1 :
考える名無しさん:
両義性の哲学者、メルロ=ポンティ。
結論を見付けて安住するのではなく、反省と言う名の韜晦の沼の中を
飽くことなく歩み続ける思想家としての強靭な態度は、まるで
哲学において永久革命を実践しているかのようです。
このスレは、そんな彼のことが大好きな人達の溜まり場です。
みすずから、短い論文を切り貼りした「コレクション」も出ている
(あまり良い試みとは言えないと思うけど)ことですし、ここは一つ
盛り上げちゃいましょう!!
2 :
考える名無しさん:02/06/13 13:40
メルポン
>>2 2ゲット早過ぎ(笑)。
私は飯でも食べてきます。
4 :
考える名無しさん:02/06/13 14:02
現象学話は聞き飽きたので、
政治評論ネタを聞かせろよ。
「永久革命」なんて言ってるんだから、
そのへんわかってるはずだろ?
5 :
考える名無しさん:02/06/13 14:12
1は鷲田の「冒険者たちしりーず」と地区マシン所しか読んでない、に2兆シリング
6 :
考える名無しさん:02/06/13 14:32
卒論で「両義性」を扱う、に1億ウォン
7 :
考える名無しさん:02/06/13 15:15
短く略すとき「メルロ」って言う、に5ルーブル
8 :
弁証法的理性批判放棄&rlo; ◆k7C9xZJk :02/06/13 15:24
実は略すときに「モーリス」って言うに5銭
9 :
考える名無しさん:02/06/13 15:44
めるろ君、元気かね? 7ペソ
10 :
考える名無しさん:02/06/13 15:48
>9
それは本人に失礼(>鷲田)、に20リラ
>>4 ウィスキー飲みながらシーニュのアルジェリア話などを読むと
元気が出るよね!
>>5 >>6 見えるものと見えないもの以外はだいたい読みましたよ。
(フランス語で読んでいる振りをして、専らみすずの翻訳ででしたが)
卒論で「近くの現象学」、修論で「行動の構造・幼児の対人関係」を扱いました。
>>7 >>8 >>9 モームス
13 :
考える名無しさん:02/06/13 16:00
みすずの翻訳で修論通っちゃうのってどこの大学ですか?
まずいよアレ
14 :
考える名無しさん:02/06/13 17:00
>>10 なんで9が失礼なの?
鷲田のめるろん本は基本書の一つだろ???
15 :
考える名無しさん:02/06/13 17:14
>>1 サルトルとかと違って、盛り上がらなさがメルロ=ポンティのいいところだと思うけど。
あの慎重さ、落ち付き、静かに呼吸する森のような感じが好き。
16 :
考える名無しさん:02/06/13 18:14
Maurice Merleau-Ponty著作(邦訳)
『意識と言語の獲得』みすず
『意味と無意味』みすず、国文社
『言語と自然』みすず
『現象学の課題』(共著)せりか
『行動の構造』みすず
『サルトル/メルポン往復書簡』(共著)みすず
『自然の哲学』御茶の水
『シーニュ』みすず
『心身の合一』朝日出版社
『世界の散文』みすず
『知覚の現象学』みすず、法政
『知覚の本性』法政
『ヒューマニズムとテロル』現代思潮社
『弁証法の冒険』みすず
『見えるものと見えないもの』みすず、法政(『-見えざるもの』)
『眼と精神』みすず
『メルロ=ポンティの研究ノート』御茶の水
『メルポン・コレクション』みすず
17 :
考える名無しさん:02/06/13 21:01
コレクションはみすずだけじゃないよ
よんだか
19 :
考える名無しさん:02/06/14 00:36
>13
12で早稲田の本を推薦してるのだから、1は早稲田のバカだろうな。
20 :
考える名無しさん:02/06/14 14:06
眼と精神読みますた。意味不明ですた。僕って馬鹿ですね。
22 :
考える名無しさん:02/06/14 15:53
セザンヌの絵を目の前におけば良い
>>17 『メルポン・コレ』みすず、ちくま……でいいのかな。
24 :
考える名無しさん:02/06/27 01:41
おいおい、もう終了か??
25 :
考える名無しさん:02/06/27 09:12
意識の構造をどうなぞらえるのか
知覚における図と地の構造にそれをあてはめ
とくに他者認識の問題に地平としての身体をあきらかにしようと
こころみた人か?
煽ってみます。「セザンヌはヘタウマ」
「日本仏教哲学100年の集大成」さんの、「日本仏教哲学100年の集大成」と
はどういう意味ですか?
メルポンより、そちらの方が気になる。
28 :
考える名無しさん:02/06/28 02:01
メルロ=ポンティって、理解できないうちに好きになってしまう哲学者だよな。
または木田元の被害者。(言い過ぎ)
29 :
考える名無しさん:02/06/28 06:14
モリメロ
30 :
考える名無しさん:02/06/28 20:30
俺、初めて読んだ思想書がメルロ=ポンティだったなぁ。
そのせいか思い入れがある。
好きだな。まあ、あんまり深入りしようとは思わないけど。
31 :
考える名無しさん:02/06/28 22:42
ポンチか。
32 :
考える名無しさん:02/06/28 22:46
輸入業者により、初期によびかたに不統一がある。
アルチュッセル。ビトゲンシュタイン。もっとあたらおしえてください。
33 :
考える名無しさん:02/06/28 23:07
レヴィナス>>ルヴィナス
34 :
考える名無しさん:02/06/28 23:08
35 :
考える名無しさん:02/06/30 00:50
アルチュセール
アルテュセール
アルチュセル
アルテュセル
カッシーラー
カッシレル
……みたいなもんか?
36 :
考える名無しさん:02/06/30 00:53
>カッシーラー
>カッシレル
ショーペンハウアー・ショーペンハウエル
フォイアーバッハ・フォイエルバッハ・フォイエルバハ
フッサール・フッセル
ハイデガー・ハイデッガー・ハイデッゲル
-erはキリないな。
>>14 鷲田めるろクンのことだろ、ヴォケ
ちなみに、いい人だからいぢめないで……
38 :
考える名無しさん:02/06/30 02:02
変な名前付けやがって by吉岡洋
39 :
考える名無しさん:02/06/30 10:14
メルロでポン!
で、どれからようむのがいいの?
木田元か?
41 :
考える名無しさん:02/06/30 22:28
不思議なメルロちゃん
42 :
考える名無しさん:02/07/06 09:13
存在と時間をその問題意識の継承がサルトルの存在と無へ
そしてポンティはフッサールをてがかりに存在と時間を読みこんだよう
それが知覚の現象学というポンティ流の現象学入門書をかかせた。
しかし構想、展開の方法はベルグソンにクリソツであり、
生理心理学(特にフランス流の)の成果をネタにして存在、認識論の
可能性をかたった哲学屋(職業としての哲学者)
43 :
無神論者です。:02/07/14 21:03
メルローポンティは、不死鳥のように現代に蘇ります。
なにせ、書斎で逝去された方ですので、すごく物静かだったかも・・・
あのなんとも言われないものの捉え方は、フーコーなどのわけの
わからない言葉の連続ではない、かみしめたらよく分かる真理の導き書である。
44 :
考える名無しさん:02/07/15 14:27
>>43 フーコーをわざわざ貶めないと誉められない貴様は
フーコー以下のクズ
45 :
考える名無しさん:02/07/21 21:59
『シーニュ』「哲学者とその影」、どうもどっかで読んだことあると思ったら、
パンキョーで先生がプリントに引用してた。
46 :
考える名無しさん:02/08/02 15:38
レヴィ=ストロース「野生の思考」の扉、著者近影の背景には、
亡き盟友メルロ=ポンティの写真が見えます。
47 :
考える名無しさん:02/08/02 15:53
鼻の穴に串とおしてるひと?
48 :
考える名無しさん:02/08/02 16:04
49 :
考える名無しさん:02/08/02 16:08
さべつだぁ
50 :
考える名無しさん:02/08/11 12:59
メルロ=ポンティ・サークルの会報(6号)が来ますた!!
51 :
考える名無しさん:02/08/11 13:12
>>50 (゚д゚)ホスィ
どうやったら手に入るの?
メルロ=ポンティの言語論はいかがなもんざんしょ。
現象学VS分析哲学という図式は実際のところどうなの?
本当にそれは存在するんでしょうか?
メルの問題意識はいわゆる英語圏の言語哲学と重なるのか否か?
トーシローを啓蒙してやろうじゃないかという暇で親切な方を求む。
53 :
考える名無しさん:02/08/19 01:54
メルロ初心者です。
浅田彰の『構造と力』での批判はどない?ラカンに比べてM−Pは調和的過ぎるとかなんとか。
生きた自然からのズレこそが人間の生の条件である、と。
うぐっ、もう限界。わからないって告白するからもう教えてちょ。
M−PとLacanさあ、どっち!?
「両方」って人は、どっちから読むのがいいかおせーて。
沈んでいく…
誰か52,53に答えてくれ…
いつもこんなペースなわけ?
メル不人気…?哲板は遅スレが通常なのか?
丸二日過ぎ…
56 :
考える名無しさん:02/08/23 01:46
57 :
考える名無しさん:02/08/23 02:56
ラカンでいいっしょ>53
58 :
考える名無しさん:02/08/23 03:01
>57
それはどうしてでしょう?
ラカンの入門書って何を読めばいいでしょうか。
すごく適当に答えた。理由は無い。
ミケル=ボルク・ヤコブセン『ラカンの思想』法政大学出版局
というのが凄いらしい、とラカンスレにカキコがあった。
ここはめるぽんのすれです!
>>60 まあまあ… 固いこと言わんと頼むよう。
めるぽんに関係がある限りでのラカンちゅーことで。めるぽんもラカンにけっこう言及しとったっしょ。
めるぽんの精神分析に対する態度はどない?フロイト、無意識、デカルト的コギト、等々… テーマは尽きんかと思われ。
あっ、そうだ。ミシェル・アンリの『精神分析の系譜』ってあったっしょ。現象学と精神分析の関係やいかに?
興味は尽きませんな。質問ヤローうぜー、と思われること必至ですが、お許しください。お願いします。
厨房の啓蒙が趣味という神の降臨を祈りつつ待っとります。
めるもちゃん好き
63 :
考える名無しさん:02/08/23 14:41
>>61 女スレ、処女スレに常駐する厨房よりはよほどまし。
ただそれを言いたかっただけで、おれは神じゃないのねん。
メルロ=ポンティとドゥルーズの関係は相当強いらしい。
最終的には相容れないが。
メルポンとドゥ−ルーズ、認識の始まりを私にするか?そこにあるものにするか?
によって違うのかと・・・・
66 :
考える名無しさん:02/08/25 11:42
ただ、ドゥルーズ研究者はメルロ=ポンティを避ける傾向が強い気がする。
メルロ=ポンティ研究者の若手が、もっと頑張ってドゥルーズとの
比較研究を頑張って欲しいな。
67 :
考える名無しさん:02/08/25 12:01
>>66 ベルクソン論の比較とかはどうですか?
と言ってみる。
68 :
考える名無しさん:02/08/25 13:43
デリダが"Le toucher"のなかでD=Gとメルロ=ポンティと
ベルクソンについて一箇所で論じていた記憶があるよ。
パラ読みしただけなので内容は覚えてないけど。
69 :
考える名無しさん:02/08/25 23:50
ベルネの「メルロ=ポンティとラカンにおける眼差しの現象」
(The Phenomenon of the Gaze in Merleau-Ponty and Lacan)
っていう論文読んだ人いる?
70 :
考える名無しさん:02/08/26 00:34
>>69 読んだことないですが、両人とも眼差しを重視してますよね。確か。
71 :
考える名無しさん:02/08/28 03:22
>52 メルロvs分析哲学という対立はなかろう。両者の向かう
方向性が違いすぎるから。ただ、部分的に重なるところは
あるかも試練。
>53 メルロと精神分析について。メルロは無意識というものを
現象学者にも取り扱えるものにしたという功績はあるかも試練。
ただ、メルロとラカンの本質的な違いは、メルロには「死への欲動」
に対する認識が薄いのに対して、ラカンにとっては重要だという
ことだろう。
72 :
考える名無しさん:02/08/28 20:57
このスレ読んでて思ったんだけど、メルロ=ポンティって能天気な哲学者なの?
73 :
考える名無しさん:02/08/28 21:10
サルトルに比べると、とってもお坊ちゃまだと聞くね
74 :
考える名無しさん:02/08/28 21:28
メルロはマザコン坊ちゃま、サルトルはインフェリオリティーコンプレックスだからな。
でも、ずっと淋しかったのはポンティ様。
75 :
考える名無しさん:02/08/29 01:58
>>59 遅レスだけど、ボルク=ヤコブセンは確かに今注目
76 :
考える名無しさん:02/08/29 03:59
>>72 違います。
メルロ=ポンティを読んだ者は、彼の文章によって癒されるのです。
……と言ってみる。
77 :
考える名無しさん:02/08/29 04:01
おれは、いらいらするけどな。特になかなか結論でないところが疲れるわ。
78 :
考える名無しさん:02/08/29 22:54
目黒ポン太
79 :
考える名無しさん:02/08/30 01:26
>>74 思想的には、サルトルは終わった。
特に存在論としてはデカルト二元論の亜流として。
政治思想としては所詮スターリニズムとして。
しかし、ポンティはまだ生きながらえている。
特に存在論的には身体性、間身体性の問題として、
政治思想としては物象化論、間主観性の問題などで。
80 :
考える名無しさん:02/08/30 01:54
>>79 その説明は良く聞くけど、
ちょっと前に日本でもフランスでもサルトル花火が上がったじゃん
あれって何よ?
81 :
Kurihara:02/08/30 03:24
フレデリック・ジェイムソンの仕掛けた罠ですね、
あれは。
82 :
考える名無しさん:02/08/30 03:55
>>81 お前馬鹿だろ
ジェイムソンの本はもっと昔。
83 :
考える名無しさん:02/08/30 03:56
いまさら彼に馬鹿といっても・・・
84 :
考える名無しさん:02/08/30 05:15
『エピステーメー』誌1977年8月号が(゚д゚)ホスィ
もう図書館しかないよなぁ。
メルロ=ポンティは最近の
アフォーダンスとかオートポイエーシスとか何とかいうやつで
復活した。
86 :
考える名無しさん:02/08/31 16:47
>>85 禿同だが、ポンティの価値を
それだけに限定するのもどうか…
87 :
考える名無しさん:02/09/05 03:42
84だが、図書館で借りられた。
同年の第3巻に収録だった。
ラカン特集のメルポン追悼文をコピーしたのでじっくり読むか。
因みに同巻に収録の特別号は『リゾーム 序論』(初訳?)。
『ミル・プラトー』が出ていないときの訳なので、
何の序文なのかが気になる頃。
メルポンの現在での意味とかもいいですが、
知覚の”物や現象”の意味を”脳での認識”との間に注目したところ。
生きている”意味を孕んだ”言葉遣いに大いに注目して欲しい。
特別な言葉を使わないで、つまり、現象の意味の相似性に逃げていないで、
現象に忠実にやさしい?言葉で迫っているところがいいですね。
でもやさしい言葉がたくさんになるとやはり複雑になりますが・・・
真面目すぎるのが、玉に傷?
89 :
考える名無しさん:02/09/05 22:35
サルトル『倫理学ノート』読みたい。
90 :
考える名無しさん:02/09/05 22:52
>>88さんの書いている意味が、(恐らく)圧縮されすぎていて、
よく分からないです。
察するに、氏がポンティで注目して欲しいところは、『知覚の現象学』
あたりで大脳生理学や失語症、失認症等の症例の分析をもとに、
人間の存在様態や行動様式をいきいきと記述したところ
である、と言いたいの?
要するに「心身問題」「心脳問題」に注目すべきだ、ということ?
91 :
考える名無しさん:02/09/06 06:56
>>90 哲学で議論されてきた「感覚的なもの」を本格的に「知覚」として扱うのは、諸刃の剣である、
というメルロ=ポンティ批判もあったかと記憶しておる。
>>91 どういう意味でですか? もう少し詳しくお願いします。
94 :
考える名無しさん:02/09/07 03:14
「幼児の対人関係」いいよね
あと「眼と精神」
95 :
考える名無しさん:02/09/07 03:35
メルロ=ポンティの発達心理学はアンリ・ワロンを
下敷きにしているけど、最近の発達心理学では
ワロン−メルロ=ポンティはどうなのだろうか。
もう古くなったのだろうか。
最近のアフォーダンスとの関係より、そっちの方が気になる。
96 :
考える名無しさん:02/09/07 05:38
>>79 でも理論的にはやっぱりメルロ=ポンティも一昔前のものだと思うのね。
日本の哲学科である程度もてはやされているとはいえ、
けっきょく構造主義のインパクトが理解できなかったフランス系の現象学者たちが
くいぶちとして固執しただけのことでしょう。
いまのトレンドはレヴィナスに移ってるみたいだけど。
53 で浅田の『構造と力』に触れられていたように、
あれをちょっとでもちゃんと読めば分かるが、そんなに簡単にメルロ=ポンティが甦るわけないっつーの。
とくに日本でサルトルとかいって騒いでるヤツはほんと終わってる。
メルロ=ポンティもサルトルも読みつがれるべき古典だということを認めたうえで、
それでもやはり両者は「思想的には終わっている」ということははっきり確認しておきたい。
97 :
考える名無しさん:02/09/07 09:23
具体的に言ってくれ
98 :
考える名無しさん:02/09/07 09:28
具が大きい
99 :
考える名無しさん:02/09/07 12:49
>>95 微妙。
新しいパラダイムとして現象学的関係発達論があるものの、ほとんど鯨岡峻氏の独擅場。
現象学の手法(縦の観点)では、統計的手法(横の観点)とは違い、そうそう結論が出てこないし。
第1/2次間主観性というタームは、岩波の哲学事典の「発達心理学」の項にもあるとおり(確か)、
もともとはトレヴァーセンのものであるが、
それを臨床的に見ていけるのは、心理学徒よりもむしろ哲学徒(の一部)の興味を惹きそう。
氏の理論をいちばん手短にまとめてあるのは『人間発達と心理学』(金子書房2000)pp.229-243。
ただし、短すぎると思われる。
その前節では氏が精神医学、精神分析学、看護学と発達心理学との接点について述べてる。
あとは「関係発達論序説4部作」で『原初的コミュニケーションの諸相』(ミネルヴァ書房1997)、
『両義性の発達心理学』(同1998)、『関係発達論の構築』(同1999)、『関係発達論の展開』(同1999)。
理論を全体的に見ることができるのは『構築』だと思われる。
>>99レスありがとう。とても参考になりました。
鯨岡さんは本は買っているけど、まだ読んでなかった。
今度読んでみます。
>>96あまり自信がないんだけど、存在論も構造主義の中に回収
されるんだろうか。もしそうだとすると、なぜデリだが
あんなにハイデガーにこだわったのだろうか。そして
マリオンやクルティーヌたちも存在論にこだわっているのはなぜなのだろうか。
レヴィナスの「倫理」もハイデガー存在論との関係なしでは理解できないはずだが。
101 :
考える名無しさん:02/09/07 22:25
あんまり思想的にオワッテル、オワッテナイって話に価値を見出せないんだが。。
構造主義以前、構造主義、ポスト構造主義ってカテゴリーで全て分ける意味があるのか?
