1 :
考える名無しさん:
スレタイの通り心脳問題の統一スレです
それではスレを始めてください。
よろしくです。
2 :
考える名無しさん:02/11/15 08:19
ありがとうございました。終了です。
3 :
考える名無しさん:02/11/15 08:26
>>1 クオリアって何?
前にもそのスレあったよね。茂木健一だったっけ?
俺ほとんど読んでなかったけど、それは絶対に必要な概念なの?
一部の学者のおまんまのためにだけ必要な概念です。
3と4はゾンビ。
6 :
2年P組デリダ先生:02/11/15 14:02
クオリアは概念だがエクリチュールは概念ではない。
7 :
考える名無しさん:02/11/15 14:23
茂木健一郎の理論を教えてくら灰。
9 :
考える名無しさん:02/11/15 17:53
茂木のクオリア論の 心 の定義は永井均。
心の定義が永井均?
11 :
考える名無しさん:02/11/16 00:37
そう。本人がそう書いてた。
哲学者永井均が言うように「私」という問題は非常に難しいのです
みたいなことを。
哲学の知識がない理系の茂木君は永井均を読むのが精一杯、
エクリチュ―ルも知りません、ってくらいなんじゃないかな。
延原幸弘(n‘∀‘)ηワショーイ!!
ま・間違えた(´Д`;)
信原幸弘でちた
でも永井ひとしって心についてなんか言ってたっけ。
15 :
考える名無しさん:02/11/16 10:55
\ │ /
/ ̄\ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
─( ゚ ∀ ゚ )< くおりあくおりあ!
\_/ \_________
/ │ \
∩ ∧ ∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\∩ ∧ ∧ \( ゚∀゚)< くおりあくおりあくおりあ!
..くおりあ〜〜〜! >( ゚∀゚ )/ | / \__________
________/ | 〈 | |
/ /\_」 / /\」
 ̄ / /
17 :
考える名無しさん:02/11/16 16:29
最近はどういう学説が出てるのか。
知ってる人いない?
18 :
考える名無しさん:02/11/16 17:18
クオリアを科学的記述に取りこめない何かとしてしまうと
結局はそれは何であるのか意味不明になる。
何であるのかを言おうとすると機能的科学的な記述に取り
こまれ、クオリアの意義を喪失する。
19 :
考える名無しさん:02/11/16 17:24
いや、「とりこめない科学的記述に取りこめないことがら」というのが
クオリアの定義の全てだろう。
科学的な解釈を示すと、クオリア論者は、
「解釈できるからそれはクオリアではない」というようなことを言い出すから。
20 :
考える名無しさん:02/11/16 17:27
つまり、プレスタージョンの類ではないかと。
21 :
考える名無しさん:02/11/16 17:31
クオリア論の前提にあるのは、"私、という不思議"なんだよな、結局。
古い。
22 :
考える名無しさん:02/11/16 17:33
つうか、その「不思議」は「要請」であって、
「疑問」(知的欲求)とは別のような気がするが。
23 :
考える名無しさん:02/11/16 21:03
『主体のあとに誰が来るか』は読んでない。
>>18 入不二流だね。
確かにあれは面白い。
>>21 クオリア論に”私”が前提されていても、問題としては独立でしょう。
というかそれが永井的な”私”なのであれば。
25 :
考える名無しさん:02/11/17 19:01
入不二の本は面白いよね。言及、思考し得ないものを突き
詰めていき、極北として自己の非在に至るプロセスは解る
けど、どうしてそれが究極的な実在論と一致することにな
るのだろう?
26 :
名無しさん@1周年:02/11/17 20:34
クオリアなんて それについて指示できねえだろう
ウィトゲンシュタインの反私的言語論考えてみろや
必要にして十分なのはクオリア表現を言語の枠内にとりこんでおくことだけで、
クオリアそのものを指示対象として指示することじゃない
27 :
考える名無しさん:02/11/18 00:19
>>26 私的事象を、それと似ている公的事象(類像?)で表す。
例えば、意識の中の像を絵で表す。
それでも同じ波長の光に対し、人によって受け取った色のクオリアが
違う可能性があるのなら、
その代わりとして色のクオリアに対し、暖色や冷色なら、暖かさ冷たさで表す。
28 :
考える名無しさん:02/11/18 19:04
だから、クオリアの実体として、確認できるものは、
関連、類似する事象の想起でしかないわけで、なら、
「それそのものがクオリア」という考えには十分な妥当性があると思うんだが。
29 :
考える名無しさん:02/11/18 19:39
フッサール的な限界に行きつくことが予め分かっている概念を
新たに採用する必要はない。
30 :
名無しさん@1周年:02/11/18 21:35
>>27 >例えば、意識の中の像を絵で表す。
私的な「像」を公的な像にもたらした時、その齎し方の正誤基準がないのだから、
そもそも正しく齎したと言えない、従って齎したと言えない、これが反=私的言語
論の教訓じゃない
クオリアのユニークさは他に依存しなくても保障されるいといってるが、
そうであれば、誰がそれをそれだと保障するのか.
そんなことを考えるのはちまちました哲学者だけで十分だ.
すべては相対的にしか存在しないということだけで十分だ.
33 :
考える名無しさん:02/11/19 01:37
>>30 「その齎し方の正誤基準がないのだから…齎したと言えない、」
のその「正誤基準」というものと、
正誤基準がないのだから齎したと言えないという論理がよくわからないけど、
見ている現象を言葉(シンボル)にする場合も、それに対し言葉から独立した
「正誤基準」というものがあるわけではない。
その場合、言葉を定義する場合も言葉で行わなければならない。
(でも視覚とそれに対する言葉の定義の変わりに、
測定器具と操作的定義を使うやり方はある。)
「正誤基準」の理由により、意識の中の像を絵で表すことが成り立たないのなら、
測定器具と操作的定義を使うやり方は別として、同じように、
見ている現象を言葉(シンボル)にするやり方も成り立たないでしょう。
>>25 観念論=実在は観念に還元できる。
実在論=観念は実在に還元できる。
とした場合、
普通の実在論=実在は観念に還元できない。
ハードな実在論=可能的なあらゆる観念を想定しても、還元できない。
究極的な実在論=還元できない、という否定形ですら捕捉できない。
という感じだったと思うが。
35 :
考える名無しさん:02/11/20 10:18
>34
つまり、究極的な実在論だと、実在の中には
自己の居場所がないっつーことね。
36 :
考える名無しさん:02/11/21 04:18
なるほど。解ったような気がしますた(w
入不二がヘーゲルと近いって言われるのものも
そのあたりなのかな?
37 :
考える名無しさん:02/11/21 10:56
「私」にとっての私にもクオリアありますよね?
どういう意味?
39 :
考える名無しさん:02/11/22 00:22
クオリアを公的な言語に変換できるかという問題と、
クオリアを解剖学的な方法で説明できるかという問題は別の問題だろう。
40 :
考える名無しさん:02/11/22 00:45
「Zのテーマ」
テレビアニメーションシリーズ「マジンガーZ」挿入歌
作詞:小池一雄 作編曲:渡辺宙明 歌:水木一郎
人の命は尽きるとも
不滅の力マジンガーZ
争い絶えないこの世の中に
幸せ求めて悪を討つ
人の頭脳を加えた時に
マジンガーZ マジンガーZ
お前こそ未来齎す
>>39 誰に対してのレス?
クオリアに対し、指示の問題でなく、
解剖学的な方法で説明できるかという問題が、問題だということ?
対象を説明するには、その前に説明する対象の現象を掴まえないといけないけど。
42 :
考える名無しさん:02/11/22 02:30
>クオリアを公的な言語に変換できるかという問題と、
>クオリアを解剖学的な方法で説明できるかという問題は別の問題だろう。
ほとんど同じだろう
43 :
考える名無しさん:02/11/22 11:02
クオリア(感覚質)という言葉はなんとなく新鮮かつアカデミックに
見える(つまりそういうクオリアがある)けれども、
実際には珈琲特有の「あの」味わい、ピアノの音の「あの」感じ、
といった「心的」なものを、物理化学的な現象に還元できるかど
うかという問題ですよね。
たとえばあなたが珈琲を飲むときにある種の快い苦味を感じるとします。
そのとき、脳ではそれに対応するある物理化学的な現象が起こっている
でしょう。たとえば、島津製作所(??)の機械で珈琲の香りの成分分
析をすれば、成分Aがどのくらい、成分Bがどのくらいと、まさに
(測定精度に限界があるだろうとはいえ)定量的に
測定できる。それと「あの感じ」が多かれ少なかれ対応するでしょうが、
後者は前者に還元できない。その科学的な分析結果が珈琲が人に与える
ある「感じ」を「定義」する、と言うとしたらそれは不当でしょう。
珈琲の与える感じとは、苦いけれども「それでいて」快いおいしさに
満ちており、こちらの気分を落ち着かせてくれる、たとえばそんな感じ
であって、物理化学的記述の束には還元できません。
ちなみに、このような「感じ」の記述は「私的言語」ではありません。ウィトの
いったようにそんなものはない。感覚質は多かれ少なかれ言語的に記述できる。
「多かれ少なかれ」とはつまり、完全には記述できないということですが、しかし
それをいうなら一滴の水を物理的に記述することだって完全には実行できない
のではないか。
44 :
考える名無しさん:02/11/23 11:42
>>41 >解剖学的な方法で説明できるかという問題が、問題だということ?
ちゃんと「別の問題だ」と書いたはずだが。
どちらを問題にするかは、議論する当人が決めればいいだろう。
ただ、一方の解がもう一方の解にはならないということ。
>対象を説明するには、その前に説明する対象の現象を掴まえないといけないけど。
現象一般を説明するのに、個々の現象の具体的内容は関係無いだろう。
電流が自由電子の陰極から陽極への流れだという説明をするのに、
個々の電子の動きを全て説明する必要は無い。
>>42 解剖学的所見が、公的言語への変換の問題と同じだというなら、
医者は自分の病気については、レントゲンそのほかの検査を行わなくても、
全て知ることができることになるが。
45 :
A.D.I.:02/11/23 13:38
わりこませてもらっていいですか。
>42,44
同でだと思いますが・・・。解剖学所見を医学的所見と同じ意味と考えるな
らばですが。所見は公的言語で記述されるわけですよね。
>41
「この気持ち」だよ、と言い募るだけでは説明にならない、ということですか?
>>32にある、以前の名スレッドをまとめて読みました。内容もさることながら、
参加者の(一部の例外を除く限りにおいての)紳士淑女的なあり方に
何かほとんど「古きよき」、といいたくなるものを感じました。2ちゃん哲板
のありようの急速な変化はやはり日本社会の荒廃と平行するのでしょう。
それにしても、伍長さん、OFWさん、すずらんさん、ははは。さん、生理学徒さん、
じゃいらすさん、七さん、実施委員会さん・・・
これはまったく順不同かつまったく非網羅的ですから、「抜かされた」人、
怒らないでくださいね。
46 :
A.D.I.:02/11/23 13:39
さて私の思いますに、クオリアは「私的事象」ではない。新そばを食べて
私がうまいと思うその「感じ」は単にprivateなものではない。現代日本語の
標準的な用法として、それは「あなた」の感じる感情ではなく「私」の感じる
感情だと言うのは正しい。正しいがしかし、とても重要な意味でそれは
「私の感情」ではないというべきではないか。その感情は私に帰属するとい
うより、様々な連関の中で世界の中に生じたある出来事なのだと思います。
「うまい!」に対応する身体的過程(ニューロン発火を含むであろう脳内で
の物理的過程、発声のための筋肉の緊張、喜びに伴う血流の変化(多分)
その他もろもろ)が私に帰属するというよりも、世界に中に生じた出来事
だといえるのと同じです。
クオリアは疑似問題というOFWさんの意見はよくわかりませんでした。「ある
ような気がする」だけだとしても、そのような気がするという事実は残る。
気がするというクオリアがあるということである・・・
>>43 どうしてそれが還元できないのかを教えてちょうだいな。
48 :
考える名無しさん:02/11/23 16:06
>>45 「所見」というのは意見を含むから紛らわしいが、
厳密にいえば「解剖学的観察事実」だね。
医者は、自分の体についての「解剖学的観察事実」は、
検査無しで知りえると主張するの?
49 :
考える名無しさん:02/11/23 16:09
>>47 「クオリアは還元できない」じゃなくてクオリアの定義が「還元できないもの」なんじゃないの。
つまり、還元可能ならクオリアじゃないんだよ。
彼等の主張はそのようにしか理解できないが。
50 :
考える名無しさん:02/11/23 16:14
還元できないんだから所見も解剖学的記述も同じだって
51 :
考える名無しさん:02/11/23 16:16
つうか、「還元できないもの」と定義しただけでは、それが存在することの証明にはならんけどね。
単に「還元できない何かがあってほしい」ということだけだろ。
52 :
考える名無しさん:02/11/23 16:18
>>50 解剖学的な説明と還元可能性には何の関係も無いが。
53 :
考える名無しさん:02/11/23 16:19
つうか、現状の解剖学的説明は「還元できない」となってるんだが。
54 :
考える名無しさん:02/11/23 17:34
脳を介しない反応「あつっ!」とかにもクオリアはありますか?
55 :
A.D.I.:02/11/24 01:25
>47さん 還元できるとおっしゃる理由もまた、一種の信仰
ではないでしょうか。
>48さん 検査によるデータも含めて検討して、所見を構成するのでは。
>all 非還元性はクオリアの性質であって特色ではないと思います。クオリア
ということを強調したいのは、「人間の尊厳」を死守せねば、といった理由か
らではなく、単に事実だと思えるからです。
>54さん 言語野の関与なしに「あつっ」といえるでしょうか。
心的現象が物理的現象に還元できないという考え(非還元論)はぜーんぜん
珍しいものではないようですよ。単純な還元論者こそむしろ珍しい。
56 :
考える名無しさん:02/11/24 01:54
ファイア!ファイア!
57 :
考える名無しさん:02/11/24 02:57
>>55 >検査によるデータも含めて検討して、所見を構成するのでは。
そのことが今の議論と何か関係あるの?
58 :
考える名無しさん:02/11/24 03:01
>>55 >心的現象が物理的現象に還元できないという考え(非還元論)はぜーんぜん
>珍しいものではないようですよ。単純な還元論者こそむしろ珍しい。
そう、「還元できない」と「説明できない」は違うからね。
物理的現象として「還元できない」と「説明」されていることは、いくらでもある。
現象総体が個々の物理現象に還元できないことは当たり前であって、
そのことをもって「物理現象で無い原因に由来する」と考えるのは、
発想の飛躍としかいいようが無い。
59 :
考える名無しさん:02/11/24 03:03
要するに、「システムと要素」といったような概念が理解できない
文系オンリーの教養しかもたない人間が、自分の理解できる範囲の概念で、
無理やり理解しようとするから、とんでもない解釈が生まれるんじゃないの。
みんなかしこいなぁ
さっぱりわからないよ
61 :
考える名無しさん:02/11/24 07:16
発生的現象学
オートポイエーシス論
62 :
考える名無しさん:02/11/24 11:00
63 :
考える名無しさん:02/11/24 11:03
>>55 「あ」とかというのは音だよ、もともと。
現前的言語中心主義者発見!!!
小文字は謙譲の気持ちをしめしてみたものです。
>各位 「あつっ」は日本語として意識的に使うときと、反射的に耳たぶに手をもって
いくのと同様の前意識的な動作と見なすときで、別様に考えるべきではない
ではないでしょうか。犬のワンと同じともちがうともいえると思います。
>63「あ」は物理的音声ではなく、音韻です。差異を前提しているので、
現前的ではないはずです。
よくなされた気が・・・
>61 文にしていただきたいのですが。
>59 やさしく教えてください。とんでも、というより、ごく日常的・常識的
な意見なので、説得的にいっていただけると、随分たくさんの一般人からとても
尊敬されると思います。あなたも日常生活ではすべてを物理学に還元できるという
態度で暮らしてはいないと思います。還元論者は言行不一致ではないか。彼・彼女の
日常生活は彼・彼女の発言をうらぎっているのではないか。
65 :
考える名無しさん:02/11/24 20:38
>58 「現象総体は個々の物理現象に還元できないが、しかし物理現象
の総体には還元できる」とお考えなのでしょうか。私はそれは疑わしい
と思います。なお私は「現象総体が個々の物理現象に還元できない。だから
心的現象は非物理的なものだ」とは申しませんでした。
すべてを物理的に理解できるという考え方は物理的には証明できませんよね。
それは高度に蓋然的な意見であるという以上のことは言えない。「非科学的な」人間が
このような言い方をすると、「科学的な」人はムキになってしまうのですが、そのこと
自体が、実は自分の見解が「信仰」でしかないことを語っていると思います。
ちなみに私はまったくいわゆる無宗教な人間です。
66 :
考える名無しさん:02/11/24 22:32
>>65 >現象総体は個々の物理現象に還元できないが、しかし物理現象
>の総体には還元できる」とお考えなのでしょうか。
全く違うね。
現象の総体は、総体そのものであって還元も何もないでしょ。
>すべてを物理的に理解できるという考え方は物理的には証明できませんよね。
もちろんそのとおりだが、そのことが、この議論と何か関係あるの?
まさか、だれか、そう思ってない人がいるとでも思ってるの?
67 :
考える名無しさん:02/11/24 22:36
つうか、クオリアの不可知性ってのは、ヒューム的な不可知論の文脈で言ってるわけ?
それでいくと、脳以外の体の仕組みも解剖学的にさえ知りえないことになるけど。
そんなこと、まともな科学者なら誰も否定してないと思うけど。
「現行の科学理論を盲目的に信仰すること」と
「いまのところ実証性が高い理論を信頼すること」を同一視して
議論を紛らすのはやめてほすい。
クオリア派は、それをデータ化する展望がなにかあるの?
それともデータ化拒否?
で、「科学信仰」「実証信仰」だってさ!
ていうか、おそらく彼らにとって、
科学は実証的じゃなくて、殆ど魔術すなわち信仰の対象なんですよ。
もう一つ特徴的なのが、
複雑すぎて分からないということは、
そこに実証性がないことの証になっちゃうみたいです。
確かに「いまここ」という視点にかんする、
割り切れない部分はあるのですが、
そこに、「自己同一性感覚」や「クオリア(感覚一般)」や「人格」など、
明らかに脳の機能と思われる部分より中心に向かう知力が欠如しているので、
そこで神秘の信仰に至ってしまうようです。
実際、クオリアって避けがたい重要な問題だとは思う。
ただそれを捕捉、研究するための具体的な方法論か
既知の事象でクオリアと並行的に働くものを見つけるか、
あるいはクオリアという仮説なしでは説明できない切迫した
矛盾なんかを、提起してくれないと議論にならない。
76 :
考える名無しさん:02/11/30 22:07
あげ
77 :
考える名無しさん:02/11/30 23:23
発想が量子物理学からのパクリなんだよ。
ボーアに謝れ!!!
79 :
考える名無しさん:02/12/01 13:13
>>77 茂木は物理屋だったな。なんで今まで気付かなかったんだろう。
クオリア問題というのは、
「<質感>の起源は何か」
という問題なわけです。
この<質感>を<クオリア>と呼んで
問題の対象としているわけですが
どうも<質感>ということが分かりにくいようです。
<質感>とは、要するに<主観>のことです
ものの見方・感じ方は人それぞれ、といいます。
<質感>とは、こうした、人によって大きく異なる感じ方のことです。
言い換えると、クオリア問題は、
「人によって感性が違うのはなぜか」
という問題です。
さきほど、クオリア問題が
「人によって感性が違うのはなぜか」
という問題だ、ということは述べました。
さて、以下は私見ですが、、、
クオリア問題は擬似問題です。
なぜなら、感性というのは複雑な現象なので、
簡単に説明できないからです。
たしかに、「こころの科学」は近年になって進歩を見せています。
しかし、心がすべて解明されるとは思いません。
たとえば、
「心的現象は<決定的>か」
という問いがあります。
もし決定的ならばわれわれ人間の主体性・意思はどこに存在しているんだ、
ということで問題になっているわけです。
「擬似問題」と
「複雑過ぎて解けない問題」は
別モノだと思うんだが・・・
、、、さて、まだ最後まで言ってませんでしたね。
若干、話が込み入ってしまいましたが、要するに、
「心の現象は<複雑>だ」
ということを言いたかったのです。
ここでいう<複雑>とは、<確定的>な事実を主張することができない、
ということです。
心について一見確かなことを言ったようでも、心のすべてを捉えきったことにはなりません。
感性について言うなら、間違いなく確定的なことはいえません。
(感性の研究のひとつの試みとして自律美学が探求されたわけですが、
確定的なことを言おうとしたがために、今では主流でなくなっています。)
>>82 ああ、すみません。説明不足でした。
なぜ擬似問題か、一言で言えば、解決できないからです。
解決できない問題はもはや問題ではないわけです。
>>83で説明したように、
>>82で言われていた<複雑>とは
確定的に捕捉できないってことです。
もし、そうなのだとすれば、解釈学的な研究になるしかない、
と思うんです。
今の美学にしたって、方法論自体はすごくうなずけるんです。
でも美学の進歩は逆に「美学の限界」を明らかにしたと思います。
たとえば「現代アートが出てきた社会背景」に対しては、
ひとつの解釈の域を出た客観的なことを言えないわけです。
感性とか社会現象というのはこうした性質のものと私は考えます。
以上の議論、つまり
「心は複雑なので解明されることはなく、
とくに感性を対象とした場合は解釈の域を出た言明ができず、
したがってクオリア問題は擬似問題だ」
ということは同意していただいたとします。
さて、クオリア問題を次のように模式化することが出来ます。
「もし人間がコンピュータだとすると次のような矛盾が生じます。
人間の見るもの・聞くもの等はコンピュータに入力される電気信号だとします。
コンピュータは電気信号を受信し、また発信します――これは人間が外部刺激に対し
反応することに対応します。
さて、コンピュータは、感情を持たないわけですが、人間は感情を持ちます。
コンピュータの能力は<反応すること>であり、人間のように「入力信号」に対し感情を持つことは
ない、というわけです。
コンピュータと人間とのこうした違いは何か」
茂木氏はクオリアを「赤を赤らしく感じる」という例で説明しています。
これは上の図式にあてはめるならば、
「赤というデータを黄や青といった他のデータとは違ったものとして<感情的に>峻別する」
ということになります。
わざと<感情的に>というわかりにくい語を使ったわけですが、
こう考えるとクオリア問題が取るに足らないことがわかるでしょう。
クオリア論者に対する反論はみな類似しているように思われます。
これらはすべて、
「<感情的に>区別するってなんなんだ」
ってことです。
言っておかないといけないことがありました。
そもそも、問題が生じるのはどうしてか、ってことです。
疑問に思うから問題が生じるのですよ。
でも、疑問に思ったことってたいてい擬似問題です。
なぜなら、疑問に思う気持ちは主観だからです。個人の感情なんです。
たとえば先ほど音楽哲学関連のスレで
「メジャーが明るく感じるのはどうしてか」
という発言がありました。
これは確かに不思議ですし、メジャーが明るいことは多くの人が同意する
だけに、なにか人間の心理の客観的な事実を扱っているかのような錯覚に陥ります。
しかし、メジャーが明るく感受されない民族がいる、という有名な反論があります。
すなわち文化的な原因でそうなっているんだってことです。
文化っていうとそれはそれは複雑な現象です。
だから文化を扱う研究はけっして分析的ではありえないのです。
>コンピュータは、感情を持たないわけですが、人間は感情を持ちます。
まず感情とは何かを定義してみるといいですよ。
やはりクオリアとか言ってる人は、言語の無定義使用が多すぎですね。
「感情」とは、いわばモードですよ。
モードが異なると、同じ刺激に対しても異なる反応を示すのですよ。
そうしたモードはコンピュータだろうがなんだろうが組み込み可能ですよ。
>文化っていうとそれはそれは複雑な現象です。
>だから文化を扱う研究はけっして分析的ではありえないのです。
この二行間にどうしようもない深遠がありますね。
自然科学だって多分あなたが考えるより複雑で、いい加減にならざるを得ないところだらけですよ。
しかしその方法論が論理的でも実証的でないものは、無意味というかデンパ。
程度の問題でしかない。
>これは確かに不思議ですし、メジャーが明るいことは多くの人が同意する
>だけに、なにか人間の心理の客観的な事実を扱っているかのような錯覚に陥ります。
>しかし、メジャーが明るく感受されない民族がいる、という有名な反論があります。
>すなわち文化的な原因でそうなっているんだってことです。
だからといって、「メジャー和音を明るく感じるのはなぜか」という問題に、
どう実証的でない「研究」ができるのですかね。
何らかの実証的な研究ができるか、
複雑すぎて現状ではうまく研究ができないかの選択肢があるだけですよ。
>クオリア問題は、「人によって感性が違うのはなぜか」という問題です。
全然違うと思いますけどねえ。
>以上の議論、つまり「心は複雑なので解明されることはなく、
>とくに感性を対象とした場合は解釈の域を出た言明ができず、
>したがってクオリア問題は擬似問題だ」ということは同意していただいたとします。
全然同意できませえん。
94 :
考える名無しさん:02/12/04 01:15
あなた、全然分かってらっしゃらない。
本当に不愉快な人だ。
>>72 >科学は実証的じゃなくて、殆ど魔術すなわち信仰の対象なんですよ。
ハァ?そんなん常識だろ。
懐疑は信仰の上にこそ成り立つ。
信仰なき知はない。
"せ"は、自分に意識があることを実証するか?しないだろう。
それは証明を要しない。いや証明しようにもできないだろう。
しかし全ての人間の知の営為は、意識の上に成り立つ。
したがって、実証は、実証し得ぬものの上に立っているのだ。
科学における「実証」が全て意識によるものであることを
看過する人間の知性とはいったいいかなるものであろうか?
