1 :
考える名無しさん:
人間の細胞は日々新陳代謝を繰り返しており
数年後には体の細胞はまったく新しい物になっているそうです
でも自分が自分であることには変わりないですよね
自分を自分たらしめる同一性とは何かについて
教えてください
心があるから
3 :
考える名無しさん:02/11/13 15:42
>>2 心は脳から生まれマス
脳もまた細胞ニヨッテ(リャク
4 :
考える名無しさん:02/11/13 15:58
過去の記憶があるからだよお。
記憶喪失者には過去との同一性はないけど、記憶喪失になってからの
同一性はあるのは、その段階までの記憶を想起できるから。
>>2 記憶喪失者には心があるよ。
昔刑事ドラマに出ていた記憶喪失者に心はあったもんね。
5 :
2年P組デリダ先生:02/11/13 17:21
restanceが同一性の条件です。
6 :
考える名無しさん:02/11/13 17:24
障害です。
7 :
考える名無しさん:02/11/13 17:28
同一性一般について語るのか
自己同一性に語るのか。
>>1-6 全員アホ
解離性同一性障害について語るのか
性同一性障害について語るのか
途中省略して結論
同一性そのものは存在しません。
同一性の感覚は存在し、
人間の生存にとって重要な役割を果たします。
だって、明日の自分が他人だったら、
計画や予定が全部おじゃん。働く気もおきないよ。
ああと、
同一性とは自己同一性のことね。
12 :
考える名無しさん:02/11/14 20:04
>せ
ばーか。
だから同一じゃなく同一性じゃん。
でもさ、今日の自分と明日の自分が同一でないっていう事実は
実感できないように、思考経路が遮断されてる感じしない?
14 :
考える名無しさん:02/11/14 20:21
明日の自分は今日の自分が考えてるじゃん。
15 :
考える名無しさん:02/11/14 20:24
自己同一性は、単なる思い込みでしょ。
同一性を前提しないと、社会生活が営めない(責任問題など)
から、みんながそう思い込んできただけじゃないのかな。
>>12 へ? じゃ英語だと?
1>自分を自分たらしめる同一性とは何かについて
だから、要するに「昔も今も明日も自分は同一であると感じる」
という現象が、「自己同一性」です。
おそらく脳内の回路で実現されています。
それが故障すると、「解離性...」になるんでしょうよ。
ちなみに、「自己」というものは、単純に
精神を宿した皮膚の内側のみを指すばかりではありません。
「いま・ここ」を核とする時空であれば、
いろいろなものがこれになり得ます。
例えば、「家族」や「肉親」「同郷人」「同士」とか。
こういう拡大された「自己」にやはり同一性があり、
生体として機能(生存)するのです。
つまり、一見利他的に見えたりもする、凡そ生けるものの全ての行動は
拡大されたある「自己」に対して利己的なのです。
動物や植物は意識がないが、こうした原理は所謂本能=無意識で
実現されています。
まあ人間は、意識機能を特別扱いしたがるだけのことともいえますが。
自己同一性とは、生物が生存するために必要な自己弁別ですね。
あるいは、
自己弁別機能をもち生物が生存しているという現象の一端が、
意識という人間特有の機能に反映されたのが、
自己同一性の感覚といってみましょう。
18 :
考える名無しさん:02/11/14 20:45
>動物や植物は意識がないが、こうした原理は所謂本能=無意識で
>実現されています。
それは人間の勝手な解釈だ。人間を尺度とした。
植物にとっては迷惑だろうな。
「勝手」って一体なんですかー。
植物は迷惑がるんですか、人間みたいですね。
ところで、「自己」ですが、
拡大されるばかりでなく、縮小することも多い。
「心」とか「魂」とか。
サイボーグとか外科手術とかは、
こうした縮小された自己認識があって初めて可能となる。
動物などは、皮膚の内側に自己がしぼむことは絶対無い。
20 :
考える名無しさん:02/11/14 21:01
「せ」
もっとがんばれ!
21 :
考える名無しさん:02/11/14 21:01
>「勝手」って一体なんですかー。
人間は自分の視点からしかものを見ることができない。
しかし、そのことを自覚しておくことは重要ですよ。
哲学で「人間中心主義」として批判されてきたことを
考えましょう。
じゃあ、
植物が人間みたいに迷惑がるという発想は、
植物にとって迷惑じゃないですかー。
23 :
考える名無しさん:02/11/14 21:04
24 :
考える名無しさん:02/11/14 21:06
植物並みの自己しか持ってない
「せ」よ!
まけるなよ!
25 :
考える名無しさん:02/11/14 21:12
ぴかあーのいいお友達になれそうなのがでてきたな。
植物に対する侮蔑は止めたまへ。
>>17 >「いま・ここ」を核とする時空であれば、
>いろいろなものがこれになり得ます。
>例えば、「家族」や「肉親」「同郷人」「同士」とか。
>こういう拡大された「自己」にやはり同一性があり、
>生体として機能(生存)するのです。
拡大された自己って何?
それと「家族」や「同郷人」って、個人のことを言っているの?それとも集団のことを言ってるの?
うぃとげんの家族的類似とかなんとか
>>27 共同体のことです。
神風特攻は、自己犠牲・利他的行為ですが、
日本という拡大された自己に注目すれば、利己的ということになります。
白血球という細胞は、体内に侵入したミクロな異物を食って死にますが、
人体という細胞共同体という観点からは、利己的行動です。
意識機能により形成される社会=人間共同体には、
意識空間に定義される倫理という法が存在しますが、
それがもたらす秩序は、社会共同体といういわば生体の生存のためにあります。
>「昔も今も明日も自分は同一であると感じる」という現象が、「自己同一性」です。
>「自己同一性」とは、「生物が生存するために必要な自己弁別」ですね。
>「自己弁別機能をもち生物が生存しているという現象の一端が意識という人間特有の
>機能に反映された」のが、「自己同一性の感覚」といってみましょう。
「自己同一性」とは、「生物が生存するために必要な自己弁別」だというのなら、
「自己同一性」が「自己同一性の感覚」であるというのは少しおかしいのですよ。
>>28 「同一性とその機序」を、オルガノンから踏み出さないように言い換えたのが、
「名指しと必然性」ではないかと想う。
社会や国家は生体じゃないと思うけどなー。
集団は擬似的に生体のように振る舞います。
「自己同一性」スレに名前を変更してくれませんか?
>>34 どうやって?
生体という考え方は、個体がありその中にそれぞれ機能があり、それぞれの機能がシステムとして動作する。
集団では、それぞれの個体が機能としてシステムチックに働く傾向があります。
逆に考えると、システムとして動作するそれぞれが個体である。
生体は個体の集まりである。何を個体とするかは境界の問題である。
集団はいいんだけど、生態の定義が少し大雑把過ぎないかい?
あ、いいやそんなことはどうでも。
でも、「生体である」ということと「擬似的に生体のようである」というのは
違うのではない?
>それがもたらす秩序は、社会共同体といういわば生体の生存のためにあります。
べつに私が答えることではないのですが、「いわば生体」でしょ。
だから「いわば生体」と「生体」は違うのでないかって。
どうなんでしょう、「さ」さん?
ああ、じゃあ生体を定義してみましょう。
1. 生体とは、その内部の秩序と、外部の混沌の関係性である。
2. 生体構造には、内部と外部とその境界である皮膚が在る。
3. 生体(システム)は、生体機能をもつ。
十分生体機能とは、代謝と治癒と発生・成長・生殖である。
必要生体機能とは、代謝と治癒である。
4.全ての生体機能は、十分生体機能に帰着する。
また、全ての生体は、必要生体機能をもつ。
こんなんどう?
人間共同体や国家は、生殖機能は怪しいけど、上の定義では、
十分生体機能をもつ、狭義の生体に当てはまる。
あ、逆だった。共同体は、
×十分
○必要
うーん。とりあえず分からないところを聞きますね。
1.「内部の秩序と外部の混沌の関係性」ってなんだい?
2.社会や国家には皮膚はないんじゃ?
45 :
考える名無しさん:02/11/15 01:02
で、自己同一性はどうなったんだよ。
4. 代謝とは、外部と内部の間で物資をやり取りして自らを形作る素材を刷新するすることであり、
その意味は、生体構造の混沌化を防止である。
即ち、生体構造の恒久化機能である。代謝機能が不完全であるために生じる、生体構造の劣化を、老化という。
5. 治癒とは、小規模な機能・構造の破壊である怪我・故障・疾患を自ら修復することであり、
その意味は、生体機能の混沌化を防止である。
即ち、生体機能の恒久化機能である。治癒機能が不完全であるために生じる、生体機能の劣化を、障害という。
6. 生体が、生体でないものから生成される過程を発生という。
7. 生体が自己を複製し増殖することを生殖という。
8. 生体の物理的強制力や情報処理能力が増大することを成長という。
あー、なんか細かい話になってきそうだな。
でもね、言いたい事はなんとなく分かるのよ。
ただ、社会や国家は生体に当てはまるってのがちょっと納得いかないのですよ。
僕としては生体の機能、あるいはシステムが社会のそれと「似ている」という
ぐらいの感じかな?
49 :
考える名無しさん:02/11/15 01:09
>>せ
>例えば、「家族」や「肉親」「同郷人」「同士」とか。
>こういう拡大された「自己」にやはり同一性があり、
>生体として機能(生存)するのです。
と言っておいて
>生体構造には、内部と外部とその境界である皮膚が在る。
はないだろ。
この馬鹿ぶりはぴかぁ〜そのものだな。
>>49 まあまあ、そう慌てないで。
「さ」さんも今何か書いてるだろうから。
>>49 そうそう、いつもきみはフライングぎみだな。
↑ちと日本語変なのは容赦。
>>44 そういう説明は私が一方的に面倒なので、
あなたも努力してくださいな。
つまり、あなたが漠然と脳内で定義している、
生体に必須の性質をあげてください。
それが、私の定義から導ければ問題はないということ。
例えば、本当は「皮膚」とはなにかが定義されなければ、
あるなしは判断できない。
でも、全部をこの場で瞬時にできないですよ。
国家の皮膚は国境とかですよ。その他国際条約とかそういうのも、
入れられる定義ががんばればできると思うよ。
>>47 ん〜、まずは「べし」じゃなくて、「べからず」の方から行った方が良くは無いか?
「同一性を持ち、同一性判別手続きが、外部に規定されないこと」
とか。
皮膚はちょっと具体的すぎるな。
境界とかそういうことだろうね。
ああ、皮膚にこだわりますか。
まあ大体似てるとかなんとか、哲学を語るものが良くそんないい加減な。
その脳内定義をちゃんと書き下してくれないと、話にならん。
他人の脳内を推測するのは苦手じゃないがね。
>>52 それは失礼。
細かい点は分かりませんが、大体のイメージは48に書いておきました。
国際条約?
それがどうして皮膚なの?
>人間の細胞は日々新陳代謝を繰り返しており
>数年後には体の細胞はまったく新しい物になっているそうです
でも自分が自分であることには変わりないですよね
>自分を自分たらしめる同一性とは何かについて
>教えてください
脳細胞が分裂しないということで、まともったんじゃなかったけ。
まとまった
じゃあ、まず、人間や動物の皮膚(おそらく32の脳内イメージ)が、
生体にとってどのような機能を持ち、その機能が生体の生存にどのように
役立っているかをよく考え調べてみてくださいな。
なんで、生体にこだわるのかな。
生体は個体として機能し、集団も個体として機能する傾向があるでいいんじゃないの。
生体ということばにこだわるから、難しくなる。
62 :
考える名無しさん:02/11/15 01:31
>でも自分が自分であることには変わりないですよね
だから、「自分が自分である」とはどういうことか、ということなわけでしょ。
「脳細胞が分裂しないから、脳の回路が普遍であり、従って、
素朴な自己同一性の感覚が示す存在が実在する」というのは間違いです。
もしそうなら、SF的にコピー人間(脳)をつくると、おかしなことになる。
構造(物質の同一性)も機能(脳の論理)の普遍性も同一性の根拠にはならない。
>>61 だからー、だれもあなたの脳内の「生体」にはこだわってませんよ。
私が明文的に定義した「生体」について語ってるだけです。
別に生体じゃなくてXXXとしたって同じことです。
ちゅうか、もはや生体云々はすれ違いなので止め。
>「脳細胞が分裂しないから、脳の回路が普遍であり、従って、
>素朴な自己同一性の感覚が示す存在が実在する」というのは間違いです。
>もしそうなら、SF的にコピー人間(脳)をつくると、おかしなことになる。
>構造(物質の同一性)も機能(脳の論理)の普遍性も同一性の根拠にはならない。
脳細胞をCDと考えて、フォーマットされ、日々そこに情報が記録される。
SF的にコピー人間(脳)をつくる場合には、その今までの情報もコピーされれば、
同一ではないの。
生体云々で話が間延びしてるなら、もっとわかりやすく個体とするほうが
誤解がないというだけ。
集団は生体であるとは、さすがにわかりにくい。
69 :
考える名無しさん:02/11/15 01:45
しかし、メディアとしての脳が、CDと同様の特性を持つかどうかはいまのところ明らかでは無い。
アナログテープのようなものであったとしたら、劣化なしの複製は不可能だ。
70 :
考える名無しさん:02/11/15 01:46
それはいいんだが、「個体」って何よ?
たしかに、スレ的にミスリーディングな用語を私が使ったということで、
決着決着。
>>69 同一性の議論をするのに、「劣化」なんてそんな簡単に持ち出しちゃぁ・・・
>アナログテープのようなものであったとしたら、劣化なしの複製は不可能だ。
不可能可能の問題ではなくて、仮にアナログテープでもいいが、
複製されれば、同一ではないのかということ。
人体(脳)がSF的に完全にコピーされれば、それは同じ機能をもつでしょうよ。
当然。
いまいち、話についていけないのですが、
「自己同一性」って、素朴に「自己同一性の感覚」が指し示す存在、
のことをいっているのではないの?
定義いっとくれ!
例えば、SFとかで、人体を素粒子かなんかに分解して、
「転送」して、現地で再製して、「瞬間移動」ってことにするあれ、
どう思いますかね。「同一性」はとぎれますか?
素粒子に分解ってこれ以上ないくらい死んでますよ。
>人間の細胞は日々新陳代謝を繰り返しており
>数年後には体の細胞はまったく新しい物になっているそうです
>でも自分が自分であることには変わりないですよね
>自分を自分たらしめる同一性とは何かについて
>教えてください
結局、1は、すべての細胞がある期間ですべて入れ替わるのに、
そのときに入れ替わる前の自分と、入れ替わったあとの自分は
同一の人物であるということはどういうことなのかって
聞きたかったのでは。
>>75 ん〜、転送先の自分が十分同一であることを確認してから、
転送元を分解した方がいいと思うなぁ・・・
>>77 手術のまえに、麻酔して、神経回路を停止して、
手術後にハイ生き返りましたって言うあれ、
どう思いますかね。「同一性」はとぎれますか?
私は上記「SF瞬間移動」と大差ないと思いますよ。
もともと、同一性自体がないから、気にすることもないですがね。
>>79 どうでしょう。同一性の担体であるところの、(人間ならば)生体の
構成要素とくらべて、どれほどその存在は磐石でしょうか。
どっちもどっちなら、とりたてて、「同一性が無い」なんて主張する
に値しないようにも思います。
コンピュータのハードとソフトの関係で類推すれば、担体と現象と、
どちらの同一性がより長寿であるかは、場合によりますよね。
なんか、どっか別のスレで見たな・・・この議論。
>>80 ええとお、「同一」には三つの意味があります。
CD屋に2枚在るCDが同じであるという「同じ」と、
私が購入したCDとがCD屋のと入れ替わっていないという「同じ」。
最後が、解離性同一性障害者以外の人間の感覚が指し示す自己同一性です。
あなたの言っている同一性は二番目のように思えますが、違いますか。
コピーや瞬間移動後や麻酔後は、構造も機能も(担体も現象も)その意味では
同一です。
しかし、コピー君が目の前に現れて、二人は同一だと言われても困るのが、
三の意味です。
私はこれを、
「自己弁別機能をもち生物が生存しているという現象の一端が、
意識という人間特有の機能に反映されたのが、
自己同一性の感覚である。」といっているのです。
つまり感覚だけの現象であると。
>>81 ん〜?自己弁別は無意識で、自己同一性の感覚は、意識上?
自己同一性は、観念であって、感覚器で感知するのは、無理が
あるなぁ・・・強いて言えば、違和感を検知しない事を自覚している
状況か・・・う〜ん、、、無限にスパイラルしそうですねぇ。
83 :
考える名無しさん:02/11/15 09:57
A:理性的普遍者です。
84 :
考える名無しさん:02/11/15 20:16
>>72 >>69 での「劣化」は、CDとアナログテープの性質の違いとして持ち出したのであって、
ここで問題にしている 「同一性」 の問題に 「劣化」 を持ち込む意図は無い。
あくまでも、異なるメディアを簡単に比較できないということがいいたいだけ。
85 :
考える名無しさん:02/11/15 20:17
>>73 だからその「複製」とか「同一」ってのは何をもってそうだといってるわけ?
情報が自己同一性だろ。
遺伝子に保存されてる情報は変わらない。
細胞分裂する生命は、分裂後で同一なんだろうか。
>>87 まず自己認識がないだろ。
86は根拠ね。
自己認識がないと、同一性を論ぜないのか?
90 :
考える名無しさん:02/11/15 22:13
ちょっと固くないか、生命でもよくねぇ
他の同一性に関してはせさんとぴかぁ〜さんに任せるよ。
でも
>>87は俺的には興味深いね。
94 :
考える名無しさん:02/11/15 23:52
このスレは本当に面白いなあ。
しかし、国家の皮膚が「国境」だなんて、笑ったよ。
プラトンか、おまえは(w
95 :
考える名無しさん:02/11/16 00:31
お前ら『グラマトロジーについて』読まないとサルだそうだよ。
お前らの求めている事が書かれているよ。
グラマトロジー
デリダの概念で書記学。エクリチュール(書き言葉)についての学問。ソシュールの言語学は音声中心主義内にあるとし,
その言語学を基本原理とした記号学を否定した。記号過程とは記号の他の記号への関連づけに過ぎず,痕跡の連鎖でしかない。
記号過程において,意味は充足する事なく絶えず引き延ばされ差延化されるとした。
97 :
考える名無しさん:02/11/16 01:04
サルだと言われたからといって本当に猿性を剥き出しにすることないだろ。
脳内君は脳内だけで笑ってると恥かかずにすむよ。
議論の余地のない哲学的に戯言しか言わない人もね。
とにかく、漠然と「同一性」といっているのが、
「同一構造」なのか「同一構造かつ同一物質」なのか「第三の同一」なのか
ハッキリしないと、うまく議論できませんねえ。
同一構造→同一構造&物質→第三の同一の順で条件は厳しいようですよ。
100 :
考える名無しさん:02/11/16 02:24
自己同一性ということであれば、固定的な構造とか物とかいっても単なる
分類になるね。
同一性は弁証法という病というべきか。
喩えは悪いが、整形手術。
自分の顔のまずさの認識と、その否認があり、その止揚が整形手術。
しかしその止揚はあらかじめ上から逆規定されているから、希望的同一性
に現状の同一性とその否認が従属している。
だからといって涙ぐましい同一性の形而上学的努力をくだらないといって
切り捨てるわけにはいかない。
大切なのは、病の自覚という契機だから。
101 :
オルガヌム:02/11/16 02:31
>>99 あぁ、確かな同一性を基盤として、より複雑な同一性へと向かおうとする
見取り図ですね。純朴でいいなぁ・・・皮肉じゃないですよ。
ただ、私は、逆の道をとるべきだと思います。藍から青へ。
自己同一性を感じるからといって感覚だけの現象だとは言えないのではないかなあ。
103 :
考える名無しさん:02/11/16 10:28
分裂病、性同一性障害の患者の特徴として挙げられるのは
同一性を求めている、ということである。
104 :
考える名無しさん:02/11/16 11:00
ぶっちゃけた話、朝起きたときでも、昨日との間に意識の断絶があるわけだが、
昨日の自分と現在の自分について、同じものであるという、
漠然とした確信を、普通の人は持ってるわけだけれど・・・。
105 :
考える名無しさん:02/11/16 17:03
論理的普遍者、本性的普遍者、理性的普遍者のいずれか。
107 :
考える名無しさん:02/11/18 01:13
ここはパーフィットすれですか?
