1 :
考える名無しさん:
「科学が進歩すれば、哲学は要らなくなる」。
こういう意見をしばしば聞くが、それは本当だろうか?
「万学の祖」アリストテレスは他の学問から区別して
「(第一)哲学」をどう定義したか?
そこから考え直す必要があるのではないだろうか。
2 :
考える名無しさん:03/01/15 15:26
「哲学者の学は、存在者をそれが存在者であるかぎりで、
部分的にではなく、全体として扱うものである。」(『形而上学』1060b31)
3 :
考える名無しさん:03/01/15 15:29
「存在者であるかぎりの存在者を研究し、またこれに本質的に属する
事柄をも研究する一つの学問がある。この学問は、いわゆる特殊な
学問のいずれとも同じではない。というのも、他の諸学問はいずれも、
存在者であるかぎりの存在者を全体として考察したりはせずに、
ただその或る部分を抽出し、これについて、それに付帯する属性を
研究するだけだからである。」(『形而上学』1003a20)
4 :
考える名無しさん:03/01/15 15:35
個別科学はどこまで行っても個別科学。
ありとしあらゆるもの(存在者)の一部分のみを切り出してきて扱うか、
あるいは全体を扱うにしても、或る一つの観点からのみ扱うに過ぎない。
5 :
考える名無しさん:03/01/15 15:39
アリストテレスも良く知らないが、彼の好きなところは彼の自然・宇宙観だ。
簡単にしか言えないが目的論的、能産的自然観を持っている。これは機械論的、
所産的なるものとは背反する。彼のこの自然観の後継者はビザンティンであり、
イスラームのスーフィー達だろう。ヨーロッパはプラトンを経由後、
アリストテレスらしい。
6 :
考える名無しさん:03/01/15 17:22
7 :
考える名無しさん:03/01/15 22:45
新カント派みたいに自然科学の基礎づけ、認識論へと走るのは邪道だよな
8 :
考える名無しさん:03/01/15 23:54
哲学は自己満足。
9 :
考える名無しさん:03/01/18 00:36
よくいわれることだが、哲学は全体知
10 :
考える名無しさん:03/01/18 00:53
哲学
=価値合理性
=存在それ自体の意味意義を考える
その他の科学
=目的合理性
=ある目的に対する効率的な効用を考える
結論
哲学=哲学以下の存在自体を考えるもの→その哲学を組み立てる理論→
理論を具体的に存在させるための諸科学→
実際に我々が住む世界に存在する様々な制度、構造
具体例
「ユダヤ人を皆殺しにする」
諸科学→ユダヤ人を効率的に殺すことについてあれこれ考える
哲学→ユダヤ人を殺すということが人間にとってどういう意味を持つのか?
そこでいう合理的とはどういうことなのか?
かつどんな社会的意味があるのか?を考える
以上
11 :
考える名無しさん:03/01/18 00:56
>>10 要するに哲学は(Warum-Frage)であり、諸科学は(WieーFrage)であると
12 :
考える名無しさん:03/01/18 00:57
ちょっとながかった…
13 :
考える名無しさん:03/01/18 00:57
つまり哲学は「何故」を問い、科学は「どのように」を問うと
Was
15 :
考える名無しさん:03/01/18 00:59
まあそんな感じだな
16 :
考える名無しさん:03/01/18 01:01
でも他の諸科学も「なぜ」を問うんだけど、
その「なぜ」の種類が決定的に違うんだよね。
その違いを感じられる人が、哲学者になれるんだと思われ。
17 :
考える名無しさん:03/01/18 01:02
そうなると、物理学の宇宙論がどこまで行っても「宇宙が何故存在するのか」
という問いに答えられないのは、この問いがもともとの個別科学としての限界を
踏み越える問いだからということになるな。
18 :
考える名無しさん:03/01/18 01:07
17さん
ちょっと違う、と思う。
「なぜ宇宙が存在するのか?」という問いに答えるためには、
宇宙を成り立たせているものすべてについて、もすこし譲歩して
ほとんどすべての情報が手に入れば、
その問いに答えることができるはず。
でも現実には、人間の能力でわかる宇宙の情報量は
あまりにも断片的かつ少ないので、
まだその問いに対する答えは出せないのです、と思います…
19 :
考える名無しさん:03/01/18 01:09
でも、ビッグバン仮説では宇宙が「何故」はじまったのか
説明できないよね
20 :
考える名無しさん:03/01/18 01:19
ちなみにさっきから目につくのでひとつ哲学的に考えてみましょか…
命題「彼女にするなら処女、非処女?」
分析1 処女性は男にとって大事なものなのか?
処女性=女の人がせくすする=商品としての価値の問題
よって、
処女性が問題になるのは女性が社会において
交換物として機能しているため
なぜ、女性が交換物として機能するのか?
数学と論理学は科学ではありませんよ。
22 :
考える名無しさん:03/01/18 01:20
理論仮説のための条件
国家的視点
国家が、国民を戸籍的に管理したいので
出生した子どもが誰の子どもか明確にわかるように
女性の処女性を賞賛するような認識枠組みを社会に
植え付ける
23 :
考える名無しさん:03/01/18 01:23
24 :
考える名無しさん:03/01/18 01:24
21さん
哲学は諸学の王といっても構わないと思います。
というのは、数学自体は、知的分析道具であって
その数学という道具をどういう命題=問いに対して
使うのかが問題になるからです。
25 :
考える名無しさん:03/01/18 01:25
23さん
違います。スレのレスポンスの合間に片手まで掻いてます。
26 :
考える名無しさん:03/01/18 01:27
哲学は科学の遠い祖先。
例えば、科学が哺乳類だとすると、哲学は両生類。
哺乳類が誕生したから両生類が滅びるわけではないが、
生きた化石ではあるかも。
>>26 ∩
| |
∧_∧ | | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´Д`)// < 先生!比喩を持ち出す意味がわかりません!
/ / \
/ /| /  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
__| | .| |
\  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
||\ \
||\|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ̄
|| || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
.|| ||
28 :
考える名無しさん:03/01/18 01:30
よって気長にみてね
男的視点
人間のもつ野獣的性質
人間=理性的かつ動物的性質を有する
この動物的性質=自分の子孫を数多く残す=
メスを多く征服する
と同時に、自分の子どもかどうか確実に知りたい=排他性
よってこの征服欲かつ排他性=独占性の矛盾の度合いが
処女と非処女の好みの度合いとなって現れる、
30 :
考える名無しさん:03/01/18 01:33
哲学は役に立たないが、実証科学は役に立つ。
でも、実証科学も基礎研究は役に立つか立たないかの
基準でやるもんじゃないけどね。
31 :
考える名無しさん:03/01/18 01:35
そして、この男の欲望と国家政策が見事に組み合ったので
社会的な処女好みが存在すると同時に、
すぐヤらせてくれる女の必要性=風俗=国家管理
そしてすぐやらせる女は社会的に汚らわしい
とされるのであります、
という理論仮説の完成!!
それでは皆さん生産的かつ鋭い批判よろしく
32 :
考える名無しさん:03/01/18 01:35
そういえば、アリストテレスは哲学を「観想」とし、
唯一の自己目的的行為と位置づけたな。
ついでに「スコレー(余暇の娯楽)」とも。
33 :
考える名無しさん:03/01/18 01:37
34 :
考える名無しさん:03/01/18 01:37
勉強不足です。
科学が対象化できるのは所謂所産的物理的世界のみ。哲学は形而上の世界も
含むものでしょう?とても能産的世界なのです。
なんか言葉をかけてくれ。
>>24 人間の知には、論理実証的なものと、感覚感情的なものがあります。
哲学とは、知についての学でありますが、
この二つの区別が未だにいい加減なために、最も歴史がありながら、
未熟な学問のままであると思います。
即ち、前者は論理学・数学(シンタックス・セマンティクス)であり、
後者や倫理学です。
この区別は、常に意識し混同することがないようにする必要がありましょう。
実証科学じゃ無い科学ってなに?
空想科学じゃないよね。
理論物理とか? 違うよな?
37 :
考える名無しさん:03/01/18 01:38
28さん
中学生のような文章を書くというか、中学生でも理解できるような言葉で
物事を考えていけるかが、重要だと思います。
日本の三流の哲学者(と私は思ってる)に共通する欠点は
難しい言葉を使っても、ものの考え方自体はあまりにも低次元
な人が多すぎると思うので、
そんな人たちに対する、僕なりの反撃なのです。
なので、幼稚さは許してくだされ。
38 :
考える名無しさん:03/01/18 01:40
>>34 その場合の「科学」ってずいぶん狭い概念になってないか?
39 :
考える名無しさん:03/01/18 01:43
33さん
前のほうの文書を見てください
34さん
数学も数学の理論だけを用いて
物事を考えていけるという意味においては形而上的ではあるかと、
でも私は数学者ではないので核心をもてません。スマソ…。
40 :
考える名無しさん:03/01/18 01:44
>>37 哲学用語を用いず書いてる奴だって居るぜ。
漏れは読まんがな。
つーか、おまえの日本語能力に語彙が不足してるだけじゃねーの?
試しにおまえが言う難しい言葉を少し使って書いてみろよ。
41 :
考える名無しさん:03/01/18 01:44
哲学は実証的な方法、つまり実験によって仮説の正しさを検証するという
方法をとらない知の形態というわけだ。
それは一つの強みでもあるが、何ら実証的な成果は上がらないため、
他の実証科学から叩かれる原因にもなるw
42 :
考える名無しさん:03/01/18 01:47
36さん
恐らく科学にも2たつ見方があると思います。
ひとつは、現実の問題から派生する科学の見方。
ふたつめは、現実から派生した科学の理論的仮説同士を
いろいろ組み合わせたりして作っていく抽象的な科学。
…気持ちは伝わったと思う…
43 :
考える名無しさん:03/01/18 01:49
>>41 > 他の実証科学から叩かれる
哲学は科学の一つなのか?
44 :
考える名無しさん:03/01/18 01:50
日本のレベルは低いですよね。
東大も世界の中では中間レベルだった聞きましたが。
もう時間がなくなってきました。結局また不摂生ですね。
健康にはお互い気をつけましょう。
それでは帰りますか?
返事くれ。
45 :
考える名無しさん:03/01/18 01:52
40さん
哲学用語を使わないで、考えかただけで勝負している人に関しては
むしろ一目置いてます。
それと確かに、語彙不足といわれれば、その通りなのでまだまだ勉強
しなければなりません。あと、私は政治哲学が専門なので
哲学そのものの用語字体は良くわかりません。スマソ
46 :
考える名無しさん:03/01/18 01:56
44さん
日本のレベルが低いというよりも、馬鹿な自称哲学者がいっぱい
テレビとか新聞とかに登場してしまって、本当にせこせこ勉強している
哲学者が表に見えてこないことが問題かと…
47 :
考える名無しさん:03/01/18 01:58
>>43 哲学は「科学」とは言わないよな。
「科学」という日本語はもともと翻訳語であり、適切でない場合もある。
48 :
考える名無しさん:03/01/18 01:58
趣旨外れたがそれなりに哲学的な
レスだった...。それではさよなら
49 :
没個性化されたレス↓:03/01/18 02:06
>>47 「科学」は元来「『科挙』における区分(つまり『科目』)の学問」の意味。
それを転用しただけなので、翻訳語のようなそうでないような。
適切かどうかは、もともとのイメージから離れすぎているので、
もはやどうでもよいと思われます。
50 :
考える名無しさん:03/01/18 02:09
おっと最後に、1さんに…
アリストテレスは「哲学」が諸学の王でなく、
政治学が諸学の王といったので、
1さん流解釈でいくと
哲学=政治学です...。
まあその辺の理由はまた次の機会に…
おやすみなさい。
51 :
考える名無しさん:03/01/18 02:11
アリストテレスはそんなこと言ってたっけ?
52 :
考える名無しさん:03/01/18 02:12
(^^)
アリストテレス『ニコマス倫理学』岩波文庫 参照
…第一巻
序説
第一章 あらゆる人間活動は何かしらの「善」を追求している。
だからもろもろの「善」の間には従属関係が存する
第二章 「人間的善」「最高善」を目的とする活動は政治的なそれである
われわれの研究も政治学的なそれである
…ということで、アリストテレスは政治哲学というものを論じているのです。
内容については以下参照。
52さん
アリストテレスの哲学を超大まかに説明すると...
プラトン哲学の「人は「善く生きる」ために生まれてきた」はずで
「善く生きることとは何か?」という師匠がのこした問題を
解決しようと努力します。
56 :
考える名無しさん:03/01/18 14:39
いや、だから、 政治学が諸学の王ってのは何よって(ry
…そして「政治学」という書物において、
「人間にとっての最高善とは、幸福に生きることであり、
そのための学や術が「政治」である」と主張します。
そこで、政治学を「諸学の王」と位置付けたのです。
58 :
考える名無しさん:03/01/18 14:42
まあ、人間はポリス的(=政治的)動物だからね
…でもってプラトン師匠とともに、理想の政体を考えます。
支配する人間 正しい国政 崩れた国政
一人 王政 僭主制
少数 貴族制 寡頭政
多数 ポリティア 民主政=愚衆政
56さん
すみません、書き込み速度が遅くて文章が切れてしまいました
58さん
そのとーりです。
「なぜ人間がポリス的=政治的動物なのか?」
という問いへの答えは、
「人間が「意図」とは別に、「結果」において他の人間を
物理的、心理的に支配する特徴にアリストテレスが注目しているからです。
…人が二人以上いて、「今日はこんなことがありました」という
話ししかしなかったら変でしょ?
話し合いのなかで、「こうしたほうがいいよ」とか
「それってこうだよね」という言葉を発した瞬間から
政治術は始まっている、というのがアリストテレスの考えなのです。
63 :
考える名無しさん:03/01/18 18:15
...
64 :
考えるお馬鹿さん :03/01/18 21:12
議論のレベルが高くてついていけ内野。
65 :
考える名無しさん:03/01/18 23:27
>>50 それ以前にアリストテレスは観想と実践を分離している。
観想と実践を分離しないプラトンだったら、政治哲学が第1の学になるんだろうけど、
アリストテレス自身、第1哲学は形而上学と規定しているし。
最高善うんぬんの話も、形而上学がそれに先行していたはず。
どういった観点から見るかにもよるのかもしれないが、
少なくとも学問としては、アリストテレスでは形而上学が「諸学の王」と考えてよいのでは。
66 :
考える名無しさん:03/01/19 00:06
初カキコです
現在の科学は真理追究としての面では不完全なものです。
何故ならば、現時点での科学には完全な再現性がありえないからです。
それはほぼ全ての学問に言える事なので、
その面では哲学が皆さんの述べている「諸学の王」である、
と言えるのではないでしょうか?
そもそも、哲学は科学ではありません。
実証学ではないからです。科学とは実証学のことです。
ちなみに、数学も論理学も科学ではありません。実証学ではないからです。
哲学とは人間の「知」についての考察です。
人間の知には、論理や実証についての知、感覚・感情・価値・信仰について知の二種類があります。
論理実証についての哲学は論理学や数学です。
感覚価値についての哲学は倫理学や政治学などです。
>>せ
え〜と、実証学というのは経験的に物事を追求していく学問の事ですよね?
それでは哲学の認識論の中に内包されるものとして、
科学を据えるのは間違っていますか?
現象学などの基盤となる学問としても、
哲学は位置づけられていると思うのですが・・・
>>67 哲学は、人間と人間以外のものを分けずに認識しようとする学問です。
その意味で言えば、自然事象を取り扱うだけでは哲学とは言えません。
そこに人間の存在を認めることではじめて哲学になるのです。
philosophyの語源は「知を愛すること」です。
となると、単純存在としての世界は哲学の対象にはなりえませんが、
人間がその本性上、理性と本能の合いの子であると考えると、
数学(理性を用いる)、論理学(理性を用いる)、心理学(感情などの
本能的存在を用いる)は、全て哲学の範疇に入ると、思われます。
ですが、どれも、純粋な哲学とは言えません。
哲学のきれっぱしであるとは言えますが。
両者を統合的有機的に取り扱う学問の存在こそが、真の哲学であると
言えるでしょう。
>>68 むー、確かに、ギリシャの哲学者列の哲学への動機ををみると、
自然学(実証学を含む)も哲学に入るといえますね。
私の「哲学」の定義は修正します。
71 :
考える名無しさん:03/01/19 13:52
>>66 >>70 「科学は哲学ではない」に賛同だったのに。
真理追究は科学の目的ではないはず。
科学の結果として得られるのはあくまである程度の確信、とファインマン氏も言っておりますた。
科学には「完全な再現性」がありえなくても「十分な再現性」があればよい。
古代ギリシアの自然哲学と17世紀以後の科学とは別に考えなければならない。
第1に、後者が、一方でスコラ哲学に由来するのは間違いないが、
ガリレイのような実証的方法、技術との親和性、知識としての汎用性がある。
実証的方法、技術との親和性は、哲学には欠ける。
実証的方法がある種の哲学に基づくとしても、それは哲学が実証的方法を検討することができるという意味であり、
科学とは異なり、哲学が実証的方法に基づくことではない。
第2に、17世紀以後の科学は無反省的に機械論的自然観を想定する。
機械論がそれまでのさまざまな思想を前提するといっても、
17世紀以後では、まず哲学からの思想の大規模な導入はない。
インスピレーションなんかはあったかもしれないが。
カントにはニュートンを哲学的に基礎づけようという意図もあったらしいが、
科学には、基礎づけという意味では別にそのようなものも必要ではなかった。
ヘーゲルに到っては、ニュートンを自然哲学として評価しようとしない。
第3に、第1の点とかぶるが、科学の結果としての理論は、
実証的方法で、客観性を獲得できるものの、それを得るための条件に依存せざるをえない(最たるものがパラダイム)。
科学の理論と哲学の思想と違うのは、あくまで確信の程度でしか表せないことを代償にして、器用に知識を着実に展開できることである。
「行動」や「確率」について哲学的な定義を与えず、その場で厳密に一義的に扱われていているなら、それでよい。
科学全体としては「行動」や「確率」といったものは曖昧になる。
「行動」に関してはメルロ=ポンティ『行動の構造』は極端かもしれないが、
哲学から見た自然科学の「行動」概念を垣間見ることができる。
「確率」に関しては、科学哲学でも論じられているとおり、厄介な問題である。
いつのまにか、スレの内容レベルがあがっている…!
しかし、その結果として、実証とか感覚価値とか、現象学とか
いった一見みんなわかっていそうで実は、
論者それぞれのイメージがかなり違う難しい言葉
=業界用語が乱立してしまっている!!
これは哲学を生半可にかじって悦にはいる社会的無価値な
人たちの傾向なので、
なるべくこれらの基本的用語については、用語の使用前後に
どういう定義で使っているのか明記してね。
ちなみに私の個人的見解はこれ
哲学=価値合理性
=存在それ自体の意味意義を考える
その他の科学
=目的合理性
=ある目的に対する効率的な効用を考える
結論
哲学=哲学以下の存在自体を考えるもの→その哲学を組み立てる理論→
理論を具体的に存在させるための諸科学→
実際に我々が住む世界に存在する様々な制度、構造
具体例
「ユダヤ人を皆殺しにする」
諸科学→ユダヤ人を効率的に殺すことについてあれこれ考える
哲学→ユダヤ人を殺すということが人間にとってどういう意味を持つのか?
そこでいう合理的とはどういうことなのか?
かつどんな社会的意味があるのか?を考える
65さんへの批判
…それ以前にアリストテレスは観想と実践を分離している。
観想と実践を分離しないプラトンだったら、政治哲学が第1の学になるんだろうけど、
アリストテレス自身、第1哲学は形而上学と規定しているし。
最高善うんぬんの話も、形而上学がそれに先行していたはず。
どういった観点から見るかにもよるのかもしれないが、
少なくとも学問としては、アリストテレスでは形而上学が「諸学の王」と考えてよいのでは。
確かに、アリストテレスは、観想(=じっくりと心のなかで対象を観察し、
対象そのものを成り立たせている条件や要因を考える)と、
実践(=自分で打ち立てた理論仮説を現実の世界に打ち立てること)を
分けているのかもしれない。
そして事実、アリストテレスは、初期作品「プロトレプティコス」(哲学のすすめ)
を書いた。
で、ここでアリストテレスは、人間は神によって自然を観照(その本質を見極める)し
理解するように構成されているのもとした。
…そして哲学(=自然の観照)は、最高の生と位置付けた。
そのあと、「自然学」「動物誌」「天体論」「生成消滅論」を書き、
ようやく第三の分野である倫理学の研究をはじめる。
…その過程で「政治学」の執筆にとりかかっていくんですが、
ここで問題になるのは、自然の観照から人間の観照に、アリストテレスの
関心が移っていくところにあると思います。
つまり、自然を観照する人の存在のほうが、アリストテレスの研究遍歴に
おいて重要な問題となっていき、自然を観照する人間の能力がアリストテレス
にとって問題になっていくと考えられます。
…そして人間の究極的な能力が、善を求め、判断できる能力であること
であり、人間の存在理由は善を追求することと少なくともアリストテレスは考えたと言えます。
自然の本質を人間が理解できるのは、この善を判断する能力に他ならない
という仮説を手に入れることができます。
問題は、この善をどのように現実の世界に実現していくか?になるのですが、
その手段を政治学にアリストテレスは求めていったとすることができるのではないでしょうか?