人間の「意識」機能は実証的に説明できる。
大体「意識」とは何だと思っているのでしょうかね。
またも、言語の無定義使用ですかね。
「意識」とは、行動計画をシミュレーションする機能ですよ。
脳内に構築した世界モデルの中で自己のモデルに行動させてみる。
そうして上手く行くかどうかを判断したり、計画の問題点を修正したり、習熟したりする。
そうすることで、より最適な行動を実践できるわけ。
これは動物にはない人間特有の機能ですよ。
だから、動物にはそういう意味の意識はない。
つまり、意識・意識と脳の不健康な連中が言ってる「自己イメージ」とは、
実は、シミュレーション用の自己イメージに過ぎない。
第一、AさんやBさんが「意識」という自覚を持っていることは実証的。
>またも、言語の無定義使用ですかね。
またも定義かね。
言葉のすべてを定義することは不可能だよ。
>「意識」とは、行動計画をシミュレーションする機能ですよ。
その言い方は間違っているな。
君は、人が意識しているとき、脳の中では意識に対応する現象が
起きているはずだと考え、その現象を「シミュレーション」と
よんでいるのだろう。それは「機能」ではないよ。
人間特有の機能とか動物には意識がないとかいう主張は、
明らかに反省機能を失っており、妄想症という病を
患っている。残念ながら、これは治療が大変難しい。
一番の理由は、本人に病んでいるという意識が欠如
していることである。
定義できないことについては、実証的に他人に伝達できないだけだよ。
実証的でないことは、自然に対する力をもたないということ。
感覚感情的なことは、あらかじめ脳内に形成されている同一の文化的共有によって、
無定義であったり、非実証的であってもコミュニケーションが可能となる。
しかし、そうした価値を共有しない人間とはコミュニケーション不可能。
> 君は、人が意識しているとき、脳の中では意識に対応する現象が
第三者の観察によって、実証的な検証が可能。
私は、実証的な範疇の出来事に関して自己が特別だとは思わない。
だから、自分だけ競馬で勝つとは思わない。
実証的でない範疇に関しては知らない。
「意識」機能は実証的に説明可能な現象だということ。
自分の願望によって、事実の認識がゆがんでしまうのは、
ありがちな傾向だが、まあ救いがたいね。
101 :
考える名無しさん:02/12/08 18:46
つうか、実証って何よ。
仮にそれが、
「事象Aを起こし、その結果として事象Bを起きることを示す(観察する)
ことによって、事象Bの原因が事象でAであるということを主張する」
ということだとして、
実験Aにおける事象Aと事象Bについて起きたことが、全ての
事象Aと事象Bについても同様に起きるといえる根拠なんてあるんだろうか。
そもそも「事象Aを起こし、その結果として事象Bを起きた」というのは、
我々の精神の枠組みから生まれた、「現象の知覚」であって、
それが「現象そのもの」であるとなぜいえる?
>>101 説明してもいいけど、
「現象学」のその程度の基本的なことは、自分で調べてみたら。
キミが「現象の知覚」というものと、「現象そのもの」というものを区別する
理由は特にないだろうよ。
一般には、「現象」と「物自体」とかいう用語をつかうようだがね。
要は、「物自自体」は不可知だから、論じてもあまり意味がない(力がない)ということ。
>>101 つうか、そういう風に話を一般化することに何の意味があるのかね。
それは、「物理学も信用できん」とかいう話?
"ど"はドーナツのど〜♪ "せ"はセックスのせ〜♪
105 :
考える名無しさん:02/12/08 23:45
>>102 >「現象学」のその程度の基本的なことは、自分で調べてみたら。
まあ、そのうちにね。
>キミが「現象の知覚」というものと、「現象そのもの」というものを区別する
>理由は特にないだろうよ。
私にはないよ。
>実証的でないことは、自然に対する力をもたないということ。
というような主張をを「私は」してないからね。
>一般には、「現象」と「物自体」とかいう用語をつかうようだがね。
>要は、「物自自体」は不可知だから、論じてもあまり意味がない(力がない)ということ。
では、なぜ、「自然に対して力を持つ」などということがいえるの?
106 :
考える名無しさん:02/12/08 23:49
>>103 話を一般化してるのはあなたのほうだと思うんだけど。
このスレが何のスレか理解してる?
>それは、「物理学も信用できん」とかいう話?
何それ?
107 :
考える名無しさん:02/12/08 23:55
とりあえず、
意識は人間「固有」の機能である。
という主張は、人間の定義に関連する重大な問題を引き起こすと思うが。
なんで、
今のところ、我々は人間以外の動物に、意識の働きを見出していない。
ではいかんのか。
108 :
考える名無しさん:02/12/09 00:19
"ど"はドーナツのど〜♪ "せ"はセックスのせ〜♪
109 :
考える名無しさん:02/12/10 14:32
まぁ個人攻撃はいいから。
議論を続けようよ。
「意識は実証できる」という命題は、「意識とよばれる現象に関係する
生理学的現象が観測できる」程度の内容しか持たないと思います。
これに関連して、既出の「心=脳の機能」説の問題点をとりあげてみるね。
脳にはニューロンのシナプス結合等々の生理学的構造があり、この構造は
外界からの情報処理や運動の統合等々の機能を持っている。これはだれにも
異論のないところ。
ところで問題は、いま述べた脳の構造と機能の関係の一環として、
意識は脳の構造に対応する機能の一つである、という見解が脳生理学者の
一部にかつて(いまでも?)見られたことだ。
このような考え方の問題点は、意識という語が、感覚−運動系の統合機能または
反省機能という意味で理解され、主観性(自己意識)・感情・思考という
意識本来の機能が、脳の構造から説明可能である理由が示されなされなかった
ことにある。
意識と呼ばれる経験的現象、つまり主観性(自己意識)・感情・思考
などを備えた現象に対するもう一つのアプローチとして、これらの機能は
必ずしも脳の構造に対応するばかりでなく、「意識そのものの構造」
が存在するという立場が考えられる。
たとえば論理的思考を可能にしているのは、普遍妥当性をもつ論理の規則
であり、それらが脳の構造に基づいて普遍的であるのかどうかは、
(その可能性は担保すべきだが)、われわれにはわからない。
こういうわれわれの経験に基づく内在的な意識構造の探究が、「心」と
呼ばれる現象の「構造」に対する理解のしかたではないか、というわけだ。
ぼくは経験論の立場から、後者を支持しております。つまり「心=脳の機能」説
は、「心」という現象に固有の構造を無視しているという理由で短絡的だと
考え、科学的な実証研究とは矛盾しないが、これとは異なる経験主義的方法に
よって、心の構造を解明していくべきだと考えます。
ぼく個人の関心はあくまで論理的な思考の構造の解明にあり、自己意識や感情
といった問題はパスなのですが、しかしこうした領域についてこそ、
まだまだ内在的な構造研究がなされる余地はあると思います。
そこをいきなり脳内物質や神経インパルスの客観的構造だけで説明しようと
するのは、木を見て森を見ずでしょうね。
111 :
考える名無しさん:02/12/10 16:20
112 :
考える名無しさん:02/12/10 18:49
>>109 >>110 >ぼくは経験論の立場から、後者を支持しております。つまり「心=脳の機能」説
>は、「心」という現象に固有の構造を無視しているという理由で短絡的だと
そのことは、「科学的方法が間違っている」のではなくて
「心=脳の機能」という「断定」が「科学的厳密性を欠く」と
いうことに過ぎないんでは?
私の理解では、
「心=脳の機能」
というのは、
(科学における、それ以外の「有力な仮説」と同様)
「現在知りえている知識において、最も妥当な説明」
というレベルでしか主張されていないと思う。
だからもちろん、
「心=脳の機能」という「断定」は「短絡的」だけれど、
「断定すること」が短絡的であるということを持って、
「心=脳の機能」よりも「心≠脳の機能」を
「より妥当な仮説」とする根拠にはできないと思う。
>>112 おっしゃる意味はよくわかります。
ですが、
「心=脳の機能」説の問題点は、たんに科学的厳密性を欠く
ということにとどまらず、そもそも科学とさえ呼べないという
ところにあるのではないでしょうか。
その理由は簡単で、現在の脳生理学の知識では、脳の機能とは
どのようなものか、ほとんどわからないということです。
にもかかわらず「心=脳の機能」と仮定するのはなぜでしょうか。
脳=中枢という生体の構造上の特徴と、
心と呼ばれる現象が私たちの内的経験にとって統合的(中心的)である
ということとのアナロジーによるのではないでしょうか。
こうしたずさんなアナロジーに依拠して、かんたんに
心=脳の機能と断定してしまう態度が、
「現在知りえている知識において、最も妥当な説明」
とみなされる事態に、私は反対しているのです。
ただし、前のレスにも書いたように、私は脳の構造から心という現象が
演繹できないと断定しているわけではありません。
「心=脳の機能」説には根拠がないことを確認し、その上で心脳問題の
議論を先に進めるべきだと思うのです。
114 :
考える名無しさん:02/12/10 20:20
>>109-110 脳には脳の構造と機能があり、心には心の構造と機能がある、
と言いたいんだろうね。
脳と心の短絡的な関係づけに反対する、という点では同意。
ただ、心の構造と機能という場合、それらが客観的に定義できない
点が、心脳問題の最大の難点だと思う。
115 :
考える名無しさん:02/12/11 02:31
脳の何を観れば良いのかが分からないのが手詰りであって、
指摘されてもそれを乗り越える方法論がなければ進まない。
それがあるのかないのか>クオリア
116 :
考える名無しさん:02/12/11 03:23
クオリティが要素還元主義的に原子論化すると、(略
>>109-110 つーか、そもそも「心が存在する」という主張は科学に反するわけ。
「私には意識がある」というのは、自分がそう思っているからという
トンデモな論拠以外に何もないわけ。分かったかな?
>>117 ホントに議論する気があって、書き込んだのでしょうか?
ではあなたの言う科学とは何でしょうか?
あなたには「自己」とか「感情」とか「思考」という経験が理解不能だと?
>>107 いいよ。
まあ、そう思い込んでいたい人に、
何も無理に説明して差し上げることはないですね。
「実証」の意味を理解する重要性が分からんようじゃ、先が長すぎる。
議論? 無駄無駄。無駄は止めたほうがいい。
>>118 これは、
>>100 に書いたけど。
つまり、あなたが感覚的に、心とか自己とか感情とかいう概念を用いているけど、
全く違った文化の人には「理解不能」である可能性がいかにもあるよ。
哲学的(学問的)に議論したいなら、
まず定義(意味を還元)する努力からはじめないといかんのです。
還元した結果、意味の誤差が十分小さければ、その誤差の範囲で、
「実証的」な結果を得られます。
これは物理学も経済学も文化人類学も同じ。
科学とは「実証」の精度の問題でしかなく、
多かれ少なかれ、論理実証的でないと、まともな議論なんてできないですよ。
>>120 還元ヲタ?
君、ゲーデル知らないの?
還元は不可能だよ。
論理実証主義は敗北したの。
あきらめなさい
>>120 せさん。
私はちゃんとこのスレの流れに乗れてるかどうか自信はないのですが、
乗りかかった船なのでよかったら意見の交換を続けさせてください。
せさんの
>>100のレスに従えば、意識機能にかかわる実証可能な事実とは、
あらかじめ脳内に形成されている何ものかに由来する現象です。
これは私が
>>109-110で取り上げた
「意識という現象は、脳の構造に基づく機能である」
という命題とまったく同じことを意味します。
で、私の批判は、こうした立場こそ、むしろ脳の機能を
実証する以前に、われわれが経験的事実に従って
だれにも共有されていると仮定する
意識なる現象を、そのまま脳の機能だと決めつける
非科学的な態度ではないか、というものです。
(つづきます)
つづき
で私の代案は、実証主義を包括する立場としての経験主義に
立って、脳の構造と機能を研究するそれこそ厳密に
実証的な研究と、われわれの経験する意識という現象の
経験的な記述の両立を認めようということです。
たぶんあたりまえのことを言うなと
批判されそうですが、
脳の実証研究から意識を演繹しようと
試みる人の多くは、
脳の構造と意識という現象の間にアナロジーを
認めただけで両者を結びつけようとする(たぶん)ので、
このあたりまえのことがよく理解できていないのではないか、
と私は不安に思うのです。
そこで、せさんに質問です。
どのような脳の機能が、
意識という現象(の一部でかまいません)と一致しているのか、
その脳の機能の具体例をあげてくださいませんか?
これはからんでいるんじゃありません。
ぼくにはこうした単純な点からして、
「意識=脳機能」論が疑わしいので、
その疑いを具体的にはらしてほしいのです。
もちろんせさんからも質問してもらえれば、
私の主張の問題点もはっきりするでしょう。
自分の立場がまちがっているのなら、
私にはそれをあらためる用意があります。
>>122-125 君のいう意識とは何か?
そしてそれがあるという証拠はなにか。
「こういう感じ」とかいう言語障害の受け答えや
「意識があると意識しているから」とかいう同語反復の答えは却下
それはトンデモの常套手段だということを知らないものはいまい。
>ホントに議論する気があって、書き込んだのでしょうか?
もちろんだ。
>ではあなたの言う科学とは何でしょうか?
君のいう科学を述べてみたまえ。
そこから間違っているものを
ズバリ指摘してみせよう。
それを除いたものが答えだ。
これで君がいくら馬鹿でも
理解できないことはないだろう。
さあ、答えてごらん。
>あなたには「自己」とか「感情」とか「思考」という経験が理解不能だと?
そうだ。君は自己や感情や思考を理解しているのかね?
ただ、何の考えもなく、自己や感情や思考があると
思い込んでいるだけだろう。それは決して理解ではない。
誤解ですらない。無理解、いや反理解だ。
無批判に機能なんて語を使ってたら考え直した方がいいよ。
機能的説明は昔から議論の種だ。
せさんからのレスかと思いきや。
>>126-7 こういうDQSを相手にしていいのかな?
では私の科学の定義を言いますよ。
一定の条件の下で再現可能な現象に関する
理論(=検証可能な仮説)設定
です。
それと、あなた日本語おかしいですよ。
まず最低限の表現能力を獲得する努力をしてから
書き込んでくださいね。
>>129 貴様こそドキュンだろ(w
ところで、君に尋ねよう。
意識は一定の条件の下で再現可能か?
つまり君のコピーをつくったとして
君の意識が再現したと君に分かるのか?
ということだ。
日本語だけ話せても、こんな単純な穴に気づかない
君はまごうことなきドキュンだろ。
どうだ、反論できまい。
>>130 ドキュ臭あふれるレス、どもです。
これをかぎりに相手にしませんのであしからず。
あなたはこちらの科学の定義に対して間違いを指摘すると
言いましたね?
しかしそれについては何の返答もない。
ということは間違いはとりあえず指摘できないということですね?
そういうおハナシにならないあなたが、
今度は「意識とは一定の条件の下で再現可能か?」
などという問いを発する。
これは私の科学の定義をそのままあなたの考える「意識」に
適用しただけの問いじゃないですか。
だいじょうぶですか?
こんなふうにひとのふんどしで相撲を取るときには、
まず最低限自分が「意識」という語の定義をしてから
「もうしわけありません、こういうつまらないことを
言ってしまったのですが、間違いがあったら正してください」
とお願いするもんですよ。
では、せさんのレスをお待ちしてます。
デンパは放置でいきましょう。
さてと。
せさんに対して議論をふっかけようという気になったわけは、
彼のスタンスがきちんと議論を受け入れる姿勢になっているからです。
たとえば彼は、自分からいさぎよく自分の定義を提示しています。
たとえば「意識=行動のシミュレーション」など。
こういう単純な定義をするからつっこまれてしまうのですが、
それはそれでいいじゃないですか。
それに対して異論のある人は代案を示せばいいだけのことですから。
しかしこのスレでいままでせさんにツッコミをいれている人たちは、
代案も示さず、ただあげあしを取っている。
議論にも何にもならないクソ連中だよな、まったく。
こういうクソは心脳問題なんかにくちばしを突っ込まず、浅田スレとか
宇宙ヤバイでひまつぶしてろよ。ナムアミダブツ
きょうは眠くなっちゃったので、
またあしたスレをチェックしてみます。
今晩書き込まないのはZZZのせいなのでよろしく。
>110
なんか誤解があるみたいだけど、脳科学者っつうのは、
解剖学とか電気生理とか生理化学だけやってるわけじゃなくて、
心理実験や精神科医が報告した症例やなんかを総合的に判断して
仮説を立ててるわけだが。あんたの言ってることは20年くらい前から
ごく普通に理解される考え方だよ。何も新しくない。
誰も一人では扱えない対象なんだから共同でやる必要があって、
となると、他分野で常識とされてることを無視した的外れな
批判をされてもポカーンって感じ。
で、クオリアのことはよく知らんのだが、何か新しい考え方を
出す場合は、矛盾しないだけだと毒にも薬にもならんわけで、
予測力なり、説明力なり、方法論なりで何か優れた点がないと
受け入れられにくいんだけど、その辺はどうよ。
別の論点でいうと、脳の研究では思想の自由ってことも考えないと、
政治的に悪用されかねないから倫理感も問われるね。
生命科学の成果は技術による社会変化ばかりが問題にされるけど、
思想的な影響も全く無視できないのであって、その点に関する
批判はむしろ哲学者が脳科学者の主張を精査して積極的に出した
方がいいと思う。脳科学者は倫理に比較的敏感とは思うけど、
思想的な影響まで考慮してる人がどれくらいいるかは分からん。
クオリアってのはその辺もどうなのさ?
>脳の構造と機能を研究するそれこそ厳密に
>実証的な研究と、われわれの経験する意識という現象の
>経験的な記述の両立を認めようということです。
経験的と実証的の区別がいまいち分からないのですが、
例えば、心理学(といっても色々あるが)は、立派に「実証」を志向した科学ですよ。
ただ、その精度を上げ難い(誤差を小さくし難い)分野であるだけです。
「実証的」であることは、別に物理学に還元できることではありません。
学問の中で最も精度が高いのは物理学で、
物理学に還元できそうに見える学問を科学というようですが、
私は、そうした区別を強調することは。
次は極度に単純化した絵ですが、
経済学とか>>社会心理学>>心理学>>>>(深遠)>>>>>(脳)生理学>化学>物理
一般に、深遠より右を科学といいます。
しかし、左側も実証的な方法論を用いているからこそ学問と呼べるので、
そうでないものは、トンデモです。
(↑ちょっと日本語間違い。)
>どのような脳の機能が、
>意識という現象(の一部でかまいません)と一致しているのか、
>その脳の機能の具体例をあげてくださいませんか?
>ぼくにはこうした単純な点からして、
>「意識=脳機能」論が疑わしいので、
>その疑いを具体的にはらしてほしいのです。
あなたの「意識」がなにを指しているのか不明なので、なんともいえませんが。
>>98で言ったような、
行動シミュレーション機能が人間にあることは認めますか?
であれば、その機能は、どのように「自覚」されているのか?
「意識(の一部)」が「自己の心的イメージ」を持つことだとすれば、
上の機能のためにあるとして説明できる。
「無意識的行動」というものがあるとされるが、
「無意識」ということが、「行動の自覚がない」であるとすると、
「行動計画(プログラム)の検証や修正ができない状態」であるともいえる。
これは、「意識」というものが、そうした役目を担っているという説明とあう。
動物も経験学習機能はあるが、過去の体験を反芻して行動の計画を練るということはできない。
人間の意識的記憶機能も、このシミュレーション機能のためにあるといえる。
動物の"記憶"は即学習の中に集約され処理されてしまうようである。
そういう意味、動物には記憶もないといえる。
>>131 君は負けたな。
ま、せいぜい「せ」君に甘えるんだな。
どうせ叩き潰されるのがオチだがね。
ヴァカめ。
>>131 >最低限自分が「意識」という語の定義をしてから
110番=ピーポ君は、無定義で意識なる語を用いておきながら
人には定義を求めるスーパードキュン。
もうしわけありませんがそういうつまらない発言は
間違いというよりも*違いです。
>クオリアのことはよく知らんのだが、
>何か新しい考え方を出す場合は、
>矛盾しないだけだと毒にも薬にもならんわけで、
>予測力なり、説明力なり、方法論なりで
>何か優れた点がないと受け入れられにくいんだけど、
>その辺はどうよ。
予測には何の影響もないだろう。
説明については、脳科学の説明が完全にクオリア抜きで
できるかどうかによるだろう。
説明における問題を提起する意味で、クオリアを持ち出す
のは方法論としては否定できない。
>脳の研究では思想の自由ってことも考えないと、
>政治的に悪用されかねないから倫理感も問われるね。
そもそも善悪の区別も考えないと、
倫理について論じられないね。
>生命科学の成果は技術による社会変化ばかりが問題にされるけど、
>思想的な影響も全く無視できないのであって、その点に関する批判は
>むしろ哲学者が脳科学者の主張を精査して積極的に出した方がいい
>と思う。
思想的な影響はまさに社会変化の一つだよ。
その点に関しては、まさに結果論であって、
誰もまともに主張できるようなことではないな。
>脳科学者は倫理に比較的敏感とは思うけど、
>思想的な影響まで考慮してる人がどれくらいいるかは分からん。
敏感なのは倫理というより自分の利益だよ。
倫理というのは、つまるところお互いの利益の防衛の為にあるものだからね。
そういう当たり前のことを、つまらない感情抜きに直視できる人は少ないね。
>クオリアってのはその辺もどうなのさ?
いまいったことはクオリアとは何の関係もないね。
むしろ善悪とか好き嫌いとかいう判断が
クオリアを持ち出すことでどう説明できるか
を問うべきだな。
>>139 > 説明については、脳科学の説明が完全にクオリア抜きで
> できるかどうかによるだろう。
じゃあさ、クオリアのようなもの、じゃなくて、クオリア、
を主張するのにどれくらい利点があるんだろ。別のいい方をすると、
クオリアは心の問題を表す代表としてふさわしいのかな。
〜抜きで説明できるかどうか、っていう場合に、めちゃ強力な概念を
持ってくるとなんでも説明できてしまうからさ。
それを示す問題例は何があげられる?
精神障害の症例報告を説明する努力はされてる?
心の問題といってもとても広いからね。
精神障害に拘る必要はないけど、どこかで適応範囲の幅を感じさせて欲しい。
>じゃあさ、クオリアのようなもの、じゃなくて、クオリア、
>を主張するのにどれくらい利点があるんだろ。
それは
>>134の繰り返し。
>別のいい方をすると、
>クオリアは心の問題を表す代表としてふさわしいのかな。
だれがそんな馬鹿なことを君にいったんだい?
>〜抜きで説明できるかどうか、っていう場合に、
>めちゃ強力な概念を持ってくるとなんでも
>説明できてしまうからさ。
そんなもので納得できるのは君だけさ。
>それを示す問題例は何があげられる?
それって、何だ?
代名詞が宙ぶらりんだぞ。
>精神障害の症例報告を説明する努力はされてる?
>心の問題といってもとても広いからね。
>精神障害に拘る必要はないけど、
>どこかで適応範囲の幅を感じさせて欲しい。
心と聞いて精神障害を連想する君は
まったく世界が狭いね。もっと幅を広げたまえ。
>>143 このスレで説明とは何かをいきなりやっても意義なしと思うんだが。
139は予測力以外についてクオリア特有のことは何も言ってないだろ。
クオリア独自の論点があるなら聞きたいね。
クオリアの位置付けが分からないのですが、
赤さとか青さみたいに質感ごとに1つなんですか?
生命みたいに1人に1つなんですか?
真のように論理世界に1つなんですか?
言語に依存したものですか?
ヒト以外にもあるんですか?
>>144 そうだね。優れた点とか利点とかいいだすのと同じ位馬鹿げているね。
独自の視点というのも同様(w
>>145 >赤さとか青さみたいに質感ごとに1つなんですか?
君は赤さと青さを区別しないのかい?するだろ?
で、君は色をどの程度区別するかい?
>生命みたいに1人に1つなんですか?
君は自分と他人を区別しないのかい?するだろ?
>真のように論理世界に1つなんですか?
君は世界の中の物を区別しないのかい?するだろ?
で、君は物をどの程度区別するかい?
>>134 >なんか誤解があるみたいだけど、脳科学者っつうのは、
>解剖学とか電気生理とか生理化学だけやってるわけじゃなくて、
>心理実験や精神科医が報告した症例やなんかを総合的に判断して
>仮説を立ててるわけだが。あんたの言ってることは20年くらい前から
>ごく普通に理解される考え方だよ。何も新しくない。
私が問題にしているのは、こうした共同研究の過程で仮説を
立てる際の基本姿勢です。
私の主張は単純で、脳の生化学的・生理学的研究は、「脳はどのような
仕組みをもち、どんな作業をしているか」を解明することであって、
「感情」「思考」「自己意識」などの、私たちが経験的・間主観的に
認めている現象とのアナロジーに基づく仮説を立てるべきではなく、
その意味では安易に心理学者や精神科医の報告と自らの実証研究
とを関係づけるべきではないということです。
これはもちろん新しい問題でも何でもありませんよ。
だって、脳科学の実証的な態度の基礎なんですから。
>>135-136 せさん、はじめまして。
私が使っている経験主義という語は、観察と実験に基づいて帰納的推論
を進める立場、程度に受け取ってください。ですから実証的態度を
そのうちに包括します。
なぜ経験主義と実証主義をわざわざ分けるのかと言えば、
実証研究の対象にならない規則的な再現性のない現象、
たとえば
>>134さんの言う「精神科医の報告する症例」などにも、
脳に関する実証研究とは別個に考察する価値がある
と考えるからです。
心理学や精神医学を持ち出さなくても、たとえば「嫉妬」という
語が意味する心理を、われわれはおおよそ理解できるわけですが、
こうした非実証的現象について、われわれ自身の経験から
推論して人間の行動や感情のパターンを考察する余地を
認めない理由はないでしょう。
さて「意識」についてですが。
>行動シミュレーション機能が人間にあることは認めますか?
はい。
それだけでなく、あえて「意識」という未定義概念を
「行動シミュレーション」として分析的に定義しよう
という姿勢に賛成です。
しかし、「経験主義」的に、非実証的な面にもあえて踏み込んで言うと、
私たちが「意識」と呼ぶ現象には、「行動シミュレーション」に
伴う「自己イメージ」が欠かせない。
生命体が環境の中で自分の生存にとって適切な行動を取るには、
むしろこうした「自己イメージ」はよけいなのに、
現にわれわれにはそれがある。
この「自己イメージ」を、脳の構造から演繹することは
いまのところできていません。
ニューラル・ネットワークにフィードバックがあるということは
実証されましたが、そこから「行動シミュレーション」と
それに伴う「自己イメージ」を導くことは、いまのところ
できていない。
せさんの説明でも、この点には触れられていないようです。
だからと言って、「行動をシミュレーションしようとする際に、
自己の同一性を認知する」というわれわれの経験が幻覚である
とは言えないでしょう。
そこでこうした経験からの帰納的推論は、脳の構造の研究のみならず、
広い意味での認知身体科学を総動員しておこなうべきです。
そこでの基準はもちろん実証を最優先することですが、
「自己意識」という主観性、つまり非実証的なるものの核心を
おろそかにすることはできませんので、
実証研究だけにとどまることはできないわけです。
>>149 >実証研究の対象にならない規則的な再現性のない現象、
>たとえば
>>134さんの言う「精神科医の報告する症例」などにも、
>脳に関する実証研究とは別個に考察する価値がある
「症例」は本当に再現性がないのだろうか?
