1 :
考える名無しさん:
現在の自由主義の基盤を成す功利主義、これについて語りませんか。
んじゃちょっと電波発信
功利主義の原則「最大多数の最大幸福の追求」は
「最大多数の最大不幸の回避」として捉え直した方がいいのではないかと思う
3 :
考える名無しさん:02/06/15 14:00
>>2 そうですね。社会心理学によると、利己的な行動はとられるとは限らないが
損害を避ける行動はかなりの確率でとられるらしいですからね。
4 :
考える名無しさん:02/06/15 14:05
5 :
考える名無しさん:02/06/15 14:25
功利主義の原則「最大多数の最大幸福の追求」
を初めて言ったのは、ハチスンだったと思いますよ。
6 :
考える名無しさん:02/06/15 15:37
ベ、なんとかだろ
夏の おやつは、なんてったって、かき氷。
氷 主義 ! ツマラナイネ
氷 好き(しゅき) !!
9 :
考える名無しさん:02/06/16 15:37
功利主義の世界では、誰が公務員や政治家になるんでしょうね。
10 :
弁証法的理性批判放棄&rlo; ◆k7C9xZJk :02/06/16 15:42
最大多数の最大幸福ってベンサムの主張じゃないの?
ミルは質的功利主義だったはずでは…
11 :
考える名無しさん:02/06/16 17:28
ベンサムって人気ないよね
福留功が「ふくとめのりお」だから、功利主義って「のりとししゅぎ」?
13 :
考える名無しさん:02/06/16 20:12
14 :
考える名無しさん:02/06/17 07:00
功利主義についてかたるならやっぱりヘアかなあ。
二層理論について誰か説明おながいします。
15 :
考える名無しさん:02/06/17 13:07
>9
功利主義者がなるんじゃないの?そのような社会を実現する為に。
大型店舗 進出 反対 !! 小売 主義
17 :
考える名無しさん:02/06/17 23:55
>>15 公務員、政治家など政治にかかわる分野は政治学の範疇だから
公務員や政治家が功利主義者かどうかという問いはあまり意味がないと思われ。
国家や政治がどうあるべきかという問いは政治学の仕事。
倫理学はあくまで個人の行為に関わる学であって
功利主義は個人の行為決定の体系の数ある中のひとつに過ぎない。
18 :
考える名無しさん:02/06/18 06:00
功利主義は自然主義的誤謬を犯しているとされてるけど。
どう?
唇の荒れにメンターム
手荒れにはオロナイン H 軟膏
21 :
考える名無しさん:02/06/18 08:32
>>18 自然主義的誤謬をおかすと何でまずいのかわからんのだが・・・
勉強不足でスマソ。
快楽説型の功利主義で言えば快と善を同一視するのがまずいってはなしだよね。
有名な現役の功利主義哲学者って、いないのかな。
23 :
考える名無しさん:02/07/17 01:54
>>18 「最大多数の最大幸福」の「幸福」が功利主義者の目指す究極目的なわけだが、
その幸福を「これこれこういうもの」(例えば
>>21の言うように快など)といった自然的な記述として定義しようとするなら、
それはやはり自然主義的誤謬を犯していることになろう。
けれども、幸福を例えば選好のようなものとしてとらえるならば、
自然主義的誤謬の誹りを逃れられるのではないかと思う。
>23
選好の定義によるね。
25 :
考える名無しさん:02/07/17 04:32
功利主義的な考え方っていうのは
今はアメリカのプラグマティズムとかが受け継いでないのかな?
いや、まったく知らないで憶測で言ってるんだけどさ。
ただ、アメリカの心理学とかで、
マズローの欲求五段解説とかでは、
人間の欲求にレベル分けがされていて、
低次の欲求は例えば食欲とか金銭欲とか、楽したいとかで、
高次なものは例えば社会的に認められたい欲求とか
自己実現の欲求とかになっている。
この理論によると、
高次の欲求は低次の欲求が満たされていなければ発生せず、
また、低次の欲求がいくら満たされても、
より高次の欲求の存在が存在しなければ
ある程度以上の満足を得ることはできないとされている。
そこでさっきの自然主義的誤謬というのを、
この理論において低次の欲求として考えるなら、
高次の欲求というのも功利主義に含ませることで
その誤謬を回避できるとは思う。
>25
高次だろうが、低次だろうが、心理学的な欲求というのは
「欲している 求めている」という事実に過ぎないだろう。
だとしたら、事実命題のみから価値(規範)命題を導いている
ことには変わりない気がする。
すまん。
このまえ書いたときの意気込みがない。
究極的には心理的欲求に帰着してしまうということ=自然主義的誤謬、なの?
それが=事実命題から価値命題を導いていることになるのか?
自然主義的誤謬っていうのを広義にとりすぎてないか?
26氏の言ってるのは別の誤謬のような気がする。
いまどき功利主義なんていっているのは馬鹿だな。
そうですか。ヒューム氏
30 :
考える名無しさん:02/07/26 03:01
>>28 ヒューム先生の道徳理論は世間では功利主義と呼ばれているようですが、、、?
>>27 >>26はヒューム先生もおっしゃった「「である」から「べき」は導けない」というやつですな。
>>33 ルール功利主義だな。しかしルール功利主義は行為功利主義ほど
胡散くないし評判も悪くはねぇ。普通功利主義という場合、
アクト・ユーティリタリアニズムをいうんじゃねーか?
is → ought to
一般理解はそうだが、ヒュームの全体的な道徳理論を
跡付けてみると、この事が確かにいえるのかどうかは論争だな
is → ought to が言えないと本気でヒュームが考えていたかは不明。
ま、言っていることと、理論全体から出てくる命題は、異なって当然だからな。
嘔吐 U
34 :
考える名無しさん:02/07/27 02:15
>>32 「できないことをすべきとはいえない」という言葉もありますがこれもヒューム先生ですか?
「人々は現に自らの幸福を欲求している」という心理的な事実から
「最大多数の最大幸福を目指すべき」という倫理学的な主張を導き出すのは
ベンサムもミルもやってるみたいですね。
この辺うまく解決した功利主義者はいないのでしょうか?
最近ではパーフィットやシンガーなんかは功利主義っぽいらしいですが、、、。
35 :
考える名無しさん:02/07/27 11:34
>>23 最大多数の最大の選好結果に正・不正を決定する権限を与えるとするなら、
多数決と変わらないんじゃないか?
また、その選好結果を調査結果として受け取るのなら、
選好結果は事実命題になる。
36 :
考える名無しさん:02/07/27 14:05
>>35 「選好の充足」を幸福と定義するとすると、
最大多数の最大幸福は「最も多くの人々の選考の充足」となる。
これを目指すことは必ずしも多数決を採用することを含意しない。
(以下例)
大多数の人が臓器移植は気味がわるいと考えている社会を想定する。
多数決をとれば当然国会で臓器移植法が成立するようなことはない。
しかし、少数のある種の病気の人はどんな手段によっても長生きしたいと考えている。
この病気は今のところ臓器移植によってしか長生きできるみちはない。このとき、
「やりたい人は臓器移植してもいいよ。したくない人はせんでもいいよ」という法律を導入すると、
大多数の人:臓器移植は君が悪いのでかかわりたくないくないという選好は充足する
少数の人:長生きしたいという選好が充足される
→みんなハッピー
「最大多数の最大幸福」になることをするのは正しいので、
以上の例は多数決に拠らなくても正しい。
37 :
考える名無しさん:02/07/27 20:02
>>36 いいですね
何て言いましたっけ?その例
最大多数の最大幸福が破滅を招くという説
>>37 この例名前ついてるんだ。。。。
破滅を招いてんの?
39 :
考える名無しさん:02/07/27 21:20
え、とね
ある国家があってその国家は最大多数の最大幸福を求める
で、それはまず寿命の長さであると仮定する
で、その国家は未来のもので全ての病気は治療することができると仮定する
で、その国家の住人の寿命は病気では死なないから臓器の摩耗による死亡しかない
で、寿命を延ばす為には臓器移植しかない
で、臓器移植が必要ならばすぐ臓器移植を実施される
で、臓器移植をする際の臓器はくじ引きで決められる
これが仮定だったかな
この結果が破滅するという結論を得ないと、最大多数の最大幸福を批判できる
みたいな
うろおぼえスマン
40 :
考える名無しさん:02/07/28 14:51
なぞなぞの答えおしえて。
>>34 シンガーは功利主義者ですね。
著作でも義務論を批判し、帰結主義マンセーしてます。
パーフィットの本は読んだ事はないのですが、シンガーと交流があるようなので、おそらく功利主義者でしょう。
42 :
考える名無しさん:02/07/29 10:07
シンガー功利主義者だったん?
だから動物も人間のように扱えと言っているのか・・
43 :
考える名無しさん:02/07/29 12:12
>39
サバイバルロッタリーっていうんじゃ無かったっけ、それ?
応用倫理学のテキストで読んだ記憶がある。
44 :
考える名無しさん:02/07/30 01:04
45 :
考える名無しさん:02/08/02 19:45
>>42 なんで一行目と二行目が「だから」でつながるの?
46 :
考える名無しさん:02/08/06 03:56
>>42、
>>45 シンガーの中では「ある種の動物も人格として扱う」という考えのが先立っていて
それに沿ってうまくいく道徳理論が帰結主義(功利主義)なんじゃないのか?
>>39 >ある国家があってその国家は最大多数の最大幸福を求める
>で、それはまず寿命の長さであると仮定する
ここがあやしいんだよな。
幸福計算をほんとにやってるのか?幸福計算はほんとにこれでいいのか?
という問題が残ると思う。
「全体の幸福のために個人の幸福を犠牲にするのか」
という問いは功利主義にとって本質的な反論だとは思うのだが、
実際、功利主義がその効果を発揮する(よう期待されている)のは、
全員が功利主義者であるような社会の構想を練るような局面ではなく、
>>36のような、違う考え方もつ人々の間での利害の調停をする時ではないか?
47 :
movie ◆cE1UBsKI :02/08/06 04:21
功利主義って複雑になりすぎて使い物にならんのでは?
48 :
考える名無しさん:02/08/06 04:27
『かってに仮定すな』と言いたいことが多いのはナゼ?
49 :
考える名無しさん:02/08/06 04:32
義務論の方が複雑な気がするがのう。
>>49 義務論はもともと複雑。功利主義はシンプルなのが
売りだったから、複雑になりすぎるとアピールもあせる。
51 :
考える名無しさん:02/08/06 17:54
>>50 どのあたりが複雑になりすぎているのでしょうか?
ぱっと思いつく限りで。
まずは「幸福量の計算」ですが、
個人の中での幸福の比較
他人との幸福の比較
など「それが実際に出来るのか」という問いも含めてやっかいなところは確かにあります。
あとは幸福の捉え方ですかねえ。
量、質、選好と功利主義のバリエーションが出てくると
誰がどの立場にあるのかという複雑さは出てきますね。
ほかにもあったらあげて下さい。
52 :
考える名無しさん:02/08/06 20:36
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54 :
考える名無しさん:02/08/07 09:12
>>51 幸福論のパラドックスというのもある。
幸福はそれを目指して得るよりも、意識してない時の方がより多くの幸福が得られるってやつ。
これをやる方があれをやるより幸せって考えて行動しないもんな。ふつうは。
55 :
考える名無しさん:02/08/11 06:32
功利主義のスレっていつも伸びないな・・・
56 :
考える名無しさん:02/08/11 07:32
57 :
考える名無しさん:02/08/11 08:36
とはいえ主題的に扱われているわけではないみたいですね。
倫理学説自体を考えようとする時は、具体的な問題設定をして、そこからその学説の批判をするほうがよいってことなのかな?
功利主義は現在的な倫理学上の問題を考えるにはよいツールだと思うんだけどなあ。
俺としては見易い2chで盛り上がってほしいんだが、、、。
58 :
考える名無しさん:02/08/11 09:58
>>57 こっちに人読んでくるとか?
ヘア読み込んでる人とかいるようだし。
それはいいかもしれない。ヘアの議論には興味があります。
こないな、、、。しっぱいかあ。漏れも去ろうかなあ。
あげちゃった。
62 :
考える名無しさん:02/08/13 09:39
とりあえず、ベンサム、ミル、シグウィック以降の、功利論を巡る
議論を誰か簡潔に纏めてみてくらさい。
63 :
考える名無しさん:02/08/13 09:58
シジウィック!マイナーどころを、、、。
ベンサムが「最大多数の最大幸福」を前面に押し出した倫理学説を提出する。
幸福は快で、それを個人の中で、個人間で比較考量して行為の善し悪しを決める。
ミルが発展させる。ベンサムが幸福=快はあくまで計算可能なもの、
つまり量として考えてたのに対し、ミルは質の概念を持ち出した。
「太った豚より痩せたソクラテス」ってやつ?
