乾、元亨利貞
2 :
考える名無しさん:02/12/29 04:07
倉木麻衣!
3 :
考える名無しさん:02/12/29 09:21
なべおさみ!
oyoooooyoyoyo!!!!!!!!
5 :
Kurihara:03/01/03 08:08
dgjjhyygkjt
6 :
考える名無しさん:03/01/03 08:39
易の話ですか?うちの親父がやたら易を信じるのです。
字画や方角など。困りますが彼はそれでうまくやってるので
口が出せません。
それよりビリー睾丸の声を朝から聴くと脈拍があがります。
7 :
考える名無しさん:03/01/03 13:32
中国人は神仏は信じないけど、運命というのは信じるんだよな。
陰陽5行説とか、けっこう単純な世界感なんだが・・・
9 :
考える名無しさん:03/01/03 23:44
>>8 おお、こんなスレがあったなんて知らなかった。
ちょっと、しばらく読んでみます。
10 :
考える名無しさん:03/01/05 00:06
だれかなんかないの
11 :
考える名無しさん:03/01/05 00:15
うちも親戚も易者さんに占いやってもらっているみたい。
四柱推命ね。
12 :
考える名無しさん:03/01/05 00:24
正確には四柱推命は易じゃないのでそのひとは「易者さん」じゃないよ
しかしもっと正確に言うと四柱推命も易なので「易者さん」ともいえる
13 :
考える名無しさん:03/01/05 00:26
もしかして易って、棒みたいなヤツをジャラジャラやるやつかな?
占い全般のことかと思ったよ。
14 :
考える名無しさん:03/01/05 00:34
そうだけど、厳密にはその筮竹という棒を使わないやり方もある。
なので、正確に定義づけるとすると
「古代中国で成立した易経を基本典拠として、八卦ー六十四卦の
象徴を用いて形成された占術、思想など一連の構造哲学の群の総称」
ということになる。
15 :
考える名無しさん:03/01/05 00:36
当たるも八卦、当たらぬも八卦
16 :
考える名無しさん:03/01/05 00:42
>>15 その言葉実はすこしおかしい。「八卦」てのは易で使う概念の名前
であって当てるものではない。
ところできさま八卦って何か知っているか
天、沢、火、雷、風、水、山、地
だぞ。八つあるだろ。だから八卦というんだよ。
17 :
考える名無しさん:03/01/05 00:43
>>14 西洋だとタロットカードみたいな感じだね。
18 :
考える名無しさん:03/01/05 00:48
そうだけど、厳密に言うと「易」は西洋の「カバリズム」にちかいね。
タロットはカバラーが占いに特化したものだと思うので。
ただ、易は東洋医学や政治倫理の基本でもあるので、もう少し広いといえる。
19 :
考える名無しさん:03/01/05 01:04
カバリズム:門外不出の伝承、秘密文字などを用いた西欧の秘教的体系
なかなか怪しいね。
少し神秘的な匂いがしてきた(笑)
今日はこの辺にします。
また教えて下さい。
「易」で検索するとそれなりにホームページがあるので、
読んでもし疑問があったら質問してくれれば答えます。またね
21 :
考える名無しさん:03/01/05 03:06
そしてまた易は政治思想でもある。
22 :
考える名無しさん:03/01/05 03:09
1よ、なぜに易を持ち出す?いや重要だと思ってるのだが、おそらく現代
日本のそれも2ちゃんねらーで易を理解する者などごくわずかだろうから
珍しく思っている。
何か研究しているのか?
ゴホン 、 ゴホン、ゴホ ゴホ !
それは、咳 だろ !
液キャベ
>>22 妄想だけど、自分は易があったから今まで生きてこれたしその
ためにこれからも生きていくだろうからです。
27 :
考える名無しさん:03/01/05 17:10
ああ、そうだ! 前々から分からないことがありました。
ニ爻以上変ずる場合、何をとればよいのか?
どの本を読んでも釈然としません。
どなたか詳しい方、お教示いただければ幸いです。
>>27 その問題は、中国だと占としての周易は発達してなかったので
見過ごされた問題で、日本ではしっかりと考察、理論化した人
はいなかった問題です。
一応朱子の「七考占」という技法はあるのですが、実占では使
えないしろものです。
しかし文献を研究することで結論は出ました。場合わけしてコ
ウを取ります。上記のリンクがはってあるスレに書いてありま
すので読んでみて下さい。
誰か、
複雑系社会学
数学基礎論
社会システム論
分析哲学
メタ科学論
エリアーデ宗教学
構造主義言語学
などに詳しい方いませんか。出して頂いたテーゼ
や疑問に対し、私は易の概念を使って答えます。そして、易学の
裾野と可能性を広げたいです。
27さん
詳しく説明してあげられなくてごめんなさい。
この板では、占術技法を中心としては話をしたくないんです
板違いだと言われてしまいそうだから。
易に詳しそうですね。占術板のスレにぜひ書き込んでください
つーか、他人に聞いたり怪しげなHP探す時間があったら、自分で読めよ。
32 :
考える名無しさん:03/01/05 19:44
すみませんでした。
>易鬼様
スレッドの範囲内で最大限に親切にお答えいただいたみたいで、
なんだかとても有難いです。
>>32 はぁ?「なにを読むの?」って、『易』を読むに決まってんだろ?
影印本でも排印本でも、注疏がついてもせいぜい数千円程度じゃん。
易を読んでも易は分からないし、使えるようにはならない。
一番まずい易との関わり方は、史料古典としてのみ易を見て
分かったような注釈を言っていい気になっているインテリバカ。
現代の文学部系の向き合い方はほとんどそれ。
そう、あなたのような関わり方。
遊びで占いをやるOLよりまだ易の命を殺している。
それよりもその口の聞き方やめんか無礼者
誰か、
複雑系社会学
数学基礎論
社会システム論
分析哲学
メタ科学論
エリアーデ宗教学
構造主義言語学
などに詳しい方いませんか。出して頂いたテーゼ
や疑問に対し、私は易の概念を使って答えます。そして、易学の
裾野と可能性を広げたいです。
37 :
考える名無しさん:03/01/08 00:39
う〜ん、いないんじゃないでしょうか、この板には(私も詳しくないし)。
ただ、ちょっと気になっていたことを書くと。
伏羲六十四卦次序図という、陰陽が黒白黒白…とピアノの鍵盤のように並んだ図。
あれにそっくりな図をウィトゲンシュタインの本で見かけたことがありまして。
で、読み返してみようと思ったのですが、さあ、何で見たのかわからない。
どなたか、ご存知の方、いらっしゃいませんか?
■ ■ ■ ■
■■ ■■
■■■■
■■■■■■■■ こんな図です。
該当するウィトの探求の箇所は、意味の複雑さへの疑義の例示でした。
難解ですね
(^^)
41 :
考える名無しさん:03/01/09 16:21
>>38 いや、この板も捨てたもんじゃない。ありがとうございます。
手元にないので、こんど図書館で調べてみます。
>>39 なんでもご存知のようですね。
ちょっと易鬼さんのお役に立てそうもないです、私は。
易はもちろん勉強してないが、義理易には一応興味ある。
ずれるが、私は吉兆星だ。
ばかは?
>>41 とんでもないっす 書き込み、ありがとう
意味の複雑さと単純さってのは占として易をやる時によくひっかかります。
卦が出た時に、まず大成卦の意味からトップダウンでおすべきか、コウの
分断された意味からボトムアップで複雑な体系を形成するべきか
>>42 ぎりえきにきょうみがあるということは、経を読むのが好きなのん?
吉兆星ってナニ
知らないのですか?私も知らないが易には占易と義理易があって、
義理易は易の哲学という事らしいですが。
吉兆星は四柱推命のものでしょ?それもよく知らないけど。
易には義理易と象数易という二つのものがある。
これは、二つの独立したものというよりは易学を捉える上での
二つの「切り口」というようなものだと思う。
ぎりえきは、「意味」「意義」を中心に置く。たとえば易経を読む時も
その文の意味や意義、全体的な整合性をまず漠然と考え、トップダウン
で降ろしていく。
それに対して象数易というのは、象徴的符合、すなわち「易体系の全てには
「似たものは同一の意味を持つ」という性質があり、矛盾はないはずだ」
という確信をまず置く。なのでたとえば易経を読む時も、一字一句が卦の
どこから出てきた意味なのかを考えていく。
象数易は漢に発展したため漢易とも呼ばれる。京房が一番有名な易学者。
義理易は煩瑣になりすぎた象数易への批判から漢末にはじまる。王弼が
先駆者で、宋代が最盛期。
吉兆星についてはよく知らないが、四柱で使うかなあ?
むしろ宿曜系の感じがするね。
49 :
考える名無しさん:03/01/10 02:12
竹内まりやの歌であったよ
この宇宙はどうやら、十進法および十六進法に向いてできているらしい、とかなんとかいうこと、易を敷衍するとどうなるのでしょうか?
>>50 おもしろそうだ
遺伝子とかの存在システム論的な話でしょうか??
ソースきぼん
あなたの意見でもいいし、仮に多少間違っていてもかまいません。
>>51 超弦理論の素人向けの本にそう書いてあった一節があったように思います。
私は物理も数学も駄目ですが、記述の様式にあった存在様態、というイメージにはとても魅力を感じました。
著者は、日系米人です。タイトルは、済みません、今度探してきます。
53 :
考える名無しさん:03/01/11 09:59
らいぷにっつ
55 :
I-Ching:03/01/14 00:04
河村真光の易入門を呼んでみよう
それが難しすぎりゃJマーフィーの易とか
56 :
考える名無しさん:03/01/14 00:27
易を学んでの感想。少しずつ易経を読んでますが、正直理解しきれない。大まかな
ところは理解できるがあいまいで明快に解らない。
たぶん占いをするに足る段階に至るまでには相当時間がかかる。そしてその段階に
至ったときはおそらく殆ど占いをしなくてもいいくらいの人格を備えるに至るだろう。
多分一生かかっても易を理解しえないと思っている。
どのへんが難しいと思いますか?