102 :
考える名無しさん:02/09/08 02:28
>>101確かに。構造主義、ポスト構造主義のインパクトは分かるし、
そこには本質的な現象学批判、存在論批判(あるいは西洋形而上学批判)
があったことも確かなんだけど、本当にそれらの思想の息の根を止める
ほどのものだったのだろうか。
批判には相手の息の根を止めるのも確かにあるけど、相手を良い方に
軌道修正させるものもあるはず。
現代の現象学や存在論はそれらの批判をうまく取り入れ、軌道修正を
しようとしているのでは? あちら側にも弱点はあるんだし。
乱暴な分け方をしたのは認めます。
しかしサルトルやメルロ=ポンティをこんにち好んで論じるやつ(とくに日本での話)を
みていていつも苛立たせられるのは、構造主義以降の哲学者が50-60年代にあれほど痛烈
な批判を繰り広げていたのに、あたかも何事もなかったのように涼しい顔で復興や甦りを
口に出来るという脳天気さです。
息の根を止められたのではないことを言うなら、どのように反批判が出来るのか
しっかり論じてからにしてほしい。あまりにも当たり前のことでしょ。
浅田の教科書的な整理のレベルに対する有効な反駁さえもろくにないというのが
いまのサルトルないしメルロ=ポンティ研究の現状では?
>>100 ハイデガーの存在論は構造主義における「発生の問い」に関わるので、
存在論を構造主義に回収することはできません。
構造主義はハイデガーの存在論を言語や人類学の広義の科学的文脈で
洗練させやり直したとさえ言えるでしょう。(ラカンは典型的な例)。
要するにサルトルとメルロ=ポンティが「思想的に終わった」と言われるとすれば
ハイデガーを読めなかったからです。
(だからハイデガーの存在論の試練を「神学的転回」という特異な仕方で
くぐり抜けたレヴィナス以降に連なる現代のフランス現象学には
まだまだ可能性があると思う。)
あくまで、批判を批判として了解しつつも
その思想の認めるべきところは認めなければならないのではないか?
ああ、確かにサルトルやメルロ=ポンティは思想の枠組みにするには、
最早、頼りがたいところはあるのかもしれない。
しかし、どうも貴方は哲学者と哲学の内実を混同している嫌いがある。
哲学で語られた内容に、果たして時代遅れというものがあろうか。
そして、哲学は消費されゆくものなのか?
哲学の材料はどの古典的哲学者にもあるし、サルトルやメルロ=ポンティにも
見出そうと思えば見出せるはずなのだが。
レヴィナスが影響を受けたひとりとして挙げているのは、
サルトルやメルロ=ポンティが批判した、ベルクソンであるわけだが。
105 :
考える名無しさん:02/09/08 12:43
ジャン・リュック・ポンティ
>103「脳天気さ」に関しては自戒しておきます。(w
でもちょっと前流行ったサルトルに関しては、確か、
未完の「倫理学ノート」が公表されて、それに関する
文献的研究がクローズアップされたことによるもので、
現代思想との関連で新しい発想があったという話ではないらしい。
つまり、単純に歴史的研究なんだ、と。
ハイデガーと構造主義に何しては、あまり自信がないけど、
次のように考えます。
まず記号というものは「存在者的なもの」で、そのような意味で
構造主義は「オンティッシュな学」と考えられます。
ただし、その記号の中でシニフィアンは決してシニフィエを
捉えられず、それと合致することはできない。デリダの「差延」
ですね。この差延が存在者の存在を間接的に示しているし、
それによって記号の「構造」も支えられている。
それゆえ、構造主義は決して存在論を克服できないし、
ましてやその洗練化ではない、と。
おれはその方向でメルロ=ポンティの存在論も考えたいが、
どうでしょう。
いかん、長くなった
>>104 >哲学の材料はどの古典的哲学者にもあるし、サルトルやメルロ=ポンティにも
>見出そうと思えば見出せるはずなのだが。
もちろんです。はじめから言っているように彼らが古典であることは否定しません。
私が強調しているのは「サルトルやメルロ=ポンティは思想の枠組みにするには、
最早、頼りがたいところはある」という事実をよく考えて下さいということです。
それをやらない限りまともな読み直しも始まらないのです。
文献学がやりたい人には何も言うことはありませんが。
>>106 >この差延が存在者の存在を間接的に示しているし、
>それによって記号の「構造」も支えられている。
>それゆえ、構造主義は決して存在論を克服できないし、
>ましてやその洗練化ではない、と。
構造主義は「構造」への反省も含んでいる(構造主義はもともと「ポスト構造主義的」だった)。
私が言っていたのは構造主義のこの反省が存在論的な問いだということです。
それゆえ構造主義は「決して存在論を克服できない」どころか、
はじめから克服しようともしていない。
正確には、構造主義は「構造」への問いを存在論に負っている、と言うべきでしょう。
逆に言えば構造主義は、ハイデガーが彼自身では展開できなかった存在論的な問いを
形式化し洗練させたのであり、
その意味ではハイデガーにさかのぼればすむということでもない。
>おれはその方向でメルロ=ポンティの存在論も考えたいが、
>どうでしょう。
メルロ=ポンティの言語論が致命的なのは、言語の体系が象徴秩序であり、
文化の次元に属するものであることが曖昧にされ、
身体を通じて自然の次元と連続的に捉えられているということです。
要するに構造主義が提起した文化と自然との根本的な断絶が看過されている。
存在論が存在者の存在を問うことのできる者(「人間」)の問いである以上、
メルロ=ポンティの「自然の形而上学」は、存在論的な問いと
最終的には両立しません。
その限りでは「メルロ=ポンティの存在論」の可能性は否定的です。
>>110さま レスありがとうございます。
でも、もう少しがんばってみます。
構造主義者が存在の問いを知っていた(ハイデガーを
熟知していた)と言うことと、存在の問いを構造主義的
探求において展開したかどうかという問題とは異なると思います。
構造主義的探求はやはり学一般の可能性を目指すという意味で、
(それがいかに洗練されていようと)オンティッシュなもので
あったと思います(例えばレヴィ=ストロース)。
111の続き
メルロ=ポンティに関して言えば、彼は文化的なものと
自然的なものとが未分化で絡み合っているレベルにおいて
それぞれの存在者が成立する過程を捉えようとしたんだと思う。
自然的なものも文化的なものも、さしあたり身体(肉)に
おいて与えられるのだから。『見えるものと見えないもの』に
おける「赤」の分析や、プルーストにおける理念的なものと
感覚的なものの絡み合いの分析を参照。
(高度に抽象的な数学的対象などはここではとりあえず除外)
とは言え、これらは単に文学的な分析ではなく、、我々が何かを
思考する際に拠り所にせざるを得ない存在者の存在了解の
様式の改鋳の試みである。
112の続き
>110存在論が存在者の存在を問うことのできる者(「人間」)の問いである以上
この言い方は多少不用心かも。ハイデガー「ヒューマニズム書簡」にもある
とおり、存在の問いを問うものはもはや人間ではない、という意味で、
存在論は人間の問いではありません。つまり、存在の問いの主体は人間では
ないのです。そうではなく、「存在において存在が存在を問う」のであり、
存在の自己贈与なのです。
でも、こういう言い方は、一歩間違えると「形而上学」(存在者の存立根拠として
「存在者」を探求すること)になりますね。110さんがメルロ=ポンティを
「自然の形而上学」と言ったのは、もうそうなっていると考えたからなの
でしょうか? でも私は、メルロ=ポンティはそのぎりぎり手前で踏み
とどまっていると考えます。
>>109 うーん、自分が少しナナメ読みしてたところがありました。
申し訳無い。ただ、もう少し聞きたいのですが、
>構造主義以降の哲学者が50-60年代にあれほど痛烈 な批判を繰り広げていたのに、
>あたかも何事もなかったのように涼しい顔で復興や甦りを
>口に出来るという脳天気さです。
この動向が日本で起こっていたのですか?
思想の枠組みとして今だ囚われている人物というのを
不勉強な私は思い出せないのだけれど。
もし挙げられれば、具体名を出していただけるとありがたいですが。
自分はフランスが専門でないから分からないのだけれど、
僅かにおぼえている事では、ヌーヴォー・フィロゾーフとかが言っていたような
「再評価」って意味合いで、サルトルが持ち出されたのは知っているのです。
ただ、いまだに「サルトル、メルロ=ポンティの何処が悪い?」みたいな
原理主義者のような学者は、知らない。
貴方の批判が、どのような人種に向けられているのかが、よくわからないのです。
後学の為に、誰に向けていっているのか(って人が悪い表現かな)ご教授お願いします。
メルロ・ポンティは冴えてるとこもあるけど、
「現象学」を究めたせいで、
それ自身のアポリアを露呈しちゃったってとこある。
ドゥルーズ全部読むとわかるよ、現象学の変なトコ。
ヒント「エクスターズ・オリジネール」ってのが怪しいのよね。
>>106 続けましょう。
>構造主義的探求はやはり学一般の可能性を目指すという意味で、
>(それがいかに洗練されていようと)オンティッシュなもので
>あったと思います(例えばレヴィ=ストロース)。
言われていることは非常によく分かります。
ただいわゆる構造主義者のなかで最も「オンティッシュ」にみえる
レヴィ=ストロースさえもが、構造の発生への反省から
存在の問いを定式化せざるをえなかったことは、
(「マルセル・モース論文集への序」参照)
むしろいわば構造主義の可能性の中心になっているのです。
この点をラディカル化したのが、ドゥルーズであれデリダであれ、
「ポスト構造主義者」たちであることはご承知の通りだと思います。
(続き)
>メルロ=ポンティに関して言えば、彼は文化的なものと
>自然的なものとが未分化で絡み合っているレベルにおいて
>それぞれの存在者が成立する過程を捉えようとしたんだと思う。
こういう言い方は構造主義的には非常に違和感がありますね。
なぜなら文化の秩序にとって自然とは端的に「他者」であり、
そうした「文化と自然とが未分化なカオス」があるのだとしても
文化的秩序の存立条件を遡行的に問うことで
(この問いが存在論に負うわけですが)
逆説的に見出される「語りえぬ剰余」でしかないからです。
文化の「外部」を「自然」や「身体」としてポジティヴに立てうる
とする立場は、それ自体が文化の秩序のなかでの分節にとどまる
にもかかわらず、それを超越すると称するのだから、何らかの
「形而上学」に行きつかざるをえない、というのが「構造主義以降」
を画する知見なのです。
(続き)
>『見えるものと見えないもの』に
>おける「赤」の分析や、プルーストにおける理念的なものと
>感覚的なものの絡み合いの分析を参照。
> とは言え、これらは単に文学的な分析ではなく、、我々が何かを
>思考する際に拠り所にせざるを得ない存在者の存在了解の
>様式の改鋳の試みである。
メルロ=ポンティの最晩年の著作に言及されたのは、しかし、
当を得ていると思います。構造主義的な批判が有効なのは、
一般に『知覚の現象学』を中心とした初期の著作だからです。
「身体(肉)」は「自然の形而上学」を連想させる点でその射程には
疑念がありますが、『見えるものと見えないもの』については、
眼差しの存在論が絶対的な不可視性に関わる論点において垣間見られ、
デリダが再読のプログラムを提案しているほどです。
(『盲者の記憶』参照)
(続き)
>この言い方は多少不用心かも。ハイデガー「ヒューマニズム書簡」にもある
>とおり、存在の問いを問うものはもはや人間ではない、という意味で、
>存在論は人間の問いではありません。つまり、存在の問いの主体は人間では
>ないのです。そうではなく、「存在において存在が存在を問う」のであり、
>存在の自己贈与なのです。
その通りです。
ただ「存在において存在が存在を問う」といったハイデガー特有の言い回しが
いかにもトリッキーであり、この場でいきなり使うのがためらわれたこと、
また『存在と時間』においては、存在を問える者の位置は、
結局のところ「オンティッシュには」人間にしか
その場を与えられていないがゆえに、
前回は括弧付きで「人間」と書いておきました。
(続き)
>110さんがメルロ=ポンティを
>「自然の形而上学」と言ったのは、もうそうなっていると考えたからなの
>でしょうか?
大雑把にはそうです。
が、すでに少し述べたように『見えるものと見えないもの』にはいくつかの
重要な「転回」のきざしが見られ、その限りでは「自然の形而上学」という
要約をいくらでも留保する用意はあります。
それから『ヒューマニズムとテロル』といった一連の政治的著作については、
また別の政治‐歴史的観点に立てば、読み直されるべきポイントが
いくつもあるように思う。
>>114 >貴方の批判が、どのような人種に向けられているのかが、よくわからないのです。
>後学の為に、誰に向けていっているのか(って人が悪い表現かな)ご教授お願いします。
ここ十年来のフランス系の哲学研究者の新刊で
コンスタントに出ている「まともな」研究書が
ほとんどメルロ=ポンティ(最近ではレヴィナス)関係であるということが
現象としてまず言えます。
(サルトルについては全共闘くずれか60年代生まれ以降の無知な連中が
知識人論がらみでジャーナリスティックに騒いでいるだけなので
ここでは区別します)(具体的な人名や書名は自分で調べて下さい)。
しかし明示的なブームとか動向とかというよりも、
構造的、制度的、イデオロギー的問題として考えています。
私は哲学科の学生だから分かるのですが、ごく単純な印象として、
哲学科の教師たちがメルロ=ポンティやレヴィナスを研究しても
構造主義以降の哲学者たち(フーコー、ドゥルーズ、デリダ、リオタール、etc.)
を教えもしないし読みもしないのはなぜなのか、不思議でなりません。
構造主義が登場してからもう何十年も経っているのに、です。
ちまたに溢れている現代思想の入門書をみれば、人口には膾炙していることは分かる。
しかし、上の世代の院生などを見ていてもフランス系の哲学研究者は、
型を押したようにベルクソンやメルロ=ポンティ(最近ではレヴィナス)を
研究するということになっている(さすがにサルトルは珍しいですが)。
哲学科で構造主義以降の思想を研究をすることはいまだにきわもの扱いに見えるし、
教師たちもまともにフォローしようとしていない。
というか、たんに哲学じゃないと思ってさえいる。
しかし、これこそ制度にとらわれた、哲学的思考の怠慢ではないのか?
要するに、こういう状況は、そのイデオロギー的構造そのものが
「サルトル、メルロ=ポンティの何処が悪い?」
と開き直っているように私には思えるのです。
『見えるものと見えないもの」は確かにOK
>>110さん。レスありがとうございました。
あなたの意見はよく分かりました。
たしかに構造主義以降の思想的インパクトは
しっかり考えないといけないと思います。
ラカンにおけるsujetの抹消や現実界の話は十分
存在論的ですしね。
構造主義以降が大学では教えられていないのは、いろんな理由が
考えられますが、大きな理由としては、それらが
流行現象として「消費」されてしまった(時代遅れになった)
と思われたからでしょう。日本は今も思想を流行として捉える傾向が
ありますね。確かにそこには知的怠慢があります。
ただ、それはそうとして、私としてはしばらくメルロ=ポンティに
拘泥していたいとは思います。
>構造主義以降の哲学者たち(フーコー、ドゥルーズ、デリダ、リオタール、etc.)
>を教えもしないし読みもしないのはなぜなのか、不思議でなりません。
なるほど。。
主にこうした思想を研究する人々は、哲学ではなく文学の人達に多いね。
それは、哲学科、哲学研究科というところでは狭義の哲学、
すなわち文献研究等に拘泥している人々しかいないからかもしれない。
日本では、哲学というものを限定して捉えようとする傾向がある。
海外では、哲学の枠を拡大していこうとする傾向がある。
フランスでは前述の人々は、哲学のジャンルに入る人々だろう。
しかし、日本では思想というジャンルの、哲学からはみ出たものとして扱う人が確かに存在する。
でも、デリダやドゥルーズについては
哲学で取り上げられる事も多いんではないだろうか、と思う。
まあ、私見だから何とも言えないが…
125 :
考える名無しさん:02/09/09 21:39
文学の人たちはフーコー、ドゥルーズ、デリダを
レトリックとしてしか捉えようとしない。つまり彼らの
多くは哲学的インパクトを単なるレトリックの問題に矮小化
してしまうのです。
でもデリダやドゥルーズは確かに日本の哲学界でも市民権を
得たような。
126 :
考える名無しさん:02/09/14 21:27
「見えるものと見えないもの」を読んでいるのですが、
とらえどころがなくてよく分かりません。
何かいい解説書がないでしょうか
127 :
考える名無しさん:02/09/14 22:23
>哲学的インパクトを単なるレトリックの問題に矮小化してしまうのです。
レフーコー、ドゥルーズ、デリダからレトリックをとったら何が残るんでしょうか?
128 :
考える名無しさん:02/09/14 22:27
メルロポンティの捕らえどころのなさや、フーコー・ドゥルーズ・デリダの
レトリックって、革命を志向する知識人の悪あがきとして総括されると
思うのですが、ダメですか?
129 :
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130 :
考える名無しさん:02/09/14 22:54
>>128 少なくとも、前期中期のメルロ=ポンティは当時最先端の
心理学、言語学、生理学、経済学などの正当な知見に基づいて、
自らの哲学を展開していた。そもそも彼がフランス最高峰の
大学であるコレージュ・ドウ・フランスに教授として招聘
されたのは、心理学担当としてであった(なみいる有力な
心理学者らをさしおいて)。そして彼のそれら諸科学の理解の
(当時の水準での)正当性およびそれら諸科学への貢献は、
現在でも否定されていない。
つまり、ラカンやボードリヤール、デリダらの数学や物理学の
引用はあくまでも比喩(レトリック)であって、それらの学問の
正確な理解やそれらへの貢献をねらったものではないのに対して、
メルロ=ポンティは関連諸科学に対して正当な貢献をしている
のである。
ついでに言っておくが、
勿論、おれはフーコー・ドゥルーズ・デリダらのレトリックを
多用し、重視する戦略の意味を否定するつもりはない。
また、後期メルロ=ポンティのとらえどころのなさは、それが彼の
死後に発見された草稿(のさらに下書き)であるためであり、
そのことをもってメルロ=ポンティを批判してもしょうがない。
(>>128)
>130さん
全く同意します。
これからもいい文章をお願いします。
>>132 いや、とんでもない、かえって
恐縮です(汗
134 :
考える名無しさん:02/09/17 03:48
130すごくないじゃん
121が疑念を持つ典型的「哲学科」思考だよ
ぶっちゃけ日本の哲学科では、
フランス系は
デカルト
ベルクソン
メルロ=ポンティ
レヴィナス
そしてリクールやメーヌ・ド・ヴィラン
の研究ぐらいしか「許されない」。
デリダをやる者はレヴィナス経由、
ドゥルーズの場合はベルクソン経由でかろうじて許容される。
こういう泣ける現状には、
「構造主義」「ポスト構造主義」を
単なるレトリックと捉える偏見が存している。
この偏見は文学系の責任ではなく、
そこに哲学的問題を見いだせない日本の哲学関係者の怠慢が大きいよ。
135 :
考える名無しさん:02/09/17 12:47
>>134さま
現在は「許されない」わけではないと思うよ。勿論昔は、
ある哲学者が死んで、その人の思想が完結し、その評価が
定まってからでなければ許されなかった、と言うことは
ありましたが。
ただ、構造主義以降の思想はラカン抜きでは考えられないが、
精神分析が哲学として受け入れられるかどうか、というハードルが
あると思う。哲学はある思想がいくら有益で有効でも、それを
「信じる」よりも「懐疑」を重視するが、精神分析は「明快さ」
「不可疑性」という点では劣るからだ。
そこら辺、メルロ=ポンティ自体も非常に苦労したし、
間接的にしか精神分析を論じることができなかった、と言う
事情がある。
でもフランスでもミシェル・アンリやアラン・ジュランヴィル、
ボルク=ヤコブンセンなどが精神分析の哲学的考察をやっているから、
134さんが明晰に論じることができれば、受け入れられると思うよ。
続き
ただし、哲学は基礎学力も重視されるので、少なくともカント、
アリストテレス、フッサール、現代フランスならそれにハイデガー、
フロイト、マルクスをきちんとやらなければ、厨房扱いされるよ。
>135
134が、なぜ括弧つきで「許されない」と書いているか、よく考えてみるべきだ。
もちろん研究することは建前上可能だが、回りの研究者たちに実質的には相手にされなくなる
のだ。教官たちも、やってもいいけど勝手にしろ、そんな感じではないかな。
哲学科で精神分析でもやろうものなら、アカポスは確実に遠のくだろう。
あげとく
137の言うとおりです。
あとメーヌ・ド・ビランだよな…
原書持ってるのに宇津だ
140 :
考える名無しさん:02/09/22 20:50
>137
うーん。まず君が学部生か修士か博士か、それ以上か
によって解答が変わる。卒論やM論をラカンでやる、
と言うのなら、教育的見地から、まあ、待て。となる。
課程博論のメインテーマでも難しいな。
ただPDや論文博士なら本人の意思を尊重して、純粋に
理論的に成立しているかどうかで評価されるのでは?