108 :
考える名無しさん:02/11/18 23:44
>>101 言っている意味が殆どわかりませんが、多くの人は、
「同一性そのもの」というプラトン的な形而上学に拘泥しているようですね。
そういう感覚世界をほじくっても、実証的に他人に伝達可能な内容は出ません。
形而上学(=感覚主義)が何故ダメかは、スレ違いなので止めておきましょう。
109 :
108=せ:02/11/18 23:56
>>102 机の上に花瓶があると認識するのは、花瓶の視覚映像の感覚があるからです。
花瓶の視覚映像があるのは、花瓶が実証的に存在しているからであると、
必然に近い確度で考えられます。
このように多くの場合、存在感は、実証的な実在から生じると推測される。
花瓶が存在する感覚(知覚)は、花瓶の(実証的)存在を示す、ということになる。
従って、素朴な「同一性の感覚」は「同一性なるもの」の存在を示す、と考える。
花瓶の存在を示す感覚(知覚)は、視覚以外にも、触覚その他、
科学的な測定や、他人による確認の伝聞など、多岐にわたり、
花瓶の実在の(実証的)確度をどんどん上げることができる。
一方、「同一性」のほうは、自分の「感覚」以外には一切全く何もないという、
極めて特異な「存在」なのです。
しかも、その「存在」がその感覚どおりの性質をもつのであると仮定すると、
今まで例に上げたような、物質的・構造=機能の実証的な文脈と整合性が
なくなります。
しかも、そうした「感覚」が存在する理由は、生体の生存の原理から
説明できます。
また、「同一性」感覚は脳の障害により失いうるという症例もあります。
以上より、「同一性」は感覚だけの存在であり、
脳の機能により実現されているとすると、最もよく現状にあいます。
意識における自己同一性感覚とは、
身体における免疫機能と同じ、生体が生存のために必要な、
自己弁別機能であるといえましょう。
114 :
考える名無しさん:02/11/19 03:16
自己、非自己で面白いのはどこで自己から非自己になるかでしょ。
例えばゲロは胃の中に入っている時は気にならないが(自己)、一旦テーブルの上
に出るともう一度胃の中に入れたくはなくなる(非自己)。じゃあどこに境界線が
あるのか。俺の場合は喉から少し口に入った時はもう一度飲み込めるが、口いっぱい
にたまったらもう飲み込めない(W。これは異文化でもそんなに変わらないような気
がする。明らかに構造主義的問題なのに、構造主義的に語る事に違和感がある。
>>114 だから自己非自己についてはもう語ってるよ。
上の方みてね。
117 :
オルガヌム:02/11/19 22:44
>>108 まぁ、積極的に形而上学的な議論だけに拘泥するのもちょっとどうかとは
思いますが、同一性に関しては、実証可能な話だけに絞るほうが、もっと
無理がありますよ。ですから、双方包含したまま議論は開始されるべきだ
と思います。
なんたって、人生はたった一度、ですからね。
118 :
オルガヌム:02/11/19 23:26
>>110 なるほど。
でもふしぎですよねぇ。自分の同一性が、実験的に確度を上げられないのに、
花瓶の方はそれができる。では、いったい誰が花瓶を認識しているのか?
花瓶の同一性を確認できることそれ自体が、観察者の同一性を、同等の確度
で支持しているとさえ言えるかもしれませんね〜
>>118 >自分の同一性が、実験的に確度を上げられないのに、花瓶の方はそれができる。
>では、いったい誰が花瓶を認識しているのか?
花瓶を認識しているのはあなただけではありませんよ。
私も認識しているし、カメラも認識しているし、
科学測定器もその存在を認識していますよ。
そのことに関しては何の不思議もありません。
>花瓶の同一性を確認できることそれ自体が、観察者の同一性を、同等の確度
>で支持しているとさえ言えるかもしれませんね〜
いえません。全く。
ある人物が花瓶の物質的&構造的な同一性、即ち実証的同一性を確認できるのは、
その人物が、物質的&構造的に同一、即ち実証的に同一だからです。
あるカメラが花瓶の物質的&構造的な同一性、即ち実証的に同一性を確認できるのは、
そのカメラが、物質的&構造的に同一、即ち実証的に同一だからです。
「自己」に関する不可思議性についていうなら、
それは、このスレの話題である「自己同一性」とは別の問題なのですよ。
自己同一性感覚の問題は、全く実証的な範囲に収まっているからです。
それは、「人格」が何か超越的な存在であると感じるとしても、
「人格」自体は、脳の諸機能が実現する性質の総体であり全く実証的なのと同じです。
物事が実証的でなくなる限界点は、「いま・ここ」にあります。
そこには、脳も人格も自己同一性感覚もない、
時間・空間的に何の延長もない時点です。
122 :
考える名無しさん:02/11/20 02:13
>>119 >ある人物が花瓶の物質的&構造的な同一性、即ち実証的同一性を確認できるのは、
>その人物が、物質的&構造的に同一、即ち実証的に同一だからです。
>あるカメラが花瓶の物質的&構造的な同一性、即ち実証的に同一性を確認できるのは、
>そのカメラが、物質的&構造的に同一、即ち実証的に同一だからです。
トートロジー (ぷ
124 :
考える名無しさん:02/11/20 02:59
>>122 トートロジーってどういう意味か知ってる?
125 :
オルガヌム:02/11/20 09:53
>>119 まず、対象を切り取る段階で、すでにあやふやな見る側の恣意が入っています。
さらに、次のたとえを考えましょう。
ある、魔法使いがこの世の同一性を打ち砕くべく、藍(染料)の物理特性を
まげました。手元のお札を見たら、なんか妙な色じゃないですか。自販機に
も、拒絶されました。ここで、物質的同一性は、確かに途絶えたわけですが・・・
近所の八百屋さんでは、難なく使えました。
構成基盤の同一性と、その上の現象の同一性との関係は、そう簡単に結び
つけたり、割り切ったりできるものではありません。
確率論を用いれば、「可能性」という、素朴な意味ではこれ以上ないぐらい形
而上学的考察対象でさえ、実証手段を与えられます。しかしその場合でも、
解釈にあたっては、は、どうしようもなく、生の不安が付きまといます。
126 :
考えた名無しさん:02/11/20 09:55
127 :
考える名無しさん:02/11/20 09:56
同一性=〜らしさ、です。
128 :
考えた名無しさん:02/11/20 10:22
>>127 同じ性格を持つ2人がいたとしても、
当人にとっては片方は別人では?
129 :
考える名無しさん:02/11/20 10:44
せさんは18世紀の方ですか?
前現象学的、前言語哲学的、前構造主義的
130 :
考えた名無しさん:02/11/20 11:00
つまり同一性とはジャズ板における奈々死産@のようなもんです。
132 :
考える名無しさん:02/11/20 16:44
原子レベルで考えると全てのものは変化する。
同一性というものは錯覚。
まぁ理系の人からみるとこういう回答になるな。
>>129 「自己同一性感覚」については、現象学のようなものを持ち出さなくとも、
フツウに実証的な範疇で説明できるということを言ってるんですよ。
花瓶の存在と同じです。
花瓶の現象学と自己同一性感覚の現象学は同じだということですよ。
分かりますかねえ。
じゃあ例えば「人格」はあなたにとって「現象学」でないと扱えないものなんですかねえ。
134 :
オルガヌム:02/11/21 00:33
>>133 むしろ、
「自己同一性感覚」について、実証的な範疇で説明することは、
一般には不可能です。
花瓶の存在と同じです。
135 :
考える名無しさん:02/11/21 00:39
ぴかあーのシステムどうこう個体どうこう皮膚どうこうってのは
河本英夫の論述のパクリだろ。出典明記くらいしろあほ。
しかも議論の細部が分かってないせいか
ひどくお粗末な意見にしかなってないし。
>>125 私の「経験」では、確度以外にはなにもないのですが、
それはあたりまえのことであるから、いちいち不安に思う必要はありませんよ。
それは、おそらく単なる死の不安の乱反射のようなもんでしょうよ。
実証とは確度以外の何者でもないということは、当然理解していますよね。
感覚をほじくる行為(=形而上学)は、哲学的な結果はあまり生みませんよ。
例えば、ムカデが気色悪いという感覚を考察するに、
足がいっぱいあるからとか、節くれだってるからとか、色合いがとか、
そうした感覚を幾らひねくっても、おそらく迷うだけです。
単に、毒があるから忌避する必要があるだけです。
感覚に対する行為は芸術などにしかなりえません。
学や知ではないのです。
>>135 河本英夫が誰か知らんが、
できれば、知能を感じられる批評を頼むよ。
>>134 では、あなたは何故、林檎が木から地面に落ちることはあっても、
空に上っていくことがないという前提で、生活しているんですか?
あなたの「現象界」に存在する確度の体系が実証的世界ですよ、
と言うほうがよい?
139 :
オルガヌム:02/11/21 00:56
>>133 指標の測定値をもってそれらの同一性を追跡しようにも、その指標の同一性
がまた、観測者の同一性と同程度の確度しか無いならば、基盤を与えません。
せいぜい、観測固有値を与える機会がある程度。観測者=非観測者の場合
を考えれば、自己同一性も同じこと。
>>139 だからそれは現象学の一般論であって、
自己同一性感覚が花瓶と同じ「実証的」範疇にあるという私の主張に
どう反駁しているというのですか。
142 :
考える名無しさん:02/11/21 01:07
時間と場所が違うだけで、もはや同一ではないだろ?
あなたの脳内に、どうやってそうした確度の体系=実証世界が形成されるのか、
ということは、別問題ということがお分かりでしょうか。
それが解決しなければ、実証世界は全くナンセンスなんでしょうか。
それじゃあ全ての学問は全てナンセンスですね。
145 :
考える名無しさん:02/11/21 01:14
>>144 それ以外にどう定義するの?
過去レスに書いてあれば、番号教えて。。
>>144 でも、それ以外の定義のしかったて、きわめて難しいよな。
>>146 難しいけど、普段やってるよな。
パタン認識だね。
全ての、世界連続体からの切り取り行為(=記号作用)は。
例えば、富士山は一体正確に何処から何処までが富士山なんだ?
148 :
考える名無しさん:02/11/21 01:27
>>147 つまり、「あたかも同一であると見なすこと」ということか?
>>145 ええと、
>>81 でも、してます。
(ただ、81 には、間違いも含まれてます。コピーは物質的には非同一です。)
時刻までを定義にいれると、人文的意味世界にとって厳しすぎますね。
>>147 つまり、あなたの脳内にあるパタン認識回路を、富士山の同一性の定義にすれば、
「あたかも」なんて言う必要はなくなるよ。
あなたは、花瓶を花瓶、バケツをバケツと弁別できるのだから、
そこに、定義としての同一性があるわけ。
科学的な測定も、人間の感覚も、全てこの実証世界を切り取る測度は、
測定誤差の範囲でおこなわれます。
151 :
考える名無しさん:02/11/21 01:40
>花瓶を花瓶、バケツをバケツと弁別できるのだから、
>そこに、定義としての同一性があるわけ。
それは同一じゃなくて同種でしょ?
富士山だって見る時間と角度が違えば当然同一じゃない。
あたかも同一だと思い込むことが生きていく上で有用だから、
粗雑な思い込みをしているだけでしょ。
>>151 では、見る時間と確度が違えど、それを「同種の」富士山と分かるのはなぜですか。
あなたの脳に感覚(回路)の同一性(=再現性)があるからです。
153 :
考える名無しさん:02/11/21 01:56
154 :
(・ω・):02/11/21 01:57
ちょっと書き込んでみるるる〜
同一性かぁ…今ちょっと同一性の定義域がまだよくわかっていないので
見当違いなとこから始まるかもしれぬがご容赦ねがいたひ。
例えば富士山。写真取るよね?見てみ、富士山だわな?
さて…葛飾北斎の富嶽うんたら見るわな…それは…?富士山だわな?
そういうことだと思う。同一である、と結論するのは我々の主観の
問題で、客観的に同一であるという確証はどこにもない。
乖離性同一性障害の話が出てたけれど、あれは過去のある地点の
記憶を、自分以外の誰かの出来事と認識することによって、
つまり自分でないと思う事によって(或いは又その結果として記憶
から追いやることで)それぞれ別の人格として振舞う障害だった
はず(素人知識ですが)これは過去の自己同一が断絶することで
あるけれど、はたからみたら同じ人だわな?客観性なんてないわさ。
ところで興味深かったのは生体とかの同一の境界だわさ。
あれにも客観的に妥当する境界を与えようとしてたみたい
な方々もあったようだけど、発達心理学とかによると、乳児は
自己と他者の境界が曖昧なんだそうだ。例えば自分の唇は大人に
とっても自己だが、乳児なんかだとママンのおぱーいも自己と区別
つかないらしいんだわ。そのあたりの境界が実に曖昧なんだそうだ。
長くなってしまったのでとりあいずここまでね。
155 :
ラマチャンドラン:02/11/21 02:10
>>154 右手を失った患者が、「右手の爪が手のひらに食い込んで痛い」
という。開くことはできないそうだ。そこで、鏡箱を用い、患者の左手が、
右手の位置に見えるようにしてやった。すると、患者は「右手」を開いて、
「痛みが解消された」。
>>154 >富士山だわな?
>そういうことだと思う。同一である、と結論するのは我々の主観の
>問題で、客観的に同一であるという確証はどこにもない。
あなたの定義する「客観」ってなんですかねー。
実証的な観点からいった客観なら、
あなたが、北斎をみて富士山と認識する確度が客観的に存在しますよ。
それは、隕石の軌道計算や天気予報や治水工事の確度と全く同じです。
157 :
考える名無しさん:02/11/21 02:16
>>156 絵の富士山はあくまで絵の富士山ですよ。
それに登ろうとは誰も思わないよ。
158 :
オルガヌム:02/11/21 02:34
>>157 そうやって、測定方法を勝手に導入したのでは、検証できなくなってしまいますが、
それでよろしいか?
159 :
オルガヌム:02/11/21 02:39
>>143 実証志向を貫いた個々の学問的実践は、有意義であることがままあり
ますが、それらを俯瞰して総括したポジティブな言明で、明晰かつ有意
義なものは、見かけない。それらに共通な欠点を、彼方の言明も持つ。
>>156-157 客観は、そうだわな…ある主観から離れて存するものかなぁ?
隕石の軌道計算かぁ。それほどの確度はないのではないかと。
直接見る富士山と、絵の富士山と写真のそれとは確かに
区別される(同一でない)かもしれないけど。
北斎の絵を見て富士山だと思っても
近所の子供の富士の絵を見て富士山だとわかるのは
その子だけかもしれないでございましょ?(親や幼稚園の先生
にすらわからないアバンギャルドな絵なら)
さて、その子供にとっては、自分の富士山も、北斎の富士山も
「ふじさん」ではあるよね?阿蘇山ではないでしょ?
でもその子の絵を見て、「あら何の絵を描いてるの?」と聞く
先生にとって、北斎の絵は富士山でも、その子の絵は富士山
ではないわけだ。そして、ふーじーさーん!というシャウトを
聞いてからは、一転して富士山になってしまうかもしれぬです。
客観的≒普遍性とも捕らえているかも、ここでの私は。
主観的≒個性とか。(ごめん、もちっと続く)
子供の話ではこんなのもあるですよ。
ある子供にお母さんが指差して「ほーら、わんわんよ」と言う。
すると、その子はそれがわんわんだと知る。
その時の犬が柴犬だと、その子はわんわん=柴犬と認識したり
する。(違うときもあるだろうけど)ところがその後お母さん
がマルチーズを指差して「ほーら、わんわんよ」子供は、
わんわんは柴犬だけでなく、ああいうもの全般を指すと思う。
そこでその子は今度は大胆にもネコを指差し「わんわん!」
その時点でのその子供の”わんわん”は四足の某。
しかしそこでお母さん「違うでしょ、にゃーにゃーよ」
そんなふうにしてその子はわんわん(犬)の定義域を
一般に妥当するところに絞り込んでゆく。
その手続きがあるから、同一性はあるものを同一と見做す
主観に依存するのではないかと思う次第ナリ。
この世には客観的でなくとも共有的なものがある。
それは人間の意識とかいうものです。
>>162 人間に常識的に備わる意識といったものの
一部は実際の所共有されていそうで難しいですにゃー。
ただ、普遍的に共有していると思っているものにも
実は後天的に獲得したにすぎない(獲得しない可能性もある)
というものも少なからず含まれているので、それのみを
同一性と認めるなら、同一性は非常に限定されそうですね。
その方がいいかも。
そういえば性同一性障害は
およそ殆どの要素が示す性と「自分は*性である」(男性or女性)
という同一性とが一致していないのだよねぇ…?
知恵熱出てきそうなので寝まつ。
>>160 150>つまり、あなたの脳内にあるパタン認識回路を、富士山の同一性の定義にすれば、
150>「あたかも」なんて言う必要はなくなるよ。
150>あなたは、花瓶を花瓶、バケツをバケツと弁別できるのだから、
150>そこに、定義としての同一性があるわけ。
150>科学的な測定も、人間の感覚も、全てこの実証世界を切り取る測度は、
150>測定誤差の範囲でおこなわれます。
人間の認識=判断が、科学測定器などに比べに揺らぎがあるように見えるのは、
人がシステムとして不完全だからでは全くなくて、
逆に極めて高度な環境適応性を持っているということなのです。
そういう意味で、人間の「生存のための認識の精度」はべらぼうに高いです。
>>161 人間や子供の、認識=記号作用の揺らぎ方は客観的に記述可能でしょうよ。
世の中は、複雑すぎで、人間の能力を超えることが殆どですが、
それを根拠に実証的客観性が破綻するとはいえませんよ。
ニ
168 :
考える名無しさん:02/11/22 01:21
チョムスキーのおっさんが言ってることってのは、
柴犬を指して「わんわん」をいわれたときに、
「わんわん」が「柴犬」ではなく「犬一般を指す」と
理解しうるような枠組みを生来的に人間は持ってる、
ってな意味なんだろか?
169 :
考える名無しさん:02/11/22 01:43
この世界に同一性を作り出しているのは構造主義の言う「構造」でいいんじゃない?
人は「構造」を通して世界を理解していて「構造」が換われば理解の仕方も変わる。
この「構造」が、ある2つの対象を同じカテゴリー内に押し込める時この2つは同一性
を持つと人は考える。「構造」が換われば同一で無くなったりする。
人に各人がどのような認識をしているかを知る術は永遠にありません。人は色を見て
これは何Hzであると計測出来る訳ですが、それをどのように認識しているかは各人
違うかもしれません。(余談ですが私の左右の眼は色合いが微妙に違います)
それでも科学理論は成り立ちゃいます。
逆の言い方をすれば科学理論が成立するのに各人の認識がばらばらでも全く構わない
わけです。信号機の前で俺の赤とあいつの赤は違うかも知れんなどと焦らなくてすむ
のと似ているかもしれません。
170 :
闇の中のオレンジ:02/11/22 02:33
>168
複数例のわんわんに出会ったとき、自然に「わんわんの典型」を形成する
仕組みがあるようです。
おにゃんこクラブはどうなるのかと
チョムスキーのおっさんが誰の事か一瞬わからなかった(w
自分で使っておきながら…
>>168 むしろ逆かにゃ。闇の中のオレンジ氏が説明してくれてますが、
犬という枠組みを人間は生来持っているのではなく、
経験によって獲得してゆくって事で。
ただ、自然にというのがどこまで自然で、どの程度
(周囲の)人間の意図が関与しているかは微妙。
>>せ氏
どうやら氏は自然科学が得意なようでつので、こんなネタを。
蛾と蝶、いますね?
