あとよく「1+2=9」のような文を非論理的とか無意味と考える人がいるけど. それは誤解だろうな.この等式ははっきりと意味を持ってる.つまり「偽」ね.
194 :
考える名無しさん :02/09/01 22:42
1+agu=うあ ならば無意味?
195 :
考える名無しさん :02/09/01 23:10
ところでサナチョバって何?
>>194 「1+agu=うあ 」の中の記号が何を意味するかによる.
>>196 そのままの意味
ところで
「1+1=9」は記号の意味を特定せずとも意味があることは言えたのに
「1+agu=うあ 」はなぜ記号の意味を特定しないと語れないの?
>>197 >「1+1=9」は記号の意味を特定せずとも意味があることは言えたのに
>「1+agu=うあ 」はなぜ記号の意味を特定しないと語れないの?
そんなことはない.普通は記号‘1’とかが自然数1を意味するということを
前提にして話をするから「1+1=9」は記号の意味を特定せずとも意味があるよ
うに感じてるだけで,実際は論理学の教科書の中でもちゃんと数詞に対する意
味づけというのはやるんだよ.モデルをつくるなんていうのはみんなそう.
>>198 >そんなことはない.普通は記号‘1’とかが自然数1を意味するということを
>前提にして話をするから「1+1=9」は記号の意味を特定せずとも意味があるよ
それは知ってた
ならば同じ用法と理解して無意味と言っていいんじゃないの?
200 :
考える名無しさん :02/09/02 01:32
飯田スレからのコピペ。 みんな読もうぜ。 言語哲学大全W 真理と意味(全4巻完結) 飯田 隆(慶應義塾大学教授)著 四六判/450頁/上製 予価(本体4200円+税) 9月上旬刊 [ISBN4−326−15365−2 C3010] 本書はいよいよ最終巻。現代の言語哲学の一方の旗頭であるD.ディヴィド ソンを対象とする。ディヴィドソンは、自然言語に対してメタ理論の位置をとる 意味の一般論を構想している。序論では、ディヴィドソンのプログラムを分析哲学 の中に位置づける。第1章から4章までは、このプログラムの背景・目的・意 義を説明する。第5章では日本語への適用の実例を示し、第6章では、それがどの ような認識論・存在論を帰結するかを検討する。ただ全体としてディヴィドソ ンの解説というよりパースペクティブを広くとり、現段階の言語哲学や言語学に とって実りある一般理論は何か、という問いに答えることを目指している。本 書によっておよそ15年に亘ったプロジェクトは完結する。同時に、英米哲学の 背骨をなす言語哲学の標準的な概説書も完成したことになる。
201 :
考える名無しさん :02/09/02 01:38
だからサナチョバって。
202 :
考える名無しさん :02/09/02 01:42
203 :
考える名無しさん :02/09/02 01:46
完全に意味は無いの?世知に疎いもので。二次的な意味でもいいので 教えて。
204 :
考える名無しさん :02/09/02 01:50
>>203 ホントに意味ないと思いますよ、たぶん。今度学ぶものが出てきた
直接きいてみてくださいね。
おやすみなさい。
論文が息詰まっているので書き込む・・・・.気晴らしに. フレーゲ論法とは何か!!(「真理と意味」デイヴィドソン) 以下では単称名辞に文も含める. 前提1:論理的に等値なものは同じ指示対象をもつ 前提2:同じ指示対象をもつ単称名辞を入れ替えても全体の指示対象は変わらない. 次の4つの文を考えよ: 1.A 2.^x(x=x ∧ A)=^x(x=x) 3.^x(x=x ∧ B)=^x(x=x) 4.B まず1と2は論理的に等値である.証明:Aが真であると仮定せよ.すると^x(x=x ∧ A)は 存在するすべての対象がそのメンバーであるようなクラスであり,それは^x(x=x)と同一で ある.したがって^x(x=x ∧ A)=^x(x=x)は真である.Aが偽であると仮定せよ.すると 条件x=x ∧ Aを満たすような対象は存在しないので,^x(x=x ∧ A)は空なクラスであり, したがって^x(x=x ∧ A)=^x(x=x)は偽である.以上から,Aと^x(x=x ∧ A)=^x(x=x) は論理的に等値.(証明終わり)同様にして3と4も論理的に等値である.さて前提1から「論理的に等値であるものは 指示対象が同じ」なのだから,1と2そして3と4はそれぞれ同じ指示対象をもつ. さてここでAとBが真理値が同じであると仮定せよ.するとこの場合には,上の証明からも分かるように^x(x=x ∧ A) と^x(x=x ∧ B)は同じクラスを指示する.ところが前提2から「同じ指示対象をもつ単称名辞を入れ替えても全体の指 示対象は変わらない」のだから,AとBの真理値が同じであるときは,^x(x=x ∧ A)=^x(x=x)と ^x(x=x ∧ B)=^x(x=x),つまり2と3の指示対象は変わらない. 以上からAとBの真理値が同じであるときは,1,2,3そして4はすべて同じ指示対象をもつ.したがって任意の真理値を同じ くする文は常に同じ対象を指示する.