ただし、精神分析が哲学の批判的吟味に耐えられるかどうか、
君の手腕による。
アカポスについては、フランス哲学だけではそもそも無理だよ(w
君が東のように、東大京大早稲田慶応のトップでなければ。
続き 全くの私見だけど、
日哲や倫理学会の学会発表も、D1以上の若手ならば、
事実上、学問的価値で判定されるよりも、教育的側面
があるんじゃない? 公募論文読んで、そう感じるが。
だから院生の間はラカンで論文受かるかな?
もっとも、英米独系の審査委員は精神分析嫌いだろう
から、そのハードルが難関だろうし。
ドウルーズは以前日哲に受かっていたと思うが!?
142 :
考える名無しさん:02/09/22 22:10
いっそ概論ぶつしかないかもね
「なぜフランスでは精神分析が哲学的問題になったか」
とか。
しかし140の言うことはまっとうなんだが、
アカポスの厳しさの強調の仕方に違和感がある。
実力と関係ない人事も相当多かろうに。
>>140 おまえぜんぜん前のレス読んでねえな。
> 卒論やM論をラカンでやる、
> と言うのなら、教育的見地から、まあ、待て。となる。
> 課程博論のメインテーマでも難しいな。
なんでこういうことになるのかが、問題になってるんだろ?
あとフランス哲学を専門にして就職できた研究者(主にデカルト、
ベルクソン、メルロ=ポンティ専門)は別に珍しくない。
(哲学研究のアカポス自体の絶対数が少ないという問題は置くが。)
いまだ非常勤講師の東浩紀を引き合いに出して
「東大京大早稲田慶応のトップ」とか言ってるようだから、
アカポスの就職についてはそもそも何も分かってないみたいだがな。
144 :
考える名無しさん:02/09/22 22:21
135,140,141は、妙に高みに立った物言いからいって、
本当にアカポスかも。常勤講師とか?
しかしその諭す口調は、
書き込みを馬鹿にしているように思えるし、
ただの業界話に終わるから、何とかした方がいいぜ?
この問題は非哲学的な偏見に由来するのだから。
>>142, 144。批判は完全に受け入れる。
>>143 なぜラカンが難しいかというと、業界や研究室の問題ではなく、
もともと哲学じゃないからだ。
精神分析は臨床に基づいた学であり、言語化できないような体験に
多くを依存している科学だからだ。哲学は基本的に全てを明晰に言語化
する営みなんだ。でも、道が閉ざされているとは思わない。
ただ、険しい道のりを経ないといけないのは確かで、何年もかかるかもよ。
だから院生には勧めないんじゃない? 本質的に教育的理由。
フーコーは良いようだよ。
あるいは本当にポストモダン嫌いの研究者が多いのも原因だと思うが。
特に分析系。彼らは20c仏哲学全体(ポンティも)を抹殺しようと
思っている。
東は相手にしてなかったからまったく読んでない。デリダは原書で
読んでるから。
146 :
考える名無しさん:02/09/23 00:06
でも分析のフランス嫌いって、
アメリカでの学科争いに起因してるんだよな。
メルロ=ポンティって英米では芸術家が読んでいたみたいだし。
「哲学科」からかなり多くの要素を締め出してしまった愚を、
日本で繰り返すのはどうかと思うよ。
知的キャパが狭いのかね?
そもそも、マルクスやフロイト(場合によってはニーチェ)も
哲学としてやっている人は少ないでしょ?
そういう人たちをやるには、思想史が一番いいんじゃない?
アドルノだって哲学としてはきついという人もいるし。
思想史は哲学科の中にあるが、厳密に言うと哲学ではないけど、
間口が広いから、ポストモダンの受け皿にもなるかも。
思想史学会も風通しがいいらしいよ。
>>146 アメリカの学科争いの話は知りませんでした。
どんな感じだったんですか? エイヤーみたいのが
あばれていたり?
149 :
考える名無しさん:02/09/23 00:18
>>148 アメリカでデリダを受け入れたのが、
比較文学科だったことに端を発する一連のゴタゴタ。
ローティーなんかが記述しているよ。奴は中立スタンス。
他にも、
オックスブリッジのどちらかでデリダに名誉博士号を授与するのを、
分析哲学者が反対したりとか。
ひどい悪口として、
「奴らは排中律を認めないから論理的思考ができない」
というのがあるよ。
>>149 教えてくれてありがとう。
ローティ読めば出てるんだね。
151 :
考える名無しさん:02/09/23 06:11
下がっていたので来てみた。
で、142さんがおもしろい問題提起をしていたのを思い出した。
>いっそ概論ぶつしかないかもね
>「なぜフランスでは精神分析が哲学的問題になったか」
結構本質を突いた問題提起だとは思わないか?
最近の仏哲の凋落は、脳科学などの進歩で、フロイトの人気が
なくなり、また反精神医学運動(レインやガタリ、フーコー等の)
も失敗に終わったから、親亀こけたら、子亀、孫亀も…と言う
感じじゃない? まあ、フーコーは歴史哲学(正確に言うとバシュラール
以来のフランス・エピステモロジー)で生き残ったのかな?
あるいは権力論か後期の倫理論などで。
でも、そもそもなぜフランスでは精神分析だったんだろう?
153 :
考える名無しさん:02/09/23 20:45
イポリットが重要人物では
>>153 レスありがと。もうちょっと
情報頼む。
155 :
考える名無しさん:02/09/23 20:56
>>154 ラカンスレで前にそういうカキコを見ただけなんだが、
ラカンともつながりがあったみたいだし、
ヘーゲル研究者なら相性も悪くないと推察した。
>>155 レスありがと。
まあ、イポリットはラカンと仲良しで、セミネールの常連でも
あるしね。ただ、ボルク=ヤコブセンによると、ラカンは
コジェーブのヘーゲル解釈の影響が強いらしい。
でもヘーゲルとフロイトって、相性いいのかな?
第1印象では、かなりアクロバティックな気がするけど…
でも、それがうまくいくんなら、ラカンの哲学化も
可能になるのかな?
157 :
考える名無しさん:02/09/23 21:38
ボルク=ヤコブセンは鵜呑みに出来ないよ
158 :
考える名無しさん:02/09/23 21:57
>>140 > でもヘーゲルとフロイトって、相性いいのかな?
直接にはどうか分からないけれど、
ジジェクの活躍は事実上、相性のよさを証明している。
そうかな
160 :
考える名無しさん:02/09/23 22:17
ジジェクは「精神分析学部」に博論出したはず
>>157 私は最近ボルクを読んでいるんですが、
ボルクがダメだというのは、何か理由がありますか?
>>158 ジジェクはラカンスレではかなり叩かれていましたね。
かわいそうなくらい。やりすぎかな、って。あのスレは良スレ
だったけどね。でも、ラカンは熱烈なファンがいるからな。
おれもラカンについてはあまりしゃべらない方がいいかな?
地雷を踏んでしまう。
そうしたほうがぃぃょ
163 :
考える名無しさん:02/09/23 22:26
>>161 だめじゃないよ
ただ、彼はフロイト以前の催眠療法に関心があるから
中立的記述ではない。
面白いんだけどね。
ラカンの話してもいいと思うよ
メルロ=ポンティが長生きすれば…
って言われているし。
>>163 レスありがと。おれはラカンにはそれほど
くわしくないんで、みんないろいろおしえて下さい。
ボルクは最初ラカンの研究者だったけど、催眠療法の
関係で(かな?)ラカンの批判者になったらしいね。
まあ、他にも理由があったようだけど。
165 :
わかりません:02/09/24 03:18
のぞきにきました。
メルロ=ポンティの哲学的展開を簡単にスケッチすると、初期の科学的諸成果を
現象学によって哲学的検討の俎上にのせたことと、中期のソシュール言語学の
検討と、後期のハイデガーを摂取したことによる存在論の再検討でしたが、
今後、もし展開があるとしたら、ハイデガーの存在論を摂取した上で、改めて
科学的諸成果との対話がどう可能であるかということであったと思います。
もちろん、このような問いを立てるのにはある種の危険があるのであって、
後期の立場が、知覚の現象学のような前期の現象学的立場の否定なのか、
延長なのかをはっきりさせる必要もありますが、彼にとっては、後期の研究
ノートを見る限り、科学の諸成果をもって哲学の現代的意義を検証しつづけ、
かつ、生気づけることこそが最初期の研究プランから一貫して課題であった
のではないかと思います。
この観点から再度読み直してみると再評価の余地はあるんじゃないかと愚考しております。
>>165さま。いま、久しぶりに旨い日本酒を飲んで帰ってきたら、
なんかかなりハードな、これぞ玄人、と言う感じの、でもこの
かなりの圧縮ぶりは、あなたもお酒飲んでるんですか?って
感じのレスが来ていました。でもかなり硬質な問いなので、
ちょくにお答えできません。だって何重もの問いが圧縮されて
ますから。私も酔っています。
ただ、後期思想に関しては、なんかゲシュタルト理論に
戻った感じで、それである程度説明できるような印象があります。
(ソシュールはどこへ行ったんだ?)
でもまともな答えは後でします。もう寝ます。ごめんなさい。
167 :
考える名無しさん:02/09/24 04:28
めるろさんは自然哲学を構想していたはず
>>167さま。酔ってますが、自然哲学と言うことで
なにを意味しているんですか?私はそれがよく
分からない。もう少し書きこんでくれ
169 :
考える名無しさん:02/09/24 04:39
加國の本の主題では?
>>165さま。今しらふで読んでも、かなり難しい
問いですね。あなたは後期のメルロ=ポンティが
どういう科学を視野に入れていたと思いますか?
169さま。加國さんはいいですね。彼のシェリング−
メルロ=ポンティ論はすごい良かったです。
彼の「自然の現象学」はまだ読んでいません。
不勉強ですね(汗 ただ、最近は他のことが忙しくて、
なかなか現象学の勉強ができないんですよ(言い訳
171 :
わかりません:02/09/26 01:37
140様、酔ってたら、もっとまともなことをかけたのにと後悔しています。
案外メルロ=ポンティは後期になっても自然科学について関心があったようで、
核物理学でしょうか、人工的に生成された元素の存在を存在論的にどのように
捕らえられるかというようなメモが残っていたりするじゃないですか。
存在論的には、そんな問いを立てるのは愚問ですが、彼は割りかしマジにそう
いう問いを立てたりするということは、何か科学との対話を求めているんだな、
と読めるような気がするんですよ。
詳しく検討していないんですが、相対論や量子論にも関心があったようで。
ちなみに、物理化学者のマイケル・ポランニーは彼の哲学をもっとも評価
していました。
>167
あー、自然哲学ですね。そうですか・・・。
>>171さま レス遅れてすみません。
物理学ですか…。私の苦手分野ですね。すみません。
あまりまともな答えができませんが、それをご承知下さい。
>人工的に生成された元素の存在を存在論的にどのように
>捕らえられるかというようなメモが残っていたりするじゃないですか。
そのメモはどこにあるのですか?『見えるものと見えないもの』ですか?
そういえば『シーニュ』にアインシュタイン論がありましたね。
『世界の散文』でもアルゴリズム批判が出ていました。
ただ、科学哲学として、現象学にどれほどのことが言えるかというと、
私はかなり疑問です。そもそも、現象学は虚数や複素数を、あるいは
集合論をどう捉えるのでしょうか。私の方こそ教えてもらいたいです。
173 :
わかりません:02/09/28 02:06
では、うつらうつらとつれづれなるままに・・・。
メルロ=ポンティの知覚の現象学を読んでいると、おかしいよなーといつも思うの
ですが、主知主義と経験論を批判するにもかかわらず、主体とか客体という言葉が
不用意に出てくるのはなぜだろうとずっと思っていたんですね。
彼が知覚の現象学の序文で述べていたのは、現象学についてであって、そもそも
現象学は科学の否認であって、それ以前に立ち戻ることを要求するのではなかったか。
しかし、世界への主体としての身体という表現を不用意にしてしまうあたり、
どうも解せないというのが、率直な印象だったんですね。
その意味では知覚の現象学というのは、内容豊富で何のイデオロギーなしに言えば
なんかすごくモダンな哲学という感じですが、現象学・存在論としては、う――ん
というところですよね。しかし、何か可能性を感じさせてくれるものであることは
間違いないわけです。
それはやはり哲学による科学、人間諸科学の諸成果の哲学への摂取の方途であった
のではないでしょうか。
もっともハイデガーだってそういうことをしなかったわけでもなく、文化人類学や
ユクスキュルの環境世界(Unwelt)論をそのまま持ってきたりしてるじゃないですか。
ハエの見ている世界と人間の見ている世界の比較図がある例のやつです。
つづきはあとで・・・。
>>173さま
>主体とか客体という言葉が不用意に出てくるのはなぜだろう
確かに「見えるものと見えないもの」の何カ所かで、知覚の現象学を
そう自己批判していましたね。伝統的な意識の哲学を乗り越えようと
しているのに、「主体、客体、意識」という用語を使用しており、
伝統的思考の呪縛から逃れられていない、と。ただ、ティリエットは
その批判は自己にきびしすぎると言っていましたね。
ところで、メルロ=ポンティは科学を否定したわけではありません。
科学は客観的思考を不可欠とする限り、それが捉えられないもの
があります。それが存在者の存在です。それを注意深く見つめ
続けるのがが現象学の役割だ、と。
たしかどこかでメルロ=ポンティは、現象学は科学とともに、あるい
は科学の後ろから歩くんだ、と言っていました。
175 :
考える名無しさん:02/09/29 02:08
存在の牧人age
176 :
わかりません:02/09/29 12:42
140様
>科学は客観的思考を不可欠とする限り、それが捉えられないもの
>があります。それが存在者の存在です。
そのとおりだと思います。彼の考え方に従えば、哲学は科学の身元保証人であると
いうこともいえそうです。
「見えるものと見えないもの」の中でアインシュタインを批判して、極度に抽象化
された物理学の諸概念であっても、私たちの知覚的信念を前提としていることを強
調しています。
物理学の諸概念にせよ、私たちの哲学上のタームにせよ、それらによって世界を自らが
把握している把握の仕方というものを反映しつつ拡張しているのであって、そこから離
れて純粋に抽象的な知というものがあるかのように振舞うのは都会でブイブイいわせて
る人が自分の出身地を偽るようなもので、不誠実だということもいえると思います。
ポランニーがアインシュタインに手紙を送って、あなたが16歳のときに空の星を見上
げて瞑想にふけっていたあのころ、すでにあなたの頭の中には相対性理論が出来上がっ
ていたのであって、それを表現するのに長い年月が必要だったのでしょ?と問いただし
たところ、そうだという返事があったそうです。
抽象化され制度化された学問の訓練と、世界について、存在者の存在を了解することと
は異なるのだということを示す例だと思います。
177 :
考える名無しさん:02/09/29 14:00
>>176さま
おっしゃることはよく分かります。例えば「知覚の現象学」でも、
どんなに抽象的な科学的概念でも、それは身体の運動能力(身体的
志向性)に基づいている、と言っていますね。(立方体という抽象的
概念が身体性に基づいているということに関して見事な分析があります)
ただ、それだけで現代の科学哲学者が満足するか、と言うとそうは
思えません。ここでは英米系の議論は少しおいて、地味ですがフランスの
科学認識論(エピステモロジー)の伝統について述べます。
それは歴史的な観点からの分析に特徴があって、科学的探求における
社会制度との関係、科学者集団における派閥争いの影響、
実験手法の発展など、いわば裏面からの研究があります。
178 :
考える名無しさん:02/09/29 14:13
続き
アインシュタインが子供のときに相対性のイメージを
もっていたというのは有名な話ですね。だけど科学哲学では
抽象的概念が存在体験に由来する、と言うだけでは
十分ではないでしょう。だから、虚数や複素数の概念を
どうするのかという問いをたてたのです。でもそこは
現象学の範囲を越えているのかな?と。
例えば、子供(数学者でもいい)が計算を覚えるとき、
何度も練習して、身体に覚えさせます。しかしそうして
習得されたものとは独立に、数学自体の自律性・妥当性は
存立していると思います。
あるいは、数学基礎論では数学の無矛盾性を証明しますが、
その証明自体は現象学を越えているのでは?ということです。
179 :
わかりません:02/09/30 01:56
140様
>ただ、科学哲学として、現象学にどれほどのことが言えるかというと、
>私はかなり疑問です。そもそも、現象学は虚数や複素数を、あるいは
>集合論をどう捉えるのでしょうか。私の方こそ教えてもらいたいです。
>数学自体の自律性・妥当性は存立していると思います。
この問いは伝統的な問題ですね。この伝統的な問いに対して現象学が有効な回答を提供
できるとは私も思わないんですよ。数学の諸概念についてはほとんど知りませんが、現
象学が現象についての学であり、あくまでも暫近線を描いて事象へと近づいていくもの
である以上、概念を直接に動かすものでもなく、近似値的なものしか得られないからです。
ラッセル等のプリンキピアマテマティカに至るまで延々とされてきた議論でしょうが、
だとすると、まだ可能性があるのはスコラ哲学の概念操作などかな、という話はスコラの
人から聞いたりはします。
180 :
わかりません:02/09/30 02:13
続き
数学を含む科学基礎論ということであれば、現象学は分析哲学が行ってきたような
成果を出すことはないでしょうし、おっしゃるような科学認識論、最近の傾向として
の科学社会学・知識社会学的方向などがあることも承知しています。私の蔵書には
科学的発見の現象学なるタイトルの知識社会学の本まであります。そういう方面でなら、
現象学が科学に対して何がしかをいえるのでしょうし、同様に解釈学にも発言の余地は
充分にあります。
但し、どうなんでしょうね、科学哲学の課題としては、科学的発見とは何かということ
を科学哲学の範囲内で説得的に明らかにする必要があるのではないかと思います。
分析哲学や初期の論理実証主義者が行ってきたような試みを科学哲学というのであれば
そうですが、一回的な存在体験というのであればいざ知らず、また、単位時間あたりの
計算能力が向上したからといって、科学的発見というものが能産的になるものでしょうか。
181 :
考える名無しさん:02/09/30 02:20
>>わかりませんさま。
現象学は人文科学、社会科学、精神医学に関してはまだ
かなりのことができると思うのです。ただ、自然科学に
関しては、存在忘却、という程度でしょうね。
スコラ=現象学という著作は以前出ましたね。
ただ、科学哲学に関するスコラの有効性はどうなん
でしょう。詳細をお願いします。教えてください。
私も昔はスコラやったナ…、でも完全に忘れてしまいました。
182 :
考える名無しさん:02/09/30 02:28
181=140です。
>>わかりませんさま
180 のレス、今読みました。一番最後の問い、もう少し展開
していただけませんか。
科学的発見の考察に関しては、従来の科学哲学の範囲を越え、
現象学的なもの(あるいは生の存在体験)に降りて行かなく
てはならない、ということですか?
