1 :
西田哲学初心者:
わが国を代表する哲学者である西田幾多郎博士の
『善の研究』(岩波文庫)を読まれた方いますか?
2 :
考える名無しさん:02/04/14 05:09
西田哲学は博士の深い座禅体験が基礎にあると思う。
東洋思想・仏教思想を考慮しないと博士は読めないんじゃないかな?
3 :
考える名無しさん:02/04/14 05:11
あまりにも難解すぎるというか・・・
4 :
考える名無しさん:02/04/14 14:58
NHKラジオ講座を聞いたあと買ってきて読んだよ。高ニの時。
5 :
考える名無しさん:02/04/14 16:13
というか、買ってきても本棚の飾りにしかなっていないような人が多数いると思われ
6 :
考える名無しさん:02/04/14 19:10
昔の学生の必読書だったらしいけどね。
意味が分からなくてもとりあえず読んでたらしい。
7 :
考える名無しさん:02/04/14 20:14
日本語ヘタじゃない、この人?
大宇宙の統一力と自己の統一力の一致。
その直観を主客未分の純粋経験と言う。
後期西田はこれを絶対矛盾的自己同一と呼ぶ。
>>2 確かに深い禅体験に裏づけられているので、字面を追うだけでは
理解しづらい。
9 :
考える名無しさん:02/04/14 23:52
独我論を脱却した、というところだけが面白い。でもその内容が曖昧でよくわからない。
個人あって経験あるのではなく、経験あって個人あるのである?なんじゃこりゃ。
ゴルァ
>>9 やはり仏教の「無我」と関係あるのではないか。
11 :
考える名無しさん:02/04/15 09:46
>個人あって経験あるのではなく、経験あって個人あるのである?なんじゃこりゃ。
だからそれは矛盾なんだよ。矛盾していても「場所」によって止揚されているんぢゃ〜。
(矛盾的自己同一)
12 :
お役立ちサイトです。:02/04/15 09:48
昔は掃除の斉物論をやったら西田哲学は完成しただろうとよく言われていた
がのぉ。コンッ!コンッ!
西田の禅体験に文章がカモフラージュされていて、ゴホッ!ゴホッ!
希求しているのは掃除やらそちらの世界ナンジャヨ。
14 :
考える名無しさん:02/04/15 14:15
>>13 >禅体験に文章がカモフラージュされていて
「善の研究」のどの文章のこといってるのか。
はっきりさせろ。
「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである、
個人的区別より経験が根本的である。」
このどこがカモフラージュになるのか。フッサールの超越論的
主観性に関する記述と、知的誠実さにおいて差はない。
西田は正直に自己の体験を語る稀有な哲学者の一人だと思う。
>フッサールの超越論的 主観性に関する記述と、知的誠実さにおいて差はない。
フッサールはデカルト的な「我あり」から出発するんでないの?
それに対して西田ではさしあたり[我]はないよ。
我とか対象は、ともに一つの経験から抽象されたものだよ。
17 :
15じゃないよ:02/04/16 23:57
>16
>15のいう「知的誠実さ」というのがどういうことなのか
分からないからな。
「フッサールの主観性に関する記述」
と、
「西田の正直な自己の体験の語り」
は、「知的誠実さにおいて差がない」、と読める。主観性と体験。
>16
フッサールの超越論的主観性は、我も他も構成される
基盤。その意味でここでの西田の「経験」と重なる。
19 :
考える名無しさん:02/04/17 01:56
西田を禅に引き込んで読まない方がよいと思うね。
というのも西田は神秘主義に抵抗し続けたのだから。
最終的に西田哲学なるものは神秘主義を免れないとしても西田本人は神秘
主義に抵抗し続けた。
そこを見ないと西田の思想的展開を追えないよ。
で、そんな西田の論理的抵抗は絶対矛盾的自己同一で破綻する。
どんな点で破綻したのかは中村雄二郎なんかも指摘しているが、最終的に
西田になにが欠けていたのか解明できていない(はず)。
西田の論理は破綻したが、しかし西田本人は「知的誠実」そのものだった。
それは認めたいね。
20 :
考える名無しさん:02/04/17 08:15
>18
フッサールで構成される「我」は経験的主観性であり、
それを構成するのはあくまで超越論的に作用する極としての「我」。
西田の場合はあくまで唯一の実在としての純粋経験の「流れ」が根本となる。
フッサールも「ヘラクレイトス的な流れ」を言うが、やはり「我」という一点が
根源的な産出を行うと見なす。
ここからすると、没自我性という意味では西田の方が顕著だろう。
そこに禅的な何かを読み取れなくはない。しかしそれを知的に再構成しようと
努め続けたのは確かだね。
また、一般に哲学者には根本に宗教的な直観が隠されている場合も多い。
問題はいかにそれに埋没せず、あくまで知的に対峙して行けるかだと思う。
西田を禅に還元することはできないが、そこから汲み出された
エッセンスのようなものは生き続けていたと考えられる。
>>19 論理的破綻?矛盾の同一はヘーゲルも言ってることだし。
どういう破綻なのか教えてほしい。
22 :
考える名無しさん:02/04/17 13:23
現金沢大学の講義録でしょ?若書きの。
23 :
考える名無しさん:02/04/17 14:46
>>22 30歳代後半で若書きか?
