スレが止まったようなので、様子見をしていましたが、
新たにレスがついたため、スレ違いの、禁止が破られうる話が
また展開されそうなので、用意しておいた、
>>430へのレスを入力することにします。
>>430 >英語の「good−bad」は、日本語の「善ー悪」、「快ー不快」の2種類の意味があり、
>両者の混同は大問題だというのは、永井均氏なども指摘しておりました。
>プラトンに始まる「人は善を目指さざるを得ない存在だ」等々の命題は、〜両者の混同による「ごまかし」にすぎない
ここでごまかしを行っているのは、引用が正しければ永井氏です。なぜなら;
@■永井氏が指摘する、英語使用における、プラトン他X の混同を、指摘するためには、
個別的に「あるX が good の意味として 善悪・快不快の二通りの意味をこめて議論していた点」を
示さなければならないのに、氏は、用法が多義的である点と、全てのXが多義的な語を用いて議論していた点 しか
示していないからです。多義的な語を一義的に用いた可能性、多義的に用いているが、議論の内部で区別されている
可能性が、検討されてません。
■永井氏の議論をそのまま認めるなら、good bad という語を使って議論する限りは、かならず
氏が主張するごまかしに該当することになります。なぜなら、good bad を論者の意図とは関係ない、
用法(用例)が多義的である事実から、議論をごまかしであると位置付けているからです。
ごまかしているのは、むしろ、永井氏です。
A■永井氏は「プラトンに始まる「人は善を目指さざるを得ない存在だ」等々〜」の部分で、善とgoodを混同しています。
「善」の部分には、「good」が入らなければ意味が通らないはずです。
□氏は、プラトンのgood bad の多義的な使用に言及したあと、その多義的な使用についての理解が、
引用箇所の「善」という記号にあてはまるように記述しています。
不注意な読み手が、good bad における快不快の意味を、それが含まれていない(その点は氏がgood badを
区別するに当たって、善悪 快不快と分けていることから明らか)善に読み込むように、仕組んでいます。
□この点は、永井氏があげたいじめについての記述において、評価の対象となる行為はどの主体によるかという観点の
捨象によって、さらに強められます。なぜなら、氏はいじめられる人間が不快であるかどうかを捨象しているからです。
■Aを混同しているのは、永井氏と、永井氏が仕掛けたトリックにかかった読み手以外にありません。
■@Aともに、極めて悪質な論法ですが、特にAがひどいです。
誰かが、ある種の思想は悪魔でも見抜けないくらいに上手く書かれていると言っていましたが、
永井氏の記述は、まさにそういう記述です。
彼が意識的にそういう記述をしたかどうかを、立証することはできませんが、
彼の「哲学」、観念の傾向が、非常に危うい性質を持つことは、間違いありません。
・論法上のいかさまがひどく、・いかさまに基づく理解が、善悪という語を用いて守られるべき現実的な利益が
捨象させられている世界観に直結させられており、それが理論としてでなく、言葉の意味、「本質」として
提示されているからです。
いじめに関する記述についても批判を書きましたが、スレ違い・長い ので、入力しません。
いずれにしろ、
>>430引用部分の論旨が、禁止の成立を論じているわけではなく、
禁止をを守る際の条件を論じている点は変わりませんので、
>>430ないし永井氏の議論がスレ違いである点は
変わりません。
>>438訂正
>なぜなら、good bad を論者の意図とは関係ない、
>用法(用例)が多義的である事実から、議論をごまかしであると位置付けているからです。
>なぜなら、論者の意図とは関係ない、
>用法(用例)が多義的である事実から、多義的な語を用いる議論をごまかしであると位置付けているからです。
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,. -一'´ `ヽ、_
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r'´ ヽ
ノ ,.ヘ、 ,. ‐'^ヽ、 l
(. / /'l,ィi ´ ゝ |
ノ ,' |l |l \、 ヽ ヽ
( | l' ヽ、 `'ー _( }
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. | !._ ル'_ノ <´ なにやってんの!!
