「人は」というときでも、 哲学でなければ、どれだけ一般的なことを言おうと、 それは生き生きとした人ですが、哲学ではそうではありません。 「人は」ではなく、端的に「私は」だと更に問題が出てくると思います。 ラッセルのロジカルタイプの問題では(ウロ覚え。確か『プリンキピア・マテマティカ』)、 「明日雨が降ると私は思うと私は思う」という文でも(例文は自作ですが)、 「I think that I think it will rain tomorrow」ではなく、 「I think that it think in me that it will rain tomorrow」と書くべきだと言ってたような。 あまり知らないので、断定はまったくできませんが、 ヴィトゲンシュタインの独我論も、この問題と繋がっていると思います (ほんとに知らないので、よく知ってる方、教えてほしいです)。 カントの超越論的統覚の考え方は、この問題のうまい整理だと思います。 さらに、ラカンにおいては、デカルトのcogito(ラカンにおける自己意識)は、 無意味のシニフィアンであり、消失する点であるとしています。
哲学は自由に考えることができるのと代償に、 主体にパラドクスを課します。 哲学を否定するのは「I think that I think that I think...」といくらつなげても、 すべてのIが同じレベルで語れることであり (「私は嘘つきである」という言明が容易に受け入れられるように)、 それはその意味で肯定されてもよいでしょう。