「一回的な存在体験というのであればいざ知らず、また、
単位時間あたりの計算能力が向上したからといって、
科学的発見というものが能産的になるものでしょうか 」
という文章の意味が分からないのです。
>>100 亀レスだが、鯨岡峻の「成り込み」理論は、少なからず廣松渉の影響があるみたい。
影響があるか、もしくは共通点があるか。
185 :
わかりません:02/10/02 02:08
140様
スコラについては勘弁してください。
科学的発見についてですが、これが科学をダイナミックなものにしていると思うので
すがある科学的に定式化され新たに表現された固有の存在体験のことを科学的発見と
仮に定義した場合、このダイナミズムは存在体験と定式化のせめぎあいから生まれて
くるのだと思います。ですから、極論しますと、スパコンがいくら普及したとしても
、そうは大理論は生まれてこないということです。大いに育てはしますけれど・・・。
ところで、アインシュタインの偉大さは、その固有の存在体験がとてつもなく深いと
いうことと見事に定式化されているという点です。しかし、逆に以後その体験から抜
け出すことなくそれ以後が不毛でした。
私もうまく表現できないのですが、連続した自覚的な存在体験というか、方法的存在体
験とでも言うのか、科学的存在体験とでも言うようなものが実はあるんじゃないか、と
考えていまして、何か適当な言葉が浮かびませんが、エランビタールのようなものこそ
が、科学上の発見を支えているのではないかと思います。そして、生の跳躍の担い手と
しての言語というものがあって、初めて発見ということが可能になるのではないかなっ・・と。
精神的に酩酊状態で・・・。
わかりませんさん、面白い。(^^)
ポパーとメルロ=ポンティは現代ではどう絡むでしょうか?
>>186禿道
>>わかりませんさま
あなたのおっしゃることには全面賛成です。
でも文体もすばらしいですね。
ただ、わたしが考えていることは、一つには、
アイデアが文字(例えば数式に)表現されること
の創造力です。 あるいは実験装置が発明・改良
されることにともなう研究者の創造力の進歩です。
つまり、アイデアが物質化され、さらにはそれが
(出版されたり、研究機関の設置などの)社会制度に
組み込まれること自体のもつインパクト、生産性です。
ちょっと漠然としているんですが…。
>>187さま
すみません、わたしじつは分析DQSです。
ここは匿名なので思いっきり恥をさらしてます。
こちらのほうこそ教えてください。
189 :
わかりません:02/10/03 02:26
140様
ありがとうございます。う-ん、私もうまく表現できませんねえ。個々の発見の蓄積
が自然現象を解釈し理解する上での有効なラングの体系となっていくというのは確かに
そうですし、記号論的解釈を実験装置のレベルにまで当てはめれば、そこに沈殿してい
った創造力を見出すことができるでしょうね。実はプロジェクトX大すきなんです。
ひょっとすると、エクリチュールとしての発見というコンセプトはどうも成立しそうですね。
ちょっとはしょってしまいましたが、続きは後ほど。
187様
私はサイバネティックスで科学的発見が可能だとは考えませんし、厳密に科学と
非科学との境界線を設定することには興味がありません。またポパー流の科学主義
に対してポンティさんが何か関心を示すとも思いません。
ポパーが日本にきた時に、失礼にもあなたの哲学はサイバネティックスだといった
大先生から聞いた話だと、彼は必死になって抗弁したそうですが、抗弁するほどま
すますサイバネティックスであることが疑い様のないものになっていったそうです。
科学を科学主義でもって擁護するなどおかしいでしょ。
そんな感じです。
>>わかりませんさま
>記号論的解釈を実験装置のレベルにまで当てはめれば、そこに沈殿してい
>った創造力を見出すことができるでしょうね。実はプロジェクトX大すきなんです。
>ひょっとすると、エクリチュールとしての発見というコンセプトはどうも成立しそうですね。
まあ、プロジェクトXはわたしもすきですが(w
それはさておきエクリチュールや記号となること、それは直ちに社会制度に
組み込まれることですが(なぜなら前者は後者を前提しているから)、
その創造力が科学のダイナミズムを支えている、と愚考しています。
(フランスエピステモロジストは実際の実験装置の精度の向上とか、
大学の制度とか、もっと具体的な話に注目しています)
ただ、私は科学論に関してはDQNです。
191 :
考える名無しさん:02/10/07 02:05
age
192 :
わかりません:02/10/08 01:58
140様
おそくなりまして・・・。
エクリチュールとしての発見ということをいうと、2つのことが言えると思うのですね。
つまり、ラングの生成の次元を重視するか、パロールの生成の次元を重視するかという
これによってニュアンスが違ってくるのですが、存在体験の社会化・制度化ということに
力点をおくと、発見は知識社会学的に取り扱われていきますし、存在体験そのものに力点
をおくと、存在論になっていくような気がするんですね。
しかし、このように表現すると、存在体験が非言語的なものと誤解されてしまう恐れがあ
ります。そうではなくて、言語行為の担い手としてのパロールの次元というものがあって、
それによって存在の分節化が可能なのだということを中期から後期にかけて彼はいってい
たように思うのですね。もちろん、彼が身体という場合、言語行為のエレメントとしての
身体であることを忘れてはならないと思います。
もっとも、このように表現するのが何か実体論的で、満足できるものではありませんが・・・。
193 :
考える名無しさん:02/10/08 02:05
メルロ=ポンティとサルトルの論争ってどうなったの?
カミュとも論争したらしいけど。
>>192さま レス遅れて済みません。おっしゃっていることには
だいたい賛成です。
ところで、「知覚の現象学」では身体は実存の
運動の担い手でありつつも、実存の惰性態でもあります。
しかもそれは制度化されたものとしての惰性態です。
しかし実存の運動は惰性態としての身体をスプリングボード
としておのれを可能とするのですね。身体の物質性、惰性性が
身体的運動の可能性の条件なのです
わたしが社会制度の創造性というとき、科学的活動と
社会制度との関係もそのように考えています。
物象化論がいうように社会制度は単なる受動的な、人間を拘束・疎外する
だけのものではなく、むしろ半面では自由の可能性の条件なのでは、と
考えています。
ところで、192さんの言葉に従えって言えば、制度化されたエクリチュールは
身体を媒介することで創造性をもつとおもうのですが、デリダはその際の身体の
働き(能動でありかつ受動的であるという両義性)を過小評価していると思います。
>>193さま そこら辺の話は私より詳しい人が沢山いる(特にある世代)と
思いますが、簡単に言うと、ソルジェニーツィンの「収容所群島」が出たとき、
サルトルはスターリンを擁護したけれども、メルロ=ポンティはそれを批判した。
結局メルロ=ポンティのスターリン批判が正しかった、ということでは?
>>193さま
自分で書いておいてなんだが、上の193へのレス、自分でも
乱暴でそっけないな、と思った。だれか詳しい人います?
196 :
わかりません:02/10/12 00:52
140様
デリダを評価するのは私の手にあまりますので、なんともいえないのですが、
私は、ロランバルト的なエクリチュールを考えていたのですね。つまり、
いささか単純化過ぎますが、ラングとパロールの間に位置するエクリチュール
であって、時々の会話の文脈や状況によってもどんどん生成されていくかなり
動的なものです。これに対してデリダの言うエクリチュールは、書かれたもの
としてのエクリチュールであって、私には静的なもののように思えます。そう
いう意味ではデリダ的なエクリチュールに対するあなたの批判は正しいと思い
ますが、バルト的にはどうでしょう。お教えください。
>195
これは、ひょっとするとヒューマニズムとテロルをめぐるやり取りでしょうか?
私にはわからない話ですねえ。
197 :
考える名無しさん:02/10/12 02:03
デリダはエクリチュールに関してルソーを主題化している以上、
啓蒙の暴力が問われているのでしょう。
メルロ=ポンティがいう「ヒューマニズム」との関連を見いだすことは可能だと思います。
196さま。わたしの方が「わかりません」と名のりたくなって
きました(w。
バルトだと、エクリチュールはパロールとラングの間にあるのですか?
デリダの場合はパロールの根底にも原エクリチュールがある、
という考えですね。私が生の声で自分のことを「コギト」と発声するとする。
しかしそれが発声された瞬間には、その記号によって示されようと思っていた
ものは過ぎ去ってしまう。いわゆる「差延」ですね。
しかしそこに開いた空虚は即座に他の記号によって埋め合わされてしまう。
「真空への恐怖」のようなものがあるのでしょうか。
ともかくそれが「根源の補填」です。
そこからもう一度考え直してみると、実は「生の体験」といわれるものも、
記号を介して、記号との差異としてしか捉えられない、ということがわかる
のです。
これがデリダの思想だとすると、記号と記号が指し示そうとするものとの
関係はネガティヴなものにすぎません。もちろん、「生の体験」を直接的に
語ることはできません。しかし、それと記号とのダイナミックな関係に関する
綱渡り的な思考をメルロ=ポンティはやっていたのではないか?と思います。
197さま。もうちょっと書いてください。
つながるかどうかわからないのですが、メルロ=ポンティの政治思想に
関してはルカーチの受容が重要かと。
>1 結論を見付けて安住
私の心の敵ですね
200 :
考える名無しさん:02/10/13 13:31
2*0=0
201 :
わかりません:02/10/16 01:51
パソコンがクラッシュしていたので、レスが遅れています。
申し訳ございません。これで三連休もつぶれてしまいました。
メルロ・ポンティ略して「メロチン」
204 :
考える名無しさん:02/10/16 23:48
めるろんコレクションは本当に中途半端だと思った。
古本で400円だったがやめたよ。
主体はシュジェ、客体はオブジェ、原語にするともうちょっと「主知」とかから
離れたニュアンスになると思う。でもメルロ=ポンティがそこばっかり突っ込まれて、
自身も検討してたってことは、「存在論」からの問いに答えることこそ哲学的だって
思ってたっていう時代背景もあると思う。が、そこでハイデガーの罠にはまれば、
「絶対矛盾的自己同一」とかっちゅー西田哲学みたくなってたでしょう。
例えば大澤真幸がスペンサー=ブラウンの独自の数学的構造を身体論に応用してる
のなんかは、主:客に、ベクトルの始点と終点くらいの重みしか与えないことで
存在論をネグる上手い方法だったわけです。
因みにハイデッガーは現存在(ダーザイン)とか
フォルシュテレン(存在は前に向かって存在する)とか使って、
「差延」の如く、ある種の驚きと戸惑いを伴って、
存在が後ろ向きに発見されるってことを言ってなくて、
我は予め存在するんだー、文句あっかー!って感じだよね。
207 :
わかりません:02/10/19 02:38
140様(パソコンも何とか回復しました)
20年も前のものを持ち出してきてああだこうだと・・・、さび付いていたようです。
基本的に言いたかったことはこういうことです。
やや単純化していうと、私的言語であるパロール(ことば)は、個人の実存の中に
その起源を見出すことができるようなものでありつつ、発生するもの、浮かび出て
くるものであると定義できるかと思います。これに対して、言語としてのラングは、
社会的な言語行使に必要な道具としてのコードであると定義できると思います。
この間に私がエクリチュールをおくのですが、ここでよく例に出すのがすし屋での
用語です。すし屋という特殊に閉じた社会では、言葉遊びや洒落として飯のことを
シャリといったり、蝦蛄(シャコ)のことをガレージといったり、うなぎのことを
マンボといったりします(うなぎのウをとって、ウッ〜、マンボッというわけです)w。
いきなりうなぎのことをマンボって言っても、誰もわからない個人の実存のストレ
ートな発現としてのパロールの次元にとどまりますが、理由はこうだと説明が通じる
範囲内では、洒落の聞いた言葉遊びとして通用しますよね(今度使ってください)w。
文学としてのエクリチュールとは、このようにラングとパロールのせめぎあいの中から、
ラングがパロールによって差異化されること、新しい意味を創造的に付帯されること
であると考えています。
208 :
わかりません:02/10/19 04:07
調子がいいので、ネットの恥は書き捨てっということで・・・。
>198
デリダについての内容は、私には理解しにくいですね。
説明がというより、先に140氏がおっしゃった身体を過小評価ということにつながるのですが、
例えば「あなたはとっても美しい」という言明や「コノヤロー!」でもなんでもいいのですが、
これらの言明は意味内容そのものを超えて対象に対しての働きかけという意義をもっていますよね。
こういうことばが使われるような場面を想像してみても、大体、抱きついたり、殴りかかった
りしていますし、すでにそういうことば自身が具体的な行動と同様の意味を持っていると思い
ます。言語が対象に働きかけるということは、記号が指示・指示されるの関係を超越した意義
をもつということをあらわしていると思います。
思うのですが、生の体験が実体としてことばなくしてありうるのではなく、生の体験自体がす
でにことばなのであって、もっといえば言語行為としての生の体験があって、メルロー=ポンティ
は身体の両義性というとき、言語行為の担い手としての身体を考えていたのではないか、すでに
身体がことばなのだということを言いたかったのではなかったのではないでしょうか。そして、
身体的次元からの超越としてのパロールということを考えていたのではないかと思うのですが、どうでしょう。
>>205,206さま。遅レス済みません。でも、ちょっと乱暴だな、
と言う印象を持ちました。ハイデガーにしてもメルロ=ポンティ
にしても、彼らが存在論を持ち出したのは主観−客観の二元論
ないし二元性の構造を壊すためのものだったのでは?
スペンサー=ブラウンは知りませんが、ベクトルの
終点・始点と言うよりも、〈存在〉という一つの炸裂
から発する二つの方向みたいな。
あと、Vor/stellenは現代テクノロジーの起源を
ギリシャのテクネーに求めたときの議論でしょ?
>>わかりません様 パソコン回復おめでとうございます。
私は去年Win2000にしてから、すごく快適です。XPより
安定しているかも知れません。(w
>207洒落の聞いた言葉遊びとして通用しますよね
(今度使ってください)w。>ぜひ使ってみます。(w
ところで、おっしゃるところだいたい分かりました。
『知覚の現象学』での基本的スタンスは、パロル=所作説
ですね。ただ、抱きついたり殴りかかる所作とパロルが全く
同じか、と言うと疑問です。(続く)
210の続き
なぜなら、パロル(ジェスチャーも含む)の本質には
(1)対他性(他者に向かう)(2)代理性(その所作とは
異なることを示す)と言うことが不可欠な条件であるのに対して、
通常の所作は、(1')必ずしも対他性はない、(2')所作自体が
所作の目的である、と言うことがあるからです。
ところで、(2')に対して、そのこととその所作が他の目的の手段と
なっていることと矛盾はしません。例えばパソコンのボタンを押すと
言う所作はパソコンを起動させる目的の手段ですが、ボタンを押すと
いう所作自体は、実際に押すことができればその目的は達成される
からです。
なんかパロールとエクリチュールのすし屋の喩えは違う気がする。
ラカンが「無意識は言語だ」って言ったのと、
メルロ=ポンティが身体=言語って示唆してたでしょう、というのは、
根本的に違うでしょ。
ラカンはラング、パロール、エクリチュール問わず、
言語を「象徴的なもの」として捕らえてるわけだから。
パロールによる身体的次元からの超越????
パロールが「実存」の確認を可能にするわけ?
『仲間同士のジャーゴンで喋ってると「生きてる」って気がする』ってか?
213 :
わかりません:02/10/19 23:13
212殿
私にはラカンはワカランので、なんとも・・・。
「パロールという名の『生の哲学』」みたいなのは、
なんか安直でぬるい救済な気がする。
>>力さま。論争は大歓迎です。がんがんやりましょう。
で、ラカンは「無意識は言語のように構造化されている」
といって、無意識の全てを象徴界に還元するのですが、
それに対して、最近では批判が高まっているようですよ。
例えばボルク−ヤコブセンなどは象徴界に還元されないものを
重視し、その再評価をミシェル・アンリからひっぱてきています。
例えば、デカルトのcogitatioは思惟に還元されず、感覚をも含む、
とか。その場合の感覚は、〈存在〉を与えるものとして、存在論的な
ものである、とか。もちろんそれはpositivなものではなく、
negativにしか語れないのですが。しかし「否定的存在論」とは後期
メルロ=ポンティの言葉です。
もちろん、力さまのいうことも分かるのです。
生の体験をあからさまに語るのは、新たな形而上学の入り口だ、
と言うことですね。ただ、だからといって、それを存在しないと
語る構造主義は明らかに行き過ぎで、ポスト構造主義は「自らの
語りえないもの」(かつては「生の体験」と言われていたもの?)
に対する感受性は鋭かったと思います。
217 :
わかりません:02/10/20 07:27
>140様
140様はタフですねぇ。私もwin2000は会社で使っていますよ。うちのは98ですが。
実は、エクリチュールの捕らえ方は、私自身の解釈がかなり入っているので、一般的ではないのですが、
ラングとパロールの定義それ自身は、ほぼソシュールの定義です。
私は家族の間や仲間内でのみ通用することばの世界を考えていたのですが、ここに普遍性や社会通念
のようなものを当てはめ正そうとする試みはナンセンスであり、逆に何も生み出さないということを
明らかにしようと考えました。
と、すると、科学とは客観性やそれを維持する厳密な諸制度によってはじめて動き出すものですが、
科学とてわれわれの言語行為から一歩も離れられない以上、客観性とは共同主観的なものにならざる
をえないと思いますし、いわゆる論理実証主義の掲げていた客観主義の理想はここにもろくも崩れて
しまい、パラダイム的なものを考えなくてはならない根拠のようなもがあると考えます。同時にこれ
は科学にとって健全なことであるとも思うのです。
メルロー=ポンティが初期から試みていたのは、知の始原に立ち返ることによって、客観主義を破壊する
ことであって、これは後期まで一貫して行われた試みであったということをこれまでの一応の結論とい
たします。
例えば統合失調症(分裂病)の人がここにいるとしましょう。
彼の話す言葉は、いわば「超パロール」みたいなものですよね。
では、「正常」な人間の言語や感覚を「統合」しているものとは何ぞや?
それを「実存」とか「存在」とか呼ぶとしたら、失調症の人は「存在しない」のか?
140様、私はラカンへの最近の批判に懐疑的です。
フロイトの構造分析版であるラカンの主張は、
臨床医としての立場にある意味で「拘束」されており、
しかも『エクリ』そのものはかなり解釈の多様性を生んでしまうものです。
(ラカンは事実としてその主張の骨格を「書いて」いません。)
ポスト構造主義が、分裂病者の環界をある種のパラダイスとして賛美し、
そこからラカンを批判した時に、「私は臨床医だ!」って返したでしょ。
>>分かりませんさま。
>...ということをこれまでの一応の結論といたします。
大体賛成です。そういうことにしておきましょう。
(ただ、科学に関しては数学、論理学をどう捉えるか、実験
装置やデータの客観性(解釈は恣意的かも知れませんが)を
どう捉えるか、と言うことが残っていますが)
力さま。
>失調症の人は「存在しない」のか?
