ドゥルーズ『ベルクソンの哲学』を勝手に訳すスレ

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324Gilles:03/04/05 22:07
『物質と記憶』第4章(特に、原書 p.202f. あたり)では、質(:持続)と量(:延長)
の二元論を解決するために、前者を収縮(contraction)、後者を弛緩(relachement)
と見なしている。
(この議論は巻末「要約と結論」のIXでも繰り返される。詳細はそちらを見てくれ)

一見すると、程度の差異を本性な差異に還元し、もう一度、程度の差異に戻っ
ただけのような感じを受けないこともないのだが、ベルクソンの言い分としては、
本性の差異は厳密に区別した上で、初めて両者の間の相対的構成比率の差
(収縮 … 弛緩)が正しく把握できる、ということなんだと思う。


>>320

> 4月に入るので忙しいって、Gilles氏の職業はいったいなんなんだろうな

ご想像にお任せする。
325  :03/04/05 22:15
すいません、すいません。

これはなんて意味なんでしょうか?
a feu follet par ercellence.


326Gilles:03/04/05 22:15
ひとつ書き忘れてた。

ドゥルーズの本の原書 p.106(最終章の真ん中くらい)に、『創造的進化』
第2章を図式化したという表が出てくる。ここでも、物質と生命がそれぞれ
弛緩(detente)と収縮(contraction)に対応させられている。
327考える名無しさん:03/04/05 22:36
328 :03/04/06 04:57
すいません、すいません。
英語板で聞いたところ、

a feu follet par ercellence.
は「とくにすぐれた鬼火」の意味だそうです。

トピずれで失礼しました
すいません、すいません。

329仏語5級:03/04/06 20:16
>>314の修正訳
【51】第1章の第16段落のつづき(原書/12 邦訳/14)
したがって、質的で、異なる方向をもつ[二つの]傾向にしたがって、すなわち、
混合物の<運動あるいは運動の方向として規定される持続と延長>の配合の状
態[=構成比率]にしたがって、混合物を分割することが重要なのである(例えば、
収縮としての持続と、弛緩としての物質)。

【コメント】Gilles氏の指摘>>321-326により修正。
qualifieの説明は目から鱗が落ちました。なるほどっ。次につづく言い換えられて
いるところとも意味がばっちり合ってると思いました。

>内容的に難しかったということ?

内容は難しかった[難しい]です。『物質と記憶』に関する議論は特に苦手
で言葉の射程がどこなのかなかなかわからないです(単にぼくの勉強不足です)。
が、今回のGilles氏の説明でかなりすっきりしてきました。
特に>>323-324の説明は大変助かります。
330仏語5級:03/04/06 20:18
【52】第1章の第16段落のつづき(原書/12-13 邦訳/14-15)
分割の方法としての直観は、超越論的分析と似ていないこともない。つまり、
もし混合物が事実に相当するのなら、事実を<権利上でしか存在しない[二つ
の]傾向あるいは[二つの]純粋な現存>に分割しなくてはならない(注17)。
われわれは、経験を越えて、経験の条件に向かうのだ(しかし、経験の条件は、
カント的用法のような、全ての経験の可能性の条件ではなく、実在的[=現実
的]経験の条件である)。

(注17)《事実上・権利上》の対立については、cf.MM,chap.I(特に、213,68)。
また、《現存[=現前]・表象[=再現前]》の区別については、185,32.

【コメント】「もし混合物が事実に相当するのなら、」ここは直訳すると「もし混合
物が事実を表象するのなら」になるかもしれないがちょっと意を掴みにくいと思った。

《現存[=現前]・表象[=再現前]》。ここは、それぞれ原語はpresence,representation。
[]内の補足の訳語は主にデリダ経由での訳語だと思うけどちょっと気になって載っけた。
邪魔と思う人はとっちゃってください。
331仏語5級:03/04/06 21:40
ここにでてくる権利とか事実は、カントの権利問題・事実問題とかの意味だと
思うので、

