>『列子』では【無用の用】を付け足して、
訂正 : 『荘子』では・・・
一ヶ月近くレスが無いってことは、ここも俺がスレジャックしても誰も文句は言うまいね。
イヤです。なんちって。
ちょっと老荘思想から離れていましたので見ていなかったのです。
もう自分の発言を忘れかけていたのですが
自然といったのは多分道と同じ感覚で使っていますね。
道=自然といった感覚で使ってしまっていますので、
>では、道家思想の『自然』とは、ご自身ではどのようなものであるとお考えですか
と言われましても、何であるかといわれて
こうだ、とはいえない状態なんですね。
ちょっとお酒が入っていますので説明になっているかどうか・・・
(全然なっていないですね。)
>>245 では、何故『道』と『自然』は同義のように使われるのでしょうか?
“個人的”にはどう思われますか?
_,.......,_
,r'" ヾ::.、
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i ___,ノ::::::::::i
l ,ィ:":::::::::::::::::::j
. ゙:、 .{:::::○:::::::::::ノ
゙'' ゞ;;;;;;;;;;::-''
248 :
考える名無しさん:02/07/18 20:42
おお、こんなスレあったのね。まさに道教こそ2ちゃんねるにふさわしい。
でもさあ、弥勒とかゆう人さあ、自分でそんなふうに名乗って恥ずかしくない?
そういえば聖人とか名乗っていた奴もいたなあ。
ディル猫の煽りに『666』っていうのが居たから辞めたまで。
自分ではニーチェのアンチキリストから、コテハンにしたんだけど・・・
それより、「まさに道教こそ2ちゃんねるにふさわしい」って、
何を根拠にして言ってんの?
250 :
考える名無しさん:02/07/18 23:02
とゆうかあんたコテハンにしてるだけで私は馬鹿にしてますから。
自分で弥勒だあ。ふん、死ねよ。
おまえ何なんだよ。どいてろ。
>>248や
>>250の様な者のほうが恥ずかしいと思うがねぇ。
弥勒さんもこの様な煽りには乗らない方が言いと思いますよ。
253 :
考える名無しさん:02/07/27 10:32
>>252 煽りに、シレーッとおすまししてるのが性に合わないんですよ。
もっとも夏休みだから、これから益々量産されていくでしょうけれども・・・
ところで
>>20 氏は、もうちっと書き込みしてくれんもんですかね。
退屈でしょうがねえや。
スレジャックを嫌がる割には、自分で話を膨らます気持ちもないのね。
それともDAT落ちを画策しているのか?
どこぞの大学教授の解説本の『受け売り』程度の事しか書き込む内容が
ないのなら、書店に足を運べばいいだけの話。
誰もそんなの期待してないでしょ、2chで・・・
“個人的”にどう思うか?っていうのは、しっかと読み込んだその人【個人】の
解釈が聞きたいからなんだけど、そこんとこどうなのよ?・・・
解脱というより、超脱かなぁ。言葉遊びだけどね。
255 :
考える名無しさん:02/07/27 18:17
256 :
考える名無しさん:02/07/27 19:41
陰と陽は不可分の関係なんですね。
それで「道」が「自然の姿そのまま」なのかな。
ちなみに実は小さな丸の中も無限に陰と陽に分かれてるのだと最近知りました。
257 :
考える名無しさん:02/07/27 21:13
>>256 >それで「道」が「自然の姿そのまま」なのかな。
なぜ?
