ドゥルーズ『ベルクソンの哲学』を勝手に訳すスレ

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1仏語5級
ぼくが直訳で全訳をめざす。
マターリマターリやる。誤訳があれば「ゼヒ」教示していただきたい。
訳を載せるだけで基本的にコメントはしない。気分によってはする。
質問があればベルクソンスレ・ドゥルーズスレですれば識者が答えるでしょう。
ぼくでは答えられないので・・・・
宇波訳を参照する。辞書は白水社のLe Dico
相対的に正確な直訳で日本語のみでドゥルーズを理解したい全国の
一般人のためになる訳にしたい。
とにかく理解したい人が理解できる訳にする。
あきたらやめます。
2考える名無しさん:02/09/28 13:17
>あきたらやめます。

おいおい(w
3考える名無しさん:02/09/28 13:17
100も行かずに終わる悪寒
4仏語5級:02/09/28 13:29
【1】 ジル・ドゥルーズ『ベルクソンの哲学』
    
    第1章 方法としての直観
 持続、記憶、エラン・ヴィタールは、ベルクソン哲学の重要な諸発展段階を示す。
この書物の目的は、この3つの概念の関係および、この3つの概念が含む発展段階を
規定することにある。

【コメント】諸発展段階に「諸」を付けるか迷った。宇波訳は「3つの」と意訳して
文意をわかりやすくしている。ぼくりは以外と堅苦しいかもしれない。
しかし、ぼくの実力では意訳するとボロがでまくるのでやはり直訳がいいかも
今日はこれまで。マターリいくぜ 道はながい
5ド検4級:02/09/28 14:38
おいきみ!勇気をありがとう!>仏語5級
俺も読解スレ立てるぞ!
6欝むく哲房:02/09/28 14:49
>>1
癌枯れ!!
7考える名無しさん:02/09/28 15:10
ベーコンのことかいた奴が読みたい
8考える名無しさん:02/09/28 16:10
>>7
ベーコン論もいまだに邦訳が出ないね、短めなのに。図版が多いから、
出たら出たで、かなりの値段になりそう。原書なんて、A4版くらいの
大きさで、2冊組(片方は図録)の箱入り。最近新しく図版をほとんど
省いた簡易版が出たけど、やはり図版は必須。夏休みに読もうと思って、
結局、暑さで挫折…。秋になったことだし、あらためて読み始めようと
思っている。邦訳するには、やはりキーとなるいくつかの概念の訳語を
規定しなくてはならないだろうけど、そのあたりがむずかしそうだ。
9 :02/09/28 17:45
ganbare
10考える名無しさん:02/09/30 00:14
>>4
一行目の「諸発展段階」の原語はetapes、二行目の「発展段階」の原語はprogres(両方ともアクサン省略)。
厳密に直訳で行くなら訳し分けないとならんでしょ。で、etapesは「諸段階」あるいは
「三段階」、progresは「進展」がよいかと(「発展」はdeveloppementにとっておく)。
あと「3つの概念が含む」の「含む」の原語impliquerはここでは英語のinvolve
に近い意味でとって良いと思う。したがって、これらの点を踏まえて修正するとこんな感じ

第1章 方法としての直観
 持続、記憶、エラン・ヴィタールは、ベルクソン哲学の重要な諸段階を示す。
この書物の目的は、この3つの概念の関係および、この3つの概念に伴う発展を
規定することにある。
1110:02/09/30 00:23
自分で「進展」がいいと書いておきながら直していなかった…
再修正


第1章 方法としての直観
 持続、記憶、エラン・ヴィタールは、ベルクソン哲学の重要な諸段階を示す。
この書物の目的は、この3つの概念の関係および、この3つの概念に伴う進展を
規定することにある。

12考える名無しさん:02/09/30 01:22
>>1
Le Dico悪くないけど、所詮初級者用。
ロベールにしたら? ちょっと高いか?
ならロワイヤル。
13考える名無しさん:02/09/30 02:19
5級で挑戦か・・すごい無謀だな。
せめて3級ぐらいからにしろよ。
14考える名無しさん:02/09/30 03:32
どうせならタイトルも『ベルクソンの哲学』じゃなくて『ベルクソニスム』に
して欲しいなあ。原義に忠実に。百歩ゆずって英語読みの『ベルクソニズム』で。
15仏語5級:02/09/30 09:05
>>10>>14
アドバイスありがとうございます。
両者か提示された訳のほうがぼくのより適訳だと思います。
このような指摘はやる気がでてくるので、お暇なときは随時指摘していただければ感謝深謝
あとはこのスレを興味を持ってロムっている人が各自判断いただきたい。
本当に興味を持ってロムっている人ならぼくが言わずとも、10氏と14氏の意見を
採用するでしょう。
16仏語5級:02/09/30 09:34
【2】第一章の第2段落
 直観は、ベルクソン哲学の方法である。直観は、感情、霊感(インスピレーション)
、あいまいな共感ではなく、入念に作られた方法であり、哲学のなかで最も入念に作
られた方法の一つでさえある。

【コメント】霊感の原語はinspiration。霊感の語感がわからんかったから、
インスピレーションを括弧してのっけた。「あいまいな共感」は宇波訳では「混乱した共感」
だけど、「混乱した」じゃ日本語では語感がうまくつたわらないと思う。原語は
confuse。で対義語は白水社ラルースはclair(はっきりした)。
「はっきりした共感」と言う場合の反義語は「あいまいな共感」だとおもったので
「あいまい」にした。最後、「哲学のなかで」が宇波訳では「彼の哲学の方法のなかで」
となっている。「方法のなかで」は宇波氏が文意をわかりやすくするためにしたと思う
けど「彼の」は原文にはない。欧語は省略が多いから前文のdu bergsonisme
が省略されたのか。ここはわからない。
17Gilles:02/09/30 17:54
>最後、「哲学のなかで」が宇波訳では「彼の哲学の
>方法のなかで」となっている。「方法のなかで」は
>宇波氏が文意をわかりやすくするためにしたと思う
>けど「彼の」は原文にはない。欧語は省略が多いか
>ら前文のdu bergsonismeが省略され
>たのか。ここはわからない。

いや、仏語5級の訳が正しい。(宇波の訳は信用しなくてよい)

「直観は、ベルクソン哲学の方法である」の方法には定冠詞がついてる。
つまり、「まさしくベルクソン哲学の核心的方法だ」という意味であって、
いくつも方法があるなら、こういう言い方はしない(という話は、直後の
文脈からも確認できる)。

ここでわざわざドゥルーズがこういうことを言ってるのは、ベルクソン哲学
は「あいまい」で「神秘主義的」で「いい加減」だ、というような理解を
する人たちにあらかじめ釘をさすため。「哲学(全体)のなかで(いろいろ
な人がいろいろな方法をとなえているが、そのなかでも)最も入念に作られ
た方法の一つでさえある」というニュアンスだ。

とにかく、がんばれよ!

18考える名無しさん:02/09/30 18:03
>>18
宇波の訳って、いい加減だなってことがのっけから露呈しているね。
でもあいつドゥルーズの本たくさんほかにも訳しているよ……(溜息)。
『意味の論理学』だけでいいから、少しずつだれか、別のスレ作って
載っけていってくれんかな……。なんて思いました。横割り失礼。
19仏語5級:02/10/01 08:23
【3】第一章の第二段落のつづき
直観には、直観の厳密な諸規則があり、この諸規則は、ベルクソンが哲学における《明確さ》
と呼ぶものを構成する。直観とは、つまりベルクソンが方法的に理解しているような直観とは、
すでに持続を前提としており、ベルクソンがこの点を強調していることは事実である。

【コメント】訳についてはとくにない。ただ所有形容詞や代名詞を「それ」とか
「それが」とだけ訳さず、「それ」の指し示すものをくり返しになっても訳すよう
にした。そうしたほうが読み手は誤読しないし、ぼくの誤訳を指摘しやすいだろう。
>>17Gillesd氏へ
アドバイスありがとうございます。17を読んでから原文にもう一度あたると、よく
原文の語感が響いてくるように感じます。
20Gilles:02/10/01 13:19
>19
誤訳はないと思う。ただ、precision を《明確さ》と訳すのは
ちょっと語感的に難があるかもしれない。個人的には「厳密さ」
とか「厳格さ」としたいところだ。(たぶん、直前の regles
strictes を「厳密な諸規則」と訳したから、「厳密さ」は避け
たんだと思うが)

precis(e), precision にはたしかに「明確」というニュアンス
があるんだが、ここで言われていることは、哲学の方法として
「これ以外には考えられない、(その意味で)誤りようがない」
という話なので、上のような訳語のほうがベルクソンの意図には
近い。

今、手元に岩波文庫しかないんだが、『哲学の方法(思想と動く
ものIII)』の冒頭で「哲学に最も欠けているのは厳密性である」
と訳されてるのも precision じゃないだろうか。(誰か原文もっ
てたら教えてくれ)
21Gilles:02/10/01 13:19
【余談】
昨日書いたこととも一部重なるが、ドゥルーズはベルクソンに
対する一般的イメージをひっくり返そうといろんな手を使っている。

第1章の表題は「方法としての直観」だが、「方法」という言葉
をフランス哲学の文脈で代表するのはやはりデカルトだ。ある意味
でベルクソンと対極に位置するようなデカルト的キーワードをもっ
くるという手法を、ドゥルーズは意識的にとってるわけだ。

(これが深読みでないことは、巻末の「目次」を見るとはっきりする。
カッコの中に「方法の5つの規則」とあり、第1章ではそのとおり、
5つないし6つの規則が述べられるが、これはデカルトの『精神指導の
規則(Regulae ad directionem ingenii)』を意識したパロディー)。

この後も、マルクスやニーチェやカントなどを想定した話が出てくるが、
どれもドゥルーズの「戦略」であるわけで、その点はあらかじめ考慮し
ながら読むほうがいいと思う。

なお、ついでに言っとくと、本書の第2章、第3章、第5章がそれぞれ、
持続(主に『意識の直接的所与についての試論』)、記憶(主に『物
質と記憶』)、エラン・ヴィタール(主に『創造的進化』)を論じる
という形で、第1文目の予告が果たされることになっている。

「直観」はこの三者に「方法論的に」先立つものであるという話がこの
後しばらく続く。その意味でも、宇波の「彼の哲学の方法のなかで」と
いう訳は致命的といえる。(いろいろすばやく訳してる点は評価しな
きゃいけないと思うが、誤訳は誤訳だ)
22仏語5級:02/10/02 20:27
>>19の修正訳から
【3】第一章の第二段落のつづき
直観には、直観のきびしい諸規則があり、この諸規則は、ベルクソンが哲学における《厳密さ》
と呼ぶものを構成する。直観とは、つまりベルクソンが方法論的に理解しているような直観とは、
すでに持続を前提としており、ベルクソンがこの点を強調していることは事実である。

【コメント】Gilles氏のアドバイス>>20を受けて修正した。precision の訳語は、
20を読んでかつ、河野訳「思想と動くもの」を自分で確認して納得したので、strict
の訳語をどうするかたいへん迷った。「厳密さ」と語感がかぶらないにしたかったが、
類語国語辞典などみても適当とおもわれるのは見つからず(類語はだいたい「厳」とか「密」の
漢字を使用している)、やむおえずstrictは「厳しい」ではなくて「きびしい」とした。
この点については、ぼくとしてもいまだ迷っているが暫定的にこうした。
2つ目の文の「方法的」も「方法論的」としてGilles氏の訳を採用した。
こちらのがスッと頭に入ると思う。
>Gilees氏へ
いろいろな情報は大変にべんきょになります。
23仏語5級:02/10/02 21:09
【4】第一章の第二段落のつづき
《持続に関するこれらの諸考察は、私にとって決定的と思われた。これらの諸考察によって、
徐々に私は、直観を哲学の方法として立ち上げていった。最も、直観という言葉に対して私
も長い間躊躇した》(注1)。

(注1)ベルクソン『思想と動くもの』河野与一訳 岩波文庫 P43

【コメント】ここは、ベルクソンの文章を引用した箇所である。「注」を訳すかどうか
すごいまよったが引用箇所を提示している場合は訳すようにしたい。それ以外も、なるべく
訳す努力はしたい。河野訳はたいへん参考になった。3つ目の文は、河野訳そのままにした。
自分で一回訳してから、河野訳を見たらあまりに見事なので自分の訳は不採用にした。
一応3つ目のぼくの拙訳を載せておこう
「そもそも直観とは、私はさんざん迷った末に採用した言葉である。」

今回文章では「私は」が3回でてくるが、原文ではnous(英語のwe)。これは英語でいう
editorial’we’だろう。河野訳も「私」なので、それにしたがった。
最後の文「最も」は原語はd’ailleurs。この語を前文の
「説明ないし正当化(最も、そもそも)」か前文の「逆説(しかし)」と取るか迷った。
宇波訳は「しかし」。河野訳は「最も」。
文脈上やはり前文の補強をしていると判断して河野訳にしたがった。
24Gilles:02/10/03 00:55
>>22
> 2つ目の文の「方法的」も「方法論的」として
> Gilles氏の訳を採用した。

脇からいろいろゴチャゴチャ言ってすまぬ。
昨日はうっかり「方法論的に」と書いてしまったが、素直に訳せば、
>>19 の訳文どおり、「方法的に(methodiquement)」だろう。
最終的な判断は任せるが、methodologique(ment) との区別をつける
とすれば、訳し分けたほうがいいかもしれん。

もひとつ。
河野訳、手元のやつは古い版なんだが、「最も」の箇所は「尤も」。
つまり、意味としては、宇波訳と同じニュアンス(逆接)なのだ。
ベルクソンの後の文脈では、「直観という言葉に最終的には
落ち着いたんだけど、でも、決めるまでは迷いましたよ。
(だって、直観とかいったらシェリングなんか思い浮かべ
ちゃうでしょ、ふつー。それは、困るわけ)」と続く。

その意味で、>>23 の「そもそも…」以下の仏語5級の訳は、
「そもそも」を「ただ」とか「しかし」、「とはいえ」などに
変えれば、非常に素直かつ正確な訳だと思う。
25ちんぴょろすぽーん:02/10/03 00:57
<font size=5>現在と過去が共存しているんだー!
26仏語5級:02/10/04 17:58
>>19および>>22の修正訳から
【3】第一章の第二段落のつづき
直観には、直観のきびしい諸規則があり、この諸規則は、ベルクソンが哲学における《厳密さ》
と呼ぶものを構成する。直観とは、つまりベルクソンが方法的に理解しているような直観とは、
すでに持続を前提としており、ベルクソンがこの点を強調していることは事実である。

【コメント】再度Gilles氏のアドバイス>>24を受け方法論的を方法的に変えた。
方法論的/方法的の違いが気になり、国語辞典と仏仏辞典にあたってみた。以下はその結果

岩波国語辞典4版 
方法的 :方法に関するさま
方法論的:科学の方法そのものに関する論理的な反省、知識のあり方に関する批判・検討
     を任務とする、学問分野
LAROUSSE lexis 1975年の出版だと思う
『methodique』
se dit de quelqu’un qui raisonne、qui agit selon 
certains principeset dans un ordre voulu.
『methodologie』
Partie de la logique qui etudie a posteriori
les methodes des differentes sciences et 
leurs types de connaissances
上記を見て、方法的/方法論的とmethodique/methodologie
は意味的にだいたい対応しているのではないかと思った。


27仏語5級:02/10/04 18:07
>>23の修正訳
【4】第一章の第二段落のつづき
《持続に関するこれらの諸考察は、私にとって決定的と思われた。これらの諸考察によって、
徐々に私は、直観を哲学の方法として立ち上げていった。しかし、直観という言葉に対して私
も長い間躊躇した》(注1)。

(注1)ベルクソン『思想と動くもの』河野与一訳 岩波文庫 P43

【コメント】Gilles氏のアドバイス>>24により「最も」を「しかし」に訂正。
あとこれはぼくのミスだが、新しいほうの河野訳では「最も」ではなく「もっとも」
となっている。ぼくが勝手に「最も」と漢字変換しました。
Gilles氏の適切なアドバイスには毎回感謝します。つうか、毎回丁寧なレスして
もらってスマナイナァと思うばかりでありますです。
28仏語5級:02/10/04 18:27
【5】第一章の第二段落のつづき
そして、ベルクソンは、ヘフディングに次のような手紙を書いていた。《あなたが持続の
理論よりも遥かに拘っている直観の理論は、持続の理論よりもずっと後になってやっと、
私の眼前に現れたのです(注2)。》

(注2)へフディングへの手紙 1916(cf.Ecrits et Paroles、t、3、p.456)
   
【コメント】「拘っている」の原語はinsister。訳語を「強調する」か「拘っている」
かどちらか迷ったがこうした。注2で示しているEcrits et Parolesは、
白水社のベルクソン全集の8か9巻に入っているかもしれない。けどぼくは知らないので、
そのまま原文をのっけた。

いままでのとりあえずの訳文のレスを示す。>>11>>16>>26>>27
29Gilles:02/10/04 19:28
【余談】
>>27
>Gilles氏の適切なアドバイスには毎回感謝します。
>つうか、毎回丁寧なレスしてもらってスマナイナァと思
>うばかりでありますです。

まぁ、こっちも好きでやってることだから、気にせんでくれ。

【提案1】
今のうちは最初のほうなのでいいが、この後、「第一章第二段落のつづき」
とかいう書き方だと、書くのも面倒だし、探すほうも大変だと思うので、
今後は、「原著/邦訳の該当箇所」だけをあげたらどうだろう?

【提案2】
同じような理由で、注についても、まずはドゥルーズの指示どおり、
「l'edition du Centenaire, 再版の該当箇所」をあげ、確認した
ものについては、岩波文庫なり、白水社版全集の該当箇所を付け足す
ようにしたらどうだろう?

面倒かもしれないが、後で見なおそうと思ったときに便利だし、ベル
クソンの原文をもってる人からの情報が期待できる。
(引用の文脈がわからないと訳しにくいことがままある)
30Gilles:02/10/04 19:41
>>29
>(注2)へフディングへの手紙 1916
>(cf.Ecrits et Paroles、t、3、p.456)
(細かいことだが、「t、3」ではなく「t. 3」とすべき)

(Harald) Höffding は、1843-1931年、デンマークの哲学者らしい。
http://www.xrefer.com/entry/552322
(だから、本国での綴りは ö じゃなく ø になるようだ)

ネット上で調べると、1916年にデンマーク語からフランス語に訳された
『ベルクソンの哲学 提示と批判』という本が出ているらしい(ベルク
ソンからの書簡を含む)。

推測だが、上の「1916」というのは「1916(年の書簡)」ということ
じゃないか。誰か Ecrits et Paroles をもってるやついねーか?
31考える名無しさん:02/10/04 19:53
もうだめぽ
32考える名無しさん:02/10/05 02:31
あふぉ
33考える名無しさん:02/10/05 04:32
白水社の全集持ってるので、訳のっけとく。

「直観の理論、貴下はそれについて持続の理論について以上に多く
論評を加えておられますが、それは、持続の理論よりもはるかに長い
時間を経たあと私の脳裡にあらわれたものであります。」

1916というのは、へフディング「ベルクソンの哲学」 に、この手紙が引用
されているため。

じゃ、ちょくちょく覗かせてもらうつもりなので、がんばってね。
34Gilles:02/10/05 05:26
>>33
> 白水社の全集持ってるので、訳のっけとく。

> 1916というのは、へフディング「ベルクソンの哲学」 に、
> この手紙が引用されているため。

引用感謝。
35仏語5級:02/10/06 12:53
とりあえず>>28の修正訳から
【5】第一章の第二段落のつづき
そして、ベルクソンは、ヘフディングに次のような手紙を書いていた。《あなたが持続の
理論よりも遥かに拘っている直観の理論は、持続の理論よりもずっと後になってやっと、
私の眼前に現れたのです(注2)。》

(注2)へフディングへの手紙 1916(cf.Ecrits et Paroles,t.3,p.456).
   
【コメント】Gilles氏の指摘>>30により「、」を「.」に修正。
      打ち間違いには気を付けよう
36仏語5級:02/10/06 13:07
Gilles氏へ
Gilles氏の提案1・2を読ませていただき、次回からそのようにしたいと思います。
ただ「第一章の第二段落のつづき」とやったのは、原書また邦訳書を持ってない人は、
あとで訳文のところを自分で編集する時、どこで段落が切れるのかわからないだろうと
思ったのでつけてました。ので、この表示をいっしょに併記したいとおもいます。
ページを記さなかったことは、ぼくが、訳文をチェックしてくれる立場の人への
理解がなかったと思います。早い段階での指摘に感謝します。

例 【 】第 章の第 段落のつづき(原書/00 邦訳/00)

のような感じにしたいと思います。マイナーチェンジには常に開かれていますので、
随時アドバイスがあればください。

>>33氏へ
情報感謝します

37仏語5級:02/10/06 13:30
Gilles氏の提案2>>29に従い注の表記を以下のようにする。

【例】(注1)PM,1271,25.岩波文庫43

最初のPMは書名の略記号。次の数字はl'edition du Centenaire(ベルクソン生誕百年記念版)
のページ数。その次の数字は再版の該当箇所のページ数。最後の「岩波文庫43」は、確認できた
邦訳書の出版社名とページ数。場合により訳者も明記する。

【書名の略記号】
DI『意識に直接与えられたものについての試論』1889
MM『物質と記憶』1896
R 『笑い』1900
EC『創造的進化』1907
ES『精神のエネルギー』1919
DS『持続と同時性』1922(第四版からの引用)
MR『道徳と宗教の二源泉』1932
PM『思想と動くもの』1941
38仏語5級:02/10/06 13:49
さらに>>28>>35の修正訳から
【5】第一章の第二段落のつづき
そして、ベルクソンは、ヘフディングに次のような手紙を書いていた。《あなたが持続の
理論よりも遥かに拘っている直観の理論は、持続の理論よりもずっと後になってやっと、
私の眼前に現れたのです(注2)。》

(注2)へフディングへの手紙 1916(cf.Ecrits et Paroles,t.3,p.456).
   
【コメント】スゴイ細かいことだけど、「.」を「.」と間違えた。
Gilles氏へ
もう確認済みかもしれませんが、PMの冒頭の厳密性の訳語はやはりprecisionでした。
本屋で冒頭文だけ暗記してきました。一応挙げときます。
Ce qui a le plus manque a la philosophie,c’est la precision.
39Gilles:02/10/07 12:35
>>36 >>37
> ただ「第一章の第二段落のつづき」とやったのは、原書また
> 邦訳書を持ってない人は、あとで訳文のところを自分で編集
> する時、どこで段落が切れるのかわからないだろうと思った
> のでつけてました。ので、この表示をいっしょに併記したい
> とおもいます。
>
> 例 【 】第 章の第 段落のつづき(原書/00 邦訳/00)
> 【例】(注1)PM,1271,25.岩波文庫43

なるほど、段落番号にはそういう意味があったか。

↑の方式、いいと思う。
(というか、ここまでやる仏語5級には頭下がる)

> Gilles氏へ
> もう確認済みかもしれませんが、PMの冒頭の厳密性の
> 訳語はやはりprecisionでした。

情報感謝。この調子でがんばってくれ!
40考える名無しさん:02/10/07 14:17
良スレ感動しますた
41仏語5級:02/10/07 19:22
【6】第1章の第3段落(原書/2 邦訳/4)
 しかし、この二つの理論に前後があることには、大きな意味がある。直観が、持続あるいは
記憶と比べて二次的であることは確かである。しかし、これらの概念(訳者注:持続と記憶)
が、それら自体によって、実在や生きられた経験を指し示すとしても、これらの概念(訳者注:
持続と記憶)は、(科学の厳密さと類似の厳密さで)実在や生きられた経験を『認識する』た
めのいかなる手段をも依然として与えはしない。奇妙なことに、ベルクソンに固有な意味での、
方法としての直観が厳密に言って存在しないならば、持続は、語の通常の意味で、単に直観的
なままに留まるだろうと言う事ができる。

【コメント】一つ目の文章は、宇波訳が優れていたのでそれに従った。訳者注は、文中に入れるか
入れないか迷った。どうだろうか。『』は、原文では、イタリック体の単語である。宇波訳では、
その語に傍点が振ってある。訳語で迷ったのは「実在」。原語はdes realites。辞書
を引くとdesが付いているので訳語は「事実・現実のものごと」となっている。「実在」という
訳語の場合はla realiteと定冠詞が付くのではないか。des realitesは、
複数形なので、抽象的なニュアンスでなく、具体的な目の前の「ブツ」を感じさせるような訳語
でなくてはいけないのではないか。だから、「実在」という哲学のタームは違うのじゃないかと
思った。しかし、ベルクソンの有名な文章「砂糖水が飲みたければ、砂糖が水に溶けるのを待た
なければならない」。このような体験をdes realitesと呼ぶなら、「実在」というの
は、日本語の語感としても通るのではないのかと思った。「実在」をla realiteと取
るかdes realitesとるかは、仏語話者にとって各自違うのかもしれない。
ベルクソンにとっては、やはり「実在」=des realitesだと思う。あんまり自分でも
わかってないが、すこし拘ってみました。「生きられた経験」の宇波訳は単に「経験」。
vecues(生きられた)が抜けているが、確信的にしたのだろうか。
ここもわからない。ちなみにexperience vecueは、白水社ラルースで
「体験・生きた経験」と出ていたが、あえて上記のようにした。
42Gilles:02/10/07 20:59
>>41
> しかし、この二つの理論に前後があることには、大きな意味がある。
> ...
>【コメント】一つ目の文章は、宇波訳が優れていたのでそれに従った。

これは誤訳だと思う。まず最初の「しかし(Mais)」だが、
これは前のページ(原書1頁)の

「直観とは、つまりベルクソンが方法的に理解しているような直観とは、
すでに持続を前提としており、ベルクソンがこの点を強調していることは
事実である」( >>26【3】参照)

を受けている。「〜ことは事実である」を(この訳を訂正する必要はないが、
流れを明確にするためにあえて)訳しかえると、「たしかに、ベルクソンは
直観がすでに持続を前提することを強調している(つまり、一見すると、
(1)持続>(2)直観という順序に見える)」→「しかし、...」と続いている
わけだ。

「しかし、先か後か(一番目か二番目か)という違いには大きな意味がある」
(言いかえれば、ベルクソンの注意にもかかわらず、直観が持続や記憶に「先
立つ」ことを強調する必要がある)

>>41 の【コメント】であげられた訳語の理解はそのとおりだと思う。
(宇波訳で「生きられた」が抜けている理由は言うまでもない...)
43Gilles:02/10/07 21:00
【余談】
直観と持続の先後関係という、この辺の話はわかりにくいかもしれない。
ドゥルーズの論法は、例えば、カントの『実践理性批判』序文における
存在根拠と認識根拠の区別を思わせなくもない:

自由: 道徳法則の「存在根拠(ratio essendi)」
道徳法則: 自由の「認識根拠(ratio cognoscendi)」

「もし我々の理性において、道徳的法則が自由に先立って明確に
考えられていないとしたら、我々は自由なるものを(たとえ自由が
自己矛盾を含まないにせよ)想定する権利が我々にあるなどと思い
はしないだろう。しかしまた自由が存在しないとしたら、道徳的法
則は我々のうちに決して見出されはしないだろう」(岩波文庫版 18頁)

これにならっていえば、持続は直観の存在根拠であり(持続がなければ
そもそも直観などというものも「在り」えない)、直観は持続の認識
根拠である(直観がなければ持続を持続として認識しえない)、という
ことになるだろう。ある意味では一方が他方に先行し、またある意味で
は両者は互いに条件づけあっているとも言える。
44仏語5級:02/10/08 19:35
>>41の修正訳
【6】第1章の第3段落(原書/2 邦訳/4)
 しかし、先か後か(一番目か二番目か)という違いには大きな意味がある。直観が、持続ある
いは記憶と比べて二次的であることは確かである。しかし、これらの概念(訳者注:持続と記憶)
が、それら自体によって、実在や生きられた経験を指し示すとしても、これらの概念(訳者注:
持続と記憶)は、(科学の厳密さと類似の厳密さで)実在や生きられた経験を『認識する』た
めのいかなる手段をも依然として与えはしない。奇妙なことに、ベルクソンに固有な意味での、
方法としての直観が厳密に言って存在しないならば、持続は、語の通常の意味で、単に直観的
なままに留まるだろうと言う事ができる。

【コメント】Gilles氏のアドバイス>>42-43により修正。
痒いところに手が届く説明は大変わかりやすいです。
「前か後ろか」と「先か後か」は、確かに違いますね。
45仏語5級:02/10/08 20:10
【7】第1章の第3段落のつづき(原書/2 邦訳/4)
絶対に《厳密な》学問としての哲学を確立するために、ベルクソンが直観という方法
に期待していたことは事実である。絶対に《厳密な》学問としての哲学とは、科学の
領域と同じ厳密さを自らの領域においても有し、科学自体と同じように空間的時間的
に延長可能であり、かつ科学自体と同じように互換可能な哲学のことである。

【コメント】今回のは原文では一文だが、訳文では二つの文にわけた。訳語に苦労した。
学問の訳語はdiscipline。宇波訳は理論となっている。しかし、domaine
は、すぐ後に出てくる科学という学問=disciplineを意識して使っていると
思ったので訳語は理論でなく学問とした(他に専門分野・学科とあって迷った)。
「空間的時間的に延長可能」はprolongeable。「互換可能」はtransmissible。
宇波訳はそれぞれ「拡大させたり」「別のところで用いうる」となっている。
この二つの訳語に関してはぼくはさっぱりわからない。後者の訳語は
「伝達可能」とかはすぐ思いつくけど文脈上どうなのかなぁとか思う。
もっと相応しい訳語があるんじゃないかと思う。
46仏語5級:02/10/08 20:16
>しかし、domaine

このdomaineはdisciplineです。打ち間違えた
47Gilles:02/10/09 12:22
>>45
いつもご苦労さん。

> 【7】第1章の第3段落のつづき(原書/2 邦訳/4)
> ... 絶対に《厳密な》学問としての哲学とは、科学の領域と同じ厳密さを
> 自らの領域においても有し、科学自体と同じように空間的時間的に延長可能
> であり、かつ科学自体と同じように互換可能な哲学のことである。

まずは細かいことだが、

aussi precise dans son domaine que la science dans le sien

は直訳すれば「自らの領域においては、科学がその領域においてもつ
のと同様の厳密さをもち、」くらいだろう。ここでは2つのことが同時
に主張されている。第1に、哲学と科学は同様に厳密であること、第2に、
それぞれの厳密さはそれぞれの領域に限ったものであり、したがって、
一方の厳密さの規準を他方の厳密さの規準にすることはできないこと。
48Gilles:02/10/09 12:23
【続き】
prolongeable:
prolonger という動詞を辞書で見ると、たしかに「[時間・空間的に]
伸ばす、延長する」などの訳語があたっている。が、ここでは「個別の
対象・事例や個々の哲学者を越えて一般的な事象やすべての哲学者に
拡張しうる」という意味あいではないか。とすれば、「拡張可能」など
の訳語が考えられる。

tranmissible:
言うまでもなく transmettre の基本的意味は「伝達する」だ。素直に
「伝達可能」でよいと思う。これは、「秘教的(esoterique)」とか、
「神秘(主義)的な(mystique)」とかと対比して考えればよい。一人の
哲学者が考えたことの意味が、他者に対して十全に伝達可能であるとい
うことが、「学問」というものの成立条件だと考えられているわけだ。
(またカントの話になるが、例えば『判断力批判』第39節「感覚の伝達
可能性について」参照(岩波文庫では「与り得るということ」と訳して
るが、原語は Mitteilbarkeit < mitteilen 伝達する)
49仏語5級:02/10/10 19:19
>>45の修正訳
【7】第1章の第3段落のつづき(原書/2 邦訳/4)
絶対に《厳密な》学問としての哲学を確立するために、ベルクソンが直観という方法
に期待していたことは事実である。絶対に《厳密な》学問としての哲学とは、自らの
領域においては、科学がその領域においてもつのと同様の厳密さをもち、科学自体と
同じように拡張可能であり、かつ科学自体と同じように伝達可能な哲学のことである。

【コメント】Gilles氏の指摘>>47-48により修正。
とくに「拡張可能」と「伝達可能」のニュアンスについてはGilles氏の解説>>48
を参照すべし。
Gilles氏へ
訳語の理解はぼくは変な風に理解してたっぽいです。読んでなるほどと思いました。


50仏語5級:02/10/10 20:00
【8】第1章の第3段落のつづき(原書/2 邦訳/4)
したがって、直観という方法的な糸がなければ、持続、記憶、エラン・ヴィタールの関係
は、認識の視点からは、未規定に留まっていただろう。このような全ての点から、きびし
い、あるいは厳密な方法としての直観を論議の前面に出さなくてはならない(注3)。

(注3)『意識に直接与えられたものについての試論』と『物質と記憶』における、
直観という言葉の用法および直観という概念の成立過程については、次の書物を参照。
M.Husson,L'intellectualisme de Bergson,
Presses Universitaires de France,1947,pp.6-10.

【コメント】はじめにでてくる「したがって」の仏語は「et(英and)」。この文章は前文の
「結果・帰結」だと判断して「したがって」にした。「糸」の仏語は「fil」。他の訳語に
「(話や思考の)筋道、脈絡」があったが、「糸」にもそういうニュアンスが含まれている
と判断した。「論議」の仏語は「expose」。この訳語も迷った。他の訳語に「報告・発表」
などがあるが、文脈上どうだろうか。論議という訳語は自分が調べた仏語辞書には出ていな
かったが宇波訳で採用されていたのでとりあえず従った。「きびしい」の仏語はrigoureuse。
strictの訳語でも「きびしい」としたので迷ったが、preciseの訳語「厳密さ」に読み手の注意
が行くようにしたかった。3つを訳しけるとするとprecis=厳密さ、strict=厳格さ、
rigoureuse=厳正さ となり、仏語はそれぞれ綴りが全く違うからいいかもしれないが、
日本語だとみんな同じ語感を引き摺ってしまう。しかも まだsevereもある。この3つを厳密に
訳しわけることが日本語での本書の理解にとって決定的な何かがあるなら訳し分けたいが、
そうでないなら、precisに目立つ訳語を与えたい。どうでしょうか。
51Gilles:02/10/11 13:13
>>50 (50越えたな)

et:
たしかに「結果・帰結」の意味を含むと思う。が、この章の冒頭で予告した
内容との関係もあるだろう。「また、直観という方法的な糸がなければ、(最初
に言った)持続、記憶、エラン・ヴィタールの関係(という話)もはっきりしない
ままになるだろう」

expose:
上に書いたことと関連するが、ここで実質的に念頭におかれているのは、本書
自体のこと。(訳文【1】>>4 参照) 辞書の訳語からはやや外れるが「(以下
のようなベルクソン哲学についての)論議、議論」という訳は、特に問題ない
と思う。

rigoureux/se:
ベルクソン自身に由来する precis(e) にドゥルーズがかなり重きをおいてる
ことはたしかだ。が、strict や rigoureux/se が軽いということでもない
と思う。
ちなみに、rigoureux/se は、フッサールの論文『厳密な学としての哲学』を
訳すときに使われる(strenge Wissenschaft --> science rigoureuse)語
でもある。(いつもややこしいことを言ってスマヌ)
52仏語5級:02/10/12 20:20
>>50の修正訳から
【8】第1章の第3段落のつづき(原書/2 邦訳/4)
また、直観という方法的な糸がなければ、持続、記憶、エラン・ヴィタールの関係は、
認識の視点からは、未規定に留まっていただろう。このような全ての点から、厳正な、
あるいは厳密な方法としての直観を論議の前面に出さなくてはならない(注3)。

(注3)『意識に直接与えられたものについての試論』と『物質と記憶』における、
直観という言葉の用法および直観という概念の成立過程については、次の書物を参照。
M.Husson,L'intellectualisme de Bergson,
Presses Universitaires de France,1947,pp.6-10.