けれども、質の概念は幸福の計算可能性を危うくする→最大幸福があやふやになる。
具体的には、オナーニいっぱいするの(快:大、質:低)と
よく理解できないのだがクラシック聞く(快:小、質:高)のとで、
どっちがより幸福なのか分かりにくくなった。
それじゃまずいので、選好充足を幸福にしよう、という動き。ヘアとか?
やりたいことをやるのが幸せってことかな?
シジウィックは名前しか知らん。ここまであってるんだろか
64 :
考える名無しさん:02/08/13 10:08
功利主義の歴史はヘアに至るまで義務論との対立だった。
義務論の道徳体系は、結局のところ功利主義で説明できるんだよ
ってのが主な目的。
画期的なところは、義務論が既存の道徳体系から前例を引っ張ってきて
アナロジーで新しい倫理的問題に取り組まねばならぬのに対し、
功利主義は功利原理一本であらたな行為規範を作り出せたところにある。
極めつけは、ヘアの二層理論で
普段は義務論的な規則で考えて、
困った時は功利原理で考えましょう
ってとこで、だいたい解決してんじゃないか?
義務論との決定的な差異は、帰結主義か否かという違いだけで
実際に指令する行為に関しては二つの立場にたいした相違がなくなってしまった。
というわけで、応用するには便利だから
現代の倫理学者には帰結主義(功利主義)の立場に人が多い。
って感じでよろしいでしょうか。間違いがあったらガンガンたたいてください。
65 :
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66 :
考える名無しさん:02/08/13 11:10
>>65 「ヘア」の文字を見て出てきたのか?
もしかしてロボット?
67 :
考える名無しさん:02/08/13 11:13
68 :
考える名無しさん:02/08/14 08:45
ヘアの読書会でもやるかね。
行為功利主義
規則功利主義
選好功利主義
なんかいっぱい種類があって、混乱しちゃう。
71 :
考える名無しさん:02/08/18 11:58
それでも、さみしい功利主義(w
かわいそうだからageてみる。
72 :
考える名無しさん:02/08/18 12:00
ベンタム・・・かわいい
なんで ベンタム って言う人がいるんだろう?
英語では 正確にはベンタム と発音するのだろうか?
74 :
考える名無しさん:02/09/06 04:15
θの発音だよな。
thingをふだんどう発音してるかがかぎになると思われ。
ちなみにおれはSィ
thingは「スィング」より「チング」だなあ。Benthamは「ベンサム」だと思うが。
まあいずれでも日本語表記は正確じゃないんだろうが。
「that」は「ザット」、「this」は「ジス」。
でも黒人英語では「that」→「dat」=「ダット」だったりするようだ。
ベンタム=べンタムたん=ミイラ萌え=功利アップ
ベンサム=萎え=功利ダウン
イギリス人は、ベンサムと発音する。
ただ、語源からは、ベンタム(Bent-Ham
、ベント村)と発音すべきだという研究者
もいる。
フラム、フルハムの対立に似ている。
78 :
考える名無しさん:02/09/24 13:04
功利主義って自分さえよければいいってことでしょ?
簡単じゃん。
79 :
考える名無しさん:02/09/24 13:23
自分のことだけ考えていてもうまくいかないんだよ。
一人で生きてるわけじゃ無いからね。
80 :
考える名無しさん:02/09/24 13:39
>>79 自分によければ他人を利することもする、ってのも功利主義には当然含まれるんでしょ?
功利主義の人って親から学んだんでしょうか?
家庭外では教えないでしょ
83 :
考える名無しさん:02/09/26 12:11
「こうり主義」と「りこ主義」の区別もついてない香具師らがいるな。
それでもゆるそうぜ
85 :
考える名無しさん:02/09/26 14:15
誰か功利主義から将来の厚福祉社会をかたってください。
86 :
考える名無しさん:02/09/26 15:48
功利的な利己的でない社会とはどのようなものですか?
>>86 功利主義と利己主義の違いを考えてみればわかるんじゃない?
88 :
考える名無しさん:02/09/26 16:56
>87
考えても考えてもわかりません。わかるなら教えて下さい。
GNP(幸福を金で測るのが嫌なら「GNH=国民総幸福」とでも呼んどいて)を
最大にするために自分の幸福を特別視せずに貢献する人達からなる社会
・・・てなところかねえ
功利主義と利己主義の違いはほんとにわかってる?
「社会」にあてはめる前にまずそこから確認してみそ
90 :
考える名無しさん:02/09/26 17:48
冷たい功利主義
功利主義:みんながよければそれでいい。
利己主義:自分さえよければそれでいい。
こんなもん?
まあまあそんなもん
功利主義の「みんな」は「他人全員」って意味じゃなくて
自分も含めた「みんな」なわけだけど
それでも自分はあくまで他の人1人と同じ扱われ方をする
93 :
考える名無しさん:02/09/26 18:04
>89
それは社会主義の欠点を取ったようなものですか?
そんな国ありますか?
94 :
考える名無しさん:02/09/26 18:12
私の理想はそれなんだけど馬鹿って言われる。
人は何故ひがんだり妬んだり比較したり
人の幸せを同じように喜べないのですか?
それが私にはちっともわかりません。
>>93 >>89は説明のためのモデルのつもりだったので、実際にそういう社会があるか
という視点では考えてなかった、すまん
現実には完全な功利主義者も完全な利己主義者もそうそう存在しないので、
政府の政策のレベルで考えたほうが現実にはあうかな
例えば金持ち10人から税金とってそれを貧しい人100人に分配すれば
各金持ちにマイナス10ずつの幸福、各貧しい人にプラス5ずつの幸福、としよう、
・・・するとこの分配政策で総計プラス400のGNH増加がある
このように富の再配分政策はおおよそ功利主義に沿っている(功利主義が唯一の
正当化原理だとはいわんが)
資本主義の自由競争のまま政府が何もせずにほったらかしているよりも
政府が少し介入したほうが幸福の総量が大きくなるという判断だ、といえなくもない
・・・ただし、貧乏人から金をとって金持ちに与える政策まで場合によっては
功利主義的に正当化されうるので、幸福の総量だけじゃなくて
正しい配分の仕方とは何かという原理を考えなくてはならない、と論じる人達もいる
書きすぎたしむちゃくちゃだ
落ちる
97 :
考える名無しさん:02/10/13 07:19
>>91-92 ただし、功利主義は自分自身の幸福も「全体の幸福」の重要な部分とみなす。
全体の幸福を損なわない限り、自分自身の幸福を特に増進する行為は功利主義的に見てもおすすめされる。
98 :
考える名無しさん:02/10/13 07:53
おすすめされる。
99 :
考える名無しさん:02/10/13 08:12
>>91 >利己主義:自分さえよければそれでいい。
どっちかつーと長い目で見て自分のためにならないことはしないって感じじゃないかな。
捕まるのは苦痛だから悪いことはしない、とか
あとで借金できなくなるかもしらんからウソはつかない、とか
病気はつらいのでゴムはつける、とか
デブといわれるのは不幸だから甘いものは控える、とか
積極的には、賢いと称えられるのは快感なので勉強しようとか。
「自分さえよければ」だと、ケーキを切り分ける時とか自分の分だけ大きく切ってそうに聞こえるけど、そういうやつと見なされるのは将来的にも不利だろうし、文句も言われるだろうので利己主義者は等分するか場合によっては自分の分を小さく切るんじゃないかな。
100 :
考える名無しさん:02/10/13 08:21
>>86 全員が根っからの功利主義者な社会を想定するのと、
全員が功利主義者として行為することを求められている社会を想定するのとでちょっと違ってくると思う。
「おまえが死んだらこれだけ社会がよくなるぞ。社会の幸福のために死ね」と根拠つきで言われたら、
前者の社会ではみんな喜んで死ぬだろうが、後者の社会では死ぬにしても抵抗感がかなりあると思う。
102 :
考える名無しさん:02/10/13 10:27
⇒
103 :
考える名無しさん:02/10/13 11:30
このスレまだ生きてたのか、、、、
104 :
考える名無しさん:02/10/13 11:33
6月21日より、立ってパなし。
105 :
考える名無しさん:02/10/16 19:50
>>95 >貧乏人から金をとって金持ちに与える政策まで場合によっては
>功利主義的に正当化されうる
でもそういうルールが功利主義的に定められるんだろうか?
自分の幸福よりも全体の幸福を考えるのが功利主義者だとすると、
「貧乏人を更に貧乏にする」ってのは功利主義者の精神にそぐわなくない?
加えて、政策っていう社会的なルールは社会の成員に認められなければならないわけで、
「あなた方が貧乏になることで社会全体が幸せになります」ってのが社会的なルールとして認められるとは思えないんだが。
この時点で「何らかの公正な配分のルール」を前提してると言われそうだけど、、、。
論理的には考えられるケースだと思うが具体的にどんな政策がそういうふうになるんだろう。
106 :
考える名無しさん:02/10/16 20:01
>>105自己レス
「加えて」以下は的外れだったな。
功利主義者なんだから自分の事はまずおいとくだろうな。
ある個人(金持ち)の幸福を増大させることで
別のある個人(貧乏人)をにするような政策を功利主義者が認めるのかなあ?
どの個人の幸福もおなじようにあつかうんでしょ?
「お金がいまより多めにあること=いまよりも幸福」であるような社会なら認めがたいと思うが。
107 :
考える名無しさん:02/10/16 20:38
>>106また自己レス
「どの個人の幸福もおなじようにあつかう」ってのが功利原理から導かれないってことか?
混乱してきた。長文ごめんなさい。
108 :
考える名無しさん:02/10/18 23:50
あふぇ
>>105-106 功利原理が「どの個人の幸福もおなじようにあつかう」というのは、
「Aさんの9点の幸福とBさんの3点の幸福を同じに扱う」という意味じゃない。
Aの幸福の1点はBの1点と等価値な1点であって
それが誰の幸福であるかは功利主義にとって重要でない、という意味。
重要なのは幸福の総量だけ。AとBの幸福が合計12点なら
それがA9点・B3点だろうとA6点・B6点だろうと違いがない、
むしろ合計12点のA9点・B3点のほうが合計10点のA5点・B5点よりもよい。
110 :
考える名無しさん:02/10/31 15:21
せっかく書いたんだからageればいいじゃん。
>>106 その問題は功利主義が批判にさらされる時の最も典型的な議論の一つですな。
他にも「効用」の計算を実際にはどうやるのか、というのとか
「誰が」効用計算をやるのか、というあたりが批判にさらされやすい。
age
113 :
考える名無しさん:02/11/11 16:28
大手都銀も舌をまくRCCの回収の凄まじさ
RCCの回収の凄まじさは、大手銀行も舌をまく程である。大手銀行の行員は、RCCが高率の回収成績を上げているのが悔しいのか、
「うちは、不動産を競売にかけはするけれど、売り掛け債権には手をのばさない。売り掛け債権まで差し押さえしてしまったならば、
中小企業はつぶれてしまうからだ。しかし、RCCは、そんなことはおかまいなしに、売り掛け債権まで差し押さえをする。
これぐらいやらないとことはできないのだ」と自分たちの方が、情があるから、回収率が悪いのだという話をしている。私たちから見れば、
どっちもどっちだと思うけれど。
私は、RCCの職員に、RCCの回収のやり方は、中坊社長の「血も涙もある回収」という方針とは大きく掛け離れているのではないかと指摘したことがある。
その時、職員がなんと言ったか。こう言ったのである。「中坊社長は、二枚舌を使っているのだ。血も涙もある回収などというきれいごとを言っていたら、回収なんかできない」と言うのだ。
正直といえば正直なのか。これがRCCの本音なのだろう。
鬼追現社長も、昨年12月衆議院財務金融委員会に参考人に呼ばれた際、RCCの回収の原則は、「契約の拘束性」と「個人の尊厳を脅かすような回収は行わない」ということだと明言した。
しかし、実際には、個人の尊厳を脅かすような回収は、日常茶飯なのだ。中小企業家の間では、「RCC送り」という言葉すら生まれているほどだ。RCC送りになれば、生きて帰れないという意味だ。
RCCは、銀行ではないから、融資はしない。RCCに送られたら、銀行のような分割返済というわけにはいかず、一括返済を迫られ、それができなければ、競売手続きに入る。当然、企業は潰される
114 :
考える名無しさん:02/11/18 03:38
まずはじめにどの本読めばいい?
