昨日、私は音楽は思考することができるのかと問われ、困ってしまいました。
おそらく音楽が哲学のような思考論証を再現、再現というのは嫌な言葉ですので、
音楽で哲学書を書く、としましょうか、
とにかく、言葉と音の論理性というのは程度の問題だと思うわけです。
あまりに程度が違うとはいえ、言葉は煎じ詰めれば音楽でしかなく、っていうの、これは本当ぽいですね。
言葉が彫刻や音楽のように見えたりというのは十分にあり得る話で、結局はそういったものしか我々は言葉から受け取っていないとも言えると思います。
その逆、音楽は言葉でしかない、というのはどうでしょうか。何か微妙ですよね。
これでは言葉の論理性を否定しただけですよね。
どうしましょう?
2 :
考える名無しさん:02/10/24 11:36
音楽の定義と、哲学書の定義をまず明らかにしてください。
お願いします。
恐れ多くて、私にはできません。。。
ただ、私がここで言っている音楽とか哲学書とかいうのは、ごく単純で皮相的な意味、
楽器と文字くらいの意味で言ってるだけです。
興味深いが、アフォなオレには言葉で説明できん。
誰か頼む。。
音楽も言葉も物質的に分解すると、音階と音色とリズムに分けられる。
ではその構造としては、
言葉は、音色の組み合わせに意味づけをおこなっている。
たとえば、すべて音階のド、リズム4ビートで音色「あ」と音色「ほ」を発声すると
「あほ」という意味になる。基本としては、どの音階でも、どのリズムでも意味は一緒。
しかし実際は、音階とリズムにより、関西人は「あほ」を100通り以上の意味で使い分けているといわれているが。
音楽は、そこに歌詞がないとして、音色の区分はことばほど規定されていない。
ギターの音色、ピアノの音色など。
音楽には正確な情報を詰め込むだけの音色の規定が行われていないのである。
よって言葉ほど正確な情報をおこなうことはできない。
しかしでは音色の規定を言葉並に行えば、可能か?
可能であるが、それを音楽と呼ぶか疑問である。それこそ言葉であるから。
ようは、音楽とはないで言葉とはなにかとは、五十音のような規定にそって
音を出すかどうかで、哲学書を書く音楽は言葉なのである。
6 :
考える名無しさん:02/10/24 12:09
思考はできるが、いわゆる論証は無理。
芸術の思考は全部そんなかんじ
音楽が思考することはないでしょうけど
思考を音楽で表現する事は普通に行われてることだと思います。
音楽にはいろいろなジャンルがありますが
それはその音楽を作った人の「主義」を反映してるように思います。
確かに言葉は音です。知らない言語ならばなおさら音以外のものではないですね。
しかし外国語が分からなくても海外の音楽に感銘を受ける事があるように
音楽は論理・理屈ではなく人に何かを伝える力があるように思えます。
歌詞がなくてもベートーベンの「運命」は運命を語ってるのです。
論理は哲学の表現の一形態であって他にも無数の表現がある。
例えば、絵画なんかもそうではないでしょうか。
質問の答えになってるか少し疑問だけど音楽と哲学の話題は面白そうなので参加してみました。
ところで第1段の「音楽は思考することができるのか」はどこかのスレでのことでしょうか?
読んでみたいので教えてください。
8 :
考える名無しさん:02/10/24 12:57
そう、その感情やら思考を音に表現できるという
のが芸術の音楽だと思う。
結果は別として。
すごいなーって思うなー。
歌詞に哲学書の文章を付ければいいと思われ。
10 :
考える名無しさん:02/10/24 13:08
11 :
考える名無しさん:02/10/24 17:03
人が音楽を用いるとき、人は何を求めているのだろう?
人が言葉を用いるとき、人は何を求めているのだろう?
12 :
考える名無しさん:02/10/24 17:04
音楽が哲学書を書く=音楽が思考論証する
という意味であれば、音楽は言葉にはかなわないと思います。
むしろ、論理的思考だけではおさまりきれない、
人の微妙で複雑な感情、意識、心境、等を表現することに
優れていると思います。
「言葉」というのは、
人の感情や用いる人の性格などに関わらず(切り離して)
客観的に「定義」することができると思います。
(また、人もそうすることを望んでいると思います)
だからこそ、客観的で論理的な思考を行うのに便利だと思います。
対して「音楽」というのは人の感情や性格などと切り離すのは
難しいでしょうし、人もそれを望まないでしょう。
同じ音階、同じ曲調でも、演奏する人や、その人の気分、
また扱う楽器や強弱の微妙な違いなどで千差万別に変化します。
これほど統一性がないと、やはり客観的な論理的思考に用いるには
難しいと思います。
しかし統一性がなくあいまいだからこそ、
人の微妙であいまいな感情や心境を表現するのに適していると思うのです。
自分は「哲学=論理的思考」とは必ずしも思いません。
むしろ音楽を通して哲学を深めることも可能ではないかと思います。
難しいですね
音楽を作曲する場合、ある程度構造/音色などを決めておいてから
曲/音響をデザインするようにつくる場合もあるから、
必ずしも哲学的な思考や感情を表すのを目的として
作曲する訳でもないような気もする。
無意識で作ったものっていうか、勝手に出来ちゃったものが
いい場合も結構多いような感じもあるし。
意味なんて全然ないっていうか意図してないんだけど、
聴く人によっては哲学的に響くとか、ある種の感情が喚起されるとか
そういう場合もあると思う。
ほとんどの場合、言葉=何らかの意味を読み取るみたいな感じだろうけど、音/音楽にはそこまで明確な社会的意味づけはないしね。
確かに思考はしているんだけれども、音で考えてるっていうか、
言語的に説明できない、明確な意味に還元できないって感じ。
言語で全てを表現できる訳じゃあない
音楽もそう、他の手段も、
我々は、常に自分を表現する手段を探している
その手段を鍛えている
言語、音楽、暴力、工芸、料理、SEX、政治、
お前の手段は何?
