430氏に悪意がないことは、分かりましたが、永井氏の言は、やはりおかしいので、批判しておきます。
あらかじめことわっておきますが、私は永井氏の問題意識を否定できるとは考えておりません
>>80。
しかし、彼が問題を立てる際の形式・用語の使い方と、問題に対する答えには大いに反論の余地があります。
>〜人間の全面的な自由を主張していた。ごく若いころ、これを小耳にはさんだ私は、
>それを、人間は何をしてもよい、何をしてもよいのであらざるをえない、という意味に理解した。
>そして、なんとまあ、分かり切った、あたりまえのことを言うやつだろう、と 思ったものである。
↓
>私のそのような考え方を、とんでもない考えだと本気で感じて、本気で
>怒る人がいることを知ったのは、少し後になってからのことである。…』
■形式的な点について
まず、彼の若い頃の理解が示され、最後「怒る人がいることを知ったのは、後になってから」とされた点について。
のっけから申し訳ないですが、これは、明らかに不適切な引用です。なぜなら、最後の文章によるかぎり、
怒る人がいることを知ったあと、考え方がどう変わったか、変わらなかったかが、現在の彼の見解であるはずだからです。
ただ、見解の変化がないから、430氏はこの部分を引用したのだと思います。そうであるなら、永井氏は、
若い人間「ですら」、当然に分かることだ、というような経験談の形をとって、自己の考えに対する予断を、
読者に与えるような書き方をしていることになります。これは哲学者以前に、成人として恥ずかしいやり方です。
□次に、「ある人が」本気で感じて、本気で怒る、という次元に問題をずらしてますが、
○→→→→→●永井氏 ■→→→→→ ←←x□
↑ある人
怒っている人は、実際に生じる利害 □xや ありえない抽象的構成 →→→→→(←←□の抵抗がない)によって
「自由」を論じる馬鹿さ加減(言い過ぎではありません)に、怒っているのだと思われます。
>>265 ←
>>268 怒っている人 ○ が問題にしていることは、■→→→→→←←x□ の話であり、永井氏が怒られる前に
問題にしていた点も、同じ話だったはずです。しかし、どういうわけか、最後のところで、○ が怒っていることが
問題にされてます(こういう手を使う論者は、絶対に信用できません。おそらく彼自身も話をずらしたと思ってない。
そして、相手がこれを指摘できないことにかまけて、いつもこうした議論の進め方によって有利に議論をすすめられる
結果、こういう汚い点を使うのを、やめようとできないからです)。
■怒っていることを問題にすることによって、永井氏の「当然の自由」の文脈からみて、規範を立てる側の主張が
筋があってないように見せています。しかし、これは全くおかしな話です。
なぜなら、永井氏が上図右のx□であるなら、当然殺されることに対して抵抗するはずで、その立場から「も」
見ることができるなら、「殺すことが「自由」だとする考え」に対して怒る(批判する)のは、普通だからです。
そういう人から見ると、永井氏はどういうわけか、殺すことを当然の前提としている馬鹿にしか見えません。
実際、彼はそういう前提で話をしてしまっています。彼は殺しを肯定することとは、自分が殺しを行わない限りでは
他者が自分か自分以外の他者を殺すことの肯定でしかないことを、皆目理解してないのです。ここらへんが
あまりにもアホに見えて、他の人が怒るところなんでしょう。
相手が自分を殺すことが可能であった点を「自由」と呼べると言い張っても、普通そんな言い分に説得力を感じないし、
自由はそういう概念ではないことはご承知の通りです。なぜ、永井氏が発言すると、自由の意義を間違えてもよいことに
なるんでしょう? 自由は歴史的(用例的)に、肯定的なニュアンスとともに使われてきた概念ですから、
自由という用語は、あくまで「自分」の「勝手」「可能性」「任意」である点を指す際に使われるべきではなく、
