皆さん、今晩は。自分がかの有名な「小陰唇博士」であります。
無知蒙昧な民を啓蒙して、光へと至らしめる為に降臨致しました。
私はキリストの再来です。「小陰唇教」という新しい宗教でも
始めようかと考えています。
ちなみに「吉田さん」というのは「美少女」という言葉が存すれば、
それはこの人の為に存するのだというべき程の美少女であり、しかも
まだ中学生二年生というのだから、ロリコン的気質を持つ日本男児に
とってはピンコ立ち的な存在なのであります。
その吉田さんは陸上部に属しており、時々「棒高跳び」の練習をする
のです。その練習の最中に、あろう事か、大変な事が起こってしまったのです。
つまり、吉田さんは、その日、下着を着用するのを忘れていたのであります。
この辺の事情を詳細に語る事は出来ませんが、彼女はノーパンのまま、
陸上競技用の短パンを履き、棒高跳びの練習に臨んだのであります。
それで彼女が華麗に空中に舞うまでは良かったのですが、なんと、
彼女の短パンから彼女の小さな小陰唇がはみ出てしまい、ポールに
ちょこっと触れた訳であります。
それだけの事です。
小陰唇博士はアホであります。しかしアホにはアホなりの哲学がある。
さあ、みんなもアホをアホと形容してそれで安心してしまうのではなしに、
アホとの対話を通じて真のアホ道を体得し、もって太平の道を拓かんと欲す。
いやあ、みんな相変らず冷たいなあ(笑)。思わず笑ってしまったよ。
みんなが小陰唇博士を警戒するのは分かる。でもな、そうやって自分の股間を
守る事ばかり考えて、他人の股間の具合をチェックしないような奴は利己的で
非国民と見なされて然るべきだと思うんだ。
君達が早々に彼女を作らんとして躍起になって、ナンパに夢中になっている
のは分かる。そんな哀れな女に飢えた奴が小陰唇博士の周りにも沢山いるからだ。
しかし気をつけなさい。そうやってピンコ立ちのティムポを握り締めながら
女の子に迫っても、結局は自分で昇天するしかないという悲しい事実に気づく筈だ。
そんな状態を抜け出したい、それが君達の本望ではないのかね。
それでこの小陰唇博士が君達を光の中に導くべく現れたのである。
どうだね、少しは有難い気持ちになって来たかね。
それから、このスレは「自由論」を扱う事にする。
いや、もっと範囲を狭めて、シェリングの『人間的自由の本質』を読む。
レクラム文庫に注釈付きのいいのがあるのでとりあえずそれを購入しなさい。
ハイデッガーの講義を参照するからそれも買いなさい。
さて、諸君から問題提起をしなさい。
6 :
考える名無しさん:02/10/29 05:36
君はチンポ博士とお知り合いですか?
チンポ博士は私の先輩だ。彼は実は二週間前に肺結核で臨終した。
それで私が後任で雇われた訳だ。
文句があるのなら死になさい。
今更『エヴァンゲリオン』の話題で申し訳ないが、私は情けない事に
話の内容を全面的に把握できなかったのだ。例えば、セントラル・ドグマに
保管されているアダムとか、それとエヴァの関係だとか、あと、レイが魂の
容れ物に過ぎないと言う表現もイマイチ理解できなかった。それにあれは何なんだ。
ユイに似せてゲンドウが作ったんですか?
小生の理解力を遥かに越えております。それから、庵野監督は今、
何をやられているんでしょうか。
9 :
考える名無しさん:02/10/29 15:54
コンナコトガカイテアッタヨ
120 名前:ショーペンハウエル :02/10/28 19:40
哀れな子羊よ、君を救済する方法はただひとつ。
君が君という冷たく湿った監獄から抜け出し、
一にして全、全にして一なる、涅槃へと融合することにある。
だがそこに至る道こそは、未だ人類の到達し得ない不可能事であり、
君自身が模索し、実践しなくてはならない。
ショーペンハウアーは所謂「素人哲学者」。彼がヘーゲル・シェリング以後に
突如として評価されたのは、ドイツ観念論という壮大な知の体系の高みに人々が
ついて行けなくなったからなのだ。この「没落」を「没落」として認識する事、
それが先決だろう。彼は人生論者としては優秀だよ。しかしハイデッガーの言うように、
「人生とはその報酬の割には、報われない仕事である」というような仕方で
人生というものを割り切ってしまうところなんか単純過ぎないか。
私はショーペンハウアーを尊敬しはするが、彼の哲学からは特に学ぶものは
ない。あまりに陳腐すぎるし、残念ながら深みがない。無論、比類のない
明晰な文体で、ドイツ観念論の本質をあれほどあからさまに述べたものも
珍しいのであるが。
もはや、左翼系受験予備校の便所の落書きそのまんまのアリサマへと。
やがて哀しき、、、、ネタ師からただの狂人へと。。。。
この人はこの板に来る前から一線を越えてたのしれませんね。
寒気がします。
このスレでの問答は弁証法ではなく便所法。
浪人時代、予備校の便所に書いてあった落書きを思いだした。
まんま、こんな感じだったよ。
13 :
考える名無しさん:02/10/30 00:54
俺は期待してますよ。
ただ、ちん・・いや、松蔭先生にネタ、マジ共についていける奴が
今の哲板にいるとは思えないのだが・・。
ちなみに俺はマジの方がさっぱりダメだね。
シェリングって誰?って感じ。
チェリッシュなら知ってるよ!って感じ。
(・・ネタもだみだな、こりゃ)
君達にはシェリングは難し過ぎたようだね。
小陰唇先生は啓蒙活動にはもう疲れた。
とゆうかエロはもう飽きた。相変わらず朝のテンション高いねえー。あんたは。
啓蒙ねえ。・・・・・。
原点に返ったら?エロで絡めてどうこうは安直だって。
そのうち小陰唇の唇はなぜクチビルなのか、ラカンがどうこうとか、、、、
どうせ、そういった展開だろ。つまらん。
小陰唇先生はもう来ないのでしょうか?
厨の僕には、シェリングの原書をテキストとした議論には参加することなどできませんが、
代わりに岩波文庫でも読んでROMろうと楽しみにしていたのですが・・・。
まあ、せっかく読み始めたから、一通り理解できたら感想でも書きこもうかな?
>>17 「小陰唇」如きでエロを感ずるとは君もなかなか純粋な奴だな。
エロネタとはもうちょっとドロドロした雰囲気の中で行われるものなのだよ。
私は少しでも哲学の難解な印象を軽減するために、わざわざこうして猥褻な
言葉を交えて語っているのだよ。私が純粋に哲学の用語だけで物を言えば、
君達は泣いて帰宅する羽目に陥るかも知れないからね。
それから、ラカンの本を一冊も読んだ事のない者が、ラカンなんかに言及する
必要はないよ。
>>18 時間がある限り付き合いましょう。しかし、翻訳は「世界の名著」版の、
渡辺氏の訳の方が分かり易い。あと、ハイデッガーの『シェリング講義』も
必読です。レクラム文庫の注釈がなかなかいけるので本当はそれがあったら
一番いいのだが。
>小陰唇博士
世界の名著は手に入りしだい、そちらに移行します。
『シェリング講義』は最近出た新書館のやつですね。
なかなかいいお値段するようですが(笑)、思い切って買ってきます。
かの小陰唇博士の第一講義ですから仕方ないですね。
レクラム文庫は独語ですよね?
すみません。独語全くできないです(汗
日本語訳で勘弁してください。
あと、僕は社会人なので気長にマターリ進行にしてもらえたらうれしいです。
つけ加えると、全くの初心者です。
百戦錬磨の博士から見れば物足りないでしょうが、
そのうち人も集まってくると思います。
とりあえず『人間的自由の本質』を読まねば話にならないので、
一週間後にまたレスします。
とても期待しています。
これからよろしくお願いします。
(sage進行の方がいいですか?)
>>寅氏
なかなか真面目な方がいらっしゃるので安心致しました。
シェリングを読むのなら私も付き合いましょう。
『シェリング講義』は別に購入する必要はありません。
私がその都度、要点を抜き出して説明します。ハイデッガーの講義はある程度の
哲学史の知識を前提に進められるので、初心者の人には難しいでしょう。
イヤそれどころか、シェリングの『自由論』自体が、哲学史上の中で、
最も難解な部類に属するのです。それを社会人の方が読まれると言うのだから、
(自分も社会人ですが)、なかなか興味深い話であります。
ドイツ語は私が「ほんの少し」できるので、シェリングの原文が実際に
どんなものであるのか、機会のある度に示しましょう。寅さんは邦訳で読んで
頂いて結構です。自分としても、「気長にマターリ」やるのがいい。
こういう本はとにかく時間をかけないと何も頭に残りません。
とりあえず「序論」の部分を集中して読んで下さい。
原書は章節の区切りなしにノンストップで書かれていますが、渡辺訳は親切に
区切りを作ってくれています。それから、私は岩波文庫の訳を持っていないので、
寅さんにどう訳されているか訊ねる事もあるでしょう。
一週間に一回程度、書き込む事としましょうか。
sage進行で行きましょう。
>小陰唇博士
付きあっていただけるとわかりほっとしています。
期待で胸が膨らむ一方、本当についていけるか少々不安です。
>シェリングの『自由論』自体が、哲学史上の中で、最も難解な部類に属するのです。
そのようなことも全く知りませんでした(汗
ただ、幸いなことに、テーマである「自由」については大変興味があるので、
期待の方がはるかに大きいですね。
以前から哲学に興味があり、その手の入門書をぱらぱらとめくってはいたのですが、
一度ちゃんとした人について専門書をきっちりと精読してみたいと思っていました。
これを機会にシェリングの哲学だけでなく、「哲学書の読み方」というのを学べたらと
思っています。
このような読書会は、(実生活においても)まったくの未知数なので、
始めはとまどうことと思いますがよろしくお導き下さい。
議論の進め方はもちろんお任せします。
マターリとでもなんとかついていきたいと思っています。
(今は厳しいですが、いずれ本当の勉強会にも参加してみたいと思っています。)
では、とりあえず一週間後までにできる限り『自由論』(と省略していいのですか?)
を理解しておきたいと思います。
よろしくお願いします。
ちなみに僕は、博士のご学友のチン院長のスレで今は亡きチンポさんのレスに感銘を受けた
324です。
やばっ、
すいません。
ageてしまいました(汗
(荒らしよ来るな・・)
あらしでーす!ご指名ありがとうございマース!!
精一杯荒らさせていただきまーす!!
ウンコー!!! テイムポー!!! ドンテー!!!
フェラピオーー!!! ビラビラー!!!
ご静聴ありがとうございましたー!!
26 :
考える名無しさん:02/11/04 13:43
ちん吉くんも負けてられないようです。
でも小陰唇博士に変わったので和合しそうですね。
>>寅氏
初めて読む本格的な哲学書がシェリングの『自由論』とは羨ましい。
兎に角、脅かす訳ではないですが、非常に難解ですので、あわてずに
のんびりと読み進めて下さい。
このスレの方針としては、寅氏が私に分からない箇所を質問して、
私がそれにできるだけ分かり易く回答するという形でどうでしょうか?
私のペースで進めると、どうも難しいと感ずる人が多いようなので、
寅氏のペースに合わせる訳です。その際、テクストから難解な箇所を
引用して頂ければ助かります。(頁数も添えて)
レスの頻度は、一週間に一回程度としましょう。あわててやるとロクな事が
ありませんので。
>>安部定3号
誰?