>もし混合物が事実に相当するのなら、事実を<権利上でしか存在しない[二つ
>の]傾向あるいは[二つの]純粋な現存>に分割しなくてはならない(注17)。
             ↓
もし混合物が[カントの言う意味での]事実に相当するのなら、この事実を<権利上でしか存在
しない[二つの]傾向あるいは[二つの]純粋な現存>に分割しなくてはならない(注17)。

としたほうがいいかもしれない。ちなみにぼくはカントの権利・事実問題の内実は
三省堂大辞林にでてるのでしか知りません。
332Gilles:03/04/07 20:48
今回の訳は特に問題ないと思う。が、細かい点で:

>>330
> 分割の方法としての直観は、超越論的分析と似ていないこともない。

encore を訳し忘れているのでは? 「さらに、分割の方法としての ...」

>>331
>>もし混合物が事実に相当するのなら、事実を<権利上でしか存在しない[二つ
>>の]傾向あるいは[二つの]純粋な現存>に分割しなくてはならない(注17)。
>              ↓
> もし混合物が[カントの言う意味での]事実に相当するのなら、この事実を<権利上でしか存在
> しない[二つの]傾向あるいは[二つの]純粋な現存>に分割しなくてはならない(注17)。
>
> としたほうがいいかもしれない。

そのほうがわかりやすいだろう。ところで、最初の「もし ... なら」だけど、
これは「もし」をとって、「混合物が ... 相当するとすれば」のようにしたほう
がいいんじゃないかと思う。
333Gilles:03/04/07 20:49
>>330
> (注17)《事実上・権利上》の対立については、cf.MM,chap.I(特に、213,68)。
> また、《現存[=現前]・表象[=再現前]》の区別については、185,32.
>
> 《現存[=現前]・表象[=再現前]》。ここは、それぞれ原語はpresence,representation。
> [ ]内の補足の訳語は主にデリダ経由での訳語だと思うけどちょっと気になって載っけた。
> 邪魔と思う人はとっちゃってください。

まず 213,68 は、岩波文庫版の86頁に相当:
「されば知覚と知覚対象との一致は、事実上(en fait)に於てよりも寧ろ権利上(en droit)に於て
存在すると、吾々が主張したのは甚だその理あることと言はねばならぬ。」

ドゥルーズは『物質と記憶』の第1章全部をあげてるが、ほかにも原書:38/岩波文庫: 54 など。

185,32 は、岩波文庫版の47頁:
「勿論、形像は知覚(etre percu[e])されなくとも存在(etre)し得る。また表象され(etre represente[e])
なくとも現存し(etre present[e])うる。」
(前半はバークリーの esse est percipi [存在するとは知覚されることである]のもじり。
presence / representation はこの文脈だけでいうと、事物の存在と知覚にほぼ対応している)
334Gilles:03/04/07 20:50
> ちなみにぼくはカントの権利・事実問題の内実は
> 三省堂大辞林にでてるのでしか知りません。

これは『純粋理性批判』の超越論的演繹の冒頭で、演繹(Deduktion)という概念を
説明するために出てくる区別。

『純粋理性批判』岩波文庫、162頁(一部訳文を変えた)
「法学者は、権限と越権とを論じる際に、一つの訴訟事件について何が権利があるか[法に適って
いるか]という問題(quid juris 権利問題)と事実に関する問題(quid facti 事実問題)とを区別する、
そして両者について証明を要求するのであるが、この第一の問題について権限、或はそればかり
でなく権利要求をも示す証明を演繹と名づけている。」

権利問題・事実問題の部分は原文もラテン語。カントの哲学的著作に法学的比喩がいっぱい出て
くるのはよく知られていることだけど、この部分はその代表例。事実としてある物件を占有してても、
それを所有する正等な権利があるかどうかは別問題で、その二つのレベルを別々に示さないといけ
ない、というだけの話。
335仏語5級:03/04/09 19:21
>>330の修正訳
【52】第1章の第16段落のつづき(原書/12-13 邦訳/14-15)
さらに、分割の方法としての直観は、超越論的分析と似ていないこともない。つまり、
混合物が[カントの言う意味での]事実に相当するとすれば、この事実を<権利上でしか
存在しない[二つの]傾向あるいは[二つの]純粋な現存>に分割しなくてはならない(注17)。
われわれは、経験を越えて、経験の条件に向かうのだ(しかし、経験の条件は、カント的
用法のような、全ての経験の可能性の条件ではなく、実在的[=現実的]経験の条件である)。