【コメント】Gilles氏のアドバイス>>51により修正。
冒頭文との繋がりはわからなかった。文脈を理解する際に、気が付かないところから別の
文脈を提示されるとハッとする。
strict,rigoureuxの訳語は、どうしようかいまだにわからないが、やはり訳し分け
をしたほうがよいかもしれない。また、その時に考えよう。
Gilles氏へ
毎回ありがとうございます。質問なのですが、ドゥルーズは言葉の選択に際して、独語を
意識した書き方をしているのでしょうか。日本人が、哲学用語の日本語の裏に欧米語を透かし
見るような感じでしょうか。

53仏語5級:02/10/12 20:55
【9】第1章の第4段落(原書/2-3 邦訳/4)
最も一般的な方法論的問題とは次のことである。方法というものには、本質的に一つ
あるいは複数の媒介を伴うのだから、何よりもまず直接的認識を指し示すものである
直観は、どのようにして方法に成ることができるのか、という問題である。ベルクソン
は、しばしば単純な行為として直観を示している。

【コメント】「方法というものには」はla methode。「方法に成る」の方の「方法」は
une methode。前者のlaを「総称:というもの」と解釈した。後者のuneと対照的に使わ
れているのかと思ったが、後者をどう訳していいのか分らなかった。ので、そのまま、
une methodeを「方法」と訳した。「伴うのだから」の「だから」は、une fois dit que。
辞書の訳語はune fois+過去分詞等で「いったん何々したら」となっている。だから「いったん、
何々を言われたら」となる。しかし、direの熟語でil est dit que・・・で、
「・・・に決まっている」というのがある。で、この熟語のil estの部分が省略されて、une fois
とくっ付いたのだと思った。だから、ditは、「言われている」じゃなく「決まっている」の
ニュアンスかなと考えた。で、une fois dit queの訳語を「だから」とした。宇波訳は「と言われる以上」。
どっちでもいいような気もする。読みづらかったらスイマセン。
54Gilles:02/10/13 02:47
>>52
> ドゥルーズは言葉の選択に際して、独語を意識した書き方を
> しているのでしょうか。日本人が、哲学用語の日本語の裏に
> 欧米語を透かし見るような感じでしょうか。

ドゥルーズがドイツ語を意識してたかどうかはよくわからない。
(実際のところ、彼はどの程度ドイツ語とかできたんだろう?
ニーチェやカントなんかはオリジナルで読んだんだろうか)

が、彼の前の世代のフランス語圏の哲学が、フッサールやハイデ
ガーの哲学にかなりの影響を受けてたことは確かだし、ドゥルーズ
だって好むと好まざると影響はうけただろう。これは一般的な話。

それから、この本に関しては、ベルクソン自身が、先行世代による
新カント派受容を意識しつつ仕事していたことも考慮しておいていい。

細かい話は、正直なところ、よく知らんのだが、「日本人が、哲学
用語の日本語の裏に欧米語を透かし見る」ようなことはしょっちゅう
あるんじゃないかと思う。もっともその「透かし見」られる外国語は
ドイツ語に限らず、ラテン語やギリシア語であることも多いだろう。

ただ、>>51 でフッサールのことを言ったのは、rigoureux/se が哲学
の文脈で使われている一例としてあげただけのこと。

>>53 の訳はこんな感じでいいと思うが、「方法というものには、本質
的に一つあるいは複数の媒介≪が≫伴う」としたほうがよくない?
(日本語として)
55ななしさん:02/10/13 03:24
浅田によれば、、、どこでだったかはわすれたが、、
ドゥルーズは語学ができない。だから、どっちかっていうと
フランス語でカントや何かを読んでいたと考えてよい。
ああ、そっか、ベーコンを バコン!と呼んでいたのは有名か。
浅田によると、語学ができない人があれだけドイツの哲学を
読めた(笑い)のには驚かされる、と。まあ、眉唾程度にあつかってね。
56Gilles:02/10/13 03:39
>>55
なるほど。

ま、語学だけできりゃいいってもんじゃないからな。

翻訳でも、できがよければ、読むテクストとしては十分だ。

逆に、自分の母語で書かれたテクストだって、例えば、西田なんか
だったら、外国語のテクスト読んでるのと変わらん気がする。
57考える名無しさん:02/10/13 04:19
2ちゃんに来て初めてまともなスレを見た。
ヂルと五級頑張れ。
58仏語5級:02/10/14 23:56
>>53の修正訳
【9】第1章の第4段落(原書/2-3 邦訳/4)
最も一般的な方法論的問題とは次のことである。方法というものには、本質的に一つ
あるいは複数の媒介が伴うのだから、何よりもまず直接的認識を指し示すものである
直観は、どのようにして方法に成ることができるのか、という問題である。ベルクソン
は、しばしば単純な行為として直観を示している。

【コメント】Gilles氏の指摘>>54により修正。日本語は難しい。
Gilles氏および55氏へ
ドイツ語云々についての情報ありがとうございます。
59仏語5級:02/10/15 00:40
【10】第1章の第4段落のつづき(原書/3 邦訳/4-5)
しかし、ベルクソンによれば、単純性とは、質的・潜在的な多様性および、そのような
多様性が現実化する場である様々な方向を排除するものではない。この意味において、
直観とは、(訳者注:直観が何かを受容する際の)いろいろな受容の仕方と、他のものに還元
できない多様な視点を伴うものである。(注4)。

(注4)PM,1274-1275,29-30.

【コメント】ほぼ宇波訳に従った。訳者注としたのは、
原文がune pluralite D'acceptionのacceptionがquelqu'un accepte l'intuition
でなくて、l'intuition accepte quelque choseだと思ったので、そこのところが本文
だけだとわかりにくいと判断して注としてのっけた。なくてもいいと思う人は各自判断して
削除されたし。multipliciteは「多様性」。diversは「様々な」。pluraliteは「いろいろ」
と、それぞれ訳語をあてた。この点については意見のある人がいるかもしれない。
「他のものに」は意訳だが、宇波訳にあってこのほうが分り易いと思いそれに従った。
あとacceptationの訳語「受容」も迷った。

いままでのとりあえずの訳のレスを示す。
>>11>>16>>26>>27>>38>>44>>49>>52>>58


60Gilles:02/10/15 18:51
>>59
> 多様性が現実化する場である様々な方向
原文では des directions diverses dans lesquelles elle s'actualise.

(1) elle が指してるのを、直前の une multiplicite' ととったわけだな。
が、素直に、主文の主語である la simplicite' を受けてるととったほうが
いいように思う(内容的にそれほど変わるわけではないが)。

(2)「〜する場である方向」: 念のため言っとくと、dans lesquelles の
dans は「dans toutes les directions(あらゆる方向≪に≫)」の「に」
に相当する。これが関係節の中に入ってるとき、どこまでしっかり訳すかは
文脈や判断によるだろう。くどく訳せば、「〜が現実化する、その様々な方
向」とか「〜が現実化する際の様々な方向」ってな感じだ。「〜が現実化す
る様々な方向」だとちょっとだけすっきりするが、節同士の関係はやや不明
瞭になる(これは日本語の構造上の宿命みたいなもんだ)。

原文の構造を適当に変えて「〜が様々な方向に現実化すること」と訳す手も
あるが、直訳をかかげるこのスレの趣旨からは外れてしまうことになるな。
さらに、une multiplicite' と des directions の並列関係(というか、
言い換えの関係)もぼやける。

ま、要点はこういうことだろう:
「単純性(単一性)は、質的・潜在的な多様性、つまり、この単純性が様々
な方向に現実化することを排除するものではない。」
61Gilles:02/10/15 19:11
>>59
【続き】
> この意味において、直観とは、(訳者注:直観が何かを受容する際の)
> いろいろな受容の仕方と、他のものに還元できない多様な視点を伴う
> ものである。(注4)。
> (注4)PM,1274-1275,29-30.

une pluralite' de ... は「複数(ou 多数)の〜」のほうがいいん
じゃないかと思う。(例えば、第4章の「一つの持続か複数(ou 多数)
の持続か」などとのつながりをたもつためにも)

acception(s) は「[語の場面・文脈に応じた]意味;語義,語意」と
『ロワイヤル』にはある(仏仏だと: sens particulier d'un mot,
admis et reconnu par l'usage)。「受容の仕方」という訳もわからん
ではないが、素直に「複数の意味(合い)...を伴う」でいいと思う。
注4の該当箇所(原書 p.1 の引用箇所のすぐ後)を見ると、まさしく
直観のさまざまな「意味」の話をしている。
62仏語5級:02/10/16 18:38
>>59の修正訳
【10】第1章の第4段落のつづき(原書/3 邦訳/4-5)
しかし、ベルクソンによれば、単純性とは、質的・潜在的な多様性、つまりこの単純性
が現実化する際の様々な方向を排除するものではない。この意味において、直観とは、
複数の意味と、他のものに還元できない多様な視点を伴うものである。(注4)。

(注4)PM,1274-1275,29-30.

【コメント】Gilles氏の指摘>>60-61により修正。acceptionをacceptationと勘違いして
そのまま訳してしまった。かなり反省しました。でも、宇波訳も「受容の仕方」と訳してる。
宇波氏もどうみても同じ勘違いをしてるのだろう・・・。dansの解釈は大変示唆的で、ぼく
にとっては「あっなるほど」と思い、べんきょになった。elleの指し示すものについての
解釈もべんきょになった。これは文法云々というよりちゃんと文脈を追えてるかどうかを試
されるところだと思った。自分の読みはまだまだだなぁと。今回は誤訳が多かったので反省ですな。

>une multiplicite' と directions の並列関係(というか、言い換えの関係)もぼやける。

これもぼくは分かってなかった。「et」でなくて「,」だからなのでしょうか?

63仏語5級:02/10/16 19:14
【11】第1章の第4段落のつづき(原書/3 邦訳/5)
ベルクソンは、本質的に、方法の諸規則を規定する三種類の行為を区別している。第一の行為
は問題の提起と問題の創造に関係し、第二の行為は、真の質的な差異の発見に関係し、第三の
行為は実在的時間の理解に関係する。一般的な方法論的問題に答えるために、生きられた行為
としての直観の単純性が見出されなくてはならない。そして、それは、どのように意味から意
味への移行がなされるのか、(訳者注:意味から意味への移行の際の)《基本的な意味》とは
何なのか、を明らかにすることによってである。

【コメント】2つ目と3つ目の文章は原文では一つ。色々迷って二つの文に分けた。訳者注は、
le sens fondamentalのleが、d'un sens a l'autreを指してると考えて、文意がわ
かり易くなるようにした。たぶんそうだと思う。
64Gilles:02/10/16 21:17
>>62
> > une multiplicite' と directions の並列関係(というか、
> > 言い換えの関係)もぼやける。
> これもぼくは分かってなかった。「et」でなくて「,」だからな
> のでしょうか?

断定的に書いてしまったが、たぶんそういうこと。「A et B」でなく
「A, B」となってれば常に言い換え、とまでは一般化できないだろう
けど、経験的にはそうなることが多いような気がする。(アイマイで
スマヌ)

>>63
ほとんど異論ないが、訳者注はちょっと違うと思う。

上の「三種類の行為」のそれぞれが、次の段落から始まる、3つの規則(第1と
第2の「補完的規則」を合わせると5つ。>>21で「5つないし6つ」と書いたのは
間違い)に対応するんだが、「根底的な意味(le sens fondamental)」と直接
関連するのは、第3の規則。原書 p.22、第3の規則の直後「この規則は直観の
『根底的な意味』を示している...」と、そのすぐ後の注3を見てほしい(参照先
は、p.3の注1とほぼ同じ)。ここを見ても分かるように、直観が含意する複数
の意味は、根底的・基礎的・基底的な意味としての持続へとふたたび関係づけ
られる(fondamentalの訳語はどうしてもヘヴィになってしまうが、文字通り、
「fontとなる」という意味だ)。

「どのように(ある)意味から(別の)意味への移行がなされるのか、また、
(そのように複数ある意味のうちの)どれが(ベルクソンの言う)≪根本的な
意味≫なのか、を明らかにすることによってである」

65仏語5級:02/10/18 18:21
>>63の修正訳
【11】第1章の第4段落のつづき(原書/3 邦訳/5)
ベルクソンは、本質的に、方法の諸規則を規定する三種類の行為を区別している。第一の行為
は問題の提起と問題の創造に関係し、第二の行為は、真の質的な差異の発見に関係し、第三の
行為は実在的時間の理解に関係する。一般的な方法論的問題に答えるために、生きられた行為
としての直観の単純性が見出されなくてはならない。そして、それは、どのようにある意味か
ら別の意味への移行がなされるのか、また、(訳注:そのように複数ある意味のうちの)どれ
が(訳注:ベルクソンの言う)≪根本的な意味≫なのか、を明らかにすることによってである。

【コメント】Gilles氏の指摘>>64により修正。訳注も大変わかりやすいので採用させてもらった。
文章を理解する前提となるコンテクストの分り易い提示には毎回感謝します。
ここで、ベルクソンPMの当該箇所を確認できない人のために少し引用します。
原書のPMを持ってないのでわからないけど、たぶんこの部分だと思う。
PM岩波文庫P48-50
『そこで直観については私に単純な幾何学的な定義を要求しないようにしていただきたい。
私がこの言葉を、たがいに数学的に演繹することのできない幾つかの意味にとっているこ
とを示すのは非常に容易であろう。<ほぼ1ページ略>しかも基礎的な意味が一つある。す
なわち、直観的に考えるとは持続のなかで考えるということである。』
66仏語5級:02/10/18 18:33
【12】第1章の第5段落(原書/3 邦訳/5)
 第一の規則:『諸問題そのもののなかで真偽の検証を行い、偽の諸問題を暴き出し、諸問題の
レベルに合った真理と創造の調和を行う。』

【コメント】『』の中の文章は原文ではイタリック体。
67Gilles:02/10/18 22:46
>>66
いつもごくろうさん。

> 諸問題そのものの中で真偽の検証を行い、

Porter l'epreuve du vrai et du faux dans les problemes eux-memes だ
から、dans は「〜の中へ」ということじゃないだろうか。porter は「持ち込む」
という意味だろう。

> 諸問題のレベルに合った真理と創造の調和を行う

reconcilier verite et creation au niveau des problemes

「真理と創造を諸問題の次元において調和させる」くらいの意味ではないか。
(スマン、今忙しくて、後の文脈を詳しく見る時間がないので、あてずっぽう
でしか書けん)
68Gilles:02/10/19 18:17
>>67 の続き

> 諸問題そのものの中で真偽の検証を行い、

これに直接関連する話は、原書p.5の下半分あたりに出てくる:
問題(probleme)/解答(solution)のうち、解答について真偽を定義するのは
比較的容易だが(「正しい答/誤った答」)、問題の提起それ自体に真偽とい
う規準を適用することは困難であるように見える。ベルクソンの功績は、問題
そのものの中で「偽の内在的規定」を試みた点にある(ベルクソンの言う「偽
の〔=誤った〕問題」)。

ということなので、やはり「諸問題そのものの中へ真偽の検証を持ち込み、」
くらいの訳が妥当かと思う。
69Gilles:02/10/19 18:17
【続き】

> 諸問題のレベルに合った真理と創造の調和を行う

これも同じ段落の最初で「だが、問題の中にあるこの構成的能力(pouvoir
constituant)を、いかにして真なるものの規範〔性〕と調和させるのか?」
と書いてあるのと関連している。

「創造(creation)」は、この前後で「発明/発明する(invention/inven-
ter)」「自由(liberte)」「決定する能力(pouvoir de decision)」等々に
パラフレーズされているが、このような語が「勝手に作る」というニュアン
スを孕むかぎりで、「真(理)」という語に含意される「規範性(=勝手に
変えられない)」と矛盾するように見える、というわけだ。

ベルクソンが示すのは、(1) 問題自体が真偽との内在的連関を含んでおり、
≪あるべき≫≪立てられてしかるべき≫問題となること(規範性)、また、
(2) このような問題の提起のみが問題の「創造」と呼びうること(自由)、
であり、この両者が「諸問題(そのもの)の次元において」調和できると
いう見通しだ――とドゥルーズは理解している。
70考える名無しさん:02/10/20 21:18
うーむ、2ちゃんにこんな利用法があったとは。
頑張れ仏語5級氏!そして口出ししたくてうずうずしている識者のみんな、
見てないで書き込め!
71仏語5級:02/10/20 22:54
>>66の修正訳
【12】第1章の第5段落(原書/3 邦訳/5)
 第一の規則:『諸問題そのものの中へ真偽の検証を持ち込み、偽の諸問題を暴き出し、
諸問題(そのもの:訳注)の次元において真理と創造の調和を行う。』

【コメント】Gilles氏の指摘>>67-69により修正。
Gilles氏へ
忙しい中丁寧な注釈ありがとうございます。Gilles氏の注釈は折々再読三読させて
もらい自分の翻訳のノートに書き込んで活用させてもらってます。



72仏語5級:02/10/20 23:49
【13】第1章の第6段落(原書/3 邦訳/5)
確かに、真偽が(訳注:諸問題の)諸解決にのみ関係し、諸解決と共にのみ真偽が始まる
と考える点は間違っている。この偏見は、社会的である(なぜなら、社会とその社会の諸命
令を伝える言語活動(ランがージュ)は、《国家の役所の書類ケース》から出てきたかのよ
うな出来合いの諸問題をわれわれに《与え》、かつわれわれには僅かな自由の余地を残すだ
けで、出来合いの諸問題を解決することをわれわれに強いるからである)。

【コメント】最初の文「考える点は間違っている」の「点は」はavoir le tort de。
辞書には「〜という点で間違っている」。avoir tort deは「〜するのは間違いである」。
微妙に違う。同じにもみえるけどぼくにはあんまわからん。「諸解決と共に」はavec 
les solutions。avec(英with)を「〜と共に」か「〜によって」か迷ったがカントの
「経験と共に〜」というフレーズの真似かなと思い「〜と共に」にした。《国家の役所の
書類ケース》は《cartons administratifs da la cite》。はじめさっぱりわからなく
宇波訳(都市の行政区画)も納得できかねた。基本的に《》内の文章はベルクソンに拠るもの
と考え、かつ緒論(第二部)がよく引用されるのでそこから探してみたら原書はもってない
のでなんともいえないが、ほぼ次の文章からドゥルーズが引用していると思った。
PM岩波文庫P74-75
「つまり、あらゆる真理はすでに潜在的には認識されていて、その原型はこの国家の役所の
書類綴に収められていて、哲学は、社会がわれわれに渡した片片でもって、社会が見せよう
とはしてくれない図形を作り直すパズルの遊びだというようなことになる。」
の「国家の役所の書類綴」の部分がcartons administratifs da la citeと思う。
文脈的にも一致すると思う。「書類綴り」は辞書に「書類ケース」とあったのでそっちにした。
国家は都市とどっちか迷った。最後のジェロンディフも解釈に迷った。「言語活動」も
「言語」でもいいような気がしたがソシュールを意識してるのかどうかはぼくには分らない
ので一応上記のようにした。「出来合い」はtout fait(英ready-made)。宇波訳は
「全部出来上がった」。これはおかしいと思った。
73仏語5級:02/10/21 06:58
【13】の「諸解決」は「諸解答」と修正訳で直します。
74Gilles:02/10/21 22:19
>>72
en effet
「確かに」という訳語はあるが、これは「本当に(そうだ)」という意味。
何となく「確かに」の後には、「しかし...」と続きそうな感じがしてしま
う。「実際、」くらいでどうだろう。

avoir le tort de ...
辞書の文例などから帰納すると、「〜という間違いを犯す」とか「〜した
のはよくなかった」などという意味で使われるらしい。de + inf. の部分
が既に生じた行為や態度であるという意味で、定冠詞がつくんじゃないか
と思う。

前の部分から続けると、「実際、我々は真偽が(訳注:諸問題の)諸解答
にのみ関係し、諸解答と共にのみ真偽が始まると考える点で間違っている」
か「〜と考える間違いを犯している」くらいだろうか(ほとんど仏語5級
の訳のまま)。
75Gilles:02/10/21 22:20
(続き)

cartons administratifs de la cite:
言及箇所は、仏語5級のあげてある箇所と見ていいだろう(La pensee et le
mouvant の原書持ってる人、確認願う!)。問題は cite の訳語だと思う。
いろいろ調べたがようわからんかった。が、ロワイヤルには「官庁街」の意味
で cite administrative という例があがっていたので、「お役所の(行政文
書を入れる)書類箱」ということではないかという気がする。

細かいことだが、langage は「言語」でも十分だろう。もし「言語活動」と
括弧内を残すなら、「ランがージュ」を「ランガージュ」に直す必要あり。

ジェロンディフの訳は上の訳でいいと思う。
76考える名無しさん:02/10/22 01:29
>>75
PUFの原初見てみますた。
言及箇所は仏語5級氏が挙げてるとこでばっちりあってます。
そのままles cartons administratifs de la citeです。
citeはGilles氏のおっしゃるように「お役所」って感じですね
77Gilles:02/10/22 02:02
>>76
早速の情報、感謝。
ついでにPUF版(つまり >>37 でいう「再版」)のページ数なんかも
あげてくれるとありがたいのだけど。

>仏語5級氏へ
参照箇所がわかると後で便利なので、修正訳では「cartons ...」の
該当箇所に、訳注として該当ページを入れてはいかが?
7876:02/10/22 20:28
>>77
失礼しました。
PM、1292、51.
です。 
79仏語5級:02/10/22 23:45
>>72の修正訳
【13】第1章の第6段落(原書/3 邦訳/5)
実際、真偽が(訳注:諸問題の)諸解答にのみ関係し、諸解答と共にのみ真偽が始まる
と考える点で間違っている。この偏見は、社会的である(なぜなら、社会とその社会の
諸命令を伝える言語は、《お役所の書類箱(訳注1)》から出てきたかのような出来合
いの諸問題をわれわれに《与え》、かつわれわれには僅かな自由の余地を残すだけで、
出来合いの諸問題を解決することをわれわれに強いるからである)。

(訳注1)PM、1292、51.岩波文庫74

【コメント】Gilles氏と76氏>>74-78により修正。感謝深謝であります

80仏語5級:02/10/23 00:04
【14】第1章の第6段落のつづき(原書/3 邦訳/5)
その上さらに、この偏見は、子供じみているし、いかにも学校の教科書的な図式性がある。
つまり、生徒の仕事が、(訳注:与えられた諸問題の)解答の発見であるなら、その諸問題
を《与える》のは、学校の先生なのである。このことによって、われわれは、一種の隷属状
態に抑え付けられている。

【コメント】「いかにも学校の教科書的な図式性がある」はscolaire。意訳も意訳だが、他に
思いつかなかった。より適訳がありそう。「学校の先生」はmaitre d'ecole。直訳すれぱ
「小学校の先生」だか、宇波訳も学校としてるし、なんとなく小学校じゃ合わないんじゃない
かなぁと思い「学校の先生」とした。2つ目の文の現在分詞の絶対分詞節というんでしょうか、
なんとなく言ってることはわかるんだけど、それが日本語にするとどんな感じにすればいいのか
迷った。
81Gilles:02/10/23 13:04
76氏へ >>78
情報提供感謝!(edition du Centenaire のページまで!)

仏語5級氏へ
>>79 【13】の修正だが、「実際、」のあとに「われわれは」がないと後と
のつながりが変な感じになってしまう。(はっきり書かなくてスマン)

>>80
「いかにも学校の教科書的な図式性がある」 言わんとすることはだいたい
そういうことだろう。が、さすがに意訳すぎるなあ。かといって、こちらも
代替案があるわけではない。最近、このスレの読者も増えてるみたいだから、
何かいい案があれば出してくれ。

ロワイヤルの訳語を確認すると、「1. 学校[教育]の 2.《軽蔑的》教科書
的な;型にはまって独創性のない」となっている。意訳であることにはかわり
ないが、「子供じみているとともに学校教育によるものである」なんてのも
可能か。

分詞構文は、英語の場合とほぼ同様で(頻度は英語より多いような気がするが)、
並列、時間的順序、理由、譲歩等を表わす。だいたい上の訳でいいと思うが、
d'en decouvrir la solution の en は前の des problemes を受けてるので
原文の順序をそのままにして訳せば、訳注もいらなくなる。

maitre d'ecole は「小学校の教師」で別におかしくない。直前の infantile
(子供じみた)にも合う。ただ、わざわざ「小学校」にする必要もないだろう。

「つまり、学校教師が諸問題を《与え》、生徒の務めはその解答を発見する
こと、というわけだ。」

82考える名無しさん:02/10/23 13:05
これって本当か?

↓ ↓ ↓
http://www.dream-express-web.com/space-trust.htm
83仏語5級:02/10/24 23:27
>>72>>79の修正訳
【13】第1章の第6段落(原書/3 邦訳/5)
実際、われわれは真偽が(訳注:諸問題の)諸解答にのみ関係し、諸解答と共にのみ真
偽が始まると考える点で間違っている。この偏見は、社会的である(なぜなら、社会と
その社会の諸命令を伝える言語は、《お役所の書類箱(訳注1)》から出てきたかのよ
うな出来合いの諸問題をわれわれに《与え》、かつわれわれには僅かな自由の余地を残
すだけで、出来合いの諸問題を解決することをわれわれに強いるからである)。

(訳注1)PM、1292、51.岩波文庫74

【コメント】Gilles氏の指摘>>81により再修正。

 日本語はムズイなあ。
84仏語5級:02/10/24 23:34
>>80の修正訳
【14】第1章の第6段落のつづき(原書/3 邦訳/5)
その上さらに、この偏見は、子供じみているとともに学校教育によるものである。つまり、
学校教師が諸問題を《与え》、生徒の務めはその解答を発見すること、というわけだ。
このことによって、われわれは、一種の隷属状態に抑え付けられている。

【コメント】Gilles氏の指摘>>81により修正。シンプルになり冗長さが減った。
85仏語5級:02/10/24 23:47
【15】第1章の第6段落のつづき(原書/4 邦訳/5-6)
真の自由は、決定する能力、つまり問題そのものを構成する能力の中にある。
この能力は、《ほとんど神的》であり、偽の問題の消滅も、真の問題の創造的
な出現も、全く同じように伴っている。

【コメント】特にないと思う。「消滅」は宇波訳は「開花」。これはおかしいと思った。

いままでのとりあえずの訳文のレス
>>11>>16>>26>>27>>38>>44>>49>>52>>58>>62>>65>>71>>83>>84
86Gilles:02/10/25 17:41
>>84
いつもごくろうさん。

> Gilles氏の指摘により修正。シンプルになり冗長さが減った。
あくまでも訳案なので、もっといい訳があれば、それにしてほしい。
たしかにシンプルにはなったが、「学校教育による」とまではっきり
書いてしまっていいのか、疑問は残る。(もう少し比喩的なニュアン
スで言ってるのかもしれない)

>>85
> この能力は、《ほとんど神的》であり、偽の問題の消滅も、真の
> 問題の創造的な出現も、全く同じように伴っている。

「伴う」は、impliquer を訳すのに >>10氏が採用した訳語だったわけだが、
ロワイヤルの訳語をあげておくと、「含む、意味する、[結果として] 伴う、
予想させる」とある。つまり「直訳」の範囲内でもこれだけの訳語が利用可能
だということだ(訳語の統一という条件を除けば)。

【15】について言うと「意味する」あたりが一番すっきりするように思う。

「この ―(ベルクソンの言う[原書 p.4 の注を参照])「半ば神的な」
― 能力は、偽の(諸)問題の消滅と真の(諸)問題の創造的出現とを意味
している」くらいの意味だろう。

ちなみに上では(諸)問題としたが、個人的には、特に単複を明示する必要
がないかぎり、諸問題などとしなくてもいいと考えている。

> 「消滅」は宇波訳は「開花」。

evanouissement と epanouissement を取り違えたわけね(苦笑)。
ゲラとか読んでおかしいと思わなかったんだろうか。それとも、原書の
初版にミスプリがあったとか? まさかね。
87仏語5級:02/10/26 11:32
>>85の修正訳
【15】第1章の第6段落のつづき(原書/4 邦訳/5-6)
真の自由は、決定する能力、つまり問題そのものを構成する能力の中にある。
この―《半ば神的な》― 能力は、偽の問題の消滅も、真の問題の創造的出現
も、全く同じように意味している。

【コメント】Gilles氏の指摘>>86により修正。「諸」については今回は付け忘れただけだった
りする(汗。しかし、Gilles氏の言う通り「諸」はなくてもいいのかなぁとも思う。ないほうが、
スッと頭に入るのは事実だし。宇波訳・PMの河野訳でも、まずでてこないし。
「諸」をつけてた/つけてるのは、単に自分の語学力がないから判断できない故に「諸」と
付けてただけでもある>>4。で以後、必要に応じて「諸」に対応したいと思います。
あと、直訳を基本方針とするのは、ぼくが意訳する能力のない故に
であり基本的には消極的理由でもあります。
impliquerの訳語も「伴う」一辺倒はまずかったかも。
訳語の選択にはフレキシブルになろー。

>evanouissement と epanouissement を取り違えたわけね(苦笑)。

宇波訳には個人的にハッとさせられる部分が多々ありますが、ケアレスミスも多そうであります。
不思議な訳本だなぁと思う。
88仏語5級:02/10/26 12:05
【16】第1章の第6段落のつづき(原書/4 邦訳/6)
《哲学においてはもちろん他の場合においてさえ、問題を解決することよりも、問題を
見出すこと、したがって問題を提起することがいっそう重要であることは真実だ。なぜ
なら、思弁的問題は、正しく提起されてさえすれば、解決されているからである。私が言
いたいのは、問題の解答は、隠れていていわば覆われたままになっているとしても、そ
の時(訳注:問題が正しく提起されていれば)ただちに存在しているということ、つまり
解答を発見しさえすればよいのである。しかし、問題を提起することは、問題を発見する
ことだけでなく、問題を発明することでもある。

【コメント】今回と次回はPMの引用である。冒頭の「《 」が終わってないことに注意。
特に原書・邦訳を所持してない人は注意されたし。引用部分を一度に載せようとしたが多すぎるので
やめた。訳注の部分+「ただち」はaussitot。白水社ラルースのaussitotの項に「文脈に
示された「その時点からすぐに」の意味。発話時を基準とした「今すぐに」の意味では使
えない」と出ていた。で、文脈を訳注のように解釈した。alorsの訳語も微妙に迷った。
89Gilles:02/10/26 23:04
>>88
けっこう訳すにはややこしい箇所だ。

des que の個所は「正しく提起されさえすれば、すぐに解決される」く
らいのほうがいいんじゃないだろうか。

だいたい上の訳で問題ないと思うが、原文イタリックになってるところの
処理はどうする? trouver(見出す:すでに出来あがっているものを見つ
け出す、というニュアンス)と poser(提起する:まだ存在していないも
のを新たに創り出す、というニュアンス)の対比や、couvert(e)(覆われ
ている<couvrir)に対する DEcouvrir(発見する=覆いを取り去る、接
頭辞の de'- は言うまでもなく「分離・除去」などを意味する)の違いな
どは、やはり訳文でもわかるようにしておいたほうがいいだろう。(だいた
い今までは《 》とか『 』で示してきたので、今回は忘れてたということ?)

90考える名無しさん:02/10/27 14:14
これ古本屋で千円で買った。
91仏語5級:02/10/28 19:22
>>88の修正訳
【16】第1章の第6段落のつづき(原書/4 邦訳/6)
《哲学においてはもちろん他の場合においてさえ、問題を解決することよりも、問題を
『見出す』こと、したがって問題を『提起する』ことがいっそう重要であることは真実
だ。なぜなら、思弁的問題は、正しく提起されさえすれば、すぐに解決されるからであ
る。私が言いたいのは、問題の解答は、隠れていていわば覆われたままになっているとし
ても、その時(訳注:問題が正しく提起されさえすれば)ただちに存在しているという
こと、つまり解答を発見(=覆いを取り去る)しさえすればよいのである。しかし、問
題を提起することは、問題を発見することだけでなく、問題を発明することでもある。

【コメント】Gilles氏の指摘>>89により修正。est resoluの部分は、「される」か「されている」かは
迷っていて>>88では「されている」と状態性のニュアンスにしたが、Gilles氏の指摘を読み、
des queをparの代用みたいに考えるべきなのかなと思った。で、そうした。
『』がないことをGilles氏に指摘されましたが、また忘れてました。指摘に感謝します。何度も読み返して
はいるのだけど、訳してる時に全く意識に上らなかった。
couvrirとdecouvrirをどう訳文に反映させるかは、かなり安易だけど、上の訳文のようにした。
他に思いつかなかった(汗

92仏語5級:02/10/28 19:53
【17】第1章の第6段落のつづき(原書/4 邦訳/6)
発見は、現実的にせよ潜在的にせよ、既に存在しているものに関係する。
だから、発見は、遅かれ早かれ、現れていたに違いなかっただろう。
発明は、存在していなかったものに存在を与える、
だから、発明は、全く現れないこともあっただろう。

【コメント】今回はムズカッタ。前回と今回PMの引用部分をウプするといったが、ムズイので
予定変更。訳文は自分が説明し易いように上のようにした。各自があとで勝手に編集してください。
原文を挙げる。訳文とパラレルにしてある。
(1)La decouverte porte sur ce qui existe deja,actuellement ou virtuellement.
(2)elle etait donc sure de venir tot ou tard.
(3)L'invention donne l'etre a ce qui n'etait pas,
(4)elle aurait pu ne venir jamais.
基本的に(1)(2)の対と(3)(4)の対で構成されている。意味的にも文法的にもそうだと思う。
(1)現在形(2)後で述べるが条件法過去形の代用としての半過去形
(3)現在形(4)条件法過去形
よって(1)(3)を副詞節と、それに対する主節として(2)(4)と解した。

(つづく)
93仏語5級:02/10/28 20:19
条件法過去の例文と比較してみる(si+半過去形,条件法過去)
(A)S'il n'etait pas timide,il aurait ose le dire
訳:もし彼が内気な性格でないなら、そう言えただろうが
この例文を現在形で書いてみるとこうなる
(B)Il est timide, alors il n'a pas ose le dire
で、これを見て思ったのだが、【17】の文は、
(B)のIl est timide, と(A)のil aurait ose le dire
をクロスさせるような感じなのかなと思った。
Il est timide,il aurait ose le direという感じが(1)(2)と(3)(4)
の構成になっていると思う。(1)(3)で現在形で事実の提示をして、その結果として、
主節として(2)条件法過去の代用としての半過去と(4)で条件法過去を使っていると考えていい
のではないかと思った。で、(2)の半過去etaitを条件法過去serait eteの代用と取る理由だが
単純にフランス語ハンドブックP239とフランス語便覧P110にでてたからという理由もあるし、
半過去形を使う事により「真理への到達・実現性が高かった事を示す」「強調的用法」とかでてたから
まず間違いないのではと思った。その上で、この文脈で条件法過去をどう訳すかという問題はあまり
わからない。訳文にはあまり自信なし。以上つたないながらかつ中途半端なところですが
こんなところであります。やはり時制はムズイ。宇波・河野訳があるから素直にそれに従えばいいのだ
けれど時制は自分は苦手なので少しベキョウしてみました。
94Gilles:02/10/29 15:30
>>93
法と時制はたしかに難しい。日本語で出てる文法書なんかでは今一つ
ピンと来ないこともよくある(フランス語のものは見たことないので
何とも言えない)。経験的・帰納的に、この形はこういう意味なんだ
ろうな、と了解して納得してることも多いので、仏語5級のようにしっ
かり調べてくれるとこちらも助かる。時制の理解、上の感じでいいと
思う。

ただ、>>92 の訳で、「〜いたに違いなかっただろう」はちょっと
日本語としてわかりにくい。

> 発見は、遅かれ早かれ、現れていたに違いなかっただろう

sur(e) de inf. を「きっと、いずれにせよ、間違いなく〜する」
で訳し、「発見は、遅かれ早かれ、どのみち現れていたことだろう」
くらいでどうか。
95仏語5級:02/10/30 23:55
>>92-93の修正訳
【17】第1章の第6段落のつづき(原書/4 邦訳/6)
発見は、現実的にせよ潜在的にせよ、既に存在しているものに関係する。したがって、
発見は、遅かれ早かれ、どのみち現れていたことだろう。発明は、存在していなかった
ものに存在を与える、ゆえに、発明は、全く現れないこともあっただろう。

【コメント】Gilles氏の指摘>>94により修正。「だから」をそれぞれ「したがって」「ゆえに」
とも変えた。

96仏語5級:02/10/31 00:12
【18】第1章の第6段落のつづき(原書/4 邦訳/6)
すでに数学において、ましてや形而上学において、(訳注:問題を)発明する努力は、
多くの場合、問題を惹き起こすこと、つまり問題を提起する際に使用する言葉を創造
することである。問題の提起と問題の解答は、この場合ほとんど同じ意味である。す
なわち、真の大問題は、解決される時にしか提起されない》(注5)。

(注5)PM,1293,51-52,岩波文庫75
   (《半ば神的な状態》について,cf.1306,68,岩波文庫91).

