【事象そのものへ!】現象学【phanomenologie】
97 :
考える名無しさん:
超越論主義を創始したのはカント?
それを発展させたのがフッサールでいい?
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
放置されてた・・・
100 :
考える名無しさん:03/07/15 17:03
超越論主義ってなんですか?
おお、返事が来た >100
僕がイメージしているのは、時間空間を客体として捉えるのではなく、
人間の側にあるというカントの超越論的観念論のこと。
世界を人間の認識の側にあるとする考え方全体のことかなぁと思った。
「超越論主義」という言葉自体はフッサールの「危機書」に書いてあった。
「客観主義」と対置して。超越論主義の最終形式が現象学って書いてあった。
今現在、世界の捉え方において、「客観主義」と「超越論主義」どちらが優勢なのですか?
特に分析の人はどう考えているのでしょう?
例えば、世界が数学で成り立っている(様に見える)のは・・
「世界という書物は数学という言語で書かれている」
といったガリレオ(?)が客観主義の代表で、
一方、カントは、人間が数学というフィルターを通して認識するから
世界は数学で構成されているように見える、と言った(と思う)
こっちが超越論主義だね。
他の哲学者はこの現象に関して、どう考えているのでしょう?
知りたいのです。
知の欺瞞は止めなさい。
あなたが文系なら、すべてを諦めなさい。
105 :
考える名無しさん:03/07/15 17:35
レスサンクス。
>>101 フッサールの用語ですか。
買っただけで放置してる『危機書』(中公文庫)見たら
第14節に確かにそのような記述がありました。
「超越論的哲学の最終形式である現象学」
>>105 そうです。ズバリ14節です。
僕もまだ読みかけで、フッサールの著作はこれが初めてです。
カントのコペルニクス的転回に感心し、
それの深化版(と思われる)現象学に興味を持っています。
特に
>>103は気になります。
107 :
考える名無しさん:03/07/15 17:59
フッサールは『現象学の理念』を読んだことがあります。
論理学を心理学からアポステリオリに導出しようとするミルなどの
立場に反対するなかで、論理学をアプリオリに基礎付けるカントに
接近したようです。
超越論的とは、その起原は経験に先立つが、あくまで経験に適応
されるということですよね。経験を越えて適応することを超越的
といって、超越論的と超越的がカントの用語では区別される。
そんな感じだったと思ったけど、フッサールのいう超越論的が
カントのそれとどう違うかはわからない。
これでは読んだうちには入らないですね。また読まないと。
で?
109 :
この問いに答えよ:03/07/15 18:11
【3:379】だいたい君ら数学できんの?
1 名前:考える名無しさん 03/06/14 06:02
頭わるいヤシ多すぎないか?
110 :
考える名無しさん:03/07/15 18:15
前々から疑問だったんですけど、超越論というのは、人間は人間の認識フィルターを通してしか認識できないから、
物自体に関しては認識し得ないという考えですよね。
でもその考え自体が人間の認識なんじゃないかと思います。
つまり、人間の認識以外は認識しようがないから、超越論は不可能
なのではないかと思うのですがどうでしょうか?
そうだな、フッサール自身のもくろみとは無関係に
「世界の数学化、ないしは不明瞭な仕方でそれにならう
合理化__幾何学的秩序による哲学__に対する疑念」
なんてのを、数学が出来ない自分を慰めるために
使ってるのかもしれないな。
フッサールも数学の有用性を否定している訳じゃなくて
その有用な数学ができない自分は、その意味で役立たずなんで、
「数学できんの?」と軽蔑されてもしかたないですね。
112 :
考える名無しさん:03/07/15 18:27
>>111 ということは、やはり超越論は論理的にみて
不可能ということでよいのでしょうか?
フッサールの数学力の心配より、自分の数学の力の現状を直視すべきではないか?
114 :
考える名無しさん:03/07/15 18:32
>>113 もちろん数学は勉強するが、問題なのはこの世は全て数学で成り立っているのか否か?