(注17)《事実上・権利上》の対立については、cf.MM,chap.I(特に、213,68,岩波文庫68)また、
《現存[=現前]・表象[=再現前]》の区別については、185,32,岩波文庫47.>>333に引用あり。

【コメント】Gilles氏の指摘>>332-334により修正。
encoreは指摘されるまで気づきませんでした。やばい。

Gilles氏へ:ベルクソンとカントの引用ありがとうございます。

なんか引用だけ集めてアンソロジーが出来そうだ。
336仏語5級:03/04/09 19:26
>>335の修正訳
【52】第1章の第16段落のつづき(原書/12-13 邦訳/14-15)
さらに、分割の方法としての直観は、超越論的分析と似ていないこともない。つまり、
混合物が[カントの言う意味での]事実に相当するとすれば、この事実を<権利上でしか
存在しない[二つの]傾向あるいは[二つの]純粋な現存>に分割しなくてはならない(注17)。
われわれは、経験を越えて、経験の条件に向かうのだ(しかし、経験の条件は、カント的
用法のような、全ての経験の可能性の条件ではなく、実在的[=現実的]経験の条件である)。

(注17)《事実上・権利上》の対立については、cf.MM,chap.I(特に、213,68,岩波文庫86)また、
《現存[=現前]・表象[=再現前]》の区別については、185,32,岩波文庫47.>>333に引用あり。

【コメント】「岩波文庫68」→「岩波文庫86」。打ち間違えた。
こういう直しはレスが勿体ない。気を付けます。
337仏語5級:03/04/11 20:46
【53】第1章の第17段落(原書/13 邦訳/15)
 ベルクソン哲学のライトモチーフとは次のようなものである。われわれは、
本性の差異のあるところに程度の差異しか見てこなかった。そして、このよう
な主旨のもと、ベルクソンは、非常にさまざまな自らの主要な批判を分類して
いる。形而上学に対して、ベルクソンは、本質的に<空間化された時間>と
<本源的なものと想定される永遠>との間に程度の差異(減損としての時間、
存在の弛緩あるいは収縮などなど)しか見てこなかったことを非難することになる。

【コメント】「非常にさまざまな自らの主要な批判」。
原文は、ses critiques principales les plus diverses
ここは最上級だから直訳すると「最も[あるいは、一番]さまざまな自らの主要な批判」
となるが、「何と」比較して「最も」あるいは「一番」なのかわからない。
フランス語ハンドブックP59の例文。
Ce garcon est le plus ordonneの解釈で、
(1)比較対照なしに   :この少年はきわめてきちんとしている。=tres ordonne
(2)特定の人たちのなかで:この少年はもっともきちんとしている。
この例からses critiques principales les plus diversesの最上級は
意味的には(1)とほぼ同じと判断した。宇波訳と同じ。

「非難することになる」reprochera。
原文は単純未来形で、用法は歴史的叙述における単純未来形と判断した。
フランス語ハンドブックp.37,3.3.4.-(7)とp.252,1.7.4.。
ふつーに推定とかの用法でもあるかもしれない。

「減損としての時間」。減損についてはGilles氏の解説を参照>>288-290
338Gilles:03/04/12 21:25
>>337
今回もほとんど問題ないが、一箇所だけ。

(le temps comme degradation, detente ou diminution d'etre ...):
この degradation と detente (d'etre) と diminution d'etre は並列の
関係じゃないだろうか。

→(減損としての、存在の弛緩ないし収縮としての時間...)