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l ヽニニ二) |
ヽ ー / |
ヽ. _, ‐'´ _|、
「l`T 「 ̄ ̄ ̄ |
|.|| ̄| │
すいません。
>>430を書いた者です。こんなにレスがついているとは全く
知らず、失礼いたしました。
で、記憶だけを頼りにいい加減な引用をしたために、私はともかく永井氏の
真意を誤解されるのはまずいと思われるので、補足したいと思います。ただ、
真意といっても私も永井氏の議論を理解している自信はないので、該当個所の
引用が一番かと思うのですが、あいにくネタ元の『子どものための哲学』が
手元にありません。
そこで、とりあえず永井氏の発想のニュアンスだけでも伝わるかと思い、
ナカニシヤ出版『なぜ悪いことをしてはいけないのか』から引用してみます。
『人間は自由の刑に処せられているーマルクス主義を乗り越え不可能な哲学
だと宣言する以前のサルトルは、人間の全面的な自由を主張していた。ごく
若いころ、これを小耳にはさんだ私は、それを、人間は何をしてもよい、
何をしてもよいのであらざるをえない、という意味に理解した。そして、
なんとまあ、分かり切った、あたりまえのことを言うやつだろう、と
思ったものである。どうしてこんなあたりまえのことを、ことあらためて
「哲学的に」主張する人なんかがもてはやされているのだろう、と。
サルトルの真意はともかく、人間が何をしても「よい」ことは、ある意味
では、確かに自明ではなかろうか。たとえばどんなに悪い、普通の意味では
しては「いけない」ことでも、処罰されるかもしれないことも、白い目で
見られるかもしれないことも、後ろ指をさされるかもしれないことも、
地獄に落ちるかもしれないことも、良心の呵責を感じるかもしれないことも、
何もかも覚悟のうえでそれを選んだなら、その人はそれをする「自由」がある。
あらざるをえない。まったくあたりまえではないか。そういう最後の自由を、
だれか他人が否定することなど、できるわけがない。
これは端的な事実であり、世の中はこの端的な事実を最後には承認する
ことによって成り立っているのだと、私は思い込んでいた。世の中で普通に
生きていくうえでの約束事にすぎない道徳なんぞによって、この種の崇高な
人間の自由が制限されるわけがない。わたしは疑う余地なく、そう信じて、
というよりそう感じていた。
私のそのような考え方を、とんでもない考えだと本気で感じて、本気で
怒る人がいることを知ったのは、少し後になってからのことである。…』
上の引用でおわかりかと思いますが、永井氏は無論、通常の意味(法的・
社会的・道徳的)で、「人を殺してはいけない」という規範を否定している
わけではありません。別に「悪人の友」として発言しているのでも、いじめを
奨励しているのでももちろんありません。何と言えばいいか、世界にたった
一人しかいない自分という人間が、様々な社会的規範に拘束されなければ
「いけない」という「哲学的な根拠」の有無を問いながら、道徳的規範の
存立構造などを論じているのです。ここには氏独特の「独在論」的な存在観
がからんでくるので、議論の分かれるところなのですが…。
ちなみに、上に引用した本は、複数著者の論争のような形式で、当然ながら
永井氏に対する激しい批判などもあります。そして、論争が全く「噛み合って
いない」のも、考えさせられるところ大です。
で、このスレで「人を殺してはいけない」という規範に疑問を投げかけている
人達は、恐らく永井氏とある種似た視点や角度からモノを言っているのでは
ないかと思えたので、「すれ違い」という言い方をしたわけです。もちろん、
毎度さんが繰り返しておられる通り、殺される側や社会一般が「人を殺しては
いけない」と主張する「根拠」とは全然関係のない(というか次元の違う)話
なのですが。
430氏に悪意がないことは、分かりましたが、永井氏の言は、やはりおかしいので、批判しておきます。
あらかじめことわっておきますが、私は永井氏の問題意識を否定できるとは考えておりません
>>80。