【コメント】怠惰ゆえに今回はコメントなーし(汗。
97Gilles:02/10/31 15:33
>>96
ごくろうさん。今回の訳については、こちらも特にコメントなし。

次の箇所になると思うが、ドゥルーズは、上の引用の最後でベルクソンが
言っていることを、マルクスの発言と結びつけている。これは『経済学批
判』(1859)序文の、いわゆる「唯物史観の公式」の中にある。ちょっと
長くなるが、ドゥルーズが念頭においている文脈を知るためにも、引用し
ておこう。


98Gilles:02/10/31 15:37

「[p.13]人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意志から
独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関
係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが
現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の
社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、
政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなく
て、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。社会の物質的生産諸力は、
その発展がある段階にたっすると、いままでそれがそのなかで動いてきた既存の生産諸関
係、あるいはその法的表現にすぎない所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係
は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏へと一変する。このとき社会革命の時期がはじま
るのである。経済的基礎の変化につれて、巨大な上部構造全体が、徐々にせよ急激にせよ、
くつがえる。
99Gilles:02/10/31 15:38
このような諸変革を考察[p.14]するさいには、経済的な生産諸関係におこった物質的な、
自然科学的な正確さで確認できる変革と、人間がこの衝突を意識し、それと決戦する場と
なる法律、政治、宗教、芸術、または哲学の諸形態、つづめていえばイデオロギーの諸形
態とをつねに区別しなければならない。ある個人を判断するのに、かれが自分自身をどう
考えているかということにはたよれないのと同様、このような変革の時期を、その時代の
意識から判断することはできないのであって、むしろ、この意識を、物質的生活の諸矛盾、
社会的生産諸力とのあいだに現存する衝突から説明しなければならないのである。一つの
社会構成は、すべての生産諸力がそのなかではもう発展の余地がないほどに発展しないう
ちは崩壊することはけっしてなく、また新しいより高度な生産諸関係は、その物質的な存
在諸条件が古い社会の体内で孵化しおわるまでは、古いものにとってかわることはけっし
てない。だから、人間[die Menschheit]が立ち向かうのはいつも自分が解決できる課題
[Aufgaben]だけである、というのは、もしさらにくわしく考察するならば、課題そのもの
は、その解決の物質的諸条件がすでに現存しているか、またはすくなくともそれができは
じめているばあいにかぎって発生するものだ、ということがつねにわかるであろうから。」
(マルクス『経済学批判』岩波文庫 p.13f. [ ]内のドイツ語は原文により補ったもの)
100Gilles:02/10/31 15:55
「人間が立ち向かうのはいつも自分が解決できる課題だけである」

1) 岩波文庫訳の「人間」は、原文では die Menschheit、つまり総称
としての「人類」だ。ドゥルーズの l'humanite' と対応している。

この語からもわかるとおり、マルクスが念頭に置いているのは、かなり
長いスパンの歴史=人類史のようなものだ。後の話で、歴史や意識化の
話が出てくるのはこういうマルクスの文脈を意識したものだろう。

2) 岩波文庫訳の「課題」は die Aufgaben、ドゥルーズがどこから引用
しているのかわからないが、この部分は les problemes となっている。
ベルクソンの文脈に合わせたのだろう。(このスレの住人にマルクスの
仏語訳とかもってるやつはいないだろうけど、一般的な訳語は taches
じゃないだろうか)

この語(Aufgaben)は、マルクスのコンテクストが理論ではなく実践に
向けられていることとも対応している。この点も、前後の話に関係して
くるだろう。

ただ、ベルクソンとマルクスの発言は一見似ているが、それぞれの背後
にある論拠はずいぶん違ったものであることも確認しておく必要がある。
101Gilles:02/10/31 16:00
気がついたら、100ゲトしてた。

というわけで、>>3 氏の「悪寒」は外れた。
がんばれ、仏語5級!
1023:02/11/01 18:31
すみません。悪寒の3ゲッターです。
まれにみる硬派な良スレですね。
陰ながら両者を応援しています。

(一応お約束として)250までは
さすがにキビチイのではないかと
新たに予言させていただきます。
またその頃に現れることができ
るよう期待しています。

がんばって下さい。
103仏語5級:02/11/01 21:02
【19】第1章の第6段落のつづき(原書/4 邦訳/6)
数学の全歴史が、ベルクソンの正しさを示すだけではない。(訳注:上に引用した)ベルクソン
のテクストの最後の部分と、実践そのものと見なしうるマルクスの(訳注:次のような)よく引用
される文章を比較してみればよい。《人類は、自分達が解決できる問題のみを提起する(訳注2)。》
この二人の立場はどちらとも、問題とは既に存在している解答の影のようなものだ、と言っている
わけではない(文脈全体は、その逆のことを示している)。問題のみが重要だという考えは、
それに輪を掛けて主張されていない。

(訳注2)マルクス『経済学批判』岩波文庫14

【コメント】「見なしうる」はvalable。ちょっとわからない。「実践そのものとして通用する」
のがいいかも。「よく引用される」はformule。意訳ですな。定型表現とかきまり文句とかがあ
るが、なんかそれらの語感がマルクスを茶化してる感じがして・・・。ちょっと迷い中。マルクス
の引用文は仏語に従った。「それに輪を掛けて」はdavantage。意訳です(汗。前文との比較が
ちゃんと表れるように考えたが、いい訳語が思い浮かばなかった。宇波訳では、前文との比較は
訳文に反映されてない。要は、前文よりさらにそんなことはマルクスもベルクソンも言ってないよ。
ということがdavantageに託されていると思った。preexistantもちょっと迷った。「先に」とか
「あらかじめ(宇波訳)」とか。

100越えましたね。Gilles氏には三度感謝。応援してくれてる人にも感謝
地味に淡々といきたいですな
とりあえず251までは、あきないと思います(ワラ

104Gilles:02/11/02 18:44
>>103
formule は素直に訳せば「定式」だろう。たしかに「(よく使われる)
決まり文句、常套句」などの意味もあるが、文脈から考えて、ドゥルー
ズがマルクスを茶化しているとはちょっと考えにくいと思うのだが。
(ここではむしろかなりポジティヴに使われていると思う)。

valable pour は「〜に対して妥当する、〜に当てはまる」の意味。

「ベルクソンのテクストの最後の文を、マルクスの、まさしく実践に
かかわるあの定式と比較していただきたい」というくらいか。

davantage、preexistant も上の訳でわるくないと思う。

>>3 = >>102
応援に感謝。とはいえ、このスレは5級氏がいないと始まらんのだが。
250も単純計算だと年内には超えることになる。「地味に淡々と」、再度
3氏の「予言」を裏切ることを期待したい。
105仏語5級:02/11/03 12:38
>>103の修正訳
【19】第1章の第6段落のつづき(原書/4 邦訳/6)
数学の全歴史が、ベルクソンの正しさを示すだけではない。(訳注:上に引用した)ベルクソン
のテクストの最後の文と、マルクスの、まさしく実践にかかわるあの定式と比較していただきた
い。《人類は、自分達が解決できる問題のみを提起する(訳注2)。》この二人の立場はどちら
とも、問題とは、既に存在している解答の影のようなものだ、と言っているわけではない(文脈
全体は、その逆のことを示している)。問題のみが重要だ、という考えは、それに輪を掛けて主張
されていない。

(訳注2)マルクス『経済学批判』岩波文庫14

【コメント】Gilles氏の指摘>>104を受けて修正。
細かいことですが、Gilles氏の訳の「かかわるあの定式」は大変見事で、
特に「あの」がとても示唆的でべんきょになりました。

106仏語5級:02/11/03 13:28
【20】第1章の第6段落のつづき(原書/5 邦訳/6-7)
それとは逆に、重要なのは(訳注:問題の)解答である。しかし、問題の提起の仕方、
問題が問題として規定される際の諸条件、問題を提起するために自由に使用できる
能力と言葉、これらに応じて問題には、いつも問題に相応しい解答がある。この意味
において、人類の歴史は、理論の視点からも実践の視点からも、問題の構成の歴史で
ある。人類が、彼ら固有の歴史を創っているのはこの点においてであり、このような
活動を意識することは、自由を獲得するようなものである。

【コメント】「自由に使用できる能力と言葉」はdes moyens et termes dont on dispose。
宇波訳は「用いられる手段と媒体」。des moyensは複数形なので辞書に(知的・肉体的)能力、才能
と出てたし【15】>>87の「この―《半ば神的な》― 能力」の能力はpouvoirだが、これの言い換え
かなと思った。disposerの訳語は微妙にわからない。termesは宇波訳では「媒介」「項」「関係項」
等々と訳されている。でもやはり「言葉;(ある分野の)用語、術語[複数形で]言い回し」だと思う。
「問題の構成の歴史」はちょっと堅苦しい言い回しかもしれない。最後の文の
「意識することは」はprise de conscience。「意識する」「自覚する」「気づく」とあった。
これも微妙に迷った。

お知らせですが、これから一週間から十日間ほどパソコンを使えない生活となりますので、
その間、訳の更新が出来ません。もし、このスレが下に行き過ぎたらageて下さりますと
助かります。もしかしたら明日(月)の夜に時間があれば訳の更新が出来るかもしれません。
よろしくお願いいたします。

107Gilles:02/11/04 17:47
>>106
au contraire:
微妙な違いだが、「それとは逆に」だと、直前の文「問題のみが重要だと
いう考え」との対比がよくわからなくなる。「反対に、それどころか、む
しろ」あたりでどうだろう。

disposer de ...:
たしかに日本語に直しても今ひとつピンとこない単語の1つだ。
「〜を自由に使う(ことができる)=所有している」が辞書の訳語だが、
ここでは「利用可能な」などという訳も可能だろう。

des moyens et des termes:
termes は【18】>>96 で出てきたのと同じもので「言葉」でいいと思う。
問題は moyens だが、「能力」はちょっとまずいのではないか。このあたり
の文脈は「問題の創造(存在しなかったものを存在させること)」を軸にし
ている。だから【18】でベルクソンが creer les termes という言い方を
しているのは偶然ではなくて、哲学(における問題の提起)にはさしあたり
大抵の場合、問題の提起をおこなうべき適切な「言葉」すら存在していない、
という彼の状況認識が背後にある。その際、「言葉」は同時に、問題の創造
的提起を可能にする(しかしそれ自身も創造されなければならない)「手段」
ないし「条件」となる。

もし des moyens を能力と訳してしまうと、「創造」の前に存在しているも
のというニュアンスで受け取られかねない。

... est comme la conquete de la liberte:
comme を「いわば」と訳すのはどうだろう? 「いわば自由の獲得である」
108Gilles:02/11/04 17:54
>>108
> お知らせですが、これから一週間から十日間ほどパソコンを使えない生活
> となりますので、その間、訳の更新が出来ません。もし、このスレが下に
> 行き過ぎたらageて下さりますと助かります。

了解。これまで1ヶ月間、2日とあけず翻訳だったしな。
せいぜいリフレッシュしてくれ。
109仏語5級:02/11/04 22:20
>>106の修正訳
【20】第1章の第6段落のつづき(原書/5 邦訳/6-7)
むしろ、重要なのは(訳注:問題の)解答である。しかし、問題の提起の仕方、
問題が問題として規定される際の諸条件、問題を提起するために利用可能な
手段と言葉、これらに応じて問題には、いつも問題に相応しい解答がある。この意味
において、人類の歴史は、理論の視点からも実践の視点からも、問題の構成の歴史で
ある。人類が、彼ら固有の歴史を創っているのはこの点においてであり、このような
活動を意識することは、いわば自由を獲得である。

【コメント】Gilles氏の指摘>>107受けて修正。またも丁寧な説明感謝します。
ロワイヤル仏和中辞典を入手しまして、conscienceの項に
prise de conscience d'une difficulte financiere財政的困難の認識(自覚)
と出ていたのですが、prise de conscience を認識と訳すのはどうでしょうか?
「このような活動を認識することは、いわば自由を獲得である。」





110仏語5級:02/11/04 22:50
【20】第1章の第6段落のつづき(原書/5 邦訳/7)
(ベルクソンにおいて、問題という概念は、自らの概念の根源を歴史の彼方、即ち生命そのもの
あるいはエラン・ヴィタールの内にもつ、というのは事実である。困難を回避し、ひとつの
問題を提起し解決するという行為の内において本質的に規定されるのが生命である。有機体
の構造(の意味するところ:訳注)とは、問題の提起であると同時に問題の解答である。)(注6)

(注6)ベルクソンによれば、問題のカテゴリーが持つ生物学的重要性は、欲求という消極的なカテゴリーより
   遥かに大きい。

【コメント】訳注はなくてもいいかも。生命はvie。これは「生」か「生命」かよくわからない。
無難に「生命」とした。微妙に迷います。生の哲学か生命の哲学か
欲求はbesoin。宇波訳は必要となっている。これもどっちかはよくわからないが、生物云々と出て
きてるから欲求と一応訳した。

いま気づきましたが、修正訳だしたばかりの【20】の「いわば自由を獲得である」
を次回「いわば自由の獲得である」と修正します(汗。

>了解。これまで1ヶ月間、2日とあけず翻訳だったしな。
>せいぜいリフレッシュしてくれ。

ご理解感謝します


111Gilles:02/11/08 18:31
>>110

この辺の話が『創造的進化』のどこかにあるような気がして、いろいろと見返
してみたのだが、ざっと見ただけではそれらしい箇所が見つからなかった。特
に、有機体の construction が問題の提起であると同時に解答である、という
あたり。わかる人がいたら、教えてくれ。

問題の解答である、というのはよくわかる。「環境への適応」という言葉で説明
される現象を思い浮かべればよいだろう(そういう意味の説明は、だいたい『創
造的進化』にも出てくる)。が、問題の提起であるというのはどういう意味か?
いろいろ考えたが、正直言ってようわからんかった。問題の解答である以上、当
然「問題の提起」がなされているはずだから、という理由だろうか?

訳注の箇所が必要かどうかは、この部分の理解にもよるだろう。

besoin は欲求でいいと思う。

112考える名無しさん:02/11/08 23:47
>111

有機体の構築が、常に新しい創造であるところの問題を提起し、それに
自ら答えている。
113仏語5級:02/11/11 17:35
ということで、水曜から再開します。
Gilles氏および112氏適切な解説ありがとうございます。

「解答」「提起」については、今ぼくが読んでいて、ドゥルーズスレでも評判のいい
檜垣立哉『ドゥルーズ』のP58「問題としての世界」の部分がそうじゃないかと思いました。
あとconstructionをどう訳すかというのは、「解答」なら「構造」、「提起」なら「構築」
なのかなと思いました。その両方の意味を兼ね備えてるのかなと。思いつきですが(汗
有機体の構築が問題の提起で、その結果の有機体の構造が問題の解答と思った。
ただ112氏が「構築」を使っているので「構築」にしようかと思ってます。
檜垣氏の本で書いてあるけど確かにGilles氏の言うように『創造的進化』で
論じられているらしいですね。ぼくは積読状態ですが(汗

114Gilles:02/11/11 19:10
>112

レス感謝。もしこういうことをベルクソンが言ってる箇所がわかったら教えて
くれ。やはりよくわからんのは、「有機体の構築」が「問題を提起し」ている
として、どういう意味の「提起」になっているのか、という点。有機体が「解
答」を与えるような問題は、むしろ「環境」によって提起されているのではな
いのか? 違うとしたら、その論拠は何なんだろ、とかいうあたりがもひとつ
よくわからん。(ベルクソンを時間かけて読みなおしゃあいいんだが)

もしこの辺の物言いがドゥルーズの勇み足ではないとすると、ベルクソンの文
脈にそういう話があるはず。もしそれがわかったら教えてほしい。
115Gilles:02/11/11 19:15
>113

おかえり! ぼちぼちやろう。

檜垣氏の本は気になっていたが、そうか、そんなに評判いいんなら、ちょっ
と見てみよう。
116Gilles:02/11/11 19:58
話が前後してスマヌが、マルクスがらみでもう一言。

>>109
> ロワイヤル仏和中辞典を入手しまして、conscienceの項に prise de
> conscience d'une difficulte financiere財政的困難の認識(自覚)
> と出ていたのですが、prise de conscience を認識と訳すのはどうで
> しょうか?

可能だと思う。が、ひょっとすると「意識」という字面は残しておいたほうが
いいかもしれない。(ついでに、今気がついたんだが、>>110 は【20】じゃな
くて【21】だな)

【20】第1章の第6段落のつづき(原書/5 邦訳/6-7)
「この意味において、人類の歴史は、理論の視点からも実践の視点からも、
問題の構成の歴史である。人類が、彼ら固有の歴史を創っているのはこの
点においてであり、このような活動を意識すること[=このような活動の
意識化・自覚、このような活動の認識]は、いわば自由の獲得である。」

この最後の文、わかるようなわからんような話だが、たぶん、マルクスや
エンゲルスが、歴史のプロセスを「必然の国」から「自由の国」への移行
としてとらえようとしたこと、その移行が同時に、盲目的・無意識的状態
から計画的・意識的状態への移行として理解されていたことを、ドゥルー
ズは念頭においているように思える。
117Gilles:02/11/11 19:58
>>98-100 の引用以外にも、例えば、エンゲルス『空想より科学へ』の次の
ような発言を参照:

「社会による生産手段の没収とともに、商品生産は除去され、したがって
生産者に対する生産物の支配も除去される。社会的生産の内部における無
政府状態にかわって計画的意識的な組織があらわれる。… 人間自身の社会
的結合は、これまでは自然と歴史とによる強制として人間に対立してきた
が、今や人間の自由[90]行為となる。従来、歴史を支配してきた客観的な
外来の諸力は人間自身の統制に服する。こうなって、はじめて人間は完全
に意識して自己の歴史を作りうる、これより後、はじめて人間が動かす社
会的諸原因が、主として、またますます多く、人間の希望するような結果
をもたらすようになる。それは必然の王国[Reich der Notwendigkeit]
から自由の王国[Reich der Freiheit]への人類の飛躍である。」
(岩波文庫版、p.89f.)

マルクスの『資本論』にもこれと同じような用語が見られる:

「社会化された人間、結合された生産者が、この自然との彼らの物質代謝
によって盲目的な力によるように支配されることをやめて、これを合理的
に規制し、彼らの共同の統制のもとに置くこと、これを、最小の力支出を
もって、また彼らの人間性にもっともふさわしくもっとも適当な諸条件の
もとに、行なうこと[17] … しかし、これは依然としてなお必然性の国
[Reich der Notwendigkeit]である。この国の彼方に、自己目的として
行為しうる人間の力の発展が、真の自由の国[Reich der Freiheit]が、
といってもかの必然性の国をその基礎としてその上にのみ開花しうる自由
の国が始まる」(『資本論』岩波文庫版(九)p.16f.)

* ちなみに、「必然性の[王]国」と「自由の[王]国」という対比は、カント
『道徳形而上学原論』における「自然の[王]国(Reich der Natur)」と「目
的の[王]国(Reich der Zwecke)」にそれぞれ対応している。
118Gilles:02/11/12 12:59
   λ_λ    / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  ( `Д´) <  あーメンドクセェ
   /   ノつ  \__________
  (人_つ_つ
119考える名無しさん:02/11/12 13:40
>>118、わりとツボw
120考える名無しさん:02/11/12 14:40
有機体は、環境も含めてそういうことを言っている。
イマージュの定義と同じというか、総体のこと。
そこら辺を、ヘーゲル的にとらえると、環境との否定的関係に
基づいた弁証法的関係となる。

マルクスもそうだけどエンゲルスは端的にヘーゲル的なしっぽを
抱えている。いくらでも、ヘーゲル的に読み直すことが可能。
スピノザでさえもそうだ、げんに、ヘーゲルがしっかりやってる。

ジジェック(ラカンはまさに)もそうだが、ヘーゲリアンにはことかかない。
121考える名無しさん:02/11/12 14:52
もうひとつ。
知ってのとおり、ベルグソンは、言葉には出さないが、しっかり
ヘーゲルを意識してものを語ってる。マルクスはヘーゲルの正しい
回答ではなし、マルクス主義は端的にヘーゲル主義に転嫁されてし
まっている。ジェームソンなどが良い例かもしれない。
122考える名無しさん:02/11/13 20:07
このスレの皆さんに敬意を表してあげ。
123考える名無しさん:02/11/14 01:01
>>118
何があったんスか、ジルさん?w
124Gilles:02/11/14 17:27
>123
これが地ですが何か?
125キャロルくん:02/11/14 17:52
はじめまして!
ボクの は、フッサールなどの現象学を勉強していますが、
「現象学って難しいですね!」 「還元に関することが・・・・・
特に超越論的還元の意味が難しいです。」 「生活や自然的実証性から
純粋な 超越論的主観性の意味がわかる人はいますか?」
「わかっている人がいたらぼくに教えて下さいね!」
といっています。 
だれかわかる人がいたらキャロルくんのスレに書いてあげてね!
http://book.2ch.net/test/read.cgi/books/1034769192/l50
あと、・・・・先生のHPが、新しい特集を創めました。 その名は、
ありすちゃんとウェーベルン氏の現代を撃て!
ありすちゃんとウェーベルン氏の夢の対談が実現!
ありすちゃんとウェーベルン氏が、現代社会を
政治、社会、経済、科学、文化のニュースから斬り,様々角度から議論する。
第一回は、コーヒー浣腸はガン治療の決め手になるのか?  です。
http://www12.brinkster.com/uhikaru/a&w.htm
みなさん、マタマタお楽しみがフエマシタネ!
126仏語5級:02/11/14 18:43
風邪でダウンしてます。
明日ぐらいには更新できるかも
127考える名無しさん:02/11/14 20:07
だれかキャロルくんを哲学してください
128考える名無しさん:02/11/14 22:30
一応。檜山氏のは、ノリで哲学してるとああなるといった本だよ。
129考える名無しさん:02/11/14 22:34
もう一ついっとくけど、ドゥルーズやマルクスや、その他諸者の
哲学が現代の哲学上の問題に対する正しい回答であったり、何らかの
当為の規範として訳にたつものではないことくらいは、当然知っているよね?
130考える名無しさん:02/11/15 00:48
>>128
>>129
ピンぼけのワルノリレスはやめた方が良いよ。
檜山はドゥルーズの全領域を射程に入れることができないとしても、やはり「ノリ」
ではない。
そもそも129で君が檜山を全く読めてないことが晒されているんだよ。
131考える名無しさん:02/11/15 01:04
>130

俺は、ノリっぽいって、思う箇所が多いと思うぜ。
129がいってるのは、ハートの文脈だね。

ヘーゲルとベルグソンに関しては、重要だと同感。
132考える名無しさん:02/11/15 01:30
>>131
マジレスでありながら、こんな見苦しい言い訳はめったにないと思うよ。
133131:02/11/15 12:07
マジレスって何?のことを言うの?

檜山ってそんなに良いの?俺のとこでは、ぜんぜんだよ。
いい線いってるくらいだけど、最後まで読むとがっかり
っていうのが本当のとこだぜ。

ま、君たちは別に哲学屋じゃないと思うから別にいいけどね・・。

素人うけを狙うてんでは、篠原さんとどっこいか、少しまし。
134考える名無しさん:02/11/15 17:41
あんまり、素人をからかわないほうがいいよ♪
135考える名無しさん:02/11/15 18:10
つーか、檜山じゃなくて檜垣だろ、ヴォケ。
おまえら全員素人!!
136仏語5級:02/11/15 19:38
>>106>>109の修正訳
【20】第1章の第6段落のつづき(原書/5 邦訳/6-7)
むしろ、重要なのは解答である。しかし、問題の提起の仕方、
問題が問題として規定される際の諸条件、問題を提起するために利用可能な
手段と言葉、これらに応じて問題には、いつも問題に相応しい解答がある。この意味
において、人類の歴史は、理論の視点からも実践の視点からも、問題の構成の歴史で
ある。人類が、彼ら固有の歴史を創っているのはこの点においてであり、このような
活動を意識することは、いわば自由の獲得である。

【コメント】訳注を取った。「いわば自由を獲得である。」を「いわば自由の獲得である。」
とした。意識/認識どちらにするかはGilles氏の指摘>>116-117を読んで、意識とした。
この辺は各自が自分の判断で選択してほしい。

137仏語5級:02/11/15 19:59
>>110の修正訳
【21】第1章の第6段落のつづき(原書/5 邦訳/7)
(ベルクソンにおいて、問題という概念は、自らの概念の根源を歴史の彼方、生命そのもの
即ちエラン・ヴィタールの内に持つ、というのは事実である。困難を回避し、ひとつの
問題を提起し解決するという行為の内において本質的に自らを規定していくのが生命である。
有機体の構築とは、問題の提起であると同時に問題の解答である。)(注6)

(注6)ベルクソンによれば、問題というカテゴリーが持つ生物学的重要性は、欲求という消極的なカテゴリーより
   遥かに大きい。

【コメント】Gillesの指摘>>111>>114 112氏の指摘>>112 112氏と同一人物かもしれませんが、
120氏の指摘>>120-121 あと私の指摘(汗>>113を勘案して修正した。
細かいところを色々修正したが、個人的に迷ったのが「規定される」を
「自らを規定していく」(宇波訳)と能動性のニュアンスを取り入れた。
原文はse determenerと代名動詞であり、その際の主語が無生物なら「〜される」で
いいと思うのだが、この場合はvie(生命)が主語。これは単純に無生物主語として
処理してはダメじゃないかなあと判断して宇波訳が妥当カナと判断した。
138仏語5級:02/11/15 20:26
【22】第1章の第7段落(原書/5 邦訳/7)
だが、問題の中にあるこの構成的能力を、いかにして真なるものの規範と調和させるのか?
ある問題が提起され、(訳注:その問題の)解答との関連で真偽を規定するのは、比較的容易で
あるが、真偽(という基準:訳注)を問題を提起そのものに適用する時、そのような真偽が何から
成り立っているのかを言うことは(訳注:解答との関連で真偽を規定することより)遥かに困難
であるように思われる。

【コメント】Gilles氏の指摘>>67-69を参考にした。
139考える名無しさん:02/11/15 22:45
誰か最後まとめるの?
140Gilles:02/11/16 18:40
>>138
復活おめでとう。病みあがりだからぼちぼちやってくれ。

un probleme etant pose:
この現在分詞は条件のように処理したほうがいいだろう。
「問題が提起されてしまえば」「問題が提起された後なら」

en quoi consiste の訳は「〜がどのような点に存するのか」の
ほうがすっきりするように思うのだが、どうだろう。

ついでに:
> 真偽(という基準:訳注)を問題を提起そのものに適用する時
「問題*の*提起」だな。
141仏語5級:02/11/17 23:04
>>138の修正訳
【22】第1章の第7段落(原書/5 邦訳/7)
だが、問題の中にあるこの構成的能力を、いかにして真なるものの規範と調和させるのか?
ある問題が提起されてしまえば、(訳注:その問題の)解答との関連で真偽を規定することは、
比較的容易であるが、真偽(という基準:訳注)を問題の提起そのものに適用する時、その
ような真偽がどのような点に存するのかを言うことは(訳注:解答との関連で真偽を規定す
ることより)遥かに困難であるように思われる。

【コメント】Gilles氏の指摘>>140により修正。

一応当スレでは第一章を全部うまく納められるように訳せればと考えています。
そしたらパート2をスレ立てする予定。「最後」は、あまりに先の話なので考えてないですね。
最後まで行くかわからないし。今は、翻訳の更新に一喜一憂してる状態でいっぱいいっぱいすね。
基本的(もちろん例外もあるでしょう)には翻訳に関係のあるレスのみにぼくは対応する方針です。
応援してくれる人は大変うれしいです、が、その点ご了承くださいまし。
ちゃんと読んでますので(しかもくり返し)。



142仏語5級:02/11/17 23:55
【23】第1章の第7段落のつづき(原書/5-6 邦訳/7)
この点に関して、多くの哲学者はある循環に陥っている。つまり、こういうことである。
多くの哲学者は、真偽の検証を解答の彼方に、つまり問題そのものの中に持ち込む必要性
を意識してはいるが、彼らは、ある問題(そのもの:訳注)の真あるいは偽は、その問題
に解答を与えることが可能なのか不可能なのかによって、規定することで満足してしまっ
ている(訳注3)。それとは逆に、ベルクソンの偉大な功績は、《偽の問題》という表現
で、偽なるものを内在的に規定することを試みた点にある。ここから、先に述べた一般的
規則についての補足的規則が出てくる。

(訳注3)満足はしても、問題そのものに真偽の検証を持ち込んでいないので、あいかわらず
その必要は意識される。だけどまたまた、解答との関連で問題を捉えるので・・。と循環する

【コメント】ムズイ。文章の処理にいろいろ困った。訳注3はぼくの解釈。循環がちゃんと
わかるようにしたかった。余計なお世話かも。つたないかも。
何点かあげれば、vrai/verite faux/fausseteの訳し分けは放棄。わからん。
recevoirの訳語。この文脈では煎じ詰めればun probleme recoit une solution
という場合の訳語だと思う。微妙に思いつかない。
あと細かいとこいろいろあるけど、きりがなさそう
143仏語5級:02/11/17 23:57
「陥っている」は「陥っているように思われる」と次回修正訳で直します
144Gilles:02/11/18 18:51
>>142
> 多くの哲学者は、真偽の検証を解答の彼方に、つまり問題そのものの中に持ち
> 込む必要性を意識してはいるが、彼らは、ある問題(そのもの:訳注)の真あ
> るいは偽は、その問題に解答を与えることが可能なのか不可能なのかによって、
> 規定することで満足してしまっている(訳注3)。

ドゥルーズが「多くの哲学者」という言い方で念頭においているのは、論理実証
主義者たち、あるいはそれに影響を与えたとされる前期ヴィトゲンシュタインの
ような人たちかもしれない。(あるいはまた、そのような立場に似ているとされ
るかぎりでのカントかもしれない)

例えば、『論理哲学論考』4.003: 「哲学的事柄について書かれてきたほとんど
の命題と問いは、偽(falsch)ではなく、無意味(unsinnig)である。だから、わ
れわれはこの種の問いに答えることはできず、単にその無意味さを確かめること
ができるにすぎない。哲学者のほとんどの命題と問いは、われわれが言語の論理
を理解していないということにもとづいている。... そして、最も深遠な問題
なるものが本来何ら問題(Probleme)ではない、ということは驚くに値しない。」
145Gilles:02/11/18 19:07
> この点に関して、多くの哲学者はある循環に陥っている。[...]
>
> (訳注3)満足はしても、問題そのものに真偽の検証を持ち込んで
> いないので、あいかわらずその必要は意識される。だけどまたまた、
> 解答との関連で問題を捉えるので・・。と循環する

この「循環(cercle)」のところはよくわからない。問題そのものの真偽に
関する、問題に内在的な規準を意識しながら、結局、問題の解答の可能性/
不可能性という外在的な規準に逆戻りしてしまっている、というだけなら、
単に不徹底なだけであって、「循環」では言い過ぎのような気がしなくも
ない。「撞着」とか「堂々巡り」くらいのつもりなんだろうか。

> vrai/verite faux/fausseteの訳し分けは放棄。

これはどういうこと? 共時的に見た場合、名詞 verite' は形容詞 vrai の
派生語だから(通時的に言えば、vrai はラテン語の verus,a,um ではなく、
verax から来ているとのことなので、間接的派生関係ということになるが)、
vrai と verite' を訳し分ける必要はない。

形容詞 faux の女性形が fasse となることからわかるように、faux/faussete
も派生関係。

recevoir の意味合いも >>142 で書いてあるとおりで、訳も【23】のとおりで
問題ないと思う。
146仏語5級:02/11/18 21:27
Gilles氏の指摘を読ませてもらいcercleについて再考しました。
再考の結果「循環」は違う可能性が無茶苦茶高いと今は思っています。
「循環」と訳す場合の例文をクラウン仏和辞典2版に見つけた

tourner dans un cercle viciuex 悪循環に陥る、堂々巡りする

やはり「:」のあとの文を循環しているように取るのに
かなり無理があるということ。ぼくはGilles氏に指摘されるまでcercleを循環と
訳して全く疑わなかったので、この文は絶対「循環」として解釈できるはずだ、
と決めてかかっていた。で、いったん指摘されると解釈の無理も見えてきました。
で、「循環」と解釈せず、どう訳すかというと、
この場合のcercleは、「範囲・領域・枠」などの意味を否定的なニュアンスで使って
いるのかなと思いました。あと地理の用語かもしれないけど、
「〜圏」というのが(例えばcercle polaire arctique:北極圏)、本書の文脈では
「ある思考の圏域」とかと訳せるかもしれない。またこれらの訳語にすれば、「:」のあと
の文を「循環」と解釈する無理も解消されると思います。

vrai/verite faux/fausseteの訳し分け。
いつもだいたい対で使うときは、vraiとfauxだったと思ったので、ここでは違うニュアンスが
あるのかなとか思ってました。やっぱ同じなんですね。漠然と訳し分けなきゃいけないのかな
と思っていました。

Gilles氏の指摘には感謝します。LWの引用もべんきょになります

「ある問題(そのもの:訳注)の真あるいは偽は」は「ある問題の真あるいは偽を」と修正訳で変えます。


147Gilles:02/11/19 01:04
>>146
スマンスマン、また曖昧な書き方をしてしまった。>>145 で cercle に
ついて書いたことは、>>142 の訳語に対するコメントというよりもは、
ドゥルーズの書き方に対する疑問というつもりだった。

たぶん素直に訳すとしたら「循環」とか「堂々巡り」とか「撞着」に
するほかないと思うのだが、はたしてここで言われているような話が
「循環」と呼ぶに値する事柄なのか、少々疑問に思った、ということ。

外国語のテクストを翻訳したり解釈したりする場合、著者の言い分は
ある程度割り引きしながら読むほうが精神衛生上よいと思っているの
で、ついついこういうことを書いてしまう。

ただしこれは外国語のテクストに限ったことではなくて、「そりゃあ
んた(=著者)はそう書きたいかもしれんけど、それはちょっと言い
過ぎでしょ」というようなツッコミを入れつつ読んでるほうが、読み
手は気が楽になる。
148仏語5級:02/11/20 20:11
>>142の修正訳
【23】第1章の第7段落のつづき(原書/5-6 邦訳/7)
この点に関して、多くの哲学者はある撞着に陥っているように思われる。つまり、
こういうことである。多くの哲学者は、真偽の検証を解答の彼方に、つまり問題
そのものの中に持ち込む必要性を意識してはいるが、彼らは、ある問題の真ある
いは偽を、その問題に解答を与えることが可能なのか不可能なのかによって、規
定することで満足してしまっている。それとは逆に、ベルクソンの偉大な功績は、
《偽の問題》という表現で、偽なるものを内在的に規定することを試みた点にあ
る。ここから、先に述べた一般的規則についての補足的規則が出てくる。

【コメント】Gilles氏の指摘>>144-145>>147と私のレス>>146によって修正。
cercleはとりあえず「撞着」とした。あとちょっとだけ書くと、「循環」と
解するにはやはりtourner dans un cercle viciuex のように動詞が
tournerだとすわりがいいと思う。本書のようにtomber dans un cercle
だと「円の中に落ちる」というのは一般的な語感じゃないかなあと思った。
tourner dans un cercleだと「円の周りを廻る」=「循環する」とい語感
が感じられる。もともとcercle自体には「丸い円」くらいの意味であって、しだいに
tournerなんかと一緒に使われるようになってcercle自体に「循環」という意味が
できたのかも。でも単体として「循環」の意味はvicieuxがつくことが一般的かも。
以上を勘案して「撞着」が無難じゃないかと思った次第であります。
あとは各自の選択に任せます。

