フレーゲ論法 フレーゲ論法とは、 「いかなる文演算子も、それが作用している文の内部での 外延の等しい表現の代入が可能であるならば、 その文演算子は真理関数的でなければならない」 ということを示す議論である。 「デイヴィドソン」(サイモン・エヴニン)より まったく意味不明ですねえ。まあ見ていきましょう。
2 :
考える名無しさん :02/08/12 17:49
文演算子ってなに?
3 :
考える名無しさん :02/08/12 17:51
わかりやすい言葉に置き換えて下さい。
まず、用語を確認しておきましょう。 語の外延 語の外延は、ここでは指示対象の同一性のことと理解していいんでしょうか。 例えば、 「ガファリ」と「アトランタオリンピック、グレコノーマン130キロ級 銀メダリスト」は指示対象が同じよって、外延が等しいということに なるのようです。
>文演算子ってなに? まだよくわかりません。 これから見ていきましょう。 >わかりやすい言葉に置き換えて下さい。 できるだけがんばってみます。
さて、文演算子というのは、よくわかりませんが、 おそらく二つ(あるいは二つ以上?)の文を結びつける表現・結合子の ようなものでしょうか。 ここで扱う文演算子は、 「〜という事実が、・・・ということを事実たらしめた」 というものです。 さてとりあえず、「文演算子」の方はこれでいいとしましょう。 「文の内部での外延の等しい表現の代入が可能である」 というのは、文の中にでてくるある語を、それと外延が等しい 表現に置きかえることが可能ということでいいでしょう。 これは特に問題ないですね。
すると、真理関数的であるとは何か? ということですが、 これは今はよくわからないので置いておきます。 で、結局 「いかなる文演算子も、それが作用している文の内部での 外延の等しい表現の代入が可能であるならば、 その文演算子は真理関数的でなければならない」 とはどういうことなのかというと、 それをこれから見ていくわけです。 いくつかのお約束・前提条件があります。
前提1.「二つの文は、互いの真理値が異なっていることが不可能である とき、論理的に同値である」 AとBという文があるとき、文Aが偽になるとき、かならず文Bも偽になり、 文Aが真になるとき、かならず文Bも真になるとき、 つまりAとBの真理条件が同じとき、 この文AとBは互いの真理値が異なることはありえない。 このとき、AとBを論理的同値と呼ぶということらしいですね。 前提2.「論理的に同値な文は、互いに代入可能である」 文AとBが論理的同値なとき、 文Aを含む複文Xがあったとき、Xの中の文Aを文Bで置き換えても よいということのようです。
さて、これは本の中では前提条件とはなっていないのですが、 ここで前提条件に加えましょう。 前提3.同一律(A=A)は、あらゆる対象において成り立っているとする。 したがって、同一律を満たすものの集合には、あらゆるものが含まれる ということになるようです。
ああさてさて、 「〜という事実が、・・・・ということを事実たらしめた」 という文演算子をつかって例文をつくってみましょう。 @「ガファリは太っていたという事実が、ガファリは重かった ということを事実たらしめた」 「ガファリ」と「アトランタオリンピック、グレコノーマン130キロ級 銀メダリスト」は外延が等しい表現でした。 そこで、@の「ガファリ」を外延が等しい表現で置き換えた文を つくります A「アトランタオリンピック、グレコノーマン130キロ級 銀メダリストは太っていたという事実が、ガファリは重かった ということを事実たらしめた」 さて、ここからフレーゲ論法が始まるわけです。
フレーゲ論法によると、 @からAが導出可能であることを認めると、 「〜という事実が、・・・・ということを事実たらしめた」 という文演算子は、真理関数的であることを認めなければならなく なるということになります。 まだよくわかりませんね。
例えば、@の文を理解する場合、 当然、「ガファリは太っていたという事実」と 「ガファリは重かったという事実」との間に内容的関連を 読みこみますよね。 普通「〜という事実が、・・・・ということを事実たらしめた」という 文演算子は、〜という文内容と、・・・・という文内容との間に 意味内容上の関係、おそらく因果的関係が成立しているとき真であると判断するはずですね。 「ガファリが太っていた」から「ガファリは重い」のである。 よって「ガファリは太っていたという事実が、ガファリは重いという ことを事実たらしめる」は真である。 しかし、文演算子が真理関数的であるとは、 真理関数的という言葉がなんであれ、そこには、その文演算子が 結びつける二つ(あるいは二つ以上)の文には何の内容的関係も もたないということを含意していると考えてよさそうです。
するとこうなります。 「ガファリ」と「アトランタオリンピック、グレコノーマン130キロ級 銀メダリスト」は外延が等しいことをもって、 @「ガファリは太っていたという事実が、ガファリは重かった ということを事実たらしめた」 から A「アトランタオリンピック、グレコノーマン130キロ級 銀メダリストは太っていたという事実が、ガファリは重かった ということを事実たらしめた」 の推論を認めるならば、 結合子「〜という事実が、・・・・ということを事実たらしめた」は 真理関数的ということになり、@、Aから例えば B「フレーゲが論理学者であったという事実が、ガファリが重かった ということを事実たらしめた」 が導出できることになる。 これを示すのがフレーゲ論法ということになります。
14 :
考える名無しさん :02/08/12 19:05
こんなにレスが(w ちょっと待って!今考える
>こんなにレスが(w ちょっと待って!今考える まだ、考えるのはチョト早いです。 もうちょっとまとめさせてください。
繰り返しますと、 フレーゲ論法とは次のようなものです。 前提1.「二つの文は、互いの真理値が異なっていることが不可能である とき、論理的に同値である」 前提2.「論理的に同値な文は、互いに代入可能である」 前提3.同一律(A=A)は、あらゆる対象において成り立っているとする。 の3つの前提条件(本当は2つで前提3は含まれない?) の上で、 文の内部において外延の等しい表現の入れ替えを認めるならば、 つまり、@からAが導出可能であるとすると、 @「ガファリは太っていたという事実が、ガファリは重かった ということを事実たらしめた」 から B「フレーゲが論理学者であったという事実が、 ガファリが重かったということを事実たらしめた」 も推論可能となる。 なぜそうなってしまうのでしょうか。
さて、これからがフレーゲ論法を理解するうえで味噌になります。 実は僕もよくわからないんですね。 ま、とりあえず見ていきましょう。 フレーゲ論法によると、 C「ガファリは太っていた」 と D「^x(x=xであり、かつ、ガファリは太っていた) = ^x(x=x)」 は倫理的同値な文となります。 さあ、わけがわからなくなってきましたね。 しかしここが味噌なのです。 がんばって見て行きましょう。
D「^x(x=xであり、かつ、ガファリは太っていた) = ^x(x=x)」 まず、「^x」という記号は、本によると集合抽象演算子と呼ぶらしく その意味は、「・・・というようなxの集合」、つまり「・・・」を満たす ものの集合ということですね。 とすると、まずDの文内の「=」で結ばれた二つの文の右辺、 「^x(x=x)」を見ましょう。 これは、「^x」が「・・・というようなxの集合」の意味ですから、 要するに、x=xを満たすようなxの集合、つまり、 「同一律を満たすものの集合」ということになります。 これがDの右辺の意味ですね。
D「^x(x=xであり、かつ、ガファリは太っていた) = ^x(x=x)」 さて、問題は左辺です。ここがフレーゲ論法を理解する上でのキモです。 左辺:「^x(x=xであり、かつ、ガファリは太っていた)」 左辺は、二つの条件を満たすものの集合について語っています。 一つは、x=x、つまり、同一律を満たすようなもの もう一つは、(これがミソでありキモなんですが) ガファリは太っていたようなもの ということになります。 したがって、左辺の意味はこうなります。 (同一律を満たすもの、かつ、ガファリは太っていたようなもの)の集合 するとDが意味するのは、 (同一律を満たすもの、かつ、ガファリは太っていたようなもの)の集合 と 同一律を満たすようなものの集合は 同一の集合である ということを語っていることになります。
さて、問題になるのは、 「ガファリは太っていたようなもの」の集合とは何かということです。 「xは同一律をみたすようなものである」という表現のは意味はわかります。 しかし、 「xはガファリは太っていたようなものである」という表現はどういう 意味なのでしょうか。 ここがわからないのですねえ。 ということでとりあえず飯。
21 :
考える名無しさん :02/08/12 21:06
>>6 接続詞って事ですか?
並立や注釈(すなわち、例えば など)添加(そして)や条件(さらば)、
などの???
22 :
考える名無しさん :02/08/12 21:24
>>12 >しかし、文演算子が真理関数的であるとは、
真理関数的という言葉がなんであれ、そこには、その文演算子が
結びつける二つ(あるいは二つ以上)の文には何の内容的関係も
もたないということを含意していると考えてよさそうです。
これよくわかんない・・・ヾ(´ε`*)ゝ
23 :
考える名無しさん :02/08/12 21:41
>>13 >B「フレーゲが論理学者であったという事実が、ガファリが重かった
ということを事実たらしめた」
おかしい、フレー毛間違ってる。ホントにそんなこと・・・次を読みましょう
でも、前提2には完璧に外れているように思えるのだが気のせい?(Bの事)
だってね、フレーゲが論理学者でなくても、普通の人から見たら、ガファリ さんは太っていて、重いと言えるよ。 =で結べないよ。だから関数にならないし・・・文がおかしいよ。
25 :
考える名無しさん :02/08/12 22:14
>>20 太っている=体重が重い と言うこと。「重い」も集合の一つですね。
それは、わかります。
でも、「〜という事実が、・・・ということを事実たらしめた」の接続詞の
分類は(それなら、だから など)である「条件」!
であって、
D「^x(x=xであり、かつ、ガファリは太っていた) = ^x(x=x)」
で使っている「かつ」という表現は接続詞の添加(おまけに、その上、なお
など)に分類される。
条件と添加は違う。接続できるものが違う〜
25は私の勘違いだ。よく読んでなかった。頭冷やしてきます。 わかりましたよフレーゲさんが言いたかったこと。(w
27 :
考える名無しさん :02/08/12 23:28
>>20 「xはガファリは太っていたようなものである」という表現は、ガファリは
太っているということをいうのを助ける表現でもよいが、・・・であるから
〜である の、〜 を表現する条件であってよいのです。そうでなければ
ならない。
28 :
考える名無しさん :02/08/12 23:43
>A「アトランタオリンピック、グレコノーマン130キロ級 銀メダリストは太っていたという事実が、ガファリは重かった ということを事実たらしめた」 この文を例に・・・左辺は2つに分けられる。(アトランタオリンピック、 グレコノーマン130キロ級銀メダリスト)と(太っていた)だよ。 2つとも、重いということを説明する文だよ。この場合、ガファリが重いと いう条件あるいは、理由が2つあるということだす。
29 :
考える名無しさん :02/08/13 00:41
つまり、条件接続詞は A,B,C・・・=Xで表せるので、式でかくとA+B+C+・・・=X ということは、直線の関数グラフが描けるね。 簡単♪これで、いいのかな?
30 :
考える名無しさん :02/08/13 10:10
学ぶものさん、お返事下さいね。正解なら嬉しいですが・・・ 実に面白い考え方です。数学で文法の接続詞を考えることは、珍しいのかも。 気づくか気づかないかの論法だけど、気付いたフレーゲさんは凄いのかも。 知れないですね。(w こんな哲学がやりたいものです。
ちなみに私は太っていてかなり重いです
32 :
考える名無しさん :02/08/13 11:01
>>21 >接続詞って事ですか?
>並立や注釈(すなわち、例えば など)添加(そして)や条件(さらば)、
>などの???
よくわかりませんが、
文演算子というのは、演算子とついているので、文に対してなにか
操作・働きかけを行う記号のことなのでしょうね。
だから、接続詞とかも当然文演算子になるのでしょうね。
ここで扱うのは、
「〜という事実が、・・・ということを事実たらしめた」
という結合子ですね。
後は、例としては、「〜は・・・という事実に対応する」
というようなものも上げられていますね。
まあ、いろいろあるのでしょう。
>>22 >>しかし、文演算子が真理関数的であるとは、
>>真理関数的という言葉がなんであれ、そこには、その文演算子が
>>結びつける二つ(あるいは二つ以上)の文には何の内容的関係も
>>もたないということを含意していると考えてよさそうです。
> これよくわかんない・・・ヾ(´ε`*)ゝ
僕もよくわからないのですが、論理学は命題論理学からチョビとづつ勉強しているところ
なので以下の説明はあくまでも眉唾のつもりで聞いてください。
(というか僕の説明はすべて基本的に眉唾ものなのですが)
論理学では、例えば「ならば」という結合子がでてくるんですが、
これは、
「AならばB」という形で2つの文を結びつけるのですが、
この論理学の「ならば」には、結びつけた2つの命題AとBの
間に内容的つながりがなくていいんですね。
「ならば」が結びつける2つの命題の真理値(真か偽)
の組み合わせのみかかわりをもつような結合子なわけです。
意味内容的なつながりはなくていいわけですから、 例えば、 @イチローはメジャーリーガーであるならば石原新太郎は都知事である といった文を適当に作ることができるわけです。 そして、この@の文が真か偽かは、「ならば」が 結びつけた2つの命題の真偽の組み合わせだけで決まるわけです。 イチローはメジャーリーガーであるは真ですね。 石原新太郎は都知事であるも真ですね。 よって、論理学の規則によって、 @は真な文ということになります。 こういう場合の文結合子を 真理関数的という呼ぶみたいですね。 関数というのは、おそらく入力に対して出力が一意的に決まるような 関係のことですね。 だから、 「〜が事実ということが、・・・ということを事実たらしめる」 という文結合子が真理関数的であるというときは、 この文結合子は、 この文結合子が結びつける、「〜」と「・・・」の文 の内容にはかかわりをもたずに、二つの文の真偽値 の組み合わせだけによって、文全体の真偽が決定される そういう文演算子ということのようです。
>>24 >だってね、フレーゲが論理学者でなくても、普通の人から見たら、ガファリ
>さんは太っていて、重いと言えるよ。
普通に考えると言えますよね。
ガファリさん太ってましたからね。
チョト太りすぎでしたものね。
でも、
B「フレーゲが論理学者であったという事実が、ガファリが重かった
ということを事実たらしめた」
がおかしいと感じるのは、
「〜という事実が、・・・ということを事実たらしめた」という結合子が
結びつける「〜」と「・・・」の二つの文の間には内容的なつながりがある
べきだと考えるからですよね。
「フレーゲが論理学者であった」という事実と、 「ガファリが重かった」という事実との間には何のつながりもないはずであって、 「フレーゲが論理学者であろうとなかろうと」、ガファリが重いかどうかは、 ガファリが太っているかどうかによって決まるはずだ、とこう思うからですよね。 でも、フレーゲ論法が証明しようとしているのは、 例えば、「〜という事実が、・・・ということを事実たらしめた」という結合子 によって作られる文において、その文内で外延が等しい表現が交換可能である とみなすと、「〜という事実が、・・・ということを事実たらしめた」 という結合子は、真理関数的結合子でなければならなくなるということなんです。 つまり、 「〜という事実が、・・・ということを事実たらしめた」という結合子は、 それが結びつける「〜」と「・・・」という文の内容には何のかかわりも もたないような結合子と解釈されてしまうということです。
>>27 >「xはガファリは太っていたようなものである」という表現は、ガファリは
>太っているということをいうのを助ける表現でもよいが、・・・であるから
>〜である の、〜 を表現する条件であってよいのです。そうでなければ
>ならない。
う〜ん、どういうことなんでしょうか。
もう少し説明してもらえますか。
ここは僕は躓いているところでして、だれかわかりやすく
解説してほしんですが。
僕がわからないのは 「xはガファリは太っていたようなものである」を満たすxは何かと 聞かれたとき、何を考えればいいのかさっぱりわからないんですね。 例えば、 「xは赤いようなものである」を満たすxは何かとかであれば、 赤い自動車とか、ま赤いものを上げればいいんですけど、 「xはガファリは太っていたようなものである」という表現はよくわからないんです。 だから、「xはガファリは太っていたようなものである」のxを満たすものの集合 というのが何なのかわからない。 本の中でも、 「xはガファリは太っていたようなものである」のような表現は、 「日常会話ではまず見られることのない表現」でそのことが「 フレーゲ論法を理解しがたいものにする一因となっている」と指摘 しているのですが、そういう指摘をしているわりにはきちんとした 説明はなくて、
ただ、唐突に ガファリの例文を用いますと、 『文「ガファリは太っていた」が真であるとしよう。すると、このとき、 述語「xはガファリは太っていたというようなものである」はあらゆる ものに適用される。というのは、xの値として可能なものすべてが、 ガファリは太っていたというようなものになるからである。また、 この文(「ガファリは太っていた」)が偽であるときには、 この述語はいかなるものにも適用されない。』 という解説があるだけなんですね。 なんで、「ガファリは太っていた」が真であるときには、 「xはガファリは太っていたというようなものである」が、 あらゆるものに適用されるのかわからないんです。 例えば、「小川直也はガファリは太っていたというようなものである」 は真であるといわれても、なんかわかんないんですよね。
>>30 >学ぶものさん、お返事下さいね。正解なら嬉しいですが・・・
正解というのは?