最上級の処理の仕方は、tres の意味でいい。これはよく使う。それから、
単純未来も今の訳し方でいいんじゃないかと思う。
339Gilles:03/04/12 21:33
しまった。もう一つあった。レス無駄使い(?)すまん。ほとんど変わらないんだが。

Et sous ce chef, Bergson groupe ses critiques principales ...:
まず chef の訳語は「主旨[項目]」「要点」「条項」などに相当する。
「本性の差異があるのに程度の差異を見る」という「項目・題目・見出し・ポイント」の
もとに、非常にさまざまな自らの主要な批判を grouper していると言っているのだから、
grouper は「分類している」よりも「まとめている」のほうがいいと思う。
340仏語5級:03/04/14 19:55
>>337の修正訳
【53】第1章の第17段落(原書/13 邦訳/15)
 ベルクソン哲学のライトモチーフとは次のようなものである。われわれは、
本性の差異のあるところに程度の差異しか見てこなかった。そして、このよう
な項目のもと、ベルクソンは、非常にさまざまな自らの主要な批判をまとめて
いる。形而上学に対して、ベルクソンは、本質的に<空間化された時間>と
<本源的なものと想定される永遠>との間に程度の差異(減損としての、存在の
弛緩ないし収縮としての時間...)しか見てこなかったことを非難することになる。

【コメント】Gilles氏の指摘>>338-339により修正。

>しまった。もう一つあった。レス無駄使い(?)すまん。ほとんど変わらないんだが。

ガンガン書き込んでください。足りなくなったら新スレ立てればいいんで。
341仏語5級:03/04/14 19:57
【54】第1章の第17段落のつづき(原書/13 邦訳/15)
つまり、全ての存在は、強度のある一つの段階に、完全と無の両極の間に、規定される。
しかし、科学に対しても、ベルクソンは、[形而上学に対するのと]同じような批判をする
ことになる。それは、依然として空間化された時間一一このような時間に従うと、存在は、
程度・位置・次元・割合の差異しか示さない一一を持ち出す以外に『機械論』の定義は存
在しない[という批判である]。

【コメント】ちょっと細かいこと。
「強度のある一つの段階に、完全と無の二極の間に」のところ。
:原文はdans une echelle d'intensite,entre les deux limites d'une perfection et d'un neant
これはdans〜とentre〜が並列または言い換えの関係だと思い訳文もそのようにしたのだが、
宇波訳では「完全さと無を両極とする強度の段階のなかで」と、entre〜がdans〜を修飾する
関係となる訳文となっている。意味的にはあんまり/全く変わらないと思うのだが微妙に迷った。

二つの目の文章の語順は再考の余地があるかもしれない。
342Gilles:03/04/15 22:19
>>341
ご苦労さん。

> 強度のある一つの段階に、完全と無の両極の間に

これは宇波訳のほうがいいと思う。entre les deux limites 以下の部分が、
その直前の echelle (d'intensite) の「言い換え」ないし説明になっている
というのはその通り。「段階」という訳語だとはっきりしないかもしれないけど、
「スケール」「等級」ということで、一方の極が perfection、他方の極が neant
になっている数直線のイメージ。ついでに言うと、perfection は「完全」より
「完全さ」のほうがすわりがいいかもしれない。

> 依然として空間化された時間 ... を持ち出す以外に『機械論』の定義は
> 存在しない

日本語としてはこのほうが自然だけど、原文そのままだと「を持ち出す定義(celle)
以外の『機械論』の定義は」となる。でもこれだとまわりくどいし読みにくいので、
今の訳のほうがいいと思う。念のため。

dimension の訳語は「次元」より「大きさ」「規模」のほうがよいかな。

細かいことだが、後半の文でダッシュをつかっている部分、「一一」ではなく
「――」にしたほうがダッシュらしいと思う。語順は今のでいいんでは。

>>340

> ガンガン書き込んでください。足りなくなったら新スレ立てればいいんで。

了解。
343山崎渉:03/04/17 09:33
(^^)
344仏語5級:03/04/17 23:19
>>341の修正訳
【54】第1章の第17段落のつづき(原書/13 邦訳/15)
つまり、全ての存在は、完全さと無を両極とする強度の段階のなかで、規定される。
しかし、科学に対しても、ベルクソンは、[形而上学に対するのと]同じような批判
をすることになる。それは、依然として空間化された時間――このような時間に従
うと、存在は、程度・位置・大きさ・割合の差異しか示さない――を持ち出す以外
に『機械論』の定義は存在しない[という批判である]。