興味深いスレだage
物質と思考の関係と同じく、まず音が物質であるのと音質や音階が人間の観念を
形相だてるのと、人間の持つ思考の多義性、時間軸に沿った歴史的縦走的な
思考は、まずある記号を規定するもの、その記号の同一性を過去の歴史性から
引用しようとする思考によって成立している。一方でその記号からあらゆる意味
を抽出する思考はつねに記号を隔てて事後的に見出された散種を見出す。
音楽は記号を隔ててその同一性を音それ自体で五線譜と上で提示することに
よって他の音符との差異体系に導かれる。音符は五線譜上においては音を示す
五線譜を離れると、それは厳密な音階を示す記号ではなく、「音符」という
カテゴリーの一要素であるという事実を確認するための記号に変化する。
つまり音符それ自体に音を決定づけるための絶対根拠はない。それは言葉と
同じである。音は記号としての表現を五線譜上の音階という形で実現するが
その意味内容は音符それ自体ではなく、その他との差異によって決定付けられる
が、言葉の指示する記号内容の潜在的無根拠性とはまったく種類が異なる。
音の形態は言葉の一要素としてだけではなく、世界内存在の軋轢、モノ自体
の存在の多義性、スプーンをカチンと鳴らせばその音は必ず同じ音を奏でる
というわけではない偶然性、として存在する。言葉の音域、シニフィアンから
散逸して同一性を失った音を記号化したものが音符であり、それを五線譜上
に敷き詰めたものが音楽である。音それ自体の情報量は言葉には適わないが
音符として記号化された音が五線譜上に並び、音階という差異体系に導かれる
ことで音楽という表現形態を生成し、それによって音楽独自の情報を獲得する。
それによって言葉との相対化が可能になり、言葉によって音楽を思考すること
が可能になる。音によって言葉を思考することは不可能であり、なぜなら音という
のはすでに言葉の構造の中に組み込まれているからであり、音によって言葉
を思考するということは翻って、言葉によって音を思考することと同義だから
である。音楽によって言葉を思考するということも同様に、言葉によって
音楽を思考することと同義であるため、思考という形態の枠組みから外れた
表現形態として、音楽はつねに聴かれる側、見られる側に回らざるを得ない。
音符記号から事後的に見出される意味的散種は言葉のそれと同じであるが、
そもそも意味や音階といった差異は言葉の恣意性によってさらに恣意的に
決定づけられたそれ自体事後的なものとしてある。音が言葉の前に先立つとき
音はそれ自体としてあらゆる剰余を排除した記号、物質であらねばならない。
音楽で哲学書を書くというのは翻って、哲学で音楽書を書くというのと同等だが
音楽表現が哲学概念と呼応するということはあるだろう。しかしそれは実践的な
行為論に回収されてしまう場合がほとんどかもしれない。しかしたとえば「力への意思」
が人間の行為論に還元されていて、感覚器官に訴える絶対的なものならば、
音楽というのはそれの剰余表現として捉えられても良いのかもしれない。
21 :
考える名無しさん:02/11/09 06:40
面白そうなのでage
22 :
考える名無しさん:02/11/11 01:55
>>19-20 デリダ愛好家ってどうしてどいつもこいつもこういう文体になるのかね。日常言語
を使う努力がたりねえよな。それはともかく、俺は音楽にソシュール系の思考で
考えるのはどうかと思うよ。(まあスレタイがそれを要請してるのかもしれんが)
例えば知らない外国語を聞いた時、全く意味が分からないよな、これは意味を
読み解くいわば暗号解読方法を身につけてない事によるわけだ。ところが音楽の
場合、この手の暗号解読方法を身につけなくてもOKなわけだ。これは今音楽に
対する我々の対峙の仕方が言語とは根本的に違う事を意味している。
確かに音符や音色の差異化や制度化を促進していけば複雑な表現が可能になって
いくが、しかしそれは新たな外国語を創造するのと同じ事で、もはや音楽ではな
くなることを意味している。
23 :
考える名無しさん:02/11/11 03:53
>ところが音楽の場合、この手の暗号解読方法を身につけなくてもOKなわけだ。
無知もここまでくると哀れだな。
典型的な、西洋クラシック音楽イデオロギーに毒されているね。
長和音が楽しくて短和音が悲しいというのが汎文化的だとでも思っているわけ?
そんなものは、文化的な訓育の成果に過ぎません。
解読法を、せっせと教え込まれた結果だよ。
自分が自然だと感じる音楽は、一般的に自然な音楽であるというのは
あまりにおろかであります。
「音楽は世界の言葉」っていう迷信があるからなあ。
それで日本の楽器の音を聞いて「音をはずしている」などと
思っちゃうからなあ…
burakura gokuro-sama
音楽は10段階で3でした
29 :
考える名無しさん:02/11/11 16:44
すいません。糞スレたてました。
31 :
考える名無しさん:02/11/11 17:41
伝導の膂力を作法なり叙法なりと綯う。
訪れるときは必ず、外法の香を焚きしめますよう、さらざえますよう。
音となりて衝動なりとも、桃色の水の下にとどめん。
32 :
考える名無しさん:02/11/11 21:31
音楽は瞑想するかもしれない。
瞑想を哲学と言ってよければ、あるいは?