しかし、彼が問題を立てる際の形式・用語の使い方と、問題に対する答えには大いに反論の余地があります。
>〜人間の全面的な自由を主張していた。ごく若いころ、これを小耳にはさんだ私は、
>それを、人間は何をしてもよい、何をしてもよいのであらざるをえない、という意味に理解した。
>そして、なんとまあ、分かり切った、あたりまえのことを言うやつだろう、と 思ったものである。
↓
>私のそのような考え方を、とんでもない考えだと本気で感じて、本気で
>怒る人がいることを知ったのは、少し後になってからのことである。…』
■形式的な点について
まず、彼の若い頃の理解が示され、最後「怒る人がいることを知ったのは、後になってから」とされた点について。
のっけから申し訳ないですが、これは、明らかに不適切な引用です。なぜなら、最後の文章によるかぎり、
怒る人がいることを知ったあと、考え方がどう変わったか、変わらなかったかが、現在の彼の見解であるはずだからです。
ただ、見解の変化がないから、430氏はこの部分を引用したのだと思います。そうであるなら、永井氏は、
若い人間「ですら」、当然に分かることだ、というような経験談の形をとって、自己の考えに対する予断を、
読者に与えるような書き方をしていることになります。これは哲学者以前に、成人として恥ずかしいやり方です。
□次に、「ある人が」本気で感じて、本気で怒る、という次元に問題をずらしてますが、
○→→→→→●永井氏 ■→→→→→ ←←x□
↑ある人
怒っている人は、実際に生じる利害 □xや ありえない抽象的構成 →→→→→(←←□の抵抗がない)によって
「自由」を論じる馬鹿さ加減(言い過ぎではありません)に、怒っているのだと思われます。
>>265 ←
>>268 怒っている人 ○ が問題にしていることは、■→→→→→←←x□ の話であり、永井氏が怒られる前に
問題にしていた点も、同じ話だったはずです。しかし、どういうわけか、最後のところで、○ が怒っていることが
問題にされてます(こういう手を使う論者は、絶対に信用できません。おそらく彼自身も話をずらしたと思ってない。
そして、相手がこれを指摘できないことにかまけて、いつもこうした議論の進め方によって有利に議論をすすめられる
結果、こういう汚い点を使うのを、やめようとできないからです)。
■怒っていることを問題にすることによって、永井氏の「当然の自由」の文脈からみて、規範を立てる側の主張が
筋があってないように見せています。しかし、これは全くおかしな話です。
なぜなら、永井氏が上図右のx□であるなら、当然殺されることに対して抵抗するはずで、その立場から「も」
見ることができるなら、「殺すことが「自由」だとする考え」に対して怒る(批判する)のは、普通だからです。
そういう人から見ると、永井氏はどういうわけか、殺すことを当然の前提としている馬鹿にしか見えません。
実際、彼はそういう前提で話をしてしまっています。彼は殺しを肯定することとは、自分が殺しを行わない限りでは
他者が自分か自分以外の他者を殺すことの肯定でしかないことを、皆目理解してないのです。ここらへんが
あまりにもアホに見えて、他の人が怒るところなんでしょう。
相手が自分を殺すことが可能であった点を「自由」と呼べると言い張っても、普通そんな言い分に説得力を感じないし、
自由はそういう概念ではないことはご承知の通りです。なぜ、永井氏が発言すると、自由の意義を間違えてもよいことに
なるんでしょう? 自由は歴史的(用例的)に、肯定的なニュアンスとともに使われてきた概念ですから、
自由という用語は、あくまで「自分」の「勝手」「可能性」「任意」である点を指す際に使われるべきではなく、
「個人」の「自由」「蓋然性」「個人が一般的に害されないと言える範囲における任意」を指す際に使われるのが
正しいです。なぜなら、後者のように使われない「自由」とは、ある一人の「自分」以外の「他者=個人」にとって、
単なる「自分」の「勝手」に過ぎず、そんな判断に一般的に肯定的な評価を与えることなどできないからです。
論者自身、論者に賛成する者自身を「自分」とおきかえても、この点への反論になりません。なぜなら、