清水書院のシリーズ人と思想「ベンサム」と「J.S.ミル」が良いかと。
少し、自由主義・功利主義マンセーに偏り気味かも知れないので、あくまでも
はじめの取っ掛かりということで。
最近だと、山形浩生氏が、功利主義者だと思われ。リバタリアンやアナルコキャ
ピタリストじゃないのかという意見も出そうだけど、基本は功利主義。
功利主義さいこー
高利主義さいこー!
sarakin shine...
119 :
考える名無しさん:02/12/13 02:15
公吏主義さいこー
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
Λ_Λ | 君さぁ こんなスレッド立てるから |
( ´∀`)< 厨房って言われちゃうんだよ |
( ΛΛ つ >―――――――――――――――――――‐<
( ゚Д゚) < おまえのことを必要としてる奴なんて |
/つつ | いないんだからさっさと回線切って首吊れ |
\____________________/
(-_-) ハヤクシンデネ… (-_-) ハヤクシンデネ… (-_-) ハヤクシンデネ…
(∩∩) (∩∩) (∩∩)
(-_-) ハヤクシンデネ… (-_-) ハヤクシンデネ… (-_-) ハヤクシンデネ…
(∩∩) (∩∩) (∩∩)
(-_-) ハヤクシンデネ… (-_-) ハヤクシンデネ… (-_-) ハヤクシンデネ…
(∩∩) (∩∩) (∩∩)
(^^)
功利主義 情けは人の 為ならず 名無家
123 :
考える名無しさん:03/01/11 19:57
>>62 シグウィック?シジウィックじゃない?
このまえ、その人関係の本買ったよ。
124 :
功利主義者:03/01/17 03:12
功利主義者です。なんでも質問どうぞ。
(^^)
126 :
考える名無しさん:03/01/22 00:24
>>124 自分が死んだら世の中の幸福が増すってわかったら自殺しますか?
127 :
功利主義者:03/01/27 20:43
>126
それが確実なら死にますが、現実にはそういうことは
あまりないと思います。私の感じる苦痛も計算に入れると。
128 :
考える名無しさん:03/01/29 23:24
>>124 功利主義者(貴方でなくて世間一般の)の「自己の幸福でなく一般的幸福を最大化すべし」
という主張に哲学的に合理的な根拠というものはあるのでしょうか?
「なぜそのように行為するのがよいのか?」という問いに功利主義者は答えられるのでしょうか?
129 :
功利主義者:03/01/30 20:31
>128
なぜ功利主義的に行為するのがよいのかというのと、
なぜそれが合理的なのか、というのは微妙に違う問いかも。
なぜそのように行為するのが良いのかといわれれば、功利主義者は
定義として最大多数の最大幸福を促進する行為を正しいとしていると
答えるしかない(また、少なからぬ人々が実際にそのように使っている、と)。
なぜそれが合理的なのかといわれれば、他人との協力を必要とする
社会においてもっとも他人からの同意を得られうるのは、自分の利益を
最大化する行為ではなく、自分と他人の利益を平等に最大化する行為
だと答える。
他に質問は?
130 :
考える名無しさん:03/01/30 20:33
せんせー 、むずかしくてわかんなーい。(なんて言われてみたい)
131 :
考える名無しさん:03/01/30 20:34
功利主義って英語で言うと何?マジ質問です。
132 :
考える名無しさん:03/01/30 20:40
uitilitariainism.
答えてやったぞ!
ありがとう!
Utilitarianismか。19世紀からのやつですね。
135 :
功利主義者:03/01/30 23:28
>134
形容詞形はutilitarian。功利主義者という意味でもある。
他に質問は?
136 :
考える名無しさん:03/01/31 00:25
>>129 最近図書館で見かけた古い倫理学史の本に書いてあったのですが、
シヂヰィクという人は、ベンサムやミルが功利主義に理論的な根拠を十分に与えていないとし、
経験的事実をもとにした心理的快楽主義を根拠とするミルを退け、
直覚によって得られた原理をもとに合理的行為の基準として功利主義を基礎付けたそうです。
もっとも、彼の理論では利己主義との対立が残されてしまうそうですが、
社会の同意などというものではなく、理論的に功利主義を確立した人として評価されているらしいです。
そもそも哲学者は本当に「定義である」なんてずさんな理由で満足するのでしょうか?
137 :
考える名無しさん:03/01/31 00:27
138 :
功利主義者:03/01/31 20:11
>136
するどいな、君は。しかし、「なぜ正しい行為がなされねばならないのか」
という問いに「直覚」と答えるのは「ずさんな」理由ではないのか?
つまるところその直覚は共有(合意)されないといけないわけだが、
功利主義も正邪についての定義が人々の間でもっとも共有(合意)
されやすく、同時に実践的なものだと信じているわけだ。
重要なのは合意されうる定義だということになる。
>137
同一人物じゃろ、当然。
139 :
考える名無しさん:03/01/31 20:40
功利主義者に質問。
一人の人を殺して、その人の臓器を他の5人に移植したら、その5人は、
確実に助かり、なおかつ、移植が行われなければ、その5人は、確実に
時を経ずして死ぬという場合、あなたは、最初の一人を殺すべきだと思いますか。
140 :
考える名無しさん:03/01/31 20:42
Act UtilitarianismとRule Utilitarianismのどっち派ですか?
141 :
功利主義者:03/02/01 02:10
>139
よくある問いじゃが、実際のところ、そのような制度(サバイバルロッタリーとか)
があると人々が不安で仕方ないので、実際はその一人を殺すべきでないこと
になる。
昔は「一人の金持ちから財産を奪って、そのお金を貧乏人に分配する
のが功利主義によって正当化される」という議論があったが、やはり所有権が
不安定になると世の中が不穏になるので、功利主義的には正当化されない
というのが古典功利主義者の考えじゃった。
>140
功利主義は法や道徳の規則にも個々の行為にも適用される。
上の答えからも予想されるように、行為の結果については可能な限り
の予測をしなければならんから、ActかRuleかという分け方は意味がないと
思うぞ。
他に質問は?
142 :
考える名無しさん:03/02/01 02:55
>138
横レスだが、シジウィックの言う直覚(漏れの読んだ本では直観になってた)は、
単に直観的に把握された真理ではなくて、理性による見当を経た真理のことだ。
この意味ではカントの先験的総合命題に近い。
経験的事実に依拠することのない、理性的存在者ならば誰でも認めるような真理の事だ。
>142
見当×→検討○
144 :
功利主義者:03/02/01 09:51
>142
うむ、ワシの勉強不足じゃった。
彼は直覚を理性的存在者なら誰でも認めるものとして
理解しているんじゃろう。そこから実践的な道徳理論を
作り出せれば、かなり強固なものができるとは思う。
しかし、彼が結論しているように功利主義と利己主義を
調停できないとすれば、どうもどこかで前提が間違っている
ということになるかもしれんし、最初の直覚の段階で
つまずいているのかもしれん。
ま、山にこもってすこし勉強してくるかの。
145 :
考える名無しさん:03/02/01 11:03
>>57はもうこの板にはいないのかな。せっかく功利主義者のお蔭で活気が出つつあるのに。
>>141 ヘアの二層理論なんかを見てみると、ふだんは常識的な規則に従っておいて
既存の規則ではうまくいかないときに功利原理に訴えるってやりかたらしいですが、
これは分類上は規則功利主義になるのでしょうか?
何げに新年に入ってから盛り上がりを見せているな。
>自分が死んだら世の中の幸福が増すってわかったら自殺しますか?
規範政治理論としての功利主義と、個人の道徳としての功利主義は別物。
147 :
考える名無しさん:03/02/01 11:13
>>146 別物とは認めてもどちらにも言える質問でしょ。
素直に功利原理に従うと、
政治的なレベルでいけば、
死んだら幸福が増すってほどの不幸を増やしてるやつは死なにゃあならん。
それに自分が当てはまるなら当然死ぬべし。
個人的なレベルでも、
自分が功利原理を行為の基準として考える限り、
自分が死ぬと一般的幸福が増すと分かれば当然死ぬべきなんでない?
そういう状況がどんなものかは具体的にはわからねえが。
148 :
考える名無しさん:03/02/01 11:21
なかなか面白いテーマで、基本的な質問を一つ。
「効用性」(utility)という言葉は「役に立つ」「実用性」といった
言葉と同義であり、何らかのモノ的存在の属性を表わす概念ですが、功利
主義者が個人あるいは社会の<幸福>をその手段に過ぎない<モノの効用>
に還元してきたのは、何故なのか?
たとえば、エピキュロスは快楽主義者だったかも知れないが、少なくとも
功利主義者ではなかったろう。
また、幸福自体は計量不可能であるから、その尺度として有用物(つまり
財あるいは資源)の量を持ち出してくるのは一見自然に見えるが、そこに
は、幸福を財(所有)に還元する市民(ブルジョア)社会のフェティッシュ
な思考が見え隠れする。
そう考えて行くと、最近の選好功利主義という立場も、幸福や自由の問題
を、その手段ないし条件であるモノ(資源)に対する選好の問題に還元し、
実質的に幸福や自由や生命を損得勘定に還元するブルジョア(資本家)
思想と言えるのではないか?(例:臓器移植とサバイバルロッタリ)
経済学では「価値は限界効用である」と言われるが、価値は効用の否定で
あり、道徳は快楽の否定、法律は道徳の否定、政治は法律の否定でしょう。
150 :
考える名無しさん:03/02/02 02:07
>エピキュロスは快楽主義者だったかも知れないが
快楽主義には2種類ある。
自己の快楽のみを追求する快楽主義と、
社会一般の快楽(これを幸福と呼ぶ)のみを追求する快楽主義。
前者は一般に利己主義と呼ばれ、アリストテレス、エピクロス、ホッブズあたりはこれ。
後者は一般に快楽主義型の功利主義と呼ばれる。ベンサムがこれ。
>幸福自体は計量不可能であるから
ベンサム以降、彼に乗っかってる快楽主義者は計量可能を主張する。
つーか、計算可能でなければ「最大幸福」を主張するのを止めないといけない。
ミルは計算不可能な徳を功利主義に持ち込んだので批判の対象となっている。
>尺度として有用物(つまり財あるいは資源)
「功利主義者」でこれを主張した人っているの?興味があるので教えてくれ。
功利主義者なら幸福自体の計算を問題にしないでは意味がない、と思うんだけど。
>選好功利主義という立場も、
選好の対象はモノ(資源)とは限らない。
>「効用性」(utility)
ヒュームが使った用語を単にベンサムが借りただけじゃないの?
>自分が死ぬと一般的幸福が増すと分かれば当然死ぬべきなんでない?