ご存知かもしれませぬがこの境界線は実に曖昧です。
生物学的に区分しても区分しても、グレーゾーンに
なってしまう種が出てくるようで。
生物学的区分(同一、差異)の揺らぎ具合が
同一と見做す作業が常に主観としての我々を離れられない事を示す
いい証拠になるかなーと思たので。
>>169 しかもその科学理論すら、枠組みが変わる可能性が常に潜在して
いたりして、それでも成り立っているものだと思うー。
173 :
考える名無しさん:02/11/22 06:59
>>172 >同一と見做す作業が常に主観としての我々を離れられない事を示す
>いい証拠になるかなーと思たので。
同感。ついでに言えば、言語体系との関連も深いと思われるね。
フランス語では「蝶」と「蛾」の区別はなく"papillon"だそうですね。
どちらもフランス人の目には同じカテゴリーの存在に見える。
同様に「犬」と「狸」も区別せず"chien"。
つまり"chien"と「犬」、「蝶」と"papillon"は、カバーする範囲が違うわけです。
ソシュールがそういうことを言っていたと思います。
言語体系に限らず、社会的な約束ごと、というような側面が大きいのでしょうね。
例えば、日本人の多くは太陽を赤で描くが欧米人は黄色で描く人が多いのは
なぜなのか、などなど。
174 :
オルガヌム:02/11/22 08:59
>>173 では、「電荷」とか、「質量」とかは、どうでしょう?
その実践的定義には、無論歴史的変遷がありますが、
それは、収束へ向かいはしませんか?
その収束先が、信仰対象としての「物理的事実」であり、
かつてあったどの宗教よりも、強固な信頼を、厳密科学
という独特の手法により獲得しているわけですが・・・
心と他者 野矢茂樹
同一性・変化・時間 野矢茂樹
176 :
闇の中のオレンジ:02/11/22 09:20
AIに汎用の知能持たせようとしても、すぐにフレーム問題にひっかかって
パンクしちゃうのに、人間ときたらやわらかい典型を応用して、いきなり出てきた例外にも
もにゃもにゃっと対応しちゃうし、定義できない概念でも適当な理解でなにげに議論できちゃうし、
せさんも166で言ってるように、人間の性能はまったく油断ならん。
177 :
闇の中のオレンジ:02/11/22 09:35
極端に言うと、胎児はどんな世界にも対応できるように完璧な脳を持ってる。
生まれちゃった世界に対応して不要な部分を削除しながら適応してゆく。
一歳ぐらいまで、大脳皮質だけで一日百万個くらいのオーダーで脳細胞は死んでゆく。
聴覚に関して言えば、赤ん坊は絶対音感持ってて、大人より可聴音域がずっと広い。
日本語聴いているうち、日本語に使う音韻に敏感になり、他は鈍感になる。
こんな仕組みから考えれば、全然ちがう異世界に生まれれば、全然ちがう科学を
作っちゃうのかもな〜、とか思ったりして。
178 :
考える名無しさん:02/11/22 09:48
ふむふむ
んな識別力あんのかね
180 :
考える名無しさん:02/11/22 20:47
>>174 >信仰対象としての「物理的事実」であり、
>かつてあったどの宗教よりも、強固な信頼を、厳密科学
>という独特の手法により獲得しているわけですが・・・
未だに科学を信仰してる奴はぴかぁ〜ぐらいじゃないの?
科学万能主義は過去の遺物。ふるいふるい。
>>177 >こんな仕組みから考えれば、全然ちがう異世界に生まれれば、全然ちがう科学を
>作っちゃうのかもな〜、とか思ったりして。
そりゃそうだよ。
全然違う哲学、芸術、宗教ができるだろう。
ひょっとしたらそこでは科学なんて必要ないかもしれない。
我々が学校で習ってきた図形数学では三角形の内角の和は常に180度になりますが
例えば球の表面上に描かれた図形数学(リーマン幾何学)では180度にはなりません。
「直線」や「角」のような科学の基礎概念でも把握の仕方が違えば(「構造」が違えば)、
新たな意味と新たな関係が見えてきたりします。
「科学」とは何かが脳内感覚定義から一歩も出ないで、
その自分の定義を理解してない人が多いようですね。
そうした脳内「科学」について語るのは、かなり大変だけど。
科学と実証と、
林檎が木から地面に落ちる確度の関係をまず理解しましょうね。
>>181 「構造」の意味(定義)がいまいち分かりませんが、
まず数学とは、論理そのものであり、
実証世界(科学の対象)とはなにもかかわりありません。
この意味は理解してますかね。
そういう意味、数学(論理学)は、科学ではありません。
所謂「構造」っていうのは、世界連続体が、全くの混沌ではなくて、
人間の記号作用(意味の分節化)の手がかりになる傾向が、
あらかじめ客観的に存在しているということを言っているのではないですか。
様々な言語や思想が存在し、例えば、蝶と蛾や魚と獣の区別や何かがあっても、それが、傾向(測度)という実証的方法論で、客観的に変換可能であることから、
そうした、「傾向」の客観性が示されます。
そもそも、
記号化とは、ある土地の盛り上がりが「山」であるとか「丘」であるとか
大雑把にパタン認識することから生じます。
そうした感覚の境界が曖昧だからといって、
土地の盛り上がりという客観的な傾向が存在しないということにはなしません。
人間の言語的記号化(世界の意味分節化)が恣意的だからといって、
その対象である世界連続体の「傾向(構造)」が、
存在しないということにはなりませんよ。
そういうことをいうと、ものさしで長さとか図れませんよ。
だって、長さの測定も、必ず測定誤差のはんいでしかありません。
だからといって、長さという量が存在しないとはならないのです。
また、長さの単位が、尺貫法だろうと、MKSだろうと、
そこから構築される実証的な知識はまったく同じです。
科学のパラダイムシフトを誤解(曲解)している人もいるようですが、
例えば、ニュートン力学から相対論への場合は、
純粋に測定誤差の問題です。
つまり、測定能力が向上し、ニュートン力学が合わなくなったため、
相対論が導入されたのです。
実証とはそういうものです。測定と論理によって成り立っているのです。
つまり、そうした「パラダイムシフト」は、実証の方法論に内包されているのです。
むしろ、ここで脳内感覚をダンプしているような「反実証派」の感覚主義は、
実証的なパラダイムシフトということはありません。
単に感覚が無くなったり出てきたりするだけですね。
「確度」とは、認知(測定)とその再現性の構造です。
凡そ、私の経験によると、世界あるいは世界内の存在とは、
そうした、実証的な確度以外であったことはありません。
いま目の前に見える花瓶の振る舞いが私の確度体系に従うであろう、
ということです。それが、実証的世界です。
そして、凡そ、実証世界は存在していますよ。
それ以外の(実証的でない)ものの存在様式は、信仰様式といいます。
キリストと、実証世界の存在は、明らかに異なります。
キリストの復活はあったとか、魂は存在するとかそういうもののことです。
そういう意味、実証世界の存在様式は、信仰の様式とは明らかに異なります。
これが、同じだといいながら、この世界で生存しつづける行動がとれる人の、
カマトト振りは痛いとしかいいようがないですよ。
自分を自分と認識する感覚・イメージ・記憶などが、同一性と単純に解釈してはいけないのでしょうか?
自我同一性とは違うはなしですね。
んー。せ さんが仰るのは
量的差異の識別であって
同一性はむしろ質的差異に関わるような気がする…?
>>192 そういう意味で、実証的世界には、そうしたプラトニズム的な、
「質」即ち、「何々そのもの」はありません。
あるのは、測度と論理だけです。
言い換えれば、「質そのもの(イデア)」は実証的でない、
即ち、信仰的な存在です。
つまり何らかの定義を離れた「同一性そのもの(イデア)」は、
実証的に存在しないということですよ。
それは、「富士山そのもの(イデア)」が存在しないということと同じです。
あるのは、富士山の定義や、脳内のパタン認識回路だけです。
>>せ、さん
なら同一性は実証的世界には存在しないのでは?
ある程度の範囲を同一とすることの利便性から
人間が便宜上行う識別。それが同一性であり質的差異、
てな具合に。
量的なものは確かに測量可能ですが、それは何かと何か
を同一であると見做す作業とは異なっているような?
デムパにしても、測量基準であり、デムパという同一性
に含まれるもの、ではないはず。
藍より青し、てな具合に同一性は主観が介入している
ようなヨカーン。例えば同様な試行をしてみようとしても
デムパよりデムパらしいデムパや、デムパほどデムパでは
ないデムパなんてぇのは、ないでっしゃろ?
>>194 存在には、実証的なものと、信仰的なものがあるとしましょう。
>なら同一性は実証的世界には存在しないのでは?
プラトン的な感覚即ち「そのもの(イデア)」は実証的に存在しません。
信仰的には、そう感じる(信じる)人と、そうでもない人が実証的に存在します。
あるいは、同じ人でも、状況や気分によってそうした感覚は変わります。
しつこいですが、だからといって、
同一性の傾向が客観的に存在していることにかわりはないです。
>藍より青し、てな具合に同一性は主観が介入している
>ようなヨカーン。
あなたの脳のパタン認識の結果は、あなたの脳に依存していますよ。
>例えば同様な試行をしてみようとしても
>デムパよりデムパらしいデムパや、デムパほどデムパでは
>ないデムパなんてぇのは、ないでっしゃろ?
デムパなるものも、測定誤差の範囲で観測されるでしょう。
観測結果から、デムパの定義にはまるかはまらないかは自動的に決まります。
196 :
考える名無しさん:02/11/25 02:12
イデアは「感覚」じゃないと思うが。
>>196 ではなんですか?
直感ですか。直感と感覚とどう違うんですか。
直感には、デムパが入ってるところが違うんでしょうか。
イデアって約束ごとじゃないの?
思考
|
感覚---+---直観
|
感情
200 :
考える名無しさん:02/11/25 06:23
>>197 つうか、なんで「感覚」や「直感」だと思うわけ?
一つの概念に過ぎないと思うんだが。
意 識:思考 直感
無意識:感情 感覚
202 :
考える名無しさん:02/11/25 12:19
不変という変化。
実証的世界(観)というのは
同一性という枠組みで世界をみる世界(観)である。
せ氏は頭かたすぎ。理系の人なのかな?
哲学を学んでもっと柔軟に、多角的に考えてみよう!!!
205 :
オルガヌム:02/11/25 21:54
>>185 言語による指示対象が存在しても構いませんが、
その間の関係に必然性は無いわけですから、支持の実践以上の確度を
「指示対象」に求めることは、宗教や規約の域を出ません。
科学的アプローチの威力は、現時点での指示に不完全があろうとも、
どの不完全さ一つとってみても、いつ解消されるか知れない、という
恐怖を、神秘主義志向の人々に与えるところにあると思います。
その力の源泉は、徹底したプラグマティズムにあるわけですが・・・
>せ氏
客観的に観測可能であるというのでしたら
例えばどのような同一又は差異が、どのような方法で、
どのようにして観測されるのかという具体例を例示
して頂けるとあり難いッス。
同一性の主観依存を主張する私としては基準が明瞭に
現れるとは思えにゃい所です。藍より青しにしても、
青という同一性の範囲で、"藍”は境界のどちらとも
つかないところにあるから藍より青しなんて言えると
思ってマスので。(でなきゃ藍はそもそも青くない)
>>204 あなたの定義する柔軟とは、いい加減ということですかねー。
いい加減で思いつきな言説と議論を成り立たせるためには、
大変な洞察力が必要なんですがね。
まあ、他人の脳内を推測するのは、得意ですよ。
その本人すら自覚していない脳内定義をわかってやってはじめて話がかみ合うんですよ。
例えば、私も自分の脳内無定義で放談し始めたら、何の議論も成り立ちませんよ。
>客観的に観測可能であるというのでしたら
>例えばどのような同一又は差異が、どのような方法で、
>どのようにして観測されるのかという具体例を例示
>して頂けるとあり難いッス。
例えばなにをですか。具体例をお願いします。
青と藍の区別とかがいいですか。
あなたの脳内回路がどう判断するかは、
あなたを被験者にしてデータをとれば、客観的に定まっていきますよ。
残念ながら、脳内回路そのものは現代科学では直接解析できません。
>同一性の主観依存を主張する私としては基準が明瞭に
>現れるとは思えにゃい所です。
では、林檎が木から離れるのは空へではなく地面へであると、
あなたが判断する基準を教えてください。
それは、あなたの確度体系ではないですか。
藍だったり青だったりする記号化の恣意性によって、その基準(確度)が
代わりうる(林檎が落下する確度が変化する)具体例を教えてください。
記号化の恣意性は確度体系に影響しないこと、これが客観性ということです。
>>208 > 青と藍の区別とかがいいですか。
> あなたの脳内回路がどう判断するかは、
> あなたを被験者にしてデータをとれば、客観的に定まっていきますよ。
横やりを入れさせてもらうと、客観性を示すためにどのような
実験を想定されているかは分かりませんが、色覚の心理実験は
構成が難しいので主張を実証できるような実験が行なえること
は自明ではないかもしれません。
売り言葉に買い言葉だとは思いますが念のため。
>>208 >青と藍の区別とかがいいですか。
>あなたの脳内回路がどう判断するかは、
>あなたを被験者にしてデータをとれば、客観的に定まっていきますよ。
客観性の意味が激しくずれてる・・・
脳内回路を測定してもその人の判断が主観に依存してることを
否定することにはならないよ。
だってその人の判断は、彼が育った環境や、受けた教育などなどの
様々な要素によって決まってくるわけだからね。
測定の前に恣意性がすでに入り込んでるわけ。
これ、哲学以前の常識。
>林檎が木から離れるのは空へではなく地面へであると、
>あなたが判断する基準を教えてください。
>それは、あなたの確度体系ではないですか。
それが「同一性」と何の関係があるのだ?
すべての人間は死ぬ。ソクラテスは人間である。故にソクラテスは死ぬ。
ということかな・・・はぁ。
で、このスレは野矢茂樹の本を語るスレですか
>>209 その程度が現状ということですが、
で、人間の色覚は複雑だから実証的でないといいたいのではないでしょう?
>>210 だからですねー、
その測定の前の恣意性によって、恣意的な「構造」が世界に対して構築されるわけだが、
それぞれの「構造」が人間の言語のように十分な強さがあれば、
それぞれに変換可能であることが、経験されているわけ。
だから、科学(実証的方法)は誰でも利用可能なわけ。
単純な「実証的測定方法」を基礎にそうした言語構造の恣意性
によらず変換可能な世界に関する記述を実証的といい、
実証的な存在を「実在」というんだよ。分かった?
ところが、詩とかニュアンス(藍と青の区別)のように翻訳したり、
上記のように実証的に還元するのが困難なもんもある。
こうしたものは、脳の高度なパタン認識論理によっているもので、
(現在の)人間が取り扱うには複雑すぎるわけ。
こうしたパタン認識は、意識上に「感覚」として現れる。
>>210 改行句点整備しますね。
単純な「実証的測定方法」を基礎にした、
そうした言語構造の恣意性によらず変換可能な世界に関する記述を、
実証的といいます。実証的な存在を「実在」というんだよ。
何故変換可能と言い切るかって?それが経験されているからです。
その経験の積み重ねが、客観性や実在性や実証的世界の存在の根拠なわけ。
そうした実証的経験があまりにランダムに破れれば、
そうした存在はないといえるわけ。
だから、そうした経験があるなら教えてくれといってるのですよ。
ところが、詩とかニュアンス(藍と青の区別)のように翻訳したり、
上記のように実証的に還元するのが困難なもんもある。
こうしたものは、脳の高度なパタン認識論理によっているもので、
(現在の)人間が取り扱うには複雑すぎるわけ。
こうしたパタン認識は、意識上に「感覚」として現れるのです。
214 :
オルガヌム:02/11/27 00:59
>>213 脳がパタン認識論理を持つかどうかは、まだまだ予断を許さぬところです。
あやふやな主張を断言しすぎると、緻密な議論の結果の断言との区別が
無くなってしまいますよ。
あなたの場合、「脳とか」、「パタン認識みたいな」、「感覚?(語尾上げ体言止)」
程度にしておくのが無難です。もちろん、当面は、ですよ。
>>214 まあそうですね。
まあ、ここでそんなに厳密化する必要のある議論が行われてるかですね。
数学でも(特に論理学)なんでもそうだけど、
極端に厳密にすると、一歩一歩が異常に大変だし、
直感的に単純なことも、なにやってるかわからんくらい難解になるしね。
あとは各人で厳密化してくださいよ。
とりあいず。
りんごの話は同一性と差異との認識とは
無縁ではなぃかと思うのですが?
藍と青の例だけで例示は十分かなぁ?(当面は)
ある人が藍と称した同じ色を見て別の人は青と称するかも
知れない。
その高度なパタン認識とやらこそが同一性の出所ではないのですか?
違うというならやはり例示キボンヌ。
デムパ、というか電波は確かに測定できるかもしれーぬのですが、
光の測定は困難だったりね。(どっからどこまで光かが問題で)
あと、経験というなら経験主義者に言わせると
因果律は経験されていないはずですから、経験を拡大解釈
しちゃおりませんかい?
218 :
(・ω・)ノ:02/11/27 02:32
藍も青も個人の内面にしかないってことで、
如何なる個人からも離れて尚厳然と存在する青きものとかってぇのは
存在しないはずだという事で。
219 :
考える名無しさん:02/11/27 02:42
>>218 「厳然」が強制力を意味するならば、概ねそのとおりでしょうが、
淘汰が起こる場合を考えて、断定は保留する必要がありましょう。
たとえば、生き残れたものに対して生き残ったものという同一性を
与え、その生き残ったものが、蓋然的な機能として藍や青を認識し、
その認識が生き残りの鍵となっているような場合。
淘汰の基盤となる機構の任意性ごと、根こそぎ疑わざるをえなくな
るからです。
>>219 ええと、どういう意味なのだろう…
結局同一性の認識は最後には人間の(自己の)認識に
限られるのではないかと思う。人間以外の
同一と差異の識別能力はその延長でしか
考える事ができていないのではないかと。
自己の認識から人類の認識一般を類推し、
そこから更に類推を進めると。
そのプロセスで、人間の同一と差異の境界に
個人差がありそうだぞと。
たとえある「種」の中でその境界のずれが見られ
なくとも、それが種に依存するのか、その種以外にも
適用されるのかで話は変わってくると思われますしね。
>>212 > その程度が現状ということですが、
> で、人間の色覚は複雑だから実証的でないといいたいのではないでしょう?