統合失調症の人は自己の存在や他者の存在に関する
存在了解の働きが壊れてしまっているのかも、
というのが存在論の側からの解釈かも知れません。
>ポスト構造主義が、分裂病者の環界をある種のパラダイスとして賛美し,
ドウルーズやガタリとかですか? エディプス・コンプレックスと
スキゾフレニーとどちらが根元的なのでしょうか。私には分かりません。
今、遅ればせながら、ラカンを勉強し始めているところなので。
ドウルーズはまだ先です。
220 :
考える名無しさん:02/10/21 22:00
age
>エディプス・コンプレックスと
>スキゾフレニーとどちらが根元的なのでしょうか。
どっちって言われても…
とりあえずラカンの「シェーマL」を抜けるのが「アンチ・オイディプス」で、
その先に広がっているのがスキゾだってトコかな。
力さま 早速のレスありがとう。シェーマL、
早速勉強してみます。
ただ、私のラカンへの不満は、鏡像段階からいきなり
象徴界が出現して、それ以前の自他未分化性が忘却される
ことです。初期のラカンにはそこら辺の目配りが
あったと思いますが、鏡像段階以降はそれが完全に忘却
されてしまうことになっています。それ以降は、すべてが
象徴界を中心にした問題になる、と。
しかしメルロ=ポンティによれば、人間は退行という形で
象徴界以前に戻るし、象徴界以前は決して無にされない、と
言うことなのです。ボルクヤコブセンの感覚の強調もそういうこと
なのでは?と。
後、1週間ばかり私は旅に出ます(wので、レスが遅れます。
今のうちに謝っておきます。では
223 :
metae:02/10/30 10:22
>90さんへ
先ず、そこから、確認してゆくことが必要かと思います。
事象の明確化は、「失われたもの」から得られるものが殆どですので
一つのパラダイムとして、考察し、確認することが重要かと思います。
現代にメルロが蘇っているのは、
後期フッサールから現象学の方法を受け継いだ彼の哲学は未だ、
彼の著書からのみからメルロの解釈がなされているからで、
十分に理解されていません。
そして、また、彼の若くして失ったことを忘れて、論じるべきではないですし、
後期フッサールから読み進めて、その方法論を理解した上で、
彼を理解するべきだと思います。
そうしているうちに、両義性が”複雑系”や”脱構造”などを考察するような文章にも見られ、
今、その部分を調べているところです。
>>223さま レスありがとうございます。
すみません。あなたのおっしゃることがまだ
よく伝わらないんです。特に「失われたもの」
とは何ですか。
ですが、メルロだけを読んでメルロが分かるわけではない、
と言うところは賛成です。後期フッサールやハイデガー
が重要でしょう。あと、ギブソンなど?
あなたはさらに複雑系や現代科学まで考えているのでしょうか?
agaranai?
226 :
metae:02/11/03 16:07
>90さんへ
”メルローポンティが生きていれば”というテーマで、
構造主義やポスト構造主義、現代マルクス主義、「複雑系」にかけて、
少しづつ、読み進んでいます。
”唯脳論”も視野に入れています。
「失われたもの」は、
今の大島農水大臣みたいに業者からお金を頂いているからといって、
干拓の工事を進めて、失われたら、
「あらどうしましょう。でも僕は、そこに住んでいないし、
別に諫早湾の海苔食べなくても、他の国から海苔を買えば良いし、気にせんよ」
的なことで、環境を測ることに似てますが、(w
環境相が出てこないのも気になりますね。大島からお金を貰っているから、
出てこないのかもしれません。(自由民主党らしいことですね)
それはさておき、
腕や脚の残存意識があることは、腕や脚がなくなった人が、
そのことを知らせてくれて分かることである。ということです。
また、二種類の失語症があるからその脳の反応する場所が分かるとかも、
メルローは書いていますが、そういうこともさることながら、
”規範とは何か””普通とは何か”の問題に立ち向かった時、
それらを構成する何かの要素の一つを無くしてみて、考察すると、
その輪郭が見えてくるということです。
それは、カオスを含む言葉の意味を探る時に有効な手段であります。
つまり「僕は普通である」と思っている人に「普通」を説明しろと言っても
いい答えが返らないし、陳腐な答えしか返らないということです。
変人にこそ”普通を語る”要素を持っているということです。
才能の無い人には、才能を語ることは出来ませんが・・・・爆沈w
また、普通感じないことを追っかける「天才柳沢教授」の手法も、
変人(失礼)たるが所以をもって、本当のことを探る能力がある
と思われます。
>>226さま うーん、いくつもの論点が入り乱れて、
よく分からないですね。話も大きすぎて…
私にはついていけないようです。
でも、独自の問題意識で好きなように本を読むのは、
本来的な哲学の姿勢かも知れませんね。
228 :
metae:02/11/06 11:51
>90さんへ
『知覚の現象学』(みすず書房)p145より以降で語られています。
ほかにも言及個所はありますが、
「幻影肢とは、生理学的説明も心理学的説明も両者を混合した説明も
受け付けるものでものでない。
・・この二つの場合とも、われわれは現前と不在との間に中間者を認めない
客観的世界のカテゴリーから外には出られないでいるのだ。・・・
切断手術を受けた人が[その切断された]脚を感ずるその仕方は、・・
彼が依然としてその脚を考慮に入れつづけているからであり、・・・
(ある脚の)両義的な現前である。」
少し訳とは違いますが、自己の身体を知覚するのに、
そのはっきりした”現前”の認識や”現前”の論を考察するのに、
健常人の両足の操作や機能を述べているだけでは、要素主義に陥ってしまい。
”私が本来、認識している思考内容や感覚との齟齬は埋まらない”ということを
述べたかったのです。
その他の論点も書きましたが、個人的なものであり、
”両義性”の現象学の基に考察すると、ポスト構造主義や”複雑系”の論点の齟齬や
また、かれらの目指しているものに早く到達することが出来るということを予想しています。
皆さんのご意見も聞きたいですが・・・・
metaeさま。いや、幻影肢の話は分かります。それは、
全てを表象機能に還元する主知主義と物質的・機械論的
身体に還元する経験論のどちらの説明でも、幻影肢は説明
できない、と言うことですね。『知覚の現象学』の内容に
関する話はいいんです。
でも、それ以外の部分が、話が大きすぎるのと、説明に
飛躍があり、それをうまくフォローできないことが問題なんです。
ある欠如が生じることによって、それまで見えなかったものが
見えてくる、と言うことですか? でも、それだけではあまりに
漠然としています。
metae様、ちゃんと原書あたってますか?
日本語の字面に引っ張られた誤読、にしか思えませんが。
ポスト構造主義とか複雑系に敷衍するって辺りが。
ティンポ
232 :
考える名無しさん:02/11/07 01:37
力さま、お久しぶり。
私、90=140です
どこか行ってたんですか?
233 :
metae:02/11/07 22:09
誤読とは?どこですか?
「アンビバレント」と「オルナータナティブ」を全く違う見方と考えているので、
前者を「両義性」として、後者を「二義性」として捉えていますが、・・・
良い訳があれば教えていただきたいです。
”あまりに漠然”は、私事ですし、特にここでは、紙面が狭すぎて、書けません。
そして、私が理解しているポンティの全体を書いたわけでもなく、
存在論としてポンティは、哲学していたわけではなくて、
「知覚」特に視覚において、身体を言葉として方法論を提示していたものと思います。
それならば、その方法論で捉えなおすことも、可能と思っています。
もし、存在論として捉えるなら、そのポンティの哲学は、固定化し、
”生きている世界”の曖昧性の部分を失うのでは?と思っていますが、
今まで、教授などと解釈が違うといつもぶつかりましたが、
多分幾つかのところに違いがあるものと思います。
私の解釈の間違いなのか?この捉え方があるのか?
未だに試行錯誤しています。
234 :
考える名無しさん:02/11/08 02:12
>>233 通常、両義性=アンヴィギュイテ、二者択一=オルターナティヴ、
アンビヴァレント=両価性、ビポラリテ=両極性。
metaeさま。あなたが複雑系って言っているのは、
チオンピや河本さんのところから借りてきた
発想ですか?
「幻影肢の存在論的両義性」っていう「特異な空白」と、
ポスト構造主義でいう「φ」っていう特異点、
それって同じだと思う?
237 :
考える名無しさん:02/11/09 11:50
>>236 もうちょっと具体的に言ってみてよ。
何かと何かが「同じ」かどうか問うとき、
どのような基準・理論的前提をとるかどうかで
変わってくるからね。
((( )))
( −_− ) ズレナオシ、テスト・・・ fin
( ∩ ∩ )
239 :
metae:02/11/09 21:35
地温日とか河本って、誰?
そうそう。知覚の現象学のその部分は、上記の指摘で合っていますが、
そうではなくて、人の思想哲学は、日々進化していますし、
読み返しとして、読み深めたのです。
本を字面どうりに、読み、理解することも重要ですが、
一人の哲学を”その孕み”を理解することも、重要かと思います。
この知覚の現象学は、そういう意味で、バイブル的な本として位置付けています。
この発想は、ポンティが存在論重視の哲学者達から批判を浴びた文に触れた時に、
その形而上学的な考察の中で生まれたものです。
上記の二人は全く知りません。
チオンピというのは分裂病をフラクタル理論やカオス論を
つかって研究してる人。
metae氏はメルロ=ポンティに独自の読みをしているんですね。
それは自由ですが、ただ、他人にそれを語るときには、ある程度説明を
丁寧にしないと、分かりませんよ。そのことを言っていたのです。
もう少し語ってくれないと、何をもとめられているのか、分かりません。
>240>もう少し語ってくれないと、何をもとめられているのか、分かりません。
あ、これは力氏へのレス。90より
なんか話がネギ(古)
例えばデリダの「存在する×」と幻影肢は一緒だと思う?
>>242 漠然とあれとこれが「似ている」という印象の話をしたいのか、
厳密な比較をしたいのか。厳密な比較をしたいなら、どのような
基準でなのか。
初学者にはありがちだけど、2人の系統の異なる
哲学者を比較するのは、けっこう手間暇がかかるんだよ。
(不可能ではないが)
もう少し付け加えると、単なる1行レスに応答することは困難。
基本的に、哲学は知識を競うより、アーギュメントを競うものだ
と考えている。(だからローカルなジャーゴンを振り回しても無意味。
そのジャーゴンから一般的なアーギュメントを引き出さなくては)
前の「分かりません」氏は自分の言葉で力強いアーギュメントを作っていた。
そこに彼の深い思考力と問題意識が見えていた(ポンティが専門では
なかったにしても)。だから彼のレスは貴重で有益だった。
metae氏は(恐らく学会では通用しないだろうが)、自前で何かを考えようと
していようだ。ただ、何を言おうとしているか、今でも分からないが、なにか
有益なことを言おうとしているのかも知れない。だからとりあえずこの匿名
掲示板で話を聞きたいと思う。何か語るべきものがあるなら。
力氏も自分自身のアーギュメントをぶつけてくれ。
245 :
わかりません:02/11/12 00:22
>90氏
心からありがとう。
>>245 いや、思ったことを正直に書いたまでです。
あなたの思考の強さには感銘を受けました。
私は内容のある議論がしたいのです。
>>90
そのアーギュメントをやることを「タダ売り」と言う也。
対話の行間を埋めてる暇があったら出版するってば。
>>247 学術論文では、ここではカキコできないような、もっと堅実なものに
してください。(w
ここではもっと発想を自由に飛ばしてください。
(他人のアイデアを盗ってすぐに書けるような論文は多分ダメな
論文だよ。)
249 :
考える名無しさん:02/11/15 23:03
age
もう少し書くと、学術研究では、自由なことをやろうとすると、その準備が
めんどくさいんだよ。だけど、前スレででていたように、禁止されている
わけではない。ただ、新しいことやるには、一つ一つ立証責任が課されるので、
手間がかかる。
鷲田さん達も「臨床哲学って何?」ですごく苦労していたし、
尚武氏らの応用倫理も最初はすごく胡散臭がられていた(ァ、今もか?(w)
アカデミズムにはそんな不自由さがある。(それはしょうがない)
でも、2チャンでは、もう少し思考を遊んでもいいのでは?
251 :
わかりません:02/11/18 01:26
90氏
私たちは言葉によって意味へと運命付けられており、私たちが意味の体系である
世界をもつとは、私たちの精神そのものが言葉によってできていること以外の何
者でもないことを表わしていると思います。そして人が何かものを考えるという
ことには、ただ単に人である証と表現される以上に、やむにやまれずそうすると
いう側面があるのだと思います。それは何か願いや希望や絶望や祈りであったり、
たまたまその表現が文学や芸術や哲学であるというだけであって、私たちが意味
を自らの手によってつむぎ出し、それを生きようと決意することの中に、真の対
話とそれによる交わりが可能となる土台が生まれるのだと思います。私には、あ
なたがこのような対話と交わりを求めていると感じます。かくあれかし。
わかりませんさま
レスありがとうございました。本当に含蓄のある佳い文章を書かれますね。
私にはそのような文章を書く集中力が残っているのかどうか。
おっしゃることには同感です。
ところで、気をつけなければならないのは、あなたが上で「言葉」
と言われたものは、近代的に抽象化された「言語」ではないですね。
むしろ「言霊」が宿るような言葉ですね。
メルロ=ポンティなら受肉した精神が宿る、「もの=意味」とでもいう
ような受肉した言葉、la parole parlante(語る言葉)ですね。
そのような言葉を私はもう失ってしまったように感じます。
253 :
わかりません:02/11/19 03:16
90様
>そのような言葉を私はもう失ってしまったように感じます。
むしろ、そうだとするならば、あなたはとてもタフな方で、しかもこのよう
なところにもおいでになる潔さをもっていらっしゃるのでしょう。とても
素敵なことですね。
ご指摘のとおり、言葉について改めて考えてみたいと思いますので、もうし
ばらくご猶予ください。そして、メルロ=ポンティと近代というテーマもある
と思うのですが、それについてはまたいずれ。
254 :
考える名無しさん:02/11/19 03:26
左翼は左翼でも構わない。
でも日本の左翼は嘘を付き、差別で飯を食い、公金を奪い、国を売り、特定の勢力の
意向をうけている。
同じ人間なのに韓国人の人権>>日本人の人権、など。
平等にしてくれ。他国と権力と組まないでくれ。反戦なら平等に反戦運動してくれ。
平和友好大いに結構。
でもそれは相手にひざまずく事じゃないのよ。
お金だして、抗議されれば謝って、批判されたら日本が譲る。
それは友好じゃないよ。
中国や朝鮮の核開発や民衆弾圧には目をつぶり、反戦といいつつ反日、反米運動をする。
それは反戦平和じゃないんだよ。
>>253 遅レスすみません。ここしばらく
死ぬほど忙しく、レスできませんでした。
言葉の問題、近代の問題、おもしろそうですね。
そのうち語りましょう。
>>254 スレチガイ? ソレトモココデロンジルリユウガアルノ?
256 :
わかりません:02/11/26 02:43
>90氏
タフですねえ。どうぞご自分をいたわってください。
ところで、言葉についてのメルロー=ポンティの議論を検討する前に、まず、私なり
に言葉についての問題意識を簡単にスケッチすることにしましょう。
言葉とは、確かにラングとして社会的にコード化された意味の体系という側面を持ち、
意思を伝達するという記号化され、道具のように用いられる側面があると同時に、
そのコード化される以前の個人によって生成される意味を纏ったパロールの側面
の2つがあるのだとおもいます。しかし、ここに一貫しているのは、わたしたちが世界
をみつつ世界をもつという際に、既に獲得されているにせよ生起しつつあるものであるに
せよ、そのエレメントとして言葉はそれらを担うのだということであるとおもいます。
だとすると、超越の問題、つまり、言葉においてそれが自立的に意味を担い、自立的に
意味を生成するということは如何に可能なのか。言葉が更に言葉を生み出すということは
如何にして可能となっているのかが、当面の言葉に対する私の問題意識です。
257 :
考える名無しさん:02/11/26 04:52
ポンティの主要な著作、全部読んだら
このスレに参加させてください。
で、ジサクジエン終了ですか?w
>256 分かりません様 たびたびの遅レス申し訳ありません。
私も来週頃から時間の余裕ができると思います。
でも、超越の問題とは、かなり難しい問題ですね。いまきちんと
お答えする余裕がありません。もう少し考えさせてください。
>257 そんなこと気になさらず、思ったこと、感じたこと、
ちょっとした疑問、反論、何でもカキコみましょう。
書いたモン勝ちです(w
来週ぐらいから私もレスができるとおもいます。
>258 かまって欲しいの?
261 :
わかりません:02/11/29 03:06
>257
書いた者勝ちとは私のことです(w。
ただ、言葉の問題を語るのには多少テクニカルなことをいったりしますが、
本当は、言葉にエロスがないと相手に伝わらないし、愛のない文章は空々しい
だけだという多少甘ったるい響きも言葉の本質に含まれるべきなのではないかと
おもったりするのですね。哲学とは見果てぬイデアへの永遠のラブレターという
のが、最近の私のモットーです(WWWWWW。
262 :
考える名無しさん:02/11/30 22:54
>>261 分かりませんさま
>哲学とは見果てぬイデアへの永遠のラブレター
いいこと言いますね。まあ、同感です。永遠の片想いという
ことでしょう。
ところで、256に関してなんですが、言語と知覚の違いをどう考えます?
両者とも「表現」ということで捉えられると思いますが、でもどういう点で
同じで、どういう点が違うのか?
私から先に意見を言うべきでしょうが、今日は早くも泥酔して、頭がまわり
ません。(w
ということで、よろしく。
263 :
考える名無しさん:02/11/30 23:15
ベルクソニスムとはどういう関係か?
264 :
わかりません:02/12/01 08:38
>262
永遠の片想いですが、生涯の伴侶でもあります。
さて、まず知覚に関してですが、知覚とは知覚対象に対する志向性を既にもっていることか
ら、知覚が可能となるためには対象との関係が既に取り結ばれていなければならないと考え
られます。このような意味でも、純粋無垢な知覚というものが存在するのではなく、対象了
解の結果としての知覚が存在するばかりではないか(知覚の理論付加性に関する議論にも共
通すると思いますが…)。
では、対象との関係ですが、言葉との関係で申しますと、私たちは世界を見ることを学ぶこ
とによって世界を獲得しつづけると考えます。この世界を学ぶということに言語が絡んでく
るのですが…、
265 :
わかりません:02/12/02 01:14
つづき
先にも述べましたように、世界とは意味の体系であると同時に意味あるものとして了解している
わけですが、この意味の担い手が言葉であると考えます。そして、この意味の連鎖にして文脈に
したがって世界を見ているとするならば、逆にいうと世界を見たいように見ているということも
言えそうです。知覚のハードを動かすソフトが言語ということも言えそうな気もしますが…。
しかし、言葉が言語として社会的歴史的な何者かの側面をもつならば、知覚も社会的歴史的側面
を有するということも言えるでしょうし、まったく個人的なまたは生理学的な側面をも持つとい
うことも言えますが、知覚自身は時間性や歴史性を持たない。逆に世界に密着しているがために
そうなのだということが言えそうです。とりあえずはこういうことにしておいてください…。
議論に割り込んですいません。
メルポンにお詳しそうな皆さまですので、この際質問しときます。
ヨーロッパ諸学の〜、と知覚の現象学を読んでその手の学問を志そうと
思っている受験生ですが、第一志望は大阪大学で正解でしょうか?