それでおたくは何が言いたいの。
24 :
考える名無しさん:02/04/17 16:54
>わが国を代表する哲学者である西田幾多郎博士の
>『善の研究』(岩波文庫)
は、わが国を代表する哲学者である西田幾多郎博士の
代表作ではない、
がイイタイコト。
もっと後記のモノが熟成していてよし。
私の人生の前半は、黒板に向かっていた。
私の人生の後半は、黒板を背にしていた。 (西田幾多郎)
(余談) 私が、哲学をしたいと言ったとき、父は、笑って
「西田幾多郎を読め」と、言った。
毎晩のように、酔っ払って帰宅していた父の言葉とは、
思えなかった。
それから、数年後、父が他界したとき、彼の幼い頃を知っている
人から、通夜の時に聞いたのは、
父は、子供の頃から神童とよばれ、哲学を近所の住職から
学んでいたという。
しかし、二十歳すぎればただの人。
生涯、一平社員だった亡き父。
西田幾多郎の名前を見るたび、思い出す。
「計算小僧」は、わたしです。 ご迷惑かけました。 (終)
26 :
考える名無しさん:02/04/17 23:08
大正十年一月の「再版の序」より
「従ってこの書に対しては飽き足らなく思うようになり、遂に
この書を絶版にしようと思うたのである。」
>>15 カメレスで申し訳ない。かならずしも『善の研究』に限らない。
13発言は、実は西田の孫弟子たちの受け売りである。
あと西田は当時の西洋思想を、当時の誰よりも最先端で摂取していたようであり、
>>15以降の
「我」や「経験主体」もその流れのうえで最もなのだろうが、西田哲学の基盤は東洋的「無」
と捉えるべきではないか? # 丸山真っ青の『日本の思想』に見える般若の「即」の理論が日
本における展開のされ方と同一傾向を有すると思う。
#「無」というのは「般若の空」や仏教思想の「無我」を老荘思想を介して成立している。
>>個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである、
>>個人的区別より経験が根本的である。
今年の春の、どこぞの大学の学長演説に採用されていたな。
どこかの禅系の大学の、だ。
まあでも、あらためて見直せば、禅経験が西洋思想にカモフラージュされているみたいだな、『善の研究』は。
# 自分のは書庫の奥底に入ってしまって、今後陽の目を見るかは定かではない。
オマケ
>>8 >大宇宙の統一力と自己の統一力の一致。
ブラフマンとアートマンの一致
>その直観を主客未分の純粋経験と言う。
この梵我一如を「霊知」という
>後期西田はこれを絶対矛盾的自己同一と呼ぶ。
これをインドではウパニシャッドといい、正統的な仏教では神我説といって否定する
29 :
考える名無しさん:02/04/18 17:16
西田は西洋哲学をダシに使っただけか。
おとなしく仏教のなかで自足していればよかったじゃん。
30 :
考える名無しさん:02/04/18 17:57
鈴木大拙だけでいいじゃん。
西田は時間の無駄。あぽーんでいいよいね。
31 :
考える名無しさん:02/04/18 18:10
なんかこうなってくると、西田は西洋という虎の威を借りる狐に見えるな。
仏教は西洋哲学の論理で正当化しなければどうしようもないということかい?プッ
32 :
考える名無しさん:02/04/18 18:27
世の中がそういう言葉遣いになったから仕方なかったんでないか。
今だって、哲学なんて役に立つの?なんて言われるし。
>>31 仏教はそれだけで一本立ちできるのであるが、一般化するために自然科学的な体系を
持たなきゃならないし、近代的用語で解体する必要があったらしい。特に西田や大拙
の禅仏教はもともと言詮不及を標榜するだけに、開かれた論理とは言い難かった。こ
のことは大拙自身が言っている(西田ではないと思った)。