>>23 >長和音が楽しくて短和音が悲しいというのが汎文化的だとでも思っているわけ?
どこにもそんな事書いてないだろが、よく読め。俺は音楽に複雑な情報を載せる事は可能だが
それは音楽の良さを殺してしまうから、音楽に「意味」なんて期待するなと言ってるんだよ。
>>22 ちょっと修正しとく。
L8...音符 >音程
L9...外国語 >言語
はいはい。
>ところが音楽の場合、この手の暗号解読方法を身につけなくてもOKなわけだ。
こんなこと言っている以上、同じですがね。
>>35 なんで同じだというのか分からん。音楽体験=意味の摂取だという前提で考えてない?
あえて聞くが、君が自然だと思う音楽とは何だ?
音楽に自然もなにも無いよ、雑音も音楽の一部。
なんだ、ただの馬鹿か。
これだけ待たせて「馬鹿」ですか。まあいいや。
俺からも聞きたいけど言語と音楽を分ける基準をどう考えてんの?俺は前に
書いたとうり。
反応無しかい。
仕事があるから落ち。
42 :
考える名無しさん:02/11/15 09:05
まずわemotion and meaning in music(meyer)読めや
43 :
考える名無しさん:02/11/19 00:32
>42さん
興味あるので読んでみたいのですがそれは洋書ですか?
紀伊国屋で検索してみたんですが見つかりませんでした。
詳しい情報ください、お願いします。
>みなさんへ
俺にとってこのスレはとても興味深いものなので
哲学に精通されているあなた達の意見を、もっと聞いて(読んで)みたいです。
スレの趣旨からは外れてしまうので申し訳ない気もしますが
次のようなことも聞いてみたいです。
・議論することと好みや求めるものは別なのでしょうけど
普段よく聴く音楽や、多少でも哲学的なものを感じた音楽はなんでしょうか?
44 :
考える名無しさん:02/11/19 23:22
>>44 マイヤー?聞いた事ないね。お前が説明しろ。
46 :
考える名無しさん:02/11/21 20:01
>44さん
本、調べてみます。知らなくてごめん!
確かに俺は議論出来るようなスキルは持っていないんですよ、だから
読み専門のつもりです。
でもさ、既存の何かを題材にした上での議論だけでは
物事の本質とかって見出せない場合が多いのではないだろうか?
その本のタイトルのようなスレ展開を期待しつつ読ませてもらいます。
47 :
考える名無しさん:02/11/28 22:46
高校生ですが、山根銀二『音楽美入門』結構よかった。
48 :
考える名無しさん:02/11/28 22:55
>でもさ、既存の何かを題材にした上での議論だけでは
>物事の本質とかって見出せない場合が多いのではないだろうか?
高校生ですか? 気楽でいいですね。
既存の何かがどれほどのことを考えてきたか、ご存じないんでしょうね。
がんばって「本質」に迫ってみてくださいね。
>47
山根銀二。懐かしいですね。ふた周りくらい古いけどね。
その昔は共産主義美学者ってのがいてね。その代表的な一人なんです。
今で言うところのカルスタでしょうかね。
49 :
考える名無しさん:02/11/29 22:40
皆さんはツッカーカンドルの言う「力動的質」については
どうお考えですか?
50 :
考える名無しさん:02/11/29 22:52
電波だと思います。
だいたいメタファーのはずが元ネタに引きずられてる(プ
つーかドイツの電波どもをあがめ奉るのやめようぜそろそろ。
51 :
考える名無しさん:02/12/01 01:05
音楽するために哲学は必要と思うよ。
でもそれは、哲学書を読まないといけない、というわけじゃなくて。
うーん、私はね、音楽っていうのは、語弊があるかも知れないけど、あ、しかもクラシック音楽を前提に言うけども、音程、和声、リズムを用いた言語といえるのかなと考えたりする。
・・・あんまりスレタイとは関係ないか。
でも興味あるので、みなさんもっと進めて下さい。
音程は音波の波長の長さ、
音量は音波の振れ幅、
音色は音波の形です。
言語とは人間の表現手段?
音楽も表現手段のひとつ、といっていいでしょうか。
だったら、音楽のそれぞれの作品によって、詩であったり小説であったり
、というふうに置き換えられない?
ある音楽に、哲学を感じるということは、どう説明したらいいんでしょうね。。
54 :
考える名無しさん:02/12/01 01:38
なんでメジャーだと明るく感じて、
マイナーだと暗く感じるんだろう???