ということです。どうなんでしょうか?
人の意見を聞きたいのですが。
>>112
ワロター
116 :
考える名無しさん:03/07/15 18:35
>>115 いや、何かあなたの考えを教えてください。
ずっと引っかかっているんですよそこが。
脱力感ニオソワレマスタ
118 :
考える名無しさん:03/07/15 18:36
119 :
考える名無しさん:03/07/15 18:39
超越論が成り立つのか成り立たないのか。そこが論点です。
馬鹿かも知れませんが、実はそのスレを立てようと思ってた矢先でした。
だれかこの疑問に答えを与えてください、お願いします。
121 :
考える名無しさん:03/07/15 18:49
>>120 僕も初心者ですが・・
超越論が成り立つとは、物自体が認識できると言うことですか?
超越論的(transzendental)認識:
対象そのものに関する認識ではなくて我々が一般に認識する仕方
(それがアプリオリである限りの)に関する一切の認識を超越論
的認識という。
これはカントの『純理』の緒論の7にある定義。
123 :
考える名無しさん:03/07/15 18:58
>>121 ああ、なるほど。僕が勘違いしてました。
超越論が成り立たないとは、カントやフッサールの観念論が誤っていると言うことですね。
124 :
tohtoshi@message:03/07/15 19:45
人は「間違いだらけの人生で、後悔ばっかりした生活だった」とよくぼやきます。
多くの人々は世間体とか、自分の欲望や嫉妬などにより生き方を誤るものです。
まあ、時には道を踏み外しても気が付いて反省し、元の道へ戻ればよいでしょう。
失敗から何かを学び、それを教訓にして先に進めば道は開けるものです。
自力で己の人生を切り開いて行こうと努力することが大切です。
根本的には常に真理を念頭や心の底に置いて考えて行動するという志を持つと共に自分の
心のレーダーを磨かなければ、あなたの大切なバラ色の人生である未来の道は開けないものです。
この件に関する出典の説明がHP↓にあります。ご参考に。
ttp://www.d7.dion.ne.jp/~tohmatsu/
125 :
質問君(=97):03/07/15 23:53
>>119 同意です。
科学は基本的にそれ自体で存在する客観的世界を前提にしていると思いますが、
フッサールが活躍した時代は、その客観的世界の出来事としては到底理解できない
現象が次々と見つかったそうですね。
世界という書物の言語と思われていた数学も、絶対的な体系を想定することを
許されないことがわかりました。
そう考えれば、(人間とは無関係に)唯一真である客観的世界を想定することは
間違っているように思えます。
しかしそれでいて、数学で成り立つ世界それ自体が存在しているようにも思えてしかたありません。
現在、現象学は主流ではないと聞きますが、哲学界にも客観主義が復活したのでしょうか?
哲学の自然化 the naturalization of Philosophy
って言葉があるみたい。経験科学と手を取り合う哲学て感じかな?
認識をあくまで自然の一過程として捉える。
127 :
質問君(=97):03/07/17 22:11
>>97 自己レスだけど・・。
『危機書』に、ちゃんと超越論的哲学の流れが書いてあった。
デカルトの、すべてを疑った末に残った「思う我」を絶対の基盤にした
ことが超越論主義の始まりでしたな。
(それでもデカルトは客観主義に向かったが・・)
しかし、フッサールは「退屈でつまらない」と聞いてたから、
敬遠してたけど、『危機書』はおもしろいですな。
まだ途中だけど。
128 :
質問君(=97):03/07/17 22:20
>>126 >哲学の自然化 the naturalization of Philosophy
ですか。
気になりますね。科学哲学とは違うようですね。
129 :
質問君(=97) :03/07/19 01:19
ふむふむ。
実証諸科学は、我々が実際に経験している日常の世界を素材に、
唯一真である(と思われる)抽象的な客観的世界を構築する。
しかし、その客観的世界を基礎づける基盤である日常世界は未だ解明されていない。
基盤が解明されていないのに、その上に建造された建造物(実証諸科学)
が頑健なものといえるのだろうか?