>>29 のことですか。
う〜ん、フレーゲ論法とのつながりがよくわからないのですが。
もうチョト説明してほしいです。
さて、いろいろ疑問がでていますが、 とりあえず、フレーゲ論法を最後まで説明させてください。 で、問題は、 「^x(ガファリは太っていた)」をどう理解すればいいのか ってことですが、 だれかわかる人がいたら、わかりやすく説明してほしいです。 説明きぼんぬです。 で、ここがわかるかどうかがおそらくフレーゲ論法を理解できる かいなかの味噌なのでしょうが、 残念ながらわからないのですね、ただわからないからといって とまっていては前に進めないので、 ここでは、解説箇所を前提に組みこむことで、 前に進むことにします。
[前提4導入] ある文例えば、「ガファリは太っていた」 に対して、 つぎの集合をつくる。 「^x(ガファリは太っていた)」 意味は (ガファリは太っていたというようなxの集合) あるいは (ガファリは太っていたというようなもの、という条件を満たすxの集合) このとき、 文「ガファリは太っていた」が真なとき、 「^x(ガファリは太っていた)」は、あらゆる対象を含む。 文「ガファリが太っていた」が偽なとき、 「^x(ガファリ太っていた)」は、空集合となる。 以上のことは例文「ガファリは太っていた」に限定されない。 へなちょこな文ですが、これを前提4としてたてましょう。 なぜこうなるかわかる人がいたらぜひ優しく説明してください。 おながいします。
さて、ではもう一度フレーゲ論法の説明をしましょう。
前提1.「二つの文は、互いの真理値が異なっていることが不可能である
とき、論理的に同値である」
前提2.「論理的に同値な文は、互いに代入可能である」
前提3.同一律(A=A)は、あらゆる対象において成り立っているとする。
前提4.
>>43 参照
の4つの前提条件の上で、
「〜という事実が、・・・・ということを事実たらしめた」
という文演算子によってつくられる文に関して
その文内部において外延の等しい表現の入れ替えを認めると、
(この文内部において外延の等しい表現の入れ替えを認める
というのを、ここではフレーゲ論法発動原則と呼びましょう)
例えば、 @ガファリは太っていたという事実が、ガファリは重かった ということを事実たらしめた。 から「ガファリ」と外延が等しい表現を入れ替えて、 A「アトランタオリンピック、グレコノーマン130キロ級 銀メダリストは太っていたという事実が、ガファリは重かった ということを事実たらしめた」 が推論できることを認めると、 「〜という事実が、・・・・ということを事実たらしめた」という 文演算子は、この文演算子が結びつける2つの文の内容にかかわりをもたない 真理関数的演算子として解釈することが可能になる。
46 :
面白がるもの :02/08/13 16:52
やあ、学ぶもの。 このまえ心霊屋敷スレで、クラインの「論理的観点から」読んで面白かった、 ってカキコしたものだけどさ。 >「xはガファリは太っていたようなものである」を満たすx これはやっぱりへんだよ。ぼくも命題論理はチョトかじったくらいだけど、 命題論理(フレーゲが創始者だよね?)で、「Xは〜という性質をもつ ものすべての集合」というとき、つまり全称量化子を使う場合、 そのXは当然「述語」に限定されるはずであって、上の例のような 「カヴァリ」という主語が入るはずはないと思うけど。
@「ガファリは太っていたという事実が、ガファリは重かった ということを事実たらしめた」 から例えば、 B「フレーゲが論理学者であったという事実が、ガファリが重かった ということを事実たらしめた」 という文が導出できることになる。 これがフレーゲ論法である。
>>46 どもどもです。
>これはやっぱりへんだよ。ぼくも命題論理はチョトかじったくらいだけど、
>命題論理(フレーゲが創始者だよね?)で、「Xは〜という性質をもつ
>ものすべての集合」というとき、つまり全称量化子を使う場合、
>そのXは当然「述語」に限定されるはずであって、上の例のような
>「カヴァリ」という主語が入るはずはないと思うけど。
へんですよね。でも、「xはガファリは太っていたようなものである」
とう述語は、もし文「ガファリは太っていた」が真なときは、
あらゆる対象に適用されると解説では書いてあるんです。
なんか納得できないんですよね。
でも、とりあえず、納得がいかないので、前提条件として
加えることで、話を先にすすめるつもりです。
なんかわかったら、また書きこんでください。
いま気づきましたけど、 >クラインの「論理的観点から」 は、クワインですね。ふふふ。
50 :
面白がるもの :02/08/13 16:59
>>46 >そのXは当然「述語」に限定されるはずであって
「その〜は当然『述語』に限定されるはずであって」の間違いです。
で、前提1〜4とフレーゲ論法発動原則を満たして、 @からAを導出したとしましょう。 すると、どのようにしてBが導出されるのでしょうか その過程を見ていきましょう。 チョト一気にまとめたいので、途中でレスされた人がいても、 まとめ終わるまで、応答できないかもしれないです。
まず、文Cをつくります。 C「ガファリは太っていた」 フレーゲ論法によると文Cと次の文Dは論理的同値となる。 D「^x(x=xであり、かつ、ガファリは太っていた) = ^x(x=x)」 すでに説明してありますが、念のためもう一度説明を繰り返しますと、 記号「^x」は集合抽象演算子と呼ぶそうで、その意味は、 「・・・というようなxの集合」というものになります。
Dの右辺 「^x(x=x)」は、「x=xであるようなxの集合」を意味する。 x=xは同一律のことであるから、 Dの右辺は、 「同一律を満たすようなxの集合」あるいは「同一律を満たすものの集合」 Dの左辺は、 二つの条件を満たすものの集合を表現していて、 1つは、同一律を満たすようなxの集合 もう一つは、ガファリは太っていたようなものを満たすxの集合 よって、左辺の意味は、 「自己同一的であり、かつ、ガファリは太っていたというようなもの、という 2つの条件を満たすものの集合」
すると、 D「^x(x=xであり、かつ、ガファリは太っていた) = ^x(x=x)」 の意味は、 (「自己同一的であり、かつ、ガファリは太っていたというようなもの、という 2つの条件を満たすものの集合」と「自己同一的であるようなものの集合」が同一である) ということになる。
CとDが論理的同値な文であることの証明 1.同一律はあらゆる対象が満たす性質である。前提3より よって、^x(x=x)は、あらゆる対象を含む集合となる。 2.「^x(ガファリは太っていた)」は、文「ガファリが太っていた」が真である とき、あらゆる対象を含む。文「ガファリが太っていた」が偽であるとき、 いかなる対象をも含まない。前提4より
3.論理演算子「かつ」の真理条件(2値原理に基づけば)は、 「AかつB」において、命題AとBがともに真であるとき、「AかつB」全体は真 命題AとBのどちらかが偽か両方偽であるとき、「AかつB」は偽になる。 一般的な論理規則より
Dの左辺「^x(x=x かつ、ガファリは太っていた)」 について、 A:「ガファリは太っていた」が真なとき、 A−1:「^x(x=x)」はあらゆる対象を満たす(1より) A−2:「^x(ガファリは太っていた)」はあらゆる対象を満たす(2より) 4.よって、「ガファリは太っていた」が真なとき、 「^x(x=x かつ、ガファリは太っていた)」はあらゆる対象を満たすことになる。 (A-1,A-2,3より) B:「ガファリは太っていた」が偽なとき、 B-1:^(x=x)はあらゆる対象を満たす(1より) B-2:^x(ガファリは太っていた)は空集合になる(2より) 5.よって「ガファリは太っていた」が偽なとき、 「^x(x=x かつ、ガファリは太っていた)」の意味は あらゆるものを含む かつ いかなるものも含まない という2つの条件を 満たす集合ということになる。(B-1,B-2より)
B:「ガファリは太っていた」が偽なとき、 B-1:「^(x=x)はあらゆる対象を満たす」(1より) B-2:「^x(ガファリは太っていた)は空集合になる」(2より) 5.よって「ガファリは太っていた」が偽なとき、 「^x(x=x かつ、ガファリは太っていた)」の意味は あらゆるものを含む かつ いかなるものも含まない という2つの条件を 満たす集合ということになる。(B-1,B-2より)
6.5は矛盾している。よって「ガファリは太っていた」が偽のとき、 「^x(x=x かつ、ガファリは太っていた)」 は空集合となる。 D「^x(x=xであり、かつ、ガファリは太っていた) = ^x(x=x)」 は、左辺の条件を満たす集合と右辺の条件を満たす集合が同一であるという意味でした。 Dの文について 7.「ガファリは太っていた」が真なとき、Dは真となる。(1、4より) (1より、Dの右辺の^x(x=x)はあらゆるものを含む集合である。 4より、「ガファリは太っていた」が真なとき、Dの左辺はあらゆるものを 含む集合となる。よって左辺と右辺の集合は等しい)
8.「ガファリは太っていた」が偽なとき、Dは偽となる。(1、6より) (1より、Dの右辺の^x(x=x)はあらゆるものを含む集合である。 6より、「ガファリは太っていた」が偽なとき、Dの左辺は空集合。 よって、左辺と右辺は等しくならない) 9.C「ガファリは太っていた」と D「^x(x=xであり、かつ、ガファリは太っていた) = ^x(x=x)」 は論理的同値な文である。(7.8.前提1より) 証明おわり。
中間帰結 C「ガファリは太っていた」と D「^x(x=xであり、かつ、ガファリは太っていた) = ^x(x=x)」 は論理的同値な文である。
CとDが論理的同値な文なので、@の文から、前提2より、CとDの論理的同値文を交換した E「^x(x=xであり、かつ、ガファリは太っていた) = ^x(x=x) という事実が、ガファリは重かったということを事実たらしめた」 が導出できる。
さて、この後、文F「フレーゲは論理学者だった」とそれに対する 文G「^x(x=xであり、かつ、フレーゲは論理学者だった) = ^x(x=x)」 という2つの文が論理的同値であることを論証します。 「ガファリ」のときとまったく同じなので過程は省きます。 よって 証明おわり 文F「フレーゲは論理学者だった」と 文G「^x(x=xであり、かつ、フレーゲは論理学者だった) = ^x(x=x)」 は論理的同値である。
さて、
>>57-58 参照
「ガファリは太っていた」が真なとき、
「^x(x=xであり、かつ、ガファリは太っていた)」
はあらゆるものを含む集合でした。
そして、
「ガファリは太っていた」が偽なとき、「^x(x=xであり、かつ、ガファリは太っていた)」
は空集合でした。
それと形式的にまったく同じですから、
「フレーゲは論理学者だった」が真なとき、
「^x(x=xであり、かつ、フレーゲは論理学者だった)」
はあらゆるものを含む集合になります。
「フレーゲは論理学者であった」が偽なとき、
「^x(x=xであり、かつ、フレーゲは論理学者だった)」
はおなじく空集合。
さて、事実として、ガファリは太っていた。また 事実として、フレーゲは論理学者だった。 よって、 E:「^x(x=xであり、かつ、ガファリは太っていた)」 はあらゆる対象を含む集合 同じく F:「^x(x=xであり、かつ、フレーゲは論理学者だった)」 もあらゆる対象を含む集合となる。 よって、EとFはともに、あらゆる対象を満たし、外延が等しい。
フレーゲ論法発動原則は、文内部において外延の等しい表現の入れ替えを認める というものでしたから、 E「^x(x=xであり、かつ、ガファリは太っていた) = ^x(x=x) という事実が、ガファリは重かったということを事実たらしめた」 の文中の表現「^x(x=xであり、かつ、ガファリは太っていた)」 と外延が等しい表現 「^x(x=xであり、かつ、フレーゲは論理学者だった)」 は入れ替え可能となり、 H「^x(x=xであり、かつ、フレーゲは論理学者だった)= ^x(x=x) という事実が、ガファリは重かったということを事実たらしめた」 が導出できる。
さて、ここまでくればあとは簡単ですね。 文F「フレーゲは論理学者だった」と 文G「^x(x=xであり、かつ、フレーゲは論理学者だった) = ^x(x=x)」 は論理的同値な文なのでしたから、 前提2より、 Hから論理的同値文を交換して B「フレーゲが論理学者であったという事実が、ガファリが重かった ということを事実たらしめた」 が導出できる。
68 :
考える名無しさん :02/08/13 17:24
うはあ〜ちょっと待って今考える。
よって、前提1〜4とフレーゲ論法発動原則から @「ガファリは太っていたという事実が、ガファリは重かった ということを事実たらしめた」 という文から B「フレーゲが論理学者であったという事実が、ガファリが重かった ということを事実たらしめた」 が推論できる。
しかし、「ガファリは太っていた」と「フレーゲが論理学者であった」という二つの文 に共通するのは、ともに文が真であるということだけである。 よって、@「ガファリは太っていたという事実が、ガファリは重かった ということを事実たらしめた」 だけをみると、 「〜という事実が、・・・ということを事実たらしめた」という 文演算子は、〜と・・・という二つの文の内容にかかわりを持つ 例えば、〜と・・・という文が因果的に結合されていることを 求めているように見えるが、 @からBが導出できるということは、 実は 「〜という事実が、・・・ということを事実たらしめた」 という文演算子は、結びつける文の内容にかかわりをもたなで、 文の真偽値だけにかかわりをもつ、真理関数的結合子という ことになる。
この結論が受け入れられないとするならば、 「フレーゲ論法の示すところによれば、われわれの取るべき道は 二つのうちのいずれかしかない。すなわち、文の内部での外延の 等しい表現の代入を禁じて、@からAへという、一見したところ、 は受け入れられそうな推論を却下するか、あるいはデイヴィドソン が主張しているように、文結合子「〜という事実が、・・・という ことを事実たらしめた」を破棄してしまうか、そのどちらかしか ないのである」(サイモン)
まあ、感じとしてはこんなものです。 なんせフレーゲ論法の解説が6ページだけですから あんまり僕にこまかいことをきいても無駄ですよ。 ふふふ
僕たちがみたのは、「〜という事実が、・・・ということを事実たらしめた」 という文演算子についてですが、 フレーゲ論法が目論むのは、いかなる演算子についても、 その演算子が作用している文内部で外延が等しい 表現の代入が可能であるなら、その演算子は 真理関数的でなければならないことを示すことにあるのだそうです。 怖いですねえ。 なお、サイモンによると、このフレーゲ論法に対しては、 マッキーという人がいろいろと反論を展開しているそうです。 興味があれば調べてみてください。
74 :
面白がるもの :02/08/13 17:57
2度繰り返して読んだけど、やっぱり前提4
>>43 がわからないな。
学ぶものもわからんって言ってるけど。
前提4があるからこそ、上の証明は、「同一律を満たしているものすべての集合」
どうしの外延の一致を導けるわけだよね。
でも前提4の前提は、「ガファリは太っていた」という性質をもつものの集合
を認めることでしょ? ぼくにはここからして理解できない。
もう少しくわしいフレーゲ論法の解説書ってないのかな。
>>34 論理学では、例えば「ならば」という結合子がでてくるんですが、
これは、
「AならばB」という形で2つの文を結びつけるのですが、
この論理学の「ならば」には、結びつけた2つの命題AとBの
間に内容的つながりがなくていいんですね
でも、おかしいよ。例えば数学でやったので・・・
x=2、y=3 ならば、x+y=5 しかし、その逆は成り立たないですよね。
相互には成り立たないから、二つは同じでは無いけれども、
x=2,y=3はx+y=5をみたす数の内の一つであり、ある種の制限が
あるよ。xやyに7,8や9,10は当てはめられないでしょ?