功利主義は別に全体主義ではない。
152 :
考える名無しさん:03/02/02 08:47
OFWってまだこんなところでヒマつぶしてるんだ。。
一生やってろよ、勘違い低脳
153 :
Kurihara:03/02/02 09:30
激しく同意。
154 :
考える名無しさん:03/02/02 11:00
>>151 全体主義が問題を孕むのは、
「その命令が本当に正しいのか」ということが実際には分からないから。
命令者が絶対に正しい(単にそう見なされているというのではなく実際に正しい)のであれば
全体主義社会ほど完璧な社会はない。
功利主義者も事実の認識の不確定さは差し引いて考えるので、
実際には「社会のために自殺する」事態には陥らないというだけ。
例えば全てを見通す神が命令するのならば、功利主義者は自殺しなければならない。
(ただしその啓示が本当に神の啓示なのかという神学的問題が生じるが)
155 :
考える名無しさん:03/02/02 11:14
>>154文章が分かり難かったので補足。
功利主義=全体主義といってるわけではないよ。
全体主義はどのような想定においてもよくない、という匂いを
>>151に感じたので、
ちょっと反発してみたのが前半。
後半は、個人の行為において、「自殺の有用性(功利主義的な意味での)」が、
もしホントのホンットウに確保されるのなら、功利主義者は喜んで自殺するだろう、ということ。
(功利原理をその純粋な意味で捉えると必然的にそうなる)
全体主義と功利主義のどちらも、
現実には無理な想定を置かないと原理の持つ純粋な理想を実現できないだけ。
前者はその理想の実現が不可能なために無条件に否定されがちであり、
後者も同様の理由のために無視されがちである、ということ。
>全体主義が問題を孕むのは…
貴方が、独自の「全体主義」的功利主義を創造するのは、貴方の「自由」です。しかし、
功利主義の基本的な原則だけを抜き出し、その他コンテキストを無視して奇天烈な形而上学を
でっちあげ、「これが功利主義でございます」などと言うのはあまりにも酷すぎる。1さんが
最初に書いたように「現在の自由主義の基盤を成す」功利主義を、「全体主義マンセー」だ
などと勝手に功利主義を標榜して宣言したら、普通の功利主義者は怒りますよ。『自由論』を
著して「Tyrrany of Majority」を鋭く批判したJ・S・ミルは一体何だったのか。全体主義者が
全体主義者を正当化するのに功利主義を濫用してミルが嬉しいはずがないでしょう。功利主義が
どういう時代背景に生まれ、どういう発展を辿ったかを知っていれば、そのような事は軽々しく
言えないはずです。功利主義の優れた点は、その理論のシンプルさにあります。しかし、その
シンプルさ故に、この理論は功利主義者たち自身が望まなかった様々な不条理で忌々しい帰結を
生み出し、それを辛辣に批判されてきました。「功利主義は全体主義に陥る危険がある」という
誹りもその一つ。こうした批判に答えていくことで功利主義は発展してきたのです。功利主義者の
多くが暗黙のうちに平等主義(egalitarianism)を前提としていることは、キムリカが指摘する
通り。そういった批判を無視して、「功利」という名の摩訶不思議な物質を増大しさえすればOK、
などというような電波カルトのごとき教条主義に堕したら、功利主義も終わりです。
157 :
考える名無しさん:03/02/02 14:48
>>156 おれは功利主義が全体主義だなどとはいってないし、またそうとも思っていない。
>>155で訂正を加えたが言葉が足りなかったようだ。
私が功利主義者ならば
自分が死ぬことが社会の幸福の増大になると、合理的客観的に「私が」確信できるのならば
功利主義の原理に従って私は死ぬ、と言っている。
功利原理がある「想定可能な」特定の状況において
一見全体主義「的」な行為を命じることはありうるが、
それは「私の行為」を私が私の為に考量する限り、全体主義ではない。
実際に普通の功利主義者がなす思考においては、
指令された行為への確信とがどれほど妥当であるかを経験的事実のみに基づいて見るので、
全体主義的行為を指令することは普通はありえない。
功利主義において「社会的幸福のための死」が絶対に導かれないということはないし、
導かれたとしてもそれが全体主義である、ということもない。
158 :
考える名無しさん:03/02/02 14:58
>>157に加えると、
功利主義は、実際に通用している道徳規則を無視することは出来ない。
社会への献身は善い事とされているが、狂信はそれ以上に否定されている。
現在多く見られる社会においての功利主義的な考量では、
社会的な幸福のための自殺は勧められないだろうな
ついでにおれはどっちかつーと功利主義マンセー派だといっておく。
功利主義だろうと何だろうと、教条的に信じていれば、端から見てどんなに愚かなことの為だろうと
人は死ぬ。そんな阿呆な事実は指摘するまでもありません。集団自殺するカルト信者は、天国に行け
ると「確信」するから集団自殺するのです。オウムはそれが世の為と思うから毒ガスを撒いたのです。
功利主義をそういう電波カルトと一緒にして一体何の意味があるんです? カントもミルも言った様
に、道徳「哲学」というのは、我々が持つ道徳的価値や判断を合理的に分析、省察し、あわよくばそ
の「基礎」「真理」を解明しようという試みです。自然の理を解明する自然科学と同じ事。常識的な
道徳的判断に真っ向から反する電波規範を脳内ででっち上げるようなのは道徳哲学ではなく宗教です。
功利主義で長らく問題になってきたのは、その理論上、全体の幸福増加の為には個人の権利が犠牲に
なっても良しとされうる、ということです。例えば、社会全体の功利さえ結果として増えるのなら、
無実の罪で人を罰することや、国民の一部を奴隷にしたりすることが、良しとされえてしまう。そう
いう事を論理的に許してしまうことが深刻な_欠陥_であり_問題_だと考えたからこそ、功利主義
者達は頭を悩ませ、そういった批判に対する弁護や、あるいは様々な修正を理論に施してきたのです。
それを「功利主義の原理に従って私は死ぬ」じゃ哲学もへったくれもありゃありません。本末転倒も
いいとこ。哲学者はカルト信者ではないのです。馬鹿にしているにも程があります。
モルモン教徒も自分達ではキリスト教徒だと思ってるよ。
162 :
考える名無しさん:03/02/02 23:06
>>160 違う。これは功利主義の欠陥でも問題でもなくて理論的な強みだ。何も修正する必要はない。
功利主義は社会のための自己犠牲に合理性を与えることができる。
功利主義的な確信は合理性を伴う。そうでなくてはそれに従うことに意味はない。
カルトはその信念、確信に何の合理性もない、だからカルトなんだ。
功利主義の原理の指令に従わないなら彼はもう功利主義者じゃない。
功利主義の根本的な問題は、電波規範を原理的に肯定する可能性を孕むことではなくて、
>>128にあるような功利原理を採用することそれ自体の合理性だ。
修正功利主義の歴史は瑣末な批判の解決ではなくて、
ベンサム、ミルが不完全なままに残した体系の基礎付けをいかになすか、にある。
功利主義は、古代ギリシャの奴隷制を肯定し、同時に現代日本においては否定して、
それでいて論理的な一貫性を保つことができる、というところにその理論的な強さがある。
>功利主義的な確信は合理性を伴う。カルトはその信念、確信に何の合理性もない。
おっしゃる事が錯綜していて、理解し難いですね。この「合理性」とは一体何ですか?「功利主義は
社会のための自己犠牲に合理性を与えることができる」「功利原理を採用することそれ自体の合理性
だ」と言うのは、功利主義的な「確信」が「合理的」であり、合理的な「確信」が功利主義的という
同義反復ですか? であれば、何の説明にもなっていません。言葉を変えて「自分の確信には合理性
が伴う」とただ言ってるだけしょう。自分の聖書解釈が正しく「神の御心に沿う」ものであり、他派
の解釈は誤りで異端だ、火炙りにしろと言うカルトと何がどう違うのか? 聖書の創世記に書かれた
とおり、世界がわずか6000年前に六日間で創造されたと主張し進化論を否定するキリスト教の「教条
主義者」と一体なにが違うのか?
功利原則は行為の善悪を決定する一種の基準であり、その意味では行為にある種の「合理性」を与え
ます。例えば「ある行為が良い事だ」と主張して、「それは何故か?」と問われれば、「それが功利
を増大するからだ」と一応答えることができる。功利原則に沿っている、論理的に整合する、という
意味での「合理性」です。しかし、これは当然「功利を増大すること自体が何故良いことなのか?」
という更なる問いに繋がる。それを「良いことは功利を増大することであり、功利を増大することが
良い事だ」と答えるのなら、「神様が正しいのは正しいものは全て神様の意図するところのものだか
ら」と言う信者と変わりありません。それじゃ功利が神様になっただけの宗教だと言うのです。
そうではなく、功利原則の正しさ、「合理性」がまた別の独立した理論なり価値によって保証されて
いるなら、功利原則は常にこれと照らし合わせて整合性を検証されねばなりません。背反する場合に
は然るべき弁護なり修正が要される。例えば平等と言う理念がある。この理念は功利原則自体には含
まれていませんので、当然、功利原則は平等に反するような帰結も論理的に導き出しうる。更に、個
人の権利、尊厳という理念もある。「平等」でさえあれば人間を「道具」「資源」のように扱っても
良いわけではない。それぞれロールズ、ノージックの指摘する通りです。全体主義者やカルトまがい
の教条主義者でも無い限り、平等、権利は功利増大に暫し優先すると普通は考えます(無論、逆の例
もあります)。そもそも功利主義者の多くは個人主義者であり自由主義者です。
そうして理論は修正を迫られることになり、発展して行くのです。全体主義マンセー、功利教条主義
マンセーなら、その必要は端からありません。先にも書いた様に、(近代)道徳哲学の仕事とは我々
が日常的に行う道徳判断の理論化、還元、基礎付けであり、究極には常識的な道徳判断と照らし合わ
せて正しさがチェックされます。無論、逆に哲学的に導き出した理論による帰結が常識を改めること
もありますが、最終判断は我々が持つ個人の権利、平等、幸福などの価値への根源的な信念なのです。
この根源的なレベルで2者の価値観が異なれば、和解の余地はありません。
まず何が究極の価値を持つのか。個人の尊厳か。社会/国家/民族全体なのか。平等、あるいは弱者
救済なのか。これらのうち1つのみが重要でその他は犠牲になっても構わないのか。それとも、その
全てがそれぞれ価値を持ち、何らかの優先順位があるのか。いずれにしろ、「功利」というミステリ
アスな形而上の物質増幅が究極の価値を持つなどと信じている教条主義者は殆どいません。功利論は、
平等であれ何であれ既存のあらゆる道徳的価値をシンプルに表し、説明することを目的とした理論で
あって、別にそれ自体が新たな神や価値を生み出したわけではないのです。
>>150 さっそくのレス感謝。さて・・・
>社会一般の快楽(これを幸福と呼ぶ)
>前者は一般に利己主義と呼ばれ、アリストテレス・・・
一般的な用法とは少しずれているような。
「一般的に言えば,幸福とはある主体の欲求ないし要求が持続的に満た
された状態を意味する.」(岩波『哲学・思想事典』「幸福」の項)
「自己の利益や欲望の充足をひたすら追い求め,そうした己の行為が他
者に及ぼす影響を度外視する行為原理.」(同上「利己主義」の項)
たとえば、プラトンは「幸福とは魂の秩序である。」と言っています。
>>150(つづき)
>功利主義者なら幸福自体の計算を問題にしないでは意味がない
その通りでしょう。しかし、それは<私的言語の不可能性>と同じくら
い不可能なことは、少し考えてみれば明らかであり、実際に行っている
のは富あるいは価値の計算だということです。
簡単な話、計算するための<幸福の単位>は何でしょう?
1.自分を“幸福だと思っている”個人を無差別に1(単純幸福人)と
する。
→ 主観性の比較不可能性の問題を措いたとしても、それは幸福自
体の量を測ってはいない。
「私はあなたより、どれだけ幸福なのか?」
2.ある社会で“他人に比べて幸福だと思っている”個人を無差別に1
(比較的幸福人)とする。
→ 定量(量の限定)は既に<より幸福>という変量に変わってい
るから、幸福相対主義への転落である。
「どこかの共産主義社会に比べれば、千倍幸福だ。」
3.ある社会で幸福とされる標準的な属性(例:身体的、精神的、経済
的、等々)を“実際に持っている”個人を1(標準的幸福人)とす
る。
→ 属性は<所有>(帰属性)を前提するから、それは既に幸福自
体ではなく、その基準あるいは条件の問題に変容している。
「並外れた容姿をもつ女性はその分だけ幸福なのか?」
4.上記3に対する機会(可能性)に開かれた個人を1(可能的幸福人)
とする。
→ 現実性から可能性への飛躍は、幸福と不幸の境界を曖昧にする。
「今は不幸でも明日は幸福になれるなら、既に幸福なのか?」
>>150(つづき2)
>選好の対象はモノ(資源)とは限らない。
その通りでしょう。しかし、対象(object)とは一定の限定された存在
者であるから、たとえば<行為に対する選好>は行為の対象に対する選
好に帰着する。「善行とは善なるものを目指す行為である。」
幸福に関する効用の立場とは、幸福自体でなく<幸福をもたらすモノ>
が選好対象となるという、特殊な(媒介的な)立場だということです。
>ヒュームが使った用語を単にベンサムが借りただけじゃないの?