…そしてここまで述べてはじめて、この板の主題である
「哲学と科学の違いがどこにあるのか?」
に対する暫定的解答もだせることができるのではないでしょうか?
――つまり、科学と哲学の違いは、
「善なるものの価値判断ができるか否かの違い」であると。
哲学も、科学も「なぜ?」という疑問に対する仮説的理解の集積ですが、
決定的な違いは、
「問題設定そのものの価値=それが善か否か」を「誰が」判断するのか?
という問題になり、この善と悪の判断が政治になるのだと思います。
形而上学をどういう風に捉えるかの問題があるのですが、
形而上学でさえ、
何が善であり何が悪であるのか
という問題性を孕んでいる以上、政治なるものの呪縛から
離れられないのだと思います。
まあ、2ちゃんねるでマジレスすることにどんな意義があるのか?
という疑問に対して私はあえてマジレスするぞ!という「判断」
をしている時点で、私は政治的な判断を行い、
機会費用(=この板に書き込みを「しない」ことで得られたはずの時間と
その時間を用いて行えること)を払っていることが、政治的判断なのだと
いえるのかなと思います。
まあ、あくまで哲学を政治哲学と捉えての話ですが…
84 :
考える名無しさん:03/01/20 15:17
面白くなってきたね。
まあ、形而上学よりも政治学の方がある意味で先行しており
基礎的であるというのは現代的な考え方だよね。
現代においては、プラトンのように魂でイデアを観照することが
哲学の本質だなんていってたら、あたかも足元を見ずに天空を見上げて
井戸に落ちるタレースのように、バカにされるだけ。
形而上学をする以前に、まず哲学者は世人として生きているし
社会のなかで生きている。
そういう意味で、50のいってることには共感を覚えるんだけど、
ただ、アリストテレス解釈としてどこまで妥当なのか
ということになると、やや疑問の点もあるな。
>>74 >哲学=価値合理性
>=存在それ自体の意味意義を考える
>その他の科学
>=目的合理性
>=ある目的に対する効率的な効用を考える
まず、科学(サイエンス)は「目的合理」の学ではありません。
技術(テクノロジー)はそうですが。
この対応は、倫理(或いは法)と政治の関係と同じ。
倫理(或いは法)を実践(実現)する手段が政治です。
つまり、倫理学は「価値合理」の学であり、政治学は「目的合理」の学ですよ。
科学とは、要は「実証」の学です。
その知の獲得方法が、「実証的」手法であれば、科学的ということになる。
科学が「目的合理」の学でないからといって、「価値合理」の学でもありません。
上の方でも言いましたが、
人間の知には、そもそも、感覚価値的なものと、論理実証的なものがあるのです。
どちらかが、どちらかに還元され尽くすということはありません。
上の用語にそろえれば、科学は「実証合理」の学とでも言いましょう。
#概念・用語に関しては、追々、あるいは問われれば定義します。
#あらかじめ全て定義説明するのは骨なので。
>具体例
>「ユダヤ人を皆殺しにする」
>諸科学→ユダヤ人を効率的に殺すことについてあれこれ考える
>哲学→ユダヤ人を殺すということが人間にとってどういう意味を持つのか?
>そこでいう合理的とはどういうことなのか?
>かつどんな社会的意味があるのか?を考える
この例で行けば、
「目的合理」だけなら、ガスが人間を殺傷するメカニズム自体は、
目的にとって当面関係ありません。
科学研究者の動機は、殆どの場合「(実証的)真理の探究」です。
哲学とは、知を愛する即ち、「真理(合理性・整合性)」の探求です。
知には、「感覚価値的」なものと、「論理実証的」なものが屹立してあります。
前者の探求が倫理学・法学・神学であり、実践が政治学などです。
後者の探求が(自然・人文)実証科学で、実践が工学です。
ちなみに、感覚感情的な知ではなく、感覚感情そのものの表現は芸術です。
つい忘れましたが、
論理(数学)は、「実証」にも「感覚価値」にも使用されるもので、
上記二つの知とはまた別の種類の知といえましょう。
人間の知には、感覚価値と論理実証という二つがどうしてあるのか、
それは、人間(あるいは社会)という、生体(あるいは生体共同体)の生存環境に、
自然環境と人間環境の二つがあるからです。
この二つのどちらの能力(知)が欠如しても生き残れません。
順番が逆になりましたが、
勿論、自然環境に対する知が論理実証で、人間環境に関する知が感覚価値です。
90 :
考える名無しさん:03/01/21 02:51
科学と哲学の境界設定の問題でしょ?なんで誰もポパーの名前を挙げないの?
しかもなんか境界を意味論か目的論で設定する流れになってるし。
「実証的」なものが科学で、そうではないものが形而上学なんてことはあり得ない。
やっぱり科学哲学ってマージナルなものとして重要視されてないの?
91 :
考える名無しさん:03/01/21 02:56
というか(経験)科学と形而上学の区別は、反証可能性で見ればいいだけの話
あとは有意味と無意味の区別をどこで図るかだね
有意味な形而上学をくみ上げ、無意味な形而上学を排除する区分をいかにするか
92 :
考える名無しさん:03/01/21 02:57
感覚感情とか感覚価値ってどういう意味?
誰かの用語ですか?
あと、価値合理性ってどういう意味?
84さん
鋭い批判ありがとうございます。84さんのいわれる通り、
私のアリストテレス解釈は、自分の専攻の政治学一般のうちの教養科目としての
政治哲学をもとに話をしているので、今回このスレを通して、自分のうちにある
傲慢さみたいなものと偏見と、さらに自分が無意識にもっていた政治学的感覚の
輪郭みたいなものにきづかされました。
84さんの指摘の通り、アリストテレス哲学で学位をとろう
などとは思わない自分なのでアリストテレスの書物から
直接何かを汲み取ったというよりも、
アリストテレス哲学の解説をしている政治哲学書の幾冊かに
目を通し、その書物を書いた人たちの視点から原書の翻訳に
目を通した程度だということを、明記しておきます。
そこで今回かっってに自分ルールを適用することにします。
これから提出される「問い」に対して「○○さんはこういった」
という解釈論ではなくて、「俺は○○だと思うが」そのときに
過去の知識人の考え出した道具=用語を用いて議論を進めようと…。
92さん
価値合理性は、マックス、ウェーバーさんが考え出した言葉です。
そもそも合理性という問題からはじめなければならないのですが、
合理性という用語自体、論者によって捉えかたが違うのでここでは
人間のもつ論理的批判に対して、論理的に反復して証明できることとします。
もともとこの用語が出てきた背景には、中世ヨーロッパにおける世界解釈が
宗教的な=神話的な解釈によって構成されていたことへの批判として、
人間のもつ理性によって世界解釈を試みる運動から生まれた言葉です。
有名なのは「われ思うゆえにわれあり」といったデカルトさんです。
かれは、とことんまで世界のあらゆる常識を否定していきますが、
最後に、「すべてのことを否定しようとするこの心=頭?のこの気持ち
見たいなものは、確かにあるあるわけで、否定できねーじゃねーか!」
と気づくのです。
98 :
考える名無しさん:03/01/21 04:52
>97
それを否定しようとしても永遠に無限後退する、ということに気づいたのですね
…でもって、近代ヨーロッパというのは、世界中にある無知、蒙昧を
この合理性で「啓蒙=無知な世界を合理性で教育していく」する
ようになります。で、そうやって野蛮人であるアフリカ人やアジア人を
教育するために、ヨーロッパ人が彼らを支配しないといけないという
ことになります。そうしたヨーロッパ人の構成した合理的な世界が、
第一時代戦、第二次大戦で破壊されてしまいます。
とくに第二次世界大戦後に発覚したナチスドイツによる、ユダヤ人の
合理的計画に基づく効率的な虐殺というショッキングな事実が明らかに
なります。
余談ですが、むかし高校の先生は、ホロコーストのガス室での効率的な
ユダヤ人の処理の話をされたり、明らかに一定規模の有力な人数の軍隊を
戦場ではなく、ユダヤ人対策へ割り割いていた非合理性について力説して
いたのを思い出します。
101 :
阿修羅∞落とし ◆GL1q9zFCNU :03/01/21 05:05
ホロコーストはなかった!
…でも、個人的には何かの本に書いてあったエピソードのほうが
ショッキングでした。内容は以下。
「ユダヤ人の効率的輸送法」
密閉されたトラックに詰め込む。
但し、トラックのコンテナには必ず、コンテナの入り口ではなく
前方に照明ライトをつけておく
理由
密閉された空間で人びとが窒息しパニックになると、光の入り込む
隙間を求めてコンテナの出入り口に殺到してしまうため、
ユダヤ人の出し入れ作業に時間がかかってしまう。
そこで、前方にライトをつけておけば、出入り口付近に人が
殺到しないのでスムーズに出し入れできる。
103 :
考える名無しさん:03/01/21 05:09
ポパー読んだ事ない。簡単に解説して。
104 :
阿修羅∞落とし ◆GL1q9zFCNU :03/01/21 05:10
ユダヤ人は金に魂を売り渡した悪魔だった!
…確実に話がそれてしまったので軌道修正。
で、ドイツ人でヨーロッパ有数の知性でもあるウェーバーさんは、
ヨーロッパ近代が追求してきた合理性に対して、疑問を投げかけます。
「はたしてこれが、合理的世界なのか?」
そこで考えついたのが、合理性は2つの意味があるという結論でした。
…ここでやっと価値合理性の説明ができます。
ウェーバーさんは、ナチスが行った「ユダヤ人を効率的に殺す」
という行為に対して、目的合理性という考え方で説明しました。
つまり「ユダヤ人を効率的に殺す」という目的にたいする合理性が、
ホロコースト(=象徴的意味で)を産んだと。
107 :
考える名無しさん:03/01/21 05:23
>>90-91 ポパーを挙げるのはかまわないと思うが、
ポパー“だけ”挙げて「反証可能性」のみを科学の特徴とするのは、
「実証的なものが科学で形而上学的なものが哲学」よりも雑な特徴づけになってしまうかもしれない。
>>103 ポパー。
経験的な全称命題は帰納法では正当化されえない(帰納法は不必要である)。
そのような命題は何らかの方法で正当化されるのではなく、
ただ反証される可能性をもつだけである(科学的命題の特徴は反証可能性である)。
反証条件は演繹論理によってのみ与えられる(演繹主義)。
間違ってたら指摘してください。
で、それでは「ユダヤ人を人間ではなく、悪魔としてとらえて
殺せ」と命じた、
この言葉の意味=価値自体はどのように問われるのだろうか?
と言うことを問題にしました。これが、価値合理性が生まれた理由です。
もちろんそれまでにも、この価値合理性という言葉を用いずに
同じようなことを主張した人はいるはずだと思いますが、いかんせん
政治学、社会学ではこの人が考え出したということになっていると思われ。
104さん
確かに、ユダヤ人のなかには、めちゃくちゃ金持ち=ロスチャイルドみたい
な人たちもいますが、
批判1
ホームレスの人も普通のおっちゃんやおばちゃんも
一杯いるので、「ユダヤ人」とゆう言葉を使うことによって104さんが
「見えなくしている」ユダヤ人の間にある亀裂をしっかり意識して
「ユダヤ人」発言をしたほうがいいと思います。ユダヤ人の中にも
この人好きとか、嫌いとか殺したいやつ、愛したいやつなどいろいろのはず。
批判2
仮にユダヤ人みんなが悪魔だとしても、その悪魔に対して
あまり道義的に評価できない批判の仕方をするのであれば、批判をしている
本人も、悪魔的になってしまいます。
少なくとも、哲学版をのぞきにくるような、「理性的な」人間は、
「所詮人間なんて悪魔で、野獣だ!」というニヒリズムに陥るぎりぎり
のところで、「それでも人間の理性を信じる!!」といえるだけの勇気が
ないといけないと思います。今現に存在する世界は、
このぎりぎりのところにある「理性」への信頼によってしか
ありえないものだとは思いませんか?
そして最後に…
せさん
いつも、斬新なスレ書き込み楽しく拝見しています。せさんのおかげで
自分の無意識に陥っている政治学的思考に気づかせてもらいました。
恐らく、せさんは、純粋な、哲学系の話に強い方だと思います。
そこでせさんにお願い。
哲学とはどういった位置付けなのか教えて。
そのあとつっこみをいれさせて。
ちなみに私の専攻する政治学は、「感覚〜」という位置付けではない、
はずです。
そもそも政治学とは、私たちが住んでいる社会を科学的に
分析・理解する社会科学であり、政治学の定義づけも難しいのですが、
私なりに定義すると「潜在的には競合関係にある人間の結合状態である
社会に存在するいろいろな価値をめぐる紛争を分析、理解する学であり、
政治(術)とは、この社会に友敵関係を設定する力だ!」
と理解しているのですが…。
それと、1さんとこのスレをROMってる方に…
タイトルとぜんぜん違う内容に話をもっていって
スマソ...
114 :
阿修羅∞落とし ◆GL1q9zFCNU :03/01/21 05:54
>>109 何で急にナイーブになるの?
「良いユダヤ人」と「悪いユダヤ人」を峻別するのは困難だ。
「ユダヤ人が悪い」と言えば、解りやすくて内政が安定する。
だからこそホロコーストは行われた。
現在、ホロコーストが非難されてる言説が根強いのは
ドイツが敗戦国だから。
日本がホロコースト非難しても特に国益に繋がらない。
国益に繋がらない主張をするのは無駄。
そういう物言いが政治的に自然でしょう。
理性が重要だと思うなら、理性が重要であるという文脈を構築すべきであり
何でホロコーストとか、理性を立てる上でマイナスになるファクトを
打ち出すのか意味不明。
歴史とは物語であり、事実の羅列ではない。
かような認識こそが、政治。
115 :
阿修羅∞落とし ◆GL1q9zFCNU :03/01/21 05:59
>>112 そういう定義を打ち出して得な場合
その定義を選択するのが、政治。
政治とは二者間以上における
意見調整行為に過ぎない。
116 :
阿修羅∞落とし ◆GL1q9zFCNU :03/01/21 06:02
何故、政治家がコロコロ意見を変えるか?
二枚舌を駆使するのか?
かつ、それがまかり通るのは何故か?
そういうこと考えれば、政治なるモノの本質は
直ぐ掴めると思うんだけどね。
117 :
阿修羅∞落とし ◆GL1q9zFCNU :03/01/21 06:08
あっ、一部読み間違えてた。
無駄な指摘をしてしまった。
まぁいっか。
二枚舌と言われるけど、本人はそう思ってないんじゃないか?
揚げ足とったようなマスコミも悪いよ。
119 :
考える名無しさん:03/01/21 06:10
>>74が出発点になっていると思うが、
具体例が、どうして経験科学や哲学に直接的にかかわらないものになってるの?
哲学の先鋒が政治哲学であるというのは田辺もいってたけど、
このスレで具体例として政治的なものをもってくるのは、牽強付会ぎみだと思われるが。
120 :
阿修羅∞落とし ◆GL1q9zFCNU :03/01/21 06:12
>>118 思ってないフリをするのが得だから
思ってないフリをする選択をする。
政治家に理念はない。
政治理念を打ち出すのも政治の技術。
121 :
阿修羅∞落とし ◆GL1q9zFCNU :03/01/21 06:16
政治にイニシアチブなんか必要ない。
意見調整だけしてれば良い。
それが、現在の政治に対する共通認識であり
政治家はソレを実行してるだけ。
122 :
考える名無しさん:03/01/21 06:55
>>74 ウェーバーの「価値合理的行為」「目的合理的行為」というのは、あくまで社会的行為の理念型。
哲学・科学を社会的な側面だけで線引きできるとは思えないが、
そのことを除いても、哲学も科学も目的合理的行為だと思われます
(ウェーバーに関しては50さんの方が専門だと思われますので、違う点があったら教えてやってください)。
カントのように、いくら実践(倫理など)を論じても、実際に実践していなければ意味はないと主張してはじめて、
哲学は価値合理的な側面を持つのではないか?
私自身は純粋に社会的行為を論じているわけじゃないから、
「価値合理的/目的合理的」で議論を進めるのは難しいと考えたいです。
参考。
・目的合理的行為
「外界の事物の行動および他の人物の行動についてある予想を持ち、この予想を、
結果として合理的に追求され考慮される自分の目的のために、条件や手段として利用するような行為」
・価値合理的行為
「ある行動の独自の絶対的価値(倫理的、美的、宗教的、その他)そのものへの、結果を度外視した、
意識的な信仰による行為である」
・感情的行為
「直接の感情や気分による行為」
・伝統的行為
「身についた習慣による行為」
たとえば「本のコピーをとる」ことは、何らかの目的があり、結果を予想した上の行動だから、目的合理的で、
「お年寄りに席を譲る」ことは、倫理的な動機であって、べつに目的があったり、
結果が重要だったりするわけではないので、価値合理的。
ただ、ウェーバー自身が指摘しているように、この例の2つの行為もそうだが、
ほとんどの社会的行為は、さまざまな方向性(上であげられた4つの種類の行為のような)の混合物である。
「価値合理的/目的合理的」についてはこんな感じの理解でよいのでしょうか?
>>50さん
124 :
考える名無しさん:03/01/21 13:32
面白くなってきたねえ、このスレ。
でも、アリストテレスにせよ、ウェーバーにせよ、ポパーにせよ、
誰か一人の説だけに依拠して「哲学」と「科学」の線引きを
しようというのには無理があるのかな?
そもそも「哲学」=「形而上学」かどうかも問題だし。
125 :
考える名無しさん:03/01/21 13:35
明快な定義、区別というものは、明快すぎるが故に
どこか大雑把なところがあって、納得はしやすいけど、
見落とされる部分も多々ある・・・のか?
126 :
考える名無しさん:03/01/21 14:02
ガイシュツかもしれんが、科学は存在の「構造」を探求するもの。
哲学は存在の全体、即ち「構造」と「本質」と「意味(解釈)」を探求するもの。
今更で悪いけど、このスレって科学と哲学の境界を考えるんだよね・・・。
じゃあポパーの名前を挙げたのはあまり適切じゃなかったか。
ポパーはあくまで科学と疑似科学の境界を設定したわけで、別に哲学との境界じゃないんだよな。
むしろ「理論(全称言明)」をどう基礎付けするかにおいては科学も哲学も関係ないし。
というわけで典型的な「1を読まずにカキコ」をやってしまいますた。スマンコ。
124さん
指摘の通りです。私の場合科学と哲学の線引きを「目的合理」と「価値合理」
というウェーバーさんが使った用語を、自分なりに解釈し直して使ってる。
ので、ウェーバーさんと一緒ではない、のです。
そこで
123さんへの反論
哲学も、科学も目的合理的、と言ったときの123さんの「哲学」の
定義が問題となると思います。
123さんの「本のコピーをとる」「お年寄りに席を譲る」
という例題に対する私の見解は以下。
例題1「本のコピーをとる」、例題2「お年寄りに席を譲る」は一見、
例題1=客観的で、何の価値も含まれていない機械的な記述
例題2=何かしらの
「倫理的、価値判断=お年寄りに席を譲ることはいいことだ」
と言う風に感じるかもしれませんが、
人間のすべての行為は、無意識的に社会的な影響を受けているので、
社会的な意味付けから逃れるられない、と考えます。
よって私の解釈で上記例題を説明すると以下
「本のコピーをとる」
=A「本のコピーをとることは(社会的に)どういった意味=価値をもつか」
+B「本をコピーするという目的に対して最善の方法は何か?」
「お年寄りに席を譲る」
=A「お年寄りに席を譲るとは(社会的に)どういった意味=価値をもつか」
+B「お年寄りに席を譲ると言う目的に対して最善の方法は何か?」
=A+B
=価値合理+目的合理
=(政治的、哲学的、倫理的)社会科学的領域+科学的領域
90さん
レス興味深く拝見。ただ、私も犯しがちなのであまりえらそうに
いえないのですが、哲学者の考え方=思想を理解するためには、
その人の生きていた歴史的状況の説明がないといけないのではないかな、
と考えています。そうしないと、何でポパーさんがそんな考え方を
したのかが理解できないと思うのです。
ちなみに私が知っている理解では、ポパーさんは第二次世界大戦と
その後の世界の状況を踏まえて自分の思想を深めていかれた人かと。
そして、科学的な知を含めて、人間の有する知というのは、
暫定的なものにすぎず、つねに、批判される必要があるのかと。
(=批判的合理性)
なのである時期で常識になっている道徳的信条なども常に変化する。
ので、こうした人間理性の限界を認識したうえであらたな知を求めていけと。
以下略
122さんの「実践」の意味ですが、
人間は何かしらの価値体系がないと「実践」できないです。
つまり、
世の中に何かしらおかしいところがある→
その分析的理解→
問題点の発見→
よりよい世のなかに向けての修正を行う=実践
115〜121さん
政治家が、イニシアティブを握れないのは、以下の理由。
議会制民主主義制度の想定する政治家は、理念を持ってその理念を
現実の国家政策に適用させていくような人間。
しかし実際に政治家になるには金と票田が必要。
金と票田は、理念ではなかなか集まらない。
(2ちゃんのUNIXのKIROKU-FLASHをみてその理念に共感してUNIX番に記念カキコ
したヤツはいても、UNIX版に寄金した人は何人いただろうか?)