>小陰唇博士
レスありがとうございます。
>このスレの方針としては、寅氏が私に分からない箇所を質問して、
>私がそれにできるだけ分かり易く回答するという形でどうでしょうか?
先週末は連休だったため、図書館にこもり『自由論』を読んでいたのですが、
非常に難しいですね。質問しようにも、”どこがわからないのかわからない(笑)”
のが正直なところです。「スピノザの汎神論」等、僕の知らない基礎知識を
調べることにも、時間を割かれます。ある程度理解するのに、どのくらいの
時間がかかるのか、皆目見当がつきません。
ですから、僕のペースで進めていただけると本当に助かります。
現段階では、(自分の考えを整理する意味も含め)前書きから順に一章ずつ
要約し、それに対して僕の考えや疑問点を挙げていく進め方を考えています。
おそらくは、前に戻ったり先に進んだりと、行ったり来たりの進行になると思い
ますが。
また。哲学書の読解は始めてのため、どのくらいの精度で読み進めるべき
なのかよくわかりませんが、それはおいおい、博士のアドバイスに合わせて
調整していくつもりです。
とりあえず、序論だけでもしっかりと頭に入れておきたいので、次回のレスは
次の日曜日(11/10)を予定しています。
小陰唇博士も無理をせず、時間が空いた時にレスしてください。
よろしくお願いします。
追)『世界の名著』手に入りました。引用はこの本から行います。
『シェリング講義』も手に入りました。できればこちらにも目を通して
おきたいと思います。
それと言い忘れましたが、博士の
>>2のレスには、一瞬ぽかーん、
5秒後に大笑いしてしまいました(笑)
このスレでは、博士のネタレスが見れそうにもないのが、
少々残念です。
>小陰唇博士
こんにちは。
とりあえず読み始めて10日ほど経ちました。さて、どこから手をつけていいものか(笑)
まだ少ししか進んでいない上、茫洋としたイメージしかありません。
全体を俯瞰的にのぞみ、要点を手際よくまとめるということはできそうに
ありませんので、地道に最初からいきたいと思います。
ハイデガー『シェリング講義』を手引きに使いました。
前書きから順にまとめていきます。
疑問点は、その都度挙げていきますが、特に博士への質問を意識している
わけではありません。ほとんどは後に理解が深まるにつれ、わかってくる
のではないかと思っています。
引用は、『自由論』(「世界の名著」版)、『シェリング講義』、それぞれ、
(『自由』p10上10) ・・・ 『自由論』の10ページ、上段の10行目
(『講義』p10_10) ・・・・ 『シェリング講義』の10ページ、10行目
という形でおこないます。よろしくお願いします。
『自由論』にはいる前に、『講義』「序論的究明」からいきます。
<序論的究明(『講義』)>
1.シェリングの著作と解釈の課題
シェリングは、『自由論』以降の45年間の沈黙の間、「自由の体系」の構築を目指した。
しかし、その企ては挫折した。それは彼の能力の足りなさではない。真に偉大ものを
探求する思想家だからこその挫折であり、またそれは新たな西洋哲学の始まりでもある。
それを指し示すことが後世の者の務めである。
2.シェリングの生活資料と、著作集および彼に関する著作
略
3.シェリングの自由への問いは存在への歴史的な問いかけである
3-1) なぜ『自由論』なのか?
「自由」とは、存在者全体にとっての根拠の本質であり、人間のみの
特性としてのそれではない。(「自由意志の問題」ではない)
それは、存在の本質への問い、つまり、真に哲学的問い(存在論)なのである。
「この論文は、人間のあらゆる個々の意図や基礎づけの根底にあるものを問う」 (『講義』p31_10)
3-2) 哲学的思索は歴史的である。
人間は歴史的な存在である。哲学的問いが根源的であるほど、歴史の拘束力のうちに
緊密に組み込まれる。それゆえ、シェリングの問いはもっとも歴史的でありうる。
4.シェリングとヘーゲル
4-1)ヘーゲルの誤り
ヘーゲルは『自由論』を個別的な概念を扱った論文だと誤解した。「自由」は個別的な
概念でなく、哲学全体の本質的な根拠である。
<疑問点>
1.(『講義』p24_1) 「真に自由な・・・(中略)・・・神さえ放棄しなければならない」
シェリングは、神の存在を肯定した上で彼の理論を組み立てていると
思われますが、この言葉は何を意味するのでしょうか?
また、ハイデガーは神についてどう考えているのでしょうか?
2.(『講義』p35_7) 「あらゆる対立物の”同一性”と無差別としての”絶対者”という概念」
おそらく、これはシェリングの前期哲学の原理だと思いますが、余裕が
できればそちらの方もフォローしておきたいと思います。
『自由論』です。
<前書き>
p395下15以降は、本論とはとくに関係がないようなので、それ以前までを考えてみました。
いまや新たに高次の対立が現れている。
従来の、「自然」vs「精神」の対立から、「必然性」vs「自由」の対立への変化である。
前者は、デカルト以来の、機械的で認識作用を持たない「自然(延長)」と、思考、
認識作用を持つ「精神(思惟)」との対立である。
しかしそれらの対立は、「自然の中に精神的なものを、精神の中に自然的なものを
見届ける」シェリングの前期思想により解消された。
そこで、新たに問題とされたのは、「自由」をそなえた「人間」と、存在者全体の根拠
である「神」という「必然性」である。この「必然性と自由との矛盾」こそが、真に哲学的な
問いである。
「自然」 vs 「精神(自由)」 (デカルト以来の自由の対立形式)
↓
「必然性(神)」 vs 「自由(を持つ人間)」 (シェリングによる新たな対立形式)
また、この問いは、存在者全体の根底にあるもの(自由?神?)に向けられている。つまり、
存在の本質への問い、真に哲学的問いとなるのである。
<疑問点>
1. 「必然性(神)=体系」と考えていいのでしょうか?
また、存在者全体の根底にあるもの、「神」=「自由」を考えていいでしょうか?
2.(『自由』p395上15) 「カントによる力動的なもの」
他にも『講義』の該当箇所(p133_3〜)で、多くの疑問点があったのですが、まだそこまで
読み切っていないので、その部分は保留にしておきます。
<序論 1.自由と体系の関連>
ハイデガーは序論1に、かなりのスペースを割いていますので、ゆっくりと読み進みめていきます。
(1)(イ)(ロ)(p399上11まで)
人間的自由の本質を探求するための、二つの課題。
1-1)自由の概念の画定
「自由」とは、検証するまでもない明らかに感じる「事実」であるが、その概念を
正確に言葉にすることは難しい。「自由」の適切な概念を暫定的に把握することが
まず重要である。
1-2)自由の概念を「学問的な世界観全体」に組み込むこと
「自由」という個別の概念を、一つの全体(学問的な世界観全体)の中に組み込む。
「学問的な世界観」の用語を説明。
「学問的な」 ・・・ 「哲学的な」と同義。全存在の「根源的な根拠」を知り、その原理によって
諸事実を本質連関のうちで叙述する。
諸科学的成果(派生的)による連関ではない。
「世界観」 ・・・ 万物がその都度特定の方向で、ある制限の内で開き示された姿。
それぞれの生物にはそれぞれの世界観がある。人間の各個人の
世界観の相違ではない。遠近法。
(2)(ハ)(p399上11〜下9)
上記の二つの課題は、一つの課題となる。
なぜなら、一つの概念をそれだけで規定することは不可能であり、その概念(自由)と全体(体系)
との連関が示されてはじめて、学問的な完成を与えられるから。
また、「自由」の概念は副次的なものでなく、存在全体の中心であり、体系の中心点の一つである。
つまり、体系そのものが「自由の体系」である。
(3)p399下10〜下14
しかし、従来の通説では、「自由」の概念と「体系」は相容れないものである。
なぜなら、「自由」とは、存在者全ての根拠であり、それ以上遡って根拠づけられないものである。
一方、「体系」は、一貫した根拠づけの連関を要求する性質を持つ。
<疑問点>
2.(『講義』p51_1) 「世界観という言葉と概念は・・・(中略)・・・特定の形而上学(ドイツ形而上学)
に由来する」
『講義』訳者あとがきでは、「ドイツ形而上学」とは、カント「物自体」に代表される
超越論的世界と思われますが、「世界観」とは「現象界」のことを指しているのでは
ないでしょうか?
