人はなぜ人を殺してはいけないのだろう?

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450430
 すいません。>>430を書いた者です。こんなにレスがついているとは全く
知らず、失礼いたしました。
 で、記憶だけを頼りにいい加減な引用をしたために、私はともかく永井氏の
真意を誤解されるのはまずいと思われるので、補足したいと思います。ただ、
真意といっても私も永井氏の議論を理解している自信はないので、該当個所の
引用が一番かと思うのですが、あいにくネタ元の『子どものための哲学』が
手元にありません。
 そこで、とりあえず永井氏の発想のニュアンスだけでも伝わるかと思い、
ナカニシヤ出版『なぜ悪いことをしてはいけないのか』から引用してみます。
451430 (引用文):02/12/16 23:10
『人間は自由の刑に処せられているーマルクス主義を乗り越え不可能な哲学
だと宣言する以前のサルトルは、人間の全面的な自由を主張していた。ごく
若いころ、これを小耳にはさんだ私は、それを、人間は何をしてもよい、
何をしてもよいのであらざるをえない、という意味に理解した。そして、
なんとまあ、分かり切った、あたりまえのことを言うやつだろう、と
思ったものである。どうしてこんなあたりまえのことを、ことあらためて
「哲学的に」主張する人なんかがもてはやされているのだろう、と。
 サルトルの真意はともかく、人間が何をしても「よい」ことは、ある意味
では、確かに自明ではなかろうか。たとえばどんなに悪い、普通の意味では
しては「いけない」ことでも、処罰されるかもしれないことも、白い目で
見られるかもしれないことも、後ろ指をさされるかもしれないことも、
地獄に落ちるかもしれないことも、良心の呵責を感じるかもしれないことも、
何もかも覚悟のうえでそれを選んだなら、その人はそれをする「自由」がある。
あらざるをえない。まったくあたりまえではないか。そういう最後の自由を、
だれか他人が否定することなど、できるわけがない。
 これは端的な事実であり、世の中はこの端的な事実を最後には承認する
ことによって成り立っているのだと、私は思い込んでいた。世の中で普通に
生きていくうえでの約束事にすぎない道徳なんぞによって、この種の崇高な
人間の自由が制限されるわけがない。わたしは疑う余地なく、そう信じて、
というよりそう感じていた。
私のそのような考え方を、とんでもない考えだと本気で感じて、本気で
怒る人がいることを知ったのは、少し後になってからのことである。…』
452430 :02/12/16 23:13
 上の引用でおわかりかと思いますが、永井氏は無論、通常の意味(法的・
社会的・道徳的)で、「人を殺してはいけない」という規範を否定している
わけではありません。別に「悪人の友」として発言しているのでも、いじめを
奨励しているのでももちろんありません。何と言えばいいか、世界にたった
一人しかいない自分という人間が、様々な社会的規範に拘束されなければ
「いけない」という「哲学的な根拠」の有無を問いながら、道徳的規範の
存立構造などを論じているのです。ここには氏独特の「独在論」的な存在観
がからんでくるので、議論の分かれるところなのですが…。
 ちなみに、上に引用した本は、複数著者の論争のような形式で、当然ながら
永井氏に対する激しい批判などもあります。そして、論争が全く「噛み合って
いない」のも、考えさせられるところ大です。
 で、このスレで「人を殺してはいけない」という規範に疑問を投げかけている
人達は、恐らく永井氏とある種似た視点や角度からモノを言っているのでは
ないかと思えたので、「すれ違い」という言い方をしたわけです。もちろん、
毎度さんが繰り返しておられる通り、殺される側や社会一般が「人を殺しては
いけない」と主張する「根拠」とは全然関係のない(というか次元の違う)話
なのですが。