易に対する決定的な回心体験は、「易とはどこまで行っても
陰と陽だ」ということです。
辞も、行動規範と事物象徴という陰陽二面。易学も、象数易と義理易。
占も、大別すれば「私はどうなるか、どうすればいいか」という陽的な
ものと「それはどうなり、どうすればいいか」という陰的な二要素からな
ります。
そして何よりも、辞解釈なき筮占は無意味ですが、筮占なき辞解釈は独覚
に過ぎないということがはっきりと分かったということです。
易経と筮具は絶対に最初からともに使わなくてはならないと思います。
経の解釈という「知」と、筮法の限りない修練という「行」を相補的に用い、
知行合一で自己と世界を一気に深めていく希有なる道であると思います。
>>52 人間の知が一種の「カテゴライズ」である以上、世界分析はいかなる
方法でもある地点において「存在態様の原型化」に行き着く以外にな
いことは自明だと思います。
そうでない道を行くと、ゲーデルの先の見えない深層化(ひょっとした
ら皮相へと向かう道)に入ってしまう。
もっとも単純な原型化は、二つに分けた相補化ですね。ここにおいて、
易の陰陽論が出てくるのではないか。そして、易経の乾と坤の卦辞がまっ
たく異質であるごとく、二つは異質です。
超ひも理論の本ですか。分かったら教えてください。
59 :
シンデモまうすヲハナシマセンデシタ:03/01/14 01:36
陰と陽は
反対語なのでしょうか?
対語なのでしょうか?
何かイヤな政治臭を嗅ぎ取ってしまうんだが・・・
気のせいなら良いが・・・
61 :
通りすがりの者:03/01/14 14:34
>>56 「易と人生哲学」。安岡 正ひろ著。竹井出版。細木 数子の御主人だった人。国文学者。
>>61 ??
ほんの名前を挙げるだけなら誰でもできます。内容への批判・疑問・賛同ポイント
などを話しましょうよ。
ちなみに私はその本はあまり好きではありません。少なくとも、読めば読むほど実
占からは遠ざかるのではないかと思います。
63 :
考える名無しさん:03/01/15 23:49
ホモ・ポリティクスは人間の属性です。そうだとしても自然に反しません。
私はそれに愛される自信は全くありません。私はあなたより年寄りです。
もうこれ以上は言えません。
64 :
考える名無しさん:03/01/15 23:53
まあ易は良くわからん。岩波文庫で読んだけど解らん。あれは一生読み続けて
味わう書だね。
>>64 易を「書物」として見た場合には、
前から順番に読んで理解していく、という既存の本の概念には絶対に収
まらないと思います。
とにかく筮竹や算木で卦を立てて自分の人生や出来事によって読んでい
かなくては分からんのではないでしょうか。驚くほど重層で明瞭な世界
が広がっています。
66 :
考える名無しさん:03/01/15 23:59
すぐ占えっていうね。そういうもんじゃないだろ。本物の易は。
67 :
考える名無しさん:03/01/16 00:00
卦と爻とには、レベルの違いがあるのでしょうか。
この場合のレベルの違いとは、タンパク質と細胞、
地球と太陽系、といった程度の意味です。
たとえば変爻のない卦を得たとき、爻辞の替わりに卦辞を
(つまりは同レベルのものとして)読んでよいものか。
それとも、別レベルのものとして読むべきなのでしょうか。
>>66 わたしの立場としては、辞の解釈と占という行為は不即不離だと
思います。
易を文献解釈の手法だけで見ていっても絶対に表面に触れること
すらできないと思っています。
占すら超えるのは、示される卦を示すところの「それ」の心が本
当に分かったときです。これが「本当の易」だと思います。
>>67 つまるところ、易で示されるのは「陰と陽の状態」ではないか。
そういう観点から卦を見た場合、変コウというのは
・陽、あるいは陰におおきく偏り、陰から陽が、陽から陰が生まれ
ようとしている地点
ということになるのではないでしょうか。ゆえに、この生まれいづる
ところは不安定ですから自由意志が入り込む余地があり、真に主体的
な判断が必要となります。あるいは、もっとも彩り豊かな地点です。
これがコウ辞です。
>>67 これらの観点から帰結するに、
卦とコウとううのはやはり別レベルのものであると言うしか
ないのではないでしょうか。
ゆえに、無変のときは卦の意味はあくまでも前提し、自己の
判断でコウ辞に示されているところの理法を考え、生まれい
づるところまで行っていない偏りに注目していくのが筋では
ないかと考えています。どう思われますか。
71 :
考える名無しさん:03/01/16 00:15
やはり、どんどん自信を失ってきました。
やはり、私は前厄なのです。前厄そしてさらに厄です。
私が昨日言った事でもう一つの正解は、私は行き続ける選択をするという
事です。
>>66さんは読書家だと思います。
68の私の発言に対し何らかの思うところがあるのではないでしょうか。
この問題は「テクストの本質」という哲学的問題と親和性があるのではないかと
考えています。
易という少し異質な構造的テクストに対しては私もよく分からないところだらけ
なのです。忌憚ないご意見をお聞かせください。
73 :
考える名無しさん:03/01/16 00:21
>>71 捨てハンでいいから名前持てや。「私」がどれだか分からんのよ。
ネタか?だったらしつこいぞ
71ではないのですが、捨てハンつけてみました。私は67です。
たとえば易を複雑系などと関連づけようとしたとき、
レベルの違いをはっきりさせた方がよいかな、と思い、
67のような質問を書いてみました。
>>70のレスに納得です。
>>74 関連論点で、もう少し考えていることを書きます。ややこしいので、分からないところは
言ってください。
「卦」と「コウ」の二階層のみしかないと考えがちですが、わたしはそうではないのでは
ないかと思っています。74さんは中筮か本筮をやられるようですが、コウ卦の陰陽という
の階層もあるわけです。コウ卦→コウ辞に示される1コウ化→本卦
という階層は、コウ卦のさらに下に無限に続くコウ卦のコウ卦、本卦の上に続く本卦をコ
ウ卦とした上の階層の卦を暗示しているのではないか。
そう考えますと、易の陰陽構造というのは小さく見ていけばどこまでも小
さく、大きく見ていけばどこまでも極大に捉えられます。
易経には「流れ」をイメージした言葉が出てきますが、通ずるものがあり
ます。
また、シュタイナーのアカシックレコードともイメージにおいて相共通し、
階層構造は複雑系のジュリア集合と相似しますね。
このへんを数学と矛盾しない表現でなんとか表現したいのですが、浅学
ゆえ達成できておりません。
それでですね、
この階層がより下や上にある陰陽配列は、コウ卦本卦とどういう関係にあるのか
ということに対していまいち考えが収束していかないのです。当然陰卦→陰コウ
ではあるわけですが、何らかの形で一つ飛んだ階層に影が映るのではないか。
率直な感想でもなんでもいいのでお聞かせくだされば幸いです。
78 :
考える名無しさん:03/01/16 01:00
タントリズムは1度失敗済みです。
私はいま独身です。それでも反自立でもなんとか生きてます。
>>78 荒らしのような書き込みはどちらかといえば嫌ですが、ある程度の実体験
も伴っておられる若い方だと推測します。仙道系の方かもしれません。
仙道や道教と易との関係性についてどう思われますか。
よろしければ、会話のキャッチボールをお願いします。
タンパク質→細胞→器官→生命体のような階層構造があると、私も思います。
漠然となのですが、変爻、つまり陰から陽が生じ、陽から陰が生じる地点とは
複雑系でいうところの「カオスの縁」ではないかなどと考えています。
>何らかの形で一つ飛んだ階層に影が映るのではないか。
う〜ん、よくわかりません。
変爻が変じるという、その動きに何か鍵があるかもしれません。
81 :
考える名無しさん:03/01/16 01:21
知りませんがもうすでにお話したことと思います。
気の関係では?としか分かりません。そして気の事は良くしりませんし、
勉強し直すのも大変です。私は多分道教向きでしょう。それも分かりません。
あなたはどうですか?
そうか。確かにカオスの縁ですね。なんで発想しなかったのだろう。
>>81 きのう「周易参同契」が着いたのですが、練丹の知識がなく、取っ掛かり
がなくてほんとうによくわからなくて困ってしまっております。
すくなくとも、
・易において陰と陽に関する決定的な体験がある地点で必要であろうこと
・そういう二項対立は 仏教の特に禅の平等と差別
仙道の動と静
キリストの神と悪魔(イエズス会の霊操における
霊動弁別における神と悪魔
などと同じではないか。易もまた大きな一つの実体を指し示すのであろう、
くらいに考えております。
>>81 ふむ、変コウにはそれよりしたの階層の「陰と陽の収束化の方向性」
も示されているのではという発想が今浮かびました。
深めてみたいと思います。
85 :
考える名無しさん:03/01/16 02:42
易鬼さん、81みたいの相手にしてるとバカにされちゃうよ
>>58 これでした。
http://books.yahoo.co.jp/bin/detail?id=19448010 >人間の知が一種の「カテゴライズ」である以上、世界分析はいかなる
>方法でもある地点において「存在態様の原型化」に行き着く以外にな
>いことは自明だと思います。
仰る通りだと思います。タオの本性上、不可避である分節、ないしは流出の中に、現れざるを得ないパターンの骨子そのものの学が易なのだと個人的には考えています。
掌を上に向けるか、下に向けるか、というようなことでも、中国人は陰、陽、という言葉を使うそうです。
>>86 さん
お疲れ様でした。
図書館か何かで探してみたいと思います。わたし数学、特に多次元概念は
まったく分かりません。その辺から勉強しないとならんですね。確率論に
おける確率空間、次元構造ならほんの少し分かりますので、その辺を皮切り
にできないものでしょうか。
易の象徴符号の体系と、物理学はいかなる関係にたつのでしょうか。
易は確かに理念体系ではありますが、数学のようなトートロジーは全く
基礎としてないと思います。カテゴライズした後は、常に「意義付け」を
するわけですね。もちろんこの意義付けに最も必要なものは
・文典研究、それを敷延した「覚」を求める修行(筮占が核心部分か?)
なのですが、理念同志の内的構造を論理明晰化することによる構造主
義的アプローチもかなり有効であると思います。今まで私自身かなりの
歓喜を頂いてきました。
また、漠然と考えていることなのですが
易の経文言というのはすべて
・もの、ことにたいする象徴構造の表現(複雑系に類似)
・行動規範としての体系的倫理
の二要素の複合体として提示されています。
ここのところの関連性、構造を明晰にしていくことは、デカルト
以来の物心二元論を超克していく側面も持っているのではないで
しょうか。
>>86さんに提示頂いた多次元概念というのは、まさに易における
物体、出来事に関する象徴構造を解明する手がかりを与えてくれる
のかもしれないです。
陰、陽
量子空間の多次元概念
この二者をじっと見詰めて、なにか思うところなどありましたら
ぜひ教えてください。私も考えてみます。
>>85さん ご助言ありがとうございます。易を読んだことはおありですか?