3.(『講義』p56_6辺り) 自由が、存在者全体の根拠であるのは事実か?(2-1)
そうだとしても、その根拠と体系は本当に相容れないのか?(2-2)
(2-2)補足
もし、存在に何らかの根拠といえるものがあり、その根拠が体系と
相容れないならば、体系は常に成立しないと思われます。逆にいえば、
体系が成立するためには、(自由に限らず)根拠が存在してはならない
ことになります。「自由」と「必然性(神)」が矛盾するのはわかりますが、
この部分は?と思いました。
今回はここまでです。
まじめに読むと、なかなか進まないものです(笑)。正直、『講義』がなければ、
『自由論』はさっぱりわかりません。哲学説や哲学史の基礎知識がないために生じる
意味不明の箇所もままあります。
序論2以降は、神の概念がポイントとなりそうですが、無神論者の僕には感情移入
しにくそうです。ハイデガーは哲学に関しては、無神論者と聞いています。
シェリングの神的な思想をどう解釈しているのか興味があります。
疑問点は、後で自分が把握できるように、とりあえず全部挙げています。ですから、
全部にレスをしてもらう必要はありません。気にしないで下さい。
今回は、全てにおいて見切り発車の出発ですが、地道にマターリと続けていきたいと
思っています。無理をせず、時間が空いた時におつきあい下さればうれしいです。
よろしくお願いします。
お仕事がんばって下さい。
40 :
考える名無しさん:02/11/15 14:45
>小陰唇博士
少々進行の仕方を変えてみました。前書きからやり直しています。
こういった形で地道に進めていきます。質問も些細な箇所は飛ばして、
論文全体のポイントとなりそうなところだけを取り上げたいと思います。
よって、しばらくはできそうもありません。自己中なやり方ですみません(汗
博士も退屈だと思われますので、気が向いた時だけでレスはいいですよ。
質問はROMの時すぐわかるように以下のAAを使用します。
∧∧ ミ _ ドスッ
( ,,)┌―─┴┴─―┐
/ つ. 質 問 |
〜′ /´ └―─┬┬─―┘
∪ ∪ ││ _ε3
゛゛'゛'゛
よろしくお願いします。
また、カキコの雛型として、「ドゥルーズ『ベルクソンの哲学』を勝手に訳すスレ」
を参考にさせていただきました。
【1】前書き 第1-2段落(『名著』p395上1)
デカルト以降、自由をめぐる対立とは、「自然」と「精神」との対立である。
なぜなら、理性や認識作用は「精神」に属し、−それ故に自由を持ち−、
「自然」はそれらを欠いた単に機械的なもの、−それ故に自由を持たない−、
と考えられているからである。
しかしそれらの対立は、「自然の中に精神的なものを、精神の中に自然的なものを
見届ける」シェリングの前期思想により解消された。今や自由をめぐる新たな対立に
目を向けねばならない。
【2】前書き 第3段落(『名著』p395下10)
それは、「自由」をそなえた「人間」と、存在者全体の根拠である「神」という「必然性」との
対立である。これにより、自由をめぐる対立は地上を脱し、人間と神という高次な地平へと
昇華される。
「自然」 vs 「精神(自由)」 (従来の対立形式)
↓
「必然性(神)」 vs 「自由(を持つ人間)」 (高次の対立形式)
図で描けば以下の通りである。(←→:対立、=:同一性)
神 神(必然性)
│ ↑
│ ↓
┌──┴──┐
自 精 【自由】
然 ←→ 神 ┌──┴──┐
【自由】 自 精
然 = 神
(従来の対立形式) (高次の対立形式)
【図1】
新たな「自由」をめぐる対立(「自由と必然性の矛盾」)は、存在者全体の根底にあるものに
向けられている。つまり、存在の本質への問い、真に哲学的問いとなるのである。
(4段落以降は本論と関係ないと思われますので省略します)
【コメント】
シェリングの前期哲学等いくつかわからない箇所がありますが、それはおいおい学んで
いきたいと思います。ハイデガーはシェリングの対立形式を探求することが、存在の
真理の根拠を問う(存在論)、つまり真に哲学哲学的問いであるといっています。
なぜそういえるのか、これからの展開が楽しみです。
序論 自由の哲学体系との関連をめぐる諸考察
序論1 自由の体系との連関
【3】序論1 第1段落(『名著』p399上1)
人間的自由の本質を探求するための、二つの課題。
3-1)自由の概念の画定
「自由」とは、検証するまでもなく明らかに感じる「事実」であるが、その概念を
正確に言葉にすることは難しい。「自由」の適切な概念を暫定的に把握することが
まず重要である。
3-2)自由の概念を「学問的な世界観全体」に組み込むこと
「自由」という個別の概念を、一つの全体(学問的な世界観全体=体系)の中に組み込む。
ここでいう「学問的な世界観」とは以下を意味する。
「学問的な」 ・・・ 「哲学的な」と同義。全存在の「根源的な根拠」を知り、その原理によって
諸事実を本質連関のうちで叙述する。
諸科学的成果(派生的)による連関ではない。
「世界観」 ・・・ 万物によりその都度特定の方向で、各々が持つ根源的な制限内で開き
示された姿。それぞれの生物にはそれぞれの世界観がある。人それぞれ
にもつ世界観、という意味ではない。遠近法。
上記の二つの課題(3-1,3-2)は、一つの課題に統一される。
なぜなら、一つの概念をそれ単独で規定することは不可能であり、その概念(自由)と全体(体系)
との連関が示されてはじめて、学問的な完成を与えられるから。
また、「自由」の概念は副次的なものでなく、存在全体の中心であり、体系の中心点の一つである。
つまり、体系そのものが「自由の体系」である。
【4】序論1 第2,3段落(『名著』p399下10)
しかし、通説によれば、「自由」の概念と「体系」は相容れないものである。
なぜなら、「自由」とは、存在者全ての根拠で、それ以上遡って根拠づけられないものであり、
一方、「体系」は、一貫した根拠づけの連関を要求する性質を持つからである。
よって「自由の体系」とは次の二つの面から破綻せざるを得ないと考えられる。
4-1)体系が維持されれば、自由は放棄される。
4-2)自由が堅持されれば、体系は断念される。
しかし、4-1に関しては、体系が何を意味するかが正確に決まらない限り、この異論には根拠がない。
(「体系の意味」の詳細は後述)
【5】序論1 第4段落(『名著』p400上1)
4-2に関しても、人間的自由の定立と共に、体系も必ず定立される。
なぜなら、個々の存在者は、必ず他の存在者の連関と結構の中で定立されており、
これが即ち、体系となるからである。(「存在者のあるところには体系もある」)
また、体系は存在者の本質に属するものであるので、「根源的存在者」のうちに、
少なくとも、「神的悟性」のうちに存在しているはずである。
この時、二通りの反論が考えられる。
5-1)仮に「神的悟性」のうちに体系があるとしても、人間の悟性には認識できない。
5-2)体系は「神的悟性」の内にもない。
【6】序論1 第5段落(『名著』p400上12)
(5-1に関して)本当に人間は認識できないのだろうか?
この問いは、認識原理の探求へと進む。事実、『自由論』において、この考察が論述の
中心課題となっている。
この段落では、セクストュスの次の言を用いて、この原理への探求を予期している。
「等しいものは等しいものによって認識される」
これは、哲学とは存在者の根拠を認識するために、自ら根源的な基盤(根拠)へ降り立ち、
そこで根本原理を考えることを意味している。言い換えれば、
「己の内なる神をもって、己の外なる神を把握する」(「絶対者の知的直観」)
反対に、文法学者(物理学者、化学者ら)は、根源的な基盤において認識することはない。
ゆえに彼らは、全存在者の根拠となる原理を知ることができず、自らの原理しか理解できない。
哲学的認識とは、「神の内において(根源的な基盤に降り立って)」行われる。
【7】序論1 第6段落(『名著』p401上3)
では、5-2はどうだろうか?「根源的存在者の内に体系は存在せず、およそ存在するのは
個々の意志のみである(つまり体系は存在しない)」、とするフィヒテ的な考えである。
けれども、人間の理性は統一性を要求する性質を持つ(体系化を目指す)のであるから、
これも破綻する運命にある。(詳細は後述)
【8】序論1 第7段落(『名著』p401下1)
歴史的にみれば、自由の概念と体系の相容れなさを疑うことはできないが、かといって、
「自由の体系」への問いは、いまだ真に哲学的なものである。なぜなら、存在に関する真理によって、
哲学は開かれた場に出ようとするが、やはり依然として存在者の必然性に拘束されているからである。
哲学とは、それ自体で自由と必然性との相克である。この課題を解決することなくては、哲学、
ひいては諸学問も無価値なものとなる。
ゆえに、体系の可能性を考え抜くことから逃避することはできない。
【コメント】
「哲学とは絶対者の知的直観である」(『講義』p98_9)が理解しにくいです。
カントは、「感性によって与えられない対象は認識できない」、と人間の認識に一定の限界を
設けましたが、ドイツ観念論は「それ(絶対知)を哲学者は認識できる」といいます。
本当でしょうか?
「・・なんらかの体系が、・・・神的悟性のうちに存在しているにちがいない」(『講義』p114_7)
の「神的悟性」とは何でしょうか?
ハイデガーがよく使う「根源的存在者(=神)」や「神的悟性」、及び、
「われわれの内なる神によって、外なる神が認識される」(『講義』p126_2)
といった「神」とは、キリスト教的な「神」と考えるべきでしょうか?
それとも、そういった宗教的な神とは別の、世界の「法則」といった概念で
理解した方がよいのでしょうか?
とまれ、マターリと地道に進めていくうちに理解できることを期待しています。
50 :
考える名無しさん:02/11/27 22:16
またーりというより放置プレイですな。こりゃ。
暇だから上げ。
51 :
考える名無しさん:02/12/09 04:54
寅さんには失礼だが、ワラタ
よかった。あの先生のスレあったんですね。
変なスレタイだから今まで見てなかった。
54 :
考える名無しさん:02/12/15 05:00
おい、チンポ太郎!出てこいや!
>カキコされる方へ
荒らされたくないのでsageでお願いします。
いやあ、実に申し訳ない。日常の些事に忙殺されて、ネットなどを
する時間が全くありませんでした。お許し下さい。
今日からとりあえずこのスレを再開します。
私の方も相変らず余裕がないので、気長にやりましょう。
57 :
考える名無しさん:02/12/15 09:02
あ、チンポ太郎じゃないですか。
お久しぶりですね。と言ってもあなたは僕のことなど知っているはずはないですが。
それはそうと日常の些事とはなんでしょうか。
あなたはこの2チャンネルであえて自堕落を選択していたようにお見受けしていたが、
まさか真っ当な人間になろうなどという分別くさい事に価値を見出したんじゃないでしょうな。
58 :
考える名無しさん:02/12/15 09:17
僕はまったく自堕落で退廃的で、絶望感に快楽を見出す人間なんです。
いつもというわけではないが、
人を貶して苦しむ様を見るのがなにより楽しいのです。
ちんぽ太郎、僕はあなたが半泣きになるまで徹底的に
あなたを否定します。このスレで好い加減な返答をしないように注意して下さい。
まず、寅氏の最初の疑問点についてお答えしておきましょう。
シェリングの「神さえ放棄しなければならない」という言葉についてですが、
この言葉は、それが発言されたところの、文脈の中に置き入れて考えて見なければ
なりません。シェリングは人間的自由というものを、人間的存在の根拠であるところの、
神からの独立の中に認めなければなりません。この独立はしかし、神の絶対的権威の
否定の上に成り立つものです。換言すれば、人間的自由は、人間的存在の根拠としての、
神の否定の上に成り立つという訳です。もしそうだとすれば、我々が本当の意味での、
自由を勝ち取るためには、我々の存在の根拠であるところの、神そのものさえ否定しなければ
ならないという主張になるわけです。しかしここで肝腎なのは、我々がたとえ、神を否定して
自由を得るとしても、我々の存在は、何らかの根拠を有していなければならないという事です。
それは神ではないが、しかし我々自身の自由であります。しかしこの根拠としての自由もまた、
新たに何らかの根拠の上で考察される必要があります。
この意味において、根拠への問いは、繰り返し、以前根拠と思われていたものを
否定し、新たな根拠づけに着手する運動となるわけです。
しかしシェリングは、神を否定する訳ではありません。彼は、神に依存しつつも、
神からの独立を、ある特別な意味で勝ち取る事ができると考えています。そしてそれが、
真の意味での汎神論であり、自由の体系だと考えているのです。
しかも、彼は、神そのものを根拠と考えるのではなく、神の実存の根拠として、
「神のうちなる自然」というものを持ち出すのであり、これは普通に神を万物の根拠とする
哲学を否定し、それを止揚する哲学の事を想定していることの証左なのです。
それから、無神論というのは、神の存在を否定する立場をいうのですが、
これはシェリングやハイデッガーに簡単に適用できるものではありません。
無神論は、「存在」の本質に関して何ら思惟しないのであり、その意味において、
「神は存在しない」と主張する権利すら有していないのです。
ハイデッガーは、存在の優位を説くために、存在者に拘泥する人々から、
無神論者呼ばわりされるのですが、神を一つの存在者と見なす考えの方こそ、
根拠としての神を一存在者に貶めている点で、無神論者に近いと言わねば
なりません。神が万物の根拠であると言われる時、神は万物と同じ次元にある
のではないのです。神は万物としての存在者の全体を超越しているのであり、
だからこそ根拠であり得るのです。シェリングはそのような事態を考慮して、
神の事実存在に先行する、神自身の根拠、神のうちなる自然を持ち出すのです。
これは、何ら無神論という浅薄な思想とは関係ありません。
ハイデッガー自身は、「神について何も語っていないのに、どうして人は自分の
事を無神論者などと呼べるのだろう」と述べております。
舌足らずな説明で申し訳ありませんが、シェリングは結局、自由というものを、
先に述べた「依存的な独立性」という事のうちに求めるのです。
勿論、通常の論理学においては、「依存的な独立性」或いは「依存的な非依存性」
などという表現は、矛盾するものであり、到底、受け入れ難いものです。
しかし哲学においては、ヘーゲルの弁証法以来、矛盾は必ずしも、哲学の弱点では
なく、逆に利点となっているのであり、矛盾は高次の統一を可能にするものなのです。
人間的自由は、人間が神に依存する限り不可能ですが、それにも拘らず、
人間はみずから絶対的な立場を保有することができるというのです。
この矛盾を統一にもたらすことが、真の汎神論を可能にするのであり、
自由と体系という一見矛盾しあう概念を一つにするのです。
シェリングの前期哲学については追々やって行きましょう。
疑問点の続き。
「必然性(神)=体系」と考えていいのでしょうか?