「個人」の「自由」「蓋然性」「個人が一般的に害されないと言える範囲における任意」を指す際に使われるのが
正しいです。なぜなら、後者のように使われない「自由」とは、ある一人の「自分」以外の「他者=個人」にとって、
単なる「自分」の「勝手」に過ぎず、そんな判断に一般的に肯定的な評価を与えることなどできないからです。
論者自身、論者に賛成する者自身を「自分」とおきかえても、この点への反論になりません。なぜなら、
論者は複数だからです。相手が「自分勝手」なら、私は「自由」にはなりませんし、私が「自分勝手」なら、
相手は「自由」になりません。永井氏が、どんなことをしても「よい」とした点についても、同じ批判があたります。
>サルトルの真意はともかく
■サルトルは権威づけのために引用されただけになってます。
>人間が何をしても「よい」ことは、ある意味では、確かに自明ではなかろうか。
>たとえばどんなに悪い、普通の意味ではしては「いけない」ことでも、処罰されるかもしれないことも、
>白い目で見られるかもしれないことも、後ろ指をさされるかもしれないことも、
>地獄に落ちるかもしれないことも、良心の呵責を感じるかもしれないことも、
>何もかも覚悟のうえでそれを選んだなら、その人はそれをする「自由」がある。
これは(自分の)「勝手」「結果の可能性」であり、(個人の)「自由」「蓋然性」ではないことは、前述の通りです。
永井氏は、結果が可能的である点を「してもよい」「自由」と表現したわけですが、そもそも意図した結果が可能でない
ため「勝手」とも「自由」ともいえない場合がある点が抜けてますし、「してもよかった」といえなかったなら、
そこでその人が自由を感じない点も抜けてますし、そもそも、あることをすることが「自由」だから行うとは限らない
点も抜けてます(尊属殺重罰規定違憲判決の事例を、想起してください。女性が父親を殺したとき、それをする「自由」が
あったから殺したんでしょうか? そんな馬鹿な解釈はないでしょう)。
>そういう最後の自由を、 だれか他人が否定することなど、できるわけがない。
>これは端的な事実であり、世の中はこの端的な事実を最後には承認することによって成り立っている〜
結果が起きたなら、他人が結果を否定することはできないのは当然ですが、「ある人間の自由」を
結果のみに対応させるのは不当です。なぜなら、ある人間が、常に意図した結果を起こせる人間として
構成されているからです。ここで自由という語を不当に狭く解釈しないなら、他人は永井氏他の決定を
妨害することによって、「自由=勝手」を否定することは、いくらでも可能です。「何らかの意味で」必ず否定にも
成功するでしょう。また、普段からそういう考えをなくす方向で、制度・教育・話し合い・仲良くする、など、
いろいろ行為することもできます。
どういうわけか、永井氏は、上のような端的な事実については触れたがりません。なぜでしょう?
>世の中で普通に生きていくうえでの約束事にすぎない道徳なんぞによって、この種の崇高な人間の自由が
>制限されるわけがない。わたしは疑う余地なく、そう信じて、というよりそう感じていた。
どこが崇高なのか、説明をお願いしたいんですが。私は道徳を恥ずかしげもなく守る人間の方が、殺人が
可能なんだ、と言い張る人間よりは崇高だと思います。どちらも極端だ、と言い放つ一般人のほうが好きですが。
しつこいようですが、彼のいう自由は自由ではありません。疑う余地がなかろうが、信じようが、感じようが、
自由ではありません(私がこのように書いたのが馬鹿らしく見えるなら、引用文を見ましょう)。永井氏の「勝手」です。
永井氏以外の人間が、「自由」でないから、それは「よい」わけでも「崇高」なわけでもないからです。
おそらく「押し付けがましい?約束事の」「道徳」の方が、「迷惑な」「永井氏の勝手」より、マシだというひとが
多いでしょう。むしろ、永井氏の迷惑な「自由の解釈」という「崇高さ」のほうが、よほど押し付けがましいでしょう。