>ドゥルーズの書き方に対する疑問というつもりだった。

これは眼光紙背に徹して、ぼくじゃなくてドゥルーズに向けての疑問だなというのは
わかりましたが、自分で確認してGilles氏の疑問は妥当だと思ったので一応再考したのを
カキコしたわけであります。感謝いたします

149仏語5級:02/11/20 21:16
【24】第1章の第8段落(原書/6 邦訳/8)
補足的規則:『偽の問題には二種類ある。ひとつは、《存在しない問題》であり、偽の問題を表現する
言葉そのもののが《プラス》と《マイナス》についての取り違えを伴っていることによって規定される。
もうひとつは、《間違った提起をされている問題》であり、偽の問題を表現する言葉がよくない分析を
された混合物を表象していることによって規定される。』

【コメント】『』内は、原文イタリック。「プラスとマイナスについて」は原文は
du 《plus》et du《moins》。これはスゴイ迷ってて今でも自信はほとんどない。
存在/非存在 秩序/無秩序 実在的なもの/可能的なもの 各自後者がまず
存在していて、その後に前者が実現される、みたいな思考をベルクソンは批判していて、
、後者のような「大問題」をベルクソンは偽の問題と呼んでいる。
で、それを、こり文脈では「《プラス》と《マイナス》についての取り違え」と表現
しているとぼくは解釈していて、《》はベルクソンの文章だと思うのでまた緒論第二部から
探してきてPM.P94の「それはプラスではなくてマイナスである」という所なのかなあと思った。
プラスは存在・秩序・実在的なもの マイナスは非存在・無秩序・可能的なもの
を意味していると思う。みんな非存在・無秩序・可能的なものを哲学的大問題(プラスの問題)だと
思っているが、本当は偽の問題(マイナスの問題)なんだ。といいたいのでないかと解釈した。
あと、宇波訳(《多》と《小》)のもあってそうな気がするがうまくあてはまる理解がわからない。
あと緒論第二部から「《多》と《小》の」に相当する文章が見つからなかったということもある。
あるかもしれないけど(汗
もう一点、言葉(terme)。この語はラルース仏和に『ある概念を(その専門領域の語彙を構成する
一項目として)正確に規定するという側面から捉えた「語」』とでていて、「言葉」という訳語じゃ
語感が弱いような気もした。宇波訳は「関係項」としていて、この文脈上なら、関係項というのが
上に挙げた 存在/非存在 とかの関係を意味してると思い妥当なのかなあとも感じた。でも、言葉でも
妥当だと思う。感で言うとたぶん河野訳PMのP43『問題の「術語」を認めるべきであるか』の
「術語」はtermeだと思う。
150仏語5級:02/11/20 21:26
「偽の問題を表現する」を「問題を表現する」に修正訳で変えます。たぶん・・
151Gilles:02/11/21 17:46
>>149

まず訳語について、邦訳との関係をつけやすくするために、ドゥルーズの話を整理して
おこう。二種類の偽の問題とそのそれぞれの例は次のとおり:

第1の種類 実在しない問題(problemes inexistants)
例: 非存在[と存在]、無秩序[と秩序]、可能性[と現実性]
第2の種類 提起の仕方の間違った問題(problemes mal poses)
例: 自由、強度

原書 p.6 の注1は、どの例がどちらのタイプに分類されるかは、ベルクソンのテクスト
によって異なっていること、どの「偽の問題」も両方の側面を示すものであることを
断っている。また、p.9 では、第1の種類が究極的には第2の種類に帰着することを述
べている。(つまり、第1の種類 → 第2の種類)

また、p.6 の注1 は、この分類について「PM,1336,105」を参照させているが、こ
れは岩波文庫(新版、買っちまった…)の p.145f. あたりに相当すると思われる。「哲
学の大問題は一般に提出の仕方が間違っている」(岩波文庫 p.144、原書ある人、確認
願う)

これは「可能性と事象性」という論文の一節だが、原題が Le possible et le reel で
あること、したがって「可能性と現実性」とも訳しうるタイトルであることを、解説者
の木田元が述べている(pp.428, 419)。

また、第2の種類に対する訳語にならえば、mixtes mal analyses は「分析の仕方の間
違った混合物」か。
152Gilles:02/11/21 17:46
さて、ドゥルーズのいう「実在しない問題」と「提起の仕方の間違った問題」について、
ベルクソン自身はこの箇所で次のように言っている:

「ところで、根本的に新しいことの見そこないが【1】提出の仕方の間違った哲学【=
「第2の種類」】の問題の起源にあるとすれば、空虚から充実へ進む習慣は【2】実在し
ない問題【=「第1の種類」】の源泉である。いずれにしても第二の誤謬がすでに第一
の誤謬のうちにふくまれていることは容易にわかる」

ここは、「ふくまれている」をどう理解するかにもよるが: 第1の種類【2】 → 第2の
種類【1】 ということだろう。とすれば、原書 p.9 のドゥルーズの整理と一致する。

また、p.6 の注1で、自由と強度については「PM,1268,20」を参照とあるが、これは
「緒論(第1部)」の話。「自由の問題」が「持続を拡がりとするところから生じた擬似
問題」であること、また、「同じ起源をもつように見え」るものとして「強度」の問題が
あげられている(岩波文庫 p.36f.)。
153Gilles:02/11/21 17:47
> 「プラスとマイナスについて」は原文は du 《plus》et du《moins》。
> これはスゴイ迷ってて今でも自信はほとんどない。
[...]
> あと、宇波訳(《多》と《小》)のもあってそうな気がするがうまく
> あてはまる理解がわからない。あと緒論第二部から「《多》と《小》
> の」に相当する文章が見つからなかったということもある。

plus と moins は当然のことながら比較級だから、ベタに訳せば、「〜より多い」
と「〜より少ない」になる。宇波訳の「≪多≫と≪少≫」(小じゃないんだと思う
んだが)はまぁOKだろう。「プラスとマイナス」でもいいように見えるが、後で
書くように、2項間の比較関係(AはBより〜)が問題だということが、この訳語
だと見えにくくなるかもしれない。

> プラスは存在・秩序・実在的なもの マイナスは非存在・無秩序・可能
> 的なものを意味していると思う。みんな非存在・無秩序・可能的なもの
> を哲学的大問題(プラスの問題)だと思っているが、本当は偽の問題
> (マイナスの問題)なんだ。といいたいのでないかと解釈した。

問題のそれぞれにプラスの問題やマイナスの問題があるという意味ではなくて、あ
る1つの問題の中で、相互の関係を問われる2つの項(例えば、存在/非存在)があ
り、その項のどちらが他方「より多い」か「より少ない」か、という意味。
154Gilles:02/11/21 17:47
存在/非存在を例にとると、普通は、存在のほうが非存在と比べて「より多く」の
ものを含むと考えてしまうだろう。つまり、 A>B (A:存在、B:非存在)で
あり、等式を使って表わせば、 A=B+α だということになる。この前提があっ
てはじめて、「このαはどこから来るのか?」(非存在から存在への移行を可能に
するものはどこから来るのか?)という問題が提起されうる。

だが、もしこの最初の前提が間違っているとしたら?

実際、ベルクソンによれば、A>B ではなくむしろ A<B、つまり、非存在(と
いう概念)は存在(という概念)に対して「より多く」を含んでいる。だとすれば、
「非存在はいかにして存在に移行しうるのか?」という問題自体がそもそも≪偽の
問題≫だということになる。図式的にまとめれば次のようになるだろう:

通常の発想:
存在、秩序、現実性 = より多いもの
非存在、無秩序、可能性 = より少ないもの

ベルクソンの発想:
存在、秩序、現実性 = より少ないもの
非存在、無秩序、可能性 = より多いもの

ドゥルーズのすぐ後の整理(p.6f.)によると、例えば、非存在の概念は、1. 存在の
概念、2. (存在という概念に対する)全般的否定という論理操作、3. このような論
理操作を行なう特殊な心理的動機を含んでおり、存在の概念に対して「より多く」を
含んでいる。ベルクソン自身の議論は、『思想と動くもの』岩波版の p.91 後ろから
4行目以下に短い一節があるほか、p.145 後ろから3行目以下(存在/非存在)、p.148
後ろから3行目以下(秩序/無秩序)、p.150 後ろから5行目以下(可能性/現実性)
にかなり詳しい説明がある。
155仏語5級:02/11/23 11:55
>>149の修正訳
【24】第1章の第8段落(原書/6 邦訳/8)
 補足的規則:『偽の問題には二種類ある。ひとつは、《実在しない問題》であり、問題を表現する
言葉そのものが《より多い》と《より少ない》についての取り違えを伴っていることによって規定
される。もうひとつは、《提起の仕方の間違った問題》であり、問題を表現する言葉が分析の仕方の
間違った混合物を表象していることによって規定される。』

【コメント】Gilles氏の指摘>>151-154をうけて修正。うーん、わかりやすい。
超長文レスありがとうございます。
訳語も拝借した。
PM,104 岩波文庫p.144
「哲学の大問題は一般に提出の仕方が間違っている」
ぼくもPM原書を買ってしまったのでその部分引用します(2000円だから安いほうかな)。
J’estime que les grands problemes metaphysiques sont generalement mal poses,と以下続く

>ここは、「ふくまれている」をどう理解するかにもよるが

ここの部分も一応ウプします
Il est d'ailleurs facile de voir que la seconde erruer est deja impliquee dans la premiere.

宇波訳の「≪多≫と≪小≫」は「小」じゃなくて「少」でした。ぼくの打ち間違いです。すんません



156仏語5級:02/11/24 00:57
【25】第1章の第9段落(原書/6 邦訳/8)
 ベルクソンは、第一のタイプの例として、非存在の問題、無秩序の問題あるいは
可能性の問題を挙げている(認識と存在の問題)。第二のタイプの例として、
自由の問題あるいは強度の問題を挙げている(注7)。

(注7)PM,1336,105,岩波文庫144-145.ベルクソンのテクストに応じて、
例がどちらのタイプに分類されるかは変化する。これは、驚くことではない。
なぜなら、後にわかるように、それぞれ偽の問題は、いろいろな割合で二つの
側面を表すからである。偽の問題としての自由と強度については次を参照
,cf.PM,1268,20,岩波文庫36.

【コメント】主にGilles氏の指摘>>151-152を参考にしました。
 
157考える名無しさん:02/11/24 08:02
いつも楽しみに拝見させてもらってます。
私も某スレで勉強しているものですが、
このスレの形態を参考にさせていただきました。
事後承諾となりますが宜しくお願いいたします。
これからもがんばって下さい。
158Gilles:02/11/24 21:36
>>156
今回の訳はOKだと思う。

> ぼくもPM原書を買ってしまったのでその部分引用します(2000円
> だから安いほうかな)。

ごくろうさん。まぁ、もっといて損はないだろう。
159Gilles:02/11/24 21:37
以下、少々長い余談。

>>152
>「ところで、根本的に新しいことの見そこないが【1】提出の仕方の間違った哲学【=
>「第2の種類」】の問題の起源にあるとすれば、空虚から充実へ進む習慣は【2】実在し
> ない問題【=「第1の種類」】の源泉である。いずれにしても第二の誤謬がすでに第一
> の誤謬のうちにふくまれていることは容易にわかる」
>
> ここは、「ふくまれている」をどう理解するかにもよるが

と書いたのは、「AがBに含まれる」というとき、少なくとも2通りの解釈が
あるから。こういう言い方が正しいかどうか自信ないが、外延的に含まれる場
合と、内包的に含まれる場合だ。

部分集合の記号⊂を使って図示してみる。

A⊂B: AはBの部分集合(集合Aのすべての要素は集合Bの要素)

Aを二等辺三角形の集合、Bをすべての三角形の集合とすると、当然A⊂Bが
成り立つ(もちろん逆は成り立たない)。この場合、「AがBに含まれている」
と言えるのは、AとBそれぞれの要素(=外延)同士の関係についてであって、
ここで「含まれている」というのは、「AはBに外延的に含まれている」という
意味だ。

それに対して、「生物の概念は人間の概念に含まれている」というふうに、概念
の内容同士(=内包)の関係を述べる場合、集合の要素(=外延)に置きなおし
した場合(人間⊂生物)とは、むしろ逆の関係になる。

問題の箇所の原文は "... est deja impliquee" だから、内包的・外延的のどち
らでもありうるように思うが、要するにベルクソン、ドゥルーズともに「あらゆ
る『実在しない問題』は同時に『提出の仕方の間違った問題である」と言いたい
んだろう(つまり、前者は外延的に後者に含まれる)。
160☆☆☆☆☆:02/11/24 21:38
161仏語5級:02/11/26 19:23
【26】第1章の第9段落のつづき(原書/6 邦訳/8)
この点に関してのベルクソンの分析は有名である。第一のケースにおいて、ベルクソンの
分析は、存在の観念よりも非存在の観念に、秩序よりも無秩序に、現実性よりも可能性に、
『より少ないもの』ではなく『より多くのもの』があることを明らかにすることに存する。
実際、非存在の観念の中には、存在の観念、それに全般的否定という論理操作、さらに
このような論理操作を行なう特殊な心理的動機がある(ある存在がわれわれの注意に値せず
、われわれが、その存在を欠如つまりわれわれの関心を引く対象の不在としてのみ把握する
場合)。

【コメント】は今回パス・・
 
162仏語5級:02/11/26 19:42
観念 は 概念 に変えます
163Gilles:02/11/27 14:31
>>161
今回の訳も問題ないと思う。

別に「観念」も「観念」のままでよい気がするけど。
164仏語5級:02/11/28 21:30
いまスゲー忙しくて訳の更新できません。活字を読む精神的余裕がない。
今日も疲れた・・今帰ってきた

いろいろ書きたいが自制します。ご了承ください

165Gilles:02/11/29 12:42
>>164
> いまスゲー忙しくて訳の更新できません。活字を読む精神的余裕がない。
> 今日も疲れた・・今帰ってきた

いつもお疲れさん。

5級のペースでやってくれればいいので、また余裕ができたら再開してくれ。
166仏語5級:02/12/01 12:57
【27】第1章の第9段落のつづき(原書/6-7 邦訳/8-9)
無秩序の観念の中には、すでに秩序の観念があり、それに加えて秩序の否定、さらに
このような否定の動機がある(われわれが予想していたのとは違う秩序に出くわした場合)。
可能性の観念の中には、現実性の観念よりも、より多くのものがある。《なぜなら、
可能性とは、現実性にさらに次の(二つの:訳注)ものを加えたものに他ならないからで
ある。現実性が一度生じると、その現実性のイメージを過去に送り返す精神の働き》
と、このような働きの動機(の二つ:訳注)である(われわれが、宇宙の中で、ひとつの実在
の出現と閉鎖体系における諸状態の継起を混同した場合)(注8)。

(注8)PM,1339,110,岩波文庫151.無秩序と非存在についての批判については次も参照,
cf.EC,683,223 sq.et 730,278 sq.

【コメント】《》とその次の文をどう処理すればいいのか迷ってかなり意訳した。他に
いい処理の仕方があればそれに従いたい。訳注も見にくいだけかもしれない。imageはイメージとした。
河野訳でもそうだし。木田氏の解説でもイマージュとしなければいけない箇所はそうしたらしいからこ
このimageはイメージでいいんだと思った。
en rejette l'image の en は du reel
il s'est produit の il は le reel とそれぞれ解釈した。

訳の更新はなるべく一定のペースになるようにしたいと思います
(そうしないと自分は怠けやすいので)
167考える名無しさん:02/12/03 15:07
age
168Gilles:02/12/04 12:51
>>166
すまん。こっちのコメントのほうが遅くなってしまった。

>《なぜなら、可能性とは、現実性にさらに次の(二つの:訳注)もの
> を加えたものに他ならないからである。現実性が一度生じると、その
> 現実性のイメージを過去に送り返す精神の働き》と、このような働き
> の動機(の二つ:訳注)である

訳注はちょっと読みにくいし、この引用箇所に関していうと、ちょっと不正確
になると思う。

ドゥルーズの理解するベルクソンによれば、
≪可能性=現実性+(1)精神の働き+(2)働きの動機≫
という等式が書けることになる。(だから、可能性>現実性となる)

が、『思想と動くもの』の引用箇所では(2)にあたるものが、少なく
とも明示的には書かれていない。これは、この引用箇所以外で述べられ
ていることか、ドゥルーズによる解釈かのどちらかだろう。
(たぶん前者だとは思うが、どこでそういうことが書かれているのかは
わからない)
169Gilles:02/12/04 12:52
>(われわれが、宇宙の中で、ひとつの実在の出現と閉鎖体系における
> 諸状態の継起を混同した場合)

この話もわかりにくいが、「ひとつの実在(realite cf. le reel)の出現」と
いうのは『思想と動くもの』の引用箇所の直後で出てくる例で言えば、シェイク
スピアによる『ハムレット』の「創造(=出現)」のようなものをイメージすれ
ばよいだろう。

細かいことだが、「confondre A avec B: AをBと混同する」のうち、Aにあたるの
は「宇宙の中でのある実在の出現(le surgissement d'une realite dans l'univers)」
なので、「宇宙の中で、」のようにコンマを入れないほうがいい。

「閉鎖体系における諸状態の継起」というのは「可能性という状態」から「現実性
という状態」へという「継起」だろう。ベルクソンによれば、そのような捉え方は
誤りである。「閉鎖体系」ということ自体、その中では何も本質的に新しいものが
生じない(新しい実在の創造は生じない、さもないと、それは「閉じた」系ではな
くなってしまうから)ということを含意する。
170仏語5級:02/12/06 20:45
【27】第1章の第9段落のつづき(原書/6-7 邦訳/8-9)
無秩序の観念の中には、すでに秩序の観念があり、それに加えて秩序の否定、さらに
このような否定の動機がある(われわれが予想していたのとは違う秩序に出くわした場合)。
可能性の観念の中には、現実性の観念よりも、より多くのものがある。《なぜなら、
可能性とは、現実性にさらに次のものを加えたものに他ならないからで
ある。現実性が一度生じると、その現実性のイメージを過去に送り返す精神の働き》
と、このような働きの動機である(われわれが、宇宙の中でのある実在
の出現と閉鎖体系における諸状態の継起を混同した場合)(注8)。

(注8)PM,1339,110,岩波文庫151.無秩序と非存在についての批判については次も参照,
cf.EC,683,223 sq.et 730,278 sq.

【コメント】Gilles氏の指摘>>168-169により修正。

Gilles氏へ
忙しい中毎回丁寧なアドバイスに感謝してます。
171仏語5級:02/12/06 20:55
【28】第1章の第10段落(原書/7 邦訳/9)
 われわれが、《なぜ無ではなくむしろ何かがあるのか》、あるいは《なぜ無秩序
でなくむしろ秩序なのか》、あるいは《なぜ「あれ」ではなくむしろ「これ」なの
か(「あれ」も「これ」と同じくらい可能だったのに)》と問う時、われわれは
(訳注:第一の種類の偽の問題と)同じ間違いに陥っている。つまりその時、われわれは、
より多いとより少ないについての取り違えをしているのである。すなわち、非存在
が存在より先に存在し、無秩序が秩序より先に存在し、可能性が現実性より先に存在
しているかのようにわれわれは振る舞っているのである。

【コメント】主に宇波訳を参照した。「これ」と「あれ」は「」が原文にはないが
あったほうが読みやすいと思ったのでそうした。「間違い」はvice。道徳的なニュアンス
はこの文脈ではないのかなと思い安易だが単に「間違い」とした。
「非存在が存在より先に存在し、」は存在が連続して意味上どうなのか、このままでいいのか
わからん。宇波訳は「非存在が存在に先立ち」。こっちのがこなれてるか。
172Gilles:02/12/07 16:45
いつもごくろうさん。

>>171
> われわれは(訳注:第一の種類の偽の問題と)同じ間違いに陥っている。

「第一の種類の偽の問題*と同じ*間違い」だとすると、「第一の種類の偽の問題」
はここで説明されている間違い(=存在、秩序、可能性の問題)以外のものだとい
うことになりそうだが、そうではない。

つまり、un meme vice をそのまま素直に訳して、「... と問う時、われわれは
[3つの問いのいずれにおいても]同じ間違いに陥っている」ととるべきだろう。
[ ]の中はあくまで補足。

> われわれは、より多いとより少ないについての取り違えをしているのである。

nous prenons le plus pour le moins
「より多いものをより少ないものと取り違えている」では?

preexister を「先に存在する」と訳すと、存在/非存在の文脈だと紛らわしく
なる。直訳ということにこだわらなければ、宇波訳は妥当かなと思う。
173出会い最強新機能でOPUN:02/12/07 16:53
http://Jumper.jp/dgi/

    朝までから騒ぎ!
       
  今回HP新装OPUNしました!
  断然使いやすくしています!
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  大人の恋愛、熟女、ぽっちゃり
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  今後高機能続々導入します
174仏語5級:02/12/08 18:58
>>171の修正訳
【28】第1章の第10段落(原書/7 邦訳/9)
 われわれが、《なぜ無ではなくむしろ何かがあるのか》、あるいは《なぜ無秩序
ではなくむしろ秩序なのか》、あるいは《なぜ「あれ」ではなくむしろ「これ」な
のか(「あれ」も「これ」と同じくらい可能だったのに)》と問う時、われわれは同
じ間違いに陥っている。つまりその時、われわれは、より多いものをより少ないも
のと取り違えているのである。すなわち、非存在が存在に先立ち、無秩序が秩序に
先立ち、可能性が現実性に先立つかのようにわれわれは振る舞っているのである。

【コメント】Gilles氏の指摘>>172により修正。Gilles氏のピンポイントな指摘を読んだとき、
自分の誤訳をみてちょっと恥ずかしくなった・・。以上
175仏語5級:02/12/08 20:45
【29】第1章の第10段落のつづき(原書/7 邦訳/9)
あたかも、存在が空虚を満たしに、秩序が秩序に先立つ無秩序を組織化しに、
現実性が本源的な可能性を実現しに来るかのようにである。存在、秩序また
は存在者は、真理そのものである。しかし、偽の問題には、根本的な幻想
つまり、《真理の後退運動》がある。この運動によって、存在・秩序・存在者
は、それぞれ自らのイメージを原初的だと想定されている可能性・無秩序・
非存在に投げ返すことにより、存在・秩序・存在者自らに先立つつまり、
存在・秩序・存在者は、存在・秩序・存在者を構成する創造的な働きに先立つ
と見なされるのである。

【コメント】最後の文章は比較的直訳したのでたぶんひどい誤訳はないと思うけど、
意味は微妙にとりずらいかも。いろいろ考えたが自分でもちゃんとわかってるか不安。
あと存在者(existant)は現実性(reel)の具体的な個体のことなのだろうか。
違ってたらすんまへん。
176仏語5級:02/12/08 21:18
Gilles氏に質問なんですが、【29】の
「存在、秩序または存在者は、真理そのものである。」は、
「存在、秩序または存在者は、真に存在するものそれ自体である。」
って感じなニュアンスなんでしょうか?
177Gilles:02/12/09 21:34
>>175
l'existant はコメントにあるように le reel の言い換えになっている。とすると、
この箇所では特に新しいことは言われていない。

とはいえ、l'existant と le reel の関連がわかるように、かつ l'etant(存在者)
とは区別できるように訳そうとすると、なかなか難しい。「現実的存在者」(やはり
存在者というのが入ってしまって紛らわしい)、「現存」(不自然)、「現実」(le
reel と同じ訳語になってしまう)。なんかいいアイディアある人いない?

> この運動によって、存在・秩序・存在者は、それぞれ自らのイメージを
> 原初的だと想定されている可能性・無秩序・非存在に投げ返すことによ
> り、存在・秩序・存在者自らに先立つつまり、存在・秩序・存在者は、
> 存在・秩序・存在者を構成する創造的な働きに先立つと見なされるので
> ある。

正しい訳だと思うが、ちょっと読みにくい。原文の構造を一部切り捨てる
ことになるが、en retrojetant〜 を ... ou preceder 以下だけにかけ
て訳すというのはどうだろう?

> この運動によって、存在・秩序・存在者は自らに先立つと見なされる。
> つまり、存在・秩序・存在者は、第一次的なものと想定されている可能
> 性・無秩序・非存在に自らのイメージを投げ返すことにより、存在・秩
> 序・存在者を構成する創造的な働きに先立つと見なされるのである。

そんなに読みやすくないか。
178Gilles:02/12/09 21:35
ついでに:

> つまり、《真理の後退運動》がある。

"mouvement retrograde du vrai" は引用符に入っているから、ベルクソンの
発言なのだろうと思って探してみた(自力ではなくネットで)。

おそらく『思想と動くもの』翻訳 p.29 の「人および事件に関するわれわれの評価
は、真の判断の回顧的価値、一度定立された真理が自動的に時間のなかでおこなう
逆行的運動に対する信仰にまったく染まっている」と、これに関連する p.397 の
註三に「真理の逆行的運動」とあるのを受けている。
179Gilles:02/12/09 21:44
>>176
>「存在、秩序または存在者は、真理そのものである。」は、
>「存在、秩序または存在者は、真に存在するものそれ自体である。」
> って感じなニュアンスなんでしょうか?

うん、これはよくわからんね。平たく言うと、mouvement retrograde du vrai
という表現につなげたいから、この一文を入れたような気がしなくもない。

もう少しもっともらしい解釈をしてみよう。例えば、『思想と動くもの』の p.156
でベルクソンが言っている言葉、「私は芸術家が作品を作る際には、事象的[=現
実的]なものと同時に可能的なものを創造すると見るのを自明だというようになる
と信ずる」、にしたがって考えれば、可能性が現実性に先立つわけではなく、可能
性は現実性と「同時に」、いわば一挙に「創造」されることになる。存在や秩序に
関しても同じことが言えるはずだが、そのような「創造」として開示されるものを
「真理」と呼ぶ、というくらいのことではないか。
180考える名無しさん:02/12/09 21:51
>>177
>とはいえ、l'existant と le reel の関連がわかるように、かつ l'etant(存在者)
>とは区別できるように訳そうとすると、なかなか難しい。「現実的存在者」(やはり
>存在者というのが入ってしまって紛らわしい)、「現存」(不自然)、「現実」(le
>reel と同じ訳語になってしまう)。なんかいいアイディアある人いない?

そんなに神経質になるほどのことじゃないよ。
l'etantを「存在者」,l'existantを「存在するもの」などで十分。
181考える名無しさん:02/12/09 21:58
>>175
そのまますなおによめばいいんだと思うよ。
存在者はそれを成り立たせているいかなる前提も必要としない
という意味で、真理と言われているわけでしょ。
ドゥルーズのことばにはときどきこういうかざりがあるけど、
これは西欧哲学の伝統だからあまり気にしすぎない方がいいよ。
182:02/12/10 21:13
こんにちわ。いつも楽しく、かつ敬意をもって拝見しております。
いつもながら丁寧なジルさんの解説にあえて付け加えることもないんです
けど、ただ参加したいだけで、ちょっとくちばしを入れさせてもらいます。

「真なるものの後退運動」ですけど、なにげに『思想と動くもの』の緒論
第一部のサブタイトルにもなってます。このサブタイトルがまたふるって
まして、全部書くと、「真理の成長(ないし増大)[croissance]、真なる
ものの後退運動」となります。
特にこの「真理の成長」なんてのは、いかにもベルクソンらしいのですが、
他の哲学者がみたりすると、「はあ?」という感じがあると思うし、
その意味で五級氏が「真に存在するもの」と取るべきかと考えられるのは
尤もだと思ったです。

普通、現実そのものを真だ偽だなどと言わないものですし、素朴には現実に
対応した判断とか、もしくはある前提からルールに則って導き出された首尾
一貫した主張とか、いずれにせよ何らかのディスクールがあってはじめて
「真理」が問題になります。「真理の成長」(河野訳)なんていうといかにも
真理を「もの」扱いしてる感じがして、む?と思うわけです。
ベルクソンはともかく、ドゥルーズの方は、すでに「真理の規範性と問題の
創造性の調和」という(とっても難しいですが)問題を扱っていて、
かならずしも無自覚に「真理」と言ってるわけではないと思いますが・・・。
183:02/12/10 21:14
何の解決でもないですが、いちおうベルクソン弁護のために書いておきます
と、くだんの「後退運動」を中心的に扱っている箇所(邦訳28ページあた
り、PM14/C1263あたり)では、ベルクソンはあくまで「判断」を問題にして
いて、現在「真」と認められる判断が、永劫の昔から真理であったのであり、
権利上はいつでも定立され得たのだ、というような「錯覚」を攻撃していま
す。「あらゆる真なる主張に我々は遡及的効果を付与する。」
この限りでは、「真なるものの後退運動」という表現は理解可能では
(僕にとっては)あります。

内容ないまま長ったらしく失礼しました。これからも応援しております。
五級氏、ジル氏、がんばって下さい。
184仏語5級:02/12/14 10:06
>>175の修正訳
【29】第1章の第10段落のつづき(原書/7 邦訳/9)
あたかも、存在が空虚を満たしに、秩序が秩序に先立つ無秩序を組織化しに、現実性が
本源的な可能性を実現しに来るかのようにである。存在、秩序または存在するものは、
真理そのものである。しかし、偽の問題には、根本的な幻想つまり、《真理の逆行的運動(訳注3)》
がある。この運動によって、存在・秩序・存在するものは、それぞれ自らのイメージを
第一次的なものと想定されている可能性・無秩序・非存在に投げ返すことにより、それぞれ
自らに先立つつまり、存在・秩序・存在者は、存在・秩序・存在者を構成する創造的な
働きに先立つと見なされるのである。

(訳注3)PM,1263あたり,14,岩波文庫29と397(緒論 註3)

【コメント】Gilles氏の指摘>>177-179。180氏の指摘>>180-181。魚氏の指摘>>182-183
勘案して修正。毎度のことですが、後は各自の選択にまかせたい。
たしかに最後の文章は読みにくくGilles氏の提案も考えましたが、当初のままとしました。
要点はse preceder(自らに先立つ)をどう読みやすく訳文に入れるか、だと思います。
宇波訳では、この部分はバッサリ削除されとります。これも一つの処理の仕方かなと思います。
existant。これも迷って180氏の訳語を採用した。
reel(英real)、existant(英existent)。一応対応する英単語を載せときます。
あとは、Gilles氏・180氏・魚氏の指摘を読みつつ自分でしっくり
くる訳語を考えてくださいまし(内容を理解するためにもお勧めします)。
仏仏Lexisからはexistant:Etre posssedant l'existenceって感じ説明されとります。

Gilles氏・180氏・魚氏には貴重なアドバイス感謝します。
185仏語5級:02/12/14 10:10
>>184の修正
【29】第1章の第10段落のつづき(原書/7 邦訳/9)
あたかも、存在が空虚を満たしに、秩序が秩序に先立つ無秩序を組織化しに、現実性が
本源的な可能性を実現しに来るかのようにである。存在、秩序または存在するものは、
真理そのものである。しかし、偽の問題には、根本的な幻想つまり、《真理の逆行的運動(訳注3)》
がある。この運動によって、存在・秩序・存在するものは、それぞれ自らのイメージを
第一次的なものと想定されている可能性・無秩序・非存在に投げ返すことにより、それぞれ
自らに先立つつまり、存在・秩序・存在するものは、存在・秩序・存在するもの
を構成する創造的な働きに先立つと見なされるのである。

(訳注3)PM,1263あたり,14,岩波文庫29と397(緒論 註3)

【コメント】再々修正・・・。
186仏語5級:02/12/14 10:28
【30】第1章の第10段落のつづき(原書/7 邦訳/9)
このテーマは、ベルクソンの哲学において本質的である。このテーマは、
否定的なものと、偽の問題の源泉としての否定のあらゆる形態についての
ベルクソンの批判を要約している。

【コメント】二つ目の文章のIlを全文の「このテーマ」か「ベルクソン」のどちらを
指しているのか迷った。宇波訳ではIlを「ベルクソン」と解釈している。
ぼくは「このテーマ」と解釈した。formeの訳語もいろいろありそうで迷った。
187仏語5級:02/12/14 12:03
>>186の修正訳
【30】第1章の第10段落のつづき(原書/7 邦訳/9)
このテーマは、ベルクソンの哲学において本質的である。つまりこのテーマは、
否定的なものの批判、それも偽の問題の起源としてあらゆる形態をとる否定に
ついてのベルクソンの批判を要約している。

【コメント】さっそくですが気づいたので修正した。
「,et de toutes」のetは、ロワイヤルのetの項の5番目の意味(説明的追加・強調)
ととった。たぶんこれが意味的にも妥当だと思う。
188Gilles:02/12/16 16:32
>>186-187
いつもごくろうさん。(その他の方々のコメントにも感謝)

il は「このテーマ」で間違いないだろう。et の用法もこれでいいと思う。

「否定的なものの批判」というモチーフは、ドゥルーズのニーチェ理解と共通
するものだと思う。原書 p.8 あたりでもそのことがうかがわれる。
189考える名無しさん:02/12/16 16:39
まだ、こんなもんにかぶれてるバカがいるのか
190N:02/12/16 16:51
ご苦労様です。
フランス語が出来ないので、建設的なことは何も言えませんが、応援しております。
頑張って下さい^^
191考える名無しさん:02/12/16 18:26
いわゆる「サイエンス・ウォーズ」の火ぶたを切った張本人とされている、物理学
者アラン・ソーカルとジャン・ブリクモンの話題の書『「知」の欺瞞』がようやく
日本語で読めるようになった。社会構築論を標榜するポストモダン人文科学と素朴
実在論を楯にとる自然科学との激論を期待する読者は、見事に裏切られるだろう。
本書はそういう論争の書ではない。むしろ、現代の一部の哲学に見られる「当世流
行の馬鹿話」(原著のタイトル)−すなわち数学・物理学などの科学の誤用と濫用
−を徹底的に暴いた本である。現代哲学のビッグネームたちが次々と俎上に上げら
れては、なます切りにされている。自然科学者の目から見て明らかなまちがいを、
「彼ら」が何一つ理解できていないのは滑稽ですらある。たいへん刺激的でおもし
ろい本で、私は笑いながら読んでしまった。
訳書の帯には正しく「これは,サイエンス・ウォーズではない」と大きく書かれて
いる。確かにそのとおりである。「科学戦争」というキャッチコピーはあたかも両
者が丁々発止の戦いを繰り広げているかのような誤解を生んでいる。しかし、私
は、本書を読んで、むしろ別宮貞徳の名物コラム「誤訳・迷訳・欠陥翻訳」を連
想してしまった。サイエンス・ウォーズという大仰な言葉とは裏腹に、本書は淡
々と現代の第一線の思想家たちの誤思考・迷思考・欠陥思考を指摘し続ける。勝
負は最初からついていたのだ。一読をお薦めする。

192:02/12/16 20:49
「知の欺瞞」は二年も前から出てましたよ??(^^;)
確か2000年の5月だったと思います。

それと、ソーカルの現代思想に対する批判は確かに有意義でしたが、それによって
批判対象の思想的意義の全てが失われるわけではないですよね?
この事は、ソーカル自身が言及していたと思います。

何より「誰かが批判していたから、もう読まなくていいや」というのは、
分かりやすい状況判断ですが、「自分の目で確かめてみよう」という努力も
大切ですよね。当たり前ですけど。

もし単に「知の欺瞞」を薦めに来ていただけなら申し訳ないんですが、
暗に「ドゥルーズを訳すことが無意味だ」と言いたいのであれば、
それはちょっと違うような気がします。
お気に召さないのであれば、見なければ良いのでは?