ので、結果として、現実の政治家は金と票田に対する嗅覚の鋭い人間がなる。
ので、政治家に、理念を持てはいけない。
じゃあ、どうするの?という問いには、自分で行動しなさいというしかない。
つまり、これ日々プチ革命という結論になる。
以上。
要は、政治家に頼らんで自分で社会の問題を発見して、
自分で分析して、自分で解決しなさい。
いろいろ難しいこともあるけど、そのために大学という高等教育機関が
あるのです。
にゅー。厳密な学として、雑然としていた諸学から哲学を
取り上げる作業が行われた程度で、哲学そのものってそんなに定義されて
いないと思ってみたりする。哲学の範疇で、現在のパラダイムに含まれるのが
科学である、ってのじゃ駄目?
哲学と科学が違うって言っちゃうと、科学哲学の所在をどうするのか
すごく興味があったり。両者の領域に重なる部分がないと、成り立たない
よね?
>>111 >哲学とはどういった位置付けなのか教えて。
>そのあとつっこみをいれさせて。
人間の意識的行為には、必ず目的というか動機があるとされます。
無意識的あるいは感情的行為というものがあり、
それには目的も動機も無いとされることもありますが。
そういう意味、ここで、哲学を定義するという(意識的)行為にも、
何らかの目的・動機があるわけです。
或いは、枠組みといってもいいです。
とりあえず、その目的には「感覚価値」的なものをかかげましょう。
即ち、私(或いは私と感覚を共有する人々)にとって、
哲学という概念(語感)の示す性質群に対して、
最も整合性が高い(バランスの良い)定義を与えるという目的です。
・「○○という概念」とは、○○という語感、
即ち○○という語のかもし出す感覚(直感)のことである。
・「知」とは、「概念」群の論理的な整合性を持った構造のことです。
・私にとって、「哲学」という概念の性質として重要なのが、
「知に対する愛」という人間の性向が求める知であるということです。
「知に対する愛」とは、「知」自体を欲求の対象とすることであり、
他の目的のための必要な道具・手段としての「知」の必要性ではないことです。
基本的に「役に立たない知」といわれる可能性のある知です。
以上が、私の「哲学の内包的な定義」としましょう。
次に、具体的に何が「哲学」の範疇に入りうるかということです。
以前述べましたように、
人間の知の様式には、「論理価値的」なものと「論理実証的」なものの二つがあります。
#ちょっと用語を変えました。
前者について「知」そのものとは「倫理や法」であり、後者については科学(理学science)です。
ここで誤解しやすいのが、「倫理学」や「法学」は文献や実情のデータに基いた、
実証学即ち科学(学問)の仲間だということです。
倫理や法そのもの、と、それを対象にした学問は似て非なるものだということです。
それは、宗教と宗教学が異なるのと、芸術と芸術学が異なるのと同じです。
政治と政治学の違いでもあります。
同じ人物がその両方に携わることもあり、混同しやすいのですが。
凡そ、学問とは、論理実証的なものです。
倫理や法そのものは、その本質はもう「感覚・感情・価値」としか言いようが無いもので、
何か他の何かに還元されるというものではありません。
あるのは、「感覚・感情・価値」同士の間の強弱や整合性や重要性です。
「子豚がかわいい」と「トンカツが美味い」の間の整合性の問題です。
それを体系化する即ち「知」とする手法は、
部分的に「感覚感情価値的」であったり「論理的」であったり「実証的」であったりもします。
また、以上とは別次元の「知」として「論理(数学)」というものもあります。
これらは一般に最も「純粋な知」とすることもできますから、
もっとも純粋な哲学であるとすることもできるでしょう。
あぼーん
143 :
考える名無しさん:03/01/22 00:43
以前として用語が曖昧ですな
「感覚価値」
「論理価値的」
「感覚感情価値的」
これらをもう少し厳密に説明しないと
>>50さん
>>128-131 >>135 なんかちょっと私が言いたかったことからズレてるんですが……
>>123ではウェーバーの「価値合理的/目的合理的」自体の意味を聞きたくて、その2つの例を挙げただけで、
それらが現実的に価値合理的/目的合理的の合わせ技かどうかを問題にしたら、話がややこしくなるだけ……
ぜんぜん違うといわれてないので「価値合理的/目的合理的」自体の意味に関しては、
私はそんな誤りを犯してなかったってことなんだろうが。
論点は
>>122であって
>>123ではないので、
>哲学も、科学も目的合理的、と言ったときの123さんの「哲学」の
>定義が問題となると思います。
と、
>人間は何かしらの価値体系がないと「実践」できないです。
ですが、後者には賛同です。
ただし、実践哲学を唱えていても、その人が実際に実践しなければ価値合理的とはいえません。
その実践哲学において説かれている「すべき行為」が価値合理的であるだけで、
実践哲学を論じること自体は、目的合理的な方向性が強い。
理論哲学は実践哲学よりも、目的合理的であるので、結局、哲学も目的合理的であると考えます。
>>74 >哲学=価値合理性
>=存在それ自体の意味意義を考える
>その他の科学
>=目的合理性
>=ある目的に対する効率的な効用を考える
ただ
>>50さんの仰る「目的合理的/価値合理的」の違いがよくわからないので、
ウェーバーのカテゴリーの適用ではなく、カテゴリーを借りたのであれば、どのようなものかご説明ください。
>>131からすると、科学はそのような意味で目的合理的ではないと思われます。
私はこう考えます。
科学で考えられている内容は、それはただ呈示されるだけで、目的合理的でも価値合理的でもない。
個別的な話として、その内容(ある法則)を具体的に呈示することは、
なるべく自然全体を説明できるような体系を目標とし、目的合理的。
それは、それ自体では優れて客観的に理解できるが、現象の理解としては、
あくまで確信の程度である(「今のところもっともよく説明する法則である」)ということにも表われている。
科学の研究に携わること(上の目標を持つこと)自体は、
べつにそうする絶対的な必要性があるわけではないし、価値合理的。
哲学で考えられている内容は、目的合理的/価値合理的ですっぱり決められるものではない。
個別的な話として、そのような内容を具体的に呈示することは、価値合理的。
なぜかよく知らないけどよくいわれる「哲学とは考えることである、哲学研究は哲学じゃない」や、
カント『純粋理性批判』「理性に関しては、せいぜい哲学することが学習されうるのみである」、
ハイデガー『根拠律』「こと思索に関しては、なされた仕事が偉大であればあるほど、この仕事のなかで『考えられないでしまったこと』(言い換えれば、この仕事を通じ、またこの仕事だけを介して、
『まだ考えられないでいるもの』として我々に到来するもの)も豊かなのである」、
科学よりも方法論への反省に目が逝きやすいことに表われている(科学ではあくまで方法は目的に対する手段)。
哲学に携わることは、科学と同様に、価値合理的。
こう考えると、科学=目的合理的、哲学=価値合理的になりますが……
あと、まず、哲学・科学で共通の自然観のような問題を挙げなければならないと思いますが、どうでしょう。
147 :
考える名無しさん:03/01/22 00:48
>>141 論理学と数学とを同列に論じるのは難しいと思う。
数学は「実証」の学問ではないが「論証」の学問ではあるから、
ある意味では哲学よりは自然科学に近い。
論理学はもちろん哲学だと思うが。
#ちょっと投稿が多くて、全ては消化していないのですが、悪しからず。
>>143 >以前として用語が曖昧ですな
・「感覚」とは、意識に与えられる所与のうち、
その生成過程が意識にとってブラックボックスであるもの。
その生成過程を「感覚思考」とする。「感覚思考」は無意識的思考である。
「感覚思考」は意識が介在しない分、入力(刺激)に対し、速く高精度な値を安定して出力する。
「感覚思考」は、共同体の歴史・伝統・個人史などにより、無意識的に獲得される。
つまり、「感覚思考」は理解されるものではなく体得されるものである。
また、「感覚」は、普遍的ではなく、「共同体」に特有のものである。
つまり、「感覚」は「説得」されるものでなく「感化」されるものである。
・「感情」とは、意識・無意識を含む精神(脳)ばかりでなく身体全体のモードだが、
ここでは特に、それの意識に対する所与だけを取り出したものを「感情」とする。
特に、意識上の世界・自己・行動シミュレーション(想定)におけるある状況に対し、
意識に沸き起こる「感情」のこと。
こうした「感情」は、そうした「想定」に対する「価値」判断の大きな要因になる。
これは「感覚」の一形態である。「感情」の発生する過程が意識の外だからだ。
・「○○という概念」とは、○○という語感、即ち○○という語のかもし出す感覚(直感)の、
意識化され印付けられたもののことである。
・「価値」とは、事象に対する「感覚」的な判断である。「殺すな」「親孝行せよ」等。
以上のように、感覚と感情と価値は密接な関係にあります。
明日あたりに続く予定...
せさんへ
大変興味深く拝見しました。
私なりにせさんの意見をまとめると以下。
「私=人は日常社会のなかで生きている。
よって何かしらの共同体(家族や学校や職場など)のなかに生きている」
「私(=人間)は、そういった自分の所属する(共同体=社会)の感じ方や
考え方や捉えかたに影響を受けているが、そういったことを「気づかず」に
自分の「感覚」=自分で獲得したように思っているが、実際には
自分の身の回りの世界を通して獲得されたものとして、感覚があることが重要。
以下略。
おそらくせさんと私の見解は、用語の違いがあるものの
大体同じことをいっていると思います。
無意識のうちに獲得されているものを=常識とする
ならば、
その常識のもつ善悪判断の基準というか、ものの捉えかたの枠組みを
批判するのもとしての知が哲学であるとするならば、私の言う
価値合理性とは、まさに、世のなかで確定してしまったモノの価値
に対する批判的な知的力ことが哲学になるとおもいます。
あぼーん
訂正 一番最後の行「知的力こと」→「知的力こそ」
でもって、この常識の範囲は、あくまで自分の所属する共同体の常識という
人為性をゆうすることに気づいているのであれば、それが政治哲学の
範囲として捉えることができるのであり、
ゆえに哲学というものの考え方の本質のうちに、善いもの、悪いもの
という価値判断と、かつそれを他人に説得する
=他人を心理的に支配するという政治性を有しており
よって哲学がその本質として政治哲学にとして捕らえられるという
ことになるのではないかと...
...まあいいや、とにかくこれ以後のレスの流れをここで提案しときます。
まず
1「哲学とは何か?」=各自の哲学の定義づけを行う。そのうえで
2「哲学と他の科学の違いは何か?」について議論しましょう。
まずはおのおの「哲学をどう定義するのか?」からはじめましょう。
そのまえに…
122さん
思いっきり読み間違えてごめんなさい。
>哲学は価値合理的な側面を持つのではないか?
>私自身は純粋に社会的行為を論じているわけじゃないから、
>「価値合理的/目的合理的」で議論を進めるのは難しいと考えたいです。
まさに122さんの指摘の通りです。
ただし、「哲学=何事かについて考える」と最も広い定義を
与えてみたところで、
この、「何事か」を選ぶこと自体すでに、「私と社会」という関係の中から
「何事か」を選び出していると考えれば、哲学にとってすべての問いが
社会の影響を受けて生み出されているのであり、
よって社会的な意味から解放された真の純粋哲学などは存在しないのではないか
仮にあるとしても、社会=世界という結合関係から離れたモノの考えなど
どのようにして可能か?そんなことは神のみ可能な叡智だと考えています。
学問(哲学を含む)は何をすべきかを考えるのは哲学の範疇だ。だから、
「各自の哲学の定義づけ」をやったら、それは哲学に含まれてしまう。
このスレは「哲学」に対してメタな立場になることが要求されているとオモワレ。
とはいえ、社会的行為としての哲学という私が説明するのを忘れていた
前提条件を思い出させてくれたことについて感謝します。メルシーボク。
158 :
考える名無しさん:03/01/22 18:12
名刺に「哲学者何某」って刷ってあったらちょっとカコイイッ。
「詩人何某」ってあったらもっとカコイイッ。
で、哲学するだけで、詩を書くだけで食っていける人ってどのくらいいるんだろうか?
んーと、今見ていて気づいた事でつが、
哲学=現代に於ける哲学の役割、という事でFAかな?
かつて哲学はあらゆる学問を含んでいたはずなんっすよね。
フィジカルサイエンスという語が出来上がる以前に
フィジカルフィロソフィーという語もあったらしいし(英和辞典で見かけた)
だから、哲学一般について語ろうとすると、時代によってその主題は変遷した
だろうし、定義域も曖昧だわさ。しかもだだっ広い。少なくとも科学を
全て含んでしまうくらいには。
156さん
哲学に対してメタな立場なんてとれない、
というのが私のねらいなので、その通りです。
159さん
まあ哲学の現代的定義=1940年代以降の話としときましょうか。
よって、哲学を定義づけるときには、かならず過去の具体的な歴史記述から
哲学の定義をはじめること。
でもそんなことできたら、みんな本職の哲学者になるが…。
ふりかえってみると、この板、難しくしすぎた…
よって終了。。。
164 :
考える名無しさん:03/01/24 13:41
科学が進歩すればするほど、ますます哲学の必要性が増してくるんじゃないの?
165 :
考える名無しさん:03/01/24 13:47
いずれにしろ、哲学の定義をいかにするかって問題
166 :
考える名無しさん:03/01/24 14:03
哲学の必要性をわかってないヤツには
哲学そのものの定義よりも、他の学問との違いを説明して
哲学固有の問題領域や問題設定を説明してやる方が説得力があると思う
>>166 他にも、科学の限界について語るとか。
とりわけ科学的真実性が完全に保証されてると思っている人には
うまくすれば効果絶大。
説明しても理解されずショボーンの時もあるんですが。
168 :
考える名無しさん:03/01/25 03:00
科学の限界ってなに?
科学はどこまでも進む。外へと向かい顧みることはない。
哲学は内へと進む。
哲学は科学の独り歩きをさえぎる。
遺伝子操作などに「待った」をかける
> 遺伝子操作
そりは(科学)技術でわ?
科学と(科学)技術を混同してます!
技術は科学だとして、倫理は哲学だとして、
そうやって何でも広く解釈していけば何でも言えそうなものだが。
>>171 科学と技術との関係は、哲学と倫理との関係と、ぜんぜん違うと思うが……
>>167 >他にも、科学の限界について語るとか。
とは、なんの話でしょう?
>とりわけ科学的真実性が完全に保証されてると思っている人には
>うまくすれば効果絶大。
科学的真実性とは? 完全に保証とは?
>説明しても理解されずショボーンの時もあるんですが。
科学者は、科学(実証)的方法論を少なくとも知っていますよ。(さもなきゃトンデモ)
科学についてよく知らない人って、ブルーバックスのデンパ本しか読んだことなくて、
数学も論理も苦手だけど、「本質」を良くわかっちゃってるようなひとのこと?
逆に、そういう人こそ「科学信仰」とか意味もわからず言ってるようだから、
科学の限界(?)の説明も説得も必要ないでしょう。
174 :
考える名無しさん:03/01/26 00:27
先ほど何処かの掲示板に書いたような気がしますが
飲み過ぎで分からなくなったのでもう一度:ゴメンなさい
仏教の教えの一つには
「世の中は、夢や幻や、波のような物だ」と・・
一方
物理学にも
「有」と「無」は究極的には波のような物だ
と聞いた事があります
>>148 の続き。
・概念と概念の関係性についての断定的な「感覚」が存在し、これを「関係性感覚」とする。
あるいは「感覚的判断」である。
「曲線はやわらかい」「殺生は悪である」「白馬は馬である」「空即是色」等。
・形而上学とは、
概念群同士が、1)関係性感覚あるいは 2)論理・実証によって関係付けられた、
概念群の構造体である。
以上より、形而上学と科学の違いは、
・前者が、感覚的な「概念」を要素とし、
その関係性(展開)も部分的に感覚的である、知の構造であるのに対し、
・後者が、明文的に定義された「用語」を要素とし、
その関係性(展開)が(形式)論理・実証的である、知の構造である、
というところである。
178 :
考える名無しさん:03/01/30 02:37
>>177 哲学用語だって明文的に定義されてるのでは?
あと「感覚的」というのが曖昧ですね。
>明文的に定義された「用語」を要素とし、
補足。
→測定可能な形で明文的に定義された「用語」を....
>>178 「感覚」「概念」等は、
>>148 で定義してますが、そのどこが曖昧なのか指摘してください。
>>179 さらに補足。
→ある誤差の範囲で測定可能な形で明文的に定義された「用語」を....
182 :
考える名無しさん:03/01/30 02:46
>>180 このスレの過去ログは読む気がしないので俺は議論には参加しない。
そもそも科学と形而上学を区別しようとする意図がさっぱり分からないので・・・
183 :
考える名無しさん:03/01/30 02:50
でも、一つだけ言っておくと、「形而上学」という哲学用語も、
哲学者によって意味が全然違うんですよ。
例えばニーチェの言う形而上学はプラトニズムのことで、
ハイデガーの言う形而上学は、存在忘却のことです。
>>182 参加しない人に答えるのもなんですが、
私の意図に関して言えば、
「哲学とは形而上学である」と考える人がいるようなので、
その線から、スレタイについて答えてみただけです。
>>183 では、そうした「形而上学」が私の定義に外れることを説明してください。
あるいは、その2例を手短に説明できますか。
アリストテレスが定義した哲学が「哲学」ではないと思う。
日本語の「哲学」の定義は、広辞苑に載っているその意味付けで定義して良いと思う。
科学が発達しても、哲学は無くなるものではないように感じる。
寧ろ、哲学があるから科学が在るのだと思う。
科学者ほど哲学のことを語るように思えるのだが、 如何だろうか?