>>256 電波を垂れ流したいなら、よそでやってよね。
259 :
ちんこ星人:02/08/02 19:22
スレタイに惚れますた
260 :
考える名無しさん:02/08/05 21:28
なにやら変なレスが出てきましたねぇ(w
それはそうと、
>>253 スレジャックなんか嫌がってはいませんよ。
出来るかどうかは別として。
個人的には道徳経(荘子でも良いのですが)
を読んでいくような流れになって欲しいと思っていたんです。
具体的に1章づつ読んでいった方が老子(若しくは荘子等)の言う
道なるものに近づいていけると思うのですが。
263 :
弥勒 ◆666//S/s :02/08/12 02:24
さてと、やる気のない
>>20 は置き去りにして、スレジャックと参ります。
中国禅では禅師が袈裟を見込みの有る修行僧に手渡すことで『免許皆伝(?)』と
なるわけで、『六祖壇経』の恵能の話では袈裟争奪のために追っ手が来るなどと
いう物騒な話も書いてあるのだが、そもそもなんで『師匠』が『弟子』を選んで
認可を与えるのかというと、【教え】を後世に伝えるためには鈍らな人間に勝手に
内容を歪曲されたりしてはたまらんからである。教えという“美酒”を授けるべき
器(弟子)がひび割れで漏れるようでは話にならない。
で、何が言いたいのかというと、『荘子』や『列子』には師弟関係の間柄にある
人たちの会話が幾つも盛り込まれていて、それから察するに『道家』と呼ばれうる
神秘思想的な“潮流”が、(百家と抗して)「流派」のように在ったとしても
不思議ではないだろうと思ったのだ。『荘子』や『列子』が、民間伝承の御伽噺や
神話をランダムにかき集めた『日本書紀』みたいなものではなく、何かしら一貫
したテーマに沿った寓話をチョイスして教本にしているのではなかろうかと・・・
『老子』と『荘子』がまったく関係の無い別起源のものであるというような内容を
チラと見た気がしたが、荘子を読んでから老子を読むと何故ああも分かり易く
読めるのだろうか? 何の関連も無いどころか、むしろ相関関係であるかのように
思えてしまう。(もっとも神秘主義のドグマの多くに、似通った共通点が見受け
られるのだが…)
『老子』も『荘子』も民間で流布し多く読まれたせいで、大なり小なり改竄されて
いるのは否めないであろうが、だからといって一貫したテーマがまったく無いと
誰が言い切れるだろうか? 荘子外篇や列子に、弟子を取っている師弟関係の話が
あるのはそこに伝えるべき【テーマ】があり、その教えを伝え残そうという古人の
共通した意志があったからではないのだろうか?
と、いう前講釈で、【老荘】を一緒くたにして語ろうという『理由』にするつもり…
264 :
弥勒 ◆666//S/s :02/08/12 05:11
『老子』(道経+徳経) 上篇
第一章
『道(タオ)』が語りうるものであれば、それは不変の『道』ではない。
何故ならば『概念化』は、しょせん“本質”そのものには至らないからだ。
同じ理由で、『名』を名付けうるものも、それは不変の『名』ではない。
天と地が出現したのは、「無名(名付け得ない幽玄)」からであった。
名付けうる天と地(世界)は、自然界の母である。
故に、瞑想の『無心』をもって【妙(神秘)】を観ることができ、
思考による意識活動・認識を離れられない者は、認識され終えた“理”
しか理解することが出来ない。
これらは同じ根源(幽玄)から顕れる“働き”であるが、それでもなお
呼び名を別にしている。(思考活動vs無の境地)
この同じ根源を『玄(幽玄)』と呼ぶ。それは不可知の如く奥深い。
万物世界の霊妙なる働きの根源なのである。
265 :
弥勒 ◆666//S/s :02/08/12 05:12
太極図を眺めた後で夜空の満月を見上げると判るかも知れない。日本では
杵と臼で餅を突くウサギの絵が月面の模様として解釈されているが、あの