ヒュームの<社会的効用>(social utility)とベンサムの<効用原理>
(principle of utility)との共通点と相違点は多くの議論が可能で
しょうが、さしあたりベンサム自身の効用の定義を挙げておくと、
「功利性(utility)とは、あらゆるものにある性質であり、その性質に
よってそのものは、利害関係のある当事者に対し、利得、便宜、快楽、
善、幸福(これらすべてはこの場合同じことになるのであるが)を生み
出す傾向を持つのであり、または、 (再び、同じことになるのだが)
利害関係のある人に対し、損害、苦痛、悪、不幸が生じることを妨げ
る傾向を持つのである。もしその当事者というのが社会一般であれば、
社会の幸福であり、特定の個人であれば、その個人の幸福である。」
功利主義が帰結主義の一種とみなされているのは一見奇妙である。何故な
ら、効用の立場とは目的である快あるいは善にとって手段として役立つも
のを重んじる立場であり、それに対して帰結主義とは、ある行為それ自体
ではなく、それが引き起こす結果によって、その道徳的正否を決めるとい
う立場であるから。つまり、行為の目的ー手段連関が過程の原因ー結果連
関に逆転しているわけである。次の言葉はその辺の事情をよく示している。
「たとえば他人の幸福、人類の向上、あるいは何かの芸術でも研究でも、
それを手段としてでなくそれ自体を理想の目的としてとり上げるのだ。
このように何か他のものを目標としているうちに、副産物的に幸福が得
られるのだ。」(J.S.ミル)
ここにあるのは、現代の利己主義マンセーとは裏腹の、理想主義的な功利
主義思想であり、経済学的には古典派経済学(それは自己の利益を追求す
れば、結果として社会の福祉が増大すると主張する。)から厚生経済学へ
の変容を示すものである。
「構造改革なくして景気回復なし。今日の(他人の)痛みに耐えれば、明
日の(我が身の)繁栄が結果としてやって来る。」(某首相)
169 :
Kurihara:03/02/04 17:23
OFWさん、さっき名無しで僕を煽りましたね?
170 :
考える名無しさん:03/02/04 17:42
>>169 最近のKuriたんのレスで一番ワラタワラタ。
そういうのスゲー好き。
主体が何らかのモノを使用することにより主体の目的に適う効果が得られ
る場合、「そのモノには効用がある。」と言われる。
有用物の所有は財(property)と呼ばれ、財は幸福の物質的な条件とされ
る。そのために、幸福を求める者は、まず財を獲得することを目指す。
無論、功利主義者はそれを奨励するだろう。しかし個人の財にも限度があ
る。限度を超えた所有欲は貪欲と呼ばれ、限度を超えた節約は吝嗇と呼ば
れる。
世界をそれ自体としてではなく、有用物に溢れた世界と見て、それを我が
ものにしようとするのが、世界に対する功利主義的態度である。そして、
その極限には<他者にとっての有用物>(つまり商品)を宇宙の崖まで充
満させ、それらの一般的等価物(つまり貨幣)を手中にすることにより、
世界自体を所有しようとする「ブルジョアジーの夢」(ベンヤミン)があ
る。その限り、功利主義は近代ブルジョアジーの最強のイデオロギーであ
り、個人の自由というその精神主義の真理は<所有の自由>という物質主
義(俗物主義)なのである。
効用の大きさはそのモノの使用によって得られる効果の大きさであり、究
極的には主体の主観的な満足度そのものとされる。
しかし、個人の満足には限度があることを知るのは、知恵の第一歩である。
たとえば、人が米を食用に供するのは、それにより空腹を満たすためであ
る。その場合、夕飯に茶碗2杯分の飯を常用する個人にとって、茶碗1杯
分の米では不十分であり、また茶碗3杯では多過ぎるだろうから、満足の
大きさが(過不足のない)茶碗2杯で最大になることは、容易に分かる。
では、満足度によって計られた、米の効用の“客観的な”大きさも茶碗2
杯で最大か?と問えば、通常は「否」という答が返ってくるだろう。
<モノの効用>とは相対的な存在であり、一方で主体の目的や性質、他方
でモノの機能や品質によってその質および量が異なるから、常に「誰にと
って、何のための、いかなる状況での効用か?」が指示されなくては意味
のない事柄である。そしてまた、<満足度>という主観的かつ浮動的な効
果から計られた効用を、客観的にも妥当すると主張することはさらにでき
ない、と。実際「誰にとっても、いつでも、変わらずに有用(つまり常に
無用)」なのは貨幣くらいだろう。
しかし逆に、効用とは単に主観的なもので何らの客観性もない、と主張す
ることもまた誤りである。たとえば、主食としての米の効用が万人にとっ
て普遍的であることには生物学的な根拠があり、基礎的栄養源としての米
の効用とは客観的なものである。その限り、<茶碗1杯分>という飯の単
位は標準的な個人(身の丈)を基準にした米の効用の単位でもあり、効用
の客観性を表している。
さて、茶碗1杯分では不足だが茶碗3杯分では過剰である、という上記の
事情が経済を発生させる。<希少性(あるいは希少価値)>の登場である。
過剰な有用物は無用であり、有害ですらある。しかし、今日は過剰な米も、
明日には希少(不足)になる恐れがある。それが貯蓄の根拠である。また、
ある人にとって過剰な米も、他の人にとって希少(不足)であるかも知れ
ない。それが交換あるいは再分配の根拠である。最後に、現存する米が希
少(不足)な場合、それを必要十分な量にすれば良い。それが、貨幣など
存在しなかった太古から営々と行われてきた、生産の根拠である。
たとえば、当初1万円と値踏みされていた作者不詳の絵画の作者がゴッホ
であったと判明したことで3000万円に跳ね上がった場合、その絵の
<美的価値>が変わったのか、と問われた功利主義者は何と答えるか?
絵画の効用とは、その鑑賞により芸術的な感動(満足)を得ることだが、
オークションとは、対象物(今の場合ゴッホ)が“非所有者にとって”
どれだけの満足を与えるか、を基準にして行われる競り売りである。
同じ絵がゴッホであるかどうかで満足の度合いが変わるのか?また、絵画
の美的価値はその経済的価値つまり商品価値(交換価値)に影響されるの
か?
1.「ありふれた才能をもった画家の絵」が「類まれな才能をもった天才
の絵」に“実際に”変化した以上、その希少性が変わり、美的価値が変
化した。
2.絵としては“客観的に”同一物である以上、それを求める人はその経
済的価値の変化(つまり根拠不明な値上がり)に期待しているだけであ
る。
ゴッホの絵がもつオーラ(ベンヤミン『複製時代の芸術』)は、如何にも
市場の民がもつ功利主義(欲望の疎外性、他者性)のありようを示してい
る。
現代倫理学における功利主義の主流は選好功利主義と呼ばれ、それはミク
ロ経済学における効用理論(無差別曲線、効用関数等)との親近性を増し
たものになっている。そこでの第一のキーワードは「合理的選択」だろう。
まず、およそ<合理的>(rational)という概念には注意が必要であり、
<理性的>(reasonable)との区別が重要である。前者は主に目的ー手段連
関の論理的整合性を言うものであり、目的自体の可否は不問に付す。とい
うより、そこに功利主義が入り込んでくるわけである。
選好功利主義者は、諸個人が幸福、善、権力等何を目的にするかについて
は問わず、それらの選好を最大限に充足することをより原則的なものとみ
る。したがって、それは個人の形式的自由の主張である。
個人が自己の自由を最大限に発揮できること自体に異論をはさむ者はいな
いだろう。しかし、自由といっても、孤島での自由ではなく、一定の社会
の中における自由である以上、その条件が問われなくてはならない。他人
の自由を侵してまで自己の自由を広げることは許されていないわけであり、
それは自由の条件にまで及ぶ。つまり、自己の行為が結果として、他者の
自由の機会を奪う場合(例:市場の独占)、功利主義の立場からはその行
為自体(例:自由競争)も是認されるものではないだろう。結果において
存在することは、もしそれが必然ならば、原因においても存在するから。
特に、人(人なるもの)が生まれた<自然状態>(オリジナルポジション)
を壊すことを社会は許容しない。たとえば、映画『天国と地獄』で示され
たような、高台の上の豪華な家を、その下にある貧弱な家から見上げるよ
うな配置の下で人生のスタートを切る個人にとって、自由の機会は、他者
の行為の結果として、既に奪われている。帰結主義をとる功利主義者は、
その配置が自然の結果(合理的な自然選択?)であるとして不問に付すが。
177 :
Kurihara:03/02/08 16:36
OFWさん、さっき名無しで肉便器スレで射精しましたね?
選好功利主義の第二のキーワードは「選好の比較不可能性」だろう。
諸主体の選好間の優劣比較はできないという議論は、諸主観間の直接的比
較はできないという一般的な議論の特殊ケースであるが、諸選好自体を評
価すべき一般的な基準が要請されるにも拘らず、<自由な諸主体>の前提
からそれが存在し得ないという矛盾である。
ミクロ経済学でも選好が登場するが、個別主体(消費者あるいは投資者)
が与えられた諸対象間に選好順位を付けて、それらの価格あるいは代替費
用と予算金額とを勘案して、最大の効用あるいは利得を得る購買量あるい
は投資量の組み合わせを“自由に”決める、というものである。
そこでは貨幣という普遍的で強制的な基準が存在するから、上記の問題は
事実上回避されている。そのことが、倫理的功利主義の脆弱さに比した経
済的功利主義の強靭さの秘密である。
実際「死後の救済のために、現世における勤勉と節約に基づく致富は奨励
れる」という<(初期)資本主義の精神>は、禁欲の帰結を彼岸にまで引
き伸ばした宗教的功利主義とも呼ぶべきものであり、現世における利殖選
好を支えたエトスと言われる。それは前近代的な子孫への相続の否定でも
あり、同時に、未来における社会の繁栄という、本来の功利主義的な進歩
主義(それは産業革命と共にやってくるだろう)もそこにはないが、資本
の本源的蓄積にとって適合的なイデオロギーであったろう。
神による選択(最後の審判)はその恣意的(不合理)な選好に基づくが、
<見えざる神の手>は市場の合理的選択により全体の福利厚生を増すか?
確かに、現代において自由主義を唱えることは保守的であると言える。
自由主義者の努力は、近代が達成した政治的原理である<個人の自由>を
さまざまな異議申し立て(例:社会的不平等、経済不況、環境問題)から
擁護することに費やされており、市民革命期のように時代を切り開こうと
いう推進力はない。
したがって、今日ハイエク流のウルトラ自由主義を進歩思想と同一視する
ことは、いかにも時代錯誤的である。その点では、ポパー流の批判的合理
主義も同じであり、それは市民的(ブルジョア的)自由を保守するための
妥協(批判の自由)と言える。実際にも、見かけ上の対立にもかかわらず、
両者は(何故か全体主義と同一視されている)共産主義に対抗するために
のみ政治的に利用されており、現状を変革するための“効用”は少ない。
そのような中で、ブルジョア政治経済学の分野において、機会均等の条件
や社会的公正を巡って、改めて功利主義的なアプローチが唱えられてきて
いるようだ。たとえば、
「資源の平等は厚生の平等を生み出さなければならない。」(ローマー)
とは、均等に与えられた資源の活用機会を活用目的としての社会的厚生に
より評価せよという主張であり、平等主義的な功利主義の主張である。
また、
「個人の困窮の度合いは個人の願望達成の尺度には現われないかもしれな
い。 固定化してしまった困窮の問題は、不平等を伴う多くのケースで、
特に深刻である。・・・これらの潜在能力から得られる効用を単純に合
計することによっては行なうことができない。」(セン)
とは、一見反功利主義的な外見ではあるが、社会的厚生の評価において、
個人の<基礎的潜在能力>を、当人の現実の願望如何によらず、組み入れ
よという主張であり、<自由の条件>にまで拡大された功利主義と言える。
実際、困窮とは自由の貧困であり、サラリーマンには労働力商品としての
自由しかない以上、潜在能力をいくら開発しても・・・。
功利主義にとって挑戦的なテーマの一つにいわゆる自然保護の問題がある。
地球環境や生態系の破壊の進行が誰の目にも明らかになり、その主たる原
因が産業や人間生活にあることが次第に分かってきた。直接的な<自然の
搾取>(マルクス)から間接的なエネルギー収支の偏りに至るまで、産業
革命以来の近代人が共通にもつ、自然に対する功利的・技術的態度が引き
起こした帰結の一つと言われ、環境保全は世界的な政治問題にまで発展し
ている。
環境倫理学なるものも現れ、日本では(ヘーゲル研究者)加藤尚武等が
地球全体主義(earth holism)を唱え、自由や欲望の制限を訴えている。
ブルジョア経済学者は、環境ビジネスは奨励するが、<経済外部性>など
と洒落るばかりで、問題から逃げている。
さて、功利主義者は何と答えるか?
