>>594 >さて、私が前回「自然状態」と書いたのは、専門用語のつもりでした。
>ホッブス以降の思想とか、法学、倫理学などではおなじみの言葉だろうと思っていたわけです。
■その「自然状態」を批判したことは、明らかです
>>500-501 >>502 >>503。
あなたの前回のレス
>>492 に対して、私が返したレス
>>500-501 >>502 >>503 にリンクを貼らずに、
私が「自然状態」という用語を知らなかっただけであるかのように、書かないでください。
□
>>503の最後で、専門用語としての自然状態は、明らかに踏まえられています。
>>503 >「自然状態」を唱えた人に悪意が無かったことは、よく知られています。このことは、社会契約を理論的に肯定する際に、
>「村長さん<という一人の人間>」が「決めた〜ただそれだけのこと」と、矮小化することがなかった〜
(毎度注:「村長さん〜… は、ゆい脳による)
■さらに、自然状態を唱えた人間には、ホッブズ以外にロックやルソーもいます。彼らによれば、自然状態は「平和」
です(私はホッブズ・ロック・ルソーの「自然状態」いずれも支持しません=議論の前提として採用しません)。
>>500-501 >>502 >>503 ★念を押しておきますが、今論じている点は、このスレの論点とは無関係です
>>503 >>80-82 >>98。
>同じことを繰り返すわけですが、人が自然状態にあるということは、その人が地球を丸ごと吹き飛ばす爆弾の
>スイッチが押せる状況におれば、その選択肢も実行可能であるし、あらゆる選択肢が実行可能なのだと、前もって
>定義(仮定)するよ、ということです。
★「念を押している」かのようですが、実際は、
>>500-501 >>502 >>503 を、無視しただけです。
■端的に、上の仮定は「自然」状態ではありません。なぜなら、ある個体が属する世界の破壊に関する決定が、
決定の時点に関わり無く、常に極大化する状態の、どこが自然なんでしょうか。説明してください。
仮定した内容に対応する呼称をつけてください。また、「地球を」丸ごと吹き飛ばす爆弾とは、どのようなものか、
ご説明ください。
こうした仮定をする人間の悪意・馬鹿さ加減は、明らかです。
>>430さん、見ていらしたら、ここに同意お願いします。
>>574-576 ←
>>580-582 >>583。手短で構いませんので。
■次に、専門用語の「自然状態」の観点からしても、あなたがあげた例は明らかに不適切です。
自然状態は、社会契約(政治理論)を正当化する際に主張される際に想定される、*理論的* 前提であり、
国家(社会)状態に先んじて、人間(ここでいう人間とは、自分ではなくて、個人です。
>>268 ホッブズ「*万人* の 万人に対する闘争」)が、おかれる状態のことです。さらにホッブズは、
かかる状態において人間がおかれた条件として、形式的に平等(条件の平等を指す)であり、
自己保存の本能に支配されるとします。以上を *仮定* します。仮定には批判の余地が残されます。
>>500-501 >>502 >>503 ・ボタンを押す主体として、自分を仮定するのは明らかに「自然状態」の定義に反します。形式的に平等ではないからです。
・ホッブズは、破壊の本能によって規定されていると強調したわけではありませんので、ボタンを押すという行動は、
彼の「自然状態」の定義からは、絶対に帰結しません。なぜなら、「自己」保存の動機に反するからです。
・闘争は、ある「自分」が破壊をはじめ、それに応じる過程を考えれば、必然的に広がらざるをえないとされたのであり
(批判
>>500-501 >>502 >>503)、人間全て
>>268 が、闘争的であると主張されたのではありません。
>たとえば、「なぜ人は人を殺してはいけないのか」明示的にわからなければ、殺してみればいい。
>どんなことがおこるのか。起ったすべてはその解答になろう。
■明示的にわからなければ、殺してみれば「いい」と、限定なしに述べることは、
明示的な理解のためには、全ての行為が許可されることを、意味します。
□明示的・・・は、悪意が感じられる限定です。なぜなら、
・明示的でない、あいまいな理解に従い、行動決定をする場合が多いことは、通常の社会生活上、自明だからです。