頑張って訳しておられる方の、モチベーションを削ぐようなことは止めて欲しいなぁ…と、
この企画の1ファンとして思うのでした。

本筋に関係ないことで、申し訳ないです。
頑張って下さい^^
193考える名無しさん:02/12/16 20:51
なんでここまできて、知の欺瞞の話してんの?(藁
194考える名無しさん:02/12/16 20:52
知の欺瞞マンセーのヤシが今日はうざい。
自分が欺瞞だろう手(藁
195考える名無しさん:02/12/16 21:23
つーか、「反エディプス」以降のドゥルーズならともかく、
「ベルクソンの哲学」の頃のドゥルーズって、ポストモダンに分類できんの?
ガタリに出会う前のドゥルーズって、正統派の哲学研究家として
かなり期待されていた、という話を聞いたんだけど。
「スピノザと表現の問題」も、訳者のスピノザ学者があんまりにも
本格的なのに驚いてたし。
196仏語5級:02/12/17 17:51
【31】第1章の第11段落(原書/7-8 邦訳/9-10)
 偽の問題の第二のタイプである提起の仕方の間違った問題は、(訳注:第一のタイプの偽の問題と)
異なったメカニズムを作用させているように思われる。つまり、今度は、分析の仕方の間違った
混合物が論じられるのであって、この混合物の中には、『質的に異なる』事物が恣意的に集めら
れている。例えば、幸福とは、つきつめれば快楽に帰するのか帰さないのか、と問うてみる。
しかしおそらく、快楽という言葉には、(訳注:幸福という観念に)還元不可能な大変多様な状態が
包摂されているし、それは幸福という観念においても同様である。もしこれらの言葉の用法が、
《自然本来の分節》と一致していないのなら、この問題(訳注:幸福は快楽に帰するかどうか)は、
《事物の本性そのもの》に関係しないことになり、したがって偽の問題となる(注9)。

(注9)PM,1293-1294,52-53,岩波文庫76-77.

【コメント】訳注の3つの内のはじめの2つはぼくの解釈。
はじめの訳注。differentは、名詞の後につき、その名詞(メカニズム)が単数なので
(〜と異なるメカニズム)という意味にとり、この「〜」の部分を訳注のように解釈した。
要は、un mecanisme different (de le premier type de faux problemes)
の()内が省略されてんじゃないかと判断したわけです。文脈的にも妥当だと思う。
二つ目の訳注。これも一つ目の訳注と同じような理由。
des etats tres divers irreductibles(a l'idee de bonheur)の()内が省略なのかなと判断。
一つ目の訳注ほど自信はないけど。
三つ目の訳注。これはよけいなお世話かもしれない。ただ何を指しているのか明示的
にしたかっただけです。
197仏語5級:02/12/17 18:37
>>196のつづき
【コメント】《自然本来の分節》は、articulations naturelles。
この言い回しそのものがドゥルーズが挙げている参照ページ(注9)にはなかった。
河野訳76に「自然な区分」という言い回しがあるが、PM原書ではsectinnement naturel。
la nature meme des chosesはPM原書のドゥルーズが挙げているところに確認できた。
あと《自然本来の分節》の訳語は前田英樹『小林秀雄』から取りました。
なかなか訳語が浮かばなかったので、もしかしたらと思ってみてみたらドンピシャ
な訳語があったわけです。自分で考えた訳語じゃないので、一応こういうことは書
いておかないと気分的に嫌なので書いときます。
最後に、またterme。今回は「言葉」「言葉の用法」と訳した。この単語も毎回
迷う。いろいろ辞書引きまくって、上記のようにした。述語とか用語とが、一般的
打と思う。だけど、幸福という「述語」というのは変にも思える。用語というのは、
まあしっくりはくる。よく宇波訳では「項」と訳すが、「項」は数学用語であり、
わからなくもないが、う〜んという感じである。
termeという語は「限界・境界をつくる」というのが原義。それで時間を境界付ければ
「期間」だし、言葉を境界付ければ「述語・用語」で、そういう「限界・境界付ける」
働きによって「限界・境界付けされたもの・こと」をなんとか日本語で表そうとすると
「項」ってのがくるのはニュアンスとして理解は可能。
あと、DI岩波文庫中村文郎訳P195で、要約するとベルクソンは、
「項(terme)とは、言葉(mot)だよん」と述べてる箇所がある。
(DIの原書も確認しました。ぼくがもってるベルクソンの原書はDIとPMの二冊)。
ここでいわれている「項」は、「限界・境界付けされたもの・こと」って
ニュアンスっぽい。termeには、これだ!!って訳語が思いつかない。
尻切れトンボな感じですが、以上です。

いままでのterme(全て「言葉」と訳している)が出てくるレス。
>>96【18】 >>136【20】 >>155【24】
198仏語5級:02/12/17 18:43
上に書いている「述語」は「術語」です。
199Gilles:02/12/20 04:54
>>196-198
コメント遅れてすまん。

ちょっと細かい点について:

> 例えば、幸福とは、つきつめれば快楽に帰するのか帰さないのか、と問うてみる。

On demande par exemple si ...:
この on は、第二のタイプの偽の問題を立てる人々を指しているわけだから、
「例えばひとは、... と問う」、「例えば、... という問いが立てられる」な
どの訳のほうがいいかもしれない。

訳注の1は問題ないと思う。3は、どちらかというと、幸福/快楽という例だけ
ではなく、一般論という気がする。

訳注の2番目の irreductibles は「幸福という観念に還元不可能な」ではない
と思う。この訳注をみると、「快楽」が「幸福」に還元できず、「幸福」も
「快楽」に還元できない、という意味にとられてしまうと思うが、問題は、こ
の二項(快楽/幸福)が互いに還元可能かどうかではなく、それぞれの項が、
「還元不可能」な内容を含んでいないかどうか、だ。

irreductible はもちろん「reduire できない」という意味だが、reduire には、
「約分する、通分する」などの訳語もある。おそらくここでイメージされてい
るのもそういう話で、「快楽」という一つの言葉・語(terme)のもとには、互
いに約分(通分)不可能な、つまり、互いに性質を異にする要素が(不当に)
まとめられている、ということだろう。

terme の訳、言葉とか言葉の用法はOKだと思う。やっぱり項はまずいだろう。
200仏語5級:02/12/22 11:01
【31】第1章の第11段落(原書/7-8 邦訳/9-10)
 偽の問題の第二のタイプである提起の仕方の間違った問題は、(訳注:第一のタイプ
の偽の問題と)異なったメカニズムを作用させているように思われる。つまり、今度は、
分析の仕方の間違った混合物が論じられるのであって、この混合物の中には、
『質的に異なる』事物が恣意的に集められている。例えば、ひとは、幸福とはつきつ
めれば快楽に帰するのか帰さないのか、と問う。しかしおそらく、快楽という言葉には、
還元不可能な大変多様な状態が包摂されているし、それは幸福という観念においても
同様である。もし言葉の用法が、《自然本来の分節》と一致していないのなら、問題は、
《事物の本性そのもの》に関係しないことになり、したがって偽の問題となる(注9)。

(注9)PM,1293-1294,52-53,岩波文庫76-77.

【コメント】Gilles氏の指摘>>199により修正。
自分の書き方が誤解を招く書き方になってしまったかもしれませんが、
【31】のtermeに対応する宇波訳は「用語」ですね。
それぞれtermeの宇波訳を載せておくと
>>96【18】項  >>136【20】媒体 >>155【24】関係項。
かなりフレキシブルに訳してます。
irreductiblesの解釈はGilles氏の解説を読んで納得しましたが、それをどう
訳文に反映してよいかわからなかったので、訳注をはずすだけにした。
でも訳文だけじゃ意味が通じなそうと思う。
Gilles氏の解説およびPM岩波文庫76-77をよんで含意を掴んでくださいまし。

>快楽という言葉には、(それぞれの状態がそれぞれ互いに)
>還元不可能な大変多様な状態が包摂されているし、

って感じだと思います。文法的にも納得できる。というか、文法的にというのは、
今書きながらわかった・・・。なるほど、複数形というのは奥が深い。

201仏語5級:02/12/22 12:47
【32】第1章の第11段落のつづき(原書/8 邦訳/10)
ここでもまた、そのような混合物まがいの強度を暴き立てる際の、ベルクソンの分析は有名である。
感覚の質と、感覚の質に対応する筋肉空間(訳注4)を取り違える、つまり感覚の質と、感覚の質を
引き起こす物理的原因の量を取り違えるならば、強度の概念には、本質的に異なる諸測定方法(訳注5)
の混同によって発生した夾雑物を含んでいると言える。その結果として、《感覚というものは、
どのくらい大きくなるのか》という問題は、あいかわらず、提起の仕方の間違った問題に再分類
されるというわけである(注10)。

(注10)Cf.DI,第一章.
(訳注4)DI岩波文庫中村訳34の次の文章。
「空間の中で展開され、測定可能な現象によって表される筋肉の力」
(訳注5)ここでいわれている測定方法とは質(感覚)の測定方法と量(筋肉空間・物理的原因)
の測定方法であると思われる。両者の測定方法は本質的に異なる。

【コメント】今回も難しかった。
「:que l'on confonde」のqueはquandと解した。confondeが接続法であり、
前文にあるquandを繰り返していると判断。厳密な文法的説明はわからない。
ロワイヤル仏和のqueの項の【B】の2の用法(先行する接続詞(句)の代用となる)
がそうだと思った。そこにでている用例と微妙に違うけどそれ以上のことはわからなかった。
「筋肉空間」は直訳。どう訳していいかわからなかった。訳注4のようなことだと思う。
あまり自信ないけど。
:un melange impur entre determinations qui different en nature
この部分は、はじめ全く理解出来なく何を言いたいのかさっばりだった。
特にdeterminationsがなんなのかわからんかった。determinationを
訳注5のように解釈するとなんとなく理解できる。そのまま直訳すると
わけわからないと思ったので、訳文は「の混同によって発生した」は意訳です。
あと、entreは「〜と〜の間」という意味が基本的な意味だとも思うので、
「質の測定方法と量の測定方法の間で」というのを想定してんじゃないかなあとも思った。
renvoyerを「再分類」としたのはちょっとまずいかもしれない。
意味的にはまあまあ妥当だと思うけど。
202仏語5級:02/12/22 13:22
上の「:que l'on confonde」の説明は違うっぽいです。
その部分の訳文自体は変更する必要はないと思うんだけど。
203Gilles:02/12/23 07:09
>>200
200 達成おめでとう。

> 自分の書き方が誤解を招く書き方になってしまったかもしれませんが、
> 【31】のtermeに対応する宇波訳は「用語」ですね。
> それぞれtermeの宇波訳を載せておくと
> >>96【18】項  >>136【20】媒体 >>155【24】関係項。
> かなりフレキシブルに訳してます。

なるほど。誤解してた。

最初にお断り: 年末いっぱいくらいまでちょっとチェックできんかもしれん。
後からまとめてコメントするので、余裕があったら、先に進んでいてくれ。
204Gilles:02/12/23 07:10
>>201
quand il denonce l'intensite comme un tel mixte:
> そのような混合物まがいの強度を暴き立てる際の

「強度をそのような[=分析の仕方の間違った]混合物として示す際の」というように、comme は
普通に訳したほうがいいのではないか。

> 「:que l'on confonde」のqueはquandと解した。confondeが接続法であり、
> 前文にあるquandを繰り返していると判断。厳密な文法的説明はわからない。
> ロワイヤル仏和のqueの項の【B】の2の用法(先行する接続詞(句)の代用となる)
> がそうだと思った。そこにでている用例と微妙に違うけどそれ以上のことはわからなかった。

>>202 で自己修正しているとおり、この用法ではないことはたしか。

おそらく、ロワイヤルの que(1) 【B】 1 f [仮定] だと思う。

Qu'il veuille ou non, il devra succeder a son pere.
彼が欲しようと欲しまいと彼は父の跡を継がねばなるまい (*soit que に相当する)

que + 接続法 + ou ... の構造は、

que l'on confonde ... avec l'espace ..., ou avec la qualite

という形で出てくる。「感覚の質が、感覚の質に対応する筋肉空間(訳注4)と混同されるのであれ、
感覚の質を引き起こす物理的原因の量と混同されるのであれ」という感じか。
205Gilles:02/12/23 07:11
> 特にdeterminationsがなんなのかわからんかった。

たしかに不明瞭だが、単純に「本質的に異なる諸規定の混同」ではまずい? この「諸規定」というのは
「さまざまな事柄」というほどの意味。もとの動詞 determiner に帰って辞書の用例を見ると、「測定する」
のほかに、決定する、明確化する 〜 la date (le lieu) 日(場所)を決める、〜 les causes d'un accident
事故の原因を究明する、〜 le sens d'un mot 語の意味を定義する、などがある。いずれの場合も、
「今度会うのはこれこれの日(場所)だ」、「この事故の原因はこれこれだ」、「この語の意味はこれこれだ」
という形で、「あるものがあるものとして<規定>されること」を determination として理解すれば、「諸規定
の混同」という訳でもさほどわかりにくくはないと思うがどうだろう。

ここで諸規定としてさしあたり念頭におかれているのは、「感覚の質」、「筋肉空間」、「物理的原因の量」
の3つ。後者の2つは、本質的に量的な規定だということになり、どちらとの混同が生じるにせよ、《質》と《量》
という基本カテゴリーの混同を犯すことになる、というのがベルクソンのいいたいことなのだろう。

> renvoyerを「再分類」としたのはちょっとまずいかもしれない。
> 意味的にはまあまあ妥当だと思うけど。

これは訳しにくい。ロワイヤルによれば renvoyer は他動詞で、本文には目的語がないから(この場合の目的
語は不特定の人)、「4 指示する; 差し向ける; [・・・を] 参照させる ((〜 a))」あたりが該当しそうだが、すっき
り訳せるかというとそれまた別問題。「それは結局いつでも人を<提起の仕方の間違った問題>に送り返す」
というくらいのニュアンスだから、「再分類」の訳は悪くないように思う。
206仏語5級:02/12/23 18:19
【32】第1章の第11段落のつづき(原書/8 邦訳/10)
ここでもまた、強度をそのような混合物として示す際の、ベルクソンの分析は
有名である。それは、次のようなことである。感覚の質が、感覚の質に対応す
る筋肉空間(訳注4)と混同されるのであれ、感覚の質を引き起こす物理的原因
の量と混同されるのであれ、強度の概念は、本質的に異なる諸規定(訳注5)の
混同を含んでいる。その結果として、《感覚というものは、どのくらい大きく
なるのか》という問題は、いつでも、<提起の仕方の間違った問題>に再分類
される(注10)。

(注10)Cf.DI,第一章.
(訳注4)DI岩波文庫中村訳34の次の文章。
「空間の中で展開され、測定可能な現象によって表される筋肉の力」
(訳注5)ここでいわれている規定とは質(感覚)の規定と量(筋肉空間・物理的原因)
の規定であると思われる。量的な規定と質的な規定は本質的に異なる。

【コメント】Gilles氏の指摘>>204-205を受けて修正。
queの指摘は、なるほどっと思った。queは、用法が沢山あって難しいが面白くもある。
<提起の仕方の間違った問題>の<>はGilles氏のを見て真似た。原文にはないが、
こうすれば一つの単語に見えるので読みやすいと思う。
「それは、次のようなことである。」を追加した。これは原文の「:」のつもり。
あった方が文の繋がりがわかると思う。あとはちょこちょこ変えた。

>最初にお断り: 年末いっぱいくらいまでちょっとチェックできんかもしれん。
>後からまとめてコメントするので、余裕があったら、先に進んでいてくれ。

了解しました。
3ヶ月もの間一貫して一定のペースでの的確なアドバイスはホントありがとうございます。
207仏語5級:02/12/23 19:36
【33】第1章の第11段落のつづき(原書/8 邦訳/10)
自由の問題についても同じようなことが当てはまる。つまり、等質的空間に並置
されている諸項の多様性と持続の中に基礎付けられている諸状態の多様性、この
二種類の多様性を取り違えている。

【コメント】この部分の訳出にさいし、DI岩波文?195の次の部分を参照した。

「私たちはこうして、併置の多様性と、融合ないし相?浸透の多様性とのあいだに先に立てた
区別に立ち戻る。しかじかの感情、しかじかの観念は、たしかに意識事実の無限の多数性を含
む。しかし、その多数性は、持続とよばれてはいるが実は空間にほかならない或る等質的環境
のなかでの一種の展開によってしか、現れない。その場合、私たちは相?に外在的な諸項を知
覚することになるが、これらの項(terme)はもはや意識の諸事実そのものではなく、それらの記
号(symbole)、あるいはもっと正確に言えば、それらを表現する言葉(mot)なのである。」

今回のtermeの語義は、上に引用したベルクソンの文章のtermeの使い方と同じだと思った。一応、
白水社とちくま学芸文?のDIの該当部分を立ち読みしたらやはりtermeを「項」と訳していた。
「等質的空間」の「等質的」は意訳だが、あった方がよさげな感じがしたのでつけた。
208:02/12/24 19:50
またまた、お邪魔いたします。

determination, renvoyer, termeなどなど、確かに訳しにくいですね。

もっとも今回のtermeについては、「項」しかないと思います。
英語だとtermというより、itemという感じでしょうか。

5級氏の訳は、たいへんすっきりしてていいと思います(特にouの扱い)が、
一点だけ、se fondentの解釈は微妙かなとおもいます。
三人称複数でfondentといえば、fonder(基礎づける)のほかに、
fondre(溶かす)というやつがあります。
se fondent dans la dureeで、「持続の内で互いに溶け合っている」という
程度の意味になるかと思います。
いわゆる「相互浸透の多様性」の文脈なので、こっちの方がぴったりくる
かなと。「基礎付けられる」も無理ではないでしょうけど。
(宇波訳はどうなんでしょう?)

それだけです。おじゃましました。
遅ればせながら、祝200。
209仏語5級:02/12/25 22:42
>>207の修正訳
【33】第1章の第11段落のつづき(原書/8 邦訳/10)
自由の問題についても同じようなことが当てはまる。つまり、等質的空間に並置
されている諸項の多様性と持続の内で互いに溶け合っている諸状態の多様性、
この二種類の多様性を取り違えている。

【コメント】魚氏の指摘>>208により修正。
文脈的に確かに魚氏の言うとおりだと思い修正。適切な指摘に感謝します。

宇波訳は「持続のなかに基礎づけられる状態としての多様性」ですね。
210仏語5級:02/12/25 23:12
【34】第1章の第12段落(原書/8 邦訳/10)
 第一のタイプの偽の問題に戻ってみよう。第一のタイプの偽の問題において、
人は<より多いもの>を<より少ないもの>と取り違えていると、ベルクソンは言う。
しかしそのことと同じように、人は<より少ないもの>を<より多いもの>と取り違
えていると、ベルクソンが言うことも時にはある。

【コメント】on y prendのyはau premier type de faux problemesと解釈した。
2回目のyも同じく解釈したが、繰り返しをさけて省略した。
今回はやはりil arrive egelement que 接続法 の訳語に迷った。
<>は原文にはないがあったほうが読みやすいと思いつけた。
いらないと思う人は各自取ってしまってくださいまし。
211仏語5級:02/12/26 19:28
>>210の修正訳
【34】第1章の第12段落(原書/8 邦訳/10)
 第一のタイプの偽の問題に戻ってみよう。第一のタイプの偽の問題において、
人は<より多いもの>を<より少ないもの>と取り違えていると、ベルクソン
は言う。しかし、人は<より少ないもの>を<より多いもの>と取り違えてい
ると、ベルクソンは言うこともある。

【コメント】少し変えた。il arrive egelement queのegelementは、
「ベルクソンは言うこと*も*ある。」の「も」で十分と判断した。
「時には」も取った。ない方がより正確なきがした。
ちょっと細かいことだが気になったので変えた。
212Gilles:02/12/29 03:45
>>206
> 了解しました。
> 3ヶ月もの間一貫して一定のペースでの的確なアドバイスは
> ホントありがとうございます。

いやいや。ということで復帰。忙しいので遅れ気味になるかもしれんが。


>>209 【33】
>>211 【34】

今の訳で問題ないと思う。

>>108

魚氏の適確なコメントにも感謝。
213仏語5級:02/12/30 20:51
【35】第1章の第12段落のつづき(原書/8 邦訳/10)
つまりこういうことである。ある行為についての懐疑が、その行為に表面的に
は付け加わっているように見えるが、実際のところ、不完全な意志を表してい
るのにすぎないのと同じように、否定(という働き:訳注)は、否定される対象に
付け加わっているのではなく、否定する主体の弱さを表しているにすぎない。

【コメント】「つまりこういうことである。」は、「:」の代わり。
「表面的には付け加わっているように見えるが、」は直訳すると
「表面的にのみ付け加わっているが」となるが日本語としては上記のほうが
意を取りやすいし、言っていることも要は訳文のようなことであると思った。
「否定(という働き:訳注)」の訳注はないほうがいいかも。ちよっと迷い中。
「否定される対象」  「否定する主体」は意訳。
「否定が否定するもの」「否定するところのもの」直訳するとこんな感じかな。
二回でてくる「付け加わっている」はs'ajouter。迷った。
214Gilles:02/12/31 01:12
>>213

demi-vouloir:
> 不完全な意志

この文脈ではこの訳のほうがいいと思うが、おそらくこれはベルクソンの
表現。【35】の直後にあるPMからの引用(岩波文庫 p.93f.)の、途中の省略
箇所(原書 p.9、1行目)に「半分の意志」とあるのがそれではないかと思う。
(原文で確認したわけではないが)

ne s'ajoute qu'en apparence:
> 「表面的には付け加わっているように見えるが、」は直訳すると
> 「表面的にのみ付け加わっているが」となるが日本語としては上記のほうが
> 意を取りやすいし、言っていることも要は訳文のようなことであると思った。

それでいいと思う。

「対象」と「主体」のところもこのほうが読みやすいだろう。

ということで年内はこれが最後のコメントか。ひとまずお疲れさん。
215考える名無しさん:03/01/02 02:44
年明け早々、よいスレ発見!
五級氏、Gilles氏、魚氏をはじめ、
その他、このスレに集う人にとって、
今年もよい年でありますように。
陰ながら応援してますyo!
216仏語5級:03/01/02 23:54
>>213の修正訳
【35】第1章の第12段落のつづき(原書/8 邦訳/10)
つまりこういうことである。ある行為についての懐疑が、その行為に表面的に
は付け加わっているように見えるが、実際のところ、不完全な意志を表してい
るにすぎないのと同じように、否定(という働き:訳注)は、『否定される対象』に
付け加わっているのではなく、『否定する主体』の無力を表しているにすぎない。

【コメント】:原文イタリック体のところに『』を付けた。「弱さ」を「無力」と変えた。
Gilles氏>>214の指摘のあったdemi-voiloirのところ
PM66
il n'avez qu'une demi-volonte d'accomplir l'acte,
et c'est pourquoi l'acte accompli ne lui laisse qu'une demi-certitude.

河野訳93
この人は行為を果たすのに半分の意志しかもっていなかったので、
果たされた行為も半分の確実性しか与えないのである。

を見て「半分」に変えようかと思ったけどとりあえずそのままとします。
ベルクソンの文章の「半分の」を「不完全な」に変えても文意が通じる
と思ったからです。でもちょっと決めかねるのであとは各自選択してください。
今書きながら、文を見直したけどやっぱわかんないすね。

というわけで年が明けました。
以後も、なんとか自分なりに読み得る訳をUP出来るようにやっていきたいっす。


217仏語5級:03/01/03 02:10
【36】第1章の第12段落のつづき(原書/8-9 邦訳/10-11)
《われわれは、神的とも言いうるほどの創造的な意志や思考が、無限の実在の
中で、自分自身で十分充実しているので、秩序の欠如または存在の欠如という
観念は、この創造的な意志や思考に触れることすら出来ないのだと感じる。絶
対的無秩序の可能性、ましてや無の可能性を表象することは、創造的意志や思
考にとって、みずからが全く存在していなかったかもしれなくなりしたがって、
創造的意志や思考は、まさしく自らの本質である力と相容れない無力となるだ
ろう。(省略)それは<より多いもの>ではなくて<より少ないもの>である。
つまり意志の不足である》(注11)。

(注11)PM,1304-1305,66,岩波文庫93-94.

【コメント】河野訳も参照した。代名詞はウザイかもしれないけど「それ」とかにしないで
「創造的な意志や思考」等と繰り返しました。<>は原文はないぼくの判断。
いろいろあると思うすけど一カ所だけコメントします。
省略して引用すると
Se representer (略) serait pour elle se dire que qu'elle aurait pu ne pas etre du tout

この文のseraitは、Se representerが条件節の役目を果たしている普通の条件法現在と解釈。

se dire que qu'elle aurait pu は、従属節にあるからはじめ時制の条件法過去だと思ったけど、
se direは不定法だからどうなんだろと思った。そこでフランス語ハンドブックP265に推測・疑念
の条件法の文章を見つけた。

Ce serait samedi que le crime aurait ete commis.
訳:犯行が行われたのは土曜日のことらしい。

この例文と微妙ににていると思ってこんな感じかなと思って
se dire que qu'elle aurait puの条件法過去は従属節だが推測・疑惑の
法の条件法過去として訳した。これ以上はちょっとわからない。
218仏語5級:03/01/03 03:58
>>217の修正訳
【36】第1章の第12段落のつづき(原書/8-9 邦訳/10-11)
《神的とも言いうるほどの創造的意志または思考が、無限の実在の中で、自分
自身で十分充実しているので、秩序の欠如または存在の欠如という観念は、こ
の創造的意志または思考に触れることすら出来ないのだとわれわれは感じる。
絶対的無秩序の可能性、ましてや無の可能性を表象することは、創造的意志ま
たは思考にとって、みずからが全く存在していなかったことも有り得るという
ことになり、創造的意志または思考は、まさしく自らの本質である力と相容れ
ない無力となってしまうだろう。(省略)それ(訳注6)は<より多いもの>では
なくて<より少ないもの>なのである。つまり意志の不足である》(注11)。

(注11)PM,1304-1305,66,岩波文庫93-94.
(訳注6)ここの「それ」は「絶対的無秩序の可能性、ましてや無の可能性を表
象すること」または河野訳94「人が自分でしようと思ったことをしたという
ことをどうして確信するか、しかも決定的に確信するか」という問題を指し
ていると思われる。

【コメント】読みづらいと思いちょい修正。まだ読みにくいとは思うんすよね。
でもこんなところかなとりあえず。
訳注6はぼくの解釈。やはり「それ」が何を指しているかを特定しないと文意が
わからないと思ったのでぼくなりの理解を書いた。
219仏語5級:03/01/03 04:35
訳注6に書いた「それ」の指し示してるのは、
普通によめば、
前の文章からの「創造的意志または思考は無力となってしまうだろう」を受けて、
「無力=『それ』とは<より少ないもの>であり、つまり意志の不足である。」
って解釈が一番まともっぽい。

繰り返し書いて混乱された方すんません。修正訳で直したいと思います。
220考える名無しさん:03/01/03 09:26
  
221Gilles:03/01/04 06:44
>>217-219

いつもごくろうさん。

> Se representer (略) serait pour elle se dire que qu'elle aurait pu ne pas etre du tout
>
> この文のseraitは、Se representerが条件節の役目を果たしている普通の条件法現在と解釈。
>
> se dire que qu'elle aurait pu は、従属節にあるからはじめ時制の条件法過去だと思ったけど、
> se direは不定法だからどうなんだろと思った。

この不定法は、『フランス語ハンドブック』で言うと、p.123 の次の文と同様:

Dire "je vous aime" n'est pas necessairement aimer.
「『愛しています』と言うことは必らずしも愛することではない」

つまり、不定法は(英語の to 不定詞のように)主語や属詞にもなれる。

上の例文は etre の直説法だが、問題の文はそれが条件法となっているという違いはあるが、
構造は同じ。A serait (pour elle) B の A と B がそれぞれ不定法になっている。

A: se representer ... a plus forte raison du neant
B: se dire qu'elle aurait pu ne pas etre du tout

ついでに言うと、A serait B, et ce serait la une faiblesse ... という構造を見ると、
ce は、A を(あるいは B を)内容的に受けていることが見えやすくなると思う。

> 創造的意志または思考は、まさしく自らの本質である力と相容れ
> ない無力となってしまうだろう。

と訳しているところを見ると ce を elle (= une volonte ou une pensee) ととったようだが、
それならはっきり elle を使うだろう。
222Gilles:03/01/04 06:45
>>219

> 訳注6に書いた「それ」の指し示してるのは、
> 普通によめば、
> 前の文章からの「創造的意志または思考は無力となってしまうだろう」を受けて、
> 「無力=『それ』とは<より少ないもの>であり、つまり意志の不足である。」
> って解釈が一番まともっぽい。

ドゥルーズの引用は、ベルクソンの文脈をかなり端折った形になっている。だから、ひとまず
ベルクソンの文脈に忠実に考えるなら、>>218 の訳注でいいと思う(窓を閉めた後に閉めたか
どうか何度も確認するという例を受けた文脈になっている)。

が、少なくともドゥルーズはこの ce の内容をこういう風に要約できると理解している、ある
いは、こういう風に読ませようとしていることは確かだ。
223山崎渉:03/01/08 19:13
(^^)
224仏語5級:03/01/08 22:17
>>218の修正訳。
【36】第1章の第12段落のつづき(原書/8-9 邦訳/10-11)
《神的とも言いうるほどの創造的意志または思考が、自らの無限の実在の中で、
自分自身で十分充実しているので、秩序の欠如または存在の欠如という観念は、
<この創造的意志または思考>に触れることすら出来ないのだとわれわれは感
じる。絶対的無秩序の可能性、ましてや無の可能性を表象することは、<創造
的意志または思考>にとって、みずからが全く存在していなかったことも有り
得るということになるし、そのようなことは、<創造的意志または思考>の本
質である力と全く相容れない無力と言いうるだろう。(省略)それ(訳注6)は<よ
り多いもの>ではなく<より少ないもの>である。つまり意志の不足である》(注11)。

(注11)PM,1304-1305,66,岩波文庫93-94.
(訳注6)「それ」はこの文脈からなら「無力」または、PMの文脈を尊重すれば、(省略)の部分にある河野訳94「人が自分でしようと思ったことをしたということをどうして確信するか、しかも決定的に確信するか」という問題を指していると思われる。

【コメント】Gilles氏の指摘>>221-222により修正。ceは、「そのようなこと」と訳した。凄い迷って
いろいろ考えてとりあえずこの訳に落ち着いた。<この創造的意志または思考>の<>は、この単語
がちゃんと一つの単語に見えるようにするため付けた。

「全く相容れない無力と言いうるだろう」の「全く」は意訳。「言いうる」も原文にはないが、ちゃ
んと意味が取れてうまく日本語にする仕方が他に思いうかばなかった。ちょい微妙です。

「創造的意志または思考」を「力・force」といい、それに対して「絶対的無秩序の可能性、ましてや
無の可能性を表象すること」を「無力・faiblesse」と言っている。ぼくは、日本語では「力」「無力」
として対義語になるように訳語を選んだんだけど、当の仏語でforceとfaiblesseは対義語なんかどうか
辞書引いたけどわからんかった。

ムズイ。
225仏語5級:03/01/10 06:14
【37】第1章の第12段落のつづき(原書/9 邦訳/11)
非存在は、存在との比較により時に<より多いもの>時に<より少ないもの>
として示される。この二つの表現の間に矛盾はあるのだろうか。ベルクソンが
《実在しない》問題において暴き立てたものつまり、『あらゆる思考の方法に
おける』<より多いもの>と<より少ないもの>という言葉による思考への偏
執を考察するならば、この二つの表現の間に矛盾は存在しない。

【コメント】『』内原文イタリック。『あらゆる思考の方法における』はde toutes manieres。
熟語で「とにかく」「いづれにしても」などがあるが、わざわざイタリック体にしてるのは、
その熟語の意味とは違う別の意味が掛け合わされている言葉遊びなんじゃないかと思った。が、
この場合の訳語の意味はどういう意味なのかわからなかったので一応上記のようにした。あま
り自信ない。宇波訳は「あらゆる意味において」と訳している。
226Gilles:03/01/10 15:58
>>225
>『あらゆる思考の方法における』はde toutes manieres。
> 熟語で「とにかく」「いづれにしても」などがあるが、わざわざ
> イタリック体にしてるのは、その熟語の意味とは違う別の意味が
> 掛け合わされている言葉遊びなんじゃないかと思った。

ここの de toutes manieres は d'une maniere ou d'une autre、つまり、
「いずれの(どちらの)場合でも」=「存在が<より多い>とされる場合でも、
その逆に<より少ない>とされる場合でも」ということではないかと思う。

フランス語の tous/toutes は英語でいう both の意味ももつから。
227:03/01/10 23:24
こんばんわ、おじゃまします。

>>225
>ベルクソンが
>《実在しない》問題において暴き立てたものつまり、『あらゆる思考の方法に
>おける』<より多いもの>と<より少ないもの>という言葉による思考への偏
>執を考察するならば、この二つの表現の間に矛盾は存在しない。

penserは節を目的語にしてるので、「ベルクソンが暴きたてたのが
(ほにゃらら)であると考えるならば」という形のほうが忠実かと
思います。細かいことですけども。

>>224
あと、forceとfaiblesseはやっぱ一般的には対義語ではないんでしょうね。
「強さ」だったらvigueurとかが普通でしょうか。
もちろんここで「力」「無力」って訳すのは、全然イイと思います。
228仏語5級:03/01/11 09:39
>>225の修正訳
【37】第1章の第12段落のつづき(原書/9 邦訳/11)
非存在は、存在との比較により時に<より多いもの>時に<より少ないもの>
として示される。この二つの表現の間に矛盾はあるのだろうか。ベルクソンが
暴きたてたのが、《実在しない》問題において『いずれの場合においても(訳注7)』
<より多いもの>と<より少ないもの>という言葉による思考への偏執と考え
るならば、この二つの表現の間に矛盾は存在しない。

(訳注7)ここの含意は次のようであると思われる。『存在が<より多いもの>と
される場合でも、その逆に<より少ないもの>とされる場合でも』

【コメント】Gilles氏の指摘>>226、魚氏の指摘>>227により修正。
Gilles氏のde toutes manieresの解釈はなるほどっと思いとても腑に落ちた。で、その解釈は訳注
として、Gilies氏の文そのままひっぱってきました。ただ<より多い>を<より多いもの>とさせ
ていただきました。これは単に後者の訳語で訳してきてしまっているということだけです。
魚氏のピンポイントな指摘は、ぼくはここの訳文の処理はあまりわからなかったので助かりました。

Gilles氏、魚氏の指摘に感謝します。
229仏語5級:03/01/11 19:07
【38】第1章の第12段落のつづき(原書/9 邦訳/11)
無秩序の観念が現れるのは、(訳注:それぞれが互いに)還元不可能な二つない
しそれ以上の秩序(例えば生命の秩序と機械の秩序の場合は、一方が存在して
いるとそこに他方は存在しない)が存在していると考える代わりに、秩序の一
般的観念のみを考慮する時である。この時われわれは、秩序の一般的観念を無
秩序と対比することと、無秩序の観念との相関関係によって考えることとで満
足している。

【コメント】最後の文の処理はちょっと微妙。どういう風に本文繰り込むのか迷った。
ちなみに今回のは、原文は接続詞でつながってる一つの文章です。
230Gilles:03/01/14 22:36
>>229
遅くなってすまん。

> 最後の文の処理はちょっと微妙。どういう風に本文繰り込むのか迷った。
> ちなみに今回のは、原文は接続詞でつながってる一つの文章です。

たしかに難しいが、やはり訳も一文で処理したほうがいいように思う。

> 秩序の一般的観念のみを考慮する時である。この時われわれは、
> 秩序の一般的観念を無秩序と対比することと、無秩序の観念との
> 相関関係によって考えることとで満足している。

「無秩序の観念が現れるのは、(訳注:それぞれが互いに)還元不可能な
二つないしそれ以上の秩序(例えば生命の秩序と機械の秩序の場合は、
一方が存在しているとそこに他方は存在しない)が存在していると考え
る代わりに、秩序の一般的観念のみを保持し、これを無秩序に対比した
り、無秩序の観念と関連させて考えたりするだけで満足してしまう時で
ある。」