55 :
考える名無しさん:02/12/01 02:28
>>16 >確かに思考はしているんだけれども、音で考えてるっていうか、
>言語的に説明できない、明確な意味に還元できないって感じ。
これ、禿同だなあ。
>>1 >昨日、私は音楽は思考することができるのかと問われ、困ってしまいました。
どういう文脈でそう問われたのでしょうか。
ちなみに私なら「作曲中、音楽で思考していますが何か?」といったところでしょうか。
論証できるかは知りませんが。
あと、
>>13-14のD.Dさんにほんわかと同意。
「音楽で哲学する」等と言ってみると叩かれるのだろうか。
はじめまして。
…あなたの耳が聞いているのは単なる空気の振動「音」。
それをあなたの世界でどう定義するか?それが全て。
何の意味もない雑音でも、それを楽しめればあなたにとっては「音楽」。
ある楽曲を聴いて、あなたが作曲者の思考を情報として受け取ったのなら、
それはあなたにとってそれはもう音楽ではなく「言語」。
とても誤解を招きやすい、意志を伝えにくい、言語。
あなたにとって「言語でもあり音楽でもある音」もあれば、どっちでもないこともある。
「音楽で哲学する」というのは、
音楽を言語として受け取る、ってことかもしれないし、
誤解しやすいフォーマットの言語を使って楽しむ、ってことかもしれない…
…というのはいかがですか?
論点ずれてたら、すみません。言いたくなったことをそのまま言っちゃいました…
57 :
考える名無しさん:02/12/01 16:06
それじゃあただの認識論上の整理に過ぎない
即興ジャズの奏者たちは、もしかしたら近いかもね。
アドリブの中にもタイミングと協和・不協和音のルールがあるのだし。
ただ、どっちにしろ当人が能動的に「行う」のでなければ成立しないよ。
「聴いてるだけ・読んでるだけ」の受身の立場では、哲学も音楽も
本当のスリルは味わえないのでは?
哲学の言語思考はまず、『観念』という抽象的なものを『定義』付けすることによって
シンボル化させ、扱い易くすることを作業の前提とする。
フローチャートが混沌とした思考や思いつきをまとめるのに効率的なのは、観念を
枠でくくって図象化して見せるからこそである。
で、楽曲というものもこのような前提があれば、抽象的な「お題」を構築出来るのでは
ないか、と考えたことがあった。
論において必要な要素はまず、
@部品: 単語の意味、表現するための語句の選択、配列とその意図(効果)。
A骨組み: 論の前提を成す『観念』・『定義』の共通・相互理解、その説明と確認。
B外装: 表現、論調の流れ(肯定論・アンチ・悲観的・楽観的・逆転劇風・・・)
C全体: 命題、結論としてのその意図、結論。
だとすれば、それを音楽(例:DTM)に当てはめて、
@音色の選択とその設定・調整。
Aフレーズ、あるいはAメロ・Bメロ、サビ、など・・・
Bメジャー、マイナー、セカンダリードミナントコードの使用、転調etc...
Cタイトル。
などとなりはしないだろうか。
ヒュージョン系のバンドのアルバム(私はThe SQUAREのファンだった)を
聴いていた頃は、その取って付けたどうでもいいようなタイトルを見たあと
曲を聴いて、それらしき(自分勝手な解釈での)イメージ世界がなんとなく
頭に想像出来たものである。
どのみち一つの映画を見ても万人が同じ感想を持つわけも無く、各自が
バラバラの琴線で共感し、また不満を持つのである。
これは論旨が通った哲学書の解釈や感想においてもあまり変わらない。
哲学批評の本を読んでいる我々には判りきったことである。
ま、そんなもんじゃないの?
>>56 その当人における確信(音楽の認識なり“誤解しやすい言語”的把握など)が
相互間の了解に至るかどうかに着目しているのが、
『作曲・演奏>聴き手』の構造と言えませんか?
ある曲を聴いた自分が感じた「何か」は確かにその音楽から与えられた、
もしくはその音楽が引き金となって想起されたのだという確信があったならば、
その「何か」を懸命に言語化して、他者も同様に「何か」の存在を確信しているっていう
共通認識を得ようと思うんですよ。
例えばある音楽を聴いた場合、聴取中や曲が終わった瞬間に「音楽的フォルム」としか
言い様の無い「ある実体」を「感じた」ならば、それは他者にとっても存在し得るものなのかを
確認しようとすることでしょう。
>>58 で、その何かを「何かのまま」でやり取りすることを成立させやすいのが、
即興ジャズの奏者達なのかなあという風に私も思うわけです。
>>56 >誤解しやすいフォーマットの言語を使って楽しむ、ってことかもしれない…
音楽やってる身として、あ、そういうことが言いたかった!とおもいました。
個人的感覚ですが、頭の中が「音楽の状態」っていうのがあって、私としては、この
状態の中に哲学も入ってるというか、入っていて欲しい、と、思っている・・・。
んんー!むずい!何を言いたいのかわからなくなってきた!!
62 :
kouei36@非戦主義:02/12/01 21:39
64 :
考える名無しさん:02/12/01 22:50
休憩取りすぎだろ、おまえら。
65 :
kouei36@非戦主義:02/12/01 22:58
>>63 感想・リクエスト&ご紹介サンクス♪
現在lunarをダンウロード中。。。
今、NHK教育TV で、やっているポリーニのピアノリサイタルを
観るべし、聴くべし。
67 :
考える名無しさん:02/12/01 23:15
観てます
68 :
考える名無しさん:02/12/02 22:32
もうおしまい?