結局のところ、功利主義者が自然を人間の目的(幸福、自由等)のための
資源(resource)とみなす限り、自然はむしろそれ自体で完結した存在と
しての自然性を示し、<用在性>(ハイデガー)とは別の無関心性を顕わ
にするだけだろう。
地球や宇宙は人間のために存在するわけではないし、人間は自然の一部で
ある(マルクス)以上、人間の目的(object)ではなく、自然の対象性=
客観性(objectivity)を知ることが、生命的=有機的自然の合目的性=
目的無き合目的性(カント)、そして対象的活動(働き)としての人間の
根拠を知ることになるのである。
それまでは、<精神的動物>(ヘーゲル)としてモノ(object)に執着する
フェティシズム的な所有欲から“自由”になることはないだろう。
「私は粗大ゴミでも不良在庫でもない。リストラ反対!」(窓際リーマン)
183 :
考える名無しさん:03/02/09 22:46
貴方の代わりはいくらでもいるもの
>>183 >貴方の代わりはいくらでもいるもの
いかにも功利主義的なレスで助かるな・・・。
<人間の効用>について言えば、他の資源とは少し様相が異なる。
人間の特質は、「かけがえが無い」という言葉で表現されるように、
個体性(個性)が強い、という点にあり、資源としては、希少性が非常
に高いモノと言える。ミクロ経済学の用語で言えば、他の財に対する
<限界代替率>が非常に大きい、つまり代わりになるモノを見出すには、
よほど多くの種類および量の財を集めなくてはならない資源だというこ
とである。
その理由は、人間の効用が多岐に亘る、つまりその汎用性が高く、知能
も高いために、複雑な用途に対する生産性が高い=高性能なため。
裏を返せば、「代わりがいくらでもいる」とは「個性がない」と同義で
あり、流行性や専門性の中に埋没した鋳型(ステレオタイプ)財である
こと。
ベンヤミン『ボードレール論』(「7人の老人」)にもあるように、人
間がモノとしての量的な性格を強め、個体識別が困難になってきている
のは、近代の特性でしょう。
また「無用な人間」とは「無能な人間」のことではなく、必要数以上の
余分な人間のことであり、余剰人員と呼ばれる。
では、何にとっての必要か?つまり、<人間の使用目的>は何か?とい
う問いになるが、さてまた、功利主義者は何と答えるか。
「利潤の追求。これが答えだ!」(ブルジョアと呼ばれる経済動物)
善あるいは正義が規定困難だという理由で、倫理に快あるいは幸福を持ち
出すことは、実際には現実の不正を相対化してしまうという効果がある。
つまり、幸福という、より規定困難な存在を基準にするために、直接的な
幸福をもたらすものが善であるとされ、たとえば儲かりさえすれば手段は
問わないと言うマスターに呼応して、役に立つなら使用目的は何でも良い
と言うサーバも出てくる。
そして、行為の直接的な目的を行為がもたらす間接的な影響から切り離して
しまうために、目的による手段の正当化(例:国際平和のための戦争。それ
は平和を目的ではなく手段(口実)として用い、真の目的は別の所にある
ことを隠す)、あるいは手段の目的化(例:より高性能な兵器開発。それ
は手段に過ぎない兵器開発を自己目的化し、利潤を生むビジネスに変えて
しまう)を招くことにもなる。
このような倫理の功利主義的な相対化は、日常の至る所にも見られる。
曰く「面白ければ、TVでは何でもアリ。」
曰く「誰にも迷惑かけてないから、援助交際OK。」
曰く「難しいことをやらせるのは可哀そうだから、円周率は3で良し。」
曰く「明日の労苦より、今日の楽しみを。」(サラ金CM)
最後に出てくるのは、またしても<貨幣>という万能の功利(効用)自体
=有用物をもたらすものであり、その狡知に長けた反合理性には誰もが
逆らえず、むしろ逆に、功利主義をモットーにする経済学者などは
「たとえ諸主体が(何故か幸福と同一視されている)自己の私利を追求して
も、“公正なルール”に基いた市場の作用を通して、社会全体に福利厚生が
齎される」と言って現状を弁護する(経済学の効用)。
しかし、いまやそれをまともに信じる者は殆んどいないだろう。
「ゲームはいかさまだ!幸福計算は間違っている!商品は偽善者だ!」
187 :
功利主義者:03/02/11 20:56
年なんで話についていけん。もうちょっと簡単にまとめてくれい。
>>187(功利主義者さん)
ども。レスがないので、勝手に書いていたが、要約すれば、
思想・学説としての功利主義はかなり練られた「通好み」な説だが、
現実には利己主義を覆い隠す働きをしている、と言うことでしょうか。
一般に、倫理学という学問分野が自立できないのは、社会自体のあり方
を問うことをしないためと言えます。
>>149でも触れたが、道徳(倫理)
は、一定の社会の中での個人の適応様式であり、社会自体に問題がある
場合、問題は倫理的にではなく、社会的(政治的あるいは経済的)に
解決しなくてはならない。
近代社会は、個人の恣意と諸個人間の敵対関係を強制する社会だから、
一旦切れた<人間の絆>は、功利主義的な戦略でも修復不可能かと。
189 :
功利主義者:03/02/12 22:30
>187
よくわからんが、
>一般に、倫理学という学問分野が自立できないのは、社会自体のあり方
>を問うことをしないためと言えます。
というのは、一体誰の倫理学説を指していっとるのかね。倫理学は、
個人が社会に不適応の場合に、社会を改革することではなくて
個人が心の平静を追求することによって解決を図る手段を探そう
とする学問だと、OFW氏は言いたいのかね。
>>189(功利主義者さん)
>誰の倫理学説
倫理学プロパーの話には余り詳しくないので、倫理学学者にお任せする
として、本来「人はポリスにおいて如何に生きるべきか」(アリストテ
レス)として政治学と密接に関連していた倫理学が、近代以降に、独自
の「倫理学」として自立してきたのは確かでしょう。
それは広く言えば、政治は職業政治家が行い、学問は職業的学者が行う
べきものといった<職業倫理>に呼応しているとも言えますが。
>個人が心の平静を追求することによって解決を図る手段を探そうとする
>学問だ
<倫理>の位置が、むしろ倫理学者がどう自己規定するかによって決め
られているということです。通常、人はことさら倫理的に振舞っている
わけではなく、倫理が問われるような場面(葛藤状況あるいは限界状況)
において初めて「いかに行為すべきか(あるいは行為せざるべきか)」
という問いが生じてくる。それは具体的で実践的な問いですから、まさ
に当事者自身が決めることです。にも拘らず、倫理学者が「もっぱら
倫理的に振舞うとはどういうことか?」と一般的な形で問題を立てると
した場合、まずそれが何故可能なのか自体を反省すべきでしょう。
191 :
考える名無しさん:03/02/14 00:21
売春はOKですか?
192 :
功利主義者:03/02/14 01:10
>189
「このわたしはどう生きるべきか」という問いは重要で、
それを「人はどう生きるべきか」と同列に話せるかどうかという指摘は
重要じゃが、「社会はどうあるべきか」を問うのも倫理学だと思うぞ。
まあ近頃はOFW氏の言うような倫理の捉え方が盛んなせいか、
誤解のないように「社会倫理」なんて言葉を使う人もいるが。
定義は自由じゃが、あまりに限定されてしまうと、
功利主義もマルクス主義も倫理学では論じられなくなってしまいそうで
心配じゃ。哲学が諸学の基礎付けを試みている(いた?)ように、
倫理学も政治学を含む規範的な学問の基礎付けを試みる学問だと
言いたい。
>190
売春は自発的同意が得られており、ポン引きがあまり悪さをしなければ、
OKじゃ。どんどんやってくだされ。
ただし、貧しい国から出稼ぎに来ている女性は自分の意志で来ていた
としても問題がある。選択肢が極端に制限されている場合には自発的
同意とはみなしがたい場合があるからな。
194 :
功利主義者:03/02/15 01:34
>192
しかし、実際のところはパレート原理を満たす政策というのは難しい。
某首相ではないが、誰も痛みを感じない改革はない。
「現実問題として、全ての人々に不利益を与えないような政策など、
そうそうあるものではない。」とその頁にも書いてあるな。
195 :
考える名無しさん:03/02/15 02:11
パレート原理は政策なんですか?おしえて
196 :
功利主義者:03/02/15 02:19
>194
いや、政策じゃなくて、功利原理と同じレベルの、
政策の善し悪しを判断するための原理じゃ。
ワースオフになる人が出てくる政策は自動的に却下される。
197 :
考える名無しさん:03/02/15 02:33
>>193 >パレート原理
<パレート最適>とは功利主義と同様、良く考えられたものですが、
論理的なおかしさも同様にもっている。
「財あるいは利益の配分状態に関して、現状から何らかの変化を起す
場合に、関係するすべての成員にとって不利益が生じないような状態」
をパレート最適と定義するようですが、それだと財や利益の総量が固定
された場合、すべての可能な状態はパレート最適ということになる。
(いわゆる最適の複数性)
つまりパレート最適とは状態に関する概念ではなく、状態変化に関する
概念であるにも拘らず、状態に関して定義されているという矛盾です。
「大きいとはより大きいこと、大きくなること。」
(ドゥールーズ『意味の論理学』あるいは不思議の国のアリス)
現状が最適なら、そこからの変化は起こしようも無いのは自明の理で
あり、実際にも、
「ワルラス均衡はパレート最適である」
という市場主義マンセーの保守的経済学者や
「賃上げをするには、パイの大きさを増やすしかない」
という不平等を固定したままでの膨張主義的な発想(例:Bomb Iraq!)
も出てくる。
「部分(例:個人)は全体、全体(例:国家)は部分。」(ヘーゲル)
199 :
考える名無しさん:03/02/15 06:09
パレート改善自体には誰も文句がないのだから、
パレート状態が一意的でないことや、
実際の政策にはパレート原理の適用できないつまり誰かにとっては
痛みを伴うものも必要になってくるという適用限界の問題でしょ。
>>199 >パレート改善自体には誰も文句がないのだから
少なくとも私(OFW)は文句があるのだから、パレート改善原理自体が
パレート最適ではない(笑)。
いわゆるゼロサム状態でのパレート改善の例として、古本を売る場合の
話が下記サイトに出ている。
(勝手にリンクと引用。サイト自体はグッド。)
「売った人にとっては、もう役に立たない物がお金になったという点で
状況の改善です。古本屋にとっては、利益を生む商品が手に入ったと
いう意味で状況の改善です。このように、社会の富の総計が増加しな
くても、パレート改善は可能なのです。」
ttp://www.thinker.jp/tls/qa/a017.htm 法哲学ではともかく、経済学的には問題ありですね。
<社会の富>の変化は通常GDP(国内総生産)で表わされ、それは
国内での中間製品を除く商品売買の総額として算出される。ですから、
古本売買もGDP要素で富を増加させることになります。
ただし上記は、ブルジョア経済学と同様に、効用と価値(交換価値)の
区別がついていないという好例であり、さらに<個人の満足度>を持ち
出されると、もはや計算不可能。何がパレート改善なのか理解不能です。
202 :
功利主義者:03/02/17 02:19
>199
パレート原理も功利原理も社会全体の効用の最大化という点では一致する。
しかし、パレートの場合は個人間のトレードオフを一切認めない点が異なる。
イメージとしては、各個人に効用がマイナスになることに対する(文字通りの)
歯止めがついていると考えればよい。プラス方向には進むが、マイナス方向
には進まないというわけじゃ。
さて、次の質問は?