初九者さんに提示していただいた「カオスの縁」ですが、混乱しつつありま
す。「カオスの縁」に対する私の直感的定義は
・階層どうしの要素関連において、カオス(無秩序)でもなく、周期性でもな
い全体的関連性の生じる場所
ということでいいんでしょうか。易に取り組む前にこの定義の部分と、
・複雑系の発想のもととなるセル・オートマトンと易の構造は類似しているのか
同じ物なのか違うものなのか
という点から検討してみたいです。
>カオス(無秩序)でもなく、周期性でもない全体的関連性の生じる場所
私は「周期性」というよりも「死のような平衡状態」を想定しています。
一方に陰と陽がまったく交わらない平衡状態があり(変爻は考えられません)、
他方に、筮竹の動きでは追えないほど、陰と陽がめまぐるしく入れ替わる
カオス状態がある(変爻は意味をもちません)。
その間に渡された細い尾根(エッジ)をカオスの縁(エッジ)だと考えています。
陰(または陽)が極まったところで変爻が変じることから、
この「カオスの縁」を連想したのでした。
>>87-89 私は本当に、数学はおろか、算数さえも覚束なくなってきている人間なのですが、
陰と陽とは、ヘーゲル風の正と反、という風に簡略化してみても良い側面もあるのではないかと思っています。
次元でいうなら、線に対しての面、面に対しての体、立体に対しての超立体、というような。
線対超立体のような場合が、象というものの出現するところではないか、と勝手に思っています。
太極図の象意は、本当は目まぐるしく回転しているところにあるのだ、と昔聞いたことがあります。
その時はなんのことか理解出来ませんでしたが、つまりは〈無限〉の図像化ということだったのだ、と現在は仮置きしています。
そして、タオではないもの、それこそ万象の極にまさに内在する無限小の点こそ、変爻というものの座なのではないでしょうか?
1、易において本質に迫る道筋、探求方向性が、わたしは長い間とっかか
りさえ掴めずにいました。いまだ分かってないわけですが、明晰化の方向
性はだいたいぼんやりと見えてきています。それは
・易とは陰と陽である、いずれかを体として用い、いずれかを用として
用いる
ということをどこまでも適用していくということです。
翼の繋辞伝において、経解釈でありながら何故、最初に陰と陽の描写を
最初に置かざるを得なかったか、という心がだんだん分かってきていま
す。
筮竹と算木が机上に置かれていますと、円と方は天地陰陽であり、一方
は行的に、他方は知的に深め、合い補って道を踏み行うものであるとい
うことに感動を覚えます。そして、それらを一塊としてみた場合にはそれ
ら筮具は陰、経は陽でもどちらもなくてはならない合い補うものでしょう。
この陰と陽の相補概念を、「概念提示し、意味が食い違った場合のとりあ
えずの共通表現」とすることを提案したいです。物理学における論理規則
のようなものです。陰と陽の実質的意味もまたそれによって明らかになる
ことを期待します。
94 :
考える名無しさん:03/01/17 14:58
2、物理学においては、(単純に言えば)その理論の真理性は、実験の結果予測
において担保されます。
では、易学において真理性を担保するものはなんなのでしょうか。最大公約数的に言えば、
・占の的中率が上がる
ということであろうと思います。当然、このことは経や象要素に対する
観念がより本質に迫る、というようなさまざまな要素を含んでいるわけですね。
ですので、
・理論に進展性や見通しをつけたいときは実占例も吟味して実質的意味も探る
という思考規則を提案したいと思います。
あかるいわぁ
96 :
考える名無しさん:03/01/17 14:59
3、当然、現在の易の占の行たる、「筮竹を18回切り、算木に表現し(そこに
占の対象の意味が投射されるという暗黙の了解があり)・・・・」
というような通俗的な易占イメージが易の行的側面をどこまで正しく表しているのか、という
ことには大きな疑問があります。たとえば漢書の天官書など見ますと、亀卜の
際には楽を流し、筮者と解釈者も分かれており、儀式作法も厳密に決まっていた
ようであり、占行はちょうどミサなどと同じく総合芸術、儀礼宗教であった
でしょう。またこのような、「いにしえに真理がある」という思考も懐疑しな
くてはなりません。
であるがゆえに、行動としての占と、概念易学の知の相重なるフーィドバック
からより正しいものを見出していくということにとりあえずの方法論的定式を
置きたいと考えます。
97 :
考える名無しさん:03/01/17 15:00
そんなのいやです
以上のような
1・対概念を「陰と陽」の「体用」でなるべく表現する
2・観念的になりすぎたら実占でどう適用されるのかという面からも検討する
という二つの思考規則に立って、
>>91 >>92 初九者さんと5152さんの書き込み
を検討します。また、思考規則1より、この二つの思考規則自体も相補的なもの
である、と言いたいと思います。(要検討)
また検討して書き込みますので、これら自体へのご意見などもしありました
らお聞かせください。
たのまれて筮を執ったときに私が出した占例があります。占例自体はたくさん
ありますが、・対象範囲がなるべく明確であり、・前提事実と結果もなるべく明確
である。という点に注意してみました。
女性で、恋愛の占です。彼は三四回会っただけの人で、今は音信不通になっ
ています。嫌われたのだろうかと不安です。
この問題の過去から未来の全体像、対処法、問題の中心点を卦に表しました。
火
地
山 雷風恒 5
水
雷
沢
さて、これの占結果の妥当性と判断を探るのは占術理論板でしょう。この事実と得卦を
とりあえずたたき台にして、易卦構造のセル・オートマトンと複雑系、カオスの縁
は、日常生活事実にどのように表出しているのか、すなわち、我々の生を易から
とらえると、どのようなポイントがカオスの縁なのか。また、どういった系概念
が易に最も適合するのかを考えていきたいと思います。
(^^)
101 :
考える名無しさん:03/01/18 10:20
何か良く解らんな。易経って儒教のテキストなんだからもっと
素直に読んで解釈すべきでないかな。占いのテキストというのは
一面であって、実際は処世術や宇宙論的哲学の書という面もあると
本田斉が書いている。
確かに易経の経文だけ見ていてもだめだといくつかの儒者が書いて
いるけれども、その境地に至るには易経のテキストを正確に
読んで理解していることが前提になる。妙に現代思想じみた言葉を
使って知者ぶっているとしかみえない。
また占いをあまり強調すると神秘思想のようにとられかねない。
占い師ならともかく、哲学として見ていくのならもっと哲学的な
面に注目したらどうか。
>占い師ならともかく、哲学として見ていくのならもっと哲学的な
>面に注目したらどうか。
残念ですが、上のほうでウダウダ言ってる連中は、哲学として易を
見ているのではなく、哲学だの数学だので権威付けしているだけの
単なる「占い師」です。
103 :
考える名無しさん:03/01/18 10:32
俺は良く解らないながら、しばらく易を読んでいる。岩波文庫、朝日文庫
、今井宇三郎の解釈書などを主に見比べて読んでいる。おぼろげながら大筋は
理解しはじめたようだが、細部に至っては良く解らん。だが、安易に占いに
はしりはしない。また占える境地にまで至っていない。
今は繋辞伝を少しでも理解したいと思って少しずつ読んでいる。
ウダウダ言ってみますか。
陰=気 陽=理
という風に思ってしまっては駄目なのでしょうね。
煉丹では水火既済という卦を功の成った相の表現としてよく使いますね。
反対物の一致と似たようなものだと思うのですが。
>>101 せめて「素直に読む」例を示せ。これが問題ではないのですか。
>>102 私は厳密には占い師ではないです。しかし、占い師だとして、だから?
易にアプローチする一つとしての占という行為について意味するとこ
ろをもっとよく考えてみて欲しいものだ。現代社会的な実態と混同するのでなく。
>>103 けいじ伝は、まず第一章において陰と陽の性情を卦本文と別の解釈基準
側面から見る。
つづき
その後、二章でその展開に向かう。後段、
「このゆえに、君子のおりてやすんずるところのものは易の序なり。
楽しんで玩ぶところのものはこうの辞なり」
易本文を常に想起して生きよ、と。で、その想起と使用の具体的な仕方。
「この故に君子は居ればそのしょうをみてその辞をもてあそび、」
象を まず 見て、倫理規範としてそれの解釈としての辞を使用し、
「動けばその変を見て占を玩ぶ」
変を まず 見て、占的行為の中で意味を取っていくと。
ここの解釈というのは、占筮と義理を常に調和的に用いよということでよいので
はないか?易本文と違い、いん代金文でなく漢古文ですから、意味も極めて明確
でしょう。今井、本田、鈴木由次郎、公田、原田、丸山、高田、後藤などのおおかた
有力な漢学者の解釈は私も比較対照したことがありますが、そういうけいじ伝の
基礎的底流の意味解釈には大筋相違ないはずです。
>>104 イメージとしてはそういう風にわたしも思っているのですが、少なくとも
根源的意味の一側面の表出に過ぎないであろうという風に思っています。
どんな風にまずいとおもいますか?
>>108 正直なところ、「コウの陰陽の正と不正」
というものの本質が今のところ私にはよく見えないのです。
位と応比ならばそれなりに整合化されつつはあるのですが。
もう少し考えてみます。
>>92 への質問なのですが、「変コウというのは何か」というのは、筮法から見れば
単に、
・コウ卦の陰あるいは陽が3つ重なること
ですよね。このことと、
>そして、タオではないもの、それこそ万象の極にまさに内在する無限小の点こそ、変爻というものの座なのでは
ないでしょうか?
という観点は、論理的あるいはイメージ的にいかなる関係に立つのでしょうか。
なんとなく・・のお言葉で結構です。
陰も陽も気だぞ。
原典ちょっとでも読んでれば、そんなミットモナイ誤解するはずないだろうに?
113 :
考える名無しさん:03/01/18 20:09
二元論に集約できるぞよ。
もひとつ絡ませる必要があるんでねえか?
(^^)
>>112 原典て何のこといってますか?易経本文にも十翼にも「気」
なんていう概念は一切出てきません。存在論としての「気」の一元論は、
朱子の五経正義でごく簡略に示され、宋学の発展の中で確立した概念だと
いうふうに理解しているんですが。違いますか?
あと、東洋医学では魏の張九景の傷寒論にはすでに一応経絡と気の記述はあります。
易と東洋医学というのは一大テーマですが、私などは、東洋医学は五行説の占める
概念割合が多く、また心身相関論ではあっても存在哲学的広がりはあまりないよう
に思いますので、区別して考えています。
>>113 簡潔に過ぎて理解しきれません。どのレスに対するご意見ですか?
116 :
考える名無しさん:03/01/18 23:27
今一番大切なことは易経の従来の解釈を検討しながらそこから何を学ぶかであって、
決して占いに走ったりきちがいじみた解釈をほどこすことではない。
従来の解釈。易は占いの書でもあるというのが従来の解釈です。
占いの書というだけではなく哲学の書である、なんてことは、
誰も否定していないし、私だって否定しない。
どんどん哲学的解釈を提出していただければよい。拝聴したい。
占い「も」している人の方が興味深い解釈を提出している、
というのは私の気のせいですか?