69
ロック ンロール
ICCのダムタイプ展を見に行ったときに、池田亮司の新作インスタレーションも
やっていて、僕はこれを体験したのだけど、これは3分という限られた時間内で
密閉状態の暗闇=暗室みたいな箱の中で椅子に座って大音響を体感するという
まあ、一見とりとめのないものではあるんだけど、いい体験をした。
というのはたとえば音響系の概念としてホワイトノイズとかシグナルという
ものがあって、こういう音響が視覚を閉ざされた暗室で身体を通して感じられる
というのは、たとえば身体性というものの音響による操作というか、音という
ものがスピーカーから流れるものとして知覚されるのではなく、もはや聴覚
などとは隔たった存在として、音響に反応する身体そのものに全知覚とそれを
認識する情報処理能力というものが、如何に即物的なものであるかというのを
まさにその場で体感できる試みであるからだ。
身体性というものが音によって逆知覚されることによる新たな音の概念化を
試みるというか。人間は如何に日常生活の中で「音」からの情報を必要として
いるのかということが、あの3分に凝縮されていた。行った人はいるだろうか。
12/1で終わってしまったのだけれど、僕はその最終日に行った。
人間の知覚という面から見ても「音楽」以外に純粋概念としての、情報としての
「音」と「身体」を隔てた「知覚」の拡張というのも哲学的なタームを引用すること
と無縁ではない気がする。
71 :
名無しの笛の踊り:02/12/03 23:15
音楽愛好家ってのは、例えばブルックナーやメシアンを聴いたりすると、
神の存在を実感しちゃったりするんですよ。
全く知性を働かせることなく、形而上の世界に入り込んでしまうんです。
この板の皆さんには信じられないことでしょうが。
72 :
考える名無しさん:02/12/03 23:21
>>71 いや、哲学を学んだ者は、そういう体験をしても、恥ずかしくて
人には言えないのです。宗教板のひとと違って・・・
>>70 >音響に反応する身体そのものに全知覚とそれを
>認識する情報処理能力というものが、如何に即物的なものであるかというのを
>まさにその場で体感できる試みであるからだ。
一行目の「そのものに」の“に”は、“の”の誤字ということでしょうか?
それとも、“にとって”でしょうか?
文章の意味が確定できなくてもどかしいので……。
あと、最後の段落、
> 人間の知覚という面から見ても「音楽」以外に純粋概念としての、情報としての
>「音」と「身体」を隔てた「知覚」の拡張というのも哲学的なタームを引用すること
>と無縁ではない気がする。
ここのところがあなたのお話しの要なのだと思いますので、
もう少し噛み砕いてもらえると有り難いです。
あなたの文章にインスパイアされて、何か頭が活性化してきてるんでお願いします。
>>71 神かどうかは判りませんが、とにかく何かの存在を実感することは確かだと思います。
というか、自分の知覚を偽れないと言う方が正しいです。
そしてそれはどのような妥当性を持って共感されているものなのか、大変興味があります。
もしかしたら、音楽を切っ掛けにして自らが創り出した幻で、そもそも音楽と関係の
無かったものかもしれませんし。
あなたの実感された「存在」を他者も実感しているかどうかに興味はお有りですか?
もしその他者達との間に、その実感についての共通した言葉を持つことが出来れば、
それは素晴らしいことだと思うのです。
もちろん、その存在が立ち現れている場(演奏会など)でひたすら共に感じるということの
素晴らしさを否定するものではありません。
ただ、「神秘」の一言で済ませられないのです。
>この板の皆さんには信じられないことでしょうが。
そんなことはないですよ。
信じている部分があるからこそ、そこで留まれないのです。
>>55 レスありがとう。
「そのものに」はあの文章からすると「そのものの」としないとしっくり来ませんね。
ごめそ、めちゃくちゃな文で。
僕がいいたかったのは「身体性」っていうものと「知覚」というのが分離して
感じられるっていうことだったんだけど、なんというか「音」を認識する知覚
と自分が存在するために必要な身体の即物性との乖離というか。
感覚/身体の二項対立が哲学的な概念としてではなくて、「音」によって
認識される概念であるというのはすさまじいなと。
「音」によって空間に放射された「知覚」は確かに僕の知覚であって、
でもそれと同じくして、この「身体」というものも、僕の枠組み=箱なわけ
で、通常「身体」が「知覚」を促すんだけど、その順序がめちゃくちゃに
なってるというか、「知覚」が逆に「身体」というモノを取り戻そうとして
いるような感じ。それが「音」のみの情報によって撹乱されているんだよね。
言ってしまえば「幽体離脱」が極めて実存的な「音」のレベルで行われていた
ような。幻覚とかじゃなくて「音」ははっきり「知覚」されるモノでもあるから
そういう実存レベルで「身体」の在り処、何しろ暗闇で視界は無いわけなんで
あの場所で「身体」感、知覚の中枢をしっかり固定しようと躍起になっていた
僕はたぶん恐怖を感じていたのだろう。
でこんな駄文ばかり晒していてもしょうがないし、分かりにくいかと思うので
雑誌のICCから紹介文を引用しよう。
あらゆる音を吸収する壁に囲まれた密閉空間という、いわば外部から遮断
された宙吊りの暗黒空間で、池田は前作同様、ディテールまでつくり込まれた