東大は無理なんで、東北、京大、阪大で迷っているのですが・・・
それと、もっとメルロ・ポンティを理解するための書籍を紹介してくれませんか?
何せ研究論文が膨大なもので。。。
ちなみに、今まで読んだその周辺の本は
広松のメルポン解説書、鷲田先生の「冒険者たちシリーズ」
「シーニュ」「眼と精神」「行動の構造」「知覚の現象学」
「ギブソン入門」「ゲシュタルト心理学の原理」
「存在と時間」「イデーン(挫折)」、木田先生のハイデガー本色々、
新田先生「現象学」、鷲田先生「現象学の視線」、
バルト「零度、モード、第三の〜」、あと丸山先生のソシュール本色々、
サルトルとかカミュとか、レヴィナスとかレヴィ=ストロースとか。
とりあえず、間主観性の問題と、「危機」に瀕していたヨーロッパ諸学の俯瞰図、
知覚心理学なんかが難解でよく分かりません。
やはり原書で読めないとお話になりませんでしょうか・・・
分かりません様
レスもうちょっと待ってください。今余裕がありません。
(問題が高度すぎるということもあります(w
>>266様 ご苦労様です。修士に入るんですか?
ならば、まずは英語・フランス語(できればドイツ語も)を磨くことです。
学部生で翻訳をそれだけ読んでいるなら、とりあえず翻訳は十分でしょう。
まずは基礎学力としての語学力です。その次に、研究するなら、
英語、フランス語の研究書を読みましょう(結構読みやすいですよ)。
あと、フッサール・ハイデガーですね。
大学院に関しては、うーん、どうでしょうね。各大学院の事情は
よく分からないです。ただ、今は東大・京大も入りやすいようですよ。
(語学ができるかどうかが、分かれ目)
過去問題は各大学のサイトでDLするか、事務局に葉書送れば、郵送して
くれます。難易度など詳細に関しては、各大学の教官か助手にメールを送れば、
直接相手してくれるか、同じ年代くらいの院生を紹介してもらえるでしょう。
(あまり親切に対応してくれなければ、その大学に行くのを止めた方がいい
かもしれません)
Bon courage !!
269 :
考える名無しさん:02/12/04 22:58
>>267 すごく丁寧なレス、ありがとうございます。
ですが、一つこちらの説明不足がありました。
僕は高校生なので、進路については大学院ではなく学部になります。
京大の学部教育はあまり好かないので、
とりあえず大学入試は大阪にしようと思います。
院進学については、やはり植民地の数を考えると
京都か東京に変えた方がいいかもしれません。
大学に入ることができたら、そのときは語学を相当意識することにします。
フランス語の研究書ですか。何やら難しそうですが、面白そうですね。
270 :
考える名無しさん:02/12/05 00:14
>>269 高校生にしては読書傾向が偏りすぎでは?(w
あと業界に詳しすぎ(植民地とか)(w
とりあえず書を捨て、野や山や街に出てみよう。
ァ、受験勉強があるか
271 :
わかりません:02/12/06 01:07
>90様
相変わらず、お忙しそうですね。
>266様
私も大学受験生のころに知覚の現象学をはじめて読んだのですが、いろんな本を読み
飛ばすのではなく、とにかく1冊じっくり時間をかけて細部まで知り尽くすように
読む訓練をするといいのではないでしょうか。できれば誰かと一緒に読んでもらうとか、
細かくノートをつけながら読み進めるとか、そういう訓練をする必要があると思います。
もっとも、受験生ですから今してはいけませんよ!
272 :
考える名無しさん:02/12/06 12:41
わかりませんさん、おいくつ?
273 :
考える名無しさん:02/12/06 20:20
ものすごい高校生がいるなかで質問しにくいのですが……
木田元のメルポン本は、今は入手不可能なんですか?
274 :
わかりません:02/12/06 22:27
>272
結構な歳です。
>>266様 分かりません氏の言うとおり、まずは1冊を熟読する
力をつけましょう。でも、270氏の言うことも一理ありますよ。
哲学なんてやってると、視野が狭くなるばかりなので、今は
いろんな本を乱読することが肝要かと。ま、でも受験が先か。
>>273様 どうでしょうか? 絶版になっているのでしょうか?
古本屋にはありますかね? でもどこかの大学図書館にはあると思うので、
ネット(webcat)で検索して、取り寄せるという方法もありますが。
276 :
考える名無しさん:02/12/08 10:55
わかりませんさん、高校生で知覚の現象学が読めたとは。
さすがですね。
分かりませんさま
レス遅れて申し訳ありません。久しぶりに落ち着いてものを
考える時間ができました。
(でも、二日酔いで結構頭が痛いです。こんな生活考え直そう。(w
知覚と言語に関してですが、おっしゃることには大体同意します。
ただ、個人的には、両者をともに「表現」という一つの行為として捉えたいと
思っています。言語が表現というのはいいですよね。
(つづき)
そこで、「見る」ということがなぜ表現なのかを考えてみましょう。
(勿論、知覚と言語は絡み合っているので、「見ること」だけを取り出すのは
抽象化なのですが、ここではそうします。)
「見ること」は世界を理解することで、あるいは、生物は自分自身で
自らに都合のよい環境を形成していく、といってもいいでしょう。
しかしそれは「あるものを他のものとして捉える」ということです。
そこに知覚を表現と捉える途ができます。
勿論、言語との違いがあり、言語は他者に呈示すること
(se presenter a l'autre)が第一の目的であるのに対して、
知覚は自己に呈示すること(se presenter a soi-meme)が
第一の目的だと考えられます。(アクサンは省略)
とは言え、共同存在の分析をしてみると、知覚にも「他者の
ために知覚する」という側面がありますね。むしろ共同存在
の方が根源的だと考えられます。そうだとすると、
知覚と言語が案外似たようなものに見えてきますね。
280 :
わかりません:02/12/09 05:10
>90様
時節柄、何かとお神酒のご利益もあるかとは思いますが、どうか程々に。
少し引っかかるのですが、表現という言葉には沈殿した時間が宿るのではないかと
思うのですね。確かに見ることは世界を理解することであり、理解することと、
理解されたこととの間には時間が沈殿していると思います。これには言葉が介在し
ているからです。これに対して、知覚それ自体に沈殿する時間を求めるのはちょっ
と私には引っかかるんですね。確かに物の動きを運動として捉えられるのは、知覚
に時間性が内在しているからだということもいえますが、逆にだからこそ、知覚は
常にフレッシュであり、世界に対して最前線に位置していると思うのですね。表現
とは一定の理解、沈殿した時間を他者に向かって凝固させることにおいて可能なの
かなあ、と漠然と考えているのですが。
もっとも、知覚それ自体ということこそが抽象化ということもいえそうですし、知
覚がそれこそ常にフレッシュであるかというとこれも問題ですが、表現という言葉
を存在の有り様として理解するのであれば、理解できなくもないかなあ、と漠然と
考えます・・・。
281 :
わかりません:02/12/09 05:14
>276様
高校生ではありません。大学受験生です(w しかも読めたというのではなく、
初めて読んだだけですので、誤解のないように…。
282 :
考える名無しさん:02/12/09 05:18
>>281 最近だとヴァレリー読まないとポンティはわからんっていうのが筋らしいが(日本じゃなくて
>>分かりません様
>知覚は常にフレッシュであり、世界に対して最前線に位置している
本当に魅力的な考え方ですね。知覚は常に新しい、と。
>表現とは一定の理解、沈殿した時間を他者に向かって凝固させること
>において可能
これも、普通の人にはなかなか思いつかない言葉です。あなたは表現について
本当に考え抜かれている方だと思います。
ただ、知覚が新しい、あるいは新しいものへ開かれている、というのは知覚の
一側面だと考えます。なぜなら、知覚には記憶というもう一つの側面(精確には
習慣形成という側面)もあるからです。それによって身体図式が形成されるのです。
(身体で憶える、ということですね。記憶は言葉によってのみ行われるわけでは
ありません。)
だから、知覚が新しいものへ開かれることができるのも、それが過去を担い
つつ、それを未来へと投企することができるからなのだ、と考えます。
ハイデガーが適切にも、「既在し現在化する将来」と言っていますね。その
3つの契機が未来へ向かう一つの運動を形成しているのです。
285 :
わかりません:02/12/10 03:24
>90様
表現…、ほかの人の導きによって改めて世界を発見しなおすことでしょうか。
メルロ=ポンティを読んでいると、そのようなことを知覚という用語を使ってわざわざ
語らなければならないのかどうかという疑問も出てくるのですが、あえて知覚という
生理学の用語でもって語ることにより、科学を超えつつ包摂することを画策していたの
でしょう。ハイデガーなら、もっと無垢な言葉を使うでしょうしね。
おっしゃられるとおり、知覚には記憶が含まれるというのも確かですね。物が動いて見
えるのは、知覚行為のうちに対象物によって反映される連続した時間の流れを捉えるこ
とができるからですし、時間が連続するということ自身に既に記憶、すなわちまとまっ
た時間を意味のある塊として捕らえることが含まれていると思います。これは単に残像
現象として片付けられるのではなく、時間を対象物の運動に即して意味あるものとし
て捕らえていることであると思います。
だとすると、表現の問題ということになるのですが、
286 :
わかりません:02/12/10 03:51
つづき
>ところで、「知覚の現象学」では身体は実存の運動の担い手でありつつも、実存の惰性態でも
>あります。しかもそれは制度化されたものとしての惰性態です。しかし実存の運動は惰性態と
>しての身体をスプリングボードとしておのれを可能とするのですね。身体の物質性、惰性性が
>身体的運動の可能性の条件なのです。
と90様がおっしゃられたことをもって、実存の惰性態が表現ということですか?
分かりません様
表現というのは、過去を捉え直し、それを未来へ投企するという
実存の一連の運動のことを指しています。
特に中期のメルロ=ポンティは、知覚と言語を「表現」という観点から
捉え直すことによって、両者の二元論的な対立を克服しようとしたんじゃ
ないか、と思います。(伝統的には、知覚=身体、言語=思惟という図式が
ありましたから)
だから、「知覚の現象学」でいう知覚も、最終的には生理学的な
意味よりも、ハイデガーの「存在」という言葉に近いです。なぜなら、
知覚の働きこそが第一に「存在者を与える」ものですから。
(Es gibt das Seiendes. ('Es' = Ausdruck oder Wahrnehmung))
誠に、初歩的な質問なんですが、
ルソー思想は、やがて共産主義思想へと発展していった、と言われて
いますが、どのように発展していったのか、その歴史的過程
と政治的背景等を教えてください。
289 :
考える名無しさん:02/12/11 23:02
>>288 ルソーは「一般意志volnte generale」という
ファシスト的概念を持ち出した人です!
290 :
考える名無しさん:02/12/11 23:17
お二人の議論において、何かひっかかるのは、
メルポンの「語りつつある言葉」と「語られた言葉」の曖昧さのせいだと思います。
メルポンの、これらの峻別を、お二人はどう解しているのか。
また、メルポンにおける「対話」の可能性についてはどうでしょうか。
>>288さま まあ、私はルソーに関してはど素人であり、世の中には、ルソー
の熱狂的愛好者(ないしはオタク)がいるので、うかつなことは言えないのですが、
ルソーは社会契約説的な自由主義的人権概念の主張者なのかな、ということです。
で、その自由思想にマルクスが多少かぶれていたのかなー、とは思いますが、
直接的には共産主義とはあまり関係がない。ただし、マルクスの立てた共産主義
思想は、じつは西洋(キリスト教世界)に普遍的でありふれていたユートピア思想
であり、とりたてて特殊な思想ではないのです。(マルクスの独創性は共産主義と
いうより、資本主義批判に現れた物象化論とか疎外論ではないかな、と思います。
続き。あ、でもそこら辺の話は自信がないので、ご批判は承ります。
>>290様
どの点がどのように引っかかられたのかよく分かりませんが、
当てずっぽうでお答えします(見当違いであれば、ご指摘ください)。
「語りつつある言葉」と「語られた言葉」とは相互基礎付けの関係に
あります。語られた言葉とは、すでに制度化されており、慣用句と
なった言葉ですね。語りつつある言葉とは、制度化された言葉を脱却
して、新たな意味を創設する言葉でしょう。しかし語りつつある言葉は
単独では存在し得ず、むしろ語られた言葉を可能にする制度化された意味の
体系を前提にしています。語る言葉はそのような制度化された意味の体系
無しには成立しないのです。他方、語られる言葉も、それが語られることに
よって新たな生命が与えられ、活性化するのです。
このような図式のなかで、身体がどのように位置づけられるか、は
おもしろい問題ですが、いずれまた。
「対話」についてもいずれ(『世界の散文』参照)。
あ、上で「いずれ」、と言ったのは、290氏が「引っかかった点」、
問題点をはっきりさせて後、と言うことです。
295 :
考える名無しさん:02/12/12 01:56
なんかクーンの科学革命と通常科学を思い出したYO
解釈学的な基底に組み込まれる(制度化される)ときの時代とのズレとか、
紋切り型に対する斬新な表現が通念化する、その移行状態とか
(最後のはバルトかも)
296 :
わかりません:02/12/13 01:22
>290様 90様
私の議論が稚拙であるから、というのがもっともシンプルにして明快な理由であるとは思うのですが、
ソシュールのラングとパロールの関係は、90氏が言っておられるように相互基礎付け的であると思い
ますが、メルロー=ポンティ自身はもう少し自身の哲学にひきつけて発生的な意味合いがつよく、
パロールが多少優位を占めているようで、こういうところは心理学者でもある彼の思想が現れている
ようで、常に始源へとたちかえろうとする彼の有り様を肯定すればそれもうなずける話ですし、同時に
ソシュール研究の最初期に位置する彼の言語論が、それゆえに曖昧さを残すとしても、それは仕方のな
いことであろうとおもいます。
それと、メルロー=ポンティをソシュールやハイデガーを通して読むのか、もっと彼に即して読むべきか、
または現象学を通して読むべきかという問題もあると思いますし、どういうスタンスで読むべきかという
問題もあると思います。これはハイデガーについても同様で、現象学的に読むべきか伝統的スタンスで読
むべきか、はたまた構造主義的スタンスで読むべきかなど、これは大きな問題だと思います。
もっとも、私がもっとちゃんと読むべきなのでしょうね。
297 :
わかりません:02/12/13 01:42
>287
ハイデガーで知覚を語るのはちょっと無理があるんではないでしょうか?
ご指摘の内容については了解しますが、日本語訳でしか読めないのでなん
ですが、Wahrnehmungを知覚としてメルロ−=ポンティ的な文脈で読むの
ではなく、まなざしもしくは配視として存在論的な文脈でのみ有効なもの
として捉えたほうが、もう少し理解しやすいと思います。ただし、ご指摘
になられたい点については理解できます。
分かりません様
前・中期のポンティでは、語る言葉と語られた言葉との相互基礎付け関係が
いわれており、それらをさらに基礎づけるのが、一方では国語体系としての
ラングであり、他方ではランガージュ(言語能力)を可能にするものとしての
身体なのでは、と(ただし、ここら辺は人によって解釈が分かれるかも)。
あと、メルロ=ポンティ理解では、やはりDillon流に最初にハイデガーを
前提にする、というのがオーソドックスなやり方でしょう(そうでないと
後期まで上手くつながらない)。
その上で、ソシュールなりラカンなりと比較するのがいいのではないか、と。
ボルク=ヤコブセンなどは、ラカンのハイデガー解釈はハイデガーを矮小化
している、と言うものでした。私もそう思うし、だからこそ、ハイデガー理解は
必須だと思います。
繰り返しになりますが、「知覚の現象学」の「知覚」は、ハイデガー
「存在と時間」の「存在了解」が下敷きになっていると思います。
299 :
わかりません:02/12/13 23:22
>90様
繰り返しになりますが、「知覚の現象学」の「知覚」は、ハイデガー
「存在と時間」の「存在了解」が下敷きになっていると思います。
木田元氏の『メルロー=ポンティの思想』を読む限り、最初期から知覚が彼のテーマであったことは
間違いないと思います。そして知覚に対する生理学・心理学的アプローチを試み、現象学、特に
フッサール後期の思想に注目し、心理学の科学を乗り越えつつ、新しい哲学を創造することが
彼の内的なテーマであったと思うのですね、では、知覚が何故問題になるかといえば、
批判主義的な考えに立脚すれば知覚とは知性によって解読されるばらばらな素材を提供するにす
ぎないのですし、神経学は、神経のある機能に還元できると考えるのですが、ゲシュタルト心理
学はこれを根拠のない仮定とします。ここにゲシュタルト心理学とある種の哲学の類似性を
見出され、哲学の諸概念の刷新が行い得るからです。
彼にとっては、哲学と科学の境目に位置するのが知覚であり、知覚を通して科学と哲学を相互に
再検討するために後期フッサールの現象学が欠かせなくなったというのが、彼の選択的ともいえ
る現象学理解であったと思います。この問題形成期にハイデガーについての言及はありません
し、彼が積極的にハイデガーについて言及し出すのはもっと後期になってからだと思います。
もっとも、木田元氏がそうであったように、ハイデガーを理解するために彼を、彼を理解するた
めにハイデガーをという事は理解できますが、それは一種の解釈であって、内在的理解であるか
は私には疑問です。私にとっては、彼が科学に対して抱いている関心と哲学に対する使命感との
との葛藤がとても興味深いのです。
300 :
わかりません:02/12/13 23:23
>90様
繰り返しになりますが、「知覚の現象学」の「知覚」は、ハイデガー
「存在と時間」の「存在了解」が下敷きになっていると思います。
木田元氏の『メルロー=ポンティの思想』を読む限り、最初期から知覚が彼のテーマであったことは
間違いないと思います。そして知覚に対する生理学・心理学的アプローチを試み、現象学、特に
フッサール後期の思想に注目し、心理学の科学を乗り越えつつ、新しい哲学を創造することが
彼の内的なテーマであったと思うのですね、では、知覚が何故問題になるかといえば、
批判主義的な考えに立脚すれば知覚とは知性によって解読されるばらばらな素材を提供するにす
ぎないのですし、神経学は、神経のある機能に還元できると考えるのですが、ゲシュタルト心理
学はこれを根拠のない仮定とします。ここにゲシュタルト心理学とある種の哲学の類似性を
見出され、哲学の諸概念の刷新が行い得るからです。
彼にとっては、哲学と科学の境目に位置するのが知覚であり、知覚を通して科学と哲学を相互に
再検討するために後期フッサールの現象学が欠かせなくなったというのが、彼の選択的ともいえ
る現象学理解であったと思います。この問題形成期にハイデガーについての言及はありません
し、彼が積極的にハイデガーについて言及し出すのはもっと後期になってからだと思います。
もっとも、木田元氏がそうであったように、ハイデガーを理解するために彼を、彼を理解するた
めにハイデガーをという事は理解できますが、それは一種の解釈であって、内在的理解であるか
は私には疑問です。私にとっては、彼が科学に対して抱いている関心と哲学に対する使命感との
との葛藤がとても興味深いのです。
301 :
わかりません:02/12/14 00:22
二重カキコになってしまいましたね。
この彼の葛藤を解釈すれば、ハイデガーが神学に対して抱いていた哲学的な葛藤とは
また別の葛藤のようで、彼が生きた時代の葛藤であり、彼自身に由来するとでも言う
ような葛藤であったと思います。ハイデガーからは、科学に対しての関心というもの
が出てこないで、学そのものの成立根拠を求めます。
これに対して彼は不完全であるけれども、語り得ないものとの対話を試みつつ語り得
るものの本性を暴き出し、語り得ないものの本性を擁護しようとしたのだと思います。
これは内在的対話であり、本来あるべき和解への葛藤であるように思えるのです。
302 :
わかりません:02/12/14 00:23
二重カキコになってしまいましたね。
この彼の葛藤を解釈すれば、ハイデガーが神学に対して抱いていた哲学的な葛藤とは
また別の葛藤のようで、彼が生きた時代の葛藤であり、彼自身に由来するとでも言う
ような葛藤であったと思います。ハイデガーからは、科学に対しての関心というもの
が出てこないで、学そのものの成立根拠を求めます。
これに対して彼は不完全であるけれども、語り得ないものとの対話を試みつつ語り得
るものの本性を暴き出し、語り得ないものの本性を擁護しようとしたのだと思います。
これは内在的対話であり、本来あるべき和解への葛藤であるように思えるのです。
分かりません様
「行動の構造」ではそうでしょう。しかしメルロ=ポンティは1930年代
の初頭からフッサール哲学に親しんでいました。
1942年、彼は「行動の構造」を出版するのですが、そこでは生理学的心理学
の克服のために、ゲシュタルト心理学を援用しています。
しかしゲシュタルト心理学者達自体が、そのゲシュタルト概念の着想を
フッサールの『論研』から得ているのです。しかも、フッサールは
彼らのゲシュタルト概念を、実定的(positive)で、現象学的還元が不徹底
なものと批判しています。メルロ=ポンティにとっても、彼らの
概念は「存在論的還元」(こんな言葉はマリオンしか使わないでしょうが)が
不徹底である、と批判します。とは言え、以後ゲシュタルト概念は、メルロ=
ポンティ思想にとって本質的なものとして、終生、その存在論的な彫琢に勤しむ
ことになります。
続き
しかし、『行動の構造』においては、結局「知覚が何でないか」と言う
ネガティヴな答えしか出ないという欠陥が、その著作の最後に明らかにされます。
そこで、「では知覚とは何であるのか」に答えるために、『知覚の現象学』が
計画されるのです。そこでは主知主義と経験論との二律背反を止揚するという
方法が採られるのですが、その時の導きの糸となっているのが、フッサールであり、
ハイデガーなのです。
>>301 ハイデガーは神学的な関心が強かったというのは
同意ですが、科学に関心がなかったか、というとどうでしょうか。
彼は自分が本当に強く影響を受けた思想には言及しない、とも
言われていますが、彼の思想には生物学者ユクスキュルの影響が
強い、と言われています。
また、後期フッサールが生活世界への回帰を強調するようになった
理由として、弟子ハイデガーの影響が大きかったとも言われています。
そしてメルロ=ポンティの関心もまた、科学と言うよりも、
生活世界への回帰の方が強かったと思われ、その手引きとして
ハイデガーを用いたのだと思われます。彼の科学に対する態度は
目的と言うよりも、生の世界へ回帰するための手段であったと思います。
306 :
わかりません:02/12/14 08:58
>305.90様
おっしゃられたことについてはほぼ同意します。確かにフッサールの危機論考について
ハイデガーへの対抗意識があったことについては同意しますし、ハイデガーに遡って、
世界内存在がユクスキュルのUnweltに由来することはほぼ間違いないと思います。
しかも、ハイデガーは当時の民俗学まで摂取して自らの論の中に展開していることも
ほぼ知られています。特にユクスキュルについては決定的であったと思います。
ところで、彼がハイデガーを突っ込んで読んだのは、知覚の現象学の時間性執筆時で
はないかというのが、ある程度の定説ではないかと思われます。いろいろ調べてみた
のですが、決定的な証拠が出てこない。90氏がおっしゃられるように、知覚の現象学
がハイデガーを下敷きにしているというのは、時間性に限定されるならば正しいでし
ょうし、後期フッサールを通して間接的にというのならばうなずけると思うのですが、
どうでしょう。
分かりません様 レスありがとうございます。
話が面白くなってきましたね。
>いろいろ調べてみたのですが、決定的な証拠が出てこない
それはどう調べたのですか? 引用がないということですか?