「占い」
についてですが、未来予測とかのイメージから、「なんで当たるんだ!んなこと
あるわけねーだろ!占いなんてレベルが低い」「共時性?ユングなんて出すな!」
ま、ある程度同意してもよいでしょう。実のところ、全面的同意はとうていできないですが。
上のような人は、次のように考えればよい。
易経というのは、普通の散文に比べて文の前後の意味の連関が希薄で、読み進めにくいですよね。
ですので、時々に部分的に読み深めていく方法論が極めて有効なわけです。
偶然性によって読む部分を決め、自分の人生や目前の事象とも比較しながら読むのは、誠に
意味深い読みを与えてくれます。その結果、テクストと自分との親和性がより深まる
わけですね。
このような読み方が可能な本というものを、私は易経以外に知りません。
現代社会で氾濫する「占い」のイメージをとりあえず取り払って、上のような
行為が「占」だ、ということでまずはぜんぜんよいのではないでしょうか。
>>116 個別的検討はおおいに望むところです。どのへんが「きちがいじみた解釈」
だと思いますか?
また、易に対するどのような「従来の解釈」から、どのようなことをあなたは学
びましたかあるいは、学びたいですか?教えてください。
総論的に書くのもよいですが、総論のみでは対話が成立しません。
部分的に指摘してください。たとえアリのような歩みでもよいと思います。
確実に対話をしたいです。
>初九者さん
なにか新しいこと思い付きました?
わたしは易に対する構造的アプローチの根底に、けいじ8章に表され
ているところの筮法をまずおくことにしています。
カオスの縁の言明はきわめて刺激的でした。
問題は、筮法あるいは卦構造あるいは経文言から、それが論理的に
明快に帰結されないことです。
>>118 易鬼さんて、なんかオトナだ!
>>120 そう。その通りなのです。理論的ではない。
まだまだイメージ的なことしか書けないと思うのですが、また書きます。
122 :
考える名無しさん:03/01/19 04:35
まるで自分が神になったような錯覚におちいったかのようだね。
また、実際易経を確実に読んでるかどうかも疑わしい。
数学だ、構造的アプローチだのと独りで理解したような言葉を使って煙に
巻こうとしていることがみえみえ。
まさに雑占家だな。
まともではない。
少なくとも儒学としてでなく、占いの道具でしかない。
一言でいえば電波。
>>122 ご指摘ありがとう。一般的な感覚とずれているのかもしれない。
確かに、あまりに神秘主義的に見えるのかもしれません。
そうしたらですね、とにかく最初の二卦の本文を徹底究明するということから
始めることも提案したいです。どこから入っていただいてもかまいません。
乾、げんきょうりてい←1、ここの読みと、卦辞に頻出するこの四語の意義
@せんりゅうもちうるなかれ←2、せんりゅうの物象解釈 3、もちうるなかれ(経内
に頻出)の意義
A見竜田にあり大人をみるによろし←見、竜の本体と動詞の関係性のねじれについて
Bくんししゅうじつけんけんし、ゆうべにてきじゃくたり あやうけれどもとがなし
・なぜ竜がぬけおちたか(時々見られる、コウの共通テーマの突然の抜けはどこから生じるか)
Cあるいはおどりてふちにあり。←ここも竜でよいのか。
Dひりゅうてんにあり。大人をみるによろし。←2コウとのテーマの共通性はどこからくるか
Eこうりゅうくいあり。←経中に頻出する「有悔」の意義について
矢印でしめしたところは論点になりうるであろうと今思い付いた
ものです。
乾の卦の辞の総論としては、
・道徳倫理が6コウ全般にでてくるが、それらが非常に自立的であること
・コウ文言の意味、形態的関連性がひじょうに密であること
・1−6こう 2−5こう 3−4こう に文構造の相似が見られること
が挙げられます。じょうげんの韻論ですと、ほぼ春秋期の古詩の形式を踏んでいるらしい。
です。
私の感想としましては、
・「君子」の場に応じた基本的な行動哲学の変化
が述べられ、ある意味その後の63卦の解釈の指針を示しているとも思います。
では最初のげんこうりていについて、これをおおいにとおりてただしきによろし、
とよむ説も有力であり、また馬王碓の古文から、「げんきょう」とは祭儀の名前
であることも判明したそうです。ここからいきますか。
わたしは、ここの読み下しは「げん、こう、り、てい」で四徳ととらえるのが
最もふさわしいと思います。何か全体的にごいけんあるかたいますか。
>>122さんいかがですか。
>>111 私が勝手に思っていることですが、太陰中の純陽、太陽中の純陰、というものに相当するものが、モノだけではなく、コトにもあるのではないだろうか。そして、その場所は、というようなことです。
>>118 >偶然性によって読む部分を決め、自分の人生や目前の事象とも比較しながら読む
私も以前、そういうことを遊びでよくやっていたことがありました。前にどこかでそう書いたら「正統派」を自負する方に、言下に否定されてしまいましたが。
>このような読み方が可能な本というものを、私は易経以外に知りません。
タロットは聖書をそのような意図の下、綴じ合わせを解いたものなのだ、という説もあるようです。
>>108 陰は女、水、月、etc…、陽は男、火、日etc…、というような照応の図式も有りでしょうが、「さっきまで陽だった」ものが「今度は陰に」というようなことです。
まあ、私が勝手にそう思うだけですが。
そういえば、古い時代は陰陽は剛柔と表現されたこともあったようですが、これも面白いと思います。
それから、五行易なる占法もあるそうですが、これは単に名前の問題に過ぎないのでしょうか?
126 :
考える名無しさん:03/01/19 20:45
すごい馬鹿だな。少し読んだからって乾坤の知識ひけらかしていてもしかたないだろ。
そんなもん歴代の解釈を集めた本に全部載ってるんだよ。俗物以外の何物でもない。
>すごい馬鹿だな。少し読んだからって乾坤の知識ひけらかしていてもしかたないだろ。
>そんなもん歴代の解釈を集めた本に全部載ってるんだよ。俗物以外の何物でもない。
(^^)
128 :
考える名無しさん:03/01/19 21:20
>126
その書名教えれ。。。
易鬼さんのレスに触発されて、繋辞を読み直してみました。
徳言に盛んなれば、礼言に恭し。謙なる者は恭を致して…。
易鬼さん、122さんや126さんのどなたが易を理解しているのか。
まあ、歴代の解釈を集めた本でも読んで考えてみます。
130 :
考える名無しさん:03/01/19 22:43
易鬼さん、時間論について、易的な観点から語ってくれ。
>>125の1 そうですね。イメージとしては大いに賛同します。ただ、わたしは
それ以上の厳密さが欲しいというような衝動があります。たとえば陰陽ですと、
もっとも象徴的にそれをあらわすのは乾坤ですね。卦辞を比べるに、まず乾坤の
文構造は明らかに不均衡です。乾のほうが構造が明らかで、坤はばらばらな印象
を受ける。また、それぞれが交互に変化するところの上コウのコウ辞を比べますと、
陰、坤のほうは「竜」すなわち陽が発生しているのですが陽、乾のほうはコウリュウ
、のぼりすぎた竜くいあり、で「崩れる陽」のすがたですよね。 陰と陽の性情が
不均衡なのです。
わたしの陰陽を「空間的イメージ」で言いますよ。これは乾坤を読み込んだ
上でのことですが、陰とは絶対的な茫漠とした広がりです。2こうの「直、方、
大なり」ですね。悟りの境地。仏教では空の自在境です。そこが揺らぐことによ
って、「竜野にたたかう」陽が直接あらわれる。
エネルギーの高い真空の量子空間における虚数揺らぎが生じ、突如インフレー
ションを起こした、という現代宇宙論をほうふつとさせますね。
それに比して、陽のほうは長じすぎると自滅的に崩壊する。そして陰があらわ
れます。
>>125の2 易と西洋神秘潮流というのも面白いテーマですね。タロットにつ
いては、あまりに秘境的な感じがするのでキリスト教とは「審判」くらい以外
は没交渉ではないかと勝手に思っていました。しかし、大英博物館の「ウィン
ザー公のいとも豪華な時祷書」を見て考えが変わりました。あまりにも象徴的
ふごうが多すぎますね。じとうしょは16世紀前半のもので、最も古いマルセイユ
版タロットは17世紀初頭ですから、あまりにも影響はありますでしょうね。
ただ、決定的な違いもあります。またこのわだいがでたら別論します。
>>125後段
五行易は、ここで今まで論じた易とはまったく別物と考えてください。象数
易について少し書きましたが、あれの漢末期の創造的雰囲気の中での私生児
だと思っています。 ごく概論を言いますと、「納甲」という方法で卦の各
こうに干支をふります。 それの刑ちゅう破害(簡単に言えば、影響関係の
ことです)から意味を取るもので、易経とは直接の関係はありません
・・というのが通説ですが、わたしは五行易の納甲と易本文を対照して比較
していったことがあります。
そうしますと、五行易でいう「世こう」、中心となる場所、の位置のこう辞
には、感情的な辞がほぼかならず入っており、なんらかの原点的つながりは
あるのだろうと思って研究中です。京房という人の書いた京房易伝という書
にまとめられています。しかしこの本は易の注釈では全然ないですね。しんい
説を五行説で表現し、易経にこじつけたような感覚を受けています。
剛柔はたん伝の表現ですね。象伝は陰陽です。たん伝のほうがよりアナログ
な陰陽観を持っており、象伝は卦こうどちらももっとデジタルに象をみています。
>>126 まさに馬鹿以外のなにものでもないと思っています。易の本質に関して
ほんとに何も分かりません。なんでもいいので考え付いたことを、ヒン
トをください。
137 :
考える名無しさん:03/01/20 00:23
手相がすごく薄いんだけど、大丈夫かな。
138 :
考える名無しさん:03/01/20 00:28
易は統計学に過ぎません。
私は占いフリークでは全くありません。その反対です。今回に限って偶然が
少々重なったから少し以上くらいは気にしてましたが。
あなたは男だから右手が運命、左手が現実だそう(昔友人より)
因みに私は生命線が2つあります。別に気にしてません。
>>129 がんばってくださいね。どんな感想、疑問、字義、構造、連想、
なんでもいいのでいっしょに検討させてください。
>>130 大変なテーマです。「易的な観点」といった場合は、哲学的なテーゼ
の場合
1・関連ある卦こう辞の真意を探る
2・陰陽二元論的観点から推測する
3・けいじ伝など注釈総論をもとにして卦全体を解釈する
4・易経から派生した東洋哲学そのものを易からの発祥という視点からみる
・・・・・・・・・・・・
など多義的でしょうね。 2については根本的な発想を132に書きました。
批判的検討してください。
1について言いますと、時間進行そのものを扱った卦には「漸」などがあり
ます。これは鳥が大空へと向かっていく様を述べたものです。
また、十二消長卦といいまして、陰と陽が連続的に出てくる卦を比較対照
することもよくやります。
時間については、経の文言をいま思い付く限りあげますと
三日: こ 明い そんいふう
七日: 復 震 既済
日 :乾 よ こ 復 大蓄 離 かちしん めいい 革 震 豊 そん きせい
月:小蓄 臨 きまい ちゅうふ
三年:きせい びせい
十年:ちゅん 復 山雷い
↑年はこの二つのみ
「永」:こん 訟 比 さんかひ 益 たくちすい ごん 小過
「居」:ちゅん ずい い 感 革 ふうすいかん
「長」:師のみ
「終」:乾 履x2 じゅ 訟x2 比 謙 よ こ さんかひ 復 しゅうかん
かじん けい かい たくちすい 困 てい ぜん 旅 そん きせい
というような感じで文言が出てきますね。もう少し考えさせてください。
どなたか、何かごいけんありますか。
141 :
yakin:03/01/20 00:39
易については、しろうとです。だから専門用語は、いまはわからない。
すみません。ただ、哲学板なんで本気でやらせてください。
探る>>推測する>>解釈する>>視点から見る
という分節とヒエラルキーを設けた理由を教えてくれませんか?