完璧な音響/音像体験をつくりあげる。反響音がないことで初めて実現できる、
スピーカーを使用した三次元立体音像システムにより、時間的で聴覚的な音響が
、自在な空間操作を獲得し、さらに密室のスピーカー・システムならではの
音量が、耳だけに限らない、皮膚や内蔵、骨をも駆使した全身的な音響知覚を
可能にする。
以上です。この紹介文は大げさじゃなくって、本当にこれと同じように
「身体」が「音」に反応します。この紹介文を見ずに体験を受けて、
あとでこの本を買ってこの箇所を読んだんだけど、まさにそのとおりだった。
この解説文はもっと長いものなので、必要に応じて紹介しようかと思う。
77 :
名無しの笛の踊り:02/12/04 15:28
>>74 丁寧なレス、有難う御座います。
私は哲学とは全く無縁な音楽愛好家にすぎず、あの「あちら側に行ってしまう」
感覚を言語化することは出来ませんが、近いなと思うのは、ボードレールの
「旅への誘い」での絶唱「そこにあるのはただ秩序と美、豪奢と逸楽と静けさ」
の件です。
芸術家が自らの意思を超越した何者かにそそのかされ、いわば「神の道化」として
創造行為を行った結果だろうなどと考えた所で、私などは思考停止状態となって
しまうのですが、哲学的に分析すればどうなるのか、大いに興味のあるところで、
この板の皆さんに是非色々と教えて頂ければと思います。
レスが止まってるようなので、保全もかねて。
今度は作る側の話。
…音楽を作るとき、モチーフとなる様な感情があったとしても、
音楽はその感情そのものを表現してるわけじゃないと思うんです。
音楽が表現しているのは、音の美しさや音の縦・横の並びかたの美しさであって…
その明るい響きとか暗い響きとか、それそのものを表現してるんだと思うんです。
ただ、その響きがモチーフとなる感情に良く似ている、ってだけで。
だから、たとえば親の死を悼む曲として作ったものを、「失恋の曲」として言い張ったりできる。
…スレタイとは別の話になってますね…。でも、音楽について語ってる、って事でお許し下さい。
うーん、追加で…
論理性を持ちようがない表現手段というのはあると思います。
顔を真っ赤にしてる他人を見て「怒ってるな」と判っても、
それで何故怒ってるのかは察しようがないですから…。
書き込んでから気付いた…最後の三行は極端ですね…。
「哲学書を書ける」レベルの論理性は、ってことです。
でも、音楽の作者とリスナーの関係は、
すれちがう他人の感情をうかがうくらいの情報しか
受け渡し出来ないと思います…。
どんなにハイレベルな作曲者でも。
それでは、おじゃましました…
三連カキコすみません…。日本語変だ俺…。
逝ってきます。
;y=ー(´Д`;)・∵. ターン...
81 :
考える名無しさん:02/12/07 04:08
>>75 所謂芸術モノの中で「音楽」は演奏家を要求するため、創作者と演奏家(表現力)の
共同作業を通して我々に伝わるという特殊性がありますね。
(楽譜を読んで音楽を知る方法もあるようですが。)
そういう意味で僕が音楽を聴く場合、作曲家だけではなく
演奏家の訓練によるとぎすまされた才能に感服することも少なくありません。
この作曲家と演奏家の共同作業を哲学ではどのようにとらえるのでしょうか?
たとえば絵だったら、
ゲルニカとか、戦争に対する悲惨とか、見てわかるじゃないですか
伝わるじゃないですかーーー
音楽が表現するヒス、感動、やさしさ、怒り、静けさ、怒りなら
なんとなくわかるんだけれど、
哲学的思想、方向性ってのもを表現するものも存在するのかな?
だとしたら具体的にどんなのがあるの?
83 :
考える名無しさん:02/12/07 07:55
ミクロにみて、こういうのは無しですか?
ハ長調(Key CMaj)で4小節の反復フレーズを曲中主に使うとしたとして
C Maj C Maj F Maj G7 という理論上基本とでもなるような展開を仮の相対的な判断基準としたとき
C Maj C Maj F Maj C Maj という別の編曲者がいたとすると、なぜこの編曲者はG7という、ハ長調において
最も効果的な一番倒れ掛かる音のする和音を使わずにこの曲を完成させようとしているのか、などと考えると
哲学的な要素は沢山生まれてくるな、とふと思ったので書いてみました。
この例自身、あくまで例ですのでさっと流しちゃってください。
84 :
考える名無しさん:02/12/07 07:59
音楽は思考するものじゃなくて体感することだから、音楽を哲
学することは無理なことであり不毛なことなんじゃないかな。
87 :
考える名無しさん:02/12/07 22:22
R・シュトラウスは、女性がブロンドかブルネットかを、また、スプーンが銀製か
木製かを音楽で描き分けられると言った。
しかし、「ツァラトゥストラはかく語りき」で、哲学することは出来なかった。
20年ほど考えていたのですが、わからんのですよ。なんで音楽を聴くと
「感情が揺さぶられる」か。ここで何人かが主張しているように「文化的刷
り込み」だけで、こうも悲しくなったり心臓がアップテンポなったりするもの
なんですか?
キリスト圏では宗教ツールとして音楽が使われてきました。パッヘルベル
のカノン聞き続けると天井にあがっちゃうような気分になるんですが、これ
も条件付けですか?
インドの13音階は聞いていてただただエキゾチックで気持ちいいだけな
んですが、インド人が聞くと、もっと「体系的な思考」に聞こえるんですか?