よくわからないですよねー。 もうちょっとくわしいフレーゲ論法の解説書ってたぶんあるんでしょうが、 僕はしらないです。 僕は読んでないんですけど、 飯田の「言語大全@」って確かフレーゲの解説だったと思う ので、ひょっとしたら、説明がでてるかもしれないですね。 三浦俊彦?だっけかな。 論理学をやっている人が、ホームページをもってていて、 掲示板を設置しているので、そこで質問したら教えてもらえるかなー。 でも、なんか厨房扱いされるようなきがする。
これ、何のスレ? 前スレみたいなものあるの?
>でも、おかしいよ。例えば数学でやったので・・・ >x=2、y=3 ならば、x+y=5 しかし、その逆は成り立たないですよね。 >相互には成り立たないから、二つは同じでは無いけれども、 >x=2,y=3はx+y=5をみたす数の内の一つであり、ある種の制限が >あるよ。xやyに7,8や9,10は当てはめられないでしょ? 僕はよくわからないんですが、 まず、論理学の「ならば」と日常でつかう「ならば」には 齟齬があるんですね。 論理学の「ならば」は、日常の「ならば」の近似と理解しても いいと思うんです。 あと、「ならば」は、対偶、「AならばB」が言えるとき、、かならず 「Bでなければ、Aでないは」言えるが、逆、「BならばA」は言えなくても かまわないんです。つまり、「AならばB」が真でも、「BならばA」が 言えるとは限らない。 あと、 (x=2かつy=3)ならばx+y=5である。 の場合、x、yが7,9だった場合は、前件(x=2かつy=3)が 偽となりますから、 文全体は不思議なことに真となるんですね。 ただこの辺は僕ではなくて、論理学に詳しい人に聞いた方がいいですね。
>これ、何のスレ? >前スレみたいなものあるの? ないですよー。
で、なぜ、このスレタイなの? 教えて、教えて。 この話って、確か、デイヴィッドソンが因果関係について論じる際に、因 果関係が真理関数的な文演算子によって表現できないということを示そう として持ちだしてきた話だよね。
>で、なぜ、このスレタイなの? >教えて、教えて。 すいません。意味ないです。 >この話って、確か、デイヴィッドソンが因果関係について論じる際に、因 >果関係が真理関数的な文演算子によって表現できないということを示そう >として持ちだしてきた話だよね。 そうみたいですね。 いまサイモンの本でデイヴィドソンの因果関係のところ を読んでるところなんですが、くしゃみがどうのこうのと もめているみたいです。
じゃ、逝ってきまーす。
>>78 あと、「ならば」は、対偶、「AならばB」が言えるとき、、かならず
「Bでなければ、Aでないは」言えるが、逆、「BならばA」は言えなくても
かまわないんです。つまり、「AならばB」が真でも、「BならばA」が
言えるとは限らない。
これはわかっています。例に書いてありますよ。
けれども、
(x=2かつy=3)ならばx+y=5である。
の場合、x、yが7,9だった場合は、前件(x=2かつy=3)が
偽となりますから、
はおかしい。前件は偽にならない。x,yが7,9はありえない。x,yが7,9
の場合が偽である。
>>37 >でも、フレーゲ論法が証明しようとしているのは、
>例えば、「〜という事実が、・・・ということを事実たらしめた」という結合子
>によって作られる文において、その文内で外延が等しい表現が交換可能である
>とみなすと、「〜という事実が、・・・ということを事実たらしめた」
>という結合子は、真理関数的結合子でなければならなくなるということなんです。
そうなのかなあ。むしろ、「〜という事実が、・・・ということを事実たらし
めた」という文結合子が真理関数的であると仮定すると、その文内で外延が等
しい表現が交換可能になるから、「ガファリは太っていたという事実が、ガファ
リは重かったということを事実たらしめた」というまともな命題から、「フレ
ーゲが論理学者であったという事実が、ガファリが重かったということを事実
たらしめた」という馬鹿馬鹿しい命題が論理的に導かれてしまう、従って、
最初の仮定は誤りである、という背理法的な議論をデイヴィッドソンは、
していたのではなかったっけ。
>>35 おかしい。あなたは大きな勘違いをしている。
>@イチローはメジャーリーガーであるならば石原新太郎は都知事である
といった文を適当に作ることができるわけです。
そんなこと、ありえない。文として意味をなさないし、非論理的だと思う。
この文を数学的に表現すると、1+2=9を正解だというくらいとんでもない。
もう一度、フレーゲ論法を冷静に読み直して下さい。納得がいかない。
他の人も始めからこのスレを読んで、意味が分からないというと思う。
フレーゲ論法についての本を読んでみたいので、紹介して下さいませ。
>>85 35は、前件と後件の間に、「意味内容的なつながり」をなんら必要とし
ない論理学における真理条件的結合子としての「ならば」について説明
しているんだから、これでいいと思う。要するに、論理学の「ならば」
が普通の日本語の「ならば」とは、ずいぶん違うというだけの話…では
ないの?
>>87 じゃあ、なぜ条件接続詞の「ならば」を使うのかな?並列の接続詞「と」
の方がわかりやすいよ。「と」は「意味内容的なつながり」をなんら必要と
していない文と文との結合が可能だよ。
論理学の「ならば」は何?
「フレーゲ哲学論集」藤村龍雄訳 岩波書店 1988 に載っているのでしょうか?3800円と少々割高かも・・・ 気合いで理解して、言語哲学を楽しみませう!
>>88 a.イチローがメジャーリーガーであるならば、石原慎太郎は都知事である。
b.イチローがメジャーリーガーであると、石原慎太郎は都知事である。
「と」は、「雨が降ると、気温が下がる。」や「気温が低いと、稲の発育が遅く
なる」のように出来事や一時的な状態を表す節には付くけれど、(b)のように、
ものごとの恒常的な性質を述べる文には付きにくいので、どんなタイプの節にも
付きやすい「ならば」が条件的結合子の日本語訳として使われているのでは?
>論理学の「ならば」は何?
だから、真理関数的な文結合子だと言うとるのに…。
91 :
考える名無しさん :02/08/14 11:52
>>89 フレーゲは、勁草書房から、4〜5巻本の著作集が出ている。(確か、最近、
完結したばかりのはず。)
また、このスレのフレーゲ論法については、同じ勁草書房から出版されている
サイモン・エブニン(でいいのかな)の『デイヴィッドソン』が詳しいのでは。
また、デイヴィッドソン自身によるオリジナルの議論は、これも勁草書房から
出ている『行為と出来事』の「因果関係」というタイトルの論文のはじめの方
に出てくる。
訂正 『デイヴィッドソン』 → 『デイヴィドソン』 ちっちゃな「ッ」は入れないのが普通のようだ。
>論理学の「ならば」は何? だから、真理関数的な文結合子だと言うとるのに…。 真理関数的な文結合子って何? 全くつながりのない文章と文章をつなげるのに、ならば を使うなんて。 「ならば」の文法的法則を全く無視して使用するなら、ならばを使わなくても ☆や◎や△なんかを使えばいいんだ。結局、つなぐことはできないのだから。 イチローがメジャーリーガーである事と、石原慎太郎は都知事である事。 言葉のルールを無視するんじゃあ、言語哲学にならないよ。
>>93 冷静にね。それは論理学の教科書の第1章に書いてあるから、
こういうところでだだをこねちゃだめ。
などかさん などかさんが感じるような疑問、「ならば」が結びつける2つの命題の間には 内容的関連がなければならないはずというのは、「関連性にかかわる違和感」 というそうです。(「論理学をつくる」戸田山和久著より) 真理関数的「ならば」は日常語「ならば」の近似ですから、まったく同じ ではないのですが、まったく別というわけでもないんです。 例えば、などかさんも指摘していたように、日常語のならばは、 逆は常に真とは限らないわけですが、真理関数的「ならば」も おなじく逆は常に真とは限らないわけです。 あと、推移律(AならばBかつBならばCであるならば、AならばC) は真理関数的「ならば」も日常語「ならば」もともに形式的に 言える。 とまあ、あくまでも真理関数的「ならば」は日常語「ならば」と 類似性をもった近似として機能してるんです。 「論理学をつくる」から引用しますと、 「関連性にかかわる違和感の原因ははっきりしている。前件と貢献の内容上の つながりを必要とする「ならば」を無理やり真理関数的結合子として 扱おうとしたことにそもそも無理があったわけだ。・・・」
僕は残念ながら、たいした知識がないので、などかさんを納得させられる ように説明することはできないのですが、 「論理学をつくる」にはこの辺のことについて、真理関数的「ならば」の 有効性と限界についてある程度解説してあるので、ぜひ読んでみてください。 3800円とちょっと値がはりますけど。。 論理学がどういう目的でなにをやろうとしているのか、どういったことに 適用、応用できて、どういった限界を持っているのかということについて きちんとした理解がないまま、論理学を批判してもあまり有効な批判は できませんよね。 などかさんも、一度論理学の入門書を読んでみてください。 僕の生半可な説明をきくよりは、はるかに理解がすすみますから。
>>84 >そうなのかなあ。むしろ、「〜という事実が、・・・ということを事実たらし
>めた」という文結合子が真理関数的であると仮定すると、その文内で外延が等
>しい表現が交換可能になるから、「ガファリは太っていたという事実が、ガファ
>リは重かったということを事実たらしめた」というまともな命題から、「フレ
>ーゲが論理学者であったという事実が、ガファリが重かったということを事実
>たらしめた」という馬鹿馬鹿しい命題が論理的に導かれてしまう、従って、
>最初の仮定は誤りである、という背理法的な議論をデイヴィッドソンは、
>していたのではなかったっけ。
いや、僕はデイヴィドソンの著作を直接読んだことはないので、きちんとした
ことはいえませんが、
もし上のような話ならば、フレーゲ論法がでてくる余地はないですよね。
というのは、 >「ガファリは太っていたという事実が、ガファ >リは重かったということを事実たらしめた」というまともな命題から、「フレ >ーゲが論理学者であったという事実が、ガファリが重かったということを事実 >たらしめた」という馬鹿馬鹿しい命題が論理的に導かれてしまう ことは、 >「〜という事実が、・・・ということを事実たらし >めた」という文結合子が真理関数的であると仮定する という仮定から、フレーゲ論法を経由せずに、直接導くことができますから。
フレーゲ論法の味噌は、 一見真理関数的にはみえない文結合子に対して、 その結合子が作用している文内部において、外延が等しい表現が 入れ替え可能であることを認めた瞬間に、フレーゲ論法が発動して、 その文結合子を真理関数的に解釈せざるをえなくなってしまう というところにあるのだとおもいます。
100 :
学ぶもの :02/08/15 00:14
サイモン・エブニンの解説書から引用しますと、(この解説者の解釈が 間違っている可能性はもちろんありますが) 『デイヴィドソンは、フレーゲ論法と呼ばれる議論を展開することによって 、因果文の論理形式が「〜という事実が、・・・ということを事実たらしめた」 ではありえないことを示そうとしている』 となっているので、一応これでいいかと。
101 :
学ぶもの :02/08/15 00:18
ところで、疑問だったのは、文を性質として扱った
「xはガファリは太っていたというようなものである」という
述語をどのように理解すればいいのかという問題でした。
面白がるものさん、一応わかりましたよー。
三浦俊彦さんのホームページで質問したところ、
丁寧に説明してくれました。
くわしくは、三浦さんの掲示板の三浦さんの説明を読んでみてください。
h
ttp://8044.teacup.com/miurat/bbs
102 :
学ぶもの :02/08/15 00:29
つまるところ、 文、正確には命題は、世界にあてはまったりあてはまらなかったりする 性質のことなんですねー。 ようするに、 「xはガファリは太っていたというようなもの」は 「ある世界xにおいてはガファリは太っていた」というふうに翻訳できる わけです。 ぼくたちが普段表現している文表現、 例えば、「小川はガファリに勝った」は、 「この現実世界においては小川はガファリに勝った」と解釈する ことができるようです。 僕たちは、普通この現実世界についての話をしていることが暗黙の 前提ですから、 「この現実世界において」という部分は省略されていると みなすことができるのです。 だから、「ガファリは太っていた」とは、 「この現実世界において、ガファリは太っていた」 と解釈できる。
103 :
面白がるもの :02/08/15 00:43
学ぶもの、ホントありがとう! ひさびさに2ちゃんで感動したよ。 じつはぼく、三浦先生の「可能世界の哲学」愛読書なんです。 なのに、xが可能世界の一つであって、「ガファリが太っていたような 現実世界x」を意味する、っていう解釈に全然思い当たらなかったんです。 ばかですね〜 たしかにそう解釈すれば、xはこの現実世界そのものと外延が一致せざるを えない。フレーゲが言ってる意味がいっきに解けました。 ただね、三浦先生の様相論理学からの解釈は的確だと思うんだけど、 フレーゲやデヴィドソンがはたしてそれと同じ解釈だったのかどうかは もうチョト調べてみないとわからないですね。 ぼくももう少し考えてみます。それにしても感動した! ありがとう。
104 :
学ぶもの :02/08/15 01:06
面白がるものさん、 ぼくも「可能世界〜」は愛読書になりそうです。 でもかな〜り難しそうですねー。 ところで、面白がるものさんの間違いをもう一つみつけましたよー。 >命題論理(フレーゲが創始者だよね?) これは述語論理のほうですね。ふふふ。 >フレーゲやデヴィドソンがはたしてそれと同じ解釈だったのかどうかは >もうチョト調べてみないとわからないですね。 そうですね。
105 :
面白がるもの :02/08/15 01:20
>>104 あの本の、可能世界の導入による様相の還元の説明は、ふつうの論理学の
教科書の記述よりずっとわかりやすいですよ。
>ところで、面白がるものさんの間違いをもう一つみつけましたよー。
>>命題論理(フレーゲが創始者だよね?)