142 :
yakin:03/01/20 00:42
易における運動概念がどのように組み立てられているのか?
ということを、時間論の範囲で、私は問いかけているつもりです。
お互いのバックグラウンドが全く異なるので
こういう言い方で伝わるでしょうか?
>>141 ふーむ まったく意識はしなかったんですが、上のほうのレスで易への取り組み
に対する方法的な批判が数ありましたので、
・そういう、通説的漢文学の「文献解釈的」方法論(ここからもう一歩踏み込ま
ないと易は分からないとおもっています)
からも首肯しやすいものからなんとなく並べてみました。そうしたらそういう述
語になっていたのですね。
144 :
yakin:03/01/20 01:01
142のほうが、本論です。
言葉や概念のレベルは、運動から導かれる時間概念に
還元できる。
だからこそ、易的な時間がどのように定義されているのか。
それを知りたい。
ちなみに西洋では、
時間は運動の数
と定義されています。
「占」的側面から。
算木で卦を画した場合
「時間」をどこに見るか。
全体象意、辞の文言、コウなどの位置と関係、という順に限定か
されます。
後へ行くほど、質的時間から量的時間へ向かいます。
>言葉や概念のレベルは、運動から導かれる時間概念に還元できる。
記号論でしょうか。例を挙げてください。
147 :
yakin:03/01/20 01:11
>145
いや、そういうことを問いかけているつもりは、ありません。
そういう<順序>を導いた(分節化した)
原理/原則が易の根本にあるはずなのではないか。
質的時間/量的時間という差異概念を
俯瞰的に調停するレベルがあるはずで(西洋にはある)、
易的なその部分を問いかけています。
難しいテーマなので、ゆっくりとでもけっこうです。
西洋以外には、どのような形で分析されていますか?
学域で言うと、どういうものなのでしょうか。
149 :
yakin:03/01/20 01:24
うーん。
うまくこみゅにけーしょんがとれてないね。>148
西洋における<運動>の概念が
変遷していった様子は、解説書レベルでしることが
可能なんですよ。インペティウス然り。
わたしが勉強不足なだけなんだろうけど、時間を構成する
易的な運動とは?という問いかけをしているつもりなんです。
この問いが外れているならば、もう一度考え直さなきゃね>わたし
150 :
考える名無しさん:03/01/20 01:29
餓鬼が誘導
言いたいことはなんとなく分かっているのかもしれないです。
なぜ答えにくいかというと、
「易という名前の、ある原理から論理で演繹した観念体系」
があるわけではないからです。
たとえばけいじ伝では、易への取り組みについて
「辞、象、変、占」
の四つのれべるがあるとされています。それぞれ、まったく
違いますし、はなはだ厳密さを欠く言い方ですが演繹的思考が
通用するのは「辞、象」の部分のみです。これも、段階性が違います
思考次元の相違、ということで今思い付く卦をひねりだすと、
「観」ですかね。
2 うかがいみる。おんなのていによろし。 客観的見方から、
5 我が生をみる。君子のていによろし。 主観的見方への
段階的変化をのべていますね。かんはてあらいてすすめず。ま
ことありてぎょうじゃくたり。「ものを見る」ということの視点の
違いを俯瞰しています。
「易」というのは私の見方ですと、
・生き方 ・絶対的なものへのアプローチの仕方
というような行動的概念だと思いますからね。
「易経のことば」=辞 ということであれば、
時間認識については初こうの変化から上こうの変化へと、
ごくおおざっぱに言えば「極まっていく」といえます(けいじ伝使用語句)
なにが極まるか。そのときの陰陽の性情ですね。ここで、論理がふりだし
にもどってしまいます。
で、いままでのかきこは139に書いた視点で見てみたわけです。
1・関連ある卦こう辞の真意を探る=152
2・陰陽二元論的観点から推測する=151
3・けいじ伝など注釈総論をもとにして卦全体を解釈する=153
です
155 :
yakin:03/01/20 02:07
>154
ねるのでこれでカキコ終わりにしますが、
陰陽を濃度の違い、としてとらえる視点はあったのだろうか。
濃度と捉えるならば、運動概念がからんでくるはず。
あとね、151で四区分しているでしょう?
なぜ、四つに分節できるのか、考えたことありますか?
おもしろかったですよ。また何か書いてください。
また何か言いますから。エロスからロゴスが急激に自生する瞬間を待ちましょう。
これは、陰から陽が生ずる瞬間ですね。
>>155 四区分―「解釈されるものの内容」でなく、解釈指針にも陰陽が
適用されるからだと考えています。辞、象は陽的、変、占は陰的
ですね。
陰陽―上記したように、陰陽という考えが「存在概念」としてのみ在るとい
うのは端的に間違いだと思います。モナド論とは前提からして違うよ
うに思います
>>58あたりをよんでください。
易学板に逝って。
個人的には、ヘーゲルの無、有論が陰陽説に非常に近いと思います。
159 :
考える名無しさん:03/01/20 17:22
通して読んでも、なにが言いたいのか全く分からない。
なにもわかっとらんやつらが知ってる単語を書いてるだけ。
内容の価値はゼロで、どいつもこいつも易については何も知らない。
延々と、ぜんぜん関係ない二元論と占い(藁藁藁 についてしか語
ってない。
おまえら世の中の癌だからマジで死んだほうがいいんじゃないか。
特に、トピ主気取り、神様気取りの妄想ジジイは。
160 :
考える名無しさん:03/01/20 18:22
>おまえら世の中の癌だからマジで死んだほうがいいんじゃないか。
>特に、トピ主気取り、神様気取りの妄想ジジイは。
なーるほど、易をよーく理解すると、こういった言葉が出てくるわけね。
よーくわかりました。
161 :
yakin:03/01/20 19:58
>>159 的屋が、占いをやってた、特に易を、
という現実を知ってますか? 日本の
占いというなの、思想体系が廃れたのは、
おそらくは、的屋のステバイのせいだろう。
このすれぬしは、マトモだと思うけど。
真摯で真面目だ。
162 :
yakin:03/01/20 19:59
神農系の人たちのこころあるひとたちは、
ステバイを強烈に批判してますよ。
ここ、学問だけのひとなんですかね?
163 :
考える名無しさん:03/01/20 20:25
>神農系の人たちのこころあるひとたちは、
>ステバイを強烈に批判してますよ。
わけわかめ
164 :
考える名無しさん:03/01/20 20:35
易は現在の日本ではただでさえいかがわしいと思われている。だから易に
ついて論じる場合は特に気をつけねばならない。
占いはどうしても決断しなければならない時に一事について一回だけ占う
のである。しきりに占っても意味はない。占いをするまでにはまず易のテキスト
を確実に理解し身を修めることが必要なのだ。
いかにも分かった風に西洋哲学用語や易用語を使って理解したようにふるまって
も何の意味もないのだ。
だから不確実で間違った考えを撒き散らすのは止めたほうがいい。
また、まさか卦をながめて全てを察するようであるが、それは無理だと思う。
本当の神様か電波なら別だが。
>まさか卦をながめて全てを察するようであるが、
こーゆー文章は「電波」とは言わんの?
166 :
考える名無しさん:03/01/20 22:47
不確実で間違った日本語を撒き散らすのは(略
167 :
考える名無しさん:03/01/20 22:51
これ以上めどぎを汚さないでくれ。
168 :
考える名無しさん:03/01/20 23:07
だれに言ってるの?
>なにもわかっとらんやつらが知ってる単語を書いてるだけ。
禿同。
もしかしたら、彼らは何か深遠なことを言いたいのかも知れないが、
もしそうだとしたら悲しいかな、伝達能力がまったく追いついていない。
>>163 猪野健治ってリアリティ度がとても高いからよめば?
座学の世界もまぁいいんだけど。
組の人は本当に神農氏を祀っているのでしょうか…?
他の方はいざ知らず、いかにも私はデムパですとも。タオのビジョンの幻視がデムパでなくて、何だと言うのですか?
>>131 それは、陽を称揚する姿勢の表れなのではないでしょうか…?
>>132 「空」に相当する、もしくは近いものは、むしろ両儀以前の状態のように思います。
>>134-135 私は〈?〉→〈1〉→2→4…というのはともかく、五行がどこから出てきたものなのか、納得出来ません。
陰陽説と五行説の折衷は不自然なものだった、ということは無いのでしょうか?
