があるので、二つの地域史が一つの世界史に組み込まれたということで
しょう。多くの世界史の教科書が西洋中心に書かれているのは近代主義
の影響であり、最近では見直しも増えているかと。
>>76(65さん)(つづき)
>また、歴史記述する時点で、どんなに客観的に記述したとしても、取捨
>選択という解釈が入ることは否定できないでしょう。
およそ世界や歴史に対する見方が分かれるのは、個人の選好というより、
記述主体自身が占める社会的地位(その最大のものは階級)の違いから
くると言えます。総じて、観念論的な歴史観は、常に現在を永遠化する
ために持ち出され(歴史の否定、終わり、虚構化等)、唯物論的な歴史
観は社会の物質的土台から社会の運動を説き、歴史の現実性を肯定する。
「支配階級の思想が、どの時代においても、支配的な思想である。すなわち、
社会の支配的な物質的威力である階級が、同時にその社会の支配的な
精神的威力である。(中略)支配的な思想とは、支配的な物質的諸関係
の観念的表現、支配的な物質的諸関係が思想として捉えられたものに他
ならない。つまり、ある階級を支配階級たらしめるまさにこの諸関係が
思想として捉えられたものであるから、その階級の支配の思想である。」
(『ドイツ・イデオロギー』[30](廣松渉編訳、岩波文庫p.110‐111)
79 :
考える名無しさん:03/05/03 21:45
>>78 OFW さん、根拠が『ドイツ・イデオロギー』だからこそこう考えるのでしょうね。
>また、歴史記述する時点で、どんなに客観的に記述したとしても、取捨
>選択という解釈が入ることは否定できないでしょう。
>およそ世界や歴史に対する見方が分かれるのは、個人の選好というより、
>記述主体自身が占める社会的地位(その最大のものは階級)の違いから
>くると言えます。総じて、観念論的な歴史観は、常に現在を永遠化する
>ために持ち出され(歴史の否定、終わり、虚構化等)、唯物論的な歴史
>観は社会の物質的土台から社会の運動を説き、歴史の現実性を肯定する。
社会的地位ももちろん一つの要因ですが、より社会の違いの方が大きく影響するでしょう。
『ドイツ・イデオロギー』の考え方は、ヘーゲルの観念論を受け入れていたインテリの間だけでの反動思想としか思えません。
マルクス主義は非常に観念的としか思えないし、レーヴィットが指摘するように神の消えたセム歴史観ですよ。
やっぱり 唯物論的な歴史というのは成り立たないですよ。歴史は観念だもん。
事実が一つというのはありえない、なぜなら観た人によって相対的にあらわれるからです。
その相対的なあらわれを誰かが纏めたものが歴史としか思えません。
作品は観念じゃないけどな
81 :
考える名無しさん:03/05/03 21:56
歴史観と歴史がゴッチャになってない?
82 :
考える名無しさん:03/05/03 22:13
歴史観と歴史を分ける方が無理がある。
というか、何か実在のものが時間的に生成してそれは唯一無二という前提が、
マテリアルな歴史なんでしょうが、そうは全く思えません。
事象の生成を観念で切り取って物語りに纏めたのが歴史としか思えないから。
事象は変化生成するけどそれは歴史のように言葉にならないものでしょ。
例えば、年表みたいな事象の羅列では歴史じゃないでしょ。
年表でも言語化されてある視点から切り取られているんですが、譬喩です。
83 :
考える名無しさん:03/05/03 22:16
全てそうじゃないの?
物理現象だって。
84 :
考える名無しさん:03/05/03 22:28
85 :
考える名無しさん:03/05/04 14:03
>>84 信念というような積極的な意志ではないです。
もっと受動的な言語的、時代的、環境的制約です。
もしかするとそゆうことを弁証法と呼んだのかも、
私には縁起がしっくりきます。
>>79(65さん)
>より社会の違いの方が大きく影響するでしょう。
それがマルクス主義の主張であり、
>>78で引用した「支配的な思想」を
指しますね。歴史上初めて『ドイツイデオロギー』が国家、政治、宗教
等の歴史ではなく、それらの根底にある<社会>の歴史を説いたのです。
>マルクス主義は非常に観念的としか思えない
通常、マルクス主義哲学は唯物論に分類され、観念論に対置されます。
「観念的」ではなく「独断的」と言うことかな?