>これは述語論理のほうですね。ふふふ。
あのレスは間違いだらけで。。クワインがクラインになってたり、
ガファリがカヴァリになってたり。もちろんフレーゲは述語論理の
創始者です。スマソ
あと「可能世界の哲学」の最後に、物理学の多世界解釈と人間原理
を扱ったところがあるんですが、ぼくはちょっと三浦先生の
世界観についてけないです。
そのうちひまがあったら、またヘンテコなスレでも立ててください。
学ぶものの関心とは合わないかもしれませんが。
106 :
学ぶもの :02/08/15 01:39
>あのレスは間違いだらけで。。クワインがクラインになってたり、 >ガファリがカヴァリになってたり。 ガーン!カヴァリには気がつかなった。。 チョトショック。 >そのうちひまがあったら、またヘンテコなスレでも立ててください。 本当はクワインの続きをやりたいのですが、やる気がおきなくて。。 まあ、お互いがんばりましょうね−。(意味不明
>>97 ,98,99
すみません、学ぶものさんのご指摘の通りです。
論文「因果関係」におけるデイヴィドソンの議論は、まさしく、
「〜という事実が、・・・ということを事実たらしめた」という文が少なくとも
真理関数的な文結合子ではないという“事実”から出発して、
↓
それでも、「〜という事実が、・・・ということを事実たらしめた」という文が、
「〜ということが、・・・ということを惹き起こした。」という文の論理形式で
あると“仮定”すると
↓
「〜という事実が、・・・ということを事実たらしめた」という表現内において、
外延を同じくする名辞が交換可能である、すなわち、この表現は外延的である
というもう一つの“事実”、および、論理形式内においては、少なくとも、それが
外延的文脈であれば、ある文を(その文を含む文の真理値を変えずに)それと論
理的に等価な文と置換できるといういわば“論理学的常識”から、フレーゲ論法
を用いて「〜という事実が、・・・ということを事実たらしめた」という表現が
真理関数的な文結合子になってしまうということを証明することによって
↓
そもそも「〜という事実が、・・・ということを事実たらしめた」という文が、
「〜ということが、・・・ということを惹き起こした。」という文の論理形式で
あるという“仮定”が誤りであることを背理法的に示そうとするものなのでした。
要するに、“フレーゲ論法”とは、文の外延(reference, Bedeutung)が真理値である
ということを論証しようとする議論として理解していいんでしょうね。(直接的には、
外延を等しくする名辞同士が置換可能な文脈においては、真理値を等しくする文同士
も置換可能であるということを証明する。)
ていうか 「〜という事実が、・・・ということを事実たらしめた」 ていう文自体が意味不明なんですけど(W
109 :
考える名無しさん :02/08/15 12:54
>>108 "The fact that ... caused it to be the case that ..." の和訳。
>>42 >で、問題は、
>「^x(ガファリは太っていた)」をどう理解すればいいのか
>ってことですが、
>
>だれかわかる人がいたら、わかりやすく説明してほしいです。
>説明きぼんぬです。
といいますか、「^x(ガファリは太っていた)」という集合を表す表現においては、
xが満たすべき条件が現れるべき部分が、xに関する条件になっていないから、
そもそも、表現として構文論的に不適切なのではないのでしょうか。逆に言えば、
だからこそ、デイヴィドソンは、「^x(ガファリは太っていた)」ではなく、
「^x(x=xであり、かつ、ガファリは太っていた)」という集合表現を持ち
出してきたのではないのでしょうか。
あの。。。。私、演算とか論理とかよくわからないんですが。。。 とりあえずココのスレ、イイ!です。この内容にしてあのスレタイ! 最高にツボなんですけど。。。おもしろすぎ。
112 :
学ぶもの :02/08/24 00:39
>>107 84さん詳しい解説どうも。
デイヴィドソンのいう論理形式というのがよくわからないんですよね。
@ガファリは太っていたという事実が、ガファリは重かったということを
事実たらしめた
から
Aアトランタオリンピックグレコノーマン130キロ級
銀メダリストは太っていたという事実が、ガファリは重かったということを
事実たらしめた
が推論できることを認めると、
Bフレーゲは論理学者であったという事実が、ガファリは重かったということを
事実たらしめた
も推論できることになるというフレーゲ論法を拒否するためには、
文内部での外延が等しい表現の代入を禁じて、@からAへの推論を否定するか
「〜という事実が、・・・ということを事実たらしめた」という文結合子を
破棄するか
のいずれかしかないとサイモンは書いているけど、
ここがよくわからない。
文内部での外延が等しい表現の入れ替えを認めながら、
論理的同値文の入れ替えを禁止するという選択肢もあると思うのだが。。
113 :
学ぶもの :02/08/24 00:46
>>110 >「^x(ガファリは太っていた)」という集合を表す表現においては、
>xが満たすべき条件が現れるべき部分が、xに関する条件になっていないから
それは条件になるようです。
くわしくは、
>>101 で紹介した三浦さんの掲示板にいってみてください。
命題は可能世界を変項にもつ性質とみなすことができるそうです。
114 :
考える名無しさん :02/08/24 00:47
ではお先にどうぞ
115 :
学ぶもの :02/08/24 00:50
それに、 >「^x(ガファリは太っていた)」という集合を表す表現においては、 >xが満たすべき条件が現れるべき部分が、xに関する条件になっていない ならば、 >「^x(x=xであり、かつ、ガファリは太っていた)」という集合表現 をもちだしてきても、やはり駄目ですよね。 というのも 「^x(x=xであり、かつ、ガファリは太っていた)」の意味は 「ガファリは太っていた」 と 「x=x」の二つの条件を満たすxの 集合というものですから、「ガファリは太っていた」が条件〔性質)にならない ならば、やはり、 「^x(x=xであり、かつ、ガファリは太っていた)」という集合表現 自体なりたたないことになる。
116 :
学ぶもの :02/08/24 00:55
ではなぜ、 フレーゲ論法の過程で、 「ガファリは太っていた」 という文と論理的同値な文として 「^x(ガファリは太っていた) = ^x(x=x)」 という文ではなく、 「^x(x=xであり、かつ、ガファリは太っていた) = ^x(x=x)」 を持ち出したのかというのが疑問になるんですけど、 これもよくわからない。
117 :
学ぶもの :02/08/24 01:03
x=x、つまり自己同一的という条件は『あらゆるものが満たす』と 書いてあり、 一方 「ガファリは太っていた」が真なとき、 「xはガファリは太っていたというようなものである」 は『あらゆるものに適用される』と書いてある。 とすれば、 「ガファリは太っていた」が真なとき、 「^x(ガファリは太っていた) = ^x(x=x)」 は真となるはず。 「ガファリは太っていた」が偽なときは、 「^x(ガファリは太っていた)」を満たすものはないのだから、 「^x(ガファリは太っていた) = ^x(x=x)」 は偽となる。 だから、 「ガファリは太っていた」と 「^x(ガファリは太っていた) = ^x(x=x)」 は論理的同値な文となるような気がするのだが。 なぜわざわざ 「ガファリは太っていた」という文の論理的同値文をつくるのに、 「^x(x=xであり、かつ、ガファリは太っていた) = ^x(x=x)」 という表現にする必要があるのだろうか。
118 :
学ぶもの :02/08/24 01:14
文「ガファリは太っていた」の論理的同値文 が、 「^x(x=xであり、かつ、ガファリは太っていた) = ^x(x=x)」 であって、 「^x(ガファリは太っていた) = ^x(x=x)」 ではだめな理由があるとすれば、 僕が考え付くのは、 集合A:「^x(ガファリは太っていた)」と 集合B:「^x(x=x)」 という二つの集合において、 BはAの部分集合であり、AはBの部分集合ではない場合ということぐらい。
119 :
マジックミラー :02/08/24 01:17
もうほとんど吸収したかな。
120 :
学ぶもの :02/08/24 01:31
まあ、よくわからないのですが、 チョトデイヴィドソンのいう論理形式というものを見てみることにします。。 デイヴィドソンのいう論理形式は、デイヴィドソンの意味の理論という 発想の中で理解すべき概念ということらしい。
121 :
学ぶもの :02/08/24 01:48
意味の理論の目的は、 『一般に、文が何かを意味するとはいなることなの』か ということを解明することにあるらしい。 ところでデイヴィドソンは、意味の理論がとるべき姿は 形式的意味論であるべきだと考える。 わけわかめですが、 形式的意味論とは、形式的言語を扱う意味理論ということなのですが、 ここもわけわかめですが、わけわかめでかまいません。 要は、デイヴィドソンは、自然言語例えば日本語は、『それ自体が形式的 言語』である考えており、それゆえ、形式的意味論を自然言語に適用する ことが可能であると考えているということ。 自然言語はそれ自体形式的言語であるという前提から、 自然言語例えば日本語の様々なタイプの文表現を形式的にとりあつかう という発想がでてくるということなのでしょうか。 ここから論理形式という概念がでてくる まあいつもながらわけわかめですが。。
122 :
学ぶもの :02/08/24 01:52
さて、肝心の論理形式ですが、 『文もしくは文のタイプの論理形式とは、真理理論(注:形式的意味論) の範囲内に納めるために文に与えられるべき正準的形式のこと』 というこれもわけわかめですね。 実際にどういうことなのか見ていくことにします。
123 :
考える名無しさん :02/08/24 01:53
なんとなくわかった。日本語万歳
124 :
学ぶもの :02/08/24 02:09
論理形式の分析は何を目指すのか? かっ さて本によると 『ある文の論理形式を与えるということは、諸々の文全体の中で その文がいかなる論理的位置を占めているかを示すこと』 にある。これではさっぱりわけわかめですが、 つまるところどういうことかというと 『その文はどのような文を含意し、また、どのような文によって 含意される、ということを明示的に決定するような仕方でその文を 記述すること』 だとされる。 例えば、日本語のある文 @「ガファリは、朝、泳いだ」 は、A「ガファリは泳いだ」という文を含意するし、 またB「ガファリは朝、プールで泳いだ」という文からは、 @「ガファリは、朝、泳いだ」が導ける。 したがって、文の論理形式を明らかにするとは、 この場合、なぜ@がAを含意し、またBからなぜ@が導けるのか といったことを形式的に説明するような記述を与えるという ことになる。 すると、「ガファリは、朝、泳いだ」という文は どのように形式的に記述されるべきなのか?
125 :
口を出すもの(=84) :02/08/25 19:37
おっ、気がつきませんでしたが、学ぶものさんのレスがついていたのですね。
このスレは、勉強になりますので、私(=84)もここ限定の固定ハンドル名を持つ
ことにいたしましょう。というわけで、以後、ここでは「口を出すもの」で通
しますので、よろしくお願いします。>学ぶものさま、みなさま
>>112 >文内部での外延が等しい表現の入れ替えを認めながら、
>論理的同値文の入れ替えを禁止するという選択肢もあると思うのだが。。
いま、手元にデイヴィドソンの本がないので、正確には覚えていないのですが、
デイヴィドソン自身も、代入則について再考する可能性もあるということを
認めながらも、より単純明快な説明として、因果関係を表すものとしての
「〜という事実が、〜ということを事実たらしめた」という文結合子の破棄
を提案していたはずです。まあ、おなじ外延を持つ名辞の入れ替えが可能で
ある文脈においては、論理的同値文の入れ替えも可能であるというのは、
論理学におけるいわば“常識”とみなされているのではないかと思います。
126 :
口を出すもの :02/08/25 19:55
>>113 でも、命題は、“可能世界”の性質とはみなせても、xの変域であるところの
“個体”の性質とみなすのは難しいのではないでしょうか。
127 :
口を出すもの :02/08/25 19:59
>>115 >というのも
>「^x(x=xであり、かつ、ガファリは太っていた)」の意味は
>「ガファリは太っていた」 と 「x=x」の二つの条件を満たすxの
>集合というものですから、
ここのところにちょっと異論があります。「^x(pかつq)」の意味は、
あくまで、(pかつq)という条件を満たすxの集合ということで、pとqの
両方が単独でxが満たす条件(性質)である必要はないように思います。
すなわち、(pかつq)がxの条件(性質)であったとしても、qは、必ずしも
xの条件(性質)である必要はないと考えます。
とはいえ、この辺は、演算子^xの構文論的/意味論的定義によって
どうにでもなるところなので、どちらが正しいとかは言えないかもしれませんね。
ただ、デイヴィドソンの論文の文献学的な解釈としては、
>ではなぜ、フレーゲ論法の過程で、「ガファリは太っていた」
>という文と論理的同値な文として
>「^x(ガファリは太っていた) = ^x(x=x)」という文ではなく、
>「^x(x=xであり、かつ、ガファリは太っていた) = ^x(x=x)」
>を持ち出したのか
の答えは、端的に「^x(ガファリは太っていた)」のような表現は、(…)の中に
xが含まれていない故に“不自然”だから、というのが正しいように思います。
>>125 口を出すものさん、
こちらこそよろしくお願いします。
そぼくに考えるとですね、
日常的言語表現においても外延的に等しい表現の入れ替えというのはよく
行われていることだと思うのですが、
一方論理的同値文の入れ替えというのは、
日常言語の使用においてはあまり行われていないようなきがするのですね。
とすると、これは素朴な直感なので
別にこれといった論拠があるわけではないのですが、
論理的同値文の入れ替えを認めるということ自体が
すでに、その結合子を真理関数的なものとして
扱うということになっているような気がどうしても
してしまうのですね。
つまり、その文結合子を真理関数的なものと
してみなすから、その結合子が作用する文を論理的同値文で
置き換え可能になるのではという気がしてしまうのですね。
ですから、そもそも論理的同値文の入れ替えという
のはなにによって正当化されるのだろうかという
のが率直な疑問だったのですが、
>>125 >まあ、おなじ外延を持つ名辞の入れ替えが可能で
>ある文脈においては、論理的同値文の入れ替えも可能であるというのは、
>論理学におけるいわば“常識”とみなされているのではないかと思います。
こういう論理学の背景的前提があるから、正当化されるという
ことなのでしょうね。
外延が等しい表現の入れ替えを認めながら、論理的同値文の入れ替え
を禁止するという方法をとるのが、困難な理由がなにかあって、
それゆえ、フレーゲ論法に対しては、
@外延が等しい表現の代入を禁止するか、
Aその文結合子を破棄してしまうのかの
いずれかの選択肢しかないということになる
ということなのだとは思っていましたが。
ただ、その論理学の"常識"を理解するには、
多分論理学というかフレーゲをきちんと勉強し
ないといけないんでしょうね。
あと、口を出すものさんによると、
デイヴィドソンは、
>代入則について再考する可能性もあるということを
>認めながらも、
ということなので、
この再考対象である「代入則」の中に、論理的同値文の入れ替えも
ふくまれている可能性はあるのかもしれませんね。
>>126 >でも、命題は、“可能世界”の性質とはみなせても、xの変域であるところの
>“個体”の性質とみなすのは難しいのではないでしょうか。
ここはですね、僕も完全に納得できているわけではないのですが、
三浦さんの説明によりますと、
ある世界を、その世界に存在する任意の個体によって代表させることが
できるということらしいです。
とすると「ガファリは太っていた」という命題は、可能世界を変項にもっていると
理解することができるから、
「ある世界xにおいてはガファリは太っていた」という文関数をつくることができる。
このxに、この現実世界を代入すると、
「この現実世界においてガファリは太っていた」
がえられて、
実際、ガファリは太っていたわけですから、
「この現実世界においてガファリは太っていた」
は真になる。
そして、「この現実世界」を、この現実世界に存在する任意の個体で
代表させることができるとすると、
「ある個体xはガファリは太っていたというようなものである」
という文関数がつくれて、
「ガファリは太っていた」が真ですから、
この現実世界に存在するあらゆる個体が、
xをみたすことになる。
つまり、「xはガファリは太っていたというようなものである」
はこの世界に存在するあらゆる個体を充たすことになる。
この現実世界を、この世界に存在する任意の個体で代表させられる という考えをとりあえず受け入れるとしてですね。 多分間抜けな疑問のような気がするのですが、チョト疑問に思うことがあって 文を可能世界を変項とする性質と解釈することができるのだとすると、 そのxに具体的なある世界を代入して作られる命題もまた一つの文になりますから、 その文もまた可能世界を変項とする性質と解釈できるのだろうか というものです。 つまり、「ガファリは太っていた」は、 「ある世界xにおいてガファリは太っていた」という文関数と解釈できる。 でxにこの現実世界を代入すると、実際ガファリは太っていたから、 「この現実世界においてガファリは太っていた」は真なる文となる。 すると、 文は可能世界を変項とする性質と解釈できるわけですから、 「ある世界xにおいてこの現実世界においてガファリは太っていた」という 文関数が作られることになる。 というのはどうなんでしょう?
