当然の事ながら、私達は生まれてから色々な物に影響され続けていますよね?
TV、新聞、文献・・・・
よって、自分の意見・見解・考え・・・・なる物は存在しないと思うのですが
実際、個としての「自分自身」というものは存在すると思います。それは自分の「身体」だと思います。
(↑これは自分で思っていることです。このことには突っ込まないで下さい)
2 :
考える名無しさん:02/08/08 02:12
あると思うよ
皆さんの意見が聞きたいです。
自分は学校で哲学を専攻している訳ではないのですが、ふと疑問に思い始めたのでスレッドを
立てさせて頂きました。
この事を考えると虚しくて仕方がありません。
自分は身障でもなければ、精神障でもありません(差別的な意味は無いです)。
友人も多い方だと思いますし、自分で言うのもなんですが比較的裕福な家庭で育ちました。
「引篭もり」でもありません。
これからデカルトの「存在と無」を読もうと思っている次第であります。
因みに自分は「真に自分の考え、行動が反映される物」は「人間的本能」という言葉だと感じます。
4 :
考える名無しさん:02/08/08 02:26
>>1 いろいろなものに影響されるけど、
何に触れるかは人それぞれだしどんな影響を受けるかも人それぞれだから
他人の影響を受けた上での見解だとしても私的見解って言えるんじゃないの?
5 :
考える名無しさん:02/08/08 02:29
「真に自分の考え、行動が反映される物」は「人間的本能」
・・・うーん、もっと噛み砕いて欲しい。
6 :
考える名無しさん:02/08/08 02:33
自由意志のスレをみよ。
自分では「絶対に無い」ともいえなければ「絶対に在る」ともいえない・・でも「無い」と感じる方が強い。
疑問に思い始めたのは、友人と「しっかり実用性のある「特許」を申請できそうな商品」を話題にして話していた時からです。
事実、浅学非才な身の上、人生経験も少ないこともあって、考え出すものは全て「存在しているもの」でした。
これを思想的に考えたら・・
1が言うのと逆に、
自分以外の誰かと全く同じ考えを持とうとしても、
実際はなかなかできるもんじゃないと思う。
ていうか不可能(?)
考えたことを「口述」する時に(大体)同じになると思う。
>>8
10 :
考える名無しさん:02/08/08 02:41
観点は外から得るものであるが、
その観点の個数(もしくは視野)を状況に応じて換えるのは己の意思。
(※素人です)
11 :
考える名無しさん:02/08/08 02:42
>>7 それは一理ある。思想を考え、自分のオリジナルだと思っても
調べてみたら既に存在していることはごく普通にある。
しかし、何から何まで他者と考え方が一致することはありえないし、
既存の思想をどのようにブレンドするかは、個人によって必ず異なる。
つまり、例えて言うなら、素材のオリジナルはほとんど見つからないが、
その素材から作られる料理に同じものはない。
それが自分固有の見解だと思う。
「言葉の上」ではそうなのでしょうね・・
>>4 でも結局は「誰か(昔の著名人)」と同じ意見だとおもう。
考えの対象は芸能、時事問題ではなく、「政治的に根本的な話しや人間的に根本的な話し」
といったものに対する「自分の意見、見解、考え」です
13 :
考える名無しさん:02/08/08 02:58
だから自由意志のスレもみれ
因みに、僕は他人の意見を頭から「否定的に考える」ことはありません。
ナルホド。
>>11 そうすると更に例えるのならば「一般商品化できないようなもの」こそが「自分固有の見解」
ということになりますよね?