確かに旧ソ連の御用哲学(スターリン主義)は独断的教説(ドグマ)で
あり、機械論的唯物論と教条的観念論(絶対的真理!)の混ぜ物だったが。
>>82(65さん?)(横レスながら)
>事象の生成を観念で切り取って物語りに纏めたのが歴史
まず「事象」「事実」「現象」は相互に異なる概念であり、厳密な議論
では区別すべきでしょう。私なりに整理すると、
事象(matter(英)):実在の生成・変化・消滅という運動そのものを言う。
出来事、事柄。
事実(fact(英)):虚構ではない客観的な事象を言う。現実は事実の総体。
「事実は小説より奇なり」とは、客観的事実は人間の
作り話(想像)を超えているという事情を表わす格言。
現象(phenomenon(英)):実在が生成の根拠(本質)を写す現存在(現われ)
でもあるという<実在の二重性>を言う。仮象の全体。
歴史を事象の継起として捉えるのは最初の表象としては正しいが、歴史観
とはその表象を超えて、何が客観的事実かを調べ、諸事実の継起を貫く
摂理(法則)そしてその根拠は何であるのか、を反省して得られる総体的
な歴史認識を指す言葉でしょう。虚構(物語)から現実の歴史に降りて
くるために、物質的な協働社会という基盤から観るのが唯物論です。
88 :
考える名無しさん:03/05/05 13:10
>>86 OFWさん、社会というのは物理的なものでなく、
広い意味での言語的制約を受けたものだと思います。
国土や人種より言語の方が社会的じゃないですか?
その非唯物な社会の唯物論的歴史というのは非常に奇妙に思えますが。
唯物論的歴史の影響で一次歴史は、制度史ばっかだったし、
小学生や中学生の歴史教科書も 制度史的ですよね。だからつまらない。
マルクス主義が観念的だというのは、方法の問題でなく、前提や主張のことです。
確かに方法は当時流行した科学を取り入れて 唯物論的だとおもいますが、
前提や主張がセム系の発展史観やヘーゲルの逆転にしか思えません。
そうゆういみで 前提や主張が 観念的だと思います。
>>87 すいません術語に通じていないので、私の適当な用法です。
OFWさんの定義に従えば私には「事実」があるとは思えません。
客観的な事象というのは、ある社会における共通認識だと思いますが、
その共通認識も言語的制約の上に成り立つ仮のものとしか思えません。
まず、物質的実在は承認できません。また、仮に承認するとしても、
言語的制約によって歴史は歴史観以外のものではありえないと思います。
>>88(65さん?)
>社会というのは物理的なものでなく、広い意味での言語的制約を受けたもの
>国土や人種より言語の方が社会的じゃないですか?
社会は無論「物理的なもの」ではなく、その違いを指して<社会的なもの>
と呼びます。そして、その内容(社会を社会と呼ぶ所以、社会の本質)は
何か、という問いに対して、それを<言語>と捉えることは必ずしも
間違いではない。しかし、非言語社会(狭義の言語をもたない社会)が
存在する以上、社会と(狭義の)言語とはそのまま同一ではなく、両者
の違い(言語を制約するもの)を社会の本質(固有性)と考えるべきで
しょう。社会は自然の中で発生し、その運動(働き)を保存するものです。
>その非唯物な社会の唯物論的歴史というのは非常に奇妙に思えますが。
唯物論を指して「すべての存在は物理的=機械的な物質に還元されると
主張する立場」(俗に“タダモノ”論と言う)と考える人は多いが、
社会が単なる物理的存在でないのは自明な以上、奇妙なのは、そのよう
な誤解(唯物論者はそのように考えている人種だとの考え)の方かと。
>>88(65さん?)(つづき)
>小学生や中学生の歴史教科書も 制度史的ですよね。だからつまらない。
歴史教科書がつまらない理由は、英雄豪傑のドラマがないためではなく、
歴史や制度がそれを学ぶ者にとって如何なる意義を持つのか、を十分に
伝えていない、その平板さにあるかと。歴史は過去の他人事ではなく、
現在生きている(現実の)人間の中にこそあるのです。
>客観的な事象というのは、ある社会における共通認識だと思いますが、
>その共通認識も言語的制約の上に成り立つ仮のものとしか思えません。
事象の認識とその対象(事象自体)とは異なるでしょう。その違いを
「主観的」「客観的」という言葉で表現します。
すべての認識、観念は言語により現実的なものになるが、認識された
ものは言語を超えた対象です。言語とは記号の一種であり、記号とは
何らかの対象(原物)の代わりに立てられたもの、という基本的性格
をもつ思考の用具です。
>>88(65さん?)(つづきのつづき)
>まず、物質的実在は承認できません。
歴史上、哲学者とは僧侶階級の末裔でしょうが、彼(女)らは精神労働
の専門家として、世界や歴史(例:世界の起源)を観念論的に解釈し、
それを民衆に説教してきたし、現在でもそうでしょう。それに対して、
大地に立ち、日々自然と格闘している民衆は、決して自然が単なる幻想
などではなく、現実に実在していることを身をもって理解している。
両者の態度の違いを「観想的(理論的)」vs「実践的」という言葉で
表現する。歴史の唯物論は働く者の立場からみた、実践的な歴史観です。