確かに、引用に関してはおっしゃるとおりです。
>彼がハイデガーを突っ込んで読んだのは、知覚の現象学の時間性執筆時ではないか
なぜそう言い切れるのですか? 影響を受けた時期というのはそんなに正確に
分かるものなのですか? 何か特別な裏付けがあるのですか?
私は影響関係については、概念的な類似性から、大雑把に「推測」
できるだけだと思いますが。それ以上のことは分かりません。
「知覚の現象学」では、世界内存在という言葉が頻出しますが、
彼はそれをゲシュタルト概念と結びつけて考えようとしていると思います。
そしてゲシュタルト概念の存在論的な鋳直しは終生続くと思います。
また、「時間性」の章の分析は、むしろフッサールの時間意識の分析に負って
いると思いますが(勿論、最後にはハイデガーが顔を出します)。
308 :
わかりません:02/12/15 03:41
>307.90様
これはテオドール・ジェラーツの推測です。木田元の『メルロー=ポンティの思想』のp108-109
と、注13です。訳すとメルロー=ポンティの知覚の現象学における哲学の由来とでもいうタイトル
のようですので、お読みでしたら、お教えください。
もちろん、推測でしかないでしょうし、確かな証拠立てはないのですが、ちょっと難しいですね。
もっとも、ハイデガーについては、もう少し間接的に知っていたようで、ランドグレーベ
のハイデガーとフッサールについての論文を執筆前に読んでいたようで、ここから
どうもフッサールとハイデガーについての理解を学んだようですし、特にフッサール理解につい
ては決定的であったようです。
309 :
わかりません:02/12/16 03:13
>305.90様
>彼の科学に対する態度は目的と言うよりも、生の世界へ回帰するための手段であったと思います。
こういってしまうと、議論にふくらみが出ないので多少の検討を加えますと、生への回帰が何故必要
とされるのかという問題と、ここに現象学が要求されるのかといえば、基本的には科学をして自らの
前提である哲学を語らしめ、その哲学を議論の俎上に乗せて再検討することにより新たな哲学を獲る
ためであると思います。そうすると、ある科学の前提である哲学が問題であって、科学そのものにつ
いては新たな哲学となる可能的なものとして彼は捉えているのだと思うのですね。このために生世界
の次元まで科学を引き摺り下ろし、還元する必要があった。
これは極めて対話的な行為ですし、科学における知的成果を改めて拾い上げる行為であると思います
が、これらはあくまでも現象学的な還元の次元であって、存在論には到達していないと思います。
知覚の現象学の序文にあるように、彼は執筆時に存在と時間を生世界の顕在化の1つであるとしか
理解していないのであって、あくまでもそこまでが、彼にとって最終地点であったのだと思います。
分かりませんさま。レスありがとうございます。
今日はもう疲れ果てているので、お返事は
明日か明後日までお待ちください。今は頭が回りません。
そろそろ冬休みですので、そうなると、もっと早く
お返事できると思います。ということで、たびたび
遅レスをしてしまいますが、ご容赦ください。
でも、他の方のレスもお願いします。みんなで
にぎやかにやりましょう。
311 :
わかりません:02/12/17 02:57
>310.90様
お疲れなのですね。風邪などひきませんように…。
ところで、少し彼から離れますが、何故メルロー=ポンティに関心があるかといえば、ハイデガーと対比
させるとよくわかるのですが、確かにひとつの独創的な哲学ではあるのですが、じゃあ、アリストテレス
以来の伝統的哲学を踏まえた上での議論なのかといえばそうではない。ある意味で時代的な知的関心に即
したモダンな哲学という印象があるんですね。その分、多くの人に開かれた議論が展開されていると思
います。精神科学や心理学や文学に対しても。これに対して、ハイデガーは徹底的に哲学史の積み上げの
上に立った議論の展開を行っており、この意味ではもっとも独創的な哲学を展開しつつ、もっとも網羅的
に哲学史的な議論の展開を行っているという点で、最も専門性の高い議論であると思います。
確かにメルロー=ポンティにとって科学は新たな英知への通過点かもしれませんが、彼の議論は科学に対し
て開かれているのであって、だからこそ科学がそうであるように哲学にも同等の地位が与えられているのだ
ということが言えるのだと思います。
これは知覚の現象学の大きな成果であると共に、大きな誤りでもあったと思うのですが、彼は哲学上の1つ
の関数であって、今日の最先端の生理学や心理学的諸成果をそこに導入すれば、ラマチャントランのように
科学の諸成果の進行と手を携えることだってできるのですが、同時にこれは哲学史的な普遍性の獲得を自ら
断念しているとも言えるのではないか。しかし、問題は永遠の基礎付けを自らに課すのか、とにかく先へと
進むことを宿命付けられたノイラートの船なのかということなのかもしれません。たびたび哲学板で議論に
なる哲学についてという議題は、私にとってはメルロー=ポンティをどう捕らえるかということにもつなが
っています。
312 :
考える名無しさん:02/12/17 12:15
漏れはメルロー=ポンティがなに言ってるかさっぱりわからんです。
結局、実存主義的にはバタイユ信者に落ち着きましたが。
センスがないとメルポンって理解出来ないんでしょうか?
バタイユのが翻訳のかぎりでは難しいのではないかと・・・・。
314 :
考える名無しさん:02/12/18 01:44
分かりませんさま 遅レス申し訳ありません。
今前レスを熟読しました。なるほど。あなたの関心がどこにあるのか、
分かりました。ところでここでの議論をさしあたり「知覚の現象学」(あるいは
中期も)における哲学と科学の関係に関する、と限定していいですか?。
メルロ=ポンティがそこで科学と哲学との最良の出会いを演出した、というのは
賛成します。また、科学の暗黙の前提を科学自体に語らせて、そこから新たな哲学
の可能性を探る、というのも賛成です。
(つづき) ただし、
>ある科学の前提である哲学が問題であって、科学そのものについては新たな
>哲学となる可能的なもの…
という点はどうでしょうか? 哲学とはある理想的な科学(知)に到達する
ための手段、あるいは通過点なのでしょうか? あるいは哲学は科学とは
異なる目的をもっているものなのでしょうか? ここで私は哲学をハイデガー
流に存在への問いと考えていますが、メルロ=ポンティにとっては科学は
そこへ至るための手段だったと思います(これはハイデガーにとっても哲学史が
存在の問いを仕上げるための手段であったのと同様です)。しかも、ここで大事
なのは、手段と目的とが相互依存的で切り離せないと言うことです。哲学史の
ないハイデガー思想は考えられないし、同様に科学のないメルロ=ポンティ思想
もないのです。
>>308 順序が逆になりましたが、ハイデガーとの影響関係について。
木田元氏は参照文献にあがっているかどうかで影響関係を推測して
いるようですね。ただ、あなたもおっしゃっているとおり、それは
確実ではないでしょう。
ただ、私も同様に推測なのですが、思想史的背景を。ハイデガー
への影響として、コジェーブのヘーゲル講義の影響があったと思います。
この講義にはラカン、バタイユ、クロソウスキー、ブルトンなどが出席
しており、20世紀のフランス哲学におけるヘーゲルとハイデガーへの傾斜
を決定づけた講義です。
また、当時盟友でありライバルであったサルトルの「存在と無」(1943)
の影響も無視できないでしょう。これもハイデガーとヘーゲルに決定的に
影響された著作であり、メルロ=ポンティもそれを無視できなかったと
思います。
>>312-4各位
私はバタイユに関してよく知らないんですが、彼のヘーゲルの
受容の仕方をどう考えますか? いかにしてヘーゲルを現代風に
捉え返したのか、など…
>>311 すみません。ラマチャントランについては
全く知りません。お教え願えれば幸いです。
メルロ=ポンティ大好きですよ。
僕の本でも引用させてもらってます。
321 :
考える名無しさん:02/12/18 18:47
↑ だれ?
322 :
考える名無しさん:02/12/18 23:07
↑
って、お前しらんのか? でもホントは誰(ネタダロ)?
323 :
わかりません:02/12/18 23:23
>316.90様
ご指摘の部分については間違った表現をしていました。ただし、次段で以下のように言って
いますので、こちらを採用してください。「科学における知的成果を改めて拾い上げる行為
であると思います」。
>私は哲学をハイデガー流に存在への問いと考えています
そうなのでしょうね。やはり現代哲学を検討する際にはハイデガーは必須であると思います。
ところで、ここでお伺いするのも気恥ずかしいのですが、現代において愛はいかに可能であるかという
テーマは、哲学でしょうか、神学でしょうか? 哲学的テーマから外れるというのであれば、それも結
構なのですが、私達の生そのものをあらしめているものとしての愛を主題的に語ることができるものと
いうのは、どのようなものなのでしょう。それを知り得るのであれば、もっと哲学についてきちんと
したことを語れるのになあ、と思うことがあります。もし、そうでないとしたならは、ここでの議論さ
え、とても空虚なものになってしまう恐れがあると思います。
324 :
わかりません:02/12/18 23:47
おや、だれか有名な方が通りかかったようですね。
またいらっしゃいませんかね。
分かりません様
レスありがとうございます。でも、私はあなたの問いかけに
対して些かそっけなく答え過ぎたかも知れません。しかしそれは、私が
メルロ=ポンティの科学認識に不満をもっているからです。むしろ、彼
には科学哲学がないと考えているのです(といったら怒り出す人がいる
かも知れませんが)。
326 :
考える名無しさん:02/12/19 01:13
メルロ=ポンティは、確かに科学の問われざる前提を明らかにして
そこから新たな哲学を紡ぎ出すという、科学と哲学の幸福な出会いを
鮮やかに演出した人です。しかしだからといって、それと科学哲学とは
異なるのです。
彼の科学哲学はかなり単純化して言えば、結局ハイデガーと同様、
科学のpositivismは存在忘却に陥っている、というにとどまっていると
思うのです。つまり科学に何が欠けているかは論じているのですが、
そもそも科学とは何か、しかも近年では科学と技術との結びつきが緊密に
なったのですが、それでは「科学=技術」とは何か、ということを積極的には
述べていないからです。
つまり、確かに彼は科学への造詣が深く、それを上手く彼の哲学に接ぎ木
したのですが、そもそも科学とは何かという科学哲学的な問いはなかった
ように思うのです。
326は私です。
ラマチャントランについてはありがとうございました。
愛の問題はレヴィナスが哲学の問題として取りあげましたよね。
政治の時代が終わった現代(つまり現実的問題の解決のためには
政治的手法が行き詰まりを見せている現代(ブッシュやイスラエル参照)
においては、愛(あるいは倫理)はまさに喫緊の主題といえるでしょう。
(最近流行の英米倫理学は有用かも知れませんが、やはり政治の次元の
ものでしょう。勿論これは悪口ではありませんが、やはり袋小路が見えて
います。)
しばらく愛について語りますか?(でも私は古代ギリシャにも
中世にも強くはないのですが)レヴィナスについては少しだけなら…
>>309 分かりません様
>そうすると、ある科学の前提である哲学が問題であって、科学そのものについ
>ては新たな哲学となる可能的なものとして彼は捉えているのだと思うのですね。
今、あなたのレスをもう一度読み直してみたのですが、私の読み落としがあった
ようです。失礼しました。科学の前提にあるのは原初的な世界体験であり、世界の
原初的な存在了解です。科学もそれを了解しているはずだが、忘却している。
それを科学の内部で顕在化させることが哲学であり、そこから新たな哲学の可能性
も生じるということですね。その意味で、あなたは科学は「新たな哲学となる
可能的なもの」と言われたのですね。ただ、ここで「可能的なもの」という言葉に
私はアリストテレス的な目的論的なものを感じたので、違和感を覚えたのです。
329 :
わかりません:02/12/19 21:29
>90様
別にさびしくなって愛がどうのといったわけではないのですが…。
そうですね、メルロー=ポンティには科学哲学がないというのは、案外あっさり認めても良いかなあ、
と思います。晩年、論理実証主義批判みたいなこといってますし、パラダイム的なこともいってます
が、体系的な技術論や科学論をもっていたわけではないようですね。ところが、化学者で科学方法論の
マイケル・ポランニーという人は、非常にメルロー=ポンティのことを高く評価していますし、科学上の
発見について語る際に、よく彼のことを引き合いにだして、科学と哲学の出会いを演出した者として評
価しているようです。ちょっと見当たらないようですね、ほかには。
330 :
わかりません:02/12/20 01:46
>90様
最近、どうも思わしくなくてカウンセリングの本を読んでいたのですが、本来の意味でのカウン
セリングには、ある種の運命的出会いとか相手に対して惚れるとかがなければ実現されないと書
いてあったのですね。半ばがっかりしながらも、なるほどなあ、と。
つまり、確かに対象であるクライアントの心のささやきに耳を傾けるというのは、根気のいる作
業ですし、聞くという行為のうちに聞く者の実存がおのずと反映される以上、闇に閉ざされよう
としている心に光を投げかける行為は、もはや英知でも技術でもないのでしょうね。
ひるがえって哲学に戻ると、世界や自然に対しての必要な分析や実験は、逆に対象が自らを隠し
てしまうということだってあるのではないだろうか。徹底的な否定は一見強靭な思索ではあろう
が、無前提に対象を受け入れるのでなければ、対象との関係そのものが断ち切られてしまうでし
ょう。してみると、存在了解とは、既に世界に対して私は開かれているということを前提とし、
同時に世界の側からも私に対して開かれているがゆえに世界は世界として了解されうるのではな
いか。そうすると、了解の前提としての開きの本質はある種の愛のようなものなのではないかと
考えたりします。全ての認識の源泉としての愛という古いテーマではありますが。
331 :
考える名無しさん:02/12/21 14:57
分かりません様
ポランニーについてはよく読んでいません。不勉強ですみません(w
>本来の意味でのカウンセリングには、ある種の運命的出会いとか
>相手に対して惚れるとかがなければ実現されないと
私の専門ではないですが、
精神分析では「転移」と言っていますね。患者の過去の対人関係が
分析者に投影される、と言う…
そしてそれが治療にとって重要らしいですね。
>全ての認識の源泉としての愛という古いテーマ
そういえば、「志向性」を愛として捉えようとした人がいましたね。
誰でしたっけ?
332 :
わかりません:02/12/22 02:53
>331.90様
臨床における転移というのとはまた違うみたいなんですよ。クライアントの過去が分析者に投影される
のではなく、お互いの関係のうちに全てが解消されていくというような現象のようです。割と親密な関
係にある相性のいい神父と信者のような関係が近いかなぁ、と思います。仲のいい夫婦間では、無意識
のうちにこういうことをやっているのではないかとも思います。
>「志向性」を愛として捉えようとした人
現代ならガブリエル・マルセルかティヤール・ド・シャルダンあたりでしょうか?
古代なら、アウグスティヌスでしょうか?