あまり読みやすくはならないが。
231Gilles:03/01/14 22:37
【補足】
この文は「秩序/無秩序」についてだが、後の2つの文は「存在/非存
在(無)」と「実在性/可能性」について同形の議論を行なっている。

これらの対立のうち、後者(無秩序、非存在、可能性)から前者(秩序、
存在/可能性」への<移行>がどのようにして起こるのかを問うのが、
原書 p.6 でいう第一のタイプの偽の問題だった。
>>155-156 【24】、【25】 以下参照。

当初の説明だと、このタイプの偽の問題(=実在しない問題)は、<より
多いもの>と<より少ないもの>の混同という形で批判されていたが、こ
の辺りでは、そもそも「無秩序」、「非存在」、「可能性」というようなものが
「実在しない」という形の議論になっている。

「秩序」と「無秩序」があるのではなく、実際には2種類の「秩序」があり、
両者の間の「本性上の(質的な)差異(differences de nature)」を見な
いことから第一のタイプの偽の問題が生じる、という形で、ドゥルーズは第一
のタイプを第二のタイプに帰着させている(原書 p.9 下)。 >>151 も参照
232Gilles:03/01/14 22:41
>>231
> これらの対立のうち、後者(無秩序、非存在、可能性)から前者(秩序、
> 存在/可能性」への<移行>がどのようにして起こるのかを問うのが、
> 原書 p.6 でいう第一のタイプの偽の問題だった。

書き間違えた。念のため:

これらの対立のうち、後者(無秩序、非存在、可能性)から前者(秩序、
存在、実在性)への<移行>がどのようにして起こるのかを問うのが、
原書 p.6 でいう第一のタイプの偽の問題だった。
233仏語5級:03/01/16 19:38
>>229の修正役
【38】第1章の第12段落のつづき(原書/9 邦訳/11)
無秩序の観念が現れるのは、[それぞれが互いに]還元不可能な二つないしそれ
以上の秩序(例えば生命の秩序と機械の秩序の場合は、一方が存在していると
そこに他方は存在しない)が存在していると考える代わりに、秩序の一般的観
念のみを保持し、これを無秩序に対比したり、無秩序の観念と関連させて考え
たりするだけで満足してしまう時である。

【コメント】Gilles氏の指摘>>230-232により修正。[]は訳注。以後訳注は[]にします。

>遅くなってすまん。
いえいえ。マイペースでやってくださいまし。ってぼくが言える立場じゃないけど。
234仏語5級:03/01/16 19:43
【39】第1章の第12段落のつづき(原書/9 邦訳/11)
非存在の観念が現れるのは、互いに無限定に置き換えられつつも互いに異なって
いる諸実在を理解する代わりに、無との対比および無との関係によってしか有り
得ない存在一般の同質性に、これらの諸実在をまとめてしまう時である。

【コメント】「まとめて」はconfondre。いままでは、「取り違える」と訳してきたて、
この文脈でもそのような意味は含まれていると思う。しかし、日本語としてうまくはま
るような感じがしなかった。Le dicoには「《文》混ぜる、ひとつにする」という語義
があり、「ひとつにする」という訳語をヒントに「まとめて」という訳語を当ててみた。

「互いに無限定に置き換えられつつも互いに異なっている諸実在」は
les realites differentes qui se substituent les unes aux autres indefiniment
あんまりわからない。
宇波訳は「たがいに無限定に代置される異なったもろもろの存在」
235山崎渉:03/01/18 09:39
(^^)
236Gilles:03/01/19 20:05
>>234
indefiniment:

> 「互いに無限定に置き換えられつつも互いに異なっている諸実在」は
> les realites differentes qui se substituent les unes aux autres indefiniment
> あんまりわからない。

これは、ロワイヤルの最初にのっている「際限なく、限りなく、果てしなく」などをその
まま使えばいいと思う。無(非存在)から有(存在)への一度きりの<移行>など
というものはなく、むしろ、「さまざまな[互いに異なる]実在(realites differents)」
のみがあり、それが交互に「際限なく」交代するのだ、という話だろう。

>>161 【26】
> ある存在がわれわれの注意に値せず、われわれが、その存在を欠如つまりわれ
> われの関心を引く対象の不在としてのみ把握する場合

という例に引きつけていえば、無(非存在)だと思われていたものは、単に「われわれ
の関心を引く対象の不在」ないし「欠如」にすぎない、ということだ。

confondre を「まとめる」にするのはよいと思う。が、qui ne peut plus 以下の関係
節は、原文と同じ位置関係を保って訳したほうがわかりやすいのではないか。

> 無との対比および無との関係によってしか有り得ない存在一般の同質性に、
> これらの諸実在をまとめてしまう時

「これらの諸実在を<存在一般>という同質性の中にまとめてしまい、この<存在
一般>が無にのみ対比され、無にのみ関係づけられる時」
237仏語5級:03/01/21 21:39
>>234の修正訳
【39】第1章の第12段落のつづき(原書/9 邦訳/11)
非存在の観念が現れるのは、互いに際限なく入れ替わりつつも[互いに異なる]
さまざまな実在を理解する代わりに、これらの諸実在を<存在一般>という同
質性の中にまとめてしまい、この<存在一般>が無にのみ対比され、無にのみ
関係づけられる時である。

【コメント】Gilles氏の指摘>>236により修正。訳語も拝借した。
「置き換える」を「入れ替わる」と変えた。
238仏語5級:03/01/21 22:31
【40】第1章の第12段落のつづき(原書/9 邦訳/11)
可能性の観念が現れるのは、それぞれの<存在するもの>をその新しさの相に
おいて理解する代わりに、現実性全体を、単なる《現実化》によって由来する
と見なされているものに属する予め形成された要素に関係させる時である。

【コメント】<存在するものexistant>は「現実性existence」の言い換えです。仏語の単語だと対応関係
は見やすいけど、訳語だとサッパリわからないと思います。一度出てきてることですが、以下に対応する
箇所を挙げておきます。existenceは、「実在・存在」とかの訳語があるが、possibbleの対義語のニュア
ンスもほしいし、既に>>174で一度そう訳しているので、「現実性」とした。

<existence現実性  possibble 可能性>>>174
<reel 現実性 possibilite可能性>と<存在するものexistant>の対応関係>>175-185
239Gilles:03/01/24 16:15
>>238
> 現実性全体を、単なる《現実化》によって由来すると見なされて
> いるものに属する予め形成された要素に関係させる時である。

前半はOKだと思うが、上の箇所は、dont tout serait 以下を取り違えて
いるのでは?(特に「属する」のあたり)

dont は de l'element preforme だが、この de は部分を表わす用法では
なく(「属する」という訳語はそういう解釈だと思う)、sortir de ...
の一部だろう。つまり、Tout (=l'ensemble de l'existence) sortit de
l'element preforme par simple "realisation".[万物(現実性全体)は
この予め形成された要素から、単なる《現実化》によって、生じてくる]
というような文が元になっていると考えればよい。

「現実性全体を、予め形成されたある要素に関係させ、全てのものがその
要素から単なる《現実化》によって生じると見なされる時である。」

ってな感じか。
240仏語5級:03/01/27 02:35
>>238の修正訳
【40】第1章の第12段落のつづき(原書/9 邦訳/11)
可能性の観念が現れるのは、それぞれの<存在するもの>をその新しさの相にお
いて理解する代わりに、現実性全体を、予め形成されたある要素に関係させ、全
てのものが単なる《現実化》によってその要素から生じると見なされる時である。

【コメント】Gilles氏の指摘>>239により修正。

Tout de l'element preforme serait cense sortir par simple "realisation"

というようなあほな解釈してました・・。
sortir parのparはdeの代わりかなとかとか。
241仏語5級:03/01/29 23:38
【41】第1章の第13段落(原書/9-10 邦訳/11-12)
 要するに、<より多いもの>あるいは<より少ないもの>という言葉で思考
するたびに、二つの秩序の間、二つの存在の間、二つの存在するものの間にあ
る本性の差異はすでに無視されているのである。この点から、『第一のタイプ
の偽の問題は、どのようにして結局は第二のタイプの偽の問題に基づいている
かが理解できる』。つまり、無秩序の観念は、<分析の仕方の間違った混合物>
としての<秩序についての一般的観念>から生じる、等々。したがって、<よ
り多いもの>と<より少ないもの>という言葉によってすべてを理解し、より
根底的には本性の差異があるところに程度の差異・強度の差異しか見ないこと
は、おそらく思考の最も一般的な間違いであり科学と形而上学に共通する間違
いである。

【コメント】『』ないは原文イタリック。
242Gilles:03/01/31 15:55
>>241
今回の訳も問題ないと思う。

蛇足で、ドゥルーズのあげている例に注釈しておけば、

> 無秩序の観念は、<分析の仕方の間違った混合物>
> としての<秩序についての一般的観念>から生じる

「無秩序の観念」は「第一のタイプの偽の問題」としてあげられている代表例。
このタイプの問題は、<より多い>と<より少ない>の取り違えから生じるもの
とされる:
>>156 【25】、>>161 【26】

「分析の仕方の間違った混合物」とは「第二のタイプの偽の問題」の原因とされ
るもの。この混合物は、「質的に異なる(本性の差異をもつ)」事物同士が混同
されることにより生じる:
>>200 【31】

この【41】は、【25】の(注7)で言われていた次の予告(「後にわかる
ように」)の説明にもなっている。

> ベルクソンのテクストに応じて、例がどちらのタイプに分類されるか
> は変化する。これは、驚くことではない。なぜなら、後にわかるよう
> に、それぞれ偽の問題は、いろいろな割合で二つの側面を表すからで
> ある。
243仏語5級:03/02/02 12:24
【42】第1章の第14段落(原書/10 邦訳/12)
 したがってわれわれは、偽の問題の二つの側面に対応する根本的な幻想のとりことなっている。
実際、偽の問題という概念自体は、単なる誤謬(偽の解答)とたたかうべきではなく、何かより深
いものとたたかうべきだということを意味している。つまり幻想は、われわれをとらえ、あるい
はその中にわれわれは浸っていて、われわれの状況と不可分なのである。[また幻想は、]ベルク
ソンが可能性の投影に関して述べたような幻影でもある。ベルクソンは、カントのある概念を借
りている。[ただしベルクソンは、]その概念を全く別の概念に変形させることも辞さない。つま
り、理性は理性自体の最も深いところで誤謬ではなく、不可避の幻想を生み出すということを証
明したのがカントであり、この不可避の幻想の結果=効果をわれわれは、予測することしか出来
なかった。

【コメント】conjurerは宇波訳を踏襲し「予測」とした。effetは、よく「結果=効果」と訳されてるのを
見てるのでそれを真似した。「投影」retrojectionは仏和・仏仏に載ってなかったが、projectionの対義語だなと見当を付けた。
pro(前に)  -jection(投げる):投影
retro(後ろに)-jection(投げる):投影
訳語は思いつかず同じにしてしまった。適訳があれば変えたい。
mirageの訳語は、「蜃気楼」があるが文脈上「幻影」のがいいかなと思った。

最後の文章のところ。
動詞がmontrait(半過去)、engendre(現在)、pouvait(半過去)となっている。最初のはいいとして、
次の現在形は、用法として一般的真理の用法だと思うのでこれもいいとして、最後の半過去がなんな
のか迷った。第一この文は、montraitの従属節なのかもちょっとわからない(従属節ならこの文内容
はカントの証明したことのはず。そもそも従属節の時制は主節の時節に規定されるので、そうすると
pouvaitが従属節なら意味的には現在形と同じのはず)。とりあえず、現在形の部分だけカントの証
明したことになるような訳文とした。

Gilles氏へ、
毎回ありがとうございます。
244仏語5級:03/02/02 19:02
ちょっと間違いっぽいとこありました。

>つまり幻想は、われわれをとらえ、あるいはその中にわれわれは浸っていて、
>われわれの状況と不可分なのである。[また幻想は、]ベルクソンが可能性の投
>影に関して述べたような幻影でもある。

の部分は、前の文からの繋がりで言うと、

>[つまり何かより深いものとは、]われわれをとらえ、あるいはその中にわれわれ
>は浸っていて、われわれの状況と不可分な幻想である。[または、]ベルクソンが
>可能性の投影に関して述べたような幻影でもある。

って解釈のが妥当っぽい。
245Gilles:03/02/03 04:00
>>243
conjurer:
> conjurerは宇波訳を踏襲し「予測」とした。

conjECTurer と混同しているのでは? ロワイヤルによれば、conjurer は、
[悪霊などを]祓う、[災厄などを]払いのける、の意味。用例を見ると、
(〜の怒りを・事故を)かわす、(罹病を)避ける、などという訳語もある。

> 実際、偽の問題という概念自体は、単なる誤謬(偽の解答)とたたかうべき
> ではなく、何かより深いものとたたかうべきだということを意味している。

これでもいいが、日本語として読んだ場合、ちょっとわかりにくいように思
う。こんな風にしてはどう?

「実際、偽の問題という概念自体、われわれの闘うべき相手が単なる誤謬(誤
まった[偽の]解答)ではなく、何かより深いものである、ということを意味
している。」

> ベルクソンは、カントのある概念を借りている。[ただしベルクソンは、]そ
> の概念を全く別の概念に変形させることも辞さない。つまり、理性は理性自
> 体の最も深いところで誤謬ではなく、不可避の幻想を生み出すということを
> 証明したのがカントであり、この不可避の幻想の結果=効果をわれわれは、
> 予測することしか出来なかった。

まず、ドゥルーズが念頭においているであろうカントの文脈を先に見たほうが、
後の訳し方も決めやすいと思う。問題の文脈は、『純粋理性批判』「超越論的弁
証論」の冒頭、「超越論的仮象について(Vom transzendentalen Schein)」だと見
てよいだろう。カントはここで、論理的仮象と超越論的仮象を区別しながら、
次のように述べている。少々長くなるがご辛抱。
246Gilles:03/02/03 04:01
「理性的形式の単なる模倣にもとづく論理的仮象(誤謬推理による仮象)は、
単に論理的規則に対する注意を欠くことから生じる。それゆえに、問題の事例
に即して注意が鋭敏になれば、この仮象はまったく消え去ってしまう。それに対し
て、超越論的仮象は、それが発見され、超越論的批判によってその無効さが
はっきり理解されたとしても、やはり途絶えない。(例えば、『世界は時間的に始
まりをもたなければならない』という命題の仮象のように)」(B版 353頁)

カントはこの仮象(Schein)を幻想(Illusion)と言い換えてもいる(同頁)。そして、
地平線から昇ってくる月が天文学者にとってさえより大きく見えるという例(ただし、
天文学者はこの錯覚に欺かれないが、とカントは注記している)をあげつつ、こう述
べる。

「それゆえに、超越論的弁証論は超越的判断の仮象を発見し、同時にこの仮象
が[われわれを]欺かないようにするだけで満足するだろう。だが、さらにこの仮象が
(論理的仮象のごとく)消え去り、仮象であることをやめるということは、超越論的
弁証論のけっしてなしうるところではない。というのも、われわれは、主観的原則に
もとづくものでありながら、この原則を客観的なものであるかのごとくすりかえる、自
然[本性的]で不可避的な幻想[unvermeidliche(n) Illusion]を相手にしている
からである。」(B版 354-55頁)
247Gilles:03/02/03 04:02
> 動詞がmontrait(半過去)、engendre(現在)、pouvait(半過去)となって
> いる。最初のはいいとして、次の現在形は、用法として一般的真理の用法
> だと思うのでこれもいいとして、最後の半過去がなんなのか迷った。

実は、あまり細かい点になると、こちらも文法の知識が怪しくなるのだけど(今
手元に『フランス語ハンドブック』もないので)、pouvait の半過去は条件法の
代用ではないか。また、ロワイヤルによると、「pouvoir の半過去は条件法過
去の意味を表すことがある」そうだ。つまり、

> この不可避の幻想の結果=効果をわれわれは、予測することしか出来なかった。

は、ちょっと seulement を意訳すると、「われわれはせいぜいのところ、この不可
避の幻想の結果=効果を避けることができるにすぎない」ということだろうと思う。
(たとえその気になったとしても、という条件節が省略されていると考える。この説
明でいいのかな)

だから、上に引用したカントの議論を含めて考えると、

> 第一この文は、montraitの従属節なのかもちょっとわからない(従属節なら
> この文内容はカントの証明したことのはず。そもそも従属節の時制は主節
> の時節に規定されるので、そうするとpouvaitが従属節なら意味的には現
> 在形と同じのはず)。とりあえず、現在形の部分だけカントの証明したことに
> なるような訳文とした。

「カントの証明したこと」はこの文の最後までだと解釈したほうがいいと思う。
248考える名無しさん:03/02/03 04:03
> mirageの訳語は、「蜃気楼」があるが文脈上「幻影」のがいいかなと思った。

例によって原文がないので確認できないが、『思想と動くもの』の次の話に対応
するのではないかと思う。

「事象が予見のできない新しいものとして創造されていくにつれて、そのイメージ
は自分の後にある不定な過去のうちに反映します。そのイメージはそこでいつで
も可能なものであったということになります。そこで私は、そのイメージの可能性は
その事象性に先立つものではなく、一度事象性が現われてしまうとそれに先立っ
たであろうということになると言ったのです。ですから可能的なものは過去のうちに
ある現在の蜃気楼なのです。」(岩波文庫、「可能性と事象性」 p.153)

だとすると、ここで「反映」と訳されている語(原文では?)を踏まえて retrojection
と言っていると思われる。たしかに、この名詞形は初めてのようだが、

「現実性が一度生じると、その現実性のイメージを過去に送り返す精神の働き」
>>170 【27】 原書 p.7)

「この[真理の逆行的]運動によって、存在・秩序・存在するものは、それぞれ自ら
のイメージを第一次的なものと想定されている可能性・無秩序・非存在に投げ返
すことにより、それぞれ自らに先立つつまり、存在・秩序・存在するものは、存在・秩
序・存在するものを構成する創造的な働きに先立つと見なされるのである。」
>>185 【29】 原書 p.7)

でそれぞれ「送り返す」「投げ返す」と訳されてた rejeter、retrojeter と内容的に同
じだろう。
249Gilles:03/02/03 04:16
>>248 は「考える名無しさん」になってしまったが、>>245-247 の続き。

> Gilles氏へ、
> 毎回ありがとうございます。

こちらこそ。初めはこちらも何気なくレスしただけだったが、いつの間に
やら常連になってしまった。誰かが書いてように、2ch にこんな使い方が
あるとは思ってもみなかった。おかげで、ドゥルーズやベルクソンを読み
返すいい機会になっている。これからも「地味に淡々と」がんばってくれ。

(ちなみに次は250だが、3氏はまだ見てるだろうか)
250仏語5級:03/02/05 20:22
>>243の修正訳
【42】第1章の第14段落(原書/10 邦訳/12)
 したがってわれわれは、偽の問題の二つの側面に対応する根本的な幻想のとりことなっている。
実際、偽の問題という概念自体、われわれの闘うべき相手が単なる誤謬(誤まった[偽の]解答)
ではなく、何かより深いものである、ということを意味している。つまり[何かより深いものとは、]
われわれをとらえ、あるいはその中にわれわれは浸っていて、われわれの状況と不可分な幻想で
ある。[また、]ベルクソンが<可能性の投げ返し>に関して述べたような蜃気楼[訳注8]でもある。
ベルクソンは、カントのある概念を借りている。[ただしベルクソンは、]その概念を全く別の概念
に変形させることも辞さない。つまり、理性は理性自体の最も深いところで誤謬ではなく、『不可
避の』幻想を生み出し、われわれはせいぜいのところ、この不可避の幻想の結果=効果を避けるこ
とができるにすぎないと証明したのがカントである。

[訳注8]PM,111,岩波文庫153.>>248に引用あり。

【コメント】Gilles氏の指摘>>245-248により修正。あと原文イタリックのところに
『』をつけた。かなり明晰になったと思う。
conjurerは、はじめ「企てる」とか「さける」から宇波氏が意訳して「予測」という訳語を考え
たと思ったんだけど、conjecturerという単語は白名かったっす・・・。確かにそうですね。
retrojectionは「投げ返し」とした。

「実際、偽の問題という概念自体、[省略]ということを意味している。」
この部分のGilles氏の訳はちょっと変えただけでこんなに明晰になるものかと思い勉強になった。

pouvaitの部分もGilles氏の意見を踏襲した。カントの引用わざわざありがとうございます。

mirageの原文はGilles氏の言うとおりでした。原文上げときます。しかし、原文に《》がついているわけ
でもないのに「蜃気楼」と聞いて、それに対応するベルクソンの文章を引用してくるのはすごいとおもた。
[反映]Au fur et a mesure que la realite se cree,imprevisible et neuve,son image se reflechit derriere elle dans le pasee indefini
[蜃気楼]Le possible est donc le mirage du present dans le pasee.
251仏語5級:03/02/05 20:24
いまレスは250まできましたが、原書は10ページ目です。一章は原書で28ページ分あるので、
このペースで「うまくいけば」レスが750くらいで一章が収まると思います。

Gilles氏のおかげで続いてるのかなとも時に思います。一人で放置プレイだったら
続いてたかなと思うと疑問ですからね。

というわけで3氏の予言>>102はまたはずれましたな。なかなかあきないもんです。
以後も地味に淡々といきます。
252Gilles:03/02/05 23:26
>>250
> [反映]Au fur et a mesure que la realite se cree,imprevisible et neuve,son image se reflechit derriere elle dans le pasee indefini
> [蜃気楼]Le possible est donc le mirage du present dans le pasee.

なるほど、反映は se reflechir か(当たり前か)。引用感謝。
(余計なことを言ったかもしれないが、retrojection は「投影」でもよかった
ように思う)

> しかし、原文に《》がついているわけでもないのに「蜃気楼」と
> 聞いて、それに対応するベルクソンの文章を引用してくるのはす
> ごいとおもた。

まあでも、ドゥルーズの言い方から、引用であることはだいたい推測できる。この
箇所だとわかったのは、前にこの論文を読んだときの記憶もどこかにあったのかも
しれない。「どの箇所を念頭においてるのか」というのを考えるのは職業病みたい
なもんで。

> いまレスは250まできましたが、原書は10ページ目です。一章は原書で28ページ
> 分あるので、このペースで「うまくいけば」レスが750くらいで一章が収まると
> 思います。

その調子で気長に行こう。(この機会に宇波氏が改訳してくれるといいんだが)
253仏語5級:03/02/10 20:12
【43】第1章の第14段落のつづき(原書/10 邦訳/12)
ベルクソンは偽の問題の本質を[カントと]全く違った仕方で規定し、カントの
批判はベルクソンにとって<提起の仕方の間違った問題>の総体そのものに見
えるにもかかわらず、ベルクソンは、カントの方法と類似する方法で幻想を
扱っている。幻想は知性の最も深いところに基づき、厳密に言えば幻想は消散
されずまた消散されうるものでもなく、ただ『抑圧』されうるだけである。(注12)

(注12)PM,1306,68,岩波文庫403(註『緒論』(13))における非常に重要な註を参照。

【コメント】natureを今回は「本質」と訳した。いつもは「本性」とかと訳してる。
どっちか迷った。

>(この機会に宇波氏が改訳してくれるといいんだが)

確かに改訳でてほしいです・・・。
254Gilles:03/02/12 19:04
>>253
> カントの批判はベルクソンにとって<提起の仕方の間違った問題>の
> 総体そのものに見えるにもかかわらず

細かい点だが、「そのもの」と訳しているのは elle-meme? これは女性形だから、
la critique kantienne を指している。その関係をはっきり訳せば、

「ベルクソンにとって、カントの批判[哲学]それ自体が[ou まさしく]<提起の
仕方の間違った問題>を寄せ集めたもののように思われたにしても」

という感じか。まあ意味の上ではあまり大差ないが。

抑圧する refouler: これはベルクソンが使っている語なのだろうか? 注12の
付け方からすると、そのように読めてしまうが、岩波文庫 p.403 の註13や、本
文にあたる p.96f. あたりを読んでも、それらしい訳語はない。
(それとも、原文には refouler の語がある?)

それも含めて、【43】の一節、多少ドゥルーズの読みを相対化する必要があるか
もしれない。「ただ『抑圧』されうるだけである」とドゥルーズは書いているが、
ベルクソンは、少なくともこの箇所に関するかぎり、「この確信に充ちて、この
付きまとうものからのがれれば、すぐにも人間の思考は息ができるようになる。
その前進を遅らせていたさまざまな問題には悩まされないようになる」と言って
いて、だいぶニュアンスの違う議論になっている。

ついでに言えば、最初の「ベルクソンは偽の問題の本質を[カントと]全く違った
仕方で規定し」ているという部分もやや問題がある。この箇所を素直に読むと、
カント自身も「偽の問題」という表現をしていたかのように聞こえるが、おそら
く、カントの著作の中にそういう箇所はないと思う。(ドゥルーズの言いたいの
は「偽の問題」という考え方に内容的に相当するような話がカントにもあるとい
うことなんだろうが)
255Gilles:03/02/12 19:16
> >(この機会に宇波氏が改訳してくれるといいんだが)
>
> 確かに改訳でてほしいです・・・。

版権の問題さえクリアできれば、仏語5級の新訳を出版社に持ち込むという手も
ある。でも、既得権益があって難しいだろうな。
256考える名無しさん:03/02/13 21:22
誰か僕に『千のプラトー』を3000円で譲ってください。お願いします。
257仏語5級:03/02/13 21:55
>>253の修正訳
【43】第1章の第14段落のつづき(原書/10 邦訳/12)
ベルクソンは偽の問題の本質を[カントと]全く違った仕方で規定したにしても、
またベルクソンにとってカントの批判[哲学]それ自体が<提起の仕方の間違っ
た問題>を寄せ集めたもののように思われたにしても、ベルクソンはカントの
方法と類似する方法で幻想を扱っている。幻想は知性の最も深いところに基づ
き、厳密に言えば幻想は消散されずまた消散されうるものでもなく、ただ『抑
圧』されうるだけである。(注12)

(注12)PM,1306,68,岩波文庫403(註『緒論』(13))における非常に重要な註を参照。

【コメント】Gilles氏の指摘>>254により修正。elle-meme名詞の性に気づかずに
訳してました。気を付けなければ・・。

>版権の問題さえクリアできれば、仏語5級の新訳を出版社に持ち込むという手も
>ある。でも、既得権益があって難しいだろうな。

ぼくは著作権とか何にも知らないすけど、もし一章がとりあえず終わったらどっかの
哲学サイトからDL(もちろん無料)出来るようにしてくれたらうれしいなあと考えてま
した。その時そのサイトの人がまた訳文に気になるところに手を入れたりして。ぼく
はHPの作り方は全然知らないしまた勉強する気もないので他力本願な言い方ですが。
前からそんなこと考えてましたが途中で飽きて止めたらカコワルイので黙ってたんす
けどね。まああまり具体性のない当分先の話です。
258仏語5級:03/02/13 22:00
PM68,岩波文庫403の註13の原文です。
Quand nous recommandons un etat d'ame ou les problemes s'evanouissent,nous ne le faisons,
bien entendu,que pour les problemes qui nous donnent le vertige parce qu'ils nous mettent
en presence du vide.Autre chose est la condition quasi animale d'un etre qui ne se pose
aucune question,autre chose l'etat semi-divin d'un esprit qui ne connait pas la tentation
d'evoquer,par un effet de l'infirmite humaine,des problemes artificiels.Pour cette pensee
privilegiee,le probleme est toujours sur le point de surgir,mais toujours arrete,
dans ce qu'il a de proprement intellectuel,par la contre-partie intellectuelle que lui suscite
l'intuition.L'illusion n'est pas analysee,n'est pas dissipee,puisqu'elle ne se declare pas
;mais elle le serait si elle se declarait;et ces deux possibillites antagonistes,qui sont d'ordre intellectuel,
s'annulent intellectuellement pour ne plus laisser de place qu'a l'intuition du reel.
Dans les deux cas que nous avons cites,c'est l'analyse des idees de desordre et de neant
qui fournit la contre-partie intellectuelle de l'illusion intellectualiste.
259仏語5級:03/02/13 22:03
refoulerはPM95の「しかしわれわれが」からPM97の「問題には悩まされないようになる。」
までの原文にはでてなかったですね。

この註の河野訳で三カ所ちょっと気になったところがありますのでちょっと挙げておきます、
というか質問させていただきたいのですが・(この註を一生懸命理解しようとしたのですが
後半にいくほどちゃんとぼくは理解できていません)。
(1)「人間の無力の結果」par un effet de l'infirmite humaine
この「無力」を「欠陥または弱点」として、「人間固有の弱点[または、欠陥]の結果」
のが自分にとっては分かり易いのですがどうでしょう。

(2)par la contre-partie intellectuelle que lui suscite l'intuition.
(3)la contre-partie intellectuelle de l'illusion intellectualiste.
のla contre-partieは、河野訳では「半面」なのですが単純に「反論」
としたほうが意味が通りやすいのでわないかと思います。
上の訳文をそれぞれ直訳すると
(2)par la contre-partie intellectuelle que lui suscite l'intuition.
「直感が問題に惹き起こした悟性的[=知性的]反論によって」
この部分の意味はPM95「しかしわれわれが直感的に真を認識するや否や、
われわれの悟性は考えなおして誤りを訂正し、悟性的にその誤りを言い表す。」
って部分のことを言ってんのかなと思いました。

(3)la contre-partie intellectuelle de l'illusion intellectualiste.
「悟性[=知性]主義的錯覚に対する悟性的[=知性的]反論」のが分かり易く
思うのですがいかがでしょう。
(悟性[=知性]主義的錯覚はカントでいえばGilles氏が>>246で引用してくれた論理的仮象でしょうか)

ちよっと今回はスレの趣旨から微妙にずれてるかもしれませんが、ドゥルーズもこの註は重要だ、
といっているので勘弁してくらはい。
260Gilles:03/02/14 20:36
>>258-259
長文の引用感謝! また長いレスになるが勘弁。

正直言って、この註を訳本で見てもさっぱりわからなかった。が、原文と >>259 を手
がかりにあれこれ考えてみるといくらかわかったような気がする。

まず、問題の箇所を岩波文庫の訳であげておこう。

『思想と動くもの』「緒論」註(13)(岩波文庫 p.403f.)
「私がさまざまな問題の消失する精神状態を推奨するのは、もちろん、われわれを空虚
に直面させるために眩暈を起こさせるような問題に対してだけである。問題を一つも提
出しないものの半動物的な状態と、人間の無力の結果、人工的な問題を出したくなる誘
惑を感じない精神の半神的な状態とは別ものである。こういう特に恵まれた思考におい
ては、問題がいつも起こりかけていながら、いつもその問題に固有の悟性的な点におい
て、直観が惹き起こす悟性的な半面によって阻止されている。錯覚は、はっきり現われ
ないために、分析されず消散せずにいるが、はっきりと現われたならば、それは分析さ
れ消散するであろう。この二つの敵対する可能性は悟性的なものであるが、悟性的に消
し合って、事象の直観にしか余地を残さなくなる。私が前に挙げた二つの場合において
は、無秩序および虚無の観念の分析が悟性主義的錯覚の悟性的な半面を提供している。」
(原文は >>258 参照)
261Gilles:03/02/14 20:37
>>259
> (1)「人間の無力の結果」par un effet de l'infirmite humaine
> この「無力」を「欠陥または弱点」として、「人間固有の弱点[または、欠陥]の結果」
> のが自分にとっては分かり易いのですがどうでしょう。
>
> (2)par la contre-partie intellectuelle que lui suscite l'intuition.
> (3)la contre-partie intellectuelle de l'illusion intellectualiste.
> のla contre-partieは、河野訳では「半面」なのですが単純に「反論」
> としたほうが意味が通りやすいのでわないかと思います。

まったく同意見。contre-partie は英語風にいうと counterpart だから「対立物」とか
「反対物」などの訳語も可能かもしれない。

> この部分の意味はPM95「しかしわれわれが直感的に真を認識するや否や、
> われわれの悟性は考えなおして誤りを訂正し、悟性的にその誤りを言い表す。」
> って部分のことを言ってんのかなと思いました。

これもその通りだと思う。ついでに言うと、【43】以降、原書 p.11 の段落切れ目までの
ドゥルーズの議論も、ほぼ同じ内容になっている。そのつもりで、問題の註をやや解釈を
加えつつ、強引に訳し直すとこんな感じだろう。(悟性 → 知性 とした)
262Gilles:03/02/14 20:38
「私がさまざまな問題の消失する精神状態を推奨するのは、もちろん、われわれを空虚に
直面させるために眩暈を起こさせるような問題に対してだけである。問題を一つも提出し
ない者の半動物的状態と、人間固有の欠陥のため人工的な問題を立てたくなる誘惑を感じ
ずにすむような精神の半神的状態とは別ものである[何も問題を提出しなくなればよいと
いうものではない、それだけなら動物のように本能だけで生きていればよいことになる]。
後者のような卓越した思考[=精神の半神的状態]にとって、問題はいつも起こりかけて
いながら、その問題がもつまさに知性的な点において、この問題に直観が生み出す知性の
内の反論[反対物]によっていつも押しとどめられている(arrete')。錯覚は、はっきり現
われないからこそ、分析されず消散せずにいるが、もしはっきりと現われたならば、分析
され消散するであろう。この二つの敵対する可能性は知性にかかわるものだが、知性の内
で互いに消し合って、事象の直観にしか余地を残さなくなる。私が前に挙げた二つの場合
においては、無秩序および虚無の観念の分析が、知性のもつ錯覚に対する知性の内の反論
[反対物]となっている。」
263Gilles:03/02/14 20:38
さて、そこで気になってきたのが、上の訳で「押しとどめられている」としたところ。原
語は arreter。refouler/refoulement は「抑圧する/抑圧」が精神分析での訳語となって
いるが、辞書(ロワイヤル)で refouler の訳語を見ると、上から順に「押し返す、追い
返す;[感情などを]抑える、押し殺す;〔精医〕抑圧する;[血液などを]逆流させる」
等々とある。(ついでに言えば、フロイトの用いる「抑圧する」の原語 verdraengen も
「押しのける、排除する;〔海〕(船舶が)排水する;(不快な観念などを意識から)排
除する;〔心〕抑圧する」の意)

個人的な語感かもしれないが、「抑圧」という訳語には<下にあるものを上から押し潰し
て、消し去る>というニュアンスが強く感じられる。似たようなニュアンスは、精神分析
用語としての refouler にもあるだろう。(ドゥルーズがこの語をイタリックにしている
のもそういうニュアンスを意識してのことだと思う)

が、消し去る、という意味合いではなく、押しとどめる(岩波訳だと「阻止する」)くら
いの話なら、たしかにベルクソンにもあるわけだ。

岩波文庫 p.95 終わりから5行目:「たとえ一瞬でも、つまり錯覚が追いはらわれるとすぐ
また現われるとしても」の「追いはらわれる」もこういう方向の言葉と考えていいと思う。
264Gilles:03/02/14 20:44
もひとつついでに:

>>259
> (悟性[=知性]主義的錯覚はカントでいえばGilles氏が>>246で引用してくれた
> 論理的仮象でしょうか)

カントとベルクソンの並行性というドゥルーズの見立てが妥当だとすればの話だが、
論理的仮象(これはカントによれば、注意していれば避けられるもの)のほうでは
なく、超越論的仮象に相当すると思う。
265仏語5級:03/02/16 17:39
【44】第1章の第14段落のつづき(原書/10-11 邦訳/12-13)
われわれには<より多いもの>と<より少ないもの>という言葉によって思考
する傾向がある、つまり本性の差異があるところに程度の差異を見る傾向があ
る。この知性の傾向に対して、われわれは再び知性の中に別の批判的傾向を惹
き起こすことによってのみ抵抗することが出来る。しかし、正確にはこの第二
の傾向はどこから生じるのか。直観だけがこの第二の傾向を惹き起こし活気付
けることができる。なぜなら、直観は程度の差異の底に本性の差異を再び見出
し、真の問題と偽の問題の区別を可能にする基準を知性に伝えるからである。
ベルクソンは、知性は問題一般を提起する能力(本能はむしろ解答を見出す能
力だろう)であると十分に示している(注13)。しかし直観だけが知性を知性自身
と対立させることも辞さずに提起された問題の中で真偽を決定する。

(注13)EC,623,152.