>言語的制約によって歴史は歴史観以外のものではありえない
およそ人間の思考は言語なしには不可能であり、言語的制約を受けるが、
そのことは「思考の対象はすべて観念である」ということではない。
歴史とは<過去に実在した現実>であり、その認識のためには無論言語
も必要ですが、同時に、現存する過去の跡(物質的記録、遺産)が必要
です。過去は実在しないが、かって実在したが故に、過去と呼ばれる。
それが神話でない所以は、現在に残る客観的証拠つまりこの現実です。
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
「人格的な諸威力(諸関係)は、分業によって、物象的なそれへと転化
した。(中略)これが止揚されうるのは、ひとえに、諸個人がこれらの
物象的諸威力を再び自分たちの下に服属させること、そして分業を止揚
することによってである。このことは、共同社会なくしては可能では
ない。共同社会において初めて、各個人にとって自己の素質をあらゆる
面で陶冶する手段が実存するようになり、それゆえに、共同社会において
初めて、人格的自由が可能になる。」
(『ドイツ・イデオロギー』[55-56](廣松渉編訳、岩波文庫p.174-175))
1.諸個人がもつ諸威力(生産諸力の源)そして諸個人間の人格的関係が、
物象的なものとして自立化し、諸個人に対抗してきた。
2.その原因は、(固定した)分業にある。
前者は歴史を貫く一つの疎外過程の観察であり、後者はその原因の指摘で
ある。疎外の止揚つまり「各個人にとって自己の素質をあらゆる面で陶冶」
できる人格的自由の達成のためには、共同社会(ゲマインシャフト)の実現
が必要であり、それが共産主義の目標だと言われている。
「従来の共同社会の代用物ー国家その他ーにおいては、人格的自由は、
支配階級の諸関係の中で育成された諸個人にとってしか、しかも彼らが
支配階級の個人でいられた間しか、実存しなかった。(中略)現実的な
共同社会においては、諸個人は彼らの連合において、かつ連合によって、
同時に彼らの自由を手に入れる。」
(『ドイツ・イデオロギー』[56](廣松渉編訳、岩波文庫p.175))
1.国家とは、階級社会における<幻想的な共同社会>であること。
2.個人の自由は、諸個人の連合においてのみ達成できるということ。
「自由は美しい」と言う某国大統領は、幻想を振りまいているわけである。
「人格的個人と階級的個人との乖離、個人にとっての生活条件の偶然性は、
それ自体ブルジョアジーが創り出したものである階級の登場とともに、
初めて現れる。諸個人の間の競争や抗争が、初めて、こういう偶然性
そのものを生み出し、展開する。こうして、ブルジョアジーの支配体制
の下にある諸個人は、表象の中では以前よりもいっそう自由であるー
彼らにとっては自分たちの生活諸条件が偶然的なのだから。現実の中
では、彼らは、もちろんいっそう不自由であるー物象的な強制力の下に
ますます服属させられているのだから。」
(『ドイツ・イデオロギー』[56](廣松渉編訳、岩波文庫p.176-177))
1.人格的個人vs階級的(偶然的)個人
2.表象の中での自由vs現実の中での不自由
<物象化>とは、単なる錯覚(例:編訳者の唱える物象化的錯視)などで
はなく、自由の表象(偶然的恣意)自体が人格的関係の物象化の結果なの
である。事的世界観・歴史観ではなく、唯物論的世界観・歴史観を。
OFWさんは週に何回SEXしているんですか?
「共産主義が従来のあらゆる運動と異なる点は、それが従来のあらゆる
生産諸関係・交通諸関係の基礎を転覆するところにあり、そして自然
発生的なものとして前提になっていたあらゆるものをそれまでの人間
たちによって創出されたものとして、初めて意識的に取り扱い、諸前提
にまとわりついていた自然発生性の衣を剥ぎ取って、それを結合した
諸個人の威力に従わせるところにある。」
(『ドイツ・イデオロギー』[59](廣松渉編訳、岩波文庫p.182‐183))
1.自然発生的なものと見做された生産・交通の諸関係は、実際には、
それまでの人間たちによって創出された歴史的なものだということ。
2.諸個人から自立しているように見えるそれらの諸条件を、諸個人の
結合(無論国家などではない)により、諸個人自身の下に置くこと。
たとえば、経済学者は、資本主義経済(ブルジョア的生産様式)の基礎、
つまり私的所有と賃労働を永遠の自然の如く見做し、貨幣や資本といった
物象的価値を諸個人から自立した威力として取り扱うが、それは仮象だと。
「交通形態に対する生産諸力の関係は、諸個人の活動性ないし活動に対する
交通形態の関係である。(中略)この諸条件の下でのみ、これら一定の諸
個人は、つまり一定の諸関係の下で生存している諸個人は、彼らの物質的
な生とそれに関連するものを生産することができる。(中略)それゆえ、
一定の条件下で諸個人が生産する時、その条件は、矛盾がまだ表面化
しないうちは、彼らの現実の被制約性、彼らの一面的な定在に照応して
いる。定在が一面的であるというこのことは、矛盾の出現によって初めて
示されること、したがって後代の人々にとってのみ実存するようになる
ことである。」(同上[60-61](廣松渉編訳、岩波文庫p.185‐186))