哲学は「矛盾を指摘する学問なのだ」と、学んだ憶えがある。
その引継ぎの学問として「科学(化学)」は在るのだとも学んだ。
自分は簡潔な論理を得る為に、哲学を学んでいる。答えを得ようとは思っていない。
188 :
考える名無しさん:03/01/30 05:19
>>183 そうはいっても、形而上学という語にはやはり一つの共通の意味があるはず。
プラトニズムも存在忘却も結局は同じ事態を指しているし。
しかし、
>>177では形而上学の定義としてはいかにも不十分だし、
そもそも形而上学=哲学かどうかもわからない。
>>186+187では話が曖昧すぎるな。
189 :
考える名無しさん:03/01/30 07:09
こういうのはちゃんとプラトン(ソクラテス)からやらないとダメです。
ということで、
プラトン『国家』第7巻13-14章より(533C-D)。
ソクラテス
「しかしこれらの学術〔幾何学など、いわゆる自然諸科学〕は、われわれの見るところでは、自分が用いるさまざまの仮設を絶対に動かせないものとして放置し、
それらをさらに説明して根拠づけるということができないでいるかぎりにおいて、実在について夢みてはいるけれども、醒めた目で実在を見ることは不可能なのだ。
なぜなら、そもそもの出発点として、自分がほんとうには知らないものを立てておいて、結論とそこに至る中間は、その知らないものを起点として織り合わされているとすれば、そのようにして得られた首尾一貫性が、どうして知識となることができようか?」
「哲学的問答法の行程だけが、そうした仮設をつぎつぎと破棄しながら、始源(第一原理)そのものに至り、それによって自分を完全に確実なものとする、という行き方をするのだ」。
190 :
考える名無しさん:03/01/30 07:18
ちなみにこの直後で、
哲学的問答法が扱うのが「知識」で、補助的学術(自然科学)が扱うのが「悟性的思考」とされます。
(「知識」がノエーシスないしエピステーメー。「悟性的思考」ディアノイア。)
じっさい、こういう考え方ってけっこう最近にいたるまで(西洋の)哲学観を根本から規定してきたんじゃないですかね。
191 :
考える名無しさん:03/01/30 13:30
アリストテレスもほぼ同じことを言っているよ。
ソフィアーとエピステーメーを区別して(『ニコマコス倫理学』参照)。
ハイデガーもプラトンとアリストテレスを引き合いに出して、
哲学と実証諸科学のレベルの違いを特徴づけているな(『存在と時間』序論参照)。
192 :
考える名無しさん:03/01/30 14:17
哲学=アホの学問
科学=バカの学問
193 :
考える名無しさん:03/01/30 14:59
194 :
考える名無しさん:03/01/30 15:57
>>177 >>188でも言われているが、それだと不十分。
哲学が単なる主観的な考えを述べたものであり、
科学が客観的な観察・実験の結果であるということしか言っていないから
(科学が客観的なのは、
>>181のいわゆる操作的定義のおかげ)。
それに、操作的に定義する際にも「感覚的」な部分に頼るんじゃないかと。
195 :
考える名無しさん:03/01/31 01:01
>>191 そうそう。だからその限りにおいてアリストテレスもハイデッガーもプラトンの立てた問いの枠内で動いてるわけだ
196 :
考える名無しさん:03/02/03 20:31
一応、物理学を学ぶものとして意見を言わせてくれ。
きついこと言うかもしれないが、科学が発展する以前の自然学で、
今では少なくとも自然科学の領域では哲学は過去の学問だろうと
思っている。今の哲学は単に人間の認識を問題にしているだけの
ような気がしているが、どうだろう?
一物理学者の意見です
哲学って純理論だと思います
多分それだけだと無力
往々にして、科学者は哲学者なんじゃないかなあ。
>>198 無信仰が信仰であるように?
根源的一元論はおいといてこのスレでは哲学と科学の特性について考えるスレだ
「哲学者は自分の手を汚さない」と言ってた人がいた。
>無信仰が信仰であるように?
>根源的一元論はおいといてこのスレでは哲学と科学の特性について考えるスレだ
往々にして、小説家は哲学者じゃないかなあ。
>>201 そこまで一緒くたにされると何も言えん
差異は同一性があるから差異なんだよ
>>196 だから科学を内包してしまう可能性があるんでしょ。
素朴実在論に立って、分析哲学と科学手法の確立で事足りると思ってる人はいるけどさ。
物理学が今どこで行き詰まってるかあなたは知ってるんでない?
本当に哲学は無くていいと思ってるの?
大体、哲学は実証を目的の第一義としたものじゃないし。
素朴実在論と反するのは観念論の他に科学的実在論というのもありまっせ
前者はマッハ、後者は誰?
確率の傾向性解釈とかは哲学における重要な問題で物理学を左右しそうなものかな
他の学問と一線を引こうとしているのは、
哲学者の方のような気がする。
それだけ境界が希薄なんだろうけど
>>205 お前が哲学を知らないだけだろ
哲学と科学という言葉は物理学や社会学という言葉とは使われ方が違うだろ
>お前が哲学を知らないだけだろ
>哲学と科学という言葉は物理学や社会学という言葉とは使われ方が違うだろ
そうかなあ。
>>207 社会学哲学という言葉はあるけど社会学物理学という言葉は聞いたことが無い
>社会学哲学という言葉はあるけど社会学物理学という言葉は聞いたことが無い
社会学があるじゃん。
科学哲学はあるけど、哲学科学はない。
科学者は哲学などつけなくても、哲学してるからだ。
>>209 アホか?
社会学哲学は、社会学の中の一分野なの
>>210 大学で科学学部や科学学科を名乗ってるところがあったら挙げてみろ
哲学屋は、なんでも前につけるの好きだね。
哲学であると明言しないと、科学であり、社会学になっちゃうからかな。
自己顕示欲。
>大学で科学学部や科学学科を名乗ってるところがあったら挙げてみろ
それこそ、哲学の偏狭さじゃないかよ。
「反哲学」
>>213 英語だと後ろにつけてるぞ
philosophy of science
>>214 なぜそうなるか理解できないが?
言葉は対になってカテゴリーを区分けすることがほとんど
哲学と科学という領域の区分け、物理学、科学、社会学という領域の区分け
混同する方が馬鹿
科学じゃなくて化学だ、間違えた
哲学と科学という領域の区分け、物理学、科学、社会学という領域の区分け
区別する方が馬鹿
「知の挑戦」
220 :
考える名無しさん:03/02/03 21:14
パンツという下着、シャツという下着区別する方が馬鹿
「知の挑戦」買ったけど、まだよんでな〜い
社会科学、人文科学、自然科学
社会学哲学、物理学哲学、教育学哲学
こういう言葉が現実に使われてるんですが何か?
哲学という言葉は言い換えれば基礎理論みたいなもの
応用物理学や応用心理学はあっても応用学部や応用学科はないだろ
>哲学という言葉は言い換えれば基礎理論みたいなもの
またまた、哲学派はえらそうにいう。
そういうのもあれば違うのもいろいろある。
そう肩肘張るな。
アインシュタインとウィトゲンシュタインはどっちがえらいか!
みたいなもんか。
>>223 おまえが色々を知ってるようには思えない。
>>223 とりあえず例を挙げてみろ
社会学哲学は社会学はどのような方法でやるべきかといったことだ
「〜とは何か」だ
科学哲学も同じ、聞いたことはないけど応用哲学もあるかもしれない
で、哲学が全く含まれない社会学や物理学はないと思われるが
基礎理論に全く触れない哲学はないだろう
例示してみてくれ
>おまえが色々を知ってるようには思えない。
この場合、知っていようが知っていまいが関係ない。
いろいろあるんだから。
何も考えずに書き込んでるピカを相手にしてる時点で俺の負けだな
>基礎理論に全く触れない哲学はないだろう
>例示してみてくれ
基礎理論に全く触れない学問をさがしてみるよ。
>何も考えずに書き込んでるピカを相手にしてる時点で俺の負けだな
それは前提だろう。
>>224 ぴかぁ〜って中学生か高校生?
難しい会話に参加して偉いでちゅね〜
>ぴかぁ〜って中学生か高校生?
>難しい会話に参加して偉いでちゅね〜
ばぶぅ〜♪
>>ピカ
とりあえずピカの考えは分かった
で、俺は哲学の線引き問題をしてるわけじゃないの
ピカの読解力不足
>>229 ぴかぁ〜は基礎理論という独立した学問分野があると思ってるらしい。
馬鹿は死ななきゃ直らないと俺は思った。
>とりあえずピカの考えは分かった
>で、俺は哲学の線引き問題をしてるわけじゃないの
>ピカの読解力不足
ごめん。
>>1 科学とか諸知識、現象、信念等々の枠組みの次元に対する原理的な批判
が哲学(もちろん哲学の営みはそれがすべてではないけど)。
科学の枠組みを問うものは科学哲学となる。
科学が哲学にならないのは、己の枠組みを問わないから。
相対性理論とか不完全性定理のような枠組みを揺るがす(あるいは枠組みを
転換する)達成があると、人はそれを成し遂げた者に哲学者の側面を見よう
とするのも、そういう事情があるから。
>科学が哲学にならないのは、己の枠組みを問わないから。
>相対性理論とか不完全性定理のような枠組みを揺るがす(あるいは枠組みを
>転換する)達成があると、人はそれを成し遂げた者に哲学者の側面を見よう
>とするのも、そういう事情があるから。
矛盾しとる。科学は問わないといい、問うと哲学者の側面を見る?
科学が哲学にならないのは、己の枠組みを問わないなんっていう事実はまったくもって遺憾である。
哲学派の謀略としか言いようがない。
>>237 科学と哲学の境界設定問題がこのスレのひとつの問題だけど
経験科学と形而上学という区分けをした人はいる
この区分けだと科学は非経験的だから科学によって問えない
というか自己言及が唯一許されてるのが哲学ということかもな
>>237 お前が科学を語るなよ。
ブルーバックスすら満足に読めないくせに。
物理板にもくんなよ。
>科学と哲学の境界設定問題がこのスレのひとつの問題だけど
>経験科学と形而上学という区分けをした人はいる
>この区分けだと科学は非経験的だから科学によって問えない
>というか自己言及が唯一許されてるのが哲学ということかもな
たしかに便宜上そうなっているし、教科書にもそう書いてある。
しかし歴史的に見てもそのような事実はない。
科学者は絶えず「哲学的」思考でモノを考え、
自己言及しながら進んでいる。
哲学が駄弁に思われるのも
>>236のような哲学の身の上ゆえ。
当面、生産的に使える枠組みなら疑わずにそれに従って進めるのが一般的な学問
だからね。
>>240 お前の科学者と哲学者を区別できる例を挙げてみろよ
>お前の科学者と哲学者を区別できる例を挙げてみろよ
そんなものは屁のかっぱだ。
科学史にのっているのが、科学者で、
哲学史にのっているのが、哲学者だ。
それ以上でもそれ以下でもない。 以上!
>>243 科学史の講義は哲学の分野に含まれていると言ったら?
>科学史の講義は哲学の分野に含まれていると言ったら?
哲学の授業で科学史勉強してもいいけど。
>>ピカ
お前の
>科学者は絶えず「哲学的」思考でモノを考え、
が根拠としてダメということ
冷静に考えてくれよ、科学者だろうが哲学者だろうが、
思考の仕方、多くの発言は「哲学的」なんだよ。
ただ科学の場合、論文として公表する方法がそれではダメという
ルールがあるんだよ。
それだけのことなんだよ。
頼む、わかってくれよ!
>>247 お前のいう科学が想像できないんだよ
哲学と科学に違いがあるか?
249 :
考える名無しさん:03/02/03 22:08
baka bakka
このぴかぁ〜って固定は何ですか?
単なるバカか?
251 :
考える名無しさん:03/02/03 22:13
阿修羅とぴかぁ〜は2ちゃんが生きがいの勘違い馬鹿
252 :
Kurihara:03/02/03 22:27
そうですね。粛清しかないでしょう。
こわっ!
254 :
Kurihara:03/02/03 22:34
僕は糞コテハンを今までに何人も
粛清し、哲学板に二度とでてこられなく
してきた哲人王です。
ほんと、年齢層が下がり過ぎだなや。
院生とは言わないまでも、学生のレスをキボンヌ。
しかし何でこんなヤツが哲板に居着いているのか不明だ。
ロビーとかの雑談板や人生相談のがいいんじゃないの?
お花畑とは言わないまでも。
哲学で鼻高くしてる奴の鼻をへし折りたいのだろう
ただそれだけだ
まじめに哲学をやる奴を相手すると高い鼻がないから自爆するだけだろ
空虚なコテだから嫌がられる
>>236の言ってる事でだいたい合ってるんじゃないのか?
ローティも同様のことを何かの論文で書いてたよ。
ただ、「哲学」じゃなくて「解釈学」だったけど。
パラダイム自体を問題視しだすと解釈学になるのだそうな。
哲学板にいると自分まで頭が良くなったかのような錯覚にでも陥るんじゃないのか?
まぁ哲学は胡散臭い奴でも結構ハッタリ効くわけで。物理学板なんかじゃ多分無理だろう。
260 :
考える名無しさん:03/02/04 12:57
>>203 レスが遅くなったが…
私は逆に、哲学は科学に内包されると考えている。
真理は人間の脳のなかにあるんじゃなくって客観的に存在している。
哲学でも真理を探究できるだろうがそれだけでは証明できない。
証明できないことを議論するっていうのは私にとっては
お遊びにしか思えないが?科学的な検証があってはじめて
哲学も学問となると思うけど。
私は、「哲学」じゃなくて「思想史」とか「思想学」でいいと思うんですよね。
262 :
考える名無しさん:03/02/04 13:07
>真理は人間の脳のなかにあるんじゃなくって客観的に存在している。
これってどういう意味?
この発言がどんなに素朴な形而上学的前提に立っているか、自覚してないでしょ。
そういう反省をするのが哲学の一つの仕事なんだけど。
大体、
>>260は
>>236でいわれていることを理解した上で発言しているの?
科学者の哲学批判って、一般に哲学にたいする無知から生じていることが多い。
まあ、それと同じくらい哲学者も諸科学にたいして無知であるばあいが多いんだけどね。
263 :
考える名無しさん:03/02/04 13:08
>>261 名前を変えることに何の意味があるのでしょうか?
265 :
考える名無しさん:03/02/04 13:33
でも、「思想史」や「思想学」だと、哲学の別称としては
全然適切じゃないと思うよ。
少なくとも、哲学の研究対象の一部しか名指していない。
そうですね。
267 :
考える名無しさん:03/02/04 13:43
愛知学という名称も対象の一部しか指していない
せめて三重もいれてやらないと
268 :
考える名無しさん:03/02/04 13:45
ハイデガーが『存在と時間』の序論部で哲学と科学の違いについて述べていることを参考までに紹介しておきたいと思う。
ハイデガーは哲学=存在論と考えている。
哲学は存在者ではなく存在者の存在を扱う。
それにたいし、哲学以外のすべての実証科学は存在者を扱う。
そのさいに、実証科学はその学固有の根本概念を持っていて、それを出発点にして存在者にかんする実証的研究を開始している。
たとえば生物学は「生物」という根本概念(「生物とか何か」ということ)を暗黙のうちにすでに了解していて、
それについては問わずに、その了解を自明の前提として、実証的研究を開始している。
物理学も同様に、「物(物質)」という根本概念から出発している。
実証科学はおのれの根本概念そのものは問題にしない。
このような根本概念は、科学の成立以前にわれわれの日常生活のレベルですでに獲得されているものである。
科学者でなくても、普通に生きている人間なら誰でも「生物(生き物)」とは何かを了解しているし、「物(物質)」とは何かを了解している。
「生物とは何か」、「物とは何か」と改めて問われれば答えに窮するかもしれないが、でも、なんとなくわかってはいる。
科学者も、普段の日常生活の場面では、やはり一人の普通の人間として日常生活を送っているのだから、こういう了解のなかで生きているといえる。
269 :
考える名無しさん:03/02/04 13:46
哲学はこのような人間の日常生活のレベルを問題とし、さらに「生物」とか「物」等々の根本概念そのものを問題にする。
哲学が科学の「仮設(ヒュポテシス)」や「始源(アルケー)」を問題にする学問であるということは、すでにプラトンやアリストテレスもいっていたことである。
ただし、実証諸科学がおのれの研究成果に応じて、おのれの出発点となっている根本概念そのものを問い直すということはありうる。
たとえば、生物学がおのれの最新の成果にもとづいて、改めて「生物とは何か」を問わざるをえなくなり、
それに応じて従来の「生物」の概念が修正を迫られるということはありうる。
他の実証科学にしても同様である。
本来の科学の「運動」とは、このようにしばしばおのれの根本概念の外に出て、これを問い直すことにこそあるとハイデガーはいっている。
そのばあい、科学者は科学者としてというよりも、むしろ一人の哲学者として問うている。
しかし、そのばあいに科学者が、最新の科学的成果をもとにしながらも、自分が日常生活のレベルで身につけている様々な偏見や先入見を通して
ある種の哲学的反省をしているのだとすれば、それは問題だろう。
じゃあ「根本概念学」だ
271 :
考える名無しさん:03/02/04 13:49
哲学者=科学オンチ
科学者=哲学オンチ
これ常識
272 :
考える名無しさん:03/02/04 14:27
>>262 自然現象を哲学では理解できないでしょ?
>>236で言っている事自体、科学、特に物理学を理解できていないと思う。
自然を数学的に表し、それを人間として理解しようとする時点で哲学的な
要素は生まれるよ。
>>238 僕は
>>236で
>相対性理論とか不完全性定理のような枠組みを揺るがす(あるいは枠組みを
>転換する)達成があると、人はそれを成し遂げた者に哲学者の側面を見よう
>とするのも、そういう事情があるから。
と言ったが、この「哲学者の側面」はあなたのいう「解釈学」に相当すると思う。
とはいえ、ここにこそ科学固有の反省があるし、それは哲学ではありえない。
(もちろんこれは科学者が哲学者を兼ねることができないということを意味しない)
だからパラダイムチェンジを成し遂げた科学者=解釈学者は、その後新しい科学的
価値に沿って科学者に戻る。
科学者が解釈学に下手に関わり続けるとDQN哲学(アルチュセールに言わせ
れば「最悪の哲学」)を展開しかねない。
もちろん哲学だって、いわゆる解釈学を常に超えた何かであり続けるわけでもないが。
話は違うが、ドゥルーズの哲学(概念)と科学(ファンクション)の区別はいい。
ここにはどっち上かとか同一視するとかいうようなウンザリするような与太話が
微塵もなく、いい気分だ。
>>272 >自然を数学的に表し
物理がそのままの自然を扱って数学で表現していると思っている君は物理学
を勘違いしていると思う。
物理学が対象としているのは始めから数学的に構成されている座標をもっている。
だからそういう意味で物理学は数学なんだよ。
理論物理ともなるとそれははっきりする。
>>268 反対意見はないけど、ドゥルーズ読んでる時のようにいい気分にはなりにくい。
世界を感じにくいというか。
取り扱い要注意というところかな。
276 :
考える名無しさん:03/02/04 16:27
>>274 「自然は数学という言葉で書かれている書物だ」
私はそう思っているが?
>物理学が対象としているのは始めから数学的に構成されている座標を
>もっている。
君こそ勘違いしてないか?物理は自然を理解しようとして
生まれてきたが、そのためには数学が必要なんだよ。
277 :
考える名無しさん:03/02/04 16:50
278 :
考える名無しさん:03/02/04 17:02
>>276 そうだね。
もうちょっと相手のいってることを理解してから書き込んだ方がいい。
279 :
考える名無しさん:03/02/04 17:14
なら
>>274の
>物理がそのままの自然を扱って数学で表現していると思っている
>君は物理学を勘違いしていると思う。
なんていう理由がわからない。
280 :
考える名無しさん:03/02/04 17:15
ちなみに、数学的に構成できない座標なんてあるのか?
281 :
Kurihara:03/02/04 17:27
ないでしょう。それが数直線を使っている限りは。
282 :
考える名無しさん:03/02/04 19:41
283 :
考える名無しさん:03/02/04 20:05
パラダイムチェンジが起きれば、少なくとも哲学に影響を及ぼすことは容易に想像できるけど
284 :
考える名無しさん:03/02/04 20:22
283には是非とも<パラダイムチェンジ>とは何か解説して頂こう。
285 :
考える名無しさん:03/02/04 20:32
>>284 説明と言われてもね?
パラダイムに哲学と科学ではニュアンスが違うんじゃないの?
と思わせるような2ちゃんねら〜特有の馬鹿な質問をするところに嫌らしさが見え隠れするが
たとえば進化論や相対性理論のことでないのぉ?
一瞬でもクーンなんか語ってくれることを期待した284は馬鹿。
283は中学生。
287 :
考える名無しさん:03/02/04 21:08
というか
>>284は「パラダイム」が安易に使っていい言葉ではないと言いたいのでは?
288 :
考える名無しさん:03/02/04 21:30
今日もゆく我ら妄想者
馬鹿しか集まらなくなった哲学板。
またwかよ。
ほんとに馬鹿っぽいな。
つーか科哲なんてしらねーんだろうな。
終わってる奴はこなくていいよ。
分類とは何のために存在し、いつ発明されたのか。
>>293 おまえも氏んでいいよ。
ぴかぁ〜と一緒に逝けよ。
分類はいつも矛盾を生む。しかし分類せざる終えないのが人の能力の限界。
>>297 矛盾を生むっつーか、矛盾を孕んでいるんだろ。
矛盾を孕んでるっつーか、矛盾を生むんだろ。
300!