・ある点が、明示的に理解できないとしても、それ以外の観点から(
>>98@、
>>62 ←
>>85)
ある行動をとらない場合があることも、自明だからです。
■次に、どんなことがおこるかが分からないことを、暗黙の前提として、「殺してみればいい」としていますが、
全く分からないなどということは、まずありえません。
□なぜなら、誰しも、
・他人が痛覚を感じたときの反応(暴力に限らない。料理していて指を怪我、病気、事故で骨折など)を
見たことがあり、
・その反応を見て、助けたりしたこと(お見舞いして喜ばれた、保健室につれていった、など)もあり、
・また、希望が何らかの形で裏切られた場合の反応(遊びにいく約束が破られてがっかりしたことなど)を見て、
・励ましたりしたこともある、
以上のような経験から、誰かが殺した場合(故意殺に限らない。自動車事故も含む)、殺された誰かがつらい点は、
明らかにわかることだからです。
■多くの人は、私が
>>80-82 で示したように、いけない理由を明確に理解しているわけではないと思います。
多くの人は、殺さない理由
>>98@、
>>62 ←
>>85 の一部として、あいまいに、殺してはいけない理由
>>80-82 を
意識したことがあり、普段は、「そもそも殺すこと自体思い浮かばずに生活しているので、結果的に禁止を守っている」
「交通事故を起こさないように気をつけている」だけなはずです。
この問題を論じる人が、よく言うような、道徳がどうとか、禁止がどうとかいうことは、例えば、ニュースで
事件を耳にしたとき、事件を主題的に扱う際に出てくる、という印象を持つのが、通常でしょう
(
>>286 ←
>>336 >>368 ←
>>369-371)。
そうした生活の中にあって、人々は、殺しを常に
>>397-399 、禁止します(自殺に関しては、
>>402)
この禁止が可能である点が、このスレの問題であり、
>>609は論点外れです。また、
>>609は、
殺さない理由を、従わなければならない理由にすりかえて「無力さ」を言い立てています。
さんざそうではないと言及していますね。道徳の領域に区切って、そこで無力さを唱えるのは、
お門違いなわけです
>>368 ←
>>369-371。
生活の全ては、殺さない理由、殺してはいけない理由、になります。
>また、法律や暗黙の圧力などが禁止するだけでなく、自分の内側からの禁止もかかるだろうとおもう。
>
>>80が解答とのことですが、「絶対的な理由は存在出来ない。ただ、(言語による)
>話の説得性の大小の存在があるのみ」とは不十分です。
私が自分の内側からの禁止(殺さないという決定をする)がかかる点を認めていることは、
>>98、
>>62 ←
>>85 から明らかです。「絶対的な理由が存在できない。話の説得性の大小のみ〜」という点は、
理由の不十分さにかかるのではなくて、理由が絶対的でなくても十分である点にかかっていることは、明らかです。
妙な読み方をしないでください。
>人が、人を殺す(あるいは殺される)光景を見て、「心の真実としてこれほど悲しいことが他にあろうか?」と
>思う人は多いと思う。言語などによらないし、自分自身の中にその答えがある。
それは、
>>98@、
>>62 ←
>>85の、「殺さない理由」に関する話です。禁止の理由ではありません。スレ違い・
論点外れです。
>というわけで、そもそも論理学の話題を展開したいのか、倫理学のお話として展開したいのか、
>議論そのものを哲学的に深めたいのか、なんだかわからないという感じがしたので、書込みした次第です。
わからないと言っているのは、あなただけです。
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>>591について、
>>594末尾でフォローした点について。
>>592-593さんの書き込みも参考に。
(592、593さん、書き込みありがとうございます)
>
>>591に
>「そして私は勘違いをしていました。私はヒトがヒトを殺すことの真理を問うているのかとおもっていたが、
>実際はなぜ殺してはいけないと決まっているのかという問いだったのです。」 〜
>このようなすれ違いが沢山出るのは、上に書いたように漠然としているからなのでは?