体系は必然的なものです。というのも、それはあらゆる知を可能にする、
根源的な知の枠組みであり、そこからすべての存在者は何らかの形で
知にもたらされるからであります。この体系についての知は、従って
絶対的でなければなりません。
体系は、ハイデッガーの解釈によれば、「存在者の存在」であり、
我々が存在者に接する際の、根源的なカテゴリーのようなものです。
我々が何かある存在者を認知するためには、我々はあらかじめ、
存在という概念を了解しておかねばなりません。この先行する存在了解こそが、
体系なのです。人間は、存在者を、存在に向けて企投するのであり、この企投
の構造が、真の意味での世界観であり、体系なのです。
神も勿論、必然的です。それは神が、存在者の根拠であるからです。
しかし、神=体系という図式には注意しなければなりません。
体系も神も必然的なものですが、体系と神とを即座に等式で結ぶことは、
許されません。これは追々説明しましょう。
>カントによる力動的なもの
これはカントが、自我の本質を、「私は思惟する」I think ではなく、
「私は行為する」I act に転換し、それを更に「私は自由である」と解した
事を指しているのではないでしょうか。ここで存在者の即自存在は、
自由であることと解釈されます。
自然はしかし自我的なものではありませんから、自然の規定はここでは曖昧です。
フィヒテは自然を非我と解して、あくまで自我の側から規定されるものと見なし、
すべてを自我的なものと考えましたが、シェリングはあえてカントの自然観を
復興し、自然はそれだけで自立しており、しかもその際、自然はまだ自由が
存分に展開されていない状態にあると言う事を主張する訳です。
従って、「自然と精神(自我)」という対立は、カントの洞察をもとに、
一層高次の対立に止揚される必要があるのであり、それがまさに、
「自由と必然性」という対立になるわけです。
この対立についてはまた次回。
また、今回の私の回答に対して、更なる疑問がある場合には、それも
書き込んで下さい。私は余り考えずに書いてますから、分かり難いところが
多々あると思います。それでは、また今度。
疑問点の続き。
ハイデッガーが「ドイツ形而上学」と呼んでいるのは、存在の本質を意志と見なす、
ドイツ観念論者に特有の伝統的思想です。シェリングは『自由論』の中で、
Wollen ist Ursein 即ち「意志することが根源的に存在することである」と述べて
おります。ここで言う「意志」とは、盲目的な衝動ではなく、飽く迄、意志される
ものの表象によって規定された、表象的な欲求です。人間の存在の本質を、
「表象」と「意志」という二つの概念から把握する仕方が、ドイツ形而上学の
根本性格を成すのであります。
例えば、寅氏の言及しているカントは、人間理性を理論理性と実践理性とに区分して
おりますし、ショーペンハウアーは『意志と表象としての世界』を書いております。
ヘーゲルは存在の本質を認識することと同一視し、それを更に意志することと同じで
あると言っています。つまり、認識作用と実践作用は同一であるという訳です。
木田さんの解説は、この意志における表象の力点を見逃しており、ドイツ観念論が
観念論である所以を(idea としての表象を重視するのが観念論です)考慮して
おりません。
兎も角も、意志という、表象と欲求の統一の中に、存在の根拠を見るのが
ドイツ形而上学です。そしてこれは、この形而上学が、意志としての存在から、
存在者全体を、規定することを試みるということです。この規定を構造的に支えるものが、
世界観です。従って、これはカントの現象界とは無関係だと思います。
もう一つの疑問的に関しては、質問の意味がよく飲み込めませんでした。
詳細をお願いします。
では。
>小陰唇博士
非常に丁寧な解答ありがとうございます。
大変わかりやすい説明です。
ネットもできないほどお忙しいようなので(2ちゃんをできないのはいいことですが(笑))
無理はしないで下さい。
シェリングがこんなに難しいとは正直思っていませんでした。
はじめの甘い考えを捨てて、腰を据えて取り組むつもりです。
アドバイス通り『自由論』の「まえがき」「序論」、『講義』の「序論的究明」「A」「B」を
繰り返し反芻しています。また、カント、ヘーゲルすら知らないので、
今さらながら、彼らの入門書にも目を通しています。(本当は邦訳でもいいので
直接彼らの著書に当たるべきでしょうが、とてもそんな余裕がありません。
よって、入門書でお茶を濁している次第です。)
『自由論』は非常に難解ですが、ハイデガーには以前より興味を持っていたので
『講義』を読むことはわくわくします。まさに胸が躍る想いです。
今回の博士の説明を踏まえ、もう一度『自由論』、『講義』を考え直してみます。
近い内に、それについてのレスをします。
ありがとうございました。
では、お互い仕事がんばりましょう。
シェリングは確かに難しいですが、カントやヘーゲルも同等に難しいです。
大体、他人の思想、それも日本から遠く離れた、数百年前の連中の思想なんて、
「理解出来る」「出来ない」のレベルではないのかも知れません。
我々日本人でさえ、江戸期の思想家を理解するのに難儀するのに、
ましてや西洋の連中です。何か漠然とした知的理解が得られれば、それで
いいのだと私は思います。
しかし、入門書で理解するのはまずい。勿論、寅氏は「とりあえず」の理解を
得るために、入門書の類を参照すべきだと思います。本人の著作は、そうした
漠然とした理解の上でのみ読まれ得るものでしょう。
だから新書の類はなかなか馬鹿にならぬもので、書いた奴は馬鹿かも知れないが、
読む奴は馬鹿にならなくてもいい訳であります。
従って薄っぺらの入門書に片っ端から目を通し、浅薄にも拘らず、西洋思想全体に
ついての、漠然とした理解が得られれば、かなりの収穫です。肝腎なのは、
それで終わらない事です。そのためには、やはり傍に「入門書なんか駄目だ」という
小難しい私のような者がいなくてはならんのです。
但し、シェリングの『自由論』は、やはり難しい。
ドイツ人ってなんでこんな奴ばっかなのかな。
まあいいや。それでは次回。
>小陰唇博士
>大体、他人の思想、それも日本から遠く離れた、数百年前の連中の思想なんて、
>「理解出来る」「出来ない」のレベルではないのかも知れません。
博士でもそのように感じるのですね。少し安心しました(笑)
特に欧米の人たちは「神」の概念を持ち出すので、平凡な日本人の僕としては理解しがたい
箇所が多々あります。
人は直接会って毎日語り合っても、お互いを真に理解することは困難です。
ましてや他人の人物評や噂話で、その人を理解した気になるのは、やはり「馬鹿者」
といわざるを得ません。僕はある著者の本を読むとは、その人と対話することと同じだと
思っています。直接彼の著作に当たるとは、その人と直に会って、相手の顔色や仕草を
読みとりながら語り合うことで、入門書を読むとは、第三者からの噂話を聞くことです。
もちろん本人が、気難しくて口の重い人なら、第三者からまず情報を仕入れることは有効です。
そしてこれが入門書の役割だと思っています。
僕にとって(ほんのわずかですが)会話が成立する人は、大森荘蔵さんだけです。
やはり又聞き(他人の批評や概説書のたぐい)とは全く異なる印象を受けます。
彼の理論の結論だけ聞くと、到底ばかばかしくて読む気になれないのですが、
実際彼と対話を始めると、巨大な怪物(物理的世界観)に徒手空拳挑む大森さんに
惹き込まれてしまいます。リアルタイムの緊迫感を感じられます。木田さんは『講義』あとがきで、
「彼の講義録を長い間読んでいると、その日その日の彼の気分までわかるようになる」と言ってますね。
その領域には到底及びもつかないですが、そういった対話がいつかできるようになりたいと思っています。
僕も「馬鹿者」にならないように気をつけますが、調子に乗って上滑りしている時は
「小難しい」博士の厳しい「お叱り」をお待ちしております(笑)
とりあえず今のように、シェリングとの対話が宇宙人と対話しているのとなんら変わらない状態を(笑)
早く脱し、片言でも意志疎通ができるようにしたいです。
先日いただいたレスへの返答は、日曜もしくは月曜日にはできると思います。
よろしくお願いします。では、また。
ハイデッガーの「了解」(本当は普通に「理解すること」などと訳すべきですが)という
概念は非常に面白い考えを含んでいて、我々は何かを理解する際、既にその理解される
当のものを、あらかじめ何等かの仕方で理解して置かなくてはならないと言うのです。
あらかじめ理解している者だけが、本当の理解に達する事ができるという訳です。
だから、あることを理解するということは、無の状態から何かを得るという事ではなく、
既に存在するものを、磨き上げ、本来的な姿にもたらしてやる事を言うのです。
だから、寅氏がシェリングを読むという行為は、そこに何等の了解の可能性が、既に
前提されている訳です。勿論、この前提は、時間的・空間的に先行するものではなく、
もっと根源的な意味で、了解のア・プリオリな構造をなしているのです。
既に理解している者だけが、理解できる、とハイデッガー自身は言っております。
理解はだから新しい事を知ることではなく、既知のものを確認する事を言うのです。
ですから、たとえシェリングが宇宙人のように見えようと、そこには何等かの形での、
了解の可能性が存しているものと私は期待しております。
分かろうとしない者は分かりませんが、分かろうとする者は、既にその時点で答えを
先取りしているのです。問題はそこから、その答えを明瞭に概念化することが
できるかどうかということです。これは「言語化」するとはまた違う。
もしそんな風に考えると、「言語」を何か「思想」の写しのように考えておりますから。
こんな考えは余りに浅薄だ。言語は「もの」の象徴なんかではありません。
それから「神」の概念についてですが、これは何も西洋に特有の考えではなく、
我々東洋人も似たような考えを持っていると私は考えております。神というのは、
西洋では超越的な概念で、機械的な説明を超えたところに提出されるものです。
機械的な、あるいは科学的な説明は、すべてを存在者の領域で片付けようとします。
しかし哲学者たちは、古代ギリシアの原初から、存在者を超越するもの、存在者の
根拠としての「存在」というものに思いを馳せておりました。
これは存在者の領域を超越した概念でありますから、科学では取り扱うことはできません。
私の考えでは、従って、哲学は科学批判などする必要は本質的にないのです。
勿論、科学的な見方が支配的になっており、それを批判する仕方もありましょうが、
それは所詮、もう一つ、科学とは異なる世界観を提出するに過ぎません。
肝腎なのは、哲学と科学とが、まったく異なる存在領域にあるということを
知ることです。神は、もともと、存在論と密接に連関しておりますが、それは神が、
存在の概念と非常に似通っているからです。存在者を越えて、存在者をそのように
あらしめているもの、それが「神」であり、「存在」なのです。
東洋にも「造物主」という思想があって、『荘子』などにも出ております。
『易』は物理法則を超えた超越的な存在の原則を語っております。
肝腎なのは、存在者の領域を越えることです。ジャンプすることです。
跳躍のうちに、神の概念や存在の概念が見えてくるのであり、これは洋の東西を
問わず同一だと私は思います。
では。
【コメント】
ここまでが序論1です。
ここでハイデガーは、「体系」についての詳細な検討を加えています。
(博士への返答を前に、こちらを先にupしておきます)
【H1】我々にとって体系は必然的なものか(『講義』p58_1)
この論文の主題(「自由」と「体系」の相克)が重要となるのは、我々にとって「体系」が
必然であり、「自由」が最高の尺度でなくては意味がない。実際、「体系」も「自由」も
今日緊急事でないと考えられている。ニーチェはその状況を「ニヒリズムの到来」として
認識した。ニヒリズムとは「体系」に対する疑いであり、無関心である。しかし、だからといって
体系は無価値である、と結論づけてはならない。体系は最高に本質的である。
体系への問いこそが真の哲学である。真の体系は、本質的な洞察による断念を
乗り越えた所に生じる。
【H2】体系の本質的な洞察(『講義』p64_17)
体系を考察する際、以下のように問うてみる。
1.体系とはどういう意味か
2.体系が形成される条件
3.なぜ体系がドイツ観念論の主題となりえたか
4.カントを超える試み
5.体系の可能性に関する問題点
1.体系とはどういう意味か(『講義』p65_5)
体系は次の三つの性質を併せ持つ。
1-1.内的な結構 ・・・ 存在そのものの結構と結合を知の形に接合
1-2.外的な寄せ集め ・・・ 手持ちの知を配列、分類。教科書
1-3.枠組み ・・・ その中間
真の体系は「内的な結構」である。
「体系とは、あらゆる知を可能にする根源的な知の枠組みである。我々が
ある存在者を認知するためには、あらかじめ存在という概念を了解しておかねば
ならない。この先行する存在了解こそ体系である。人は存在者をここに企投する
ことにより、存在者の存在を認識する。この企投の構造が真の世界観であり、
体系である。(>博士)」
ギリシア哲学は体系のない偉大な哲学であり、中世の大全は「外的な寄せ集め」による
(真ならざる)体系である。
2.体系が形成される条件(『講義』p71_13)