【コメント】Gilles氏の指摘>>342により修正。
345山崎渉:03/04/20 04:38
   ∧_∧
  (  ^^ )< ぬるぽ(^^)
346仏語5級:03/04/20 13:35
【55】第1章の第17段落のつづき(原書/13-14 邦訳/15-16)
直線的な進化を前提とし、単なる中間的なものつまり程度の移行と変化を経ながら、
われわれをひとつの生きた有機体から別の有機体へと移行させる進化論ならば、そ
のような進化論にまで[到達する]機械論がある。[しかし、]真の本性の差異を知ら
ないこのような機械論において、われわれを苦しめる<全ての偽の問題と幻想の源
泉>が現れる。『物質と記憶』第二章から、ベルクソンが示しているのは、どのよ
うにして、知覚と感情の間、知覚と記憶内容の間、それぞれの本性の差異の忘却が、
あらゆる種類の偽の問題を生み出し、われわれの知覚の非延長的な性質が存在する
ことをわれわれに信じさせるようになるのかである。《われわれは、自らの外側に
純粋な内的状態を投影するという考えから、<多くの誤解>と<提起の仕方の間違っ
た問題に対する多くの一貫性のない解答>を見出すだろう。》(注18)

(注18)MM,197,47.

【コメント】読みにくいかもしれない。
[到達する]。この訳注は宇波訳を踏襲。

「真の本性の差異を知らないこのような機械論において、」の
「このような機械論において、」は意訳。

「知覚と感情の間、」の「感情」。原語はaffection。宇波訳は「感覚」と訳している。
ちょっとわからない。ドゥルーズの経験論と主観性(財津訳)の第一章の訳注2で財津氏
はaffectionの解説をしていて、主に「変様」「感情」の意味であるといっている。も
ちろんこれはヒューム論でのことだからベルクソン論とはまた違うんだろうけど、辞書
に「感覚」という訳語は出てなかったので「感情」としてみた。
347Gilles:03/04/21 21:20
>>346

訳しにくい文だと思う。ご苦労さん

(1) Il y a de mecanisme jusque dans l'evolutionisme:

> [到達する]。この訳注は宇波訳を踏襲。

jusque dans を「到達する」と訳してしまうのはまずい。まず、mecanisme の前についている
du だが、これは部分冠詞で、直訳すれば「いくぶんかの機械論」、説明的に訳せば、「機械論
的要素」「機械論的なもの」という感じになるだろう。一見、生物の進化をダイナミックに説明
するように見える「進化論の中にまで」、このような機械論が入りこんでいる、ということ。


(2) dans la mesure ou celui-ci postule ...:

dans la mesure ou ... (〜する限りで) の部分がうまく訳されていないような気がする。
celui-ci は進化論 evolutionisme を受けているが、「この進化論が単系的な進化を仮定し、
ある生きた有機体から別の生きた有機体へとわれわれを連れていくものである限りにおいて」
というところか。

unilineaire は、直訳すれば「一本線の」ということだが、「単系的」という訳語がある。辞書
では、人類学の用語として「父系か母系一方の系だけの」などと説明されている。「単線的な」
などと訳してもかまわないかもしれない。もちろん、進化論の描く系統樹は枝分かれしていく
ものだが、その時点その時点で見ると、必ず一本の線になっている。こういうことを指して言っ
ているのだろう。

nous fait passer de ... a ... は、「われわれを ... から ... へと移らせる」ということだ
が、「まずAという生物がいて、次に進化の結果、Bという生物が現われ」という説明方式のこと
を指している。
348Gilles:03/04/21 21:20
第1文目をもう一度整理してみると、こんな感じ:

「機械論的なものは、進化論の中にまで入り込んでいる。それは、この進化論が単系的な進化を仮定し、
単に程度上の中間段階や移行や差異によって、ある生きた有機体から別の生きた有機体へとわれわれを
連れていく限りにおいてである。」