最新の分類に更新
科学や「真理」の追求、「知」の蓄積も良いのだけれど、哲学には歴史的にそういう
活動に対するロマン主義系の反動もあったわけだよね。こっちは科学よりも、むしろ
文学、芸術に近い。観察された現象の規則性の「基礎」を発見、解明するのではなく、
価値を自ら創造する。そして、哲学は政治的側面も無視できない。かつての哲学者は
同時に科学者、数学者でもあった人が多かったわけだけど、文学者、芸術家、政治家、
運動家だった人も同じく多かった。
無論、芸術的な創作や政治活動も、神の御心、真理の実現手段の一環、延長としてやっ
てた思想家もいたけど、その全てが「真理」の追求、「知」の蓄積としての哲学に還
元されるとは思えないんだよね。逆に、むしろ知、真理の方が権力闘争、政治の産物
であると指摘する人もいるし、芸術的創作に無限の自由を認める人も多い。
303 :
考える名無しさん:03/02/05 00:32
たしかに哲学にそういう側面はあるけど、でも逆に、それが、
科学から見ると、一個の学問とは認められない側面だって
いうことになるんじゃないかな。
まあ、人は科学のみで生きるにあらず、とは思うけど、、、
304 :
考える名無しさん:03/02/05 00:36
このスレには物理学の立場からカキコしている人がいるみたいだけど、
その人に聞いてみたいのは、物理学者が個人的に抱いている世界観、
場合によっては宗教についてどう思うかということ。
たとえば、ガリレイにしても、ニュートンにしても、アインシュタインにしても、
彼らを根底で突き動かしていたのは、ある種の宗教的ないしは形而上学的
信念や世界観だったよね。
>>304 別になんとも思っていない、が大多数では?
>でも逆に、それが、科学から見ると、一個の学問とは認められない側面だって
>いうことになるんじゃないかな。
むしろ哲学は「学問」じゃない、と彼等は反発してるわけでしょう。私は「哲学者」ではない、
「哲学」はもはや不要、と昨今は否定するのまでいる。そもそも芸術家や文学者の多くは大学
に属して「学問」をやってるわけでは無いわけです。
ポストモダニズは最新のロマン主義だと言われますが、彼等などは科学者に「学問」として認
めて欲しいどころか、逆に科学の学問性を批判する。科学と疑似科学の境界に疑問を投げかけ
る。だから、ソーカル事件のような手痛い反撃が来たわけです。同じ「哲学者」でも論理実証
主義者とかだったら、NYUの物理学教授もあんなことしなかったでしょう。
哲学は「万学の女王」などと呼ばれていたわけですけど、近代に入り諸科学が帰納、
演繹という科学的手法と限定された問題領域と共に次々に独立していって、パラダ
イムを築き驚異的な発展を遂げ出すと、逆に取り残された哲学が科学を模倣しだし
たわけです。啓蒙の時代には、特にユークリッド幾何学とニュートン力学が理想と
してもてはやされた。
これに対し近代後期には、解釈学者や構造主義者といった人たちが、テキストの読
解だとか言語を哲学のモデルにしようと試みた。構造主義も当初は科学的な方向を
目指していましたが、ラングではなくパロールの作用が着目しだされ「ポスト」と
突き出す頃には逆の方向に進みはじめる様になる。分析哲学も言語をモデルにしま
したが、ローティまでくるとポスト構造主義と大して変わりが無くなってくる。
しかしまぁ、自然科学モデルでも、文学テキスト読解/創作モデルでも、他分野の
手法を哲学が借りてきているわけなわけで、哲学も墜ちたものだなぁ、という感が
否めせんけどね。あとコミュニケーション理論なんかは政治モデルと呼べるかも知
れません。とにかく、万学の基礎としての形而上学が廃れて以降、哲学がいまいち
パっとしないのは、そのためでしょう。もっぱら学際的な研究だとか、他の学問の
基礎論だとか、思想史、科学社会学がメインになり、女王というよりヒモと化している。
308 :
考える名無しさん:03/02/05 01:21
蟹さんは哲学で何をやりたいのですか?
309 :
考える名無しさん:03/02/05 01:30
このスレ自作自演の予感
310 :
考える名無しさん:03/02/05 01:31
蟹=哲学の意味わかってない
311 :
考える名無しさん:03/02/05 01:33
ていうか哲学ってなんだよ!
わかった振りして哲学の歴史をかたんなよ!
312 :
考える名無しさん:03/02/05 01:42
ていうか蟹さんも哲学に期待するものがあるんじゃないですか?
でなければ数学でも物理でもなんでもいいけど、自分の専門に専念していれば
いいわけで、構造主義とかなんとかなんて関係ないじゃないですか。
313 :
考える名無しさん:03/02/05 01:47
形而上学が無意味であるというのがおかしい
これは論理実証主義の線引きの欠点でしょ
だから形而上学の中で有意味なものを引き上げる行為が哲学にとって求められるんじゃないかな
蟹くん、きみ最悪だよ。こっちから渋柿投げちゃうよ。
形而上学が万学の基礎?
わははは。こりゃだめだ。
哲学と自然科学との間に境界線を引いているような人には
どんな学問もできないよ。
すべての学問が論理に従う。これを無視していったい何ができる?
子どものお遊びは別として。
315 :
考える名無しさん:03/02/05 02:02
>>314 形而上学と自然科学には明確な境界線がある
神学は自然科学?
>>315 おれが言ってるのは形而上学は学問でも何でもないってことだよ。
哲学も学問である以上は論理にしたがう必要がある。
これは常識。
317 :
考える名無しさん:03/02/05 02:10
>>316 形而上学も論理に従ってるよ
未来は決定されていない、しかし未来はあらかじめ決まっている
なんて形而上学はない
318 :
考える名無しさん:03/02/05 02:23
蟹さんのような人に聞きたいんだけど、学問の価値が科学的真理に尽きる
ものだとするのなら、自分の狭い専門の外に広がる科学的真理の世界をどう
位置づけ、自分の専門をどう位置づけのですか?
それと科学的真理は第一線ではほとんどなま物だよね。
翌年にはもう古くなる。
それでも不満はないですか?
しかも第一線の科学者はめったにいない。
そこで第一線でない科学者が後追いで得た科学的真理に価値はあるの?
「君は今日知ったかもしれんが、我々にとっちゃ常識だよ」といわれても。
>蟹=哲学の意味わかってない >ていうか哲学ってなんだよ!
「哲学と他の科学との違いはどこにあるか」とあるのだから、通俗的に「哲学」と「他の科学」
という分類があるのは前提でしょう。大学でも哲学部と物理学部、文学部、法学部は別個です。
しかし、「他の科学」が哲学から分岐して発展してきたという経緯もあって、厳密な境界線を
引くのは難しい。特定の方法論と問題領域でもって自らのアイデンティティを確立し、分離独
立していった「他の科学」と比べて、「哲学」の定義はずっと難しい。それを無理に狭く定義
するなら、物理、文学、法学…等以外の学問、としかなりえません。広くて意義すれば、実質、
哲学=学問一般、知的活動一般になってしまいます。
固有の定義、アイデンティティは、差異に基づきます。哲学は、広い意味ではイコール「学問
一般」なので、これでは「哲学と他の科学との違い」を論じる余地はありません。狭く定義す
る場合には、差異は質ではなく量の違いを問わねばならないでしょう。まず(1)問題領域の
違いが明白です。物理学者はもっぱら物理現象を研究するでしょうが、哲学者は物理現象ばか
り研究するわけではない。他の分野も研究する。更に(2)方法論の違いがある。「他の科学」
では、実験、観測など実証的な方法がメインですが、哲学ではそれ以外にもある。先に述べた
解釈学、ポスト構造主義のテキスト読解モデルもあれば、デカルトのコギト、プラトンの対話
など、多種多様です。形而上の思索は、独立していった「他の科学」には受け継がれなかった
ものなので、ある意味「哲学固有の方法論」と言えるかも知れません。
320 :
考える名無しさん:03/02/05 02:24
俺も理解が甘いけどみんなもちっと科学哲学を勉強しよう
>>317 じゃ、形而上学の定番「神の存在証明」という例をあげるね。
おれあらしてるつもりはまったくないんで。
アンセルムス版でいくよ。
1神は完全だ
2完全なものは存在を含む
3だから神は存在する
これ形式的には三段論法という典型的な「論理」に
したがうように見せかけてるよね。
でも1(大前提)の「神は完全である」はそういう存在を
われわれが仮定しているという言明にすぎないにもかかわらず
3において神の「現実存在」を帰結するという
言葉遊びをやってるにすぎない。
これを論理的、というんですか?
哲学部は聞いたことない。文学部哲学科は多いね
323 :
考える名無しさん:03/02/05 02:28
哲学が学科になってるのがね
一年時は強制必修にすればいいのに
324 :
考える名無しさん:03/02/05 02:28
で、蟹さんは哲学に何を求めているの?
325 :
考える名無しさん:03/02/05 02:29
>>324 俺は蟹じゃないけど
こう答えてみる
哲学は知を愛すること
だから知を愛さないものは哲学ではない
おい蟹くんよ。おいらをシカトすんじゃねぇーよ。
おマエさんのかきこは長いだけで内容がないんだよ。
哲学、っていうジャンルが独立して存在している、
そういうあんたの思い込みをまず疑ってみたらどうなのよ?
327 :
考える名無しさん:03/02/05 02:39
>>321 神の存在論的証明にたいするカントの批判を知っている?
328 :
考える名無しさん:03/02/05 02:39
>蟹さん
>>318がいいこといった。
科学的真理のなま物性に関してどう考えますか?
数学とか物理の世界ではなま物性はかなり強烈だと思うけど。
蟹の哲学観への対案を出すからレスたのむ>all
哲学とは知の基礎付けであり、批判である。
よってすべての学問的探究の基礎であり、
科学を含む学問的な営みと切り離せない。
330 :
考える名無しさん:03/02/05 02:40
DQNDQNDQNDQNDQNDQNDQNDQNDQNDQN
>>308, 312, 318
私は政治哲学に関心があるので、真理探究や知の蓄積よりも、政治の方が先に来ると言う
立場です。無論、自然科学モデルの有用性は否定しませんが、「有用性」という概念自体
はプラグマティックで、政治的なものなわけです。真理を真理自体のために探究したり、
知を知の為に蓄積するようなのには、関心がありません。だから「哲学」を中途半端な科
学のように理解するのには、納得できない。それはロマン主義系の芸術家肌の「哲学者」
も同様でしょう。まぁ「哲学」という名前自体にこだわる故はありませんが。
>>327 アンチノミーを知らずにこんなところにカキコしません。。
猿はすっこんでろよ
334 :
考える名無しさん:03/02/05 02:47
カントは神の存在論的証明を「論理的に」間違っているとは一言もいってないよ。
ただ、神という存在者はわれわれにとっては現象しない=知覚できない存在者だから、
認識の対象にはなりえないといっただけだよ。
むしろ「論理」だけで思弁的に考えていくと、独断的形而上学になるということだよ。
335 :
考える名無しさん:03/02/05 02:51
まあ、「論理」という言葉を分析哲学のいう意味で捉えるならば、
また話は別だけど。
>>333 るせーぼけ
蟹クンの言う「形而上」の方法って、端的に言うとどういうこと?
ね、おせーておせーて>蟹
猿は消えろ
>>331 あーそういうことだったんですか。
哲学といっても、科学性どころか学問性にもこだわらない哲学がありますからねえ。
でもプラティークの論理は欠けているとは限りません。
今日はありがとうございました。
>>329 >哲学とは知の基礎付けであり、批判である。よってすべての学問的
>探究の基礎であり、科学を含む学問的な営みと切り離せない。
貴方が何を論じたいのか不明なのですが、「哲学」という言葉の用法を言っているのですか?
もし貴方が単に自己流で「哲学」という言葉をこう解釈して使っているというだけなら、議論
の余地などないでしょう。それは貴方の自由、勝手ですから。
もしそうではなく、これを正しいか、正しくないかを検証できる事実命題として言ってるなら、
その反証条件は何です? 例えば、あるAという「哲学者」がいて、彼の研究活動は何であれ
「哲学」であるとしましょう。この「哲学者」の研究活動が、貴方の言うような「知の基礎付
けであり、批判」でなければ、貴方の主張は誤りになります。そういう「哲学者」は今の時代、
幾らでもいるでしょう。無論、現代思想家の多くはもはや「哲学者」じゃない、と言う事もで
きますが。
>>334 カントは悟性の使用法を間違えてると言ってるの。
たしかにカントはアンセルムスの存在論的証明を
非論理的とは言っていないが、悟性の適用範囲は
越えているとして、アンチノミーに陥る点を批判したじゃないですか。
341 :
考える名無しさん:03/02/05 02:57
>>339 哲学の定義づけは自然科学、形而上学、哲学のどの部類に入るの?
お、やっと蟹クンが反応してくれた。謝謝。
ちょっと話しを元に戻すようで申し訳ないんですが、
蟹クンは形而上学を万学の基礎だと言いましたよね?
このロマンティックな言明の趣旨をもう少しくわしく
説明してくれないかな。
そうすれば、おれの「対案」(あなたの冗長なかきこ
への形式的な批判をもこめてさっぱりした表現に
しすぎているため、ばかばかしく見えるでしょうが)の
趣旨ももっとはっきり説明できるので。
よろしくね〜
>>339 >哲学の定義づけは自然科学、形而上学、哲学のどの部類に入るの?
言語学とか国語学じゃないですか。あるいは社会学か。無論、私は言葉の単なる
用法自体にはさして関心はありませんけど、これはこれで意義のある問題なんで
しょう。私はむしろ、「哲学」という言葉で指されるところの知的活動の性質の
方に関心があります。
344 :
考える名無しさん:03/02/05 03:05
「哲学とは知の基礎付けであり、批判である」
このばあいの「知」って学問的な「知」以外も含むのかな?
345 :
考える名無しさん:03/02/05 03:08
哲学の定義は哲学者が好んでやることだと思うけど。
346 :
いちせんせ:03/02/05 03:10
>>344 第一、「学問的な「知」」って何よ?
あらゆる現象が学問という言葉に置き換えられている現在だよ?
347 :
考える名無しさん:03/02/05 03:10
「形而上学」=「万学の女王」の言い間違いじゃないの?
>>344 含まないよ〜。舌足らずでごめんなさい。
349 :
考える名無しさん:03/02/05 03:11
>、議論 の余地などないでしょう。それは貴方の自由、勝手ですから。
ふと思ったのだが
議論の余地があるとはどういう状況を言うのだろうか?
350 :
いちせんせ:03/02/05 03:12
>>349 ある現象の確証が取れて、その確証を証明する必要が生じることだと思うが?
351 :
考える名無しさん:03/02/05 03:12
それなら、やっぱり哲学の定義としては狭すぎるね。
学問以前の「知」もありうるし、それを問題にする「哲学」もあるんだから。
352 :
考える名無しさん:03/02/05 03:13
>>350 ちょっと待って
証明、確証、それが議論の余地があるということなの?
むしろ逆じゃないの?
証明、確証できないことが議論の余地があるんじゃない?
353 :
いちせんせ:03/02/05 03:14
オレは哲学は、知識を自分の感覚器官の一つとして
加えることを意味すると思っている。
354 :
考える名無しさん:03/02/05 03:17
蟹が「知の欺瞞」なんてもの振り回すから混乱したんだよ。
>>351 ちょっと待ってよ。それが形而上学=超越哲学=何でもありのデンパ界
に道を開いちゃうんじゃないの。
それこそ議論にならないと思うけど。
356 :
考える名無しさん:03/02/05 03:17
>>353 意味不明なのでもう少し詳しく説明して下さい
357 :
いちせんせ:03/02/05 03:17
>>352 証明・確証が出来ないから、証明・確証をしようとするために
議論を繰り返すことが出来る状態のことを言うのだと思う。
>蟹は形而上学を万学の基礎だと言いましたよね?
例えばプラトンの生み出した諸理論は、イデア無くしては成立し得ません。デカルトの
コギト、カントの自立した合理的個人も同様。キリスト教なども典型例でしょう。聖書
の天地創造は神なしにはありえないのですから。いずれも経験的な手法に依らず、理性
(あるいは啓示)に依る内省のみで論証する類いのものだから、形而上と言います。近
代以降はこうした形而上学的基礎付けが後付けの嫌いが強くなり、次第に廃れてきたと
言ったのです。
>>357 証明・確証がなぜできないかを証明・確証する、
という学問的な道筋があることもお忘れなく。
360 :
考える名無しさん:03/02/05 03:21
>>357 ごめん、俺の読解不足だった
とすると蟹は、哲学の定義づけは確証する必要がないという立場か
361 :
考える名無しさん:03/02/05 03:21
>>355 なんでそうなるの?
ここでいう学問以前の「知」というのは、ごく普通の人間が日常生活のなかで
そこに身を置いているような暗黙知、了解、ばあいによっては偏見や先入見
のことだよ。
これらは学問の対象にはなるが、学問的な「知」ではない。
もちろん、それを一部として含んでいることはありうるけどね。
362 :
考える名無しさん:03/02/05 03:23
解釈学を知らないのか
363 :
いちせんせ:03/02/05 03:25
>>356 うーん、実体験のようなものだからなぁ。
説明しづらいよ・・・
自分と知を同化させることが哲学であるとも言えるんだが・・
364 :
考える名無しさん:03/02/05 03:28
>>363 それだと、なにも哲学である必要はないのでは?
科学でも同じことになるのでは?
蟹の言うことは朦朧としているし、猿は猿だし、どうしたものか
366 :
考える名無しさん:03/02/05 03:32
認知科学と記号論理学が哲学から分かれちゃった今となっては、
哲学に残されたものは形而上学ぐらいしかないかもよ。
367 :
考える名無しさん:03/02/05 03:39
応用倫理学の課題は当分つづきそうだが、、、
368 :
いちせんせ:03/02/05 03:39
哲学とは事実や現象を分析することでは無いんだと思う。
事実や現象に直接触れることではないのか?
事実や現象を客観視せず、それがあたかも自分の体内で起こっている問題
であるかのように取り扱い、思うこと。
何だか話が抽象論でスマソ。頭が働かなくなってきた。
>>358 形而上学=アプリオリな理性使用ということですね。
でも理性という概念を用いる以上、その適用範囲が無制限でいいとは
考えられません。別にカントの議論を踏襲するだけでいいとは思いませんが、
この点ではカントが区別した「超越的な理性」と「超越論的な理性」の
差異は忘れるべきではないと思います。
「超越論的=先験的=認識の可能性と条件を内在的に問う」理性の
使用こそ、カントの構想する未来の形而上学でした。
しかしこのように限定された形而上学は要するに合理的な知の基礎付けと
批判に過ぎない。形而上学はカントとともに合理的な学問的方法の
別名として「内在化」されちゃった。
これは形而上学が廃れたのではなく、
ノーマライズされたということじゃない?
370 :
考える名無しさん:03/02/05 04:02
僕は
>>369を読んで、猿と蟹は喧嘩してるだけで
考えてることはそんなに違わないんじゃないかと
言う気がしてきました。
371 :
いちせんせ:03/02/05 04:11
>>369 >>370 どちらにも同意。
でも、未来の形而上学が、合理知の位置付けと批判だけをしているとは
言えないと思うな。
あらゆる存在の目指す形態がアカシックな存在であると仮定すると、
アプリオリな理性の使用、すなわち未来の形而上学は、その存在になるための
重要な第一歩であると思うが。
喧嘩なんかしてないじょ〜。平和だ平和。
で、暗黙知のレス
>>361は、おれがコンテクストを理解してませんでした。
蟹クンの言ってる哲学と科学の境界はいまだに意味がわかりません。
たんなるロマン主義にみえます。
蟹クンはまえの吾輩の哲学の定義を「勝手に言ってるだけ」と
批判してましたが、でも哲学が学問的な知の条件付けと批判でないという反証は
ほんとにできるんでしょうか。
蟹クンによると反証条件はたった一人でもそういう探究をしていない「哲学者」
がいればいいということでしたが、そんなう奴をどうして「哲学者」と
よべるでせう。
吾輩が言いたいのは、哲学とそれ以外の知的探究を切り離して、哲学独自の
領域を確保するような姿勢は、たんなるロマンティシズムに過ぎない、という
ことですだ。
せんせー、アカシックってなんですか?
すいませんが、猛烈な睡魔がおそってきてしましました。
もう少ししたら寝たいと思います。おさわがせしました。
>形而上学=アプリオリな理性使用ということですね。
別に理性に限りません。神様からの啓示でもイデアの記憶でも絶対精神でも善意志でも
同じことです。人間が五感で経験することのできる事物の存在や運動の規則性の背後に、
それを超越した五感では直接感知できない「基礎(foundation)」を想定するような論
を「形而上学」と呼んだだけです。経験以外の如何なる手段でその「基礎」を知ろうと
も構いません。
それでは
>>339 に戻りましょう。
375 :
考える名無しさん:03/02/05 04:31
>「基礎(foundation)」を想定するような論
基礎が形而上学?