そのあたり、考え無しに決め付けるのはいかがなものか?
>>149 >たとえば「嫉妬」という語が意味する心理を、
>われわれはおおよそ理解できるわけですが、
>こうした非実証的現象について、われわれ自身の経験から
>推論して人間の行動や感情のパターンを考察する余地を
>認めない理由はないでしょう。
あなたが上記を非実証的という理由は何?
>>152 そうですね。自分の知らない分野で安易な推測をしてしまいました。
ただ、ぼくが言いたかったのは、神経症や統合失調症などに
「規則的な再現性」は認められないのではないか、ということです。
「症例」である以上、何らかの分類が可能でなければならず、
一定の再現性が認められるべきであることはもちろん承知しております。
>>152 この場合は「再現性がないから」と断定していいのではありませんか?
同一の条件下でだれもが必ず嫉妬するということはありえないので。
>>147 > 君は赤さと青さを区別しないのかい?するだろ?
> で、君は色をどの程度区別するかい?
見たときごとに区別しているかもしれませんね。
以前、本棚の本が同じタイトルの友人の本と間違って入れ変わって
いたことがあって、そのときは記名してあったので区別できましたが
名前を見るまで気づきませんでした。
しかし並べて比べると褪せ具合が違うことが分かりました。
いまその色の違いをくらべられるかどうかは分かりません。
傷のつき方で見分けられることまで分かったからです。
> 君は世界の中の物を区別しないのかい?するだろ?
> で、君は物をどの程度区別するかい?
きのうカシューナッツと豚肉の塩味炒めを北京飯店で食べた時の印象と
さっき、うかつにも見てしまった小泉総理の顔の画像から得る印象と
ピンチョロスポーンと声に出して言った時の印象と
いま座っている椅子から受ける印象は
全く異なるとはいえます。
これらの印象はクオリアと言いかえても良いのですか?
言いかえが不適切ならクオリアは印象とどのような関係にあると
考えられているのですか?
今まで立ったクオリア・スレの中では、
一番内容濃いんでないかい(スバラスィ
>これらの印象はクオリアと言いかえても良いのですか?
私に聞かれても困るな。神じゃないからな(w
>なぜ経験主義と実証主義をわざわざ分けるのかと言えば、
>実証研究の対象にならない規則的な再現性のない現象、
>たとえば
>>134さんの言う「精神科医の報告する症例」などにも、
>脳に関する実証研究とは別個に考察する価値があると考えるからです。
「精神科医の症例」も再現性があるように思います。
様々な、患者に関するデータを積み上げて、そこに再現性のある傾向を見出し、定義する。
そうした「定義された概念」群に、ある論理的構造を見出そうということを目指していると思います。
測定(データの集積)・概念定義(記号化)・理論(論理構造)という、「実証」の手法です。
ただ、測定のところの誤差の縮小(再現性の増大)がえらく難儀なだけです。
物理学であっても、測定(実験)誤差の範囲でのみの再現性でしかありません。
つまり、素朴な意味で、「正しい物理学」はなく、「誤差の少ない物理学」があるだけです。
その事情は精神医学でも同じです。つまりはこれは量的な問題で、質的ではありません。
「富士山の標高」という概念も、どんなに厳密に定義しようと、
測定機器やその操作や地学的要因など、誤差の範囲でしか測定できません。
>心理学や精神医学を持ち出さなくても、たとえば「嫉妬」という
>語が意味する心理を、われわれはおおよそ理解できるわけですが、
>こうした非実証的現象について、われわれ自身の経験から
>推論して人間の行動や感情のパターンを考察する余地を
>認めない理由はないでしょう。
「嫉妬」という感覚も、様々な方法で実証的に取り扱うことは可能だと思います。
「嫉妬」という概念を定義する努力から出発するでしょう。
例えば、不特定多数の臨床実験をすることもできるだろうし、
ドストエフスキーの小説に限定してデータを収集することもできるでしょう。
確かに、臨床実験の被験者が、日本のある大学生だけであったりしますが、
そうした但し書きつきの実証データとして、別に問題ありません。
物理学でも、アンドロメダで林檎が落下する実験を誰かがやったわけではありません。
>生命体が環境の中で自分の生存にとって適切な行動を取るには、
>むしろこうした「自己イメージ」はよけいなのに、
>現にわれわれにはそれがある。
自己イメージ(自己モデル)は、世界モデル内で行動シミュレーションを実施するのに
必須だとおもいますが。
他人の行動を予測するために、他人の思考までもシミュレーションします。
そのときの他人の思考モデルは、自己のもののパラメータを変更して
そのまま使ってるようですよ。資源の有効利用ですね。
164 :
考える名無しさん:02/12/14 09:20
>>113 >その理由は簡単で、現在の脳生理学の知識では、脳の機能とは
>どのようなものか、ほとんどわからないということです。
>心と呼ばれる現象が私たちの内的経験にとって統合的(中心的)である
>ということとのアナロジーによるのではないでしょうか。
脳の解剖学的な観察事実と、心と呼ばれるもののとの相関は、
実際に観察されているし、「心=脳の機能」仮説は、
そういった観察事実を根拠にしているのであって、
アナロジーによる推測というのは初耳だが。
そういった根拠で、「心=脳の機能」仮説を主張している
研究者はだれかいるのだろうか?
165 :
凡才数学者:02/12/22 00:13
このスレの人は、みんなチャーマーズ(意識する心)を読んでるのかな?
だとしたらすごいな。5は読んでるみたいだけど。
166 :
考える名無しさん:02/12/22 02:15
くおりあー
せ、はアレだな。
大人なんだよな。
自分や人間が機械のようなものでないという感覚の根拠が必要なので、
「意識」神秘主義とか「クオリア(?)」神秘主義という発想を持つ。
これは、「人間は神が創造し給うた特別な存在である」と考えたり、
「我が一族は神に選ばれた民である」とかいった発想の生まれる動機と、基本的には同じである。
人間誰しも、感覚も感情も信仰もある。「無い」と言う者は馬鹿か嘘つきか病気だ。
しかし、上記、「意識」神秘主義とかの性質が悪いのは、
その思考が感覚感情的(信仰的)様式であるということを認めず、
あたかも、実証的な思考や方法の帰結であるかのように偽装している点なのです。
というか、「実証的な世界が破綻している」ということを、
実証せねば気がすまないという、実は、実証盲信者なのだ。
「意識」の神秘性こそが、感覚感情の正当性の根拠であるという人は、
例えば、ある種の動物と感情的な交流がある場合、
その動物に「意識」が「なくてはならなく」なってしまう。
感覚主義者に特有の推論の転倒である。
そもそも感覚感情(信仰)に、実証的な根拠は全く必要ない。
実証的知に実証的整合性が求められるのと同様に、
感覚感情(価値)にも感覚感情的(価値的)整合性が求められる。
例えば、「子豚がかわいい」という感覚と「トンカツが美味い」という感覚の整合性である。
「戦争ハンタイ」と「一族の生存」の整合性である。
感覚感情(価値)的な事柄は、感覚感情(価値)的な論理によって思考されるのであり、
本質的には、実証とは係わりない。
ただ、価値から価値への還元や比較の手法として、感覚感情が取り除かれた部分については、実証的な知が用いられる。
>>168 クオリアを考える動機は、
「自分や人間が、機械ではないことを示すため」
というのは、適切ではない。
とはいえ、自分や人間を、機械として理解するための主たる障害として
クオリアがあるのは確かである。
>>169 >>172の障害は、人を機械と考えることにあるのではなく、
機械そのものの理解のあり方にある。
それは例えば言葉の意味を言葉で説明しきることができないのと同じである。
>>170 「意識」の神秘性は、それが普遍的でないことを意味しない。
動物のみならず、自然現象一般に意識を見出すことを拒否する
理由はなにもない。
>>171 君は、整合性がアプリオリにあるとおもっているのか?
つまり、君は「整合性」神秘主義者か?(w
>>172 >クオリアがあるのは確かである。
何が如何、一体全体「確か」なのか?
クオリア(?)とは何かすら定かにしようとぜずに。
>>174 だから勝手に「意識」やら「クオリア(?)」やらを脳内で定義して、
それが見出されるとか出されないとか勝手に言うことになんか意味があるの?
>>175 >君は、整合性がアプリオリにあるとおもっているのか?
>つまり、君は「整合性」神秘主義者か?(w
「整合性が求められる」と「整合性が存在する」の違いを理解できる知能をもってくれ。
>>176 不適切な切り方だね。
>自分や人間を、機械として理解するための
>主たる障害としてクオリアがある
としてくれたまえ。
君がクオリアなどないと主張するのは随意だが、
それでなにも謎はないといいきってしまうのかい?
>>177 君のような19世紀の人間には理解できないだろう。
>>178 君のように意識とかクオリアに反射的に嫌悪を感じて
それらを全て消去しつくす行為には何の意味があるのか?
>>179 ないものを求める知性は変態のそれだな(w
>>179 あると思っているから求めたんだろう?
恥じるな、自分が丸裸だと知っても
>それでなにも謎はないといいきってしまうのかい?
だから「謎」とか「クオリア」って一体なんなんだい?
キミの脳内の「謎」を何の説明もなしに吐露して、理解しろと?
>君のように意識とかクオリアに反射的に嫌悪を感じて
>それらを全て消去しつくす行為には何の意味があるのか?
一応、
>>167-171で説明してるのに「反射」とかいわれてもな。
単にハンタイしてるらしいってことしか理解できんのね。
要約すれば、感覚感情的なことは本質的には感覚感情的な範疇に収まるのに、
妙に実証的範疇に混ぜ込むデンパ・オカルトを批判してるんだよ。お分かり?
>>183-184 知能(知性)と品性には相関があるようだね。
茂木氏は「錬心術」の問題は解決したのかな。
>>185 ほう、自分には意識はない、謎もない、というんだね。
君、不誠実の極みだね。
説明?。ヴァカも休み休みにしてほしいね。
感覚感情的なことは本質的には感覚感情的な範疇に収まる
という主張はデムパもデムパ、X線、ガンマ線のレベルだね。
品性だけ取り繕えばすむ知性とは褌のようなものだな(w
>感覚感情的なことは本質的には感覚感情的な範疇に収まる
たとえていえば、風俗に通ってることは彼女には内緒というようなもの。
でも、そういうやつに限って、ばったり風俗で彼女と鉢合わせするんだな(w
189 :
考える名無しさん:02/12/28 23:55
「クオリア」という概念自体は結構簡単に意味を伝えることができる不思議。
それともそのこと自体は不思議でもなんでもないのかな?
190 :
ちっともわかりません!先生!:02/12/29 00:29
「クオリア」ってどれのことなの?
・コーヒーの香りを嗅いだときの気持ちいい「感じ」が
他人に言葉で説明できないこと。
あるいは、その説明できない「感じ」そのもの。
・感性が人それぞれ別なのは何故か?ということ。
・「歯が痛い」その痛さそのものは他人が知ることは
できないということ。
・「歯が痛い」その痛さそのものを他人と共有できない、
ということ。
191 :
考える名無しさん:02/12/29 00:47
歯が痒い
>>187 >ほう、自分には意識はない、謎もない、というんだね。
>君、不誠実の極みだね。
だから「謎」とか「意識」って一体なんなんだい?
キミの脳内の「謎」を何の説明もなしに吐露して、理解しろと?
あんまり期待してないけど、キミの「謎」とか「意識」とかがなんであるかを
説明(定義)してみてよ。
なんだか分からんものについては、何も判断できない。
ちなみに私はキミよりは誠実だから「意識」について既に定義し説明してるよ。
193 :
考える名無しさん:02/12/29 03:38
>>190 ニューロンの発火を記述することが可能ならば、それによって
すべてのクオリアを記述できるというのがクオリア論の骨子では?
>>192 >だから
その卑怯な舌を噛み切りたまえ。
君は君自身によって定義され理解されることなしに存在しているだろう?
それを認めることが誠実。口先男は詐欺師
>>190 >「クオリア」ってどれのことなの?
・コーヒーの香りを嗅いだときの気持ちいい「感じ」
(ここで止めろ!)
・「歯が痛い」その痛さ
(ここで止めろ!)
>>190 他人に言葉で説明できない、とか、
他人が知ることはできない、とか、
他人と共有できないということは、
クオリアそのものではない。
>ニューロンの発火を記述することが可能ならば、
>それによってすべてのクオリアを記述できる
心は脳の物理現象だ、という単純素朴な上記の信仰は
いったいいかにして「証明」されるのか考えたことはあるか。
つまり、人の頭を叩いて、そいつが「イテ!」と叫ぶまでの
脳内の物理現象をトレースしたところで、クオリアが見出せる
ことはない。クオリアだという判断は、常に都合によるものだ。
>>198 落下物の物理現象をトレースしたところで、力が見出される事はありません。
リア厨は帰って下さい。
哲学板は思春期板ではありません。
>>195 A:「『意識』ってアレのことだね。」
B:「そうアレ。」
A:「『意識』って謎だよね。」
B:「そう謎。」
終わり。
これをやりたいの?
これのどこが哲学なのでしょう。
>>189 正直、私には「クオリア」という概念が定かでないので、
だれか定義・説明してくれませんか。
無理なら、その性質を箇条書き的に列挙できませんかね。
>>190 がやってる迷子の子供から供述を取るようなアプローチだと
なかなか埒があかないんですよね。
「クオリア」論者って、自分からは何も論じたり見解を述べたりできないんですか。
204 :
ちっともわかりません!先生!:02/12/29 18:52
>196、197
「クオリア」とは、当の本人が感じている内部感覚そのもの、のことですね。
では最近「クオリア」は、どのような文脈で語られるのでしょう?
哲学の独我論?情報工学(?)の人工知能(?)?
さらにそこでの「クオリア」論の中心的な興味はどのへんなのでしょうか?
訊いてばかりで本当に申し訳ない。
>>199 >落下物の物理現象をトレースしたところで、
>力が見出される事はありません。
そうとも。
例えば、「時間」とか「力」とかいう概念は
意識抜きには定義すらできないようなものだ。
>>199 大人こそ死すべきではないかな。
哲学板は、お達者板ではない。
>>200 せは、嘘つきだな。
言葉で言葉の意味を語りきれるといっているのだから。
それが19世紀だというのだよ。
20世紀にはそのような伝説は崩壊した。
>>201 穏当、ね。考えることに疲れた者の台詞だな(嘲)
>>98 君のいう”人間の「意識」機能”は、単純に”人間の機能”といえばよい。
せっかくオッカムの剃刀をつかうのだ。剃り残してどうする?
さて、君は意識はであり、
「世界モデルの中で自己モデルを動かすシミュレーション」
だといってのけるが、その素朴な発想が、無限後退であること
には気がつかないようだな。
自己を、自己モデルとか自己イメージとか言い換えても
問題を棚上げするだけのことだ。
また自分の素朴な実感を、「実証」というのは知的弛緩である。
>>100 そもそも「定義」とか「伝達」とかいうのは基礎でもなんでもない。
君のいう「実証」がなぜ力をもつのか考えたことがあるか?
それは己と他者の同一性の信仰によってかろうじて支えられているのだ。
それに気づかぬ鈍感な知性には、哲学はわかるまい。
>自分だけ競馬で勝つとは思わない。
こういうヴァカなことをいうなら、
舌を噛み切ってくれ。
>>120 ただ、モデルとかイメージとか後ろにつければ
感覚的でないという程度の知性とはいかなるものか?
自己にイメージと言う言葉をつけたところで無意味だ。
モデルを何ら提示できないくせにモデルといってみせるのは
虚偽であり欺瞞である。
君に文化があるのかね?
そもそも単純に「理解」を求める験勉小僧こそ
哲学からもっとも遠い「機械」だろう。
論理実証主義は破綻している。
つまり、定義は定義できぬし、整合性すら確かめられない。
それが論理によって証明されていることも知らない
19世紀人のいう「まともな議論」は、ただのデザインでしかない。
>>203 >「クオリア」論者って、自分からは何も論じたり
>見解を述べたりできないんですか。
何をもって、クオリア論者というのか知らないが、
「語れないこと」を語るのは矛盾だろう(w
しかしながら、そのことは全てが語れることを意味しない。
そもそも「全てが語れる」という命題は矛盾である。
そういうことは2chの哲学板といえども「常識」だろう。
>>204 語る前から文脈が意識されているわけではあるまい(w
自らに意識があると思う程度の人間ならば、
これが問題にならないはずはない。
問題にしないのは、はなからあきらめているだけだろう。
しかし、あきらめるだけの証拠を諸君らは有しているのか?
214 :
ちっともわかりません!先生!:02/12/29 21:25
213さん、
「クオリア」が問題ではない、とは私は一言も云っていません。
むしろそれについて考えたいからこそ、現在までのエライ人たちの
苦闘の跡をたどってみたいのです。
213さんは詳しそうだから否定ばっかせずに教えて欲しいな。
ここまでの思考の歴史を。
>>214 歴史を知らずには考えられないという人間はそもそも何も考えられない(w
弟子「ちっともわかりません!」
師匠「ワシにもわからん」
219 :
考える名無しさん:02/12/29 22:34
過去を知らなければ、今に生かせない。歴史を知ることが一番重要なのだよ!
わかってない馬鹿がいるとは知らなかったなぁw
「クオリア論」の要旨をスパーッと語ってくれる論客はいないんですかねえ。期待。
そういう能力のない人ばかりだというのが現実ですか。
222 :
ちっともわかりません!先生!:02/12/30 03:04
215さん、
常に無手勝流ってのは時間の無駄使いだと思います。
先輩たちの遺産無しでたったひとりで2×2=4からスタートしていたら、
ガウスだって一生かかってせいぜい2次方程式の解の公式だと思いますよ。
223 :
ちっともわかりません!先生!:02/12/30 03:18
では、2×2=4から正17角形の作図法にいきましょうか。
ここまでの各氏の投稿から私は下記の2点が
必要な予備知識の大部分だと判断します。
1.「クオリア」とは、当の本人が感じている内部感覚そのもの、のこと。
2.「クオリア」論(?)の骨子は、
「クオリア」は物理的に記述可能である。
または、
「クオリア」が物理的に記述可能か否か?を議論すること自体が
その骨子である。
224 :
ちっともわかりません!先生!:02/12/30 03:29
2.はつまらない。
内部感覚と同時に発生する物理量(脳神経の電位の変動とかナントカ)を
異なる2人の人間について厳密に測定することが可能で、
それがある内部感覚ごとに完全に厳密に切り分けられた、
とする。(それだけでかなりスゴイ仮定な気がするけど。)
それで内部感覚の完全な物理的な記述は成し遂げられるわけだけど、
そのさいその記述に「クオリア」が欠けているのは自明なことだから。
225 :
ちっともわかりません!先生!:02/12/30 03:41
でも、そこで思考を止めてはおもろない。
で、ワタシ的には「クオリア」をネタに下記のように考えるのが面白いと思う。
1.「クオリア」を自然科学の文脈にのせるにはどうすれば良いか?
つまり、クオリアを検証可能な問題とするにはどうすれば
良いか?
2.「クオリア」が検証可能な問題とならないのは何故か?を明確にする。
「クオリア」が検証可能な問題にならない限り人工知能が心を持つことは
できないだろうが、検証可能になれば人工知能も心を持てそうだし。
?ということは、ワタシは「クオリア」が心の本質のひとつだと感じている
ってことか。ふむふむ。
226 :
ちっともわかりません!先生!:02/12/30 03:43
求む!!「クオリア」の検証方法!!
>>224 同感。
クオリアって、主観的に経験する質感そのものだから、
実験的証拠といった客観性を重視する、従来の唯物論的自然科学の遡上に乗せる事は、
そもそも無理なんじゃないかなぁ。
もちろん、脳科学が発展すれば、主観的に経験する様々な質感と
一意に対応するニューロン活動パターンを見いだす事は可能かもしれないけど、
そのニューロン活動パターンは、あくまでも物質の挙動であって、
クオリアそのものだとは言えないと思うし…。
まぁ、それ以上は深追いせず、そこで妥協するというのも、テだとは思うけどね(w
>>217 >>219 歴史を知るな、とは言っていない。
そう理解した君らはヴァカだ。
私が言ったのは、考えることなしには、歴史も理解できないということ。
>>223-224 つまらないのは、君の考えだろう(w
物理的記述云々の問題も、物理的に記述できないというのは
アサハカに過ぎる。
数学においては、数学的な真偽の記述不可能性を、
数学的に記述した。
>>225-226 ところで、真偽が形式的に定義できないことから、
真偽は存在しないと言えるのだろうか?
「せ」といえども「然り」とは言えぬ筈。
同様に、人も機械も、意識が検証できないから、
人も機械も、意識が存在しないとはいえない。
(人の意識は検証できるというホラ吹きは逝ってよし)
最後に、老子道徳経のモジリをば
「確かめられる意識は本当の意識ではない」
233 :
ちっともわかりません!先生!:02/12/30 12:16
230、231さん。
ワタシは自分で内部感覚を実験的に検証しようとした場合、
通常の物理的な測定でできることは何か?を考えて、まず
「クオリア」が検証できないことは自明だ、といいました。
しかし、それではおもろないので、「にもかかわらず」
クオリアを検証する方法はないものか?と書きました。
234 :
ちっともわかりません!先生!:02/12/30 12:20
したがって230さんの、
>数学においては、数学的な真偽の記述不可能性を、
数学的に記述した。
というのはワタシに対する反論ではなく、ワタシの
「求む!!」に対するアイデアのひとつだと受け取り
ます。
ただこれだけだと、具体的に何をすればいいかが
わかりませんけど。
235 :
ちっともわかりません!先生!:02/12/30 12:26
231さん。
>ところで、真偽が形式的に定義できないことから、
真偽は存在しないと言えるのだろうか?
こんなことはどなたも云っていないと思います。
「クオリア」が存在する確実性は「我思う」の「我」の
実在とほとんど同じほどの確実性を持ってることくらい
自明なことです。
物理学の諸法則よりはるかに確実です。
(因みにここまでの議論は自明なことばかりですね。
多くの人が「クオリア」は議論に値しない、という
スタンスをとっている気持ちもわかる。)
236 :
ちっともわかりません!先生!:02/12/30 12:28
あ、(無用の反論を止めるために)念のため云っておくと、
ワタシ自身は「クオリア」は議論に値しない、とは考えて
いません。
むしろ、こういった非アカデミックな場所で匿名かつ無責任に
アイデア出しするところからオモロイことがでてくるかも?
と期待しているくらいです。
>>233 君のいう「自明」は、何の根拠もない思い込みだ。
それは認めるね、君。
>>234 君の思い込みに対して、私は、君の信じる物理学においても
証明を必要とする主張であることを指摘した。
これは君の誤りに対する反論である。
>>235 言わなくとも心で思えば同じこと。図星だろう(w
ところで、私が存在することが物理学よりも確実だ、という
君の主張は、物理学による検証によってクオリアの存在を
確かめようとする君の態度と、相反するね。そうだね、君。
つまり、「私」の主張を認めるなら、それが物理学とは
矛盾することも認めることになる。
君は物理学の矛盾を自明だといっているんだよ。(w
>>235-236 クオリアは議論に値しないのではない。
物理学があって世界があると思う、逆立ちした人間にとっては
クオリアを考えること自体、世界の存在を真っ向から否定する
悪魔の所業なのだ。
しかしながら、いっておこう。本当の悪魔は己自身なのだ、と。
241 :
考える名無しさん:02/12/30 14:58
ここも結局デンパ厨荒しで終わりか....。
ここも結局荒らし呼ばわり荒らしで終わりか。
>>225 >1.「クオリア」を自然科学の文脈にのせるにはどうすれば良いか?
> つまり、クオリアを検証可能な問題とするにはどうすれば
> 良いか?
それって確かに興味深い問題だよね。
でも容易には答えられそうに無い難問だろうね。
せいぜい、どこぞのsage名無しの様に、
他人の揚げ足とるのが精一杯というのが現状だろうね(w
天才の出現を待つしかないのかな…。
244 :
ちっともわかりません!先生!:02/12/30 22:55
237〜240さん、残念ながら仰ることが支離滅裂です。
揚げ足とりにすらなってない。
申し訳ないけど。
245 :
ちっともわかりません!先生!:02/12/30 22:59
243さんは「クオリア」を検証可能にするアイデア、
なんかあります?
246 :
考える名無しさん:02/12/30 22:59
>>244 残念ながら君が間違っている。
申し訳ないが諦めてくれ
247 :
考える名無しさん:02/12/30 23:01
検証できるクオリアは、本当のクオリアではない
デンパ厨殿に聞きたいが、
ここに、キミの知的レベルでお話できる人は誰もいない、
ということは一致した見解なのでは?
つまり、どちらが「高い」レベルかと思っているかは別にして。
つまり、ここに、キミと対等にお話できる人は誰もいない。
キミにとって「下々の馬鹿集団」のココの住人に
キミのその崇高なる哲学を粘着的にかたる意味はないでしょ。
誰にも分かるわけないんだから。
キミのレベルにふさわしい「哲学」仲間を探すべきだよ。
249 :
考える名無しさん:02/12/30 23:16
今過去ログちょっと見た限りでは、
>>4が正しいようだね。
250 :
ちっともわかりません!先生!:02/12/31 00:12
実はワタシにとってこのスレはグッドタイミングなのですよねー。
昔から、デカルト(の我思う)、独我論、ウィトゲンシュタイン、永井均、
現象学、の方向には興味があった(もちろんロクに知りゃしないんですが)
ところに最近ちょくちょく「クオリア」という言葉を目にしてたもので。
「脳とクオリア」茂木健一郎、日経サイエンス社
という結構網羅的に書かれた本を見つけて手にいれましたので、
もし読み終わるようなことがあったら、またご報告いたしますですぅ。
251 :
ちっともわかりません!先生!:02/12/31 00:27
252 :
panta:02/12/31 00:30
私のホットメールの中にメッセージ入れてるの読める?(重要)
>>248 せ君のような時代遅れの誤った論理実証主義に
追従できる人間こそ厨房だろう。
せ君は自分の誤りを知るべきだ。
哲学をやりたいのなら。
君はまだ哲学をしていない。
心脳問題関連の予想されるあらすじ
高精度な測定機器が開発される
↓
解剖学者がそれで脳を調べる
↓
情報工学者が脳をシミュレートする
↓
心理学者が心理法則との整合性を確認する
↓
(゚д゚)ウマー
しかし、才能、性格、欲求、第六感など、解明できない
ことがあるのに気づく。
↓
さらに、生物学的に、何故そのように発達したのか、
他の生物とに共通性があるのは何故かということが、
難しい問題であることに気づく。
>>254 脳内現象の測定の可能性を否定する人はいない。
問題はその先。
測定できれば法則が見つけられるのか?