1.一定の諸関係の下での生産→諸個人の物質的な生のあり方(定在)→
交通形態(生産の諸条件)自体の再生産
2.(交通形態と生産諸力との)矛盾の出現により、後代の人々にとって
のみ、定在の一面性(被制約性)が実存するようになる。
ヘーゲル的に言えば、即自的な定在と対自的な定在(実存)との対立だが、
生産諸力の一定の発展段階がなければ、その対立は止揚できない。
「大工業と競争においては、諸個人のあらゆる生存諸条件は極めて単純な
二つの形態、私的所有と労働に融かし込まれてしまっている。貨幣に
よって、どの交通形態も、それどころか交通そのものが、諸個人にとって
偶然的なものにされている。したがって、貨幣の内にはすでに、従来の
交通はすべて一定の諸条件の下での諸個人の交通でしかなく、諸個人と
しての諸個人の交通ではなかった、ということが含意されている。」
(『ドイツ・イデオロギー』[64](廣松渉編訳、岩波文庫p.192‐193))
資本主義の時代とは、諸個人にとって“先史”(必然の王国)の終わりで
あること。貨幣は自由を含意するがその到来ではなく、偶然としての自由
に過ぎない。そこでの交通は競争と交換であり、協働とコミュニケーション
ではない。
OFWさんは週に何回野糞しているんですか?
OFWさん、御無沙汰しています。
レスは毎度興味深くヲチしてます。
広松版をボチボチ読み込みはじめているところですが、現在多忙なので後ほど
レスさせていただきます。
チョット御挨拶まで。
>>101(電波狸さん)
お久しぶり。私はようやく多忙から解放された所です。
「こうして、ここに二つの事実が見られる。第一に、生産諸力が諸個人から
引き剥がされたまったく独立のものとして、諸個人と並ぶ独自の世界と
して現われる。このことの根底にあるのは、諸個人の諸力こそが生産
諸力であるのに、彼らは分裂して相互対立の中で生存していること、
ところが他方、この諸力は彼らの交通と連関の中でしか現実的な力とは
ならないこと、こうした事態である。(中略)諸個人が生産諸力および
彼ら自身の生存とかろうじて関わりを保っている唯一の連関、すなわち
労働が、彼らの側では自己活動の輝きをことごとく失ってしまい、労働
はただ彼らの生活を不快にさせることによって彼らの生活を支えるだけ
になる。(中略)これに対して今日では、そもそも物質的な生が目的と
して現われ、この物質的な生の創出、すなわち労働・・・が手段として
現われるほどに、自己活動と物質的な生の創出とは離れ離れになっている。」
(『ドイツ・イデオロギー』[65-66](廣松渉編訳、岩波文庫p.196‐197))
サラリーマンは「食うために生き、生きるために働く」わけだが、彼(女)
らの労働が如何に生活を不快にさせているかは、リーマン板にも歴然として。
OFWさんは週に何回オナニーしているんですか?
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
「結合した諸個人による総体的な生産諸力の領有とともに、私的所有は
終わる。(中略)もはや分業に服属させられない諸個人を、哲学者たち
は、理想として「人間」なる名の下に表象し、そして、われわれがこれ
まで展開してきた過程の全体を「人間なるもの」の発展過程として捉え
た。その結果、過去の各歴史段階における諸個人に「人間なるもの」が
押し込まれ、歴史の駆動力として叙述された。こうして、全過程が
「人間なるもの」の自己疎外過程として捉えられた。これは、元をただ
せば、後の段階の平均的個人が次々と前代の諸個人に押し込まれること
に由来する。」
(『ドイツ・イデオロギー』[67-68](廣松渉編訳、岩波文庫p.199-200))
特にヘーゲル左派に代表される観念論的な歴史観(疎外論)を唯物論的に
転倒して、<人間の本質>を諸個人の実存(現実存在)から捉え直し、諸
個人の疎外(抽象化)を<結合した諸個人>による生産諸力の領有により
超克する、という課題が打ち出されている。実体から主体への転換である。
age
労働価値論について一言お願い。
>
>>108労働価値論について一言
下記スレで多言(擁護)したので、詳しくはそちらを参照下さい。
ttp://academy.2ch.net/philo/kako/1030/10305/1030531327.html 本スレのテーマに引き寄せて再度。労働価値説を一言でいえば
「経済的価値の実体は労働である。」
という主張であり、「価値とは何か?」という問いに対して、「労働で
ある。」と答える立場ですが、実体という概念がポイントです。
<実体>とは「変転する現象の底にある不変の存在として、現象を引き
起こす源」といった内容の概念ですが、一義的には自然を指します。
そして、歴史的社会の自然性とは、人間の営為の底にある変わらぬ自然
であり、生産・消費という「人間と自然との間の永遠の物質代謝過程」
(マルクス)です。
資本主義経済において、経済現象の実体として価値(商品、貨幣、資本)
が浮上してきますが、それは過去の労働の物象化であり、それ自体は
仮象である(実体ではない)ということが、労働価値説の主張です。
「マルクスの基本定理」との関連はいかに?