>ここのところにちょっと異論があります。「^x(pかつq)」の意味は、 >あくまで、(pかつq)という条件を満たすxの集合ということで、pとqの >両方が単独でxが満たす条件(性質)である必要はないように思います。 >すなわち、(pかつq)がxの条件(性質)であったとしても、qは、必ずしも >xの条件(性質)である必要はないと考えます。 >とはいえ、この辺は、演算子^xの構文論的/意味論的定義によって >どうにでもなるところなので、どちらが正しいとかは言えないかもしれませんね。 なるほど。でもここはチョトわからないですね。 >(pかつq)がxの条件(性質)であったとしても、qは、必ずしも >xの条件(性質)である必要はないと考えます。 といわれても、なんか違和感を感じるのですね。 あと 「xはガファリは太っていたというようなものである」という表現が 文関数として認められるならば、 「^x(x=xである、かつ、ガファリは太っていた)」を 「^x(x=xであり、かつ、xはガファリは太っていたというようなもの)」 という表現にすることもできるわけですよね。 もし、「xはガファリは太っていたというようなものである」という表現が個体を 変項とする文関数として認められるとするならば、 「^x(ガファリは太っていた)」が、xを充たす条件になっていないから、 デイヴィドソンは、「^x(x=xであり、かつ、ガファリは太っていた)」 という集合表現にしたという解釈は説得力がないように思うのですが。
ただし、口を出すものさんの解釈をとると、なぜデイヴィドソンが、 「ガファリは太っていた」という文の論理的同値文として、 「^x(ガファリは太っていた)=^x(x=x)」という文ではなくて、 「^x(x=xであり、かつ、ガファリは太っていた)=^x(x=x)」 の表現にしたのかということに対して説得力のある説明ができるんですよね。 >端的に「^x(ガファリは太っていた)」のような表現は、(…)の中に >xが含まれていない故に“不自然”だから、というのが正しいように思います。 の「不自然」は、 @「^x(ガファリは太っていた)」の表現でも論理的にはかまわないが、 表現としてはより自然な「^x(x=xかつガファリは太っていた)」の方にした ということなのか、 それとも A「^x(ガファリは太っていた)」は、意味をなさない、つまりこの表現では駄目だという 意味で、不自然ということなのか 2つの解釈が可能だと思うわけですが、 「^x(ガファリは太っていた)」は、xをみたす条件になっておらず、 「^x(x=xかつガファリは太っていた)」の表現にすることでxの条件に なるという解釈をとると、Aの意味の「不自然」に理解できる わけですが、この解釈の強みは、なぜデイヴィドソンは 「ガファリは太っていた」の論理的同値文として 「^x(ガファリは太っていた)」=^x(x=x)」 ではなくて、「^x(x=xかつガファリは太っていた) = ^x(x=x)」 の表現を選んだのかというのに説得力のある回答を与えることができるという ことで、 ここでは、とりあえずどちらの解釈もありうると しておきましょう。
さて、
>>124 の続きで、論理形式とはなにかということですが、
デイヴィドソンは意味の理論がとるべき姿は、形式的意味の理論であるべきで
あるとしたそうですが、そのときデイヴィドソンが選択する形式的意味の
理論は、具体的にはタルスキ型真理理論になるのだそうで、
タルスキ型真理理論は、一階の述語論理までの論理しか道具として認められていない
ということらしい。
ここではタルスキ型真理理論とはなにぞということは無視しましょう。
すると一階の述語論理そのままでは自然言語に登場する副詞句を扱うことができないという
問題がでてくるということになるそうです。
一階の述語論理によって、自然言語を形式的に扱う場合、 一階述語論理に含まれる変項を、自然言語の名詞に、 一階述語論理の述語、を、自然言語の、形容詞、関係表現、動詞の役として利用 できる。また一階の述語論理には、論理定項(でない、かつ、など)および、量化子(すべて、ある) があり、これも自然言語の形式化に役立てることが可能である。 しかし、問題は自然言語の副詞の役割をになえるものが、一階の述語論理にはない。 「ガファリは、朝、プールで泳いだ」の、「朝(に)」、「プールで」といった 副詞句を一階の述語論理の道具だてではそのままでは扱うことができない。 そこで、「ガファリは、朝、泳いだ」という文の論理形式を分析する際に、 ヂイヴィドソンは、「泳いだ」を多項述語として扱うことを提案する。 すると、 「ガファリは、朝、泳いだ」の、「泳いだ」は、 人、と時刻を項として持つ、「泳ぐ(x、y)」と分析される。 xは「ガファリ」、yは「朝」を代入すると、 「泳ぐ(ガファリ、朝)」となり、 これが 「ガファリは、朝、泳いだ」の論理形式となる。 さらに、 「ガファリは、朝、プールで泳いだ」の文の場合は、 人、時刻、場所を項とする「泳ぐ(x、y、z)」と分析され、 「泳ぐ(ガファリ、朝、プール)」が論理形式となる。 また「ガファリは、泳いだ」は、人を項とする 「泳ぐ(x)」となり、xにガファリを代入すれば 「泳ぐ(ガファリ)」が得られる。
しかし、文の論理形式を明らかにするとは、 ある文がある文を含意するという関係を形式的に説明できなければ ならなかったのであった。 自然言語では、 「ガファリは、朝、泳いだ」という文は 「ガファリは、泳いだ」を含意する。 また 「ガファリは、朝、泳いだ」という文は。 「ガファリは、朝、プールで泳いだ」という文によって含意される。 よって、これらの文の論理形式もまた、こられの含意関係を充たさなければ ならない。 しかし、 「泳ぐ(ガファリ、朝)」から 「泳ぐ(ガファリ)」を導出する推論規則は存在しない。 つまり、 「泳ぐ(x、y)」から 「泳ぐ(x)」は導出できないし、 また 「泳ぐ(x、y、z)」から 「泳ぐ(x、y)」も 「泳ぐ(x、z)」も 導出できない。
なぜ「ガファリは朝、泳いだ」から「ガファリは、泳いだ」が導出できるのか を解明するのが、論理形式の分析に求められているのであるから、 これでは論理形式の分析に成功したとはいえない。 そこでデイヴィドソンは、 「ガファリは、朝、プールで泳いだ」という文には、出来事を隠れた変項ともち、 それが『存在量化子によって束縛されている』と解釈する。 そして次のような論理形式を提案する。 ここはチョトわかりにくいのですが、 ∃e[(泳ぐ(ガファリ,e))かつ(In(朝,e))かつ(At(プール,e))] これは、 「ガファリが泳いだことであり、かつ、朝に起こったことであり、かつ、プールで起こった ことであるような、ある出来事が存在する」 と読むことができる。 これが、 「ガファリは朝、プールで泳いだ」という文の論理形式ということになる。
すると論理定項「かつ」で結ばれたそれぞれの命題によって作られる連言が真であるなら、 その連言を構成する各命題も真であるという論理規則を適用することによって、 ∃e[(泳ぐ(ガファリ,e))かつ(In(朝,e))かつ(At(プール,e))] 自然言語に翻訳すれば(ガファリは、朝、プールで泳いだ) から ∃e[(泳ぐ(ガファリ,e))かつ(In(朝,e))] (ガファリは朝、泳いだ) や ∃e[(泳ぐ(ガファリ,e))] (ガファリは、泳いだ) や ∃e[(In(朝,e))かつ(At(プール,e))] (何かが、朝、プールで起こった) が導出されることが正当化される。
こういった作業が、デイヴィドソンのいう文の論理形式を 明らかにするという意味らしいです。 まあ、わかったようなわからぬような。
ただし、上の論理形式の例には、 デイヴィドソンの出来事は特殊者であるという発想が関係している そうで、その理解の前提の上で先の論理形式の分析を理解する必要が あるらしいです。 「特殊者としての出来事の存在に対してデイヴィドソンが与えている 論証の一つは、まさに、言語に含まれている副詞の役割を説明できる ようになるということにほかならない」(サイモン)
141 :
口を出すもの :02/08/27 19:49
沢山の書き込みお疲れ様です。>学ぶものさま
>>128 >そぼくに考えるとですね、
>日常的言語表現においても外延的に等しい表現の入れ替えというのはよく
>行われていることだと思うのですが、
>一方論理的同値文の入れ替えというのは、
>日常言語の使用においてはあまり行われていないようなきがするのですね。
といいますか、日常用語では「論理的同値文」なんて言葉も概念もないですからね。
かくいう私も、「論理的同値文(logically equivalent sentence)」の定義を明確に
把握していないんですが、^^;) まあ、おそらく、どのモデル(もしくは可能世界)に
おいてもお互いに等しい真理値を持つ二つ(以上)の文ということで定義できるので
はないかと思います。
>論理的同値文の入れ替えを認めるということ自体が
>すでに、その結合子を真理関数的なものとして
>扱うということになっているような気がどうしても
>してしまうのですね。
ただ、上記の定義に従えば、「論理的同値文」の入れ替えとは、文の内包を
同じくする文の入れ替えに他なりませんから、単純に外延を等しくする表現が
交換できない文脈でも、「論理的同値文」の入れ替えはできそうです。例えば、
□[p & q] (必然的にpかつqである)のような様相文においては、pを
現実世界での真理値を等しくする文と自由に入れ替えるわけにはいかないでしょ
うが、「論理的同値文」とは入れ替えができそうです。
142 :
口を出すもの :02/08/27 19:52
>ですから、そもそも論理的同値文の入れ替えという >のはなにによって正当化されるのだろうかという >のが率直な疑問だったのですが、 そもそも、文S1と文S2が論理的に同値であるというのは、直感的に言えば、S1とS2 の(論理的な)意味が同じであるということなのであろうと思います。ですから、 論理的同値文の入れ替えというのは、意味が同じ表現は(それを含む表現の 意味を変えずに)互いに交換できるという“フレーゲの原理”に基づいていると 言えるのではないでしょうか。
143 :
考えるもの :02/08/27 23:59
>かくいう私も、「論理的同値文(logically equivalent sentence)」の定義を明確に >把握していないんですが、^^;) まあ、おそらく、どのモデル(もしくは可能世界)に >おいてもお互いに等しい真理値を持つ二つ(以上)の文ということで定義できるので >はないかと思います。 >ただ、上記の定義に従えば、「論理的同値文」の入れ替えとは、文の内包を >同じくする文の入れ替えに他なりませんから、 サイモンの本では、 単に「ふたつの文は、互いの真理値が異なっていることが不可能であるとき、 論理的に同値である」 とだけしか説明してないのですが、 ただ、 >どのモデル(もしくは可能世界)に >おいてもお互いに等しい真理値を持つ二つ(以上)の文ということ というふうに「可能世界」という考え方をもちだすと、 話が複雑になってしまうような気がするのですね。 といっても、可能世界については、最近三浦さんの本をチョト読み始めた だけですので、たいして理解してはいないのですが、
144 :
考えるもの :02/08/28 00:01
たとえば、 この世界では、ガファリは、アトランタオリンピックのレスリンググレコノーマン130キロ級 で銀メダリストメダルをとってますから、 「ガファリは太っていた」 と 「アトランタオリンピックグレコノーマン130キロ級銀メダリストは太っていた」 は、互いの文の真理値が異なることはないという意味で、論理的同値文と 解釈できますが、 ある可能世界では、 ガファリはアトランタオリンピックで銀メダルをとれていないかもしれない。 そうすると、その世界でガファリが太っていたとしても、 「ガファリは太っていた」と 「アトランタオリンピックグレコノーマン130キロ級銀メダリストは太っていた」 とは論理的同値文にはならないということになる。 とすると、 論理的同値文を、あらゆる可能世界において真理値が異なることのない文とすると なにか論理的同値文というのを考えるのがかなり難しくなってしまうような 気がするのですね。
145 :
考えるもの :02/08/28 00:06
あと、 フレーゲ論法の論証過程では、 例えば、 「ガファリは太っていた」と 「^x(x=xであり、かつガファリは太っていた)=^x(x=x)」 が論理的同値文であるということを利用するわけですが、 しかし、可能世界という考え方を持ち出すと、 例えば、記号の規約がわたしたちの世界とは異なっていて わたしたちの世界で「-(マイナス)」の意味が、「=」という記号で表現される ようなある可能世界を考えることができるとすれば、 その世界では、 「^x(x=xであり、かつガファリは太っていた)=^x(x=x)」という文は は、^x(x−xであり、かつガファリは太っていた)− ^x(x−x) という意味になり、これは別に 「ガファリは太っていた」と論理的同値文とはいえないということがありえるかもしれない。 こういった考え方が正しいのかどうかよくわからないのですが、 論理的同値文を可能世界をもちだして 定義することのとりあえずの疑問点です。 ただこれは僕の可能世界についての理解があさいので、誤解している可能性は高いですが。
146 :
考えるもの :02/08/28 00:17
いやでもチョト考えたら
>>144 はただしいかもしれないですね。
というか「ガファリは太っていた」と「アトランタオリンピック
グレコノーマン130キロ級銀メダリストは太っていた」は
論理的同値文とはいえないで、たんに真理値が等しいだけの関係
のような気もしてきました。
ああ、なんか混乱してきました。
147 :
考えるもの :02/08/28 00:33
>ただ、上記の定義に従えば、「論理的同値文」の入れ替えとは、文の内包を >同じくする文の入れ替えに他なりませんから、 う〜ん、ここがどうもわからないところなんですね。 つまり、文の内包というのは要するに文の意味のことと理解して いいわけですよね。 すると要するに論理的同値な2つの文は、意味が同じ文である ということになるわけですが、 はたしてそう言えるかどうかという点がいまひとつよくわからないのですね。
148 :
考えるもの :02/08/28 00:45