かといえ「宗教」などの単語も、英語のReligion に相当する概念と単語がなかったた
め、『碧巌集』から抜き出して作った造語であることは、よく知られている。
これは一例に過ぎないが、仏教の言葉や概念が新たに近代語として用いられる例は、他
にもままあると思う。(根拠薄弱で申し訳ない)
結局は焦らずとも、なんやかんやで、仏教がもたらした用語や概念の今日までの影響
は看過できないと思う。
>>老野狐さん
西田哲学が仏教と密接な関係を持つことは認める。
しかし、西田哲学は哲学であって宗教ではない。
もちろん仏教でもない。
仏教を近代用語に解体しようとした訳でもない。
あくまで明治から昭和を生きた一日本人の思索、
その苦闘のドキュメントである。
正統派仏教を君がどこまで極めてるのか怪しいものだが
その浅知恵を基準にして西田を評価していいのか。
もっと西田を素直に読んでみてはどうだ。
読みたくないなら読まなくてもいいが、変な先入見を
植えつけるのはやめた方がいい。
35 :
考える名無しさん:02/04/18 21:45
33さんも、34さんも
『善の研究』第四編「宗教」をベースに議論してネ。
>>34 おおよそさん。
おおよそさんの
>知的誠実さにおいて差はない。
>西田は正直に自己の体験を語る稀有な哲学者の一人だと思う。
の言はもっともだと思う、賛同する次第である。
一方では、やはり禅無くしてあり得ない哲学だということも、更めて思っている
その一端は
>>27以降に記したとおりである。
それに遡る
>>13は私が昔聞いた話が、何かの参考になるかと思い、話のネタに紹介したまで
のことである。どこまで妥当かは私自身わからん。
>その浅知恵を基準にして西田を評価していいのか。
いやあ、鈴木大拙から入っていったもので、ここから西田にいくと彼の文章の何もかも禅の焼
き直しに見えてしまう。困ったものDA。
37 :
考える名無しさん:02/04/18 22:23
西田哲学のようなホロニックスでは資本主義とか国家はつかめない。
それならいっそ腰を据えて仏教を学んだ方が潔いと思う。
38 :
考える名無しさん:02/04/19 04:58
西田哲学の影響で戦争が起きたなんていう話もありますよね(笑)
39 :
考える名無しさん:02/04/19 04:59
絶対矛盾の自己同一
>>38 それは「大東亜宣言」の草案書きをやったと言われているからだろう。
他にも昭和天皇の御進講を行い、国策研究会への協力、文部省教学刷新委員会への参加、近衛への個人的接近など
もあり、戦争協力という点で論議されている面である。西田が天皇擁護論者であることとあいまって、マイナス面
で捉えられがちな所だ。
ただ著作集などから見れば、こうして国勢に携わりながら、絶えずこの国の行き過ぎに警告を発し軌道修正を迫っ
ており、両様の解釈ができるんだけれども、「国体」「皇室」などの論は、当時の国体思想・八紘一宇・万世一系
が説かれているうえ、一般向けの論考ではなく、軍部の依頼により提出された書類であるから、ただちに西田は終
始一貫戦争に反対してきた、という訳にもいかないらしい。
41 :
考える名無しさん:02/04/19 11:46
西田の大東亜とライプニッツのキリスト教統一は同じ問題、同じ欠点
を露呈させている。
柄谷がどっかの対談でそんなことをいっていた。
うろおぼえだけど。
42 :
IQヤバイ:02/04/19 13:26
栗本慎一郎の「層の理論」こそ、西田の「場所の論理」とライプニッツの
「モナドロジー」を過去の神秘主義の遺物として切り捨て、普遍的経済に
おいて思考する道を切り開いたのだ。
43 :
ビッダーズ向上委員長:02/04/19 13:30
44 :
考える名無しさん:02/04/19 15:23
場所の論理って、『善』にでてきた??