>
>>108労働価値論(続き)
「実体とは偶有的諸関係の総体である。」(ヘーゲル)
と言われるように、実体性と偶有性とは互いに反照関係にある相関です。
つまり論理的に言えば、実体とは関係の関係としての自己相関(過去の
反照、他在からの復帰としての現実的な運動)を直接的な存在として
立てたものです。
総じて19世紀末以降の学問は、実体論の廃棄・関係論への転換として
特徴付けられるでしょうが、関係を担う本質存在への問いこそが科学的
認識です。そして、歴史学が科学として成立するためには、社会の生産
関係から歴史をみる必要があるが、同時に、それを担っているのは、
現実的な(働いている)諸個人であることを忘れてはならないでしょう。
<資本>(価値の資本形態)とは一つの社会関係であり、労働力商品の
私的売買に基づく、価値の増殖(剰余価値の形成)運動ですが、経済と
は本来、資本(ストック)の増殖ではなく、労働の節約(エコノミー)
であり、価値とは、現在の生産物において反照する必要労働、つまり
その再生産に費やすべき労働を対象的に表現したものなのです。
112 :
考える名無しさん:03/06/15 03:40
革命に暴力はいいのかダメなのか意見をください
大学の民コロといつもそこで論戦になるから
ベーム・バヴェルクによるマルクス批判はどう??
>
>>110「マルクスの基本定理」との関連はいかに?
まず、マルクスは資本の解明において数式を使用したが、数理経済学的
証明を行ったわけではないから、当該命名は多分にミスリーディング。
価値とは物質的な生(
>>103)の再生産にとって、その必要条件を対象的
に表現したものですから、置塩モデルを含む投下労働価値説(マルクス説
にあらず)は不十分なものです。ある財の現在における必要量とは未来
におけるその存在量であり、希少性(効用の不足)としての価値は財の
現存量と必要量との差(不足、比量)ですね。そして、その生産に充当
すべき労働量は、社会の総労働力のうち当該生産部門に振り向ける部分
として決まるから、既に投下された過去の労働量がこれから投下すべき
労働量を決めるのではない。価値実体(過去労働)と現象との矛盾です。
そこに実体から歴史的主体への転換(
>>106)の根拠があるわけです。
たとえば現在、原子炉事故隠しのために、関東で夏場の電力不足問題が
起こっており、予測される需要電力と供給電力との差は最大750万kW
(24〜30時間だけの原子力の必要性!)とされています。無駄な需要を
減らすか、必要な供給を増やすかがエネルギーの価値(希少性)を左右
するが、その経済(節電)は既に投下された資本にとっては逆ですね。
社会主義計算論争は?
>
>>112革命に暴力はいいのかダメなのか
問題をより具体的に言えば、被支配階級が支配階級に対抗して自己を
解放することは合法的・平和的に為し得るか?ということかな。
革命権を認め、自己止揚を容認していない憲法下では、「合法的」に
関しては殆んど否でしょう(それは超法規的となる)が、「平和的」に
関しては状況次第で可能でしょう。
いずれにせよ、本来的に伝達不可能なもの(非言語的対立)が存在する
のは階級間のみであり、それ以外は啓蒙とコミュニケーションという
理性的な原則が結合力の源泉になるでしょう。「話せば分かる」と。
>
>>113ベーム・バヴェルクによるマルクス批判
価値法則(価値通りの売買)と生産価格(費用価格プラス平均利潤)
の関係についての誤解が、学界の常識にまでなっているようですね。
たまたま
>>74に出た、同じオーストリアの現象主義者からの比較例:
「鉛筆を空中で見ると真直ぐに見える。ところが、この鉛筆を斜めに
して水中に突込むと曲って見える。・・・こういう場合に仮象を云々
することは無意味である。」(E.マッハ)
小学校で習う、いわゆる光の屈折現象ですが、無論大いに意味がある。
水中で曲った鉛筆とは見かけであり、実際には鉛筆は真直ぐですね。
同様に、社会平均として(つまり総量として)商品は価値通り(それは
平均的・社会的必要労働により規定されている)に売買されるが、利潤
を巡る個別資本間の競争・移動の結果として、個別商品は生産価格で
売買されるようになる。価値とは一つの社会関係であり、個々の商品に
内属するものではない。光が媒質の屈折率(誘電率・透磁率)に応じて
屈折するように、価値は資本の重みに応じて配分を変える。価値法則は、
光学法則と同様、価値の屈折現象をむしろ露わにするものです。
置塩信雄、森嶋通夫、塩沢由典、についてはどう?