333 :
本当に初学者の戯言:02/12/26 05:33
>>329 メルロ=ポンティは、日本で科学の入門としてよく読まれている新書の、
アインシュタイン、インフェルト『物理学はいかに創られたか』を読んでいるみたいですね。
引用時のタイトルがフランス語なので、その仏訳版であるとすればの話ですが。
『シーニュ』「VIII アインシュタインと理性の危機」で、アインシュタインに関わるパラドクスとして、
>たとえばそれが、私の現在は私から相当遠くにいる他の観測者の未来と同時的だ
>といったふうなことを説き、こうして未来ということの意味そのものを損なうことにでもなれば、
>自壊してしまうことになるのだ。
と述べています。
分析哲学に、マクタガートのパラドクスとして(これとは内容的に似て非なる)逆説があります。
内容的にだけでなく、根本的に違うのが、次段落の、
>物理学に1つの数学的表現ないし1つの言語としての価値をでなく、
>実在の直接的表示法としての価値を要求したが“故にこそ”、
というような点でしょうか(よく解らんけど)。
それはともかく「たとえばそれが」の引用の前の段落で、
アインシュタインが、ベルクソンへの応答として、
生きられる(知覚される)時間が、科学が対象にしようとしている世界のたった1つの時間の起点であることは、
容認されるものとしているものの、各自の限界を越えるものではないことと、
同時性という直観的観念を全世界に拡大することを許すものではないことを指摘しています
(ここの言及で、メルロ=ポンティは、ほとんどアインシュタインを引用せず、自らの言葉でまとめています)。
それに対して「たとえばそれが」の引用の段落は「そうかもしれない。けれども」の常套句で始まっていきます。
334 :
本当に初学者の戯言:02/12/26 05:33
で、同論文では最後に、
>かえって、理性の力強さは、哲学的センス――確かに世界の科学的表現を認めはするが、
>あくまで人間的世界の全体のなかでのそれなりのレベル、
>それなりの地位においてそれを認めようとする哲学的センス――
>の再生いかんにかかわっているのである。
と述べていますが、この論文全体的に、肯定的に科学を分析する気すらないように思えます。
哲学的に、というか現象学的に、科学を検討しようとしているからなのか、
原初的な存在了解とか生活世界の基準で科学を見てしまっていて、
「人間的世界の全体のなかでのそれなりのレベル」以前にあるべき、
科学自体の視点から科学を位置づけるような科学哲学を欠いている部分はあると思います。
現象学者が現象学をもって非現象学を棄却しているという感があります。
そもそも、フッサールとアインシュタインが、スピノザを介して対置しているというのが象徴的でしょう。
科学が存在忘却に陥っているというなら、存在忘却はそれほど否定的なものでもないと思ってしまいますが。
生活世界云々といった科学への反論は、自然主義的な心理学くらいしか相手にできていないような気がします。
というより、フッサールは、自然主義的な哲学とか心理学しか相手にしていないと考えてもよいように思えます。
メルロ=ポンティがアインシュタインに関して、現象学的見地から理性の危機を述べているのは、
ちょっと無理があるのかもしれません(というより自爆?)。
335 :
考える名無しさん:02/12/26 15:41
みすず書房から出てる知覚の現象学を読んだが、
あれは、法政大出版から出ているものと比べ
何か違うところがあるの?もちろん訳者が違うから、
表現の仕方が違うけど、わかりやすさとか、
論の捉え方とかで、違う点があったら
教えてください。
336 :
わかりません:02/12/29 04:45
>333.334様
おっしゃられることは了解しました。なるほど。
ただし、少しわからないのですが、以下の点についてご説明ください。
>原初的な存在了解とか生活世界の基準で科学を見てしまっていて、「人間的世界の全体のなかでのそれな
>りのレベル」以前にあるべき、科学自体の視点から科学を位置づけるような科学哲学を欠いている部分は
>あると思います。
科学自体の視点から科学を位置付ける科学哲学とは、哲学史上では論理実証主義運動などがそうでしょう
し、いわゆる科学主義といわれる思想史上のさまざまな運動がありますが、どれも成功している思想とは
いえませんし、逆にこういう科学主義こそが20世紀の悲劇の源泉であったという科学者もいます。先の
マイケル・ポランニーがもっとも代表的です。まあ、もう少し勉強してからお答えすることにします。
明けましておめでとうございます。
長い間留守にしていて、申し訳ありませんでした。
分かりません様、いろいろレスありがとうございました。
>>333, 334様、私も科哲はDQSなので、正確なところは何とも言えませんが、
レスありがとうございました。
>334 哲学的に、というか現象学的に、科学を検討しようとしているからなのか、
>(中略)科学自体の視点から科学を位置づけるような科学哲学を欠いている部分
>はあると思います。
大筋において同意です。
>>336 科学哲学のあるべき姿に関しては、私の手に余る問題ですが。
英米系のそれには、現象学でいう生活世界の忘却の
問題だけではなく、科学史的観点、制度論的観点が軽視されているように
思われます。少なくとも、私はバシュラール、カンギレム、フーコーなどの
科学認識論の系譜や、あるいはマルクス主義などを多少かじったことがある
ので、特にそう思われます。
特に制度論的観点というのは、「生産」「資本」「国家」「アカデミズム」
「大学」といった問題に関することです。今ここで議論することができませんが。
>>335様 すみません。私法政のは見ていないんです。特に悪いという
噂も聞きませんし、みすずの誤訳が直されているという話ですが、
実際の所、どうなんでしょう?
分かりません様
>>330最近、どうも思わしくなくてカウンセリングの本を読んでいた…
本当に遅レス申し訳ありませんでした。体調を崩されたのですか?
今はどうされていますか? お身体をお大事にしてください。
341 :
考える名無しさん:03/01/03 02:02
age
342 :
わかりません:03/01/04 00:33
340.90様
どうもすいません.田舎に帰ってました.今福岡です.
科学については、多少かじった程度ですか、まず科学主義と科学の理想とを分けて考える必要があります.
アインシュタインに対してはここのスレでも以前問題にしましたし、重複は避けたいのですが、いわゆる
客観的知識の厳密さを追求するという科学の理想があって、それと扱っている問題の目新しさや今後の発
展への可能性という自然探求の理想と言うようなものがあって、これらが絡まりあって科学のダイナミズ
ムと言うようなものがあるのだと思います.
これに対して、科学を学問的な理想として扱い、広く一般化しようというのが科学主義ではないか、と言
うような解釈も一方ではできると思うのですね.ある種の科学方法論や学問論と言うようなものはそう言
う傾向があります.
ただし、科学それ自体に厳密さを要求する理想そのものは、内容の豊かさに対して反するでしょうし、
豊かな内容と可能性を示す研究は、必ずしも厳密さの結果ではありません.また、ポランニーとアインシ
ュタインが化学反応速度論について論争したことがありましたが、割合アインシュタインは論証の厳密性
にこだわって、統計的な推測を認めなかったと言うことです.しかし、化学上の反応速度は、量子力学的
に統計処理され、反応そのものを統御する力の存在を仮定するところから始まるのですから、いわゆる
厳密性を極度に求められると先に進めないという性格もあり、的はずれな議論に終始しています.
彼が量子力学を認めなかったと言うのは有名な話ですが、彼の信念として神はサイコロ遊びをしないと言
うものが根底にあったのでしょう.
分かりません様
「科学の理想」については、まあ同意です。「科学主義」というのは、
フッサールが自然主義と呼んで批判したものですね。ただ、この二つを
イデオロギーとして、それが形成される過程をフーコーやカンギレムの
系譜学の流儀で辿ると、科学について別の視点が開けて、けっこう面白いかな、
と感じました。
>科学それ自体に厳密さを要求する理想そのものは、内容の豊かさに対して反するでしょうし、
>豊かな内容と可能性を示す研究は、必ずしも厳密さの結果ではありません.
この文章の後半は賛成ですが、前半はどうでしょうか?
私は素人で、当てずっぽうですが、量子力学が統計に頼らざるを得なかったのは、
厳密さを犠牲にしたからだ、というのはかなり大胆な発言では?と感じました。
逆に、アインシュタインが統計学の適用を拒否したのは、本当に内容の
豊かさを断念したからでしょうか? 間違っていたら、ご容赦ください。
344 :
panta:03/01/04 01:15
フッサールもデリダも知りません。科学哲学もしりません。
(続き)
ところで、現代はScientiaとTechneの不可分性が明らかになって、前者
だけを純粋な状態で考察することは不可能になっているのでは?と思います。
つまり、Techno-science, Techno-logyとして科学を考えるなくてはならない、
ということです。
これは、知というのが純粋に対象をあるがままの状態で捉えることでは
なく、対象を操作し、加工して、人間の意のままにすることを含んでいます。
ここに権力と支配の問題が絡んできます。
しかし、そもそも誰がなにを支配するのか? 支配の対象は単に自然では
なく、最終的には人間です。自然支配はそのための手段に過ぎません。
では、誰が支配しようとするのか? これは最終的には人間ではないでしょう。
では誰が? ここで制度論の問題に入るのですが、今はこれ以上は
述べられません。それでは
346 :
考える名無しさん:03/01/04 01:17
知らないことが強みになるんですか
347 :
panta:03/01/04 01:18
本当に帰りますが、あなたの好きなメルロポンティに是非あやかりたいと思います。
だから、おやすみという言葉を聞いてから帰ります。
348 :
panta:03/01/04 01:21
と言うか、私はセンスが良い方かも。だいたいにおいて器用な方でもあるかも
とおもっておりますが。
>347に祝福をkyrieを
>>344 私もそれほど知っているわけではないんですが…
でも、もうちょっとなにか書いてください
質問でも感想でも批判でも、このごろ思うことでも…(w
350 :
考える名無しさん:03/01/04 01:22
祝福ってなあに
352 :
考える名無しさん:03/01/04 01:25
warai no kotobade noroiga hajimaru
353 :
わかりません:03/01/04 01:32
つづき
ここからは、物理学における相対論と量子論の攻防ということになりますが、ここで考えたいのは、科学の理想
についてです.ある意味で科学の理想は、確かに客観的で厳密な知識体系の構築であります。もっとも、客観的
であることと厳密であることとは同値ではありませんし、厳密であることと科学的であることも同値ではありま
せん.それらはひとつの手続きであり、あえて言えばひとつののスタイルなのであって、ここから未知のまま残る
つぎのステップを開拓すること、また、このステップは、より豊富な内容を含むものであること、そして、この
内容とはまさに神学が求めたような無限に続くであろう神へと向かうことの真理であるというのがポランニーの
結論のようです.
案外アインシュタインの科学観と言うのは、彼自身が無自覚的に他人からの求めに応じて後から作り上げたもの
ではないかと思っています.そして、これが危険なのですが、科学における理想は科学内部的に目指すべきものであり、
科学外において扱ってはならないということです.ここに20世紀の悲劇があったとポランニーーは言っていますし、
科学を論じる際に陥りやすい誤りであると思います.
メルロー=ポンティと物理学については、またいずれ。
354 :
わかりません:03/01/04 02:01
>343.90様
なるほど。
>量子力学が統計に頼らざるを得なかったのは、厳密さを犠牲にしたからだというのはかなり大胆な発言では?
ポランニーとアインシュタインの論争の争点は反応で仮定されるエネルギーの誤差についてでして、かなりの誤差
があったのですが、だとしても反応における高次の制御原理を描くことができるとして彼の厳密さにかけると言う
反論を退けます.
ここには部分の厳密さと体系としての一貫した厳密さと言う相違が見られると思いますし、科学観の相違が見られ
ると思います.もっとも、これはポランニーとアインシュタインの論争に限ったことですので、軽軽に一般化はでき
ないのですが、ある場面においては厳密さを追求することが無駄になる事もあるのではないかとおもいます.
>>338 >科学史的観点
>>342 >アインシュタイン対ポランニー
すいません。。。フランスの科学認識論がちょっと解りませんが……(力不足)
科学史的な観点ということで、どういう内容を指すのか曖昧なのかもしれませんが、
それが必ずしも欠けているとはいえないと思います。
クーンの『科学革命の構造』のような大きな影響力をもったのもありますし。
クーンが優秀な科学史家ということを否定することにはなりませんが、
「コペルニクス革命」という科学史的な捉え方が、一方で正しい側面をもつものの、
他方で独断論的であると見ることもできるようです。
詳細は失念しましたが、プトレマイオス→コペルニクスで天動説→太陽中心説となったというのが、
大きなポイントだと思われますが、それが1面にすぎないということです。
コペルニクスが太陽中心説を採ったのは、
プトレマイオス以上にアリストテレス的な天文的秩序を求めていたからと考えられるからです。
なお、両説の精度にはさほどの違いはないらしいです。
こういった細かい点を除いたとしても、パラダイム論には、いろいろと問題があるみたいですが。
これは、クーンのような科学史的な観点を否定するというより、
それの追究であるとは考えられないでしょうか。
一方で、このクーンの科学者集団といった用語を駆使することで、
科学のことをまったく知らなくても、科学について論じることができるという、
ある意味では悪い風潮も出てきたようにも思われます。
アインシュタインとポランニーについて私の不勉強が極まってますが、
アインシュタインのいうなれば「時代遅れの」考え方は、
コペルニクスがアリストテレスにこだわったことを比喩とすることができるかもしれません。
コペルニクスはそのまま生きてアリストテレスを追求していったとしたら、時代に淘汰されたはずです。
>>336 >>345 >>353 >科学主義 対 科学主義批判
>科学技術
「○○的観点が必要」と一般論で、ある種の科学哲学を批判することはできると思われます(とくに英米系なんでしょうか)。
が、フランシス・ベイコンのように「科学は帰納法に基づいて行なわれるべきだ」という方法論の検討と、
「実際の科学の営みのなかに帰納法がどのように現われているか」という方法論の検討とは、天地の差もあります。
もちろん、後者の帰納法についての検討には、
前者に近い「科学は帰納法に基づいて行なわれているはずだ」という確信があるはずですが、
現実に後者を追究すると、かなりメンドイことになります
(これを「科学自体の視点から科学を位置づけるような科学哲学」と先のレスで述べました)。
たとえば、科学史的観点についても、上記のように現実の科学に即して見てみると、面白い点が浮かんできますし。
フッサール(やメルロ=ポンティ?)のように、現象学の方法論を自然主義的な方法論に対置する場合はともかく、
科学主義をまさに批判しようという段になるなら、現実的な科学の営みをほとんど参照していない科学論は、
場合によっては、机上の空論になってしまい、科学主義批判になっていないこともあるかもしれません
(もちろん、メルロ=ポンティは、科学の方法論を自然主義的な方法論として、
現象学の比較対照と捉えている部分が大きいと思いますが……
「メルロー=ポンティと物理学について」またお聴かせください)。
どんどんメルロ=ポンティから離れて申し訳ありませんが、
>>353のポランニーは、今述べた、科学主義批判になっていない部分があるかもしれません。
>これが危険なのですが、科学における理想は科学内部的に目指すべきものであり、
>科学外において扱ってはならないということです.ここに20世紀の悲劇があったとポランニーーは言っていますし、
>科学を論じる際に陥りやすい誤りであると思います.
ここで「目指すべきもの」や「扱ってはならない」という当為で語られているのが気になります。
たしかに鋭い指摘であるのは否めませんが、当為のかたちの「科学の理想を科学外で扱ってはならない」ということを、
そのまま受け入れることはできません。
ちょっとズレるかもしれませんが、決定論者と非決定論者の対立について。
非決定論者は、自分たちを決定論者のあとから来た彼らの批判者と捉えるでしょうが、それは必ずしも正しくありません
(この非決定論者を、ポランニーになぞらえているつもりです)。
単純化すると……コペルニクス〜ニュートン以後の機械論的世界観の構築(この時点では、科学の理想は科学内部的です)
→解析学の発展(この時点でも、科学の理想は科学内部的です。ラプラス自身はここに位置します)
→解析学の活躍(実績)→機械論的世界観への賛同と反対が同時に生じる(機械論的世界観の科学外(とくに哲学)への浸透)
……のように捉えられるようです。
たしかに、非決定論者が、決定論・機械論的世界観の始まりを、遅くとも解析学の発展の辺りにもってくると、
非決定論者は、決定論のあとから来たと考えられるでしょうが、
実際のところ、ラプラスにおいては、決定論はただの隠喩だったようです。
ポランニーが科学の実績自体は認めたまま、科学の理想が外部にも適用されることを批判するのは、
考え方が偏っているように思われます。
解析学が現実に成功するということが、19世紀以降に「科学技術」が爆発的に発展した要因のように思われますが、
そうだとしたら、うえの意味で、ポランニーの弱点かもしれません。
ただ「解析学が現実に成功するということが、19世紀以降に『科学技術』が爆発的に発展した要因」というのは、
ソースがありませんので、信用しないでください。
358 :
考える名無しさん:03/01/05 00:54
議論中失礼しますが、二点ほど質問させてください。
心理畑からきたのであまり詳しくないのですが、
メルロー=ポンティを読むと、ギブソンの生態学的視覚論にあまりにも
似ていて驚きました。二人の間に接点はあったのでしょうか?
また、最近の心理学では現象学的手法をもちいた研究法に
注目が集まっていますが(恐らく過去に何度か評価されていて、
周期があるのでしょうが)、現在の哲学の領域内では、
現象学はどのような位置付け、あるいは評価になっているのでしょうか?
359 :
考える名無しさん:03/01/05 17:35
いつになったら全集邦訳が出るのか
age
age
362 :
考える名無しさん:03/01/10 01:19
ほしゅほしゅ
長文御免教信仰。勉強し直したらきっと短文教でいけるぞ!
もうそろそろ帰ろうかなと思いますが
どこに住んでるのですか?ちょっと質問
>>364 幻覚でも見えてるんですか?
そのキャラ、素なんですか?
若干怖いんですが。
自然だと思うけど。私ばっかり露出さされている。まあ私の責任だが。
>>366 もうちょっと読み手のことを考えた
文章を書いて下さい。
精神分裂病の人みたいな印象を受けます。
私の友人に聞けってことですか?
>367にそのまま返す
>>368 はぁはぁ、成る程。
切り絵さんの文章は友人に向けられたモノであり
その友人とはお互い解り合ってるから、感覚的に
適当に言葉を使い回しても通じる訳だからして、問題ないってことですか?
だ っ た ら メ ー ル で や り と り し ろ や !
370 :
考える名無しさん:03/01/10 14:11
★イカレ=ポンチー大好き!!★
age
(^^)
hoshuhoshu
375 :
考える名無しさん:03/01/29 20:26
376 :
考える名無しさん:03/02/11 12:20
>>359 主要なものは翻訳されているし、しかもかなりいい訳だし
必要ないんじゃないの?
378 :
考える名無しさん:03/02/11 15:41
hosch
380 :
考える名無しさん:03/02/17 12:06
>>380 『眼と精神』は「眼と精神」を含む論文集だから。
ありがとうございます
ついでに単行本の『眼と精神』は他にどんなセレクションなんでしょうか?
自分は美術論とかが読みたいのですが、単行本の方は買わんでもよいですかな
『眼と精神』
「人間の科学と現象学」
「幼児の対人関係」
「哲学をたたえて」
「眼と精神」
美術論ならセザンヌ論が『意味と無意味』(みすず書房1983)に収録されていた。
388 :
考える名無しさん:03/03/11 04:31
幻影肢って、なんですか?
389 :
考える名無しさん:03/03/11 04:49
ちくま学芸文庫にも美術論載ってたよね?
幻影小指
(^^)
『メルロ=ポンティあるいは哲学の身体』
ベルナール・スィシェル著 サイエンティスト社刊 \3,800