173 :
考える名無しさん:03/01/21 17:38
電波あげ
易経では、陽を重く見て陰を軽んずる傾向がある、という意見は特に漢文学者のか
たがたの注釈や論説を読みますとよく書いてあります。
ですが、これはやや安直に過ぎるきらいがあるのではないかと考えています。
そういうことを言う裏を考えますと、「陰と陽は対立物で、平等で均一なもので
なくてはならない」というあまりに単純すぎる言外の前提がなされているからです。
まずここの陰と陽とはなにか、ということに肉迫したいわけです。
これには、
1 経典の陰陽の対照されているところを比較研究する
2 実質的に、「陰陽とは何か」という問いを設定し、特に経の
象伝には倫理規範としてそれが示されていますから、それを
実生として探求する(占もふくめた行的実践)
という、知、行からアプローチせよとけいじ伝にあります。
1のことですが、これには裏卦の検討ということが第一に考えられますね。
それで最もふさわしいものを探すわけですが、例えば復と天ぷうこうの卦
などですと、卦に表出されるテーマが基本的に違うため、なかなか比較し
きれません。
今のところ、最も実り豊かなのはたくてんカイと剥の比較ですね。
どちらも、上に向かうベクトルに相通ずるものを感じます。
最も重視すべき違いというものは、上コウこう辞の違いですね。かいのほ
うはおおいなるこのみくらわれず、で硬く、剥のほうはあやうい様です。
これら比較を通し、131のようなビジョンがだんだんとできてきました。
>>159、164
はっきり言いますが、あなたがたの書き込みからは学ぶところ、考え
させられるところがどこにもない。
ひょっとすると、あなたは漢文学のなんらかの大学などの方かもしれ
ません。それならばそれで、もうすこし実質的に、自分の思うところや
意見を述べてください。
占についてのご意見についてですが、確かにそう言う方もいます。
しかし、けいじ上10章3−5節などを見る限り、私には易における
行というものは日常的に行う中で工夫していくべきものではないかと思
っています。
私にとって、易というものは研究対象であるとともに、なにより実践
倫理です。
あとどうでもいいですが、ジジイというほどまだ年はとっていないと
思います。
研究ということについて付言しますと、馬王碓はく書などをはじめとして文典
研究には近年めざましいものがあると思いますが、なかなか触れられません。
もしそういうところの方でしたら、ぜひご教示ねがいます。
>>157 ものごとをつきつめると哲学になります私としては、東洋哲学の一つとして
この板の範囲に収まっていると思っています。どうしても目障りでしたら、
削除依頼をお願いします。
易学板=占い板ですと、たとえば易の話も卦読みの当てっこなどに終始する
ことになってしまうのです。
私は、もう少し易の先にあるものや、易の根本にあるものに常識にとらわれ
ず着目していきたいのです。
ですので、占術板と同様、漢文板もふさわしくありません。
180 :
考える名無しさん:03/01/22 00:36
例えばタロットのアルカナが示すものとは一体なんなのか?とか気になる。
>5052さん
五行についてですが、はっきり言って五行思想と陰陽論の実質、からみなどは
いまいちよくわからないところです。しかし、たとえば五行大義など見ますと、
「陰気はじめて凝り、水を生ず・・・・」というような形で、陰陽論の根本から
派生する形を取っていますね。
>夜勤さん
私、競馬について何もしらんのですが、「ステバイ」ってなんだったでしょうか。
あと、てきやさんと易について書かれた本などありましたらご紹介ねがいます。
猪野健治という人は作家のようですが、どの本を読めば書いてありますか?
>>180 タロットについては上に2,3書きましたのでよんでみてください
客「大、有るかな?」
店員「すいません、売り切れです。」
客「なら、小、有るかな?」
店員「はい、小ならまだあります。」
客「じゃあ、小三つね。」
店員「はい、小三つですね。毎度ありがとうございます。」
184 :
考える名無しさん:03/01/22 12:51
>>149 易的な時間
普段認識しているのは五行、太陽の起動が天干で地球の軌道を地支が現す。
これは普通の暦ですね。
五行の中の木→火→金→水という流れがあります。
土は器なのでなんの力もありません。
植物人間みたいなものです。
生まれる(固まる土)死ぬ(崩れる土)という働きを持ち、
それがどんな形状になり、いつ壊れるかは四行の力関係で決まると
考えています。
土で出来た人の寿命がまちまちなのもこのため。
木は、動、振動
火は、熱い、冷たい 熱
金は、物質
水は、流れる
>>155 元亨利貞 吉凶悔リン 辞象変占 春夏秋冬
四分類されている背景には、この木火金水の概念が流れています。
運動概念に上四つは使えますかね?
木火(固まる土)が陽で、金水(崩れる土)が陰
五行といいつつ、実は四行なんです。
土は何者でもなく、なにでも変化する雑種。
んで、これが
>>172 Bの答え。
無理やり折衷しているわけじゃないのよん
逆だった
木火(固まる土)が陽で、金水(崩れる土)が陰 ×
木火(崩れる土)が陽で、金水(固まる土)が陰 ○
>>176 コウ辞逆
>かいのほうはおおいなるこのみくらわれず、で硬く、剥のほうはあやうい様です。
変な文章でごめんなさい
>>149 木は、動、振動
火は、熱い、冷たい 熱
金は、物質
水は、流れる
時間を構成する易的な運動として、陰陽にはこれが含まれています。
使えますか?
>184
それと納甲の関係についてはどのように考えればよいのでしょうか。
あと、四象と四行の違いを厳密に言うとどういうことになるのでしょうか。
「八卦から五行を見る」ときに見える風景はどんな物になるのでしょうか。
「五行から八卦を見る」ときは?
試論するに、八卦の交互媒介の「ありさま」を見たものが五行か、とも思う
のですが、そうすると納甲が視野に入ってきません。
あと、これの根拠を教えてください。
>元亨利貞 吉凶悔リン 辞象変占 春夏秋冬
>四分類されている背景には、この木火金水の概念が流れています。
緩く考えると、「変化生成が陰から陽にめぐるときは自然、四行の変遷
となるであろう」というようなことが根拠、というか当然の導出になるとは
思うのですが、ここのところの明快さがいまいちないように思います。
あと、上記の土についてですが、そうすると、「太極」と「五行の土」の違い
というのは何なんでしょうか。
190 :
考える名無しさん:03/01/22 15:11
22 00:43
客「大、有るかな?」
店員「すいません、売り切れです。」
客「なら、小、有るかな?」
店員「はい、小ならまだあります。」
客「じゃあ、小三つね。」
店員「はい、小三つですね。毎度ありがとうございます。」
191 :
考える名無しさん:03/01/22 20:40
易は人間と自然・環境との関わりや人間関係などについては西洋哲学と比べて深い
思索を展開しているといわれる。五行だのなんだのという細部よりもそうしたことに
注目したほうが良かろう。
192 :
考える名無しさん:03/01/22 20:49
>>184 納甲ははじめから視野に入れていません。
無理があると感じるからです。まだまだ勉強不足で説明できません。
四象はバラバラ。四つの間につながりのないもの。
如何様にもなれるが、
形のある物(陰)形なく存在する物(陽)になるとある程度決まっているもの。
例えば木を震・巽
自発的、他動的に動くと分けるのは四行。
「動・振動」と捕らえるのが四象。
熱を熱い火、冷たい水と分けるのは四行。
四象の火は、熱いも冷たいもない「熱」そのもの。
四行は互いにつながりを持って始めて「四行」になる。
四象はつながりを持たない動き。性。
木は、動、振動
火は、熱い、冷たい 熱
金は、物質
水は、流れる
これは四象。
↑RGK
心とすれば仁義礼智信が五行。
仁を愛、アガーぺとするのが五行の木。
四象の木(仁)はエロスもアガーぺも区別ない愛。
>元亨利貞 吉凶悔リン 辞象変占 春夏秋冬
>四分類されている背景には、この木火金水の概念が流れています。
これらは全て体用の用。繋がって巡っているものは全て四行。
奥底に流れているのは四象。
「つながりのない四象」に陰陽の一コウが飛び込み「繋がる四行」が
生まれる。
四象そのものにはつながりも意味もない。
繋げるのは四象の上にある陰陽です。
>>191 易は人間と自然・環境との関わりや人間関係などについては西洋哲学と比べて深い
>思索を展開しているといわれる。五行だのなんだのという細部よりもそうしたことに
>注目したほうが良かろう。
これは本田済の所説だと思うが、まさにあなたの言う「五行だなんだのという細部」において、
社会と人間、物質などの体系的構造を明らかにしたことに典拠している。というふうに
私は考えるがどうか。
細部をあげつらうようで申し訳ありません。なぜこんなことを言うかというと、
けいじ伝などの陰陽説や易の翼伝の陰陽概念に比べて、五行説には何か明らかに
シンプルでない、納得しがたいものを感じていることに由来します。
>四象そのものにはつながりも意味もない。
>繋げるのは四象の上にある陰陽です。
とすると、易の八卦と五行の「つながり」というのは、端的に言うとどういう
ことになるのだろうか。あこれが納甲か。
だから四象を使う易は自由奔放な変化をして、
四行を使う命学は変化の範囲が限られる。
あと、「卦と時間」の時間をどこから読み取るか、について、大変に重大
な着想を得ました。
だから納甲は無理があると思う。
私何か役にたててる?