法則を見つけるのは人間自身。
法則もまた、脳内現象として実現されるならば
確実に情報量は失われざるを得ない。
これは矛盾するので、法則発見の可能性はない。
(゚д゚)マズー
256 :
考える名無しさん:02/12/31 13:07
ホットメールって何?
>しかし、才能、性格、欲求、第六感など、解明できない
>ことがあるのに気づく。
それは、経済学とかが"解明できない"というのと如何違うのですか?
単に、非常に複雑だということとは違うのですか?
>法則もまた、脳内現象として実現されるならば
>確実に情報量は失われざるを得ない。
>これは矛盾するので、法則発見の可能性はない。
非常に興味深いけど、それは、情報数学や論理学で証明されたの?
そんな気がする人がいるだけの話ですか?
>>257 せ君は、ベリーのパラドックスを知らないようだね。
ちょうどいいから調べてごらん。
なお、アルゴリズム情報理論の創始者のグレゴリー・チェイティンが
上記パラドックスの方法を用いて、ゲーデルの不完全性定理の拡張に
あたる定理を証明していることを申し添えておく。
ウソだとおもうなら、チェイティン自身がサイエンティフィック
アメリカンで書いている文章を読むのだね。
(なお、サイエンティフィック・アメリカンは日本では日経サイエンス
として翻訳されている)
>>255 法則とは心理法則でしょうか。既知の心理法則でもいいんですが。
>>257 才能、性格、欲求、第六感などにおける、さほど複雑ではない基本的な仕組みすら
脳を調べ検証しただけでは解明できないということです。
株価の複雑さのような、例えば世界中の一人一人の性格について調べるような
複雑さのことをいっているのではないです。
>>259 >才能、性格、欲求、第六感などにおける、さほど複雑ではない基本的な仕組み
「才能」「性格」といった大雑把な概念は、極めて複雑だと思いますが、
「さほど複雑ではない基本的な仕組み」とは具体的にどんなものですか?
>>259 脳に関する法則。心理という言葉は意味がない。
あ、うん○(
>>255)踏んじゃった。
気をつけよう。自己イメージに異常なこだわりがあるクセに名無し。
>>260 簡単なのだと、これまでよく議論されている、才能や性格はアプリオリか
とか、第六感はあるのかといった、2択問題があるとおもいますが。
>>261 では、既知の心理法則を、脳に関する法則とすればいいのでは。
男は女を好きになる等の簡単な心理法則なら、脳の構造を解明
すれば、コンピューターで検証可能かも。
人間の怒ったときの声、犬や猫の怒ったときの鳴き声は
赤ちゃんが聞いても怒っているとわかります。
違う種でも怒っているときの声という法則性があり、
誰にもそれが怒っているとわかるのは何故でしょう。
>才能や性格はアプリオリかとか、
>第六感はあるのかといった、2択問題があるとおもいますが。
上記二つはどういった問題なのですか。これだけでは何が問題かわかりません。
>人間の怒ったときの声、犬や猫の怒ったときの鳴き声は
>赤ちゃんが聞いても怒っているとわかります。
その程度の「声色」の分析は、
犬につける玩具レベルの機械でもかなり可能ですよ。
268 :
考える名無しさん:02/12/31 23:23
サップが腕ひしぎ!?
で、今年は終わるのかア。
誰もやってくれないクオリアの定義を仕方ないのでやりますよ。
クオリアとは、意識に現れる生々しい感覚そのものである。
例えば、赤い林檎を見たときの「林檎の視覚映像」という感じや「赤」という感じである。
昨日食べた林檎を思い出すときに現れる林檎のイメージは、クオリアではない。
また、箱の中に林檎を入れた直後の、箱の中の林檎の推測によるイメージは、クオリアではない。
つまり、実在がクオリアの根拠になるとは限らない。
逆に、クオリアが必ず実在からもたらされるとは限らない。
例えば、幻覚がクオリアであることもあるし、
脳に電気刺激を与えることでクオリアが現れることもある。
錯視などの錯覚もクオリア的な事実である。
まとめると、クオリアとは想像や推測やによるイメージではない、
意識に現れる感覚的所与のことである。
これで、色々な議論が可能でしょ。
まあ来年にでも。
270 :
考える名無しさん:03/01/01 00:35
271 :
考える名無しさん:03/01/01 00:51
>>269 定義自体がきわめて曖昧で、これではまともな議論は難しいでしょうね。
>>271 あなたの意見は、全く曖昧で議論どころではないですよ。
どこがどう曖昧だとか、こういう性質と矛盾するとか具体的に頼みますよ。
以下ラマチャンドランの「脳の中の幽霊」の考えです。
基本的に私も同意する説です。
意識−クオリアの三性質
性質1)意識はクオリアに対する変更が不可能。
性質2)意識はクオリアに対する行動(思考)に選択の余地がある。
性質3)意識はクオリアに対する一時記憶がある。
性質1)
林檎を見たときの林檎の「赤」の感じは意識によって変更できない。
しかし、想像・推測による林檎のイメージの色は変更できる。
網膜上の盲点が周辺の色で補完されて見えるという錯視が知られるが、
これは、クオリアが必ずしも実在と一致しない例である。
これは、盲点上の不確かさがいちいち意識にゆだねられると、
意識の負荷が増えて効率が悪い。
意識に余分なデータの揺らぎを含ませると、
その情報をもとにした判断や行動の計算速度に支障がでると考えられる。
視覚などの感覚器官から送られる生データは、
認知処理回路によって整形され、クオリア情報に変換され、意識に渡される。
クオリアが意識の侵食を受けないソリッドさを持つのは、
意識資源の効率化のためである。
性質2)
無意識にはクオリアがない。
リアルタイムの動作は反射は、意識が介在しない。
意識を失った人の瞳孔に光を当てると瞳孔はしぼむ。
この反射を行う神経回路の過程にはクオリアがない。
その理由は、この反射の入力と出力の間に選択の余地がないからと考えられる。
一方、意識に現れるクオリアは、その情報をどう扱うかは意識にゆだねられている。
性質3)
意識は与えられたクオリア情報を一時的に記憶し、行動や思考(行動計画)に使用する。
(あたりまえといえばあたりまえだが、)
これは、意識−クオリアの存在を調べるのに使用できる性質である。
一酸化炭素中毒による脳障害で、視覚に問題がないのに視覚映像が失われた患者の症例。
彼女(の意識)には視覚が全くないが、ポストに手紙を差し込むという動作を、
視覚をもとに正確に滑らかに行うことができる。
彼女の中の(UNIXでいう)デーモンが視覚をもとにやってのけるのだ。
ポストを見せた直後に明かりを消すと、意識−クオリアがある「彼女」であれば
凡その位置を記憶し、投函することができるだろうが、そうしたデーモンでは不可だろう。
逆に、そうした実験により、そうしたデーモンに意識−クオリアがないことが示せる。
また、ポストを二つ用意すると、デーモンに判断が求められて、
投函できなくなると予想される。
性質3)
意識は与えられたクオリア情報を一時的に記憶し、行動や思考(行動計画)に使用する。
(あたりまえといえばあたりまえだが、)
これは、意識−クオリアの存在を調べるのに使用できる性質である。
一酸化炭素中毒による脳障害で、視覚に問題がないのに視覚映像が失われた患者の症例。
彼女(の意識)には視覚が全くないが、ポストに手紙を差し込むという動作を、
視覚をもとに正確に滑らかに行うことができる。
彼女の中の(UNIXでいう)デーモンが視覚をもとにやってのけるのだ。
ポストを見せた直後に明かりを消すと、意識−クオリアがある「彼女」であれば
凡その位置を記憶し、投函することができるだろうが、そうしたデーモンでは不可だろう。
逆に、そうした実験により、そうしたデーモンに意識−クオリアがないことが示せる。
また、ポストを二つ用意すると、デーモンに判断が求められて、
投函できなくなると予想される。
2重カキコ失礼!
面白いな、今度見かけたら買ってみよう。
280 :
考える名無しさん:03/01/01 03:04
1、意識は、それ特有の認知的機能を果たす。
2、その認知的機能は、時間に追われた認知的行為者(正確さより
機敏さにウェイトをおく情報処理システム)にとって、きわめて有益である。
3、環境のなかで生きのびる認知的行為者(外部と内部のリアルタイムの情報を必要とする
情報処理システム)にとって、感情と感覚は不可欠の認知的機能である。
4、意識の機能にとって、クオリアの機能は不可欠である。
5、意識をもつ認知的行為者の感情と感覚にとって、クオリアは不可欠である。
6、意識・感情・感覚・クオリアの認知的機能は、自然淘汰において
極めて有利に働く
7、意識・感情・感覚・クオリアの認知的機能は、それ特有の
神経生理学的メカニズムによって実現される。
8、その神経生理学的メカニズムは、それ特有の生物学的性質をもつ。
9、その生物学的性質は、自然淘汰においてきわめて有利に働く。
10、6と9は、認知科学と生物学という異なった記述レベルの
ストーリーとして、互いに独立に理解可能である。
これで「クオリア」をデンパ系の手から取り戻せますか。
>>266 では、脳が怒っていると判断できるのは何故でしょう。
怒っているのが攻撃姿勢であるとわかるのは何故でしょう。
>>267 >これだけでは何が問題かわかりません。
特に問題ではないと思えるのなら、それに越したことはないです。
>その程度の「声色」の分析は、
>犬につける玩具レベルの機械でもかなり可能ですよ。
機械を作る人が、「怒ったときの声」の判断基準を持っていなければ
ならないです。その基準はどこから得られるのでしょうか。
>>273 >性質1)意識はクオリアに対する変更が不可能。
>性質2)意識はクオリアに対する行動(思考)に選択の余地がある。
>性質3)意識はクオリアに対する一時記憶がある。
これは公理系による形式的理論こそ、真実だというのに等しい
1931年以来、そういうことをマジメにいうヴァカはいない。
「せ」はもう
>>281みたいな煽り入れないように。
なんでこんな馬鹿釣れたんだろう。
>>282 >>これだけでは何が問題かわかりません。
>特に問題ではないと思えるのなら、それに越したことはないです。
問題でないと思うのではなくて、問題が何か分からないのです。
例えば、「才能や性格はアプリオリか」という命題は、
「才能」や「正確」が何を指しているのか、
「アプリオリである」が何を意味しているのかが分かりません。
「第六感はあるのか」という命題も、
「第六感」がなにを指しているのかが判然としません。
場合によっては「ある」の意味も吟味する必要がありますが、それはいいでしょう。
これが「問題」であるというなら、「人間は四次元と交信しているか」とか、
「宇宙の中心にクオリア神がいて、デンパで私の脳を操作しているか」とか、
みな「問題」になってしまいます。
>>282 >>その程度の「声色」の分析は、
>>犬につける玩具レベルの機械でもかなり可能ですよ。
>機械を作る人が、「怒ったときの声」の判断基準を持っていなければ
>ならないです。その基準はどこから得られるのでしょうか。
その基準は、おそらくその玩具と類似した脳内の神経回路ですよ。
>>279 ラマチャンドラン(正確には共著)は、医学者だからか、
いまいち論理や推理に穴があり、自分で補ったり訂正してやる必要がありました。
上のクオリアのまとめも、多分本文より分かりやすくなってます。
「脳の中の幽霊」は、世界一流の臨床例と独創的な実験の成果が見られる、
非常に面白い本です。
例えば
>>273-276 のクオリアの性質2)の選択(反応)自由度だが、
多分固定的な10くらいの選択肢しかないならば、意識(−クオリア)は必要ないだろうから、
それほど単純に検証はできないと思われます。
また、本書では、「クオリアの性質」といっていますが、どう見ても、
意識の性質を含むので、「意識−クオリア」の性質としました。
292 :
考える名無しさん:03/01/02 03:15
>>288 > これが「問題」であるというなら、「人間は四次元と交信しているか」とか、
> 「宇宙の中心にクオリア神がいて、デンパで私の脳を操作しているか」とか、
> みな「問題」になってしまいます。
醸しage
これが続きでいいのか?
今回ラマチャンドランの「クオリア説」を読んでみて、
私の「意識」の定義を修正してみましょう。
「意識」機能には、
1)感覚器官→認知器官→クオリア情報を元にした短時間リアルタイム行動判断機能,
2)長期記憶や抽象概念を駆使し、世界モデルと自己モデルを使用した長期的行動計画立案、シミュレーション機能がある。
1)の意味では、動物にも「意識」があるといえるが、
2)の意味では、ないと考えられる。
つまり、動物にはクオリアはありそうだか、自己イメージはない。
>せ殿
「クオリア」へのアプローチについて色々スレを探しておりこちらを
覗きますた。
>「意識」とは、行動計画をシミュレーションする機能ですよ。
>脳内に構築した世界モデルの中で自己のモデルに行動させてみる。
>そうして上手く行くかどうかを判断したり、計画の問題点を修正したり、習熟したりする。
>そうすることで、より最適な行動を実践できるわけ。
という定義も初めて見ますた。
というのは、進化心理学的アプローチとして、面白い仮説(モデル化)でした。
今まで意識を持つという戦略が適応的であるとし取られていた理由について
「他者の先読みツールである」という仮説がとあるスレであったのですが、
他我ではなく、自我の方絡みのものではないかと漠然と思っていたので、
こちらを読んで、すっきりしますた。
有難うございまつ。
流れの途中割り込みスマソ。
>>295 パンピーがすっきりする主張は大抵誤り。
>296
意識ってものの296さんなりの定義を教えてたもれ。
意識や自我については沈黙しる!っていうことなら、まだ分かるんだけど。
むしろヴィトゲンシュタインについては後期のほうを教えてたもれ。
ご教授して下さるなら喜んでご指導承りますが。(別スレで)
進化心理学的アプローチから
「『意識っていうものがある』という戦略が適応的なので
我々は「意識がある」と思っているのだ」という転回を経て、
あえて意識というものを定義すると、せ氏の仮説が面白いと思った
という話なんだが、つい記念カキコしてシマタ。
>>297 定義を問うな。教授を受けるな。
その行為がすべての嘘の始まりだ。
ヴィトゲンシュタインが終始一貫して抱いていたことだ。
そのことにくらべれば前期と後期の違いなど軸足の移動に過ぎない。
人は知恵という嘘で毒される。
せ氏は嘘に毒された悪魔だ。
そしてオマエはせ氏の接吻によって
悪魔に魅入られつつあるのだ。
進化**学とかいう目的論はすべて嘘である。
進化**学が目的論であるというのも嘘であるが。
>>288 これは脳をシミュレートする場合の問題。
脳は五感以外の何かから影響を受けているのでしょうか。
才能や性格は何によって決まるのでしょうか。
これがわからないと脳をシミュレートできない。
>>289 脳内の神経回路に「怒ったときの声」の判断基準が
あるということでしょうか。
では、その神経回路が人や犬や猫にあるのは何故でしょう。
その神経回路は何のためにあるのでしょう。
>>294 1) と 2) は、長期的行動計画立案というように、単に時間の長さの
違いでしょうか。
進化心理学スレ、いつの間にか次スレたってた。
>>298 本当にヴィトゲンシュタインがそれを終始一貫していたのなら
ずっと赤ちゃん並だったのでは?
>>301 >これは脳をシミュレートする場合の問題。
脳のシミュレートとは、脳のモデル化のことですか。
>脳は五感以外の何かから影響を受けているのでしょうか。
>才能や性格は何によって決まるのでしょうか。
>これがわからないと脳をシミュレートできない。
そんな漠然としたことが「分かった」としても、
いま行われてるような研究の段階で、
脳の丸ごとモデル化できるなんて、それこそデンパですよ。複雑すぎ、未知すぎ。
「才能」とか「性格」といったものも、漠然とした概念のままである限り、
学問・研究とは関係ありません。
「才能」とか「性格」という概念を精密に定義して、初めて、
データをとったり、モデル化の試みができたりするのです。
そうした定義をすること自体も、重要な研究ですよ。
ただ、そうした意識上の「言語概念」をいくら定義しつづけても、
そのアプローチの延長だけで脳が丸ごとモデルできることはないでしょう。多分。
>脳内の神経回路に「怒ったときの声」の判断基準が
>あるということでしょうか。
という説明が排除される理由がありません。
>では、その神経回路が人や犬や猫にあるのは何故でしょう。
>その神経回路は何のためにあるのでしょう。
進化論的にいくらでも説明できるでしょう。
つまり、分からない動物は滅んだということ。
哺乳類に限らず、鳥や爬虫類や蛙でも「怒っている」状態はわかる。
魚は良くわからない。
高速物理排除能力(暴力)をもっている陸上動物間での「脅し」ルールとして形成されたのでしょう。
>>298 303と同意です。
>>299>>300 進化心理学は目的論ではなく、心理学へのアプローチでつ。
まだこのスレ全部読み終えてないが面白そう。
マターリROMしてきまつ。
>1)と2)は、長期的行動計画立案というように、単に時間の長さの
>違いでしょうか。
だいたい書いたとおりです。
1)感覚器官→認知器官→クオリア情報を元にした、リアルタイム行動の短時間での選択・判断機能
2)中長期記憶や抽象概念を駆使し、世界モデルと自己モデルを使用した、シミュレーション機能と中長期的行動計画立案機能。
動物が隠しておいた餌の場所を覚えておくには2)の機能は必要ない。
人も夢遊状態で、家に帰ったりするが、2)の意識機能は働いていない。
この辺は実験とかで明らかにする必要があるでしょう。
>>303 赤子が正しい。大人は間違っている
その誤りは知恵が真実だと考えることにある。
進化**学は、結果論であり目的論である。
君らはその事実を無意識に隠そうとしている。
嘘を信じることが心地よいからだ
>>304 >脳のシミュレートとは、
脳のシミュレートは脳のモデル化といってもいいのですが、
脳の構造を人間が理解していなくてもよくて、単にスキャン
してコンピューターで再現することです。
そうしたとき、性格の違う別の人を再現するには何を変更
すればよいかという問題があります。
>>304 >進化論的にいくらでも説明できるでしょう。
怒っている(攻撃姿勢である)ことが察知できれば生存に有利
ということですね。正解だと思います。
さらに、何故怒っていることを察知させる(怒る)ので
しょうかという質問を用意していたのですが、あっさり答え
られそうなので省略します。
心脳問題を進化論的に考察できればいいと思ったのでこのような
問題を出しました。
本当は、脅しルールとして形成されていれば、それはどのような
ルールであってもよいということではない、というのが重要なの
ですが、また後にします。
>>307 >赤子が正しい。大人は間違っている
そう考えるのもあなたの知恵なのです。
>進化**学は、結果論であり目的論である。
進化論は間違っていると言いたいのでしょうか。
でも、どこが間違っているか説明できないのかな。
具体的にどこが間違いなのか指摘しないと議論にならないです。
265に続いて感情の問題。
人はどんなときに笑うのでしょうか。何故笑うのでしょうか。
>>310 >>赤子が正しい。大人は間違っている
>そう考えるのもあなたの知恵なのです。
違うな。貴様が考えたのだ。貴様の知恵だ。
私は考えていない。ただ言っただけ。
人は笑わぬ。感情もない。
>進化論は間違っていると言いたいのでしょうか。
そうだ。
>どこが間違っているか
間違わぬ作り話をすることが間違っているのだ。
指摘したぞ。どうだ反論できまい。
いっておくが、感情的にわめき散らすのは
貴様のヴァカを世間にさらすだけだぞ。
それでもやりたきゃ勝手にせい!
315 :
考える名無しさん:03/01/06 23:49
たのしいですか
類推可だと思う。あなたは3〜5才くらいかなと想像してる。
自分ではまあ7〜9才くらいかなと。
0歳と感じる人には生では遭ったことないだろう。
どう思う?
まあ余計なことですが,信原さんはラマチャンドランの定義について,
(1)は、想像経験もクオリアを伴うので必須ではない。
(3)は、(2)の前提とみなせる。
従って必須なのは(2)だ,と言っていましたね。
>>308 >脳のシミュレートは脳のモデル化といってもいいのですが、
>脳の構造を人間が理解していなくてもよくて、単にスキャン
>してコンピューターで再現することです。
なるほど、それならモデルではありませんね。
「脳のコピー」という感じですか。
>そうしたとき、性格の違う別の人を再現するには何を変更
>すればよいかという問題があります。
脳の機能や仕組みが多少とも分からなければ、「性格」云々以前のような気もします。
脳梗塞や事故による脳損傷により、「性格・人格が変わった」という症例は多くあり、
その場合の損傷部位も良くわかっているようですが、「どうすれば」というレベルではありませんね。
>>309 ・体を大きく見せる
・武器(牙・爪・毒針・筋肉等)を見せる
・体表色の変化(赤色が基本)
・正面を向いた姿勢
・視線
・奇声・唸り
・筋肉の緊張
・静止あるいはゆっくりした動作
などか。
これらの由来も、いくらでも説明だけならできるでしょう。
>>318 3)は「クオリア」の性質というよりは「意識」の機能ですね。
1)は定義の問題でしょう。
我々は、「想像の林檎」と実際の「視覚による林檎」が厳然と区別できるので、
この区別は存在していると考えられます。
>>270 の定義でも言っているように、
「ありありとした林檎の幻覚」と「想像の林檎」も厳然と違います。
前者は「視覚による林檎」と同類の感覚所与であると我々は感じています。
そういうものを「クオリア」と定義したのです。
この区別は便利で有用だと思います。
>>321 >この区別は便利で有用だと思います。
せのおしゃべり以外には何の役にも立たん
(^^)
324 :
考える名無しさん:03/01/08 21:27
325 :
考える名無しさん:03/01/10 14:14
心理学板のロボってヤシは興味深いよ
326 :
考える名無しさん:03/01/12 19:25
あげ
327 :
考える名無しさん:03/01/12 19:30
どこかの本で読んだ。
人間ってのは、2つの事のみを目標として生きている。
生きるための、栄養確保と、種を残すこと。
いい学校を出るのも、いい服を着るのも、金を集めるのも、
食うことと、異性の興味を引きたいから。
そんな機械よりも単純な人間に、心があるとは思えない。
よって、心など、存在しない。
>>327 食うことによって生きているのは確かだが、
そのことから生きるために食うといえるわけではないよ。
食いたいから食うんだよ。
セクースもそう。ガキ云々は関係ないね。
キモチイイからするんだよ。それが証拠に避妊や中絶は日常茶飯事だ。
心があるかどうかも外からどうこういうことではない。
>>328 生きるために、食いたくなるように出来てるし、
種を残すために、セクースをキモチ良く感じるように出来てるんだよ。
>>327 「心」とは何かがハッキリしなければ、
在るとか無いとか言うことは無意味ですよ。
日本語の語感による「心」という概念は人間の生存に必要な機能として定義可能であると思われます。
それは普通の直感的な「心」の性質を満たすものとして定義されるでしょう。
ただ、魂とか自己同一性とかは、実証的存在ではないでしょう。
>>329 そういうと思った。
でも、別に理由をつける必要もあるまい。
332 :
顔偏差値15:03/01/13 16:41
心は概念
脳は頭に詰まっているやつ
333 :
考える名無しさん:03/01/13 20:11
「頭に詰まっているやつ」についての「脳」という定義づけも概念だが。
「○○という概念」とは、○○という語感、
即ち○○という語のかもし出す感覚のことである。
その感覚の基準は、脳内の神経回路であると予想される。
しかし、我々は、その「回路」を解析することが技術的にできないので、
そのブラックボックスの入出力を観察することで、それのモデルを作成することができる。
それが、「定義」である。
>>100 にも書いたが、概念や感覚は、文化的恣意性を含んでいるので、実証的とはいえない。
だから、「学問」として取り扱うには、何らかの定義が必要なのだ。
(できるなら、)そうした語感を作り出す「神経回路」自体が、
その人にとってのその語の最も正確な定義であるといえる。
学問としてでなく、日常的な言語使用であれば、
共同体の共有概念を無定義に使用することは別段問題あろうはずもない。
>心は概念
>脳は頭に詰まっているやつ
正確には、「脳」という概念に、
「頭に詰まってるやつ」という「灰色の(実証的な)物質である」という性質が含まれているのです。
「魂」や「自己同一性そのもの」が実証的でないというのも、
「魂」や「自己同一性そのもの」の語感(概念)に、実証的存在性がほのめかされていながら、そうでないからです。
>>333 >「頭に詰まっているやつ」についての「脳」という定義づけも概念だが。
『「頭に詰まっているやつ」についての「脳」という定義づけ』
とは一体なんですか。なにをどう定義しているのですか?
意味がいまいちわかりません。
せ、は偉いね。
>そうした語感を作り出す「神経回路」自体が、
>その人にとってのその語の最も正確な定義であるといえる。
せは、こういう馬鹿だ。
そのうち、私の定義は私だと臆面もなくいうだろう。
それは定義と言う言葉がナンセンスだと白状しているのだ(w
342 :
考える名無しさん:03/01/14 11:07
>>332は、
「脳」が「頭に詰まっているやつ」とは言っているけど。
「頭に詰まっているやつ」が「脳」とは言ってない。
343 :
顔偏差値15:03/01/14 17:03
ごめん、てきとうにレスしてしまった
仮定:計算は脳で行われる。
このとき、仮定が成り立つとすれば、我々は1+1という計算を脳で行う。
我々は実際にりんご1個足す1個=2個という、現象を見なくとも、意識=心で計算することが可能
この時、仮定は実験的に証明されている。
よって、心と脳は結びついている。
344 :
顔偏差値15:03/01/14 17:20
なるほどね。
心や意識ってやつは、すなわち自己を自分によって運用しているわけだが、
その自己はどこから来るものか?
ひとつには、1+1を計算する際、それは脳で行っているということが、
実験的に証明されている。
しかしながら、自己を意識する=自分の脳を意識するというわけではない。
実験的ではなく、概念的に自己とは何か?ということを考えても答えは出ない。
それは、「自己を運用している脳」が意識には存在しないから。
ここで問題を出そう。
さて、我々には実物世界と意識世界があると思っているように思う。
1.実物世界が先にきて、脳によって意識世界が生み出されているのか?
2.意識世界が先にきて、現実世界を生み出しているのか?
あなたはどっちだと思いますか?