学問の危機とは、それが立つ足場の不安定さへの問いであり、
この書の目的は、あらかじめ与えられているその日常世界の
普遍的な与えられ方を問うわけである。
というわけで、この辺りまで読んだ。。。
久しぶりに上げるか・・
『危機』書、読了まであと10ページほど。
前半の超越論的哲学の歴史・意義、科学的客観主義の世界観への反駁等は
何とか理解できた。大変刺激的でおもしろかった。
後半の現象学的還元に関してはほとんどわからない。
(フッサールを読むのはこれが初めてだからしょうがないけど・・)
いつもながらの感想だけど、哲学者というのはホントとんでもないことを考えますな。
私の中の常識的世界観がグラグラ揺れっぱなしです。
ホント哲学はおもしろいですな。
131 :
質問君(=97):03/08/04 00:34
ところで、フッサールを読んでるおかげか、ようやく「超越」「超越論的」がわかりました。
それで想い出したのですが、大森荘蔵は
「超越論的とは何かわからない」
と言っていたそうですね。
これは、大森が実在論者であることを述べているわけでもないし、もちろん、「超越論的」の
語義が理解できないという意味でもないでしょう。
この言葉で大森は何が言いたいのですか?
大森の世界観と超越論的観念論の関係はどのようなものなのでしょう?
132 :
質問君(=97):03/08/04 00:34
また、彼は
「なぜ私が死んだら、私の葬式を見れないのか?」
とも言っていたそうです。
大変意味深で、大森世界観を理解するのに重要なキーワードだと思います。
大森の著作はけっこう読んだのですが、未だ彼が世界をどのように見ていたのか
「感覚的に」理解できません。
わかりやすく説明できる方、教えてください。
133 :
質問君(=97):03/08/04 00:35
余談ですが、
『危機』書の世界観と、『知の構築とその呪縛』のそれの「視点」は大変似ていると思います。
大森って、現象学的方法(同語反復ですが)で、自分の理論を組み立ててますよね?
ここも駄目だな、昔からの繰り返し。
135 :
考える名無しさん:03/08/04 00:38
現象学なんて、所詮コンピュータである脳の働きの構造解明にすぎない。
要するに脳生理学の文学板だよ、全く意味ねーつーとる
/⌒ヽ
/ ´_ゝ`) すいません、通りますよ・・・
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U .U
138 :
質問君(=97):03/08/05 06:06
>>135 >現象学なんて、所詮コンピュータである脳の働きの構造解明にすぎない。
これは違うんじゃないかなぁ?
前述した通り俺は、フッサールは『危機』書しか読んでないし、脳生理学にも
うとい初心者。それを理解してもらった上で以下叙述。
まず、どこが違うかと言えば、目的が違う。
・脳生理学 ー 脳の働きと心の働きとの関連を探る。
・現象学 ー 客観を確信させる根拠を探る。
そもそも現象学は、脳生理学が前提としている、「主観と客観は一致する」
認識観に対する疑念から出発している。それは、脳生理学が客観世界を
その活動の場としていることに対して、現象学は主観を考察の場としていること
にも現れている。脳生理学が前提としている地平を考察するのが現象学。
現象学は脳生理学よりも、より根源的な地平に立っている。
139 :
質問君(=97):03/08/05 06:07
例えば、目の前に鉛筆がある。
それが、「(幻でなく)事実存在している」ことを確信して、それ以上疑うことに
意味のない不可疑牲の根底を探るのが現象学。そのような根拠は、脳を
いくら観察しても出てこない。
現象学を見事に応用した実例だと言われる『存在と時間』も、(その内容が
正しいかどうかは別として)脳生理学からは帰結されない地平で考察されている。
脳生理学の研究内容を再考察(哲学)してこの地平に立つことはできても、
脳生理学という学問自体からはこの地平は生まれない。
脳生理学(に限らずすべての学問)は、現象学という学の地盤の上に立てられたものだと思う。
現象学批判大歓迎。誤りがあれば、突っ込んでください。
そろそろハイデガー以後の応用例をつくってもらいたいのですが。
141 :
質問君(=97):03/08/05 06:41
俺はハイデガーの著作のいくつかしか読んだことないから知らないけど、たくさんあるんじゃないの? >140
142 :
考える名無しさん:03/08/05 08:13
>>139 事実存在している、じゃなくて疑いようもなく現象している、
じゃないの?