真の体系は、「近代」というある決まった状況下で現れてくる。人間への信頼から、
中世キリスト教の世界観が崩壊し、それに代わる新たな世界像を−神さえも−
構築せねばならない。その根拠となるのは理性である。
2-1.数学的なものの優勢
2-2.数学的なものが知全体を基礎づけようとする
2-3.「我思う(理性)」が数学的なものに根拠を与える
2-4.理性が真理の基準となる
2-5.キリスト教世界観の崩壊
2-6.その崩壊は、人間を自己自身へと解放する
2-6補足
キリスト教世界観の崩壊は、理性を根拠に、人間を世界の中での位置づけを
新たに要求する。 理性が真理の法廷となり、その探求は存在を征服しようとする
意志へと向かう。人間とはなんであり、その本質はどこにあるべきか、この世界は
人間にとってどういった構造になっているのか。そのためには存在者全体の結構(体系)
の構想を必要とする。その体系は数学的理性的なものである。
3.なぜ体系がドイツ観念論の主題となりえたか(『講義』p84_1)
新たに理性が真理の法廷となった。理性の本質の原理的省察を
初めて行ったのはカントである。理性は我々の直観と思考を、
「存在者の全体の包括的統一と統一をもった分節へ向かうように」指示を与える。
理性は統一への志向性を持ち、様々な存在者を、ある一つの根本的連関の統一
として眺めやることを可能にする。理性それ自体が体系的なものである。
しかし、カントのこの理性解釈には大きな欠点がある。
カントの理性は最高の理念−神、世界、人間−を認識できないと一定の制限を
持たせた。人間とは、神と世界を統合する繋辞である。その人間(理性)が、神、世界
を認識できないとなれば、理性を根拠とする体系の基盤は揺るがざるを得ない。
これがカントの体系の挫折であり、この克服がドイツ観念論者にとっての出発点となる。
4.カントを超える試み(『講義』p98_1)
ドイツ観念論者は、カントが直示的性格を持たないとした理念を「絶対者の知的直観」
により認識できるとした。理念(神、世界、人間)は感性的な対象(事物)ではない。
非感性的な非対象である。非対象の認識は「知的直観」によって行われる。
(例えば数学的真理、感性の形式「時間」「空間」)。存在者全体がそこで把握される
体系は、絶対知により認識される。これにより、体系の基盤は強固なものとなる。
はたしてこれは「独断論」であろうか。
いや、そうではない。独断論は絶対者(理念)という「対象」の可知性を当然とみなす。
しかし、観念論者は、「知のうちに絶対者が存在し、知は絶対者のうちに存在する」とする。
絶対者は主観や客観の中に存在するのではなく、知のうちに存在する。
結構は知そのもののうちで育成してくる。
5.体系の可能性に関する問題点(『講義』p111_5)
>>46-48参照
先生に、<ハイデガー『存在と時間』を読むスレ>のホスト役をやって復活させてほしいなぁ。。。(独り言)
>>79 『存在と時間』は前に一度やったような記憶がありますが、
私の記憶違いでしょうか。それとも、いつものように消されたか。
今日は休暇中で少しだけ時間があります。
小陰唇博士は、最近は運動不足なので、もう一度チンポ運動を徹底的に
学び直そうかと考えているのです。
82 :
考える名無しさん:02/12/23 10:31
この村はもともと死んでいた。
>小陰唇博士
あらためて丁寧かつ明快な解説ありがとうございます。
本当によくわかりました。もちろん、完全に理解できたというわけにはいきませんが、
以前よりもはるかに広範な地平を見渡すことのできるパースペクティブが得られたと
確信しております。まだ消化しきれていない箇所はしばらく寝かせておき、
とりあえず以下の疑問点、感想を述べさせていただきます。
これからも博士の解説を楽しみにしています。
>>65 >もう一つの疑問的に関しては、質問の意味がよく飲み込めませんでした。
僕も読み返してみたのですが、自分でも何が言いたいのか解りませんでした。
忘れてください(笑)
>>59-60 >根拠への問いは、繰り返し、以前根拠と思われていたものを
>否定し、新たな根拠づけに着手する運動となるわけです。
質問1.「この根拠づけの繰り返しにより、存在の根源的基盤へと遡り、そこから存在の
全容を把握しようとすること。これがハイデガー存在論の基本的姿勢でしょうか。」
神の実存の根拠「神のうちなる自然」の概念はよく解りませんが、本論の該当部分にまだ
目を通していません。そこまで進んだ時に理解できなければ、また新ためて質問しようと思います。
また、シェリング、ハイデガーが僕の考えていた無神論とは全く異なった立場にいることが
よくわかりました。彼らの立場での有神論を頭に入れて、これから読み進めていきたいと
思います。
>>62 いままで体系が具体的に何を意味しているのか曖昧だったのですが、
この説明のおかげで非常によく理解できました。
質問2.「体系が根源的なカテゴリーで真の世界観を形づくる当のものならば、
あらゆる存在者から超越した唯一絶対的な構造でなく、生物による
個別的、遠近法的なものと考えてよいでしょうか?」
『自由論』p400上(ハ)では、体系への洞察とは、認識の原理をどう規定するかにかかっている
と述べています。
質問3.「体系の洞察とは、(人間の)認識の原理の考察であり、存在論でなく認識論に
なりませんか。」
>>71 >ハイデッガーの「了解」という概念は・・・(中略)
>・・・あらかじめ何等かの仕方で理解して置かなくてはならないと言うのです。
なるほど。「了解」とはそういった意味だったのですね。目から鱗です。
(以前読んで、いまいち解らなかった木田さんの「ハイデガーの思想」を読み返してみたら、
えらくすぱすぱ頭にはいるので、驚いています)
ハイデガーは「体系」といい「了解」といい、我々が世界を認識するア・プリオリな構造に
目を向けていますね。
質問4.「存在の意味を仕上げる「存在論」は、人間が存在者を認識するそのアプリオリな構造
を分析すること(認識論?)からしか到達できないとハイデガーは考えているのでしょうか」
余談ですが、一つ思い出したことがあります。
子供の「認知発達」の過程とは、知識の増大の過程でなく、思考構造の変化の過程
だそうです。全くサラの状態から、積み木を組み立てていくように、直線的に認識を
拡大していくのでなく、以前の思考構造が新しい思考構造に統合していくことにより、
認識の幅を段階的に増やしていきます。よって、子供は思考構造が変化するごとに、
同じ知識量でも、今までとは異なった見方で考えるようになるそうです。
なんとなく、この思考構造が「了解」「体系」の構造に似ていますよね。
>ですから、たとえシェリングが宇宙人のように見えようと、そこには何等かの形での、
>了解の可能性が存しているものと私は期待しております。
僕もシェリング(ハイデガー)を理解できるだけの了解が、すでに準備できていることを
「大いに」期待しています(笑)
>>72 >それから「神」の概念についてですが・・・
西洋人がいう「神」と聞くと、「ゼウスの神(?)」といった、感情を持ち人間の運命を操っている
髭面の人格神が頭に浮かびます。
「神」を「存在者を超越するもの、存在者の根拠としての「存在」というもの」と考えれば、
僕でも違和感なく受け入れることができます。
>私の考えでは、従って、哲学は科学批判などする必要は本質的にないのです。
>勿論、科学的な見方が支配的になっており、それを批判する仕方もありましょうが、
>それは所詮、もう一つ、科学とは異なる世界観を提出するに過ぎません。
「存在者がいかにあるか」を扱う科学と、「存在者をそうあらしめている存在」を扱う哲学では、
対象領域が全く違うという博士の説は理解できました。しかし、科学的世界観に代わる
真なる(と哲学者が指す)世界観を描き出すことは、哲学の大きな役割ではないのですか。
例えば、大森荘蔵さんからは、ある哲学説への挑戦というよりは、
心を排除した科学的世界観という頑強な構築物の解体し、新たに、心の現象を取り入れた
世界観を構築しようとする意図を感じます。
「哲学は役に立たない」と時々耳にしますが、「世界観を変える」というこの一事だけでも、
哲学の存在価値は不動のものだと思います。僕が始めて哲学に興味を持ったのが、
当時疑うことすらなかった心身二元論が、「でかると」という、当時聞いたこともなかった人が
生み出したことを知り、驚いたからです。
質問5.「科学と異なる世界観を描き出すことは、哲学の重要な役割とはなりませんか」
>>81 >小陰唇博士は、最近は運動不足なので、もう一度チンポ運動を徹底的に
>学び直そうかと考えているのです。
そうですか。チンポ哲学門下生の博士からすれば、このスレはさぞ退屈であろうと
慮っております。僕も以前よりチンポ先生の学識は当然、笑いのセンスにも大いに
感服しておりました。是非期待しております。
ただ、かわいい愛弟子の寅のことはお忘れなきようお願いいたします。
「ハイデガーが示唆する「存在者をそうあらしめている存在」とは何なのか?」
無性に惹かれる問いです。これからも常にそれを意識しつつ、学んでいきたいと思います。
これからもよろしくお願いいたします。
>>84 寅氏の質問:
>この根拠づけの繰り返しにより、存在の根源的基盤へと遡り、そこから存在の
>全容を把握しようとすること。これがハイデガー存在論の基本的姿勢でしょうか。
私はその通りだと思います。ハイデッガー自身、『存在と時間』の中で、「反覆」という
言葉を用いています。これは古代ギリシアの存在論を、より根源的な形で反覆する
事を意味しています。「反覆」とは同じものの繰り返しではなく、逸れて行く運動です。
そこでは、オリジナルなものは既にオリジナルなものではなく、以前反覆されたものを
表すようになります。
この意味で、反覆は、西洋形而上学に特有の「起源」の概念に抗しているのであります。
起源を想定するものは、概して目的論に進化して行くのですが、これは晩年のフッサールの
目的論的構想とも一致しております。ハイデッガーは勿論、こういった目的論に異議を呈する
のであり、「繰り返す」ということに重きを置くのです。その意味で、終末論的です。
マア、このような「目的論」と「終末論」との二項対立的な対照は余り良くないのですが。
>>89の訂正
×概して目的論に進化して行くのですが
○概して目的論的に進化して行くのですが、
体系について。
体系は絶対的なものでなければなりません。
寅氏の言われるように「体系が根源的なカテゴリーで真の世界観を
形づくる当のものならば」、それは絶対的でなければならないのです。
個々の世界観が可能になるのは、この絶対的で根源的な「体系」という概念を
通じてのみ、なのです。それは、「生物による個別的、遠近法的なもの」
ではなく、寧ろ、「生物」とか「個別的」とか「遠近法的」とかいった概念を、
可能にするものなのです。
ライプニッツは個々のモナドの表出する世界を「凝縮された世界」と呼び、
これがニーチェに「遠近法」という表現を用いさせるきっかけとなったのですが、
ライプニッツは飽く迄、個々のモナドは、個々の観点から、一つの世界を表出する
ものだと考えています。個々のモナドに固有の世界が、互いに関係を持ち得るのは、
この一つの世界という概念を通じてのみであり、それは神の予定調和を通じてのみ、
可能となるのです。
ライプニッツの場合、神は絶対的なものであり、すべてのモナドとしての存在者の
存在を可能にするものです。「神=体系」という等式は前に述べたように危険ですが、
両者はある種の連関を有しております。
実際、「体系」というのが本格的に哲学の俎上に載せられるのは、ライプニッツ
からではないでしょうか。
それから、体系を「認識の原理」と考えるのは尤もな事です。しかしここで
言う「認識」とは、対象の本質を把握する事ではなく、まさに対象が何等かの
仕方で存在するという事態を把握する事なのです。あらゆる認識の中で根源的な
認識は、先ずもって、存在者が何等かの仕方で存在しているということです。
この認識を通じてのみ、その存在者を科学的に分析したり、日常的に語ったり
できるようになるのです。
この意味で、存在者の存在の認識は、認識の根源的なカテゴリーであり、
体系と呼ばれるにふさわしいのです。
ですから、それは「認識の原理」であるにも拘らず、存在論に関係している
のです。
残りの質問については次回、取り扱いましょう。
スレのタイトルが異常だから、大抵の人はここでシェリングの哲学が
語られている事を知らないようです。
以前のように「態度の悪い」チンポ太郎が必要とされているのでしょうかね。
ちなみに、私とチンポ太郎とは、恐らく同一人物であろうと思われます(笑)
忘れておりましたが、先に述べました存在者の存在の認識こそが、
『存在と時間』の中で「存在了解」と呼ばれているものです。
実はこの概念は、ある意味で「体系」という概念と非常に似通っているのです。
嘘だと思う人は、『現象学の根本問題』の序論や、『論理学の形而上学的基礎』の
序論及び後半部分を参照して見て下さい。
そこでは「世界観」の問題と、「存在了解」との問題が詳細に語られております。
では、疲れたのでまた次回。
ちょっと横レスさせてください。
1対象(存在者)の本質の認識:または科学的に分析したり日常的に語るとか。
2対象(存在者)の存在の認識
認識にはこの2種類があり、1は2によって初めて可能になるということですか?
