今日俺の妹が友達と愛について語っていた。
妹の友達は「愛なんて鬱陶しい。邪魔」と言い
妹は「愛が無いと私は生きていけないよ」と言っていたらしい。
この二人が語る「愛」って音声や文字としては一緒なんだけど
二人が持ってる意味付け的には全く乖離している。
哲学で語られている「よき生」とか「死」とかも音声は一緒なんだけど
個々人によって意味が違うものについて議論しているように見える時が
あるのですけど、それには「お互いの意見は違うね」って気付く以外
どんな意味があるのでしょうか?
良スレの予感
難易度がますと、対話が一方通行してしまうことは、
良くある話じゃよ。
ぐふ、ごほごほごほごほ。
ちなみに俺はこのことについて語ってる哲学者は誰なのか知りたい。
「愛」と言う音声に対する俺の感想
もう少し俺流の言い方をすると
ある「条件」に対して俺もしくは他の人たちは
「愛」という「名前」をつけて
人によって個個別別の条件を語っているようにいるように思うんだが。
これは現象学で言う現象学的真実ってモノなの?
ちなみにこの傾向(音声に対して個人が経験的に形成してきた意味)は
@それを指すものが抽象的であればあるほど
A言葉を規定する文脈があいまいであればあいまいであるほど
突出してくるように思います。
5 :
部屋とワイシャツとあやや:02/07/21 00:17
言葉の意味とは一義的な規定を受けているのではなく、個々の実存がそれぞれの歴史の中で培って来たコノテーションや対話の文脈においても変化する可変的なものなんだ。だから話を噛み合わせる為には共通の土台を意識的に確認しあう必要がある。
上のような齟齬が生じるのは言葉が公共的な記号でありながら、それだけに留まらず実存の内的な経験の刻印をも許す生きたシステムだからなんだ。
やあ
8 :
考える名無しさん:02/08/01 00:13
愛に語り合うことって、ほんとは必要ないのかな
なんて思う。
原始人は愛なんて語り合わなかったでしょ。
アメリカも建国間もない頃、外人同士、言葉も通じないのに
結婚したりしたみたい。そういうこと。
9 :
考える名無しさん:
>>8 語り合う事で生まれる愛があれば、
語り合わなくても生まれる愛があるってことじゃないか?