(3) Dans cette ignorance ...:

> 「真の本性の差異を知らないこのような機械論において、」の
> 「このような機械論において、」は意訳。

この意訳というか挿入はいらないと思う。

「真の本性の差異に対するこのような無知の中に ... が現れている。」



(4) des le premier chapitre de Matiere et Memoire ...:

> 『物質と記憶』第二章から

「第一章」の間違い、だな。
349Gilles:03/04/21 21:21
(5) entre la perception et l'affection:

> 「知覚と感情の間、」の「感情」。原語はaffection。宇波訳は「感覚」と訳している。
> ちょっとわからない。ドゥルーズの経験論と主観性(財津訳)の第一章の訳注2で財津氏
> はaffectionの解説をしていて、主に「変様」「感情」の意味であるといっている。も
> ちろんこれはヒューム論でのことだからベルクソン論とはまた違うんだろうけど、辞書
> に「感覚」という訳語は出てなかったので「感情」としてみた。

まあいろんな訳語が可能だと思う。が、感情あたりでいいんじゃないか。

ドゥルーズがさしあたり念頭に置いているのは、『物質と記憶』第1章、原著 p.52 以下
(岩波文庫 p.68 以下)だと思う。ちなみに、岩波文庫版は「感情」という訳語をあてて
いる。具体的にベルクソンが例としてあげているものに「苦痛(douleur)」がある。
(特に、原著 p.53、岩波 p.70 「感情と知覚との間にはたゞ程度の区別があるばかりで
本質的の区別がないやうに思はれる」を参照)


> (注18)MM,197,47.

これは岩波文庫だと p.63:
「純内部状態を吾々の外部に投射するといふ思想には、多くの誤解と、
間違つて提出された疑問に対する多くの偏った回答が潜んでゐる。」
350仏語5級:03/04/26 19:54
>>346の修正訳
【55】第1章の第17段落のつづき(原書/13-14 邦訳/15-16)
機械論的なものは、進化論の中にまで入り込んでいる。それは、この進化論が単系的な
進化を仮定し、単に程度上の中間段階や移行や差異によって、ある生きた有機体から別
の生きた有機体へとわれわれを連れていく限りにおいてである。真の本性の差異に対す
るこのような無知のなかに、われわれを苦しめる<全ての偽の問題と幻想の源泉>が現
れている。『物質と記憶』第一章から、ベルクソンが示しているのは、どのようにして、
知覚と感情の間、知覚と記憶内容の間、それぞれの本性の差異の忘却が、あらゆる種類
の偽の問題を生み出し、われわれの知覚の非延長的な性質が存在することをわれわれに
信じさせるようになるのかである。《われわれは、自らの外側に純粋な内的状態を投影
するという考えから、<多くの誤解>と<提起の仕方の間違った問題に対する多くの一
貫性のない解答>を見出すだろう。》(注18)

(注18)MM,197,47,岩波文庫63.>>349に引用あり。

【コメント】Gilles氏の指摘>>347-349により修正。
duの解釈は大変示唆的でした。部分冠詞だというのには気づいていたんですが、
それがこの文脈上どういう役割なのかはわかってなかったです。Gilles氏の指摘
を読んでもう一度見てみると、なるほどって感じです。勉強になります。
その他いろいろな指摘・引用ありがとうございます。
351仏語5級:03/04/27 15:52
【56】第1章の第18段落(原書/14 邦訳/16)
 『物質と記憶』のこの第一章ほど、分割の方法としての直観の扱いに対する複雑さを
示すテクストは他にない。表象を、それを条件付ける要素に、つまり本性において異な
る[二つの]純粋な現存にあるいは[二つの]傾向に、分割することが重要である。どのよ
うにベルクソンは論を勧めるのか。ベルクソンはまず、何と何の間に、本性の差異が有
り得るのか(あるいは、有り得ないのか)を問う。