例えば、 「心臓をもつ動物はすべて心臓をもつ」は論理的真な文と 考えることができると思うのですが、 また 「肝臓をもつ動物はすべて肝臓をもつ」も論理的真な文と 考えることができる。 もし、2つの文がともに論理的真な文だとすると、 論理的真つまりトートロジーは、常に真であって偽になることが ないということですから、 この2つの真理値は決して異なることがない。 とするとこの2つの文は論理的同値な文と解釈することができそうな 気がするのですが、 しかしこの2つの文が同じ意味を持っているかというと どうも違うような気がするのですね。 つまり、トートロジーな文はすべて常に真な文ですから、 みな論理的同値文とみなせるような気がするのですね。 とすると、トートロジーな文はみな同じ意味を持っているという ことになってしまう。
149 :
口を出すもの :02/08/28 14:54
こんにちは。>考えるものさん、
>>145 >例えば、記号の規約がわたしたちの世界とは異なっていて
>わたしたちの世界で「-(マイナス)」の意味が、「=」という記号で表現される
>ようなある可能世界を考えることができるとすれば、
一般に、可能世界について語る場合でも、その可能世界を描写するのに用いられて
いる言語は、あくまで我々の言語ですから、記号の意味や規約は、どの可能世界に
ついて語る場合でも不変であるように思います。
150 :
面白がるもの :02/08/28 14:59
すごいレス数ですね。 それに議論が多方向に進んでいて、ちょっと読み込むのに時間かかりそう。 口を出すものさん、はじめまして。 確かに可能世界を「可能」なものとして成り立たせる条件は論理法則と 規約の同一性ですよね。 様相論理学の過激な一派には、それさえ認めない人たちもいるということ ですが、ちょっとぼくには意味不明な議論です。
151 :
口を出すもの :02/08/28 15:08
>> 147 >つまり、文の内包というのは要するに文の意味のことと理解して >いいわけですよね。 はい、少なくとも、文の真理条件と同一視されるところの、文の“意味”として 理解してもいいと思います。
152 :
口を出すもの :02/08/28 15:09
>>148 >つまり、トートロジーな文はすべて常に真な文ですから、
>みな論理的同値文とみなせるような気がするのですね。
>とすると、トートロジーな文はみな同じ意味を持っているという
>ことになってしまう。
私の理解では、まさにその結論で正しいのだと思います。すなわち、
論理学的な“意味”においては、トートロジーな文は、すべて同じ“意味”を
持っていることになるのだと思います。文の真理条件を文の意味と
同一視するのであれば、これは特に奇妙なことではないように思います。
153 :
口を出すもの :02/08/28 15:16
はじめまして。>面白がるものさん >確かに可能世界を「可能」なものとして成り立たせる条件は論理法則と >規約の同一性ですよね。 >様相論理学の過激な一派には、それさえ認めない人たちもいるということ >ですが、ちょっとぼくには意味不明な議論です。 ほお。それは、可能世界によって異なる論理法則が成り立つ余地をみとめると いうことなのでしょうか。面白そうですけど、確かに「過激」ですね…
154 :
口を出すもの :02/08/28 22:35
>>130 >つまり、「xはガファリは太っていたというようなものである」
>はこの世界に存在するあらゆる個体を充たすことになる。
うーん、そう考えますと、^x(ガファリは太っていた。)は、ガファリが現実に
太っていた場合は、現実世界に存在するすべての個体の集合ということになります
よねえ。一方、デイヴィドソンが用いている^x(x=xであり、かつ、ガファリ
は太っていた)は、現実にガファリが太っている場合は、現実世界に存在するか
否かにかからわず、あらゆる個体の集合になってしまいますから、現実世界に
存在しないが可能世界に存在する個体が存在するならば、
^x(ガファリは太っていた。)≠^x(x=xであり、かつ、ガファリは太っていた)
になってしまうような気が…。
155 :
口を出すもの :02/08/28 22:39
>>131 >多分間抜けな疑問のような気がするのですが、チョト疑問に思うことがあって
>文を可能世界を変項とする性質と解釈することができるのだとすると、
>そのxに具体的なある世界を代入して作られる命題もまた一つの文になりますから、
>その文もまた可能世界を変項とする性質と解釈できるのだろうか
>というものです。
そうですねえ。例えば、現実世界を含むところの可能世界の集合が、上位
レベルの言わばメタ現実世界を形成して、そのメタ現実世界に対するメタ
可能世界というものが想定できるのであれば、そのような解釈もできるか
もしれませんね。(^^)
156 :
考えるもの :02/08/29 22:43
>>149 口を出すものさん
>一般に、可能世界について語る場合でも、その可能世界を描写するのに用いられて
>いる言語は、あくまで我々の言語ですから、記号の意味や規約は、どの可能世界に
>ついて語る場合でも不変であるように思います。
>>150 面白がるものさん
>確かに可能世界を「可能」なものとして成り立たせる条件は論理法則と
>規約の同一性ですよね。
なるほど。でもどの可能世界についてもそれを描写するのに用いられるのはこの我々の言語である
ということと、例えば日本語の規約が異なっているある可能世界がありうると認めることとは
両立するような気がするのですね。
論理法則にかんしては、可能不可能という様相に直接かかわっているので、
わかるんですが、言語規約というのはようはたんなる取り決めですから、
この現実世界とことなった物理法則をもつ世界を想定可能であるなら、
この現実世界とはことなった言語規約をもつ世界というのも想定可能な世界として
みとめられていいような気もするのですね。
このへんはもうちょっと本を読みながら考えてみます。
157 :
考えるもの :02/08/29 23:30
>>152 >私の理解では、まさにその結論で正しいのだと思います。すなわち、
>論理学的な“意味”においては、トートロジーな文は、すべて同じ“意味”を
>持っていることになるのだと思います。文の真理条件を文の意味と
>同一視するのであれば、これは特に奇妙なことではないように思います
でも別の言い方をして、
文の意味はその真理条件だとすると、
トートロジーはみな同じ意味になってしまうから、
それでは文の意味内容の個別化には不充分である
という言い方はできませんか。
要するに、
2つの文が論理的同値であるというのは、論理学的な意味が同じであるということである
というときの
論理学的な意味が同じというのは、要は、真理条件が同じということ以上の意味をもたない
のであって、文の意味内容が同じであるとは、しかし、真理条件が同じ以上のなにかを
意味しているはずである。
すると、論理的同値文は交換可能であるというのは、
真理条件が同じ文は交換可能ということであって、
しかし、真理条件が同じ文はかならずしも、意味内容が同じ文ということを保証しない
のであるなら、論理的同値文が交換可能という考えはやはりチョト疑問が残るのです。
158 :
考えるもの :02/08/29 23:37
>>154 >うーん、そう考えますと、^x(ガファリは太っていた。)は、ガファリが現実に
>太っていた場合は、現実世界に存在するすべての個体の集合ということになります
>よねえ。一方、デイヴィドソンが用いている^x(x=xであり、かつ、ガファリ
>は太っていた)は、現実にガファリが太っている場合は、現実世界に存在するか
>否かにかからわず、あらゆる個体の集合になってしまいますから、現実世界に
>存在しないが可能世界に存在する個体が存在するならば、
>^x(ガファリは太っていた。)≠^x(x=xであり、かつ、ガファリは太っていた)
>になってしまうような気が…。
ここはチョトわからないのですが、
まず、
「^x(x=xであり、かつ、ガファリは太っていた)」
という集合表現の理解の仕方として2つあったわけですよね。
1つは、
「^x(x=xであり、かつ、ガファリは太っていた)」
を、
x=x、つまり自己同一的であるという条件と
xはガファリは太っていたというようなものという条件
の2つの条件を満たす個体の集合という意味に理解する解釈これを
エブニン解釈と呼んで置きましょう。
もう一つは、
「^x(x=xであり、かつ、ガファリは太っていた)」
を
x=xであり、だけがxの条件となっていて、
「ガファリは太っていた」はxの条件になっていないという解釈ですが、
もしエブニン解釈をとりますと、
多分こう考えられると思うのです。
159 :
考えるもの :02/08/29 23:39
^x(ガファリは太っていた。)は、ガファリが現実に 太っていた場合は、現実世界に存在するすべての個体の集合を満たす。 一方 ^x(x=xであり、かつ、ガファリは太っていた)は、 エブニン解釈をとれば、 ^x(x=x)∩ ^x(ガファリは太っていた) つまり、x=xを満たす個体の集合と、ガファリは太っていたを満たす個体の集合とに 共通する固体の集合と解釈できる。 すると、 集合「^x(ガファリは太っていた)」が集合「^x(x=x)」の部分集合である と解釈できるのであれば、 つまり 「x(ガファリは太っていた)」を満たす個体は、かならず「x(x=x)」も満たす という関係がなりたっていれば、 ガファリが太っていた場合、「^x(ガファリは太っていた)」は、この現実世界の あらゆる対象の集合ということでしたから、 「^x(x=xであり、かつ、ガファリは太っていた)」 も、ガファリが太っていた場合、 この現実世界のあらゆる対象の集合となる。 よって、 「^x(ガファリは太っていた)」=「^x(x=xであり、かつガファリは太っていた)」 と解釈できる。
160 :
考えるもの :02/08/29 23:40
でも問題なのはですね、、 もし「^x(x=x)」が、現実世界だけでなく現実世界を含むあらゆる可能世界における 個体の集合と解釈することができるとしますと、 以上のエヴニン解釈では、 ガファリが太っていた場合でも、 「^x(x=xであり、かつガファリは太っていた)= ^x(x=x)」 は成り立たなくなってしまうような気がするのです。
161 :
考えるもの :02/08/30 02:09
>>150 >確かに可能世界を「可能」なものとして成り立たせる条件は論理法則と
>規約の同一性ですよね。
>様相論理学の過激な一派には、それさえ認めない人たちもいるということ
>ですが、ちょっとぼくには意味不明な議論です。
これは可能世界のなかに、何もない世界とか、虚構世界とかを入れた場合という
ことなんでしょうか。
162 :
口を出すもの :02/08/30 19:06
>>156 >なるほど。でもどの可能世界についてもそれを描写するのに用いられるのはこの我々の言語である
>ということと、例えば日本語の規約が異なっているある可能世界がありうると認めることとは
>両立するような気がするのですね。
それは、もちろん両立すると思います。現実の世界において、地域によって様々な
日本語のヴァリエーション(方言など)が存在するのと同じように、日本語の規約が
異なっている世界を想定するのは難しくありません。ただ、ある可能世界について
語るのに、その可能世界において用いられている言語(方言)を使う必要はないと
いうことは言えると思います。例えば、我々が韓国の経済について語るのに、
韓国語を使う必要がないのと同じように。
163 :
口を出すもの :02/08/30 19:36
>>157 >でも別の言い方をして、
>文の意味はその真理条件だとすると、
>トートロジーはみな同じ意味になってしまうから、
>それでは文の意味内容の個別化には不充分である
>という言い方はできませんか
それは、真理条件的な意味理論の限界に関する、基本的でかつ重要な指摘
であるように思います。例えば、次の二つの文は、どちらもトートロジー
(恒真文)であり、文の意味を真理条件とみなすのであれば、どちらも
同じ意味になってしまうことになります。
(a) 長州力=長州力
(b) ^x((x=x)かつ(長州力=長州力))=^x(x=x)
ところが、これらの文は、少なくとも信念文においては、入れ替えができない
ように思われます。すなわち、(c)が真である場合に、その中の「長州力=長州力」
という文を、それと論理的に同値である(d)に入れ替えることは、できないように
思われます。
(c) 太郎は、長州力=長州力であると信じている。
(d) 太郎は、^x((x=x)かつ(長州力=長州力))=^x(x=x)であると信じている。
従って、(a)と(b)のようなトートロジー文の意味の違いを説明するには、意味の検証
主義的な理論が必要になるのではないかと思います。そうすれば、(c)と(d)の違いは、
両者の恒真性を示す論証過程の違いとして説明することができますから。
164 :
口を出すもの :02/08/30 20:09
>>158-160 そうですねえ、私は、^x(ガファリは太っていた)という表現そのものが
不自然であると言ってきたのですが、もし、この表現に一定の解釈が与えられた
場合でも、現実にガファリが太っていた場合の^x(ガファリを太っていた)の解釈は、
現実世界に存在するすべての個体の集合ではなく、現実世界に存在するしない
に関わらず、あらゆる個体の集合であると考えるほうが自然である
と考えているのです。これならば、当然、
^x(ガファリは太っていた。)=^x(x=xであり、かつ、ガファリは太っていた)
も成立しますし。ガファリが太っていた場合には、
^x(x=xであり、かつガファリは太っていた)= ^x(x=x)
も成立しますから。
165 :
口を出すもの :02/08/30 21:18
(続き) 要するに、三浦先生が言われるように「命題を可能世界の属性とみなして、 さらに、個体が可能世界を代表するものと考えることによって、(ガファリは 太っていた)という命題を個体の属性とみなす」と、より問題がややこしく なるのではないかと。
>>121 >ところでデイヴィドソンは、意味の理論がとるべき姿は
>形式的意味論であるべきだと考える。
これは断じて違う.「意味論」と「意味の理論」は違うよ,ぜんぜん.
既出かもしれないが, 文演算子:つまり論理結合子のことだよね.「かつ」「または」「〜でない」「もし〜ならば,…である」 真理関数的:真理関数というのは文字通り,真理値(真/偽)から真理値への関数のこと. 文演算子ってみんなそうでしょ.だから「かつ」は二座の真理関数だということになる.詳しく言うと 「AかつB」が真であるのはAが真でBが真であるときそのとき限るわけだから,「かつ」をF(A,B)で表すと F(真,真)=真 F(真,偽)=偽 F(偽,真)=偽 F(偽,偽)=偽 となるね.
あとフレーゲ論法Frege's argumentを理解することが目的なら,可能世界は 何も関係ない.様相の問題ではないからね.
