デリダ「力と意味」限定スレッド

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1じゃっく

デリダの初期の論文「力と意味」すこしづつかつ全文をUPしつつ読解する初心者のためになるスレッド
俺はもちろん素人なのでくわしい人は随時批判ください(わかりやすい説明で)
だからこの「力と意味」がデリダのなかでドウイウ位置づけなのかもしらない
俺と同じぐらいの人にとって有益なスレッドにしたい

(1) 力と意味
 
ソポクレス以後、人間はすべて入墨した未開人だということ、それはそうかもしれない。
だが、芸術には、線の正しさや面の滑らかさ以外のものがある。様式の可塑性は、思想の全体を容れ得るほどのものではない・・・事は余りにも多く、形式が充分ではないのだ。
(フローベール、「作家生活の序文」)


はじめにフローペールの引用があって次から本文になる。来週にまたUPする予定
このフローベールの言葉が論文の方向を先取りしているとおもわれ
「様式の可塑性」と「思想の全体」
「力」と「意味」
この2対が重ねられているのはわかりますが「様式の可塑性」は「力」と「意味」どっちにかさねてあるのか
「様式の可塑性」=「力」と「思想の全体」=「意味」かな
とりあえずこんなとこ
気長にやるんで なくならないよう努力はします


2考える名無しさん:02/06/09 17:07
(・∀・)イイ!
3考える名無しさん:02/06/09 19:02
(・∀・)イイ!

4考える名無しさん:02/06/09 19:04
(・∀・)イクナイ!
5考える名無しさん:02/06/09 19:04
>>2-4
ワラタ
6考える名無しさん:02/06/10 01:01
ガンバレ!
7考える名無しさん:02/06/12 02:10
1を応援すると、
未訳(英訳はよい)のマラルメ論
double seance「二重の会」に結実するよ。
ハスミの種本リシャールの批判。
8じゃっく:02/06/12 13:45
(2)         一
 
 やがてもしある時、構造主義がその作品と記号の堆積をわれわれの文明の
岸辺に打ちあげて、退いて行く時があるなら、それは、構造主義の侵入が思
想史家にとっては一つの問題となる時だろう。おそらくは一対象とさえ化す
る時でもあるだろう。とはいえ事態がそこまで行ってしまえば、それは歴史
家の側の誤りだ。第一に、その時それを対象とみなそうとするその態度その
ものが、それが持っていた意味を忘れることになるからだ。そして、それが
何よりも視線の或る冒険だったということ、一切の対象を前にして発する問
いの、その問い方の転換だったのだということを忘れることになるからだ。
とりわけ、歴史的対象、つまり歴史家がまさに対象とするそのものを前にし
て。なかでもきわめて並みはずれた対象、それは文学の事象である。

<読解>今回から本文に入る。ここで言われていることはこうだと思う。構造主義とは、
自らが一観察対象となる時、まさにその固有の特性を失ってしまうのだ。構造主義の
意味とは、そとがわからでなく、うちがわから体験することによってのみ理解できる
といっていると思う。でそれによって特に文学に関しては評価の枠組みが変ってしま
うということかな。
 2回目は以上。読解になってんのか心配だなー。いろいろ批判ください。
最低、最後の更新から1週間以内に新たにUPできるようにする。俺の頭じゃわからな
いデリダの文章はたくさんあるがそういうところは、ただ原著の文をUPするだけに留
めるかもしれない。そういう時にわかる人が書き込みをしてくれると助かります。
9ジャック:02/06/12 22:31
(3)
 類推(アナロジー)によって次のことも考えられる。文学のすべての領域のなかで、文
学のすべての小径の上で、すべての違いにもかかわらず、その全体の上に、今日、言語
(ランガージュ)についてのただならぬ不安感がひろい影を投げている、というそのこと
についてである。結局は、言語(ランガージュ)そのもののなかで、言語(ランガージュ)
の/についての不安ということに帰するものだが、これは奇妙に一致した現象だ。その
奇妙さの特徴は次のように言えるだろう。もしたまたま、歴史家がこの現象の中に、一
時代の刻印、一季節の流行(モード)、あるいは一危機の徴候を見つけようと試みたとこ
ろで、その全容が一望の下に繰り広げられ得るようなものではないのだと。

<読解>先に言っておくのを忘れたが基本的に訳文はもちろん若桑訳を使用しているが原
文をたまーに参照して若桑訳を変更する場合がある。俺の仏語読解力はたいしたこと
はないので基本的に若桑訳を尊重する(若桑訳に俺が納得できなくとも俺にはわからない
訳者の低意があるかもしれないから)。変更箇所はいちいち明記しないがおかしいと思う
人は批判ください。
 読んでいって疑問に思う人が多いのが「すべての違いにもかかわらず」の部分だと思
う。なにとなにの違いなんだと思うだろう。若桑訳では「多様な違い」となっている。
原文は「toutes les differences」。拙訳が適訳だろう。多分若桑氏は、「すべて」に
すると文脈上どういうことなのかわからなくなってしまうので「多様に」として文脈を
曖昧にしたんだろう。しかし、ここは「すべて」とするのが俺の解釈。この時、「違い」
とは私見では「領域」と「小径」の違いである。「領域」はdomaine、確固とした分野、
無文節の連続が分節された誰にでも理解できる領域だろう。それに対して「小径」はchemin、
辞書には田舎・野山の未舗装の道とある、確固とした分野ならざる未開の道。だから、
「領域domaine」と「小径chemin」は、対で使われているの思う。だから、ここは
「メジャー文学とマイナー文学のすべての違いにもかかわらず」ときて、以下に続く。
そうすると言語の不安というのはメジャー・マイナー文学両方に見られると言っている
ことになる。で奇妙な一致とは前節の「構造主義の侵略」と「言語の不安」の一致のこ
と。どちらも観察対象でなく体験するものであるという点かな。
10ら@日本は女子中学生が神の国:02/06/12 22:53
力と意味は凄い。文体がうねるうねる。あれがたまらん。原文で読みたい。


レヴィナス論はクソだけどさw
11じゃっく
《4》
この事態について、われわれの知っていることには確かに限りがあるとしても、
記号(シーニュ)にかかわっている問題は、時代の刻印(シーニュ)より以上のもの
なのか以下のものなのか、とにかくそれとは別のものだ、ということは確かなこ
とだ。時代の刻印(シーニュ)に還元してしまおうと夢見ること、それは暴力の夢
というものだろう。とりわけ、並みはずれて歴史的なこの問題がある一点に近づ
き、そこでは、単なる記号(シーニュ)としての言語(ランガージュ)の特性がきわ
めて疑わしく、部分的なものでしかなく、あるいは非本質的なことに見えてくる、
そのような地点では。

《読解》パラフレーズをする。言語の記号としての機能(「何か」(外的対象や観念)の代理、
記号自身とは別のものを指示するもの)とは、歴史の内部で機能をはたす(記号が安定した指
示体系を維持できるのは歴史の内部のみということかな)。だから、記号が機能失調に陥って
いる時(=構造主義の侵略、言語の不安)、この記号固有の問題(=構造主義の侵略、言語の不安)
は歴史状況(=時代の刻印)の関数とは出来ない。逆説的な言い方だが、「並みはずれて歴史的
なこの問題」(=構造主義の侵略、言語の不安)は、歴史の外部、あるいは、非歴史的な地点の
出来事である。たぶん、こういってんじゃないかなー。大筋ではあってるとおもうんだが、

ちなみに、記号の定義は、「事典 哲学の木」参照 ()の中の部分