345 :
考える名無しさん:03/01/14 21:19
脳スレ保全上げ
>>344 前半は意味が良くわかりません。
>さて、我々には実物世界と意識世界があると思っているように思う。
我々の文化圏における共有感覚として、
「実物世界」(=物自体)と「意識世界」(=現象界)があると感じているのは
およそ事実だと思います。
私の考えでは、
「現象界」とは、脳内の「行動シミュレーション用世界モデル(
>>98)」が
何物かのモデルであるという自覚なのでしょう。
「物自体」とは、そうしたモデルの原型の存在の自覚なのでしょう。
そして、そうした自覚の構造は、やはり、
脳内「世界モデル」に包含されてしまいます。
そうした自己言及的構造が、
問題をミステリアスに見せかける原因となっているのでしょう。
自己言及的なプログラムや論理回路は作成可能で、
別に非実証的であったり、超論理的であるわけではありません。
>1.実物世界が先にきて、脳によって意識世界が生み出されているのか?
>2.意識世界が先にきて、現実世界を生み出しているのか?
今までさんざん述べたように、
「意識」は、実証的な性質をもった実体(脳の機能)として、
世界内の実在として定義可能であり、上のような万能性があるとするのは、
あまり適切ではありません。
そもそも、他人にも、意識があるのは自明です。
せめて「認識」とか仏教的に「識」とかしたらどうですか。
そうすれは、一般的な唯識、唯物の問題になります。
ちなみに、唯識・唯物は不可知だし、構造主義的には同値です。
つまり、同じ事柄に対する違う視点・違う言い回しに過ぎないと思います。
>>347 補足します。
今までの流れで、凡そ「意識」には、
1)クオリア感覚所与に対する目前行動判断
2)世界モデル・自己モデル・経験記憶データベースによる行動シミュレーションと、
その結果に対する価値判断と、それを考慮した中長期行動計画立案
の二つの機能があるので、「現象界」にも対応した二種類があるといえる。
AIの研究はいきづまっている。
そりゃそうだプログラミングで世界の無秩序
無限変数に対応出来るわけが無い。
しかし感情のようなものをいれたら処理速度も上がったそうだ。
そのかわりミスも多い。ぐひょひょ
人間の思考はすべて二項対立で作られている。
愛と憎
死と生
正義と悪
好きと嫌い
上と下
マイナスとプラス
現代科学の成果はこの二項対立を四項にそして八項にと増やしていった
ただそれだけのことである。
352 :
考える名無しさん:03/01/15 12:35
悪の対義語は善ですが?
さてその二項対立の根本
例えば
正義と悪
というものがあるが
コレを判定しているのは
なんなのだろうか?
現在アメリカ民主主義の正義とイスラム原理主義の正義に
ついてありとあらゆる分析検証が行われている
いったいどちらが正義なのか?正義の根拠が求められている。
こんなことはクダラナイ。
正義に根拠などない。あるのは感情だけだ。
354 :
考える名無しさん:03/01/15 12:43
あと自然と人工は対立するものではありませんね。
人間は自分の帰属を正当化する。それが正義。
そして自分の行いを正当化する。それが善。
人はみな自分が論理的で理性的であると考えている。
実は人間に理性などないのだ。
あるのはただ感情のみ。
人は自分の怒りや欲望を、自己正当化する。それが『理性』
と呼ばれているものだ。
学者は自分の仮説を正当化するため証明と反証
をくりかえして自説を鍛え上げる。
しかしその仮説はいったいなにが決めているのか?
それは感情であり情動である・・・・・
というのは嘘である。
感情だけで判断してるわけではない。
感情と理性の狭間
主観と客観の狭間
それは直感である。
人間が行動を決定する最終出力は直感なのである。
そしてその後に自己の行動をあとづけで分析、肯定する。
直感というのはなんと非論理的で非科学的なのだろうか?
残念ながら科学は主観的体験である直感を永遠に分析できない。
科学は客観のみだから。
354へ
概念のことを言ってるんだよ。
概念と概念の二項対立。
358 :
フーコーのカツラ:03/01/15 13:58
本当の世界と呼べるものは、セックスだけだ。
セックスとは幻想と物質の闘争。
しかし幻想が勝ったり物質が勝ったりする闘争ではない。
闘争そのものだ。
それは、決して何かを産み出す母体のようなものではない、ただ原質としてだけある闘争だ。
あらゆるイデオロギーを振切り善悪の彼岸に立ち得る能力をもつのはセックスだけだ。
それ以外のものは、屁理屈で醜く水脹れるか(例えばコヴァ)、感情の奴隷となり哀れに先細るかだ。
360 :
他スレの1です:03/01/15 15:28
>>358 ネグリ派から一言。
>>359のように「快楽に関して」ならわからないでもありません。
しかしフーコーは垂直的媒介を排除した分離の論理に近いところにいながら、
分離の論理と構成の論理の相即性を見ることができないまま、水平的層の中
に埋没したかのようです。
結果的にフーコーの分離の論理は不十分なまま快楽しか扱えなくなったのですね。
確かに水平的層におけるフーコーのニーチェ主義は偉大でした。
哲学史の大転換といっていいでしょう。
ドゥルーズがフーコーを恐れつつあれだけ惚れたのも当然です。
ニーチェの挑発にすけこまされたそれ以前のニーチェ主義者は尻尾を丸めて退場
するしたなかった。
しかしそのフーコーにしても快楽という横断線しか見出せなかったのは残念な
ことです。
361 :
考える名無しさん:03/01/15 17:28
>>353 正義か悪かは多数決により決まる。
世界全体で多数決をとれば、アメリカが正義となるかもしれないが、
イスラム教の国の中という局所的な範囲で多数決をとれば、
イスラム原理主義が正義となるだろう。
正義か悪かは、一意には定まらず、このように相対的に変わる。
絶対的な、正義・悪などない。
362 :
考える名無しさん:03/01/15 17:40
二項対立事態がすでにアポリア。
川で魚取った事ありますか?せみをとったことありますか?
田んぼのあぜ道を走ったことありますか?
もしあったのなら、それを忘れていませんか?
関係ない話は他でやれよ。
364 :
考える名無しさん:03/01/16 07:18
脳スレ保全上げ
心スレ保守下げ
>>350 >AIの研究はいきづまっている。
>そりゃそうだプログラミングで世界の無秩序
>無限変数に対応出来るわけが無い。
世界は広大だが、脳は有限ですよ。
>しかし感情のようなものをいれたら処理速度も上がったそうだ。
>そのかわりミスも多い。ぐひょひょ
AI研究を「脳の丸ごとモデル化」とすれば、
今の研究の延長では当分難しそうですが、
「AI的」な役立つ進歩が止まっているわけではありませんね。
そもそも、「脳の丸ごとモデル」の必要性もそんなに無いし。
>>351-362 スレ違いデンパ。
人間にとって意識とは、サッカーの監督のようなもの。
意識の領分は
1)目前の判断
2)中長期計画
であり、実際に「やる」のは、無意識デーモンの群れ。
意識的動作とは、いわばエミュレーションなので、非常に遅くぎこちない。
感覚とは、意識がその過程を検証できない、
即ち、意識による干渉を受けない、無意識的な思考過程であり、非常にはやく、正確である。
しかし、不測の事態に対する適応力がない。
日本人は、意識(論理)より感覚を重視し、それが非常に優れている。
従って、技術者というより、職人的である。
感覚とは、繰り返しによる鍛錬により洗練される。
従って、日本人は、不測の事態に対する対応、即ち、危機管理能力が劣っている。
しかし、一端経験したことに対する対応は優れている。
独創的発想が苦手だが、品質や精度が極めて高い。
>>362 そうかなあ?
目の前にある、ラーメンとコップという誰も悩まない二項対立もあるよ。
370 :
考える名無しさん:03/01/18 02:01
>>367 目前の判断をするのは、脳(中枢神経)介さない場合にも
生じますよね。
日本人は、意識(論理)より感覚を重視し、それが非常に優れている。
従って、技術者というより、職人的である。
感覚とは、繰り返しによる鍛錬により洗練される。
従って、日本人は、不測の事態に対する対応、即ち、危機管理能力が劣っている。
しかし、一端経験したことに対する対応は優れている。
独創的発想が苦手だが、品質や精度が極めて高い。
そういう極端な一般化はどうかと思います。
ていうかつまんないし、哲学でもなんでもないね。
>>371 これは、この文章の内容が主題なのではなくて、
意識(論理)的な思考と、感覚的な思考の性質の具体例として挙げただけです。
それに、一般化(画一化?)ではなくて、傾向を語っているだけです。
凡そ、言語は全て傾向をかたるものです。
374 :
考える名無しさん:03/01/18 07:48
脳スレ保守上げ
(^^)
376 :
考える名無しさん:03/01/18 19:13
>>339 「肉体における、ある部位、組織」を、「脳」と定義しているということだが。
377 :
考える名無しさん:03/01/18 19:19
せは理解力ないから相手しないほうがいいよ
山崎渉 ← こいつ うざくねえ?
>>376 >「頭に詰まっているやつ」についての「脳」という定義づけも概念だが。
とはつまり、次ということね。
・『肉体におけるある部位・組織を「脳」と定義すること』も概念である。
つまり、
一般に、『「定義すること」が概念である』わけだ。
ではもっと一般に、「○○すること」は概念なのか?
それとも、「定義すること」が特に概念なのか?
>>370 >目前の判断をするのは、脳(中枢神経)介さない場合にも
>生じますよね。
そうですね。
>>291 でも言いましたが、
意識は幾つかの単純な選択肢を「機械的に」選択しているのではなく、特有の高度な判断を行っています。
実のところ、そこの肝心の部分が、まだ模糊としていて上手く定義づけられてませんね。
381 :
考える名無しさん:03/01/19 23:34
>>379 >・『肉体におけるある部位・組織を「脳」と定義すること』も概念である。
ちょっと違う。
「肉体におけるある部位・組織」について、定義するために用意した概念が、「脳」(という言葉の示すもの)
ということ。
わからなければ、とりあえず、「一般言語学講義」でも読んでくれ。
382 :
考える名無しさん:03/01/20 08:12
脳スレ保守上げ
>>381 ・
>>333『「頭に詰まっているやつ」についての「脳」という定義づけ』も概念である。
・
>>376『「頭に詰まっているやつ」についての「脳」という定義づけ』とは、
『「肉体における、ある部位、組織」を、「脳」と定義しているということ』である。
という二つの命題から、
→『肉体におけるある部位・組織を「脳」と定義すること』も概念である。
と導くのが、
>ちょっと違う。
とは、一体全体どんな論理体系なのだ?
>わからなければ、とりあえず、「一般言語学講義」でも読んでくれ。
論理がめちゃくちゃなのと、ソシュールはなんか関係あるのか?
>→「肉体におけるある部位・組織」について、定義するために用意した概念が、
> 「脳」(という言葉の示すもの)
>ということ。
普通の脳では、定義は概念に対して行うのであり、
定義のために概念を用意するとは、一体どういう事態なんかね?
まあどうでもいいや。
384 :
考える名無しさん:03/01/21 10:13
ややこしー
385 :
考える名無しさん:03/01/21 23:20
>>383 >まあどうでもいいや
どうでもいいことなら最初から聞くな。
真面目に答えて損した。
386 :
考える名無しさん:03/01/22 07:23
まじめにやれや
どうでもいいや。せなんて(w
このスレでは主に科学的な見地からの議論が多いようですが、哲学的な方面からの
議論はないんですかね。
>>388 せは哲学が分からない科学教徒だからな。(w
デカルト的心身二元論、実在論 vs 実存論
「シュレディンガーの猫」の思考実験による実在論への批判
実存論と論理実証主義っていうのは、もう論じられたのかにゃ?
自分が無意識にどのパラダイムに立っているのか明確にしてから
議論すれば、このスレの混乱状態も少しはすっきりすると思われるのだが。
おおっと、390訂正(汗。
×「シュレディンガーの猫」の思考実験による実在論への批判
○「シュレディンガーの猫」の思考実験による実存論への批判
392 :
考える名無しさん:03/01/25 17:45
実存論って何だよ(ププ
横レスですまないが、哲学の意識の問題の歴史を知りたいなら、Chalmers
かTyeを読まれるのがよろしいでしょう。
日本人なら信原さんの本くらいかな。
>392 正気ですか?
>393 同意。
>>396 どうでもいいけど、煽りレス入れるだけってどうよ。
>用語しか知らんアフォは失せろ
それって要するに、教えてくれって意味なの?
このスレには「名無しsage」のう○こが転がってて踏むと汚いので、
「名無しsage」で疑わしいのには、反応が鈍いのです。
間違っても棒でいじったり(煽ったり)しないように。
実在論VS実存論?
そんな対立、意識の問題領域で初めて聞いたな。
どの本に載っているのですか?
シュレディンガーの猫も意識とどう関わってくるのかが分からないですね。
論理実証主義も。
教えて。
>それって要するに、教えてくれって意味なの?
それって要するに、オレ自身分からないから教えられねーよ、
ヴァーカって意味なの?
#煽られるな。ヴァカ僧
せ氏が「どうでもいいや・・・」とつぶやきたくなるのもよく分かる(鬱。
>>393だけで本当は十分だとは思うんだけど・・。
>399
関係してくるのは、「意識とどう関わるか」ではなく、意識というものを取り扱う時のスタンスと関わってくるって話です。
「意識とどう関わるか」という話をするなら、そんなに遡る必要はないと思うのだが、
そうでない煽りが多いみたいなので、寄り道をするハメになったわけだが。
とりあえず、心身二元論と心身一元論は言うまでもないと思うが、
単純な二者択一ではなく、両者の間で様々な考え方がある。
(cf. 観念論と唯物論を軸とした分け方。 10個に分けられます。)
で、このような考え方は哲学だけじゃなく、信仰の問題にも繋がるし
他分野の学問にも大きな影響を与えてます。
意識的だろうと無意識的だろうとパラダイムになっちゃってる場合も。(言うまでもないが・・・)
物理学でも同様に哲学によるパラダイムが影響を与えていて、
実在論vs実存論は、観測不可能な事象をどう扱うかという相克になりました。
哲学書に載ってるわけではない(と思う)よ。
相対性理論を唱えたアインシュタインは、対象は厳密な測定によって位置と
運動が決まらなくても、あくまでどこかに存在しているのであって、
ただ測定方法が不完全なだけであるという考え方でした。
一言でまとめて「月は誰が見てなくてもそこにある」だろ?って言う理屈。
で、確率的にしか対象を描写できないという考えを否定して
「神は基本的なところでサイコロ遊びをしない」と仰ってるのですが、
それに対し、キルケゴールの実存主義を取るボーア(コペンハーゲン学派)が
批判を加えた。
「人間が知りうるのは観測するという行為と観測の結果だけであって、
測定と独立して対象が存在しているかどうかは誰にも言えないじゃん!」
ね、物理学でも同様に哲学によるパラダイムが影響を与えていて、
実在論vs実存論は、観測不可能な事象をどう扱うかという相克になりました。
哲学書に載ってるわけではない(と思う)よ。
相対性理論を唱えたアインシュタインは、対象は厳密な測定によって位置と
運動が決まらなくても、あくまでどこかに存在しているのであって、
ただ測定方法が不完全なだけであるという考え方でした。
一言でまとめて「月は誰が見てなくてもそこにある」だろ?って言う理屈。
で、確率的にしか対象を描写できないという考えを否定して
「神は基本的なところでサイコロ遊びをしない」と仰ってるのですが、
それに対し、キルケゴールの実存主義を取るボーア(コペンハーゲン学派)が
批判を加えた。
「人間が知りうるのは観測するという行為と観測の結果だけであって、
測定と独立して対象が存在しているかどうかは誰にも言えないじゃん!」
心や意識が定義されない限りは観測不可能でしょ?
で、心や意識の話と関係してくるわけです。
>>403では文章のダブりすまそ。
で、実在論とコペンハーゲン解釈(実存論的解釈)の二派が大論争に対して、
更に批判が加えられたのが、シュレディンガーの猫の思考実験。
でも、シュレディンガーはコペンハーゲン解釈を理解する上で間違いを
犯していたのです。
コペンハーゲン解釈というのは、カントの言う「物それ自体」とは違う。
キルケゴールの実存主義の方です。
対象が観測という行為によって動いてしまうから観測できないんだわーって
言ってるだけ。
神経科学が進んでも、ひょっとしたらクオリアなんて全然解明されない
可能性もあるっつー話。
観測可能な観測点まで近づいていってみようとしているだけ。
ちなみにここに参加してる哲学板の住人は、
「人間が知覚するのはすべて現象であって、その背後にある物それ自体を
知覚することは絶対にできない」と言いたいだけでこのスレ覗いてる
訳じゃないよね?
という前提の上でのお話ですが。
ソクラテスの無知の知もやめてね(はぁと。
プラトンがいなけりゃ、意味なしですから。
前期ヴィトゲンシュタインもお腹いぱーい。
そういう転回を経た上での、クオリア談義にして欲しいという
個人的希望があったので書き込みした。
でも、自分で納得するまでやるのも一興だから、
やりたいなら止めはしませんが。
>>403 >キルケゴールの実存主義を取るボーア(コペンハーゲン学派)が
ハァ?(゚Д゚)
>「人間が知りうるのは観測するという行為と観測の結果だけであって、
>測定と独立して対象が存在しているかどうかは誰にも言えない!」
それは実存論じゃないだろ。
実証主義というならともかく。
>>404 >コペンハーゲン解釈というのは、カントの言う「物それ自体」とは違う。
>キルケゴールの実存主義の方です。
だれにそんな嘘を吹き込まれたのか知らんが。
真に受ける貴様も貴様だ。ヴァカ
>対象が観測という行為によって動いてしまうから
>観測できないんだわーって言ってるだけ。
それも実存論じゃないだろ。
嘘つきパラドックスと同じトリックというならともかく。
>神経科学が進んでも、ひょっとしたらクオリアなんて
>全然解明されない可能性もあるっつー話。
解明されないならされないで結構だが、
そう主張するには証明が必要。
>「人間が知覚するのはすべて現象であって、
> その背後にある物それ自体を知覚することは
> 絶対にできない」
それはナイーブな態度だな。
「知覚そのものを知覚する態度には限度がある」
とでもいうならともかく。
それにしたって、そう言いきるには証明が必要。
そもそもその程度の「禅問答」なら、
殊更ヴィトゲンシュタインとかいう
必要はないだろ。
>>407 ちなみに証明は、適切な前提を立てれば
今では簡単な演習問題。(w
>405
? 徹底的な主観=実存の視線としてみれば。
>それはナイーブな態度だな。
小生の立場ではないですよ。 誰なのか当ててみて(はぁと。
>そう主張するには証明が必要。
いつ誰が主張したのか。
>ちなみに証明は、適切な前提を立てれば
>今では簡単な演習問題。(w
そうw
ちなみに、適切な前提を立てることが一番難しい。
反証可能性に開かれた仮説でなければ、科学じゃないしね。
って、ここで煽りやってる人は、
「せは哲学が分からない科学教徒だからな。(w」と言ってるが、
哲学板の住人とは思えないレスがあるのに驚愕。
ここで哲学者が哲学者らしい発言をしているレスって
お目にかかれないのはどうしてなのか・・・。
もうだめぼ。
っていうかスレ初期
>>18>>29あたりで話は決裂しているんだ・・・・。
で、まともな哲学者はこのスレを去って、
残るは「煽り」ばっかってことなのかにゃ。
>>409 >徹底的な主観=実存の視線としてみれば。
ははは、そりゃ反証不可能な閉じた仮説だな(プ
>小生の立場ではないですよ。 誰なのか当ててみて
誰でも結構。歴史を暗記してひけらかす趣味はない
ところで、キミ、前提が分からんのか?
無意味な言い訳を並べるところをみると(プ
自分が哲学わかってると思ってるなら大間違いだな。
キミはただ哲学書を暗記してるだけのヲタク。
ヲタクはもっとも反哲学的なダメダメな存在。
煽りでもないのに勝手に煽られるしな(w
>>409 う~ん、どうでもいいけど……。
>ははは、そりゃ反証不可能な閉じた仮説だな(プ
そ。 その可能性大だからクオリアは倦厭される訳。
でも素朴な意味において心の存在を否定する人間はなかなかいないっしょ。
なので「人間」たる科学者が、乗り出したわけ。
なんとか反証可能なラインで行けるところまで行ってみようと。
で、やってみても恐らく
>>18になりそうかなー?って訳。
>誰でも結構。歴史を暗記してひけらかす趣味はない
小生のレス見て哲学書を暗記しているヲタと勘違いしている辺り、
基礎知識の著しい不足を感じるのだが・・?
歴史の暗記ってのも、言ってることよく分からないし。
中嶋義道さんとかひょっとして読んでるのかな?
そうだったら、彼は哲学書を読んで解釈するだけではダメ、
自分で哲学せよとは言ったが、哲学史を全く押さえなくてよいとは言ってないよ。
そうじゃないと、何世紀前からやってきたようなレスする事になると思われ。
過去から蓄積された智慧を使わず自分の頭で考えようとするのは悪いことだとは
言わないが、411のレスの無内容さを見ると、不勉強のいい訳に過ぎず、
思考停止しているとしか思えんよ。
>ヲタクはもっとも反哲学的なダメダメな存在。
>煽りでもないのに勝手に煽られるしな(w
小生は哲学もダメダメだいう自覚はあるが、何か?w
ヲタクじゃないのは、哲学者にはよぉぉく分かると思うよ。
哲学板の人間でもないしなぁ……。
煽られてるんじゃなくて、様子を見てみていたのだが、
>>29がクオリア談義の哲学徒の代表的な立場ってことで納得したので
帰る。
>>412 >>ははは、そりゃ反証不可能な閉じた仮説だな(プ
>そ。 その可能性大だからクオリアは倦厭される訳。
いや、混同してはいかんな。
キミのいう実存とかいうものが妄言だからといって
クオリアもそうだということにはならんよ。
つまりクオリアが反証不可能だとしても、それは
キミの妄言ほど明々白々ではないから、
ちゃんと理屈で示す意義があるってことさ。
>素朴な意味において心の存在を否定する人間はなかなかいないっしょ。
>なので「人間」たる科学者が、乗り出したわけ。
>なんとか反証可能なラインで行けるところまで行ってみようと。
>で、やってみても恐らく
>>18になりそうかなー?って訳。
>>18を読んだかい?
「科学的記述に取りこめない何か」が、存在しなくてもいいのか
存在しなくてはならないのか、示す必要があるだろう?
>>414 >「科学的記述に取りこめない何か」
ヲタどもの挑発にのって、
「**は今の科学では語れない」
とうっかり口にすれば、多分新しい理論を持ち出すのだろうな。
もちろん、新しい理論でも語れないことがあるので、
それを口にすれば、そのときはもっと新しい理論を持ち出すのだろう。
つまり、永遠に終わらないわけだが、そのとき、
語れないことがあるのかないのかは、実に微妙な問題だ。
>>415 どの時点においても、それぞれ語りえないことがあるからといって
どの時点においても語りえない一つのことがあるとはいえない。
つまりクオリアを「決して語りえないこと」といってしまうのは
少々面倒臭い。正確には「語りきることができない」というべき
なのかもしれない。
>414
妄言にいちいちレスをどうも。
粘着か?
反証不可能な事象については科学で取り扱うのは偽問題としてNGになります。
形而上学的な話になれば、沈黙するだけ。
では、科学者ではなく哲学者はどういう手段を用いて語り得るところまで語るつもりなのかは素朴に疑問。
小生は詳しくないがクオリア不在の論理も、在るという論理も両方成り立つそうな。
養老さんだったがうろ覚え。
科学が語り得る所までは調べて領界線をはっきりさせようとしているのに対して
無闇な煽りはどうかと思う。
>>417 どうやら哲学書を斜め読みして分かった気になるDQNらしいな(w
形而上学ってなんだか知ってるか?(w
語り得ることと語り得ぬところの境界線があると思ってるのか?(w
>>416が読めなかったようだな。
>>417 >クオリア不在の論理も、在るという論理も両方成り立つそうな。
どちらも「クオリア」そのものを扱い切れているわけではない。
語るという行為は、クオリアのクオリアたる特性を失わしめるし、
だからといって語り切ることでクオリアを完全に締め出すことも
できないという状況では、口を開くだけ無駄。
そこまでいって、初めて「沈黙」が意味をもつ
>418>419
だーかーらー、
>語り得ることと語り得ぬところの境界線があると思ってるのか?(w
近代哲学は、諸信念の一般的妥当性の境界線を明確に引こうとする努力だっただろう?
不可知論に篭って思考停止するのは結構だけど、だったら
一生黙ってればいいと思われ。
とりあえず418は置いておいて、
>419
>科学が語り得る所までは調べて領界線をはっきりさせようとしているのに対して
>無闇な煽りはどうかと思う。
という事と
>>416とは矛盾しないのは分かるよね?
科学vs哲学なんて構図の誤解を解きたいだけなのだが、
なぜ煽られなきゃならんのだ。
少なくとも哲学だけじゃどーにもならんだろ。
科学だけだって、行きつけないだろぉ。
真の哲学者なら、科学的見地にも興味が沸くものだと思っていたのだが、
このスレみる限りそうでない面々もいるようなのでレスしただけなのだが、
つまらん論争したり、くだらない揶揄が多いね。
得るものがないので、本当にじゃーね。
>>420 >近代哲学は、諸信念の一般的妥当性の境界線を明確に引こうとする努力だっただろう?
その認識がDQNだな(w
ところで私は、不可知論は唱えていないし
科学と哲学を対決させているわけでもない
>>416のはじめの2行を読め。
それが理解できないなら黙れ。
君はまだこの問題を論じる段階にない。
偉そうな言い方ばかりする方ですなー。
>その認識がDQNだな(w
それだけだったらどんな場合でも言える台詞だが、内容がないね…。
>どの時点においても、それぞれ語りえないことがあるからといって
>どの時点においても語りえない一つのことがあるとはいえない。
素朴な心身二元論&観念主義のパラダイムに留まりたいなら、
それはそれで貴方の好みの問題だとは思うけどね……。
>科学と哲学を対決させているわけでもない
と貴方(
>>424ね。 他にはどのレスかは名無しにつき推測しかできん)が
思ってるのは了解したが、科学がどこまでクオリアに
迫れるかには興味がないのですか?
小生は哲学的見地からだけでは語れないと思うので、その限りにおいては
>>29が妥当な回答だと思うが。
貴方が哲学的見地から議論を進めたいなら止めはしませんよ。
ここまでいわれると、よほど自信がおありになられるようだし。
そしたら、自己了解と他者による了解との間の弁証法的展開っちゅー
少しは生産的な議論になる可能性も10%くらいはあるかも。
お手並み拝見。 以下からどうぞ↓
(逃げても結構ですが、そうじゃなきゃちゃんとやってね。
「自分の頭で考えれ」とか、「その発想がDQNだ」とか色々決め台詞はあるもんねw)
あとね、貴方の内的真実を否定はしないけど、それは哲学ではなく、宗教的だと思うが、如何?