「赤ん坊の泣き声は生物学的本能によって耳障りに感じる」と同じぐらい
すっきりした解答をキボンヌ。
89 :
考える名無しさん:02/12/13 21:48
ここちよいリズムに気分のよい周波数が心地よい。
音階はあくまでも付随的なものに過ぎない
絵画とか他の芸術はアナロジーが必ずあるでしょ。ところが、音楽と言う
芸術の形式には自然とのアナロジーがまったくない。そうすると、
音楽になってるかなってないかっていうのは、要するにただ人間だけが、
人間の脳の構造だけが、それを音楽と認めているだけのことなのね。
だから、音楽と言うものは、その時々の人間や、その地方の人間の文化とか
そういうものが一番露骨に出てきてしまうものなんで面白いんじゃないか
と思います。ロマンティックて感じるのも、なんの根拠もないことなんで、
科学的には。音楽は科学的に語れないところが面白いんですよ。
91 :
考える名無しさん:02/12/14 14:52
>>90 禿同
科学的に語れないものを無理やり語ろうとするから、
オカルトになっちまうんだよね。
>なんで音楽を聴くと
>「感情が揺さぶられる」か。ここで何人かが主張しているように「文化的刷
>り込み」だけで、こうも悲しくなったり心臓がアップテンポなったりするもの
>なんですか?
恋人から別れの言葉を告げられたら動揺してどきどきするだろ?
でも「別れましょ」という言葉自体に、「感情」を揺り動かす秘密が内在してるわけではない。
音楽だって同じことだよ。文化的な条件付けってのはそれだけ強固にわれわれを支配している。
それを生物学的条件に還元しようとするのは単なる実体論信仰のドキュソ。
パブロフが実験した犬達のように、われわれは掛留された13度を認めると
ぞっとし、解決音の属7で気持ちよくなります。でもそうなるのは、当然
そうなるものだとされているから、そう心得ているから、そうなるだけの
ことかもしれません。たしかに、そう反応するように教育されてきたからに
すぎないのかもしれません。ひょっとしたら、われわれが自分自身の反応
能力を刷り込まれて育ってきたからかもしれないのです。ひょっとしたら、
自己満足というだけのことかもしれません。音楽をやるということはすべて
反射作用の実例を示す以上のことではないかもしれないのです。
グレン・グールド
シェーン・ベルクのもとで勉強ぢていたとき、私はまず彼が音楽の構造について抱いていた見解に
驚かされました。彼は調性を音楽の構造に至るための手段とみなしていたのです。
そしてこの構造とは、作品を部分に分割することでした。調性を用いるとき構造は終止形
に支配されます。というのは終止形だけが音楽作品の各部分を限定することが
できるからなのです。
ジョン・ケージ
(^^)
(^^)
ちんこ
>>1 言ってる事の意味が分かりません
もっと分かりやすく説明して下さい!
98 :
考える名無しさん:03/01/25 17:52
age
そりゃ、その音楽家の文章能力によるんじゃないか?
音楽で哲学を伝える事はできるんだからね。
俺はマイルスデイビスとジョンコルトレーンとオスカーピーターソンの
演奏に哲学が存在するのを感じた。だってイロイロな種類の感情が入り混じっている
からね。
神経学的に言えば、その感覚を導き出すシナプスの伝達を
言葉を伝える事によって相手にもその伝達を引き起こさせる。かな?
音楽と音声言語は、内容の点からすれば、まったく異なるものである。典型的な音楽
とは、今出は西洋の器楽であって、これは言語が伝えるような内容を、一切伝えな
いといってもいい。ところが、形式的かつ生物学的に見れば、音声言語と音楽ほど良
く似たものはない。所詮は自分で音を出して、その音を自分の耳で聞いており、そ
の先に「社会的な延長」として、それを第三者が聞くのである。だから、この両者
の区別が曖昧になってくるのは、歌であり、詩であり、お経なのである。
145
こう考えてみると、お経とは、案外面倒なものだとわかる。読経は音声言語か、
否か。それにまだ生理的な答えはない。禅でいう、文字を立てないという教えは、
こうした点からすれば、お経と関連するかもしれないのである。音声としてのお経
は、文字がしっかり根づいてしまった段階では、中略)「音楽」としてい、あらた
めて意識された可能性があるからである。音楽を西洋音楽のようなもののみだと考
えるのは、現代に住むわれわれの偏見にすぎない。
102 :
考える名無しさん:03/02/16 00:46
聴覚だけで視覚からの情報がまったくない状態なら、視覚と聴覚を使って思考するより浅く
なると思うんだけどどうだよ?
ってか具体的に音楽で哲学かんじてどうなったってのを書いてくれよ
体験談
私にとって、音楽と哲学は同じものである。
音楽で思考できるか問う事は。西洋音楽の特にクラッシク音楽と、西洋哲学に於いて、専ら行なわれるのではないでしょうか。
105 :
考える名無しさん:03/02/16 09:47
書けないだろ、演奏するだけ
読めないだろ、聞いて想像するだけ
でも哲学的な音楽も、芸術的な哲学も存在するから別にいいじゃん
もし、人間が言語を持たず。音楽しか持たなかったら。思考する事は出来ないだろう。 けれども、音楽には言語に変換不可能な思考性を感じる。
もし、我々の言語と論理より優れた、超言語と超論理があるなら。それは、言語より音楽に近いだろう。 音よ!哲学の夢を超えて、彼岸の向こうへとどけ!
秩序を感じ取ってるから。
偶然性で無秩序な音楽はどう?
私は、よく世界の全てが音で出来ていると云う感覚に襲われるのですが。 これは、数学者が数学的空間を実在だと云ったり、唯脳論者が脳こそ実在だと思ったりするのと同じ様な誤信ですか?