いろいろレスしたいのですが、 チョト整理できそうにないので、 とりあえず思いついたものからチョトだけよ。
>>166 >>ところでデイヴィドソンは、意味の理論がとるべき姿は
>>形式的意味論であるべきだと考える。
>これは断じて違う.「意味論」と「意味の理論」は違うよ,ぜんぜん.
>>192 >そういった人は命題のmeaningとreferenceを一緒に考えてる.普通論理学で「意味」というときは
>後者.意味論というのはそれを問題としてる.で前者の問題を扱うのが「意味の理論theoy of meaning」
>だね.だからmeaningとreferenceが違うように意味論と意味の理論は違うんだよ.
なるほど、口を出すものさんが言っていた”論理的意味”もこのreference
のことだったんでしょうね。
でも、このreferenceとmeaning、
の用語でいえば、
デイヴィドソンがやろうとした意味の理論というのは、
referenceを扱う形式的意味論の道具立てによって、meaningを解明しよう
というものなんじゃないのかな。
つまりデイヴィドソンは意味の理論がとるべき形式は、タルスキ型真理理論であると考える。
タルスキ型真理理論とは、形式的意味論を自然言語に適用しようとしたものである。
ここから
デイヴィドソンは意味の理論がとるべき姿は
形式的意味論であるべきだと考えているといってもいいんじゃないかな。
>>205 >まず1と2は論理的に等値である.証明:Aが真であると仮定せよ.
>すると^x(x=x ∧ A)は存在するすべての対象がそのメンバーであ
>るようなクラスであり,それは^x(x=x)と同一である.
ここがフレーゲ論法でわからなったところなんですが、
「^x(x=x ∧ A)」というのは、
^x(x=x) ∩ ^x(A)
(集合「^x(x=x)」と集合「^x(A)」の共通集合」
と解釈していいのかな。
>完全に意味は無いの?世知に疎いもので。二次的な意味でもいいので >教えて。 本当に意味ないですよー。
>>207 >つまりデイヴィドソンは意味の理論がとるべき形式は、タルスキ型真理理論であると考える。
>タルスキ型真理理論とは、形式的意味論を自然言語に適用しようとしたものである
からといってタルスキの真理理論が意味の理論になるわけじゃない.というより,前者は真理理論
なんであって,簡単に言えば「Pは真である」という文を分析解明する理論.デイヴィドソンのは
「意味の理論」.
>>208 簡単に考えればいいよ.
^x(xは白い)
というのは,白いもののクラス.だから
^x(x=x)
は自分自身と同一であるもののクラス.だとすると
^x(x=x ∧ A)
は「自分自身と同一であり,なおかつ,A」という条件を満たすもののクラス.
だからAが偽であれば,その条件を満たすものは存在しないということになるね.
簡単にデイヴィドソンの意味の理論の発想を説明すると次のようになる. まずタルスキの真理理論は 規約T ‘p’が真であるのは,pであるときそのときに限る というT文が形式言語のすべての文pに対して成立するということを示した理論なんだけど, その場合,対象言語の文‘p’からメタ言語の文pの翻訳が存在するということが前提され ている.もちろんこの翻訳もちゃんと定義されるんだけど.だから最終的に真という概念 は対象言語からメタ言語へと押し上げる装置だという形で,(まあ荒っぽいけど)説明さ れるわけ. でデイヴィドソンの意味の理論はこれを逆転させて,むしろその翻訳の方を問題とした わけ.真理の概念が対象言語からメタ言語へと押し上げる装置だということを仮定して, その翻訳を見つけ出すことで,問題とする言語(例えば先住民の言語とか)の意味を説明 するというようにね.ちょっと荒っぽいけど,これがデイヴィドソンの意味の理論だね.