どうでしょうね。あなたがどのような実験をどのような主張の
材料にするかによります。
現在知られている色覚の特性をご存知の上で青と藍の区別を取
り上げておられるのならよいですが、そうでないならあなたの
議論に欠陥をもたらしたり曖昧になったり混乱したりするだけ
なので、わざわざ青と藍を取り上げるのはお勧めしません。
色覚が複雑というのはその通りで視野全体の状況と提示のスケ
ジユールに依存します。図形の有無や運動の有無と違い、色は
有無を問うことができませんし、色というものを提示すること
すらできません。だから茂木氏はクオリアの説明にわざわざ
「赤の赤らしさ」を選んだのでしょう。
しかし色を提示できないということはあまり知られていないよ
うです。
>>217 氏は「同じ色を見て」と言っていますが色は見
た時点で決まるものなので「ある人が藍と称した同じ色を見て
別の人は青と称する」というのは矛盾した言明です。にも関わ
らず多くの人はこの言明を矛盾していると思わないでしょうし、
日常的な言語感覚では矛盾と見做さないともいえます。
むしろ色が外在しないものであるにも関わらず色が在るかのよ
うに論じられても困らない状況自体があなたのいう客観性に基
づく同一性を支持するのではないかと思います。
222 :
考える名無しさん:02/11/27 21:21
色?
プリズムで分光して帯域調べりゃそれまでじゃないの?
223 :
考える名無しさん:02/11/27 23:09
>>220 毒蛾の色彩は、その毒の効力と同等に厳然として存在するでしょう
ということです。
毒蛾が必然的に備える形質は、蓋然的認識機能に対して何の力も
持たないのですが、ただし、たまたま抹消されてしまうわけですから、
厳然としているわけです。何に対してではなく、その毒の作用対象全
てに対して。
これを疑うには、毒と、毒の作用対象との関係の蓋然的成立にまで
遡及することになってしまいます。際限なく枠組みを緩めるつもりな
ら、それでもいいですが・・・
224 :
考える名無しさん:02/11/27 23:13
とりあいず
>>221と
>>223の意見は
矛盾してるってことでOK?
そして
>>223 色は外在しないのであれば、認識する主観側に存すると
考えるのが妥当では?
私も子供っぽいところが未だありますが、
メリーゴーランドもこれほど長く乗っていると酔って来ますね。
>
>>212 >> その程度が現状ということですが、
>> で、人間の色覚は複雑だから実証的でないといいたいのではないでしょう?
>
>どうでしょうね。あなたがどのような実験をどのような主張の
>材料にするかによります。
何度言ったか忘れましたが、
全ての実証的な測定は測定誤差の範囲で行われます。
誤差が大きいか小さいかの差があるだけです。
ある人物が、ある波長の光を「藍」というか「青」というかを
臨床実験して、データをとって、そこに何らかの傾向があれば、
それは「客観的」な実証データです。
全くランダムであれば、その人の言動に「藍」と「青」の区別は無い
という「客観的」実証的な結論がでますよ。
馬に念仏ですか。
>色覚が複雑というのはその通りで視野全体の状況と提示のスケ
>ジユールに依存します。図形の有無や運動の有無と違い、色は
>有無を問うことができませんし、色というものを提示すること
>すらできません。だから茂木氏はクオリアの説明にわざわざ
>「赤の赤らしさ」を選んだのでしょう。
色と運動は違うんですか。
つうかデンパですか。茂木ってだれですか。
私の考えた生体の定義です。
【定義】
1. 生体とは、その内部の秩序と、外部の混沌の関係性である。
2. 生体構造には、内部と外部とその境界である皮膚が在る。
3. 生体(システム)は、生体機能をもつ。
十分生体機能とは、代謝と治癒と発生・成長・生殖である。
必要生体機能とは、代謝と治癒である。
4. 代謝とは、外部と内部の間で物資をやり取りして自らを形作る素材を刷新するすることであり、
その意味は、生体構造の混沌化を防止である。
即ち、生体構造の恒久化機能である。代謝機能が不完全であるために生じる、生体構造の劣化を、老化という。
5. 治癒とは、小規模な機能・構造の破壊である怪我・故障・疾患を自ら修復することであり、
その意味は、生体機能の混沌化を防止である。
即ち、生体機能の恒久化機能である。治癒機能が不完全であるために生じる、生体機能の劣化を、障害という。
6. 生体が、生体でないものから生成される過程を発生という。
7. 生体が自己を複製し増殖することを生殖という。
8. 生体の物理的強制力や情報処理能力が増大することを成長という。
【命題】
全ての生体機能は、十分生体機能に帰着する。
また、全ての生体は、必要生体機能をもつ。
人間共同体や国家は、生殖機能は怪しいけど、上の定義では、
必要生体機能をもつ、狭義の生体に当てはまる。
すいません。間違って投稿しちゃいました。
私の脳もデンパにやられてるようです。
231 :
考える名無しさん:02/11/28 01:12
>>227 つまりあなたは統計学的なことを言ってるのですか?
>>231 あなたの定義する、「実証」とはなんですか。
あなたは統計学をしっているのですか。
233 :
考える名無しさん:02/11/28 01:18
私は「実証」なんて言葉を使わないし、定義もしませんが。
234 :
考える名無しさん:02/11/28 01:29
>>227 「測定」ということ自体が「個物」を捨象して「普遍」を
扱う態度でしょ?
デカルトが考えたように、存在者をタテ、ヨコ、タカサの広がり
として扱うようなものだと思う。
その場合、個物が扱われているようで、実は「延長」という
普遍が扱われているにすぎない。
同一性を考える場合、個物を考えないといけないのでは?
236 :
(・ω・)ノ:02/11/28 03:13
臨床実験=客観的?
なら例えば主観的な結果とはどういうことでしょ?
主観=いい加減、客観=公正とかいう基準でも
あるんでしょうかい?
んー…(辞書検索)
確かに公正、広く合理的と認められる、という意味もあるけど…
哲学板での基本定義は
きゃっかん【客観】
〔object〕
(1)主観の認識・行為の対象となるもの。主観に現れるもの。
世界。かっかん。
(2)特定の認識作用や関心を超えた一般的ないし普遍的なもの。
主観から独立して存在するもの。客体。
(新辞林 三省堂)
こんな意味でつ。つまり、認識者である人の認識パタンを
調べようとした時点で(対象物を調べない時点で)
主観依存を認めたことになっているですよ。
ちがうかな?
ちなみにこれも掲載
しゅかん【主観】
(1)対象について認識・行為・評価などを行う意識のはたらき。
また,それをなす者。
(2)自分ひとりだけの考え
哲学的には(2)の意味ではあまり使わないかな。(多分)
237 :
考える名無しさん:02/11/28 03:50
>同一性とは何か?
維持・保持する・される者。時間的延長者。時において変化しない者。
238 :
山田屋のクサヤのタレ:02/11/28 05:53
ええと、軽く立ち寄った気分で。長い文章、というのは
無責任なのかしらん?
すみません、初の(しかも2ちゃんの)書き込みで、
ルールがよくわからないのです。
哲学もやったことないし、
ご無礼があれば許してください。
既に言いたいことは同じなのに、言葉の定義の揚げ足取り合いは悲しい。
みている限り、言わんとしていることは皆一緒。
なのに、細かい部分迄に羅列的に説明すれば満足なのかしらん?
それとも、知的感動を得る程の新しい考え方をポンと与えられることを求めているのかしらん?
いやきっと、ソレを誘導されて、自ら得ることを求めているのだろうなと思うのです。
●前提で、先ず、原子が物質か?という段階で、原子は半分はエネルギーの塊であり、
それが集合化されることによって、そこに限りなく100パーセントに近い形で
物質と定義される。
だから、「物質」が「存在」の証明手段なのではなくて
「存在」の証明手段が「物質」に過ぎないのでは。
239 :
山田屋のクサヤのタレ:02/11/28 05:53
●そんな前提を覆す点から出発すると話しが出来ないというのならば、
命題は「同一性」を
「物質の交代」→「別の物質」という「非連続性」という
物理的視点から否定している。
生物的な視点「遺伝子情報の連続性」
精神的な視点「記憶の連続性」
でまかなおうとしている。
ここで気づくのが、
「同一性」という内容に関して議論するにあたり、
先ず始めに「物質の連続性」に関する疑問の投げかけが存在したので
では科学的に、何が連続するのかに流れてしまった。
(まあ、私も理系だから流れやすいのだけれど。楽しいし)
でも、物質の連続性が「同一性」を否定しないと証明することが今回の趣旨ではないと
信じたい。(てか、趣旨なの?)
そうだとするのならば、今までの皆さんの説明によって
話は終わっていることになるのかしらん?
満足するのかしらん?
みなさん、今現在の知識を駆使して、最新科学情報を述べてくださっている。
それを集めたいのかしらん?
240 :
山田屋のクサヤのタレ:02/11/28 05:54
●今の私の視点では、
「同一性」の主張とは、本人の中にしか存在しない。
物質の「同一性」については原子的なレベルで論じられ、まさに
原子が全て入れ替われば異なる物質である。
上の「同一性」と下の「同一性」は既に意味が異なるものになっている。
ここで証明するには同音異義語なのでは。
10年間利用した山田屋のクサヤのタレ入れがあって、
2回樽を交換し、入れたり、出したりと、中身も全て10年間で交換
されたとしても、誰もがその「同一性」について疑問視しない。
これは物質の「同一性」について論じているのではないのは
もう既にわかると思う。
そして、この掲示板で論じ様としている「同一性」に近いものなのだと思う。
今みな、「山田屋のクサヤの樽」の「同一性」を論じ様としながら
物質の連続性における「同一性」について語って、整合性を取ろうとしている。
確かにここにおいても「同一性」は、「時間の連続性」が条件として必須に成り得ている。
けれど、「同一性」を語るにおいて、コレが全てではないはず。
探し物として満足するのはその先の何かではないかしらん?
「物質の同一性」と「存在の同一性」を同時に説明する「同一性」を語るのではなくて
では、「存在の同一性」とはどういったものなのか、
ここに議論が集中すればすばらしいと思います。
>山田屋のクサヤのタレ さん
書き込み時期を見て頂ければおわかり頂けるかと
思われるのですが、物質的連続性は最近の議論では
焦点から外れていますよう?
貴方の仰るように、物質の入れ替えがあっても同一と見做される
事は多々ありますゆえ。
現在私が参加しているのは、同一性の主観ー客観依存のお話でつ
言葉の定義を出したのは、実はまぁ仰るように、同じ事を違う
表記をしようとしちゃいまいか?という疑惑が出たためでつ。
>>228 運動が視覚を構成する機能として独立したものであることはい
わゆる運動盲の症例によって現在の脳科学では完全に認知され
ています。つまり色も図形も認識できるのに運動を知覚できな
い人がいるからです。
>>228 茂木氏とは「脳とクオリア」の著者である茂木健一郎氏です。
私が勝手にあげた例なので別に知らなくても構いません。
>>227 主張が曖昧なので実証を持ち出すには不十分であるといいたい
のです。あなたの主張は「ある人が青と藍の区別をできるか否
かは、他の測定と同様に誤差の範囲内で測定できる」というこ
とでしょうか。ならば「青と藍の区別をできるか否か」をもっ
と具体化しなければ実証できません。実証を論じる場合は少な
くとも具体化できることを示す用意が必要でしょう。気にかか
るのは、再現性を指定できる精密さを伴わないことではなく、
どう精密にできるかを予感させない態度です。
また測定がなぜ可能なのかという問いにもきちんと答える必要
はあると思います。例えばものさし自体はどうやって測れば良
いのですか。具体例で訊くとすると、キログラム原器の質量は
どうやって測ればよいのですか。基準を確定できなければ我々
の測定値は誤差を含むのではなく単に不定であるに過ぎません。
>>227 それと、これはどうでもいいことですが、このような実験は臨
床実験とは呼びません。臨床実験は動物実験や化学実験と対比
される語です。この場合は心理実験というのが適当でしょう。
>>222 そのようにいわれることも多いのですが、波長成分と色は別の
ものとし、スペクトルのような視野の構成要素と色とがどのよ
うな関係があるかを考えるのが色覚の議論の方法です。
このように考えるのは色に関する各種の錯視を説明する必要か
ら生まれたものです。物の色は周りの状況によって変化します。
例えば隣接した物同士の色は相互に依存します。興味があれば
"Land effect" background で google してみれば実例を見る
ことができるでしょう。
白いものが赤く見えるというような表現は、本当の色が白であ
るということが想定されているのでしょう。そして本当の色と
は白色光のもとで視界一面にそれが延長されたときに何色に見
えるかが基準とにするという主張もできるかも知れません。し
かし色が視覚と独立に決まるという態度をとっても、見え方に
対する説明が別に必要であることには変わりません。つまり本
当は白いものが赤く見えたという場合、その見えた赤が色でな
いとするなら何かということを明らかにする必要があります。
>>225 矛盾はしません。むしろ
>>221 は機能という考え方を認める
ため
>>223 の考え方を前提としていると思います。
ところで自然数もまた外在しないものです。外在的でなければ
客観的でないというのならば、自然数は客観的でしょうか、主
観的でしょうか、どちらともいえないのでしょうか。
>>183 数学は論理学ではありません。数学の求める正しいという概念
は時代とともに変化しています。例えば方程式の解を求めると
いうことばの意味は、ピタゴラスの頃とカルダノの頃とガウス
の頃とガロアの頃と今とでは、どれもそれぞれ違うものです。
平行線公準の独立性から分かるように数学自体が採用している
公理は恣意的です。すなわち、仮に数学の理論を形式化したと
しても、その理論の元である命題とその否定命題のいずれも証
明できないような命題が存在します。そのような命題を理論に
公理として追加して得られる新たな理論は無矛盾です。こうし
て、数学をあくまで論理学と捉えるならば、どのような公理を
選ぶかには無矛盾性以外の指針はないことが分かります。
しかし実際に恣意的であると考えている数学者がいるかどうか
は疑問です。数学者は実数をありありと想像して、その構造を
科学的に調べています。つまり先に直観がありそれを表すため
の体系を試しに作ってその中から選んでいるわけです。その証
拠に新たな未定義用語と公理系から新しい数学はいくらでも作
れるにも関わらず、実際は既存の数学に対する関係によっての
み認められます。
また、自然数や実数の一意性については自然数や実数の公理を
満たす構造が同型を除いて一意に定まるということで一応決着
したとみなされていますが、Robinson によって提出された超
準モデルのようにそれまでまったく想定していなかった解釈体
系も存在してます。既存の数学の中にそれをどう位置付けるか
は、真偽では決めることできないので、証明の簡便さや理論の
豊かさのような経験によっています。
これは帰納に基づく他の科学と何が違うのでしょうか?
250 :
考える名無しさん:02/11/29 19:48
>>249 あなたか数学を知らないということは分かりました。
数学と論理学は同じようなものなので、
論理学も知らないということがわかります。
数学と科学が同じだというところを見ると、
科学・実証とは何かについて一般とは全く異なる特異なイメージがあることが分かりますが、
それがなんであるのかは全くわかりません。
あなたの脳には、不思議な思想があるのかもしれませんが、
少なくとも、フツウの考えを理解していないことが分かります。
あなたに何かを説明するのは多分無理です。
つまり、双方向に言語によるコミュニケーションが不可能です。
あなたの脳とはデンパ以外でコミュニケーション不可能です。
\ │ /
/ ̄\ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
─( ゚ ∀ ゚ )< くおりあくおりあ!
\_/ \_________
/ │ \
∩ ∧ ∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\∩ ∧ ∧ \( ゚∀゚)< くおりあくおりあくおりあ!
..くおりあ〜〜〜! >( ゚∀゚ )/ | / \__________
________/ | 〈 | |
/ /\_」 / /\」
 ̄ / /
>>242-249氏(同氏でよろしいかな?)
自然数などの数学的なあれこれが客観的か主観的か、は
私てきにはギバーップ寸前です。タップしそうでつ。
が、それでも頑張ってみますと、
およそ数学は現象には現れてこないわけであり、
(数、そのものも直線、なるものも自然界に存在しない)
主観と客観が現象の認識に限られるならば自然数は
どちらでもないという事になってしまいます。
しかし、他者との契約のように、明瞭に現象として現れて
いないが、我々が外部から規定される事もありうる訳で、
同じ条件で扱うなら、誰が扱っても同じ様に把握する事と
なる自然数は客観的であると言うべきでしょうか。
ただし、それを以て数学全てが客観的であるとは
言い切れません。という所でギバーップ!