兎の耳あたりが陽の黒円であり、足元と臼の隙間が陰の白円なのである。
古来より洋の東西を問わず、月というのは神秘的な霊力の源として崇拝
されてきた。臨死体験でトンネルを抜けて光の世界へと飛翔するイメージが
たびたび出てくるが、これは満月を見上げて「向こう側の世界」を信じた
我々の先祖から受け継がれた【集団的無意識】なのかも知れない。
我々は生きている限り「他者の死」を目にする。料理の食材たちですら
名も無き小さな“死”の結実である。
自分の肉親・家族の死・・・骸はもう動かない。やがては腐り、土に還る。
生は『有』であり、死は『無』である。天国や極楽浄土という別の世界
で生きるのではなく、例えばビッグバン(物質界)以前の【根源的無】に
戻るという意味である。(これは例えであって量子物理学の話ではない)
『無』に還る、という発想があって初めて道(タオ)が理解される。
陰と陽の両極は別個のものではなく、常にその対極を内包している。
『有』も『無』もこの世界の構成要素であり、不可分なのである。
死=『無(幽玄)』に還る、ということは、『有』が現れる根源は
やはりその“死=『無(幽玄)』”であることだろう。
『死』と『誕生』がワンセットとなって対極を廻り、この【世界】を
構成するのだ。
瞑想というのは「限りなく意識を“死”の境地に近づける」ことである。
『無の境地』は、実体験してもらわなければ理解させようがない。
この感覚が、道(タオ)と瞑想を結びつけ、一貫性を持たせるのである。
ただ、間違ってもらいたくないのは、「瞑想してるからエライ」とかいう
誤解をすることである。問題は常に“心の状態”を如何にクリアに
しておくかということである。常に、クリアであるかが問題となるのだ。
無心とは放心でも忘却でもない。荘子に出てくる職人たちの“三昧境”も、
要点は“心の状態”なのである。これは『無為自然』の項で語ろうと思う。
266 :
弥勒 ◆666//S/s :02/08/12 19:04
『老子』 第二章
天下すべての人々が皆、“美しさ”を貴び酔い痴れる。そこから醜さや不完全さ
というものを毛嫌いする偏狭さが生まれる。善なるものを尊び規範として
持ち上げること、そこから他の人の【過ち】を裁き、罪科を加え許すまいとする
心が生い育つ。
『有』と『無』は相対して生じたのであり、難しさと簡単さも相対的な比較に
よって把握される。長短も高低も同じく相対的に比較されることによって理解が
可能となる。伴奏と歌声も、お互いの組み合わせで“世界”を演じてみせるのだ。
前と後ろにしたところで、まずどちらかを先に決めてしまわねば判断を付けられない。
つまりは、相対的な関係のどちらか一方を【是】として殊更に取り上げたところで、
相対関係の【非】の部分を完全に葬り去ることなど出来はしないのだ。
何かを【是】として確執を抱く『偏り』が、かえって自然なる調和のバランスを
崩してしまう。それゆえに、聖人は何かを【是】として持ち上げる相対的な
分別心を離れ、『無為』の静謐と調和によって教え無き【薫陶】を施す。
あらゆる物事を見放さず、適材適所に振り分け、しかも誰もその采配を厭わない。
(何故ならば、誰しも少なからず活かすべき才能が埋もれているからだ)
何かを作り上げても独占しようとはせず、成功してもそれを恃みにふんぞり返る
こともないし、功績を挙げても地位にしがみつくこともない。
【是】という偏りを立てぬこの生き様が、彼をその地位から追い立てないのである。
267 :
考える名無しさん:02/08/12 19:40
これが実際には数十文字であらわされてるわけだ
268 :
考える名無しさん:02/08/12 21:47
269 :
弥勒 ◆666//S/s :02/08/16 12:07
老子 3章
才覚を称揚しなければ、社会から過度の競争はなくなるだろう。