なんだかものすごく基本中の基本を言っているだけなんだけど。
河洛理数について日本ではいい本がないね。
香草社のからくりすうはあまりいい評判をきかないので
どうしようかと思っています。
役に立つというか、それは無限に役に立っているし、
精神的にいいです。
五行の土は
木火金水の帰る場所。
収蔵されるところであり、生まれる場所でもある。
推命では土(丑辰未戌)を四墓・四庫と呼ぶ。墓には蔵(庫)の意味がある。
力尽きて壊れた四行を収蔵するのが陰土、己の働き。
収蔵されたものが新しい姿となり、生み出されるのが陽土、戊の働き。
五行の土は、四行の雑種であり、物が変化するスイッチでもある。
だから、つながりを持たない四象に土の概念はない。
大極は四象も五行も全て包括したもの。
五行の土とは全く別。
ふあ〜、ねむ。で、それからどうしたの。
そうすると、太極―陰陽のみが最上位概念でそこから絶対的に分断してしまうことに
なるのかな。
ただ、上の卦の具体例でカイと剥を出したけど、復にしろ女后にしろ、陰陽一つ一つ
に部分的に注目していくと、きわめて当然のことを言っているように思う。
要するに、全体観の形成を通して陰陽を表現し、→太極へとつながる認識は自然に
構築できるように思われるのだけど、ゆえに陰陽の表現を出ているところは易にはど
こにもないように思われるのだけども、このへんはどうなのだろう。
あと、卦と時間の照応について悩んでいたが、あそこからよく分からなくなってくる
のは当然の話で、問題の次元がもう一次元深いことを見逃していたのだった。
つまり、
・アメリカは戦争をはじめますか→いつぐらいですか
・私は人生について悩んでいます→ほう、そういうことが起こるのはいつぐらいですか
・財布を落としました→ほう、その溝に落ちたのはいつぐらいですか
というような各々違う三事例において、時間を表現する場所がちがうのは当然の話で、
卦にあらわされている対象の深度によって時間がどこに表現されているのか、も当然に
違う。
ゆえに、この点を明らかにするには
・質問の論理形式と、易の卦の論理形式(すなわち、何が、どこに、表現されるか)
を一元的にまず明瞭にし、そのあとで始めて時間がどこに表現されるのかも分かってくるような、
そういう問題だった。
前々から、「いったい質問というのはどういう風にすれば統一的に考えられるのか」
というのは非常に悩んでいたもんだいだった。つまり、
・私は何故生まれたんでしょう
と
・財布を落としたんですがどこにあるでしょう
の二事例にたいし、一様に卦から情報は引き出せるがいったい自分はいかなる定見に
基づいて卦観を変えているのか、ということが全く分からなかった。
前に示したように、易というのは端的に言えば
・行動規範と事物象徴
の二者に区分される言語が書いてある。とうぜん、二者が分断し得ないほどに混ざっている
場合もあるわけだが、そういう場合も「二つが混ざっている」というふうに
少なくともその二つはある
というふうに観念できる。
具体的には、
ふむことさくぜんたり。これをけいすればとがなし。
「ふむことさくぜんたり」は事物象徴の色が濃く、「これをけいすればー」は
行動規範の色が強い。というように分節できる。
なので、・行動規範を求める占 の場合には自分は行動規範の部分を重んじ、
・物の変化をもとめる占 の場合には自分は事物象徴を重視しているのだと思って
いたが、そうすると、
・いつ転職したらいいでしょうか。この先会社はどうなり、自分はどうすればいいでしょうか。
のような場合は、いったいどちらの形式にあてはまるのか分からなくなってくる。
で、「質問の普遍的な論理式はどういうものか」についてある意味ずっと考えつづけていたわけだけれども、
やっと解明できました。
易というのは繋がっている輪なのだろうか。
輪なら太極―陰陽のみが最上位概念でそこから絶対的に分断されてしまう。
輪のようにみえるけど、実は螺旋状の一本の流れなのだろうか。
螺旋なら分断されずに陰陽ー大極へどこからでも変化できる。
自分で「輪」を持ち出しておいて、自分の中では
「螺旋」と認識している。
なにを絡ませているんだろう。。。
上二行つけたし
大成卦の姿を現した段階で分断されてしまう
いや、その問題も面白いけども、207は「八卦体系と五行体系」のつもりで書いた。
易の輪に関しては
文の内容が完全につまびらかではないのだけれど、
・コウ卦のコウ卦のコウ卦の・・・・・・・・・
という下部構造を場合分けで数学的に調べてみたら、「あらゆる卦の表出はただ
一つのコウ卦の網目につながっている」ことがわかったので、
自分としては、その得た得卦は、どこかのその網目の一部分であろうというような
卦観を今では持っている。
これをパソコンのプログラムにもし組むと、二つの得卦があったら、どちらが
どちらの部分で最速どのくらいの深さのところにあるかが計算できるようなことが
可能だとおもうけど、ちょっとややこしいはなしすぎるので文章で伝えるのは
むりっぽい
あと、変コウの本質に悩んでいるときに、
「なぜコウ卦には変コウがないか」
ということを考えつづけて面白い発見をしたのだが、これも書くのはややこしい
なななな、なんじゃそりゃ!
確かに書くのは難しそう。
いや、だからね
八卦体系と五行体系といいつつ
_ _
_ _ これと
_ _
_ _
_ _ これはとんでもなく違うじゃない。
_ _
_ _ は立体的にもならないし意味も含まれないのに
どうやって結びつけるというんだ?
五行も八卦もいろんな側面が現れるという点では同じ。
八卦は五行と結びついても、五行は八卦へは帰れない。
重さ、存在をつなぐものって何だろう??
_ _ ___
これだ。
小成卦に成ったとき、五行の意味も含まれているよね。
うーん、何が言いたかったんだっけな。
唯一の変化の別の側面だよね
大極の変化
と
易の八卦の交錯
と
五行の変遷
というのはまったく同じ意味ではないのだろうか
「神は方にして易は体なし」
そうそう、全く同じ意味だという結論。
易の内容を意味的側面から陰陽に分類した場合に、
・行動規範・事物象徴で成り立っていることは既に述べた。
思うに、質問の内容というのも必ず「この二者を易に求める」
この二者要素を易に求める複合体である。
ということに言い換えられる。
しかし、
・落とした財布はどこにあるか
という質問は、先の二側面から分節化すると
落とした財布の場所=事物象徴
のみを求めているようにも見えるが、よく考えてみればそうではなく、
たとえば経験から帰納するに、
「財布は見つからない」「−すれば見つかる」
という形のメッセージを読み取らざるを得ない場合も今までたくさんあ
った。これはつまり、この質問自体に元々、「落とした財布はどこにあり、
自分はそれに対してどうすればよいか(行動規範)」
が絡み合っているというように考えられる。
未済の上九と
乾 初九のつながりは考えたことある?
しかし、「−にある。」ということが分かった場合はそれのみ告げればよい
のであって、これは「事物象徴の側面が前に出る形」の質問であるといえる。
こうしたことから推すに、・質問とは事物象徴と行動規範の二面を求める面を
必ず持っているが、どちらが前面に出ているかで二つに分けられる。というこ
とが言える。
ちなみに、これは「陰と陽は必ず一対で存在するが、どちらか必ず主となっ
ている」という陰陽論を言語論に敷延したものであるといえる。
まとめると、占の論理形式は次のようになる。
A(陽)形式 自分は何をすればよいか(を主体として)関連して直面している
それはどのようになるか(どこにあるか、なども含む)も補助的に求める。
B(陰)形式 それはどのようになるか(を主体として)関連して自分はどうす
ればよいか、も補助的に求める。
のいずれかの形にすべての質問は帰着することになる。
そうすると、たとえば
・この先会社はどうなるでしょうか。もしつぶれたら、自分はどうすればいいのでしょうか。
は、明らかにB形式に完全に分節化できる。
そして、ここまで明らかになると卦とコウに対する視点が大変明確になる、つまり、
コウの意味は大成卦の意味を前提として分析したものであるから、
(a大成卦の意味)を主体として(b関連して導かれたコウ意)というふうに占考機関
の全てが分類できるからである。
これで、当初の「時間はどう表現されるか」という疑問を考える素地ができたことになる。
すなわち、A形式の質問だった場合、卦の大意は行動規範の部分が主であり、「直面
しているそれ」はコウの形式として表されることになるであろうからである。
上経が天地の理、下経が人の理を説いているのなら、既済は離為火の後ろか、沢山カンの前に
来るのが正しいはず。
小過(大カン)⇒中フ(大離)⇒未済と散って行くのが陰陽の動き方として自然な感じがするのだけど
どう思う?
これはわざとやっているのかな?
>>223 ないかも。酒飲んでおしまい、さすがだね。というふうだった。
あと、どうでもいいんだけど きにさわったらごめんね。
言おうかなどうしようかな
言っていって。
中フ(大離)⇒未済
これはなんで?
何?くそあほとか?
全然かまわないよ。
さいしょに乾の初コウを得たということをいっていたが、
あれは今見れば辞占ではなかったのだろうか。
「せんりゅうをもちいるな」
卦コウ辞は一切無視してね。
上経は天地自然界の理を説く為乾坤で始まり、カン為水と離為火が生まれて終わっているよね。
下経は人の世の理を解くため、沢山カンの一番男女が惹かれあう若い力から
始まっているよね。
1、既済が太陽と水の循環している姿なのだから、既済がないと人は生まれないじゃないかなと。
2、未済の前、小過と中フは明らかに水と火を意識して配置しているのに
水と火そのものではない。
なのに既済が繋がってくるのは不自然だと思わない?
何か意図してねじらせているのかなと。
>231
私の話?昔書いた
人を鑑定していいかどうかの占断のこと?
>>なのに既済が繋がってくるのは不自然だと思わない?
なんで?いまいちよくわからない。水と火でしょ
離為火もカン為水も体用が揃った否の打ち所の無い
水と火だよね。
小過も中フも水火の象をもっているけれど
中身は山と雷と風と沢だよね。
人の世は陰陽は五行の形態をとって現われる。
天の太陽、地の炎
気化する水、流れる水の様を示しているのがカンと離。
中フと小過は実態が違う、概念の火と水。
既済と未済って、並んでいるのが不自然な感じがする。
綜卦がつがいで並んでて、上下同じ場合は裏卦で並んでんじゃねえんかな
そういうことではなくて?
しくしくしく。。。
どうでもいいんだけど
>>231は
私がやっぱり他人の為に占をとるべきではなかったという
強力なツッコミでしょうか?
すんません、もうやっちゃてるので手遅れです。
いやいや、人の名前がよくまあ辞占で出ているなと思って。
ああ、なるほど。
私の本名覚えている?師匠は私に出会う前に
「縁のある人間」という占的で卦を立てて
中フの初九を得ていたそうです。
天人地を上中下と読み、上卦巽を柔木として・・・
「木下」という予測を立てていたよ。
はずれだけど、聞いた時はびびった。
「八卦の意味分類」に関して、
抽象的 天 地 水 火
↓ ↓ ↓ ↓
現実的 風 山 沢 雷
という分別も可能であることに気づいた。
「水と沢の区別があいまいでよく分からない」とは易に触れ
始めたころから思っていたが、
・易における疑問点は、どんな馬鹿馬鹿しいものであっても
とにかく究明することに命をかけると必ず収穫がある
ことがなんとなく分かり始めたので考えていたら思い付いた。
これは一体、何を表しているのだろう。上と下で陰卦、陽卦が
変わってしまうがコウ変化にも規則性があるし、この分類に気づい
てから改めて象名を見ると象名を作った人は多分、この対応を確実
に念頭に置いているっぽい。
陰陽で上下対応しなければ干支にもなれない。
合とっきしつう出来ないからね。
初めの頃、水は流水、沢は止水と認識していた。
八純卦の卦名は抽象→現実そのものだね
244 :
考える名無しさん:03/01/24 16:22
はぁ?
>>240 関係ないけど潜龍嫌い?