253 :
考える名無しさん:02/11/30 10:22
まあれだ、あんまり側鎖ばかり伸ばしてもしょうがないので、強引に締めさせてもらうが、
認識と測定とがコンシステントにならないとき、「錯覚」と規定する立場と、
測定にも認識と同等の地位しか与えられないとする立場とのすれ違いだな。
で、同一性とは、認識の上になされるべきと考えるのか、測定の上になされ
るべきと考えるのか。
それは、認識・測定の光の当て方(隠喩ですよ)を規定できるかどうかにか
かっているわけで、規定できるようマナーを厳格にしようとすれば、それはそ
れなりの結果がすでに期待されるものの見方だし、そうでないならば、散文的
な記述に踏み込む覚悟が要る。
つまるところ、名指しと必然性の問題に根を持つ。
254 :
ぺん(ぺん):02/11/30 10:43
>>253 このスレは初めて見ました。
良スレですね。
>つまるところ、名指しと必然性の問題に根を持つ。
クリプキの『名指しと必然性』での
「棒Sの長さを1メートルとする」という1メートルの指示固定的定義は
アプリオリで且つ偶然的な命題だとする議論ですよね。
同一性を考える際には、認識論的な側面と形而上学的な側面を
峻別する必要があるということでしょうか。
255 :
考える名無しさん:02/11/30 10:51
同一性が測定の上になされるべきと考えるとするならば、そのための測定
基準と判定の水準はいくらでの後退していくよね。
測定がだめということではなく、測定で同一性が保証されるという発想が
だめなのよ。
かといって直接的な同一性の確信に頼るわけにもいかない。
つまるところアスペクトの問題だね。
256 :
考える名無しさん:02/11/30 10:58
モデルとして、ソフトウェアの同一性を説明させてくれ。例示じゃなくて、モデルだよ。
いまHD上に、文書ファイルがあるとする。
この文書ファイルには、磁気媒体という基盤がある。その上に、記録フォーマット
という規約があり、そのまた上に、編集ツール独自の書式があったりするかもしれ
ない。
それらが夫々どれほど磐石なものかには、多少の異論もあろうが、大事なのは、
基盤とその上のものとの間の同一性の仕組みの関係は、蓋然的だということだ。
これこそが、ソフトウェアのソフトたる所以である。蓋然的であることにより、ソフト
ウェアは、かつて存在しなかった記録媒体の上へと、移動することが「できる」。
そのような移動には、当然、新たな媒体にふさわしい新たなコーディングが必要と
なる。つまり、媒体間の変換ルールだ。この変換ルールは、人間という神様たちが、
なんだかいろいろやって決めているらしい。神様たちの調停がいい加減だと、文字
化けが起こったりする。文書の同一性はその分あやふやなものとなる。
このいい加減鎖具合、規定できればそれでよい。たとえば、MシステムからWシステ
ムの移動では、これこれこういう点で変換が保証されないと、把握できているなら、
それを保証するようなルールをもって、多少の非効率に目を瞑れば、変換ルールは
規定できる。ところが、これをサボると、大変だ。中身を読んで、類推しなくてはならな
い。
さて、もしもこの状態で、コーディング規則が、この文書ファイルに書かれているとした
ら、どうだろうか。
257 :
ぺん(ぺん):02/11/30 10:59
そうそう、同一性の問題と言えば
言語哲学で長い歴史(?)を持つ同一性言明の問題
「ヘスペラス=フォスソラス」
も絡んできますよね。
つまり、指示の理論とも絡んでくるでしょうね。
258 :
考える名無しさん:02/11/30 11:03
>>256 誤: いい加減鎖
正: いい加減さ
誤:それを保証するようなルールをもって
正:それを補償するようなルールをもって
>>256 いや、それを「蓋然性」ととらえるからあやふやになる。
それは所与の「蓋然」ではなく、作る人間の「要請」だ。
同一性は、「要請」の範囲(つまり、システムの仕様)においてのみ存在する。
>>254 そういうことです。
同一性命題「a=b」を考えるとき、
論理空間と実世界は厳格に区別して考える必要がある。
多くの「議論」はこの区別が曖昧だから生じるようです。
論理学は論理空間での出来事であるから、そこにおいては、
a=bとは、単なる記号の羅列と規則であり、その意味するところを問う必要はない。
一方、a=bという論理式を含む論理構造を何らかの形で実世界に当てはめる場合、あるいは、
実世界連続体のある部分を、ある方法で抽象化して論理空間に当てはめる場合には、
別の事情がある。
実世界の抽象化とは、事象の切り出し即ち記号化と、その関係性の切り出し即ち述語化のことである。
記号化や述語化は、定義と測定によって成り立つ。
これは、科学であろうと個人の感覚であろうとそうである。
科学的であるとは、定義と測定が(比較的)一定かつ厳密であり、
(比較的)再現性が高いということである。こうした測定方法を実証的であるという。
感覚というものは、その定義は無自覚で、測定(認知)方法もそれほど明らかでない。
何よりも、同じ記号(言葉)であっても状況や文脈によって、その表層的定義が異なっている。
つまり、極めて複雑で動的で高次な「定義」が無意識に隠れて存在していることが予測されるが、
それ自体を記号操作の対象の「記号」として、
学問の水準で再現性のある形で取り扱うのには適していない。
それ自体を学問的に解析(他の記号体系に還元)することは意味があるが。
そうした感覚的「記号」は、あくまで感情的な人間関係世界で最適に機能するようになっている。
それを人間の論理・実証的能力の範疇で取り扱うには、
例えば、その表層的(一面的)な定義を比較的厳密に取り出すことにおいて可能になる。
「同一性」という言葉においては、「物質的同一」であるとか、
「構造・機能の同一性」とか、検証の比較的容易な定義をおこなう必要がある。
「同一である」と感じられる場面ごとにその状況や条件を厳密に取り出し、
その同一性を再現可能な形で定義しなければならない。
そのようにすることで、「同一性」の実証的同一性が確保される。
漠然とした「同一性」という感覚を漠然と取り扱うことは、学問ではない。
そうした感覚は伝達不可能だからだ。
学問とは、論理実証的な知であり、感覚感情的な知とは厳密に区別される。
論理実証的な知とは万人に再現可能である方法であることが追求されている。
一方感覚感情は、同一(類似)の感覚感情体系を持つことによってのみ共有可能である。
即ち、感覚感情とは共有されるものであり、伝達されるものではない。
あと、
そうした「実証世界」即ち、現象世界に構築されている確度体系の存在を
検証するために、現象世界そのものの土台を持ち出しても意味はない。
なぜなら、そうした土台については、不可知だからだ。
>>252 同意します。自然数のような数学的対象が主客のどちらに属す
かの決定は議論上の必要性に迫られた時にはじめて試みればよ
いと思います。
色の扱いも同様に議論の目的に応じて行なえばよいと思います。
それでも
>>208 のように特定の事柄の実証可能性を主張する
場合は、その実証の依拠する前提を指定された抽象度で明確に
することができて、かつ実証の詳細な事例を複数出せる用意が
なければ説得力に欠け、実証という営みの意味までも不明瞭に
なるため、見ていて議論として面白くないので横やり
>>209 を入れました。
ついでにいえば物理定数のうち原器を採用しているのは質量だ
けです。
>>244 で挙げたキログラム原器の例にしても、原器の
経年変化等にどう対処しているかを具体的に示せば、そもそも
物理定数には相対誤差が含まれていることや物理学の体系と測
定の関係、あるいはそれらが前提としている哲学的原理(例え
ば
>>234)がより明確になるはずでしょうが、そういった具体的
な事例を一切抜きに実証可能性を説得するのは困難でしょう。
>>253-259 のように同一性の議論の位置づけを試み、その中で
立場を明らかにしながら進める態度ならば個別の事例をどのよ
うに取り扱うのが妥当なのかはより分かりやすいと思います。
実証の定義もしないし、実証なんて言葉も使わない人が、
実証可能性についてなんか言ってるのは謎ですが、
私がデンパを引きよせたのだとすれば、私の責任なんですかね。
266 :
考える名無しさん:02/12/01 00:52
>「ヘスペラス=フォスソラス」
話題が同一性命題なだけに誤字か変更かの判別が難しい・・・
>せ 氏
主観依存とかの話は語の定義の
問題として解消したと考えてOKかな?とりあえず
学問とは論理実証的な、にのみ反論
科学とは論理実証的な、というなら同意。
哲学は必ずしも実証を要求しないでつから。
それゆえ実証的でなくとも議論は続行の方向で。
268 :
ぺん(ぺん):02/12/01 05:57
>>266 >>「ヘスペラス=フォスソラス」
>話題が同一性命題なだけに誤字か変更かの判別が難しい・・・
誤字(フォスソラス→フォスフォラス)に
まったく気づきませんでした(汗
269 :
ぺん(ぺん):02/12/01 06:00
>>267 >科学とは論理実証的な、というなら同意。
いわゆる「論理実証主義」を念頭においているのでしょうか。
270 :
考える名無しさん:02/12/01 06:13
誤字か。ちょっと残念。
271 :
考える名無しさん:02/12/01 08:51
>>259 ええと、つまり、「神々」による仕様?
神秘主義は、最期にしやしょうぜ、だんな。
注:この文に誤変換はありません。
>>267 『漠然とした「同一性」という感覚を漠然と取り扱うことも、学問である。』
ということですか?
つまり、今まであなたがやっているように、
「同一性」や「実証」という言葉を定義せず、
文脈による意味のずれもお構いなしに、
自分の脳内の観念(感覚)のみによって語るのが学問であると。
273 :
考える名無しさん:02/12/01 16:26
横レス
>>272 だってしょうがない。
定義にしても、手順にしても、正確・厳密というのは、はじめから与えられてい
るものではないのだから。ツールで扱えない対象が出てきたら、まずは素手で。
もしもツールや定義を見つけたと思うのなら、その全容を公理系として詳らかに
し、提出するのがスジでしょう。その際、独断は恐れずに、あいまいさ、書き漏ら
しだけは無いように。
ユークリッドとか、ライプニッツとか、スピノザとか、ブーバーとか・・・
同一性とは認識作用の一つ。
新陳代謝とはなんの関係もない。
昨日の自分と今日の自分が同一性であるとは認識作用においてのみ成立する。
275 :
考える名無しさん:02/12/01 18:04
>もしもツールや定義を見つけたと思うのなら、その全容を公理系として詳らかにし、
>提出するのがスジでしょう。
だからそうしてください、と頼んでいるのですよ。
脳内の、しかも、デンパ公理系で話されてもわからないということ。
277 :
考える名無しさん:02/12/01 22:49
>>276 わたしは、同一性の議論に関しては、まだ機が熟していないと思います。
素手での格闘があまりに不足していて、公理をブチ上げても形而上学の
取り分が大きくなりすぎるか、あまりに矮小な系に閉じ込められ、記述対
象が絞られすぎるか。
もっともっと、ナマの同一性を、詩から論理まで含め、多角的につつきましょ
うよ。
278 :
考える名無しさん:02/12/01 23:05
>>259 そうならないように、ズルしたんですよ。例示じゃなくて、モデル、と。
人間は、そこでは「神々」です。
現実世界から可能世界を考えるよりも、現実世界に拘束条件を加えた世界を
舞台設定することで、様相の形而上学的への雛型を与える方が、自分の理解
の順序に近いので、説明しやすいのです。
さて、必然と蓋然の境目が重要なわけですが、ここにさらに、身体性の問題が
加わります。
神様のフォーマットに書かれる条項の中には、当然、磁気媒体を採用することを
念頭に置いた部分と、純粋に蓋然的な部分とがあるわけです。で、もしも神様が
可読性に留意していないとすると、これらは渾然一体となって、分離できない。
分離できない以上、検証能力を上回る創造能力を持たされた記憶媒体上の民
は、必然的部分の美しくも恐るべきタングルを敬い、あるいは逆に、数え切れない
ほど残された自由の多さに、有頂天になったりもできるのです。
279 :
考える名無しさん:02/12/01 23:06
>>278 誤:検証能力を上回る創造能力
正:検証能力を上回る想像能力
とりあいず。
もいらは同一性は認識主観に依存し、客観的である
認識対象には必ずしも定義されないと思うのでつ。
言いたい事は先ずはそれだけなのでつ。
んで、それについての例示はもうヤター!はず。
せ 氏も、対象物に依存すると言っていたわけでなく、
認識者への依存の仕方に特定の傾向が現れ、
それは計測可能であろう、と言っているのであると
私はそう読んだのですが、そうなると別に
対立する事はありませんよね?これ以上何か質問が?
>>269でも質問が出ていたけれど
私の捕らえ方は
実証的=論理実証主義で間違いないと思う
実証的である事を必ずしも要求しないといったのは、
あらゆる実験は、例えば本日までに実験で判明した
法則性は、明日になっても継続している、であるといった
証明不能な法則の永続性等をどうしても前提としますでしょ?
科学的であることにも問題はあるわけでして。
>もいらは同一性は認識主観に依存し、客観的である
>認識対象には必ずしも定義されないと思うのでつ。
>言いたい事は先ずはそれだけなのでつ。
相変わらず「同一性」がなんのことを言ってるのか分かりませんが、
例えば、物質的同一性とか、構造的同一とかいうものは「客観的」ですよ。
ずいぶん上の方でも言ったように、「自己同一性感覚」も感覚として「客観的」に存在するとして、
何の矛盾もないし、その他の周辺事象ともよく合致しますよ。
>法則性は、明日になっても継続している、であるといった
>証明不能な法則の永続性等をどうしても前提としますでしょ?
>科学的であることにも問題はあるわけでして。
だから千回目くらいになりますが、それは「問題」ではなくて「不可知」なだけでしょ。
そうした「実証世界」即ち、現象世界に構築されている確度体系の存在を
検証するために、現象世界そのものの土台を持ち出しても意味はない。
なぜなら、そうした土台については、不可知だからだ。
>>281 >物質的同一性とか、構造的同一とかいうものは「客観的」ですよ。
客観的だからどうだとおっしゃりたいのでしょう?
哲学では「客観的」が悪い意味で使われるのが多いことをご存知?
科学が「学」となり得るのは、実験し観察した結果を数と記号とで
表してこれを分析し、いくつかの単純な内在観念へと還元し、
しかるのちにもう一度総合しなおす。
つまり実験と観察の結果を「説明」することによって体系を持った
「学」となり得る。
ところが一つの実験に対して異なる「説明」が可能であることは
ガリレイの実験が示した通りである。今日の科学でも、
最後にはどう「説明」するかがポイントになると思われるのだが・・・
で、あなたの言う「客観的」とはどういうこと?
>>281 >例えば、物質的同一性とか、構造的同一とかいうものは「客観的」ですよ。
日常レベルでは〇だが、非日常レベルではその保証の限りではないのでは。
たとえば、一番単純な水素。
日常的に我々は、水素は一つの独立した、構造のはっきりした、安定した単体と思い込んでいる。
しかし、実際には定義しようのないエネルギーの複雑な力関係のコンテクストの中で表象したものとして人間に認識されているだけに過ぎない。
水素は、その人間の認識作用においてのみ同一性が確保されているとしか言いようがない。
>>283 「エネルギーの複雑な力関係のコンテクストの中で表象したもの」は定義可能ですよ。
定義できるから、物理学がなりたってるんでしょ。全く。
そもそも「構造のはっきりした、安定した単体」だろうと「表象だろうと」
測定誤差の範囲で振舞う実体として違いはありません。
>ところが一つの実験に対して異なる「説明」が可能である
宇宙の中心にクオリア神がいて、そいつが人知を超えたデンパで、
あなたの脳をコントロールしてるとしても、「説明可能」ですよ。
「説明」には強さがあるのです。同じ強さの説明なら、それは同値ですよ。
ニュートン力学より、相対論の方が誤差が少なく、「強い」のです。
だから、ニュートン力学は近似理論ということになります。
そういう意味では、相対論だって、測定誤差の範囲でしか検証できません。
つまり、「説明」=「客観」には強さがあるだけで、正誤があるのではないのです。
凡そこの世には、量しかないと考えたほうがよいでしょう。
分かっていただけましたでしょうか。
つまり、私の「客観」とは、知られている最強の「説明」のことですよ。
とにかく、なんか物理学や数学のことを知りたいなら、
変な新書をよむのでなく、教科書を読むことですよ。
>>285 >つまり、私の「客観」とは、知られている最強の「説明」のことですよ。
そのような定義は全く漠然としているし、哲学的でもない。
「最強」の意味が曖昧だし、第一、誰にとっての「最強」なのかという問題もある。
いまあなたが「最強」だと思っている説明はおそらく将来はあなたにとっても
「最強」ではなくなるわけだよね?
いろんな人があなたに色々な哲学的思考方法を教えてくれてるのに、
あなたは全く聞く耳もたずだね。
哲学板に書き込みするなら、もう少し哲学を勉強してみては?
あー。えーと。
主観と客観について、又同一性についての説明は
一通りしたはず。
>>287ではないですが、その上でそれについての
異論も反論も出てこないので、せ氏とのお話は一旦おしまいね。
>>287 ありゃま。
勿論、「最強」とは何かは、自明ではありませんよ。
だから、いろいろな学問分野で仮説や議論があり、それを検証するために実験してるんでしょ。
だからといって、実証的方法論自体を云々することはありませんよ。
そこを混同してるんでないの?
>いろんな人があなたに色々な哲学的思考方法を教えてくれてるのに、
>あなたは全く聞く耳もたずだね。
>哲学板に書き込みするなら、もう少し哲学を勉強してみては?
では、間主観性について、博学なあなたのほうから説明してくださいな。
もったいぶらないで。
290 :
考える名無しさん:02/12/02 23:08
>>281 主観を取り除いた純粋な客観の対象は、それは、全世界であり、
一つであり、純粋に媒質であり、ゆえに、これ以上ないぐらい、名指す
ことが無意味な対象であります。
291 :
考える名無しさん:02/12/02 23:10
292 :
考える名無しさん:02/12/02 23:11
>>291 それは、指し示すことをあきらめることで指示される対象と
同一であるからであります。
>異論も反論も出てこないので、せ氏とのお話は一旦おしまいね。
異論も何も、あなたが「同一性」という言葉で何をいっているのか未だ分からないので教えてください。
ついでに、「主観」「客観」についても。
大体「一通りの説明」は何処でしてるんですか。それでも結構。
294 :
考える名無しさん:02/12/02 23:32
>>292 ある日、大地に突き刺さった剣を見つけました。
見たところ、非常に切れ味が良さそうです。
なんとしても欲しいのですが、抜けません。
もしもこの剣を我が物にできれば、どんな強敵でもまっぷたつに違いないのです。
ですが、やはり抜けない。そこで一計。
強敵をふんじばって、剣の近くに連れて来ました。
こうして、敵の方を剣の方に押し付ければ・・・
あれ、周囲の岩と、敵の着けた鎧がぶつかって、うまく押し付けられません。
しょうがない。丸裸にしてみました。
まだうまくいきません。
しょうがない。手持ちの剣・・・切れ味は悪いのですが・・・で、いくつかに切断。
断片を、大地の剣に押し付けると・・・
見事に切れました。
鎧の部品も・・・まっぷたつ。
すごい!大地の剣。
せ氏>
以前に引用した主観と客観の説明で駄目っすか?
同一性は、繰り返すと同一認識によるものについて。
それ以外の物質的同一やらは人が「同じ」と見做す事とは
あまり関係なさげなので。
少なくとも
>>1はその同一認識から出発しておりませんか?
主観ー客観の私の用法では、自ずと認識論になることも
定まりそうでつけどね。
297 :
(・ω・)ノ:02/12/03 01:32
連続で失礼。
…もいらの説明そんなに足りんかな?
色々たとえとかは出していたはずなんでつけれど…
もしや読んでないとか?いや、まさか…
298 :
考える名無しさん:02/12/03 01:48
>>297 「わかりません」と言い続けることは、首尾一貫した体系の実践なのかも
しれません。なぜわからないかの説明が前進しないのも、形而上学に踏
み込む深さに、自ら制限を課しているためだと考えることができます。
>以前に引用した主観と客観の説明で駄目っすか?
その場所を具体的に番号で教えてください。
>同一性は、繰り返すと同一認識によるものについて。
日本語が良くわかりませんが。
>それ以外の物質的同一やらは人が「同じ」と見做す事とは
>あまり関係なさげなので。
これが説明ですか?
つまり、あなたは、人が漠然と「同じとみなす」ことを
「同一性」といっているのですか。
つまり、人が「同じ」とみなすその人の世界内の状況には関係ない、
普遍的「同じ」があってそれを「同一性」と言っているのですか?
YES/NOで回答願います。
>少なくとも
>>1はその同一認識から出発しておりませんか?
だから、
>>1 の「同じ」感は、様々な「同じ」のなかでも、
「自己同一性感覚」について言っていると推測されるので、
その線で論を進めたのですよ。(ずいぶん以前ですが)
>もしや読んでないとか?いや、まさか…
正直読んでないか忘れたかのいずれかなので、
具体的な場所を番号で教えていただけるか、
今個々で説明してください。
>>298 そういう人はいますが、
そもそも理解力が欠如してたり、
議論を行う誠実さに欠けるものもいますね。
「質問」するばかりで、質問に答えないとか、
説明を求めるばかりで、自らは何も説明しないとか、
人の立場を問うのに自分の立場を述べないとかね。
302 :
(・ω・)ノ:02/12/03 02:32
>>236にありますが…
なんか私お人よしになってますか?>ギャラリーのみんな
>>299の人が「同じ」とみなすその人の世界内の状況には関係ない、
普遍的「同じ」があってそれを「同一性」と言っているのですか?
YES/NOで回答願います。
NO。普遍的じゃない。
ところで。
そちらの定義ですと主観的、とはどういう意味で?
というかさ、主観客観の意味づけ以外にはそれ程異論はないと
既に申し上げたはずでつが…それも見落としで?
んー。少し読み返したでしゅが…
余計なことまで細かく拘った結果、ぐだぐだになった感があるなぁ。
実証主義的に追求するなら、結局実証が必須なはずなのでつが
それはここではできないわけで。実証可能性までで留める羽目に
なるのに、それ以上の細かさを求めた結果でしょーか。
実の所もう発展は難しい予感。言い尽くされてて。
脱兎に落として差し上げた方がよいかもしれぬですな。このスレは。
304 :
考える名無しさん:02/12/03 03:09
本題に入れぬまま、さよならか・・・・・・。
305 :
考える名無しさん:02/12/03 03:16
>>301 不誠実なのは、彼方の方だと思いますよ。その最大の理由は、
前にも書きましたが、予断が多い粗い議論で、総量を増し、
どの一部を崩しても他の部分が崩れない、ゆるく結合した
記述を採っているところです。
明晰な、批評される価値のある提言というのは、弱点を曝け出した、
緻密に結合した言明の集まりです。
ですから、何人かの質問者が、明確化しつつ不備を指摘しようにも、
そこがどれほどあなたの主張全体にとって重要なのか分からないよ
うにしつづけることで、彼方は質問が鋭い批評として焦点を結ぶのを
妨害してしまうのです。
過去ログを少し読んで思いましたが、
せ氏はご自分の積極的な主張なんて持っていないのではないでしょうか。
ご自分に都合の悪いレスに対しては、論点をずらして逃げている、というか、
わざと議論が噛み合わないようにしているとしか思えません。
これでは議論が進展しないのは当然ですね。
相手のレスをもっと正面から受け止めないと・・・。
>>306 だけら具体的に何処なんですか?