社会全体の
幸福 を 効用(利便性)で計り、
効用 を 富(財) で計り、
富 を 価値(貨幣) で計り、
という計測は、前者の内包量(可能量)を後者の外延量(実在量)で計る
ことだが、それが妥当だとみなされる根拠は、後者が前者をもたらすため
の条件(条件とは実在的可能性の謂い)になっていると考えられるが故。
しかし一方において、無用なものがもたらす幸福があり、他方において、
富が限度を超すと不効用(無駄な余剰)が生じるから、計測にも限界がある。
そして何よりも(経済的)価値(利益)最大化原理の下では、未来の効用
(価値)を現在の効用の代わりに置くから、効用が最大化(飽和)すること
は、原理的にあり得ないだろう。そこから、<満足>を知らないビジネス
(忙しさ、商売)社会の成長神話も生まれた。
労働(価値を形成し、効用を作り出すもの)の立場こそが、効用原理の真理
であり、社会をそれ自体として存立させる、効用の根拠である。
>>1 >現在の自由主義の基盤を成す功利主義
とは、ミルの唱えた自由主義と功利主義との結合に由来するだろう。
それは
「個人の自由は最大限尊重すべきである。ただし他人に害を与えない
限り。」
という<個人の自由>に対する<社会の必要>からの制約を正当化する
理由付けであり、功利主義が自由主義の積極的基盤になっているわけで
はない。
そこでは、“同等な”複数の<個人の自由>間の衝突が功利主義的に
調停可能であるかのように説かれるが、実際にはある行為とその他者へ
の影響とは“不等な”ものであり、比較不可能なものであるから、優先
順位づけは常に第三者(例:“公共”の僕たる政府や裁判所)の恣意的
判断に任されることにもなる。
「自己に係わることは自己のみが決定すべきである」との自由の原則も、
社会の中では<自己に係わること>はすべて<他者に係わること>でも
ある以上、それを貫くためには、社会から出て行かなくてはならないだ
ろう。確かにそれが市民社会という非ー社会(私的社会)であるが。
幸福を自由に置き換えても、功利主義は常に何が幸福、何が自由、何が
社会か、という本質やその条件に対する考察からは程遠く、市民社会の
俗っぽい世間知や打算を原則化しただけのものでしかない。それは既に
(力ずくで)獲得した自己の自由(実は恣意)や幸福(実は所有)に
対して「他人が手を付けるな」と叫ぶだけである。
205 :
考える名無しさん:03/03/01 10:40
>>200 それはパレート改善への批判ではなくて、古本の例が不適切であるという
批判でしかないと思われ。
(^^)
208 :
功利主義者:03/03/13 22:20
まあ、パレートの議論はそこそこにして、他に質問は?
209 :
考える名無しさん:03/03/14 18:54
hozen
210 :
考える名無しさん:03/03/23 01:37
あげ
さて、スレも上がってきたので、現在の世界最大の関心事である<戦争>
について、功利主義的に問うてみよう。つまり
「戦争の効用は何か?」
である。より具体的に言えば、
「もしそれが最大多数の最大幸福をもたらすならば、戦争も容認される。」
という主張について、それを是認できるか否か、ということである。
まず、確かに戦争は一部の人間にとって有用である。ざっと上げてみると
1.職業軍人にとって・・・彼らの職業自体(存在理由)であるから。
2.戦争で儲ける商人にとって・・・大きなビジネスチャンスであるから。
3.当事国の為政者にとって・・・自らの権力の維持と拡大に結びつくから。
4.当事国の国民にとって・・・いわゆる<国益>なるものがあるから。
5.それ以外の人間にとって・・・暇つぶしのネタになるから。
などがあるだろう。
ある事柄の正否はそれ自体ではなく、それが齎す帰結や効果から判断すべき
である、という功利主義は物事の倫理的・政治的判断を損得勘定に変えるが、
戦争の損得計算は、諸個人の生命(無限数)を諸国家の共同性(複数)そして
人類の共同性(単数)に集約していくだろう。個は類である(ヘーゲル)。
そこで次に、上記1.職業軍人にとっての戦争の効用について。
「常備軍は国の守り」とはよく言われるが、「国家の効用は何か?」と
問えば、まずアダム・スミスの<夜警国家論>が出てくるだろう。
つまり、個人(市民)の生命と財産を国内外の簒奪者から守るために、
国家が必要ということであり、具体的にその任に当たる者が、国内的には
警察、国外的には軍隊というわけである。市民は国家を自己の生命、財産
の保全のための手段として捉え、軍人という<人間の効用>を最大限に
引き出そうとする。戦争において最も安価なのは人間であり、功利的な
幸福計算においては、兵器や他の資源に比して兵士のコストは殆んど無視
できる程であろう。
一方、軍人にとっては、国家は一つの絶対的な実体であり、個人は国家に
殉じるべきだという強固な観念をもつ。自由主義的な市民は個人主義で
あり、軍人はもともと全体主義である。その点で「自由主義国家」とは
自己矛盾であり、それを調停すべき功利主義的国家観も、軍人の存在に
おいて、人間をモノ(消耗品)と見做さざるを得ないために破綻する。
213 :
考える名無しさん:03/03/23 12:32
アマルティア・センに関係して、
効用概念、パレート最適などに関して論じるスレを別個に立てちゃって
いいですかね?
戦争の是非は功利主義的にしか測れない、というのは、その通りだと思う。
政治はすべて「結果責任」であり、合法性や手続き的正当性は、究極的には
望ましい結果をもたらすための「手段」に過ぎない。
しかし、その判定は、簡単に言ってしまえば「不可能」である。
理由は以下の通り。
1.比較するべきは「戦争をした場合」と「しなかった場合」、どちらが
全体の幸福をもたらすか、である。しかし、どちらも抽象的過ぎて内容を
確定し難い。どんな戦争を、どんな風に行うのか、戦争をしない、としたら、
何をどうするのか、選択肢は無限である。
2.選択肢を具体化でき、その結果も仮説として算定できた、として、どちらが
「全体の幸福」に適うか、その判定も不可能である。一万人が死んで世界が
相対的に安全になり富も増加する場合と、死者は百人だが治安が悪くなり
経済が停滞する場合、どちらが「善」であるか、答えようがない。
結局は、「個人の好み」「イデオロギー」によって決めるしかない。
以上により、戦争の是非に関する論争は、答えが出ない。「第二次大戦は
行うべきであったかどうか」という質問でさえ、正しい答えを出すことは、
原理的に不可能である。戦争がなくならないのは、人間が愚かだからではない。
やった方が良いのかやらない方が良いのか「わからない」からなのである。
215 :
考える名無しさん:03/03/23 12:36
>>212 いい軍人は自分すら「消耗品」と見ているわけですからね。
>>214 肝心なことが抜けてないか? 選択肢を具体化できたとして、その「結果」を、
どうやって算定するんだ。影響は全地球的かつ長期的に及ぶんだぞ。誰も「仮説」なんて
出せないはずだ。
217 :
考える名無しさん:03/03/23 12:55
>>216 「仮説」を出すのは自由だけど、現実はその通りにはいかない、という所が
面白いのです。
218 :
考える名無しさん:03/03/23 13:00
手段は目的を体現しているんではないのか
>>213 >アマルティア・セン
NHK教育番組「アジアの教育」でインド自由労働者学校の紹介をして
いましたね。極端な貧困の中でわずかな奨学金のおかげで教育を受けら
れるようになった子供が、読み書きや計算を憶え、潜在能力を伸ばし、
未来への希望を拡げるという話は、<教育の効用>の無限性を示して
いて感動的でした。終戦直後のアメリカン・デモクラシー、今いずこ。
>>214 >政治はすべて「結果責任」であり、合法性や手続き的正当性は、究極的
>には望ましい結果をもたらすための「手段」に過ぎない。
いわゆる「目的のためには手段を選ばず」とは、原因ー結果連関を目的
ー手段連関と混同することからくる誤謬でしょう。
たとえば、現在進行中の戦争(“自由のための戦争”)に関して
「それが民衆の解放をもたらすが故に、この戦争は正しい。」
と言われるが、そこには<戦争>という原因が<民衆の解放>という結果
を引き起こすかのような錯覚(いわゆる結果論の誤謬)があるわけです。
政治“力学”とは人間の盲目的自然性(物理性)に留まる立場であり、
ライプニッツの<自己原因>の立場や、<自己実現>(自己の真理性を
証明する過程)の立場に及ばないもの。
手段とは目的の実在的可能性であり、現存在という形式における目的自身
をいうから、目的と整合的でない手段は何ら手段ではない。そのことは、
件の言明が、戦争の“真の目的”を覆い隠すための“偽りの目的”である
ことを、論理的に逆照(反証)している。
次に、上記(
>>211)2.商人にとっての戦争の効用について。
およそ商人は功利主義者の鑑と言うべき存在であり、事柄自体の是非より
それがどれだけの<利>をもたらすかという点に関心がある。特に軍事
産業にとっては、自らの市場を活性化させる戦争が望ましいのは、自明で
ある。戦争は国家の専権事項であり、国家政府は軍事産業の唯一の顧客で
あるから、軍事産業が国家に働きかけるのは、国家を自己の利益に適う
ものにするためであり、「国民にとって平和が望ましいなら、そのための
手段として戦争が必要である」という論理は、<平和と戦争の等価交換>
として、優れて功利主義的・ビジネス的な発想と言える。
かっては、利を超えた精神的価値(例:倫理、正義)が尊重され、政治に
は<利>ではなく<義>や<道理>が必要とされていたが、ビジネスマン
(資本家階級)がその代理人を通して政治を執行するようになると、大義
自体が営利の手段に変容し、自己にとってどうでも良い“戦争の大義”も、
大衆を動員するために有用なイデオロギーとして利用することになる。
その点で、“大義なき”戦争とは、“等価なき”交換(略奪あるいは搾取)
と同様、隠れた計算を美辞麗句で粉飾する余裕すらなくなった証しである。
222 :
考える名無しさん:03/03/27 04:24
商人は必ず一つの考えでまとまっているからなあ
>>220 これは理解しがたい批判である。目的ー手段というのは、純粋に「主観的」
なものである。功利主義において直接問題になり得るのは「原因ー結果」の
関係(客観的因果関係)のみであって、目的の如何は、考慮の外である。
そしてこの「因果関係」を「法則性」と混同する誤りが多く見受けられる。
両者は全く別物である。「事象Aがなければ、事象Bはなかった」と言い得る
ときに、AとBの間には因果関係があった、と言い得る。その関係が物理的な
ものでも生物的なものでも意志的・自己規定的なものでも、あるいは全く
ランダムな1回限りのものでも、何ら問題ではない。そして、この「因果関係」は、
存在するかどうかも、それがどんなものかも、厳密に言えば立証不可能である。
これが「ヒュームの呪い」の意味である。一瞬前の世界が現在の世界の原因である、
という常識すら、哲学的な立証は「できない」のである。
>そこには<戦争>という原因が<民衆の解放>という結果
>を引き起こすかのような錯覚(いわゆる結果論の誤謬)があるわけです。
<民衆の解放>が仮に実現したとして、それが本当に戦争の結果なのか、戦争を
しなくても実現し得たのかどうか、これは「歴史のもしも」の問題であって、
それ以外の何物でもない。「歴史にもしもはない」という命題をしばしば耳に
するが、意味不明である。本当に歴史に「もしも」がないなら、歴史上の出来事の
「因果関係」も「是非・功罪」も、一切論ずることはできない。
歴史上の出来事を功利主義的に評価するとは、極限まで単純化して言えば
「A−B−Cの因果による可能世界」と「DーEーFの因果による可能世界」を
比較して、どちらが良いかを判断する、という意味である。そして、このような
判断は、不可避であるが、不可能なのである。
だから、今回の戦争の是非についても第二次大戦その他の歴史上の出来事の
「是非」についても、永遠に「答えは出ない」のである。果てしなく続く「解釈」
と「論争」があるだけである。
忙しいので、久しぶり。
>>223-224(214さん)
>目的の如何は、考慮の外である。
功利主義も一つの実践倫理である以上、
「正しい行為とは如何なるものか?」
との問いに解答(行為の指針)を与えようとして、
「主体の行為が引き起こす結果が望ましいなら、当該行為は正しい。」
と言い、
「望ましい結果が最大になることを、行為の目的にせよ。」
と主張する。つまり、功利主義は行為自体ではなくその目的を考慮の内
に取り込んだ点では、他の倫理学説以上と言えるでしょう。
問題は、個々の行為の直接的な目的と、多くの媒介が必要なその一般的
帰結とが混同されて、たとえば<自由のための戦争>などという欺瞞を
許してしまうその近視眼性(戦争の手段化・有用物化)にある。
>果てしなく続く「解釈」と「論争」があるだけである。
解釈の相対性は解釈者の相対性であり、客観的(絶対的)な根拠がある。
次に、上記(
>>211)3.為政者にとっての戦争の効用について。
国民国家(nation state)とは民衆(people)の国民(nation)への編成の定立