超越論的領野においては事実的存在も判断中止されてるわけだから
あと、現象学は「主観と客観は一致する」
認識観に対する疑念から出発している、というあなたの定義だけど、
こういう認識論的な態度からだけでは、現象学とカント哲学の違いを説明できないことない?
前述した事実的存在も、「主観」としての「わたし」も、超越論的領野における
構成の所産と考えるのが徹底したフッサール哲学の立場じゃないかな?
「主観」というのも曖昧な言葉だけれど、例えばカント哲学における「先験的統合」と
いった多様なものの統一、「わたし」の根源的機能さえ、現象学では
還元にかけられるわけです。
「」をやたらと多く使いたがる人っているよね。
科学とか哲学のスレで特に多く見うけられる。
言語表現に不自由で「」に頼りたくなる彼らの気持ちはわかるけど
スレを汚してるってことに気づいてほしい。
電波は受信しても放出しないでね。
>>144 たしかにね、カッコに入れてその言葉の定義を曖昧にして、
説明を回避しようとする怠慢さはあるかもね。
でも、143とかは前述のレスを指示する、という役割と
わたし、とか主観、とかいう言葉が、現象学においてとりあえず
借定された、宙づりの言葉に過ぎない、という意味もあるわけよ。
それこそ判断中止じゃないけども、私や主観といった言葉を文字通り
カッコに括って、超越論的に遡行して考えようということで。
哲学板でカッコが多いのは、必ずしも言語表現の不自由を意味するものではないよ。
メタ言語の次元とか、超越論的領域での臨界思考においては、
言語を安易に用いることができない、つまり言語に対して懐疑的なスタンスを
取らざるをえん、ってことじゃないの。
146 :
考える名無しさん:03/08/05 22:43
借定って何?
そてい
148 :
考える名無しさん:03/08/05 22:49
措だよ
149 :
考える名無しさん:03/08/05 23:02
漢字間違いスマソ
「」を付ける理由がちゃんとあるのであれば気にせず付ければ良いのでは?
142は無理して「」を外見上はずしただけのように見えるのだが・・・
態度はすごくうれしいんだけど
これなら「」が有った方が良かったよ。
無理してはずすとどこが「」付きで読み取らなきゃいけない
単語なのかさえもわからなくなってしまう。
だよね。
特に掲示板の議論だと、カッコが果たす役割って大きいと思うのよねー
ま、たしかに現象学においては特殊な言葉使いが多いだけに、
外すにしろ囲ってみるにしろ、よーく考えてみます
ただはずしたりつけたりすればいいわけでもないだろ。
他の文章からの引用ならつけて引用で無いなら付けないのであって
「囲ってみる」とかはありえない。
「」を付けるのは試しに付けるのではなく引用かどうか
153 :
考える名無しさん:03/08/06 01:51
>>152 現象学の解説書読んでみな。
「」だらけだから。
「「」でくくる」とか。
155 :
質問君(=97):03/08/07 01:14
>>142 >事実存在している、じゃなくて疑いようもなく現象している、じゃないの?
そうだった。指摘ありがとう。
>あと、現象学は「主観と客観は一致する」・・・
>・・・現象学とカント哲学の違いを説明できないことない?
出発点に関しては、二元論の克服で同じでないの?