記述能力が無いなら番号でお願いします。
>>305 >予断が多い粗い議論で、総量を増し、
>どの一部を崩しても他の部分が崩れない、ゆるく結合した
>記述を採っているところです。
具体的に何処が「予断」なのか指摘してください。
記述能力が無いなら番号でお願いします。
「一部を壊しても」の個所もお願いします。
>明晰な、批評される価値のある提言というのは、弱点を曝け出した、
>緻密に結合した言明の集まりです。
このスレッド内で、その具体例を上げてください。
記述能力が無いなら番号でお願いします。
具体的でない予断ばかりでなく、
誠実な議論には誠実にお答えしますよ。
>>236における「(・ω・)」氏の
「同一性」「主観」「客観」の説明とおっしゃるものの全文引用です。
主観・客観の辞書のコピペはありますが、同一性についてはありませんが。
>臨床実験=客観的?
>なら例えば主観的な結果とはどういうことでしょ?
>
>主観=いい加減、客観=公正とかいう基準でも
>あるんでしょうかい?
>んー…(辞書検索)
>確かに公正、広く合理的と認められる、という意味もあるけど…
>哲学板での基本定義は
>きゃっかん【客観】
>〔object〕
>(1)主観の認識・行為の対象となるもの。主観に現れるもの。
> 世界。かっかん。
>(2)特定の認識作用や関心を超えた一般的ないし普遍的なもの。
> 主観から独立して存在するもの。客体。
>(新辞林 三省堂)
>こんな意味でつ。つまり、認識者である人の認識パタンを
>調べようとした時点で(対象物を調べない時点で)
>主観依存を認めたことになっているですよ。
>
>ちがうかな?
>ちなみにこれも掲載
>しゅかん【主観】
>(1)対象について認識・行為・評価などを行う意識のはたらき。
> また,それをなす者。
>(2)自分ひとりだけの考え
>哲学的には(2)の意味ではあまり使わないかな。(多分)
そもそも、次のような事情で、あなたの使用する「同一性」の意味を知りたいのですが。
さもないと、私の定義する同一性と、どうして差異があるのかが分からないのです。
|>もいらは同一性は認識主観に依存し、客観的である
|>認識対象には必ずしも定義されないと思うのでつ。
|>言いたい事は先ずはそれだけなのでつ。
|相変わらず「同一性」がなんのことを言ってるのか分かりませんが、
|例えば、物質的同一性とか、構造的同一とかいうものは「客観的」ですよ。
|ずいぶん上の方でも言ったように、「自己同一性感覚」も感覚として「客観的」に存在するとして、
|何の矛盾もないし、その他の周辺事象ともよく合致しますよ。
ちなみに「主観」の一般的な意味は次でかまいませんよ。
実際の使用時には修正が必要になるとは思いますが。
しゅかん【主観】
(1)対象について認識・行為・評価などを行う意識のはたらき。
また,それをなす者。
(2)自分ひとりだけの考え
哲学的には(2)の意味ではあまり使わないかな。(多分)
>なんか私お人よしになってますか?>ギャラリーのみんな
ちなみに、多重人格、または多重人格を偽装している人物の
「主観」ってどんなどんなもんなんでしょうねえ。
あっ、別に深い意味はありませんよ。
せさんにとって、同一性=客観性なんざんしょか?
>>305 >ですから、何人かの質問者が、明確化しつつ不備を指摘しようにも、
>そこがどれほどあなたの主張全体にとって重要なのか分からないよ
>うにしつづけることで、彼方は質問が鋭い批評として焦点を結ぶのを
>妨害してしまうのです。
>何人かの質問者が、明確化しつつ不備を指摘しようにも、
具体的にどこですか。番号でお願いします。
できれば、あなた自身が、
鋭い質問で明確化しつつ、私の主張(場所指定のこと)の不備を指摘してください。
今ここで。
そうすれば、私の議論における不誠実さが白日に晒され、あなたの主張をだれもが認めますよ。
是非お願いします。
番号でお願いします
>>313 言葉(用語)というものは、論(構造・説明)があって、初めて明確に定義しえます。
一般的には「同一性」=「客観性」ではないでしょう。
上のほうでは、「同一性」の大雑把な典型として、
物質的同一性・構造/機能的同一性・人間の自己同一性感覚
の三つを挙げました。他にもあるとは思います。
これらについては誰かじゃないけど「一通り書きました」。
所望なら探して番号も指定しますし、必要なら何度でも論じますよ。
上記3つの同一性が「客観的」であるということに関しては、最近なので
覚えていますが、
>>281-289 にあります。
>言葉(用語)というものは、論(構造・説明)があって、初めて明確に定義しえます。
間違えました。「初めて明確に定義する意義があります」が正しいです。
>>303 >実証主義的に追求するなら、結局実証が必須なはずなのでつが
>それはここではできないわけで。実証可能性までで留める羽目に
>なるのに、それ以上の細かさを求めた結果でしょーか。
むしろ中途半端なのが良くないのではないか。何にせよ、とことん論じるのが良い。
根拠を説明せず断じるのがよくない。納得が得られないまま切り上げる場合は理由を
各自が銘記しておく必要はあるだろう。それぞれ論じたいことがあるなら論じれば良い。
喩えばなしとして物理学における同一性の話を、少し長いが、一つしてみる。
念のため実証を「測定によって得た値が予想した範囲に収まること」と定義する。
物理学は対象を選ぶごとに説明と予想と実証の繰返しで作られてきた。
当初の測定はまさに物差しを当てるような素朴なものであったはずだ。
しかし予想の精度を上げようとする過程で、どのような測定が仮定の範囲に収まるのか、
どのような測定は仮定していないことの影響を受けるのかが経験的に確立されて来た。
こうして物理学における測定は対象に応じてかなり固定された手順になっている。
これらの状況を含めたものを単に測定と呼ぶのは紛らわしいので実験と呼ぶ。
そして、手順に従って得た実験の結果を客観的な実験結果と定義するわけである。
物理学での客観的とは極めて単純で、与えられた実行可能な手順による結果のことだ。
どの実験も一度限りだが同じ手順に従っていれば一つの繰返される実験の一回とみなす。
手順に従ったかどうかの判断は各自に任されるがそれほど自由度があるわけではない。
これらが物理学のもっとも基本的な原理の一つといえよう。
さて物理学には大まかにいって現象論と体系化された理論の二つがある。
物理学でいう現象論とは実験結果を説明し、更なる予測をするための法則だけからなる。
要するに物理学での法則とは客観的な実験から帰納されて得られた予測力を持つ命題だ。
他方の体系化された理論とは現象論で得られた法則を導出するために根本原理を導入し、
法則を定理として位置付ける。この二つの代表例に熱力学と統計力学が上げられる。
熱力学(thermodynamics)は理論的な原理を持たない現象論である。
一方この熱力学を微視的な力学で説明するのが統計力学(statistical mechanics)だ。
統計力学は力学(mechanics)である以上、数学でいう変分原理などを明示的に採用する。
また微視的状態を区別できることを原理として採用する。そして状態の個数を数える。
統計力学での計算はおおむね高校数学で学ぶ組み合わせの計算の延長線上と思って良い。
統計学の立場から統計力学の手法を解釈しようとする人もいないことはないが、
帰納の学問である統計学と組み合わせ的な統計力学とはほとんど関係がない。
ちなみに現在では力学にもとづかない公理的熱力学というものもあるが、
その公理は微視的な力学に還元されないのでやはり現象論と考えられる。
統計力学はエネルギーの出入りがない、いわゆる平衡状態にある気体の
熱力学的な現象を完全に説明する。
また非平衡であっても平衡状態にある程度近ければ説明できる。
非平衡系や非線形な相互作用のある系の統計力学は発展途上といえる。
ただし氷が水になるといった、いわゆる相転移の存在は説明する。
このような統計力学だが、単純と思われる光子を気体分子と同様に扱うと破綻が生じる。
計算される分配関数(数学でいうところの確率分布関数)が実験結果に合わないのだ。
ところが2つの光子は区別できないという一見突飛とも思える仮定で計算された
分配関数は実験結果によく合う。
こうして、統計力学はbosonという種の粒子については2つのものが区別できないという
原理を新たに採択することになる。この計算はBose-Einstein統計として知られる。
これは精密さを追い求めることで初めて得られる反駁し難い結果であると同時に、
物理学が同一性について言及する数少ない結果だ。
このような例を見るに、採用した原理に対して厳格な態度で臨み、
そして探求することで我々の認識限界が初めて明らかになるのではないかと感じる。
物理学から離れた同一性の議論においても、我々の採用している、
あるいは採用せざるを得ない原理を見極めることが目的ではないだろうか。
定義は手段に過ぎない。見極めているのならば、あえて議論する必要はなかろう。
321 :
考える名無しさん:02/12/03 23:14
>>314 では、丸暗記は無理ですが、私なりに消化したつもりで指摘しますね。
重要と思われる発言を二つに絞り、批判しましょう。
まず一箇所、
>>260 ここでは、同一性の問題を置き去りにしたまま、記号の使用と、同値記号による
同一性の合成という、二つの問題が曖昧に提示されています。
記号の使用の問題
純粋な同一性の権化たる記号に、記号以外の対応物をあてがうことは果して可
能なのか?我々が記号を用いずに指示する対象を、記号を用いて指示すること
は可能か?
同値関係による同一性の合成
記号世界に完結しない非自明な「a=b」なる同一性の合成で、アプリオリに可能
なものはあるのか?また、経験的に可能なものはあるのか?
同一性の問題は、その手前。
同一性は、同一性の認識の外に、必然的な基盤を要するか?蓋然的な基盤を
要するか?
322 :
考える名無しさん:02/12/03 23:23
323 :
考える名無しさん:02/12/03 23:25
324 :
考える名無しさん:02/12/03 23:33
>>323 現象側にとっては埒外だよ、ということの象徴として。
このスレ、字が多くて、眼がつかれるー
326 :
考える名無しさん:02/12/03 23:34
「物自体」は不可知、という意味?
327 :
(・ω・)ノ:02/12/04 01:20
>せ氏
同一性ね。人間にとっての同一性は同一認識(敢えて感覚とは
しないでみる)によるとろが大きいとい主張し続けておりますが
これは、例えば自己同一性については
昨日の自分と今日の自分
此処に居る自分と彼方にいる時の自分
のいずれも自己と「認識する」ことに由来しますが、
しかしこれは必ずしも感覚であると確証するわけでは
ないでしょう。記憶の連続性が感覚に含まれるとしても、
それを理由に「これもあれも自分である」と認識し判断する
手続きは必要なはずです。
この、「これもあれも**である」という場合、理由づけは
さておき、最終的に**である、と呼ぶか呼ばぬかが
問題となりましょう。同じ名で呼ぶ場合は、それが同一性の
根拠ではないかと。前にどなたかも仰っていたはずですが。
物質的同一性も、構造/機能的同一性も自己同一性も
同一であるという判断の「裏づけ」の種類の区分であり、
広義において同一認識に含まれているのではないでしょうか?
328 :
(・ω・)ノ:02/12/04 01:22
CDの話がありましたが、例えば私が買ったCDは、昨日買った
ばかりの状態と、今日とでは状態が違っているかもしれない。
しかし、これは「同じCDである」
私が買ったCDと同じ銘柄のCDが店頭に並んでいます。
電子顕微鏡などで観察すると違いは見えるかもしれません。
しかしCDとしての有意味な差異ではありませんし、これらは
「同じCDである」
昨日の私と今日の私は、新陳代謝により物質が交代し、
しかも老化やらで構造も変化している
しかしこれも「同じ自分である」
最終的に、それぞれの有する個性と同一性のどちらを優先するか、が
同一性の根拠ではないかと。つまりそれを私は同一認識、或いは
同一判断、と呼んでいるのでつ。
ついでに、多重人格の主観は、複数あると考えることができます。
彼ら(複数)は自己同一性を互いに共有しておりませんから。
まぁ、本人のみぞ知る、でしょうが。
このように認識者の主観に最後には依存する形で同一性があると
考えているのですが、しかし例えばある人が、内外の特定の条件下で
「同じ」と判断するか、又は「違う」と判断するかを、与えられた
条件から十分な確度で「客観的に」類推可能である、という事を
仰りたかったのであれば、「客観的に」という語の用法以外は
異論ありません。仮にそのような類推が成り立たぬ程、個別の認識者
の主観に隔たりがあるなら、呼び名を共有する事すら困難ですしね。
329 :
考える名無しさん:02/12/04 01:41
>>328 >最終的に、それぞれの有する個性と同一性のどちらを優先するか・・
この「同一性」は「類似性」とすべきではないのでしょうか。
「同一性」という語には一般的な「同じ」という語よりはるかに
厳密な響きがあるわけだし、物理的現象として考えても、
完全な同一性というものはありえないように思われるので・・・
>>329 んー。本当は類似程度なんでしょうけれど…物理現象でも
「誤差」を一切許さないなら法則なんてそうそう言って
られないだろうし。しかし、そういった物事を「同一」と
見做す我々の認識は、間違いではなくむしろ正当な
権能だとしておきたいので、「同一性」かなぁと。
>>322 >>322がいうように
>>278のような説明はありえる。
ただし、不可知と断ずることを前提とすることが有意であるか否かは分からない。
散文的な表現は難しいので物理学をもう少し事例にさせてもらう。
確かに物理学は物質そのものを記述せずに物質の性質を状態概念によって記述する。
これは物質そのものが不可知であるという原理を採択したからではなく、
状態概念は可知であるという原理による。
同じ原理に見えるかも知れないが、この二つは大きく異なる。
論理学における不可能性は、仮定された命題から到達可能な命題によって
特徴付けられる。つまり到達可能でないことが証明されたとき初めて
不可能であることの証明になる。逆はできない。
この意味で可知を想定することと不可知を想定することは必ずしも対称ではない。
(つづく)
物理学での状態なる概念はおそらく物理学者でない者が想像するもの以上に限定的だ。
まず、状態概念は付随する計算体系が伴う。多くの系において、
とりわけ重要な計算の原理は状態は分解と合成が可能であるという点だ。
その分解された状態は線形性を有するだと仮定される。
つまり状態は適切に選ばれた代数系の上で状態の和で表せることを原理とする。
この線形性のような原理を明示しなければ状態という概念を提示したことには
ならないといえる。そして状態概念の実証によって正当化される。
その流れで光子の区別不可能性が実証された。量子力学での経験もこれを支援している。
派手な表現をすれば物理学では個々の光子に対して同一性を認めることはできない。
状態概念で対象を同定できるという原理が、作業仮説的に導入された光子なる物質の
同一性を認めないという状況があるからこそ、この同一性に関する命題は深刻に
受け止められる。
(つづく)
>>278でいえば採用されたモデルの妥当性を示す何らかの証拠が必要であろう。
すでに説明が進められているので、
>>256からはじまるモデルは不可知なる世界の
モデルであると見做す。
ところで、このモデル世界の住人が同一性についての認識限界を持つことを、
不可知世界であるからという原理から導いたとしても何を得たかが分かりにくい。
むしろその世界住人にとっての蓋然性から、同一性への漸近がどのような理由に
よって阻害される可能性があるかを論ずることが一つの方法であろう。
この論法においては物理学とその光子の区別不可能性は事例となると考えられる。
また蓋然であるか要請であるかが世界創造者の意図の有無によって分別されるならば、
合目的的であることと蓋然であることの関係を論じるのも方法であろう。
ただしこの場合は、合目的的であることがモデル世界の住人から見た命題なのか、
モデルの外部にいる論者の命題なのかは区別する必要があると思われる。
そこで質問だが、このモデル世界の住人にとっての目的をこのモデルで論じることは
可能か?あるいは妥当か?もし妥当でも可能でないならこのモデルで蓋然と
要請の差異を論じることは有意義なのか?
>>333 ここに「目的」という概念を持ち込むことは問題をさらに混乱させるのではないか?
目的論的思考法に対して批判的な人も多いわけだから(例えばニーチェ)。
「目的」論は、結局、因果関係に還元できるので、
単なる表現(レトリック)と思えばよいのでは。
目的という概念は人間にとって因果関係を理解しやすくするツールですよ。
自由意志とか言い出すと確かに混乱の元ですが。
336 :
考える名無しさん:02/12/04 18:40
>>1の問いに「目的」がどう関係してくるのですか?
>>1 とはもはや関係ないですが。
>>321 まずこのように「真正面から」批判を試みようとしたのは、
あなたが初めてであり、あなたのおっしゃるように、
「何人かの質問者が、明確化しつつ不備を指摘し」ようとしたことは、
私の認識ではありません。
また、現状ではあなたの批評も曖昧で、というが、殆ど理解できないので、
このままでは答えようがありません。
まず理解できない部分を、質問させてください。
>記号の使用の問題
>純粋な同一性の権化たる記号に、記号以外の対応物をあてがうことは果して可
>能なのか?
Q1. 「記号が純粋な同一性の権化である」とは如何なることですか?
Q2. 記号に『記号以外の対応物(対象のこと?)をあてがうことが不可能』という説ですか?(Yes/No)
Q2-a. あるいはそれを可能とするためには、ある前提が必要なのですか?(Yes/No)
Q2-b. その場合、その前提とはなんですか?
Q2-c. また、それが前提になる理由・根拠はなんですか?
>我々が記号を用いずに指示する対象を、記号を用いて指示すること
>は可能か?
Q3. 記号を用いずに対象が指示できるということは一体どういうことですか。
「我々が記号を用いずに指示する対象」の具体例を教えてください。
つづく
>同値関係による同一性の合成
>記号世界に完結しない非自明な「a=b」なる同一性の合成で、アプリオリに可能
>なものはあるのか?また、経験的に可能なものはあるのか?
Q4. 「同一性の合成」とはなんですか。
Q5. 「記号世界に完結しない非自明な」とはどういう意味ですか。
Q6. 「アプリオリ」と「自明」は同じですか?(Yes/No)
Q7. あなたは、林檎と蜜柑を「アプリオリ」に区別できますか。
あるいは、スーパーのバイトで林檎を五個ずつ袋に詰めることがアプリオリにできますか?
(Yes/No)
>同一性の問題は、その手前。
>同一性は、同一性の認識の外に、必然的な基盤を要するか?蓋然的な基盤を
>要するか?
Q8. 「同一性命題」の歴史的背景をご存知ですか?(Yes/No)
Q8-a Yesの場合, あなたの立場はどのようなものに近いですか。
以上
>>334 たしかに333を良く見たら、単に問題を複雑化しているともいえますね。
「要請」とかいうことが、もし所謂「人間原理」の話だったら。
「不可知」の問題と、パラダイムシフトの問題を混同してる人もいるし。
>>334 面倒になるのは確かだ。目的なる概念を排除することによって
蓋然性と要請の差異に関する指摘を不問に付することができるのだから。
ただし蓋然性は帰納だけでなく合目的的解釈をも支援する。
種々の同一性を論じる際に暗黙に導入されかねない合目的的解釈を
排除できるのかどうかはやや疑問。そこで目的を論じよと提案する。
>>336 通常、記号の使用は何度出現しても同一性を保証するという目的で
行なわれる。記号以外で同一性を確保するには別の論証を要する。
そして我々の使用する記号の機能は他のいかなる事物の機能とも
分けて考える必要があると考える。ただし「機能」は蓋然的な
性質が目的を果たすとの意味で用いた。
よって、件のモデル世界において何らかの同一性が主張されたとしても
それは我々の使用する記号の同一性とは分けて考える必要が
あるのではないか。それを分けるのは目的概念に思われる。
>>340 「同一性」を論じるのにどういう風に「目的」概念を用いるのか、
私にはまだ飲み込めていないので、できればあなたがまず少し論じてくれませんか。
343 :
考える名無しさん:02/12/05 02:12
>>337 >>1との関係、おおありですよ。
A1. 紙の上のインクの染みは、同一性の印しとして扱われるとき、記号となります。
A2. Y
-a. Y
-b. 蓋然的で未規定な対応付けを不可としない。
-c. 未規定な者にも、記号の使用者としての資格を与えるため。
A3. 記号解釈の形而上学的範疇を確定せずに、蓋然的な表現を用いて指示を行う場合。
まぁ、幼児の未分節化表現や、日常の言語使用は、概ねこれにあたりましょう。
可能的対象を全て指示する場合や、必然的な表現が、もしもあるなら、それが
除外されます。
A4. aなる同一性と、bなる同一性から、同値関係a=bを用いて、新たな同一性をつくること。
A5. 記号運用規約のうち記号のみを対象とする部分、および、仮定のみから導かれる場合。
A6. N.