よく「真理関数的振る舞い」なんて表現があるけど,例えば「はい」「いいえ」 というのはその典型だよね.つまりある文に対して「はい」と言えばその文が 真だと主張したことになるから,「はい」というのがその文から真理値真への 関数のように振る舞ってるでしょ.
>フレーゲ論法とは、 >「いかなる文演算子も、それが作用している文の内部での >外延の等しい表現の代入が可能であるならば、 >その文演算子は真理関数的でなければならない」 >ということを示す議論である。 >「デイヴィドソン」(サイモン・エヴニン)より これがそもそもよくわからない.これってフレーゲ論法じゃないよな.何かの誤訳か 脈絡が違うか,サイモン・エヴニンが馬鹿なんじゃないの. フレーゲ論法は「任意の文について,それらが同じ真理値をもつならば,それらは同じ 指示対象をもつ」ってことじゃなかったっけ.
フレーゲ論法(以下では単称名辞に文も含める.デイヴィドソンがそうしてるからね) 前提:論理的に等値なものは同じ指示対象をもつ 前提:同じ指示対象をもつ単称名辞を全体の入れ替えても真理値は変わらない. そこで次の4つの文を考えよ: 1.A 2.^x(x=x ∧ A)=^x(x=x) 3.^x(x=x ∧ B)=^x(x=x) 4.B これらは,もしAとBが同じ真理値をもつならば,すべて等値である.したがって前提から, これらはすべて同じ指示対象をもつ.すなわち,任意の文について,それらが同じ真理値 をもつならば,それらは同じ指示対象をもつ.詳しい証明は下
↑ 「同じ指示対象をもつ単称名辞を全体の入れ替えても真理値は変わらない」は 「同じ指示対象をもつ単称名辞を入れ替えても全体の真理値は変わらない」だね^^ 書き間違えた.
>>171 の続き
1と2そして3と4が論理的に等値ってのはいいよね.だから1と2そして3と4
の指示対象が同じだということは前提からすぐ帰結する.
で問題は2と3なんだけど.AとBの真理値が同じ限り,^x(x=x ∧ A)と
^x(x=x ∧ B)の指示対象は同じ.だからAとBの真理値が同じ限り,前提2
から^x(x=x ∧ A)=^x(x=x)と^x(x=x ∧ B)=^x(x=x)
の真理値は「常に」一致する.つまりAとBの真理値が同じならば,3と4は論理的に
等値.以上からAとBの真理値が同じならば,1,2,3そして4はすべて論理的に
等値になる.したがって,前提1からAとBの真理値が同じならば,それらの指示対象は
同じだ.
↑また書き間違えた. 「AとBの真理値が同じならば,3と4は論理的に等値」は 「AとBの真理値が同じならば,2と3は論理的に等値」だな^^
>>173 (誤植訂正済)
> つまりAとBの真理値が同じならば,2と3は論理的に等値.
ちょっとダウト、です。
A≡B |― 2≡3
というだけで、
|― 2≡3
単独では証明できないと思いますが。
すみません、書き方が舌足らずだったので修正させてください。 稲さんは |― A≡B という仮定のもとで議論されているわけではないですよね。でしたら A≡B |― 2≡3 ということが証明できるだけで、単独の |― 2≡3 ということは証明できないので、2と3が論理的に等値とは言えないと 思うのですが。
A≡Bというのは「AとBが論理的に等値」ってことだよね.もしそうだとしたら 違う.仮定にあるのは,AとBが真か偽かわからないけど,たまたま真理値が同じ というだけ.論理的等値という仮定はしてないよ.で要は,AとBが真でも偽でも いいが,真理値が同じ時には,2と3は論理的に等値になるということだね.
つまり,かりにAとBが真だったとしよう.すると ^x(x=x ∧ A)の指示対象は普遍クラス.もちろん^x(x=x ∧ B) の指示対象も普遍クラス.で前提から,指示対象が同じ単称名辞を入れ替えても 全体の真理値は変わらないんだから, ^x(x=x ∧ A)=^x(x=x)と^x(x=x ∧ B)=^x(x=x) の真理値は,AとBの真理値が同じ時には「常に」一致する.だからそれらは 2と3は「論理的に等値」になるってことだね.
177> A≡Bというのは「AとBが論理的に等値」ってことだよね. いえ、そうじゃなくて、たまたま真理関数的に等値、ということです。 例えば、もちろん A |― ¬¬A は証明できますし、稲さんの言い方になぞらえて言うと、「Aが真理値tを もつ時には¬¬Aは『常に』真になる」とも言えますよね。ですがだからと いって「(Aという仮定のもと) ¬¬Aが論理的に真である」は導かれない のではないでしょうか? だとすると (180に続きます・・・)
(179の続きです・・・) だとすると、同様に、 A≡B |― 2≡3 は証明できますが (≡は論理的にではなく真理関数的に解釈してください)、 「(A≡Bという仮定のもと) 2≡3が論理的に真である」は導かれないのでは ないでしょうか? もしそれが導かれると言おうとすると、「Aが真の時には¬¬Aが論理的に 真になる」という結論まで受け入れざるをえないと思うのですが。
こんな書き方をすると話が余計ややこしくなるかもしれませんが・・・ 稲さんの言われる「常に」という様相は、必然性の様相「□」を使うと □((AとBの真理値が同じ)⊃(2と3の真理値が同じ)) ということでしかないと思います。ところが、「AとBの真理値が同じなら 2と3が論理的に等値」という結論は (AとBの真理値が同じ)⊃□(2と3の真理値が同じ) というもののはずです。
概ね175の要っていること自体は正しいんだけど・・・. デイヴィドソンの議論を無視してる.たしかに真理値が同じから論理的等値の話に なってるから変な感じはするんだけど,要は 論理的等値なものは指示対象が同じ 指示対象が同じものは入れ替えても真理値は変わらない から 真理値が同じ文は指示対象が同じ ということを導く議論だからね.
183 :
考える名無しさん :02/09/01 16:16
>>182 ということはデイヴィドソンの論証に間違いがあったということ?
いやいや.同じことの繰り返しなんだけど,AとBがたまたま真だったとするわね. すると^x(x=x ∧ A)と^x(x=x ∧ B)は同一の対象を指示するでしょ. すると^x(x=x ∧ A)と^x(x=x ∧ B)を「入れ替えても真理値はかわらない」 んだから,前提から,^x(x=x ∧ A)=^x(x=x)と^x(x=x ∧ B)=^x(x=x) は論理的に等値になると言ってるんだけどね.
ああ,僕が間違ってるな.今論文を読み返したら,前提2のところが 指示対象が同じものは入れ替えても真理値は変わらない になってる.だから175の言ってることが正しいね.
↑ちゃうちゃう,前提2は正確には 指示対象が同じものは入れ替えても指示は変わらない だ.
するとこうだ.かりにAとBが真だったとしよう.すると ^x(x=x ∧ A)の指示対象は普遍クラス.もちろん^x(x=x ∧ B) の指示対象も普遍クラス.で前提から,指示対象が同じ単称名辞を入れ替えても 全体の「指示」は変わらないんだから, ^x(x=x ∧ A)=^x(x=x)と^x(x=x ∧ B)=^x(x=x) は,AとBの真理値が同じ時には「同じ指示をもつ」.だからそれらは2と3は AとBの真理値が同じ時には1234はみんな同じ指示をもつ. だね.
188 :
考える名無しさん :02/09/01 16:41
>>186 「指示は変わらない」ってどういうことでしょうか?
教えてクンですいませんが。
>>171 改め
フレーゲ論法(以下では単称名辞に文も含める.デイヴィドソンがそうしてるからね)
前提:論理的に等値なものは同じ指示対象をもつ
前提:同じ指示対象をもつ単称名辞を全体の入れ替えても指示は変わらない.
そこで次の4つの文を考えよ:
1.A
2.^x(x=x ∧ A)=^x(x=x)
3.^x(x=x ∧ B)=^x(x=x)
4.B
これらは,もしAとBが同じ真理値をもつならば,すべて同じ指示をもつ.
したがって,任意の文について,それらが同じ真理値をもつならば,それ
らは同じ指示対象をもつ.
でいいかな.
>>188 ‘a’と‘b’が同じ指示をもつというのは,‘a’と‘b’の指示対象が同じということですよ.
191 :
考える名無しさん :02/09/01 16:49
>>190 わざわざすみません。ありがとう。
稲さんのおかげでフレーゲ論法、ずいぶんわかりやすくなりました。
しかし、エブニンって人はなんで論理結合子なんか持ち出したんでしょう。
フシギです。
>>85 >>88 >おかしい。あなたは大きな勘違いをしている。
>>@イチローはメジャーリーガーであるならば石原新太郎は都知事である
>といった文を適当に作ることができるわけです。
>そんなこと、ありえない。文として意味をなさないし、非論理的だと思う。
>この文を数学的に表現すると、1+2=9を正解だというくらいとんでもない。
>もう一度、フレーゲ論法を冷静に読み直して下さい。納得がいかない。
>他の人も始めからこのスレを読んで、意味が分からないというと思う。
この意見は論理に対する誤解.というよりフレーゲ以前の論理観.基本的に命題の真偽のみ
を問題とするわけだから,‘A→B’に内容的につながりなどはいららない.
そういった人は命題のmeaningとreferenceを一緒に考えてる.普通論理学で「意味」というときは
後者.意味論というのはそれを問題としてる.で前者の問題を扱うのが「意味の理論theoy of meaning」
だね.だからmeaningとreferenceが違うように意味論と意味の理論は違うんだよ.
あとよく「1+2=9」のような文を非論理的とか無意味と考える人がいるけど. それは誤解だろうな.この等式ははっきりと意味を持ってる.つまり「偽」ね.
194 :
考える名無しさん :02/09/01 22:42
1+agu=うあ ならば無意味?
195 :
考える名無しさん :02/09/01 23:10
ところでサナチョバって何?
>>194 「1+agu=うあ 」の中の記号が何を意味するかによる.
>>196 そのままの意味
ところで
「1+1=9」は記号の意味を特定せずとも意味があることは言えたのに
「1+agu=うあ 」はなぜ記号の意味を特定しないと語れないの?
>>197 >「1+1=9」は記号の意味を特定せずとも意味があることは言えたのに
>「1+agu=うあ 」はなぜ記号の意味を特定しないと語れないの?
そんなことはない.普通は記号‘1’とかが自然数1を意味するということを
前提にして話をするから「1+1=9」は記号の意味を特定せずとも意味があるよ
うに感じてるだけで,実際は論理学の教科書の中でもちゃんと数詞に対する意
味づけというのはやるんだよ.モデルをつくるなんていうのはみんなそう.
>>198 >そんなことはない.普通は記号‘1’とかが自然数1を意味するということを
>前提にして話をするから「1+1=9」は記号の意味を特定せずとも意味があるよ
それは知ってた
ならば同じ用法と理解して無意味と言っていいんじゃないの?
200 :
考える名無しさん :02/09/02 01:32
飯田スレからのコピペ。 みんな読もうぜ。 言語哲学大全W 真理と意味(全4巻完結) 飯田 隆(慶應義塾大学教授)著 四六判/450頁/上製 予価(本体4200円+税) 9月上旬刊 [ISBN4−326−15365−2 C3010] 本書はいよいよ最終巻。現代の言語哲学の一方の旗頭であるD.ディヴィド ソンを対象とする。ディヴィドソンは、自然言語に対してメタ理論の位置をとる 意味の一般論を構想している。序論では、ディヴィドソンのプログラムを分析哲学 の中に位置づける。第1章から4章までは、このプログラムの背景・目的・意 義を説明する。第5章では日本語への適用の実例を示し、第6章では、それがどの ような認識論・存在論を帰結するかを検討する。ただ全体としてディヴィドソ ンの解説というよりパースペクティブを広くとり、現段階の言語哲学や言語学に とって実りある一般理論は何か、という問いに答えることを目指している。本 書によっておよそ15年に亘ったプロジェクトは完結する。同時に、英米哲学の 背骨をなす言語哲学の標準的な概説書も完成したことになる。
201 :
考える名無しさん :02/09/02 01:38
だからサナチョバって。
202 :
考える名無しさん :02/09/02 01:42
203 :
考える名無しさん :02/09/02 01:46
完全に意味は無いの?世知に疎いもので。二次的な意味でもいいので 教えて。
204 :
考える名無しさん :02/09/02 01:50
>>203 ホントに意味ないと思いますよ、たぶん。今度学ぶものが出てきた
直接きいてみてくださいね。
おやすみなさい。
論文が息詰まっているので書き込む・・・・.気晴らしに. フレーゲ論法とは何か!!(「真理と意味」デイヴィドソン) 以下では単称名辞に文も含める. 前提1:論理的に等値なものは同じ指示対象をもつ 前提2:同じ指示対象をもつ単称名辞を入れ替えても全体の指示対象は変わらない. 次の4つの文を考えよ: 1.A 2.^x(x=x ∧ A)=^x(x=x) 3.^x(x=x ∧ B)=^x(x=x) 4.B まず1と2は論理的に等値である.証明:Aが真であると仮定せよ.すると^x(x=x ∧ A)は 存在するすべての対象がそのメンバーであるようなクラスであり,それは^x(x=x)と同一で ある.したがって^x(x=x ∧ A)=^x(x=x)は真である.Aが偽であると仮定せよ.すると 条件x=x ∧ Aを満たすような対象は存在しないので,^x(x=x ∧ A)は空なクラスであり, したがって^x(x=x ∧ A)=^x(x=x)は偽である.以上から,Aと^x(x=x ∧ A)=^x(x=x) は論理的に等値.(証明終わり)同様にして3と4も論理的に等値である.さて前提1から「論理的に等値であるものは 指示対象が同じ」なのだから,1と2そして3と4はそれぞれ同じ指示対象をもつ. さてここでAとBが真理値が同じであると仮定せよ.するとこの場合には,上の証明からも分かるように^x(x=x ∧ A) と^x(x=x ∧ B)は同じクラスを指示する.ところが前提2から「同じ指示対象をもつ単称名辞を入れ替えても全体の指 示対象は変わらない」のだから,AとBの真理値が同じであるときは,^x(x=x ∧ A)=^x(x=x)と ^x(x=x ∧ B)=^x(x=x),つまり2と3の指示対象は変わらない. 以上からAとBの真理値が同じであるときは,1,2,3そして4はすべて同じ指示対象をもつ.したがって任意の真理値を同じ くする文は常に同じ対象を指示する.
いろいろレスしたいのですが、 チョト整理できそうにないので、 とりあえず思いついたものからチョトだけよ。
>>166 >>ところでデイヴィドソンは、意味の理論がとるべき姿は
>>形式的意味論であるべきだと考える。
>これは断じて違う.「意味論」と「意味の理論」は違うよ,ぜんぜん.
>>192 >そういった人は命題のmeaningとreferenceを一緒に考えてる.普通論理学で「意味」というときは
>後者.意味論というのはそれを問題としてる.で前者の問題を扱うのが「意味の理論theoy of meaning」
>だね.だからmeaningとreferenceが違うように意味論と意味の理論は違うんだよ.