45 :
考える名無しさん:02/04/19 15:39
「場」の「理論」を探してた、95年冬。
某業界では、いまだに、時系列を重視する低能はイッテヨシらしい(苦藁
46 :
考える名無しさん:02/04/19 18:49
「層の理論」はなんでも説明できる超便利アイテムだ。
西田なんか忘れて「層の理論」に飛び込むがいい。
47 :
考える名無しさん:02/04/19 18:50
どんどん建て増し・・(藁
48 :
考える名無しさん:02/04/19 18:55
挙句の果てに、00年の春に、崩れた と(苦藁
49 :
送りつけられました〜 か。スマソ:02/04/19 19:06
危うく某氏に説得されてしまうとこだった とヒヤヒヤ。
50 :
考える名無しさん:02/04/19 19:12
なんだと
「層の理論」でリハビリだってできるんだぞ!!
君らの脳もリハビリは必要かも。
リハビリ以前にもとがもとだからという君、心配することはない。
「層の理論」はそんな君も歓迎してくれるだろう。
51 :
考える名無しさん:02/04/19 19:14
賽の河原へいらら♪
躁
楚辞は好きですが、なにか?
54 :
考える名無しさん:02/04/19 21:45
西田が特高にマークされていた事実も考慮しておいた方がいい。
55 :
考える名無しさん:02/04/20 00:50
三木清は獄中で死んだというのにね。
56 :
考える名無しさん:02/04/20 01:23
西田は特高からおにぎりでも差し入れてもらってたんじゃないの?
57 :
考える名無しさん:02/04/20 02:08
やっぱ、格の違い か。
58 :
考える名無しさん:02/04/20 02:42
藁
>>55 >>56 三木清は早い時期から、西田の相剋を唱え、マルキシズムに走ったからね。
特効のマークよりもむしろ、天皇擁護論者にもかかわらず右翼に狙われたこと
の方が西田哲学の性格を考える上ではベターである。
上記の論にしても戦後の(現在の)皇室と共通する内容であり、リベラリズム
が底辺にある。当時の皇国観と真っ向から対抗していた。
まあ戦後の天皇制はこれを基礎にしたとも言えるんじゃないかな。
西田哲学と時代の関わりの複雑性を物語る部分である。
60 :
考える名無しさん:02/04/20 14:03
西田の「自覚の弁証法」は、「弁証法の自覚」にすぎない。
そんなものは事物から遊離した意味だけを相手にするのだから最強に決まっている。
そんな批判を唯物論の立場から戸坂潤はしていた。
アルチュセール以前の唯物論という時代的制約もあり、底の浅い批判となってはい
るが、そのかわり、戸坂批判が及ばない範囲を射程に入れた批判の導入にはなって
いる。
暇をみつけて西田を読むのもよいかなと思う。
なにせ高校時代初めて読んだ哲学書が『善の研究』で、そのおかげで、内容
はちんぷんかんぷんだったが、哲学ではなんかとんでもないことが起ってい
るという霊感(?)だけは目覚めたわけだし。
61 :
考える名無しさん:02/04/22 02:09
西田幾多郎(にしだきたろう)
清水幾太郎(しみずいくたろう)
>61
をいをい、それがどーしたん?(笑
63 :
考える名無しさん:02/04/22 16:29
日本イデオロギー論でした(戸坂)?
64 :
考える名無しさん:02/04/22 23:04
age
日大の田中久文の
日本の「哲学」を読み解く―「無」の時代を生きぬくために ちくま新書
がよくまとまってる。
66 :
考える名無しさん:02/04/23 00:10
無てなに。
67 :
考える名無しさん:02/04/23 09:10
がいしゅつ
68 :
考える名無しさん:02/04/26 21:03
西田
69 :
考える名無しさん:02/04/26 21:46
さちこ
70 :
考える名無しさん:02/05/01 07:05
盛り上がらないね
71 :
考える名無しさん:02/05/01 13:26
いま『善の研究』読んでます。
「絶対矛盾的自己同一」ってのはなんて本で出てくるの?
72 :
考える名無しさん:02/05/10 00:38
あげます
香山リカが、善の研究の本書いてますが、どうなんでしょうか?
>>73 こんなトコで聞いても、
読んでるヤツの確率は低いと思うぞ
75 :
考える名無しさん:02/05/11 22:12
読んだよ、本屋の立ち読みで。
それで読めちゃう程度の内容だったと言うことサ
76 :
考える名無しさん:02/05/11 22:16
ネットで、公開されてるよね、この本。
77 :
考える名無しさん:02/05/12 00:06
>>75 それは、難解と言われるこの本を、
立ち読みできる位、明快に説明している、ってことでしょうか?