15 :
考える名無しさん:02/08/08 03:03
>>12 オリジナリティオンリーを重視したら
どうとでもなると思うよ。「何かを作る」場合はね
しょせんみんな人間だから、思想は大して変わらない。
でも、逆にそれでこそ、いきていけるんじゃないでしょうか。
逆に言えば、ものすごいなにかをもった人がいてもそれは、
人間の言葉や人間の創造性の限界を超えて発散する事はできないともいえる
みつけられないのでだれか自由意志すれあげてください。
そんな1さんにはデリダがお勧めですね。
全般的な引用の反復可能性 ちゃんちゃん
>しょせんみんな人間だから、思想は大して変わらない
>人間の言葉や人間の創造性の限界を超えて発散する事はできないともいえる
確かに。
>>15 「創造性の限界」は人それぞれだと思うので共感は出来ませんが、「言葉」といった
場合には共感できますね。
いくら言い回しが学術的であったりしても根本的な「意味」は同じかもしれませんしね・・
デリダ・・・
調べたのですが、文献が多すぎてどれを読んだら良いのか分からないのですが・・
>>17
デリダの「差異と反復」のようですね。でも「カント」どうたら〜って書いてあるんですよね・・
あまり哲学的になると嫌だなぁ・・
21 :
考える名無しさん:02/08/08 04:15
>これからデカルトの「存在と無」を読もうと思っている次第であります。
ヴォケ?
22 :
Kurihara:02/08/08 04:22
名スレの予感が激しくします。
23 :
Kurihara:02/08/08 04:27
『差異と反復』はデリダではなく
ドゥルーズですね。
『存在と無』はデカルトではなく
サルトルですね。
まずは、てごろな解説本よめよ。
間違いを訂正しようと思い、戻ってきたら指摘されていた・・
>>23
デリダの『声と現象』を読んでみまふ。ネマフ・・Zzz
27 :
Kurihara:02/08/08 04:43
>>25 やはりネタではなかったのですね。
さすがです。これは僕の負けですね。
28 :
Kurihara:02/08/08 04:57
私的見解が存在しないということを、
私的言語は存在しないと取ると、それなら、
ヴィットゲンシュタインがつとに指摘している
ことですね。
言語とは徹底的に社会的なものなのであり、
だから、言語は私的(非社会的)たり得ない、と。
見解というのも言語を媒介として表明されるほかないもの
なので、見解もまた私的であることは出来ないでしょうね。
だけど、ある社会的見解を自分の見解とすることは出来ます。
それは「選択」の問題ですね。数ある社会的見解から、正しいと自分が
思うものを選択する時、それは社会的だけど自分の見解でもあるという
フェーズを帯びることになるのですね。
29 :
考える名無しさん:02/08/08 04:59
>>1 やれやれ
この世界にまったく同じモノは存在しないだろ?
30 :
考える名無しさん:02/08/08 05:16
私的見解とウケウリは別物。
すいません。質問があります。
スレの内容とズレたことなんですが
食べるために生きることと生きるために食べる。
自分は後者だと思うのですがそう言える自信がありません。
自分が前者なのか後者なのか分かる、
良い判断法があれば教えてください。お願いします。
32 :
考える名無しさん:02/08/08 05:42
生きているから食べるという行為ができる
生きていくには力が必要になる
人間の力は食べ物から得ることが出来る
33 :
考える名無しさん:02/08/08 05:45
私的見解も受け売りも大して違わないのじゃないか?と悩んでいるから
>>1がスレッドを立てたのだろうに・・
>>30
34 :
考える名無しさん:02/08/08 05:55
35 :
考える名無しさん:02/08/08 05:58
32さん回答ありがとうございました。
正解とかはありません
考え方の持ちようといいますか・・
いや、私がいいたいのは”AはBのため”が真ならば
”BはAのため””AはCのため”は偽なのかということです。
一つに絞らなければならない問題では無いということです。