それとも基礎があるのが形而上学?
376 :
いちせんせ:03/02/05 04:34
>>373 オレも眠いんで、コレで落ちます。話の続きはまたいつか。
アカシックとは西洋神秘学の用語です。
アカシックレコードという概念があります。
これは、よく巨大なコンピューターに例えられるのですが、
2億6000万年前から、AD2万6000年
(一説には万物の起源から終末までとも言われてます)
までのすべての情報がつまっている、記録の殿堂のことです。
そこには、あらゆる存在の歴史、あらゆる存在の意識が
存在すると言われています。
仏教で言う「無量寿光」の概念、ユングで言う「集合的無意識」、
プラトンで言う「アニマ・ムンディ」(宇宙魂)、
ウパニシャッド哲学では「私はそれであり、あなたは
それであり、万物はそれである」の記述、
聖書では「わたしと父とは1つである」(ヨハネによる
福音書-10章30節)の記述がこれに当たるとされています。
ま、ちょっと電波入ってて、私の中ではギリギリの許容範囲の
概念なんですが。
>>375 >基礎が形而上学? それとも基礎があるのが形而上学?
まず、「基礎」にもいろいろあるわけです。合理主義的な基礎もあれば、経験主義的な基礎も
あるし、神学的な基礎もある。で、経験主義者達は、自分以外の基礎付けの試みを全て「形而
上学」だと批判した。
しかし、経験主義者の基礎付けもまた、皮肉にも後に「形而上学」だと批判されることになる。
例えば論理実証主義のverification principleは、それ自体の正しさは「実証」できないのだ
から「形而上学」じゃないか、などと批判された。客観的な永遠不滅の真理の基準と言う意味
では、どんな「基礎」も程度の差こそあれ「形而上」ですね。
反「基礎」付け主義(anti-foundationalism)なんて現代思想の流行りみたいなものでしょう。
ローティ、フーコー、バルト他、「知の基礎付け」としての哲学には概ね批判的です。ロール
ズでさえ後年にはカント的な原初契約による客観的「基礎付け」を捨てている。
客観的、普遍的な基礎を諦めるとすると(1)完全な相対主義、ニヒリズムか、或は(2)地
域、時間限定で有効な、間主観的な「基礎」を目指すことになる。前者はポストモダニストに
多く、ロールズやローティ、ハーバーマスあたりは後者ですかね。有用なものが正しいとか、
民主的に同意されたものが真である、という風に変わった。
未だに啓蒙主義を丸まる引きずって「知の基礎付け」を目指してるような人は、どれだけいる
んでしょう? ラカトシュもそんなお気楽なことは言わないし。あとは「ゲイは悪」とか言っ
てる反動的な自然法主義者とか、新トマス主義者くらいのものでしょうか。
379 :
考える名無しさん:03/02/05 12:50
304 :考える名無しさん :03/02/05 00:36
このスレには物理学の立場からカキコしている人がいるみたいだけど、
その人に聞いてみたいのは、物理学者が個人的に抱いている世界観、
場合によっては宗教についてどう思うかということ。
たとえば、ガリレイにしても、ニュートンにしても、アインシュタインにしても、
彼らを根底で突き動かしていたのは、ある種の宗教的ないしは形而上学的
信念や世界観だったよね。
380 :
考える名無しさん:03/02/05 12:55
アインシュタインが「神はサイコロ遊びをしない」と言ったけど
それも形而上学的信念に過ぎない
381 :
考える名無しさん:03/02/05 12:59
思想はどうであれ、理論が証明されることが第一。認識はそれから。
アインシュタインの脳みそはすばらしいとは思うが、宇宙観とか
は思想に縛られて止揚できなかったと思う。
たとえばアインシュタインの有名な言葉として、
「神はサイを振りたまわず」
ってあるけど、おそらくそれは重大な誤りとなったんだろう。
量子論を破棄することなり、さらなる物理学の発展はアインシュタイン
には無理だった。
もしアインシュタインが無宗教だったなら、もっと深く物理学を
発展させていたかもしれない。
「科学が進歩すれば、哲学は要らなくなる」。
こういう意見をしばしば聞くが、それは本当だろうか?
ウソです!
いくら科学が進歩しても、
それを正しい方向で使う哲学がなければ、ただのゴミです。
科学は、あくまで、道具。
哲学があって、始めて、その威力を発揮します。
もう一言。
アインシュタインは、つらい人生を送った人物であることは、意外に知られていません。
アインシュタインの妻、息子は、ともに、深刻な、精神病患者でした。
特に、息子の方は、終生、父を恨んでいました。
ノーベル賞の賞金も、すべて、治療代に当てられました。
そんな地獄のような人生で、見つけたものが、宝物のような法則だったわけです。
そういった、背景を見逃すと、彼を誤解してしまいますね。
光というのは、闇から生まれます。
君ねえ、科学が進歩しようがどう使われ様が哲学者にとっては
。。。
どうでもいいのだよ。
385 :
考える名無しさん:03/02/05 15:47
>いくら科学が進歩しても、
>それを正しい方向で使う哲学がなければ、ただのゴミです。
科学が進歩しなかったら、哲学はただのゴミです。
いくら科学が進歩しても、哲学はゴミです
387 :
考える名無しさん:03/02/05 17:21
>>381 量子力学の多世界解釈もコペンハーゲン解釈もどちらも証明できない信仰だと思う
それは形而上学における決定論/非決定論、客観世界の有無の信仰じゃないかな
形而上学の中にも有意味な問題はあるということじゃないかな
>>383 アインシュタインの心臓が破裂して死ぬまでの一週間に前妻の息子が会いにきた
それがアインシュタインの人生の中でとても幸せなことであっただろう
とフォローしとく
科学は事象の原因を探ること。
哲学は考えることを愛すること。だと思う。
科学が進歩しようが哲学に何の影響があるというのだろう?
「科学が進歩する」なんてフレーズは通俗的だなあ。
>>388 考えを愛するにもその愛し方が二種類あると思う
それはアインシュタイン的なそれとシュレディンガー的なそれ
科学の発展は哲学のあり方にフィードバックしうるのでは?
391 :
考える名無しさん:03/02/05 18:09
>>388 科学が進歩してなかったら、いつまでたっても
「物質の根源は・・・である」
なんてアホなことを哲学者は言ってたろうな。
392 :
考える名無しさん:03/02/05 18:20
>>391 それは哲学を知らんでしょ
とりあえず整理して見るか
科学の革命的進歩を整理して見ると
1タレスの出現
2アリストテレスの出現
3ガリレオガリレイの出現
4ニュートンの出現
5アインシュタインの出現
6それ以降
として現代物理学の発展は目覚しいからおいといて
過去の科学革命が哲学にもたらした重要な転換を見るというのはどう?
393 :
考える名無しさん:03/02/05 18:28
コペルニクスは?あと量子論ね。
俺個人の意見だけど、ガリレオ以前を科学と考えていいものか
どうか・・・
394 :
考える名無しさん:03/02/05 18:31
>>393 コペルニクス以前にも地動説はあったと聞いたものでつい
哲学との関連はカントつながりにはならないよね
カントはどうもニュートンとつながりそうだ
タレスとアリストテレスは形而上学だね
別になくてもかまわないと思う
タレスとアリスとテレス。
クリとリス。
396 :
考える名無しさん:03/02/05 21:15
>>394 >コペルニクス以前にも地動説はあったと聞いたものでつい
コペルニクス以前の地動説って、サモアのアリスタルコスですね。
アリスタルコスの方の背景はわかりませんが……(コペルニクス自身もアリスタルコスを参考にしたようですね)。
「天動説」「地動説」ですが、アリストテレス=天動説→コペルニクス=地動説と単純にはいかなくて、
たしかにコペルニクスの地動説は、17世紀の科学革命で、象徴的な転換なんでしょうが、
コペルニクスの理論は、あくまでアリストテレスのパラダイム内で行なわれています。
>タレスとアリストテレスは形而上学だね
>別になくてもかまわないと思う
近代の科学革命を語るうえでアリストテレスは外せないと思います。
アリストテレス以降の中世スコラ哲学の「机上の科学」からの脱却があるため。
ダーウィンは?
>397
科学史の中ではめちゃマイナー
399 :
考える名無しさん:03/02/05 23:34
アリストテレス→ガリレオ・ガリレイの転換がとりあえず基本になるのかな
実験の導入
これが哲学に与えた影響はと考えると・・
>科学史の中ではめちゃマイナー
な、あほな
藁
402 :
考える名無しさん:03/02/05 23:45
>400
進化論はダーウィン以前からあった
ダーウィンは獲得形質は遺伝しないという条件から
自然淘汰説を提唱しただけ
403 :
考える名無しさん:03/02/06 00:43
>>397-398 >>400 Ch.R.ダーウィンに関して。
J.B.P.A.de M.,Ch.de ラマルクが、進化のプロセスを生命体に内在するものと考えたのに対し、
ダーウィンは自然淘汰説を唱えました(『自然選択による種の起源』)。
要点としては、(1)ラマルクの生命に内在的、つまり目的論的な進化論が、
(たとえば人間を万物の霊長と考えることが可能な)直線的な進化の図式を持っていて、
あくまで進化の分岐が例外的になるのに対して、
ダーウィンの進化論は分岐が基本であり、人間=霊長とは考え方が逆です。
この延長線上にあることですが、リンネ式の生物の分類にも影響を及ぼしました。
分類学上、さまざまな問題がありますが、現存の生物に合うように、化石なども検証しつつ、
1つの系統を作るのは、過去を復元することなので、禿しく難しいです。
ダーウィン自身も、実証不可能ということで、進化の系統樹を作ろうとしませんでした
(『種の起源』そのものは帰納的みたいです。本人談ですが)。
(2)(1)と似たことですが、(1)はどちらかというと生物学寄りの影響でしたが、(2)はそこから離れて。
ダーウィンは、生物の多様化・分岐は、自然選択と生存競争によって起こると考えました(「分岐の原理」として定式化されたもの)。
自然選択が神学的に、生存競争が目的論的に響くかもしれませんが、ダーウィンにとってはそうではなく、
自然選択は自然淘汰、つまり生物の環境への適応のことであり、生存競争は、生態学的圧力です
(生態学的圧力とは、生物同士で資源を争うような状況であり、資源の利用法を方法が多様化する方向に、生物が多様化していく)。
このような分岐の原理の定式化は、ラマルクの目的論的進化論と異なり、
きわめて作用因的・反目的論的で、機械論的自然観の一部といえます
(ただ、作用因的な進化論が認められたのは、20世紀中ごろ以降ですが)。
こんな感じ? 間違ってたらスマソ。
404 :
考える名無しさん:03/02/06 01:21
おまえら、くだらねーな。
どーせ、大学の講義の生半可な知識で闘ってるだけだろ。
405 :
考える名無しさん:03/02/06 01:23
だいたい、蟹が政治哲学に興味あるだって?
やめとけよ。おまえには学問のセンスがない。
406 :
考える名無しさん:03/02/06 01:24
学問のセンスがないから、哲学の理解も浅い
407 :
考える名無しさん:03/02/06 01:27
おまえみたいなヤシが、実社会に受け入れてもらえず、
結果、大学院に行くことになる。
まあ、猿と蟹は、レス稼ぎの自作自演なら許すが。
何か勘違いしてる馬鹿が一人で逆切れしてる。
なに怒ってるんだろこいつ。w
409 :
考える名無しさん:03/02/06 10:05
歴史的には科学の発展も連続的なもんでむずかしいなぁ
410 :
考える名無しさん:03/02/08 12:49
せっかくの良スレ、あげよう
しばらく見ない間に、ずいぶんレスが進んでしまって、ついていけませんが、
・哲学者と倫理家と人格者の区別はなにか
・論理実証(科学)は形而上学とは何が本質的に異なるのか、あるいは異ならないのか
・近代以降に形而上学が廃れたのはなぜか
この質問にちゃんと答えてもらえれば、その人の「哲学感」がかなり分かるような気がします。
412 :
でつ ◆DETSubie.M :03/02/20 02:56
>>411 自分が答えられる自信のある質問ばかりするのは幼稚でつ。
あなたの「哲学感」がかなりわかるでつ。
413 :
考える名無しさん:03/02/20 03:00
414 :
でつ ◆DETSubie.M :03/02/20 03:06
数学的方法が基礎になっていないものはすべて文学である
ところで数学それじしんは科学ではない。
>>414 いや、お約束とか実際どうでもよくて、本当に答えてほしいんだけど。
418 :
考える名無しさん:03/02/22 15:30
科学は帰納法である実験と
演繹法である数学の合流点みたいなもんでしょ?
419 :
考える名無しさん:03/02/22 16:34
420 :
考える名無しさん:03/02/22 18:37
>>418 実験と数学が対等ではないから、合流って言い方はできん。
421 :
考える名無しさん:03/02/22 19:31
しょせん、哲学は人間中心主義。思い込みを旨としていて、宗教と似たりよったりですね。科学の論理実証性のほうが面白いです。
また、人間中心主義に最初から立脚せず、生物として、哺乳動物としての人間、その活動の一部としての哲学という捉え方なら
科学の方向から哲学を語ってみるのも面白いかもしれません。
422 :
考える名無しさん:03/02/23 00:16
論理実証主義www
その科学でさえ人間の主観から自由でないってのが昔からの問題なんだよなあ
424 :
考える名無しさん:03/02/23 14:10
自然科学ももちろん主観のものでしょう。
論理実証を正しいと考えるのも人間、様々ある物理法則のつながり方に矛盾がなければないほどそれらの法則・理論を正しいと考えるのも人間です。
しかし、かつて宇宙に人間が存在しなかった時、そして今後もし地球上から人間がすべて消え去った時、人間以外の物質や物質変化にはなんの規則性も法則性もないでしょうか?もちろん、そこに人間が存在しない以上(主観が存在しない以上)わかりません。
哲学は、人間が存在しない場所では意味がないように思いますがどうでしょう?
日本人が地球上からまったくいない場合に日本の哲学は存在しません。
人間(人類)がまったくいない場合に哲学そのものも存在しません。
人間(人類)がまったくいない場合に、自然科学も論理実証も存在しません。
では、人間がまったくいない場合に人間についての規則性・法則性は?
人間がまったくいない場合について人間以外の物質や物質変化の規則性・法則性は?
現在という時の時点から考察して、どう考えたらよいでしょうか。
個人的には、最初から哲学をベースにするより、理論物理学や宇宙論、進化(の仮説)論、生物学動物学哺乳動物学、そして人間学、哲学、とつなげて考察し、そこにある規則性法則性のつながりに極力矛盾のない考え方を進めてゆくのが「妥協点としてもベスト」と思っています。
哲学をベースにすると、人間(人類)がいない状態についての考察は、ナンセンスであるとか混沌であるとか以上に語れないのではないかと思います。それでは詰まらないので。
425 :
考える名無しさん:03/02/23 19:01
人間(人類)がまったくいない場合に、自然科学も論理実証も存在しないかどうかは
科学は全く問題にしないから、その問いはまさにナンセンスとしか言いようがない。
426 :
考える名無しさん:03/02/24 15:14
大概の科学者は、宇宙空間から人類が消え失せても、物理法則等は成り立つと考えてると思うのですが・・
427 :
考える名無しさん:03/02/24 15:30
自分で、自分がその先に座っている枝の根元を
ぶった切ろうとするのはギャグですね。
この手の思弁でしかない議論は不毛だ
科学も、哲学も充分有益である。
428 :
考える名無しさん:03/02/24 15:56
427>>両方とも有益ですよ。有益でないとは言ってない。
が、人間とはなにか? を考える時、生物や空間や宇宙などと人間との「連続性」について
哲学は人間中心主義すぎて語れないので、哲学だけでは詰まらないと言ってるだけです。
あぼーん
430 :
考える名無しさん:03/02/24 18:00
431 :
考える名無しさん:03/02/25 16:57
ここまで読んだ。時々、哲学のほうが偉いと言うヤツ、自分の身の回りの人たちに聞いてみたら?
と、いうのが感想。
ふーん
春だね
433 :
考える名無しさん:03/02/26 09:41
まあ法律とか人権とか民主主義とかは
哲学のおかげで生まれたんだけどね。
435 :
考える名無しさん:03/02/26 13:00
>>434 さんさん勉強したけどね。何年も時間かけてさ。
でも今じゃ理論物理学や生物学や情報科学が俺にとっての哲学さ。強いていえばね。
科学者は哲学できるけど、哲学者は科学できねえし。
科学オンチの哲学者は多いが
哲学オンチの科学者も多いよ
437 :
考える名無しさん:03/02/26 14:18
それは思いこみ
根拠なし
439 :
考える名無しさん:03/02/26 14:49
科学者に哲学なんていらないんじゃないの?
昨日かな?マンモスを復活させようとしているおっちゃんがこんな感じの
ことを言っていた。
マンモスは古代人の狩猟で絶滅させてしまったのだから人間の手で復活
させなければいけない。ここまではっきりとは言ってなかったかもしれないが・・・
441 :
考える名無しさん:03/02/26 15:08
急にレベルが落ちたな
科学哲学は科学と哲学のどっちなのだろう
哲学だよ
443 :
考える名無しさん:03/02/26 15:19
量子力学やら理論物理学やらは哲学にも多大な影響を与えたと思うのだが、
哲学者でそれらに積極的に言及してる人はいるのかな。
>>443 積極的に言及しすぎるから、却って物理学者たちからウザがられてるんだけどw
445 :
考える名無しさん:03/02/26 15:22
>443
結構いるよ
量子力学の解釈問題では哲学者と物理学者を含めて多くの論争があったじゃん
当時は今ほど哲学と物理学が分類されてなかったけど
446 :
考える名無しさん:03/02/26 15:23
近現代哲学の歴史
存在論(→神学的転回)→認識論的展開(→コペルニクス的転回)
→言語論的展開→自然主義的転回(このライン主流)
or→解釈学的転回
or→身体論的転回
あぼーん
448 :
考える名無しさん:03/02/26 15:31
そういや、哲学者やめて数学者や物理学者になった人いなかったっけ?
449 :
考える名無しさん:03/02/26 17:12
いたと思うがな、日本にも。ただあまり有名でなかった気がする。欧米にもいたと思う。
それにしても、大衆民主義社会のなかでは哲学者の声は聞こえて来んな。
科学者や経済学者やらの声はTVでも聞こえてくるが。あと文学者の声も、今や聞こえん。
450 :
考える名無しさん:03/02/26 19:28
哲学は科学とともに進化する。
科学が進化しなければ哲学は進化しない。
451 :
fantom:03/02/26 19:34
かといって科学だけ発達して文化が発達しないとロシアみたいになっちゃうのかな?
452 :
考える名無しさん:03/02/26 20:53
>>450 そだね。そう思う。人間の正体が遺伝子情報だった、みたいなことが分かってきてる時代に、
それらの事実を十分咀嚼せずに「人間とは・・」とか言ってもね。意識や認識がどうのこうの
言ってても脳科学の方向からあっさり「それはこうです」って言われちゃったりとかさ。
科学の前には哲学は分が悪い。
科学と、そして心の支えとしての宗教(など)があれば、哲学はいらないかも。
あぼーん
>科学と、そして心の支えとしての宗教(など)があれば、哲学はいらないかも。
これだとまたオウムになる可能性もあるな
455 :
考える名無しさん:03/02/26 22:05
>>454 いや、そういう単純な意味ではなく。
人間と世界を知るためには哲学よりも科学のほうが必要だろうということと、科学が苦手な人たち(お年寄りとか)が現実に生きる糧として宗教など「信じる」ことはアリだと思うということ。
この二つに比べて哲学は中途半端な感じで、その役割もぼんやりしてしまうのでは? ってこと。
それに、おかしくなる前の彼らの本を読むと、宗教的な話より哲学的な話のほうが圧倒的に多く、けっこう関心もしたんだが。
>科学が苦手な人たち(お年寄りとか)が現実に生きる糧として
>宗教など「信じる」ことはアリだと思うということ。
科学者でも宗教を信じている人は多いがな。
そういう人たちはそのままでいいのかな?
>この二つに比べて哲学は中途半端な感じで、その役割もぼんやりしてしまうのでは?