>>98 「二種類ある」という言い方は適切でないかも知れません。
と言うのも、通常の「認識」概念と、存在の了解とを同列に並べるのならば、
哲学史の中で使い古されている「本質存在」essentia と「事実存在」exsistentia
という対立が、存在論の中で極めて正当なものと捉えられる危険があるからです。
もしこの図式に従い、
>>98氏のように言うのならば、私の言い方は、「事実存在」は
「本質存在」に先行するという、実存主義の主張のように受け取られ兼ねません。
しかし私の真意は、両者を同列に並べ、二種類の存在概念が存するということではなく、
ましてや、ここから二種類の認識概念が導かれるということではなく、「存在」という
概念は、シェリングが『自由論』の中で示しておりますように、より根源的な可能性を
秘めたものだということです。
私が、「存在了解」はすべての認識のア・プリオリな構造だと述べる時、存在の認識は、
通常の認識とは全くの別物であり、種類において異なるのではありません。
種類において異なるのではないからこそ、ア・プリオリというあり方が可能なのです。
哲学では、兎に角「超越論的」観点が要求されますが、これは、存在者と存在とを、
同列の次元で考えない事を言います。フッサールの場合は、超越論的自我は、自我以外の
存在者が、何らかの存在者としてそこで構成されるところの場のようなものを表しております。
ハイデッガーの場合は、この「場」を世界内存在として存在する現存在の構造として捉え、
そこから存在者の存在が先行的に了解される「そこ」Da として人間存在を分析する訳であります。
ですから、存在者の次元(これは結局、存在者の認識にかかわりますが)と、存在の次元とを、
二種類の異なるものとして把握する事は出来ないのです。だから私は、哲学と科学とは、根本的に
接点がないという趣旨の事を述べたわけです。勿論、この接点を見出す事は重要です。
しかし、それは哲学の課題というよりも、哲学の方法論を語ることになりましょう。
つまり、「超越論的」という概念を検討する事に繋がるでしょう。
100 :
考える名無しさん:02/12/29 01:00
100
チンポage
101 :
考える名無しさん:02/12/29 01:32
先生、存在とか自由だとか、そういう観念で人間が救われるようには思えません。
>小陰唇博士
丁寧な解説ありがとうございます。
議論レスに関しては正月休みの間にゆっくりと考えて、また返答します。
>スレのタイトルが異常だから、大抵の人はここでシェリングの哲学が
>語られている事を知らないようです。
>以前のように「態度の悪い」チンポ太郎が必要とされているのでしょうかね。
そのようですね。僕でもこんなへんてこなスレタイのスレが硬派な学問スレとは
夢にも思わないでしょうね(笑)
ただ、僕としては今の方が落ち着いて学べるので助かっています。
なんたって博士は哲板の有名人なので、「追っかけ」が多いですからね(笑)
>ちなみに、私とチンポ太郎とは、恐らく同一人物であろうと思われます(笑)
そうでしょうね(笑)。今の哲板に、これだけ学識があって、明快かつ丁寧な解説ができて、
さらにこれほどのユーモアセンスのある人はチンポさんぐらいでしょうから(笑)
まじめな博士の「キャラ」に飽きてきたら、チンポさんで大暴れしてストレスを発散してください。
もともと僕はチンポさんの「罵倒の速射砲」といった「ネタレス」のファンでしたから。
楽しみにしています。(ただし真面目で可愛い愛弟子寅をお忘れなく)
今年はこれで最後のレスになると思います。
博士の解説がないと、シェリングを1000回読んでもわからなかったですね(笑)
それ以上に、ハイデガーのいくつかの概念がわかったのが収穫です。
来年は、以前挫折した『存在と時間』に挑戦するつもりです。
その時はまたチンポ門下の「どなたか」にお世話になるかもしれません。
その時はよろしくお願いします。
本当にいろいろお世話になりました。来年もよろしくお願いします。
では、良いお年を・・。 寅
>>99 なるほど、よくわかりました。
超越論的を哲学の方法とするというのは、ハイデッガーなら存在論的差異を
哲学の方法または哲学そのもの(?)とするみたいなもんですか?
超越論的と存在論的差異って、結局は素人目に見ると同じような感じが
するんですがどうなんでしょう。
また横レスしてごめんなさい。
>寅氏
私は年明け早々から忙しくなりそうです。次回の書き込みは何時になるのか
検討もつきません。とりあえず良いお年を!
>>103 その件に関しては、過去のフッサール・スレの方を参照して下さい。
☆ よ い お 年 を ☆
(^^)
>小陰唇博士 貧窮者1氏 98氏
遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。
年末から『プロレゴーメナ』読んでました。凄い人がいるものですね。
こちらのスレも、地道に進めていくつもりです。
博士もレスは気にしないでください。疑問点をすぐ答えてもらうようでは
僕のためにもならないでしょうしね。わからないなりに、進めていきます。
では、皆さん今年もよろしくお願いします。
(^^)
ようやく『自由論』序論、『講義』のBを読み終わりました。
読み返しながらボチボチとまとめていきます。
それにしても難しいですね(笑)
【9】序論2 『汎神論を宿命論と見る謬見』1-3段落(『名著』p402)
自由の概念と体系が相容れないということは、従来次のように表現された。
9-1.可能な体系は汎神論である
9-2.汎神論は宿命論(自由の否定)となる
しかし、宿命論が本質的に汎神論に結びつくわけではない。
事実、我々の活き活きとした自由の感情こそが汎神論を要求する。
なぜなら、自由が切実に感じられるほど、全存在者から外へ置かれる人間は
その孤立に耐えられず、根源的存在者の元へ内在する必要性が生じるからである。
【10】序論2 4-6段落(『名著』p403上2)
では、互いに無制約な「人間は自由である」「根源的存在者が存在する」という対立事項が
我々の感情に自然と現れるのはどういうわけであろうか。
それは汎神論を誤って解釈しているからである。
10-1.根源的存在者の外、もしくはそれと並んで、自由を存在させる
10-2.自由のために、根源的存在者の全能を抑制する
10-3.人間を自由と一緒に根源的存在者のうちに存在させる
10-1、10-2は誤った汎神論である。
全能であり無制約な根源的存在者と、同じく無制約な自由を並列させることはできない。(10-1)
根源的存在者が自由を許容するために、自らの全能をほんの一瞬でも取り消すことは
できない。(10-2)
自由と根源的存在者が共存できる正しい汎神論は、10-3の内在説である。
【コメント】
ハイデガーは、シェリングの汎神論究明は体系原理の探求であり、それは存在者全体の
根拠への問い、つまり、存在論的問いを立てることであると述べています。
シェリングの問いを通して、真の存在論、存在の根源的基盤に立とうとします。
【11】序論3 『汎神論を神と諸事物ないし一個物とを同一視する説と見る謬見』 1-3段落(『名著』p404)
10-3の他に、汎神論の(誤った)解釈として次のようなものがある。
11-1.万物は神である
11-2.各個物が神である
11-3.諸事物は無である
11-1は、根源的存在者と諸事物全体を完全に同一視する。
しかし、根源的存在者とは、それ自身において自立し、それ自身において把握される根源的なものであり、
諸事物とは、他のあるもの(根源的存在者)の内において存在し、そこからのみ把握される派生的な
ものである。この両者は全く異なった存在の仕方をしている。派生的なものをすべて集めても、根源的
な存在者にはならない。
11-2は、各個物を変様された神とする。しかし、根源的な神が派生的な個物と同一視されることは
すでに、神は根源的存在者でないことになり矛盾する。
【12】序論4 『汎神論を諸事物や個体性を無となす説と見る誤謬』 1-3段落(『名著』p408)
11-3は、全ての諸事物を無とし、神だけが存在するとする。しかし、存在しているものは純粋に
神のみとなり、汎神論という概念自体、言葉上だけのものになってしまう。
ただし、この考え方は「神は万物である」という命題を含んでいるが、これを簡単に却けることはできない。
【13】序論3 4-9段落(『名著』p405下18)
これら三つの説の曲解の原因は、「同一律、及び判断における繋辞」の誤解にある。
命題とは主語と述語の同一性の言明である。しかし、それは「主語=述語」といった単純な一様性を
示しているわけではない
例えば、「完全なるものは不完全なものである」とは、「完全なものと不完全なものは単純に等しい」
ではなく、「不完全なものは完全なものによって(根拠として)存在している」である。
これらの誤りは、弁証法的思考の未成熟さに負っている。
【コメント】
ここでハイデガーは、「同一律」「判断における繋辞」について詳細な検討を加えています。
「繋辞」は、存在者全体の結構の仕方を規定しています。この繋辞への問いにおいて、
汎神論への問いが存在論のそれへと転じます。
「SはVである」の「である(繋辞)」は、単純に「S=V」といった空虚な一様性を表しているのではなく、
「SがVを根拠づける」という高次の同一性を表しています。同一性とは、異なったもの(S,V)が
共属しあうことです。
故に、「神は万物である」とは、「神は万物を存在させる根拠として(万物と)同一である」と解釈
せねばなりません。「神」とは「存在者全体の根拠」であり、「万物」とは「存在者の総体」であり、
その両者の結構の在り方が「である」なのです。
高次の同一性とは、弁証法です。哲学の命題は全て弁証法的なものです。
【14】序論4 4-9段落(『名著』p408下15)
スピノザにおいても、諸事物とは実体の諸変動、つまり諸帰結の一つにおいてみられた
実体である。無限的な実体(神)と帰結において生じる実体(諸事物)は、単純(一様)に
同一ではない。
(ただしスピノザの体系は、神や諸事物を、ー意志さえもー、「もの」と見る機械論的体系
である。故に、彼の体系は決定論となり、真の汎神論とは言えない)
【15】序論5 『汎神論を自由を否定する説と見る謬見』 1段落(『名著』p411)
自由の否定が汎神論の本来的な性質であるならば、近来の諸体系の多くが汎神論となって
しまう。その謬見は、自由の本来的な概念が諸体系に、−ライプニッツの体系にさえも−、
欠如しているからある。
【コメント】
ここでハイデガーは、従来の「非本来的自由」(汎神論と両立しない)と、「本来的自由」の違いを
述べています。
15-1.非本来的な自由・・・感性に対する精神の単なる支配
15-2.本来的な自由 ・・・自分の本質法則における自主性としての自立性
本来的自由概念においてはじめて、汎神論は自由と両立させることができます。
非本来的自由概念から本来的なそれへの移行期をつくり出したのが、カントであり、
それらはドイツ観念論において本格的に捉えられ展開されています。
【16】序論5 2-6段落(『名著』p411下11_)
(再び「万物の神への内在と自由は矛盾しない」が、−今度は神の側から−、論証される)
真の同一性によれば(
>>116)、諸事物は神に「依存」している。それは、諸事物が自由でない
ことを意味しない。「生成」の面から見れば依存的であるが、「存在」の面からすれば決して依存的