>
>>115社会主義計算論争は?
まず社会インフラ、たとえば
>>114に例示した電力エネルギーなどに
関しては、物量的な安定供給が必須であり、価格計算はむしろ不可で
しょう。そしてたとえば日本は電力需要の季節変動が大きいとは言え、
景気変動に比べれば、十分に予測可能なものでしょう。
次に生産財に関しては、最終生活財の需要量との関連で必要生産量が
決まるものです。それは必要な資材と労働力を用いた、産業連関表的な
再生産サイクルを形成する。計算は動的ですが情報伝達と、労働力の
機動性(固定した分業の廃止)の問題でしょう。
最後に残る(むしろ始まる)生活財およびサービスに関しては、シビル
ミニマムが設定されれば、必要以上の余剰に関して経済計算など不要
かつ不可能な領域(自由と多様性の領域)でしょう。
上記において、一定の生産力レベルが必要なことは当然ですが、既に
世界は恒常的な供給過剰状態にあり、そのことはデフレギャップ、
金融資本(マネー)の肥大化、第三次産業の増大等々により逆証されて
いる。近代的貧困や失業とは豊穣な世界であるが故に発生する現象です。
「ゴータ綱領批判」の共産主義論との関連や如何に?
マルクスの労働価値論からすれば、貨幣商品・金の価値はそれに対象化
されている社会的必要労働時間で規定されるというわけだが(合っているかな?)
、紙幣になるとどうなるのか?紙幣流通は、金の価値量の規定範囲内で行われると
言われるが、金との兌換性を喪失した不換紙幣の価値はどうなってしまうのか?
不換紙幣の歴史は知らないが、マルクスの少し前の時代にジョン・ローの試みがあったと
記憶する。「資本論」や「経済学批判」にもローの名は出てくるが、ローの試みは
紙幣の紙屑化で終わったはず。紙幣の紙屑化は、それに社会的必要労働時間が対象化
されていなかったから起こったのか?だとしたら、それは労働価値論、及び、価値法則の
鉄の貫徹の結果だったのか?
ここがイマイチ解らないので、マルクスに詳しいOFWさん、教えて下さい。
>
>>118置塩信雄、森嶋通夫、塩沢由典、についてはどう?
また口頭試問のようになってきた(笑)。以前の繰り返しになるが、
マルクスはブルジョア経済およびそれを合理的なシステムと見なす学説
に対して体系的な批判を行ったのであって、独自の経済学体系を立てた
のではない。資本主義システムはそれ自体不合理的なものですから、
それは批判という形でしか研究できない。特に量とは実在的概念(実在
の規定性)ですから、数理経済学的な方法は反照的な本質論には相応し
くない。それは実在(モノ)に捉われ、本質を見ない思考と言えます。
また、<複雑系>という最近のアプローチについて言えば、そこに潜在
する弁証法的な契機をそれとして明確化する必要ありという印象ですね。
>
>>120「ゴータ綱領批判」の共産主義論との関連や如何に?
具体的にどの点に関してでしょう?
日本では“マルクス・コメンタール”は繁盛しても、肝心の労働者は、
この恐慌状態にスト一つ打てない有様で、共産主義はどこに行ったか。
>>121 >紙幣の紙屑化
貨幣とは価値の一般的等価形態における等価物がそれとして立てられた
ものです。それは商品交換において個別商品の価値を実現するために必要
な媒介物ですが、そのことは、貨幣が商品に対して<価値自体>として
振舞い、価値の実体(価値を生み出すもの)である社会的必要労働時間
を隠蔽的に対象化するその化身である、ということです。
つまり貨幣自体に価値はなく、貨幣は価値物(モノ)として現存在する
が故に、商品の価値を尺度し蓄積(過去労働を貯める)できるわけです。
紙幣などの信用貨幣(代理貨幣)は、市場における金などの本源的貨幣
の不足から発生したものであり、商業の発達と共に、国家の信用を担保
に発達したもの。その発行量・流通量は商品総体の価値量と比例すべき
だが、自らが価値を生み出す源泉だと思念されると、印刷暴走を始める。
しかし価値法則はそれが仮象であることを、信用崩壊として暴露する。
ジョン・ローの亡霊(貨幣物神、資本物神の暴走)は現代日本でも土地
・金融バブルにおいて再来し、現在ドル紙幣の信用危機を醸成している。
ほうマルクスをまともに語る奴が5人は居るんだな。
で、今日は何で上げた?
>123
個人的にマルケスを復習するつもりはあまり無いですが暇なので・・・・
問題提起
@資本主義の行き着く果は他国から略奪(戦争含む)であるに反論せよ
Aマルケスの論法で現代カースト制度(インド)の打開策を提案せよ
軽くここいらからやてみるか?