仮に百歩ゆずって、哲学の役割がなにか「中途半端」なものだとしても、
一般に物事には両極端しか必要ではなく、その隙間を埋めるものがなくてもいい
と考えるのは、あまりにも稚拙な思考だと思うが。
>それに、おかしくなる前の彼らの本を読むと、宗教的な話より哲学的な話のほうが圧倒的に多く、
このばあいの「哲学的な話」とは何であるのかが問題だな。
2ちゃんの哲板の駄スレ乱立をみれば、世の中に「哲学」に対する理解が
欠如しているのは明白だし、その結果「哲学的」ではない話も「哲学的」と
勝手に誤解されている可能性もありうる。
458 :
考える名無しさん:03/02/26 22:34
>>456 誰も科学と宗教「など」が両極端だと言ってませんし、哲学をその隙間を埋めるものと言ってませんが。
それなら、科学、宗教、哲学、この三者が知の形態としてどう違うかを
きちんと位置づけてくれ。
そもそもこのスレは哲学と他の科学との違いはどこにあるのかを論じるスレなんだから。
460 :
考える名無しさん:03/02/26 22:55
>>459 誰も宗教「など」が知の形態とは言ってませんよ。
それにこのスレッドはあなたのいう「ちゃんと位置づける」ために議論していると思うのですが。
そんなに簡単ではないでしょう?
結局「哲学」や「宗教」や「科学」に対して
何となく抱いているイメージだけで
自分の所感のようなものを言っただけだな。
次からはもう少し具体的な立論を頼む。
462 :
考える名無しさん:03/02/27 02:18
>461自分でやりなよ。自分独りで。あんた>460の揚げ足取りしてるだけに読めるよ。
463 :
考える名無しさん:03/02/27 02:22
464 :
考える名無しさん:03/02/27 02:25
じゃああなたの決めつけが否定されてることにも答えてあげたら。
466 :
考える名無しさん:03/02/27 04:38
>>459 科学=物事の本質を数学的に記述し、未来に起こることを予言できる。
哲学=物事の本質を言語で探求する。
宗教=物事の本質を人格(神)として捉え、教えに従う。
467 :
考える名無しさん:03/02/27 05:47
科学=シュレディンガー方程式
哲学=色即是空
宗教=サイコロ
468 :
考える名無しさん:03/02/27 07:05
哲学ー科学理論の基
科学ー反復性のあるものを↑から伐採、植え込み。
宗教ー↑実用性のあるものへと形成外科的手術
迷信ー宗教対策
笑いーボケ対策
常識ー囲い
以下ーペンギンちゃん
政治ーペンギン対策
サル学ー政治家対策
経営学ーサル学対策
470 :
考える名無しさん:03/02/27 14:43
哲学は定義しようがないからね
ここでは哲学の中のある種の哲学だけを哲学として扱うことがいいと思う
とりあえず形而上学と科学でいいんじゃないかな
471 :
考える名無しさん:03/02/27 15:09
日本において、科学も哲学も大学や、法人、企業の中にしかない
大学教授や研究者、技術者としてはじめてそれらに「関わる」のである
これは社会的事実である
なるほど哲学は科学よりもこうした組織の外で独学「できる」ものかもしれない
しかしそれは結局個人に完結した「無力」なあり方でしかない
まずは巷に組織と関係なく「知を愛する」ことを活性化させるような
場がなければ。このスレのような質問は不毛だ
472 :
◆prDdJ8Ym5w :03/02/27 15:10
>471
ここにあるじゃん
473 :
考える名無しさん:03/02/27 15:59
>>471 場なんか求めてるうちに人生終わっちゃう。
どこででも、どんな場でも考え、議論し、また独りになって考える。
それでいいんじゃない。
474 :
考える名無しさん:03/02/27 16:13
学生は組織内の人間だって忘れないでね。
475 :
考える名無しさん:03/02/27 17:19
>>471 >なるほど哲学は科学よりもこうした組織の外で独学「できる」ものかもしれない
この一文で最初の3行が否定されてるw
476 :
考える名無しさん:03/02/27 17:39
>>475 哲学は何を学習したか、理解したかっていうのが分野によっては
曖昧曖昧だからな
科学じゃ基本的なところで勝手な解釈が入り込む余地はなかなかないだろう
哲学は学ぶっていうより「哲学科」に在籍してるとか
そういうことが意味がある。
比較的自由に考えていた大森荘蔵だって大学にずっといたでしょ
ちょっと銀行員やったかもしれないが
477 :
考える名無しさん:03/02/27 22:20
哲学は科学のオプションみたいなもの。
全ては科学を中心に回っている。
478 :
考える名無しさん:03/02/27 22:43
また意味不明ですね
良くも悪くも、日本は学問と芸術の国ではなく
技術と芸能の国です
2ちゃんもまさに「技術と芸能」のたまものですね
日本で哲学するのは西欧かぶれでオッペケペー
日本で学問するの、芸術するのは「損」ってこと
もちろん、優秀な学者、芸術家はいるけど。
ま、よくある、議論だから、「そんなことはない!」っていう人も
いりけど。。。
483 :
考える名無しさん:03/02/27 23:27
でも日本人なら日本でやりたいということ
ここで2ちゃんで哲学やればいいじゃん
あぼーん
>>483 大正解!気軽にいこう
日本人だから、もっときままに日本の良さ、楽しもうよ
もうそれほど我々も50年以上前に生まれた奴ほど「日本的」じゃないし
日本的って特徴的なものをもうそれほどもってない
かといって欧米的な力も価値観もない
なんか俺達って気軽じゃん??
486 :
考える名無しさん:03/02/28 03:24
気楽に行くに俺も一票。
西洋かぶれねえ・・見方によっては東洋哲学のほうが、よっぽど20世紀科学を内包できるとも思うんだが。
大事なのは否定したり削ぐことではなく、すべての統合さ。すべてを統合しつつ、最も矛盾のない思考や公式を提示しようとする試み。
俺はそう思う。
否定しかできねえのは若さの印だが、まあそれもいいんじゃない。それでいいじゃん。今は。
487 :
考える名無しさん:03/02/28 08:18
>>486 東洋哲学は本場過ぎて(なぜならここは東洋だから)
素人は逆に入り込みにくいし
もともとあまり民主的なものではないから
最初から平易な解説を受け入れてないし
真宗はそうでもないか。。
488 :
考える名無しさん:03/02/28 10:04
日本は技術と芸能の国
というより
実用性よ娯楽性がありがたがられるところ
489 :
考える名無しさん:03/02/28 15:49
最近の哲学はだいぶ東洋の流れを汲んでいるように思う
特に構造主義、オリエンタリズム批判から否定することにだいぶ否定的になってきたように思われ
でも俺はガチガチの西洋かぶれだからやっぱ否定は大事だと思うんだよね
否定する力こそ考える力だと思うわけよ
490 :
考える名無しさん:03/02/28 16:00
>>489 そんなことないよ。西洋やってた奴が安易に東洋に目覚めちゃったりする方が余程オリエンタリズムだよ
491 :
考える名無しさん:03/02/28 16:00
漏れも西洋かぶれだよ
日本食と日本酒と日本女性の大ファンだし
気候も景色も日本が大好きだけど
学問芸術技術開発、政治、戦争
みんな西欧が全然上だって思ってる
心のマイケルジャクソンさ
492 :
考える名無しさん:03/02/28 16:24
>>491 なかなかうまいことを言う。w
けど日本人にかぎらず、自国の文化のイケてる度って、外国文化との対比でしか見えてこないんだよね、たいがい。
外国人に自国のことを聞かれて、きちんと説明できるほど自国のことを知らない自分に気がつく。
で、西洋人、とくにプロテスタントのヤカラは相手に勝つ、もしくは勝ったフリをすることのみに
夢中になりすぎ。どうしても、の時なら仕方ないが平和な時でもいつもやりたがる。
幼稚すぎる。勝った負けたじゃなく、互いを認め合って楽しむほうが大人で楽しいと思うんだが。
あ、いけね、ただの愚痴になっちった。
前後するけど
>>489 そうだよね。俺も構造主義以降の流れに乗ってるタイプ。
俺は、否定することは手段の一つであって統合することが目的だと思う。
493 :
考える名無しさん:03/02/28 16:25
形而上学的な問いは哲学なしには無理と思われ
494 :
考える名無しさん:03/02/28 16:33
形而上学って・・哲学の一分野ですよね。
形而上学的な問いと形而上学とは別ものですか?
495 :
考える名無しさん:03/02/28 16:33
すさまじい攻撃心からくる議論、議論、議論
これが学問と芸術を発展させる
そして激しい欲望、達成欲、名誉欲から
技術発展と、強い軍隊が生まれる
こころの整形を繰り返すんだ、、西欧かぶれの日本人は。。
496 :
考える名無しさん:03/02/28 16:37
>>494 つまり我々が形而上学的な問いへの関心がある限り、
哲学というものが必要になるわけだ。
これが他の学問との違いだ。別に形而上学のあり方・学問定義とはここでは別問題としてほしいれす。
497 :
考える名無しさん:03/02/28 16:42
>>496 いや、形而上学的な問い=哲学だったら「哲学的な問いは哲学なしには無理だと思われ」
ってなるからアレ? と思って。
498 :
考える名無しさん:03/03/01 00:19
age
理屈を絵で示せるのが科学のよいところ。
わかりやすい。
あぼーん
501 :
考える名無しさん:03/03/01 00:32
びっくばんの意味を解き明かせば
形而上の問いはすべて解決する。
そのときが科学の勝利だ
503 :
考える名無しさん:03/03/01 00:41
ビッブバーン以前がどうなっているかが問題ですね。
哲学はプロフェッショナルに自己満足する手法だがね。
505 :
考える名無しさん:03/03/01 02:58
それは言える!
506 :
考える名無しさん:03/03/01 11:24
びっぐばんにしろチョーひも理論にせよ、地球が吹っ飛ぶほどの莫大なエネルギーによる
実験、論理実証ができない以上、科学の勝利ってことまでには至らないでしょう。
ただ、力の統一理論等において無矛盾な数式できれいさっぱり記述された時、科学者たちは「謎が解けた」と思うことでしょう。
ものを考えたり真実を考えたりすることは勝ち負けじゃなく、あくまですべての統合だと思うし。
507 :
考える名無しさん:03/03/02 00:41
あげ
508 :
考える名無しさん:03/03/02 02:30
ん。あがってるな。
(^^)
510 :
考える名無しさん:03/03/23 11:44
age
(^^)
あぼーん
SA
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
515 :
考える名無しさん:03/05/22 05:34
哲学はもはやご臨終であることを露呈しておる罠
516 :
考える名無しさん:03/05/23 03:50
日本で哲学するのは西欧かぶれでオッペケペー
日本で哲学するのは西欧かぶれでオッペケペー
日本で哲学するのは西欧かぶれでオッペケペー
日本で哲学するのは西欧かぶれでオッペケペー
日本で哲学するのは西欧かぶれでオッペケペー
日本で哲学するのは西欧かぶれでオッペケペー
哲学のない科学はすべてカルトです。
518 :
考える名無しさん:03/05/23 23:07
>>517 同意。
同時に、哲学者がやっているつもりの思考・研究のほとんどが哲学ではない。
哲学オンリーはカルトです。
あぼーん
哲学なくして科学は不具であり、科学なくして哲学は盲目である。
あぼーん
517 :考える名無しさん :03/05/23 13:59
哲学のない科学はすべてカルトです。
518 :考える名無しさん :03/05/23 23:07
>>517 同意。
同時に、哲学者がやっているつもりの思考・研究のほとんどが哲学ではない。
哲学は男だらけというのが特徴。
526 :
考える名無しさん:03/07/18 08:29
男装した女がほとんどというわな。
527 :
考える名無しさん:03/07/18 08:29
オナベなんですか。
528 :
考える名無しさん:03/07/18 08:30
女はいないよな。
なんでだろ?
529 :
考える名無しさん:03/07/18 08:32
男装した女がほとんどというわな。
530 :
考える名無しさん:03/07/18 08:32
オナベなんですか。
531 :
考える名無しさん:03/07/18 08:32
女はいないよな。
なんでだろ?
532 :
考える名無しさん:03/07/18 08:33
女には向かないんだろうね。生理もあるし。
533 :
考える名無しさん:03/07/18 08:33
女の哲学者見たいなー。
534 :
考える名無しさん:03/07/18 08:33
出産もあるしな。
535 :
考える名無しさん:03/07/18 08:35
男装した女がほとんどというわな。
なんでだろ?
536 :
考える名無しさん:03/07/18 08:35
女はいないよな。
なんでだろ?
女には向かないんだろうね。生理もあるし。
女の哲学者見たいなー。
537 :
考える名無しさん:03/07/18 08:36
やばい、男に勝てない。
538 :
考える名無しさん:03/07/18 08:36
男しかいねーよ。
539 :
考える名無しさん:03/07/18 08:38
男装した女がほとんどというわな。
なんでだろ?
男装した女がほとんどというわな。
なんでだろ?
男装した女がほとんどというわな。
なんでだろ?
540 :
考える名無しさん:03/07/18 08:38
また男の勝利か。
541 :
考える名無しさん:03/07/18 08:39
女はいないよな。
なんでだろ?
女には向かないんだろうね。生理もあるし。
女の哲学者見たいなー。
542 :
考える名無しさん:03/07/18 08:39
女が悲惨すぎるw
543 :
考える名無しさん:03/07/18 08:39
女はいないよな。
なんでだろ?
女には向かないんだろうね。生理もあるし。
女の哲学者見たいなー。
544 :
考える名無しさん:03/07/18 08:40
具体的に女の名前をあげられないw
545 :
考える名無しさん:03/07/18 08:40
女性がごまんといるはずだよなw
546 :
考える名無しさん:03/07/18 08:41
実際には男しかいないわけだが
547 :
考える名無しさん:03/07/18 08:41
女はいないよな。
なんでだろ?
女には向かないんだろうね。生理もあるし。
女の哲学者見たいなー。
548 :
考える名無しさん:03/07/18 08:41
テンパッタ男に殆どの女性は対抗できない
byシェークスピア
549 :
考える名無しさん:03/07/18 08:43
実際には男装した女しかいないわけだが
男だと言い張る哲学者全員のペニスを開陳してもらわにゃ納得できないわけだが
550 :
考える名無しさん:03/07/18 08:44
屁理屈いってもしょうがない。
551 :
考える名無しさん:03/07/18 08:44
女はいないよな。
なんでだろ?
女には向かないんだろうね。生理もあるし。
女の哲学者見たいなー。
552 :
考える名無しさん:03/07/18 08:44
XXがいない!
>>542 哲学者であることが悲惨なんだからそもそもw
ホームレス、引きこもりと同列に扱われてるんですよ世間では
554 :
考える名無しさん:03/07/18 08:45
女が悲惨すぎるw
555 :
考える名無しさん:03/07/18 08:46
産む事から逃げちゃだめだよ。
556 :
考える名無しさん:03/07/18 08:46
デキル男には対抗できないようですね。>女
557 :
考える名無しさん:03/07/18 08:47
女はいないよな。
なんでだろ?
女には向かないんだろうね。生理もあるし。
女の哲学者見たいなー。
558 :
考える名無しさん:03/07/18 08:47
実際には男装した女しかいないわけだが
男だと言い張る哲学者全員のペニスを開陳してもらわにゃ納得できないわけだが
あぼーん
560 :
考える名無しさん:03/07/18 08:47
政・官・財界をみりゃわかるだろ。
561 :
考える名無しさん:03/07/18 08:48
女はいないよな。
なんでだろ?
女には向かないんだろうね。生理もあるし。
女の哲学者見たいなー。
562 :
考える名無しさん:03/07/18 08:48
また、女の負けですね。
563 :
考える名無しさん:03/07/18 08:49
産む事から逃げちゃだめだよ。
564 :
考える名無しさん:03/07/18 08:49
565 :
考える名無しさん:03/07/18 08:49
女はいないよな。
なんでだろ?
女には向かないんだろうね。生理もあるし。
女の哲学者見たいなー。
566 :
考える名無しさん:03/07/18 08:50
まぁ、男という存在から逃げたいのでしょうねw
567 :
考える名無しさん:03/07/18 08:50
レズビアンになればいいじゃん。
568 :
考える名無しさん:03/07/18 08:51
つまりはこのスレの白熱した応酬が哲学の最前線(ゲラゲラゲラゲラ
569 :
考える名無しさん:03/07/18 08:51
女はいないよな。
なんでだろ?
女には向かないんだろうね。生理もあるし。
女の哲学者見たいなー。
570 :
考える名無しさん:03/07/18 08:51
女というのは、堕ろせば、堕ろすほどセックスが良くなるもんだ
571 :
考える名無しさん:03/07/18 08:52
パラノイア [ Paranoia]
妄想が内的原因から発生し、体系的に発展する病気。その他の思考・行動には異常がみられず、人格の荒廃もきたさないのが特徴。四〇歳以上の男性に多い。以前は偏執病とも呼ばれた。妄想症。
同社がファンドマネジャーを採用する条件には昔も今も「変人」の「変人」は
パラノイア [ Paranoia]じゃありません?
成功した経営者の大半が [ Paranoia]との説もあるようですが
572 :
考える名無しさん:03/07/18 08:52
幼女に深く挿入する鬼畜はしねや
573 :
考える名無しさん:03/07/18 08:52
哲学はすべてカルトです。
574 :
考える名無しさん:03/07/18 08:52
レイプする元気があるならまだ正常だ
575 :
考える名無しさん:03/07/18 08:53
ここでふざけてる人たち・・被害者の女の子は
子宮が破裂して摘出した子もいるそうですよ。
常識ある発言をお願いします。
576 :
考える名無しさん:03/07/18 08:53
哲学はカルトです
577 :
考える名無しさん:03/07/18 08:53
女性性からは逃れられないんだけどね。
578 :
考える名無しさん:03/07/18 08:54
自身がないから産もうとしないんだろ。
579 :
考える名無しさん:03/07/18 08:54
哲学はカルカルカルトです
580 :
考える名無しさん:03/07/18 08:55
マンコをハサミでねバッチンするん
陣痛で気づかない人もいるけど
あたしは超いたかったよ
でも2人目はバッチン前に麻酔してくれたわ
痛みとしては、手の平おもいっきりひろげて
親指と人差し指の間の水かきみたいなとこ
工作ハサミで切られる感じ
581 :
考える名無しさん:03/07/18 08:55
哲学はカルトです
582 :
考える名無しさん:03/07/18 08:55
女のマンコん中に小便してやりてえ!!
583 :
考える名無しさん:03/07/18 08:55
まったくだ。女に生まれてガカーリ というのも
子供の頃、自分のことを人間だと思ってないヤシらが
マジョリティな社会だ と気付いたときのショックといったら。
584 :
考える名無しさん:03/07/18 08:56
女はいないよな。
なんでだろ?
女には向かないんだろうね。生理もあるし。
女の哲学者見たいなー。
585 :
考える名無しさん:03/07/18 08:56
マムコが裂けるらしいね。
ヒドイと骨盤がずれて歩けなくなったり。
586 :
考える名無しさん:03/07/18 08:56
下手すりゃ子宮どうにかなるぞ 可哀相に
犯人、去勢しちまえよ
587 :
考える名無しさん:03/07/18 08:57
女は男の尿を飲むと離れられなくなる
588 :
考える名無しさん:03/07/18 08:57
哲学がDQNをひきつけることを立証してしまった・・・・・
589 :
考える名無しさん:03/07/18 08:57
女の子の眼球えぐりとって犯しまくり
ハァハァ
590 :
考える名無しさん:03/07/18 08:58
女ななのに女の立場から語ろうとしない。
女であることの逃避ですか?