論者は複数だからです。相手が「自分勝手」なら、私は「自由」にはなりませんし、私が「自分勝手」なら、
相手は「自由」になりません。永井氏が、どんなことをしても「よい」とした点についても、同じ批判があたります。
>サルトルの真意はともかく
■サルトルは権威づけのために引用されただけになってます。
>人間が何をしても「よい」ことは、ある意味では、確かに自明ではなかろうか。
>たとえばどんなに悪い、普通の意味ではしては「いけない」ことでも、処罰されるかもしれないことも、
>白い目で見られるかもしれないことも、後ろ指をさされるかもしれないことも、
>地獄に落ちるかもしれないことも、良心の呵責を感じるかもしれないことも、
>何もかも覚悟のうえでそれを選んだなら、その人はそれをする「自由」がある。
これは(自分の)「勝手」「結果の可能性」であり、(個人の)「自由」「蓋然性」ではないことは、前述の通りです。
永井氏は、結果が可能的である点を「してもよい」「自由」と表現したわけですが、そもそも意図した結果が可能でない
ため「勝手」とも「自由」ともいえない場合がある点が抜けてますし、「してもよかった」といえなかったなら、
そこでその人が自由を感じない点も抜けてますし、そもそも、あることをすることが「自由」だから行うとは限らない
点も抜けてます(尊属殺重罰規定違憲判決の事例を、想起してください。女性が父親を殺したとき、それをする「自由」が
あったから殺したんでしょうか? そんな馬鹿な解釈はないでしょう)。
>そういう最後の自由を、 だれか他人が否定することなど、できるわけがない。
>これは端的な事実であり、世の中はこの端的な事実を最後には承認することによって成り立っている〜
結果が起きたなら、他人が結果を否定することはできないのは当然ですが、「ある人間の自由」を
結果のみに対応させるのは不当です。なぜなら、ある人間が、常に意図した結果を起こせる人間として
構成されているからです。ここで自由という語を不当に狭く解釈しないなら、他人は永井氏他の決定を
妨害することによって、「自由=勝手」を否定することは、いくらでも可能です。「何らかの意味で」必ず否定にも
成功するでしょう。また、普段からそういう考えをなくす方向で、制度・教育・話し合い・仲良くする、など、
いろいろ行為することもできます。
どういうわけか、永井氏は、上のような端的な事実については触れたがりません。なぜでしょう?
>世の中で普通に生きていくうえでの約束事にすぎない道徳なんぞによって、この種の崇高な人間の自由が
>制限されるわけがない。わたしは疑う余地なく、そう信じて、というよりそう感じていた。
どこが崇高なのか、説明をお願いしたいんですが。私は道徳を恥ずかしげもなく守る人間の方が、殺人が
可能なんだ、と言い張る人間よりは崇高だと思います。どちらも極端だ、と言い放つ一般人のほうが好きですが。
しつこいようですが、彼のいう自由は自由ではありません。疑う余地がなかろうが、信じようが、感じようが、
自由ではありません(私がこのように書いたのが馬鹿らしく見えるなら、引用文を見ましょう)。永井氏の「勝手」です。
永井氏以外の人間が、「自由」でないから、それは「よい」わけでも「崇高」なわけでもないからです。
おそらく「押し付けがましい?約束事の」「道徳」の方が、「迷惑な」「永井氏の勝手」より、マシだというひとが
多いでしょう。むしろ、永井氏の迷惑な「自由の解釈」という「崇高さ」のほうが、よほど押し付けがましいでしょう。
430氏へ・・冒頭で断ったとおり、430氏に悪意があるとは考えていません。それは
>>452を見れば明らかです。明白に人を殺してはいけないという規範が立てられる点を
認めてらっしゃいますし、それを文の最後のところにもってきて、論点がずれていた点を
正しく指摘してらっしゃるからです。ですが、やはり引用部分の永井氏の発言は
>>453-458のとおり
不当ですので、批判させてもらいました(論点からは外れています)。
430氏がおそらく共感しているだろう立場に対して、かなり厳しく書いていますので、
気分が悪いかもしれませんが、落ち着いて読んで、批判的に彼の理解をしてもらえたらと思っています。