(ちなみに小生は、宗教を否定してはいませんが。)
人間は、誰でも、自分の諸思念、諸確信の「根拠」について、
これを把握し、確証できるのでしょうか?
この問いについての現象学の答えが「還元」でせう。
論理的な懐疑の限界点までドクサを疑ってみることが、哲学ではないですか?
>諸信念の一般的妥当性の境界線を明確に引こうとする努力
とは、そういう事です。
>>425 DQNだからそういったまでのこと(w
ところで私は、素朴な心身二元論とか観念主義を唱えた覚えは無い。
>>416は単純に言葉による表現や理解の特性を示したに過ぎない。
科学はいくらでも真実に迫るかもしれんが、
いかほど迫ったところで真実そのものではない。
それはアキレスと亀の理屈と同じこと。
>>426 ところで、キミはアキレスは亀に追いつくと思うかね。
思うなら、それがもっとも基本的な宗教だ(w
だから否定しきろうとおもってもできんのだろう?どうだ。
>人間は、誰でも、自分の諸思念、諸確信の「根拠」について、
>これを把握し、確証できるのでしょうか?
できぬよ。(w
いっておくが、できるといっているのは君だ。
そして私はそれが完全な誤りであるといっているのだ。
この議論は別に現象学だのを持ち出す必要はない。
懐疑を懐疑することはできない。疑うためには
何かを信じなくてはならない。
つまり自分の足場そのものを消すことはできないのだ。
いくらDQNでも、この程度のことはわかるだろう。どうだ?
>427>428
自覚がないんだろうが、そういうのを不可知論かつ思考停止というんだよ。
時代はもう、不可知論の洗礼を受け、相対主義的転回を経ているのだがその上で思考停止しない者が新しい知の地平を開いていく。
前から述べている要旨はそれだけだよ。
>>429 >そういうのを不可知論かつ思考停止というんだよ。
それはキミの妄想だ。
不可知論をとなえるヤツはDQN
架空の危機に対して転回するヤツは超DQN(w
そんなDQNどもは、言葉を弄ぶ知の消費者。
貴様がそうだよ。
人間は脳で考えているのではない。
肉体の感覚によって思考しているのだ。
『脳のまるごとモデル』ではなく
『ニンゲンのまるごとモデル』でないと思考できないぞ。
>>431 面白いですね。
小生もクオリアと身体性の関係があるのかないのか気になります。
そう言うと、他板ですが、科学信奉者の方も、意識と身体の関連性は気になると仰っておりました。
比喩表現でなく、言葉通り「身体が考える」だったら厳密には成立しがたいかも。
というのは、デカルトの心身二元論のように、霊魂の永遠性を信じる…という立場を取らない場合は、脳がなければクオリアも無いと素朴に考えられるからです。
だからといって、クオリア=脳(ケミカル(ニューロンの伝達物質))だと
言ってる訳でもないです。
なぜなら、構造的には脳を調べればいいが、クオリアの機能面(現象)を説明することにはならないからです。
ペンフィールドという脳科学者の実験で、ある脳の部位に電流を流すと過去の記憶が具体的に視覚的,聴覚的に蘇るという「経験反応」という現象が見られました。
ある脳の部位に電流を流すとクオリアが蘇るという事を意味しますので、クオリアなるものは脳を媒体として出現すると考えてよいかと思います。
また身体が考える…という事ですが、脳のニューロン伝達物質はケミカルだけではなく、ホルモン伝達もありますので、「身体が考える」という比喩表現ももっと吟味されるべきかもしれません。
神経科学や認知科学はまだまだ未知の分野なので、これからの研究に期待しています。
私も同じような疑問をぶつけたところ、科学信奉者の方には後10年は待たないといけないだろうといわれました。 しかし、楽しみです。
人工知能の研究者の中にも、どうやったら人工知能に心が生まれるのか、
というのを本気で考えている人もいるようです。
アホだと仰る人もいるかもしれませんが、小生はそういうのは好きです。
ただ、何を持って他者の中にクオリアがあるといえるのか?
結局は主体的な感覚(自分が感じているからあるのだ!)としか言えないのでは
ないか…という所で、話は暗礁に乗り上げてしまいます。
合理的精神を持ちつつ、一方で子供のような興味を持ちつづける科学信奉者に、哲学史を伝えようとしたのですが(両方知ってればなおステキであろう?と思い…)
失敗しました。。
でも、哲学史や詳細な言語、哲学者の名前は知らなくても、
ポパーの科学哲学をちゃんと理解していれば、哲学の英知は受け継がれているので
問題ないかと思い直しました。
前期ヴィトゲンシュタインが、禅問答じゃん!って方がご指摘されていた通り、
暗記しても意味がないのはその通りで、理解できているかどうかの方が大事なのは
仰る通りです。
ただ、前期ヴィトとか、デカルトの心身二元論とか、そういうラベリングを使うと、
一言で内容を伝達できるので便利です。
(そして理解していなくとも、命題だけ集めてロジックを構築することも可能ですが、
そのようにして出来たロジックの価値を知ることはないでしょう)
ただ、ここは哲学板なので、厳密な記述を心掛けないだろうと思うのですが、
小生は殴り書き状態なので、その辺りご教示、ご容赦頂ければ幸いです…。
(AI+身体)を
人間社会で『生活』させないと心は生まれない。
思考し判断するってのは言語や記号(つまり意味のデータ入力)では不可能なのだ。
『決定』は常に失敗を伴うので、失敗しながら成長するといった悠長な学習
期間を経ないと心は生まれない。めんどくさいね。
コピーも(AI+身体)まるごとじゃないと狂ってしまうと思うよ。
>>431 脳で、とか、感覚によって、とかいう前に、
「で」とか「によって」の意味を問え。
今のままではナンセンス。
>>432 なぜ、脳に意識があると言い出したのか考えてみたまえ。
脳をいじることで、意識に影響を与えるからではないかな?
いわゆる「二元論」の発祥をたどればそこに行き着く。
>>433 >ポパーの科学哲学をちゃんと理解していれば
ちゃんと理解していれば、何もいっていないことがわかる(w
>>434 それは何が問題か完全に見誤っているね。
今ここに生きている我々自身の振る舞いを
全て記号で表してしまったとして、その
表現のどこにも我々は心を見出しえない
ということにキミは何も反論していない。
それともキミは絶対に記号で表しえないものを示せるかね?
クオリアの真の問題は、何が記号で表しえないのか
示せないところにある。
それこそが、語りたくても語ることが出来ないと
いうことなのだ。
439 :
考える名無しさん:03/01/29 16:52
【衝撃の】ボブサップには人が入ってる!!【事実】
1 名前:バカは氏んでも名乗らない 03/01/29 14:12 ID:xihQr4ox
この前、知り合いに割りのいいバイトがあるって紹介されたのが
ボブサップのバイトだったんだ。
サップの着ぐるみを着てテレビに出るって仕事だったんだけどね。
いや〜、俺のはバラエティ番組だったからよかったけど、試合だったら
大変だったよ。それにサップの着ぐるみって、思ってた以上に暑くてねー
しんどかったよ。
ちなみに、ミッキーマウスと同じで、同一時間にサップが複数いることが
ないように決まってんだってさ。
>>438に補足
ところで、意識の振る舞いが記号によって表現できることと、
意識がその振る舞いを記号的に意識するということとは
全く別のことである。
確信犯のような気がする。
442 :
考える名無しさん:03/02/02 14:00
>>441 最初から解けないことが分かっている問題を解こうとするフリをすることで
研究費を詐取しようと?
いや、そういうことをいってるんじゃないですよ>442
学問の根本には、専門家以外には
誰も理解できない神秘性と謎かけが必要に思える。
それがまったくないと、部外者からも値踏みされ、
学問そのものが衰退してしまう。
謎があるからこそ考察が生じ、派生物としての価値あるものが生み出される。
探求すべき「神秘性を伴う謎」。それがクオリアなのでは?
444 :
考える名無しさん:03/02/02 15:42
>>443 >>441だけでは言おうとすることがまったく分からないので、
>>442は
それを明らかにするために「鎌をかけた」もの、とご理解いただきたい。
さて、では生命とクオリアはどちらの方が大きな謎だろう。
私はクオリアは生命の派生物だと思う。
445 :
考える名無しさん:03/02/02 15:59
>誰も理解できない神秘性と謎かけが必要に思える。
ワシには思えないが。
>それがまったくないと、部外者からも値踏みされ、
いや、神秘性や謎かけなんてものが無くても、
専門外の分野のことはそう簡単に値踏みできないけど。
446 :
考える名無しさん:03/02/02 16:02
素人に簡単に値踏みされるのが文系DQN学問
哲学はその最たるもの
だから文系教授は権威に頼りたがる
447 :
考える名無しさん:03/02/02 16:09
哲学を素人が簡単に値踏みできてるところなんて見たことがないけど。
448 :
考える名無しさん:03/02/02 16:12
実証においては、専門家にアドバンテージがあるのは自明。
考えることは素人でもできるからな。
449 :
考える名無しさん:03/02/02 16:16
実証・・・
クオリアの場合はどんなデータが得られたら実証できたことになるんだろう?
450 :
考える名無しさん:03/02/02 16:18
連中の発言を聞く限り
「実証できたらそれはクオリアでは無い」
とおうことだと思うんだが。
451 :
考える名無しさん:03/02/02 16:18
446は2ちゃんねるの見過ぎ
>445
操作的概念を取得することと、謎かけはちがう、と謎をかけておこう(w。
>>446 値踏みを拒もうとすると危ない事になりまんがな。
哲学者が社会的価値を求めだしたらな。
哲学を教える者のことは知りまへんけどな。
454 :
考える名無しさん:03/02/02 16:28
>>452 いや、自分に説明能力が無いなら、無理に発言しなくていいから。
445は浅いと思っただけなんだけど?>454
456 :
考える名無しさん:03/02/02 16:32
>>455 「思った」んだけど、「なぜそう思ったか」は自分では説明できないってことでしょ。
それにさ、謎かけうんぬんってのは、八木雄二の言葉だ。
専門性をたてにとって、他者を圧迫しようとする姿勢を軽蔑するしかない>454
458 :
考える名無しさん:03/02/02 16:37
>>457 具体的に、どのレスのどの部分が、
「専門性をたてにとって、他者を圧迫しようと」
してるというの?
>>454 の内容に、いったいどのような「専門性」が存在するの?
単なる口喧嘩に堕してる。そろそろやめたいんだが>458
>>454には、発言を封じようとしている意図があるんじゃないの?
対話しようとする姿勢がみられないでしょう。
460 :
考える名無しさん:03/02/02 16:50
>>459 >単なる口喧嘩に堕してる。そろそろやめたいんだが>458
単なる口喧嘩に堕するのは、あなたが根拠に論及することを執拗に避けているからだ。
だから、私は、説明できないなら無理に発言しなくていいといっているはずだ。
>には、発言を封じようとしている意図があるんじゃないの?
>対話しようとする姿勢がみられないでしょう。
対話する姿勢が見られないのは、
>>452 だろう。
自分の発言の説明を最初から拒否してる相手と、どうやって対話できるの?
だから、「説明ができないなら」やめろ。
といっているだけだ。無条件に対話を拒否してるわけじゃない。
461 :
考える名無しさん:03/02/02 16:51
バカばっか
しつこいなぁ。その粘着ぶり、かっこ悪いぞ。>460
445 名前:考える名無しさん 投稿日:03/02/02 15:59
>誰も理解できない神秘性と謎かけが必要に思える。
ワシには思えないが。
って一言で煽られたから、
>>452で(wと返してるだけでしょ。
で、ソースを示したなかったから、ソースはなへんにあると言ってるだけ。
463 :
考える名無しさん:03/02/02 17:01
粘着とおもったんなら、無視すればすむこと。
>>461 ツッコミを入れるおまえもな。
そして、オレモナー
465 :
考える名無しさん:03/02/02 17:08
>>462 >>445 のどこが煽りなのか。
君の脳内シナリオにはついていけん。
とにかく、
>>452 以降は、何か真面目な意見があっていっているのではなくて、
キレて騒いでただけなのね。
そうすると、「誰も理解できない神秘性と謎かけ」の必要性については、
やはり、説明できないということだね。
466 :
考える名無しさん:03/02/02 17:11
レスにレスしてるだけで粘着にされるってのは妙な話だが。
要は説明に詰まった側から見て相手の発言が粘着ってことだろ。
だから、「説明できないなら無理に発言しなくていい」と最初からいってる。
説明もできないのに、結論だけ示して、説明を求められて
答えに窮すると相手を「粘着だ」といって誤魔化そうとするのは、
随分みっともなくないかい。
467 :
考える名無しさん:03/02/02 17:41
心身統一法!中村天風!!
>>442 >最初から解けないことが分かっている問題
そうかな?それは必ずしも自明ではない。
クオリアに関して言えば、「これがクオリアだ!」と示すことが
唯一無二の解答方法だというわけではない。
例えば、「これがクオリアだ!」と示せないなら、その理由を
説明するというのが、新たな解答となるだろう。
どっかの雑誌で、だれだかが、「治療的理解」とかいってたが
うまいこといいやがるな、と感心した。ちなみに「治療的理解」
ってのは、誰が最初に言い出した言葉かな?
>>443 >学問の根本には、専門家以外には
>誰も理解できない神秘性と謎かけが必要に思える。
>それがまったくないと、部外者からも値踏みされ、
>学問そのものが衰退してしまう。
誰にも理解できないなら、そもそも値踏み自体が不可能だから
誰もそんなものには興味をもたず、衰退するとおもうがね。
実際、数学はその手の危機に直面している。
470 :
考える名無しさん:03/02/02 18:02
さあさあ出張してきましたぜ。
>>469 この荒れ具合は自分のせいだろうから、それはまず陳謝します。
「クオリアは確信犯だ。」
という言葉が酒の席で出たのがきっかけ。
自分は、語った人がなにを言いたかったのか、その場では
うまくつかめなかった。で、わからないから、振ってみよう、と。
ただ、語った人も、別に研究費うんぬんのようなあまりにも俗な意図は
なかったはずだよ。
あとさ、神秘性と謎かけという表現は、
プラトンのアカデメイアがアカデミズムの語源となるくらいにまで
隆盛した理由を説明しようとしたときに、八木雄二の本で使われていたこと。
正確な言葉は、ちょっと本読み返してみなければわからないが、
ティマイオスと幾何学の「神秘性」こそが、アカデメイアに人を集める力になった、と
読んだときには理解した。
さらにいうならば、自分は、「確信犯」という言葉を、この視点で
後日に解釈したということ。
プラトンのひそみに習って、確信犯的にやってるのではないか、と。
>>472 >「クオリアは確信犯だ。」
そうかもしれん・・・。
474 :
考える名無しさん:03/02/04 09:28
age
私は今のクオリア研究が物理学者や数学者の手によって行われているという状況が
誤っていると思う。あのチャーマーズにしてからがそうだ。
奴らは分子生物学や生物物理は知っているのかも知れないが(これらの分野は物理
学者が生物学に進出するには向いた世界だ)、そもそも生物学には物理学的な
還元論が通用しない世界が広がっていることに彼らは気がついていない。
確かに生物学でも主流は分子生物学で、今年はDNAの構造が解明されてちょうど
50年にあたる。その間、この方向に沿って生物学の精緻化が行われてきたが、
問題は山積みだ。DNAが自己複製子でそれが生命の本質だというなら、どうして
酵素の助けを借りることなくDNAは自己複製できないのか。
何か、今までの行き方に根本的な誤りがあるのではないだろうか。この方向に
対する見直しが行われつつある。
>>475 おっしゃる通り。還元論は通用しない。
でも、それは物理学でも数学でも同じだよ。
あのチャーマーズにしたって、
「意識は還元論では説明できない」
といっているわけだから。
>>476 酵素(たんぱく質)とDNAはちょうどニワトリと卵の関係。
ホフスタッターは「ゲーデル、エッシャー、バッハ」の中で
命題とゲーデル数の関係になぞらえて説明していた。
これは一つの喩えではあるが、着想としては興味深い
>>478 30年近く前の古くさい本を引用するのはやめて、カウフマンでも読んでみな。
>>479 何年前でもかまわないさ。
よいアイデアはいつでも光るものさ。
てゆ〜か、カウフマン、何て言ってるわけ?
あなたをふくめて、家族が何かをしているところをえがいてください
て、カウフマンが言ったのかい?
一回ぐらいは患者(あるいは被験者)に言ったことがあると思うが。
で、それはこの議論とどういう関係があるんだい?
>>476 RNAならRNAだけで自己触媒できるのにね。
フォンタナとかがやってた RNA world はそのデモだな。
しかしその世界には時間的サイクルの単位が作れない。
木村敏の意識観は似てる気がする。
久しぶりに来てみたが・・・逃げたわけではない。
最近は、愚か者にはかまわず、自分が学ぶべきことを学んでいこう、という
思いが強くなった。
私は生命や意識がどのように立ちあらわれるかを知りたいのであって、誰それの
思想や哲学といったものには興味がないのだ。
490 :
考える名無しさん:03/02/15 10:47
ふう、この程度の奴だったとは。
>>489 >生命や意識がどのように立ちあらわれるかを知りたい
もちろんだよ。
誰がいったかは重要ではない。
ホフスタッターがいったか、カウフマンがいったか、
そんなことはどうでもいいんだ。
何を言ったかが重要なんだよ。
で、カウフマンはいったい何を言ったんだい?
学んだことをここで言ってごらんよ。
ここで続ける気のない人間を煽っても仕方ないだろ。
493 :
考える名無しさん:03/02/15 19:40
バカバカしいことも言ってしまえるのが 2ch のいいところ。
その調子でクオリア掲示板も追い出され・・・
あそこは三○○トリオが牛耳ってるよね。
それが見るに耐えないから、心ある人はさっさと店じまいしちゃえと
忠告するんだけど、管理人が一向に気がついていないという・・・
ま、なんにしろファンクラブに堕落したメディアからは新しい考え方は
生まれないね。追い出されたのは勲章かも知れないぞ。
その勲章は何個目ですか
500 :
考える名無しさん:03/02/16 10:15
松本信号点灯中!
JA共済の予感
農協の悪評でもあるんか?
503 :
考える名無しさん:03/02/16 12:48
ある基地外の話さ。
確かに奴は俺のもつパーソナリティ空間内できわめて特異な位置を占めている。
【基地外】 基地(自分)の外にいる人間、すなわち敵
508 :
考える名無しさん:03/02/16 13:37
とりあえず、クオリア論者がクオリアの明確な定義を打ち出さない限り、
建設的な議論はありえないわな。
今のところ、プレスター・ジョンの類の願望が生み出した幻影としか思えん。
西洋音楽の音階は、二百年位前より、二・三度音程が上がっているそうです。是は、人間の感じる質感が先験的な処にでは無く、経験的な処に存する事を示しているのでは。
或いは、意識が音の周波数を何う云う質として捉えるかではなく。意識が捉えた音の周波数を、質として変換した事。その、質を質として感じる「質」そのものが、「クオリア」なんですか?
>>508 いや、
「クオリアが定義できると矛盾する。だから議論は出来ない」
という方向の建設的な議論もある。
反クオリア論者はぜひこの方向について考えていただきたいものだ。
ただ漠然と幻影とか、プレスタージョンとかいうのは怠惰というもの。
>>510 あなたは音を聞くとき
「周波数は***Hz」
という形で意識するんでしょうか?
513 :
考える名無しさん:03/02/16 16:39
>>511 >「クオリアが定義できると矛盾する。だから議論は出来ない」
いや、その方向にどういった建設性があるのかさっぱりわからないが。
>ただ漠然と幻影とか、プレスタージョンとかいうのは怠惰というもの。
いや、現に、クオリア論者の主張が漠然としているという
具体的な根拠に基づいて、「幻影とか、プレスタージョン」といっているのであって、
怠惰でもなんでもない。
クオリア論者がやっていることは、
具体的に議論できるだけの定義づけを提示せず、
「客観的な観察事実で説明できる」こと「だけ」をもって「クオリアでは無い」といっているだけじゃないの?
いったい、「客観的な観察事実で説明できない」「定義できない」といった、
説明不可能性以外に、どういったクオリアの定義が存在するというの?
>>512 音は、意識に拠って認識されたとき、クオリアとして現われるのでは? 意識の外側に在る、物理現象としての音にも、クオリアが在ると云うのですか?
ワレワレハ、くおりあノ存在自体ハ自明ダト考エテイル。意識ノ外界ニアル
物理的実在ガドウアレ、ワレワレハ脳ガ創リ出シタ幻影ヲ見テイルニ過ギナイ
ノダ。音デモ光デモイインダガ、波長700nm前後ノ光ヲワレワレハ「赤」トイウ
色デ見ル。シカシ、ワレワレガアノ波長ノ光ヲアノ色トシテミルコトニ必然性ハ
ナイ。コレハ恣意的ナ現象ナノダ。
物理現象自体ニハくおりあハナイ。何度モ言ウガ、くおりあハ脳ガ創リ出シタ
ものナノダ。
517 :
考える名無しさん:03/02/17 03:11
>>515 >>516 なんでクオリア論者は、
「クオリ自体の定義」も、「クオリアの定義と観察事実の符合」も
示さないで、「存在は自明のこと」なんて平気でいえるのか?
科学的証明とか、論理的証明とか、そういった作業を行う能力が
ことごとく欠落してるのか?
>>517 >>515ハ結論ヲ先ニ示シテカラ、ソノ内容ヲ説明スルトイウ論理構造ヲ
モッテイルノダガ、ソノコトハ理解シテイルカ? ツマリ、
>>517ノ
問イカケハ
>>515デ説明済ミトイウコトナノダガ。
>>516 >くおりあハ脳ガ創リ出シタものナノダ。
その根拠は?
クオリアMLでも目にしない安易な発言だな。
JA共済の予感
混ぜっ返すヤツに気をつけろ
だからぁ、こんな覆面掲示板に書き込むのが時間の無駄だって。
スレ立てた奴逝って良し。
523 :
考える名無しさん:03/02/17 18:55
ウワサをすれば522がでてきますた
脳の損傷によって、クオリアを感じなくなると云う症例を私は知りませんが。そういう脳の障害はありえますか?
脳が受け取った情報は、全てクオリアとして感じるのですか?
>脳の損傷によって、クオリアを感じなくなると云う症例を私は知りませんが。
視覚皮質が損傷(たとえば手術で全摘出)されれば視覚が失われる。
したがって視覚に関係するクオリアも失われるでしょう(上丘を介した
視覚に類似の感覚は保存されるようですが。盲視とよばれる)。
>脳が受け取った情報は、全てクオリアとして感じるのですか?
極言すればそうだと思います。
528 :
考える名無しさん:03/02/18 02:51
>>525 死ぬとクオリアがなくなる、という主張は全く科学的ではない。
>>527 >(上丘を介した視覚に類似の感覚は
>保存されるようですが。盲視とよばれる)。
これは
>脳が受け取った情報が、全てクオリアとして感じる
に対する反例ではないのか?
>>脳が受け取った情報が、全てクオリアとして感じる
>に対する反例ではないのか?
いいえ。上丘も脳内の構造物(中脳にある隆起)です。盲視の所見は
視覚皮質を介した経路とこの上丘を介した経路の両者が視覚に関与している
ことを示唆していると考えられています。
ちなみに、爬虫類には鳥類やほ乳類における視覚皮質に相当するものがなく、
この上丘によって視覚情報が処理されていると考えられています。上丘は
進化的に古い脳構造なのです。ヒトにおいても視覚情報の一部は上丘による
処理を受けているということですね。
>>530 本人が見えないと言っているから盲視なんだろう?
それでも「クオリアがある」というのはなぜ?
本人が間違っているというわけか。
>>529 はぁ?死んでもクオリアがあるのが科学的なんですか?
>>531 そうかそうか。いや失礼。視覚皮質を介した経路は意識化され、上丘を介した
経路では意識化されないんだったね。私はクオリアを感じるためには意識化
されていることが必須だと思う。だから、上丘を介した視覚情報処理では
クオリアは伴わないんだろうと思う。
ただし、だからといって爬虫類には意識はないとは言えない。新皮質を
もたない彼らは旧皮質だけで意識化できるかも知れない。処理の様式が
異なるだろうから。
>>534 意識化の有無をニューロンレベルで説明キボンヌ
>>535 成書に書いてあることならいくらでも書きたいと思うのですけれど、
そうでないことはここでは書きません。
日本語の不自由な厨が来ました>537
日本語が分からない厨が来たぞ>538
日本語と話の流れの分からない厨が来たようですねえ>539
541 :
考える名無しさん:03/02/18 23:42
>>527 クオリアってのは、視覚(Input)が無くなると、「失われる」んですか。
そうすると、(視覚を介さず)想起される映像、色はクオリアでは無いのですね?
>>541 その辺は人によって解釈が違うかもですが、
>(視覚を介さず)想起される映像、色
ということはないですね。映像や色を想起する時は視覚皮質が
活動していると私は思います(それどころか、網膜に光情報は
入力されていないにもかかわらず、脳からの遠心性の神経線維が
網膜の神経節細胞を活動させさえするかも知れない。実際、一部の
幻覚はこの仕組みで生じているかも知れない)。そういうfMRIの
データもあったはず。つまり、映像や光の想起は視覚系を介して
行われているのです。
この時は脳がクオリアを生成していると言えるかも知れません。
543 :
考える名無しさん:03/02/19 00:19
>>542 >ということはないですね。映像や色を想起する時は視覚皮質が
>活動していると私は思います
いや、そういう原理的な問題ではなくて、クオリアの概念的定義として、
「Input に対応して発生する」という点が要件なのかどうかという話ですが。
>>543 そういうことなら、これも人によって言うことが違うかも知れず、
私は「クオリアはInputに対応して発生する(脳が生成する)」と
思いますけれど、
>>542で書いたように、想起されたものもクオリアだ
という人もいるかも知れません。
545 :
考える名無しさん:03/02/19 00:43
>>544 つまり、「Inputに対応して発生するもの」というのがあなたの「クオリアの定義」で、
「Inputと関係なく想起されるもの」というクオリアの定義をする人もいるかもしれないわけですね?
そうすると、両者の「クオリア」は言葉が同じなだけで、別の物ということですね。
それから、もっと根本的な問題として、私はクオリアは脳が生成する
という立場を採りますけれども、人によっては外界の物理的な事物自体に
クオリアが備わっていると考える人もいるようです。この辺がいろんな
齟齬の原因になっているような気もします。
547 :
考える名無しさん:03/02/19 00:50
>>546 齟齬というか、それらは、もともと別のものについて同じ言葉を使っているだけのことではないんですか?