出発点(問い)は同じでも、過程と結果は変わってくる。
客観の世界、法則を(無意識のうちに)前提として、そこから帰納的に
主観の構造を説明したのがカントの超越論。
フッサールは、客観を想定せず、あくまで主観の内での内省にこだわった
、、、って感じ?
156 :
質問君(=97):03/08/07 01:22
>「主観」というのも曖昧な言葉だけれど、例えばカント哲学における「先験的統合」と
>いった多様なものの統一、「わたし」の根源的機能さえ、現象学では
>還元にかけられるわけです。
この辺りがよくわからないんだけど、カントの「先験的統覚」と、フッサールの
「志向的意味統一」って同じような働きと見ていい?
そうだったら、志向的意味統一は根源的機能だから、それを還元にかけるの
ではなく、還元した結果その働きが判明した、だと思うけど?
157 :
質問君(=97):03/08/07 01:32
我々が解明すべきは、実証科学が追求する客観世界でなく、相対的、主観的な
生活世界の普遍的構造だと『危機』書では述べられている。
ハイデガーの道具連関もその一例だと思うが、大森荘蔵の「立ち現れ」も
そうなのだろうか?
「遠くから見たら四角い塔だと思って、近づいたら実は丸い塔だった。
これは見誤りでなく、この塔は、遠くから見れば四角く、近くで見れば
丸い性質の塔なのである」 (『知の構築とその呪縛』)
これも、生活世界の還元により出てきた発想なのだろうか?
158 :
考える名無しさん:03/08/07 01:44
「遠くから見たら四角い塔だと思って、近づいたら実は丸い塔だった。
これは見誤りでなく、この塔は、、近くで見れば
丸い性質の塔なのである」
これは完全に不十分。
「遠くから見れば四角」と「近くで見れば丸い」を連関させるのが人間の
基本的な力だよ。
それを無視して同一性の形而上学を批判してもだめ。
問題は同一性の構想力よ。
159 :
考える名無しさん:03/08/07 01:56
やれやれ…
「遠くから見れば四角」と「近くで見れば丸い」を連関させるのが人間の
基本的な力、これが実在というもの。
実在とはそういう「力」なんだよ。
認識論というインチキと存在論というインチキは同時に批判する方法論が
あるわけよ。
160 :
質問君(=97):03/08/07 01:56
>>158 >「遠くから見れば四角」と「近くで見れば丸い」を連関させるのが人間の
>基本的な力だよ。
ここでいう「基礎的な力」とは、
「近くから見たら丸く見えるなら、遠くから四角に見えたのは見間違いに違いない」
と推測する能力のこと?
>それを無視して同一性の形而上学を批判してもだめ。
>問題は同一性の構想力よ。
批判というか、俺は普通人だから大森説は間違っていると思う。
ただ、なぜ大森は、そういう発想が出てくるのかが知りたい。
自然にそういう考えを持ったのか、それともある思考方法(例えば現象学)
で徹底的に沈思するとそうならざるを得ないのか。
161 :
質問君(=97):03/08/07 01:58
>>159 >認識論というインチキと存在論というインチキは同時に批判する方法論が
>あるわけよ。
何?
「近くから見たら丸く見えるなら、遠くから四角に見えたのは見間違いに違いない」
そんなこと言ってないけど
163 :
158、159:03/08/07 02:04
164 :
158、159:03/08/07 02:12
訂正
>認識論というインチキと存在論というインチキ「を」同時に批判する方法論が
>あるわけよ。
165 :
158、159:03/08/07 02:17
カントは認識論のインチキを図らずも暴いていたわけだし。
>>156 >この辺りがよくわからないんだけど、カントの「先験的統覚」と、フッサールの
>「志向的意味統一」って同じような働きと見ていい?
>そうだったら、志向的意味統一は根源的機能だから、それを還元にかけるの
>ではなく、還元した結果その働きが判明した、だと思うけど?