みたこともないし興味も無いからコメントもないか。
ある意味易鬼にものすごく似ていて、ものすごく違う。
>>243 全然関係ないや、無視してください。
あまりに当然の事として体に入り込んでいたから意識していなかった。
木は、動、振動
火は、熱い、冷たい 熱
金は、物質
水は、流れる
土は、包括
これは一霊四魂。
「八卦の意味分類」に関して、
抽象的 天 地 水 火
↓ ↓ ↓ ↓
現実的 風 山 沢 雷
かなりずれるけど。
天庚 地己 水癸 火丙
↓ ↓ ↓ ↓
風乙 雷甲 艮戊 沢辛
五行は干合で八卦を捻じれさせ現実のものとして存在している。
丁は陽中の陰
壬は陰中の陽として天地水火(四正)にはなれず
合してになるのは雷
振動する不思議な魂、生命を示す雷が生まれる。
これが八卦体系と五行体系のつなぎ目になるのではないでしょうか。
五行体系のなかの抽象的象意は
現実の中にある「抽象」のみに限られてしまう不自由があるけれどね。
五行に土はないと先に書きました。上記から考えると
五行の中心になっているのは木になる。
陽中の陰と陰中の陽から生まれた、振動する命が中心になる。
五行の生まれる順番
水1 火2 木3 金4 土5
易の数象
天 「沢 火」 「雷 風」 「水 山」 地
陽 水 木 火 陰
干合「沢辛 火丙」=水
「水癸 山戊」=火
これは環境を作り、現実の暦にもなる人の意思が働かないもの
「雷甲 風乙」は
丁は陽中の陰
壬は陰中の陽
天地水火(四正)にはなれないが、直接陰陽に結びつく
「捻じれ」をもった命。
五行からみた八卦体系の結びつきはこんな感じではないでしょうか。
だから、ここは哲板なの。
お願いだから易板に帰ってくれませんか?
てゆうかむしろ、帰れ。
>>250 今話してるのは明らかに東洋「哲学」だろうが。
占の世界自体、世界認識の問題と深く関わっており、東洋哲学というのは
個人の運命と世界存在や時間論を統一的に解する以上、ある程度根本的な
会話は哲学性を帯びる。この辺をそれなりに分かっているようでありながら、
その邪魔ばかりする書き込みは何だ。
上のほうのうざい書き込みと同じやつぽいが、おまえのような奴を2ちゃんねるでは「粘着厨」というんだぞ。
何がどうあっても、貴様の書き込みのような理由にならん理由で去るつもりはない。
それでもそう思うならどうぞご自由に削除依頼しろ。相手にされんだろうがな。
ネット掲示板というのはスレッドのテーマに「議論的な」興味がある場合に書き込むんだぞ。
そのくらいわきまえろ糞ばか野郎 二度とくるな
天庚 地己 水癸 火丙
↓ ↓ ↓ ↓
風乙 雷甲 艮戊 沢辛
これ、なに?
これは四柱の干合の法則。
わかりにくくてごめんね。
庚+乙=金(乾)
己+甲=土(坤)
癸+戊=火(離)
丙+辛=水(カン)
四正(よっつの正しい気)
壬+丁=木(雷)
陰中の陽(壬)陽中の陰(丁)を持つ命。
五行土に該当する四正の雑種が命。
言葉が入れ替わっているだけなんだけど、わかりにくいかな。
五行では現実にあるものを象徴するから
最大の陽は太陽の丙
最大の陰は癸の海になる。
易の乾坤は全てに含まれていて
純粋な陰陽はない。
庚+乙=金(乾)
己+甲=土(坤)
これは単純に心と体
生命があってもなくても、すべてが持つ魂魄
易の乾坤を含むものは、必ず木(命)がある
↑木が絡む
陽(火)中の陰 丁
陰(水)中の陽 壬
乾坤の魂魄を持ち、陰陽(水火)の極まらない、
捻じれた形で存在している木が命である。
ゆえに五行では「木」が中心になる。
土は生まれる・死ぬ「姿」のみで全く意味はない
それを八卦に対応させると
天 「沢 火」 「雷 風」 「水 山」 地
陽 水 木 火 陰
こうなる。
八卦体系と五行体系の結びつき、
五行から八卦を見た場合はこうなると、私は思う。
天 「沢 火」 「雷 風」 「水 山」 地
陽 水 木 火 陰
八卦の天と風 地と雷が干合するのは
五行が循環するための「捻じれ」
捻じれたところで生命(木)が存在するのは面白い
こんなこと書いてる本ないから
独覚といわれそう。
五行は腑におちた。易に戻ろう。
「八卦の意味分類」に関して、
抽象的 天 地 水 火
↓ ↓ ↓ ↓
現実的 風 山 沢 雷
抽象と現実の間にあるものは
太極?陰陽?どちらのイメージをもっている?>易鬼
太極なら螺旋。陰陽なら輪のイメージにならないかな?
天 「沢 火」 「雷 風」 「水 山」 地
陽 水 木 火 陰
__ __ 陰
_____
九五 丙 太陽
__ __
九四 六三 乾坤の魂魄を持ち陰陽の極まらない捻じれて存在している木(命)
_____
__ __ 六二 辛 海
_____ 陽
易で水火既済が定位となるのは明らかに
五行理論を意識しているよね。
>>123-124 124の
・1−6こう 2−5こう 3−4こう に文構造の相似が見られること
これは上記陰陽五行の「応」を意識しているのではないか?
1−6の応、2−5の応、3−4の応。
うーむいまいちよくわかんないな
なにがよくわからないのかもわからない
すこしかんがえてみよう
抽象と現実の間にあるものは
太極?陰陽?どちらのイメージをもっている?>易鬼
太極なら螺旋。陰陽なら輪のイメージにならないかな?
最後の一行はよくわからない。
少なくとも体用の関係にはなっているだろう。
象徴的火→現実的火
離火→震雷
だろう。
きせいの応のところ、よくわからない。
卦変と卦構造にかんして、
陰卦と陽卦の構造や変コウの本質については徐々に明確な視点を
持てるようになってきているが、またコウ位と応比そのものについても
やや分かってきたが、
正、不正について
これがよく分からない。なんでこういうものが卦構造に内在しているのか、
内在しうるのかが全く分からない。
RGKと俺は、
「わかった」
という言葉の意味するものが
少しずれているのかもしれない
そこがまたいいんだが
陰陽バランス取れた地天泰ではなく水火既済と定位とするのは何故?
易鬼はどう解釈する?
>>267 お互いずれているのを無理にすり合わせようとしないのもいいね。
陰陽のせめぎあいが易だ。
>>263 ・1−6こう 2−5こう 3−4こう に文構造の相似が見られること
これは上記陰陽五行の「応」を意識しているのではないか?
1−6の応、2−5の応、3−4の応。
これは並びの違う「天人地」ではないでしょうか。
1−6 姿のない龍 天
2−5 姿の現れる龍。「大人」という人と龍が重なる場所 地
3−4 龍が完全な人に成った姿 人
だから3−4に「龍」の辞はかけられず、人を象徴しているのでは?
「君子」は人。「踊りて」は足をじたばたさせる様。
このコウ辞が示すのは、人位の人を意識して書かれている。
龍を省いたのは、龍ではない「人」を示すためではないでしょうか?
>>45 吉兆星って推命で聞いたことないんですけど、
誰の本に出てました?
>>86 5052さん。
易鬼との面白い話題の所、乱入してすみません。
>掌を上に向けるか、下に向けるか、というようなことでも、中国人は陰、陽、という言葉を使うそうです。
相撲取りが組む前に、掌を下に両手を広げ、広げきったところで上に向ける。
地の気と天の気を集めて手を打つ。
手を打つのは天地を合わせて人を意味しています。
手を打ち足を踏み「音」で人を示す。易の震雷が生まれる様子ですね。
私は五行について書いていましたが、5052さんの感性からすると
どのような感覚がするのかを聞いてみたいです。
ああ、そうか。
土俵をイメージすれば五行が解りやすいかも。
土俵の上、東西南北に青白赤黒の房がある。
木金火水で対極をあらわし空間を作る。
これが干合
土俵は四角で地を表し、縄は丸く天を表す。
四行の中に含まれた乾坤。
易の乾坤(陰陽)は土俵の外を作っている。
易の乾坤と五行の土金の違い、解るかな?
力士が手を打ち鳴らし足を踏み鳴らし雷と成る。
>>268 変コウの本質論で
陰変化、陽変化を分析した結果、陰陽の変化について導き出される一般原則
は、次のようにあらわせられそうだ。
「陰と陽はいかに混合しても絶対に混ざらないが(陰は陰、陽は陽で在りつづけるが
、各々が極まると内部から他方が生成する」
>>273 では水火既済の一卦のみを定位として扱うのはおかしい。
全ての卦は乾為天と坤為地の二卦のみから成る。
そこに定位の概念はない。
水火既済の定位とは、五行に姿を現すための踏み台に成るものと
捕らえているのかな?
>>274 まるで教えて厨でした。
無視してください。
既済については、それが非常に理想的な形態であろうということは思う。
つまり、陰陽の下部構造において、
陰陽陰陽陰陽陰陽・・・・・・・・・・・・
というふうに陰陽が無限に分裂し、一切の偏りがなければそこから変化は
過去永劫、未来永劫起こりえず、それのみで完全性を保持した閉じた形態に
なるであろうからだ。
ただ、極小の一個所でも陽陽、と偏りが生じたとたん、上部に既済は現わ
れ得なくなる。
実際のものとしての卦においては、上記のイデアルな既済では
なく妥協としての既済が現れるのであろうから、卦辞の成就感とコウ辞の危
殆感に分裂が生じているのであろう。
しかし、このイメージにおいては正を得たものが既済であって未済でないこと
の説明が全くできていない。
5コウの君子位、心位における陽の座、というイメージは勿論理解できるが
、卦を疑似社会化、擬人化するというあまりにイメージ的な説明の脆さには
自分は納得感を持ち得ないし、卦要素の説明も「構造的に」行うことが完全に
できるのではないかと思う。ゆえに、「なぜ人に当てれば心で、社会構造に当
てれば天子の位になり得るのか」ということが明らかにされねばならない。
要は、3コウと5コウを差異化することによって卦に上下を作り出して、
階層内の卦内における矢の方向性を決めることにポイントがあるのだろうと思うが。
「コウ卦には変コウはなく(変じてしまっており)、ただ最上位の本卦にの
み未分なるものとしての変コウが残っている」ということで、コウ構造の網目に
おける階層同士の上と下の矢の方向性が決められるところに変コウの意味がある
のであった。
この辺と整合的に理解されねばならないと思っている。
我々素人は「爻」の字で代用しちゃって何とも思わないんだけど、
ここで熱くなってる易者の皆さんは、一体どういう字を使いたくて
「こう」「コウ」って使い続けてるわけ?
>>276-278 了解。
混乱させてしまったのは、
私があくまでも「五行理論からみた八卦体系」へのアプローチをしていたからでしょう。
閉じた形態の水火既済が既に在り、五行が存在しているよという話しを
していた。
だから、私の話は狭く本来の陰陽感を制限してしまっている。
易に戻るよ。
やっぱりなんか申し訳ない気分なので引きます。
あうあうあー
283 :
考える名無しさん:03/02/13 01:33
あげ
ここで私が散々考えていた事は五行大義に結構載っているじゃん
ちっくしょー、くやすい。。
285 :
通り過がりの者:
火水未済. 火水(神)とも読みます. 万物は流転する.