A7. N.
A8. お答えいたしません。
-a. お答えいたしません。
>>343 デさんへの質問の追加です。すみませんがお願いします。
あっ、名前がないので勝手に「デさん」とさせてもらいます。
Q1. 幼児の未分節化表現や、日常の言語使用が、記号を用いずに対象を指示しているという、
具体例(場面)を挙げてください。
そのとき、その「指示」は誰に対してどのような手段(例:音声)で、
どのような目的・意図で行われているか、林檎などの具体物を挙げて具体的にお願いします。
Q2. 「アプリオリ」が「自明」と違うとすると、どう意味ですか?
Q3. 記号世界に完結しない非自明な「a=b」なる同一性の合成で、アプリオリに可能なものは存在する。(Yes/No)
Yesならその具体例。
Q4. また、経験的に可能なものは存在する。(Yes/No)
Yesならその具体例。
>同一性の問題は、その手前である。
Q5. とは、何の手前ですか?
>同一性は、同一性の認識の外に、必然的な基盤を要するか?蓋然的な基盤を要するか?
Q6. 上における同一性とはなんですか?
Q7. 上における必然的な基盤とはなんですか?
Q8. 上における蓋然的な基盤とはなんですか?
以上
>>278で主張されたように
>>256のモデルは必然と蓋然を分離不可能な
状況を提示する。この状況は、CDの如き符号としての同一性が
要請により必然であるとの考えを無効化し、同一性の蓋然性を主張する。
こうして
>>256によって我々は自らの意図を敢えて無視できる。
ここを足掛かりに、
>>1に進もうとして生じる疑問は、
>>1に漸近できることを知ることが如何に可能かという点と、
記録された符号の同一性がDNAのような自然界の事例に
どう敷衍されうるのかという点である。
DNAについて少し考えてみるに、アミノ酸や端点を指示するDNAの
3つ組は符号(code)の担い手という意味を込めてコドン(codon)と
呼ばれる。DNAが符号であるというこの考えをことさら否定しないし、
それどころか合理的な考えとさえ思う。
では、合理的な考えと思う根拠は何か。
(1/4)
ところでモデルにおいても我々が法則を発見できることの喩えを考えた。
情報理論の基本定理によれば、限界まで圧縮された符号は
理想的な乱数列と区別がつかない。このため我々が何らかの
蓋然的な規則を
>>256のフォーマットから知るためには冗長性を必要とする。
替言すれば、神のフォーマットに我々が勝手な規則を見出せるのならば、
そのフォーマットは、少なくとも我々が情報理論で定義した意味において、
冗長であるはずだ。測度論的確率論を基礎にしないChaitinやKolmogorovに
よる乱雑さの定義を用いても同様の結論(規則的なら圧縮可能)を得る。
上記はあくまでも暗喩であるが、法則を見出せるということは、
法則を見出す余地があること、即ち、世界が我々にとって
全くの無秩序ではないことに依る。こうして我々はモデル世界においても、
冗長性の裏返しである蓋然的法則性によって拘束された身体を持つことで、
完全なる無秩序というなんら法則を認められない世界からの脱出を
図ることができる。
そしてその冗長性に目的を見出そうとすることで、初めて解読作業に
取り掛かれる。解読の成果が誤読をもたらすか否かは知る由もないが、
目的を見出そうとすることで、蓋然的命題を用いた説明は合目的性によって
その合理性を主張する機会を得る。
(2/4)
実際、生物学の暗黙の原理はそこにある。物質や器官や行動の
存在理由を問うことは生物学では合法だ。その問いの答えとして、
その対象の蓋然的な性質が何らかの方法でまず示され、その性質を以て
特定の目的がその対象に依って果たされると続いて説明される。
あるいは、レトリックの違いだが、その対象には特定の機能がある
と説明される。
生物学で示された個々の性質は蓋然的かつ叙事的なのだが、
それらを合目的的な説明に転換できることは重要である。
なぜなら、この説明の総体は最終的に生命という未定義概念に到達し、
問いの連鎖を終了できるのだから。そうすることによって
生物学という説明体系は生物学自身の対象である生物や
そこにある生命を規定することなく暗黙に了解して成立している。
この点で生物学は、体系を実証に依って構築する物理学と全く異なる。
話を戻すと、DNAが符号であるという蓋然的命題の合理的な点は、
合目的的な説明を許容する説明体系、即ち生物学の一部である
ことではないだろうか。つまり、蓋然に過ぎない法則にまで
同一性を見出そうとする我々の性向は、合目的性が説明の
合理性を与えると考えることによってのみ正当化されるのではないか。
(3/4)
要すれば、
>>256で必然と蓋然が分離不可能な状況は提示できるが、
そこから意図の有無に関わらない同一性を主張する際に、
蓋然的命題の合理性を確保する根拠は合目的性にあるのではないか
というのが問いかけの趣旨である。
あるいは、合目的的説明を許可する生物学から借用した一切の命題を
合理性の根拠として援用せずとも、我々は
>>1に漸近できるか否か。
(4/4)
デ氏は説明が苦手だということを自覚したほうが良いですね。
あんまり書き散らさないで、せめて私にだけでも、少し何かを伝達できるよう、
是非とも
>>344に答えてください。
そうしたら、あなたの世界観の一端をフツウの人にも分かる言語でまとめますよ。
まだ曖昧な点がかなりありますので。
350 :
考える名無しさん:02/12/06 01:21
>>344 A1. 女が男の気持ちを探るべく、満員電車で痴漢の魔の手に気付きながら、
その男の前で気付かぬふりを装う場合。
A2. 導出手順全体の規模が、把握できる容量を越えている場合などは、
アプリオリかつ非自明。
A3. 予断を許さない。候補は、幾何学体系における図形の合同証明。
A4. 予断を許さない。候補は、明けの明星=宵の明星。
A5. 記号の使用の問題と、同値関係による同一性の合成の問題。
A6. 予断を許さない。このスレの主問題。
A7. 同一性の認識の、唯一の原因と、不変の拘束条件の総て
A8. 同一性の認識の、可能な原因と、不変の拘束条件の総て
351 :
考える名無しさん:02/12/06 01:28
自己同一性の枠組みは家具によって保たれているとボードリヤールが言っていたような。
消費社会に生きている以上、所有物や消費活動との関連でも話を聞かせてください。
なにやら混乱してきてるような…?
板全体からしかチェックしてない(最新10レスしか見てない)
人が多いのかな?まぁ…話が物理学に流れたようなので特に
言いたいことも聞きたい事もないんですけれどね。
353 :
考える名無しさん:02/12/06 09:13
>>317-319,331-333,340-341,345-348
充分な基底を持たない、追認するしかない同一性を認めるのが、私の立場です。
ですから、淘汰が起こる場合に「種」や「一族」という袋を見る例は、そのような同
一性の典型と思います。
それは、ご指摘のように、当面の我々の現象把握の甘さから要請されるものでも
ありますし、またもしもそのような同一性が認められるとすると、基底を持った同一
性のことごとくが、物自体へと押し下げられてしまうという、仮説に基づいた弱い
批判でもあります。
>>353 まず追認が可能となる条件を問いたい。
淘汰という概念は実は一定したものではない。淘汰を定めるには
「種」なる袋を定める必要があるがこの袋に要請される条件は
全く自明ではない。「一族」も同様だ。これらを追認する根拠は何か。
また、同一性が基底を持つ条件も問いたい。
例として記号aによって表される変数を考える。
このとき二つの命題「aはaである」と「aはaでない」について、
前者は恒真であり後者は恒偽と扱わない論理体系はないだろう。
逆にいえば、aなる記号はこのような論理を表すために考えられた
のではないか?この命題を一切の記号を使わずに表すことはできるか。
できないならば同一性はどこに基底を持てば良いのか。
替言すれば、記号と同一性は不可分な概念なのか。
そもそも論理自体が帰納によって得られたものではないのか。
だとすると、原始において同一性は如何にして獲得されたと考えるか。
355 :
考える名無しさん:02/12/07 00:54
>>354 追認するしかないというのは、無前提で追認させる強制力があるという意味ではなく、
同一性を認めるためには、霞んで見えない彼方の基底を求めるより、当面、追認しか
ない、という意味です。
そして、「一族」や「種」の同一性を認める根拠として用いられるところの、交配可能性
なり、社会的分業の構築なりといった指標が、基底を持っていないことが明白である
のと同様に、個人の・・・正直に言ってしまえば私の自己同一性も、基底を持っている
と確認することは、到底おぼつかない。そんな私の自己同一性を、当面だけでも主張
するにあたって、種や一族の同一性も、追認せざるを得ない。
ここまでは、同一性に基底を求める姿勢への批判であり、強い主張です。
そしてこの先は、無基底の同一性を仮定した、弱い主張です。
無基底の同一性に対して、有基底の同一性の一切は、背景となってしまう。
背景というのは、すなわちそこから意味のあるものは取り出せない。取り出せる
のは、一方的に湧き出すノイズか、自分の反映だけだ。
それに対して、無基底の同一性同士の間には、コミュニケーションの可能性が残
される。
356 :
考える名無しさん:02/12/08 13:30
>>346 シャノンは表象とその媒介に徹している。
変数間に非自明な大きさの相互情報量が認められるとき、情報がやり取りされた
と言われる。コードがアプリオリでない場合、その検証には、典型的な表現のほと
んど全てが現れるのを待つ必要がある。そして、正味運ばれる情報は、そのうち
全く冗長性を含まない分とされる。おっしゃるとおり、それは「公理」により、原理的
に規則性の抽出が不可能となる。
これに比較して、我々が自己や他者の同一性を認める際に行われているコミュニ
ケーションはどうであろうか?第一に、コードはアプリオリではない。第二に、コー
ディングルールは、変遷する。その速さは、コードの典型例を全て経験できるほど
ゆっくりしたものではない。第三に、シャノンの情報量よりも、系を巡回する信号の
方に意味を求めがちである。
すなわち、無基底である。
シャノンの情報通信は、しばしば用いられるが、我々はそれを「メディア」とよび、
選択は蓋然的だ。メディアは有基底であるがゆえに、無基底な我々には追従できず、
我々の方が、その時々に応じてメディアへと接続する。
エジプトの象形文字の解読の方が楽かも。
>>355 考え直したが、情報理論を持ち出したのは間違いだった。
情報理論は確率論を基礎にするが、確率に意味があるのはアンサンブルを
持ち出せるときだ。モデル世界そのもののように一つしかないものに
情報量の概念を適用するのは全くの誤りだ。訂正したい。
一つしかないものについては Kolmogorov-Chaitin complexty を適用する方が
より適切である。このような考え方はおそらく Jorma Rissanen が最初に
主張したのだと思う。
>>354 の意味するところについて咀嚼しているが、前半の批判と
後半の主張が両立しうるものなのかがまだ分からない。
基底を求める営みが我々の視線を霞ませる。
無基底の前提でコミュニケーションを認める。これは一見良い。
しかし基底を求める営みはコミュニケーションではないのか。
そして基底を求めるという指向がなければコミュニケーションははじまらない。
追認するしかないという批判的な態度をとりながら、
基底を求めてコミュニケーションを続けよということか。
だが、それを実践レベルで認めると、コミュニケーションをとる動機を失う。
そこで科学者の場合はメタ科学を嫌うことで心の平穏を保つ。
けれども実際は、ある方法論、例えば物理学が仮に基底に向かって成長を続けても、
基底に全く到達しないうちに収束する可能性だってある。
収束は有限では完了しないから確認するには無限の反復を必要とするが、
そのようなことは実際にはできない。ゼノンの背理とは状況が違うのだ。
では、これはより上位の議論においてはどのように回避されうるのか。
>>359 の泥沼から抜け出したいがため、素朴なところから出直してみた。
私が同一性を求めるのは私が物語の流れを追う際でのことだ。
物語に登場する人物や事物に対して流れを追うために同一性を仮定する。
ここで仮に物語と呼んだものは少しでも長さがあれば良い。
同一性に物語の追跡なる観点を与えようとするなら、物語の正体は問題だ。
ここで、眠っているときに見る夢のいくつかが示唆を与える。
夢を反芻しようとするとき、覚醒するにつれ、夢の中で感じていたはずの
同一性がにわかに失われ、夢は拡散してしまい、言語化はおろか
想起すらできないことがある。
反芻できない夢は物語としての要件を備えていないようだ。
また、物語を創っているときも、その中の同一性を失いかねない。
物語をまさに創るそのときは未だ流れが無いので追うことができない。
あるのはその方向だけであり、軌跡はまだない。
これに対し、禅の考案の如き逆理的な物語は全く問題がない。
論理上は整合的に理解できないが私はその中で視点を失うわけではない。
だまし絵も同様だ。その中に文字通り視点を置くことができるし、
必要に応じて模写することもできる。その一意な整合的解釈は不可能だが。
(1/3)
私は自己同一性を普段はわざわざ見出そうとはしないが、
確認することが皆無なのではない。
これもまた断片化された物語の追跡といえよう。
即ち、現在の私を見つめる私という物語である。
私が私を追跡するときに、無際限の没入を回避することができ、
その上でこれを再帰と見抜いたとき、自己同一性を感じるのではないか。
この無際限を断ち切って見抜く何かには興味をそそられる。
だが論理的には矛盾と隣合わせであり、なかなか踏み込めない。
こうして同一性の確認の触媒たる物語とは、
必ずしも論理的とはいえず、解釈も一意とはいえないが、
何か伝えるうるものと言える。自分を含めた何かに。
そして物語のやりとりをコミュニケーションと呼ぶこともできよう。
(2/3)
だが、問題がある。自己同一性を見出した再帰は本当に物語なのか。
一つの考えは私の思考が時間に拘束されているというものだ。
現在の私をまったく同じ時刻の私が考えるというのはあり得ないことに
思える。その意味で、再帰の物語は実情を表しておらず、
やはり私の身体的な拘束によってのみ実現されるのかもしれない。
もう一つの考えは、再帰の物語と同様の再入構造が身体的な拘束に
あるという仮説だ。むろんこれもまた蓋然的だが、世界それ自体が
論理を決定するという考えをなかなか捨てることができない。
つまり、超越的な視点を採る
>>256そのものが誤りではないか
というのが今の私の考えだ。外部の神が存在すると仮定することが
可能であるというのは、他者を外部とする全く物理学的な発想に思える。
物理学そのものを否定するわけではないが、モデルの在り方については
物理学的な手法では漸近できないところは必ずあると考える。
しかし、これを評して現象界が不可知というのも乱暴過ぎるとも思う。
つまり物理学の方法は我々と自然という対立を前提としているが、
我々もまた自然であるというときに一旦は自己同一性を棚上げし、
間接的な態度しかとらない。ここに物理学の方法論の限界を感じる。
そしてこの図式が
>>256 にも当てはまると考える。
>>359 の如き膠着の起源はそこにあると見た。
しかるに、論理の先験性や自明性を疑うところを出発点とするのが、
一つの方法なのではないか。
(3/3)
んー。360-362は、結局は…
物理学的に自己同一性について言及しようとすると
色々の限界にぶちあたるって事かな?
このスレ最近追跡してないや(w
>>363 要すればそうだ。ただし物理学的なる範疇が問題である。
超越的な視点から論ずるなら、他の方法も自己同一性においては
同じ難を持つと考える。
また、およそ科学では再現を必要とするため、実験の手順や
対処法は予め与えれるとせねばならず、行動決定が論に
組み込まれることがない。これが超越的視点の特徴の
一つだと思われる。これは自己というものとは異質に感じる。
とにかくすぐに決定しなければならないという状況もまた
自己同一性の前提なのかも知れない。
>>354 のようなコミュニケーションの可能性が如何なる方向に
向かいうるのかも興味深い。
365 :
考える名無しさん:02/12/09 23:39
>>364 超越的な視点を封じるのは、あまりに厳しい戒律に思えます。
そのような世界描写では、法則の可能的作用域に、一切の空席がないことになるの
でしょう。でもそれは、土もこねず、ノミも振るわずに像を作るようなもので、球や
正多面体、せいぜい自己相似図形程度までなら想像もできますが、目の当たりにす
るこの世界には、遠く及びません。
それよりも、不動の基底を設けることに、疑いの的を絞ってみてはどうかと思うのです。
コルモゴロフ情報量にしても、基底を持てば、1にまでできます。(言語体系が太りますが)
全ての有基底コミュニケーションも、可能性の膨らみを考えないならば、同様です。
ですから、同一性の無基底を、積極的に求めてみるのです。もはや、反基底と言うべきか。
>1
記憶です。
>>365 「基底」って哲学ではあまり使わない言葉だと思うけど
数学用語として使ってるのかな?
368 :
考える名無しさん:02/12/09 23:52
>>366 記銘されたきりで生涯想起されることのない記憶も、含まれますか?
369 :
考える名無しさん:02/12/10 00:30
>>366 記録も含まれるのか?含まれないとしたら、線引きは?
370 :
考える名無しさん:02/12/10 01:03
>>366 記憶って、結局は物理的な記録でしかありませんよね?
371 :
考える名無しさん:02/12/10 01:04
自己が同一であるという自己認識(主観)を指して、
「同一性」というなら、「記憶=同一性」ということなんだろうか。
それって
「あなたが同一だと認識しているという、その認識が、同一性の本質なんだよ」
つうことかね。
373 :
考える名無しさん:02/12/10 01:29
たとえば、全く自分と同じ記憶と容貌を持った人間が目の前にいたとして、
じゃあそれで自分というものは自分自身ではないのか、オリジナリティは
どちらにあるのか、そう考えた時、やはりそれを考えている自分こそが
常にオリジナルであって、目の前にいる自分そっくりの人物は、それを
認識できた瞬間に、自分自身ではない。
だって、立ち位置が違うじゃない。
睡眠中には意識の断絶があって、
就寝前と起床後の自己認識をつなぐのは記憶なわけだが、
例えば、全く同じように育てられている双子の兄弟の、
寝てるベットを寝ているうちに入れ替えて、
先に起きた弟の方が、「僕が兄だ」と言った場合、
弟の側のベットに寝ていた兄は、
自分が兄であるとの確信を保持できるか?
375 :
考える名無しさん:02/12/10 02:25
>374
手の込んだイタズラするなあ、弟よ。
と思うだけじゃろ?
スケベイスってあるじゃん。
アレさ、ああいうのもどこかの工場とかで作ってるわけだよね。
そう、スケベイス工場。
多分そんなにでっかい工場じゃないんだろうけどさ、一応プラスティックとか加工できる設備があるの。
んで、そこにはスケベイスを作るための機械があって、一日何千個とかスケベイスを生産してるわけ。
スケベイス生産機。
んで、スケベイスの企画会議とかもあるわけだ。
スケベイス会社の重役が集まってさ皆、実際に試してみたりするのかな?