稀少品や高価な物の価値観を皆々が捨て去るならば、民衆の間に
盗人はいなくなるだろう。
扇情的な情報を垂れ流さなければ、人倫が乱れることもないだろう。
だから聖人たろうとする者の政治は、大衆の欲心を鎮め心を彷徨わせず、
日々の暮らしの価値を見い出させるよう努め、高い目標や夢を
追いかけるよりも、まず生活力を養わせる。
民衆に功利主義的な考えをなくさせ、純朴でいられるように慮る。
才知の有る者がいても、社会を煽動することの弊害を諭す。
欲が少なく穏やかならば、世の中が平和に治まらぬはずがない。
270 :
弥勒 ◆666//S/s :02/08/16 12:08
老子 4章
道(タオ)は空っぽの容器みたいなものだが、それを外に用いても
再び中身を継ぎ足さなければならないようなものではない。
瞑想中の境地はまるで深淵のように底知れぬ感じで、あるいは
万物の根源のようなものではなかろうか。
明敏な理性の働きを鈍くし、論理思考の錯綜を解き放ち、
知性の明晰さを和らげ、沸き起こる雑念を沈むにまかせる。
それは常に湧き水を湛える透き通った泉のようだ。
私は道が何より生まれたかは知らないが、帝らの歴史より以前から
在ったようである。
271 :
弥勒 ◆666//S/s :02/08/16 12:08
老子 5章
天地の営みは摂理であって、個別に仁愛を施すわけではない。
食物連鎖の中では全てが同等だ。
聖人もまた個別に仁愛を施すわけではない。利害の嘆願に応じていれば、
いずれは全てがねじ曲がってしまうだろう。
道(タオ)の境地はフイゴ(例:空気入れのポンプ)のようなものである。
中身は何も無いが、その働きは尽きることがなく、動かせば動かすほど
力が働く(その境地からの俯瞰は有用なのだ)。
事に深入りして情に絆されれば、身動きが取れなくなることもある。
中庸・公正を守るということもまた、大切な事である。
272 :
考える名無しさん:02/08/16 12:13
勉強になるなあ
273 :
弥勒 ◆666//S/s :02/08/16 12:25
>>272 これで勉強してはいけませんよ、先生に叱られます。
市販の解説本と比較して自分で確かめましょう。
274 :
弥勒 ◆666//S/s :02/08/25 03:04
老子 第6章
谷の神は不死である。この何も無い空間の神、それを“幽玄なる牝”という。
幽玄なる牝の陰門、そこから天地万物が生まれてきた。
それは遥か昔から在り続けてきたようであり、その霊験はいつまでも
尽きることが無い。
275 :
弥勒 ◆666//S/s :02/08/25 03:04
老子 第7章
天地は悠久である。天と地が久しく存続し続けているわけは、それらが
「みずから」に得ようとするエゴで行動しないからである。
利欲の無理強いは全体の流れというものを滞らせてしまい、結局は
全てを駄目にするのだ。
それゆえに聖人は、一歩引いて全体の流れを見渡しながら、実は流れの
方向を調整し、民衆の輪の外にいるようでありながら、なおかつ彼らの
未来と共に在るのだ。
彼は自らの利欲のために動こうとはしない。ゆえに私心無き行動が
民を活かすのである。
276 :
弥勒 ◆666//S/s :02/08/25 03:04
老子 第8章
最上の善とは、まるで“水”のようなものだ。水の善さは万物を潤し恵みを
施しながら、しかも功利を争わず、皆の嫌がる低い場所に満足していること
にある。それゆえに『道〜タオ』の働きに近いのだ。
暮らし向きは質素で地道であるをよしとし、心根は奥深く器の大きいことを
よしとし、人との交流はやさしさをもってし、発言は信頼を裏切らぬことを
よしとする。
政治は平和に治まるを善しとし、仕事は巧であることを、行動は時機を逸する
ことがないのをよしとする。
我を立てて争わぬこと、それゆえに誰からの咎めも無い。
277 :
弥勒 ◆666//S/s :02/08/25 03:04