>>207 >デイヴィドソンがやろうとした意味の理論というのは、
>referenceを扱う形式的意味論の道具立てによって、meaningを解明しよう
>というものなんじゃないのかな。
まあ正しい.
>つまりデイヴィドソンは意味の理論がとるべき形式は、タルスキ型真理理論であると考える。
>タルスキ型真理理論とは、形式的意味論を自然言語に適用しようとしたものである。
間違ってる
>ここから
>デイヴィドソンは意味の理論がとるべき姿は
>形式的意味論であるべきだと考えているといってもいいんじゃないかな。
真ん中が間違ってるので,これも間違ってる.
214 :
口を出すもの :02/09/04 20:52
>>170 >>フレーゲ論法とは、
>>「いかなる文演算子も、それが作用している文の内部での
>>外延の等しい表現の代入が可能であるならば、
>>その文演算子は真理関数的でなければならない」
>>ということを示す議論である。
>>「デイヴィドソン」(サイモン・エヴニン)より
>
>これがそもそもよくわからない.これってフレーゲ論法じゃないよな.何かの誤訳か
>脈絡が違うか,サイモン・エヴニンが馬鹿なんじゃないの.
これについては、デイヴィドソンが使っている「フレーゲ論法」には、少なくとも
二種類あるみたいです(もっとも、デイヴィドソン自身がこれを「フレーゲ論法」
と呼んでいるわけではないようですが)。ひとつは、稲さんが紹介しているもので、
これは論文「真理と意味」に出てきます。それに対して、もうひとつの「フレーゲ
論法」は、おそらく、前者の応用として『行為と出来事』の中に出てくるもので、
こちらがエヴニンが論じているもののようです。
>>214 だろうね.つまりフレーゲ論法から,真理値が同じ命題は指示対象も同じということが
帰結する.それを因果関係の脈絡の中で考えると非常にへんなことになる,という話
なんだろうね.
216 :
考える名無しさん :02/09/04 21:39
稲さんって、何歳?
217 :
口を出すもの :02/09/04 21:45
エヴニンが「フレーゲ論法」として問題にしているところの論文「因果関係」 におけるデイヴィドソンの議論は、だいたい次のようにまとめられるようです。 文演算子conによって任意の二つの文A, Cが結合されてできる文A con C について、次の二つの前提が成り立つとする。 前提1:文Aをそれと論理的に等値な文A’と交換しても、A’ con Cの真理値は不変である。 前提2:文Aの内部においては、外延の等しい表現の代入が可能である。 1. A 2. ^x(x=x ∧ A)=^x(x=x) 3. ^x(x=x ∧ B)=^x(x=x) 4. B 文Aと文Bの真理値が等しいとする。この場合、^x(x=x ∧ A)と ^x(x=x ∧ B)の外延は等しい。一方、1と2、および、3と4は、 それぞれ論理的に等値であるから、Aは、常に、それと真理値を同じくするBに、 A con Cの真理値を変えることなく、入れ替えることができる。一方、Cについて も同様の議論が成立する。以上のことから、A con Cの真理値は、AとCの真理値 のみに依存することになり、従って、文演算子conは真理関数的である。
218 :
考える名無しさん :02/09/04 21:48
稲さんすごい詳しいけど、 フレーゲ研究者? 研究何年やってるの?
>>217 なんか前提がおかしい感じがするな.論文がないからわからないけど.
>>217 たぶん前提2は
文Aの内部においては、外延の等しい表現を代入しても真理値はかわらない
じゃないのかな.そうでないと
>Aは、常に、それと真理値を同じくするBに、
>A con Cの真理値を変えることなく、入れ替えることができる。
という推論が前提からは出てこないでしょ.
221 :
口を出すもの :02/09/04 22:15
>>219 前提の具体的な定式化には、私が少し手を加えていますので、ぎごちないところ
がありましたら、ご容赦を。前提1の方は、まあいいですよね。一方、前提2の方
は、因果関係を表す文においては、実際に、外延を等しくする名辞が代入できる
という事実に基づいています。
例:小泉純一郎が経済音痴であったという事実が、日本の不況が長引いたと
いうことを事実たらしめた。 → 現在の日本の首相が経済音痴であったと
いう事実が、日本の不況が長引いたということを事実たらしめた。
222 :
口を出すもの :02/09/04 22:17
>>217 こうかな.