「脳内クオリア」「外界クオリア」と呼び分ければ、それで済むことのように思いますが。
>>545 ただし、少なくとも言えることは、私はここではなるべく
最大公約数的な見方を示すよう努力しているつもりです。
>>547 いや、私は外界にはクオリアはないと考えていますので、
その呼び分けを受け入れることはできません。
550 :
考える名無しさん:03/02/19 01:03
551 :
考える名無しさん:03/02/19 01:12
>>549 クオリアは「あなたが考えている」から「外界に無い」んじゃなくて、
あなたのクオリアの「定義」が「脳が生成するもの」ということでは無いんですか?
ま、いずれにしても、私はあの七色の光のスペクトルは生物である
われわれが勝手にあのような色として解釈して見ているに過ぎず、
物理的実在には色などない、いやそれどころか物理的実在そのものが
ほんとうに存在するのかどうかさえも明らかではないと考えておりますから、はい。
553 :
考える名無しさん:03/02/19 04:26
「概念」を「クオリア」と同じ意味で使ってもよさそうな気がするが・・・
クオリアを導入して議論の可能性はどう広がるのだ??
いつまでたっても定義付けと説明だけで終始しそう。なんか胡散臭い。
あんまり煽ってくれるな。本心を書きそうになるではないか(爆)
555 :
考える名無しさん:03/02/19 05:40
>>552 いや、その目新しくもなんともない考えが、このスレの議論とどんな関係があるの?
べつにクオリアなんて、目新しくもなんともないさ。
確かにクオリア自体は目新しくもなんともない。しかし、従来、
>>552と
哲学者は考えてきたのだけれども、最近の脳科学の発展と治験の蓄積から
それが単なる考えではなく、証明できるのではないか、という期待が
ふくらんできた、ということなんじゃないのかなぁ。
×治験
○知見
559 :
考える名無しさん:03/02/19 10:57
>>552 あなたが、もし
>>527=
>>530=
>>534=
>>542=
>>546=
>>549 だとすると、矛盾しませんか?
今まで「視覚皮質の活動」によって
「脳がクオリアを生成する」といっていたのに
ここに来て、肝心の脳を含む”「物理的実在」
そのものがほんとうに存在するのかどうか
明らかではない”といったのでは、自分の
足場を削るようなものではないですか?
560 :
考える名無しさん:03/02/19 11:03
脳を含む実在も、実はクオリアの幻影だとした場合
脳がクオリアを生むという主張は
「クオリアがクオリアを生む」
ということになってしまうのではないか?
>>559 先に成書に書かれていることしか書かないとおっしゃっていた。
つまり建前しか書かないと宣言されたのに、
>>552でちょっぴり
本音をのぞかせられた。それが今までの書き込みと矛盾していると
言ってしまったのでは可哀想ではありませんか?
>>561 いや、
>>552が悪いなんていってないよ。
そうじゃなくて、本音がそうなら、何で
建前がおかしいと思わないのかなってこと。
クオリアや意識に関して、いわゆる「教科書」
には大したことは書いてないんだから、むしろ
本音を語ったほうが意義があると思うよ。
563 :
考える名無しさん:03/02/19 11:47
ああ・・・・・、ひとつひとつのカキコにクオリアがある・・・・・・・
>>562 ではあなたの方からご自分の本音を語りなさいよ。それをじっくりと検討
致しましょう。
お嫌ですか? なぜ嫌なのでしょう? 私もおそらくそれと同じ理由で
自分の本音をここで語るのは嫌です。
>>564 では語りましょう。
すべては物だ、と思うと、どこにも意識の入る余地がない。
そもそも感じることのできない物自体の存在を認めるのは
語ることのできないクオリアを認める以上の違和感がある。
とはいえ、自分しかない、のかというとそうとも思えない。
例えば、自分が何かをしようと思ったとき、そう思うこと
自体を意図してはいない。
かくのごとき状況で、唯物論と独我論の間でピンポン状態。
>>564 >それをじっくりと検討致しましょう。
それがあなたの嫌がる理由なら、問題ないでしょう。
つまりあなたのいう検討は不可能ということです。
>>552ですが、もし
「七色の光のスペクトルは生物であるわれわれが
勝手にあのような色として解釈して見ているに過ぎず、
物理的実在には色などない」
だけだったら、
>>527=
>>530=
>>534=
>>542=
>>546=
>>549 と同じ、ただの戯言だった。
「物理的実在そのものがほんとうに存在するのか
どうかさえも明らかではない」
この一言を言った瞬間、議論が始まった。
>>565 >すべては物だ、と思うと、どこにも意識の入る余地がない。
そうでしょうか?
>例えば、自分が何かをしようと思ったとき、そう思うこと
>自体を意図してはいない。
この例がよく分かりませんので、もう少し説明してください。
>かくのごとき状況で、唯物論と独我論の間でピンポン状態。
私はわれわれは脳が産み出したクオリアの世界で生きているという意味で
独我論は支持できるし、唯物論も支持できる。簡単な話が、われわれは
ブタが飛ぶところをいくらでも想像できるにも関わらず、いくら念じても
ブタを実際に飛ばすことはできない。
私の中では唯物論と独我論は対立していません。
>>568 >>すべては物だ、と思うと、どこにも意識の入る余地がない。
>そうでしょうか?
ええ、対象は主体ではないですから。
>>例えば、自分が何かをしようと思ったとき、そう思うこと
>>自体を意図してはいない。
>この例がよく分かりませんので、もう少し説明してください。
つまり主体性に関する無限後退はないってことですよ。
ところで「脳が生み出した」という主張は独我論に反しています。
脳は私ではない「物」ですから。
あなたの主張は唯物論でもなければ独我論でもありません。
物と心の二元論です。
対立していないのではなく、どちらでもないのです。
トッド・E. ファインバーグの
「自我が揺らぐとき―脳はいかにして自己を創りだすのか」
に、脳自身に対する感覚はない、とか、脳は脳自身を意識しない、とか
いう記述があったのは面白い。
つまり、脳に意識が宿る、というような主張は、
決して当たり前に感じるような自然なものではない。
>>>すべては物だ、と思うと、どこにも意識の入る余地がない。
>>そうでしょうか?
>
>ええ、対象は主体ではないですから。
>脳は私ではない「物」ですから。
あなたにとっては「物」というとそれはすべて対象になってしまうようですが、
そうではないんですよ。「物」自体が主体にもなり得るんです。
あなたは他人の脳ではなく「自分の」脳を観たことがありますか? MRIを介して、
というのはなしです。ないでしょう。ところが、観ているんです。あなたが感じて
いるものすべて、それは脳が感じているのではなく、脳自らが自らの活動を
観ているんです。
>物と心の二元論です。
>対立していないのではなく、どちらでもないのです。
あなたは対立していないと聞いた時に、攻撃できる対象を「物と心の二元論」しか
持ち合わせていないだけです。
究極的には唯物論と独我論を区別するることが意味をなさなくなくなるはずです。
>「物」自体が主体にもなり得るんです。
なり得ません。「同一とみなす」のと「同一である」とは違います。
例えば「自分の脳」といっているのは、自分そのものではありません。
それをいじった結果、自分にも何かしらの影響があるかもしれません。
しかし、あなたが見る脳の変化と、あなた自身の意識の変化は、
「まったく同じ」ではないでしょう。つまり異なる現象が、
同時に起きているから、同じと「みなす」だけのことなんです。
それは区別できるし、しなければなりません。
>あなたは対立していないと聞いた時に、
>攻撃できる対象を「物と心の二元論」しか
>持ち合わせていないだけです。
>>569は「物と心の二元論」を攻撃してはいませんよ。
あなたが、自分の見方は唯物論にも独我論にも反しないというから
私は、あなたの見方は唯物論でも独我論でもない二元論だといったのです。
あなたが二元論者であること自体を否定したのではなく、
二元論が、両者を満足するものだという主張を批判したのです。
>究極的には唯物論と独我論を区別することが
>意味をなさなくなるはずです。
あなたの言っていることは独我論でもないし唯物論でもありません。
あなたが独我論や唯物論を正しいという理由はない筈です。
そしてそのことに対してあなたが間違っているとはいっていません。
誰があなたに、唯物論や独我論は絶対に正しいといっているのですか?
ところで
>われわれはブタが飛ぶところをいくらでも想像できるにも関わらず、
>いくら念じてもブタを実際に飛ばすことはできない。
これは唯物論とも独我論とも無関係です。
例えば「実際に飛ばす」云々は物の存在とは無関係です。
また独我論は「思い通りになる」という意味ではありません。
>>「物」自体が主体にもなり得るんです。
>なり得ません。「同一とみなす」のと「同一である」とは違います。
みなしているのではありません。私はある種の「構造」をもった「物」は
まさに主体になり得るといっているのです。
>しかし、あなたが見る脳の変化と、あなた自身の意識の変化は、
>「まったく同じ」ではないでしょう。つまり異なる現象が、
>同時に起きているから、同じと「みなす」だけのことなんです。
「あなたが見る脳の変化」とは脳をいじった結果(MRIなどで観察される)
脳に起こった変化のことを指しておられるのでしょうか? しかし、私は
脳自らが自らの活動を観る、つまりすべては主観的体験を感じていることを
もって脳を観ていると言いました。MRIなどを介して外から脳を観ているの
ではありません。この辺、混乱があるのではありませんか?
(MRIなどを介して知られる)いじった部位によっては、いじる前後での
意識の変化を(変化しているにもかかわらず)捕捉(自覚)することも
できないこともあるでしょう。同時かどうかなども関係ありません。
>みなしているのではありません。私はある種の「構造」をもった「物」は
>まさに主体になり得るといっているのです。
その場合の「主体」は「構造」であって、「物」ではないんでは?
>私はある種の「構造」をもった「物」は
>まさに主体になり得るといっているのです。
でもそれは「みなし」行為なしにはいえません。
>私は脳自らが自らの活動を観る、
>つまりすべては主観的体験を感じていることを
>もって脳を観ていると言いました。
それはまちがっています。
主観的体験を感じているとき
脳は意識されません。
あなたこそ意識と知識を混同しています。
両者は違います。切り離せますから。
>>570 >に、脳自身に対する感覚はない、とか、脳は脳自身を意識しない、とか
>いう記述があったのは面白い。
>つまり、脳に意識が宿る、というような主張は、
>決して当たり前に感じるような自然なものではない。
いや、前段と後段の論理のつながりがさっぱりだけど。
脳が意識されるかどうかなんてことが、何か関係あるの?
何の証拠もなしに脳が意識を生むといっているわけではないでしょう。
何が証拠か考えてごらんなさい。
>>579 もちろん、大いに関係があります。
脳は意識されない。つまり脳と意識の関係は
同時におきる現象を同一とみなすことによって
のみいえることなのです。
この「みなし」を解消できるか?が心脳問題なのです。
>>581 >脳は意識されない。つまり脳と意識の関係は
>同時におきる現象を同一とみなすことによって
>のみいえることなのです。
どうも日本語として意味がつかめない。
「同時におきる現象を同一とみなすことによって のみ」「何と」「いえる」の?
同時におきる現象を同一とみなすことによって のみ
「脳が意識を生む」と言える
つまり一方で脳の状態を観察し、もう一方で自分の意識をみることで
脳と意識の同時並行関係が見出されるということ。
しかしそれは決して同一性ではない。
もしも、そのような同時並行関係が見出されないのなら
誰も脳が意識を生むとはいわないはず。
ところで、脳が意識を生む、というのは一つの解釈に過ぎない
例えば、意識が脳を動かす、という言い方もできよう。
>>583 「同時に起きる現象」とは、それぞれ何ですか?
>つまり一方で脳の状態を観察し、もう一方で自分の意識をみることで
>脳と意識の同時並行関係が見出されるということ。
>しかしそれは決して同一性ではない。
結局、このことに戻るわけだけれどもヤレヤレ、同一ではないというなら何だというのですか?
神経科学の知見は今やすべてが脳の活動と意識の同時並行関係が見出されることを
示していますよね。これを「随伴」と呼ぶかどうかはともかく、しつこく同一性に
ばかりこだわるから、自然科学としての神経科学は哲学に愛想を尽かすのでは
ありませんかね。もういい加減次のステップに進むべきだと。
つまり、脳の活動と意識とは密着しているわけで、これからは脳の活動から意識が
生まれてくるメカニズムを問題にすべきだと。ここでは哲学者の出番はないから
哲学者は食いはぐれる。だから哲学者はしつこく同一性にこだわるのではありませんか?
>>588 「脳のニューロンの現象」と「主体の意識現象」を同一とみなすことによって のみ
「脳が意識を生む」と言える
ということですか?
別にそんな必要は全く無いと思いますが。
>「脳のニューロンの現象」と「主体の意識現象」を同一とみなすことによって のみ
>「脳が意識を生む」と言える
というか、ね、われわれは脳のニューロン活動の総体というものを知らなかった時代から
そのことを「意識」と呼んできた、ただそれだけのことではありませんか?
一番難しいのはリカーシブな「自意識」の存在です。今はこのことでみんな
悩んでいるのでしょう。
だから、「脳が意識を生む」のではなく、
「脳のニューロン活動の総体が意識である」というのが正しいのでは
ありませんか?
>>591 >というか、ね、われわれは脳のニューロン活動の総体というものを知らなかった時代から
>そのことを「意識」と呼んできた、ただそれだけのことではありませんか?
私の質問と、その文章に、どういった関係があるのかよくわかりませんが。
私は、
>「脳のニューロンの現象」と「主体の意識現象」を同一とみなすことによって のみ
>「脳が意識を生む」と言える
>
>ということですか?
と聞いているのですが、なぜ、Yes、No で答えられないのですか?
>一番難しいのはリカーシブな「自意識」の存在です。今はこのことでみんな
>悩んでいるのでしょう。
いや、何がどう難しいのですか?
>>592 「だから」といっても、その主張に論理的に繋がる、
根拠についての記述が見当たりませんが。
>>593 >>というか、ね、われわれは脳のニューロン活動の総体というものを知らなかった時代から
>>そのことを「意識」と呼んできた、ただそれだけのことではありませんか?
>
>私の質問と、その文章に、どういった関係があるのかよくわかりませんが。
>
>私は、
>
>>「脳のニューロンの現象」と「主体の意識現象」を同一とみなすことによって のみ
>>「脳が意識を生む」と言える
>>
>>ということですか?
>
>と聞いているのですが、なぜ、Yes、No で答えられないのですか?
だから(笑)
>>592につながるのですが。
「脳のニューロン活動の総体が意識である」
つまり、意識は脳が生むのではなく、脳の活動そのものだという命題にすることで、
同一と「みなす」とかの哲学者の食いつきを回避して、そのメカニズムの問題に
移れると思ったのですけどね。
>>595 いえ、まったく繋がってませんが。
というか、
> >と聞いているのですが、なぜ、Yes、No で答えられないのですか?
> だから(笑)
>>592につながるのですが。
これは、日本語の会話として成立してませんが。
>>596 いえ、あなたが「命題」と呼んでいるその文章は、
あなたが「意識」の定義を、「脳のニューロン活動の総体」とした
以上の意味を持っていません。
あなたが、「意識」の「定義」をそのようなものにされるのは勝手ですが、
定義しただけで、新しい論点が湧いてくるとは思えません。
従って、いまのところ、「ああ、そう、それで?」以上のことは言いようがありません。
>>589 問題があるなら、そこにとどまるしかない。
哲学的懐疑の苦痛から逃れるために宗教的信仰の阿片に頼るべきではない。
>神経科学の知見は今やすべてが脳の活動と意識の同時並行関係が
>見出されることを示していますよね。
その言い方は正しくない。
脳の活動と意識の同時並行関係に関する知見を、
神経科学と呼んでいるに過ぎない。
>これからは脳の活動から意識が生まれてくるメカニズムを問題にすべきだ
それこそあなたが本当には「同一性」を信じていない証である。
それは哲学的懐疑である。
脳の活動と、意識が同じなら、「生まれてくる」という言い方はしないし、
なぜ、という問いはでない筈。
あなたは哲学者だ。あなたは実際には哲学的疑問にこだわっている。
あなたはなぜ、あなたと同じ人間を嫌うのか?
あなたがいままで習ってきた知識はあなたに何の答えも与えなかったのに
なぜ、それに頼るのか?あなたは阿片に頼らなければ生きられないのか?
>>591 >われわれは脳のニューロン活動の総体というものを
>知らなかった時代からそのことを「意識」と呼んできた
そう、意識と脳の関係は自明ではない。
だから問いが生まれる。
>>592 >「脳が意識を生む」のではなく、
>「脳のニューロン活動の総体が意識である」
>というのが正しいのではありませんか?
その他に「意識が脳を動かす」という解釈も可能である。
とはいえ、そのような云いまわしの真偽以前に
意識と脳という二つの見方があることが問題だ。
>>596 AがBだ、というのは、みなしを表現から隠しただけで、無くしたわけではない。
問いから逃げてはいけない。
えーと、「みなす」という言葉がどこで初出したかというと、
>>571さんの
>あなたにとっては「物」というとそれはすべて対象になってしまうようですが、
>そうではないんですよ。「物」自体が主体にもなり得るんです。
に対する
>>572さんの
>>「物」自体が主体にもなり得るんです。
>なり得ません。「同一とみなす」のと「同一である」とは違います。
からですよね。これに対し
>>575=571さんは、
>みなしているのではありません。私はある種の「構造」をもった「物」は
>まさに主体になり得るといっているのです。
とおっしゃっている。
>>576さんの
>>みなしているのではありません。私はある種の「構造」をもった「物」は
>>まさに主体になり得るといっているのです。
>その場合の「主体」は「構造」であって、「物」ではないんでは?
これに対して、
>>577さんは、
>>私はある種の「構造」をもった「物」は
>>まさに主体になり得るといっているのです。
>でもそれは「みなし」行為なしにはいえません。
とおっしゃり、
>>584で心脳問題に即して
>つまり一方で脳の状態を観察し、もう一方で自分の意識をみることで
>脳と意識の同時並行関係が見出されるということ。
>しかしそれは決して同一性ではない。
とおっしゃっているわけですけれども、まだ「みなす」という言葉に対して相互の理解がないわけで、
この理解なしに「みなす」という言葉を連発しても話は通じないのでは
ないですか?
>>600 >>596さんは
>「脳のニューロン活動の総体が意識である」
と書いておられる。つまり、脳の「活動」が「意識」だということで
意識と脳という二つの見方を回避しようとしているのではありませんか?
>>599 ここで宗教的信仰だの阿片だのという言葉を持ち出すのは中傷でしょうね。
>>601 >「みなす」という言葉に対して相互の理解がない
>>575の拒否の態度は許されない。
拒否によって議論を否定するなら
その罪は
>>575にある。
匿名をいいことに、平然と中傷を交えて議論する輩が跋扈するから
こういうところで書くのは嫌なんだよね(w
>>602 あなたは意識と脳という二つの言葉を用いている。
つまり、二つの見方があることを認めているということ。
>>603 >>599は
>>589を中傷してはいない。
中傷しているという主張が中傷。
>>605 君こそ匿名で中傷しているね。嫌がらせ?
>>596 >脳の活動そのものだという命題にすることで、
>そのメカニズムの問題に移れると思ったのですけどね。
意識が脳の活動そのものならば、メカニズムはない。
1=1の理由は誰も問うまい。
1+1=2の理由を問うのは、
1+1は2と「同じ」ではないからだ。
メカニズムを問うということは、意識と脳の活動の
2つの現象は異なるものであり、それらを関係づける
必要があると感じているということ。
こうやって問題がどんどん逸らされてうやむやになり・・・
>>608 >意識が脳の活動そのものならば、メカニズムはない。
どういう仕組みで脳の活動が生じるか、ですよ。メカニズムを問うのは。
そして、たとえば視覚経路の活動を指して、これが従来視覚と呼ばれて
きた感覚(ここでは視覚的な意識)そのものである、という説明にする・・・
「みなす」という言葉なんですが、こういう場合はどうなんでしょう。
瞼を下ろす(目をふさぐ)と見えなくなる。つまり、「瞼を下ろす」動作と
「見えなくなる」という感覚が同時に起こる。だから私たちは「目で物を見ている」と
「みなす」のでしょうか。
>>610 >どういう仕組みで脳の活動が生じるか、ですよ。メカニズムを問うのは。
それは意識とは関係がない。
>そして、たとえば視覚経路の活動を指して、
>これが従来視覚と呼ばれてきた感覚(ここでは視覚的な意識)
>そのものである、という説明にする・・・
それは「みなし」による翻訳。
あるクオリアに付いて、一つか或いは複数のニューロンの発火との関連性が特定できたとしても。 それによって、クオリアが科学的に説明できたとは云えないのではないですか?
>>614 そりゃ、関連性が特定できた時点で、それはクオリアではなくなるからね。
典型的なクオリア論者の定義によれば。
「みなし」についてはまずまず了解しました。暗黙の前提が隠されている
ということですね。他者にも心があるかどうかは原理的に知り得ないが、
同じヒトであるならその他者にも自分と同じ心がある、とみなす。
>あるクオリアに付いて、一つか或いは複数のニューロンの発火との
>関連性が特定でき
たとき、われわれはつい、クオリアが科学的に説明できたと見なして
しまうが、そこにも同時に起こった事柄は関連しているに違いない、
という暗黙の前提が隠されている、と。
以上のことは、さまざまな科学の現場にける警告と受け止めることにして、
次に因果関係にいきましょうか。
>>611の例ですが、
>「瞼を下ろす」動作と「見えなくなる」という感覚が同時に起こる
というよりも、「瞼を下ろす」動作を行ったら「見えなく」なった、
だから私たちは「目で物を見ている」、と因果的に説明することの方が
普通だと私には思える。であるなら次に、「瞼を下ろす」動作を行った
原因は何か、と問われなければならない。「瞼を下ろす(瞬きする)」
という動作はわれわれは1分間に数回、無意識に行っていることだし、
驚いた時にも反射的に行ってしまう。しかしそれだけではなく、
「瞼を下ろそう」(目をつぶろう)と「思って」瞼を下ろすこともある。
別の例として「怒ったので手を上げた」を考えると、「怒った」と「手を上げた」の
間にも細かい因果関係の連鎖があるのだけれどもそれは省略されているものとして、
次には怒った原因が問われなければならない。われわれ(というか私)は他者の
言動によって怒ることが多いんだけれども、同じ言動に対していつも怒るわけでは
ない。その言動を行ったのが子供なら気にもとめないだろう(つまり無視する刺激がある)。
また、同じ状況で成人が同じ言動を行った場合においても怒ることもあれば怒らない
こともある。それは、われわれの内部状態が異なっているからだろう。
では、われわれの内部状態が(おそらく刻一刻と)変化するのはどうしてか。
むしろ、暗黙の前提は、クオリアそのものがなんであるかという段階にあるんでないの。
クオリア論者は、クオリア自体の定義に立ち入らずに、
いきなり、脳とかニューロンとかの関係を語ろうするけれど、
そこにこそ、暗黙の了解(の相手への要求)があるんでないの。
>>617 >>616は
>>565辺りから始まった「みなし」についての議論に一応の区切りを
つけることを目指したものです。
この「みなし」については、柴田正良「ロボットの心 7つの哲学物語」
(講談社新書)が参考になるかと思います。
>>617 >クオリア論者は、クオリア自体の定義に立ち入らずに、
>いきなり、脳とかニューロンとかの関係を語ろうするけれど、
それは君の誤解だな。
クオリア論者は、脳やニューロン”だけ”では、
クオリアは分からないといっている。
関係を語ろうとする(というより無意識の同一視に
よって問題そのものを否定しようとする)のは、
寧ろ反クオリア論者だよ。
>>615 >関連性が特定できた時点で、それはクオリアではなくなるからね。
>典型的なクオリア論者の定義によれば。
それも君の誤解だな。
例えば「赤を見る」とき「脳が…の状態にある」と分かったとする。
しかし、それは前者を後者に「還元」したわけではないだろう。
つまり、「赤を見る」ときの感じそのものには何らの言及もない。
だから、関連付けによってクオリアを語ったことにはならない。
クオリアとは物理現象ですか。それとも情報の在り方なのですか?
>>619 >クオリア論者は、脳やニューロン”だけ”では、
>クオリアは分からないといっている。
だから、クオリアのなんたるかの定義をする「前に」でしょ。
そりゃ、定義されていないものは、何を持ち出しても解かりようがないね。
というか「何をわかろうとしているかどうか」を決めずに、
「分からない」といっているんだから。
なんで、
「クオリア論者が「クオリアの定義をせずに」脳やニューロン”だけ”では、
クオリアは分からないといっている。」
という事実をもって、
>クオリア論者は、クオリア自体の定義に立ち入らずに、
>いきなり、脳とかニューロンとかの関係を語ろうするけれど、
を
>それは君の誤解だな。
といえるのか?
論理がまったく繋がってないよ。
>>620 だから、そういった論述は「〜はクオリアでは無い」という形で、
「「定義が示されていない何物か」が〜とは違う」といっているだけでしょ。
分かることは「〜は(未だ示されていないあなただけが知っている)クオリアの要件に
合致していない」ということだけだ。
第三者が言えることは「ああ、そう」ぐらいなものだ。
「みなす」という言葉に混乱させられてしまったのだけれども、これは要するに
「私」からの「私以外のもの(物かも知れないし者かも知れない)」に対する
見方を言っているのね。
そして、同じヒトである他者に自分と同じ心があるかどうかを原理的に知る
ことはできない。これは分かる。しかし、それでもなお、その他者には心が
あると「見なして」しまう。これはどうしてなんだろう?
私はこれは他者が自分と同じ組成(遺伝子や蛋白質)からできているからとか、
ヒトの形をしているからではなく、他者というのは「自分が予測できない
振る舞いをするから」だと思う。
その意味で、壊れてさえいなければつねに正しい答えを出す、つまり振る舞いが
予測できるコンピュータに心はない。ここで乱数という問題が絡んでくるのだ
けれども、乱数も関数によって生成されていることが分かってしまうと、これも
コンピュータは乱数という正しい答えを出しているだけ、という意味で心はない
ことになってしまう。
>>624 「チューリング・テスト」って知ってる?
逆に聞きますけど、コンピュータに原理的に予測できない振る舞いをさせることは
できますか?
あるいは、生物の振る舞いは原理的に予測できるのだろうか?