78 :
考える名無しさん :02/05/21 03:45
『善の研究』は最近読んだけど、純粋経験の意味わからず。何か欲求不満と
なった。
戦中〜戦後爆発的にヒットしたっていうけど、近頃の岩波文庫での復刊や
京都学派見直しの動向なども、西田哲学の再評価の機運と関係しているのかな?
いずれにせよ漏れには分からん。ただ昔、評論家の大宅壮一が西田哲学を
評した以下の言葉が記憶に残っている。曰く、
<禅宗味噌のバター和え>
とも
79 :
考える名無しさん:02/05/21 03:48
リカちゃん先生は精神分析と合わせて
木村敏先生も一緒に論じてました。
注釈写真解説論文沢山で岩波文庫版より
読みやすいのでは。
>78 age
同感。というか、全て禅思想の言い換えに読める。
香山リカのは内容はあまり覚えていないが、はその辺をあまりおさえていなか
ったから本質から外れているようで、こちらも真剣に読むきにはなれなかった。
ただ現在の禅についての理解が、この時代のこの辺の人々によって構築され
たものと考えれば、「善...」と禅の見方は逆転するように思われ。
81 :
考える名無しさん:02/05/29 17:41
ときたまage
82 :
考える名無しさん:02/06/02 17:21
西田=ハイデガー
sage
84 :
asahi.com:02/06/14 21:04
死の直前、哲学貫く「無」 西田幾多郎の絶筆見つかる
http://www.asahi.com/culture/update/0614/002.html 著作「善の研究」などで知られる哲学者西田幾多郎(1870〜1945)の絶筆とみられる未公開の書が見つかった。
遺品の調査を進めていた研究者が東京都杉並区の親族方で確認した。
書は西田哲学を貫く基本概念の「無」。病死する直前の45(昭和20)年6月初めに記したとみられる。
西田は、京大教授時代の26年に「絶対無」にかかわる論理(場所的論理)を発表し、「東洋的無」として高い評価を受けた。
書や短歌にも造詣(ぞうけい)が深く、書も多く残している。
見つかった書は、めいにあたる高橋たみさん(故人)の親族宅に保管されていた。
縦約30センチ、横約40センチの和紙に、西田の号「寸心」とともに墨で書かれている。
書を納めた木箱には、たみさんの手で「昭和二十年六月初 染筆 絶筆なり」と記されていた。
西田は6月7日に病死している。
西田哲学を研究する小坂国継・日大教授は「終戦間近の行き場のない世相を反映し、ますます無の境地を深めていったように見える」と語る。
親族宅で絶筆を確認した浅見洋・石川県立看護大教授は
「消え入るような筆致は『すべてが無から生まれて無に帰る』という西田哲学の絶筆にふさわしい」と話している。
85 :
考える名無しさん :02/06/14 22:05
>>84 >『すべてが無から生まれて無に帰る』
何か禅坊主の悟りのようだな。豁然大悟す。
哲学者の絶筆とは思えんよ。
86 :
考える名無しさん:02/06/14 22:09
でも墨跡の筆致そのものは素晴らしいできだったりする。
見るところは見なくちゃね!
87 :
考える名無しさん:02/06/30 15:00
うーん、深い。あげてみる。
88 :
考える名無しさん:02/07/28 18:13
どうでしょう?
89 :
考える名無しさん:02/07/30 19:12
poge
90 :
考える名無しさん:02/07/31 00:27
「継承」と「偶然」を差し引いた、純粋な「誕生」は、
まさに「無」を母とするほかない。
91 :
考える名無しさん:02/07/31 13:33
「絶対無」「絶対矛盾的自己同一」「場所理論」などについて詳しい人の意見を聞きたい。
92 :
考える名無しさん:02/08/07 16:58
「善の研究」のほかに読んどいたほうがいい西田の著作ってある?