前提1:文Aをそれと論理的に等値な文A’と交換しても、A’ con Cの真理値は不変である.
前提2:文Aの内部においては、外延の等しい表現を代入しても真理値はかわらない.
1. A
2. ^x(x=x ∧ A)=^x(x=x)
3. ^x(x=x ∧ B)=^x(x=x)
4. B
1と2,3と4が等値であるのはいい.それゆえ前提1から
A con C と ^x(x=x ∧ A)=^x(x=x) con C の真理値はかわらない.同様に
B con C と ^x(x=x ∧ B)=^x(x=x) con C の真理値はかわらない.
さて,文Aと文Bの真理値が等しいとせよ.このとき^x(x=x ∧ A)と^x(x=x ∧ B)の外延は等しい
から,前提2より,
^x(x=x ∧ A)=^x(x=x) con C と ^x(x=x ∧ B)=^x(x=x) con C の真理値はかわらない.
したがって,Cについても同様だから,A con C はAとCの真理値のみに依存する.
チョトお邪魔します。 >前提2:文Aの内部においては、外延の等しい表現を代入しても真理値はかわらない. というか、ある文結合子が作用する文内部において、外延の等しい表現を 入れ替えても文全体の真理値が変わらない場合、 その文結合子は真理関数的であることを導くのが、フレーゲ論法なん じゃないですか。 だから前提2はいらないと思うのですが。
まず論文がないから
>>217 にあるのをそのまま受け取ると,前提2は僕のいった
形で入ってないとうまくゆかないと思うけどな.前提2がいらないということは
ないと思うよ.
>>224 だから文の外延が必ずしも真理値ではない,という仕方で議論してるんじゃないかね.
>>208 >簡単に考えればいいよ.
>^x(xは白い)
>というのは,白いもののクラス.だから
>^x(x=x)
>は自分自身と同一であるもののクラス.だとすると
>^x(x=x ∧ A)
>は「自分自身と同一であり,なおかつ,A」という条件を満たすもののクラス.
>だからAが偽であれば,その条件を満たすものは存在しないということになるね
でもこの場合のAは命題(文)なわけですよね。
そこが疑問だったところなんですが、
結局どうなんでしょうか
Aが任意の文の場合、
「^x(A)」というのは、それじたい集合表現として見とめられると
考えていいのかな。
>>227 ああ,それね^^.慣れの問題なんだけど,Aが文の場合でも「^x(A)」という
表現を認めるんじゃないのかな.こういうのは集合論とか論理学の本に書いてある.
まあ認めようが認めまいが,要は「x=x ∧ A」を一座の述語だと考えればいい
わけだから,問題ないと思うよ.わざわざそのintersectionを考えなくてもいいと
思う.
>>228 う〜む。いやそこで躓いたものとしてこだわってしまうのですが、
まチョトしらべてみます。
230 :
口を出すもの :02/09/04 22:58
>>223 はい、そゆことであります。
>>224 226にもありますように、「因果関係」のフレーゲ論法は、文の外延が
真理値であるということは前提していないみたいだし、前提2は、文Aのあくまで
内部の名辞の入れ替えについての話で、前提1は、文Aそのものの“論理的に”
等値な文との入れ替えの話。それで、結論は、文Aそのものの“事実的に”
等値な文との入れ替えの話だから、どちらの前提も必要だと思われます。
>>229 まあ馬鹿丁寧にやるとこうなる:
Aが真だとしよう.
(x=x ∧ A ) → x=x
は自明.いまAが真なんだから,x=x ∧ A も真.だから
x=x → (x=x ∧ A )
も成り立つ.したがって,外延性公理から,
^x(x=x ∧ A)=^x(x=x)
が導かれる.
Aが偽の場合は同じようにして,これらが違うということが導ける.