38 :
考える名無しさん:02/08/08 06:44
考え方の持ちようですか。。。 ウーム。。。
36の返答では納得いかなかったんです。スマソ
スレ違いsage
40 :
考える名無しさん:02/08/08 08:15
おまんじゅうがあったとして
「おいしそう」という >1さんの「私的見解」と、
「おいしそう」という俺の「私的見解」が、
例えば同じであることが確認されたとして、
ここでわかることは
>1さんと俺が「私的見解」をともにしたということであって
「私的見解」が存在しないということにはならないと思うのだが
それとも「おいしそう」という最初の俺の「私的見解」は
「前・私的見解」にでもなるというのか・・・
おはよう。
例え話から入ってるのに・・
「両者の私的見解が同じ」だという確認は不可能なのだから、そこで完結したらいけないでしょう(藁
>>40 とにかく、本を読み込むしか「答えにより近い見解」を見出すことは出来なさそうですね。
42 :
考える名無しさん:02/08/08 08:33
では、「好み」はどう?テレビや新聞や、色々なものに影響されながら
「私」はできていくけど、「私」は「私」で情報を取捨選択していくよ。
情報と選択があまりにもたくさんあって、誰一人同じ「私」は
存在しない。それが私的見解。我々はロボットのように単純な構造を
持たない。私的見解は存在する。もっと、深く追求しようと思うと
「好み」の哲学をしなくてはならない様だ。
「イデオロギー」や「パラダイム」を意識しないことはありえないと思うんです。
パラダイムは意識できるとかそういうものじゃないけれど・・
まだ問題を広げるには早い気がしますが
>>42
やはり、「選択意思」こそが「自分の見解」ということになる様に感じてきました。
もう、本を読みます。自分はもうここに現れないものと思ってください。
アリガトウ
45 :
考える名無しさん:02/08/08 10:13
選択?ちがうな
「見解」以前に、自分自身が他者から独立しては存在しえない。「私的見解」の「私」とは
そもそも何なのか? 「私」自身についての「見解」、つまり自意識なくして、「私」の
存在は認識されえない。「私」は存在しえない。
「私」について、私のアイデンティティについて、自分が持ってる「見解」を省察してみるといい。
私とはいったい何者なのか? X才。X県出身。X校を卒業。運動が得意。その殆どが、同じ社会に
住む他者との関係において定義されるものであり、他者の「私」についての見解に基づいている
ことが明白だと思われる。
もし純粋に「私的」な見解があるとするなら、それは生まれてこの方、他人と全く接触しない
人生を送った人間が持つようなものになるだろう。例えば、人間も動物である以上、本能に
由来する生得観念がある。腹が減れば食べ物を食べ、尿意を催せば排泄し、疲れて眠くなれば
眠る。1人で自然界に生きていくことが可能なら、そうした事柄に関して極私的な見解を持てる
かも知れない。リンゴが「美味しそう」という見解を持つのに、他人は要さない。
しかし、それにしたって自然界にその人が在って、自然界に存在する様々な動植物や無機物と
関わり合って初めて可能なことである。神様でもない限り、人間は自給自足して存在はしえない。
本能もまた、進化の課程において自然を生き延びるために備わったもの。結局、「見解」を持つには
人ではなくとも何らかの「他者」の存在を要することには変わりはない。「見解」という概念
自体からして常に「…についての見解」という形を取る以上、自分以外の存在を必然的に想定する。
47 :
考える名無しさん:02/08/08 12:02
>実際、個としての「自分自身」というものは存在すると思います。それは自分の「身体」だと思います。
(↑これは自分で思っていることです。このことには突っ込まないで下さい)
>>1さんが忠告したのもかかわらず、存在について突っ込みやがったよ。
1さんにとって個としての自分の存在とは「肉体」なんだよ。そう割り切っているのに根本的な「存在」について
語りだしたら余計に悩ますだけじゃないかい?