であり、自然的(native)な住民は非自然的な国家(state)において初めて
主権者たる自己を定立する。それは同時に、各個人が自らの主権を国家代表
(為政者)に全権委任(譲渡)する行為により自らの主権を立てる、という
矛盾である。外に向かって主権を宣言することは、内に向かって主権放棄を
宣言することであり、“国家の名の下に”すべての国民は統合される以上、
国家を握る者は全国民を握ることになる。そこに為政者にとっての<国家の
効用>がある。
しかし、主権国家が実在する、つまり区別された絶対的で無制限な自己決定
権が複数あることは上記の矛盾の現れであり、世界は常に不安定な状態の中
に置かれていることを意味する。かくて、国民連合(united nation)は世界
政府(単一の支配)に向かわざるを得ないが、それは既に存在する合衆国
(united states)の量的拡張(帝国化)の威力に対抗できないだろう。何故
なら、主権は国家において初めて現実的である以上、国家なき国民など存立
し得ないから。「民主主義と言っても、国家に過ぎない。」(レーニン)
次に、上記(
>>211)4.当事国の国民にとっての戦争の効用について。
「国益」(national interest)とは曖昧な概念であり、政治的用語一般が
もつ催眠作用を良く示している。それはまた、功利主義が現実政治に適用
された場合の最初の表象でもあり、「最大多数の最大幸福」とは政治的に
は「国益第一」と同義であろう。何故なら、国家とは成員にとっては唯一
絶対の全体(計算不可能な無限性)であり、成員以外の者にとっては規定
された部分(計算可能な有限性)であるという矛盾であるから。
実際たとえば、日本に功利主義を紹介し、自らも功利主義者であった官僚
学者西周も、人類平和という究極の目的のためには、現実に存在する国家
間の戦争状態を利用して、国家間の「彼併合呑併の事業」たる戦争を推進
する必要がある、と考えた。
(
ttp://www.u-shimane.ac.jp/kikakuka/kikaku/contents/u-shimane/ lecture_koizumi.htm)
人類の普遍的・共同的利益と国家の特殊的・排他的利益との間にある本質
的対立を単なる量的差異として等閑視する功利主義者にとっては、「国益」
の最大化が人類の利益の最大化であると単純に信じられているわけである。
228 :
考える名無しさん:03/04/12 05:06
功利主義者は人類の普遍的戦争も信じているよ。
229 :
功利主義者:03/04/12 08:00
>>226 功利主義者は国益の最大化を人類の利益の最大化だと単純には信じておらんぞ。
まあそういう輩もいるのかもしれんが。
たとえばシンガーは自国民かそうでないかで道徳的に差別することは基本的に
正当化できないとしている。
国益至上主義と功利主義が同一視されるというのは嘆かわしいことじゃ。
最後に、(
>>211)5.それ以外の人間にとっての戦争の効用について。
平和な日常に退屈している者にとって、自らが関わらない戦争は「リアル
なゲーム」としての娯楽的な効用があるようである。そのことは、今回の
作戦名「衝撃と恐怖」(“shock and awe”)が、開戦時に早速、利に聡い
某ゲームメーカにより商標登録申請がなされたことにも例証されている。
TV画面上に映し出される<仮構された現実>は、時おり挿入されるCM
と同様にメッセージ化されており、「正義と悪との最終戦争」として演出
されている。<自由の戦士>は<独裁者><テロリスト>を爆撃するが、
実際にそこに居るのは、日々の暮らしを営む住民である。
ライブカメラは戦場とPCでの目撃者の場所とがリアルタイムに地続きで
あることを示すが、その結果、戦士自身が世界中の観客を前にした演技者
として振舞う必要もでてくる。(例:侵略国の国旗掲揚とその禁止令)
かくて、戦争ゲームとゲーム戦争との境界は不分明となり、実際の戦争の
娯楽性(限界効用)は、不特定多数の見物人とゲームメーカ(戦争仕掛人)
の双方に最大満足(利潤)をもたらすだろう。ゲーム化した戦争の開戦時
に「ゲームは終わりだ。」(某大統領)と宣言することは誤りなのだ。
>>228 >人類の普遍的戦争
とは何を指しているか分からないが、まず<戦争>とは国家間の全面的
な武力衝突である、という本来の定義から始めて、次に派生的な用法
(例:受験戦争、情報戦争、人間の原初的戦争状態)を考察すべき。
>>229(功利主義者さん)
>単純には信じておらんぞ。
それはそうでしょう。上では特に日本の功利主義者第1号である西周の
思想(帝国主義列強間の戦争の正当化)に即して述べている。
>シンガー
菜食主義を実践した御仁のようですが、野菜も生き物として苦痛がある
から、随分と恣意的な功利主義かと。
「釈迦が生類を憐れめと説法した時、自ら食んでいるゴマメの叫びに
まで思い及んだか?」(埴谷雄高『死霊』、字句どおりにあらず。)
>嘆かわしいことじゃ。
では、正統派功利主義では戦争(一般&今回)はどう評価されるのかな?
232 :
経営学院生:03/04/12 19:21
功利主義は全体の構成員の幸福を追求するのはわかるが、
その全体の幸福を定義し、分類できるのだろうか?それを決定する際の規準となるのは
何だろうか?その決定に恣意性は介入しないのだろうか?
功利主義を実現するためには、所得を均等にし、
財の平等な分配をしなけらばならない。だから、
その理念を実現することは、社会主義を要請する。
だから、ワルラスは結果、社会主義的になった。
これは決して偶然ではない。彼の言う一般均衡体系
は功利主義を実現するが、そこに市場はあっても
資本主義はない。資本主義は所得の不均衡を生み、
財の不平等な分配をするからだ。
234 :
1989年監禁コンクリート事件の真実!!!!!:03/04/12 22:51
女子高校生が41日間渡って監禁され、計100人ぐらい(少しでもかかわった人を含めて)に強姦、朝から晩まで超暴力と超陵辱された。。(深くかかわったのは5,6人)
ヤクザ顔負けのリンチで、天井に血が飛び散っていた。dadadadad
「なんでもするから家に帰して」という女の子に、自慰(オナニー)を強制され、
真冬に裸で外(ベランダ)に出され、裸で踊らされ、強制され、手足を縛り、お尻の穴に花火を入れ爆発させ、膣やに直系3センチの鉄の棒を何度も強引に突っこみ、性器や尻の穴を完全に破壊する。(途中、膣をタバコの灰皿代わりにされる)
重い鉄アレイを身体(裸体)になんども落とされ、瞼(まぶた)に熱いろうそくをたらされ、
手足を縛り、膣にマッチ棒(ライター)を入れられ、燃やされ、膣の中のや裸体をライターで火あぶり、苦しさのあまり何度も気絶する。(この時ストレスと恐怖のあまり髪が全部抜け落ちていく)しかし、犯人どもは哀れみの情など一切見せず、引き続き、陵辱、暴行を行う・。
大勢の男にかなり大量の精液を飲まされ(フェラチオで)、500ccの尿を飲まされた。(生きてるか死んでるかわからないが)ゴキブリも食わされたそうである。
また女の子の悲鳴や激しいリンチの音は監禁されている部屋の中で音楽をボリュームいっぱいで流しているため、外に届かない。
その間の食事はほとんど牛乳1本。
恐ろしいころに、監禁されていることを知ってた人は計100以上いるが、誰も通報しない。(死体が発見されるまで)
そして最後はひどく殴られ失禁して)死んだ。(殺された)
死体の顔は目の位置がわからないほど、変形し、親でも誰かわからず、原型をとどめてないほどで、性器のほうは顔よりもっとひどく完全に破壊されていた。死体には髪がなくなっていた。
40日間の監禁で極度のストレスのあまり全部髪が抜け落ちた
死体の膣(マンコ)にはオロナミンC2本、入っていた。なお、死体は手足を縛られた状態であった。
以下の内容は「全く」誇張されておらず、「コンクリート詰め事件」で検索すればわかります。
これは「裁判記録」に書いてあったものをまとめたものです。ちなみに「裁判記録」はひどくて目もあてられない。
asdadada
(^^)
>>232(経営学院生さん)
>功利主義は全体の構成員の幸福を追求するのはわかる
何らかの構成された存在とは限定された部分であり全体ではないから、
「全体の構成員」ではなく「構成員全体」が正しい用法でしょう。
たとえば、誰もが人類の構成員(メンバー)ですが、<人類>が単一の
対象として指示された場合、それは他の生物種と並ぶ特定の部分です。
>その全体の幸福を定義し、分類できるのだろうか?
全体とは諸部分の総括でありそれらの総和ではないから、「全体の幸福」
が存在するとしても、それを構成員の幸福の総和として定義することは
できないでしょう。(功利主義の誤り)
>それを決定する際の規準となるのは何だろうか?
>その決定に恣意性は介入しないのだろうか?
>>227で引用した功利主義者西周の『人世三宝説』では、
第一に健康(マメ)、第二に知識(チエ)、第三に富有(トミ)
を幸福の基準(手段)としているようですが、確かに恣意的・表面的な
基準と言えます。
>>232(経営学院生さん)(つづき)
<恣意>とは意志の形式的自由と定義できますが、基準決定の恣意性を
排除するために、恣意性自体を基準にする主張が出てくる。それが、
「各人は自己の幸福を好き勝手に追求せよ」という自由主義の基準です。
そうなると、
>>1とは逆に、むしろ自由主義が功利主義を支えていること
になり、たとえば、"Freedom is beautiful."(自由は美しい。)と言う
某大統領は、全体の代表者として人類の幸福の基準を宣言しているとも
言えます。しかし実際には、その自由とは支配や野蛮の自由でしかなく、
自由自体や美自体とは無縁なイデオロギー(虚偽の観念)ですが、TV
ーCMのように繰り返すことで、彼こそが自由の使徒、哲人であるかの
如く見えるという宣伝効果が出てくる。(イデオロギーの効用)
そうなるとやはり、
>>1のように、自由主義を(裏で)支えているのは
功利主義(資本主義的な営利主義)だ、と言うべきかな(笑)。
「人類の福祉をもたらすなら、戦争、略奪、文明破壊すら容認される。」
という功利主義は、人類の福祉という計算不可能なものを計算可能である
かの如く装うことで、実際には、現実の侵略戦争を正当化する結果に至る。
何故なら、「この戦争は人類の福祉を齎すが故に正しい。」との主張に
対して、「この戦争が齎す幸福量は不明だが、計算可能であるのは確かだ。」
と言うことは、実際の計算結果を示さずに、それを容認することだから。
(まさに「大量破壊兵器は未だ発見されないが、存在するのは確かだ。」
と言って、大義の非存在を証明不可能にするようなもの。)
結局のところ、功利主義とはブルジョア・イデオロギーの中でも、最も俗
っぽい、近視眼的、商人的な一種と言えるだろう。
石油獲得のためには、戦争のみならず、自由や民主主義すら手段として
利用するに至っては、さすがに誰の目にもその虚偽性は明らかであろう。
「戦争・略奪・文明破壊をした場合としない場合とを比較して、前者の方が
幸福の総量が大きいならば、戦争・略奪・文明破壊は容認される。」
これは、功利主義(正確には功利性原理)の観点からは完全に正しい命題だ。
ただし、「大きい」とする計算は、不可能である。従って、前にも書いた通り、
どんな戦争でも正当化や不当化の論証は、不可能なのである。現実に、ポエニ戦争
だろうと関が原の合戦だろうとフランス革命だろうと第二次大戦だろうと、その
正否・当不当については、論争が絶えないのである。今回のイラク戦争についても、
同じである。「いずれ歴史が裁く」というのは欺瞞であって、「歴史のもしも」
の検証が不可能である以上、何百年たとうと原理的に答えは出ない。
功利主義(功利性原理)とは、別段どんなイデオロギーでもない。どんな思想でも
それによって正当化しようと思えばできる(しかし論証はできない)ようなものである。
要は、功利主義は正しいけれど無意味な思想だ、というのが正確な理解だと思われる。
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
>>239 >功利主義は正しいけれど無意味な思想だ
正確には「功利主義とは「功利主義の立場に立てば功利主義は正しい」
という無意味な思想だ」と言うべきでしょうね。それを万人にとって
正しいと喧伝するから、イデオロギーになるわけ。
人は誰でも功利的(功利主義的ではない)に振舞う場合があるが、
その正当化のために功利主義を持ち出すことは、正しくないと。
242 :
考える名無しさん:03/05/04 10:44
中絶は功利主義的には良いのか、それとも悪いのか。
中絶することによって得られる養育費の削減分と、中絶したことによって
失われた胎児の未来は、どのように比較して大小を決めるべきだろうか。
話と関係ないんだけどさ、OFWて歳いくつ位なわけ?
テツイタジュウニンハシラナイトデモオモッタノカ!
( ・∀・) | | ガッ
と ) | |
Y /ノ 人
/ ) < >__Λ∩
_/し' //. V`Д´)/
>>240 (_フ彡 /
比較するのはそれだけかい
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