言語に限界があるのなら、音楽で語ってもいいじゃない!
111 :
考える名無しさん:03/02/17 21:49
ここでいう音楽って「歌」とか体でリズムをとるとか
そういうことなの?
「音楽」ってひとくくりにするは、すごく粗雑な思考だとおもうけど
なかなか面白いテーマだと思いますが、どうなんでしょう、聴くだけの人、
歌、楽器などの演奏する人、作曲する人によっても、ニュアンスが変わって
くると思うのですが?
実は、詩に旋律を付ける作曲法は嫌いです。やって出来ないことはありませんが、
私は、言語に制限されないところに音楽性を感じます。
その一方で、数学には親近感を覚えます。
115 :
考える名無しさん:03/02/17 23:33
数学と音楽が関係するってのは一種のギリシア=中世ヨーロッパ的なドクサだよ
116 :
考える名無しさん:03/02/18 00:07
ドイツ系の音楽が好き。
117 :
考える名無しさん:03/02/18 00:33
kraftwerk
118 :
考える名無しさん:03/02/18 01:02
>>115 機能和声と組み合わせ論とか、そう言う狭い範囲では無くて、ファジィ理論とか、
カオス、フラクタルなんかとも。
具体的に証明しろって言われても困るけど。
119 :
考える名無しさん:03/02/18 01:51
音楽も直観思考で創造したり聴いたりしてる。
だから音楽は形而上学ではなく、実体。
120 :
考える名無しさん:03/02/18 01:54
音楽の術語に、「音楽語法」なるものがあるのだが、どなたか解説きぼんぬ
121 :
考える名無しさん:03/02/18 02:52
音楽家のメンデルスゾーンは、ドイツ啓蒙主義の哲学。モーゼス・メンデルスゾーン
の孫であると聞きます。
>>118 そういうのはもう10年以上コンピュータ音楽(「シリアス」な方ね)
でやられているけど、本当の意味で数学と音楽が実り豊かな共有「対象」を
見いだしてるわけではない。カオスやフラクタルの発展は数学や数理物理学に
おいてであって、音楽では工学的な応用でしかない
もちろんシュレーダーの「数論」を読むと「自己相似性」と平均率とか
興味深いトピがいろいろ言及されている、至る所で微分できない自己相似的な
関数をもとにした音が「早めるとピッチが低く聞こえる」という普通でない特性があるとか
でもこれは少しも音楽の喜びとは直接関係がないものだ
>>122 直接に使い過ぎの連中でしょう。
現代音楽は、もどきを自分で作っていたこともあって、嫌いな方ではありませんが、
そもそもの音から作らず、理論から組み立てて音を当てはめるようなまねをし過ぎ
れば、当然感覚から乖離するでしょう。
むしろ、出来たものの分析に使ってみる方が意味があるのではないでしょうか?
音楽、物理学、数学全部(下手の横)好きの私としては、頭の中でかなりゴチャに
なっていますが。
124 :
考える名無しさん:03/02/20 07:49
126 :
考える名無しさん:03/02/22 03:18
わかんないけど、チャイコフスキーとラフマニノフは同じ音楽語法を
用いているが・・・みたいな使い方だったと思う
鈴木 音楽くん(17)
アインシュタインが云っている様に。言語が思考の仕組みの中で役割を演じず、答えが思い浮かんだ時はじめて言語や記号で表現するのではないか。 音楽は言語の様に意味を伝えないが、「思考の仕組み」そのものには、より近い様に感じる。
129 :
考える名無しさん:03/03/07 04:24
>>128 そのとおりだと思う。しかし言語がなければ思考はできない。
131 :
考える名無しさん:03/03/07 06:33
思考でない音楽はどこにあるのか。
音楽は思考だ。
132 :
考える名無しさん:03/03/07 07:51
133 :
考える名無しさん:03/03/07 08:42
はぁ
ニーチェはワーグナーに嫉妬していたらしい。
135 :
考える名無しさん:03/03/07 12:41
音楽を思考的に作る作曲家もいれば、そうでない作曲家もいる。
後者のほうが多い。
作曲家でない者が音楽は言語だ、などと数々発言してきたが歴代の作曲家たちからは鼻で笑われていた。
「音楽は言語ですと? あなたは言語をお話になられる。でしたらこのピアノでメロディーもすぐ奏でられるでしょうな」と。
136 :
考える名無しさん:03/03/07 12:58
>>135 ま、なによりも音楽自体、芸術でも、宗教でも、
歌い、奏で、踊るといったことがまずあるわけだからな
新しい効果、今まで聴いたことないようなものを追い求める
という立場からいけば「考える、探究する」ってこともある
もっとも問題なのは「音楽は魂に影響する」という古来の考えだな
結局プラトン、孔子などみんな「魂によい音楽」という
考えがあったわけだが。
これはそんな哲学的な話じゃなくて、もっと「生理的」な話だと思うんだよ
ようするに酒飲んで酔っぱらうのと同じ
音楽ってそんな高尚なことじゃないともうんだが
音楽の「高尚、低俗」云々の話するやつって
実は潜在的「ヤク中、変態」じゃねぇか
なんてな
バッハはどうも音で哲学してるような気がします。
138 :
考える名無しさん:03/03/07 13:54
バッハはいちおう神への捧げものとして作曲してんだけど。
でも聞いてる俺は神のことなんかまったく考えずに聞いてるからそうともいるのかもな。
(^^)