1さんは結局、「言語的な唯一の自己の見解が存在するのか?」と問いたいのだと思う。つーか、
上から読む限りそうとしか感じられない。
「見解」と独立して、自給自足的に存在する「自分自身」を想定している時点からして
おかしい、つまり、そういった_問いの立て方からして誤り_である、あるいは、
そういうもっと根本的なレベルから問い始めるべきだ、という話。そうでなければ
根本的な問題の解決には至らない。
「見解」はそれを所持する主体(「自分自身」)の存在を前提とする。逆に、主体の
「存在」もまた、「それが在る」という「見解(認識)」に他ならない。故に「自分自身」の
存在も、「自分自身」の持つ見解(/認識)も、同じ一つの問題、いわゆる存在論の問題に
収斂することになる。(1)「見解/(客体)」と、(2)それを所持するところの「自分
自身(/主体)」という、1氏の疑問が前提とするこの二元論の図式が消滅するなら、
疑問自体が消滅してしまう、ということ。
1氏は「しっかり実用性のある『特許』を申請できそうな商品」についての話が、この問が
生まれたきっかけだと言っている。ある自分が作り出したモノ(見解)に対して、正当な
「所有権」を主張することができるかどうか? 「正当な所有権」を主張するには、それが
他人の助けを借りずに、完全に自分1人で作ったものでなければならない。しかし、そんな
ことは可能なのか?というのがこのスレで提起された問い。
この問いは、所有権を主張するところの個人、「自分自身」という主体の揺るぎない存在を
前提とする。しかし、この個人主義からして疑ってかかるべき代物ではないのか、ということ。
ある所有権の主張が正当かどうかという問いは、そもそも所有権という概念からして間違った
ものであると却下されれば、消えてしまう。問が問でなくなってしまう。そのような問いが
生まれたのは、より根元的な存在論レベルでの誤解に起因している、と言えることになる。
所有権の問題は、政治理論の話になる。政治理論は全て自我論を前提としている。ロールズら
のリベラリズムと、C・テイラー、キムリカらの共同体主義の論争も、この自我論を巡って
展開された。それと同じということ。
50 :
考える名無しさん:02/08/08 14:26
「私的見解が存在しない」ということの意味は、「知識がなければ話ができない」ということと同じ意味であるように思う。
すると、あることに対して何か新しい表現、例えば言葉でそれを表すとき、それは私的見解となり得ないだろうか。
全く意味は通じないかもしれませんが。そもそも、私的見解というものが全く存在しないと仮定すると、それでは現に目の前にある様々な見解はどこから生まれたのでしょうか。
意味不明なうめき(別に何でもよいのですが)とかそんなものだったのかしら。
あまり考えず思いつきで書きました。(←卑怯な態度ですね)
51 :
考える名無しさん:02/08/08 14:57
しかし、他者の知的見解は経験や知識で多少は理解でき、同じ感覚に近づく事は可能という事ですよね。そこに哲学の意味があるのではと思いますが
>そこに哲学の意味があるのではと思いますが
無いと思います。
完璧なオリジナルなんて見たことがない。
アイデンティティは周囲によって磨かれている、常に。
どこへ行っても自由なんてない。
人は人にしか磨かれない・・わけじゃない。
56 :
考える名無しさん:02/08/08 19:45
デリダやウィットゲンシュタインを読んだことある人、登場キボンヌ!!
57 :
考える名無しさん:02/08/08 19:48
>>50 同意。だから本当に「昔の人」って凄いよね。
でも今は「真新しいもの」なんて無いじゃない?全てが飽和状態にあるような・・
すべて形式化されてしまったような・・・虚しいね。
58 :
考える名無しさん:02/08/08 19:58
形式化が問題ではない、その中が 飽和状態 ってことね
59 :
考える名無しさん:02/08/08 20:37
>>50の2行目まででOK。
真新しいものがないと思う人は、自分が見たもんと自分より過去にあるものとを
ごっちゃにしてますな。自分の生きている時代より過去のものが
「真新しい」ことはよくあります。
例えばここを見ている人は、旧い哲学書の「真新しさ」も
クラシック音楽の「真新しさ」も知らん人が多いでしょ。
逆に男性が、女性誌に書かれてある情報を知らなければ、その情報は「真新しい」。
自分が持っている興味の範囲の中にあることが、よく知られてしまったから
「真新しさ」を感じなくなっているんだな。
あと、当たり前だと思っている事柄の根拠をずーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっと
掘り下げていってみよう。これも「真新しい」。
60 :
考える名無しさん:02/08/08 20:39
それと「私的見解」は、過去の見解のうちのどれをとるかの組み合わせに
よっても変わるから「私的見解」がないなんてことはありえないよ。
61 :
考える名無しさん:
なんでや?