【コメント】sousを「底に」と訳した。「下に」「中に」などいろいろ迷った。
retrouver、trouverをそれぞれ「再び見出す」「見出す」と訳した。
les problemes en generalを「問題一般」と訳したが、宇波訳では、
「知性が一般的に問題を提起する能力であることを十分に示している」。en generalを副詞的に訳している。
なんか宇波訳のが合ってそうな感じがしてちょっとわからない。

Gilles氏の註の訳・解釈は大変助かりました。全部訳してくれるとはおもってなかったです。
後半部のわかりずらかったところがかなりわかってきたました。
266Gilles:03/02/17 02:27
>>265
おつかれさん。ほとんど問題ないと思うが、最後の2文。

Bergson montre bien ... Mais seule l'intuition ... は bien ... mais
という呼応だろう。だから、「〜であると十分に示している」は「たしかにベル
クソンは ... であることを示している(注13)。しかし ...」という感じだろう。
(この注13は岩波文庫版『創造的進化』p.184f. に対応)

修正訳を出すとしたら、最後の文は「直観だけが、知性を知性自身と対立させる
ことも辞さずに、提起された...」のようにコンマを入れたほうがいいだろう。

en general は副詞的ということでいいと思うが、「一般的に問題を提起する能
力」と「問題一般を提起する能力」という訳なら、どちらでも問題ないような気
がする。
267仏語5級:03/02/20 21:36
>>265の修正訳
【44】第1章の第14段落のつづき(原書/10-11 邦訳/12-13)
われわれには<より多いもの>と<より少ないもの>という言葉によって思考
する傾向がある、つまり本性の差異があるところに程度の差異を見る傾向があ
る。この知性の傾向に対して、われわれは再び知性の中に別の批判的傾向を惹
き起こすことによってのみ抵抗することが出来る。しかし、正確にはこの第二
の傾向はどこから生じるのか。直観だけがこの第二の傾向を惹き起こし活気付
けることができる。なぜなら、直観は程度の差異の底に本性の差異を再び見出
し、真の問題と偽の問題の区別を可能にする基準を知性に伝えるからである。
たしかにベルクソンは、一般的に知性は問題を提起する能力(本能はむしろ解
答を見出す能力だろう)であると示している(注13)。しかし直観だけが、知性
を知性自身と対立させることも辞さずに、提起された問題の中で真偽を決定す
る。

(注13)EC,623,152,岩波文庫184.

【コメント】Gilles氏の指摘>>266により修正。注に邦訳のページ数も追加。
en general は宇波訳に従った。こっちのが読みやすいと思う。
268仏語5級:03/02/20 21:39
【45】第1章の第15段落(原書/11 邦訳/13)
 第二の規則:『幻想と闘い、真の本性の差異すなわち実在[=現実]の分節を再び
見出すこと。(注14)』

(注14)本性の差異すなわち実在[=現実]の分節は、ベルクソンの哲学における一貫
したテーマであり術語的な言い回しである。特に『思想と動くもの』の緒論の随所
を参照。この意味において、ベルクソンのプラトン主義(分割の方法)について論ず
ることが可能である。ベルクソンは、肉を切ることと上手な料理人についてのプラ
トンのテクストを好んで引用する。EC,627,157,岩波文庫190.

【コメント】実在[=現実]はreel。これについては一度>>238に書いた。今回「実在」としたの
は文脈上、「実在」が相応しく思ったから。[=現実]としたのは読みにくくなったかもしれない。
「すなわち」は、「あるいは」とどちらにしようか迷ったがこっちかなと思った。
decoupageは、宇波訳に従って「肉を切ること」とした。
termesは、今回は「術語的な言い回し」とした。宇波訳では「項」。わかんないっす。
269Gilles:03/02/22 20:17
>>268

> 実在[=現実]

> 術語的な言い回し

どちらも問題ないと思う。

> EC,627,157,岩波文庫190

『創造的進化』(EC)の岩波文庫版では、問題の「プラトンのテクスト」が
「ファイドロス」の265Eであると書いてある(p.191)。

岩波文庫版『パイドロス』では p.110f.あたりに相当。ここでソクラテスは
「分割と綜合という方法」について述べ、この方法を「ディアレクティケー
(弁証術)」とほぼ等値している(266B)。
270世直し一揆(コピペ推奨):03/02/22 20:17
<血液型A型の一般的な特徴>(見せかけの優しさ・もっともらしさ(偽善)に騙され
るな!!)
●とにかく気が小さい(神経質、臆病、二言目には「世間」、了見が狭い)
●他人に異常に干渉し、しかも好戦的でファイト満々(キモイ、自己中心、硬直的でデリカシーがない)
●妙にプライドが高く、自分が馬鹿にされると怒るくせに平気で他人を馬鹿にしようと
する(ただし、相手を表面的・形式的にしか判断できず(早合点・誤解の名人)、実際に
はたいてい、内面的・実質的に負けている)
●本音は、ものすごく幼稚で倫理意識が異常に低い(人にばれさえしなければOK!)
●「常識、常識」と口うるさいが、実はA型の常識はピントがズレまくっている(日本
の常識は世界の非常識)
●権力、強者(警察、暴走族…etc)に弱く、弱者には威張り散らす(強い者にはへつらい、弱い者に対してはいじめる)
●あら探しだけは名人級でウザイ(例え10の長所があってもほめることをせず、たった1つの短所を見つけてはけなす)
●基本的に悲観主義でマイナス思考に支配されているため性格がうっとうしい(根暗)
●単独では何もできない(群れでしか行動できないヘタレ)
●少数派の異質、異文化を排斥する(差別主義者、狭量)
●集団によるいじめのパイオニア&天才(陰湿&陰険)
●悪口、陰口が大好き(A型が3人寄れば他人の悪口、裏表が激しい)
●他人からどう見られているか、人の目を異常に気にする(「〜みたい」とよく言う、
世間体命)
●自分の感情をうまく表現できず、コミュニケーション能力に乏しい(同じことを何度
も言ってキモイ) 
●表面上協調・意気投合しているようでも、腹は各自バラバラで融通が利かず、頑固(本当は個性・アク強い)
●人を信じられず、疑い深い(自分自身裏表が激しいため、他人に対してもそう思う)
●自ら好んでストイックな生活をしストレスを溜めておきながら、他人に猛烈に嫉妬
する(不合理な馬鹿)  
●執念深く、粘着でしつこい(「一生恨みます」タイプ)
●自分に甘く他人に厳しい(自分のことは棚に上げてまず他人を責める。包容力がなく冷酷)
●男は、女々しいあるいは女の腐ったみたいな考えのやつが多い(例:「俺のほうが男
前やのに、なんでや!(あの野郎の足を引っ張ってやる!!)」)
271Gilles:03/02/22 20:21
ついでに該当箇所を引用:

[直前が「綜合の方法」についてのソクラテスの説明]

パイドロス: では、もうひとつの種類の手続きとは、どのようなものを
言われるのですか、ソクラテス。

ソクラテス: 今の行き方とは逆に、さまざまの種類に分割することがで
きるということ。すなわち、自然本来の分節に従って切り分ける能力をも
ち、いかなる部分をも、下手な肉屋のようなやり方でこわしてしまおうと
試みることなく、ちょうどさっきのぼくの二つの話がやったようにするの
だ[...]。
272Gilles:03/02/22 20:23
スマン。age たら変なコピペがついてしまった。

ついでに、原書 p.40、注1 では、ベルクソンの「プラトニズム」
について再説している。
273仏語5級:03/02/25 19:15
【46】第1章の第16段落(原書/11 邦訳/13)
 ベルクソンのさまざまな二元論は有名である。持続と空間、質と量、異質性
と同質性、連続と非連続、二つの多様性、記憶と物質、記憶内容と知覚、収縮
と弛緩、本能と知性、[道徳と宗教の]二つの源泉、等々。ベルクソンが自著の
各ページ上に記した見出しさえもが彼の二元論への好みを示している。しかし、
二元論はベルクソンの哲学の核心を成すものではない。

【コメント】le dernier motは「核心」とした。
[道徳と宗教の]。この訳注は宇波訳に従った。
「記憶内容」。この訳語に関してどういう訳語が定着しているのか知らないので宇波訳
にしたがった。宇波氏の訳注があるので引用します。
「ベルクソンはmemoireとsouvenirという語を区別して用いている。前者は記憶作用を、
後者は記憶されたものを意味する。この訳書では、前者を《記憶》《記憶のはたらき》
などと訳し、後者には《記憶内容》という訳語をあてるのを原則とした。」

Gilles氏のプラトンの引用ありがとうございます。
274Gilles:03/02/25 19:54
>>273

ごくろうさん。今回の訳も問題ないと思う。

souvenir:
> 「記憶内容」。この訳語に関してどういう訳語が定着しているのか
> 知らないので宇波訳にしたがった。

ひとまずこの訳語でいいだろう。ただ、後の文脈によっては訳語を変える
必要はでてくるかもしれない。

手元に『物質と記憶』の訳はないのだが、souvenir には「想起」という訳
語もあったように思う。誰かもっている人がいたらよろしく。
275通行人:03/02/26 02:26
>274
>souvenir には「想起」という訳語もあったように思う。
岩波文庫で訳者の高橋里美は

memoire ― 記憶(一般的、全体的)

souvenir ― 追憶、回想(個別的)

と訳し分けようとしたが、「却って語感が害せられる場合
もあるので」、必要がない限りは、一様に「記憶」と訳す
ことにしたと書いています。


276Gilles:03/02/26 02:37
>>275
早速のレスに感謝。

なるほど。『物質と記憶』の文脈で「追憶、回想」という訳語はちょっと
きびしい(「語感が害せられる」)というのはよくわかる。

「想起」という訳語は思い違いだったか。それとも白水社版(田島節夫訳)
で見たのか。
277考える名無しさん:03/02/26 02:51
ベルクソンに関しては、最近は

souvenir 思い出
memoire 記憶

と訳し分けるが定番になりつつ
あると聞くけれど。参考までに。
278277:03/02/26 03:04
ちなみに、私はベルクソンは専門外なので、
ニュアンスの差異に関しては、識者の方よろしく。
279仏語5級:03/03/01 19:19
Gilles氏、通行人氏、277氏それぞれ指摘>>274-278ありがとうございます。
souvenirは、『世界の名著 ベルクソン』の索引見てみたら「思い出」と
でてました。で、いろいろ迷いましたが、とりあえずはあんまりわかんな
いけど「記憶内容」でいきたいと思います。
それで以後はケースバイケースで対応出来ればと思います。
280仏語5級:03/03/01 19:21
【47】第1章の第16段落のつづき(原書/11-12 邦訳/13-14)
それでは、この二元論の意味とは何か。ベルクソンによれば、混合物の分割は、さまざまな
二元論の自然本来[=本性]の分節にしたがって、つまり本性において異なる要素にしたがって
行うことが常に重要なのである。方法としての直観とは、分割の方法、プラトン的精神の方
法である。ベルクソンは事実、事物が混合していることを知っている。つまり実際のところ、
経験そのものはわれわれに混合物を委ねることがない[ことをベルクソンは知っている]。
しかし、この点が問題なのではない。例えば、われわれは、空間が浸透したものとして時間
を表象する。困ったことは、われわれはこの『表象』において、本性において異なる二つの
構成要素、つまり持続と延長という二つの純粋な『現存』をもはや区別できないのである。

【コメント】[ことをベルクソンは知っている]。この訳注は、前文との間に「;」があった
のでこの文は前文の補足と思ってつけてみた。「現存」はpresence。宇波訳に従った。
presenceは一度でてこなかったけかな、と思い読み返してみたが【38】>>233でpresentで
「存在している」と訳しただけで、名詞の形ではたぶん出てないと思う。原文はイタリック
体なのでこの点を汲んで宇波訳は「現存」と訳しているのかなと思った。
「本性において異なる」は以前「質的に異なる」と訳した【31】>>200
原文はdifferer en nature。「質的」でももちろんいいと思うけど、natureは以後「本性・
本質」あたりを訳語としたいのでそうした。
281仏語5級:03/03/01 19:33
さっそく【訂正】
(1)「混合物の分割は、さまざまな二元論の自然本来[=本性]の分節にしたがって」は、
              ↓
「混合物の分割は、混合物の自然本来[=本性]の分節にしたがって」だと思います。

(2)[ことをベルクソンは知っている]この訳注やっぱいらなさそう。。
282Gilles:03/03/03 18:02
>>280

いつもご苦労さん。

>>281
> (1)「混合物の分割は、さまざまな二元論の自然本来[=本性]の分節にしたがって」は、
>               ↓
> 「混合物の分割は、混合物の自然本来[=本性]の分節にしたがって」だと思います。

そう。ses articulations naturelles の ses は、直前の un mixte を受けている。
ついでにいうと【47】第一文目は leur が複数であることがはっきりわかるように
「これらの二元論の意味」とすべきかもしれない。

ところで、この文ちょっと意訳しすぎではないかと思う。

> ベルクソンによれば、混合物の分割は、さまざまな二元論の自然本来[=本性]の
> 分節にしたがって、つまり本性において異なる要素にしたがって行うことが常に
> 重要なのである。

Il s'agit toujours ... de diviser .... だから、さまざまな二元論の内容が de 以下
で説明されている。より直訳的に訳せば、

「(二元論が出てくる時には)いつでも、混合物をその本性的な分節にしたがって、
つまり、本性において異なる諸要素に分割することが問題となっている」

くらいだと思う。細かいことだが、c'est-a-dire の後の en elements ... は、diviser
un gateau en six「ケーキを6つにわける」の en six と同じ用法。
283Gilles:03/03/03 18:02
> ベルクソンは事実、事物が混合していることを知っている。

「事実」というのは en fait の訳? ここでは en realite、en fait が並列されていて、
「本来は、本性上異なる要素を混同してはならないが、現実には・事実としては、それら
の要素が混交している」という含みだと思う。「訳注」はあってもいいと思うが、なくて
も訳文として成り立つだろう。ただし、ne ... que ... に注意。

「ベルクソンも、現実には、事実としては、諸事物が混合していることを知らないわけで
はない。経験そのものはわれわれに混合物しか与えてくれないのだ」

> 困ったことは、われわれはこの『表象』において、本性において異なる二つの
> 構成要素、つまり持続と延長という二つの純粋な『現存』をもはや区別できな
> いのである。

「困ったことは ...」と始めているので、「区別できないということである」のように結ぶ
ほうがいいだろう。


>>276
> 「想起」という訳語は思い違いだったか。それとも白水社版(田島節夫訳)
> で見たのか。

と書いたけど、田島訳は memoire 記憶力、souvenir 記憶(回想)としてるらしい(索引を
見るかぎり)。さしあたり、記憶/記憶内容でいいと思う。必要があれば、原語を添えるく
らいで。
284仏語5級:03/03/05 20:58
>>268の修正訳
【45】第1章の第15段落(原書/11 邦訳/13)
 第二の規則:『幻想と闘い、真の本性の差異すなわち実在[=現実]の分節を見出すこと。(注14)』

(注14)本性の差異すなわち実在[=現実]の分節は、ベルクソンの哲学における一貫した
テーマであり術語的な言い回しである。特に『思想と動くもの』の緒論の随所を参照。
この意味において、ベルクソンのプラトン主義(分割の方法)について論ずることが可
能である。ベルクソンは、肉を切ることと上手な料理人についてのプラトンのテクス
トを好んで引用する。EC,627,157,岩波文庫190.

【コメント】ちょっと前後するがここだけは変えたいので変えます。
「再び見出す」→「見出す」とした。
retrouverの「re」を「再び」としたのだが、大抵は、「「強意」を表す(今日では、
意味が弱まり、re-のない形との違いが薄れているとが多い)」らしいので「再び」
はない方がいいと思った。

前後しているので
【46】>>273とGilles氏のコメント>>269>>271-272を示しておく。 
285仏語5級:03/03/05 21:01
>>280の修正訳
【47】第1章の第16段落のつづき(原書/11-12 邦訳/13-14)
それでは、これらの二元論の意味とは何か。ベルクソンによれば、[二元論が出てくる
時には]いつでも、混合物をその本性の分節にしたがって、すなわち、本性において異
なる要素に分割することが問題となっている。方法としての直観とは、分割の方法、
つまりプラトン的精神の方法である。ベルクソンも、現実には、事実としては、諸事物
が混合していることを知っている。経験そのものはわれわれに混合物しか与えてくれな
いのだ。しかし、この点が問題なのではない。例えば、われわれは、空間が浸透したも
のとして時間を表象する。困ったことは、われわれはこの『表象』において、本性にお
いて異なる二つの構成要素、つまり持続と延長という二つの純粋な『現存』をもはや区
別できないということである。

【コメント】Gilles氏の指摘>>282-283により修正。今回は誤訳が多かった。ne ... que ...を
翻訳書がありながらも誤訳したのは反省しなくてはいけないなと思った。全然意味かわっちゃっ
てるし。あと、en realite、en faitなどと続くとどういうニュアンスなのかわからなくなり
Gilles氏の指摘はなるほどと思った。
286仏語5級:03/03/05 21:23
【48】第1章の第16段落のつづき(原書/12 邦訳/14)
われわれは、延長と持続を混合しすぎて、もはや両者の混合物を<非空間的かつ
非時間的と想定される原理>としか対置することが出来なくなり、その原理と対
比すると、空間と時間、持続と延長は、段階の差異でしかない(注15)。

(注15)EC,764,318.

【コメント】ムズイ。
287仏語5級:03/03/05 21:36
最後のところで質問なんですが、

「その原理と対比すると、空間と時間、持続と延長は、段階の差異でしかない」
                 ↓
「その原理と対比すると、空間と時間[の関係]、持続と延長[の関係]は、段階の差異でしかない」

ということでしょうか?。
288Gilles:03/03/06 20:36
まず、>>287 の質問に関して。「段階の差異」と訳されている degradation は
2つの意味をもっている。『ロワイヤル』の degradation(2) を見てこう訳した
んだと思う。ここでは degradation(1) のほう。特に「[政治・経済・社会状況の]
漸進的悪化;[精神的な]堕落、退廃;[エネルギーの]減損、散逸;崩壊」など
の意味。

この辺の話は、前に何回も出てきた<より多い>と<より少ない>の話にも関係して
くるので、そのことがわかりやすい「減損」という訳語をとりあえず採用しておく。
(ほかにも「劣化」とか「悪化」とかの訳語も考えられると思う)

まずは、ドゥルーズが念頭においている文脈を確認しておこう。注15の箇所は、岩
波文庫版『創造的進化』の372頁あたりに相当する。

目次で確認してもらえばわかるように、同書第4章では、有名な「思考の映画仕掛」論
(=思考・知性は生成・持続をありのままにとらえず、映画が静止画像の連続からそれ
らを擬似的に構成するように、静的なものから動的なものを構成しようとする、そして
それはある種の錯覚にもとづいているという論、翻訳 p.357 以降を参照)が展開された
後、この議論を敷衍するような形で、プラトン、アリストテレス以来の西洋哲学を概観
している。問題の箇所は、まさしく古代ギリシア哲学(ベルクソンは「イデヤ」の哲学
と呼んでいる)を論じている部分。

そういう意味で、この箇所で批判されている思考パターンが現代にもそのまま見られる
ということではないはずなのだが、「知性の映画仕掛が事象の分析に適用されるときひ
とは『イデヤ』の哲学に行きつく」(p.368f.)とか「今日なお私たちがギリシャ人風に哲
学する」(p.369)ということをベルクソン自身も言っているので、その違いはさしあたり
重要ではないということなのだろう。
289Gilles:03/03/06 20:37
知性の映画仕掛の典型例である古代ギリシア哲学は、形相(エイドス)やイデアというも
のを永久不変の真実在としてあらゆる事象の原理にすえる。しかしこのような不変のもの
を出発点(=原理)にした場合、現実に見られる生成というものはうまく説明できなくなる。

「ところでもっぱら不変だけを立てておきながら、そこから変化を出てこさせることはで
きない相談ではないか。『イデヤ』のほかには積極的なものは存在しない建前なのだから、
なにかを附加してみてもうまく出てこない。してみるとそれは縮小[diminution]によるわ
けである。古代哲学の底にはかならずつぎのような前提がひそんでいる。不動体には運動
体におけるよりも余計なもの[plus: より多くのもの]があり、そしてひとは縮小ないし
緩和[attenuation]の道によって不変から生成にうつるのだ」(p.370)

「ところがイデア哲学は逆の道をあゆむ。それは『形相』から出発し、形相を事象の本質
そのものとみる。イデヤ哲学は生成を写しとった眺めから形相をえようとしないで、それ
を永遠において与えられたものと決めてかかる。持続や生成はこの不動な永遠の位をさげ
たもの[degradation]にすぎなくなる。形相がそのように時間と独立に立てられると、それ
はもはや知覚にあらわれる形相ではない。それは概念である。そして概念の次元にぞくする
事象は持続ももたなければ延長も占めないから、『形相』は時間の上空にたゆたうと共に
また空間の外に臨席しなければならぬ。こうして空間と時間は古代哲学ではどうしても起源
もおなじなら、重要さもひとしいこととなる。存在の縮小[diminution]はひとつであるのに、
その表現が時間にあっては弛緩[distension]となり、空間においては伸張[extension]とな
るわけである」(p.372)
290Gilles:03/03/06 20:37
>>286
> 【48】第1章の第16段落のつづき(原書/12 邦訳/14)
> われわれは、延長と持続を混合しすぎて、もはや両者の混合物を<非空間的かつ
> 非時間的と想定される原理>としか対置することが出来なくなり、その原理と対
> 比すると、空間と時間、持続と延長は、段階の差異でしかない(注15)。
>
> (注15)EC,764,318.

上の引用でいうと、<非空間的かつ非時間的と想定される原理>は、形相、イデアなどに
相当する。だから、訳文の後半も引用箇所(特に p.372)に合わせて、

「その原理と対比すると、空間と時間、持続と延長も減損[劣化・悪化・位をさげたもの]
にすぎなくなってしまう」

くらいでどうだろう。(それにしてもこんな sage 進行でいいの?)
291仏語5級:03/03/09 17:15
>>286の修正訳
【48】第1章の第16段落のつづき(原書/12 邦訳/14)
われわれは、延長と持続を混合しすぎて、もはや両者の混合物を<非空間的かつ
非時間的と想定される原理>としか対置することが出来なくなり、その原理と対
比すると、空間と時間、持続と延長は減損[劣化・悪化・位をさげたもの]にす
ぎなくなってしまう(注15)。

(注15)EC,764,318,岩波文庫372.>>289に引用あり

【コメント】Gilles氏の指摘>>288-290により修正。
ベルクソンの引用も含めて、とてもわかりやすい超長文レスありがとうございます。
勉強になります。

>(それにしてもこんな sage 進行でいいの?)

どっちでもよろしいですよ。
確かに適宜ageたほうが興味のある人に目についていいかもしれません。
292仏語5級:03/03/09 18:07
【49】第1章の第16段落のつづき(原書/12 邦訳/14)
さらに例を挙げてみれば、われわれは記憶内容と知覚を混同する。しかし、
われわれは、<知覚に帰属するもの>と<記憶内容に帰属するもの>とを
見分けることが出来ず、もはや表象のなかに物質と記憶という二つの純粋
な現存を区別しない。そして、われわれは、もはや<記憶内容の知覚>と
<知覚の記憶内容>の間に、程度の差異しか見ないのだ。

【コメント】perceptionsーsouvenirs とsouvenirsーperceptionsをどう訳せばいいのか迷った。
宇波訳は「記憶内容としての知覚と、知覚としての記憶内容」

宇波訳では「区別しない」distinguer、「見ないのだ」voirのそれぞれを
「見分けることができず」distinguer「認めることができない」voir
と共に「できない」が入ってる。
読みやすいように付け足したのかもしれないが原文にはないのでちょっと気になった。
293ピエール栗原:03/03/10 08:45
プ〜(^ε^)
294Gilles:03/03/11 19:43
>>292

> perceptionsーsouvenirs とsouvenirsーperceptionsをどう訳せばいいのか迷った。
> 宇波訳は「記憶内容としての知覚と、知覚としての記憶内容」

だいたい今の訳でいいと思うが、上記の訳語としては、宇波訳のほうがわかりやすいかもしれない。

このあたりの話は『物質と記憶』を念頭においたものだろう。

ベルクソン自身が perception(s)-souvenir(s) とか souvenir(s)-perception(s) という言い方をする
かはわからない。よく出てくるのは、souvenir(s)-image(s) と image(s)-souvenir(s) という表現。

『物質と記憶』第3章冒頭の要約では、「純粋記憶(souvenir pur)」と「知覚(perception)」の中間的存在
として「記憶-心像」が説明されている。ベルクソンによれば、知覚はつねに記憶-心像に浸されている。
つまり、その瞬間ごとに感覚されているものは(純粋)記憶から引き出された内容と織り合わされることに
よってはじめて「〜として知覚された」と言えるのであり、「〜のイマージュ」として個体化しうる。
また、ベルクソンによれば、純粋記憶は記憶-心像によって物質化される。つまり、それ自体は過去の記憶
の累積にすぎないものが知覚からの呼びかけに応えるようにそこへ引き寄せられ、あるイマージュとして
具体性を帯びる。

記憶-心像――ドゥルーズの文脈では「表象」に相当する――はこのように二つの中間的存在であるため、
ベルクソンは両方の組合せ(souvenir-image/image-souvenir)をほぼ等価に用いている(ように思われる)。

>>291

>> (それにしてもこんな sage 進行でいいの?)
>
> どっちでもよろしいですよ。
> 確かに適宜ageたほうが興味のある人に目についていいかもしれません。

了解。ときどきageてくれる人もいて、わざわざageるまでもないようだし。
295山崎渉:03/03/13 12:44
(^^)
296考える名無しさん:03/03/15 05:25
age
297白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :03/03/15 08:48
関大の哲学科に渡辺幸博という先生がおられる。酒の席ではあったが、あわて
ず、ゆっくりとこう教えて下さった。「アンチ・オイディプス」、仏語の基礎
とフロイト、マルクスの基本的文献くらい読んでれば、なんでもないよ。面白
いよ。でも最近は逆にサルトルがあまりにもいじめられてるみたいだから、サ
ルトル、読み返してるんだけど。視野の広い先生だという印象。
298考える名無しさん:03/03/15 10:41
ZETAに哲学・思想板が誕生しました
http://zeta.ns.tc/kiba/philosophy/index.html


Zeta BBS
http://zeta.ns.tc/
299考える名無しさん:03/03/15 18:58
AGE
300考える名無しさん:03/03/15 20:16
(´・ω・`)ガンガン300ください。
301考える名無しさん:03/03/15 21:33
落ちてなくて良かった・・ほっとしました。
俺は仏語わからんのでROMりますが、陰ながら応援してます。
302k:03/03/16 03:02
>>292の修正訳
【49】第1章の第16段落のつづき(原書/12 邦訳/14)
さらに例を挙げてみれば、われわれは記憶内容と知覚を混同する。しかし、われわれは、
<知覚に帰属するもの>と<記憶内容に帰属するもの>とを見分けることが出来ず、も
はや表象のなかに物質と記憶という二つの純粋な現存を区別しない。そして、われわれ
は、もはや<記憶内容としての知覚>と<知覚としての記憶内容>の間に、程度の差異
しか見ないのだ。

【コメント】Gilles氏の指摘>>294により修正。
HN変えたっす。ということで続けます。
303k:03/03/16 03:04
【50】第1章の第16段落のつづき(原書/12 邦訳/14)
要するに、われわれは混合物を、それ自体不純ですでに混合している単位によって測定
している。われわれは、混合物の根拠を失ったのだ[われわれは、混合物によって正気を
失ったのだ]。純粋なものに対するベルクソンの強迫観念は、本性の差異を回復すること
に行き着く。本性において異なるもののみが純粋と言い得るのであるが、本性において
異なるのは諸傾向だけなのである(注16)。

(注16)例えば:ひとつの混合物一一一純粋な状態ではこの混合物の傾向のみをわれわれは
識別できるのだが一一一を構成している知性と本性については、EC,610,137,岩波文庫たぶん168.


【コメント】注16の訳す語順はスゲー迷った。中に文を挟む形にした。
(注16)のたぶん該当個所と思われる箇所を引用する。
「はじめに断っておきたいのは、これからつけようとする区別があまり鋭すぎるという
ことである。そうなったわけはほかでもない、およそ具体的な本能には知性がまじり、
同様におよそ実物の知性には本能がしみとおっているのに、私は本能における本能らし
いところ知性における知性らしいところを定義したいのである。それに知性も本能も剛
ばった定義には向いていない。いずれも傾向であって完成品ではない。」

「識別できるのだが」の「識別」はdissocier。宇波訳は「見分ける」

Nous avons perdu la raison des mixtes.は、perdre la raisonという熟語で
「正気を失う、気が狂う」があって、raison(根拠)をmixtesの根拠ととるか、
訳し方が二つあって迷って訳文のように両方載せた。宇波訳は「われわれは混
合されているものの理由を失ったのである。」
304k:03/03/16 03:09
【訂正】
注16のところ
「純粋な状態ではこの混合物の傾向のみをわれわれは 識別できるのだが」
                ↓
「純粋な状態ではこの混合物の傾向しかわれわれは 識別出来ないのだが」

と修正訳で変えます。
305考える名無しさん:03/03/16 03:30
鳥肌立つほどの良スレ!
306Gilles:03/03/16 18:42
>>302

HN変更、ちょっと寂しい気もするが、了解。

>>303-304
Nous avons perdu la raison des mixtes.:

raison は「比率、割合」の意味(ロワイヤルなら4番目)じゃないだろうか。
「われわれは、混合物の[構成]比率を見失ってしまったのだ。」

> (注16)例えば:ひとつの混合物一一一純粋な状態ではこの混合物の傾向のみをわれわれは
> 識別できるのだが一一一を構成している知性と本性については、EC,610,137,岩波文庫たぶん168.

「知性と本性」は「知性と本能」だな。

該当箇所はこれでいいと思う。(ちなみに岩波文庫の同頁には、「[知性と本能の]どちら
にも純粋な状態では[a l'etat pur]出あえない」という一文もある。これはドゥルーズが
あげている EC 137 の1頁前だが。なお、「純粋」については、>>294 も参照)

訳は、des tendances という複数形(それぞれ知性と本能に対応)がはっきりわかるように
したほうがいいだろう。ちょっと訳語も変えてみると:

「ひとつの混合物――純粋な状態ではこの混合物が含む二つの傾向しかわれわれは区別
できないのだが――を構成する知性と本能については、EC,610,137,岩波文庫168.」
307Gilles:03/03/17 03:06
細かいが訂正:

des tendances が複数なのはいいとして「二つの」は訳しすぎなので[ ]に入れないと
まずいと思った。

「ひとつの混合物――純粋な状態ではこの混合物が含む[二つの]傾向しかわれわれは区別
できないのだが――を構成する知性と本能については、EC,610,137,岩波文庫168.」
308考える名無しさん:03/03/17 09:28
なんか凄そうだ!応援します!
私も仏語わかりません
309考える名無しさん#:03/03/18 20:26
仏語5級! がんがれ!
漏れも、こんなの始めました。

『エクリ』を英語で読む
http://www1.ezbbs.net/06/jwetton/
310潜在的名無しさん:03/03/18 23:36
HN変更さみすぃ。
ぼちぼちk氏もGilles氏もトリップ付けた方がいいんでは?
その方がサイトを作るときにも色々便利だと思う。
311Gilles:03/03/19 00:50
>>309
英語版はもってないが、フランス語版があるので、邪魔しに行くかもしれない。
それにしても、Instanz の訳語が agency とは知らなかった。
(ドイツ語の名詞はすべて大文字で書き始めるのが決まりなので、Instanz と
書くほうがいい。英訳ではこの規則が守られてない可能性はあるが)

>>310
トリップはいいとして、サイト作るときも便利というのはどういうこと?
312考える名無しさん#:03/03/19 02:28
>>311
ラカンの本文に入ったら、英語の原文もアップしつつ、
ちょうどこのスレみたいな形式でいきますので、
よろしくです。英訳者にも文句つけましょう(笑)
学部一年なので仏語も少しは読めます、5級さん以下ですが。
313k:03/03/20 19:00
>>303の修正訳
【50】第1章の第16段落のつづき(原書/12 邦訳/14)
要するに、われわれは混合物を、それ自体不純ですでに混合している単位によって
測定している。われわれは、混合物の[構成]比率を見失ってしまったのだ。純粋
なものに対するベルクソンの強迫観念は、本性の差異の回復に行き着く。本性にお
いて異なるもののみが純粋と言い得るのであるが、本性において異なるのは諸傾向
だけなのである(注16)。

(注16)例えば:ひとつの混合物――純粋な状態ではこの混合物が含む
[二つの]傾向しかわれわれは区別できないのだが――を構成する知性
と本能については、EC,610,137,岩波文庫168.>>303の【コメント】に引用あり。


【コメント】Gilles氏の指摘>>306-307により修正。

>>312
がんがん飛ばしてますね。がんばってください。romらせていただきます。
314k:03/03/20 19:09
【51】第1章の第16段落のつづき(原書/12 邦訳/14)
したがって、質的で[純粋であると]見なされた諸傾向にしたがって、すなわち、
混合物の中の<運動あるいは運動の方向として規定される持続と延長>の配合
の状態[=構成比率]にしたがって、混合物を分割することが重要なのである(収
縮としての持続と、弛緩としての物質の場合も同様である)。

【コメント】むずかしい。
「質的で[純粋であると]見なされた諸傾向」。宇波訳は、「質的で資格を与えられた傾向」。
qualifieを宇波訳では「資格を与えられた」と訳しているが、これでは「何の」資格が与え
られたのかわからず意味が完結していない。で、なにかが省略されていると考え、前文の
「本性において異なるもののみが純粋と言い得る」の「純粋」が略されていると考えた。
qualifie de le purって感じか。あまり自信なし。

「混合物の中の<運動あるいは運動の方向として規定される持続と延長>の配合の状態
[=構成比率]にしたがって、」は、ホントわからなくて往生した。意訳です。
直訳すると、
「混合物が、運動あるいは運動の方向として規定された持続と延長を配合する仕方にしたがって」
って感じか。

無生物主語il=mixteが動作主として「〜する」という日本語はおかしいと思い避けたかった。
しかし、辞書には、無生物が主語となる例文がなく困った。

[=構成比率]。この訳注は、Gilles氏のraisonに対する指摘にヒントを受けて、この文脈に
も当てはまるんではないか、と思った。なんとなく合ってるっぽく思う。

最後の()内は、わかんなくて宇波訳にしたがった。
315考える名無しさん:03/03/20 19:41
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=topics&board=1835217&sid=1835217&type=r
哲学の役割再び
思考と事実
倫理学とはなんだろう
哲学の誕生
ギリシア哲学の広場
カントとデカルト
ヘーゲル哲学の現代における意義とは
ニーチェ
現代思想を考えるトピックです
ベルグソン
フッサール現象学
ラカン〜愛と死をみつめて
ジル・ドゥルーズ
解釈学って何でしょう
発生的認識論
分析哲学とは何だ
ウィトゲンシュタインってどういう人
西田哲学と西洋哲学の関連性について
科学哲学について
時間とはなんでしょう?
新・進化論を検証しましょう
生殖医療とバイオエシックス
優生学的思想について
クローン人間は倫理上許されるのか?
社会主義は滅んだのか?
●パワーポリティクス
「唯識」を語ろう!
創造論
316Gilles:03/03/27 03:07
>>314
すまんが、今むちゃくちゃ忙しい。レスは週末くらいになる予定。
317仏語5級:03/03/29 01:35
了解しました。毎回ありがとうございます。

HN元に戻しました。似たようなHNみたので混乱すると思うので。

【おまけ】
ぼくの仏語の無知をさらすことになるけど、フランス語ハンドブックみてたら
P117の
「可能性・非現実性を示す条件法には時制の照応が適用されない」
というのを知らなかった。
P259の例文fもそうですね。これって初級文法書にもでてるんですかね。
318sage:03/03/29 02:34
>>317
そのコテハン、好きです。
このスレいつも読ませてもらっています。この調子で
行って下さい。
319超真剣です!!!聞いてください!!!:03/04/02 04:16
日本最大超残忍事件!!!!!
(「絶対」忘れてはならない事件です!!!)uyruje

女の子が40日間渡って監禁され、計100人ぐらいに強姦、朝から晩まで超暴力と超陵辱された。
膣を灰皿代わりにされ、自慰(オナニー)を強制され、
真冬に裸で外(ベランダ)に出され、裸で踊らされ、膣やお尻の穴に鉄の棒を突っ込まれ、20キロの鉄アレイで殴られ、瞼にろうそくをたらされ、
膣にマッチ棒を入れられ、膣の中のや裸体をライターで火あぶり、精液を大量に飲まされ、500ccの尿を飲まされ、基礎の他むちゃくちゃ。(生きてるか死んでるかわからないが)ゴキブリも食わされたそうだ。
殺された彼女の親友が言うには、監禁され殺される一日前、幽霊となって「助けて!」と親友に助けを求めたが、親友はどうすることもできず、泣きじゃくった。
「狂宴犯罪」は 一ヶ月以上 続いた 。
そして殺された。

死体の顔は目の位置がわからないほど、変形し、親でも誰かわからず、原型をとどめてないほどで、性器のほうは顔よりもっとひどく完全に破壊されていた。

死体の膣(マンコ)にはオロナミンC2本、入っていた。

「裁判記録」は死ぬほどエグイ内容であった。「コンクリート詰め事件」で検索すればわかる。
320考える名無しさん:03/04/03 21:03
4月に入るので忙しいって、Gilles氏の職業はいったいなんなんだろうな、
とか邪推(でもないか)してしまうな。博識だしさ。
仏語5級は? 4月ボケかー。期待してるからガンガレよ。
321Gilles:03/04/05 22:04
>>314

結局、一週間以上遅れてしまった。スマヌ。

ちょっと離れているので、5級(HN復活歓迎)の訳を採録:

> 【51】第1章の第16段落のつづき(原書/12 邦訳/14)
> したがって、質的で[純粋であると]見なされた諸傾向にしたがって、すなわち、
> 混合物の中の<運動あるいは運動の方向として規定される持続と延長>の配合
> の状態[=構成比率]にしたがって、混合物を分割することが重要なのである(収
> 縮としての持続と、弛緩としての物質の場合も同様である)。

前半:
> qualifieを宇波訳では「資格を与えられた」と訳しているが、これでは「何の」資格が与え
> られたのかわからず意味が完結していない。で、なにかが省略されていると考え、前文の
> 「本性において異なるもののみが純粋と言い得る」の「純粋」が略されていると考えた。

たしかに qualifie' は、qualifier qc. de ... (〜を … と呼ぶ/形容する)という
構造を考えると、後ろに de ... が来ないと変な感じがする。
322Gilles:03/04/05 22:05
ただ、形容詞的に qualifie' を使う場合、nombres qualifie's で「符号(+、−)
のついた数」という意味が辞書にある。この用法だとすれば、スカラー量では
なくてベクトル量のようなイメージで tendance(s) qualifie'e(s) と言っているん
だろう。

(+: 持続) ← → (−: 延長)

(ただし、今の文脈で言うと、二つのベクトルは同じ直線上にある+と−みたいな
ものじゃなくて、力の合成の時に描く平行四辺形の隣り合う辺のように考えた
ほうがいいだろうけど)

この解釈でよいとしても、何と訳したらよいのかは難しいところだ。

「質的で、異なる方向をもつ[二つの]傾向」?