老子 第9章
手に持った器を一杯に満たして持ち続けようとするのには無理がある。
刃物を研いで鋭くしても、いつまでも切れが鈍らないわけはない。
財産を目一杯溜め込んでも、いつまでも減らないままに保ち続ける事は
出来ない。
過去の功績などにしがみついて驕りを持つようならば、結局はそれによって
自らの名を貶めるようなものである。
使命や功績を遂げても、時機に適って地位を退き後世に委ねるのが
自然の流れなのである。
278 :
弥勒 ◆666//S/s :02/08/25 03:05
老子 第10章
魂の光明(神秘体験)を保ち精神を統一させ、その状態を長く保てるか。
“氣”を溜めて滑らかにし、赤子のように純一であることができるか。
雑念を払い清めて、心を曇り無くすることができるか。
民衆を愛し世を導いて、しかもなお名を崇められることなどないように
できるか。天命の運がどう巡り合わせようとも、それを受け入れて
「然り」と言うことができるか。
物事によく精通していながら、しかもなお出来る限り自然の流れに
委ねようと努める事ができるか。
善き流れを生み出し、それを養い、所有しようとも欲さず、支配しよう
ともしない。これを玄徳(神秘体験の人格への反映)という。
279 :
考える名無しさん:02/08/25 08:47
age
280 :
弥勒 ◆666//S/s :02/08/30 23:18
老子 第11章
例えば自転車のスポークが、中心の軸へと集まっている。
その間の何も無い空間に、軽量化のための有用性が有る。
陶土をこねて器を作る。その何も無い器の中の空間によって、
器としての有用性が生まれる。
出入りのための戸や窓を付ける。その何も無い空間によって
人の住む家の有用性が機能する。
世間の人々は『無』の有用性というものを理解しようとは
しないが、有用性の根本には『無』が偏在しているのだ。
281 :
弥勒 ◆666//S/s :02/08/30 23:18
老子 第12章
華美な色彩は自然の素朴な風合いの良さを忘れさせ、
荘厳で韻律豊かな音楽は野の音のやさしさを遠ざける。
豪華な食卓の数々は感謝の念をないがしろにし、
手に汗を握るイベントは人の心の粗暴さを駆り立てる。
高価な希少品の類は欲で人を狂わせる。
人の心とは周りの影響に簡単に左右されてしまう。
それゆえに聖人は性根を大事にし、見せかけの外象に囚われない。
彼の主観は事象の表層に在るのではなく、実存そのもの
(神秘体験を透過したうえでの)に在るのである。
282 :
弥勒 ◆666//S/s :02/08/30 23:18
老子 第13章
人は他人の評価で一喜一憂し、我を忘れてジタバタする。
それは病気となる原因を、健康に良いと勘違いして続けるようなものだ。
他人からの評価の良し悪しが人の心を狂わせる、とはどういうことか?
自分への評判が良いとわかると人は浮き足立ってしまうものだし、
ひるがえって悪くなると居場所が無いかのように落胆したりする。
これが我を忘れてジタバタするという意味である。
病気の元を健康に良いと勘違いする、とはどういうことか?
それはこの一喜一憂の原因が、自分のセルフイメージの根拠を
外(社会)に求めようとするアイデンティティの脆弱さにあるからである。
だから、実存的自覚を根本に置き、世評や大義名分の目的意識に
自分を見失う事がないような者にこそ、本当に天下を預けることが
出来るであろう。
全人的調和に安らぐことが、あらゆる行動の根本に在るような者にこそ、
世の政を任せることが出来るであろう。
283 :
弥勒 ◆666//S/s :02/08/30 23:39
>>280 >有用性の根本には『無』が偏在しているのだ。
訂正:有の根本には…
無碍
285 :
考える名無しさん:02/09/18 21:59
弥勒さん、もう老子解説に飽きたの?