>ofw
>>124 >>125 待っても現れませんよ、生きた知識は無いですから
そもそも史的唯物論なんて過去の遺物、書物の知識
でしか論理が生まれない処です。
マルクス馬鹿は結果過去の事しか語りません
それを利用して現在の対処方法を建設的意見で
カキコできるほど彼のレベルは在りません 藁
>この恐慌状態にスト一つ打てない有様
ストをやるべきだとお考えですか?
>
>>125資本主義の行き着く果
およそ歴史の未来は主体次第で決まり、没主体的な予想は意味がない。
>
>>125現代カースト制度(インド)
「「宗教」や「政治」というものはその時代の現実的な諸動機の形式に
すぎない・・・インド人やエジプト人の所で分業がとる粗野な形式が、
これらの民族と国家と宗教の内にカースト制度を生じさせると、歴史
家はカースト制度がこの粗野な社会的形態を創出した力なのだと信じ
込んでしまう。」
(『ドイツイデオロギー』[25](廣松渉編訳、岩波文庫p.90‐91))
現代インドの<現実的な諸動機>はカースト問題ではないでしょう。
「インドでは、労働問題は如何なる経済活動においても最優先事項であり、
・・・労働者によるストライキは日常茶飯事で、毎日のようにデモがある。」
ttp://ishiishimr.hp.infoseek.co.jp/humanresource.html >
>>127ストをやるべきだとお考えですか?
今日の世界は緊密な相互連関・相互作用のなかにあり、世界の労働者は
共通の問題(階級問題)に面している。国境を越えた連帯が必要です。
回答スレ感謝
125 意味が無い
125 問題ではないでしょう。
うん、確かに問題でないとされてきたからこそ、発足当時の
時代背景と今日、社会主義 民主主義 独裁の少なからず
3点について、模索したかったのだが、残念だ、
入りやすくユダヤとの比較にすれば良かったと後悔している。
時間が会わなかったことも・・・つあいつえん
補足、「主体自体」で決まるその主体をわが国では
他国にも比べさらに国民が得られ無い理由が
経済以外に有るとすれば、どのようにして打破するべきか
また、経済をよりしろとしてきたわが国の新たなる方向性は
いかなるべきか書いておいてくれると嬉しい
因みにカーストとの類似点を俺なりに解釈した物があるが
コピーpになってしまうので、生きた会話を楽しむ時まで
しまって置く、世の反マルケスに彼の財産の重要さを今こそ
考えるべきと共に切磋できることを期待する
>>129-130(ヌイグルマーさん)
>社会主義 民主主義 独裁の少なからず3点について、模索したかった
民主主義について言えば、それは国家と矛盾するわけであり、民主主義
を実現するためには社会主義(国家の廃絶)が必要だということです。
また、いわゆる過渡期におけるプロレタリア独裁とは旧ソ連でのような
ノメンクラツゥーラ(党官僚)の独裁とは異なるもの。
>主体を・・・国民が得られ無い理由が経済以外に有るとすれば
無論個別具体的には色々な理由があるでしょうが、究極的には生産関係
が決めるでしょう。物質的生の(再)生産が有無を言わせぬものだから
です。現在の社会的な制度や慣習が自然的なものと表象される場合でも、
それは過去の歴史的遺物として当時の生産関係に対応物をもっていたと。
>わが国の新たなる方向性はいかなるべきか
国に捉われていると方向性は見えないでしょう。また国民と民族は異な
る存在であり、たとえばインド人や日本人とは複数民族から構成された
国民です。現在のイスラエル国家の問題の根も階級の問題と言えます。
>OFW氏
全くの初心者ですが、以前から気になっていたことがあるので質問させてください。
マルクスはヘーゲルの「歴史は段階的に進歩し、完成へと向かっている」
という歴史観を基に実際の社会を分析、応用したと思われます。
では、伝統的な哲学的問題、たとえば心身問題に関して、マルクスは
どのように言及しているのでしょうか?(唯物論は有名ですが)
「哲学者として」のマルクスの代表的な著作も『資本論』なのですか?
それと初心者が、純粋な哲学者としてのマルクスの思想の概観を知りたい場合、
どの入門書から手をつけたらいいでしょうか?