【コメント】一つ目の文章は微妙に意訳だと思う。思うと書いたのは自分でも
処理の仕方が適切かわかってないから。

「分割の方法としての直観の扱い」の「扱い」はmaniement。宇波訳は「処理」。迷った。

「表象を、それの条件となっている要素に、」の「それ」は「表象」を指していると考え、
繰り返すと読みずらいと判断し「それ」とした。宇波訳と同じ。
352仏語5級:03/04/27 15:55
「表象を、それを条件付ける要素に、」
   ↓
「表象を、それの条件となっている要素に、」
と修正訳で変えます。
353Gilles:03/05/08 04:59
すっかり遅くなってしまった。すまん。

>>351

maniement は「扱い」でいいと思う。ただ、原文では la complexite du maniement de l'intuition
と de が2つ続いているところ、「直観の扱いに対する複雑さ」とするよりは、「直観に対する扱いの
複雑さ」としたほうがわかりやすいのでは?
354仏語5級:03/05/11 20:26
>>351の修正訳
【56】第1章の第18段落(原書/14 邦訳/16)
 『物質と記憶』のこの第一章ほど、分割の方法としての直観に対する扱いの複雑さを
示すテクストは他にない。表象を、それの条件となっている要素に、つまり本性におい
て異なる[二つの]純粋な現存にあるいは[二つの]傾向に、分割することが重要である。
どのようにベルクソンは論を進めるのか。ベルクソンはまず、何と何の間に、本性の差
異が有り得るのか(あるいは、有り得ないのか)を問う。

【コメント】Gilles氏の指摘>>353により修正。
355仏語5級:03/05/11 20:29
えーっと。突然ですが、これを最後にぼくはこのスレから降りさせてもらいます。
理由は単純にちょっと疲れて続けづらいということです。本自体、前回のレスから
全く読んでなかったりします。時間はあったりするんですがテレビみてたり寝るの
早かったりして読んでません。無理に続けて駄目駄目な訳のってけも迷惑なだけだ
しチェックしてくれるGilles氏に対しても失礼なので、すっぱりとやめたいと思い
ます。
 Gilles氏には大変感謝します。なんどもこの手のことは書いたので食傷気味でしょ
うが、例えば、哲学者の言説に対する距離の取り方などところどころでポロッと書か
れたことは影響を受けました。
 一行レスで応援してくれた人に感謝します。期待には添えなかったですが勘弁してくらはい。

もうこのスレには書き込みません(たぶん)。
気概のある人がいたら続きやってください。あとは落ちるにまかせましょう。
356考える名無しさん:03/05/12 00:56
仏語5級 様
お疲れ様でした。ROMだけで、力になれずすいません。ゆっくり休んで下さい。
ご縁があったら、またどこかのスレでお会いしましょう。
357考える名無しさん:03/05/12 01:16
>期待には添えなかったですが勘弁してくらはい。
とんでもありません、気にしないでください。どうか、お元気で。
358Gilles:03/05/12 05:19
>>355

仏語5級氏へ

半年以上の長きにわたり、本当にお疲れさま。最初のレスの調子でずっと
続けていった成行き上、ぞんざいな口調になってしまったけど、ご勘弁を。

前にも書いたと思うが、2ch でもこんなことができるという貴重な体験を
させてもらった。また、ドゥルーズの本を読み直すことで、前に読んだ時
は思い違いしていたことに気づいたり、他の思想家の関連箇所を読み直し
たり、実はいろいろ役にたっている。これも仏語5級氏のおかげだ。

名残惜しいことではあるけど、「あきたらやめます」という最初の宣言通
り、潔くスパッとやめるのも、氏らしくてよいと思う。

レスしてくれたみなさん、ROM してくれたみなさんにも感謝します。
359考える名無しさん:03/05/12 12:36
>>358
Gilles氏へ、半年間ありがとうございました。ROMしかできなかったけど、
とても感謝しています。なにより2ちゃんでこういうことが、まだ出来ると
いう事が嬉しかったです。お元気で。
360考える名無しさん:03/05/12 13:16
>>355 仏語5級氏、 >>358 Gilles氏