殺してはいけないとは、殺すことを禁止する、という意味です
>>8さんのレス。何回も引用してます。
>>8さんのレスを読んでいるなら、上のような理解をするのは、一般にはおかしい態度です。
なぜなら、辞書の意味に全く反する解釈を述べるのであれば、それなりの理由を述べなければならず、
「思う」だけでは、出来の悪い感想文以下のゴミ(
>>591全文をご覧ください)に過ぎないからです。
勘違いというより、わざと無視したか、はじめから妨害する気しかないと言うべきです。
それは、
>>572-584あたりの流れ、
>>591「全文」を読めば、明らかです。参考:
>>593
>>98には、直接批判は来てません。やや詳しい説明は、
>>492 ←
>>500-501 >>502 >>503 (あなた=ゆい脳へのレス) の、
>>503 に書きましたが、これは無視されました。
以上のように、漠然としたところは、ありません。
読まない人の理解が漠然としたままであることや、悪意がある少数の馬鹿が漠然漠然とお経を唱える
ことは、ありがちかもしれませんが、 それは、こちらのせいではありません。
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>>594以外にレス返してないとか言われそうなので、手短に。
>>602 >>606 法律どうり、規則どうり、って何ですか?
>>602については、ここまで拝見さん
>>605 >>606 >たとえば人を殺してみると、法治国家であるならば、直ちに強制装置が作動してあらかじめ決められた
>規則どうりに扱われることになるであろうということです。
■あらゆる意味で、小学生からやり直した方が良いです。強制装置が作動する点に議論の余地が無いと書いてますが、
確かに、それはその通りですね。ところで、これは刑事法が制定されている地域においての話なんですよね。
殺されたときに不都合があり、不都合を受ける個人
>>268 が禁止を主張する
>>80-82 ことは、強制装置が
作動する点より、さらに議論の余地が無いんですが。
何らかの理由を意識し、嫌だから殺すな、と、思うか、言うか、禁止の要求を前提とするような生活を
送っていれば足るのですから。
>>607 安楽死については、
>>155 ←
>>157-159 >>160 安楽死は、殺人の話ではなくて、死期を選ぶ手伝いをする例であり、
こちらが殺人をしたい、殺人が正当化される事例ではありません。苦しみから開放してやりたいという目的が
正当であり、その正当な目的のために、殺人という好ましくない手段をとらざるをえない事例、です。
仮に殺人と呼ぶとしても、この例における殺人の評価と、交通事故・故意殺の例の殺人の評価は、違います。
前者に感謝する人間はいても、後者に感謝する、禁止しない人間はいません。
両者は別の評価を受けるべき事例であり、殺人という一般的な語に対応させて、評価を下すのは
いかがわしいやり方です。
交通事故もかけがいのない例なのに、その点について無視して安楽死という死の結果をもたらす例ばかり
持ち出す理由を述べてください。
>>608 向こうのスレを見ましたが、
>>54 基礎ずける って何ですか?
苦痛を避けつつ選択するなら、
>>80にあるとおり、殺人を禁止する選択をとるはずです。
仮に殺人を行う選択
>>81 をとったとしてもです。両者は並立します。
さらに、殺人を行う選択が普遍的である事実は、ありませんし、行われた選択が
苦痛を避ける例である根拠もあげられていません。ここまで拝見さんも指摘されている通り、
あなたがあげた例は、苦痛を避ける例ではなくて、快を得る例です。
さらに、苦痛を避ける例=快を得る例であったとしても、苦痛を避ける=快を選ぶことに、
相手側の苦痛が伴うことである場合、自分が苦痛を避ける=快を選ぶことは、
相手側の苦痛がない根拠にはなりません。自分の苦痛・快の話をいくら行ったところで、
相手・個人の苦痛・快について語ったことにはなりません。
>>610 地球の生態系を36回全滅させることと、地球を「吹き飛ばすこと」は、全く違います。
その違いを科学的に認識しないこと、基礎ずける、法律どうり、などと言っている時点で、
あなたの素性や、馬鹿さ加減が知れるというものです。自殺については、
>>402 >>611 あなたが、刑法がある社会を野蛮社会と呼ぼうが、禁止は可能であり、刑法が禁止を前提して
実効性を確保している事実は、変わりません。刑期の話も、殺人が禁止される理由とは無関係です。