哲学を否定する人を肯定する哲学

このエントリーをはてなブックマークに追加
19考える名無しさん
マジレ素

哲学は、世界を検討すること自体に、パラドクスを含んでいきます。
喩えていえば、偽善のパラドクスのようなもので、
募金をしたとしても、ちょっと「自己満足でしかなく偽善」とか考え始めてしまえば、
たちまちパラドクスとなってしまいます。
愛についても同じです。
相手を純粋に愛していたとしても、
「結局は自分のためなのではないか」と疑うことはいくらでもできます。
このように、世界に忠実であろうとして哲学を始めたとしても、
結局、自分の生を正直に生きていないことになると思います。
言い換えれば、一生懸命考えた末、それが人生に役に立てば人生哲学であり、
ますます乖離が明確化していけば哲学であると、消極的に言えるかもしれません。
こう考えれば、人生哲学との違いが明確でしょう。
ただし、実際の思想史上では実践哲学・倫理学を考えると、
具体的に弁別することは難しいかと。
上の偽善や愛のパラドクスも、
考え方によっては、哲学の問題にも人生哲学の問題にもなると思います。
2019:02/08/24 20:05
「人は」というときでも、
哲学でなければ、どれだけ一般的なことを言おうと、
それは生き生きとした人ですが、哲学ではそうではありません。
「人は」ではなく、端的に「私は」だと更に問題が出てくると思います。
ラッセルのロジカルタイプの問題では(ウロ覚え。確か『プリンキピア・マテマティカ』)、
「明日雨が降ると私は思うと私は思う」という文でも(例文は自作ですが)、
「I think that I think it will rain tomorrow」ではなく、
「I think that it think in me that it will rain tomorrow」と書くべきだと言ってたような。
あまり知らないので、断定はまったくできませんが、
ヴィトゲンシュタインの独我論も、この問題と繋がっていると思います
(ほんとに知らないので、よく知ってる方、教えてほしいです)。
カントの超越論的統覚の考え方は、この問題のうまい整理だと思います。
さらに、ラカンにおいては、デカルトのcogito(ラカンにおける自己意識)は、
無意味のシニフィアンであり、消失する点であるとしています。

哲学は自由に考えることができるのと代償に、
主体にパラドクスを課します。
哲学を否定するのは「I think that I think that I think...」といくらつなげても、
すべてのIが同じレベルで語れることであり
(「私は嘘つきである」という言明が容易に受け入れられるように)、
それはその意味で肯定されてもよいでしょう。

以上、厨房の戯言でした。(w