(極基本的な哲学史は理解しています)
馬鹿馬鹿しいほど初歩的な質問でしょうが、よろしくお願いします。
>>132(質問君)
>伝統的な哲学的問題、たとえば心身問題に関して
マルクスは始めはヘーゲル主義者だったが、哲学的には唯物論者フォイ
エルバッハの影響を受け、それをも批判して、エンゲルスと共に弁証法
的唯物論に基づく世界観を打ち立てたわけです。
「従来のあらゆる唯物論(フォイエルバッハのそれも含めて)の主要な
欠陥は、対象が、つまり現実、感性が、ただ客体ないし直観の形式で
のみ捉えられ、感性的・人間的な活動、実践として、主体的に捉えら
れていないことである。」(『ドイツ・イデオロギー』補録「フォイ
エルバッハに関するテーゼ」、廣松渉編訳、岩波文庫p.230))
いわゆる心身問題に即して言えば、上記は、現実の対象は感性を通して
人間の認識に入ってくるが、その認識活動自体が実践的・主体的に捉え
られていないために、心と身体が別々の存在(客体)として立てられて
いること(心身2元論)を批判したものと言えるでしょう。
>>132(質問君)(つづき)
>「哲学者として」のマルクスの代表的な著作も『資本論』なのですか?
>純粋な哲学者としてのマルクスの思想の概観
マルクスは実践的な思想家であり革命運動家でもあったが、純粋な哲学
者であったことはなく、むしろ哲学一般の批判(対象の限界を明らかに
して、その真理を露わにすること)者でしたから、難しい質問ですね。
世の数多の概説書については余り知らないし、結局、原著に当たること
がベストかと。特に、若い時期のもの(『ヘーゲル法哲学批判序説』
『経済学・哲学草稿』『ユダヤ人問題に寄せて』『聖家族』等)は、
哲学プロパーのテーマも多いので、参考になる(面白い)。
もっとも、アルチュセール以降、<マルクスにおける認識論的切断>を
説く論者も多く、何が“哲学的”代表作かに関しては、哲学一般に対す
る想い入れ(表象)によって評価が分かれるでしょう。再び、
「畢竟、すべての学は歴史の学であり、歴史とは自然史である。」
(ちょとパラフレーズ)。
135 :
日本@名無史さん:03/06/28 12:43
晒しあげ
136 :
考える名無しさん:03/06/28 13:02
○Xはもう終わってる。
>>136 かって「マルクス葬送」が喧伝され、「ニューアカデミズム」あるいは
「ポストモダニズム」などという新思想が繁盛した時代があった。
それは同時に、哲学・思想が知的ファッションにバブル化した時期でも
あり、○×と共に自己の知性自体も葬送した挙句、泡沫の如く消えた。
思想にも歴史があり、政治経済社会の受動的反映だという唯物論の一例。
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
保守アゲ
140 :
考える名無しさん :03/08/18 18:41
唯物史観とはタダモノ史観のことである。
いったい人間の物質的生産構造を究明して何になるのだろう。
現在重要なのは、精神的問題、つまり自我にとって歴史はどういう意味をもつか
という主体的把握だ。
>>140 >人間の物質的生産構造を究明して何になるのだろう。
「人間は、意識によって、宗教によって、その他お望みのものによって、
動物から区別されうる。人間自身は、自らの生活手段を生産し始める
や否や、自らを動物から区別し始める。」
(『ドイツ・イデオロギー』{[1?]d}(廣松渉編訳、岩波文庫p.26))
つまりそのことは「人間とは何か」を知ることにつながるわけです。
>現在重要なのは、精神的問題、つまり自我にとって歴史はどういう意味
>をもつかという主体的把握だ
自我とは純粋な主観性<私>であり、知る者としての精神ですが、人間
は精神的主体である前に、まず身体をもって実践する主体であり、歴史
を作るものです。つまり、自我にとって歴史を知ることは、自らが歴史
の主体であることを自覚することです。その場合重要なのは、歴史とは
まず他者が作り、自己が引き受けるべき諸制度、諸関係として与えられ
る現実的なものであり、その必然性を理解しない間は、運命として偶然
的なものに留まるということです。
>>141(つづき)
「精神的問題」について、その全範囲にわたって、最も広くかつ体系的
に考察した哲学者と言えば、やはりヘーゲルということになるでしょう。
彼は、およそ森羅万象を大文字の<精神>の現われ、その諸形態と見て、
それらの固有なあり方を統一的に把握しようとした。つまり、彼にとり、
すべての問題は精神的問題であった。そして、人類の歴史(世界史)は、
絶対精神(神)が人間を借りて、自己を顕現する客観的過程とされた。
そのキリスト教的な弁神論は、当然ながら、歴史自体からの批判を受け、
個人の自我が絶対的主体とされる近代において、精神的問題は世俗的・
人間的問題の前に消え去った。(神の死、実存主義、そして唯物論)
ヘーゲルを批判し、同時にポストモダン(近代の終焉)を説く最近の諸
思想は、大文字の精神と共に、近代的自我の解体を説いて終わった。
精神とは自然の反照(形相化)であり、諸個人間のコミュニケーション
の内に定在する普遍性の働きであるから、精神的主体とは、自然のうち
で共に働くもの(労働者)のうちにしか存在し得ないということが、
歴史的近代の成果として、誰の目にも明らかになってきたと言えます。