ではない。人間の生成は神を根拠(依存)とするが、”それ故に”(すでに)存在する人間は自立的で
なければならない。
その理由は、神そのものを考察してみればわかる。
17-1.神とは機械的な存在者ではなく、生き生きとした創造的な生を持つ。そこから帰結してくる
諸事物が、機械的な仕方で存在することはできない。
17-2.自立的な神は諸事物において自己啓示をはたす。故に、諸事物は自立的な存在者でしか
あり得ない。
17-3.自立的で自由な神に内在するものは、それ自体自由でなければならない。
【17】序論6 『汎神論を自由の否定と見、これにスピノザ主義を結びつける謬見』 (『名著』p414)
スピノザ主義の誤謬は、神を一個の事物としていることである。故に、(神から帰結する)
あらゆる諸事物も、−意志を含め−単なる「もの」となる。これは全存在者の存在を機械論的に
見る思考法である。対してドイツ観念論は、存在の根源を「意志的(精神的)なもの」とみる。
それにより、従来の哲学を規定していた機械的思考法より、いっそう高次の考え方への展望が開く。
【コメント】
ハイデガーは、ライプニッツ−カントーショーペンハウアーーニーチェという4人の
ドイツ哲学者の間には一つの思想的系譜が成り立つと指摘しています。彼らの元では、
表象能力(認識能力)よりも、生命衝動(意志・意欲・欲求)が優位に立ちます。
ハイデガーは、この系譜を「ドイツ形而上学」と呼びます。
L ー K ー S − N
欲求 実践理性(物自体界) 意志としての世界 ディオニュソス的 (生命衝動)
表象 理論理性(現象界) 表象としての世界 アポロン的 (認識能力)
これは、「意欲こそ根源存在である」と見るシェリングや、「存在の本質を知と捉え、
その知とは意欲と同じものだ」とするヘーゲルにも受け継がれています。
プラトンに始まる伝統的な形而上学は、自然の外に「超自然的原理」を設定し、自然を
この原理によって形成される無機的な素材と見ます。ハイデガーは、この「(物質的自然観の)形而上学」
との対決のため、自然を生きたものとみる「ドイツ形而上学」の復権を企てています。
【18】序論7 『スピノザ主義の欠陥と真の汎神論』 (『名著』p416)
「汎神論は宿命論となる」とするスピノザ主義の欠陥。
19-1.神を諸事物(機械的なもの)と見ている
19-2.意志をも事物として取り扱う
19-3.生命のない体系
19-4.機械論的自然観
スピノザ主義は「一面的−実在論的」体系である。シェリングは、「実在論」と「観念論」を統合し、
(同一哲学)「自然」と「精神」を相互浸透させる。前者が後者の持つ自由により生き生きと生動化し、
それにより存在者全体を貫く「根源存在」は自由なる「意欲」であると規定される。
「意欲こそ根源存在である」
【コメント】
「観念論」「実在論」について
ハイデガーは、この両者には「認識論」「存在論」の立場から二通りの解釈があると
述べています。
認識論的立場・・・「観念論」は外界の実在を否定する立場で、「実在論」は外界の
実在を主張する立場。
存在論的立場・・・「観念論」は、存在者の存在を自我(精神)的なものと見、
「実在論」は、それを機械的、物質的なものと見る立場。
ハイデガーにとって、真の「観念論」「実在論」とは、「存在論的」なそれであり、『自由論』
で述べられているそれらも同様です。
故に、存在者の「自由」を肯定するには、(存在論的な)観念論でなければなりません。
存在者の存在の本質を、「私は思考する(自我、表象作用)」とみなすデカルトの観念論は、
カントにより端緒を開かれた「私は自由である」とみなす高次の観念論、−つまり「自由の観念論」−、
に昇華されます。シェリングは、自然を「非ー我」とみるフィヒテの教説に対抗し、自然を自立性の証示します。
ライプニッツの、「あらゆる存在者の本質は表象作用である」と、「人間の本質は自由である」というカントの
洞察を高次に融合させ、「あらゆる存在者の存在の本質は自由である」と導きます。
このように、デカルトからヘーゲルに至る観念論の歴史は、「存在者の存在の本質を何とみなすか」
の探求です。つまり観念論は存在論です。それゆえ観念論を「存在論的」に捉えなければ、その本質を
見失ってしまいます。「認識論的」に捉えては近代哲学史を本流を眺め遣ることはできません。
【コメント】
(本来的)自由→意欲について(
>>122)
本来的自由とは、「自分の本質法則に基づいて自分自身を規定すること」(
>>118参)です。
自分に即して自分を規定すること、それは「自分自身を意欲すること」につながります。
自由な存在とは意欲です。それゆえ、存在者の本質は「自由」であるとは、「意欲こそ根源存在である」
と結論づけられます。
【19】序論8 『観念論における自由概念の欠陥』(『名著』p418)
このように従来の哲学は、観念論によって更なる高みへと達した。
しかし、その観念論にも未解決の難問が含まれている。
19-1.完成された体系ではない
19-2.その自由はあくまで「形式的な(一般的な)」ものにすぎない
19-1)a.フィヒテ的な「自我性が全てのものである」ではなく、「(自然を含めた)全てのものが
自我性」でなければならない。
b.自然を自立したもの、自由なものとみる高次の実在論(自然哲学)を観念論に取り入れ、
両者を真の統一へと統合せねばならない。観念論的概念把握(存在者を自由とみる)
こそが、高次の実在論、及び哲学への出発点となる。
カントは、実践哲学において存在者の本質を自由と認め、存在者と関連づけているが、
『純理』においては自由の本質は認識されないとした。そのうえ、自由を人間だけの本質とし、
全ての存在者の普遍的規定としなかった。
19-2)獲得された(本来的)自由は、全存在者に貫く一般的な規定であり、人間の事実性において
把握されたものではない。もっと生き生きとした人間にとって固有の「人間的自由」を探求
せねばならない。その概念とは、「自由とは善と悪の能力」である。従来問われなかった
この問いにより、観念論は新たな限界へと突き当たる。なぜなら観念論は、人間の本質を
理性的な自我、−故に悪を含まない−、を前提としているからである。
【20】序論9 『悪の問題との連関において自由論が当面する諸困難』(『名著』p420)
人間的自由の本質としての「悪」は、諸体系(汎神論)を揺るがせます。完全なる神と、
人間の悪は両立するであろうか。可能性としては以下の通り。
20-1.内在説
a.神の中に悪の根拠を求める
b.故に悪を否定する
20-2.連関説(神と人間の随伴)
a-1.人間の行為を神の協働に局限する
a-2.a-1でない
b-1.神から来るものは全て積極的であり、悪も積極的なものである。故に
悪も善いものである
b-2.悪に積極的なものはない。善が多いか少ないかである(悪は存在しない)
b-3.神から来る積極的なものは自由であり、それ自体は善でも悪でもない
c-1.二元論的体系を求める
c-2.(一元論的に)悪なる根本存在者は、善なる根本存在者に依存しているとする
20-3.流出説(諸事物の神からの流出)
a.神の側から意図されて流離された
b.神、人間の両者あずかり知らぬところで起こった
c.人間の側から意図されて流離した
しかし、以上の可能性は全て否定される。その理由。
20-1.内在説
a.神の内に悪が含まれると、完全なる存在者という概念と矛盾する。
b.自由の実在的概念が消滅してしまう。
20-2.連関説(神と人間の随伴)
a-1.人間が神に依存する以上、悪の行為は神も共同責任をもつ。
a-2.悪の実在性が否定されてしまう。
b-1.本来的に悪をなす基底の由来がどこにあるのか疑点に残る。
b-2.確かに、悪は善よりも不完全ではあるが、比較を離れて悪自体を考察
すれば完全性を持つ。その悪の完全性はどこから来るのか。
b-3.自由が悪へ向かいうる一能力なら、自由は神から独立した根拠を
持たねばならない。
c-1.理性とは統一の能力であるので、二元論は理性の絶望に行き着く。
c-2.悪なる根本存在者どうやって存在できるのか。
20-3.流出説(諸事物の神からの流出)
a.人間を悪へと放逐した神に責任があることになる
b.誰が流離させたのか疑点が残る。
c.人間の咎の結果流離が起こるとすれば、その咎自体が悪である。
hosyu
とうとうあげたね
132 :
考える名無しさん:03/02/04 01:43
【21】序論10 『哲学の魂と肉体をなす観念論と実在論との統合の必要性』(『名著』p424)
以上の考察から、人間的自由(悪への能力)と全存在者の根拠(神)の両立は
不可能に思える。しかしこれは、神の概念が正しく捉えられていないからである。
神とは、抽象的な観念論者が考えるような、道徳的に純化し、現実離れした、
−故に悪など微塵もない−、空虚な存在ではない。もっと生動的で実在的な存在である。
近世哲学はデカルト以来、自然を死物化させ、生き生きとした根拠を持たない体系である。
観念論とは哲学の魂であり、実在論は哲学の肉体である。この二つが統合されて始めて
生命感ある真の哲学が構成される。
【コメント】
従来の哲学において、「自由」とは「善への能力」です。対して、シェリングは「善と悪への能力である」
と規定します。悪を体系に組み込み、自由の体系を可能とするには、体系の規定根拠、つまり
存在一般の本質がいっそう根源的に捉えられねばなりません。悪への問い(悪の形而上学)は、
存在の本質概念の解体・再構築を引き起こします。
21-1.神(全存在者の根拠)の本質への問い
21-2.人間の本質への問い
自然の外に「超自然的原理(=存在者の本質)」を設定し、それを善とみなす西洋形而上学
の伝統を、「悪の形而上学」は大きく動揺させます。その揺さぶりにより、存在者の本質の
より根源へと遡ります。
22-1.自由(悪)が神から独立した根源を持ち、それでいて存在者の根源が唯一神のみである
なら、神の内に「神でない」ものが存在せねばなりません。
【コメント】
悪への問いは本質的に「非存在者」の存在への問いとかかわっているともハイデガーは
いいます。悪を善の欠如体として存在しないものと考えても、(
>>128 20-2.b-2)
その「無」は空疎なものでなく、存在の本質に潜む重要なものです。
これで『自由論』序論は終わります。
議論の発端である汎神論への問いは、自由の体系への問いとなり、その問いは
存在者(神、人間)の本質への問いとなりました。つまり存在論的基盤へと移行された
わけです。『自由論』は、悪の概念の規定といった個別的問題でなく、「人間に自由は可能か」
といった宿命論(決定論)への問いでもありません。『自由論』は人間の、そして人間を含めた
全存在者の根拠(神)の本質への問いそのものなのです。
>小陰唇博士
おそらく誤読だらけとは思いますが、ここまで進みました。
読み始めの頃はさっぱりわからなかった箇所も、少しはわかるようになりました。
なぜハイデガーがこの論文を取り上げるのか、最初は不可解でしたが、
今では彼の解読の素晴らしさに感動しています。
しばらくは『プロレゴーメナ』再読に集中し、その後、序論及び博士のレスを読み返しつつ、
本論に入りたいと思います。
博士の留守中は、不肖この寅が細々とスレ運営しておきます。
またのご教授を心よりお待ちしております。
ビオランテスレから来たんだけど、
やっぱビオランテも太郎なの?