先験的、というのは難しい言葉ですよね。これは先天的なものに横たわって
認識そのものにかかわるタームなんですが、分かりにくいので超越論的に直しましょう。
で、超越論的統覚というのは、直観に与えられた多様なものをとり纏める、
「わたしは考える」という働きです。注意すべきは、この働きは人称性のある
主観的機能ではなく、あくまで意識の形式的機能である、ということ。
フッサールにおいては、このような事態は
「超越論的領野において現象する多様が、いかに統一されるか」
「そも、現象世界の同一性を保証するものはなにか」
といった問いにつながります。
超越論的な場の同一性をめぐる問題は、とてもややこしいとこですね。
それ以上の遡行が考えられない場がそれなのだから、上記の問いは
超越論的領野の自己構成、といった方法を問うことになります。
その問いが可能であるかは置いておくにせよ、
超越論的統覚を意識の形式として前提したカントに対して、
フッサールはそれを超越論的場の構成において徹底しようとした、
そういう両者の差異は指摘できますよね。
>>155 >客観の世界、法則を(無意識のうちに)前提として、そこから帰納的に
>主観の構造を説明したのがカントの超越論。
何せ2行で要約するのが土台無理な話だし、これを議論すると
スレの主旨から外れるので、保留で。
>フッサールは、客観を想定せず、あくまで主観の内での内省にこだわった
客観、主観といった言葉が何を示しているのか曖昧なんですが、
客観をとっても、後期フッサールの「世界」概念を考えてもわかる
ように、二項対立の図式を越えた難しいもんです。
とりあえず、閉じられた主観の機能を打開しようとした、初期フッサール
の志向性の概念について調べてみてはいかがでしょうか。
フレーゲや新カント派の議論に目を通しておけば、志向性概念の
特異性が理解しやすいと思います。
168 :
考える名無しさん:03/08/07 16:16
あらゆる価値/価値観の絶対的相対性を証明したのがフッサール。
169 :
質問君(=97) :03/08/09 07:05
>>157 自己レスだけど、大森「立ち現れ」は現象学の方法によって構成されているようだね。
客観世界を前提とすることなく、自らの心に現れる現象だけを丹念に書き綴っていくと
「遠くにみえる塔は四角く、近くからみるそれは丸く」なる。
通常我々は、「遠くから見ると、その距離に反比例して物は小さく見える」という法則性
を加味した上でその塔の実際の大きさ(形)を判断する。そして、その法則は、客観的に
真である、という確信を持っている。
大森は、その法則を科学的思考による「理念の衣」と見、それをまとう以前の自然な
世界を想定する。
ここで次のように問える。
「なぜ我々は、近くから見た塔の形の方が正しいと考えるのだろうか?
同じ視覚現象にも関わらず、一方だけが真であると確信する根拠は何なのか?」
170 :
質問君(=97):03/08/09 07:06
物理的な思考空間において、この法則は必然であり、真であろう。物理的客観世界
では何ら問題は起こらない。
これには大森も反論しない。
大森の(そしてフッサールの?)問いかけは、それはあくまで物理的虚構空間──
それは、我々が世界を見るときの一つの見方にすぎない──においてであって、実際の
我々が住むこの活き活きとした世界でもそれは真であると言っていいのか?ということ。
フッサールは、物理的客観世界から、今ここで我々が接している生活世界の普遍的構造
の解明を促した。そして、現象学的還元によって得られたこの相対的・主観的世界と、
科学的世界観を止揚する理論の構築を提唱する。
大森「重ね描き」は、この二つの世界を繋ぐ理論を提出する。
171 :
質問君(=97):03/08/09 07:07
大森もフッサールも、科学の利便性、成果を否定していない。
ただ、我々が実際に接する日常世界を理念化した学的世界は虚構(一つの見方)であるはず