591 :
考える名無しさん:03/07/18 08:59
肉便器って言葉は秀逸だな
592 :
考える名無しさん:03/07/18 08:59
強姦されたあげく失明とは、悲惨すぎるな
あぼーん
594 :
考える名無しさん:03/07/18 09:01
レイプしなきゃ女に相手にしてもらえないって訳でもないだろうが
そこまでしてやりたい男のハート
ちんこ切り切りきーり斬り
あぼーん
596 :
考える名無しさん:03/07/18 09:04
テレ朝は、この事件が発生したときに許せない凶悪事件として特集してたんだよな。
それが自分の所の社員だったと判ったら知らん顔。
若い女性タレントを狙った犯行。
女性タレント事務所は、テレ朝に住所を教えたらあかん。
ほとんどゲイ。
哲学はカルカルカルトです
599 :
考える名無しさん:03/08/18 21:32
588 :考える名無しさん :03/07/18 08:57
哲学がDQNをひきつけることを立証してしまった・・・・・
600 :
考える名無しさん:03/08/23 22:46
最大の違いは、
哲学は阿呆でもごまかしが効くこと
601 :
考える名無しさん:03/08/24 18:17
参院としては賛成だわね
602 :
考える名無しさん:03/09/04 03:45
dawane
>だってあれだけの先達がいるのに、誰もゴールに辿り着けた
>人はいない
いや、どんな学問でも探究心が途絶えない限りあらたな目標や問題は生じるから、
その意味でなら最終ゴールにたどりつけないことには文句はないんだけど・・・
問題なのは、他の大抵の学問が中期的目標を定めて着実に進もうとするのに対して、
哲学は目標へ向かう思考の前に、あるいは途中でそれを投げ出して(?)、
出発点となる前提に疑問を投げかけ足元を掘り崩した挙句に、ほんの目の前の目標にすら
とどかずにむしろ後退してしまうところ。
思考態度としては他の学問が大いに参照すべき点はあるが、哲学それ自体は
いわば確信犯的に前進しないことを選択しているように見受けられる。
不毛であるのみならず、それで学問面するのは欺瞞であるとさえ思う。
604 :
考える名無しさん:03/09/08 01:16
605 :
DQN ◆DQN.TxIIOE :03/09/08 01:22
>>604 どちらかというと阿呆の方だとおもう(ワラ
606 :
考える名無しさん:03/09/08 01:47
607 :
考える名無しさん:03/09/08 02:21
哲がギマン。
608 :
考える名無しさん:03/09/08 02:22
ウンコをガマン。
なにかネタないでしょうか。
あぼーん
611 :
考える名無しさん:03/09/09 00:33
こまたのお
612 :
考える名無しさん:03/09/09 01:37
坊や哲のハネマン
あぼーん
614 :
考える名無しさん:03/09/09 22:12
哲学に固有の存在意味は何だろうと考える
哲学に足りないものはありすぎるので
科学に足りないものを考える
例えば、哲学の生き残る道・・
・科学方法論 → 科学で用いられる方法を検証する
・倫理学? → いずれにしても科学的に当為は決定できないと思うのですが
外に思いつかないんだけど・・・
615 :
考える名無しさん:03/09/09 22:13
でつ{生活の一部となり、生命の一部となる)
哲学は科学でも学問でもないから(プ
617 :
考える名無しさん:03/09/09 22:26
現在哲学に期待されている役割は何だろう?
広松渉さんは確か
認識の地平(ヒュポダイム)転換 を認識し、それを促進すること
なんていってた気もします
つまり、科学もその依って来たる認識の地平に無自覚ということなのか?
↑
科学方法論の必要性?
618 :
新厨房 ◆q0dfn8vVTc :03/09/09 22:28
まるで誰も期待してないようだが(ワラ
おまえ何も書くことがなきゃ書き込むなよ・・
>>618 もっとお前に適当なスレが いーーーっぱいあるだろ?
男子中学生や高校生の放尿に萌えたい
パソスレ哲学板〜コギトエルゴスムで氏ねよおめーら〜
命題「彼女にするなら処女?非処女?」
◇◆俺が噂のぴかぁ〜だけど、質問のある?◇◆
なぜロリに癒されるのか
↑ どこでも好きなとこ行ってこいよ(w お馬鹿さん
>>618
621 :
考える名無しさん:03/09/10 00:26
622 :
考える名無しさん:03/09/10 00:33
期待?
されてないだろ、一切。
623 :
考える名無しさん:03/09/10 00:36
20 名前:新厨房 ◆9T9/WEZCbY :03/09/10 00:33
そろそろトリップ使い分けるの疲れてきたな・・
624 :
考える名無しさん:03/09/10 00:51
>>618,
>>622 哲学に期待してないのに哲学板に書き込むんだね
何を書くの? それとも ただの 荒らしさんですか?
625 :
考える名無しさん:03/09/10 00:58
目的がなきゃァいけんの?
此処はお前のサイトか?
人の動機は「千差万別」だじぇ。
626 :
考える名無しさん:03/09/10 01:01
俺は 荒らしは迷惑だ つってんだよ
日本語ダイジョブデスカー?
>>625
627 :
考える名無しさん:03/09/10 01:03
> 俺は 荒らしだ つってんだよ
はぁ?
628 :
考える名無しさん:03/09/10 02:42
ナンデダロー
629 :
考える名無しさん:03/09/10 02:44
教授がほとんど働かない
630 :
新厨房 ◆q0dfn8vVTc :03/09/10 02:45
荒らしだから厨房(ワラ
631 :
考える名無しさん:03/09/10 02:46
ETVの定義女発見!
632 :
考える名無しさん:03/09/10 03:02
現代では、物理学か数学修めてから哲学の森に入るのが王道
それ以外はだめです。
633 :
考える名無しさん:03/09/10 03:03
それ以外はだめですか?
634 :
考える名無しさん:03/09/10 03:05
え〜
結論です
そんなこと
わ・か・ら・な・い
です
ヘリクツが通る
636 :
考える名無しさん:03/09/10 03:07
いいから、大人しく寝ろよ。骨+↑(ワラ
637 :
考える名無しさん:03/09/10 03:24
>>633 やるのは勝手だが、多分大した事はできない。
638 :
考える名無しさん:03/09/10 03:25
どっちも一緒
639 :
考える名無しさん:03/09/10 12:24
屁理屈の縮小再生産。
640 :
考える名無しさん:03/09/10 12:30
アホは考¥方がえー
視線の角度が違うだけ。
642 :
考える名無しさん:03/09/15 02:10
626 :考える名無しさん :03/09/10 01:01
俺は 荒らしは迷惑だ つってんだよ
日本語ダイジョブデスカー?
>>625 627 :考える名無しさん :03/09/10 01:03
> 俺は 荒らしだ つってんだよ
はぁ?
哲学で一山当てようと考えている哲学者もいるかも・・・。
哲学と科学の違いは、何か。
科学は観察された事実(と思っているもの)と、実験による検証、およびその解釈(考察)を含む。
科学は、分野の集まりであるのだろう。
哲学(自然哲学のことを言っておる)は、多分野の解釈を統合すべく試みることではないか・・・
文学系の哲学のことはよう知らん。(あんまり信用してない)
どだろう?
644 :
考える名無しさん:03/10/17 22:01
現代では、物理学か数学修めてから哲学の森に入るのが王道
それ以外はだめです。
646 :
考える名無しさん:03/10/17 22:08
>>644 そりゃ無理だ。
まともに物理学や数学を修められるやつなら、
哲学なんかに興味持つはずないよ。
だから、頭悪くなって現場にいられなくなった物理屋や数学屋のリタイヤハウス
648 :
考える名無しさん:03/10/17 22:15
フッサールもヴィトゲンシュタインもそれに近いらしいね。
649 :
考える名無しさん:03/10/29 19:14
603 :考える名無しさん :03/09/04 03:49
>だってあれだけの先達がいるのに、誰もゴールに辿り着けた
>人はいない
いや、どんな学問でも探究心が途絶えない限りあらたな目標や問題は生じるから、
その意味でなら最終ゴールにたどりつけないことには文句はないんだけど・・・
問題なのは、他の大抵の学問が中期的目標を定めて着実に進もうとするのに対して、
哲学は目標へ向かう思考の前に、あるいは途中でそれを投げ出して(?)、
出発点となる前提に疑問を投げかけ足元を掘り崩した挙句に、ほんの目の前の目標にすら
とどかずにむしろ後退してしまうところ。
思考態度としては他の学問が大いに参照すべき点はあるが、哲学それ自体は
いわば確信犯的に前進しないことを選択しているように見受けられる。
不毛であるのみならず、それで学問面するのは欺瞞であるとさえ思う。
650 :
考える名無しさん:03/10/29 22:58
お腹にあたってペタンペータン
>>649 ある意味当たってる。
物差しのある諸科学と明確な物差しのない哲学。
ただし、哲学といえども先人の研究無しに一歩も進めないのは当然。
それと、
>哲学は目標へ向かう思考の前に、あるいは途中でそれを投げ出して(?)、
>出発点となる前提に疑問を投げかけ足元を掘り崩した挙句に、
これが哲学という学の本質的性質であり、これを否定すれば哲学自体を
否定することになる。この本質故に哲学の存在意義もあり。
652 :
考える名無しさん:03/10/30 19:58
この間 ひきこもり の人たちが集まってる番組を見ていた
で、思ったのが
科学では彼らを治療できない
この辺に 科学とは異なる
別の学問の可能性があるのではないかと 思った
653 :
考える名無しさん:03/10/31 22:39
自閉学
654 :
考える名無しさん:03/10/31 22:40
関係ないが、夏目漱石の言う、自殺学ってものも面白そうだな。実際あったとして。
哲学は科学じゃないだろ?
哲学→知への愛
だ ろ ?
科学→力への愛
657 :
考える名無しさん:03/11/10 03:33
647 :考える名無しさん :03/10/17 22:10
だから、頭悪くなって現場にいられなくなった物理屋や数学屋のリタイヤハウス
648 :考える名無しさん :03/10/17 22:15
フッサールもヴィトゲンシュタインもそれに近いらしいね。
658 :
考える名無しさん:03/11/10 03:36
何をどう科学するか、その動機はどこから来るのか?
659 :
考える名無しさん:03/11/12 23:51
660 :
考える名無しさん:03/11/12 23:58
どうでもよいが、人は考えることから出発し、その人の人間性を終発とする。
0
662 :
考える名無しさん:03/12/24 13:29
663 :
考える名無しさん:04/01/29 16:57
664 :
☆キキ+キ゚Д゚♪ ◆qpmo.OOqAo :04/01/29 17:43
まじかよ
626 :考える名無しさん :03/09/10 01:01
俺は 荒らしは迷惑だ つってんだよ
日本語ダイジョブデスカー?
>>625 627 :考える名無しさん :03/09/10 01:03
> 俺は 荒らしだ つってんだよ
はぁ?
ボッシュ
あぼーん
668 :
考える名無しさん:04/05/02 23:31
つまり、なんでも哲学なんだろ?
669 :
THE グル:04/05/03 00:04
いいですか、
定説を哲学なんかと同一視しないでほしいんです。
668のように味噌も糞もいっしょくたにするのは、
低能なんです。
これが定説です。
あぼーん
哲学。。。言葉遊び
他の科学。。。一般の人の言うところの科学
あぼーん
673 :
THE グル:04/05/04 21:33
いいですか、
定説を哲学なんかと同一視しないでほしいんです。
668のように味噌も糞もいっしょくたにするのは、
低能なんです。
これが定説です。
674 :
考える名無しさん:04/06/06 06:40
ほしゅ
675 :
考える名無しさん:04/06/06 09:36
科学→原因は軽視、実益を重視。
哲学→原因を重視、実益は軽視。
科学は、因果関係の公理と、論理、分析と総合の手法、によって、一般的なレベルで対象の構造が比較的よく解明され、
定式化された項目が増えて、テーマ別の体系化が進んだ各分野の総称。実益に結果的に結びついた。
哲学・思想は、因果関係の公理や、論理、分析と総合の手法などの思考の前提・方法その自体にたいして
批判的検討をしたり、科学的手法以外の方法によって対象を理解しようとする試みを行ったりする分野の総称または形容
その性質上実益に結びつかない。定式化に成功すると、それは科学になるから。
その自体→それ自体
それから、科学と哲学を対置させるのは間違い。どちらも合理的に対象を理解しようとする
試みであり、科学的か、哲学的であるかのいずれのゆえをもって
一方を否定するのは無益だから。ただ、論理的に考えが展開されているかが大事。
科学的に対置されるのは、非科学的であり、哲学的に対置されるのは、非哲学的である。
哲学がつねに科学的でないわけがないし、科学が現代的には非哲学的かもしれないが、
歴史的にみたとき非哲学的だったわけではない。ある哲学の一分野が仮に非科学的であっても、
その分野の主張が、科学に対する批判でない場合は、科学は理論的にはその分野の主張に
反対する合理的理由はない。心情的・社会的理由が個人的に生じることはあるかもしれないが、
それは科学に反すると言う理由ではなくて、単に気に入らないか、社会的に害のがある考えだ
という、政治的理由である。
679 :
考える名無しさん:04/06/06 12:25
科学→観測できるもののみ対象となる
哲学→特に対象の限定はない
680 :
考える名無しさん:04/06/06 12:49
なんでも哲学なんだな
どこにもあるがなんでもじゃない。
683 :
考える名無しさん:04/06/14 10:37
ほにゃ?
科学→本当っぽい
哲学→嘘っぽい
685 :
考える名無しさん:04/08/05 13:40
↑
バカ
686 :
考える名無しさん:04/08/05 14:15
>>1 現代にふさわしい哲学は脳科学なのだが、ここの板はそれを認めたくない
数学物理ができない私文文系がしがみついてるだけ
形而上学だから嘘っぽいのはしょうがないわな
理系の香具師はこんな所来ない方がいいよ
馬鹿が感染するから
689 :
考える名無しさん:04/08/20 22:10
そうかな?
・・・そうかも。
スレの前半読んで吐き気がした。
そ う か な ?w
691 :
考える名無しさん:04/08/20 23:12
科学=理屈
哲学=屁理屈
哲学 → 理屈
科学 → その証明
693 :
考える名無しさん:04/08/20 23:36
>>961 確かに科学(特に生物や物理)を学べば学ぶほど
哲学が屁理屈に思えてしまう。
科学が発達するとともに哲学は衰退の一途を辿るのは確かだと思う。
何故なら自然の摂理がわかればわかる程、哲学の領域が狭まるから。
694 :
考える名無しさん:04/08/21 06:56
万物の根源は火!とかな(ゲラゲラ
あと100年したら真善美とは脳科学で解明されてるよ
プゲラッチョ
696 :
考える名無しさん:04/08/21 15:39
哲学してる人間は変人、人格障害者悪くすれば精神病を発症している可能性が
他科学にくらべ著しく高い。
697 :
考える名無しさん:04/08/21 22:33
哲学は科学じゃないし。
699 :
考える名無しさん:04/08/21 22:44
>>698 哲学徒のくせに統計的な手法を手にするつもりか?
でも他板の香具師も哲板に来ると基地外になっちゃうんだろ?
>>699 一応、証明するにはデータも必要なのが現実。
702 :
考える名無しさん:04/08/22 00:34
じゃあデータなしでもいいからとにかく証明してみれ
704 :
考える名無しさん:04/08/22 01:12
既に俺が発狂している。以上
哲学とは己との戦いである
それは今まで分からなかった自分
分かろうとしなかった自分との戦い
偽っていた自分との戦い
哲学はあまりにも厳密であるが故に鋭い
だからこそあまりにも真実に直視しすぎる
生の意味 死の意味 世界の意味 自分の意味
それらに気づいたとき
壁を越えるまで苦悩する
あいまいに答を求めてしまえば
いつか現実との境界に躓く
そのあいまいにあいまいを重ねてしまえば
神であったり先導者という
偽りのモノを作り出してしまう
むやみに哲学に手を出してはいけない
哲学は薬である
薬は病を治すものでもあるが
死に至らしめるものでもある
故に哲学は俗世へ受け入れ難い
706 :
考える名無しさん:04/08/22 04:22
>>698 あげればきりがないだろ
古くはソクラテスは神がかり
ルソー、ショーペンハウアー、ニーチェ
ハイデッガーも精神科医にかかったことがある。サルトルは薬中
探せばきりがないと思うよ
707 :
考える名無しさん:04/08/22 04:35
> 哲学はあまりにも厳密であるが故に鋭い
本気かね?
708 :
考える名無しさん:04/08/22 04:36
710 :
考える名無しさん:04/08/22 09:55
老荘思想の清談は麻薬でラリパッパ
>>707 「鋭い」という表現を使いましたが、これは
「ごまかしようがない」という意味です
まぁ、詩文体なので含んでいる意味が多いです
713 :
考える名無しさん:04/08/26 07:48
つか
2chで長文打ってる奴て気違いやろ
コピペ作家志してる以外は
714 :
考える名無しさん:04/08/26 20:47
715 :
考える名無しさん:04/08/26 21:01
716 :
考える名無しさん:04/08/26 23:26
717 :
考える名無しさん:04/08/27 07:33
718 :
考える名無しさん:04/09/17 16:44:22
719 :
考える名無しさん:04/09/17 17:40:14
「哲学にはまるやつ」にもいろいろなレベルがあるんじゃないかい?(w
720 :
考える名無しさん:04/10/26 22:40:12
将来的には差異はなくなると思うよ
721 :
考える名無しさん:04/10/26 22:43:23
わからんかな。今相手にしてるのは現実じゃない。感情に高揚がない。無理矢理に体裁取り付けろと
722 :
考える名無しさん:04/10/27 00:00:00
逆説的にいえばあまり違いはない。科学や数学といわれるものも結構いいかげんなものだ。胡散臭さは哲学と変わらない。
723 :
沙羅曼陀:04/10/29 17:15:41
現在は21世紀の為の学問、意識科学に興味を持っています。
少しご紹介しましょう。
意識科学においては主として二つの分野がある。
ひとつはメディテーションなどによる万物の根元の追求。
もう一つはそれらを実生活・実社会に応用していく為の意識科学である。
これによって世界のあらゆる問題を解きほぐしていこうとする科学である。
● 21世紀に人類が直面している主要な問題は、われわれの世界観を修正して新しい世界観を構築していくプロジェクトである。
● 人類の意識は一切の創造の源泉である。
● 21世紀は意識科学の時代となるであろう。
● だが、意識科学の乱用は反作用により報復を受けるだろう。
● 道徳と科学は意識科学の中において統一される。意識科学は道徳の科学化。科学の道徳化を主張する。
● 意識はすべての人々の一切の活動に置ける原動力である。
● 意識をコントロールする事は身体をコントロールする事である。意識の制御が意識科学の原則と目標である。
● かつての革命とは一つの階級がもう一つの階級を覆す革命であった。だが意識科学における革命とは自分が自分を覆す革命である。
● 人類の歴史を推進する原動力は人類の理想である。
● 意識・心境とは人類の真実の生活空間・活動領域である。
● 意識科学とは又世界を研究する科学でもある。
724 :
沙羅曼陀:04/10/29 17:16:12
● “公”こそ最大の自由であり、最大の科学技術なのである。
● 神はこの宇宙の全ての人と物質の中に内在している。全ての物と存在の総計が神を構成している。創造者を崇拝する為には人は神の性質と人類と神との関係を理解しなければならない。
● 創造の根源は哲学である。
● 全ての道徳的行為と合理的な考えは神への正しい崇拝である。
● 意識科学の目的はどのように用い、どのように規律を把握し、どのように理想を実現するかにある。
● 意識科学は鋭い武器となる。すぐさま手に取るべきである KBUXE5B
● 現在、数学や物理学などの応用は物質的な分野のみにそそがれている。
● もし人類が意識科学を知らなければ、科学技術をいくら発展させようとも人類は幸福にはなれない。
そして外的な事物により幸福を得ようという無駄な努力がいつまでも繰り返されるだろう・・・
● 意識科学は人類の現在抱えている全ての困難は、我々の主観の過ちと不足の為す所とみなす。
● 誤った主観を変え、包括的な世界観を樹立する事こそ意識科学が堅持する主旨である。
コンシャスネス・エクスプロア
ここで物理数学のベクトル解析という理論がある。 これは演算とベクトルの融合である。 カント哲学においては時間と空間を認識の2大源泉とみなす。
演算は時間をコントロール、ベクトルは空間をコントロールするという。
ベクトル解析は演算とベクトルの融合である。これを融合させるとどうなるのか?
そうすると人間の精神の時間と空間がベクトル解析により理論的に解析する事が可能になるのだ!
すると人類のあらゆる精神領域をカヴァーできる。
すると意識の中を自由自在に探険できる。 これをコンシャスネス・エクスプロアと呼ぶ。
これとインターネットエクスプロアを結びつけると人類は果てしなく自由になれるのだ!
725 :
沙羅曼陀:04/10/29 17:17:35
ヒストリカル・フィクション この言葉はコンシャスネス・エクスプロアによって近未来をシミュレーションする方法の事である。
新しい瞑想理論
瞑想に科学的手法を用いるとこうなる。
(X,Y,Z、T)=(縦、横、前後、時間)
宇=果てしなく広い空間 宙=果てしなく長い時間
そして瞑想の目的は (X,Y,Z、T)=(0,0,0,0) にすること。
だが、この境地にいける人は極わずか。
それなのでセンタリングという言葉を代用する。意識が濁った状態とは分割・分析作業である。
そして意識をクリアーにするという事は精神統一する事という事である。
そしてその状態をニュートラルと呼ぶ。 この状態ではあらゆる偏見や先入観から解放されているから物事の本質をよく理解できる。
そして分析と統合という一連の作業により人類の文明は果てしなく発展していく・・・
仏教聖典 仏教伝道協会から引用
726 :
沙羅曼陀:04/10/29 17:18:22
こんな長文読む奴いんの?