93 :
考える名無しさん:02/08/19 18:17
西田を読むなら仏教哲学を視野にいれるべき。っていうかそれが基本。
よいしょ!ageとこう。
96 :
考える名無しさん:02/09/02 17:42
パクリ哲学者あげ
97 :
考える名無しさん:02/09/12 20:17
98 :
考える名無しさん:02/09/12 22:04
>>94 それ以前にリッケルトあたりの新カント派が先だろう
あと ジェームズ
>>92 ある意味では「西田の一番どうでもよい著作」=『善の研究』
西田幾多郎に比べれば中村雄二郎なんてカスだね。文面から伝わる迫力みたいな
ものが全然違う。西田を凌駕する思想家なんて日本で他にいるのかとすら思う。
100 :
考える名無しさん:02/09/17 23:43
101 :
考える名無しさん:02/09/18 00:00
そりゃ、自分にとって学ぶものの多い偉大な人間だからこそ中村は二冊も
西田について書いたんだろう。君が「カス」なんていわなくても、中村も西
田の偉大さは自覚しているだろうし、ここの読者(あるいは世評一般)でだ
って現代の売れっ子哲学者と近代日本最大の哲学者の区別くらい、大抵つい
てるよ。
西田を凌駕する「思想家」でいいのなら 空海、道元、親鸞あたりは十分
候補
中村の西田論から「西田の偉大さ」は読み取れないぞ。
重要で貴重な見本、という扱いだよ。
要するに利用し尽くしているというわけ。
103 :
考える名無しさん:02/09/18 01:51
中村は、何論じても手前の土俵にもってくる芸達者。
>>98 新カント派は、フッサールによりすでに粉砕されている。
わざわざジェームズを先に読む必要はないような。
105 :
考える名無しさん:02/09/18 19:05
>>104 >新カント派は、フッサールによりすでに粉砕されている。
粉砕されていようといまいと、西田の思考の枠組みを提供したのは新カント派とW.ジェ
ームスなんだから 読んでおいた方がいいのでは?
それにフッサールに新カント派が粉砕されているとして、西田にはその批判は及ぶの?
>>103 確かに。
西田を論じるのに小林秀雄を持ち出してくるあたりに限りなくインチキ
くささを感じるとともに、知的エンターテイメントの面目躍如という
ような感じもする。
107 :
考える名無しさん:02/09/18 20:46
>>103 彼は前前から、顔からして嘘っぽい
と思っていた。
『西田哲学の脱構築』(現『西田幾多郎U』)はなんじゃゴルアと思ったよ。
幾多郎の解説なら、竹内良知のほうが全然よいと思う。
109 :
考える名無しさん:02/09/19 16:40
110 :
考える名無しさん:02/09/19 18:25
>>109 「あれ」が中村なら確かにそうだす。
いっしょくたにして申し訳ない。
しかしデリダと幾多郎を接続って、ホント保守的だよなあ。
どうして新しいものが入ってくると(といってもデリダなんかは60年代から
書いているわけだが)、日本にもとうにあったぞ、てなことになるんだか。
111 :
考える名無しさん:02/09/21 23:56
善の研究って意外と読みやすい。
善の研究ってなんで「善悪の研究」じゃないのかな?
片落ち(「手」抜き)ってやつですか?
113 :
考える名無しさん:02/09/23 00:55
114 :
考える名無しさん:02/10/08 04:12
「場所的論理と宗教的世界観」読んどけ
115 :
考える名無しさん:02/10/08 11:08
ハイデガーのとこから帰った後、三木、九鬼、田辺なんかが西田に批判的
になった。
それは西田哲学の限界を見たからか、それともハイデガーにかぶれたからか。
116 :
考える名無しさん:02/10/14 01:34
かぶれたからだらう
カブレター
118 :
考える名無しさん:02/10/18 01:20
西田は何を言いたいんだろう?
お正月には「釣りバカ日誌」を観に来てね。 だろ
120 :
考える名無しさん:02/11/07 21:15
哲学者なんか?
「真の宗教的覚悟とは思惟に基づける抽象的知識でもない、
また単に盲目的な勧請でもない、
知識および意志の根底に横たわれる深遠なる統一を自得するのである、
即ち一種の知的直感である、深き生命の補足である。
故にいかなる論理の刃もこれに向かうことはできず、
いかなる欲求もこれを動かすことはできぬ、
凡ての真理および満足の根本となるのである。
その形は種々あるべけれど、
凡ての宗教の本にはこの根本的直覚がなければならぬと思う。
学問道徳の本には宗教がなければならぬ、
学問道徳はこれに由りて成立するのである。」
123 :
考える名無しさん:03/01/02 19:46
(^^)
125 :
考える名無しさん:03/01/12 18:01
浮上します
>山崎渉
君、、、なんかあちこちで見かけるが何してるの?
(^^)