なのに、それが唯一真の世界であり、それ故にこの学的世界が日常世界、更には、そこに住む
我々自身の「心(的現象)」をも規定するのは倒錯だと主張する。(その一つの例が、心を
物質に帰属させる唯物論的思考だろう)。そのような誤りを是正するため、我々が実際に感じ、
働きかけをする世界の意味の解読を試みる。
172 :
質問君(=97):03/08/09 07:08
あと、、、
現象学を知らないと、大森やハイデガーの世界観は理解しにくい、、、とわかった。
173 :
考える名無しさん:03/08/09 15:12
受動的総合や前述定的領域、といったフッサール後期の現象学を質問君は読めばいいよ。
超読みにくいけどね
174 :
質問君(=97) :03/08/11 21:43
>>167 >とりあえず、閉じられた主観の機能を打開しようとした、初期フッサール
>の志向性の概念について調べてみてはいかがでしょうか。
>フレーゲや新カント派の議論に目を通しておけば、志向性概念の
>特異性が理解しやすいと思います。
初期フッサールについて少し調べてみた。
【フッサールの問い】
「経験的・個別的である各自の心の中で、いかにして理念的・普遍的であるはずの数(学)が成立するか?」
175 :
質問君(=97):03/08/11 21:45
【その遍歴】
心理学主義(『算術の哲学』) :数学、論理学を心の働きに還元し、心理学により解明しようとする。
↓フレーゲの批判 :論理的なものは心的なものから独立している(論理学主義)
論理学主義(『論理学研究T』:心理学主義批判、『論理学研究U』:記述的心理学)
:フレーゲの影響で自らの心理学主義を批判しながらも、理念的なもの(論理学)と
心的なものとの関係が不明であることに疑問を持つ。
↓ナトルプの影響 :心理学主義でもなく論理学主義でもない、あらゆる経験の根源としての純粋自我の
構造の解明。
現象学(『イデーンT』) :ナトルプには欠けていた(純粋自我の構造を探る)方法論的考察が現象学
176 :
質問君(=97):03/08/11 21:50
フッサールって、自らの思想を生涯いくども転回させてきたと言われてるけど、、「理念的なもの(=客観)」と
「経験的なもの(=主観)」との関係の究明は、最初から変わってないんですね。
>>173 >受動的総合や前述定的領域、といったフッサール後期の現象学を質問君は読めばいいよ。
発生的現象学ってやつですか?
『イデーン』すら読んでないのでとてもそこまで頭が回らないけど、なんで俺に勧めようと思ったわけ?
俺の問題意識と関係ありそう?
177 :
考える名無しさん:03/08/11 23:09
低レベルの質問で悪いんですが、現象学の入門書でいいのはありますか?
一般向けに書かれていて、哲学初心者でも分かるやつ。
ちなみに「これが現象学だ」は途中で挫折しました。わけわかんなかったです。
竹田さんの「現象学入門」が割合簡単そうなんですが、評判わるいんですか?
179 :
考える名無しさん:03/08/11 23:11
あぁ、時鐘の時だ・・・
自称夜中だ・・・
180 :
考える名無しさん:03/08/11 23:12
177さんは竹田スレを荒らした人ですね?
>180さん
全くの人違いですよ。竹田さんのスレに書き込みをしたことはありませんし
、哲学スレに書き込むのも今回が初めてです。本当に現象学の入門書が知り
たかっただけで、他意はありませんが。。
182 :
質問君(=97):03/08/11 23:53
>>177 『これが現象学だ』は、流し読み程度しか見ていませんので、
よくわかりませんが、竹田氏の『現象学入門』にはお世話になりました。
現象学の意義や基本的な概念は、この本で初めて理解できました。
ただ、より効率的に学びたいなら、できる限り多くの入門書を買って、
(少なくとも5〜6冊は)手元に置いて鉛筆片手に乱読すべきだと思います。
それである程度掴めてきたら、『現象学事典』を引く。これです。
英文を和訳するように、これで調べまくりましょう。