企画した社員は「中心のくぼみを大きくすることでより高度なプレイが・・・」とか解説したり。
で、話は前後するけど、スケベイス工場にも工場長はいると思うんだよね。
スケベイス工場長。
彼はスケベイスの売り上げで家族を養ってるんだろうね。
そして毎朝彼のプランとかそういうのに従ってスケベイスが生産されていくの。
彼の号令一過、ラメとかはいった色とりどりのスケベイスがベルトコンベアを流れていくの。
壮観だろうね。
スケベイス工場長はその時何を考えてるのかな?
そんなこと考えてたらさ、なんだか自分がちっぽけな存在に思えてきたわけよ。
まあ、それだけなんだけどね。
379 :
考える名無しさん:02/12/10 19:52
>>378 他人が認識する状況と、個人のいる状況とは違うでしょう。
他人事に考えるからそういう風に思えるのかもしれないけど、
じゃあ自分が弟だとした時に、弟としての記憶がなければ意味が無いでしょう。
見た目が全く同じな場合に、知識だけがすっかり入れ替わるってのなら、
まだ多少はややこしくなるかもしれないが。
380 :
考える名無しさん:02/12/10 20:16
般若磐羅密経を読めばわかるが
人間の行動、聴覚、視覚、触覚、眼、口、耳、思考、判断識別、
などなど、おろもろは相対的にかりに生じていてあたかもあるように
錯覚しているが実際にはない。という事でそういうものに同一性をも
とめても、なんら絶対性はないから、かならず、逆説に出会い、
心砕かれるのである。自己というものを考える事はできるが、それを
実際に感覚として自分で把握している人間はそうはいないといってよい。
381 :
考える名無しさん:02/12/10 20:23
382 :
考える名無しさん:02/12/10 20:36
同一性=遺伝子と環境世界
>>365 > コルモゴロフ情報量にしても、基底を持てば、1にまでできます。(言語体系が太りますが)
上の発言にある技術的で些細な誤りを指摘しておく。
モデル世界なる対象のコルモゴロフ情報量がどのような値になるかは、
全く自明ではない。一つには
>>256に与えられたモデル世界は評価する
のに十分でないからだ。
また、仮にモデル世界が厳密化されたとしても、その場合に「言語体系が
太る」必要性は予断を許さない。この量の評価は大抵は容易ではない。
「言語体系が太る」とは、即ち計算論で定義される神託が必要なことを
喩えたものであろう。
>>265がそのようなものを意図したものか否かは
不明であり、現時点では言及できない。
>>365 >>364が厳しく見えるのは、表現の厳しさに依るものではないか。
>>365の前半にある、この世界に遠く及ばないという反論は
超越的な視点からのみ可能なものだ。
一方で、超越的な視点を持たないことが実際に可能なのかは定かでない。
どのような視点からの論も論理を用いる。論理とは自明であるとされるが、
自明とは解明できないことを意味する。還元すれば論理もまた解明できない。
形式論理を語る場合も素朴な論理を使わざるをえない。
この意味で論理は、素朴な論理ひとつしか知られていないのであり、
しかし唯一であることは定かではない。
そしてこの論理とは先験的なる代わりに、主体性を放棄する。
つまり、論者が論に参加することを強いられるような論理は
実際は知られていないのだ。この意味で同一性の無基底を
指向することは、超越的な視点を否定することとは矛盾していない。
結局のところ、両者は同様の認識を得ているのではないか。
385 :
考える名無しさん:02/12/10 23:53
止揚
386 :
考える名無しさん:02/12/11 05:22
AUFHABEN
デンパ漫才は終了しました?
終了しました
しかも人格が二つに分裂。アブナイ。
しかし、「同様の認識で」再合体! 良かったですねえ。
「超越的でない視点」とか、
「無規定」とか、「コルモゴロフ情報量」とか、
イヤイヤ、脳内迷宮がそのままCORE DUMP!
でも、それって大迷惑!?
390 :
考える名無しさん:02/12/13 02:36
>>385 無基底を口にしてはみたものの、その中に入りきれていない自分が
超越的視点から見てしまっているとすれば、外から見た無基底の同
一性は、彷徨うことが示されただけに過ぎない。
彷徨う様により高次の同一性を認める者が、外にいる有基底の同一
性なら、その高次の同一性は、無基底ではありえない。
したがって、止揚の機構は無基底側に記述されねばならないのだ。
が、具体的にどうしたものかは皆目見当もつかない。
391 :
考える名無しさん:02/12/13 02:59
>>383 言語体系間の翻訳の厚み分だけ、記述対象のコルモゴロフ情報量は幅を持つ。
だから、採用される各言語体系において、コルモゴロフ情報量の充分大きな記
述がふんだんに登場し、ほとんどの場合に翻訳の取り分が無視できるような状況
でなければ、コルモゴロフ情報量は尺度として働く機会を与えられない。
基底を持つ記述対象ならば、有限長の記述が保証されるので、それを一文字と
する言語体系を発明してしまえばよい。「可能性」の広がりを考えないのなら、そ
ういった個々の単語定義は尽く可能となる。つまり、有基底の同一性は、わざわ
ざ文章などあてがうに値しない。
392 :
考える名無しさん:02/12/13 04:44
>>367 日常語として、素手のまま使っていますが、集合論の公理で言われるところの
基底とは、かなり近い感覚ではないかと思います。
>>379 >じゃあ自分が弟だとした時に、弟としての記憶がなければ意味が無いでしょう。
このケースの場合に、弟と兄の記憶の「違い」ってのは具体的に何?
「弟と呼ばれていた」「兄と呼ばれていた」ということと、「立ち位置」意外に存在しないのでは?
弟が生まれるところを見ている。
395 :
考える名無しさん:02/12/14 15:52
>>393 立ち位置が全て。より詳細には、歴史的連続。
どう呼ばれていたかは関係ない。呼び方が不定であっても、
兄は「兄」、弟は「弟」なのだから。
396 :
考える名無しさん:02/12/14 16:11
>>393 「他者からの認識」と「個人の持つことの出来る自覚」とは同一でないと理解してください。
客観的に見れば、そりゃあ違いなんて解らないのでしょうけど・・・
それとも、自分が自分であることを証明するためには、わざわざ他人の同意が必要だとでも?
例えばある人が戸籍改ざんや整形やなんやで
別人になりすましたとして。
他者からは同一人物と見られないわけでつが、自分は自分のままのはず。
他者の同意不要説を支持。
>>397 「他人の同意」ですが、それが不要と言い切れるかどうかに疑問。
まず、「他人に成りすまし」も、情報がそろえば見破られます。
成長して顔が変わったとしても、
その成長の過程の痕跡がのこっているから、
本人の「同一性」の根拠は世界に刻まれているわけです。
つまり、
「同一性」の有様とは、世界の中の出来事であるから「客観的」であるといえませんか。
世界(客観)と切り離した「同一性」など定義できないといえませんか。
第二に、自己同一性の感覚は、
成長の過程で、鏡をみたり、他人の自分に対する振る舞いを見ることによって
本人の意識内に形成されるとは考えられませんか。
つまり、他人(世界)の同意の積み重ねによって形成されるとも考えられる。
心理学ではそうした説はわりと一般的ですよ。
ゆがんだ家庭やおかしな両親に育てられて、そうした心理が壊れているような
子供も育つようですよ。
>>398 過程を見れば、それは確かなことではあるんだけれど、けれどそれは全て過去における
事象であって、現在それから未来にわたってそうであるとはいえない。
それから、自分が自分であるということを、疑問にも思わない状況こそが最も正常な
自己同一性のありようだと思えるから、それ以降は自己同一性を考えるほどにその基盤が
危ういものになるのは当然なわけで、その中で自分を見失うことは多い。
しかしそれは状況によって自我を失っているという訳で、自己同一性そのものが失われていると
いうことにはならない。
自分のやることに自信がもてず、他者から与えられるものにしか自分の価値を見出せない、
そういう人間は自我を他人の評価に預けているのであって、半ば自己同一性を失っているとも
言える。
であるから、そういう人間が過去において自己同一性を失ったと考えても、しかしそれ以降は
ゼロからでも築き上げられるのが自我であり、自己同一性だと思える。
>>395 >どう呼ばれていたかは関係ない。呼び方が不定であっても、
>兄は「兄」、弟は「弟」なのだから。
それは絶対的な第三者の視点に立った場合の話でしょう。
「当人が認識できるか」とは別の問題なのでは?
>>396 >「他者からの認識」と「個人の持つことの出来る自覚」とは同一でないと理解してください。
この話は、
>>373 から始まった話なので、「他者からの認識」は除外して、
「個人の持つことの出来る自覚」のみについて考えています。
>>399 >過程を見れば、それは確かなことではあるんだけれど、けれどそれは全て過去における
>事象であって、現在それから未来にわたってそうであるとはいえない。
「未来にわたってそうであるといえない」から、どのような結論が得られるのですか?
「自分を見失うことは多い」ですか。
普通はそんな理由で自分を見失いはしません。社会性を失いサイコ化したときに自分を見失います。
>それから、自分が自分であるということを、疑問にも思わない状況こそが最も正常な
>自己同一性のありようだと思えるから、それ以降は自己同一性を考えるほどにその基盤が
>危ういものになるのは当然なわけで、その中で自分を見失うことは多い。
>しかしそれは状況によって自我を失っているという訳で、自己同一性そのものが失われていると
>いうことにはならない。
「自己同一性」の存在の根拠が、
「自己同一性そのものが失われるということにならない」ですか。自己同一性でなくて自己撞着です。
「自己同一性そのもの」の存在を、「感じがする」という理由のみで認めることはできません。
心理学の症例でも、「感じ」が発達過程で形成されるものであるとしたほうが、
むしろその他の事情に合います。
>自分のやることに自信がもてず、他者から与えられるものにしか自分の価値を見出せない、
>そういう人間は自我を他人の評価に預けているのであって、半ば自己同一性を失っているとも
>言える。
自己の社会的価値が低いのと、自己同一性感覚は別物のように思いますが。
むしろ、脱社会化することで、妙に自意識が過剰になることはあるでしょう。
>であるから、そういう人間が過去において自己同一性を失ったと考えても、しかしそれ以降は
>ゼロからでも築き上げられるのが自我であり、自己同一性だと思える。
社会や現実の中で自己実現することを怠けて、社会から脱落し、
社会(世界・外界)における価値や意味が無いのをものともせず、
妙なサイコ基準で行動するダメ系の凶悪人間が増えていることは確かです。
404 :
考える名無しさん:02/12/17 01:51
>>400 ケース別けする前に、内的視点、外的視点、共にに現れる面に的を絞ろう。
同一性を規定する、完全な基準が確立されている場合、まさに全く区別の
つかないものに対して、同一性を否定することは無意味だ。
しかし通常の同一性は、規定が完結している場合は少ない。そのばあい、
同一性を認める働きの連なりが、同一性を形づくる。このような同一性が破
綻するのは、このつながりが切れたことが確認される場合となる。
さて、兄弟のケースでは、兄あるいは弟が、都合、共にありつづけることは、
仮定されている。疑われているのは、兄とされた同一性の連なりと、弟とされ
た同一性の連なりとが、あるとき不可分に交わるがどうかということだ。
これは、それぞれの交叉前の同一性が、どれほど厳密に見つめられている
かに依存する。
あるものが、ぼんやりと見ていて、しかも自分よりもしっかりと見ている者が居
ようが居まいが意に介さないというなら、そこではまさに同一性は交叉していて、
兄弟は区別がなくなる。だが彼が、より詳細な観測に対して可能性を閉ざさな
いならば、現れうる弁別者により、同一性の交叉は保留される。したがって、そ
のような弁別の可能性を無期限に設定するならば、弁別はいつまでも放棄され
ず、同一性は保たれる。
405 :
考える名無しさん:02/12/17 02:18
>>404 では、無期限の保留は可能か?
兄について考えよう。兄の同一性は、完全な判定基準を待たないとする。
すると、境界条件で仮定された同一性は、別の境界条件での同一性を
導くには不十分であり、ある程度のマージンをもって、それらの間の繋が
りを認めねばならない。そのマージンの中へ、弟が侵入できるのなら、
アウトである。
ところが、この問題では、兄のマージンは、そこいらの石コロや、犬、いや、
年の離れた兄弟さえ、入り込めないほど狭いことは、暗に仮定されている。
それどころか、交叉以前の成長過程における「弟」にさえ、それは許されて
いない。それはすなわち、筆舌に尽くしがたいほど大量の差異が、兄弟の
間に一旦は現れたということに他ならない。その間は、誰であろうと、二人を
区別できたのだ。その背後には、記述にもれた差異が無尽蔵に隠れている。
人に同一性を認めるということは、それほど狭いマージンを設定するというこ
とであり、同一性の交叉は、絶望的だ。交叉を起こすには、二つの同一性が
分離してから、充分短い時間内に、試みなくてはならない。
>>404 しかし区別できないことをどうやって知ることができるのか。
区別できないことを知ることと、区別できることを知らないことは
まったく等しくない。
兄が弟と同じ記憶を持っていると誰かから弟が聞いたところで、
弟にとっては兄の記憶が弟自らと同じ記憶があると知るわけではない。
弟は兄が兄であるかを確認しようとするときに、そのことに思いいたる。
それにも関わらず兄に弟自らと同一の記憶があるという可能性を考慮し、
そのことを確かめようとする際、その確認作業は未来の行動の候補とされる。
弟による以上の思索そのものもまた弟によって経験され短い間にせよ
記憶されることであり、相手を口を開いたり、殴ったりして、
実際に確認する前に、自身の確認は進む。
弟は兄が弟自身であるかもしれない疑いを持つことによって、
可能性と経験を分けなければならず、過去と未来の非対称性を
否応なく受け入れざるを得ない。
自身の過去と自身の未来の区別が他のどんな区別よりも先に迫られる。
しかしこの区別への疑問は、自身の同一性と分離することはできない。
自身の同一性が得られないならば、自身の過去と自身の未来の区別への
疑問は宙吊りになる。
>>404 ケースわけをしたのは私じゃなくて、
>>373 であって、私はそれに食いついただけのこと。
そのケース分けを除外した議論をあなたが始めたいと思うならば、
それは勝手だが、私がその流れに沿った発言をしなきゃならない
理由は無いと思うが。
私は、
>>373 のケース分けについて発言する、
あなたはケース分け以前に戻して考える、それはそれぞれの自由じゃないの。
とりあえず、私の発言は、
>>373 のケースを前提にしているのであって、
その発言内容について、前提を外した場合についてまで、
それがいえると主張するつもりはないし、
証明しなければならない義務も無いと思うが。
408 :
考える名無しさん:02/12/18 01:27
>>406 いや、区別できないことを知ることと、区別できることを知らないことは、
この場合限りなく近い。なんとなれば、区別の基準が完結していないか
らだ。これは、推論の結果としてばかりでなく、感性の段階においても、
垣間見られる。ボディイメージは、成人であっても、ものの一分もあれば、
大幅な変形が可能だ。(ラマチャンドラン)
疑い得るものの可能性は膨大だが、その中には無数の疑い得ない拘束
条件がまぎれている。それらを、たまたま疑わなかったものと分け隔てす
るのは、経験の可能とするところをはるかに上回る。
であるから、区別できないことを知ることと、区別できることを知らないこと
は、いま、場合限りなく近い。
したがって、懐疑により確立するものが、確信することで確立するものに対
して優位となる。「区別できないかもしれない」ことにより包まれる未確認の
同一性は、共有・継承することにより構築される確認済みの同一性よりも強
く、「区別できてしまうかもしれない」未確認の差異が、弁別されることによる
確認された差異に勝るのだ。
このような、「可能性」に基づいた同一性が、「現状」に結び付けられることで、
通常の同一性は構成されている。
409 :
考える名無しさん:02/12/18 04:14
>>408 いま、保続の意気込みを土台に置こう。
名指しをしばし保続するためには、状況にいちいち振り回されてはならない
わけだが、そのとき、ふたつの対照的な固執が考えられる。
第一は、指示行為の変動を貫く、指示対象の横糸である。
第二は、指示対象の変動を貫く、指示行為の縦糸である。
現実の複雑な同一性の指示においては、このふたつに対して、次のような
極端な見方が、しばしば取られる。
第一に、一本の糸をぴんと張り詰め、それがもつれた麻の中に制限を張る状況。
これは、特定の指示対象なり指示行為なりをもって、世界を両断する視点である。
第二に、縦糸と横糸が所々で接し、整然と布を織り成す状況。これは、現実を説
明するためなら、ほんの一寸の模様を描くためにさえ、全幅あるいは全長にわた
る、糸を必要な本数だけ張ろうという視点である。
これらの両極端の視座に固執する限り、現実世界の描写は、到底おぼつかない。
>>408 確かに、可能性の束縛は否定できない。もし一切の拘束がなく
徴候に対して鋭敏ならば中井久夫のいうように努力なくして
無限の可能性を体験し恐慌にいたるであろう。思路の可能性を
選択する仕組みはどこかにはなくてはならないと思われる。
だが基準の不定性はどうか。身体イメージや思路を遮蔽するものの
存在は当人が初めから知るところではない。遮蔽は自らを一歩後ろから
見るときにようやく予感されるものだ。
区別できないことを知ることと、区別できることを知らないことは
当人にとってはそれほど近いとはいえない。この様相の曖昧さは
当人が努力して視座を移動させることで初めて得られる。
>>409 例として「きのう傘を持って出かければよかった」という仮定法を
それらの糸を土台に分析してもらえませんか。
412 :
考える名無しさん:02/12/25 22:47
>>411 手元に傘がある。五感に訴える刺激は、絶えずそれが見慣れた傘であることを訴えつづける。
この傘は照明や温度、持ち方、閉じているか開いているか、中途半端に開いているか、風が吹
いているか、雨が降っているか・・・などの状況によって、さまざまな姿を見せる。
413 :
考える名無しさん:02/12/25 22:55
>>412 その様子はあまりに多彩で、他人や、近未来の自分に対してでさえ、とても説明し
尽くせるものではないのだが、しかし、そこで傘の同一性が壊れるわけではない。
と、いうのも、傘を振ってみると、ゆらゆらとその形が変化するのと全く同調して、
ばさばさと音が聞こえる。両端をつまんで片手を離すと、他方の手が捻られるよう
な力を受ける。広げて頭上に翳すと、雨音を立てて、雨粒を遮るのだ。
414 :
考える名無しさん:02/12/25 23:04
分析依頼です。
何故、蟹を食べると無口になるのでしょう。
415 :
考える名無しさん:02/12/25 23:07
>>413 この関係は、偶然と片付けるにはあまりにも特別だ。手の届かないところに
置き去りにしてくるか、めちゃくちゃに壊してしまえば、この異常な関係から
開放されるかとも思ったが、捨てるにも、壊すにも、それがその傘であるこ
とを知り、そのことを利用しなくてはならない。それほどに、この傘と、この傘
との間の関係は、この傘とその他のものとの間の関係に比べて、圧倒的に
密なのだ。
だから、これは傘だと言われて手渡されて以来、その同一性の感覚は途切
れていない。
416 :
考える名無しさん:02/12/25 23:38
>>415 さてこの傘、状況判断に基づいて持って出かけることにしている。
先週の火曜日などは、朝起きたときから激しく雨が降っていたため、
迷わず持って出た。
デンパ荒し、という手法か、
いやいや、リアル・デンパでしかありえませんね、
この迫真の粘着デンパ。しかも、自作自演。
418 :
考える名無しさん:02/12/28 01:33
>>416 ところが昨日、手荷物が多かったため、つい面倒くさくなって、傘を持たずに街へ出た。
昼を過ぎるころに、案の定、振り出した。傘のない私は、実際、濡れてしまった。
もし、あの傘、あれを持っていれば、私はそれをひろげて、頭上に翳して、雨を遮り、
濡れずにいただろう。雨音も聞けたはずだ。
マジレスすると、同一性とは愛し合うふたりの性が同一ということではなかろうか。
(^^)
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