233 :
口を出すもの :02/09/05 10:41
>>227 >Aが任意の文の場合、
>「^x(A)」というのは、それじたい集合表現として見とめられると
>考えていいのかな。
もっと一般的に考えてみると、
演算子が、通常の用法において、そのスコープ内にその演算子によって束縛される
変項を要求するような場合、たまたま、そのスコープ内に束縛変項がないような場
合は、どのような扱いを受けるんですかね。例えば、
∀x(ガファリは太っていた)
∃x(ガファリは太っていた)
は、そもそも解釈可能な文であるのか、もし解釈可能であれば、どのような
解釈を持つのか。
>>233 それ自体はまったく適格な式だと思うよ.というのは量化がちゃんとスコープ
をもっていけない,ということは式の帰納的定義にはないことだから.
例えば
∀y∃x Fx
もちゃんとした式.
>>233 だから
∀x(ガファリは太っていた)
に対する解釈は, ガファリは太っていれば真で,そうでなければ偽.
∃x(ガファリは太っていた)
も同様.
236 :
口を出すもの :02/09/05 11:29
>>234-235 そうすると、やはり、^x(ガファリは太っていた)は、
ガファリが太っていれば、あらゆるものの集合を表し、ガファリ
が太っていなければ、空集合を表すと考えるのが自然ですか。
ただ、ちょっと先に問題になったんですけど、可能世界意味論の
枠組みで考えた場合、この「あらゆるものの集合」は、現実世界
に存在する「あらゆるものの集合」を表すのか、それとも、現実
世界には存在しなくても、他の世界には存在するようなものをも
含めた「あらゆるものの集合」を表すのかどっちなんですかね。
>>236 最初の話は結局表記上というか規約の問題だと思う.^x(ガファリは太っていた)
ではだめだというんであれば,^x(x=x ∧ ガファリは太っていた)と表記すれ
ばいいだけだから.
可能世界はよくしらないけど,普通変項は何の上を走るのかということだと思うけど,
よく「存在するすべての対象の領域」って言うよね.じゃあ存在する対象って何ですか
ということだけど,もし可能世界の話を素朴にやると可能的対象が存在するという話に
なって,それは「指示的に不透明」ってことになるんだよね.
とくに∃x◇Fxなんてのがそのいい例だよね.まあ述語様相論理の意味論がどうなってるか
見てみれば多少の参考にはなるんじゃない.
>>236 付け足しになるけど,そういう問題を考える場合に「他の世界には存在するような」
という表現が何を意味しているのかということを正当化しないといけないだろうね.
クリプキってはじめて(というか高校3年生の夏休みにだけど^^)様相論理の完全性
を証明したけれど,彼自身は様相の議論を存在論的には考えてないと思うけどね.クリ
プキだったら「他の世界には存在するような」という言い回しは無意味だって言うん
じゃないかな.
239 :
口を出すもの :02/09/05 17:06
>>237 可能的対象が「指示に不透明」であるということの意味がよくわからないのですが、
確かに束縛変項xの変域をどう捉えるかによって、∃x◇F(x)の解釈は、違って
きそうですね。すなわち、もしこの文においてxの変域が現実に存在するものに限
られるのであれば、この文は「どこかの世界においてFという性質を満たす個体が
現実世界に存在する」と解釈されるでしょうし、一方、xの変域が可能的に存在
するものも含んでいるのであれば、この文は「どこかの世界においてFという性質
を満たす個体がどこかの世界に存在する」と解釈されるでしょうし。
240 :
口を出すもの :02/09/05 17:09
>>238 >付け足しになるけど,そういう問題を考える場合に「他の世界には存在するような」
>という表現が何を意味しているのかということを正当化しないといけないだろうね.
可能世界意味論において、そのような正当化は必要なんでしょうか。
単に、理論的な構築物として、可能世界における存在者を措定しては
いけないのかな。
>クリプキってはじめて(というか高校3年生の夏休みにだけど^^)様相論理の完全性
>を証明したけれど,彼自身は様相の議論を存在論的には考えてないと思うけどね.クリ
>プキだったら「他の世界には存在するような」という言い回しは無意味だって言うん
>じゃないかな.
クリプキは、様相の問題を可能世界意味論によって分析したのではなかったでした
っけ(自信ないですけど)。もしそうだとすると、様相の問題を可能世界意味論に
よって分析するというのは、様相の問題を存在論的に捉えることに他ならないよう
に思えるのですけど。
241 :
考える名無しさん :02/09/05 18:00
「存在論的」ってマジでいってるの?
242 :
口を出すもの :
02/09/05 18:04