Kuriたんはこのスレを知らないのかね。
hosyu
>>138 学問スレに限っては、書き込みルールを厳しくし、
IDを付ける等最大限スレが荒れずに議論できる
環境を希望します。
2chとの差別化・共存化を図る意味でも。
>小陰唇博士
どうにも我慢できず、『存在と時間』読み始めました。
『自由論』を読んでいるおかげか、
こちらの方が読み易くなっていましたね(笑)
このスレもまだまだ続けます。
>>博士
土〇月って人は太郎?別の人?
やっぱ違ったみたい。
本論 悪の自由と哲学体系との関連をめぐる諸考察
1 悪の可能性
【コメント】
いよいよ本論に入ります。
序論に比べ『自由論』はおもしろくなり、『講義』はおもしろくなくなります(笑)
人間的自由の本質として、「悪を行う自由」をシェリングは挙げました。
しかし、その人間に潜む悪はどこから来るのでしょうか?人間は神から生まれ、
神を根拠に存在しています。では、悪も神から来たのでしょうか?
神は完全なる存在者です。悪がその内に存在するはずはありません。
では、人間の悪の根拠は何でしょうか?
【22】本論11 『真の自然哲学の諸原則にもとづいた考究の開始』(『名著』p426)
これら(序論)の課題は、真の自然哲学の諸原則からのみ完全なる見解が
与えられる。
【23】本論12 『実存するかぎりの存在者と、たんに実存の根拠であるかぎりの存在者との区別』(『名著』p427)
自然哲学は、次のように存在者を区別する。
23-1.実存する存在者(実存)
23-2.実存の根底である存在者(根底)
この区別こそが、存在論的に自然と神との明確な区分に結びつく。
【24】本論13 『絶対的に見られた神とは異なる、神のうちの自然』(『名著』p427)
全ての始まりである絶対的な神(23-1)は、自身の根拠を他に求めることはできない。
故に、自らの内に自らの根拠を持つ。その根拠とは、実存の根底(23-2)、−神のうちなる自然、−
である。それは神でありながら、神とは区別された存在者である。
といって、「(神の実存の内的根拠である)根底」が「(実存する)神」よりも時間上、先に位置する
わけでもないし、本質上優位であるわけでもない。もちろんその逆でもない。これらの関係は、
いっさいが相互に前提しあい、依存しあっている円環のごとくである。永遠である。
【25】本論14 『神の実存の根拠のうちからの、諸事物の生成過程』(『名著』p428)
諸事物の本性は、神へのたんなる「内在」ではなく、神のうちでの「生成」である。しかし、
諸事物は神のうちでは生成できない。無限の神と有限の諸事物とは、根本的に異なっている
からである。一方、神以外の実体はなにも存在しない。つまり、諸事物の根拠は、
「神自身のうちの神自身でないもの」のうちにある。それは「根底」である。
「根底」とは、神が自分自身を生み出そうとして感じる「憧憬」である。
憧憬は、無規則的で混沌とした「暗闇」「悟性なき意志」である。いまだ暗い憧憬から神の
最初の活動、ー自分自身の表象ー、が行われる。それが悟性であり、「憧憬の言葉(注1)」となる。
悟性は憧憬と結び合い、自由に創造する全能の意志となる。
憧憬は悟性に刺激され、自分自身の闇の中へと閉じこもろうする。それに反して悟性は、
諸力の区分(闇の放棄)を促し、その区分された根拠の隠された統一(生命の閃光)を図る。
それにより、概念化された個別物が成立する。
その区分された諸力の中心点の生きた紐帯が「霊魂(注2)」である。
【コメント】
注1:「憧憬の言葉」・・・神のうちの暗い諸力の多様な活動(憧憬)に付与されてくる「統一性」
注2:「霊魂」 ・・・根底のうちから諸力の区分によって、しかしいまだその根底のうちにとどまりながら
生じてくる統一性。
【26】本論15 『人間の成立と、人間における悪の可能性の理由』(『名著』p433)
全ての存在者はこの二重の原理、−憧憬(闇)、悟性(光)−、を含んでいる。これらは分離
されていると同時に、一つの「根源的統一」が存在する。闇の原理は光へと浄化され、それが暗い
ものである限りは「我意」となる。我意はいまだ「盲目的意志」であり、悟性とはなりえない。
我意 ー 暗闇 ー 特殊意志(盲目的意志)
悟性 ー 光 ー 普遍意志
諸力の区分の段階に応じて、(神以外の)存在者の完成度が決まる。(ひとり神のみは純粋なる
光のうちに住まう)。これを示すことが、自然哲学の課題である。
あらゆる区分が進み、光の原理が高まるほど暗闇の根底は己の内部へ閉じこもり抵抗する。
最後に、暗闇の最深の点が全面的に光へと浄化された時、同時にそれは光の最も高い高まりとなる。
それが人間である。
「人間のうちには、最深の深遠と最高の天空が存在する」
その時「精神」が立ち現れる。
精神とは二つの原理の分離不可能な統一である。それは神のうちに存在する。しかし、人間の精神の
それらは分離可能である。もし分離不可能なら、人間も神と同じく完全な存在者となってしまうからである。
そして、この分離可能性こそが、「善と悪への可能性」なのである。
(故に、分離不可能な神には悪はあり得ない)
>>141 情報ありがとうございます。
レベルの高いスレですね。時間ができれば参加してみたいです。
最近は1さん来てないようですが、戻ってこないのかな?
彼のような人が中心となる議論スレが増えて欲しいのですが。
【27】本論16 『悪の可能性の構造』(『名著』p435)
人間の精神とは「自我性(我意)」である。
自我性は精神である限り、二つの原理(憧憬、悟性)を超えている。自我性は
(二つの原理に対して)自由である。自我性が根源意志(光)となる時、神的な精神、
ー愛の精神ー、となる。
しかし一方、自我性は自由であるため、光から自己を分離させることもできる。
つまり、神のうちでは分離不可能だった二原理は分離可能となる。この自我性の
光を超えた高まりが悪である。悪の可能性とは、二原理の分離可能性である。
この悪の出現を、別の角度から見てみよう。
人間の意志は、生きた紐帯である。その我意が普遍意志と統一している限りは、
神的な精神である。しかし、その我意があるべき中心から外れるやいなや特殊意志へと
変化する。特殊意志はもはや諸力を統合することができず、個々の諸力(悪癖、欲情)の
分解となる。悪の出現である。
こうした生が可能なのは、いまだ根底が悪の内部で存続しているからである。
【コメント】
神の根底からいかにして存在者が生成してくるのか。わかりにくいと思われますので
まとめてみました。
1.神のうちの暗い「根底」は「憧憬」であり、それは自己を啓示しようとする。
2.その自己表象から、「実存する神」が生成する。
3.それが「悟性」となる。
4.「憧憬」は「悟性」に刺激され、根底(暗闇)のうちへと閉じこもる。
5.「悟性」はますます光を強めて、諸力の区分(闇の放棄)、隠された統一を図る。
6.この区分と統一により諸存在者が成立する。
7.「憧憬」が暗闇の最深に達するとき、光も最大となり、そこで人間が生まれる。
「憧憬」とは
>>122ででた、全存在者を貫く根源存在である「意欲」と考えていいでしょう。
以下、本論17-19まで悪の三つの謬見をシェリングが反論します。
【28】本論17 『悪の誤った捉え方(その一)ーライプニッツ』(『名著』p438)
ライプニッツは、存在者の「有限性(欠如)」ゆえに悪が生じると考えた。
しかし、欠如それ自体は何ら悪ではないのである。悪をなしえるのは、全被造物の中で
最も完全な人間だけである。その事実は欠如自身が悪の根拠でないことを示している。
悪は欠如といった受動的なものではなく、もっと最高度に積極的な、ー根源意志のうちからー、
生成するものである。
悪とは諸原理の積極的な転倒、逆転である。
【29】本論18 『悪の誤った捉え方(その二)ー悪を全体的なものの形式的解体と見るもの』(『名著』p442)
これは、全体的な統一の不調和が悪の根拠とみなす考え方である。
積極的なもの(善)は、統一された全体である。実質的な要素は互いになんら変わらないが、
その「関係」により悪が生じると述べる。
しかしこうした哲学は人格性の、精神性にまで高められた自我性の概念をなんら持って
いない。「関係」という無機的な根拠に悪を押し込んでいる。
【30】本論19 『悪の誤った捉え方(その三)ー悪の根拠を感性のうちに見るもの』(『名著』p443)
現代という時代は、「悪は存在しない」という。
それによれば、悪は理性に対する感性的傾向が優位を占めた時に起こる。悪の唯一の根拠は、
感性、つまりこの地上的、現世的原理にあるとする。善は理性に由来し、自由とは、感性的欲望を
理性が支配する事により成り立つと考える。(非本来的自由
>>118)
この理性の能力の欠如を根拠とする説も受動的、何ら積極的でない。人間のうちには悪への
積極的な陶酔も存在するのである。
動物のうちにも暗い原理(憧憬)は活動しているが、それらは光へと産み出されていない。
悪は、ー神にも動物にも存在せずー、人間のうちでのみ存在する。
「人間における退廃が、動物並みにいたるなら望ましいであろうが、
残念ながら人間は、動物の上か下かにしか位することができない」
寅さんさあ、あんたもしつこいねえ。
もう1はへこんでるのよ。。。。わかんない?
あんたさあ、もしかしてYAHOOで共和なんとかというトピ立ててない?
ていうか俺はもう、こんな腐りきったサイト、見切りつけてますから。
大局的に見て2chから自殺者だとかなんだとか出てることに
対して直感的に嫌気がささないかあ。それでよく哲学なんかやれるよ。
こっちへ来て、スレ立てなさい。
http://zeta.ns.tc/
やっぱ違わないかもしんない。
(^^)