後半:
> 直訳すると、
> 「混合物が、運動あるいは運動の方向として規定された持続と延長を配合する仕方にしたがって」
> って感じか。

直訳はこれで問題ないと思うし、「配合の状態」意訳もいいと思う。内容的に
難しかったということ? もちろんここで「運動」というのは、「傾向」の言い換え
なので、空間的運動という意味ではない。内容的には、次の部分にも関係す
る。
323Gilles:03/04/05 22:07
> (収縮としての持続と、弛緩としての物質の場合も同様である)。

> 最後の()内は、わかんなくて宇波訳にしたがった。

まず最初の ainsi は、「例えば」と訳したほうがいいだろう。

カッコの前の文の、「持続と延長」は、伝統的哲学の分類だと、ほぼ「時間と
空間」、「精神と物質」に相当する。で、これらは質的に異なる傾向・方向とし
て区別されなければならないというのがベルクソンにとっての大前提だが、
事実として見れば、われわれはこれらが常に既に混交した状態でしか見出
すことができない。

だから、分析の後には綜合――分析した要素の組み合わせによって所与を
捉え直すこと――が必要になる。つまり、何かを分析した結果、さまざまな
構成比率の混合物が見出されるとすれば、いったんは「質的に異なる」もの
として区別した両極(持続と延長)をつなぎ合わせなければならない。そのた
めに用いられるのが、収縮(contraction)と弛緩(detente)という相対的尺度だ。
324Gilles:03/04/05 22:07
『物質と記憶』第4章(特に、原書 p.202f. あたり)では、質(:持続)と量(:延長)
の二元論を解決するために、前者を収縮(contraction)、後者を弛緩(relachement)
と見なしている。
(この議論は巻末「要約と結論」のIXでも繰り返される。詳細はそちらを見てくれ)

一見すると、程度の差異を本性な差異に還元し、もう一度、程度の差異に戻っ
ただけのような感じを受けないこともないのだが、ベルクソンの言い分としては、
本性の差異は厳密に区別した上で、初めて両者の間の相対的構成比率の差
(収縮 … 弛緩)が正しく把握できる、ということなんだと思う。


>>320

> 4月に入るので忙しいって、Gilles氏の職業はいったいなんなんだろうな

ご想像にお任せする。
325  :03/04/05 22:15
すいません、すいません。

これはなんて意味なんでしょうか?
a feu follet par ercellence.


326Gilles:03/04/05 22:15
ひとつ書き忘れてた。

ドゥルーズの本の原書 p.106(最終章の真ん中くらい)に、『創造的進化』
第2章を図式化したという表が出てくる。ここでも、物質と生命がそれぞれ
弛緩(detente)と収縮(contraction)に対応させられている。
327考える名無しさん:03/04/05 22:36
328 :03/04/06 04:57
すいません、すいません。
英語板で聞いたところ、

a feu follet par ercellence.
は「とくにすぐれた鬼火」の意味だそうです。

トピずれで失礼しました
すいません、すいません。

329仏語5級:03/04/06 20:16
>>314の修正訳
【51】第1章の第16段落のつづき(原書/12 邦訳/14)
したがって、質的で、異なる方向をもつ[二つの]傾向にしたがって、すなわち、
混合物の<運動あるいは運動の方向として規定される持続と延長>の配合の状
態[=構成比率]にしたがって、混合物を分割することが重要なのである(例えば、
収縮としての持続と、弛緩としての物質)。

【コメント】Gilles氏の指摘>>321-326により修正。
qualifieの説明は目から鱗が落ちました。なるほどっ。次につづく言い換えられて
いるところとも意味がばっちり合ってると思いました。

>内容的に難しかったということ?

内容は難しかった[難しい]です。『物質と記憶』に関する議論は特に苦手
で言葉の射程がどこなのかなかなかわからないです(単にぼくの勉強不足です)。
が、今回のGilles氏の説明でかなりすっきりしてきました。
特に>>323-324の説明は大変助かります。
330仏語5級:03/04/06 20:18
【52】第1章の第16段落のつづき(原書/12-13 邦訳/14-15)
分割の方法としての直観は、超越論的分析と似ていないこともない。つまり、
もし混合物が事実に相当するのなら、事実を<権利上でしか存在しない[二つ
の]傾向あるいは[二つの]純粋な現存>に分割しなくてはならない(注17)。
われわれは、経験を越えて、経験の条件に向かうのだ(しかし、経験の条件は、
カント的用法のような、全ての経験の可能性の条件ではなく、実在的[=現実
的]経験の条件である)。

(注17)《事実上・権利上》の対立については、cf.MM,chap.I(特に、213,68)。
また、《現存[=現前]・表象[=再現前]》の区別については、185,32.

【コメント】「もし混合物が事実に相当するのなら、」ここは直訳すると「もし混合
物が事実を表象するのなら」になるかもしれないがちょっと意を掴みにくいと思った。

《現存[=現前]・表象[=再現前]》。ここは、それぞれ原語はpresence,representation。
[]内の補足の訳語は主にデリダ経由での訳語だと思うけどちょっと気になって載っけた。
邪魔と思う人はとっちゃってください。
331仏語5級:03/04/06 21:40
ここにでてくる権利とか事実は、カントの権利問題・事実問題とかの意味だと
思うので、

>もし混合物が事実に相当するのなら、事実を<権利上でしか存在しない[二つ
>の]傾向あるいは[二つの]純粋な現存>に分割しなくてはならない(注17)。
             ↓
もし混合物が[カントの言う意味での]事実に相当するのなら、この事実を<権利上でしか存在
しない[二つの]傾向あるいは[二つの]純粋な現存>に分割しなくてはならない(注17)。

としたほうがいいかもしれない。ちなみにぼくはカントの権利・事実問題の内実は
三省堂大辞林にでてるのでしか知りません。
332Gilles:03/04/07 20:48
今回の訳は特に問題ないと思う。が、細かい点で:

>>330
> 分割の方法としての直観は、超越論的分析と似ていないこともない。

encore を訳し忘れているのでは? 「さらに、分割の方法としての ...」

>>331
>>もし混合物が事実に相当するのなら、事実を<権利上でしか存在しない[二つ
>>の]傾向あるいは[二つの]純粋な現存>に分割しなくてはならない(注17)。
>              ↓
> もし混合物が[カントの言う意味での]事実に相当するのなら、この事実を<権利上でしか存在
> しない[二つの]傾向あるいは[二つの]純粋な現存>に分割しなくてはならない(注17)。
>
> としたほうがいいかもしれない。

そのほうがわかりやすいだろう。ところで、最初の「もし ... なら」だけど、
これは「もし」をとって、「混合物が ... 相当するとすれば」のようにしたほう
がいいんじゃないかと思う。
333Gilles:03/04/07 20:49
>>330
> (注17)《事実上・権利上》の対立については、cf.MM,chap.I(特に、213,68)。
> また、《現存[=現前]・表象[=再現前]》の区別については、185,32.
>
> 《現存[=現前]・表象[=再現前]》。ここは、それぞれ原語はpresence,representation。
> [ ]内の補足の訳語は主にデリダ経由での訳語だと思うけどちょっと気になって載っけた。
> 邪魔と思う人はとっちゃってください。

まず 213,68 は、岩波文庫版の86頁に相当:
「されば知覚と知覚対象との一致は、事実上(en fait)に於てよりも寧ろ権利上(en droit)に於て
存在すると、吾々が主張したのは甚だその理あることと言はねばならぬ。」

ドゥルーズは『物質と記憶』の第1章全部をあげてるが、ほかにも原書:38/岩波文庫: 54 など。

185,32 は、岩波文庫版の47頁:
「勿論、形像は知覚(etre percu[e])されなくとも存在(etre)し得る。また表象され(etre represente[e])
なくとも現存し(etre present[e])うる。」
(前半はバークリーの esse est percipi [存在するとは知覚されることである]のもじり。
presence / representation はこの文脈だけでいうと、事物の存在と知覚にほぼ対応している)
334Gilles:03/04/07 20:50
> ちなみにぼくはカントの権利・事実問題の内実は
> 三省堂大辞林にでてるのでしか知りません。

これは『純粋理性批判』の超越論的演繹の冒頭で、演繹(Deduktion)という概念を
説明するために出てくる区別。

『純粋理性批判』岩波文庫、162頁(一部訳文を変えた)
「法学者は、権限と越権とを論じる際に、一つの訴訟事件について何が権利があるか[法に適って
いるか]という問題(quid juris 権利問題)と事実に関する問題(quid facti 事実問題)とを区別する、
そして両者について証明を要求するのであるが、この第一の問題について権限、或はそればかり
でなく権利要求をも示す証明を演繹と名づけている。」

権利問題・事実問題の部分は原文もラテン語。カントの哲学的著作に法学的比喩がいっぱい出て
くるのはよく知られていることだけど、この部分はその代表例。事実としてある物件を占有してても、
それを所有する正等な権利があるかどうかは別問題で、その二つのレベルを別々に示さないといけ
ない、というだけの話。
335仏語5級:03/04/09 19:21
>>330の修正訳
【52】第1章の第16段落のつづき(原書/12-13 邦訳/14-15)
さらに、分割の方法としての直観は、超越論的分析と似ていないこともない。つまり、
混合物が[カントの言う意味での]事実に相当するとすれば、この事実を<権利上でしか
存在しない[二つの]傾向あるいは[二つの]純粋な現存>に分割しなくてはならない(注17)。
われわれは、経験を越えて、経験の条件に向かうのだ(しかし、経験の条件は、カント的
用法のような、全ての経験の可能性の条件ではなく、実在的[=現実的]経験の条件である)。

(注17)《事実上・権利上》の対立については、cf.MM,chap.I(特に、213,68,岩波文庫68)また、
《現存[=現前]・表象[=再現前]》の区別については、185,32,岩波文庫47.>>333に引用あり。

【コメント】Gilles氏の指摘>>332-334により修正。
encoreは指摘されるまで気づきませんでした。やばい。

Gilles氏へ:ベルクソンとカントの引用ありがとうございます。

なんか引用だけ集めてアンソロジーが出来そうだ。
336仏語5級:03/04/09 19:26
>>335の修正訳
【52】第1章の第16段落のつづき(原書/12-13 邦訳/14-15)
さらに、分割の方法としての直観は、超越論的分析と似ていないこともない。つまり、
混合物が[カントの言う意味での]事実に相当するとすれば、この事実を<権利上でしか
存在しない[二つの]傾向あるいは[二つの]純粋な現存>に分割しなくてはならない(注17)。
われわれは、経験を越えて、経験の条件に向かうのだ(しかし、経験の条件は、カント的
用法のような、全ての経験の可能性の条件ではなく、実在的[=現実的]経験の条件である)。

(注17)《事実上・権利上》の対立については、cf.MM,chap.I(特に、213,68,岩波文庫86)また、
《現存[=現前]・表象[=再現前]》の区別については、185,32,岩波文庫47.>>333に引用あり。

【コメント】「岩波文庫68」→「岩波文庫86」。打ち間違えた。
こういう直しはレスが勿体ない。気を付けます。
337仏語5級:03/04/11 20:46
【53】第1章の第17段落(原書/13 邦訳/15)
 ベルクソン哲学のライトモチーフとは次のようなものである。われわれは、
本性の差異のあるところに程度の差異しか見てこなかった。そして、このよう
な主旨のもと、ベルクソンは、非常にさまざまな自らの主要な批判を分類して
いる。形而上学に対して、ベルクソンは、本質的に<空間化された時間>と
<本源的なものと想定される永遠>との間に程度の差異(減損としての時間、
存在の弛緩あるいは収縮などなど)しか見てこなかったことを非難することになる。

【コメント】「非常にさまざまな自らの主要な批判」。
原文は、ses critiques principales les plus diverses
ここは最上級だから直訳すると「最も[あるいは、一番]さまざまな自らの主要な批判」
となるが、「何と」比較して「最も」あるいは「一番」なのかわからない。
フランス語ハンドブックP59の例文。
Ce garcon est le plus ordonneの解釈で、
(1)比較対照なしに   :この少年はきわめてきちんとしている。=tres ordonne
(2)特定の人たちのなかで:この少年はもっともきちんとしている。
この例からses critiques principales les plus diversesの最上級は
意味的には(1)とほぼ同じと判断した。宇波訳と同じ。

「非難することになる」reprochera。
原文は単純未来形で、用法は歴史的叙述における単純未来形と判断した。
フランス語ハンドブックp.37,3.3.4.-(7)とp.252,1.7.4.。
ふつーに推定とかの用法でもあるかもしれない。

「減損としての時間」。減損についてはGilles氏の解説を参照>>288-290
338Gilles:03/04/12 21:25
>>337
今回もほとんど問題ないが、一箇所だけ。

(le temps comme degradation, detente ou diminution d'etre ...):
この degradation と detente (d'etre) と diminution d'etre は並列の
関係じゃないだろうか。

→(減損としての、存在の弛緩ないし収縮としての時間...)

最上級の処理の仕方は、tres の意味でいい。これはよく使う。それから、
単純未来も今の訳し方でいいんじゃないかと思う。
339Gilles:03/04/12 21:33
しまった。もう一つあった。レス無駄使い(?)すまん。ほとんど変わらないんだが。

Et sous ce chef, Bergson groupe ses critiques principales ...:
まず chef の訳語は「主旨[項目]」「要点」「条項」などに相当する。
「本性の差異があるのに程度の差異を見る」という「項目・題目・見出し・ポイント」の
もとに、非常にさまざまな自らの主要な批判を grouper していると言っているのだから、
grouper は「分類している」よりも「まとめている」のほうがいいと思う。
340仏語5級:03/04/14 19:55
>>337の修正訳
【53】第1章の第17段落(原書/13 邦訳/15)
 ベルクソン哲学のライトモチーフとは次のようなものである。われわれは、
本性の差異のあるところに程度の差異しか見てこなかった。そして、このよう
な項目のもと、ベルクソンは、非常にさまざまな自らの主要な批判をまとめて
いる。形而上学に対して、ベルクソンは、本質的に<空間化された時間>と
<本源的なものと想定される永遠>との間に程度の差異(減損としての、存在の
弛緩ないし収縮としての時間...)しか見てこなかったことを非難することになる。

【コメント】Gilles氏の指摘>>338-339により修正。

>しまった。もう一つあった。レス無駄使い(?)すまん。ほとんど変わらないんだが。

ガンガン書き込んでください。足りなくなったら新スレ立てればいいんで。
341仏語5級:03/04/14 19:57
【54】第1章の第17段落のつづき(原書/13 邦訳/15)
つまり、全ての存在は、強度のある一つの段階に、完全と無の両極の間に、規定される。
しかし、科学に対しても、ベルクソンは、[形而上学に対するのと]同じような批判をする
ことになる。それは、依然として空間化された時間一一このような時間に従うと、存在は、
程度・位置・次元・割合の差異しか示さない一一を持ち出す以外に『機械論』の定義は存
在しない[という批判である]。

【コメント】ちょっと細かいこと。
「強度のある一つの段階に、完全と無の二極の間に」のところ。
:原文はdans une echelle d'intensite,entre les deux limites d'une perfection et d'un neant
これはdans〜とentre〜が並列または言い換えの関係だと思い訳文もそのようにしたのだが、
宇波訳では「完全さと無を両極とする強度の段階のなかで」と、entre〜がdans〜を修飾する
関係となる訳文となっている。意味的にはあんまり/全く変わらないと思うのだが微妙に迷った。

二つの目の文章の語順は再考の余地があるかもしれない。
342Gilles:03/04/15 22:19
>>341
ご苦労さん。

> 強度のある一つの段階に、完全と無の両極の間に

これは宇波訳のほうがいいと思う。entre les deux limites 以下の部分が、
その直前の echelle (d'intensite) の「言い換え」ないし説明になっている
というのはその通り。「段階」という訳語だとはっきりしないかもしれないけど、
「スケール」「等級」ということで、一方の極が perfection、他方の極が neant
になっている数直線のイメージ。ついでに言うと、perfection は「完全」より
「完全さ」のほうがすわりがいいかもしれない。

> 依然として空間化された時間 ... を持ち出す以外に『機械論』の定義は
> 存在しない

日本語としてはこのほうが自然だけど、原文そのままだと「を持ち出す定義(celle)
以外の『機械論』の定義は」となる。でもこれだとまわりくどいし読みにくいので、
今の訳のほうがいいと思う。念のため。

dimension の訳語は「次元」より「大きさ」「規模」のほうがよいかな。

細かいことだが、後半の文でダッシュをつかっている部分、「一一」ではなく
「――」にしたほうがダッシュらしいと思う。語順は今のでいいんでは。

>>340

> ガンガン書き込んでください。足りなくなったら新スレ立てればいいんで。

了解。
343山崎渉:03/04/17 09:33
(^^)
344仏語5級:03/04/17 23:19
>>341の修正訳
【54】第1章の第17段落のつづき(原書/13 邦訳/15)
つまり、全ての存在は、完全さと無を両極とする強度の段階のなかで、規定される。
しかし、科学に対しても、ベルクソンは、[形而上学に対するのと]同じような批判
をすることになる。それは、依然として空間化された時間――このような時間に従
うと、存在は、程度・位置・大きさ・割合の差異しか示さない――を持ち出す以外
に『機械論』の定義は存在しない[という批判である]。

【コメント】Gilles氏の指摘>>342により修正。
345山崎渉:03/04/20 04:38
   ∧_∧
  (  ^^ )< ぬるぽ(^^)
346仏語5級:03/04/20 13:35
【55】第1章の第17段落のつづき(原書/13-14 邦訳/15-16)
直線的な進化を前提とし、単なる中間的なものつまり程度の移行と変化を経ながら、
われわれをひとつの生きた有機体から別の有機体へと移行させる進化論ならば、そ
のような進化論にまで[到達する]機械論がある。[しかし、]真の本性の差異を知ら
ないこのような機械論において、われわれを苦しめる<全ての偽の問題と幻想の源
泉>が現れる。『物質と記憶』第二章から、ベルクソンが示しているのは、どのよ
うにして、知覚と感情の間、知覚と記憶内容の間、それぞれの本性の差異の忘却が、
あらゆる種類の偽の問題を生み出し、われわれの知覚の非延長的な性質が存在する
ことをわれわれに信じさせるようになるのかである。《われわれは、自らの外側に
純粋な内的状態を投影するという考えから、<多くの誤解>と<提起の仕方の間違っ
た問題に対する多くの一貫性のない解答>を見出すだろう。》(注18)

(注18)MM,197,47.

【コメント】読みにくいかもしれない。
[到達する]。この訳注は宇波訳を踏襲。

「真の本性の差異を知らないこのような機械論において、」の
「このような機械論において、」は意訳。

「知覚と感情の間、」の「感情」。原語はaffection。宇波訳は「感覚」と訳している。
ちょっとわからない。ドゥルーズの経験論と主観性(財津訳)の第一章の訳注2で財津氏
はaffectionの解説をしていて、主に「変様」「感情」の意味であるといっている。も
ちろんこれはヒューム論でのことだからベルクソン論とはまた違うんだろうけど、辞書
に「感覚」という訳語は出てなかったので「感情」としてみた。
347Gilles:03/04/21 21:20
>>346

訳しにくい文だと思う。ご苦労さん

(1) Il y a de mecanisme jusque dans l'evolutionisme:

> [到達する]。この訳注は宇波訳を踏襲。

jusque dans を「到達する」と訳してしまうのはまずい。まず、mecanisme の前についている
du だが、これは部分冠詞で、直訳すれば「いくぶんかの機械論」、説明的に訳せば、「機械論
的要素」「機械論的なもの」という感じになるだろう。一見、生物の進化をダイナミックに説明
するように見える「進化論の中にまで」、このような機械論が入りこんでいる、ということ。


(2) dans la mesure ou celui-ci postule ...:

dans la mesure ou ... (〜する限りで) の部分がうまく訳されていないような気がする。
celui-ci は進化論 evolutionisme を受けているが、「この進化論が単系的な進化を仮定し、
ある生きた有機体から別の生きた有機体へとわれわれを連れていくものである限りにおいて」
というところか。

unilineaire は、直訳すれば「一本線の」ということだが、「単系的」という訳語がある。辞書
では、人類学の用語として「父系か母系一方の系だけの」などと説明されている。「単線的な」
などと訳してもかまわないかもしれない。もちろん、進化論の描く系統樹は枝分かれしていく
ものだが、その時点その時点で見ると、必ず一本の線になっている。こういうことを指して言っ
ているのだろう。

nous fait passer de ... a ... は、「われわれを ... から ... へと移らせる」ということだ
が、「まずAという生物がいて、次に進化の結果、Bという生物が現われ」という説明方式のこと
を指している。
348Gilles:03/04/21 21:20
第1文目をもう一度整理してみると、こんな感じ:

「機械論的なものは、進化論の中にまで入り込んでいる。それは、この進化論が単系的な進化を仮定し、
単に程度上の中間段階や移行や差異によって、ある生きた有機体から別の生きた有機体へとわれわれを
連れていく限りにおいてである。」


(3) Dans cette ignorance ...:

> 「真の本性の差異を知らないこのような機械論において、」の
> 「このような機械論において、」は意訳。

この意訳というか挿入はいらないと思う。

「真の本性の差異に対するこのような無知の中に ... が現れている。」



(4) des le premier chapitre de Matiere et Memoire ...:

> 『物質と記憶』第二章から

「第一章」の間違い、だな。
349Gilles:03/04/21 21:21
(5) entre la perception et l'affection:

> 「知覚と感情の間、」の「感情」。原語はaffection。宇波訳は「感覚」と訳している。
> ちょっとわからない。ドゥルーズの経験論と主観性(財津訳)の第一章の訳注2で財津氏
> はaffectionの解説をしていて、主に「変様」「感情」の意味であるといっている。も
> ちろんこれはヒューム論でのことだからベルクソン論とはまた違うんだろうけど、辞書
> に「感覚」という訳語は出てなかったので「感情」としてみた。

まあいろんな訳語が可能だと思う。が、感情あたりでいいんじゃないか。

ドゥルーズがさしあたり念頭に置いているのは、『物質と記憶』第1章、原著 p.52 以下
(岩波文庫 p.68 以下)だと思う。ちなみに、岩波文庫版は「感情」という訳語をあてて
いる。具体的にベルクソンが例としてあげているものに「苦痛(douleur)」がある。
(特に、原著 p.53、岩波 p.70 「感情と知覚との間にはたゞ程度の区別があるばかりで
本質的の区別がないやうに思はれる」を参照)


> (注18)MM,197,47.

これは岩波文庫だと p.63:
「純内部状態を吾々の外部に投射するといふ思想には、多くの誤解と、
間違つて提出された疑問に対する多くの偏った回答が潜んでゐる。」
350仏語5級:03/04/26 19:54
>>346の修正訳
【55】第1章の第17段落のつづき(原書/13-14 邦訳/15-16)
機械論的なものは、進化論の中にまで入り込んでいる。それは、この進化論が単系的な
進化を仮定し、単に程度上の中間段階や移行や差異によって、ある生きた有機体から別
の生きた有機体へとわれわれを連れていく限りにおいてである。真の本性の差異に対す
るこのような無知のなかに、われわれを苦しめる<全ての偽の問題と幻想の源泉>が現
れている。『物質と記憶』第一章から、ベルクソンが示しているのは、どのようにして、
知覚と感情の間、知覚と記憶内容の間、それぞれの本性の差異の忘却が、あらゆる種類
の偽の問題を生み出し、われわれの知覚の非延長的な性質が存在することをわれわれに
信じさせるようになるのかである。《われわれは、自らの外側に純粋な内的状態を投影
するという考えから、<多くの誤解>と<提起の仕方の間違った問題に対する多くの一
貫性のない解答>を見出すだろう。》(注18)

(注18)MM,197,47,岩波文庫63.>>349に引用あり。

【コメント】Gilles氏の指摘>>347-349により修正。
duの解釈は大変示唆的でした。部分冠詞だというのには気づいていたんですが、
それがこの文脈上どういう役割なのかはわかってなかったです。Gilles氏の指摘
を読んでもう一度見てみると、なるほどって感じです。勉強になります。
その他いろいろな指摘・引用ありがとうございます。
351仏語5級:03/04/27 15:52
【56】第1章の第18段落(原書/14 邦訳/16)
 『物質と記憶』のこの第一章ほど、分割の方法としての直観の扱いに対する複雑さを
示すテクストは他にない。表象を、それを条件付ける要素に、つまり本性において異な
る[二つの]純粋な現存にあるいは[二つの]傾向に、分割することが重要である。どのよ
うにベルクソンは論を勧めるのか。ベルクソンはまず、何と何の間に、本性の差異が有
り得るのか(あるいは、有り得ないのか)を問う。

【コメント】一つ目の文章は微妙に意訳だと思う。思うと書いたのは自分でも
処理の仕方が適切かわかってないから。

「分割の方法としての直観の扱い」の「扱い」はmaniement。宇波訳は「処理」。迷った。

「表象を、それの条件となっている要素に、」の「それ」は「表象」を指していると考え、
繰り返すと読みずらいと判断し「それ」とした。宇波訳と同じ。
352仏語5級:03/04/27 15:55
「表象を、それを条件付ける要素に、」
   ↓
「表象を、それの条件となっている要素に、」
と修正訳で変えます。
353Gilles:03/05/08 04:59
すっかり遅くなってしまった。すまん。

>>351

maniement は「扱い」でいいと思う。ただ、原文では la complexite du maniement de l'intuition
と de が2つ続いているところ、「直観の扱いに対する複雑さ」とするよりは、「直観に対する扱いの
複雑さ」としたほうがわかりやすいのでは?
354仏語5級:03/05/11 20:26
>>351の修正訳
【56】第1章の第18段落(原書/14 邦訳/16)
 『物質と記憶』のこの第一章ほど、分割の方法としての直観に対する扱いの複雑さを
示すテクストは他にない。表象を、それの条件となっている要素に、つまり本性におい
て異なる[二つの]純粋な現存にあるいは[二つの]傾向に、分割することが重要である。
どのようにベルクソンは論を進めるのか。ベルクソンはまず、何と何の間に、本性の差
異が有り得るのか(あるいは、有り得ないのか)を問う。

【コメント】Gilles氏の指摘>>353により修正。
355仏語5級:03/05/11 20:29
えーっと。突然ですが、これを最後にぼくはこのスレから降りさせてもらいます。
理由は単純にちょっと疲れて続けづらいということです。本自体、前回のレスから
全く読んでなかったりします。時間はあったりするんですがテレビみてたり寝るの
早かったりして読んでません。無理に続けて駄目駄目な訳のってけも迷惑なだけだ
しチェックしてくれるGilles氏に対しても失礼なので、すっぱりとやめたいと思い
ます。
 Gilles氏には大変感謝します。なんどもこの手のことは書いたので食傷気味でしょ
うが、例えば、哲学者の言説に対する距離の取り方などところどころでポロッと書か
れたことは影響を受けました。
 一行レスで応援してくれた人に感謝します。期待には添えなかったですが勘弁してくらはい。

もうこのスレには書き込みません(たぶん)。
気概のある人がいたら続きやってください。あとは落ちるにまかせましょう。
356考える名無しさん:03/05/12 00:56
仏語5級 様
お疲れ様でした。ROMだけで、力になれずすいません。ゆっくり休んで下さい。
ご縁があったら、またどこかのスレでお会いしましょう。
357考える名無しさん:03/05/12 01:16
>期待には添えなかったですが勘弁してくらはい。
とんでもありません、気にしないでください。どうか、お元気で。
358Gilles:03/05/12 05:19
>>355

仏語5級氏へ

半年以上の長きにわたり、本当にお疲れさま。最初のレスの調子でずっと
続けていった成行き上、ぞんざいな口調になってしまったけど、ご勘弁を。

前にも書いたと思うが、2ch でもこんなことができるという貴重な体験を
させてもらった。また、ドゥルーズの本を読み直すことで、前に読んだ時
は思い違いしていたことに気づいたり、他の思想家の関連箇所を読み直し
たり、実はいろいろ役にたっている。これも仏語5級氏のおかげだ。

名残惜しいことではあるけど、「あきたらやめます」という最初の宣言通
り、潔くスパッとやめるのも、氏らしくてよいと思う。

レスしてくれたみなさん、ROM してくれたみなさんにも感謝します。
359考える名無しさん:03/05/12 12:36
>>358
Gilles氏へ、半年間ありがとうございました。ROMしかできなかったけど、
とても感謝しています。なにより2ちゃんでこういうことが、まだ出来ると
いう事が嬉しかったです。お元気で。
360考える名無しさん:03/05/12 13:16
>>355 仏語5級氏、 >>358 Gilles氏

私は、仏語ができないので発言できませんでしたが、
しれはそれは楽しみにROMしてました。

こういったスレの存在自身が、奇蹟・僥倖のようなもので、
こういった、「出来事」に「遭遇」できた幸せを噛み締めてます。

本当にお疲れ様でした。
361考える名無しさん:03/05/19 10:09
>仏語5級氏、ジル氏
お疲れ様でした。
素晴らしいスレに出会えて感激です。

つうかだれも引き継がないのかよ!
もったいない。
だれもやらないならおれがやるぞ(仏語全然読めないけど)。
362山崎渉:03/05/21 22:36
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
363考える名無しさん:03/05/23 11:38
>360 >361
禿同。哲学板の名スレだと思う。
このまま「ひとつの出来事」が落ちていくのだろう。

誰かが、『ベルグソニスム』と銘打って、
新スレをたててくれることをひそかに希望。
364考える名無しさん:03/05/23 12:39
名スレ終了か〜
残念

365考える名無しさん:03/05/24 17:48
今さらだが保守age
初見でしたが、良いスレですね。
仏語5級さん、Gillesさんはどんな人なのだろう。
どうせなら他のスレにも出没してほしい。
366山崎渉:03/05/28 15:11
     ∧_∧
ピュ.ー (  ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  =〔~∪ ̄ ̄〕
  = ◎――◎                      山崎渉
367考える名無しさん:03/06/03 00:57
gillesさん、あんたは男の中の男だ。
まるで2chの便所掃除をボランティアで黙々とやり続けているかのようでした。。

お二人ともありがとうございました。
368考える名無しさん:03/06/09 09:17
仏検5級さん、gillesさんありがとう。
すばらしい読書会かつ授業でした。
369考える名無しさん:03/07/04 17:55
age
370考える名無しさん:03/07/04 19:10
↓情けねえやつ。一生2ちゃんねるの中で、一人でもがいていろ。

367 名前:考える名無しさん :03/06/03 00:57
gillesさん、あんたは男の中の男だ。
まるで2chの便所掃除をボランティアで黙々とやり続けているかのようでした。。

お二人ともありがとうございました。



371Gilles:03/07/08 21:25
今ごろノコノコまた顔を出すのはみっともない気もするが、やはり一言。

淡々と訳文を作っていた仏語5級氏に対してならともかく、こちらにまで謝辞を投げて
下さった皆さん、あらためて感謝します。

ここはフランス語原文を訳すスレだったけれども、哲学的テクストはもちろん日本語
でも読めるし、そもそも日本語で書かれているものもたくさんある。やたらと難解な
もの、見掛け倒しのもの、はたまた辛気臭いものなどいろいろあるだろう。が、どん
なものでも文字通り「便所掃除をボランティアで黙々とやる」(368氏)程度の気力さ
えあれば、有限の時間内には必ず読み終えられる。

ここにレスをつけながら教えられたのは、2ch という場所はそういうことをするのに
案外向いている所だということだ。いつでも参加でき、いつでも去ることができる。
もちろん、始めたからには仏語5級氏のように誰かがある程度持続しないと意味がない
けれど、最後はまた仏語5級氏のように「あきたらやめ」ればよい。

そういう試みがあちこちで始まれば、2ch(でなくともよいが)だってまだまだ捨てた
ものではないと思う。また、そうすれば、2ch を便所として軽蔑(?)する必要もなく
なるだろうし、370氏のようなツッコミも気にしなくてよくなるだろう。

ならお前がやれ、と言われそうだし、ごもっとも。が、いろいろ事情があって難しい。
とはいえ、もしこのスレのような形で何かのテクストを―日本語であれ、それ以外の
言語であれ―じっくり読んでみようという試みが現われれば、ぜひ参加させてもらい
たいし、もっと別の誰かがレスをつけてくれるだろう。そういうものを望んでいる
「2ちゃんねらー」も、実は、少なくはないと思う。
372考える名無しさん:03/07/12 20:46
>>371
こういうときこそ、「激しく同意」とい言葉がぴったり!
373山崎 渉

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