286 :
Kurihara:02/09/18 22:49
はい、飽きました。
287 :
弥勒 ◆666//S/s :02/09/23 14:22
老荘関連のバカスレ乱立は私のせいではありません。前からあのレベルです。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
老荘の無について(+と-)
老子における『無』というものを考えてみよう。いや、というよりもむしろ
それは『無の効能』を着眼点とすべきなのであって、『無』そのものの観念に
彼らが固執していたわけではないのだろうと私は思っている。
禅関連の書籍などをかき集めて読み進めるうちに、どうも禅の真髄というものは
山林の奥深き寺にこもって只管打坐する禅僧などよりも、禅師に師事するかの
ようにして影響を受けた武道家やサムライたちのほうがニュアンスをよく
飲み込んでいるのではなかろうか、という疑念を抱いたりしたものだ。
もちろん「解かり易い」ストレートな書き方をする単刀直入さがそれを後押し
しているのだが、刀で斬り合いをする当事者の死生観のほうがシンプルな分だけ
心に響いてくる。それだけ『言葉』が重いのだ。
老子の『無』も、その「つかいみち」が重要なのだ。
つまりは『無』あるいはその観念に固執するのではなく、それを利用して
どう己を活かし、民草を生かし、国を平和たらしめるか、という現実的利用の
手段として『無』を使う、という視点が必要なのである。
老子を今、意訳中なので老子で言うが、老子の『無』は簡単に極論して言うと、
「シンプルイズベスト」なのである。
我々は「幸福」を考えるとき常に「プラス」で考えている。つまり何かを足す
(物欲でのショッピングから出世欲・名誉欲、より多く愛されたい等…)
ことによって幸せになれるという感覚が身に染み付いている。
大量消費社会に生きてきた我々の感受性が、それに然りと言い続けてきたのである。
老子の思想は「マイナス」であり、いま多く有るものから差し引くのである。
欲望とは『渇き』である。それを手に入れるまでは喉が潤うことはない。しかも
その渇きが完全に消えてしまうことすらない…
288 :
弥勒 ◆666//S/s :02/09/23 14:22
欲の「不足感」に突き動かされて行動するとき、人間はその多くが自分の本質性
を見失う。あまりにも「目的意識」が強くなりすぎて、自分の中で失いそうに
なっている大切な「純真・素直さ」に気が付けない。欲望が、自分に「無理強い」
をさせていることを彼はわからないのだ。
老子の神秘主義は、それをアイデンティティの根拠に置いて利用するための
力技的手段であるが、これは信仰を持つ人間のほうが常人よりも遥かに忍耐強く、
行動的であるなどの長所を持つ事例と同じ効能である。より“高い”視点を
拠り所(信念)としたほうが、人間は常人を超越しやすいのだ。
老子を「愚衆支配」の処世術であるかのように解説本で書く大学教授とかが
いるが、「バカなまんまが支配しやすい」とか、何処をどう読み込めばそんな
悪意が読み取れるのか小一時間ほど問い詰めたい。問い詰めてみたい。
老子の神秘主義はその実践と方法論として(おそらくは修法として内容は
マンツーマン=師弟関係の中で、書には多く書き込まれず)、そしてそれを
使ってどう平和に導くかという社会への「応用」として、『老子』の中に結実
しているのだと私は思う。
もちろん『無の有用性』なんかを市井の民衆が簡単に理解するはずもない。
21世紀に成り代ろうとも脳生理学と瞑想の効能性の関係を、実際に『経験』して
みようと腰を上げる人の数は少ない。そんなことよりケータイの新機種や秋の
新番組の話を友達と語り合うほうが『有意義』なのだ。
老子は智慧を「占有」して「愚衆支配」するのが目的ではない。関心・興味の
無い人間やDQNに近い人間をも“社会”の中に組み込んでどう導くかという
『薫陶』の問題を考えて記述しているのだ。観念論に終始しているような書では
ない、実践が問題なのだ。
289 :
考える名無しさん:02/09/23 18:24
弥勒のスレって全然人気ないね
誰もよりつかないし
老荘を正確に読むってゆーよりも、むしろ老荘の名を騙って
自分の信条を吐露してるだけみたいな。
まったく、どこをどー読み込めばそんなことが読み取れるのか、
小一時間ほど弥勒を問い詰めたい。
291 :
考える名無しさん:
これが自分の信条なら大した人物だとオモワレ(w