なるほど、口を出すものさんが言っていた”論理的意味”もこのreference
のことだったんでしょうね。
でも、このreferenceとmeaning、
の用語でいえば、
デイヴィドソンがやろうとした意味の理論というのは、
referenceを扱う形式的意味論の道具立てによって、meaningを解明しよう
というものなんじゃないのかな。
つまりデイヴィドソンは意味の理論がとるべき形式は、タルスキ型真理理論であると考える。
タルスキ型真理理論とは、形式的意味論を自然言語に適用しようとしたものである。
ここから
デイヴィドソンは意味の理論がとるべき姿は
形式的意味論であるべきだと考えているといってもいいんじゃないかな。
>>205 >まず1と2は論理的に等値である.証明:Aが真であると仮定せよ.
>すると^x(x=x ∧ A)は存在するすべての対象がそのメンバーであ
>るようなクラスであり,それは^x(x=x)と同一である.
ここがフレーゲ論法でわからなったところなんですが、
「^x(x=x ∧ A)」というのは、
^x(x=x) ∩ ^x(A)
(集合「^x(x=x)」と集合「^x(A)」の共通集合」
と解釈していいのかな。
>完全に意味は無いの?世知に疎いもので。二次的な意味でもいいので >教えて。 本当に意味ないですよー。
>>207 >つまりデイヴィドソンは意味の理論がとるべき形式は、タルスキ型真理理論であると考える。
>タルスキ型真理理論とは、形式的意味論を自然言語に適用しようとしたものである
からといってタルスキの真理理論が意味の理論になるわけじゃない.というより,前者は真理理論
なんであって,簡単に言えば「Pは真である」という文を分析解明する理論.デイヴィドソンのは
「意味の理論」.
>>208 簡単に考えればいいよ.
^x(xは白い)
というのは,白いもののクラス.だから
^x(x=x)
は自分自身と同一であるもののクラス.だとすると
^x(x=x ∧ A)
は「自分自身と同一であり,なおかつ,A」という条件を満たすもののクラス.
だからAが偽であれば,その条件を満たすものは存在しないということになるね.
簡単にデイヴィドソンの意味の理論の発想を説明すると次のようになる. まずタルスキの真理理論は 規約T ‘p’が真であるのは,pであるときそのときに限る というT文が形式言語のすべての文pに対して成立するということを示した理論なんだけど, その場合,対象言語の文‘p’からメタ言語の文pの翻訳が存在するということが前提され ている.もちろんこの翻訳もちゃんと定義されるんだけど.だから最終的に真という概念 は対象言語からメタ言語へと押し上げる装置だという形で,(まあ荒っぽいけど)説明さ れるわけ. でデイヴィドソンの意味の理論はこれを逆転させて,むしろその翻訳の方を問題とした わけ.真理の概念が対象言語からメタ言語へと押し上げる装置だということを仮定して, その翻訳を見つけ出すことで,問題とする言語(例えば先住民の言語とか)の意味を説明 するというようにね.ちょっと荒っぽいけど,これがデイヴィドソンの意味の理論だね.
>>207 >デイヴィドソンがやろうとした意味の理論というのは、
>referenceを扱う形式的意味論の道具立てによって、meaningを解明しよう
>というものなんじゃないのかな。
まあ正しい.
>つまりデイヴィドソンは意味の理論がとるべき形式は、タルスキ型真理理論であると考える。
>タルスキ型真理理論とは、形式的意味論を自然言語に適用しようとしたものである。
間違ってる
>ここから
>デイヴィドソンは意味の理論がとるべき姿は
>形式的意味論であるべきだと考えているといってもいいんじゃないかな。
真ん中が間違ってるので,これも間違ってる.
214 :
口を出すもの :02/09/04 20:52
>>170 >>フレーゲ論法とは、
>>「いかなる文演算子も、それが作用している文の内部での
>>外延の等しい表現の代入が可能であるならば、
>>その文演算子は真理関数的でなければならない」
>>ということを示す議論である。
>>「デイヴィドソン」(サイモン・エヴニン)より
>
>これがそもそもよくわからない.これってフレーゲ論法じゃないよな.何かの誤訳か
>脈絡が違うか,サイモン・エヴニンが馬鹿なんじゃないの.
これについては、デイヴィドソンが使っている「フレーゲ論法」には、少なくとも
二種類あるみたいです(もっとも、デイヴィドソン自身がこれを「フレーゲ論法」
と呼んでいるわけではないようですが)。ひとつは、稲さんが紹介しているもので、
これは論文「真理と意味」に出てきます。それに対して、もうひとつの「フレーゲ
論法」は、おそらく、前者の応用として『行為と出来事』の中に出てくるもので、
こちらがエヴニンが論じているもののようです。
>>214 だろうね.つまりフレーゲ論法から,真理値が同じ命題は指示対象も同じということが
帰結する.それを因果関係の脈絡の中で考えると非常にへんなことになる,という話
なんだろうね.
216 :
考える名無しさん :02/09/04 21:39
稲さんって、何歳?
217 :
口を出すもの :02/09/04 21:45
エヴニンが「フレーゲ論法」として問題にしているところの論文「因果関係」 におけるデイヴィドソンの議論は、だいたい次のようにまとめられるようです。 文演算子conによって任意の二つの文A, Cが結合されてできる文A con C について、次の二つの前提が成り立つとする。 前提1:文Aをそれと論理的に等値な文A’と交換しても、A’ con Cの真理値は不変である。 前提2:文Aの内部においては、外延の等しい表現の代入が可能である。 1. A 2. ^x(x=x ∧ A)=^x(x=x) 3. ^x(x=x ∧ B)=^x(x=x) 4. B 文Aと文Bの真理値が等しいとする。この場合、^x(x=x ∧ A)と ^x(x=x ∧ B)の外延は等しい。一方、1と2、および、3と4は、 それぞれ論理的に等値であるから、Aは、常に、それと真理値を同じくするBに、 A con Cの真理値を変えることなく、入れ替えることができる。一方、Cについて も同様の議論が成立する。以上のことから、A con Cの真理値は、AとCの真理値 のみに依存することになり、従って、文演算子conは真理関数的である。
218 :
考える名無しさん :02/09/04 21:48
稲さんすごい詳しいけど、 フレーゲ研究者? 研究何年やってるの?
>>217 なんか前提がおかしい感じがするな.論文がないからわからないけど.
>>217 たぶん前提2は
文Aの内部においては、外延の等しい表現を代入しても真理値はかわらない
じゃないのかな.そうでないと
>Aは、常に、それと真理値を同じくするBに、
>A con Cの真理値を変えることなく、入れ替えることができる。
という推論が前提からは出てこないでしょ.
221 :
口を出すもの :02/09/04 22:15
>>219 前提の具体的な定式化には、私が少し手を加えていますので、ぎごちないところ
がありましたら、ご容赦を。前提1の方は、まあいいですよね。一方、前提2の方
は、因果関係を表す文においては、実際に、外延を等しくする名辞が代入できる
という事実に基づいています。
例:小泉純一郎が経済音痴であったという事実が、日本の不況が長引いたと
いうことを事実たらしめた。 → 現在の日本の首相が経済音痴であったと
いう事実が、日本の不況が長引いたということを事実たらしめた。
222 :
口を出すもの :02/09/04 22:17
>>217 こうかな.
前提1:文Aをそれと論理的に等値な文A’と交換しても、A’ con Cの真理値は不変である.
前提2:文Aの内部においては、外延の等しい表現を代入しても真理値はかわらない.
1. A
2. ^x(x=x ∧ A)=^x(x=x)
3. ^x(x=x ∧ B)=^x(x=x)
4. B
1と2,3と4が等値であるのはいい.それゆえ前提1から
A con C と ^x(x=x ∧ A)=^x(x=x) con C の真理値はかわらない.同様に
B con C と ^x(x=x ∧ B)=^x(x=x) con C の真理値はかわらない.
さて,文Aと文Bの真理値が等しいとせよ.このとき^x(x=x ∧ A)と^x(x=x ∧ B)の外延は等しい
から,前提2より,
^x(x=x ∧ A)=^x(x=x) con C と ^x(x=x ∧ B)=^x(x=x) con C の真理値はかわらない.
したがって,Cについても同様だから,A con C はAとCの真理値のみに依存する.
チョトお邪魔します。 >前提2:文Aの内部においては、外延の等しい表現を代入しても真理値はかわらない. というか、ある文結合子が作用する文内部において、外延の等しい表現を 入れ替えても文全体の真理値が変わらない場合、 その文結合子は真理関数的であることを導くのが、フレーゲ論法なん じゃないですか。 だから前提2はいらないと思うのですが。
まず論文がないから
>>217 にあるのをそのまま受け取ると,前提2は僕のいった
形で入ってないとうまくゆかないと思うけどな.前提2がいらないということは
ないと思うよ.
>>224 だから文の外延が必ずしも真理値ではない,という仕方で議論してるんじゃないかね.
>>208 >簡単に考えればいいよ.
>^x(xは白い)
>というのは,白いもののクラス.だから
>^x(x=x)
>は自分自身と同一であるもののクラス.だとすると
>^x(x=x ∧ A)
>は「自分自身と同一であり,なおかつ,A」という条件を満たすもののクラス.
>だからAが偽であれば,その条件を満たすものは存在しないということになるね
でもこの場合のAは命題(文)なわけですよね。
そこが疑問だったところなんですが、
結局どうなんでしょうか
Aが任意の文の場合、
「^x(A)」というのは、それじたい集合表現として見とめられると
考えていいのかな。
>>227 ああ,それね^^.慣れの問題なんだけど,Aが文の場合でも「^x(A)」という
表現を認めるんじゃないのかな.こういうのは集合論とか論理学の本に書いてある.
まあ認めようが認めまいが,要は「x=x ∧ A」を一座の述語だと考えればいい
わけだから,問題ないと思うよ.わざわざそのintersectionを考えなくてもいいと
思う.
>>228 う〜む。いやそこで躓いたものとしてこだわってしまうのですが、
まチョトしらべてみます。
230 :
口を出すもの :02/09/04 22:58
>>223 はい、そゆことであります。
>>224 226にもありますように、「因果関係」のフレーゲ論法は、文の外延が
真理値であるということは前提していないみたいだし、前提2は、文Aのあくまで
内部の名辞の入れ替えについての話で、前提1は、文Aそのものの“論理的に”
等値な文との入れ替えの話。それで、結論は、文Aそのものの“事実的に”
等値な文との入れ替えの話だから、どちらの前提も必要だと思われます。
>>229 まあ馬鹿丁寧にやるとこうなる:
Aが真だとしよう.
(x=x ∧ A ) → x=x
は自明.いまAが真なんだから,x=x ∧ A も真.だから
x=x → (x=x ∧ A )
も成り立つ.したがって,外延性公理から,
^x(x=x ∧ A)=^x(x=x)
が導かれる.
Aが偽の場合は同じようにして,これらが違うということが導ける.
233 :
口を出すもの :02/09/05 10:41
>>227 >Aが任意の文の場合、
>「^x(A)」というのは、それじたい集合表現として見とめられると
>考えていいのかな。
もっと一般的に考えてみると、
演算子が、通常の用法において、そのスコープ内にその演算子によって束縛される
変項を要求するような場合、たまたま、そのスコープ内に束縛変項がないような場
合は、どのような扱いを受けるんですかね。例えば、
∀x(ガファリは太っていた)
∃x(ガファリは太っていた)
は、そもそも解釈可能な文であるのか、もし解釈可能であれば、どのような
解釈を持つのか。
>>233 それ自体はまったく適格な式だと思うよ.というのは量化がちゃんとスコープ
をもっていけない,ということは式の帰納的定義にはないことだから.
例えば
∀y∃x Fx
もちゃんとした式.
>>233 だから
∀x(ガファリは太っていた)
に対する解釈は, ガファリは太っていれば真で,そうでなければ偽.
∃x(ガファリは太っていた)
も同様.
236 :
口を出すもの :02/09/05 11:29
>>234-235 そうすると、やはり、^x(ガファリは太っていた)は、
ガファリが太っていれば、あらゆるものの集合を表し、ガファリ
が太っていなければ、空集合を表すと考えるのが自然ですか。
ただ、ちょっと先に問題になったんですけど、可能世界意味論の
枠組みで考えた場合、この「あらゆるものの集合」は、現実世界
に存在する「あらゆるものの集合」を表すのか、それとも、現実
世界には存在しなくても、他の世界には存在するようなものをも
含めた「あらゆるものの集合」を表すのかどっちなんですかね。
>>236 最初の話は結局表記上というか規約の問題だと思う.^x(ガファリは太っていた)
ではだめだというんであれば,^x(x=x ∧ ガファリは太っていた)と表記すれ
ばいいだけだから.
可能世界はよくしらないけど,普通変項は何の上を走るのかということだと思うけど,
よく「存在するすべての対象の領域」って言うよね.じゃあ存在する対象って何ですか
ということだけど,もし可能世界の話を素朴にやると可能的対象が存在するという話に
なって,それは「指示的に不透明」ってことになるんだよね.
とくに∃x◇Fxなんてのがそのいい例だよね.まあ述語様相論理の意味論がどうなってるか
見てみれば多少の参考にはなるんじゃない.
>>236 付け足しになるけど,そういう問題を考える場合に「他の世界には存在するような」
という表現が何を意味しているのかということを正当化しないといけないだろうね.
クリプキってはじめて(というか高校3年生の夏休みにだけど^^)様相論理の完全性
を証明したけれど,彼自身は様相の議論を存在論的には考えてないと思うけどね.クリ
プキだったら「他の世界には存在するような」という言い回しは無意味だって言うん
じゃないかな.
239 :
口を出すもの :02/09/05 17:06
>>237 可能的対象が「指示に不透明」であるということの意味がよくわからないのですが、
確かに束縛変項xの変域をどう捉えるかによって、∃x◇F(x)の解釈は、違って
きそうですね。すなわち、もしこの文においてxの変域が現実に存在するものに限
られるのであれば、この文は「どこかの世界においてFという性質を満たす個体が
現実世界に存在する」と解釈されるでしょうし、一方、xの変域が可能的に存在
するものも含んでいるのであれば、この文は「どこかの世界においてFという性質
を満たす個体がどこかの世界に存在する」と解釈されるでしょうし。
240 :
口を出すもの :02/09/05 17:09
>>238 >付け足しになるけど,そういう問題を考える場合に「他の世界には存在するような」
>という表現が何を意味しているのかということを正当化しないといけないだろうね.
可能世界意味論において、そのような正当化は必要なんでしょうか。
単に、理論的な構築物として、可能世界における存在者を措定しては
いけないのかな。
>クリプキってはじめて(というか高校3年生の夏休みにだけど^^)様相論理の完全性
>を証明したけれど,彼自身は様相の議論を存在論的には考えてないと思うけどね.クリ
>プキだったら「他の世界には存在するような」という言い回しは無意味だって言うん
>じゃないかな.
クリプキは、様相の問題を可能世界意味論によって分析したのではなかったでした
っけ(自信ないですけど)。もしそうだとすると、様相の問題を可能世界意味論に
よって分析するというのは、様相の問題を存在論的に捉えることに他ならないよう
に思えるのですけど。
241 :
考える名無しさん :02/09/05 18:00
「存在論的」ってマジでいってるの?
242 :
口を出すもの :
02/09/05 18:04