>>627 「予測」の定義の問題があると思うんだけど。
シミュレーションの結果が予測可能なら、
高い金出して、シミュレーションしたりしないでしょ。
>>629 高い金出してシミュレーションしようとするのは、コンピュータの計算が正確で、
したがって与えた関数の振る舞いを予測できると信じるから、でしょう。
>>627、
>>628に対して予想できる答えは、
コンピュータに原理的に予測できない振る舞いをさせることはできない(そんな
ことができたらコンピュータではなくなってしまう)。
生物の振る舞いは原理的に予測できるかどうかは「まだ」分からない。しかし、
生物も機械である。したがって予測できる見込みはある。
しかし、後段の予想に対し、私はきわめて懐疑的だ。私はコンピュータという機械と
生物という機械は本質的に異なる何かがある、と考えています。
×したがって与えた関数の振る舞いを予測できると信じるから、でしょう。
○したがって与えた関数の時間経過に沿った振る舞いを正確に描写してくれるから、
でしょう。
シミュレーションしようとするのは結果を得るのに時間がかかるか、時間経過に
伴う変化を見る場合なんだよね。これを見落としてはいけません。
>>630 >高い金出してシミュレーションしようとするのは、コンピュータの計算が正確で、
>したがって与えた関数の振る舞いを予測できると信じるから、でしょう。
いや、予測できるなら、しなくても結果はわかるんじゃないの?
>>633 >>632にも書いたように、時間がかかるからだよ。結果はあらかじめ決まっている
はずであっても、結果が分かるまでに時間がかかる場合、われわれの素朴な
感覚では「予測する」と言ってしまうまでのこと。
コンピュータは計算が正確なので、関数と元データを入力した時点で結果は
あらかじめ決まっているのさ。ただ、シミュレーションするような課題は
その結果が分かるまでに時間がかかるから、予測すると言ってしまうだけ。
それと、予測するための肝心の関数は人間が作成したものであることを忘れては
ならない。この両者の関係から、われわれは「予測する」という言葉を使って
しまうの。
>>634 だから、「予測の定義の問題があると思うんだけど」と最初にいってるんだが。
普通の日常会話で「素朴な感覚」でそう感じるのはいいんだけど、
議論のためにはもう少し厳密な定義の上でいってくれないと。
結局、コンピュータは予測できない振る舞いをしているわけでも、予測自体を
行っているわけではない。予測しているのはあくまで人間なの。
なんで「予測」という言葉をつかうかなんてどうでもいいの。
「予測可能」ってのは、そういうあいまいな感覚じゃない、
ちゃんとした定義で表現するなら、何をいいたいのかって話。
っていうか、「使ってしまうの」とかいう問題意識があるなら、
安易に「予測可能」なんてことばを使うなよ。
シミュレーションと予測の話はトリヴィアルなので、この辺でやめましょ。
だから、主張を続けたいなら、ちゃんとした言葉で言い直すことだ。
最初から、自分で問題があるとわかってる表現をわざわざ使うな。
なら言い換えましょう。冗長になりますけど、
>>627、
>>628に対して予想できる答えは、
コンピュータには原理的に結果があらかじめ決まっていない振る舞いをさせることは
できない。
生物の振る舞いは原理的にあらかじめ決まっているかどうかは「まだ」
分からない。しかし、生物も機械である。したがって、その振る舞いが
あらかじめ決まっていることが将来明らかにされる見込みはある。
しかし、後段の予想に対し、私はきわめて懐疑的だ。私はコンピュータという機械と
生物という機械は本質的に異なる何かがあるのではないか。それはもちろん、
エラン・ヴィタールとかそんなものではない。
お分かりと思いますけれども、他のクオリア論者はどうあれ、私はクオリアは
生命(より狭義には脳)があって初めて現れた特性だと考えるので、私に
とっては人工の機械や無生物と生物との違いを明らかにすることが非常に
重要なのです。
意識や情報を物理現象として考えなければ、クオリアを科学的に説明するのは難しいのではないか。
>>643 クオリア論者の主流はそのように考えているようです。
私はクオリアは生命あってこその特性だと考えますけれども、
同時に生命自体が実は物理的な機械だという認識を持っています。
ただし、その生命という機械は従来の人工的な機械とは本質的に
異なっている。その違いを明らかにする方がクオリアを説明する
上での近道ではないか、という立場だということです。
>>642 生命には第六感のアンテナがあって、そこから生きる意志のような
ものを受け取っていると思います。それがなければ、有性生殖のような
優れたシステムをとることができないと考えています。
>>645 真偽を見分けるセンスが何に由来するのか難しいけれども、少なくとも
そのセンスのない人は逝ってください。
619です。
>>622 >定義されていないものは、何を持ち出しても解かりようがないね。
うむ。
その結果として、私も君も、自分自身がわからない。
自分自身は定義されていないからね。
ところで、クオリア論者は
「(まず)脳とかニューロンとかの関係を語ろうする」
とはしていない。それは君の誤り。
>>624 >他者には心があると「見なして」しまう。
>これはどうしてなんだろう?
>私はこれは、他者というのは
>「自分が予測できない振る舞いをするから」
>だと思う。
そう考えたところで、自分の意識の問題には
何ら関わってこないのではないだろうか?
端的に言うと、人間とコンピュータ(人工の機械や無生物)との間の関係が、
人間同士の間には持てない、ということがあると思う。
>>641 要するに「なんとなく違うんじゃないかと思う」ということしか言ってないのでは?
それに対してどういった意見を言えと?
>>614 >あるクオリアに付いて、一つか或いは複数のニューロンの発火との
>関連性が特定できたとしても、それによって、クオリアが科学的に
>説明できたとは云えないのではないですか?
>>643 >意識や情報を物理現象として考えなければ、
>クオリアを科学的に説明するのは難しいのではないか。
虚無大使氏のこの二つの問いを考えてみよう。
一口に物理現象というが、実際には、観測によって意識現象として
捉えられなければならないし、科学的な説明というものも、複数の
意識現象に対する関連付けという形でなされるものである。
その意味では、確たる客観性などというものは実は存在しないし、
科学もまた、「みなし」の行為だといわざるを得ないだろう。
>>647 >その結果として、私も君も、自分自身がわからない。
>自分自身は定義されていないからね。
というか、それ以前の問題として、「クオリア」と「自分自身」の関係も
定義されていないね。
クオリアから、どうして「自分自身」がでてくるのか?あまりに唐突だ。
>ところで、クオリア論者は
>「(まず)脳とかニューロンとかの関係を語ろうする」
>とはしていない。それは君の誤り。
このスレを見る限り「語ろうとしている」けど。
それとも、「関係無いと主張する」ことは「関係を語る」ことからは除外する、
というのがあなたのルールなの?
いや、あなたのその発言でもそうなんだけど、
もっと厳密に言うなら、
「発言の最中に関係の対象を明確にせずに、脳とかニューロンを持ち出す」
といったほうが正確だろうか。
どうして発言の形態が、いちいち、
「○○と脳とかニューロンとかの関係」ではなく(対象の無い)「脳やニューロンとかの関係」
という形になるのか?
それは結局、語るべき対象が定義されて無い、全くの空論であるってことじゃないの?
>クオリアから、どうして「自分自身」がでてくるのか?
クオリアから出てきたわけではないよ。
定義ありき、というから、君は
自分自身を定義もせずに語っている
だろうと指摘したわけ。
>このスレを見る限り「語ろうとしている」けど。
嘘でしょう。
関係があるとかないとかいう以前に、
関係を語ることが、問題の解答ではない
といっているのですよ。
「(答えるために)関係を語ろうとしている」
わけではないですよ。
>>650 生命は機械だと言った時点で、それは人工の機械と同じなんだ、と考える
思考パターンに慣れきって、問題の存在に気づく努力を怠っているせいだと
思います。
>どうして発言の形態が、いちいち、
>「○○と脳とかニューロンとかの関係」ではなく(対象の無い)「脳やニューロンとかの関係」
>という形になるのか?
君が、
>>617でそういったのだから
批判されるべきは君自身だろう。
>>588には
脳のニューロンの現象と主体の意識現象
とある。
>>653 >クオリアから出てきたわけではないよ。
では、何の意味があって、その「自分自身」は、唐突に出てきたの?
>>653 >関係があるとかないとかいう以前に、
>関係を語ることが、問題の解答ではない
>といっているのですよ。
詭弁だよ、「関係を語ることが、問題の解答ではない」はという
関係も、関係には違いないだろう。
そもそも、そんなに無関係なら、論及する必然性が最初から無いはずだ。
>「(答えるために)関係を語ろうとしている」
>わけではないですよ。
それが「関係を語る」の、(あなた個人のあなただけに通じる)の定義なわけね、
そういう意味では、「関係は語られていない」んでしょう。
じゃあそろそろ、「関係のあること」について論じたら?
「何と」「関係のあること」か、全然解からないけどさ。
>>654 そういった機械論批判は、機械論が支配的な状態でなければあんまり意味が無いのでは。
機械論への批判が十分存在する現時点で、機械論的発言をする
当の本人に直接言う以外の文脈で、そんなことを言っても
「それがどしたの?」としかいいようがないんだけど。
>>658 ではあなたは機械論者ではなく、なんですか?
少なくとも私は、未だ生命は機械論が支配的だと思いますが。
>>658 君は機械論とその問題点がわかっているのかな?
それに言及することなしに文句をいっても
ハァ?としかいいようがないよ。
>>659 ハァ?
どこが煽りなの?
まあ、若干挑発的ではあるけれど、まっとうな正論を述べてるだけだが。
対象の定義無しに述べられている空論を空論と指摘することの、どこが煽りなの?
それとも、あなたの定義では、自分にとって不快な発言は、
発言の内容と無関係に「煽り」なの?
>>658 それから、なにも機械論批判をしているんじゃないんだな。なぜかというと、
こちらも生命は機械だと認めているんだから。その上で、その機械は既存の
人工の機械や無生物とは異なっている、と言っているのです。
>>660 何かのパラダイムに固執しなければならない決まりは無いと思うが?
>>661 「あなたの定義する」「機械論」と「その問題」は、あなたが発言してくれない限り、わかりようがないね。
「機械論」について論じるスレじゃないので、
まず、「クオリア」とやらの定義を示すのが先だろう。
現時点では、クオリアと機械論が関係有るのかどうかも定かじゃない。
>>663 だから、まず第一に、その「違い」が、「クオリア」とやらと、どんな関係があるかが全然語られていない。
>>665 だから、生命は機械だけれども、いわゆる機械論の範疇には収まらない
機械であって、その機械論の範疇に収まらない生命の機械としての性質から
クオリアが現れてくるんじゃないか、と言っているのです。
二元性一元論を2,000字以内で説明してください。
>>666 >その機械論の範疇に収まらない生命の機械としての性質から
>クオリアが現れてくるんじゃないか、と言っているのです。
それをどう示すつもりかな?
>>646 真偽を見分けるセンスといわれても、なにをもって真とするか
わかりません。
またまたJA共済の悪寒
予測は他者に対してしか行い得ないだろう。
その意味で、自分は予測不能であろう。
他人に対して予測が不能であっても、
それは情報が不充分だからだと考える
こともできる。
>>672 ただ、自分に対して予測が不可能である場合に
同じ言い訳を用いるのは奇異なものである。
つまり、自分では意識していないことが、
自分の決定を左右していることになる。
>>666 いや、クオリアの定義が無い以上、
>だから、生命は機械だけれども、いわゆる機械論の範疇には収まらない
>機械であって、その機械論の範疇に収まらない生命の機械としての性質から
などということを言っても、クオリアと関係があるかどうかさえ定かではないってことだよ。
>>673 ベンジャミン・リベットの実験でそういうのがありましたよね。つまり、
自分が意識するより前からニューロンが活動を始めているという。この知見を
もって自由意志の否定に利用されたりするんだけど、これはもう少し詳細に検討
する必要があるんじゃないかな。
たとえば、やはりニューロン集団の活動が意志決定を行うんだけれども、それを
意識するまでに時間がかかるんじゃないか、とか。意志決定を行う脳部位と
自意識?に関与する脳部位が離れている場合にこういうことが起こりそうな気がする。
これに対して、そんな脳部位は無く、もっと脳の広い領域に広がっているんだという
反論、さらにこれに対してその脳部位は固定された位置にないという反論、あるいは
その脳部位は人によって異なっているか、常時移動するのでまるで無いように
見えるんだ、という反論もありでしょ。
今の議論の流れから外れるかも知れないけれど、恣意性とか任意性というものが
生命というシステムのさまざまなレベルで認められるんだな。たとえば、アミノ酸を
三塩基で表示するというのも不思議な話だ。なぜ二塩基あるいは四塩基で表示すると
いうやり方は生まれなかったのか。塩基は四種類だから二塩基では4×4通りのアミノ酸
しか表現できず、20種類のアミノ酸を表示するには足りないから、という説明は
おかしいということは直観的に分かるだろう。さらには三塩基の特定の並びがある
アミノ酸に対応していることから、われわれの指が5本であること、ある波長の光を
ある特定の色としてみること等々、恣意性は生命のさまざまなレベルにおよんでいる。
これらのことは普通、進化で説明されるが、それでもたとえば、では指が5本である
ことは4本であることや6本であることに比較してなにか有利な点があるというの
だろうか、という根本的な問題が残る。結局、宇宙が恣意的な組み合わせを許して
いるようにしか思えない。では、この問題は従来の物理学で扱われてきただろうか。
>>677 >さらには三塩基の特定の並びがある
>アミノ酸に対応していることから、われわれの指が5本であること、ある波長の光を
>ある特定の色としてみること等々、恣意性は生命のさまざまなレベルにおよんでいる。
これらのことはもちろんそうなんだが、いったん生命というものが出現した後で
その恣意性が爆発的に増加していったように思える。だから、その起源にまで
遡る必要があると思うんだ。「みなし」を行うのも、観測者であり得るのも
われわれ生物なんだ。このことをもっと考えた方がいいんじゃないか?
安易に恣意性に飛びつく前に、「直感的」ではなく「客観的」に、
恣意の存在について考察したほうがいいんじゃないの?
答えありきの議論は空虚だよ。
>>677 あの「直観的に分かるだろう」というのは、いちいち説明しなくとも分かる
だろうという意味に過ぎないよ。それとも、いちいち説明しないと分からないの?
>>680 いや、だって「おかしい」の論点が明確にされてないもの。
必要条件なのか十分条件なのかを明確にしないまま、
「という説明はおかしい」といわれてもね。
そもそも「20種類のアミノ酸を表示するには足りないから」という意味で、
3塩基と20種類のアミノ酸の関係は述べられているのか?
単に、「3種類の塩基と20種類のアミノ酸の関係」が実験観察によって、
わかってきた、ということに過ぎないんじゃないの?
それを、「3塩基なのは20種類のアミノ酸を表示するには足りないから」という意味に
解釈してる時点ですで論理が狂ってる。
この解釈には「恣意性の存在」が議論を経ずに、既に、組み込まれてしまっているからだ。
「恣意性の有無」を問うなら、「3塩基なのは20種類のアミノ酸を表示するには足りないから」
という解釈が成立しうるかどうかの時点から始めなきゃ無意味だろ。
>「3種類の塩基と20種類のアミノ酸の関係」が実験観察によって、
>わかってきた、ということに過ぎないんじゃないの?
そう、このことが分かったからこそ、なぜ2塩基や4塩基で表示しないんだろう?
ということが後で問題になってきたんじゃないか。言っておくけれど、われわれを
構成するアミノ酸が20種類であること自体もなぜそうなのか分からないんだぜ。
>「3塩基なのは(2塩基では)20種類のアミノ酸を表示するには足りないから」
>という解釈が成立しうるかどうかの時点から始めなきゃ無意味だろ。
そんなこと、その辺の分子生物学の教科書に書いてある遺伝暗号表を見れば
すぐに分かることじゃないか。
>>682 >そう、このことが分かったからこそ、なぜ2塩基や4塩基で表示しないんだろう?
>ということが後で問題になってきたんじゃないか。言っておくけれど、われわれを
>構成するアミノ酸が20種類であること自体もなぜそうなのか分からないんだぜ。
もちろんそのとおりだが、それは、
そのことをイコール「恣意性」と解釈できるという根拠にはならない。
>そんなこと、その辺の分子生物学の教科書に書いてある遺伝暗号表を見れば
>すぐに分かることじゃないか。
いや、君は論点が掌握できてないな。
「恣意性」と解釈しうる根拠の話をしてるんだよ。
「解釈が成立しうるか」が問題になるのは、
「2塩基では20種類のアミノ酸を表示するには足りず3塩基では足りる」という生化学的解釈じゃなくて、
そのような生化学的解を、さらに「「だから3塩基にしよう」という恣意があった」と解釈できるか、って話だよ。
そういう解釈ができるという根拠がどこにあるの?
>>683 ではなぜ四塩基や五塩基にはならなかったの? 20種類のアミノ酸を表すには
塩基の数が多い方がより正確に(つまりエラーを少なく)表示できるじゃないか。
とは言え、このレベルでは実は熱力学的に説明できる可能性がある。つまり「20」
種類のアミノ酸は「4」種類の塩基のうちの「3」塩基で表示するのが熱力学的に
最も安定なのかも知れない。
>>677で進化に言及し、ここでは指が5本の例を挙げたが、ではこちらはどうする。
続きだが、こんな例はもう無数にある。そのうちの3塩基の例は除外される
可能性があるということに過ぎないんだよ。
>>676 リベットの結果だけでは、決定論だとは言えないよ。
あれは予測を示したわけではないから。
>>677-678 >今の議論の流れから外れるかも知れないけれど
外れていますよ。
それは進化の話として生物学板でなさるのがよいでしょう。
みなしや観察について考える場合には無用でしょう。
進化の話に逃げることなく、
予測不能性を直接考えること
はできないだろうか?
>>677を書いたのは、
>>666に関連させ、また、ある波長の光をある特定の色と
してみるという恣意性から何とかつなげたかったのですが、まだ無理だった
ようですね。
しかし、クオリアを考える場合に人工の機械とは異なる生命という機械の
特殊性に思いを馳せなければならない時がいずれ来ますよ。今はおいときましょ。
>>689 >>677で
>これらのことは普通、進化で説明されるが、それでもたとえば、では指が5本である
>ことは4本であることや6本であることに比較してなにか有利な点があるというの
>だろうか、という根本的な問題が残る。
と書いたように、進化の話に逃げたのじゃないですよ。進化ではダメだと言って
いるのですから。
>>690 「ある波長の光をある特定の色としてみる」ことに関して
機械論が何の説明も与えないのは確かです。
ただ、この場合、人間が機械でないという前に、
機械という見方が、あくまで他者の立場に立っている
ことを問題にすべきではないでしょうか?
>>691 そういうことではなく、進化論の問題に逃げても
意味がないといっているのです。
>>684 >ではなぜ四塩基や五塩基にはならなかったの? 20種類のアミノ酸を表すには
>塩基の数が多い方がより正確に(つまりエラーを少なく)表示できるじゃないか。
いや、なんで、「エラーを少なくしたい」という「恣意」の存在を前提にしなくちゃならんの?
>進化に言及し、ここでは指が5本の例を挙げたが、ではこちらはどうする。
進化も5本の指もまったく同様だね。
そこにあるのは結果だけで、「恣意性」の存在は必然ではない。
>>692 >「ある波長の光をある特定の色としてみる」ことに関して
>機械論が何の説明も与えないのは確かです。
「クオリア」と同様にね。
「ある波長の光をある特定の色としてみる」の要件って、決められて無いもんなぁ。
観察される(顕在的な記憶として、後から想起できる)事実としては、
煎じ詰めると、その色に関係する記憶の想起(言語としてのその色の名前を含む)しかない。
「それだけではない何かがあるはずだ」
とクオリア論者はいうけれど、
「それは何か?」
と聞いても、誰も答えられないんだよね。
>>693 「恣意性」を誤解しているんじゃないかな。「神様の意思」なんてことを
言っているんじゃないんだ。
たとえば「ある波長の光をある特定の色としてみる」の言いたいことも同じだ。
その光はどんな色で見てもいい(それどころか、色として見なくてもいい)はず
なのに、おそらく決まった色として見ている。
これをもって恣意的だと言っている。本来任意なはずだと言ってもいい。
>>677以降、私が言いたかったことは進化云々ではなく、生物は
無数の恣意的な記号を操作している機械らしい、ということなんだ。
>>696 >たとえば「ある波長の光をある特定の色としてみる」の言いたいことも同じだ。
>その光はどんな色で見てもいい(それどころか、色として見なくてもいい)はず
>なのに、おそらく決まった色として見ている。
>これをもって恣意的だと言っている。本来任意なはずだと言ってもいい。
だから、その「おそらく決まった色として見ている」という出来事の
定義、要件が全然なされて無い、といっているんだが。
定義が為されていない現象を引き合いに出されても、
あなたの言う「恣意性」がどんな意味なのかさっぱりわからないが。
単純にいって、
「本来任意」
(これも「任意」の使い方としては妙だが、「どのような結果にもなりうる」という意味に解釈するなら)
であっても、「済んだこと」であって複数の状態を同時に持ちえる性質の事柄でなければ、
結果的に、「いずれか」が選び取られるのはあたりまえだが、
そのことをもってそこに恣意がある根拠にはならない。
その論理でいえば、サイコロの出目にはいかさまの存在と無関係に恣意がある
(1〜6のどれがでようと「本来任意」なのに、特定の目が出た)ってことになる。
「任意」、ここでは「どのような結果にもなり得た」だね。
「済んだこと」じゃないんだ。それが選び取られたであろう頃にどんどん
遡って考えてみる。
だから、
サイコロの出目にはいかさまの存在と無関係に、1〜6のどれがでようと
「本来何が出てもよかったのに」なのに、特定の目が出た。生物はこれを
積み重ねてきた機械だ、ということになるね。
>>698 それは、生命に限らず、
ありとあらゆる事柄が、すべてそうだといえるね。
# 生命が機械かどうかについては、異論もあるようなので、
# 私は安易に「機械だ」というつもりはないので置くとして。
>>699 >それは、生命に限らず、
>ありとあらゆる事柄が、すべてそうだといえるね。
そうか? ビッグバン直後のことはともかく、星の軌道はサイコロを振る
までもなく決まっているんじゃないのかな?
そして、1969年に月という星に人間(という生物)が行ってアメリカ国旗と
いう物体をおいてきた。この時点から初めて月の軌道は変化した、のじゃないの?
つまり、前から決まっていたことを変更する能力が生物(という機械)にはある。
言い過ぎかな。
>>700 >そうか? ビッグバン直後のことはともかく、星の軌道はサイコロを振る
>までもなく決まっているんじゃないのかな?
それは、「どのような結果にもなり得る状況」で無いってだけのことじゃないの?
今の議論は「どのような結果にもなり得る状況」から、一つの結果が生まれる場合の話じゃないの?
>>696 >その光はどんな色で見てもいい(それどころか、色として見なくてもいい)
しかし、それは「論理的に導かれない」ということであって
「自分がどうにでもできる」という意味ではないよ。
見るとすれば「決まった形(この場合色)として見ている」。
>星の軌道はサイコロを振るまでもなく決まっているんじゃないのかな?
その意味では、人の動きもサイコロを振るまでもなく
決まっていると考えても問題はない。
ただ、それはあくまでそう考えるだけで、人が
それを知るというわけではない。
とはいえ、決まっていると考えても、決まっていないと考えても、
赤の色の見え方は説明できないよ。
決定しているかどうかは、この問題と無関係でしょう。
>>703の補足
これは決定論が正しいという主張ではないよ。
双方のギャップを埋めたいという希望はあるのでしょうか?
それとも双方が自分の主張したいことだけを主張して平行線のまま、
互いに理解し得なくてもかまわないとお考えでしょうか?
後者ならこれ以上続けても時間の無駄ですね。
「ギャップ」ってのが何を指してるのかわからないな。
とりあえず、
クオリアの定義や、
生命の発生における恣意性の存在の論証が
存在するなら、聞かせて欲しい、という希望はあるよ。
クオリアや恣意性について論じるのに、それらは必要ない、
というのなら、これ以上続けても時間の無駄だね。
というか、
定義や論証なしで、思いついたことをただ言って、
それにまともにつきあって欲しいというのがあなたの望みなら、
あなたが哲学板で発言すること自体、時間の無駄だね。
>>707 ∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)< オマエモナー
( ) \_____________
| | |
(__)_) ヒサシブリ・・・
ったく、自分からはなーんにも言えないくせに、他人が言ったら
思いつきだといって貶す。パターンですな。
ところで、フレーム問題がまやかしの擬似問題だということに
ついての見解は一致しているんですか?
>>710 >ったく、自分からはなーんにも言えないくせに、
>他人が言ったら思いつきだといって貶す。
>パターンですな。
∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)< オマエモナー
( ) \_____________
| | |
(__)_)
ところで、フレーム問題の話はしてないよ。
タイプとトークンがどうしたって?
>思いつきだといって貶す。
実際に思いつきでないなら、なんら貶すことにはならんのだけどね。
そこでその優れた見解を披瀝してくれれば、質問した側も満足、
言った側も満足で丸く収まる。
本当に思い付きだったことについて、質問されて、
(思いつきだったから)答えられなかった場合、
「思いつきだといって貶」されたと思うんだろうね。
いうべき言葉がないのだから何もいえないのは結構なことだ。
「定義は何?」などと聞くから馬鹿を見る。
何でも定義可能だという考えは初歩的な誤り。
何でも定義可能だなんていってないが。
「〜である」「〜ではない」といった判断を下すためには、
「〜」の定義が必要だ、といっているだけだが。
「定義できないものがある」という判断は下せるが
クオリアってわくわくするほど面白いと思うのに、このスレは
なんでこんなに退屈でくだらない連中ばかりなんだろう・・・
そのおもしろさを共有してくれる人は、
オカルト板とかにいかないといないだろう。
脳と心(精神)に関する問題は、刺激的でわくわくするほど面白いよ。
クオリアとか言い出す奴がでてくるとつまらなくなるだけ。
セクースほどわくわくする面白いことはないよ。
君もセクースしたら?
オカルトとクオリアの区別がつかない人間がいるらしいね。
オカルトとかすぐにレッテルを貼りたがる人間には気をつけた方がいいね。
オカルトといえば、客観的な物質の存在もそうだな。
なにしろ感覚では絶対に認知し得ないわけだから。
まさに隠されたものだな。
>>723 違いを説明できる人がいないから仕方がないね。
おーい、クオリア論者。オカルトとクオリアは区別できないのだそうだ(爆
そう興奮するな。
728 :
懐かし駄スレマニア:03/02/27 22:43
荒れて沈みました。
スレタイはイイと思うが。。
(^^)