私は、仏語ができないので発言できませんでしたが、
しれはそれは楽しみにROMしてました。

こういったスレの存在自身が、奇蹟・僥倖のようなもので、
こういった、「出来事」に「遭遇」できた幸せを噛み締めてます。

本当にお疲れ様でした。
361考える名無しさん:03/05/19 10:09
>仏語5級氏、ジル氏
お疲れ様でした。
素晴らしいスレに出会えて感激です。

つうかだれも引き継がないのかよ!
もったいない。
だれもやらないならおれがやるぞ(仏語全然読めないけど)。
362山崎渉:03/05/21 22:36
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
363考える名無しさん:03/05/23 11:38
>360 >361
禿同。哲学板の名スレだと思う。
このまま「ひとつの出来事」が落ちていくのだろう。

誰かが、『ベルグソニスム』と銘打って、
新スレをたててくれることをひそかに希望。
364考える名無しさん:03/05/23 12:39
名スレ終了か〜
残念

365考える名無しさん:03/05/24 17:48
今さらだが保守age
初見でしたが、良いスレですね。
仏語5級さん、Gillesさんはどんな人なのだろう。
どうせなら他のスレにも出没してほしい。
366山崎渉:03/05/28 15:11
     ∧_∧
ピュ.ー (  ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  =〔~∪ ̄ ̄〕
  = ◎――◎                      山崎渉
367考える名無しさん:03/06/03 00:57
gillesさん、あんたは男の中の男だ。
まるで2chの便所掃除をボランティアで黙々とやり続けているかのようでした。。

お二人ともありがとうございました。
368考える名無しさん:03/06/09 09:17
仏検5級さん、gillesさんありがとう。
すばらしい読書会かつ授業でした。
369考える名無しさん:03/07/04 17:55
age
370考える名無しさん:03/07/04 19:10
↓情けねえやつ。一生2ちゃんねるの中で、一人でもがいていろ。

367 名前:考える名無しさん :03/06/03 00:57
gillesさん、あんたは男の中の男だ。
まるで2chの便所掃除をボランティアで黙々とやり続けているかのようでした。。

お二人ともありがとうございました。



371Gilles:03/07/08 21:25
今ごろノコノコまた顔を出すのはみっともない気もするが、やはり一言。

淡々と訳文を作っていた仏語5級氏に対してならともかく、こちらにまで謝辞を投げて
下さった皆さん、あらためて感謝します。

ここはフランス語原文を訳すスレだったけれども、哲学的テクストはもちろん日本語
でも読めるし、そもそも日本語で書かれているものもたくさんある。やたらと難解な
もの、見掛け倒しのもの、はたまた辛気臭いものなどいろいろあるだろう。が、どん
なものでも文字通り「便所掃除をボランティアで黙々とやる」(368氏)程度の気力さ
えあれば、有限の時間内には必ず読み終えられる。

ここにレスをつけながら教えられたのは、2ch という場所はそういうことをするのに
案外向いている所だということだ。いつでも参加でき、いつでも去ることができる。
もちろん、始めたからには仏語5級氏のように誰かがある程度持続しないと意味がない
けれど、最後はまた仏語5級氏のように「あきたらやめ」ればよい。

そういう試みがあちこちで始まれば、2ch(でなくともよいが)だってまだまだ捨てた
ものではないと思う。また、そうすれば、2ch を便所として軽蔑(?)する必要もなく
なるだろうし、370氏のようなツッコミも気にしなくてよくなるだろう。

ならお前がやれ、と言われそうだし、ごもっとも。が、いろいろ事情があって難しい。
とはいえ、もしこのスレのような形で何かのテクストを―日本語であれ、それ以外の
言語であれ―じっくり読んでみようという試みが現われれば、ぜひ参加させてもらい
たいし、もっと別の誰かがレスをつけてくれるだろう。そういうものを望んでいる
「2ちゃんねらー」も、実は、少なくはないと思う。
372考える名無しさん:03/07/12 20:46
>>371
こういうときこそ、「激しく同意」とい言葉がぴったり!
373山崎 渉

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